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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:大いに望みをもって主の働きをせよ(申命記25:1-4):右クリックで保存

今回の箇所では、いかに罪人であっても、また、家畜に対してであっても、憐れみを施すべき事が命じられている。

『人と人との間に争い事があって、さばきを求めてきたならば、さばきびとはこれをさばいて、正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない。その悪い者が、むち打つべき者であるならば、さばきびとは彼を伏させ、自分の前で、その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。』(申命記25:1-3)
罪の刑罰として人を鞭打つ時、残酷に過ぎないようにと、命じられている。
鞭打つのは、矯正のためであり、憎むべきは、罪の行いであって、罪に支配された「兄弟姉妹」ではないからだ。

私達キリスト者は、福音の故に、時には、鞭打たれるような事もある。
パウロは、三十九の鞭を打たれた事が五度あったし、ペテロも、議会で鞭打たれた。
現代日本では、福音の故に実際に鞭打たれる事は、今のところ無いであろうが、イエス様を信じているが故に、迫害を受ける事はある。
しかし、そのような時、実は、幸いである。

『もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。』(1ペテロ2:19-21)
なぜ不当な苦しみを受ける時、幸いなのか。
なぜ、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍んでいるとするなら、それが神に喜ばれる事なのか。
それは、その時、その人はキリストに属する者である事が、神と人との前で、明らかになっているからである。
使徒たちが、御名のためにはずかしめられるに値する者とされた事を喜んだのは、そのためである。(使徒5:41)

そしてまた、天において報いは大きいからだ。
『義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』(マタイ5:10-12)

キリストは、私達もそれにならって歩むようにと、模範を示された。
『キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。』(1ペテロ2:22-25)

私達は、キリストが身代わりに打たれた鞭の故に、癒やされた。
また、ヨーロッパや、全世界の、福音が伝えられている先々においては、パウロが打たれた鞭の故に福音が広まっており、それによって多くの人々は救われ、多くの永遠のいのちが生まれた。
パウロの背中の傷跡は、人の目から見れば恥かもしれないが、彼の伝道で救われたいのち達には、救いのしるしである。
私達も、キリストにならって、それぞれの十字架を負って歩むべきである。
私達全てにとっての、救いのしるしは、イエスキリストの十字架の傷跡である。

『脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない。』(申命記25:4)
「くつこ(口籠)」とは、食べ物を食べられないようにするために口を拘束する道具であるが、働いている牛には、その働き場から食を得る事を禁じてはならない、と、命じている。

パウロは、働き人は当然、報いを受けるべき事を、この箇所で示している。
『すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。』(1コリント9:9-11)

御言葉の奉仕に専念する人が、それによって生活の資を得て良い事は、旧約聖書からも明らかである。
神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれるし、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るように指示された、と、書かれてある。(1コリント9:13-14)

しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて、用いなかった。
むしろ彼は、なんと、「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないこと」が、彼の受けている報酬だと言っている。(1コリント9:18)
なぜ、無代価で福音を伝える事が、そして、宣教者として持つ権利を利用しない事が「報酬」になるのか。
それは、パウロは、地上での廃れていく金銀や栄誉よりも、天に積み上がっている、永遠にすたれる事の無い栄光と富のほうに、遥かな価値がある事を知っていたからである。

天では、確かに積み上がって行く宝がある。
それは前述した通り、この地上において、福音の故に不当な苦しみを受ける時、善を行って苦しみを受け耐え忍んでいる時、無報酬で福音のために働く時、天では、その人がやがて受けるべき宝が、どんどん積み上がっているのである。
貧しい人のために働く時、その報酬を地上で望みえない時、その人たちはお返しができないので、幸いである。
なぜなら、義人の復活の時に、お返しを受けるからだ。(ルカ14:14)
だから私達も、パウロのように、望みをもって、福音のために働くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:惜しみなく与える人の幸い(申命記24:16-22):右クリックで保存

今回の箇所でも、孤児ややもめ、寄留の他国人など、弱い立場にある人達の権利を守るべき事が命じられている。

『父は子のゆえに殺さるべきではない。子は父のゆえに殺さるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺さるべきである。』(申命記24:16)
主にあっては、父親や母親の罪を、子は、宿命的に受け継ぐわけではない。
主の御言葉を忠実に守り行う人は、親や子がどんな罪深くあっても、必ずいのちを得るし、主の御言葉を軽んじ、その命令を破る者は、親や子がどんなに信仰者であっても、必ず滅びる。(エゼキエル18:1-9)
そして、親は子になり代わって悔い改めたり、いのちを得たりする事は出来ないし、子の信仰が親を救うわけでもない。
救いも滅びも、最終的には、本人と神様との問題なのだ。

『寄留の他国人または孤児のさばきを曲げてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。』(申命記24:17-18)
私達もキリストにあって救われる以前は、罪の奴隷であり、自らの悪い行いの故に貧しく、助けが必要であ所を、主に助けられ、癒され、永遠のいのちを生きる事が出来るようになった。
私達はその事を忘れてはならず、もし私達も、主がして下さったように、助けを必要としている人をあわれみ助けるなら、主は私達を、大いに祝福して下さる。(申命記24:19)

『あなたがオリブの実をうち落すときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。』(申命記24:20-22)
ボアズは、まさにこの命令どおり、イスラエルの神を頼ってきた、モアブ人のやもめ・ルツのために、色々な便宜を計ってやった。
彼女が自分の畑では自由に落ち穂を拾わせ、それも、麦の束の中からわざと落として彼女に拾わせたのだ。(ルツ記2章)

彼には、このようなたしなみがあったからこそ、イスラエルがききんだった時でも、着実に、有力者として栄えて行った。
それは彼が、弱い人のための憐れみを惜しまなかったからだ。
弱っている兄弟姉妹に、惜しまず助けの手をのべる事、それが、不況の世にあっても、着実に栄えて行く者のたしなみである。
『与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。』(ルカ6:38)

『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。』(2コリント9:6-7)
進んで喜んで捧げる人に対し、主は、さらに豊かに与え、満ち足らせ、全ての良きわざにおいて、さらに富ませて下さるお方である。(同8-9節)

『種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(同10-12節)
永遠なる主に喜んで奉仕し捧げる人を、主は、あらゆる点で豊かにし、さらに惜しみなく与えるようにして下さり、そこからさらなる感謝が生み出され、そうして、聖徒全体の必要を主は満たし、余らせるのである。

礼拝説教メッセージ音声:恵みと憐れみのわざを為せ(申命記24:6-15):右クリックで保存

今回の箇所も、いくつかの細則的な定めが示されているが、ここでは特に、貧しい人や、社会的弱者に助けの手を差し伸べるように命じられている。

『ひきうす、またはその上石を質にとってはならない。これは命をつなぐものを質にとることだからである。』(申命記24:6)
ひきうすやその上石は、パンを作るのに必須の道具であり、もし、それを質に持って行ってしまうなら、その一家はその夜からパンにありつけなくなってしまう。
主は、そのような憐れみの無い事は許されない。

『イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記24:7)
同胞の誰かが、貧しいからといって、奴隷に売り飛ばしたり、かどかわす事(人を騙し、あるいは、力づくで連れ去る事、誘拐する事)は、許されない。
金を得るために、兄弟姉妹の人身を売り飛ばすような、邪悪な者の受ける分は、死である事を、主は示している。

『らい病の起った時は気をつけて、すべてレビびとたる祭司が教えることを、よく守って行わなければならない。すなわちわたしが彼らに命じたように、あなたがたはそれを守って行わなければならない。あなたがたがエジプトから出てきたとき、道であなたの神、主がミリアムにされたことを記憶しなければならない。』(申命記24:8-9)
「らい病(ツァラアト)」は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多く、また伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した人は、集いから隔離される事が定まっている。
この病の性質は、私達の肉の奥底に住んでいる「内住の罪」をよく表しており、特に、高慢に対する罰として、主が与えられる事もある。(ミリヤムの他、ウジヤ王など)
ツァラアトを見るレビ人である祭司は、神と人との間に立って執り成したり、御言葉を取り次いだりする者で、人は、その権威に反逆してはならない。
ミリアムにとっては、モーセが”祭司”の立場であったのに、彼女はアロンと結託して、自分が祭司になろうと逆らった。そのため主は、彼女をツァラアトにしたのだ。
(詳細:「非難するミリヤム、飲まれるアロン、執り成すモーセ(民数記12:10-16)」 http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1604

『あなたが隣人に物を貸すときは、自分でその家にはいって、質物を取ってはならない。あなたは外に立っていて、借りた人が質物を外にいるあなたのところへ持ち出さなければならない。』(申命記24:10-11)
ドラマなどで、借金取りが、人の家にずかずかと入って勝手に物を奪っていくシーンを見るが、神の国では、そうした強欲な憐れみ無しの行動は許されない。
借りる側の人には、何を質物にするかをじっくり考えるゆとりを与え、貸す側の人はその間、外で待っていなければならない。

『もしその人が貧しい人である時は、あなたはその質物を留めおいて寝てはならない。その質物は日の入るまでに、必ず返さなければならない。そうすれば彼は自分の上着をかけて寝ることができて、あなたを祝福するであろう。それはあなたの神、主の前にあなたの義となるであろう。』(申命記24:12-13)
当時のイスラエルでは、上着を布団代わりとしていたため、それを質に取るとしたなら、夜は布団なしで寝る事になってしまう。
主は言われている。
『もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。』(出エジプト記22:26-27)
彼らの上着が、質に取られたまま、夜になり、寒さにこごえながら主に叫ぶとしたら、主はその貧しく身寄りのない人を助けるお方である。

『貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。賃銀はその日のうちに払い、それを日の入るまで延ばしてはならない。彼は貧しい者で、その心をこれにかけているからである。そうしなければ彼はあなたを主に訴えて、あなたは罪を得るであろう。』(申命記24:14-15)
貧しい日雇い労働者は、その日の賃金が切実に必要である。それを、意図的あるいは怠慢によって支払いを滞らせてはならない。
彼らのような、貧しい人の叫びは、主が聞いておられるからだ。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。』(ヤコブ5:4-5)

世の中にも、神の支配される国イスラエルにも、貧富の差は存在する。
世の中の貧富の差は、そのまま「不条理」であるが、神の国の貧富の差は、恵みのわざを為すチャンスであり、恵みを体験し感動し喜び合うするチャンスである。
イスラエルの民にマナという恵みが降りそそいだ時、ある者は多く集め、ある者は少なく集め、それぞれの力量の差によって量に差は現れたが、共同体全体で分け合った結果、余ったり不足したり、という事は一切無かった。(出エジプト16章)
多く集める者と、少なく集める者の差は、言ってみれば貧富の差であるが、それがあるからこそ、恵みの業や施しの業が成り立つのである。

私達の主イエス様は、富んでおられたのに、私達のために貧しくなって、神と人との貧富の差を埋めて下さった。
ご自身のいのちを支払って、私たちのいのちを買い取ってくださり、ご自身の栄光の富を、私達に分けて下さった。
まさに、驚くばかりの恵みである。
その恵みによって、私達の内に、感謝する心、愛する心、人を大切に思う心、人をあわれむ心、生きた者とされた事への喜びが、沸き起こった。
だからこそ私達も、キリストを目標とし、兄弟姉妹を愛し、恵みのわざを為すのである。

礼拝説教メッセージ音声:離婚について(申命記24:1-5):右クリックで保存

『人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。』(申命記24:1)

モーセは離縁状を渡して離婚する事を認めているが、離婚は、人の本来の有り方から離れている。結婚は、結婚相手に対しコミットし、自分自身を"唯一の異性”として排他的に捧げる事だからだ。
『イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。』(マルコ10:11-12)

では、なぜモーセは離婚を許したのか。
『イエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」』(マルコ10:5-9)

主は、ひと度結婚して一つ肉となった連れ合いを、裏切ったり、しいたげたり、離婚したりする者を、憎む、と言われる。
『あなたがたはまたこのような事をする。すなわち神がもはやささげ物をかえりみず、またこれをあなたがたの手から、喜んで受けられないために、あなたがたは涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇をおおい、「なぜ神は受けられないのか」と尋ねる。これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。
一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。イスラエルの神、主は言われる、「わたしは離縁する者を憎み、また、しえたげをもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。ゆえにみずから慎んで、裏切ることをしてはならない」。』(マラキ2:13-16)
だから、もし伴侶を裏切ったり、しいたげたりしたままで礼拝に来るとしたら「涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇を覆う」事であり、主は、そのような者の捧げ物は、受け取らない。

創造のはじめ、神である主は、人にいのちの息吹(霊)を吹き入れられ、神の子として創られた。
肉体的に交われば、その相手と一つ肉とされるが、神の民にとっての結婚は、同じ霊において一つとされる事でもである。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は「主と一つの霊」になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:15-20)
それ故、どの霊にあって交わるかが肝心であり、結婚は、キリストにあって一つとされるべきものである。

片方が信者となっても、片方はそうでないような場合もあるが、パウロはその場合について、次のように勧めている。
『これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。
しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。』(1コリント7:11-16)
結婚は、キリストにあってこその結婚であり、キリストにあって一つ霊につながり、一つからだにつながる事こそ大切だ。
だから、キリストぬきに相手が去っていくのであれば、去らせるに任せなさい、とパウロはすすめているのである。

神様が与えて下さった命令、産めよ、増えよ、地に満ちよ、という祝福から見ると、結婚は、一つの家を作り、神の民である子孫を、氏族を、さらには国を生み出していく「一大事業」である。
モーセは、離縁状を渡して相手を去らせる事を許したが、それは、決して結婚を軽んじているからではない。その証拠に、彼は次の事も同時に命じているからだ。

『人が新たに妻をめとった時は、戦争に出してはならない。また何の務もこれに負わせてはならない。その人は一年の間、束縛なく家にいて、そのめとった妻を慰めなければならない。』(申命記24:5)
この「慰め」なければならない、と訳された語「サーマク」の原意は、「前途有望にする」「前途を明るくする」の意味であり、そこから「喜ばせる」「元気づける」の意味となった。
結婚して一年間、夫は、社会的なつとめという「束縛」からは開放されるが、では全くのフリーかと言うと、とんでもない。

男は、結婚すると、一家の主人となる。
新しくスタートした「一家」の前途を有望にさせるために、まずは妻の前途を明るくさせ、喜ばせ、元気づける事に専念させるために、モーセはこの一年という期間を設けたのだ。

夫は本来、妻に、捧げ尽くす愛(アガペー)で、愛すべきである。以下の御言葉の「愛」には、全てアガペーが使われている。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。』(エペソ5:25-28)

そして妻は、そんな夫を尊敬し、仕えるべきである。
『妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。』(エペソ5:22-24)

夫に対する命令、妻に対する命令、いずれも、難しいものである。いや、肉にある人間には、出来ない事である。
しかし、「キリストにあって」可能である。
だから結婚は、キリストにある事こそ、最も大切なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:貪りを取り除け(申命記23:15-25):右クリックで保存

今回の箇所でも、主の民が歩むべき聖なる道が示されており、特に、貪欲であってはならない事、弱い人を憐れむべき事が、示されている。

『主人を避けて、あなたのところに逃げてきた奴隷を、その主人にわたしてはならない。その者をあなたがたのうちに、あなたと共におらせ、町の一つのうち、彼が好んで選ぶ場所に住ませなければならない。彼を虐待してはならない。』(申命記23:15-16)
神の国イスラエルでは、奴隷に逃げられた主人より、逃げた奴隷のほうの人権が保護される。

神は、人を神の似姿として、正しく治めるようにと創られているが故、人が、貪欲な人間の奴隷となる事は、主の御心ではない。
だから、奴隷が逃げてしまうような、正しく治めていない主人の側にこそ、責任があるのだ。(1サムエル25章)
ダビデが留守中に、略奪隊に妻子や持ち物を奪われた時、奪った略奪隊の奴隷を、ダビデは保護した。その結果、彼が追っていた略奪隊に追いつき、圧勝し、分捕られた分よりはるかに多くを分捕る恵みにあずかった。(1サムエル30章)
このように、弱い立場の人を憐れむわざを、主は喜ばれるのだ。

『イスラエルの女子は神殿娼婦となってはならない。またイスラエルの男子は神殿男娼となってはならない。娼婦の得た価または「男娼の価(新共同訳:犬の稼ぎ)」をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。』(申命記23:17-18)
ここの「犬」と訳された言葉は、ヘブル語ではケーレブ、元々の意味は、犬がけたたましく叫ぶ、あるいは犬が攻撃する事の意味である。
平和に暮らしている人の所に来て、犬がけたたましく吠え立てるように、言葉で攻め立てて押し売りしするような稼ぎを、主は忌み嫌われ、また、不品行や汚れた行いによって得た報酬も、主に忌み嫌われるのだ。

『兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物の利息を取ってはならない。外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない。これはあなたが、はいって取る地で、あなたの神、主がすべてあなたのする事に祝福を与えられるためである。』(申命記23:19-20)
ある人が、お金を借りるというなら、その人は当然、その時点でお金に困っているわけである。
その、困った人の足元を見て、私腹を肥やそうとするような、憐れみの無い貪欲な者を、主は嫌われる。
むしろ律法では、兄弟姉妹が貧しくなったら、その人のなるべく近い近親者が助けるように、命じられている。(レビ記25章)

『あなたの神、主に誓願をかける時、それを果すことを怠ってはならない。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求められるからである。それを怠るときは罪を得るであろう。しかし、あなたが誓願をかけないならば、罪を得ることはない。あなたが口で言った事は守って行わなければならない。あなたが口で約束した事は、あなたの神、主にあなたが自発的に誓願したのだからである。』(申命記23:21-23)
みだりに口約束を連発して人をだましたり、自分に利をかき入れようとする者を、主は嫌われる。
人に「こうする」と言った事を果たさないなら、それは相手に偽りを言った事となり、相手にある程度の損失を与えた事になる。
ましてや、主に対して約束する「誓願」を果たさないとしたら、それはどんなに呪われる行為であろうか。

『あなたが隣人のぶどう畑にはいる時、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてもよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。』(申命記23:24-25)
全地は主のものである。
イスラエルでは、土地は先祖からゆずり受け、生きている間にその土地からの産物を食べ、そして、子孫へとゆずって行くものである。(レビ記25:23)
大地の実りも、主が与えて下さるものであり、その人の所有ではない。同じように私達は、この地上において、仮に住まわせて頂いている者である。
だから、貧しくてひもじい思いをしている兄弟姉妹がいたならば、畑に入って思うままに食べさせてやるべきである。

しかし、食べ放題の店に器持参で行って、手当たり次第に器に入れて持って帰る事は違法なように、
器を持ってきて、そこにたくさん入れて持ち帰ったり、かまを持って来てたくさん刈り取ったりするのは、やり過ぎである。
なぜなら、その畑に種を蒔いたのも、そして畑がよく実るよう実質的に霊的に管理して来たのも、その畑の持ち主だからである。
一方だけが働き、他方は働きもせず、働いている人からただ受けるだけ、という関係は不健全である。

以上、いずれの場合も、あれもこれも全部わたしのもの、とする事は、貪欲の罪であり、今の日本や世界で行われている搾取や株価操作的な事、押し売りして稼ぐ事や、不品行なビジネスによって暴利をむさぼる事は、主に嫌われることであると分かる。
私達はこの邪悪な世代において、神の義と憐れみを実現する者として、強く雄々しく、正しく支配していくべきである。

『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。』(コロサイ3:5-10)
 

礼拝説教メッセージ音声:陣営の中を歩まれる主(申命記23:9-14):右クリックで保存

『敵を攻めるために出て陣営におる時は、すべての汚れた物を避けなければならない。・・・あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。』(申命記23:9-14)
イスラエルが戦いにおいて勝利する理由は、主が陣営の中を歩まれるからであり、主が陣営の中に留まって下さるためには、陣営の中からは汚れを取り除き、「聖なる所」として保ち続けなくてはならない。

『あなたがたのうちに、夜の思いがけない事によって身の汚れた人があるならば、陣営の外に出なければならない。陣営の内に、はいってはならない。しかし、夕方になって、水で身を洗い、日が没して後、陣営の内に、はいることができる。あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。また武器と共に、くわを備え、外に出て、かがむ時、それをもって土を掘り、向きをかえて、出た物をおおわなければならない。』(申命記23:10-13)
人は、どんなに気をつけても、内面から汚れが出てきてしまうものだが、その場合は自らを清めなくてはならないし、また、排泄は陣営の外の一定の場所で為し、事後はそれを覆わなくてはならない。

私達も、世での戦いにおいて、同じ事が言える。
主がイスラエルの陣営のただ中を歩まれたように、私達はキリストにあって神の住まわれる神殿であり(1コリント3:16)、主は私達と共に歩んで下さる。
『あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。』(ゼパニヤ3:17)
この慰めに満ちた御言葉は、懲らしめを受けて悔い改めた者に与えられる御言葉である。(ゼパニヤ1−3章)
だから、私達が悔い改めなくては、主は、救いの勇士となっては下さらないし、清めなければ私達を喜ばれる事も無い。

もし、いつも何かに負け通しである場合、あるいは、主が共におられないような感じがする場合、まず、自分の中から主が忌み嫌うようなものを持ち合わせていないか確認してみてはどうだろうか。
そしてそれが示されたなら、それを生活ステージの中から取り除き、きよめてみてはいかがだろうか。
主は私達に、汚れから分離せよ、と、言われている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

また、私達と共に歩まれる主への信仰が無くては、勝利はあり得ない。
イスラエルの民は、巨人ゴリアテを恐れ、イスラエルの陣営をなぶる事を40日もゆるしていたが、ダビデはゴリアテを見て「この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか。」と言った。(1サムエル17章)

ダビデ以外のイスラエルの民は、ゴリアテの巨体と装備、強そうな成り立ちを見て恐れた。
しかしダビデは、これを「イスラエル人対ペリシテ人」という戦いとは見ず、「神対ペリシテ人」という戦いとして見て、勝利は当然のもの、神に敵対したペリシテは、しかばねとなって当然のもの、と、真理に基づいた信仰告白をした。
「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。」

そうダビデが信仰告白した通りに、ゴリヤテはダビデに倒され、ペリシテは敗走し、その日、イスラエルは大勝利した。
私達も、ダビデと同じ神、主が、私達の内に「救いの勇士」として、共にいてくださる!
いかに敵が力強く、装備も数も勝っていようとも、私達の内にいます主イエスが「救い主」であると信じ、この御方に委ねるなら、主がその戦いを戦ってくださるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の会衆に加わってはならない者なのに(申命記23:1-8):右クリックで保存

今回の箇所では、主の会衆に加わってはならない者の特徴が示されているが、これを見ると、主の会衆に本来加わる事が出来る人は、非常に限られている事が分かる。

『すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:1)
そのような傷のあるレビ人の祭司も、御前で奉仕する事は禁じられているし、そのような傷のある動物も、主に捧げるいけにえにしてはならないと定められている。(レビ記21,22章)
だから、異邦人の宦官は、御前に出る事が出来ない”筆頭”と言えるだろう。

『私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:2-3)
私生児は、親の権威に対しての認識や、性的な認識において、傷を負っている事が多いからかもしれない。
また、アンモン人やモアブ人は、アブラハムの親戚(すなわちイスラエル民族の親戚)であるにもかかわらず、イスラエルが荒野を放浪している時、「助け」ではなく「呪い」を与えようとしたからであり、彼らに対しては、『あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。』(6節)とまで命じられている。

以上のように、宦官や私生児、モアブ人などは、主の会衆に加われない事が分かったが、聖書を見ると、このような人たちが、なぜか、主の会衆に加えられているケースを多く見る。
異邦人の中で最初に洗礼を受ける栄誉にあずかったのは、エチオピア人の宦官であったし(使徒8章)、エフタは私生児で本家から追い出されていたのに、主は彼を士師として用いられたし(士師記11章)、ルツはモアブ人であるのに主の集会に加えられ(ルツ記)、ダビデは彼女の十代以内の子孫なのに、イスラエルの王とされている。

一体なぜ、このように、律法に矛盾するような事がまかり通っているのか。
一体なぜ、神の民から疎外されるべき者が受け入れられ、恵みを受けるに相応しからぬ者が、相応しいとされるのだろう。
その理由を探っていくと、私達のような、主の前に全く相応しからぬ者が、主に受け入れられる事の答えが見えてくる。

結論から言えば、この矛盾を一気に飛び越え、矛盾を矛盾でなくするものは、信仰である。
エフタはアンモン人に対して立派な信仰告白をしているし(士師記11章)、ルツもナオミに対して立派な信仰告白をした。(ルツ記1:16)
ダビデは、まだ紅顔の少年だった時に、イスラエルの誰よりも主に信頼し、巨人ゴリアテを打ち倒した。(1サムエル17章)

エチオピア人の宦官の、主を求める心は、並々ならぬものだった。(使徒8章)
彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れないし、宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
そして彼は、高い地位の忙しい身であるにもかかわらず、エチオピアから、はるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼はサスペンション無しの馬車で、舗装されていない道を走りながらでも、イザヤ書を朗読し、思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人に比べ、一体幾つのハンディキャップがあっただろう。にもかかわらず、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。

主は、こう言われる。
『主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。』(申命記イザヤ56:3-7)

このように、主を求める人は、いかに異邦人の宦官であっても、神に受け入れられる。
しかし、自分は既に神の民である事に安住し、悔い改める事をしない者は、かえって、神の民から除外されてしまうのである。
『イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。』(マタイ21:31-32)

今を生きる私達が、主の集会に加われたのは、ただ、イエス様の恵みである。
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』(ローマ5:6-10)

礼拝説教メッセージ音声:一人の異性にコミットする(申命記22:22-30):右クリックで保存

聖書の示す所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚した相手のみであり、それ以外は許されていない。
つまり結婚は、結婚相手に対し、自分を排他的に”唯一の異性”として、コミットする事である。
具体的には、女性であれば、相手の男性にとって唯一の専属的な「女性」となる事、また、男性であれば、相手の女性にとって、唯一の専属的な「男性」となる事だ。
そして、コミットした相手以外の異性に対しては、性的な目で見る事や、他の異性に対して”色目”をつかう事を、もはや止めるのだ。(マタイ5:28)

『もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:22-24)

イスラエルにおいて「婚約」は、その、男女のコミットの関係に入るものであり、相手に対して純潔を守る事の責任は、結婚と代わりは無い。
独身者は、特別な異性がいる事に憧れを持つものだが、特別な異性がいる、という事には、相手に対しての責任も生じる事を忘れてはならない。
その責任は、厳粛に、そして日々地道に果たして行くべきものだ。

だから、もし相手のある身であるにもかかわらず、それとは別の相手に自ら進んで体を明け渡す事は、してはならない。
もし、自分には特別な相手がいるのに、肉体関係を求めて言い寄ってくる者がいたとしたら、うやむやでどっちつかずな返事はしてはならず、明確に抵抗し、叫んででも止めさせるべきなのだ。

『しかし、男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」と言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。

『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)
婚約前の状態で、肉体関係を持った男女は、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。

これらの事から、婚前交渉より、むしろ、コミットした相手を裏切る肉体関係こそ、重大な罪である事が分かる。

今、私達キリストには、コミットすべき特別な相手がいる。それは、キリストである。
私達は、以前はキリストから離れ、神の国から除外され、この世にあって望みもなく、神もない者だった。
しかしキリストは私達を、ご自身の血で買い取って下さり、以前は遠く離れていた私達も、今や、キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって、神に近い者とされた。
『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』(エペソ2:14-15)

今や、キリスト者である私達は、キリストを「主人」として、コミットした者達である。
婚約関係に入ると、女性は、相手の男性に唯一専属的な「女性」となるように、キリストは、私達にとって、唯一の専属的な「主人」である。
そして、人が浮気したらねたみを引き起こすように、主も、私達の霊的な浮気を、ねたまれる。
『私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。』(1コリント10:22)
キリストに対してコミットしたからには、もはや、キリスト以外に霊的な”色目”を使う事は止めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:結婚前の純潔を保つ事(申命記22:13-21):右クリックで保存

神は、創造の初めから人を男と女とに造られた。人はやがて父母を離れ、結婚すると、彼らはもはやふたりではなく、一つの肉となる。(マルコ10:16-19)
聖書が示している所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚相手のみであり、それ以外の肉体関係は不当としている。

『もし人が妻をめとり、妻のところにはいって後、その女をきらい、『わたしはこの女をめとって近づいた時、彼女に処女の証拠を見なかった』と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を負わせるならば、その女の父と母は、彼女の処女の証拠を取って、門におる町の長老たちに差し出し、そして彼女の父は長老たちに言わなければならない。
『わたしはこの人に娘を与えて妻にさせましたが、この人は娘をきらい、虚偽の非難をもって、「わたしはあなたの娘に処女の証拠を見なかった」と言います。しかし、これがわたしの娘の処女の証拠です』と言って、その父母はかの布を町の長老たちの前にひろげなければならない。』(申命記22:13)

ここでは、結婚した男が、妻が気に食わず、妻を非難する理由として「処女でなかった」と訴えて来た場合の対処が示されている。
『その時、町の長老たちは、その人を捕えて撃ち懲らし、また銀百シケルの罰金を課し、それを女の父に与えなければならない。彼はイスラエルの処女に悪名を負わせたからである。彼はその女を妻とし、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:18-19)
もし、男が手前勝手に、妻の「貞潔さ」について、虚偽の訴えをするとしたら、その罰は重い。
その訴えは、女性を死刑にするかどうかの訴えであるからだ。

律法では、虚偽の訴えをして相手を陥れようとするなら、「目には目、歯には歯」の法則で裁かれる。(申命記19:18-21)
例えば、気に食わない男性に、痴漢の嫌疑をかぶせて、拘束させようとしたり、慰謝料を取ろうとしたりする場合、その訴えが偽りだと分かった際には、彼にかぶせようとした拘束や罰金が、そのまま自分の身に振りかかる事になる。
妻の貞潔さについて偽りの嫌疑をかけた場合の報いは、石打ちではなく、むち打ちと、百シケルの罰金と(奴隷の値段は三十シケル、花嫁料は五十シケルであるから、百シケルはかなりの額)、生涯、彼女の面倒を見なくてはならない責任が生じる。

『しかし、この非難が真実であって、その女に処女の証拠が見られない時は、その女を父の家の入口にひき出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。彼女は父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:20)
もし、彼女が訴えの通り処女でなかった場合、彼女は、父の家の門で石打ちの刑に処せられる。
そこまで重い刑罰の理由は、「父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたから」である。
もしそうなった場合、父は、とてもつらいであろう。
しかし、それ程までに、イスラエルでは、結婚における純潔さは重要だという事だ。
なぜ、そんなに純潔さが重要なのか。

結婚して夫婦となる事は、産んで増えて地に満ちていくという、主の祝福の命令を遂行する事であり、一つの家を、家系を、氏族を、新しく築き上げていく一つの事業である。
もし、妻あるいは夫の「貞潔さ」が失われてしまうとしたら、人の営みの中で最も親密であるべき「夫婦」の関係さえ、信頼できないものとなってしまい、夫婦関係だけでなく、親子関係もバラバラになってしまい、家族全員に深い傷を残す事となってしまう。
自分の結婚相手が、あるいは、自分の父や母が、息子や娘が、性的な不貞を犯すとしたなら、ひどく打ちのめされるだろうし、少なくとも、不快な思いにはなるだろう。
その事は誰も否めないはずだ。
だから、自分の貞潔さを守る事は、自分自身のためというより、結婚する相手のため、そして、これから築いて行く家や、生まれて来る子供達、孫達のためにこそ、重要なのだ。

そしてまた、聖書は言っている。
結婚関係は、キリストと教会の関係をあらわしており、その関係においては、やはり純潔さが求められる事を。
果たして私達は、キリストの花嫁として、相応しく振る舞って来ただろうか。
キリストに対して、純潔を保って来ただろうか。

私達は皆、罪の故に堕落し、自らを汚し、キリストの花嫁としては、とてもではないが、相応しくない者であった。
しかしキリストは、そんな私達を清めるために、自らのいのちを犠牲にして下さった。

『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
私達は、キリストの御言葉によって汚れた心と体は清められ、聖なるものとされ、しみや、しわや、その類の一切無い、清くて傷のない者として、御前に迎えられるのである。
キリストは、私達を愛するがために、ご自身を捧げられたのだ。

いのちを投げ出して下さってまで、私達を清めて下さったキリストの愛を、私達は、決してないがしろにしてはならない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。・・・神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

礼拝説教メッセージ音声:主の定めた秩序に従って(申命記22:5-12):右クリックで保存

今回の箇所には、種々の命令が示されているが、これらは全て、主が秩序をもって創造されたいのちを、大切にするべき事の命令である。

『女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。』(申命記22:5)
神は人を、神のかたちに、男と女とに創造された。(創世記1:27)
その創造の有り方から外れて、男が女のようになったり、女が男のようになったりする事を、主は忌み嫌われる。
それは主の創造の御胸に反逆する事である。

『もしあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣のあるのを見つけ、その中に雛または卵があって、母鳥がその雛または卵を抱いているならば、母鳥を雛と一緒に取ってはならない。必ず母鳥を去らせ、ただ雛だけを取らなければならない。そうすればあなたはさいわいを得、長く生きながらえることができるであろう。』(申命記22:6)このようにする事が、なぜ「さいわいを得て、長生きする」事なのか。

主は、いのちの主であり、特に、いのちの養いを大切にされるお方である。
母が子のいのちを養っている最中なのを見ても、憐れまず、いのちの養いを軽んじ、損得勘定だけで動く者は、いのちそのものからそっぽ向かれ、嫌われてしまう。
だから、このようにするなら、いのちそのものに愛され、「さいわいを得、長く生きながらえることができる」のだ。

『新しい家を建てる時は、屋根に欄干を設けなければならない。それは人が屋根から落ちて、血のとがをあなたの家に帰することのないようにするためである。』(申命記22:8)
ここも、いのちを大切にすべき事の命令である。
イスラエルにおいて、屋上は、生活の上で色々な営みをする場所であり、それら日常生活の営みの内に、うっかり命を落としてしまうという事が無いように、その配慮を初めのうちに行っておきなさい、という事である。

『ぶどう畑に二種の種を混ぜてまいてはならない。そうすればあなたがまいた種から産する物も、ぶどう畑から出る物も、みな忌むべき物となるであろう。牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。』(申命記22:9)
ここでは、異なった種のいのちを混合する事を禁じている。

主は、創造のはじめから、色々の種類にしたがって、動物や植物を創られた。
実際、創世記1章には「種類にしたがって」という言葉が、何回も出てくる。主は、全生物を、実にバラエティに富んだ形で創られたのだ。
人は、「これは劣っている種だから絶滅させよう」とか、「こちらは優れているから、掛けあわせてより優れた種で統一させよう」などと、種といのちをさえ合理化させようとする。
いのちは、主のものである。主が創られたいのちを、人が勝手に操作してはならないのだ。

人は、白黒をグレーにしたり、清さと汚れを混合しようとしたりするが、主は、光と闇とを、天と地とを、そして聖と俗とを、はっきり区別された主である。
私達も、自らをきよく保つために、世と汚れから分離すべきである。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。』(2コリント6:14-17)

自分達は主の民である事を、いつも思い起こすために、主は、『身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない。』(申命記22:12)と命じられた。
『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。』(民数記15:38-40)
つまりイスラエルでは、互いの衣服についている青いふさを見る度に、自分達は天に属する者達、神の民である事を思い起こさせ、誘惑に陥ったり、堕落しないために、、この事を定められたのだ。

私達にとっての救いのしるしは、十字架である。
パリサイ人は、この”しるし”を形骸化させ、衣のふさの青いしるしを、互いに戒め合うためではなく、自分の清さを人にアピールし飾るためのものとしてしまった。(マタイ23:5-7)
現代の私達は、十字架を、自分を飾るアクセサリーに貶めてはならず、イエス様の痛みを覚えるしるしとして、そして、自我を死に明け渡す”死刑の道具”として覚え、自分達は天に属する者である事を、いつも覚えるべきなのだ。

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