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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:勝って兜の緒を締めよ(申命記7:17-26):右クリックで保存

『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。すなわち、あなたが目で見た大いなる試みと、しるしと、不思議と、強い手と、伸ばした腕とを覚えなさい。あなたの神、主はこれらをもって、あなたを導き出されたのである。またそのように、あなたの神、主はあなたが恐れているすべての民にされるであろう。』(申命記7:17-19)

私達は、目の前に敵がいたり、実際に問題が起きてそれと戦わなくてはならない時、何かと恐れに捕われ主を忘れやすいが、その時こそ、主が今まで為して下さった良き事を、思い起こすべきである。
ダビデも「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と、自らの心に言い聞かせ、信仰を奮い立たせた。

皆さんは、今までの人生で、主に信頼して失望させられた事は、あっただろうか。
もし、主に失望させられた、という思いがあるとしたら、よく思い返してみると、荒野での40年の放浪の原因を作ったあの世代のように、実は、自分が主に信頼しておらず、手前勝手な行動を取って、荒野の放浪のような実を刈り取っている事に対して、主に逆恨みしているだけだったりする。
主はいつでも、いつまでも、真実である。

モーセは今一度、民に「恐れてはならない」と言っている。
そして、主が良くして下さった事を忘れるな、主が敵に対して恐るべき御業を働かせて、救いだして下さった事を思い起こせ、と言っている。
主が良くしてくださった数々を数えるなら、「この問題も、主が必ず最善へと導いて下さる」と希望が湧いて来て、そして実際、その通りになるのだ。

『あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送って、なお残っている者と逃げ隠れている者を滅ぼしつくされるであろう。』(申命記7:20)
私達が戦う時、主も共に戦って下さり、勝利を与えられる。
そればかりでなく、私達が取り逃がした敵さえ、主がくまばちを送って、滅ぼし尽くして下さる。
私達は思う。主がはじめからくまばちで一気に滅ぼし尽くしてくれればいいのに、と。
しかし、人生で為すべき物事の全ては、主とのコラボレーションであり、私達自身が実際に信仰を働かせ、主に命じられた通りに出て行き、主とともに勝ち取る必要があるのだ。

『あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。』(申命記7:22)
私達は、目の前にいる敵や、問題課題に対しても、主が今すぐ目の前から滅ぼし尽くし、なくして下さればいいのに、と思うかもしれない。
しかし、そうされないのに理由がある。
それは、滅びるべき敵が一気に滅びる事によって環境も一気に変わり、私達や周辺環境を害する「別の敵」がはびこる事の無いためだ。

主と共に歩むならば、勝利がある。しかし、勝利した場合にこそ、もっとも気をつけるべき事がある。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)

私達は成功した時、勝利した時こそ、注意しなければならない。
実際、ヨシュア記において、強固な城塞都市エリコの大勝利の直後に、イスラエルの内に油断が生じ、アカンによる失敗があった。(ヨシュア記7章)
イスラエルが主に従順し、指導者であるヨシュアに言われた通りを、守り行った時、いかにエリコという城塞都市が強大であろうとも、犠牲者は一切出なかったようである。
しかし、自分達の身内にいる、アカンの「むさぼり」によって、実際に三十六名という犠牲者が出た。

私達が主に従順する時、主の敵は、敵とは言えない。
主が必ず勝利を与えて下さるからだ。
敵とはむしろ、私達の内にいる。それは、むさぼりであり、主に従順しない心である。

私達は、それまで手にした事の無かったような、富を手にした時、力や権力を手にした時、今まで知らなかった誘惑もまた存在する事を、忘れてはならない。
ダビデは羊飼いであった時、まさか自分が将来、人妻を手に入れたいがために、その夫を激戦区に行くよう命じ、敵の手で謀殺するなどとは、考えもしなかっただろう。
勝利した時、富を手にした時、力や権力を手にした時こそ、まさに、気をつけるべきである。
モーセはそのために、前もってしっかりと戒めを与えたのだ。
私達も、主から戒めを受ける時、祝福の地に入る準備が、ますます整えられて行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:祝福されるには(申命記7:12-16):右クリックで保存

『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)

祝福されるための条件、それは、もう何度も語られている通り、主の御言葉を聞いて、それを守り行う事である。
申命記28章や、レビ記26章には、御言葉を守り行った結果に与えられる祝福の明細と、そしてその反対の、御言葉を軽んじ守り行わなかった場合に与えられる呪いの明細とが、事細かに示されている。

主の御言葉を聞いて、守り行うなら、その人の土地は豊かな産物で満たされ、仕事は祝福される。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ26:3-5)
麦の収穫は春に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろであるから、麦打ちが春から秋までずっと続く程、また、ぶどうの取り入れが種まきの時期まで続く程の、大収穫が与えられる、という事である。

『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、古くから戦争の多い所で、また、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。

また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際、聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が幾つもある。

『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。

主の御言葉を守り行う事によって、確かに色々な祝福はあるが、その祝福の中で、最たるものは、「主に愛される事」である。(申命記7:13)
主に愛される人は、どういう人か。
『わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。』(ヨハネ14:21)
主の御言葉を聞いて、それを守り行う人が、主に愛される、というのは、結局、旧約も新約も同じである。
イエス様が言われた最も大切ないましめも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」であった。

私達にとって大切な事は、「良いこと」をするよりも「良い方」である主を愛する事である。
主を愛さない人は御言葉を軽んじ、御言葉の抜け道を考え出して御言葉を守り行えない事の言い訳をしたり、自分で作った神学を人に押し付けたりする。
しかし、主を愛する人には、さらに守る力が与えられ、あらゆる面で、ますます富む者となって行き、敵に勝利するのだ。

『主はまたすべての病をあなたから取り去り、あなたの知っている、あのエジプトの悪疫にかからせず、ただあなたを憎むすべての者にそれを臨ませられるであろう。』(申命記7:15)
主は、主を愛する人の敵に、エジプトの災いを送られる。しかし、主を愛して主に愛される人には、そのような災いには主が遭わせない。
主は言われた。「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである。」(出エジプト記15:26)

また、受けている祝福をキープするためには、私達の内に、主の憎まれるものを持ち込まない事である。
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。また彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたのわなとなるからである。』(申命記7:16)
もし、キリストを信じているのに、何しても成功しない、という事であるなら、滅ぼし尽くすべきものを、自分の中に相変わらず持ち続けていないか、点検すると良いかもしれない。

これら祝福の条件は、既に何度も聞いている通りで、モーセも何度も同じことを繰り返しているが、実際に守り行う人は少ないようである。
主を愛し、主の御言葉を聞いて、それを守り行い、ここに記されている全ての祝福で覆われる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:人の思いをはるかに超えた神の愛(申命記7:7-11):右クリックで保存

神はなぜ、イスラエルを特別視し、愛されたか。
その理由は、人間の感覚で納得の行くものではない。
『主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。』(申命記7:7-8)

神がイスラエルを愛されたのは、イスラエルが他よりも優れているからでも、他より正しいからでも、ない。
神が私達を愛されたのは、私達が他よりも優れているからでも、他より正しいからでも、ない。
神は愛だから。
ただそれが、理由である。
『神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。』(1ヨハネ4:9-10)

私達の側には元々、聖なる神に愛される理由なぞ、何も無い。
むしろ、神の怒りを引き起こす罪深さだけがある。
罪の中に生き、神の愛と憐れみを受けるに相応しくない私達であるが、神は、ただ一方的に私達を愛し、ひとり子を世に遣わし、彼によって私達を生きるようにして下さった。その事によって、私達に、神は愛であられる事が分かった。

すなわち、神は、私達がまだ敵であった頃、ひとり子を身代わりとして私達のために捧げて下さったのである。
『わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。』(ローマ5:6-8)
神の愛は、まさに、人間の感覚をはるかに超えている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)

神がイスラエルに、約束の地を与えられ、その地の先住民に勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地に元々いた住民が、邪悪だからだ。
その事は、アブラハムの時代に、既に主が言っておられた。(創世記15:16)

神は、このイスラエルの先祖・アブラハムの信仰と従順の故に、イスラエルを愛された。
『それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。』(申命記7:9)
アブラハムは神を信じ、それが義とされた。そして、自分のひとり子を捧げる程に、主への信仰を示したからこそ、神はアブラハムの子孫を祝福されたのだ。
そして、その恵みは千代まで、と約束されている。
それ程に愛を示して下さった神に、なお反逆するとするなら、当然、滅びが待っている。
『それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。』(申命記7:11)

礼拝説教メッセージ音声:滅ぼし尽くすべき敵(申命記7:1-6):右クリックで保存

『あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。』(申命記7:1-2)

ヨシュア記の快進撃を読んでいると、イスラエルは、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
ここに記されている通り、これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かった。
実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した程だった。

しかし主は言われる。
『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。』(申命記7:17-18)
主の言葉は、出エジプトした父の世代の時も、それから40年経った申命記の時代も変わらない。約束の地へ行って、滅ぼすべき民を、滅ぼし尽くせ、である。
実際、主が言われた通りに、聞き従って行くなら、あのヨシュア記の快進撃となる。
しかし、恐れをなして退くなら、民数記の荒野の40年の放浪となるのだ。

主の約束を信じ、命令どおり行くなら、必ず勝利が待っているが、そこで、イスラエルが気をつけなくてはならない事がある。
『また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ、そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。』(申命記7:3-5)

主の怒りを引き起こすような習慣に染まり切った、異邦の男や女とは、結婚してはならない。
実際、二万四千人が倒れたペオルの事件やコズビの事件の原因は、異邦の女との結婚が元であり、イスラエルの中に、みだらな事や偶像礼拝が、はびこったためだ。

『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。それはキリストにある私達も同じである。
だから、先住民がそこで行っていた汚れた行いの、痕跡すら残してはならないし、私達も以前のような暗闇の生き方を捨て去るべきなのだ。

人は思う。
邪悪な民を滅ぼすのに、主はなんでわざわざ人の手に任せたりするのか。主がソドムを一瞬にして火で焼き滅ぼしたように、それをしてくれればいいのに、と。
そうしてくれれば自分達は戦争に行く必要は無いし、誘惑の元凶とも相対さずに済むし、不従順に陥ってしまう危険性も無いのに、と。

まず覚えておくべきは、主は、見境なく火を降して一気に滅ぼすようなお方ではない。
実際、ソドムの時も、問答無用で滅ぼす事をしなかった。
主は、ソドムを火で滅ぼす前に、アブラハムの執り成しを聞かれたし、また、ちゃんと使いを遣わして義人がそこにいるかを確認し、ロトを逃してから、火を下された。
主は、主に立ち返る異邦人が救われる余地も、残しておられるのだ。それで、遊女ラハブとその家族は救われた。

また主は、あえて誘惑となりそうなものを人の前に置き、その人自身の自由意志によって、それを拒否するよう、命じられる。エデンの園に、いのちの木の他に、善悪知識の木を生えさせたように。
なぜなら神は、人間をロボットのようにではなく、自由意志を持った「神の似姿」として創造され、地を支配するよう創られたからだ。
親が学校に居座って、四六時中、子供の隣で手取り足取り指示したり便宜を図っていたりしたら、子供は不健全に育ってしまうように、主は、人間をご自身の「子」として扱われ、子の領分では、子の自由意志に任せているのだ。
子が自ら親のアドバイスに従って行動するなら、学校での生活も自然と充実して行くように、私達も、この世界において、御言葉のアドバイスに従って行動するなら、この世で大いに祝福されるのだ。

主は、滅ぼすべき民を聖絶するよう命じた。
同じように、私達の内にも、滅ぼし尽くすべきものがある。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

出エジプトしたイスラエルの民が、約束の地に巣食う先住民には「絶対かなわない」としりごみしたように、私達も、思うかもしれない。自分の内に巣食う、この情欲や不品行、これらと戦っても絶対にかないそうにない、と。
しかし、主ご自身が強敵と戦い快進撃したように、私達も、主に従順し服従し続けるなら、私達の内に巣食う情欲や不品行などは、御霊がそれらを殺し、快進撃し、今まで入れなかった幸いな領域にやすやすと入って行けるのだ。
「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)

私達には、二つの選択がある。肉に従って生きるか、御霊に従って生きるか。
もし主に頼り、御霊に従って生きる決断をするなら、主が働いて下さり、今までの私達には決して出来なかった事がすんなり出来るようになり、罪と死に勝利し、多くの祝福を勝ち得る事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:子供たちへの信仰のQ&A(申命記6:20-25):右クリックで保存

今回の箇所では、子供からこう質問されたら、こう答えなさい、という、Q&Aを示している。
『後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、「われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか。」』(申命記6:20)

子供が信仰についてする質問は、時に、本質を突いて鋭い。
皆さんは、子供に限らず、未信者から信仰について質問された場合に、答える準備は出来ているだろうか。
ペテロは言っている。
『また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。』(1ペテロ3:15-16)
故に、キリスト者は日々、いつでも私の望みについて、やさしく、慎み深く弁明できるよう準備しておくべきであり、また、あかしのため、そして主キリストがそしられないために、良い生活を心がけるべきである。

信仰に関する質問をされた時は、自分は以前どのような状態で、主はそんな私達に、何をして下さったか。それをまず説明すると良い。
『その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。』(申命記6:21)
イスラエルはかつて、エジプトの奴隷だった。主はそこから力強い御手で救い出された。
私達も以前は、罪に縛られ、サタンの奴隷状態だった。しかし主は、そこから偉大な御手によって救い出して下さった。
その過程がエペソ書2章に詳しく記されている。

『あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。』(エペソ2:11-13)
これが、主が私達に為して下さった事である。
キリストは、私達の身代わりに十字架上で罰される事によって、神と私達との間の隔ての壁を打ち壊し、神との平和をきたらせて下さった。

今や私達は、主にあって、どのような立ち位置を得ているだろうか。
『あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(同19-22節)

当教会では、信徒の事を「聖徒」とよく呼んでいるが、あるクリスチャンは、一般のキリスト者を「聖徒」と呼ぶのはおこがましいのでは、と言う。
確かにクリスチャンは罪を犯すし、自分が「聖なる人」だとは到底思えないかもしれないが、ヘブル2:2に「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」と書いてあるし、エペソ書にも、あなたがたは、もはや「聖徒たちと同じ国籍の者」であり、「神の家族」である、と記されている。

私達キリスト者は、使徒や預言者という土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエスご自身が、隅のかしら石となっているのだ。
このキリストにあって、私達は古今東西の「聖徒たち」という建物へと組み込まれ、聖なる宮へと成長し、主にあって共に建てられて、霊なる神の住まいとなって行くのである。
そのように記されているからには、私達はアーメンと言って信じ、受け入れるのが筋であって、「信じられないから」と、御言葉に変な解釈を足すべきではない。

続いて主は、イスラエルを虐げてきた敵に対し、主はどうされたのか、という事も、子どもたちに教えるよう命じられた。
『主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。』(申命記6:22-23)
主はイスラエルのために、奴隷生活を強いてきたエジプトを処罰し、そこからイスラエルを救い出して、約束の地へと導き入れて下さった。
同じように、主は私達のためにも、奴隷を強いてきた罪とサタンを処罰され、そこから私達を救い出し、永遠のいのちへと導き入れて下さった。

また私達は、何のために主を信じ、どうして主の命じられた事を守り行うかを、そして、それら主のいましめを守り行ったらどうなるかも、子どもたちにしっかりと教えるべきである。
『そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。』(申命記6:24)
主の命じられた事を守り行うなら、常に幸いであり、また、主に守られ、命を保つ事が出来る。
このように私達は、子供たちへ信仰を継承するのである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福されるための条件(申命記6:10-19):右クリックで保存

『あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。』(申命記6:10-11)

主はイスラエルに、大きな美しい町々を得させ、良い物で満ちた家を得させ、良い井戸やすばらしい実りを実らせる畑を得させ、食べ飽きさせて下さる。
しかしそれらは全て、自分が頑張ったり努力したりして得たものではない。主が、得させて下さるのだ。
同じように、私達も、主の御言葉に従順し、服従するなら、主は必ず私達を、多くの良き物で満ち足らせて下さる。

しかし、祝福されて満ち足りた時こそ、私達は気をつけるべきである。
主にいつも従順するよう気をつけていた、あのダビデでさえ、満ち足りた時に、罪深い事をした。
だから以下のアグルの祈りは、自分を良く知り、とてもわきまえた祈りである事が分かる。
『わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。』(箴言30:7-9)

続いて主は「してはならない」を示した。
『あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。』(申命記6:14-15)
神が特別に目をかけたイスラエルさえ、地のおもてから滅ぼされるような罪、それは、まことの神、主を捨てて、他の神々に従う事である。
実際イスラエルは、モーセの時代には六十万以上おり、ダビデの時代には、全イスラエルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人いたのに、バビロン捕囚後にイスラエルに残った民は、エズラ記によると、わずか四万ほどしかいなかった。

神と人とは、夫婦のような愛の関係にある故、他の神々に従う事は、霊的姦淫である。
私達も、赤の他人が浮気していても、痛くも痒くもないが、それが自分の伴侶だとしたら、どうだろう。
同じように神も、異邦人が偶像の神々を拝んでいても何でもないが、私達主の民が、他の神々に従って霊的姦淫を行うとしたら、主は「ねたむ神」として災いを降し、いかに栄えていようとも、たちまち落ちぶれ、無い者のようになってしまう。

また、主を試みる事、それもしてはならない事である。
『あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。』(申命記6:16)

主を試みるなら、その人は主の怒りを買って、安息に入れなくなってしまう。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った。」(ヘブル3:7-11)

イスラエルはマサで、水が無かった時、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた。
その結果、主はモーセに命じ、岩から水を出させた。
岩砂漠の岩から、六十万以上が満ち足りる程の水が湧き出てくる。これは驚くべき奇跡である。
それを見ておきながら、実際飲んでおきながら、主に対して何の感謝もなく、学ぶ所ない人々は、次は肉をくれ、と言い、さらに図に乗って主を試みた。
だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」のである。

『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。』(申命記6:18-19)
会社の経営者は、時間給で働くアルバイトと違い、自ら市場調査をし、顧客が喜ぶ事を自主的に考えて、その通り実行するが、同じように私達も、主が喜ばれる事を自主的に考え、自ら御言葉に調べ、その通り行動すべきである。

私達は、言われた事だけを嫌々ながら行い、それ以上の事をしない「霊的アルバイト」であってはならない。
そのような人には、実入りも喜びも、やりがいも少ない。
何が御心なのか、何が主に喜ばれる事なのか、御言葉をひもといて調べてみよう、こう書いてあるからそのように行動しよう、と、自らすすんで主に喜ばれる事をする人には、『あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。』という祝福の約束があるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:最も大切ないましめ(申命記6:1-9):右クリックで保存

今回の箇所は、イスラエルに与えられた戒めの中でも、最も重要な掟である。
『これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。』(申命記6:1)
この重要な一連の命令の中で、繰り返し命じられている事は、「聞きなさい」「子孫達に教えなさい」「守り行いなさい」である。

この、聞く事、子に信仰を受け継がせる事、守り行う事は、今日のクリスチャンにとっても大切な教えであり、それを守り行うなら、以下に記されている御言葉の通り、幸いを得、長く命を保つ事が出来、乳と蜜の流れる地で、大いに増え広がっていく事が出来る。
『これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。』(申命記6:2-3)

「乳と蜜の流れる地」は、モーセ五書では良く聞く言葉だが、乳は、聖書の他の箇所では御言葉をあらわし(1ペテロ2:2)、蜜もまた、御言葉をあらわす。(エゼキエル3:3、詩篇119:103、黙示録10:10)
御言葉に親しめば親しむ程、それは蜜のように甘く、乳のように滋養に富んだものである事が分かり、ますます豊かな養いを得て行く事になる。
それ故、私達・神の民にとって大切な事は、御言葉に聞き従い、甘く味わい、喜び、御言葉を教え継がせて行く事である。

『イスラエルよ聞け(ヘブライ語:シェマー・イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』
この、申命記6章4節の言葉は、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心的言葉であり、ユダヤ人にとって最後に言う言葉、両親が子供に夜寝る前の言葉として教えるという伝統がある。

『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』(申命記6:4)
続くこの言葉も、福音書に何度か出てくる言葉で、イエス様も「律法の中で最も重要な戒め」とした。(マタイ22:37、マルコ12:30、ルカ10:27)
それ程、聖書の中で重要な言葉である。
私達もそれを忘れる事なく、誰かから「聖書の中で最も大事な戒めは何か」と聞かれた時は、すぐにこの言葉を答えられるよう、心がけているべきであり、またキリスト者であるなら、それを日々、実際的に守っていくべきである。

『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。』(申命記6:6-7)

御言葉を子供に教える事、これも大切な事である。
今の日本では、子供の信仰については親は関与しなかったり、また、子供を生みたがらない親さえ多いが、それは聖書的ではない。
聖書の示している「子育て」の中で、最も優先すべき事は、御言葉を教えることであり、御言葉を寝ても覚めても、家の中でも家の外でも口ずさむ事である。

皆さんは、子供に習い事をさせたり、受験させたりする事以上に、御言葉を教える事に心砕いて来ただろうか。
御言葉を昼も夜も口ずさみ、守り行わせるのであれば、学業も自然と祝福され、優秀になって行く。
実際、ユダヤ人は世界の人口の0.25%しかいないのに、そのユダヤ人がノーベル賞の20%を獲得しているのは、小さいころから御言葉を昼も夜も口ずさませているからだ。
『わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます。
わたしはみ言葉を守るために、わが足をとどめて、すべての悪い道に行かせません。あなたがわたしを教えられたので、わたしはあなたのおきてを離れません。あなたのみ言葉はいかにわがあごに/甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。』(詩篇119:99-104)

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の先にある分かれ道(申命記5:22-33):右クリックで保存

主が、大きな火の中から十戒を授けられた時、民は恐れ、モーセに言った。
『およそ肉なる者のうち、だれが、火の中から語られる生ける神の声を、われわれのように聞いてなお生きている者がありましょうか。あなたはどうぞ近く進んで行って、われわれの神、主が言われることをみな聞き、われわれの神、主があなたにお告げになることをすべてわれわれに告げてください。われわれは聞いて行います。』(申命記5:26-27)

主が圧倒的な臨在の中から御言葉を語られる様は、とても恐ろしく、人は無事に立ちおおせるものではない。
預言者イザヤも、エゼキエルも、ダニエルも、使徒ヨハネも、その圧倒的「聖」を前にして倒れ、死人のようになった。
人がそのままで主の御前に立つなら、主のあまりにも「聖」なる有り様に打たれて死んでしまうのだ。

しかし、いずれの聖徒も、死ぬことはなかった。
むしろその時、主は「恐れるな」と言って、立ち上がらせて下さり、御言葉の深みへとさらに導いて下さった。

モーセも民に「恐れるな」と言った。しかし民は恐れ、近づこうとはしなかった。(出エジプト記20:18-21)
モーセも「わたしは震える」と言った程、恐ろしかったのだが、それでもモーセは、民を残し、一人、主の御元に近づいて行った結果、彼は死ぬ事なく、誰よりも主と親しく交わり、主から直接の御言葉の養いを受けた。

イスラエルの民のように、直接主に近づこうとせず、モーセなど霊的指導者に「あなたが代わりに行って下さい、わたしは聞き従いますから」と言うような人の信仰には、やはり、脆弱さがある。
その証拠に、イスラエル民はその後、わずか40日後に、早速偶像を作って、その前で座しては食い飲みし、立っては戯れた。
主があれだけはっきりと、圧倒的な臨在の中から「わたしの他に神があってはならない」「偶像を作ってはならない」と戒められたというのに。
しるしや現象ばかりを追求し、いかに多くそれらを経験しても、御言葉に直接向き合おうとしない者は、すぐ御言葉を忘れ、主を怒らせる事をしてしまうものなのだ。

御言葉の剣が立った時、私達には、二つの道しか無い。
聞き従って、いのちを得るか。それとも、従わずに死へ向かうか。

御言葉を元に祝福と呪いの道を示したのに、どちらを取るとも言わず、5分も10分もただ沈黙してやり過ごそうとする人達を見て来たが、そういう人は、御言葉に聞き従う事は嫌、でも、聞き従わない結果の災いも受けたくない、という、どっちつかずの人だ。
そのように「御言葉に沈黙する人」が刈り取ってしまう実は、「手足を縛られ、外の暗闇に追い出され泣いて歯ぎしりする」という実である。(マタイ22:12)

主の願いは、人が常に、主に対する恐れと敬意を持ち、御言葉を守り、そして、子々孫々と永遠に幸いを得る事である。
『ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。』(申命記5:29)

私達は「守り行え」と言われる時、ある種の窮屈さを覚えるかもしれない。
しかし、主の御言葉を守り行った先には、必ず幸いがあるのだ。
『それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。』(申命記5:32-33)

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第十戒(申命記5:21):右クリックで保存

十戒の第十戒は、『あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。』(申命記5:21)である。
ここの箇所も、出エジプト記の記述と若干違っている。

見比べてみると、出エジプト記では、主は「隣人の”家”をむさぼってはならない。」と始まるのに対し、申命記では、「隣人の”妻”をむさぼってはならない。」と始まる。
モーセが四十年、イスラエルを指導したり観察し続けて来た結果、「隣人の家」より「隣人の妻」を気をつけるべきだと気付き、そこを強調したのかもしれない。
現代日本でも、浮気、というと、そんなに珍しいものではなくなっているが、それ程に、人が陥りやすい罠である。
隣人の妻、それは、手を出してはならない禁断の実であり、それに手を出したら、両者の家族を、もろとも破滅へ突き落としてしまうものだ。

この箇所の「むさぼる」あるいは「欲しがる」と訳されたヘブライ語「カゥマド」は「好ましく思う」、「あこがれる」等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は、大抵の国にあるだろうが、隣人のものを欲しがったり、あこがれたりしてはならない、という法律は、とても珍しい部類に入るかもしれない。
しかし、この「他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心」こそ、自分の身ばかりでなく、自分の周り全体をも滅びへと導いてしまう根源である。

この「カゥマド」という言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには「好ましい(カゥマド)」と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木に手を伸ばして、人類全部に罪と死を導入してしまった背景に、この、「好ましい(カゥマド)」があったのだ。

もう一つ、多くの人を滅びへと導いた事例の中に、ヨシュア記のアカンがいる。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、「ほしくなり(カゥマド)」、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20-21)

彼は、手に入れてはならぬ「聖絶すべきもの」を欲しがり、それを自分の中に導入した結果、イスラエル宿営全体を「聖絶すべきもの」としてしまい、それが明るみに出された暁には、彼自身だけでなく、彼の家族をも滅びへと導いてしまった。
この、自分の分ではないものを、欲しがったり、あこがれたりする心こそ、自分だけでなく、自分の家族をも滅びへと導いてしまう根源である。

なお、聖書の他の箇所を見ると、カゥマドする事が、大いに推奨されるべきものもある。

『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。』(詩篇19:7-11)
主のおきて、主のあかし、主のさとし、主の戒め、主へのおそれ、主のさばき。それらは、大いにあこがれ求めて良いものである。
それらの良さ、麗しさが分かると、ますますそれらを純金よりも慕わしく、蜜よりも甘く慕わしいものとなり、ますます祝福され、大きな報いを受けるようになるのだ。
また、もう一つ、慕い求めて良いものがある。

『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな「喜び(カゥマド)」をもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。』(雅歌2:3-4)
皆さんの伴侶も、慕わしく求めて然るべきものである。
そして私達にとって、慕い求めるべきまことの主人は、キリストである。

自分の領分に入れてはならない禁断のものは、手に入れてしまうと、自分だけでなく、周囲をも滅びへ突き落とす。
私達はそうではなく、御言葉を、伴侶を、そして真の主人であるキリストをこそ、慕い求めるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第八、第九戒(申命記5:19-20):右クリックで保存

十戒の第八戒は、『あなたは盗んではならない。』(申命記5:19)である。
盗むとは、勝手に他人の領域に侵犯し、他人の所有物を自分のものとする事であるが、これこそ、サタンの性質である。
神は、私達人間を、神の子として召されたのだから、私達はサタンの性質を帯びてはならない。

サタンは元々、神をたたえる天使であったのに、自分のおるべき所をよしとせず、神の栄光を盗もうとして、神の領域である栄光の座に侵入して来た。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を主はさばき、地の底へと落とす。
『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)

主のご性質は、盗人や強盗とは真逆である。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:7-11)
盗人は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする。それに対し、主は私達にいのちを得させ、それも、豊かに得るようにさせて下さる。
そしてよき羊飼いであられる主は、私達羊のために、いのちを捨てて下さった。
サタンはいのちを奪い、主は、いのちを与える。
だから私達は、盗むという性質を捨て去るべきである。

十戒の第九戒は、『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(申命記5:20)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質に「偽り」なるものは無い。
偽りは、サタンのアイデンティティとも言える性質であり、その性質は私達の内から滅ぼし尽くすべきものだ。

『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。
悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。

私達は誰に対しても、「偽り」というサタンの性質に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるが、同じように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきなのだ。

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