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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:一人の預言者の言う事を聞け(申命記18:9-19):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記18:9-12)

主は、主以外の神を拝んだり、伺いを立てたり、占いや口寄せをする事を、忌み嫌われる。主の他に神は無く、それ以外の神を拝んでいるとしたら、その者は悪霊を拝んでいるのだ。
今の日本は、偶像礼拝は生活の一部となっている所が多く、また、占いについては、テレビや雑誌、インターネットなどで、簡単に目にする事が出来る。
この国は本当に、主の前に災いを積み上げている。
私達キリスト者は、この国を執り成さなくてはならない。

キリスト者は、そのような表立った偶像礼拝や占いはあまりしないであろうが、そうした表向きの偶像礼拝より、「本質的な偶像礼拝」こそ、気をつけるべきである。
「本質的な偶像礼拝」とは、御言葉に聞き従わない事、主の御声にそむく事である。
『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル15:22-23)

サウル王は、表面上は占いや口寄せを国内から取り除いたが、主の御言葉どおりに行わず、御声にそむいたため、王位から退けられてしまった。
御声に聞き従わないで、あくまで自分の思うがままにし続けるなら、そのうち、どんなに主に求めても主は答えて下さらなくなってしまい、サウルは最後には、自分が追い出した霊媒を呼び寄せ、死んだサムエルに導きを求め、ついには、無残な最後を遂げるに至ってしまった。(1サムエル28-31章)

私達が唯一、導きを求めるべきは、まことの預言者であるイエス・キリストである。
『あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)
モーセは、彼の後の時代に現れるひとりの預言者に聞き従うよう命じた。
この「ひとりの預言者」こそ、イエス・キリストである。(使徒3:22)

神様が、神と人とを仲介する預言者を立てるのは、人は、聖なる神の前に直接立てないからである。
『これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。』(申命記18:16-18)

人が、全能なる主の聖なる有り様に直接触れてしまうなら、死んでしまう。大祭司でさえ、自らを贖う血を携えずに至聖所に行くなら、打たれて死んでしまった。
だから、神と人との間に立つ仲保者が、必要なのである。

神は、イエス・キリストをその役割とするために使わされた。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)

「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とは、贖いの蓋の事であり、贖いの蓋とは、契約の箱(アーク)を覆っている蓋である。
インディー・ジョーンズの映画の中にもアーク(契約の箱)が登場したが、箱に蓋が被さっている間は何の害もなかったのに、蓋が取られた時、そこにいた人は打たれて死んでしまう、という場面が、映画の中にあった。
それと同じように、罪ある人間は、主の「聖」に直接触れるなら、死ぬしか無い。
そこでイエス様は、人が神の聖に打たれて死ぬという事の無いように、「贖いの蓋(ヒラステリオン)」となられたのだ。それが、ローマ3章23-26節の説明である。

イエス様は、神と人との間の覆いとなられ、それで私達は、キリストにあって、神の御前に出る事が出来るようになった。
もしイエス様抜きで御前に出るなら、死ぬしかないのだ。

『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』(申命記18:19)
私達も、神が認証された預言者であるイエス様に聞き従わないとしたなら、神に責任を問われる。
結局、私達は、キリスト抜きでは御前に何も出来ないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の働き人としての分(申命記18:1-8):右クリックで保存

『レビびとである祭司すなわちレビの全部族はイスラエルのうちに、分も嗣業も持たない。彼らは主にささげられる火祭の物と、その他のささげ物とを食べなければならない。彼らはその兄弟のうちに嗣業を持たない。かつて彼らに約束されたとおり主が彼らの嗣業である。』(申命記18:1-2)
レビ人や祭司は、相続地を受けてはならないという”禁止命令”が出ている。(民数記18:20)
彼らの相続は、主ご自身であり、全イスラエルの代表(身代わり)として、主の奉仕に専念しなくてはならないからだ。(民数記3:49)

彼らには土地などの目に見える相続は無いが、その代わり、一般の人々が主に捧げるものの中から、受けるべき分がある。
『祭司が民から受ける分は次のとおりである。すなわち犠牲をささげる者は、牛でも、羊でも、その肩と、両方のほおと、胃とを祭司に与えなければならない。また穀物と、ぶどう酒と、油の初物および羊の毛の初物をも彼に与えなければならない。あなたの神、主がすべての部族のうちから彼を選び出して、彼とその子孫を長く主の名によって立って仕えさせられるからである。』(申命記18:3)
現代も同様に、牧師や宣教師など主のために専念して働くフルタイム献身者がおり、彼らも、聖徒たちが主に捧げる捧げものの中から、受ける分があるが、彼らは金銭を得る事を当てにして働くのではなく、ただ「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9章)

パウロは「献金によって生活する権利」があるのに、人々の福音を伝える妨げられぬように、そして、人々には自らの手でしっかり働く事を示すために、その権利を手放し、自らの手で働きつつ、福音の働きをした。(1コリント9:11-12)
パウロは聖なるプライドの故に、その権利を投げうったのだ。(同15節)

献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で献身者を目指す人も、中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ないよう人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
神の国の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの主に対する服従と忍耐が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。

世で働くキリスト者は、主への捧げ物をないがしろにしたり、主のために専念して働く働き人を、ないがしろにしてはならない。
これをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまくいかなくなってしまうからだ。
『あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた。』(ハガイ書1:9)

私達はフルタイム献身者でないとしても、主イエスにあって、王族の祭司であり、守り行うべき務めがある。
守り行うべき務めとは、週ごとに守るべき礼拝であり、周りの人々に福音を伝える事であり、子どもや家族に信仰を継承して行く事である。
この、自分の家という”聖所”のつとめをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまく行かなくなってしまう。

『あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。』(ハガイ1:6-11)

しかし、再び主に立ち返り、家の中で崩壊してしまった信仰を建て直すなら、その後の栄光は、以前の栄光に、はるかにまさるものとなるのだ。(ハガイ2章)

礼拝説教メッセージ音声:王たる者のすべき事、してはならぬ事(申命記17:14-20):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。』(申命記17:14-15)

教会やクリスチャンホームなどの、神様を第一とする集いにおいて、支配者を立てる場合、人間的な判断で選んではならず、主の御心を求めなくてはならない。
また、神を恐れない外部の者を、自分達の支配者として立ててはならない。

現代の民主主義国家は「民主」の名の通り、民が主であるから、「選挙」という多数決の原理で、上に立つ権威を選出しているが、教会やクリスチャンホームなどの、神を主とする集いにおいては、そうではない。
常に神様の御心を求め、主を第一とし、それで家庭や教会を運営して行くのである。

モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(申命記17:16-17)

王たる者がしてはならない事の、まず一つ目は、自分のために馬を集める事である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
実際、ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。
力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。
それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民がそれらを追求しすぎると、主から離れ、災いに遭ってしまう。
実際ソロモン王は、最も主に愛された父親を持ち、最も知恵が与えられたにもかかわらず、それらによって主から離れてしまった。(1列王記10-11章)
ソロモンの所に入ってきた金は、年間六百六十六タラントもあり、また彼は、エジプトから戦車や馬を大量に輸入した。
また彼には、七百人の妻と、三百人のそばめがいた。

そうして彼は堕落し、主の怒りを買い、彼以降のイスラエルは分裂してしまい、争いが絶えなくなってしまった。
『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

続いてモーセは、王たるものが、するべき事を示している。
『彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。』(申命記17:18-20)

王たるものがしなくてはならない事、それは、御言葉を手元に置き、いつも手放さない事。
御言葉に記されている事をいつも読み、主をおそれることを学び、それらを守り行う事である。

現代、私達キリスト者が、キリストにあって王であり、祭司である。(1ペテロ2:9)
私達も、力や金、女を追求してはならず、御言葉に記されている事を学び、それを守り行うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の民を指導者する人は(申命記17:8-13):右クリックで保存

『町の内に訴え事が起り、その事件がもし血を流す事、または権利を争う事、または人を撃った事などであって、あなたが、さばきかねるものである時は、立ってあなたの神、主が選ばれる場所にのぼり、レビびとである祭司と、その時の裁判人とに行って尋ねなければならない。彼らはあなたに判決の言葉を告げるであろう。』(申命記17:8)

安息の地に入った後、難しい事件が起こり、その町のさばきつかさでは手に負えないような事案が発生した場合には、主が選ばれる場所にのぼり、レビびとである祭司や、その時の裁判人に聞かなくてはならない、と定められている。
レビ人である祭司は、律法に通じており、主に伺いを立て、主から知恵を受けるからであり、また時の裁判人も「主の前に立って仕える人」であり(12節)、彼らは人間的な知恵や経験によって裁きをするのでなく、主の御言葉に照らし合わせ、主に伺って裁きを行うからだ。
だから、神の民の指導者は、人間的な知恵や経験によって裁くのではなく、御言葉にのっとって、主に伺いつつ、裁くのだ。

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。』(ヘブル13:17)
主にある指導者は、主の前に立ち、一人ひとりの霊的状態を見張り、主にその人のために申開きをし、執り成す、と、ヘブル書の記者は記している。
彼らは、群れの霊的状態をいつも見守っている故、ある人には時に心痛い言葉で諭す時もあるし、懲らしめをする事もある。

ただ、その指導者も、弱さを持った人間である。
彼らが聞き分けのない群れを嘆きながら主に訴えてしまうような事は、避けなければならない。
むしろ、その人が、主にあって喜んで群れを見守り、執り成す事が出来るように、いつも尊敬をもって、従順に聞くべきである。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)

人の上に立つ人は霊的な指導するわけであるから、誰もがなって良い、というものではない。
『監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――』(1テモテ3:2-5)

人の上に立つ人は、自分を制する人でなくてはならないし、自分が気に入る・気に入らないによって裁くような者であってはならない。
また、酒飲みの人や、暴力でものを言わすようなものであってはならない。
まして、単に「人に命令したいから」「上に立って尊敬されたいから」という理由で、安直になってはならない。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)

霊的な指導者や監督は、確かに栄誉ある職ではあるが、同時に、責任も大きいのである。
私達は、そのような責任を負って労を負っている指導者には、二重の尊敬に値する人として、敬うべきであり、また、そのような役割が与えられたのであれば、御言葉に照らし合わせ、主に伺いつつ、その任を負って行くよう、常に注意を払うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:恐れと慎みをもって、主の聖なる集いに入れ(申命記17:1-7):右クリックで保存

『すべて傷があり、欠けた所のある牛または羊はあなたの神、主にささげてはならない。そのようなものはあなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。』(申命記17:1)
主は、欠陥の捧げ物を平気で捧げるような、主を軽んじる者を、忌み嫌われる。
それ故、私達が礼拝を捧げる時、賛美や祈り、献金を捧げる時は、主に対してする事を忘れてはならない。
主は、私達自らの体を、きよい、生きた供えものとして捧げるよう命じており、それこそが真の、霊的な礼拝だからである。

また私達は、主の忌み嫌われるものを抱えたままで、主の御前に出るべきではない。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。』(箴言6:16-19)
礼拝者や奉仕者を量るような、高慢な目を持ったまま礼拝に参加する事は、主に嫌われる事である。
偽りを言う舌や、悪に走る足手を改めないまま、何事もないかのように御前で賛美したり祈ったりするとしたら、それらは主に忌み嫌われる事である。
悪い事を思い計る心や、兄弟姉妹同士を敵対させるよう仕向ける心を持ったまま、御前に出るとしたら、その人の賛美や祈り、奉仕を、主は吐き出される。

捧げ物を捧げる時、新鮮な物と傷んだ物の二つが手元にある時、もし、誰も見ていないと思って、傷んだ方を捧げるとしたら、その人は、献金や奉仕を、自分の資産の「マイナス」として考える人であり、主を信頼する心も、主に対する恐れも無い証拠である。
主は生きておられ、実際に「在る」お方である。
主に捧げる事をマイナスとして計るなら、主はマイナスで返されるが、主に捧げる事をプラスとして考える人には、主はさらに増し加えて下さるのだ。

『あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。
そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。』(申命記17:2-5)

もし、死刑に処するべき罪(出エジプト記21章、レビ記19章)が発覚した場合は、まず、よく調査しなくてはならない。
死刑に処するには、二人または三人の証人が必要である。
「二」は、証人の数であり、二人の御使がソドムの罪を目の当たりにして、主はソドムを滅ぼしたし、また、イエス様が復活された時も、二人の御使いによって、あかしされた。

『ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。』(申命記17:6)
ふたりの証人または三人の証人の証言によって物事が確定するのは、新約の教会でも同じで、イエス様も、パウロも言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

兄弟姉妹が罪を犯すのを見た場合、いきなり、教会や大勢の人達の面前でそれを糾弾するという事を、してはならない。
その人を立ち直れなくしてしまう事になりかねないし、また、早とちりして間違った訴えをしてしまうなら、その人本人の恥となってしまうし、兄弟姉妹の平和に波風を立てかねないからだ。
だから、そうした事を見たなら、まず、行って、「二人だけの所で」戒めるべきである。それでその人が悔い改めたなら、兄弟を得たのである。
しかし、もし本人が意図的に罪を犯し、好き好んでやっていて悔い改めないなら、さらに、もう二人三人を連れてきて戒めるのである。
それでも聞かないなら、教会で公に戒め、それでも聞かないのであれば、「主にある兄弟姉妹」の扱いからその人を解くのである。
それが、教会における戒めとさばきの手順である。

『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18-20)
イエス様の名のもとに集まるなら、そこに、イエス様がいるのだ。
イエス様は、確かに生きておられ、私達の内におり、そして二人また三人の主の名による集いにおられる。
そして、教会がつなぐ事は、天でもつながれ、教会が解く事は、天でも解かれるのである。
だから私達はそのつもりで、教会での交わりを、恐れと慎みをもって為すべきであり、至る所で主イエスの名による集いを為すべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:トップたる者の人選(申命記16:18-22):右クリックで保存

約束の地に入った暁には、それぞれの町の長を任命する事を、モーセは命じている。
『あなたの神、主が賜わるすべての町々の内に、部族にしたがって、さばきびとと、つかさびととを、立てなければならない。そして彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。』(申命記16:18-20)

モーセの言う”長たる者”を選ぶ際の選考基準は、「正しい人」であり、さばきを曲げたり、人をかたより見たり、賄賂を受け取ったりする事を禁じている。
普通、人々の上に立つ長を選ぶ際は、知識や経験があったり、有名な人や、人を統率するのがうまい人などを選ぶものだが、モーセは、能力的な面よりもむしろ倫理的な面のほうを強調している。
なぜなら、かつてモーセは、長たる者の人選で、痛い目にあっているからだ。

エジプトを出てまだ間もない頃、モーセのしゅうと・イテロが来て、モーセが何もかも一人で背負い込むのを見て、民の長を立てるようアドバイスした。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)

イテロのこのアドバイスは、実に理にかなっている。
そして、民の長を選ぶ際の選考基準は、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」だとしている。

それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りに選考しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
モーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取ったのだ。

その結果、民は、神に信頼せず、神がおられる事を度外視して、自分で出来うるベストな方法を模索したり、八方塞がりな状況になると、モーセに当たり散らしたり、しまいには、神様が「行け」と言っている約束の地を目前にしながら、「自分にはそんな力が無い」と、エジプトに帰ろうと言い出し、信仰によって進もうとしているモーセやヨシュア達を、石で撃ち殺そうとまでした。(民数記14章)
また、モーセが上に立つのを気に食わなかったコラと共にモーセに反逆したのは、”名のある者たち”二百五十人だった。(民数記16:2)

私達は、組織の人選をする上では、”神を恐れる人格者”よりも、多少不正をしようとも、”出来る人”のほうを選びやすい。
世の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すトップとすべきは、真っ先に、”神を恐れる人”でなければならない。
なぜなら神の国の事柄は、力や効率よりも、霊的純粋さこそ大切だからである。
実際、初代教会でも、トップの選考基準として「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人(行状が良い人。「有名」という意味ではない)」を提示している。(使徒6:3)

現代の教会の、分裂や、不毛な”働き”の乱発など、多くの問題の原因は、トップに据えるべきでない人を、トップに据えてしまっている所にある事が多い。
教会などミニストリーの奉仕者に据えるべきは、御霊の実(愛、喜び、平安、、、誠実、柔和、自制など。ガラテヤ5章)をしっかり結んでいる人で、御言葉の知恵に満ちた人、社会においても行状が良い事で評判の人である。(使徒6:3)
モーセはかつて、長たる者の人選に誤り、荒野の放浪の元をつくってしまった。
私達は、奉仕者の人選を、世と同じにしてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:男子は年に三度、祭りにのぼる(申命記16:9-17):右クリックで保存

続いて、「七週の祭り」についての指示である。
『また七週間を数えなければならない。すなわち穀物に、かまを入れ始める時から七週間を数え始めなければならない。そしてあなたの神、主のために七週の祭を行い、あなたの神、主が賜わる祝福にしたがって、力に応じ、自発の供え物をささげなければならない。』(申命記16:9-10)
この七週間は、ちょうど穀物の収穫の時期に相当する。
すなわち、この七週が始まる除酵祭は、大麦の収穫の時期であり、七週の祭りの時期には、小麦の収穫の時期である。

そして、ここで命じられている事は、それらの収穫を、家族や身寄りのない人、主の働き人達と一緒になって、主の前で喜び楽しむ事である。
『こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったことを覚え、これらの定めを守り行わなければならない。』(申命記16:11-12)

七週の祭りは、春〜初夏にかけての穀物の収穫祭であるのに対し、秋の果物の収穫祭は、「仮庵祭」である。
『打ち場と、酒ぶねから取入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わなければならない。その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:13-15)

この祭りは、イスラエルの祭りの中では、最も盛大に行われる祭りで、民数記29章を見ると、その7日間に捧げられる捧げ物の総数は、かなりの数にのぼる事が分かる。
この祭りの7日間、イスラエルの民は仮小屋を作り、その小屋の中は、あらゆる果物や地の産物で飾る。
その香りを嗅ぎながら、主に感謝を捧げつつ、兄弟姉妹たちと小屋の中で過ごすのだ。
聞いているだけでも、わくわくするような祭りであるが、どういうわけか、ヨシュアの時代からバビロン捕囚後までの長い間、この祭りは、ずっと疎かにされていたようだ。(ネヘミヤ記8:13-18)

やはり、人が神から離れる時は、献金など「主へ捧げ物」を真っ先に投げ出してしまうのかもしれない。
しかし、人が喜んで捧げるのであれば、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さる。
『主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:15) と記されている通りである。

『あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。』(申命記16:16-17)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間、男手は各地から無くなってしまう。
その間、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、その心配をも払拭しておられる。

『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
これらの祭りを、しっかりと忠実に行っているのであれば、敵が狙って攻めてくる事は無い、と、主ははっきり約束しておられるのだ。

日本には、江戸時代に「参勤交代制」があったが、それは、国のトップが、自分の配下の者を貧しくさせる事によって、反逆する意欲を削ぐためだった。
主は、その真逆をされる。
イスラエルの男子が、年に3度、主が定められた所で、礼拝をする事によって、イスラエルはますます祝福され、喜びに溢れ、また、敵に勝利したように、主は私達をも、ますます富ませ、喜ばせ、勝利させるために、しっかり礼拝するよう命じておられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アビブの月の祭り(申命記16:1-8):右クリックで保存

申命記16章では、イスラエルの祭りについての指示が与えられており、今回はアビブの月(ユダヤの第一月、太陽暦では三、四月)に行われる祭りを見て行きたい。

『あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。』(申命記16:1)
イスラエルの祭りの中で、最も重要な祭りが、過越の祭りである。
この祭りは、血潮のしるしの内に匿われていたイスラエルには、滅びが「過ぎ越し」、ただ主がエジプトが打たれた出来事を覚える祭りであり、アビブの月の十四日の夕暮れに、小羊をほり、その血を、家のかもいと門柱にしるしとしてつけ、家の中で、そのほふられた小羊を食す。

この、ほふられた子羊は、イエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)

なぜ、ほふられた小羊が、このように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
それ故、この祭りは、イスラエル民族だけでなく、私達も含む、全被造物にとって、重要なものである。

『種を入れたパンをそれと共に食べてはならない。七日のあいだ、種入れぬパンすなわち悩みのパンを、それと共に食べなければならない。あなたがエジプトの国から出るとき、急いで出たからである。こうして世に生きながらえる日の間、エジプトの国から出てきた日を常に覚えなければならない。その七日の間は、国の内どこにもパン種があってはならない。また初めの日の夕暮にほふるものの肉を、翌朝まで残しておいてはならない。』(申命記16:3-4)

ここは、過越の小羊がほふられる日を起点に7日間行われる「種入れぬパンの祭り(除酵祭)」についての指示である。
この祭りの最初の日、家の中からはパン種を徹底して取り除き、続く七日間、どんな仕事もしてはならず(その食事を作る事以外)、種を入れぬパンを食べながら安息する。
パン種は、聖書では良くない意味として用いられる。
なぜなら、パン種は生地を発酵させて外見を膨らまし、純粋さを失わせるからだ。

このパンは、「悩みのパン」と呼ばれており、苦菜が添えられて食べる。
イスラエル民族は、この祭りの期間、純粋な「悩みパン」のみを食べ続ける事によって、純粋な御言葉のみによって養われる事を学び、自分達も、かつてエジプトの地で「悩んで」いた事を、そして、主が大いなる救いによって救って下さった事を、覚えるのである。
また、この「悩みのパン」を食べる時期は、ちょうどキリストが苦難を受けられた時期とも一致しており、苦難を受けられたキリストをもあらわしている。

『あなたの神、主が賜わる町の内で、過越の犠牲をほふってはならない。ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない。そしてあなたの神、主が選ばれる場所で、それを焼いて食べ、朝になって天幕に帰らなければならない。』(申命記16:5-7)

過越の犠牲をほふれるのは、主がゆるされた場所のみであり、それは後の時代、エルサレムという場所と定められた。
また、過越の犠牲をほふる時刻は、ヨセフスによれば午後三時を常としていたようであり、それは、イエス・キリストが十字架上で、御父に霊をお渡しになった時刻と一致している。

私達の身代わりとなって下さったお方は、唯一、あの十字架上でほふられたイエス・キリストのみであり、それ以外に、救いは無い。
『あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒4:10)-12

礼拝説教メッセージ音声:初物は主のもの(申命記15:19-23):右クリックで保存

『牛、羊の産む雄のういごは皆あなたの神、主に聖別しなければならない。牛のういごを用いてなんの仕事をもしてはならない。また羊のういごの毛を切ってはならない。あなたの神、主が選ばれる所で、主の前にあなたは家族と共に年ごとにそれを食べなければならない。』(申命記15:19-20)
動物も人も、全て「男の初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる。
だから、初物を主に捧げた事によって、それに属する全ても「主に捧げられた」とみなされるのである。

罪は、人類全ての代表選手であるアダムによって入り込み、こうして、一人の人を通して、人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
しかしキリストは、人類全ての身代わりとなって、十字架上で罰を受け、死んで下さった。
そのキリストを、私達の主とし、私達の「代表選手」とする事によって、キリストが受けられた罰も、死も、よみがえりも、全て私達も「した」と、御父の前でみなされるのである。
そればかりでなく、キリストが成就して下さった律法も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と見なされるのだ。

また、初子であっても、傷物は主に捧げてはならない、と、されている。
『しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、盲目など、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。町の内でそれを食べなければならない。汚れた人も、清い人も、かもしかや、雄じかと同様にそれを食べることができる。』(申命記15:21-22)

私達は、総理大臣や大統領に対して、傷物のものや、賞味期限切れのものを、プレゼントできるだろうか。
私達は、目に見える人間は普通に敬えるのに、目に見えない神は、あたかもいないかのように思ってしまい、無意識的に軽んじやすい。
しかし、主こそ総理大臣や大統領よりも大いなる方であり、何よりも恐れ敬うべき方である。
『わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。
あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:6-8)

神はいない、と、みなしている人にとって、神に捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為であると見なすものだ。
だから彼らにとって、きず物や無価値のものを神に捧げるほうが、エコで効率的、という事になり、傷のない良いものは自分のために残そう、という事になるのだ。

しかし、あいにく、神は生きておられ、私達を創造された聖なる尊きお方であり、決してエコで省けるようなお方ではない。
私達の一挙手一投足を見ておられ、心の動機も見ておられる、全能なるお方である。
だから、主を軽んじた捧げ物は、主に忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。

主を軽んじるような捧げ物を、主は「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)

私達は、物やお金に限らず、礼拝や奉仕においても、「残りカス」を捧げてはならない。
世で遊ぶ事に疲れて、肝心の礼拝を休んでしまったり、礼拝の時は居眠りしてしまうとしたら、「残りカス」を捧げているのだ。
私達は、しっかりと自分を管理し、最も力のみなぎった自分自身という「初物」を、きよい供えものとして、主に捧げるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の民に搾取されっぱなしは無い(申命記15:12-18):右クリックで保存

『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

主は、人がいつまでも人の奴隷である事を、良しとしない。
六年仕えたなら、第七年には自由にしてやらなければならないと命じておられる。
そして、彼らを自由にした時には、必ず彼らが自立して家庭を築き、家族をしっかり養っていけるようにしてやるべきであり、その手元に何も残さずに出すような事はしてはならない。

だから、現代日本のように、6年以上働いても、家を買うどころか、結婚して子供を生む事さえままならないような労働条件は、奴隷以下であると言える。
そのように、人の弱みにつけ込んで不当に搾取をする事は、「ほふられる日のために災いを積み上げる」事である。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。』(ヤコブ5:4-5)
という事は、今日本は、何千万人という人々の未払い賃金が、主に向かって叫び声を上げている事になる。
日本に次から次へと災いが降りかかるのは、偶像崇拝など主の忌み嫌われる事を幾つもしているからだが、その理由一つに、この「不当な搾取」がある事は確かだ。

神の民は、搾取されっぱなし、やられっぱなし、という事は無い。
エジプトで400年間奴隷だったイスラエルに対し、主は、エジプトからはぎ取るよう命じられ(出エジプト記3:22)、事実、その通りになった。
ヤコブも、ラバンの元で7年間ラケルのために、さらに7年間レアのために、さらに6年間、一人立ちするための財産を得るために、ラバンの持ち物の面倒を見たが、ラバンはヤコブが何をしても祝福されるので、彼を去らせる事を嫌がり、また、彼に報酬を与える事も惜しんで、何度も報酬の条件を変えた。
しかし主は、ヤコブがいいように搾り取られる事を赦さず、ヤコブのために弁護して下さり、ヤコブは祝福され、多くの物持ちになって、無事、ラバンの元を去る事が出来た。(創世記31章)

『あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたをあがない出された事を記憶しなければならない。このゆえにわたしは、きょう、この事を命じる。』(申命記15:15)
イスラエルはかつて奴隷であった事を、いつも覚えていなくてはならない、と、命じられているのは、奴隷を雇うまでに祝福された時、彼らにきつく当たらせないためである。

自分の元にいる奴隷が、とても有能であるなら、ラバンがヤコブを去らせなかったようにしたくなるのが実情であるが、それは主の命令に反する事である。
奴隷を自由にしてやった後の、自分の家や事業の心配は、全く無用である。なぜなら、次のように、祝福の約束があるからだ。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)

日本には奴隷制度は無く、一見、日本には奴隷は一人もいないように見えるが、実は、人は誰しも、何かしらの奴隷である。
『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:16)
皆さんは、何の奴隷だろうか。
私達キリスト者は、キリストの奴隷であるべきである。

『その人があなたと、あなたの家族を愛し、あなたと一緒にいることを望み、『わたしはあなたを離れて去りたくありません』と言うならば、あなたは、きりを取って彼の耳を戸に刺さなければならない。そうすれば、彼はいつまでもあなたの奴隷となるであろう。女奴隷にもそうしなければならない。』(申命記15:16-17)

それまで仕えて来た奴隷が、いつまでもその主人の元にいたい、という場合、その奴隷の「耳」を、きりで戸に刺し貫いて打ち付ける、というのは、実に興味深い。
皆さんは、主人であるキリストの元を去りたいだろうか?
去りたくないのであるなら、皆さんの「耳」は、キリストの家の扉へと、打ち付けるべきである。
主の宮において、いつも主に耳を開き、いつも主の門にいて耳をすましているなら、皆さんは、いつまでも主の門で仕える主のしもべなのだ。

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