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メッセージ - ヨシュア記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:呪いの宣言しか無い律法のつとめ(ヨシュア記8:33-35):右クリックで保存

『こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。』(ヨシュア記8:33)

イスラエルの民はゲリジム山とエバル山とで半分に分かれ、一方は祝福を、一方は呪いを宣言した。
その具体的に宣言すべき内容は、申命記27章に記されている。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)

その宣言の内容には十戒の内容もあるし、その他の律法の細則的な内容もある。
しかし興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、宣言する内容には「何々の者は呪われる」という「呪いの宣言」ばかりで、祝福の宣言が一つも無い。
この事は、律法の性質を非常によく表している。

律法は、365の「するな」と、248の「せよ」から成り立つ、613の戒律の集大成であり、これを守り行う人には祝福が、守り行わない人には呪いがあるが、これを全てを守る事のできる人間は、誰一人としていない。
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:10-11)
御言葉が刻まれる石を建てるのは、「呪い」を宣言するエバル山であるが、結局、律法は人に「罪あり」と示すのみで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。(同22節)
それ故、律法という石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)

キリストは、呪いの中に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、キリストを信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。
なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。

この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのだ。

礼拝説教メッセージ音声:エバル山での礼拝(ヨシュア記8:30-32):右クリックで保存

『そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。』(ヨシュア記8:30-32)

エバル山に祭壇を築いて礼拝を捧げる事、これは、イスラエルがまだヨルダン川を渡っておらず、エバル山もどういう山なのかも分からぬ時に、主がモーセを通して予め命じられていた事だった。
『あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。
また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:4-8)

主の御言葉が書き記されるべき石、いけにえがその上で捧げられるべき石は、人が鉄器を当ててはならない。当てると、人間の好き勝手が入り込むからだ。
私達も、礼拝においては、人の好き勝手という”鉄器”の当てられていない石を用いなければならない。
すなわち、人間的な何かを一切排除した、ただ、救いの岩なるキリストだけを、純粋に礼拝するべきだ。

彼らが信仰によってヨルダン川を渡り、エリコとアイを攻め落とし、いよいよエバル山に到着した時、彼らは、あらかじめ命じられていた通り、鉄器を当てない自然石の祭壇を建て、その上で全焼のいけにえを捧げ、また、和解のいけにえを捧げて共に食べ、そして、律法の言葉を、その石に書き記した。
彼らはそこに至るまで、恐れもあったし、不安もあったし、間違いを犯して主の守りが一時期離れた事もあった。それによる若干の犠牲もあった。
そして、自分達の中からその原因を取り除いて、主の守りが戻って来た事も、経験した。
紆余曲折はあっても、ここまで無事に導いて下さり、以前から命じられていた礼拝が、この定められた場所で捧げられた事を、彼らは喜んだ事だろう。

さて、彼らがそれらの事を実行したその山は、元々、イスラエルにとって重要な場所である。
この山は、どういう所か。
『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く。
その場所は、何百年か前、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで、主が彼の子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主に礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
イスラエルがヨルダン川を、まだ渡っていなかった時、主は、やみくもにゲリジム山を指定して礼拝せよと言われたのではない。
実は主は、何百年も前にアブラハムと交わした約束を、誠実に果たしたという事を思い起こさせるために、そう命じられたのである。

主が何百年来の約束を果たされた時、その場所で、主は、祝福と呪いの御言葉を宣言しなさいと命じられた。
御言葉を守り行ったなら、主が与えると約束された祝福を確かに受けるが、それを守り行わないなら、祝福ではなく呪いを受け、祝福の約束は成就しない。
もし、「主は祝福を与えると言っておきながら、全然与えないじゃないか」という人がいるなら、その人は、自分が主の御言葉を守り行っているかを、点検すべきである。

御言葉を守り行って生きるなら、祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々思い起こしつつ、恐れとまごころをもって、主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの槍が向けられる時(ヨシュア記8:18-29):右クリックで保存

『その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。そこでヨシュアが手にしていたなげやりを、アイの方にさし伸べると、伏兵はたちまちその場所から立ち上がり、ヨシュアが手をのべると同時に、走って町に入り、それを取って、ただちに町に火をかけた。
それでアイの人々が、うしろをふり返って見ると、町の焼ける煙が天に立ちのぼっていたので、こちらへもあちらへも逃げるすべがなかった。荒野へ逃げていった民も身をかえして、追ってきた者に迫った。』(ヨシュア記8:18-20)

主の敵が、いかに図に乗って勢いづこうとも、主の合図と共にヨシュアの槍が向けられ、神の民が反撃に転ずる時は、必ず来る。
その時、敵の本拠地は火にかけられ、その煙は天にまで立ち上り、敵は居場所を失って、滅ぼし尽くされるのだ。

この世の終わりの時にも、同じ事が起こる事が、黙示録で記されている。
その時、反逆と不品行の町・大バビロンと言われる大淫婦が、神に裁かれる事が記されている。
『天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。・・・また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。』(黙示録18:20-24)
彼女は、聖徒の血を流す事に酔いしれ、神をあざ笑うかのように、ほしいままに振る舞ったが、アイの町に裁きの時が来たように、必ず彼女にも裁きの時が来る。(黙示録17-18章)
アイの町の焼かれる煙が立ち上ったように、彼女が焼かれる煙は、永遠に立ち上り、聖徒たちはそれを見て、正しく裁いて下さった主を賛美するのである。(黙示録19:3)

『そしてアイの王を生けどりにして、ヨシュアのもとへ連れてきた。・・・ヨシュアはまた、アイの王を夕方まで木に掛けてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から取りおろし、町の門の入口に投げすて、その上に石の大塚を積み上げさせたが、それは今日まで残っている。』(ヨシュア記8:23,29)
終わりの時も、同じように、地上の王達とその軍勢、および、その王達を仕切っていた獣は、生け捕りにされ、行きたままで、火の池に投げ込まれる。
そして残りの者達は、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア:ヨシュアと同名)の御口から出る御言葉の剣で、切り殺されるのだ。
『獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。』(黙示録19:19-21)

『ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。』(ヨシュア記8:26)
この投げ槍は、ヨシュアの軍には勝利のしるしであり、敵に対しては滅びのしるしである。彼はそれを、敵を圧倒するまで、引っ込めなかった。
ヨシュアは40年前、実戦部隊としてアマレクと戦った時があった。
その時、イスラエルを背後で執り成し祈ったモーセは、槍ではなく杖を取って、手を上げてヨシュア達を祝福し、アマレクを呪ったが、モーセの手が疲れて手が降りてしまうと、戦闘はヨシュア達に不利となり、モーセが手を上げると、戦闘は有利になった。
そこで、アロンとフルが両側からモーセの手を支え、こうして、ヨシュア達が敵を滅ぼし尽くすまで、その手はしっかりと立っていた。

敵が滅ぼし尽くされるまで、モーセが手を降ろさなかったように、ヨシュアが槍を引っ込めなかったように、私達も、執り成しの祈りの手を緩めてはならず、また、敵に対する攻撃の祈りも、引っ込めてはならない。
自身の家庭を、職場を、人生を蝕む暗闇の力が、徹底的に砕かれ、平定されるその時まで。

礼拝説教メッセージ音声:主のおびきよせ作戦(ヨシュア記8:10-17):右クリックで保存

『アイの王はこれを見て、すべての民と共に、急いで、早く起き、アラバに行く下り坂に進み出て、イスラエルと戦った。しかし、王は町のうしろに、すきをうかがう伏兵のおることを知らなかった。ヨシュアはイスラエルのすべての人々と共に、彼らに打ち破られたふりをして、荒野の方向へ逃げだしたので、その町の民はみな呼ばわり集まって彼らのあとを追い、ヨシュアのあとを追って町からおびき出され、アイにもベテルにも残っているものはひとりもなく、みな出てイスラエルのあとを追い、町を開け放して、イスラエルのあとを追った。』(ヨシュア記8:14-17)

主がともにおられ、主の守りがあるはずの、ヨシュアとその軍勢が、神を恐れぬ罪深い敵の前から逃げる。
それは、ヨシュア達にとっては、屈辱的な時かもしれないが、それは敵を徹底的に殲滅するために必要であり、また、わずかな期間である。
私達も時に、敢えて、敵の前から逃げるような屈辱的な所を通らされるかもしれない。
しかしそれは、滅ぼされるべき者達の罪が明らかとされ、彼らに為される処罰が当然の結果であると、誰の目にも明らかにされるためである。
『わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。』(2テサロニケ1:4-9)

主はよく「おびきよせ作戦」をされる。
敵をおびきよせている間は、敵はいい気になって、勢いづくが、最終的には、おびきよせた敵を根絶するために、敢えて、そのように泳がせているのである。
主がなされたおびきよせ作戦の中で有名なのは、主が紅海でエジプト軍を滅ぼした場面だろう。

『主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。』(出エジプト記14:1-2)
主はイスラエルに、来た道を引き返して海のかたわらに宿営せよと命じられ、あたかも、道に迷っているかのような行動を取るよう指示を与えられた。
あちらこちらを迷走し、片側は海という逃げられない所で宿営している状況である。
それは、襲う者からすれば絶好のチャンスであり、自分達からすれば絶体絶命な立場に身を置きに行く行動だが、主はその先を見越しておられ、わざとそう命じられたのだ。

『パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。』(出エジプト記14:3)
主はこの行動によって、パロがどう思うかも、どのような企みを持って指示をするのかも含めて、全てをモーセにあらかじめ伝えた。
パロの心をかたくなにするのも主がなさる事であり、そうする理由は、イスラエルに主がおられ、主は力強く偉大である事を、エジプト人だけでなく全世界に示すためである。

主の導きに沿って歩む私達も、人の目から見たら、愚か極まりない状況、危険極まりない状況へと、あえて主が導くことがある。
それは、私達の側に力強い主がおられ、私達を愛し、確かに守り、導いておられる事を世が知るためであり、ゆくゆくは主の民である私達に安息を与え、思いもよらなかった程の富や名誉を与えるためである。

今のこの世は、天的な、大々的なおびきよせ作戦の真っ最中とも言える。(ダニエル9:24-27、マタイ13:24-30、黙示録16章)
定められた時が来た時、主に敵対し、好き放題に聖徒を虐げていた者達は、一気に裁かれ、そして、忍耐して主を拠り所として歩んできた人達に、主は、豊かに報いて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:戻って来た勝利の約束(ヨシュア記8:1-9):右クリックで保存

『主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。』(ヨシュア記8:1)
主から「恐れてはならない、おののいてはならない。」の言葉が、久しぶりに返ってきた。
自分達の中に、滅ぼし尽くすべきものを隠し持っている間は、主の側からの御声は無いし、強くあれという励ましも、主が共におられるというセキュリティも、無い。
主と私達との間に隔ての壁があるとしたなら、それは、私達自身が握りしめている罪である。
しかし、それらを自分達の中から除き去るなら、主の励ましとセキュリティは帰って来て、どんな敵でも、私達の手中に渡されるのだ。

『あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。』(ヨシュア記8:2)
この戦いは、エリコの戦いの時とは色々と違う。
主の指示は「町のうしろに伏兵を置きなさい」と、現実的であり、また、分捕り物と家畜は、戦利品にする事が出来る。

エリコの戦いは、ヨルダン川を渡って最初の戦闘、約束の地に入っての初仕事である。
そしてその戦いは、神の契約の箱を担いで七度周るという、一切の人間力なしに、ただ、神の命令へ従順した事によって、勝利した。
つまり、言ってみればエリコはその全てが主への初物の特別なものであり、民はその初物の中から何一つ取ってはならなかったのだ。
私達も、新しい仕事に入る時、新しい生活に入る時、その初物を主に捧げるなら、主はその手のわざを祝福して下さる。(箴言3:9)

『ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。ヨシュアは彼らに命じて言った、「あなたがたは町に向かって、町のうしろに伏せていなければならない。町を遠く離れないで、みな備えをしていなければならない。』(ヨシュア記8:3-4)
ヨシュアが主から受けた指示は、町のうしろに伏兵を置く、という戦術だけで、それ以外の細やかな方法は、指示されなかった。
後はヨシュアの自由裁量に任されていたからだ。

私達も、日常生活を送る上で、何から何までいちいち主の意向を伺うわけではない。
私達に必要な事は、まず、私達の内から取り除くべき罪や汚れを除き去り、次に、主のおしえに聞き従う事である。それをするなら、あとの事は私達の自由裁量に任されていて、何をしても栄えるのだ。
詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』(詩篇1:1-3)

この言葉は、主がヨシュアに下さった命令と約束と、ほぼ同じである。
『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。』(ヨシュア記1:8-9)

私達も、悪者の考え方を捨て去り、主の教えを愛し、それを喜びとして、昼も夜も御言葉を思い巡らすなら、何をしても栄えるのだ。
しかしアカンのような悪者は、正しい人の集いに立つことは出来ず、そこから除外され、風に吹き飛ばされるもみがらのように、主の息吹によって弾かれてしまうのだ。(詩篇1:4-6)

礼拝説教メッセージ音声:アコルの谷(ヨシュア記7:22-26):右クリックで保存

『そこでヨシュアは使者たちをつかわした。使者たちが天幕に走っていって見ると、それは彼の天幕に隠してあって、銀もその下にあった。彼らはそれを天幕の中から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々の所に携えてきたので、それを主の前に置いた。』(ヨシュア記7:22-23)
主はこの時、くじによって聖絶のものを示した。
ヨシュアはイスラエルがアイに負けた時、明確におかしいと感じ、すぐに悔い改めの集会を開いて、御心を求めたために、主は彼に、イスラエルの中に聖絶のものがある事を示し、それを「くじ」という手段で明らかにするよう示し、そして、全てが明らかにされたならどのようにすべきかも示して下さった。

霊的に何かがおかしいと感じた時は、すぐ悔い改め、何が物事をおかしくさせているのかを、主に祈り求めるべきである。主は隠れた事を明らかにする方法を示して下さり、それが示されたなら、すぐにその元を取り除くべきだ。
それは痛みを伴うかもしれないが、それをしないと、いつまでも負けパターンから脱却できず、やがては、取り返しのつかない事になってしまう。

『ヨシュアはすべてのイスラエルびとと共に、ゼラの子アカンを捕え、かの銀と外套と金の延べ棒、および彼のむすこ、娘、牛、ろば、羊、天幕など、彼の持ち物をことごとく取って、アコルの谷へ引いていった。そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。』(ヨシュア記7:24-25)
手に入れてはならない滅ぼし尽くすべき物を抱え持ってしまうなら、抱え持った本人だけでなく、その息子や娘たち、家畜にまでも、滅びの災いが及んでしまうのだ。

『そしてアカンの上に石塚を大きく積み上げたが、それは今日まで残っている。そして主は激しい怒りをやめられたが、このことによって、その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている。』(ヨシュア記7:26)
アコルは、「わざわいをもたらす」という意味の語源「アカル」の派生語である。
彼はイスラエル全体にわざわいをもたらしたため、家族もろとも、わざわいがもたらされた。
この石くれの山は後々、イスラエルにとって、しるしとなっただろう。手に入れてはならないものを隠し持つと、アカンとその家族のようになるぞ、と。
そしてこのアコルの谷は、後には、悔い改めた人が幸いを得る場所となった。(ホセア2:14-15、イザヤ65:8-12)

私達の内からは、聖絶すべきものを取り除き、悔い改めるなら、幸いになる。
しかし、聖絶すべきものを捨てずに、大切に抱え込むなら、やがて災にが追いついてしまい、その時になってしまったら、もう遅いのだ。
『わたしはヤコブから子孫をいだし、ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、わがしもべらはそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場となり、アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。
しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたを/つるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。』(イザヤ65:9-12)

皆さんの周りに、滅ぼし尽くすべきものをいつまでも抱え続けてしまったが故に、滅ぼされ、石くれの山となってしまった者はいないだろうか。
私達は日々、自分の中の”アコルの谷”を意識し、いつでも悔い改めて主に立ち返る事を忘れずにいたいものである。

礼拝説教メッセージ音声:手に入れてはならぬ物をほしがる事の災い(ヨシュア記7:19-21):右クリックで保存

『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。』(ヨシュア記7:19)

罪を示すくじで示された者は、所有物全部と一緒に火で焼かれなければならない、と、主から命じられていた。(ヨシュア記7:15)
ヨシュアは、くじで取り分けられた彼に「わが子よ」と声をかけ、せめて最後は神と人との前に正しく告白する事によって、主に栄光を帰し、主を「さんび(トダー:感謝)」するようにさせた。
神と人との前で正しく告白する事。それは、主に栄光を帰し、賛美をささげ、感謝をささげる事なのだ。

『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、”ほしくなり(カゥマド)”、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20)
この「ほしくなる」の原語、カゥマドは、「むさぼり」とも訳せ、十戒で禁じられている事の一つである。
『あなたは隣人の家を”むさぼって(カゥマド)”はならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものを”むさぼって(カゥマド)”はならない。』(出エジプト記20:17)
この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節であり、エバが善悪を知る知識の実を”ほしがった(カゥマド)”ため、全人類は罪と死と滅びが招き入れられてしまったのだ。

アカンが自分の元に入れたのは、シヌアルの美しい外套と、銀と、金であった。
主の命令は、外套を含め全ての”物”は聖絶すべきものであり、しかし銀や金は、主に捧げる物として主の倉に入れなければならない、という事だった。(ヨシュア記6:18-19)
つまり彼は、聖絶すべき忌み嫌う物と、主に捧げる聖なる物とを、一緒に自分の天幕に掻き込んだのだ。

彼が持っていた外套の出処であるシヌアルは、どういうところか。
シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神とその民に敵対して来た所だ。
そこは最初の権力者・ニムロデが、バベルの塔を建てた所であり(創世記10:8-10)、後のバビロンであり、神の宮の器具が奪われ保管された場所である。(ダニエル1:2)

傲慢と罪悪の地シヌアルで作られた美しい外套、それは、神の民が着飾って良いものではない。
それは、アダムとエバが裸を覆ったいちじくの葉の延長であり、それでもって自分の裸や恥、弱さを到底覆えるものではない。そのようなものは、主の御前に滅ぼし尽くすべきものなのだ。
そして、彼が抱え込んだ銀と金は、主に納めるべきものであって、自分の手元に置いておくべきものではない。
これら二つを、同時に、自分の中に抱え込む事は、聖なる物と汚れた物を混在させる事であり、主に対して罪を犯すことである。

手に入れてはならないものを欲しがる(カゥマドする)事は、自分自身を滅ぼすだけでなく、自分の家族を、共同体を、国を、そして、人類全体を滅びへと導いてしまう元である。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また「貪欲(むさぼり)」を殺してしまいなさい。「貪欲(むさぼり)」は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
ここで、なぜむさぼりが偶像礼拝と言われているのか。
かつてイスラエルは、聖なる神の神殿の中に、異教の神々の偶像を入れて偶像礼拝の罪を犯したが、現代、私達こそが神の神殿であり、その私達の中に、主に忌み嫌われる汚れたものを入れ込む事は、偶像礼拝に他ならないからだ。
『子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。』(1ヨハネ5:21)

礼拝説教メッセージ音声:狭くなっていく罪の報いの当選範囲(ヨシュア記7:16-18):右クリックで保存

『こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、ユダのもろもろの氏族を進み出させたところ、ゼラびとの氏族が、くじに当った。ゼラびとの氏族を家族ごとに進み出させたところ、ザブデの家族が、くじに当った。ザブデの家族を男ひとりびとり進み出させたところ、アカンがくじに当った。アカンはユダの部族のうちの、ゼラの子、ザブデの子なるカルミの子である。』(ヨシュア記7:16-18)

罪を示すくじの当選範囲は、どんどんアカンに対して狭まっていき、ついには当選してしまった。
人はみな、等しく、神の御前に罪を犯し、いずれはその罪の刈り取りをしなくてはならない。
人は生きる中で罪を重ねて行き、その実を刈り取る当選日はどんどん近くなっていくが、その前に、主イエス・キリストが私達の罪の身代わりとなって死んで下さった事を信じ、この方を救い主として受け入れるなら、救われる。そして、罪の報いである永遠の死を免れる。
しかし、いつまでも罪の内に歩む事を離れず、悔い改めを先延ばしにして行くなら、やがて”当選”してしまい、その時、罪の支払う報酬を受け取らなくてはならない。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)

その”くじ”の当選が、早ければ早い人ほど、罪深い、というものではない。
悔い改めない者は、皆、同じように滅びるのだ。

『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。』(ルカ13:2-5)
異邦人の地ガリラヤは、エルサレムの住人よりも罪深い者とされていたが、どこに住んでいようと、どの国の人であろうと、悔い改めないなら、等しく滅びてしまうのだ。
イエス様は、これに続いて、次のたとえ話をしている。

『ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。』(ルカ13:6-9)

園丁は、実を結ばないいちじくのために、執り成した。あと一年猶予を下さい、肥料をやって様子をみてみましょう、それで実を結ぶかもしれません、と。
私達を執り成して弁護して下さるお方がある。聖霊である。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。』(ローマ8:26-27)
全ての人には、悔い改めるための猶予期間が与えられている。
今こうして生きている期間こそ、恵みの時、憐れみの時なのだ。

しかし、聖霊の執り成しを無視し、罪を犯してもいつまでも許されると思って、悔い改めにふさわしい実を結ばないとしたら、いつ切り倒されても止むをえない。
『だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。 』(ルカ3:8-9)
『人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。』(ヨハネ15:6)
悔い改めとは口先だけのものにあらず、実という実体を伴ったものなのだ。

滅ぼし尽くすべき聖絶のものを持っていたアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって狭められて来るのが、気が気でなかったろう。
しかしそれでも彼は、最後の最後まで名乗り出る事も手放すこともせず、いよいよくじが当たって、罪が暴かれてしまった。
多くの人は、罪の刈り取り、すなわち、滅びというくじの当選が回ってくるのを、何となく恐れてはいても、罪の飲み食いを止めないで生きている。
”当選”が来る前に、悔い改めて、救われるための手続きを取るべきである。
悔い改めの手続きとは、自分が罪人であり救われる必要がある事を認め、イエス・キリストを全ての事から救って下さる救い主である事を信じ、受け入れる事なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:立て、そして清めよ(ヨシュア記7:10-15):右クリックで保存

『主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。』(ヨシュア記7:10)
困難に当たった時は、主の御前にひれ伏し、悔い改め、導きを求める事は、キリスト者であるなら必須の事である。
しかし、御言葉から何も教わる事なしに、ただ、何時間も泣いたり叫んだりして、それですっきりして、また以前と全く変わらぬ行動をするとしたら、無益である。
主が私達に求めておられる事は、何十時間も悔い改め文句をぶつぶつと告白したりする事よりも、立って、為すべきことをきっちりと為し、取り除くべき悪を自分達の中から除き去るという、実際的な行動だ。

『イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。』(ヨシュア記7:11-12)

主の御前に聖絶すべきものを抱え込んでいるならば、決して敵の前に立つことは出来ず、いつまでも、堂々巡りの敗北と失敗をするものである。
皆さんは、「主が共におられる」という感覚があるだろうか。
どうしても敵に勝てない、主の祝福の御言葉からは程遠く感じる、主に祈り求めているのに中々答えが無い、そういった事は、ないだろうか。
そのような場合は、疑うべきである。
聖絶すべきものを、ずっと大層に抱え込んではいなかったか、と。

『立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。』(ヨシュア記7:13)
主は、再び、言われる。「立て」と。清めよ、と。
そして、除き去るべきものを、除き去れ、と。

『それゆえ、あすの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。そして主がくじを当てられる部族は、氏族ごとに進みいで、主がくじを当てられる氏族は、家族ごとに進みいで、主がくじを当てられる家族は、男ひとりびとり進み出なければならない。そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである』」。』(ヨシュア記7:14-15)

私達も滅ぼし尽くすべきものを主から具体的に示していただき、そしてそれが明らかにされたなら、自らの中から滅却するべきである。
皆さんにとっての、聖絶すべきものは、何であろうか。
不品行だろうか、汚れだろうか、好色だろうか、偶像礼拝、魔術だろうか、敵意だろうか、争い、そねみ、憤りだろうか、党派心だろうか、分裂、分派だろうか、ねたみだろうか、酩酊、遊興だろうか。(ガラテヤ5:19-21)
主は、皆さんの中から、そのようなものと、それに属するものを、主イエスにあって、実際的に棄却する事を、求めておられる。

もし、そのような聖絶すべきものを抱え込んでいるとしたなら、本人だけでなく、家族も、ひいては、属している宿営全体が、迷惑をこうむってしまう事になる。
主は求めておられる。
手放せ、と。聖絶のものに、なるな、と。
そうしたものを投げやるなら、速やかに勝利が回復し、祝福の扉は開かれ、滞っていた天的な祝福の手続きは、速やかに流れるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:一度の敗北で学ぶもの(ヨシュア記7:1-9):右クリックで保存

イスラエルがエリコに大勝利できたのは、主が導いて下さったからであったが、イスラエルは、この大勝利で早速慢心した。
『しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。』(ヨシュア記7:1)

奉納物、すなわち主に捧げ尽くすべき聖絶のものについて、実際に罪を犯したのは、アカンという一人物であったが、「イスラエルの”人々は”奉納物について罪を犯した」と記されている通り、これは、イスラエル全体の罪となってしまっている。
聖絶すべきものをイスラエルの宿営に招き入れるなら、たとえ、彼ら自身が気づいていないとしても、宿営全体が聖絶の対象となってしまうのだ。
そうなってしまっている以上は、たとい敵がどんなに弱くても、その前に立つことはできない。

イスラエルの民は、自分達が”負け戦モード”にある事に気づいていないまま、主に伺いを立てもせずに、さっさと次の戦いに出て行ってしまった。

もし、あらかじめ主に伺いを立てていたなら、主は必ず、何かしらの形でそれを示していたはずであるが、ヨシュアは主に伺いを立てるのではなく、斥候に情報収集させた。
『ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。』(ヨシュア記7:2-3)

前回、エリコ攻略の際に、二人の斥候がもたらした情報は、「ほんとうに”主は”この国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています。」(2:24)と、エリコの城壁や装備や兵員の数ではなく、霊的状態を報告した。
それでヨシュアは勝利を確信したはずだ。
しかし、アイを偵察した斥候達の報告は、相手の大体の数と人間的な評価しかなく、しかも「人々をほねおらせるには及ばない」と、人の事は思っていても”主”を思っていない、主を綺麗に抜かしてしまっているものだった。

アイの住人は、男女合わせると、約一万二千人であり、男だけなら六千人、それなら戦闘できる人員は、およそ二、三千人、と算出したのかもしれない。
それだから、こちらも、二、三千人で十分だ、と。前回あれだけ大勝利したのだから、今回は、この数でも十分行ける、と。
『そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。』(ヨシュア7:4-5)

三千人が戦いに行き、こちらの被害は三十六人。戦死者は、およそ百人に一人という事になる。
一回の戦闘の被害としては、少ない方にも見えるが、しかし、この敗北の意味は非常に大きい。

『ヨシュアは言った、「ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。カナンびと、およびこの地に住むすべてのものは、これを聞いて、われわれを攻めかこみ、われわれの名を地から断ち去ってしまうでしょう。それであなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」。』(ヨシュア記7:7-9)
あの、強く雄々しいはずのヨシュアが、なんと、ヨルダンを渡らなかったら良かった、カナン人は自分達を断ち去ってしまうだろう、主はなぜそのように仕向けたのですか、と、彼とは思えないような弱音を吐いている。
イスラエルの軍団は、まだ六十万以上残っており、しかも、三千人にたいし三十六人の被害である。
ヨシュアのこの嘆きようは、大げさすぎはしないだろうか。
いや、ヨシュアは主のご性質を良く知っていたからこそ、ここまでうろたえたのだ。
主が共におられる戦いには、負けなどあり得ない。それが、負けてしまった。
ということは、主は今や、自分達にはおられない。主が共におられないという事は、自分達はただ、滅びるしかない。それをヨシュアは良く知っていたため、そこまでうろたえたのだ。

『そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった。』(ヨシュア記7:6)
鈍いの霊的指導者なら、自分達の被害はまだまだ少ない、と言って、さらに兵員を増やし、いたずらに敗北と犠牲者を増やしていただろうが、一度の敗北の、三十六人の犠牲者が出た時点で、あれだけうろたえ、悔い改めの集会をさせたヨシュアはさすが、と言える。

私達も、失敗をした時、主に見捨てられたように感じる事がある。
しかし、そのような時こそ、御言葉と御約束の前に、ひれ伏すべきであり、ちりをかぶって自らを低くし、自分達の内にこそ、何か間違いは無かったかを点検すべき時である。

エリコに勝利したのは、人々の口から余計な言葉を止めさせ、ただ黙々と主の軍の将の指示どおりに動いたからだった。
勝利の秘訣は、御声に聞き従い、御言葉に従順する事にある。
もし、御声に聞き従わず、御言葉に従順しないなら、主は沈黙し、彼らがいかに十万や二十万でアイに対抗したとしても、負けは確定しているのだ。
『ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。』(イザヤ30:17-18)

人は、過去の経験や、うわべの人数、規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
だから私達は、特に、大成功を収めた時や、大勝利した後こそ、気をつけるべきなのだ。

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