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メッセージ - ヨシュア記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:エリコの崩壊と救われる人々(ヨシュア記6:22-27):右クリックで保存

エリコの城壁が崩れ落ちた時、遊女ラハブたちは、とても恐ろしい思いをした事だろう。
なにしろ、自分達の周りの城壁は、ことごとく大音響を立てながら崩れ落ち、あの赤い印がついた窓から外を見ると、神の国の軍団が一斉に剣を手に持って攻め寄せて来たのだから。
しかしその軍団は、自分達のいる家は過ぎ越し、その周りだけを打ち滅ぼして行った。
それは彼女が、斥候に命じられた事を守り、赤い印を窓に結びつけ、その中から離れなかったからである。

『その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。』(ヨシュア記6:22-23)
かつて、彼女がエリコの王からかくまったあの二人は、今度は、彼女たちをかくまう番となり、その赤い印のつけられた部屋の中にいた人たちを全員連れ出し、安全な所へと導いた。
私達もこの地上において、神の国の使者が伝える福音を受け入れるなら、世が裁かれる日、御使い達の号令とラッパの響きの内に、安全に天の御国へと導かれ、主と共に永遠の救いへと入れられるのだ。
『すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。』(1テサロニケ4:16-17)

この世には、神の国から使わされて来る使者がいる。
福音を伝える人は、誰でも、神の国から遣わされた使節である。
『神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。』(2コリント5:18-20)

そして、世の人は、その使者をいかに扱うかによって、永遠の行き先が変わってくる。
遊女ラハブのように、神の国からの使者を受け入れる人は、その報いに漏れる事は決して無い。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)
しかし、エリコの住人のように、使者を捕らえて殺そうとする者は、裁きの日に滅ぼされてしまう。

こうして、エリコという邪悪な町は、滅ぼしつくされた。
先祖代々補強し、神に敵対してそそり立った城壁は崩され、福音に対して堅く閉ざした門は、粉々に砕かれた。
その町の中にあって、救いの赤い印の内にかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと、すなわち救いへと渡り行き、そして、その町の中で遊女だったラハブは、神の国の栄光の家系へと嫁いで行ったのである。(マタイ1:5)

『ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、/その門を建てる人は末の子を失うであろう」。』(ヨシュア記6:26)
実際に後の時代、エリコを再建した人の上に、このヨシュアののろいは成就した。
それは、イスラエルの中で最悪の王、アハブの時代である。
『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
エリコのように、人々に遊女である事や、身売りする事を強要し、弱者から時間やエネルギー、若さを搾取して、甘い汁を吸い続けるシステムを再建しようとするような者は、呪われてしまうのだ。
この邪悪な時代にあっても、弱者から搾取して自分の地位を保とうとする人はいるが、その人は、安泰なように見えていて実は滑りやすい所におり、やがては、またたく間に滅ぼされてしまうのだ。(詩篇73篇)

礼拝説教メッセージ音声:七が七度を満たす時(ヨシュア記6:16-21):右クリックで保存

神の国の軍は、エリコの町を攻める事なく、祭司たちが神の御言葉と約束のしるしの入った箱をかついで、角笛の音を響かせながら、ただ静かに、黙々と、六日間行進した。
そして第七日目は、七度周った。
『七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。』(ヨシュア記6:16)
その時、主の時は成就し、神の国の軍は大声を上げて、その町は主のものとなる。

この「世界」という、大きなエリコの町が終わる時も、これと同じことが起きる。
『第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。』(黙示録11:15)
終わりの時が近づけば、近づくほど、主の警告は頻繁になり、七が七度を満たす時、さばきの準備が整い、大きなラッパの音と声々が起こり、この世のものは全て、主キリストのものとなるのだ。

『そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。』(ヨシュア記6:20-21)
エリコの終わりの日、それまで何世代にも渡って積み上げてきた城壁も、不品行も、罪深さも全て崩れ落ち、それらを頼りとしていた人々は、逆にそれらによって押しつぶされてしまった。
同じように、この世の終わりの時も、それまで積み上げてきた神に敵対する文明の利器は、全て滅び失せ、それぞれが積み上げてきた罪や不品行の報いが、それぞれの頭上に降りかかり、天からの警告を無視し、福音宣教者を迫害してきた人々は、その日その時、御言葉の光の剣に刺し貫かれ、滅ぼされてしまうのだ。
しかしその日、滅びをまぬがれ、神の国って救いを得る人々も、確かにいる。

『この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った”使者”たちをかくまったからである。』(ヨシュア記6:17)
ヨシュアはここで、「斥候」とは言わず、「使者」と言った事は興味深い。彼らは、表向きは斥候であっても、実は、エリコに遣わされた、神の国からの使者であったのだ。
神の国の使者を穏やかに受け入れた遊女ラハブは、神の国から特別扱いされ、使者を捕らえて殺そうとした者達は、滅ぼされる。
この世も同じである。

『また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。』(ヨシュア記6:18)
救いに入った私達も、主の忌み嫌われるもの、滅ぼし尽くすべきものは、大切に抱え持っていてはならない。
そうでないと、自分自身だけでなく、自分の家族、ひいては、教会という宿営全体に災いを持ち込む事になってしまいかねないからだ。

『ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。』(ヨシュア記6:19)
遊女ラハブとその属する者以外にも、エリコの町から取り出され、主の宝物庫に入れられるものがあった。
それは、銀と金、青銅と鉄の器である。
『神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。』(2テモテ2:19-21)
私達も、この地上において、汚れを離れ、自らを清めるなら、主の尊いわざに間に合うものとされ、かの日には、主の宝物倉に納められるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:黙るべき時と語るべき時(ヨシュア記6:8-15):右クリックで保存

『ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。武装した者はラッパを吹き鳴らす祭司たちに先立って行き、しんがりは箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。』(ヨシュア記6:8-9)

ヨシュアは主の軍の将から命じれれた言葉を、そのまま民に実践させた。
しかし、人の目にナンセンスとも思える事を、七日間も、六十万の民に実践させ続ける事は、簡単な事ではない。
もし、わずかな人数でも「こんな事に意味があるのだろうか」と、信仰に疑いを投げかけるようなつぶやきをするなら、会衆全体に、その不信が伝染してしまうとも限らない。
実際、四十年前はそうだった。
僅かな人々の、不信なつぶやきや、肉欲の煽りなどが、多くの民に伝染し、結果、イスラエルの民全体がその思いに汚され、荒野での四十年の放浪となってしまった。

そこでヨシュアは、以下のように命じた。
「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない。」(ヨシュア記6:10)

ヨシュアは、よく知っていたのだ。”群衆”というものの性質を。
そして、くちびるの言葉は、いかに「火」のように災いをもたらすかを。
『舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:6)
だから、群衆に一言も口を聞いてはならないと命じたその命令は、実に的確なのだ。
私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、たとえ疑う心があったとしても、唇という境界線を越えずに命じられた事を淡々と行うなら、行った結果の実は必ず実るのである。

この時、絶え間なく聞こえていたのは、イスラエルが行進する足を踏む音と、祭司たちが吹き鳴らす雄羊の角笛の音だけであった。
これは、私達が信仰の戦いをする時に取るべき態度でもある。
悲観的になりそうな時、御言葉がどうしても信じられない時、先行きが見えず不信仰に陥りそうな時こそ、人間的な言葉を放つ「口」は閉ざし、ただ、小羊キリストの栄光を誉めたたえる賛美だけを響かせつつ、「足の裏で踏む所はことごとく与えた」という御言葉を信頼しながら、その場所を足踏みするのだ。

もちろん、何でも黙れば良い、というものではない。
真理の言葉を語らなくてはならない時は、黙っていないで真理を語るべきである。
ヨシュアとカレブは、四十年前、彼ら以外の斥候十人が放った、神様が約束して下さった地に対する悪いうわさを煽って、民全体を不信仰へ傾いた時、彼等は衣を裂きながら約束の地の良き事を叫び、主が共におられるから恐れてはならない事を叫んだ。
結果的には、民はそんなヨシュア達を殺そうと言い出し、そして、まさに殺されそうになったその時、主の栄光が現れ、彼らは打たれずに守られたが、民を扇動した10人は打たれ、扇動されて不信仰に陥った民は、四十年の間に荒野で死に絶えた。(民数記15章)

主の御言葉に反する不信仰な言葉や、人間由来の言葉が唇から出てきそうな時は、黙っているべきだが、語るべき真理の言葉を語らないとしたら、その真理は逆に自分自身を焼き尽くす火となってしまうのだ。
『わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。わたしは黙して物言わず、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。』(詩篇39:1-4)

不真実がはびこる時は、真理を語るべきであり、正しくない事がはびこる時は、正しい事を語るべきであり、人間語がはびこる時は、御言葉は語るべきである。
もし語った真実な言葉を、相手が拒否するとしたなら、彼を扱って下さるのは主ご自身である。
たとえ、不信仰な相手が六十万であろうとも、神は真理を曲げない二人のほうを守り、不信仰な六十万のほうを滅ぼされるのだ。

『七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。』(ヨシュア記6:15)
七は、完全数である。
御言葉に従順するべき日数を、従順によって満たした時、霊の世界では、物事が動く準備が整えられたのである。
その時が満ちるまでの間、見た目がいかに変わりが無いように見えたとしても、御声に聞き従い続けるなら、見えない世界では、確実に物事が進行しているという事を忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:主の栄光と賛美と御言葉で占拠せよ(ヨシュア記6:1-7):右クリックで保存

『さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。』(ヨシュア記6:1-2)

エリコは彼らに対し、固く城門を閉ざしているが、主は、そこを既に彼らの手に渡した、と言われる。
この時点、現実には、城壁は相変わらずそびえ立ち、その中ではエリコの王や大勇士達がイスラエルに徹底抗戦しようと、待ち構えている。
しかし、ヨシュアが御言葉の剣の前にひれ伏し、聞き従う姿勢を取った時、真理の面において、既にエリコは彼らのものとなっているのだ。
それを現実へと引き出すためには、主から伝授される攻略方法を、そのとおり信じて実践するだけなのだ。

主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行く。
それはちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行って、現金を下ろす「行動」に出る事によって、お金が実際に引き下ろされて、手元に入るのと同じように、御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)
しかし、40年前の不従順な世代のように、真実の面で既に得ている事を信じず、実践しないなら、それは他人のものとなってしまい、滅んでしまうのだ。

さて、主の軍の将から伝授されたエリコ攻略方法は、世の将軍や知者が見るには、あまりにナンセンスな方法だった。
『あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。』(ヨシュア記6:3-5)

この情景を想像するなら、かなり奇妙な光景である。
60万の大軍勢が、城の周囲を黙々と一周する事を六日間行い、七日目は七回周り、祭司は雄羊の角笛を吹く。そうするなら、城壁は崩れる、というのだ。
人は何かと、具体的な手段を主に求めたがる。この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置して、何時に戦いを仕掛けなさい、といった、手段の指示なら、人は従いやすいだろう。
しかし、主が示される霊的戦いの手段は、人の目に愚かに見える事が多いものだ。

霊における戦いは、剣や馬などの「血肉の力」によるのではなく、「小羊キリストの栄光」と「賛美」、「御言葉」と「神の約束」で、その場を占領するものだ。
祭司たちは「雄羊の」角笛を吹き鳴らすように命じられた。
雄羊はキリストを意味し、角は栄光をあらわす。すなわち祭司たちは、キリストの栄光を吹き鳴らし、キリストを誉めたたえ賛美するのである。
そして、彼らが担ぐ契約の箱に入っているのは「御言葉」であり、「神の約束」がいっぱい詰まったものである。

現代の私達の戦いも、自分の血肉の力によるのではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者に対するものであり(エペソ6:12)、それは「小羊キリストの栄光」と、「賛美」と、「御言葉」と、「神の約束」によってその場を占領するものである。
それをするなら、その場所を占拠している暗闇の力は、足場を失って出ていき、その場の霊的支配権は暗闇から光へと移り、そうなったら、現実世界もどんどん変わっていくのである。

ヨルダン川を渡る時、人々は、祭司が担ぐ契約の箱の後ろ二千キュビトの距離をあけなければならなかったが、今回は、雄羊の角笛を吹き鳴らす祭司も、戦士たちも、契約の箱の「前」を進み行くよう命じられた。
私達は、信仰にあって歩む時は、御言葉の後ろを正しい距離感をもって、歩調を合わせて歩むものだが、霊的戦いを仕掛ける時、すなわち、積極的に世に出ていき御言葉を伝える時は、私達が、御言葉と主の約束を担いで「前」を進み行き、小羊キリストの栄光と賛美を振り撒いて行くものである。
なぜなら、主は御言葉を人に委ねられ、宣教の愚かさによって、福音が世界に伝えられて行くよう委ねられたからだ。(1コリント1:21)
『宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。』(ローマ10:14-15)

私達も日々、滅ぼすべきエリコがあり、崩さなければならない城壁が、打ち破らねばならない城門がある。
それらに対する戦いは、剣や弓など人間的な力によるものではない。主の約束を信じ、御言葉を担ぎ、小羊キリストの栄光を讃えて行くものである。
それも、一日や二日すれば良いというものではなく、完全数の七が満ちるまで、である。
いかに難攻不落と見える城壁でも、主の約束を信じつつ、御言葉を掲げて歩むなら、それらは、やがて崩れ落ちるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣が立った時(ヨシュア記5:13-15):右クリックで保存

エリコの城壁は、ヨシュア達を前にそびえ立ち、城門は、彼らに対して固く閉ざされていた。
荒野にそびえ立つこの城壁は、今まで見たことも無いような、強大なものである。
普通に攻め込むとしたら、多くの犠牲が出るだろう。
ヨシュアはこの堅固な城塞都市を見上げて、どうすれば良いか、思い巡らしていたかもしれない。

『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。』(ヨシュア記5:13-14a)
巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなって、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、自分の損得の秤にかけてしまう事がある。
しかし主は、人の自分中心な等級付けに対しては「いや」と応え、ご自分の聖なる立場をお示しになる。

ヨシュアが相対していた相手が、実は主であると分かった時、彼は実に正しい態度を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。』(ヨシュア記5:14a-15)

彼はまず地にひれ伏して拝した。
主と対峙していたのだと気づいた時、御言葉がこう言っていると分かった時に、最も先にすべきは、ひれ伏して自分を低くする事である。
彼は続いて「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明確にし、そして「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ聞く立場、命じられる立場である事を告白したが、これこそ、主を前にした時、御言葉の剣を前にした時に取るべき正しい態度である。

すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達も、世を渡り歩いて来ると、それまでの経験や思い込み、世の価値観というほこりを、歩むその足に付着させ、世の欲やしがらみといった汚れが、どうしても付着してしまう。
そのような”履物”は脱ぎ捨て去り、同時に、主さえ自分の損得勘定で計算してしまう自分中心の考え方を捨て、主の御言葉に服従する心構えで、御前に出る時、主は、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を教えてくださるのである。

御言葉が目の前に立つ時、私達は試される。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)
ヨシュアは主の軍の将に「あなたはわれわれにつくのか、それとも敵につくのか」と問うたが、御言葉が私達に示される時、私達の側こそ「あなたは御言葉につくのか、それとも御言葉でないものにつくのか」と迫られるのだ。

主の軍の将から授けられる御言葉は、およそ世の知者には、あまりにナンセンスな内容であり、それを聞かされた時、それでも御言葉に頼るか、それとも、自分の経験や思い込みに頼るかが、試される。
最終的に、ヨシュアは、御言葉の通りに忠実に実行して、大勝利を収めたが、もし、御言葉に従うのではなく、自分の思い込みや経験に、あるいは、手放したくない欲望や不義な事に従うなら、御言葉の剣は逆に自身を滅ぼす剣となってしまう。

私達も、欲望に従って御言葉を乗り越えて行こうとする時、御言葉は、抜身の剣となって立ちはだかる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主は「行ってはならない」と御言葉で示されたのに、それでも不義の報酬を愛た彼は、ろばをけしかけて行き、御使いが抜き身の剣を持って、彼を殺そうと待ち構えた。(民数記22章)
また、ダビデが王国の兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と制止したにもかかわらず、それでも強引に数えた所、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べ、7万人が疫病に倒れた。(1歴代21:16)
主の御言葉が立ちはだかっているにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数え、御言葉を乗り越えて行くと、主の剣は災いとなって差し伸べられてしまうのだ。

バラムは、ろばによっていのち拾いをしたにもかかわらず、それでも不義の報酬を愛し、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、不品行を行なわせた結果、kれは剣で倒された。(ヨシュア13:22)
それに対し、ダビデは、すぐに悔い改めたため、御使いが剣を持って立ったその場所は、後に神殿となった。

皆さんは御言葉を前に、ヨシュアのように初めから御言葉に従うだろうか。
それともダビデのように一度逆らって悔い改めるだろうか。
それともバラムのように、御言葉の剣が立っても敢えてそれを乗り越え、自ら剣に倒されに行くだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:約束の地における新しい歩み(ヨシュア記5:10-12):右クリックで保存

『イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。』(ヨシュア記5:10-12)

今までのイスラエルの歩みをおさらいすると、彼らは奴隷の国・エジプトから脱出した後、荒野でマナと岩からの水による主からの100%の養いを受け、そしていよいよヨルダン川を渡って、約束の地へと入り、割礼を受けた。
そしてその三日後、過越祭を祝い、過ぎ越しの食事を食べた。
その時以降、それまで四十年間続いたマナが降るのが止み、彼らはその翌日から、その土地の産物を食べるようになった。

この、彼らが通った一連の経験は、私達・キリスト者が救われた時の経験に、よく似ている。
私達も、かつては世(エジプト)において、サタン(パロ)の奴隷状態となっており、罪の結果である呪いと重労働に悩んでいた。
しかし、憐れみ豊かな主は私達を世から呼び出し、罪と死の奴隷状態から脱出させて下さり、そして主の直接的な養いを受け、水のバプテスマ(ヨルダン川)を経た後、神の支配領域(約束の地)へと入った。
新しく神の支配へと入った人に、真っ先に必要な事は、今までの自分中心の生き方は切り捨て(割礼)、死に明け渡し、信仰によって主に頼って生きる歩みを始めるのである。
そして、水のバプテスマにあずかった人には、聖餐(過越祭)にあずかる資格が与えられる。

過越祭は、傷の無い小羊を、自分達の身代わりとしてほふり、その血を家のかもいと門柱に塗り、その血潮のしるしの内側で、身代わりとしてほふられた小羊の肉を共に食し、滅びをまぬがれ救われた事の喜びを、共に味わうものであるが、この小羊は、全世界の人々の身代わりとなってほふられた、まことの小羊である主キリストを表している。
聖餐式でいただくパンは、十字架上で裂かれた主の御体を覚え、それをいただく事によって主のいのちへと接ぎ合わされ一つとなる恵みを記念するものであり、聖餐式でいただく盃は、十字架上で流された主の血潮を覚え、それをいただく事によって死と呪いが過ぎ去る印が与えられた事を記念するものである。
このように、過越祭は、聖餐式の予表でもある。

イスラエルの民が過越祭を祝ったその時点から、マナが降るのが止み、その土地の産物を収穫して食べるという、新しい歩みが始まった。
今まで食料については100%、自分の手で労する事なく主からいただいていたが、この時点から自分で種をまき、自分で刈り入れをしなければならなくなった。
しかしその代わり、荒野では味わう事のできなかったバラエティ豊かな色々な産物を、それも労する事なく、摂ることができるようになった。
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:10-15)

しかし、両手放しでその素晴らしい特典が得られる訳ではない。記されている通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行わなければならないのだ。
御言葉を忠実に守り行い続けるなら、この素晴らしく良き地で末永く、豊かな生活を送る事ができる。
しかし、もし守り行わないなら、神を知らない人々よりも悲惨な事になってしまう。
『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)

私達信仰者も、同じである。
御言葉によく聞き、守り行うキリスト者は、あらゆる面で守られ、祝福される。
しかし、御言葉を軽んじ、聞き従わない中途半端なキリスト者は、神からもサタンからも責められる状態であるため、あらゆる面で呪われ、世の人よりも悲惨な事になってしまうのだ。
主の御声によく聞き従い、主の御言葉を守り行う事によって、あらゆる面で祝福に入る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地での必須事項 - 割礼(ヨシュア記5:1-9):右クリックで保存

いよいよ、イスラエル全軍団はヨルダン川を渡り、モーセが入る事の許されていなかった、あの、約束の地に入った。
その地に足を踏み入れて、真っ先に主が命じられた事は、割礼であった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。』(ヨシュア記5:2-3)

神の民であるならば、割礼は避けて通れない。
なぜなら以下の契約が、主とアブラハムの子孫との間で締結されているからである。
『神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。・・・
こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。』(創世記17:9-14)

契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めてその契約は有効化されるが、神がアブラハムと契約を交わした際に、その契約に同意したというサインに相当するものが「割礼」である。
だから、人々の側が割礼のしるしを身に受ける事無しに、祝福の約束は、有効化されないのだ。

割礼とは、男性器の包皮を切り取るものである。
男は自力で支配し、自立して治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事、それが、神の民・イスラエルのしるし。それは非常に象徴的である。

イスラエル、その名は、イスラエル十二部族の父祖・ヤコブが、神の使いと格闘し、腰の近くのもものつがいを打たれた後に与えられた「神と戦う」「神に支配される」という意味の、ヤコブに新しく与えられた名である。
つまり、自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる事、それが、神の民「イスラエル」のアイデンティティであり、また、私達キリスト者のアイデンティティでもある。

『ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記5:7-9)

もし、ヨシュアの軍団がこの時、割礼を受けていなかったら、どうなっていたか。
おそらく彼らは、敵の前にも神の前にも立つ事はできず、滅ぼされていただろう。なにしろ、あのモーセでさえ、割礼抜きに主から命じられた働きに入ろうとしたなら、殺されそうになった程なのだ。(出エジプト記4:24-31)
自分の内にそびえ立つ”男”を、滅ぼし尽くす事なしに、肉を切り捨てる覚悟と痛みを経る事なしに、主の働きに入る事は、出来ないのだ。

私達キリスト者も、信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも、私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣によって受ける「心」の割礼である。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)

ここの「心」とはカルディア、すなわち思い、意志、感覚である。
肉の割礼は、感覚の敏感な所を切り取るために、相当の覚悟と痛みを伴うが、同じように私達も、自分自身を御言葉の剣の前に差し出し、自分の肉的な思いや感情を切り取られる時には、覚悟と痛みを伴う。

しかし、それを通り越した先には、エルシャダイ(全能の神)の神が、いつも共におり、いつも守って下さる祝福が待っている。
アブラムは割礼を受ける時、アブラハム(多くの者の父)という名に変えられ、いのちを産まない者が産む者となり、多くの国民の父とされる約束が与えられ、また、サライは、サラ(王女)という新しい名に変えられ、多くの人々、多くの王達の母となり、素晴らしく良き土地を永久の所有として与えられる約束が与えられた。(創世記17章)
それと同じ祝福を、キリストにあって心の割礼を受ける私達にも、約束されているのである。

礼拝説教メッセージ音声:信仰の記念碑(ヨシュア記4:11-24):右クリックで保存

イスラエルの全員がヨルダン川を渡り終え、十二人の代表が記念の石を川底から取りに戻った後、主は、川床に留まっている祭司に上がって来るよう、ヨシュアに指示した。
祭司たちが上がって来ると、川の水は元どおりに、以前のように川岸いっぱいにまでなった。(ヨシュア記4:16-18)

普段は、川岸まで水があふれているはずの川が一時的に枯れ、人が渡れるようになる。
それを、自然現象の一つとして片付ける人もいるが、契約の箱をかつぐ祭司たちが足を踏み入れた途端、水が引き、全イスラエルが渡り終え、十二人の代表も川底まで石を取って戻り、それら全てを終えた後、祭司たちが陸地に上がった途端に、水が元通りに戻るという、この出来事を、単に「起こりうる自然現象」として片付けようとするなら、あまりにも、御業を為して下さった主に対して、失礼というものだ。

主は確かに、自然現象を用いられる。それはそうだ。
なにしろ、川を造られたのも、川が流れる場所を自由に変えるのも、主であるし、それら一切合切を含む全地を創られたのも、主だからだ。
ただ、聖書が明示している事は、主は確かに生きておられ、主に寄り頼む人には、必ず応えて下さり、そして、彼らが主にあって体験する事は、尽く「良い事」であり、自然現象や常識を遥かに超えた、素晴らしい事である。

『民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に言った』(ヨシュア記4:19-21)
このギルガルは、イスラエル人がヨルダン渡河後に最初に宿営した地で、カナン征服の軍事的根拠地となった。
また、後の時代には、サウル王の軍団が戦いの時に集結する場所となった。
このギルガルの地は、主がヨルダンの水を枯らし、確かにこの地を与えて下さったという、しるしの場所であり、主は必ず守り導いて下さる、という、信仰の拠り所となった場所なのだ。

聖書には、彼らが建てたような”信仰の記念碑”が多く出てくる。
アブラハムは、主があらわれて下さった場所に祭壇を建てたし、ヤコブも、夢の中で主があらわれて下さった場所の枕石を、記念に建てた。
それらは、その人自身にとって信仰のマイルストーンであり、また、子々孫々に対する信仰のあかしでもある。

『「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。
このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。』(ヨシュア記4:21-24)

主が為して下さった素晴らしい御業を、イスラエルの民が忘れないために、十二の記念の石をわざわざ川床へ取って来て、信仰の記念碑を建てるように命じたように、私達も、主が為して下さった御業の数々を忘れないように、記念のしるしを建てて行くべきである。
例えば、主が与えて下さった御言葉の聖書箇所に、その時の年月日と、その時の状況を簡単に書き記すなら、それも立派な信仰の記念となる。
聖書に直接書き込む事を好まない人なら、別途、ノートや日記帳を用意して、主から与えられた御言葉と、その時に主から示された事、勇気づけられた事、必要が満たされたその内容、あるいは戒められた内容などを記すなら、それは、後々に素晴らしい宝となる。
あるいは、その時その時の祈り課題を記し、それが叶えられた次第や、応えられた内容などを記すなら、それは、主との交換日記となる。

それらを後に読み返した時、気付くだろう。主は確かに自分の人生を導き、いつでも共に歩んで下さった事を。
そしてそれは、子々孫々や友人知人に対し、あるいは、自分が経験したのと同じ艱難や誘惑の只中にいる人に対して、素晴らしいあかしが出来るものとなる。

皆さんの人生には、どんな信仰の記念碑が建っているだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:背負うべき十二の石(ヨシュア記4:1-10):右クリックで保存

主が流れを止めてくださったヨルダン川を全イスラエルが渡り終えた時、主は言われた。
『民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』。』(ヨシュア記4:2)

この十二人は、ひと度渡り終えた川の中に再び戻って、石を取って来なければならない。
いつ川が激流に戻るか分からないような中、戻って行く十二人も、ずっとそのまま川の中に留まっていた祭司たちも、多少の恐れはあったかもしれないが、それでも、そのようにする必要があった。
『これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。』(ヨシュア記4:6-7)
彼らがわざわざ川床へ戻って、石を持って来なくてはならない理由は、それを子々孫々への「しるし」とするためであり、「水が、主の契約の箱の前で、せきとめられた」事を記念とするためである。

「契約の箱」、それは英語の聖書では「アーク」であり、原文では、ノアの「箱舟」と同じ単語が用いられている。
だからここは、「水が、主の箱舟の前で、せきとめられた」とも訳す事が出来る。
実際、ノアの時代も、全く同じように、死の大水は箱舟の前には無力で、箱舟の中にいた人々は、水に流される事なくいのちを長らえた。

主は、滅びの川から救い出して下さる。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。』(詩篇18:2-6)
そのように主は、死の水、滅びの水がいかに押し迫ろうとも、主に信頼する人を、いつの時代でも、必ず救い出してこられた。

『イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。』(ヨシュア記4:8-10)

彼らが運んできた石は、担ぐほどの大きなもので、記念として残るものとなった。
現在の私達も、自らを死へと明け渡し、死のただ中から復活のしるしを”担いで”来なくてはならない。
私達が担いで行くべき復活のしるしとは、「十字架」である。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ9:23-24)

自らのしたい事を、死へと明け渡し、キリストに服従させる日々は、死の連続かもしれない。
しかし、日々、そのようにして自分の十字架を負って、主に明け渡して行くなら、必ず復活がある。
そして日々、世の何者にもまさる平安と守りと必要の満たしがあり、やがては、永遠にしぼむ事の無い栄光を受けるのだ。

パウロも、日々自分を死に明け渡し、多くのいのち達を、死からいのちへと引き戻し、信仰の記念碑を日々積み上げていった。
『兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。・・・
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
』(1コリント15:31, 52-55)

私達も、イスラエルの12人の代表のように、パウロのように、日々背負っていくべき十字架をしっかり背負うべきだ。
その積み重ねは、信仰のしるしとなって、後に続く子々孫々へと語り継がれていくのだから。

礼拝説教メッセージ音声:主が敢えて不可能と思える事を指示する時(ヨシュア記3:14-17):右クリックで保存

『こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、―― 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。』(ヨシュア記3:14-16)

大麦の刈り入れ時期(3−4月)のヨルダン川は、ヘルモン山からの雪解け水のために、年中で最も水位が高い時期である。
水は冷たく川岸まで満ちており、流れは早い。

人は思う。
なぜよりによって、一年で最も困難な時期に?と。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側でも、既に、そこそこの良い土地を得たのに、なぜ、危険を冒してまで、向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?

主は、敢えて、最も困難な、最悪な状況へと導き、そして、人の目には不可能だと思えるような事を指示される時がある。
その時、信仰をもってその指示に従うならば、主は必ず御業を働かせ、人の手では100%成し得ない、大いなる事を為してくださる。
ギデオンの時は、13万5千人に対してわずか300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程の敵に対し、わずか信仰者の二人が立ち向かい、イスラエル全体を勝利へと導いた。(1サム13-14章)

祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えている時だった。
しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算する。
しかし、そのような「はかりごと」をとりこにして御言葉に服従させ、信じて進むならば、川は堰き止められ、障害の山は海に移るのである。

冷たい水が目の前を流れているヨルダン川へと、一歩ずつ、奥深くへと足を踏み入れて行く祭司は、恐れたかもしれない。
しかし、彼らが担いでいるのは、主の契約の箱である。彼らは、主の御言葉そのものを担いでいるのであり、人の必要を全て満たして下さる主の約束を担いでいるのであり、死からいのちへと贖いだして下さる主の御約束を担いでいるのだ。絶対に、安全なのである。
私達も、主の御言葉をかつぎ、主の約束を信頼して進み行くなら、その行く先には、祝福しか待っていないなのだ。

神様が指示をされた時、私達には二つに一つの道以外には無い。
それに従順して、祝福を勝ち取るか、それとも、従わないで呪いを受けるか。

主が「行け」と言うなら、行くべきである。それを嫌がった出エジプトの民は、荒野で40年彷徨った挙句、屍と化して、荒野に置いて行かれた。
また、主が「留まれ」と言うなら、留まるべきである。
『「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。』(イザヤ30:15-17)
また、滅ぼしつくせと言われたものは、滅ぼしつくさなくてはならない。もしそれをしないなら、後に学ぶアカンのように、その人自身が聖絶のものとして、持ち物も家族もろとも滅ぼし尽くされてしまう。

『だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:35-39)

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