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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神が敵を頑なにする理由(申命記2:26-37):右クリックで保存

『そこでわたしは、ケデモテの荒野から、ヘシボンの王シホンに使者をつかわし、平和の言葉を述べさせた。『あなたの国を通らせてください。わたしは大路をとおっていきます、右にも左にも曲りません。金で食物を売ってわたしに食べさせ、金をとって水を与えてわたしに飲ませてください。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。』(申命記2:26-28)
主は24節で、この国は既にイスラエルの手に渡してある、戦って占領せよ、と言われていたが、モーセは和平を申し出ている。
いきなり戦いを仕掛ける前に、和平交渉をする事は、御言葉に適った事であるが(申命記20:10)、この場合、主は既にエモリ人の国をイスラエルに渡されている事を明確に示しておられたのだから、エモリ人が和平の申し出を蹴る事は、主にあって想定内であった。
実際、このエモリ人の国は心をかたくなにし、強気になって、イスラエルに歯向かってきた。
こちらが平和に立ったのに、あちらは争いを仕掛けてきたのだから、イスラエルが正しくエモリ人が悪かったと誰もが認めざるをえない。

エジプトの時ももそうだったが、主はその国を滅ぼして神の栄光をあらわすため、また神の民を栄えさせるため、悪しき者達の心をかたくなにされる事がある。
人は言う。「それならなぜ、神は人を責められるのか。誰が神のご計画に逆らうことができるだろう。」と。しかし、それに対してはパウロは言う。
神を評価し、自分を正しいとして神を不当とするあなたは、一体何者か、と。(ローマ9:18-24)

主は確かに、ある人を滅ぼすために、その人の心を頑なにされるが、主は映画のキャストでも選ぶように、ある人は滅び役、ある人は救い役と訳もなくするわけではない。
滅ぼされる人の側に、責任があるのだ。

もし人が、欲望のままに歩む事を止めず、あくまで神に逆らい続けるのであれば、神はその人をかたくなな心のままに任せ、汚れと滅びの中へ引き渡される。(ローマ1:24)
神はむしろ、豊かな寛容をもって、長い間忍耐し、人が悪しき事を止め、主に立ち返る事をずっと待っておられるのだ。(ローマ9:22)
神はどれ程忍耐深く待たれるお方であるか。また、かたくなにされ滅びが定められてしまった人達は、どれ程恩知らずであったか。

主は、大洪水で世を滅ぼされる前、人間がはなはだ堕落していた時代を、千何年も忍耐して来られたが、人々はついに行いを改めなかった。
またエジプトは、ヨセフから受けた恩恵を仇で返してイスラエルを奴隷としてこき使い、しまいには男子が生まれたらナイルに投げ込むまでに悪を行ったが、主は400年以上もの間ずっと忍耐して来られた。それでもエジプトは、行いを改めなかった。
そして、このエモリ人の国は、アブラハムの時代からずっと何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はシホンを頑なにし、滅ぼすに任されたのだ。

このように、トータルで見るならば、主は徹底的に真実で、忍耐深くあられた事が分かり、また、それに対する人間がいかに不真実で罪深いかが浮き彫りにされる。
だから、人は誰も、主がなさる事にとやかく言う権利はないのだ。

『その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記2:34)
私達も、主にあって滅ぼしつくすべきものは、惜しまずに、滅ぼしつくすべきである。
サウル王は、滅ぼしつくすべきものを惜しみ、その事をサムエルから咎められても、悔い改めず、「神への捧げ物だ」と言い訳したため、主に忌み嫌われた。
バラムも、受け取ってはならぬ不正の報酬を受け取るために奔走し、主がロバをしゃべらせて制止されたのに彼は聞かず、ついには滅びへと邁進してしまった。

神が恵み深く、悪を行っても全く罰されないのを調子に乗っていると、やがては痛い目を見る。
神はいつまでも許してくださると思い、悪の道を変えないのなら、やがて間に合わなくなってしまう時が来るのである。

礼拝説教メッセージ音声:エサウやロトの子孫でさえ勝利しているのに(申命記2:9-25):右クリックで保存

イスラエルが約束の地へ向かうに当たり、今度はモアブやアモンの領土、すなわち、アブラハムの甥・ロトの子孫の領土を通過する上での命令と、そして励ましとを与えられた。

『その時、主はわたしに言われた、『モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである。』(申命記 2:9)
主は、モアブはイスラエルの近親の民族であるから、争わず平和の内に通過するよう命じておられた。
しかし実際は、モアブがイスラエルを恐れて敵対し、モアブの王バラクはバラムを雇ってイスラエルを呪わせようとした。(民数記22−24章)
ただ、この時点で主は、ロトの子孫はアブラハムの近親であった故に、憐れみを注いでおられた。

唐突に主は、このロトの地やエサウの地の歴史を挿入している。
『むかし、エミびとがこの所に住んでいた。この民は大いなる民であって、数も多く、アナクびとのように背も高く、またアナクびとと同じくレパイムであると、みなされていたが、モアブびとは、これをエミびとと呼んでいた。ホリびとも、むかしはセイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを滅ぼし、彼らに代ってそこに住んだ。主が賜わった所有の地に、イスラエルがおこなったのと同じである。』(申命記2:10-12)

これらの土地には、かつて、背の高い強大な原住民が住んでいた。しかし、今はもういない。
エサウの子孫も、ロトの子孫も、それらの先住民を、滅ぼしたからだ。
それで彼らは、現在、そこで安住している。

あの、俗悪なエサウの子孫でさえ、また、あの近親相姦で生まれたモアブやアモンでさえ、イスラエルの父アブラハムと関係する子孫だからと言うので、主が特別扱いし、力づけ、先住民である巨人たちを打ち倒し、主が彼らのために保っておられた地に、安住している。
それに引き換え、アブラハムの正当な子孫であるあなた方・イスラエルを、どうして主は良くして下さらない事があろうか、と、勇気づけておられるのだ。

『「あなたがたは、いま、立ちあがってゼレデ川を渡りなさい。」そこでわれわれはゼレデ川を渡った。カデシ・バルネアを出てこのかた、ゼレデ川を渡るまでの間の日は三十八年であって、その世代のいくさびとはみな死に絶えて、宿営のうちにいなくなった。主が彼らに誓われたとおりである。まことに主の手が彼らを攻め、宿営のうちから滅ぼし去られたので、彼らはついに死に絶えた。』(申命記2:13-15)

40年前、イスラエルは不信仰の故に、主が進むように言われた地に、行かなかった。
彼らは、主が導こうとしておられる地は堅固な城壁の町々で、巨人がいて、自分達を飲み尽くしてしまう、と、悪く言いふらし、イスラエル全体を進ませなかったため、主はその世代の成人男子を皆、荒野で死に絶えさせた。

そこで、彼らが荒野で滅び尽くした今、主は今一度イスラエルを力強く励ましている。
『あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。きょうから、わたしは全天下の民に、おまえをおびえ恐れさせるであろう。彼らはおまえのうわさを聞いて震え、おまえのために苦しむであろう』。』(申命記2:24-25)

主が共にいるのであれば、何も恐れる事は無い。
あの俗悪な者の子孫たちでさえ、アブラハムのゆえに憐れみが注がれ、巨人たちに打ち勝たせ、主が保って下さった地で安心して暮らしている。
アブラハムの正当な子孫であるイスラエルのために、主は今、敵国内に恐れを生じさせ、勝利させるようにしておられる。
どうして進まないでおれようか。

今、皆さんの目の前にも、立ちはだかる巨人はいるだろうか。超えるべき山は、そびえているだろうか。
皆さんも、主に信頼して進むなら、天と地を造られた主から助けが来るのだ。

『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』(詩篇121:1-8)

礼拝説教メッセージ音声:除外されてしまう期間(申命記2:1-8):右クリックで保存

『それから、われわれは身をめぐらし、主がわたしに告げられたように、紅海の方に向かって荒野に進み入り、日久しくセイル山を行きめぐっていたが、主はわたしに言われた、「あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい。」』(申命記2:1)

ここには「久しくセイル山を行きめぐっていた」とあるが、イスラエルの民がどのくらいセイル山の周りを行き巡っていたかというと、なんと、38年以上もの年月行き巡っていたのである。それを、たった1節で片付けている。
民数記でも同じように、19章から20章の間で、38年以上もの時間をひとっ飛びしている。
色々な事件やドラマがあったであろう、その長き年月が、記録もされずに、飛ばされてしまう。そう、信仰によらない日々、すなわち、神から離れて不従順の内に過ごした年月や、罪のむくいを償還するための長き年月は、永遠の書物には、書き記されないのだ。

アブラハムも、神の約束を待つのではなく妻の助言を聞いてハガルをめとり、肉の力でイシュマエルを産んだ時、神が沈黙し、全く記録されない空白の13年があったし(創世記16:15〜17:1)、マタイの1章の系図でも、不信仰の悪い王の名は省かれてしまっており、あたかも存在しなかったかのような扱いである。
このように、不信仰の世代や、不信仰の期間は、主からカウントされず、永遠の書物から除外されてしまう、という事があるのだ。

『おまえはまた民に命じて言え、「あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである。あなたがたは彼らから金で食物を買って食べ、また金で水を買って飲まなければならない。』(申命記2:4-6)
荒野での40年の月年の終わりに、主は約束の地に向かって歩を進め、イスラエルの兄弟・エサウの領土を通る際の注意事項を示された。

エサウは長子の権利を一杯の食物で売った俗悪な者であるが、それでも主は、彼の父・アブラハムの故に、ちゃんと相続地を定め守っておられ、イスラエルも、彼らの土地を通過する時は、争ったりせず、食料や水を金で買うように命じている。
『あなたの神、主が、あなたのするすべての事において、あなたを恵み、あなたがこの大いなる荒野を通るのを、見守られたからである。あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった。』(申命記2:6-7)
主は、俗悪なエドムでさえ、きちんと相続すべき分を与えておられる事を見せ、そして彼らの権利を守るよう命じられた。

ひるがえって、イスラエルはどうだったか。
イスラエルは今まで、荒野の中でもしっかり守られ、主に養われ、導かれて来た。
「あなたは何も乏しいことがなかった」と言われたように、彼らは、いのちの危険がいつも付きまとう岩砂漠地帯を、40年も旅して来たというのに、なんと不足は無かったのである。
それは信じられない事かもしれないが、主は実際、誠実に、真実に養ってこられたのだ。

私達は、自分自身の不信仰や罪の故に、空白の13年や、荒野での38年を通るかもしれない。
たとえそうなったとしても、主の恵みと養いは、その間、尽きる事がない。
荒野での長き期間、イスラエルは一体、何万トンのマナで、何万キロリットルの水で養われたというのだろうか。
人は、無駄に日々を費やしたとは思っていても、それでも主の恵みは、途方もなく膨大に注がれていたのだ。

私達が通らされた荒野の経験は、決して無駄ではなく、その間、私達の不従順は削ぎ落とされ、信仰が培われ、主が真実に養って下さったという体験が残るのである。

礼拝説教メッセージ音声:呪いの根源 - 神から独立した善悪判断(申命記1:34-46):右クリックで保存

『主は、あなたがたの言葉を聞いて怒り、誓って言われた、「この悪い世代の人々のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもないであろう。」』(申命記1:34-35)
主の御言葉に聞き従わず、不従順を貫き通した「悪い世代」は、カレブ以外、誰も良き地に入れない事が確定してしまった。
そして、あの多くの功績を残したモーセであっても、御言葉に聞き従わないなら、良き地に入れないのだ。

主に聞き従わない事は災いだが、その根源は、「神から独立して自分で善悪判断をする」というスタンスである。
『またあなたがたが、かすめられるであろうと言ったあなたがたのおさなごたち、およびその日にまだ”善悪”をわきまえないあなたがたの子供たちが、そこにはいるであろう。わたしはそれを彼らに与える。彼らはそれを所有とするであろう。』(申命記1:39)
荒野で滅びる事が確定してしまった「悪い世代」と、アダムとエバとに、共通している事がある。
それは、神から独立した善悪判断をして、身勝手な事を行い、その結果死と呪いを刈り取り、主が用意された良き地から吐き出されてしまうという「失楽園」を経験してしまった事だ。

エデンの園以来、私達には常に、究極の二択が迫られている。
究極の二択、それは、「善か、悪か」ではない。
「いのちの木か、善悪の木か」である。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1335 )
私達が、神から独立して自分で善悪判断をするなら、失楽園し、労苦の挙句に死ぬのみであるが、自分の善悪判断を降ろし、イエス・キリストといういのちの木から取って食べるなら、私達は楽園(パラダイス)に入り、永遠に生きるのである。

『しかし、あなたがたはわたしに答えて言った、『われわれは主にむかって罪を犯しました。われわれの神、主が命じられたように、われわれは上って行って戦いましょう』。そして、おのおの武器を身に帯びて、かるがるしく山地へ上って行こうとした。』(申命記1:41)
イスラエルの民は「われわれは主にむかって罪を犯しました。」と、自分の罪を認めているが、主の御言葉への服従が全く無く、相変わらず自分の善悪判断を固く握りしめている。
それは以下の事でわかる。

『その時、主はわたしに言われた、『彼らに言いなさい、「あなたがたは上って行ってはならない。また戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいない。おそらく、あなたがたは敵に撃ち敗られるであろう」』。このようにわたしが告げたのに、あなたがたは聞かないで主の命令にそむき、”ほしいままに”山地へ上って行ったが、その山地に住んでいるアモリびとが、あなたがたに向かって出てきて、はちが追うように、あなたがたを追いかけ、セイルで撃ち敗って、ホルマにまで及んだ。』(申命記1:42-44)
彼らは「こうするのが主に償いをする事だ」と、身勝手な思い込みで突き進み、それで散々な目に遭って、逃げ帰ってきた。
主の御旨に叶っていない事を、人が”ほしいままに”行うなら、主はそんな人は助けない。

『あなたがたは帰ってきて、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞かず、あなたがたに耳を傾けられなかった。』(45節)
主は、人が流すどんな涙でも、目を留めて下さるものではない。
美しい涙と、醜い涙がある。
自分の罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は美しく、主はそれを受け止めて下さるが、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、自分の思い通りに行かない事を嘆く涙は醜く、その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。

私達は「いのちの木か、善悪の木か」のどちらを選ぶかを主から提示されており、もし善悪を選ぶなら、私達は死と呪いを刈り取り、「失楽園」してしまう。
私達が選び取るべき「いのちの木」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)

キリストは十字架を負われ、自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、死に渡し、いのちなるお方イエス様にならって十字架上で御父に自らを明け渡すなら、いのちを得るのである。

礼拝説教メッセージ音声:底辺からいつまでも脱却できない人の思考パターン(申命記1:19-33):右クリックで保存

『その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:20-21)

この時、イスラエルの民が、モーセに言われた通りに、何も言わずそのまま行っていたなら、すんなり約束の地に入れたはずだ。
しかし、以下の民の言葉の故に、荒野の放浪が始まってしまった。主の命令に、人間が「でも」を混ぜてしまう事こそ、荒野の放浪の入り口なのである。

『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう。』』(同22節)

これは「知恵があり、人に知られている人々」(15節)なら、いかにも考えそうな、極めて常識的な提案である。
事前調査するのは、悪い事ではない。実際モーセも、それをするのは良いと思った。
民は今まで、主の御業を見てきたのだから、今回も主が、素晴らしい御業を為して下さるだろう、と、民は当然判断するものと、モーセは思っていたかもしれない。

しかし民の考え方は、モーセと同じではなかった。
民は、主がおられる事を度外視し、自分と相手を比べて計算して、絶望したのだ。

戦いであれ、友人関係であれ、主を度外視して「自分と相手を比べて計算」する事は、大いに問題である。
それに引き換え、ヨシュアとカレブは、「自分達の内にいます主と、相手とを見比べて計算」し、勝利を確信した。
主と相手とを見比べるなら、希望以外には考えつかないが、自分と相手とを見比べるなら、絶望以外には考えつかないものである。

『しかし、あなたがたは上って行くことを好まないで、あなたがたの神、主の命令にそむいた。そして天幕でつぶやいて言った。『主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。』(申命記1:26-27)

主は、四百年以上も前から、アブラハムの時代から、この地をイスラエルの民に与えると約束しておられた。
そして実際、彼らは、主がエジプトにおいて、荒野において、大きな御業をして下さった事を、何度も目の当たりにして来た。
それなのに、この期に及んで、「主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。」などと言っている。
一体どうしたらこんなひねくれた考えになるのか、と思うかもしれないが、主が為された事に目を向けず、主が共におられる事を度外視し続け、あくまで自分の考えに凝り固まって、自分の主張を通そうとしている者は、大体そのような愚かな判断をくだすものである。
主は、ねじ曲がった者にはねじ曲げる方であり、彼らが主に対して量っている通りに量り返すお方である。(詩篇18:26、ルカ19:22)

『われわれはどこへ上って行くのか。兄弟たちは、「その民はわれわれよりも大きくて、背も高い。町々は大きく、その石がきは天に届いている。われわれは、またアナクびとの子孫をその所で見た」と言って、われわれの心をくじいた』。』(申命記1:28)
これが、自分と相手を見比べてばかりいて、主を度外視している者の言葉であり、信仰生活を何年しても、霊的にも社会的にも底辺からいつまでも脱却できないクリスチャンの思考パターンである。

『その時、わたしはあなたがたに言った、『彼らをこわがってはならない。また恐れてはならない。先に立って行かれるあなたがたの神、主はエジプトにおいて、あなたがたの目の前で、すべてのことを行われたように、あなたがたのために戦われるであろう。あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった』。』(申命記1:29-31)

モーセは19節で、「あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。」と言っているが、実際その道は、石灰岩ばかりの岩砂漠地帯で、もし一日でも放って置かれたら、完全に干からびてしまう。
それなのに、彼らが長年守られて来たのは、主が昼は雲の柱によって照りつける太陽から守り、夜は火の柱で暗闇と寒さから守って来られたからだ。
主は、人のその子を抱いて運ぶように運ばれ、主が、めんどりが雛を覆うようにして、守って来られたのだ。

『このように言っても、あなたがたはなお、あなたがたの神、主を信じなかった。主は道々あなたがたの先に立って行き、あなたがたが宿営する場所を捜し、夜は火のうちにあり、昼は雲のうちにあって、あなたがたに行くべき道を示された。』(同32-33節)

主がして下さった事を一切思わず自分の考えに凝り固まってそれを降ろさない人、いつも自分と相手を比較して計算し、主を度外視している人は、荒野を放浪するような人生を歩んでいる。
私達は、ヨシュアやカレブのように、主を見、主と相手を比較して希望を得、信仰によって進み出て、いつも勝利する者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:長たる者の人選は誤るなかれ(申命記1:5-18):右クリックで保存

『われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。』(申命記1:6-8)
これはまだ、荒野での40年を経る前の、すぐにでも約束の地に入れる望みがあった頃の話で、「久しくこの山にとどまっていた」と言っても、一年という期間である。
四十年の放浪に比べれば、一年はわずかな期間だが、それでも当時の彼らにとっては、長い期間だった。

私達の人生も、長い期間に見えるかもしれない。
しかし、永遠の栄光を得るためのボーナス査定の期間と思うなら、あるいは、ゲヘナで絶え間なく受ける永遠の苦しみを思うなら、この人生という”短い期間”を、いかに主にあって大切に過ごすべきかを知る事が出来る。

『わたしひとりで、どうして、あなたがたを負い、あなたがたの重荷と、あなたがたの争いを処理することができようか。・・・そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。』(申命記1:12-15)

民の数は、あまりにも多いので、モーセ一人で民全体の面倒を見る事はできない。
そこでモーセは千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を選別して、重荷を分散しようとした。
その長たちの選別基準は「知恵があり、人に知られている人々」であるが、この時の選別基準の中に、早くも、四十年の放浪という失敗の兆候があった。

モーセがこの時語っている出来事は、出エジプト記18章での出来事の回顧である。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)

モーセのしゅうと・イテロは、元はミデヤンの祭司であるが、イスラエルの神・主の素晴らしさを見て、主に立ち返ったため、素晴らしい助言をしている。
モーセのように神と人との間に立つべき人が、民の日常的な争い事の処理に時間とエネルギーを費やしてはならない、そうした事は長たちに任せ、モーセ自身は、彼らでは処理できないような事を、主から聞いて、答えを頂くべきだ、と。
モーセはむしろ、人々に神の基準を示し、主にあってどう判決すべきか、そして、人々が歩むべき道やなすべき事を教える、という、もっと神様の御用に則した事で、その身を用いるべきだ、と。

また、イテロが勧める長たる者の選別基準が、また素晴らしい。
「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」である。
それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りの人選を、しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
すなわちモーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取った。

私達が組織の人選をする上で、神を恐れる人格者よりも、多少不正をしようとも”出来る人”のほうを選びやすい。
世の中の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すべき長たる者は、まず、神を恐れる事がなければならない。なぜなら神の国においては、量や力、効率よりも、霊的純粋さこそ最優して保つべき事柄だからである。
新約の初代教会では、成長するにつれて、どのような点を優先事項としたか。

『そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。』(使徒6:1-2)

教会が成長し、国際化して行く中、教会の中の社会的弱者のある人達への配給がおろそかにされている、という問題が起こった。
その時、十二弟子が言った事は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、もっと互いに仲良くしましょうといった、現代クリスチャンなら真っ先に言いそうな事は一切なく、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」であった。

『そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。』(使徒6:3-4)
教会では、確かに弱者救済や差別撤廃などの奉仕もするが、そうした社会活動が中心ではない。
教会が最も優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
この優先順位を取り違えて、社会活動を中心にして祈りと御言葉をおろそかにすると、教会はいびつに、不健全になって行ってしまう。

この時、十二弟子が提案した、七人の食卓の奉仕者の選別基準は何だったか。
現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人など、その道に通じた人を選ぶ所であろうが、彼らの選別基準は、「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち」であった。
いかに出来る人であっても、霊と知恵に満ちていないなら、落とされるのである。
また、評判の良い人でなくてはならない。教会という閉じた世界の中でしか生きられず、外の社会では通用しないような人は、選別から落とされるのである。

このような人選をし、主だった人達は祈りと御言葉の奉仕に専念し、七人が教会の奉仕に励んだ結果、神のことばはますます広まり、弟子の数は非常に増え、祭司たちも多数、信仰に入った。(使徒6:7)

モーセは長たる者の人選に誤って、過ちの根を植えてしまった。
私達は、霊的奉仕の人選に誤る事がないようにしたい。

礼拝説教メッセージ音声:申命記概要(申命記1:1-4):右クリックで保存

『これはヨルダンの向こうの荒野、パランと、トペル、ラバン、ハゼロテ、デザハブとの間の、スフの前にあるアラバにおいて、モーセがイスラエルのすべての人に告げた言葉である。』(申命記1:1)
申命記は、ヘブライ語では「デヴァリーム」、「これらはことばである」という意味である。古代ユダヤでは、書物の冒頭の単語をタイトルとして使っているため、そのような名前となっている。
日本語題の「申命記」は「繰り返し命じる」という意味で、それは、イスラエルがカナンに入る直前にモーセが繰り返し律法を命じているためだ。

モーセは、申命記でよく命じている。「聞け」と。
神がいかにイスラエルを愛し、いかに導いて来たか。
また、神を愛して生きる事が、いかに幸いであるか、神に反逆して生きる事が、いかに災いであるかを、繰り返し説いている。

申命記を概略的に見ると、1章から4章までの所では、荒野での日々を振り返っており、民がいかに反逆して歩んできたか、その結果、どんな災いが与えられて来たかを、繰り返し述べている。
5章から26章の所では、主が与えられた十戒や律法を再確認しており、そして、27〜30章では、従順と不従順の二者択一、すなわち、祝福とのろいの二者択一を迫っている。
ことに、従順しなかった場合の呪いについては、とても詳細に記している。なぜそんなにも、呪いの結果を詳細に教えるか。それは、その道を歩ませないための、愛ゆえの戒めである。
31章以降は、モーセの告別のメッセージであり、後継者ヨシュアへの助言と、将来起こる事の預言的な歌、各部族への祝福、そして、モーセの死で終わる。

エジプトを出てきた民が通らされた荒野を、学校にたとえるとしたら、出エジプト記では教科書の基礎を学び、レビ記では応用的な学科を学び、民数記は卒業するための実技試験で、そして、申命記は卒業式における校長の最後のメッセージと言える。

『ホレブからセイル山の道を経て、カデシ・バルネアに達するには、十一日の道のりである。第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。』(申命記1:2-3)
イスラエルの民はおよそ40年前、神の山ホレブで、律法の教科書である十戒が授けられ、そこで詳細な学科を一年学んだ。
そして第二年目の二月二十日、雲があかしの幕屋から離れて上り、イスラエルはシナイの荒野を出て旅立って行った。(民数記10:11-12)

そこからカデシュ・バルネアまでは、わずか十一日で行ける距離。
なのに、なんと、三十八年以上もかかってしまった。
なぜなら、彼らはカデシュ・バルネアでの卒業試験をかなりまずく行い、面接官である主に、度重なる無礼と反逆を繰り返したため、その反逆の世代が死に絶えるまでの、およそ三十九年もの「留年」が課せられてしまったからである。
不従順な世代が死に絶え、いよいよ荒野という学校の卒業を控えた今、四十年もの長きに渡って導いてきた校長・モーセによる卒業メッセージが、この申命記である。

卒業式では、良く語られる。これから皆さんは社会に出て、それぞれの道を歩み出す。これからは、ここで学んだ事をしっかりと握りしめて、自立した大人として歩みなさい、と。
そう、荒野での養育を受けたイスラエルは、これから信仰的に自立した歩みしていかなくてはならない。
続くヨシュア記以降が、その記録であるが、残念ながら、良い歩みをしたとはあまり言えない。

学校と社会とでは評価基準が真逆になる。学校では、いかにインプットしたかで評価されるが、社会では、いかにアウトプットしたか、すなわち、何を行ったか、どんな成果を残したかが評価される。
同じように、信仰の歩みも、インプットしたからにはアウトプットしなければならない。
御言葉が与えられたなら、それを実践し、信仰の結果を勝ち取って行く事が、要求される。御言葉をただ知っている、だけでは、ゆるされないのだ。
ヨシュア記以降、まさに、信仰を持って大胆に進み出た人達は大きな結果を残し、御心に反して自分勝手を行った者は滅んで行った。

学校を卒業したら、学生時代には無い「自由さ」がある。
しかし、その自由を自堕落な事に用い続けて年月を過ごすなら、取り返しの付かない事になってしまう。
同じように、この地上での信仰者の歩みは、自由である。実に、御心を裏切る自由さえもあるが、その結果も必ず刈り取る事になる。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)

与えられている自由を、肉に用いて滅びを招くか、それとも霊に用いて永遠のいのちを勝ち取るかは、皆さんの選択にかかっている。
天国は、自律的に神を愛し、神に愛される行いをする者だけが居る所である。
神を愛する事とはなにか、神を愛さない事とはなにか、この申命記から、しっかり学びたい。

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