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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:メズーザー(申命記11:13-21):右クリックで保存

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)

祝福の条件は、やはり「命令によく聞き従う事」であり、既に6章でも命じられた通り「あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕える」事である。
モーセはこの命令を再度繰り返したし、イエス様もこれは最も大切な戒めであると言われた。
これをするなら、主は、秋の雨と春の雨を時に従って降らせ、穀物や果物を豊かに取り入れさせ、また、家畜のための養いも豊かにして下さる。

『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)

前回の箇所では、イスラエルがこれから入ろうとしている地が、どんなに素晴らしいかが、強調されていた。
そこは、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている地、主の目が年がら年中注がれている良き地であるが、しかし、もし主から離れ去り、偶像を拝むようになるとするなら、その良き地は、逆に不毛の地となり、災いと滅びの地に早変わりしてしまう。
実際、エリヤの時代のイスラエルがそうだった。(1列王記17章)
当時の王・アハブも、またイスラエルの民も、バアルやアシェラ等の偶像礼拝を盛んに行ったために、天の雨が閉ざされ、それで三年たってもなお主に立ち返ろうとしなかった。
しかし、イスラエルの民が「主こそ神です」と叫び、バアルやアシェラの預言者を殺したところ、イスラエルに雨が戻ってきた。

私達は、どんな良きポジションを得るかを求め急ぐより、もっと大切な事がある。
荒野にいようとも、乳と蜜の流れる良き地にいようとも、私達を導かれる主を愛し、主の命令を守り行う事が、はるかに大切だ。なぜなら、いかに乳と蜜の流れる豊かな地にいようとも、どんなに富や権力、名声を手に入れようとも、もし、主から心が離れ、主以外の何かを主以上に頼りとするなら、どんなに頑張っても、必ず廃れ、滅んでしまうからだ。

そして私達は、体だけ礼拝に参加すれば良いものではない。
いかに、礼拝や聖徒の交わりに欠かさず参加しても、それらの中で取り交わされる「御言葉」に対する感動や喜び、主イエス様に対する感謝も、期待する心も無いなら、ただ、聖なる時間と空間と、愛さん会のお菓子を食いつぶしているだけである。
大切なのは、どこにいるかではない。誰といるかでもない。
本人自身が、御言葉なる主イエス様と、どのように向き合うか、である。

『それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。』(申命記11:18-21)

ユダヤでは、今回の箇所・申命記11:13-21が、小型の羊皮紙に記したものを、メズーザー(ヘブル語で「門柱」)と呼ばれる小型のケースに納め、それを家の柱や門柱に打ち付けている。
それは「家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。」という命令を、そのまま守り行うためである。

しかし、御言葉を門に打ち付けたり、トイレに飾ったりする事よりも、むしろ御言葉を心に打ち付け、御言葉通りの良き行いで身を飾る事のほうが大切である。
パリサイ人は、御言葉の書かれた経札を額に結びつけ、その経札の幅を広くするなど、人に見せるためのパフォーマンスは派手にして、それでいて、正義やあわれみ、誠実という、さらに大切にしなくてはならないものを、おろそかにしている様を、主に咎められた。(マタイ23章)

大切なのは、御言葉に書いてある事を、信仰によって結びつけ、実践する事である。
そうでないなら、聞いた言葉も、益とはならない。
『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。』(ヘブル4:2-3)

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
御言葉をしっかり心に刻み、御言葉どおりの行いによって身を飾り、申命記に約束されている通りの幸いと祝福にあずかる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の目が注がれ、天の雨で潤った地(申命記11:8-12):右クリックで保存

『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)
主の御言葉を守り行うなら、実に多様な、祝福の特典にあずかれる。
今回、モーセはその特典の一部として、「強くなり」「渡って行って取ろうとする地に入り」「それを取ることができ」「そこで長く生きる事が出来る」特典を披露している。

主がイスラエルを導き入れようとしておられる地は、どんな地か。
そこは、主がアブラハムの子孫に与えようと、400年以上も前から常に目を注ぎ、準備しておられた地。
乳と蜜が溢れ流れるような、滋養に満ちた甘さが満ち溢れるような地である。
神は私達も、世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされており、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。(エペソ1:4-5)

『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』(申命記11:10-12)

イスラエルの民は、荒野の旅路で、何度か、エジプトをなつかしんだ。
確かにエジプトは、ナイル川によって潤っているが、主がこれから導き入れようとしている地は、そんなものではない。
主が導き入れようとしている地は、山あり谷ありの地であるが、汗水流して労苦する所でもない。
エジプトでは、人が目をかけて畑の面倒を見なくてはならなかったが、この地は主の目が常に注がれ、主がいつも面倒を見ておられる地である。

創世のはじめ、地は、沸き上がってくる泉によって全地が潤っていたが(創世記2:16)、同じように、主が導き入れようとしておられる地は、年の始めから年の終わりに至るまで、いつも主が目を留めておられ、天の雨で潤っている地である。
神の国とは、そういう所である。
人が夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
人が知らなくても、神の国の地は、おのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。そして実がいると、すぐにかまを入れる。(マルコ4:28-29)

人が主の御言葉に従順に歩んでいた時代、まだ善悪の木から取って食べず、神から離れず、罪も死も無かった時代の土地は、年がら年中、端から端まで、主のケアが行き届いていて、あらゆる良き実が成っており、人は、どの木からでも、思いのまま取って食べて良かった。ただ、善悪の知識の木を除いて。
今の世界は、その良き世界とは、かけ離れている。人は、額に汗を流して労苦し、食を得なくてはならない。
その理由は、ひとえに、主の命令に聞き従わなかった結果である。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」(創世記3:17-19)

汗水流し、いばらやあざみと格闘して、苦しみつつ食を得る。
エジプトはまさに、そのような状態であった。イスラエルの民はその状態をなつかしんだが、それは世から奴隷としてこき使われ、一生苦労するパターンである。

『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:主の力強さと恐ろしさ(申命記11:1-7):右クリックで保存

今回の箇所では、モーセは約束の地に入ろうとしているその世代に対し、主の民を虐げた者達に対して為された恐ろしい御業を、思い起こさせている。

『あなたがたは、きょう、次のことを知らなければならない。わたしが語るのは、あなたがたの子供たちに対してではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを知らず、また見なかった。』(申命記11:2)
エジプトから脱出した当時の成人男性は、主の大いなる御業を見、体験しておきながら、主を信じず、主に逆らったため、ヨシュアとカレブを除いて、全て死に絶えてしまった。

モーセは言っている。主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを経験したのは、他の誰でもなく、あなたがただ、と。
私達も、他の誰でもなく、私自身が、主の命じられた事を守り行うべきである。
主の力強い御手のわざが働かれるのを見て経験し、主の訓練を受けたからには、それなりの責任も問われるのだ。

『また彼らは主がエジプトで、エジプト王パロとその全国に対して行われたしるしと、わざ、また主がエジプトの軍勢とその馬と戦車とに行われた事、すなわち彼らがあなたがたのあとを追ってきた時に、紅海の水を彼らの上にあふれさせ、彼らを滅ぼされて、今日に至った事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
主は、イスラエルを400年もの間虐げてきたエジプトに、モーセを使わして警告を与え、それでも頑なにイスラエルを去らせようとしなかったエジプトを、十の災いで打ち、さらには、軍勢や馬、戦車でイスラエルを追い迫ってきた者達を、紅海の水で滅ぼした。
主は明確に、神の民とそうでない者とを区別され、主の民は主のプライドにかけて守り、主の民を虐げてきた者に対しては、いつまでも悔い改めないなら、恐ろしい災いを下されるのだ。

『またあなたがたがこの所に来るまで、主が荒野で、あなたがたに行われた事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
次にモーセは、イスラエルの一人一人が、荒野で実際に体験した、主の大いなるわざを思い起こさせている。
彼らは40年の間、日々、超自然的に与えられるマナによって養われ、40年もの間、彼らについて来た岩から水を飲み、着物も磨り減らず、足も腫れなかった。そして、昼は雲の柱、夜は火の柱によって守られ、導かれて来た。
彼らは奇跡そのものを食べ、飲み、着て、導かれて歩んで来たのだ。

私達も日々、主によって養われている事を、忘れてはならない。
主は、確かに衣食住の養いを下さるが、日々キリストにあって霊的なパンを、霊的な飲み物を私達に与え、それらによって養っておられる。
『わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。』(1コリント10:1-6)

いかに神の民として神に養われた経験があろうとも、悪をむさぼるなら、主は確かにその者を滅ぼされる。
モーセはその事を思い起こさせている。
『ルベンの子のエリアブの子、ダタンとアビラムとにされた事、すなわちイスラエルのすべての人々の中で、地が口を開き、彼らと、その家族と、天幕と、彼らに従うすべてのものを、のみつくした事などを彼らは知らず、また見なかった。しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。』(申命記11:6-7)

ダタンとアビラムは、モーセからの話し合いの提示を無視し、自分の天幕に引き込んでいたが、主は、彼らの足元の地の口を開き、彼らの天幕ごと地の奥深く落ちて行かせ、生きたまま、よみに降らせた。
主は確かに、主の民を虐げる異邦人に対して災いを下されるが、主の民が主に逆らった場合に下される災いは、それより、もっと恐ろしいものである。

イスラエルの民は、それらを見たのだから、主を恐れ、主の教えを子々孫々に伝えなさい、とモーセは言っている。
私達も、主の恐ろしさと力強さ、そして、憐れみ深さと、愛に満ちておられるご性質を、周りの人達に、そして子々孫々に伝えるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:心の割礼を受けよ(申命記10:12-22):右クリックで保存

『イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。』(申命記10:12-15)

主がイスラエルに、そして私達に求めておられる事、それは、心をつくし、精神をつくして主を愛し、主に仕え、主を恐れ、主の道に歩む事であり、そうするなら幸いを得る。
これは既に、幾度も聞かされた事であり、申命記の核とも言える命令である。

主の祈りや使徒信条などもそうだが、私達は、幾度も同じ事を言われたり繰り返されたりすると、次第にその内容が漠然として来て、意味を忘れてしまいがちになってしまうが、そうならないよう気をつけたい。
例えば、総理大臣など地位の高い人から、何か重要な仕事を任された時、きっと皆さんは、心をつくし、精神を尽くしてそれを思い巡らし、為すべき事を尋ね求め、粗相のないよう頑張るであろうが、皆さんは、総理大臣よりも遥かに地位の高い主の奉仕に当たる時、心をつくし、精神を尽くして、主に喜ばれる事を尋ね求め、御言葉を思い巡らし、主に対して粗相のないよう頑張っているだろうか。
私達は、繰り返す所に、慣れてくる所に油断が生じてしまいがちになるため、そこを気をつけたい。

『それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。』(申命記10:16)
割礼とは、肉を削ぎ取る事であり、肉とは、人間生来の罪に傾く性質や、神を除外した人間的な力や考え方全般である。
神はアブラハムに、男子は全て包皮の肉を切り落とす「割礼」を、契約のしるしとして与え、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、「肉を削ぎ落とす事」は、神の民としての必要条件である。(創世記17:9-14)
重要なのは、肉体に割礼を施す割礼よりも、むしろ、心の割礼である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

心が肉に覆われているなら、すなわち、肉体的な力や世的な考え方を野放しにし、罪へと傾く性質を放置したままにしているなら、その心は罪人と何ら変わらず、神の民としての条件を果たしていない。
私達は、神から離れた思考や、自己中心的な罪深い行動パターンという「肉」を排除し、心の割礼を受けなくてはならない。

『あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。』(申命記10:17)
主は公平なるお方であり、人々を偏り見ず、在留異国人を愛される主である。

律法を読むと、あたかも主は、異邦人は容赦なく滅ぼしつくすべし、と言っているように錯覚してしまう事もある。
しかし、主が言われる「滅ぼし尽くすべき者」とは、カナン人やエブス人など、約束の地に巣食う邪悪な先住民であり、選民以外の異邦人は全て殲滅すべし、という事ではない。
主は、イスラエルの神・全能なる主を慕い求めて集う異邦人に対しては、恵み深い。
それだから私達のような、東の果てに住んでいる異邦人さえも、この主の憐れみが注がれ、主キリストにあって救われたのである。

『あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない。彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた。』(申命記10:20-22)

イスラエルをこのように数多くして下さったのは、主である。
エジプト滞在中のイスラエルのように、一つの民族がもし虐待されるなら、普通なら人生に希望を見いだせず、結婚して子供を産む事にも消極的になり、その民族は減っていくものだが、イスラエル民族は逆にますます増えて行った。(出エジプト1:12)
まさに、主が直接介在して、いのちを増やして下さったからである。

それは、既に再三言われた通り、イスラエル人が誰よりも正しいからではない。
主が恵み深く、御心のご計画をもって、アブラハムの子孫を通して世界を救おうとされたからである。
だから主は、イスラエルに、心の覆いを取り除き、心の割礼を受けよ、と命じているのである。

私達も、心を覆っている肉的な思いを切り落とし、霊的な割礼を受け、いつも霊的感受性を清く保ち、思いを新たにしておくべきである。
どのようにしてか。
それは、キリストを通してである。
『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

礼拝説教メッセージ音声:新約の主の務め(申命記10:1-11):右クリックで保存

主は、モーセの執り成しを聞いて下さった。
『その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。さきにおまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り、また前のような石の板二枚を切って作り、その二枚の板を手に持って山に登った。』(申命記10:1-3)

最初に主から与えられた石板は、切り出しから彫刻まで、100%、主ご自身の手によるものだったが、民が早くも、契約違反を犯したため、モーセ自身の手によって粉々に砕かれてしまった。
しかし主は、モーセの執り成しの祈りを聞かれ、再び契約の板を与えて下さる約束をして下さった。
この板は、今度は、人の側が用意し、主の御前に持って行かなくてはならない。
そして、それを主の御前に差し出した所、主は、その板に再び御指でもって、主のさとしを刻み付けて下さった。

これらの事は、旧約と新約の有り様を、良くあらわしている。
この世界は100%、主の御手の技によって成り立っており、創世の当初は極めて良い状態だった。
しかし人は、たった一つ与えられていた約束に違反し、主が創造された、この極めて良き世界を台無しに、めちゃくちゃにしてしまった。
主イエスは、そんな罪深い人間のために執り成し、十字架上で受けられた苦しみによって神をなだめて下さった。
人は、このイエス・キリストの執り成しによって義とされた事を、信仰をもって受け入れ、そして、自らの身を主のもとへ持っていくなら、主は、御言葉をその人の心の板に書き記し、もはや、神の言葉と私達とは離れ離れになる事は無くなるのだ。

『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。・・・
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

『こうしてイスラエルの人々はベエロテ・ベネ・ヤカンを出立してモセラに着いた。アロンはその所で死んでそこに葬られ、その子エレアザルが彼に代って祭司となった。』(申命記10:6)
モーセは、金の子牛の事件の時、大祭司アロンのためにも執り成して祈り、それで、アロンも打たれずに済んだが、結局、人間の祭司は不完全であり、やがては死ぬ運命にある。
だから人には、罪のない、死の無い、まことの大祭司が必要であるが、主イエス様がそのまことの大祭司として立って下さった。
『彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。』(ヘブル7:25-27)

『その時、主はレビの部族を選んで、主の契約の箱をかつぎ、主の前に立って仕え、また主の名をもって祝福することをさせられた。この事は今日に及んでいる。そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。』(申命記10:8-9)

レビ人も、祭司と同じように、主の名をもって民を祝福するようになった。
レビ人は主の前に立って「仕える人」(英語の聖書ではミニスター)であり、現代において、ミニスターは、牧師や宣教師に限らず、キリスト・イエスにあって、主のために働く人全てが、それである。
レビ人には、土地の分け前は無く、主ご自身が分け前であるが、同じように、キリストにあって主の働き人とされた私達も、世の何物かに報酬を求めるのではなく、主イエス様ご自身を、報酬として求める者達である。

『わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。そして主はわたしに『おまえは立ちあがり、民に先立って進み行き、わたしが彼らに与えると、その先祖に誓った地に彼らをはいらせ、それを取らせよ』と言われた。』(申命記10:10-11)

主はモーセに、民に先立って進み、主が約束された地へと導くよう命じられたが、民を約束の地へと導き入れたのは、ヨシュアだった。
ヨシュア、それはヘブライ語でイエシュアであり、イエス・キリストも、イエシュアである。
私達も、先んじて進み行って下さるイエシュア、キリストに導かれて行くなら、主が約束された地、天の王国へ入る事が出来るのである。

キリストにあって王族の祭司とされた私達は、ミニスターとしての自覚を持ち、人々のために執り成し、天の王国のために働く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:執り成しの祈り(申命記9:22-29):右クリックで保存

モーセは、民はホレブばかりでなく、その他の場面においても主に逆らってきた事を、思い起こさせている。

『あなたがたはタベラ、マッサおよびキブロテ・ハッタワにおいてもまた主を怒らせた。』(申命記9:22)
タベラで、民は主の耳につぶやいたために、主の火が燃えあがって宿営の端が焼かれ(民数記11:1)、マサでは、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試み(出エジプト記17:7)、キブロテ・ハッタワでは、民がエジプトをなつかしんで肉が食べたいと泣き言を言ったために、主は圧倒的な分量のうずらを与えたが、欲望に駆られた者は、激しい疫病に打たれて死に、そこは「欲望の墓(キブロテ・ハタアワ)」と呼ばれるようになった(民数記11章)。

『また主はカデシ・バルネアから、あなたがたをつかわそうとされた時、『上って行って、わたしが与える地を占領せよ』と言われた。ところが、あなたがたはあなたがたの神、主の命令にそむき、彼を信ぜず、また彼の声に聞き従わなかった。わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた。』(申命記9:23-24)
40年前に12人の斥候を遣わした時、民は斥候の報告に恐れをなし、主が「行け」と命じられているのに、逆らって「戻ろう」と言い出した。
自分と相手とを見比べて計算はするけれど、主がおられる事は度外視して、主に期待しない事、それは、主へのそむきである。
それで四十年の荒野の放浪が確定してしまったのだ。

『そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。』(申命記9:25)
モーセには、こんな民のために、四十日断食する義務も無いだろうに、と思えるのに、それでもなお、彼は執り成した。
霊的な親という立場であるなら、そのような事もある。
いかに、面倒を見ている相手がわがままで、聞かず屋であろうとも、その人の救いのために、あえてその人から、打たれ通し・与え通しとなる事がある。
その時は辛いかもしれないが、主に喜ばれる事である。なぜなら主は、誰一人滅びる事を望んでおられず、その人が立ち直って、救われて欲しいからだ。
そして、その人が立ち直ったのなら、その人からは、それこそ永遠に感謝されるであろう。

以下のモーセの執り成しの祈りは、注目に値する。
もし、皆さんが、誰か執り成し祈りたい人がいるなら、「あなたの民」を、その人の名前に置き換えて祈ってみると良い。

『わたしは主に祈って言った、「主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。
あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず、また彼らを憎んだので、彼らを導き出して荒野で殺したのだ」と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです。』(申命記9:26-29)

モーセの祈りの中には、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの何かを根拠に、イスラエルを弁護する言葉は、一切、無い。そもそも、人の側には、主に喜ばれるような根拠は、何も無いのだ。
だから彼は、イスラエル人の「何か」を元に執り成す事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点を突いて、神にイスラエルを執り成したのである。

実際、この短い祈りの中で「あなた」という言葉が言葉が6回も出て来る。そう、あくまで主語は、主なのだ。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。
だから、主ご自身が人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
だから、あなたのその真実にかけて、イスラエルを憐れんで下さい、アブラハムに約束されたその真実にかけて、その約束を覚えて下さい、と。
そのように、主の真実を、主の約束された御言葉を盾にして祈る祈りは、有効である。

主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びず、救われる事である。(エゼキエル18:23,31-32、ヨハネ3:16)
それで主は、破れ口に立って、執り成して祈ってくれる人を、求めておられる。(エゼキエル22:30)
私達も、使わされた場において、執り成し祈る者として、神と人との間に立ち、日々祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主に逆らった罪の数々も思い起こせ(申命記9:7-21):右クリックで保存

『あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。』(9:7a)
主がイスラエルに、カナンの良い地を得させて下さるのは、あなた方が正しいからではない、と、モーセは三回繰り返した。むしろイスラエルは、主に逆らい通しで、うなじのこわい(頑なな)民だ、と指摘し、イスラエルが今までいかに主に逆らい、主を怒らせてきたかを、詳細に思い起こさせている。

私達も、自分が主に逆らって来た数々を思い返し、その過去と正面から向き合う事は、有益である。
自分がいかに、主の御前に醜い事をして来たか、どんな迷惑を、神と人とに為して来たかを、真正面から見つめ、それを悲しみ、悔い、もう二度と神と人とを悲しませる事をすまい、と決心するのだ。
自分がして来た、悪しき事の数々にも関わらず、主は、いかに良き事をして来てくださったのか。
それを知れば知るほど、私達は、自分に与えられた冠は、全て主の御前に投げ出し、ただ、主にひれ伏す以外には無い事を、知るのである。

自分がして来た恥ずべき事を、指摘されるのを嫌がったり、そこから話題を逸そうとしたり、あるいは、指摘している人のほうを逆に訴え、攻め立てる者がいるが、そのような人は、いつまで経っても恵みの深みに入る事は出来ず、呪われた生き方から脱却出来ない。
自分の罪と向き合う事をしないから、罪は相変わらず手付かずのまま残ったままで、その罪が神との隔ての壁となり、祝福の窓は、閉じられたままだからだ。
アダムやカインが、神様から罪を指摘された時、自分の罪を認めるのではなく、逆に神を訴え、それによって呪いが確定してしまったように、罪を認めず、逆に、神や人を訴え出るのは、呪いとさすらいと拒絶を受けるべき性質である。

『あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。わたしが石の板すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために山に登った時、わたしは四十日四十夜、山にいて、パンも食べず水も飲まなかった。』(申命記9:7-9)
モーセはまず、四十年前、イスラエルがホレブ山のふもとで、主を怒らせる事をしたのを思い起こさせた。

モーセは主から契約の板をいただくために、四十日四十夜断食し、主に求めた。
それなのに民ときたら、モーセが早く無事に山から戻ってくるのを祈るのでもなく、あのモーセという者がどうなったか分からないから、私達のために、先立っていく神々を作ってくれ、と、アロンに頼んだ。(出エジプト記32:1)

『そしてわたしが見ると、あなたがたは、あなたがたの神、主にむかって罪を犯し、自分たちのために鋳物の子牛を造って、主が命じられた道を早くも離れたので、わたしはその二枚の板をつかんで、両手から投げ出し、あなたがたの目の前でこれを砕いた。』(申命記9:16-17)

契約の石板は、あまりに「聖」であり、罪ある人間が、その前に立つなら、たちまち「聖」に打たれて死んでしまう。
サムエルの時代、多くの人が石の板を、そのまま見てしまった故に死んでしまったし(1サムエル6:19)、ウザは、契約の箱が倒れそうなのを、手で押さえただけなのに、容赦なく打たれて死んだ。(2サムエル6章)

モーセが主からいただいた石の板に、真っ先に書かれてあった事は、十戒の第一戎、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」、その次に書かれてあるのは第二戎「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」である。
民は早くも、それらを破ってしまった。
この聖なる石板が、むき出しのまま、罪を飲み食いしている彼らの前にあらわれたとしたら、彼らはたちまち打たれ、誰も残らなかった事は、容易に想像出来る。
だから、モーセが石板を割ったのは、怒りに任せてというより、民を憐れみ、主に執り成すためだったのではなかろうか。

『そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。これはあなたがたが主の目の前に悪をおこない、罪を犯して主を怒らせたすべての罪によるのである。主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。』(申命記9:18)
モーセは民のために執り成すために、再び四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。

イエス様も、悪魔の試みを受けるために荒野へ出て行き、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかった。
荒野の民は、誘惑されもせずに、四十日で堕落してしまったが、イエス様は、人として悪魔の誘惑を受け、人として悪魔に勝利した。
それによって、イエス様は私達に、悪魔に勝利する術を、手本として示して下さった。すなわち、御言葉の剣による勝利の方法である。(マタイ4章)

誘惑に遭った時は、歯を食いしばって誘惑を耐えても、無意味である。
その時は、私達もイエス様のように、御言葉の剣を差し出す事によって、悪魔に勝利出来るのだ。
私達は、人間的ながんばりによって誘惑に勝つのではない。御言葉を信じ、信仰をもってそれを宣言する事によって、誘惑と悪魔とに勝利するのだ。

礼拝説教メッセージ音声:私達が正しいからではない(申命記9:1-6):右クリックで保存

イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。

『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)

信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。

そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。

「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。

『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。

『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。

私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。

主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

礼拝説教メッセージ音声:成功した時こそ気をつけよ(申命記8:11-20):右クリックで保存

『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。』(申命記8:11-14a)
モーセがここでも再度注意しているように、私達は、成功したり、富が増し加わった時こそ、最も気をつけるべきである。

アブラハムは、主がエジプトから金銀や家畜をたくさん得させて、ベテルに帰らせて下さった時、彼はかつて祭壇を築いた場所で、主を礼拝した。(創世記13:1-4)
彼は、富が増し加わった時でも、主を恐れ敬い、礼拝する事を忘れなかったが、甥のロトは、富が増し加わった事が逆に災いとなってしまった。

ロトがアブラハムと共に、生まれ故郷を離れてアブラハムについて行ったのは、アブラハムが主から祝福されているのを見、何をしても祝福される彼について行くなら、祝福のおこぼれにあずかれる、と思っていたのかもしれない。
ともかくロトは、アブラハムについて行って、実際に多くの富を手に入れた。
しかし、富を手に入れた彼は、祝福の元であるアブラハムと、彼が恐れ敬っているアブラハムの神・主と共にいる事よりも、自分が、たくさん得た富の「オーナー」である事のほうを優先させ、アブラハムから離れて行き、そして、不品行の町ソドムが「主の園のように」潤っているのを見て、そちらの方に行ってしまった。

結局ロトは、主がソドムを滅ぼされる時、娘二人と、着の身着のまま、命からがら逃げる事となり、彼の財産は全て、ソドムと共に滅んでしまった。
ロトの妻も、滅んでいくソドムを見続けたままの姿勢で塩の柱となってしまい、ソドムと一緒に滅んでしまった。
だから私達も、富が増し加わった時にこそ、注意して、主から離れないようにすべきである。

『主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:14b-16)
ここでもモーセが、主がイスラエルの民に具体的に何をして下さったのかを思い起こさせているように、私達も、主が何をして下さったかを、いつも思い返すべきである。
私達は主に対しても、主にある兄弟姉妹に対しても、恩知らずになってはいけない。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)

私の聖書の、この箇所には、ある聖徒の名前と日付が記されている。
その聖徒は当時、ある事業をしていて、その事業はあまりうまく行っていない時だったが、上記の言葉を宣言し、主が自分達を成功させて下さった暁には、決して自分の力で富を得たとは考えるまい、主が荒野のような状況で信仰を鍛えさせ、私達に富を得る力を与えて下さり、そしてついには自分達を幸せにして下さった主の導きを、決して忘れるまい、と、宣言したので、私はその信仰の告白を嬉しく思い、後の日に、この聖徒が幸いを得た暁には、「この御言葉の通り主は真実でしたね」と伝えたいと思ったので、そこに記したのだ。
実際に翌年、その事業は祝福された。
しかし残念ながら、祝福されて以来、その聖徒は、礼拝を捧げに来る事を、ぱったりと止めてしまった。
事業がだんだん衰退して行っても礼拝に来ることはなく、ほどなくしてその事業を畳み、どこかへ行ってしまった。

主を信頼し、信仰をもって御言葉を宣言するなら、主は必ず、100%、最善を為して報いて下さる。
しかし大切なのは、その後、私達が主を忘れず、当初の信仰をキープし続けていられるかである。
主に信頼して行った結果、主から幸いを頂いた、という所までの経験は、結構多くのキリスト者がしている。
しかし、その最初の信仰をキープし続けて、祝福を頂き続ける事も、同様にコンスタントにキープしていられるクリスチャンは、少数になってしまう。

『もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。』(申命記8:19-20)
英語の聖書KJVでは「ye shall surely perish. 」と、非常に強い表現である。
そうするなら、あなたは必ず、perish(突然または非業な死に方で死ぬ)と。
滅びるための手っ取り早い方法、それは、主を忘れて、他のものにより頼み、主よりもそちらを拝む事である。
全ての祝福の元である主を忘れ、他の神々、あるいは、皆さんにとって神以上に拠り頼む存在を見つけ、そちらの方に従い仕えるとしたら、必ず滅びてしまうのだ。

成功した時こそ、努めて主を思い出し、主に感謝するように、気をつける事。私達はこれを忘れないでいたい。

礼拝説教メッセージ音声:四十年の荒野の経験を忘れるな(申命記8:1-10):右クリックで保存

『わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。』(申命記8:1)
これと同じ事は、既に、申命記4:1において、また、5:32-33や、6:1-3において、繰り返し命じられている。
主の命令には必ず報いがある。
それを守って行うなら、いのちを得て、いのちが増し加わり、主が誓われた地に入り、それを自分の所有とすることが出来るが、主の命令を軽んじ、守り行わないなら、主が誓われた地から吐出され、死と呪いの実を刈り取る事になるため、モーセは繰り返し命じているのである。

『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。』(申命記8:2)
主は確かに、私達に苦しい所を通らせる事がある。
それは、私達を試み、私達の心の内にあるものを、あらわにするためである。

主は、私達の心の内を全てご存知であるから、わざわざそんな事する必要は無いのでは、と思うかもしれないが、もし、私達がまだ悪い事を「行って」いないのに、心の内で悪い事を思った、という咎で罰されるとしたら、それは不当だ、と叫ぶだろう。
しかし、もし私達が実際に行った事によって裁かれるとしたら、それは正当な裁きであり、私達は何の言い訳も出来ない。

主は、行いの実によって報いをされるお方である、と書かれてある。
『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 』(エレミヤ17:9)
だから私達は、口先だけでなく、行いによって良き実を結び、主イエスにあって歩み、悪い実を結ばせないよう、心構えしておくべきなのだ。

『それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
イスラエルの民は四十年、荒野で苦しみ、試みられ、そうして主は、人はパンによって生きるのではなく、神の御口から語られる御言葉に生きるという事を、教育された。

そして、イエス様が四十日、荒野で苦しみ、試みにあわれた時、試みる者に対して主が真っ先に突きつけた御言葉の剣が、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる』である。(マタイ4:4)
人間ではない獣は、パン(食物)だけで生きているであろう。しかし人には、主の息吹が宿っている。
神の口から出るすべてのことばこそ、人には必要であり、誘惑する者に対しても、この言葉を突きつける事によって、私達は獣とは違う事を宣言するのである。

『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。』(申命記8:4-5)
主は、神の民が、ぼろぼろの古い服をまとって、みずぼらしくしている様を、主の敵に見せるようなお方ではない。
主は私達を敵の前で油を注ぎ、装わせて下さるお方だ。
「天はやがて煙のように消え失せ、地は衣のように古びる。しかし、主の義はとこしえに続く」と、イザヤ51:6-8に記されている通り、服は元々、古びるものである。
しかし、神の民の衣は古びなかった、という事は、神の民は、決して古びる事の無い主の義を着ている事を、あらわしている。

『あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。』(申命記8:10)
私達は満ち足りた時こそ、感謝すべきである。
主の御言葉によって生きるべき事を忘れず、末永く幸いと祝福に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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