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メッセージ - ヨシュア記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:見たことも体験した事もない道(ヨシュア記3:5-13):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

『ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」。』(ヨシュア記3:5)

主が御業を行われるためには、まず、私達の側が身を清めなくてはならない。
身を清めるとは、自分の中にある主の「聖」に相応しくない肉的な事、特に、性的な事柄を離れ、身についてしまった心と体の汚れを洗いきよめ、主と向き合うために心と体の備えをする事だ。(出エジプト記19:10-15)
聖別して下さるお方は主であり、主が私達を「聖別」して下さるためには、私達の側がまず、主の定めを守り行わなければならない。(レビ記20:7-8)
私達が「聖なる者」となるために、自らを整えて、主の前に進みゆくなら、主は私達をさらに聖なる、尊い者として下さる。

『主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」。』(ヨシュア記3:7-8)
主は、新しい指導者・ヨシュアを、イスラエルの民や全ての国の人々の畏敬の対象とさせるために、大いなる事をなさる。
彼らは、今まで入ったことの無い道を進み行こうとし、今まで体験しなかった事を、体験しようとしている。
その道を進み行くには、自分の中の、現状維持したいという思いや、未知の事への恐れを、主に対する信仰によって征服させる事が必要であり、その事は、自らの心を御言葉へと服従させる事によって、可能である。

『ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。』(ヨシュア記3:9)
ヨシュアが民にまず言った事、それは、近づいて、主の言葉を聞け、である。
信仰はそもそも、聞く事から始まる。
種を蒔いていない土地は、当然のように、何の実りを実らせず、ただ雑草しか生じて来ないように、御声を聞こうとしない人は、当然のごとく、何の良き実りをもたらさず、神と人に対して雑草のようなものしか生じさせないのだ。

『そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。・・・全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。』(ヨシュア記3:10-13)

水がうず高く積み上がっている様は、おそらく、皆さんは今まで見たことが無いだろう。
イスラエルの民も、40歳以下の人達は、見たことが無かったはずである。
しかし彼らは、かつて、主が紅海の水を分断し、海の中のかわいた所を通らせ、エジプトは逆に水の中に沈めた事を、伝え聞いて、知っている。
それと同じ体験を、これからあなたがたもする、そして、その不思議なしるしを体験する事によって、その不思議を可能にした主は、これから攻め入ろうとしている敵の全てを、必ず追い払って下さるのだ、と、ヨシュアは民を励ました。

主が「進み行け」と言われるなら、信頼して進み行くべきであり、主が「とどまれ」と言われるなら、信頼して、留まるべきである。
しかし、主の言葉の内容を聞いてみた時、それは不可能だ、ばかげている、と言って退け、自分の考えつく手段や方法に頼って行くなら、ますます悪いことになって行く。
『主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。』(イザヤ30:15-17)

私達は、御言葉の内容に敵対するのような思いが沸き起こった時、それをとりこにし、服従させて、その上で、御言葉を守り行わなくてはならない。
そうでないと、砂の上に建てられた建物のような、こっぴどい倒れ方で、倒れてしまう。
信頼して御言葉を守り行うなら、力を得、救われるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:今まで通った事のない道を行くには(ヨシュア記3:1-4):右クリックで保存

斥候から報告を受けた後、ヨシュアは全イスラエルと一緒にシティムを出発し、ヨルダン川の川岸まで行って、そこに泊まった。
彼らの目前には、これから超えるべきヨルダン川が横たわっている。
『三日の後、つかさたちは宿営の中を行き巡り、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。』(ヨシュア記3:2-3)
彼らは、今までに一度も通った事の無い、全く新しい領域へ踏みだそうとしている。
そのような時、今まで慣れ親しんだ方法や経験は全て通用せず、その一歩一歩は、信仰のチャレンジとなり、目当てとして従い行くべきは、ただ、祭司たちが担いで進んでいく契約の箱のみとなる。

契約の箱。
それは神様が約束して下さった契約のしるしであり、その中に入っているものは、主の命令が記された石の板、マナの入った金の壷、アーモンドの芽と花が吹いたアロンの杖である。
石の板は、御言葉そのものであり、マナは、神様が天から与えて下さった食物、すなわち、全て人に必要なものを満たして下さるしるしであり、芽を吹いたアロンの杖は、永遠の祭司のしるしであり、かつ、死からいのちを息吹いて下さる、いのちの源なる主のしるしである。
彼らはもはや、雲の柱や火の柱のような、目に見えるしるしや不思議に頼って歩む事を止めにし、祭司たちが担ぐ「御言葉そのもの」と、「必要の満たしのしるし」と、「死からの復活のしるし」のみを見つめつつ、これから歩んでいくのだ。

現代を生きている私達キリスト者の歩みも、それに似ている。
まことの大祭司・イエス・キリストが私達に指し示して下さる御言葉を見つめつつ、ただそれのみを頼りに導かれて行くのだ。
『信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。』(ヘブル12:2)

御言葉には、数々の素晴らしき約束が記されている。契約の箱の中にあったすばらしきしるしの数々のように。
主は、この地上においては全ての必要を満たして下さり、罪の中で死んでしまっている私達を復活させ、永遠のいのちへと、天の御国へと、導いて下さる。
私達はその約束を仰ぎ見つつ、地上における残された日々を歩んでいくものである。

『しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。』(ヨシュア記3:4)
箱をかつぐ祭司との間は、二千キュビトの距離をおかなければならなかった。
その二千キュビトの距離を、縮めてはならず、追い越してもならない。
私達も、まことの大祭司であるイエス様との、そのような距離感は、大切である。

私達は主イエス・キリストを、あまりにも馴れ馴れしいものとして軽んじたり、無礼を働いてはならない。
かと言って、あまりに遠い存在として、離れすぎてもいけない。
私達は御言葉を乗り越えて進んで行ってはならないし、また、御言葉が先を行くのに、ついて行く事を怠け、ついには御言葉がどこへ行ったかさえ分からなくなってしまうような「霊的なまけぐせ」をつけてはならない。

契約の箱をかつぐ祭司との間に、二千キュビトの距離をを保つには、自分自身の歩みを、祭司に合わせる必要がある。
この歩みにおいて必要な事は、信仰によって自己を降ろし、御言葉をかつぐ大祭司キリストへと、歩調を合わせる事である。
キリストとくびきを共にして歩むなら、私達の心に平安が来る。
『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。』(マタイ11:28-30)

主はヨシュアに、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3)と約束された。
私達も、大祭司であるキリストが御言葉をかついで行くのが見えたなら、どこに行くのかを案じず、恐れず、ただキリストの歩みに歩調を合わせて進み、そうして、新しく入る土地を一歩一歩踏んで行くなら、その所はいつの間にか、私達のものとなって行き、私達が未だかつて経験した事の無い、主の素晴らしい領域を、ますます自分のものとしてゆくのだ。
『聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。』(1コリント2:9)

礼拝説教メッセージ音声:苦もなく安息に入る人の特徴(ヨシュア記2:15-24):右クリックで保存

『そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。』(ヨシュア記2:15)

ラハブは、城壁の中に建て込まれていた”マンション”の一室に住んでいたため、彼らを安全に送り出すために、その窓から吊り降ろした。
このようにして助けだされた二人は、約束どおり、ラハブとその家族の救いの方法を示した。
『ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。』(ヨシュア記2:17-19)

主から指示された救いの印を付けて、その中でじっとしている。そうするなら、さばきの日に守られる。
これは、聖書の色々な箇所において共通する、救いの方法である。(出エジプト記12:7、ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)

二人の斥候は、ラハブに、救われるために「赤い印」を家に付すよう指示したが、それは、主がイスラエルをエジプトから救い出された時を彷彿させる。
『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)

かつてイスラエルは、エジプトがさばかれる日、血潮の赤いしるしを付与し、滅びを免れた。
その日、血潮の赤いしるし境に、いのちと死がはっきり分かれた。
ほふられた小羊の血のしるしの内では、ごちそうと安全と感謝があり、しるしの外側では、死と叫びと滅びがあったのだ。

この”赤いしるし”の内側に助けを求めて来る人が救われる事は、今の私達も全く同じである。
すなわち、世の罪を取り除くまことの小羊イエス・キリストの血によって、人の罪は洗い清められ、その血潮の内側に救いを求めて来る人は、誰でも、罪が赦され、罪の刑罰をまぬがれ、さばきの日には滅びは届かず、改まった世において永遠に生きる幸いが与えられるのだ。
『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』(ヨハネ11:25)
そして、ほふられた小羊キリストに贖われた人達は、救いを成就して下さった彼を、永久にほめたたえるのである。
『ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。』(黙示録5:12)

『ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。』(ヨシュア記2:21)
「あなたの仰せのとおりに」。
これこそ、苦もなく救われる人が、よく口にする言葉である。
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別に良かったのだが、彼女は、言われた時にすぐに実行した。

大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。
それが、救いの条件であるが、御言葉に対し「でも」や「だって」が多い人は、信仰の歩みには苦労が多い。
そういう人は、御言葉を身勝手に解釈して、ややこしい事をしたり、人々に「あれせよ、これせよ」と言っておきながら、かんじんのその日、見事に赤いしるしを結び忘れていたり、あるいは、しるしの外に飛び出して、滅びてしまったりするのである。

私達も、自分自身に結びつけるべきものがある。
それは「御言葉」であり、信仰によって結びつけるものである。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、「信仰によって結びつけ」られなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)

信仰によって結びつける、それは、自我のうごめく自分自身の心をとりこにし、御言葉に服従させ、御言葉を交ぜ合わせ、その御言葉と一体化する事である。
聞いた御言葉に、信仰を交ぜないなら、聞いた御言葉は何の益にもならないし、決して安息に入れない。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)

苦もなく安息へと入る人は、聞いた御言葉を、信仰によって、自身に結びつける人である。
聞いた御言葉に、信仰を混ぜ込んで、御言葉と一体化するなら、御言葉の守りが、きよめが、私達へと一体化され、そうして私達は、滅びを免れるのである。

礼拝説教メッセージ音声:求める人にはご自身を現して下さる主(ヨシュア記2:8-14):右クリックで保存

ヨシュア記の多くは、カナンでの戦闘と土地分与の記録に多くの文量を割いているが、この2章については、遊女ラハブと2人の斥候のやり取りに終始している。
この遊女ラハブが取った行動と、その行動の結果、彼女とその家族とが得た救いの有り様は、私達異邦人の救いの有り様とよく似ており、それは新約を生きる私達にとって重要だからであろう。

『ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。』(ヨシュア記2:8-10)

ラハブは、非常に重要な情報を、斥候に提供した。すなわち、この地の民は皆、イスラエルを恐れ、震えおののいているというのだ。
しかもそれは、彼らがエジプトから出てきた時から、すなわち、その40年も前からなのだ。
40年前、ヨシュアとカレブを除いた斥候10人は、臆病の霊にとりつかれ、この地について悪い情報をもたらした。
すなわち、カナンの地は堅固で強大で、自分達がいなごのように見えた、と言って、全イスラエルを迷わせ、荒野の放浪へと陥れたが、実のところ、あの時から既に、カナン人は、エジプトを徹底的に懲らしめた主と、主がついておられるイスラエルの民を恐れ、震えおののいていたのだ。
あの時からカナン人は震えおののいていたのだから、40年前、恐れずに進み行っておれば、やすやすと占領できたのに、不信仰のゆえに、荒野で無駄に40年の時間を費やし、また無駄に命を落としてしまったのだ。

『わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。』(ヨシュア記2:11)

ラハブと、エリコの他の住人との決定的な違いは、主の圧倒的な力と権威を目の当たりにし、それに対してどのように応対したか、である。
エリコの住人は、主の為されたわざを聞いて、恐れおののいた。
しかし彼らは、城門を固く閉ざし、高くそびえ立った先祖由来の城壁を頼りにし、神とその民に対抗する事にして、探りに来た神の国の使者を探し出し、剣や槍をもって捕らえようとした。
一方ラハブは、その神の国の使者に、憐れみを乞うた。
『それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。』(ヨシュア記2:12-13)

傍から見れば、敵地の真っ只中にいる二人の斥候こそ、ラハブに命乞いをするはずの立場なのに、逆に、彼女のほうが、命乞いをしている。
彼女のその態度は、真実をついている。
なぜなら、彼女が告白した通り、「神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるから」である。

言ってみれば、エリコの王は、全宇宙を支配している”社長”である主に敵対して、社長が何も言わないのをいい事に好き放題をして、全社に不利益ばかりをもたらしている不採算部門の課長のようなもので、それにひきかえ、この二人の斥候は、社長から遣わされた監査役のようなものだ。
ラハブは、その権威構造を正しく理解していたため、この二人をかくまい、助けを求めたのだ。

ラハブと、この二人の斥候とを、うまく引き合わせたのは、主である。
彼女は、この、神の民の噂を聞く度に、願っていたのではなかろうか。この城壁の壁に囲まれた町で、身売りをするような日々から救われ、出来る事なら、このうわさの神の民に入りたいと。
それで主は、彼女の心の叫びを聞かれ、彼女の家に二人の斥候を遣わされたのではないか。
なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるお方だからだ。(2歴代誌16:9)

主は、岩砂漠の中に立てられたエリコの城壁の壁に住んで、身売りをしながら生活していたラハブの声を聞かれたように、現代、コンクリート砂漠の壁の中で、身売り同然の過酷な労働をしつつ搾取されているような現代人達をさえも、御目をもって見渡し、救いを求めて神に立ち返ろうとしている人を見い出し、その人のところには、神の国からの使いを遣わして下さるのだ。
私達が救われた時の有り様も、そのようではなかっただろうか。なぜこのような私に、と。よくぞこんな私に目を留めて見出して下さったと、不思議だったのではなかろうか。

かつてのエリコの住人のように、不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、なんとなく認知して、その滅びから救われたい、と思っている人は多い。
しかし、救われるためには、ラハブのような決断が必要である。
私達を造られた、全能なる主を認め、救われたいと願い求めるなら、主はどこにでもおられるお方である。主は、必ずその人に答えて下さる。
そして、イエス・キリストを救い主として受け入れるなら、あなたも、あなたの家族も、救われるのである。(使徒16:30)

礼拝説教メッセージ音声:真の権威に従順だった遊女ラハブ(ヨシュア記2:1-7):右クリックで保存

『ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。』(2:1a)
ヨシュアは、もしかしたら恐れがあったために斥候を遣わしたのかもしれない。しかし、この敵情視察は、最終的にヨシュアに励ましと勇気をもたらした。
主は、恐れるギデオンにも、羊の毛のしるしや、ギデオンに対して恐れを抱いている敵を見させる事よって、勇気づけたように(士師記6,7章)、御心を求める人には、GOサインを示して下さる。
そして、主がそれを示して下さったからには、その道は是が非でも行くべきなのだ。
なぜならそれは主の御旨であり、行く先には勝利しか無いからである。

『彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、エリコの王に、「イスラエルの人々のうちの数名の者が今夜この地を探るために、はいってきました」と言う者があったので、エリコの王は人をやってラハブに言った、「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです。」』(ヨシュア記2:1b-3)

このラハブという女性は、イエスキリストの系図に名を連ね、王族の家系の産みの母の一人として名を連ね(マタイ1:5-6)、新約聖書では、信仰の人として度々出ている。
一体なぜ、聖絶の対象であるカナン人の、しかも遊女という、およそ救いからは程遠いような彼女が、そのような栄光を受けたのだろうか。
それは、以下の彼女の行動によってである。
『しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。そして彼女は言った、「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。』(ヨシュア記2:4-6)

彼女のこの行動を、ヤコブは、行いをともなった信仰の行動として、褒めている。
信仰の人といえばアブラハムであるが、ヤコブは、アブラハムに続いて、ラハブのこの行いを取り上げた。
『「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ2:23-26)

ある人は言う。彼女は嘘をついて自国の王を、裏切った、と。
しかし、彼女のこの行動は、そんな瑣末な善悪判断で計るレベルの問題ではない。
これは、救いと滅びの問題であり、神かサタンか、光か闇か、そのどちらに属すのか、という問題なのだ。

遊女である事を強いるような、搾取され続ける事を強いるような、また、聖なる事や命なる事をあざ笑い、阻害し、打ち壊すような、そのようなサタンに属する権威に対しては、断固として、敵対するべきである。
その場合、至高なる神を裏切った堕天使に「裏切り者」呼ばわりされる筋合いは無いし、偽りの父であるサタンに「嘘つき」呼ばわりされる筋合いは無いし、最も偉大な権威に不従順な者から「不従順」と言われる筋合いは、一切、無い。

『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)
もしあなたが平社員なら、社長に不従順な課長と、社長と、どちらに従うべきだろう。その場合、最終的に勝つのは、もちろん、社長に従順な人である。
同じようにラハブは、全宇宙の”社長”である神を侮る”不従順な部署”であるエリコに敵対し、圧倒的高位である神の視察団を、エリコの王から守ったが故に、救いを得たのだ。

人は、この遊女ラハブのように、早かれ遅かれ究極の選択が迫られる時が来る。
不真実で不従順な世に対して、今までどおり”忠実に”属し続けるのか。
それとも、真実なる神への従順を選択するのか。

ピラトは、義なるお方・イエス様をかくまわず、かえって邪悪な者どもに引き渡した。
そのため彼は、キリスト教会が使徒信条を告白する度に、義なるお方を邪悪な者共に渡した”裏切り者”として、その名は朗読されている。
遊女ラハブは、義なる人達を、邪悪な者には引き渡さずに、かくまった結果、栄光の家系に名を連ねる栄誉を得た。
『サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。』(マタイ1:5-6)

『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。・・・まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』(マタイ25:40、45)
遊女ラハブのように、不従順な世から脱却し、神に属する兄弟姉妹を大切にし、栄光の家系へと入る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:指導者ヨシュアの最初の指示(ヨシュア記1:10-18):右クリックで保存

主はヨシュアに再三、強く、雄々しくあるようにと励ましたが、彼はそれを受けて、早速、指導者として”初の”アクションを起こした。
『そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」』(ヨシュア記1:10-11)

主は、アブラハムの時以来、何百年もの前から、このカナン人の地を与える事を約束しておられたが、もう、その地はすぐそこに迫っている。
そして、もうあと数日もすれば、そこに突入する所に来ている。
ヨシュアは民のつかさたちに、食料を整え、いつでも出立できるよう、必要な備えをしておくよう命じたが、その地に突入する際には、真っ先に進み行かなくてはならない人々がいた。

『ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。
あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」』(ヨシュア記1:12-15)

かつてルベン人、ガド人、およびマナセの半部族は、ヨルダン川の東側で既に勝ち得ている領土を、先んじて与えてください、という事を、モーセに願っていた。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、それをモーセに咎められたため、その要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先にいただく代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)

今、ヨシュアは、彼らがかつてモーセにしたその約束を、果たすように命じたのだ。
この時も、ヨシュアは、もしかしたら恐れがあったかもしれない。
果たしてこの民は、自分のこの初の命令を、聞くだろうか、と。

果たして彼らは、ヨシュアに答えた。
『彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」』(ヨシュア記1:16-18)

ヨシュアには、期待以上の答えだったろう。
彼らは、自分達はモーセに聞き従ったように、ヨシュアの命令にも、何でも聞き従う、と。
もし命令に逆らう者があれば、その者は殺されなければならない、と。
しかも、「主が共におられますように」という祝福をしてくれたばかりでなく、主が再三、励まして下さったのと全く同じ言葉、「強く、雄々しくあるように」という言葉まで、返って来たのだ。
これでヨシュアは、指導者としての自信を得、自分に与えられた主のミッションを心置きなく遂行できる、と、安心しただろう。

ヨシュアには元々、恐れなど無かったのかもしれないが、そうだとしても、あるいはその逆で大いに恐れていたとしても、主は、その働き人には、必ず必要な励ましと、勇気の源となるしるしと、部下を統率する権威とを、与えてくださるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:強く、雄々しくある根拠(ヨシュア記1:7-9):右クリックで保存

『ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。』(ヨシュア記1:7)
「強くあれ、雄々しくあれ」という励ましは、キリスト教会ではよく語られるが、実際にその言葉の通りに、強く雄々しく快進撃して行けるかどうかは、本人次第である。

ソロモンも、ヨシュアと全く同じ祝福を受けた。
「あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。」(1列王記2:2-4)
ソロモンは最初は御旨に適った歩みをしていたため、確かに、どの王にも勝る栄華を極めた。
しかし、後にはおごり高ぶり、御言葉に背き、主から離れたため、人生の終わりの時には、全てが虚しく、うつろなものとなってしまった事は、伝道者の書に記されているとおりである。
御言葉への従順なしの「強くあれ、雄々しくあれ」は、ただのむなしい空文である。
強さ、雄々しさの根拠たるお方、主を、しっかり敬い、主の御言葉をことごとく守り行い、それを離れて右にも左にも逸れずに歩まない事には。

『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:8)

律法の書、それは現代で言うところの聖書の御言葉だが、御言葉は何も、礼拝中や教会の中だけで取り交わされる「非現実」の言葉ではない。
職場、家庭、学校など「現実」の生活の場において、信仰をもって語りだす時、それは「現実」の力となり、問題の解決となり、祝福の根拠となる。
御言葉を日々の生活においても口ずさみ、その内容に心を留めてそれを守り行う人は、流れのそばに植えられた木のように、どんなに日照りのような時でも、しっかり実を結び、その葉は枯れず、何をしても栄える事が出来るのだ。(詩篇1:2-3)

『わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。』(ヨシュア記1:9)
主が「強く、また雄々しくあれ」とヨシュアに仰せられたのは、これで三度目である。
ヨシュアには、最初から強く雄々しい、というイメージがあるが、もしかしたら彼にも恐れがあったのかもしれない。

ヨシュアは、偉大な指導者・モーセの従者として、長年彼の傍で仕えて来たため、モーセの偉大さも、民の頑なさも、十分に知っている。
その偉大な指導者・モーセがいなくなり、これからは、自分が直接、神様から示しを頂きながら、この60万以上の民を、導いて行かなくてはならない。
どれ程のプレッシャーを、彼は感じただろうか。
先代があまりに偉大であるなら、二代目は、すぐに潰れてしまうというパターンは多いが、ヨシュアは見事、モーセが成し得なかった事を為し、イスラエルを約束の地へと導き入れた。

絶対に失敗しないコツ、それは実にシンプルである。
それは、申命記で幾度も聞かされてきた通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だ。
そして、決して変わる事の無い主の愛の中に、とどまり続けるなら、世の何者も恐れる必要は無くなる。
『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:35-39)

御言葉から右にも左にも逸れる事なく、祝福の王道の真ん中を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「何者も立ちはだかる者なし」という特別パス(ヨシュア記1:5-6):右クリックで保存

『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。』(ヨシュア記1:5-6)

一生涯の間、誰一人、立ち向かう者はいない・・・とても魅力的な言葉である。
人は、ドラマや映画のヒーローのように、向かう所、敵なし、という姿に憧れがちだが、主がその特権をヨシュアに与えられたのは、彼らに勝利のいい気分を味わわせるためではなく、彼が為さなくてはならない責務のため、すなわち、イスラエルを約束の地へと導き入れるという、主のご計画を成就するために、彼を「向かう所、敵なし」状態にする必要があったからである。
私達は何かと、ヒーローになりたがるが、もし、主がその人をヒーローのようにするとするならば、主の栄光のため、天の御国の拡大のための責務がある事を、忘れてはならない。

神の国の働き人が為すべき責務とは、以下のイエス様の命令である。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのであるとの名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20)

私達・キリスト者の責務は、行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名によってバプテスマを授け、主の命令を守り行うように命じる事である。
一国の大使には、様々な特権が与えられているように、主の奉仕者、神の国の働き人には、向かう所敵なしという”特別パス”や、万軍の主がいつも共にいるという”セキュリティ”も与えられているため、世の何者に対しても、強く雄々しく、大胆に、主から与えられた責務を行使する事が出来るのだ。

パウロも、コリントの宣教地で、反対者が現れた時、主が現れて言われた。
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(使徒18:9-10)
パウロはその主の命と承認を得たため、一年六か月の間、コリントに腰をすえて伝道し、多くの人々を救った。

主は、御言葉を伝える神の国の奉仕者を、プライドをかけて、守られる。
なぜなら御言葉は、主イエスキリストご自身であり、世の何者にも勝る、計り知れない宝だからだ。

『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。』(2コリント4:7-12)

礼拝説教メッセージ音声:既に与えられている所へ踏み出せ(ヨシュア記1:3-4):右クリックで保存

人は、初めから強く雄々しくあるわけではない。
強くなるにはそれなりの鍛錬が必要だし、雄々しくなるには、それなりの根拠が必要である。
聖書の中の、ヨシュアの言動は、まことに強く雄々しいが、彼はどのようにして強さを身に着け、何を根拠にして雄々しくなれるのだろうか。
彼が雄々しくなれる根拠、それは、主にある。
そして彼の強さは、日々、御言葉を信じ従順する事によって、鍛え上げられたものである。

『あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。』(ヨシュア記1:3)
主はモーセに、そこを既に「与えている」と約束した。
しかし、その約束されたものを、実体として受け取るには、主の言葉を信じ、実際にそこへ行って、「足の裏で踏」むという行動が必要である。

主の約束という「真理」の中では、その地は、既に彼らに「与えられている」。
なのに「現実」は、そこには強大なカナン人達が占拠しており、城壁は彼らに敵対して高くそびえ、城門も堅く閉ざしている。
このように、御言葉の「真理」と、「現実」とが敵対している時、人は、二通りの行動を取る。
すなわち、現実を取って、御言葉の真理を捨てるか。
それとも、御言葉の真理を信じて、現実に戦いを挑むか。

40年前のイスラエルも、全く同じチャレンジが与えられていた。
向きを変えて出発せよ、その地に行って占領せよ、そこは既に、あなた方に与えている、と。(申命記1:6-8)
しかし、40年前のイスラエルは、その地には強大な敵が住んでいる「現実」を見て、自分達はそこに入っていけないではないか、主は自分達を憎んでいるのではないか、だから、その地の住人を用いて自分達を殺させようとしているのではないか、と、「真理」とは真逆の「不信仰告白」をし、そうして、彼らの信じた通りに、彼らは滅んでしまった。
それから40年後のヨシュア達も、あの時と全く同じチャレンジを受けたのだが、ヨシュア達は見事、御言葉の真理を信じ、戦いを挑み、そして信じた通りに、真理で示されていた通りの祝福を勝ち得た。

私達は、いかにすれば「現実」を「真実」で塗り替えるのか。
それは、信じて、行う事によって、である。
信仰の通りに実行するなら、約束されていたものを勝ち取る事ができる、という原理は、現代も、将来も、全く同じである。
主は御言葉において、既に、様々な良き祝福を約束しておられるが、それを実体として手に入れるためには、まず、私達の側が信じてアクションする必要があるのだ。

『あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。』(ヨシュア記1:4)
主が約束された地の範囲は、大川ユフラテからヘテびとの全地にわたる、広大な地域である。
ところが、イスラエルの歴史では、今に至るまでも、大川ユフラテまでを領地とした事は、いまだに無い。
なぜなら彼らは、ある程度占領したら、もうこれでいいや、と、途中で妥協してしまい、信仰の戦いをする事を、止めてしまったからだ。(士師記1章)

主が示した占領すべき地を、いつまでも攻めず落とさずに残しておくと、その未占領地域はかえって敵対する力を得、ゆくゆくは仇となって、攻め寄せて来るものだ。
手付かずの宿題を先延ばしにしていると、日毎にそれらの存在が重荷となり、ついにはその人を責めるまでになってしまうように。
だから、主が示されたなら、すぐに、その通り実行しないと、ゆくゆくはそれが敵対して攻めて来ることとなる。

皆さんは、主から示されている為すべき事を、途中で止めて、妥協してはいないだろうか。
御言葉を信じて、それに服従し、実行する時、その「服従」は、要塞をも破る力のあるものとなり(2コリント10:4)、そうして信仰によって日々、小さな要塞を打ち破って行くなら、皆さんの自由な領域は、日々、拡大して行くものである。

引き篭もっている人は、実体の無い恐怖、すなわち、社会に出るなら、自分はよくわからない事で怒られてしまう、親以外の大人はみんな怖いものだ、何をするにもあざけられ、恥ずかしい思いをさせられてたりするものだ、などと恐れ、いつまでも狭い領域の中で窮屈に暮らしているものだ。
皆さんも、霊的に狭い領域の中で、窮屈に暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に聞き従って、進み行くならば、あっさりと勝利するものだ。
なぜなら、主が共にいて下さるからだ。

引き篭もっている人が、少しずつ勝利を積み重ねていくなら、仕事も出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションできるようになり、それを楽しむようになり、今まで狭い領域だけで過ごしていたのが、より広い領域へと踏み出すようになり、外国にさえも自由に行き来できるようになり、ますますその人の「領域」は増し加わって行くものだ。
しかし、主が「行け」と言われている領地を勝ち取っていく事に、妥協してしまったり、いつまでも恐れて引き篭もっているなら、何の進展も無く、ただ若さと時間ばかりを浪費し、意欲も萎えてしまい、その分、敵に力を与えてしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアという人(ヨシュア記1:1-2):右クリックで保存

聖書は、神が人を救うための全容が記された書物である。

最初の人アダムは、エデンの園で神の命令に背き、そうして人には罪と死が入り、滅ぶ存在となってしまった。
神は人類を救うために、一人の人・アブラハムを選び、神の基準である「律法」をモーセを通して与え、アブラハムの子孫であるイスラエルが、それを守り行う事により、全人類に主の栄光を伝えさせるため、彼らを約束の地・カナンへと導き入れようとした。
以上が、創世記から申命記までのいわゆる「モーセ五書」の内容であり、約束の地へ入る直前、モーセの死の場面でその内容が終わった。
続くヨシュア記以降は、イスラエル民族が入る約束の地で、主と共にいかに歩んだか、という歴史が記されており、ヨシュア記以降エステル記に至るまでの聖書は、「歴史書」という区分で分けられている。

その、歴史書の始まりであるヨシュア記は、モーセの死と、モーセの後継者・ヨシュアへに対する主の命令で始まる。
『主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:1-2)

ヨシュアは、モーセ五書の中でも何度か登場したが、彼のそれまでの歩みは、まさに、信仰の歩みだった。
ヨシュア記の学びを始める前に、まず、彼の人となりを見ておきたい。

ヨシュアは、モーセの「従者(シャーラス:アテンド、ミニスター)」であり、いつもモーセの近くに仕え、従っていた。

彼が聖書で最初に登場するのは、イスラエルが出エジプトして間もない頃、レフィディムにて、アマレクが戦いを仕掛けて来た時だった。(出エジプト記17章)
その時、モーセの従者だったヨシュアは、前線に出て戦い、モーセは背後で彼らを祝福し、その結果、イスラエルは勝利をおさめた。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立ち、主に執り成して祈るその姿を見て、安心して戦う事が出来た。ヨシュア達が肉体で格闘したように、祝福の祈りもまた、重要な格闘なのである。

その次に彼が登場するのは、主が契約の石板をモーセに授けるために、モーセひとりを山へ呼び出された場面である。(出エジプト記24:13)
モーセは四十日四十夜、山で主とともにおり、降りて来なかった。
イスラエルの民は、モーセがあまりに山で手間取るので待ちきれなくなり、アロンとフルも民を正しく導く事ができず、金の子牛を作って早速主に背いてしまったが、ただ一人、ヨシュアだけは、民から離れた場所で、モーセが降りてくるのを忠実に待っていた。(出エジプト記32:17)
またヨシュアは、モーセが会見の幕屋から帰った後でも、幕屋から離れずにいた。(出エジプト記33:11)

このように、彼はいつもモーセから離れず、主の幕屋から離れず、モーセが戦いに行けといえば行き、待てと言われれば、他の誰よりも待った。

主が、長老たち七十人にも霊を分与した時、長老として登録された人達のうち二人は集うべき場に集っていなかったのに、その二人にも主の霊が注がれて預言した。
『若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。』(民数記11:28-29)
ヨシュアが「止めさせて下さい」と願ったのは、指示に不忠実だった長老達にさえ、預言の霊が与えられた事を、不服に思ったからかもしれない。
しかし、約束の地に入る事が出来たのは、預言が与えられた指示に不忠実な長老達ではなく、預言は与えられずとも、いつでも指示に忠実に従ってきたヨシュアのほうであった。

そして、民数記13章では、ヨシュアはイスラエル各部族の代表である十二人の斥候のうちの一人として、約束の地を探ってくるという、大役が任される事となる。
ヨシュアは元々、ホセアという名だったが、この時、モーセは彼に「ヨシュア」という新しい名を付けた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。
そして、ヨシュアは、ギリシヤ語読みでは「イエス」、あの、イエスキリストと同じ名である。
ヨシュアの親が「ホセア」と名付けたのは、自分で自分を「救う」者になって欲しいと願ったのかもしれないが、モーセは、主こそ救いの拠り所であるとして、ヨシュアと名づけて、斥候の任務に遣わしたのかもしれない。

そして実際ヨシュアとカレブは、カナン人は強くその町は堅固であるのを見たにもかかわらず、その信仰は衰えず、かえってその良き地を得たいと考え、主が救って下さるなら必ず勝利できる、だから是非、攻め上りましょう、と、皆に進言した。
しかし、他の十人の斥候は、その土地について悪い噂を言い広め、その「臆病」がイスラエル全体に伝染してしまい、結局、イスラエルはのその不信仰の故に、荒野での四十年の放浪が、確定してしまった。
この四十年の間、あの時不信仰にならった世代は、ヨシュアとカレブ以外は全員死に絶え、その世代では、ただ、ヨシュアとカレブだけが生きて約束の地に入る事が許された。

モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセは、多くの実績と功労を残したのに、たった一つの過ちを犯したが故に、主の約束された安息の地には、入れなかった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんなに功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。

律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、単に「人には違反がある」という事を示すだけで、いのちを与える事ができない、という点である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)

モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地そのものへ人々を導き入れる事は、できなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事は、イエス・キリスト(ヨシュア)と、旧約律法(モーセ)との関係を、よくあらわしている。

『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。律法は、キリストへと連れて行く養育係に過ぎないのだ。
私達を真の約束の地、すなわち天の御国へと導き入れる事ができるは、モーセに示される律法ではなく、ヨシュアに示されるイエスキリストである。

ヨシュア記は、勝利に満ちているが、同時に、少しでも不信仰に陥ったり、滅ぼしつくすべきものを滅ぼさないのなら、いかに、ヨシュアの軍団の中にいようとも、すぐに負けてしまうという法則が相変わらず存在する事も、忘れてはならない。
私達はただ、イエスキリストを信じる信仰によって、世に勝利し、死をいのちで飲み込み、サタンに勝利して、神の安息に入る事が出来るのだ。

『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:8-11)

ヨシュア記のヨシュアが勝ち取ったカナンの地は、真の安息の地ではない。
真の安息の地は天であり、それは私達・信じる者達に残されているのだ。
だから私達は、その安息に入るために、この地上の歩みを、キリストにあって強く雄々しく、信じて、大胆に歩もうではないか。

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