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メッセージ - ヨシュア記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:移り行く世代、そして、決して移り変わりの無いお方(ヨシュア記24:29-33):右クリックで保存

『これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ、人々は彼をその嗣業の地のうちのテムナテ・セラに葬った。テムナテ・セラは、エフライムの山地で、ガアシ山の北にある。イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また主がイスラエルのために行われたもろもろのことを知っていて、ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた。』(ヨシュア記24:29-31)
偉大な指導者、ヨシュアも、いよいよ死んだ。
彼が生きていた間、また、彼と共に戦った長老の世代が生きていた間、イスラエルが主から離れず主に使えていたのは、ひとえに、ヨシュアが主に従順する事を徹底して指導していた事が大きいだろう。
偉大な指導者ヨシュアは死んだが、私達にとっての指導者・まことのイエシュアは、決して死ぬ事の無いお方・イエス様であり、どんな指導者よりも優れたお方である。

『イスラエルの人々が、エジプトから携え上ったヨセフの骨は、むかしヤコブが銀百枚で、シケムの父ハモルの子らから買い取ったシケムのうちの地所の一部に葬られた。これはヨセフの子孫の嗣業となった。』(ヨシュア記24:32)
このヨシュア記では、古く昔から定められていた、色々な約束の成就があった。
彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤクブに対する約束、すなわち、このカナンの地を与えるという、何百年も昔に主が約束された事の成就があり、ヨセフが子孫に約束させた事の成就があり、そして、この世代のイスラエルに定めて下さった敵に対する勝利と、この地を受け継ぐという約束も、ことごとく成就した。

イエス様もまた、世の始まる前から定められていた遠大なご計画を、私達に対して成就させて下さる。
すなわち私達は、天地の造られる前からキリストにあって選ばれ、御前できよく傷なき者となるために、神の子としての身分をいただけるという、途方も無く素晴らしいご計画を、今、キリストにあって私達に対し成就して下さるのだ。(エペソ1:3-5)
それを私達が引き出すためには、御言葉を信じ、その信仰に裏打ちされた行動を取る事が必要である。
ヨシュアの時代のイスラエルが、ヨシュアを通して与えられた御言葉を信じ、それに忠実に行動した結果、勝利と祝福を得たのと、全く同じである。

『アロンの子エレアザルも死んだ。人々は彼を、その子ピネハスに与えられた町で、エフライムの山地にあるギベアに葬った。』(ヨシュア記24:33)
大祭司エルアザルは、ヨシュア記の中ではあまり登場しなかったが、彼もまた、怒涛の時代を駆け抜けた立役者の一人だった。

大祭司アロンの三男であった彼は、その兄達は、聖所において不敬を犯したために主の火によって焼き滅ぼされたのを見ている。
また、コラがモーセに反逆した時、それに追従した二百五十人は、主の火によって焼き滅ぼされたが、エルアザルは主の命令を受け、まだ煙くすぶる二百五十もの焼死体の手から、二百五十の火皿を回収し、それを延べ板として、祭壇の着せ金を造った。(民数記16:38)
このような、強烈な経験をして来た彼は、きっと、大祭司の家系の子々孫々に、きびしく教育したに違いない。
主の前に出る時は、決して分を超えたり、思い上がったりしてはならない、と。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)

偉大な指導者ヨシュアも、大祭司エルアザルも死んだ。
人には寿命があり、そして、世代は交代していく。
しかしまことの指導者であり、まことの大祭司であるイエス様は、もはや決して死ぬ事はなく、眠る事もまどろむ事もなく、常に私達と共におられ、常に父なる神様の御前で私達のために執り成し、間違った指導は決してする事も無いお方。
まことに主の主、王の王、まことの大祭司であられる。

偉大な信仰の指導者がいなくなった途端に、信仰から落ちてしまうのは、ありがちな事であり、実際イスラエルは、この直後、信仰から落ちてしまう。
私達がそうならないためには、私達個人個人が、直接、まことのイエシュアであるイエス様を主とし、イエス様と直接関わり、直接導きを受け、聞き従う事である。
パウロも言っている。
『わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ2:12-15)

人間はやがて死ぬし、間違った指導もする。
だからこそ私達は、まことの大祭司であり、まことの指導者であるイエス様につながる事こそ、何より大事なのだ。
私達は生ける限り、ヨシュア記の世代のように、主に服従し、多くを勝ち取り、分捕り、幸いな一生を送る者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの最後のメッセージ(ヨシュア記24:1-28):右クリックで保存

『ヨシュアは、イスラエルのすべての部族をシケムに集め、イスラエルの長老、かしら、さばきびと、つかさたちを召し寄せて、共に神の前に進み出た。』(ヨシュア記24:1)
いよいよヨシュア記の最終章である。
ヨシュアは死を前にして民を御前に集め、最後のメッセージをした。

ヨシュアが民を呼び集めたシェケムという場所は、イスラエルの父祖達にとって、特別な地である。
アブラハムが主の召命を受けて、故郷を出てカナンに入った時、主が「あなたの子孫にこの地を与える」と言って最初に現れた場所であり、アブラハムはそこに祭壇を立てた。
また、アブラハムの孫ヤコブが、ベテルへと出立する際に、自分達の中から外国の神々を捨てた場所でもある。

2節から13節までは、主がヨシュアを通して語られたメッセージであり、アブラハムの父・テラの代から、何百年という単位でイスラエルが主と共に歩んで来た歴史である。
主は、一人の人アブラハムから、イスラエルという民族を起こしたが、元々、アブラハムの父の家は偶像崇拝をしている家であった。
主は、その偶像礼拝の家からアブラハムを導き出し、彼を祝福して子孫を増やし、敵から救い出し、敵に対しては災害を与え、勝利させ、その地を占領させ、あらゆる面で守り、多くの良きものを与えて下さった事を、ここで思い起こさせている。

そして、このメッセージで特徴的な事は、主がイスラエルの歴史を語る上で、民が主に不従順し反逆した点については、一切触れていない事であり、モーセの最後のメッセージとは対照的である。
このメッセージからは、主はいかにイスラエルに良くして下さったか、いかに主が素晴らしいお方であるのかがよく分かるが、しかしヨシュアは言う。
『いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。』(ヨシュア記24:14)

ヨシュア記を読んでいると、主を捨て去って外国の神々に向かう、などとは、とんでもない事と思えてくる。
なにしろ、アカンの失敗の時も、またルベン族やガド族達が祭壇を造った時も、イスラエルは非常に断固とした態度で臨んだからだ。
それなのに、ヨシュアはここで、「他の神々を除き去って、主に仕えなさい。」と言っているという事は、もしかしたら、イスラエルの心は慢心して、次第に偶像礼拝へと傾きつつあった事を、ヨシュアは察知していたのかもしれない。

『もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。』(ヨシュア記24:15)
ここはヨシュアの、とても有名な宣言である。
ヨシュアは明確に、我が家と我は、主に仕える、と告白した。
それに対し、民は答えて言った。
「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです。」(ヨシュア記24:16-18)

それでもなお、ヨシュアは重ねて問いただす。
『「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、あなたがたにさいわいを下されたのちにも、ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。
民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。』(ヨシュア記24:19-22)
こうしてヨシュアは、民の口から三度、自分達は主に従う、という意向を引き出させ、そして確かにこの世代は主に従い通した。
私達も、兄弟姉妹を見た時に、信仰が弱りかけたり、誘惑に陥りかけている事に気づいたなら、本人の口から信仰告白を引き出させ、罪に陥る事から守らせる、という事も必要である。

人は、弱いものである。
ペテロも、イエス様がポンテオ・ピラトの元へ引き出される日の晩、自分は死んでもあなたについて行きます、と、イエス様に宣言しておきながら、その夜が明けない内に、三度もイエス様を知らないと人前で宣言してしまった。
ある瞬間は感情が燃えていたとしても、いざとなると、肉は弱いのだ。
イエス様は、そのような失敗をしたペテロに現れ、「あなたはわたしを愛するか」と三度、問いかけられ、フォローされた。
私達も、イエス様のように、またヨシュアのように、霊的に弱っている兄弟姉妹を、フォローするべきである。
主は、傷んだ葦を折る事をせず、くすぶる灯心を消す事のしないお方であり、私達もそれに習うべきなのだ。

『ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。』(ヨシュア記24:23)
ヨシュアは重ねて言った。異なる神々を除き去りなさい、と。
もしかしたら、異なる神々への思いが、彼らの中に入り込んでいたのかもしれないが、少なくともこの世代は、ヨシュアのフォローによって守られた。

『こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。
こうしてヨシュアは民を、おのおのその嗣業の地に帰し去らせた。』(ヨシュア記24:25-28)

このようにして、ヨシュアは最後のメッセージを終えた。
その最後は、偶像礼拝に気をつけるようにという事と、他の神々に行くのではなくただ主にのみ仕えなさいという事を、彼らの口で告白させ、そして証拠を残す事だった。
こうして、この世代は守られた。
私達も、兄弟姉妹に大事な事を伝えたい時は、本人の口から信仰告白を引き出す事が有効である。
その口の告白によって、彼らは守られるからだ。

礼拝説教メッセージ音声:数えてみよ、主の真実を(ヨシュア記23:12-16):右クリックで保存

主が共におられ、主ご自身が敵と戦って下さるならば、必ず勝利し、一人が千人を追い立てる事さえ可能である、と、ヨシュアは言った。

そしてその逆、もし、主が共におられないのなら、すなわち、人が主に忌み嫌われるような事をするなら、主は必ず災いを下す事も、宣言した。

味方であるはずの主は、一体どうしたら、敵対してしまうのか。ヨシュアは、以下のように言っている。
『あなたがたがもしひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。』(ヨシュア記23:12-13)
すなわち、交わってはならない邪悪な先住民と交わり、結婚し、滅ぼすべき者と混合してしまうなら、主はもはや共にはおられない。
今まで勝利をもたらして下さった主は、もはや、その人に勝利を与える事は無く、敵対してしまう。

ヨシュア記では、いまだ生き残っている滅ぼすべきカナン人を「あなたがたの中にとどまる者」と言っているが、現代を生きる私達の中にも、”滅ぼしてしまわなくてはならない者”が、私達の肉の中に、多少なりともうずめいている。
それは、旧来の不品行の性質や、罪深い性質など、神の民に相応しからぬ性質全般である。

私達は、主イエス様にあって救われた後、主と共に歩んで行く内に、どんどん開放され、自由となって行った領域がどんどん増え広がって行ったはずである。
イエス様と共に歩みつづけるキリスト者は、旧来の罪の性質はどんどん討ち滅ぼされていき、生来の生き方では、不可能と思えたような事が可能となり、今まで経験しなかったような事をどんどん経験し、心の中の自由な領域は、どんどん広がって行くものである。
まことのイエシュアであるイエス様と共に歩むなら、もっともっと、その領域は広がって行くが、滅ぼすべき旧来の性質を放置し続け、あるいは、それらと再び和合し、罪の性質と再び混合してしまうなら、どんどん心の束縛が増していき、ついには罪深い性質に飲み込まれてしまい、やがては滅ぼされてしまう。

『彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あなたがたはついに、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、滅びうせるであろう。』(ヨシュア記23:13)
ヨシュアの時代は、まだ、「彼らの中にとどまる者達」を攻め滅ぼす事を保留しているだけで、婚姻したり交わったりしてはいなかった。
それで、かろうじて信仰をもって戦い出るなら、必ず勝利していた。
しかし、いつまでも為すべき事を保留し続け、それを長くし、どんどん先延ばしにして行くならば、それらはやがて罠となってしまうのだ。

『見よ、今日、わたしは世の人のみな行く道を行こうとする。あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった。』(ヨシュア記23:14)
ヨシュアは、死を間近にして、大切な事を伝えた。
主は、約束された良い事の中で、何一つ成就しなかった事は無かった。
その事を、あなた方はしかと経験した、それをあなた方は、しっかりと覚えておきなさい、と。

『しかし、あなたがたの神、主があなたがたについて約束された、もろもろの良いことが、あなたがたに臨んだように、主はまた、もろもろの悪いことをあなたがたに下して、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、ついに、あなたがたを滅ぼし断たれるであろう。もし、あなたがたの神、主が命じられたその契約を犯し、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、主はあなたがたにむかって怒りを発し、あなたがたは、主が賜わった良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」。』(ヨシュア記23:15-16)
主は、約束しておられた良き事を、必ず成就させた。それと同じように、もし主をないがしろにするなら、災いもまた必ず成就してしまう、という事も覚えておきなさい、と、ヨシュアは注意した。
主が為して下さった良き事の数々を数えなさい、覚えておきなさい、というメッセージはよく語られるが、同時に、その逆が起きる事も、忘れてはならない。
すなわち、主をないがしろにした事によって、ひどい目や、災いに遭った事どもも、私達はよく覚えておくべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11):右クリックで保存 

主がイスラエル全部族に相続地を与えられてから、既に多くの日が経ち、ヨシュアも老人になった。
しかしヨシュアには、心配事が残っていた。
イスラエルの民には相続地が定められて久しいのだが、彼らは、その領地内に生き残っている先住民を滅ぼし尽くす事をせず、そのまま放置している所が、まだまだ多いからだ。
そこでヨシュアは長老や民の長達を呼び寄せて、言った。

『見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。』(ヨシュア記23:4-5)

ヨシュアは確かに、くじによって、この地を彼らに与えた事を神と人との前で宣言したが、現実的には、その中の一部では、相変わらず、住んでいてはならない先住民が住んでいる状態である。
「真実」の上では、その地は既に彼らの所有となっている。なのに「現実」では、そこには相変わらず、罪深く手強い者達が、占拠している。
このように、「真実」と、「現実」とが敵対している時、「真実」を信じて、「現実」に戦いを挑むなら、必ず真実が現実を飲み込む事になっている。
しかし、現実に飲み込まれて真実をいつまでも実行しないなら、それまた、その人の信じた通りになってしまう。

これは、現代を生きる私達にも、同じである。
主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行くのだ。
ちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行き、現金を下ろす手続きをして、ハンコを押す、という「信仰の行動」に出る事によって、現実のお金が手元に渡るのと同じである。
御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)

私達の人生も、ヨシュア記の当時と同じパラドックスに陥ってはいないだろうか。
御言葉の真理の上では、既にそこは自分の手に渡されている。
なのに、恐れや無気力などによって、信仰の行動をしておらず、そこに住み着いている邪悪な者達を、相変わらず、のさばらせたままにしてはいないだろうか。

主が共におられ、主と共に行動に出るなら、必ず勝ち取る事ができる。
ただし、主が味方して下さるためには、以下の事が必要である。
『それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。』(ヨシュア記23:6-7)

まずは、御言葉に堅く立って守り行い、そこから離れない事。
そして、神の国のものではない者達と交じり合わない事である。それは思想においても、価値観においても、そうである。
彼らの価値観や、彼らが「神」としているものを取り入れてしまうなら、主から敵対されてしまうからだ。
そして、何よりもまず、主を第一として愛する事である。
『ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主につき従わなければならない。・・・それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。』(ヨシュア記23:8-11)
これらは、十戒の第一戎と第二戎とにも通じる、霊的な最優先事項である。

『主が大いなる強き国民を、あなたがたの前から追い払われた。あなたがたには今日まで、立ち向かうことのできる者は、ひとりもなかった。あなたがたのひとりは、千人を追い払うことができるであろう。あなたがたの神、主が約束されたように、みずからあなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9)
今までのヨシュア記での戦闘では、信仰における失敗をした場合を除き、彼らの前に立ち向かった敵は一人もなく、ことごとく勝利して来た。
そればかりでなく、一人の人が千人を追い払うことが出来る、というのだ。
信仰の少数精鋭は、不信仰な大人数にはるかに勝るのだ。(レビ記26:8、士師記3:31, 7:19-22、15:15、1サムエル14章、2サムエル23:8)

私達の人生は、勝ち取っていない領域が沢山あり、生涯をかけて、それらを勝ち取って行くようなものである。
勝利の上で大事な事は、主が共におられるという事であり、主が共におられる状態でいるには、心を尽くして主を愛し、主にの御言葉を守り行う事である。

礼拝説教メッセージ音声:誤解を与えてしまった時には(ヨシュア記22:21-34):右クリックで保存

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、自分達が祭壇を築いた事が「主への反逆である」という誤解を、他の部族に与えてしまった事を知って、答えた。
『力ある者、神、主(エホバ)。力ある者、神、主(エホバ)。主は知ろしめす。イスラエルもまた知らなければならない。もしそれがそむくことであり、あるいは主(エホバ)に罪を犯すことであるならば、きょう、われわれをゆるさないでください。われわれが祭壇を築いたことが、もし主に従うことをやめるためであり、またその上に、燔祭、素祭をささげるためであり、あるいはまたその上に、酬恩祭の犠牲をささげるためであったならば、主みずから、その罪 を問いただしてください。』(ヨシュア記22:21-23)

彼らが真っ先にした事は、エホバなる主を、自分と相手との間に据えた事だった。
私達も、兄弟姉妹に誤解させてしまった時、ことに、誤解によって相手の感情を害させてしまったり、不愉快な思いをさせてしまったりした時には、先ず先に、主を彼我の間に据える事が、最優先させるべき事である。
そうする事で、相手が自分を誤解している事について、自分が動揺したり怒ったりする事を防げるし、また、相手が主を恐れる兄弟姉妹であるなら、ある程、全てをご存知であられる主にさばきを委ねる事は、正当な事だと、双方が確認できるからである。

主は、その人の真実も不信実もご存知であり、真実に対しては豊かに報い、不信実に対しても、正当にさばいて下さる。
ダビデも、自分が不当に責め立てられている時、全てのさばきを主に委ねた。
『わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。』(詩篇7:3-5)

続いて彼らは、問題となっているこの祭壇をなぜ造ったのか、その理由を説明した。
すなわち、後の時代になった時、彼らの領土がヨルダン川の向こう側にある、という事で、ヨルダン川のこちら側に相続地を得ている人達に「主を礼拝する分はあなた方には無い」と言われてしまう事を心配したために、この祭壇を「しるし」として造り、自分達にも主を礼拝する分があるのだ、という事を、後の時代になっても思い起こさせるためだ、というわけである。

『のちの日に、われわれ、またわれわれの子孫が、もしそのようなことを言われるならば、その時、われわれは言おう、「われわれの先祖が造った主の祭壇の型をごらんなさい。これは燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、あなたがたと、われわれとの間の証拠である」。主にそむき、ひるがえって今日、主に従うことをやめて、われわれの神、主の幕屋の前にある祭壇のほかに、燔祭、素祭、または犠牲をささげるための祭壇を築くようなことは、決していたしません。」』(ヨシュア記22:28-29)
この事を聞いた祭司ピネハスや、他の部族の長達は、彼らの言葉を良しとした。

『祭司エレアザルの子ピネハスは、ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの子孫に言った、「今日、われわれは、主がわれわれのうちにいますことを知った。あなたがたが、主にむかって、このとがを犯さなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの人々を、主の手から救い出したのです」。』(ヨシュア記22:31)
この度、誤解を与えてしまった側も、誤解してしまった側も、全員、主が自分達と共におられるという事を知った。
主は、敵に勝利させて下さる神であるだけではなく、兄弟姉妹の間に平和を与えて下さる神でもあるのだ。

『イスラエルの人々はそれを良しとした。そしてイスラエルの人々は神をほめたたえ、ルベンの子孫、およびガドの子孫の住んでいる国を滅ぼすために攻め上ろうとは、もはや言わなかった。ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。』(ヨシュア記22:33-34)

私達も誤解してしまう時、あるいは、誤解を与えてしまう時、主をその間に立て、主に正しく裁いていただき、平和を保つ者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:主を怒らせる事柄については、戦いも辞さず(ヨシュア記22:10-20):右クリックで保存

『ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。イスラエルの人々は、「ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地の国境、ヨルダンのほとりのイスラエルの人々に属する方で、一つの祭壇を築いた」といううわさを聞いた。イスラエルの人々が、それを聞くとひとしく、イスラエルの人々の全会衆はシロに集まって、彼らの所に攻め上ろうとした。』(ヨシュア記22:10-12)

今まで忠実に、一緒に戦ってきたルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨシュアから祝福の内に送り出されたが、彼らは自分の領地に帰る途中、ヨルダン川沿いに、大きな祭壇を築いた。
それを聞いた全イスラエルは、彼らに対し戦いを仕掛けようとした。
これは一体、どういう事なのか。

申命記12章によると、主に捧げ物を捧げるべき祭壇が置かれるのは、ただ、主が選ばれた場所でのみ、許されており、それ以外の場所に祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、主以外のものにいけにえを捧げる主への反逆に等しい行為であったわけである。
実際、ヤロブアムの時代に、北イスラエル王国はエルサレム以外の場所に祭壇を築き、そこでいけにえを捧げるようになったため、主の怒りを買った。(1列王記12章)

モーセの命じる所によると、もし、イスラエルの中のある町で、主以外の神に仕えるような事を聞いたなら、よく調べ、真偽を問いただし、その事が本当だという事であるなら、その町を聖絶し、永遠に廃墟としなければならない。(申命記13章)
今回、このような事が部族レベルで行われた疑惑が沸き起こったため、他のイスラエル部族は、事の真偽を問いただすために、祭司ピネハスと部族長たちを遣わしたのである。

私達も、兄弟姉妹が何か主を怒らせるような事をしていると聞いた時、その人に対し、何のアクションもしないのは、良くない。
あるいは、単にうわさを聞いただけで真偽をよく確かめもせず、いきなり面と向かって怒りを燃やすのもいけない。
まずは、その事をよく問いただす所から始めるべきなのだ。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

日本人は、和をもって尊しとする文化であるので、そのように、面と向かって戒める事にやりづらさを覚える人は多いかもしれない。
しかし、主を怒らせている事に関しては、見てみぬふりをしたりせず、正面から対応して、交わりを清く保つべきなのだ。
ヨシュアの時代のイスラエルには、そのような真摯さが生きていた。

『「主の全会衆はこう言います、『あなたがたがイスラエルの神にむかって、とがを犯し、今日、ひるがえって主に従うことをやめ、自分のために一つの祭壇を築いて、今日、主にそむこうとするのは何事か。ペオルで犯した罪で、なお足りないとするのか。それがために主の会衆に災が下ったが、われわれは今日もなお、その罪から清められていない。
しかもあなたがたは、今日、ひるがえって主に従うことをやめようとするのか。あなたがたが、きょう、主にそむくならば、あす、主はイスラエルの全会衆にむかって怒られるであろう。』(ヨシュア記22:16-18)
このペオルでの事件、すなわち、イスラエルの男が異邦の女と不品行の罪を犯し、多くの人達が倒れた、あの事件からは、かなりの時が経っているはずであるが、イスラエルは未だにその影響を、何らかの形で引きずっていたようだ。

『ゼラの子アカンは、のろわれた物について、とがを犯し、それがためイスラエルの全会衆に、怒りが臨んだではないか。またその罪によって滅びた者は、彼ひとりではなかった』」。』(ヨシュア記22:20)
アカンが聖絶のものを残してイスラエル全体に災いを招いてしまった事件の時も、アカンの他の30数名が犠牲になってしまった。
ちょっとしたつまづきをイスラエルに持ち込み、それを野放しにする事は、イスラエル全体に災いを招く事になってしまうのだ。

新約において、パウロも同じ事を言っている。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

ルベン族、ガド族、マナセの半部族といえば、戦いの時には、他の部族に先立って一緒に戦ってくれた部族である。
そうではあっても、主の嫌われる事が行われている、という疑いが生じたならば、真偽を確かめに行き、もしそれが本当であるなら、戦闘をも辞さない、という気構え。
これは、ヨシュア達に与えられている祝福、すなわち、何をしても栄え、誰も立ちはだかるものは無く、主から決して見放される事も見捨てられることもないという祝福を受けるために、必要なものである。

礼拝説教メッセージ音声:約束を満了したルベン、ガド、マナセの半部族(ヨシュア記22:1-9):右クリックで保存

『時にヨシュアは、ルベンびと、ガドびと、およびマナセの部族の半ばを呼び集めて、言った、「あなたがたは主のしもべモーセが命じたことを、ことごとく守り、またわたしの命じたすべての事にも、わたしの言葉に聞きしたがいました。今日まで長い年月の間、あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令を、よく守ってきました。
今はすでに、あなたがたの神、主が、あなたがたの兄弟たちに、先に約束されたとおり、安息を賜わるようになりました。それで、あなたがたは身を返して、主のしもべモーセが、あなたがたに与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、自分たちの天幕に帰りなさい。』(ヨシュア記22:1-4)

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、イスラエルがまだヨルダン川東側にいて、カナンに攻め入っていなかった時、他の部族に先んじて、ヨルダン川東側に相続地をいち早く得た部族であるが、彼らは他に先んじて相続地を得る代わりに、ある約束を神と人との前でしていた。

ヨルダン川の東側地域をイスラエルが制圧した時、彼らはこの地を自分達に与えて下さい、そしてヨルダン川は渡らせないで下さい、と、モーセに願い出たのだが、その願いは、モーセを怒らせた。
これから他の兄弟姉妹がまだまだ戦おうとしている、というのに、あなた達はこの地を先に得て、そこで安穏とし、他の兄弟姉妹のやる気をくじくつもりなのか、と。(民数記32章)

それで彼らは、約束したのだ。
自分達は、この地を先に得る代わりに、他の兄弟姉妹達が出る戦いに一緒に進み行き、イスラエルの皆が、それぞれの相続地を得るまでは、自分達の所には帰らない、と。(民数記32:16-19)
モーセは、その事を神と人との前で公に約束させ、そしてそれ以降、彼らはその約束に忠実に従い、兄弟姉妹達と共に戦ってきたのだ。

そして今や、イスラエル全部族は、安住の地を得て、彼らの責任は、満了した。
だからヨシュアは彼らに、よくぞ今まで忠実に仕え、約束を守って来た、と、褒めたのだ。

『ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた戒めと、律法とを慎んで行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主につき従い、心をつくし、精神をつくして、主に仕えなさい」。そしてヨシュアが彼らを祝福して去らせたので、彼らはその天幕に帰った。』(ヨシュア記22:5)
ヨシュアは、彼らを送り出す前に、守るべき御言葉を与え、そして祝福した。
また、実体のあるものも彼らに与えた。

『「あなたがたは多くの貨財と、おびただしい数の家畜と、金、銀、青銅、鉄、および多くの衣服を持って天幕に帰り、敵から獲たぶんどり物を兄弟たちに分けなさい」。こうしてルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばは、主がモーセによって命じられたように、すでに自分の所有地となっているギレアデの地に行こうと、カナンの地のシロで、イスラエルの人々と別れて帰って行った。』(ヨシュア記22:8-9)

労を負って、一緒によく働いて来た兄弟姉妹は、手ぶらで帰らせるものではない。
申命記にも記されている通りである。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

もし兄弟姉妹が落ちぶれてしまい、奴隷として身売りするような事になったとしても、それは6年という期限付きであり、しかも、7年が満ちた時には、失業して路頭に迷うような事がなく、しっかりと自分の家庭を築いて、身を立てて行く事ができるように、何も持たせずに出て行かせてはならない、と、主は命じている。
現代日本では、非正規雇用の人達は、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま、何十年も働かされ、30,40代になっても手に職を持てず、結婚も、マイホームも持てない状態で年老いていくような状況に陥りやすいが、それは、主の御心を大いに反している事であり、主の御怒りを引き起こすものである。

もし私達が、ルベン族やガド族のように、他の兄弟姉妹に先んじて幸いと安定が与えられたなら、それで他の兄弟姉妹を助けなくてはならない。
彼らをほったらかしにするのではなく、彼らが安定するまでは、しっかりと一緒に働き、共に戦うべきである。なぜなら、それは、自分の力で勝ち取ったのではなく、主から「与えられた」からだ。
そして、神と人との前に約束した事は、満了するまではしっかりと実行し続けるべきであり、また、忠実に働いた兄弟姉妹に対しては、祝福の御言葉と、実際的な助けを与えるべきである。
そのような正当な関係こそ、神の民であり、主にある兄弟姉妹である私達に相応しい形である。

礼拝説教メッセージ音声:必ず成就する主の約束(ヨシュア記21:43-45):右クリックで保存

『このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。』(ヨシュア記21:43-45)
今回の箇所をもって、500年ほど前より主が約束しておられた事、彼らの先祖・アブラハム、イサク、ヤコブに対して「この地を与える」と約束されていた事が、成就した。

主は、個人や家族、その子孫に、あるいは、国や人類全体に与える約束があるが、聖書は、人類全体に与えられた”契約”であり、それも「旧契約聖書」と「新契約聖書」から成る。
そして、この聖書に記されている内容から、逃れる人は、誰もいない。
アブラハムやヨシュアのように、与えられた契約を信じて、そのとおり実行するなら、約束されている「良いこと」は必ずその人や家族、子孫、国に、必ず実現するが、主の約束を信じず、その言葉を軽んじるなら、聖書に記されている「呪い」が、その人や家族、子孫、国に、必ず実現する。
『天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:9-11)

『主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。』(ヨシュア記21:44)
主は、土地を与えて下さったばかりでなく安息を、そして、敵を、彼らの手に渡して下さったと記されている。
しかし、イスラエル十二部族は、必ずしも、この領地内の全ての敵を打ち滅ぼした訳ではなかった。例えば、ヨセフ族は谷間に住むカナン人が鉄の戦車を持っている事を理由に攻め入っていないし、またベニヤミン族も、難攻不落に見えるエルサレムの要害を、手つかずのままにしてしまっている。

主は、鉄の戦車の装備を持つ敵も、難攻不落の要害も、全て彼らの手に渡している事には変わりはない。
つまり、真理の上では、主は既にそこの敵を彼らの手に渡しており、それを信じて攻め入るなら、信じた事が実体化して、彼らの手に実際に渡るのである。
ヨシュアも「カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」と言っている(ヨシュア記17:18)。
しかし彼らは、主の約束を信じるよりも、鉄の戦車の強そうな様や、要害の堅固そうな様のほうを信じてしまい、主に言われた事を実行しないまま、放置してしまっているのだ。
それが後になって、彼らの罠となってしまう。

『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)
安息に入れる者と、入れない者とが、厳然として”いる”事が記されている。
御言葉の約束が与えられていて、それを信じて進み行くなら、その信仰の実体を手に入れて安息するが、しかし、せっかく御言葉が与えられているのに、恐れて進み行かないなら、手に入れる事は出来ないまま滅んでしまう。

『そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、/「きょう、み声を聞いたなら、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」/とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。』(ヘブル4:6-8)
ヨシュアは、確かにイスラエルの民を約束の地・カナンに導き入れたが、そこは真の安息の地ではない。
私達にも用意されている真の安息があり、そこは、御言葉を自らの信仰へと混ぜ込み、自分のわざをやめる人のみが入れる領域である。

『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:9-11)

礼拝説教メッセージ音声:レビ族が受けるべき土地の割り当て(ヨシュア記21:1-9):右クリックで保存

『時にレビの族長たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、カナンの地のシロで彼らに言った、「主はかつて、われわれに住むべき町々を与えることと、それに属する放牧地を、家畜のために与えることを、モーセによって命じられました」。それでイスラエルの人々は、主の命にしたがって、自分たちの嗣業のうちから、次の町々と、その放牧地とを、レビびとに与えた。』(ヨシュア記21:1-3)

イスラエル十二部族への相続地の割り当てが終わり、のがれの町も制定された後、主の宮で奉仕する部族・レビ族が住むべき町や放牧地の配分が行われた。
この事は、かつて、主がモーセに命じた事だった。
『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)

イスラエル人は、主に十分の一を捧げる事が命じられているが、神の働き人であるレビ人は、イスラエル人が捧げる捧げ物によって養われる特権も与えられている。
レビ人が住む場所も同様で、その場所は、それぞれの部族が提供しなくてはならず、大きい部族も、小さい部族も、必ず捧げるべき事を、主は命じており、それは、富める者も貧しき者も、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと、同じである。

また、前回学んだ「のがれの町」は、全てレビ族の町である。
誤って人を殺してしまった殺人者たちは、時が来るまで、主の働き人であるレビ人の町で住みこみ、レビ人と共に住み、食べ、生活するのだ。
私達も、誤って罪を犯している事が示されたなら、主の宮に駆け込み、主の働き人達と行動を共にして、霊的な養いを受けるべきである。

イスラエル十二部族の中からは、レビ族に町を提供しない部族は、一つも無かった。
という事は、レビ族は、イスラエル全領土へとまんべんなく散っている、という事である。
それは、主の働き人は、世界においても日本においても、まんべんなく散って、それぞれの場所で御言葉の務めをなし、主の奉仕に勤しむ事が望ましいのと同様である。

レビ人や祭司は、100%、一般の主の会衆が主に捧げる捧げ物によって生活が成り立っている。
だから、民が主に捧げる事、レビ人達を養う事がコンスタントに続けられているなら、レビ人や祭司たちは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれる。
しかし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
それは、現代を生きる私達も同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イエス様という「のがれの町」(ヨシュア記20:1-9):右クリックで保存

前章で既にイスラエル十二部族への相続地の配分は全て終わったが、まだ補足的な事で、為すべき事が残っている。
『主はヨシュアに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。』(ヨシュア記20:1-3)
モーセが生きていた時に、主が何度か命じておられた「のがれの町」を、実際に制定しなさい、と、主は言われた。

「のがれの町」とは、誤って人を殺してしまった殺人者が、復讐者の手から守られるための町である。
人殺しが起きた場合は、被害者の近親者がその殺人者を殺しても良い事になっていたが(民数記35:19-21)、故意にではなく人を殺めてしまう場合もある。
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など。
そういった場合の救済措置として、その人は「のがれの町」に逃れる事が出来るよう、主が定められたのだ。

『その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。』(ヨシュア記20:4-5)
この町にのがれる事が出来るのは、誤って人を殺した場合のみである。わざと殺したのであるなら、その町で保護はできない。
だから、この町に逃れてくる人は、まずその町の長老達にそのわけを述べ、正当に保護されるべきかの判断を受けなくてはならず、よしと認められるなら、その町に保護され、住む事が出来る。
『しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:26-27)

『その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。』(ヨシュア記20:6)
その人は、その時の大祭司が死ぬ時まで、そこにいなくてはならないが、大祭司が死んだ後は、罪を咎められない者として自由の身となり、自分の町に帰れる。

のがれの町は既にヨルダン川の東側に3つ制定されていたが、今回、ヨルダン川西側にガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンが、のがれの町として選び分かたれた。
これらの町々は、イスラエル全領土のどこからも、その内のどれか一つに行きやすい距離として制定されている。
また、この権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができる。(ヨシュア記20:9)

この権利は、意図せずして人を殺めてしまった人への保護措置であるが、私達は、世の中を生きていく上で、色々な場面において、意図せず人を傷つけたり、あるいは心の中で殺人を犯したり、心の中で姦淫を犯したり、罪を犯してしまうものである。
なぜなら、人は生まれながらにして、その肢体の内には、罪のとげが刺さっているからだ。

しかし、主イエス様は、そんな私達が「のがれの町」に逃げこんで保護を受けられるように、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と叫んで、父なる神様に執り成して下さった。(ルカ23:34)
人は元々、何をしているのか、自分で分からないものだ。
造り主である主に対して、どんなに無礼を働いて来たか、どんなに殺人に等しい罪々を、主に対して犯して来たか。
それをイエス様は、御父に執り成して下さったために、私達はイエス様を信じる信仰によって、罪の裁きからのがれる権利が与えられたのだ。

大祭司が死ぬ時、のがれの町にかくまわれていた人は、罪の責めを負う事の無い自由の身となるが、イエス様はまことの大祭司として、死んで下さった。
だから、イエス様を信じる人、イエス様の十字架の元に隠れ処を求めて来ている人は、誰でも、御前で犯して来た罪については無罪放免、自由の身とされたのだ。
この「のがれの町」にあずかる権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができるものであったように、イエス様という「のがれの町」には、どの国の人であってもその権利にあずかる事が出来るのだ。

しかし、のがれの町から一歩出てしまうなら、復讐者が追いついてしまうならどうしようもないように、イエス様という救いの囲いからは出てしまうなら、滅びが追いついてしまっても、どうにもならない。
また、ひと度十字架の血潮によって清められ、イエス様というのがれの町でかくまわれたのに、それを軽んじ、汚れたものとするなら、もはや救いの道は残されていない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

終わりの日まで、しっかりイエス様という「のがれの町」の中に留まり、あらゆる面から守られ、安全に匿われ、罪と死からは自由の身となり、サタンは一切手出し出来ない者として保たれる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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