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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:知恵と知識が無い故に滅びる(申命記32:26-35):右クリックで保存

『わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、/彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、/「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない。」』(申命記32:26)
主は、イスラエルの不従順はお許しにならないが、彼らを処罰するために用いられる敵が、奢り高ぶる事も、また許されない。
主は荒野で、かたくなな民を滅ぼそうと幾度もされたが、その度に、モーセは執り成した。
もし、イスラエルの民をこのまま絶ち滅ぼしてしまうなら、主はイスラエルを導くことが出来なかったのだ、と、敵は思うでしょう、それは主の栄光にはなりません、と。(出エジプト記32:12、民数記14:13-16、申命記9:28)

私達人間には、神に受け入れられるような良い点など、実は、一つも持ち合わせていない。義人は、一人もいない。(ローマ3:10-18)
モーセは、イスラエルの民にはこれこれの良い点があります、などと言って、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切せず、「主がどのようなお方であるか」「主の栄光とならない事は、どうかお止め下さい」という点から、執り成した。
主こそ唯一栄光をお受けになるべきお方であり、真理なるお方であり、私達はただ、罪に汚れた弱い私達を救って下さる主の憐れみにすがるだけなのだ。

『彼らは思慮の欠けた民、/そのうちには知識がない。もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、/その身の終りをわきまえたであろうに。彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。』(申命記32:28-31)

イスラエルは、生みの親で育ての親である主のお陰で勝利した、という実感が一切無くなり、「自分がこれらのことをしたのだ」と驕り高ぶり、主を捨て去り、災いにつぐ災いに打たれてしまった。
主を主とする知恵や知識が、無かったからである。
主は、そんなイスラエルに対し、幾度も預言者を遣わして、主に立ち返るように促したのに、彼らは取り合わず、預言者をばかにし、殺し、そうしてあらかじめ言われていた通りの呪いが降りかかり、敵に打たれ、世界中に散らされてしまった。

「知恵」をしっかりと身につけなかったがゆえに、滅んでいく人は、確かにいる。
今、私達がこうして在るのは、主のお陰であり、親や多くの人達のお陰である事、そして、その恩にはしっかり報いるべきだという「知恵」を、しっかり身につけていないなら、多くの人々に迷惑をかけた末、滅んでいくのだ。

『彼らのぶどうの木は、/ソドムのぶどうの木から出たもの、/またゴモラの野から出たもの、/そのぶどうは毒ぶどう、/そのふさは苦い。そのぶどう酒はへびの毒のよう、/まむしの恐ろしい毒のようである。』(申命記32:32-33)
神の民は、よく、ぶどうの木に例えられる。
『わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。』(イザヤ5:1-2)
主は、乳と蜜の流れる地というぶどう畑に、イスラエルを甘いぶどうとして植え、石を除き、よく育つために必要な全てを整え、よく手入れし、甘く良い実を結ばせる事を待ち望んだのに、人が神に返した実は、酸いぶどうだった。
『それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。』(イザヤ5:5-7)

キリストが十字架上で、焼きつくされるような苦しみを味わい、「わたしは渇く」と言われた時、人々がイエス様に差し出したのも、酸いぶどう酒だった。
『彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしの渇いた時に酢を飲ませました。』(詩篇69:21)
イエス様は、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。
なぜなら、人が本来受けるべき呪い、処罰を一身に受けたからだ。
こうして、人が受けるべき全ての呪いを、イエス様は受け尽くし、イスラエルの罪も、全人類の罪の借金も、全て完済(成就)されたのだ。

『これはわたしのもとにたくわえられ、/わたしの倉に封じ込められているではないか。彼らの足がすべるとき、/わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、/彼らの破滅は、/すみやかに来るであろう。』(申命記32:34)

私達がもし、いつも赦されると思って、身勝手な罪を犯し放題に犯して、悔い改めを先延ばしにするなら、その都度、処罰の炭火を私達の頭上に積み上げているのだ。
だから私達は、本当に、処罰を免れるために、知恵と啓示の霊が与えられるよう祈るべきだ。
自分がどのような有り様なのかを、知るために。
そして、主をいかに悲ませているか、主が深いうめきによって執り成しておられるかが、分かるように。
私達自身も自分の罪を悲しむ感性と、それを取りのけたいと心底願う飢え渇きが与えられるように、祈るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:主が弓を引いて敵対する人とは(申命記32:19-25):右クリックで保存

主は常に真実であり、人々を幸いと祝福をもって扱われて来たのに、人はそれを、裏切りと不真実でもって、主に返した。
それで主は言われる。
『主はこれを見、/そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。そして言われた、/「わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、/真実のない子らである。』(申命記32:19-20)
主の御顔は、私達を祝福によって照らす太陽であり、平和の源である。(民数記6:24-26)
太陽が遮られた植物は、たちまちしおれてしまうように、主の御顔をそむけられてしまった人は、たちまち、霊的にも肉的にも物質的にもしおれてしまう。

『彼らは神でもない者をもって、/わたしにねたみを起させ、/偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、/彼らにねたみを起させ、/愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。』(申命記32:21)
主は、恵み深い人には恵み深く、全き人には全くあられ、きよい人にはきよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。(詩篇18:25-26)
また、主を邪推する者には、彼が量ったのと同じ秤で、量り返される方。(ルカ19:22)
だから、人が主を、神ではないものによってねたみを引き起こさせるからには、民ではないと思えるような人々を用いて彼らにねたみを引き起こさせ、人が主を、偶像によって怒らせるからには、愚かな民を用いて、彼らを怒らせる。

『わたしの怒りによって、火は燃えいで、/陰府の深みにまで燃え行き、/地とその産物とを焼きつくし、/山々の基を燃やすであろう。』(申命記32:22)
主の怒りは、その者達の産物を焼きつくし、彼らが頼りにしている山々の基さえ焼き尽くされる。
しかし、主を避け所とする人は、たとえ山々が移り変わり、海の真中に移っても、恐れる事は無い。
『神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。』(詩篇46:1)

『わたしは彼らの上に災を積みかさね、/わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。彼らは飢えて、やせ衰え、/熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、/地に這うものの毒にあたらせるであろう。外にはつるぎ、内には恐れがあって、/若き男も若き女も、/乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。』(申命記32:23-25)
主の矢は、食料危機の矢、貧乏の矢、熱病と悪い疫病による滅びの矢であり、若くても年老いても、男も女も、乳飲み子であっても、悔い改めのない者に対しては、容赦なく射掛けられる。
『わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。』(詩篇7:10-13)

悔い改めない者は、地を這うものの毒のえじきとなってしまう。(申命記32:24)
この「地に這うもの」は、創世記にてアダムとエバを惑わしたあの古い蛇、すなわち、サタンであろう。
『主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう。」』(創世記3:14-15)

人は、主の御言葉に聞き従わず、悔い改めもしないなら、ただのサタンのエサ、ただのちりに過ぎない。
しかし、蛇のかしらをふみ砕く「女のすえ」、すなわちイエス様に救いを求め、御言葉に従順であり、主にあって善にはさとく、悪にはうとくあるなら、平和の神は、すみやかに私達の足を用いて、サタンを踏み砕かせて下さる。(ローマ16:19-20)
人は結局、悔い改めてイエス様を信じる以外に、救いは無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:エシュルンは肥え太って足で蹴った(申命記32:10-18):右クリックで保存

モーセが主から授かった歌の内容は、イスラエルの神が今までどんなに良くしてくださったか、それに引き換え、イスラエルの民は、どんなに恩知らずで、恩を仇で返してきたかを、表している。

『主はこれ(イスラエル)を荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、/その子の上に舞いかけり、/その羽をひろげて彼らをのせ、/そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて、/ほかの神々はあずからなかった。』(申命記32:10-12)
わしは、ひな鳥がある程度成長したら、巣を揺り動かしてひな鳥を落とす。
落ちていくひな鳥は、羽をばたばたさせて、そうして飛ぶ訓練をさせるのだが、本当に危なくなったら、親鳥は子の上に舞いかけ、羽を広げてそれを乗せて、巣に運び、再び訓練させる。
そうして、子わしは飛ぶことを学んでいく。
同じように主も、イスラエルを、エジプトという巣を打って揺り動かし、荒野へと呼び出され、信仰によって歩む訓練をされた。
万軍の主の訓練は安全であり、あたかもひとみを大切に守るがごとくに、主は、イスラエルを巡り囲んでいたわって下さった。

主は、現代を生きる私達にも、同じように訓練される。
主は、私達がいた「世」という元々の住み家を揺り動かし、主の元へと召し出し、信仰にあって歩めるよう訓練させて下さった。
その間、主は私達を前から後ろから取り囲み、ひとみのように守って下さった。
そのように信仰によって私達が歩むなら、主は、あらゆる良きものを与え、地位を高くし、栄えさせてくださり、後には永遠のいのちへと導いて下さるのだ。
次のように記されているとおりである。
『主は彼に地の高き所を乗り通らせ、/田畑の産物を食わせ、/岩の中から蜜を吸わせ、/堅い岩から油を吸わせ、牛の凝乳、羊の乳、/小羊と雄羊の脂肪、/バシャンの牛と雄やぎ、/小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。』(申命記32:13-14)

しかし主は、イスラエルがそのように何もかもがうまく行った時、今まで良くして下さった主を裏切る、と、言われる。
『しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、/自分を造った神を捨て、/救の岩を侮った。』(申命記32:15)
私達の中にも、そのような性質がある事を、忘れてはならない。
ダビデでさえ、何もかもがうまく行くようになった時、慢心が生じて失敗し、主の御前に罪を犯してしまった。

『彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、/憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、/近ごろ出た新しい神々、/先祖たちの恐れることもしなかった者である。』(申命記32:16-17)
彼らは満ち足りた時、主の教えを乗り越え、もっと自分の好き勝手に、もっと自由奔放に生きようとたいがために、今まで彼らを守り、幸いへと導いて下さった主を裏切るのだ。

パウロも言っている。
『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。』(2テモテ4:1-4)
今の時代も、主がどんなに良くして下さったかを覚えず、健全な御言葉の教えを捨て去り、自分に都合の良い事を言ってもらうために、先生を自分の所に呼び寄せて空想話にうつつを抜かしているクリスチャンは多い。
パウロは、そのような時代を見越して、「御言葉をのべ伝えなさい」という、実にシンプルかつ重要な命令を、おごそかに命じているのである。

『あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、/自分を造った神を忘れた。』(申命記32:18)
モーセが死ぬ前に伝えたこの歌は、昔イスラエルに対して歌われた詩歌で、現代の自分には何も関係ない、と、思ってはならない。
この歌は、今の私達にこそ、関係あるのだ。

主は私達を世から召し出し、信仰にあって歩むように訓練をさせ、前から後ろから私達を取り囲んで、ひとみのように守って下さり、この地においては、あらゆる良きもので満たし、地位を高くし、栄えさせ、後には、永遠の御国へと導き入れんがために、今なお、私達を導いておられる。
それでいながら、私達には、主を捨てて自分勝手な道に行ってしまいたいという性質も、またある事を、日々、思い出すべきである。
そしてもし、今、主から離れて諸々の災いに遭っているとしたなら、この歌の内容を思い返し、速やかに主に立ち返るべきである。
地上での生活においては、主に信頼しつつ歩んで、ますます幸いと祝福を歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:モーセが残した歌(申命記32:1-9):右クリックで保存

イスラエルが将来、主の御言葉を軽んじ、それで災いが自分達に降りかかると、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言う事までも、主は、あらかじめご存知であった。
そうなった時、結局悪かったのは主ではなく、自分達だった、という、将来の証拠を残すために、主はあらかじめ「歌」という形で、将来起こる事を表明しておられた。
32章には、その歌の内容が記されている。

『「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、/地よ、わたしの口の言葉を聞け。わたしの教は雨のように降りそそぎ、/わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、/青草の上にくだる夕立のように。わたしは主の名をのべよう、/われわれの神に栄光を帰せよ。主は岩であって、そのみわざは全く、/その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、/義であって、正である。』(申命記32:1-4)

この歌の最初の出だしは、主は初めから終わりまで、どういうお方であり続けたかを、示している。
主は初めからずっと真実であり、完全で、正しいお方であった。
後の時代の人が、主について思い返す時、その事だけは、誰も否定出来ないものである。

人が、たかだか何十年か、好き放題して、その報いを受けて何十年か苦しんだとしても、主の恵み、主の正しさは何百年もの間、ずっと変わらず注がれて来たのだ。
人がどんなに不正を行おうと、また戦争などのどんな事変が起きようとも、そのような人間の営みとは一切関係なく、太陽は相変わらず善人にも悪人にも照らし続け、相変わらず恵みの雨は善人にも悪人にも降り注がれ続けていたように、主の御言葉はいつも完全であり、同時に、主の御言葉を軽んじ、ないがしろにする者が災いを受ける事も、また変わる事なく確実な事である。

モーセの時代以降、人は何をするか。
そして多くの時が過ぎた後、その将来から見て、人はそれまで何をして来たのかをも、歌は示している。
『彼らは主にむかって悪を行い、/そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、/よこしまで、曲ったやからである。愚かな知恵のない民よ、/あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、/あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。いにしえの日を覚え、/代々の年を思え。あなたの父に問え、/彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、/彼らはあなたに語るであろう。』(申命記32:5-7)

人は、真実な主に対し、偽りを返し、正しい主に対し、悪を返し、恩を仇で返すような事ばかりして来た。
そこで主は、昔を思いだせ、と命じている。御言葉に聞け、と。

『いと高き者は人の子らを分け、/諸国民にその嗣業を与えられたとき、/イスラエルの子らの数に照して、/もろもろの民の境を定められた。主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。』(申命記32:8)
この節には、驚くべき事が記されている。
主はイスラエルの嗣業(相続地)として、乳と蜜の流れる地を相続された。
それはモーセ五書では何度も言われている通りであるが、では、主の嗣業、主が相続されるものは、何か。
それはなんと、ヤコブ、すなわち、イスラエルの人々だ、というのだ。

イスラエル人の相続は、乳と蜜の流れる良き地、であるのに対し、主が相続されるものは、恩を仇で返してばかりいるイスラエル人、というのだ。
本当に主は、貧乏くじを自ら引かれ、私達には、当たりくじを引かせて下さった。

キリストが十字架上で全身全霊が焼きつくされるような苦しみを味わったのは、本来人が受けるべき罰を身代わりに受け、御父に執り成し、救い、パラダイスへの道を開くためであった。
というのに、人々が主に差し出したのは、酸っぱく変質してしまった、酸いぶどう酒だった。
皆さんは、食用酢を希釈もせず飲めるだろうか。
私達のために十字架につけられたイエス様に対し、人は、酢で返したのだ。

そして、主がその酢を受けられた時、「完了した」と言われて、父なる神様に霊をお渡しになられた。
それによって、イスラエルだけでなく、全世界の人が受けるべき呪いと罰を受け尽くし、罪の罰金を全額払い、私達を責め立てていた債務証書を無効とし、人も全被造物も、十字架の血によって、神と和解させられたのだ。

キリストが十字架上で為して下さった尊い贖いによって、私達は罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となり、聖なる国民とされた。
その事を私達は、いつも覚えて感謝しつつ、生きていくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:全てをあらかじめ知っておられる主(申命記31:19-30):右クリックで保存

主は、全てをご存知である。
自分達を戒めてくれる指導者がいなくなったら、「うるさいのがやっといなくなった」とばかりに、主の教えを軽んじ、約束した事を平気で裏切ろうとする、その心の機微さえも。

『それであなたがたは今、この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしのあかしとならせなさい。』(申命記31:19)主の御声に聞き従わずにそむき続けるなら、必ず災いが振りかかる。
それで、実際に災いが降りかかった時、イスラエルは「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言う事さえ、主は予め知っておられた。
そこで将来、彼らがそのように言ったとしても、主はそのような事は予めご存知だった事、そして、悪かったのは主ではなく自分達だった、と、示す証拠を、主はあらかじめ「歌」という形で備えられたのだ。

『わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れる時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。こうして多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あかしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らはそれを忘れないからである。)わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。モーセはその日、この歌を書いてイスラエルの人々に教えた。』(申命記31:20-22)

モーセは、32章にて記される歌を、子々孫々に伝えるよう命じた。
歌は不思議である。
歌詞には全く気にかけずに、ただメロディだけを口ずさんでいた歌が、ある時、ふとその歌詞に気づき、その内容が今の自分の姿をありありと言い当てているのに驚く、という事が、よくある。
特に、何世紀も歌い込まれた賛美歌や、何世紀にも聖徒たちに親しまれてきた詩篇は、そうである。
主が私達人間に為して下さった、恵みと憐れみの素晴らしさは、昔も今も、遠い国であろうと近い国であろうと、変わらないからだ。

『主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。』(申命記31:23)
ヨシュアも、モーセと共に、イスラエルが近い将来、主を裏切る事を聞いていた。
しかし主は、ヨシュアには、強く勇ましくあるように命じられた。
たとえ将来、自分が導く人達がどうなるかが、分かり切っていても、それで虚しくなったりする事なく、主から与えられた使命を、しっかり果たすべきなのだ。
実際パウロもそうだった。自分が夜昼となく手塩にかけて面倒を見てきたエペソの聖徒たちが、将来どうなるか、あらかじめ示されていたが、パウロは彼らを、神と、その恵みの御言葉とに委ね、次の働きへと邁進して行った。(使徒20章)

主は確かに、人が将来裏切る事、失敗する事をご存知であり、あらかじめ伝えられる。
それで実際、その人が、あらかじめ言われていた通りに、裏切ったり、失敗したりしたら、「それ見た事か、お前のような者なぞ、もう知らん」と言うような主ではない。
主は、失敗したり裏切ったりしたの後のフォローさえ、予めしておられるのだ。

父なる神様は、放蕩息子が失敗する事を承知しておきながら、その子の言いなりのまま、送り出すのである。(ルカ15章)
そして、送り出した後は、その子が戻ってくるのを、待つのである。その子が出て行ったその方向を、いつも気にかけながら。
そして、その子がさんざんな目に遭って戻ってきた時には、遠くからその姿を見て、走り寄って来て、くちづけして迎えて下さるのである。
父なる神様は、我に返って悔い改め、戻ってきた聖徒を、そのように歓迎し、そして元の地位に戻して下さるのである。

イエス様も、ペテロの失敗を予めご存知だった。
『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」』(ルカ22:31-32)
主はペテロの失敗をあらかじめご存知だったが、ちゃんと立ち直るように、そして、兄弟姉妹達全体が力づけられるように、あらかじめ、祈っておられたのだ。
主は、そのようなご性質の持ち主なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の御顔が隠されてしまう呪い(申命記31:14-18):右クリックで保存

前回の箇所で、モーセは、主から命じられた事を全て書き記して、それを民の長と祭司に託し、7年ごとに全イスラエルに読んで聞かせるよう命じたが、その次に主は、モーセとヨシュアだけを会見の幕屋に呼び寄せ、イスラエルの民が何を考えており、これから何をしようとしているかをプライベートに示された。

『主はまたモーセに言われた、「あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを召して共に会見の幕屋に立ちなさい。わたしは彼に務を命じるであろう」。モーセとヨシュアが行って会見の幕屋に立つと、主は幕屋で雲の柱のうちに現れられた。その雲の柱は幕屋の入口のかたわらにとどまった。
主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。』(申命記31:14-16)

人はうわべしか見れないが、主は、心を見られる。
イスラエルの民は、口では主の契約を守り行います、とは言ったものの、心の秘められた所では、実は、主を敬いもせず、御言葉を何とも思っていない事を、主はご存知であり、このまま行くなら、彼らはやがて主を捨て、外国の偽りの神々を慕い求めるようになる事を、知っておられたのだ。
『その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。』(申命記31:17-18)

主の御声に聞き従わずに、そむいたとしたら、何が起きるか。
それは28章以降で、さんざん繰り返し言われていた通りである。主の御怒りを買ってしまい、必ず災いにあうと、彼らは何度も聞いていたはずだ。
それなのに彼らは、主の御言葉を軽んじ、いざ災いが降りかかった時には、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言うのだ。
自分の思いどおりに生きたい人とは、そのようなもので、主の言われる事も、人が言っている事も、心を留めないため、物事の的を射ず、労多くして功少ない人生であるばかりでなく、主からの災いが絶えないのだ。

主は、主を捨て去って、御言葉を破った者に対しては、「わたしの顔を彼らに隠す」と、2回も、「御顔をそむける」事の警告している。
主の御顔、それは、私達を照らして、いのちの祝福を与える太陽であり、また、私達の平和の源である。

以下の言葉は、有名な祝福の言葉であるが、「御顔を向ける」事を2度、言っている。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
主の御顔、それは私達には太陽であり、盾である。

主は、私達の身代わりとなって神に見捨てられ、「御顔がそむけられる」呪いを十字架上で味わった。(マルコ15:33-34)
本来、私達が父なる神と断絶されるべき所を、イエス様が身代わりとなって断絶され、それで彼にあって私達は神との和解を得た。

イエス様が十字架につけられていた時、同じ刑罰を受けていた罪人が、右と左にいたように、私達も、イエス様の十字架を前に、2つの道に分かれる。
すなわち、その中の一人の罪人のように、自分の罪は一切打ち捨てたままにして、ただ「自分を十字架から降ろして救え、救えないなら救い主ではない」「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」などと言って、主を罵り続け、滅びに向かうか。
それとも、もう一人のように、自分の罪を認め、イエス様は生と死を超越した王である事を認め、個人的に彼に救いを求め、そうしてイエス様と共にパラダイスへ行くか。

パラダイスに行った罪人のように、自分の罪を認め、主に個人的に交わりを求め、主と共にパラダイスに行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:子々孫々に御言葉を読み聞かせよ(申命記31:9-13):右クリックで保存

『モーセはこの律法を書いて、主の契約の箱をかつぐレビの子孫である祭司およびイスラエルのすべての長老たちに授けた。』(申命記31:9)
モーセは、死を目前にして、後継者であるヨシュアへの引き継ぎをし、主から受けた事の全てを、後世に残す整えをしている。
彼は、今まで主からいただいた言葉を、ことごとく書物にしるし、それを、民の長と、祭司とに託した。

『そしてモーセは彼らに命じて言った、「七年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、仮庵の祭に、イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。』(申命記31:10-12)

モーセは、祭司と民の長に託した律法の書物を、七年ごとに、老若男女全イスラエルに読み聞かせ、学ばせるよう命じた。
そうして主の命令を子々孫々へと伝え、それを守り行う事によって、イスラエルは末永く祝福に与かるためである。

実際、そこに記されている通りに守り行っていた時は、大いに強くなり、ますます栄えて行った。
しかしやがて、その御教えはおろそかにされてゆき、イスラエルの信仰が廃れ始めた時から、栄光も同じく、廃れ始めて行った。
その廃れ始めた時期は、実に早く、モーセの後継者ヨシュアの時代のすぐ後からである。

モーセは、記された命令を、第七の年の仮庵祭で読み聞かせるよう命じていたが、仮庵祭がおろそかになりだしたのは、ヨシュアの時代のすぐ後からで、それから何百年もの長きに渡り、仮庵祭は正しく行われておらず、次に仮庵祭が正当に行われたのは、ネヘミヤの時代になるまでであった。すなわち、イスラエルが不従順に不従順を重ねてバビロンへ捕囚となり、そこから人々が帰って後の時代になってから、であった。(ネヘミヤ8章)
『捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。』(ネヘミヤ8:17)
また、第2列王記22-23章を見ると、モーセがこの時、民の長と祭司とに託した御言葉の書物は、ヨシヤ王の時代までの数百年、ずっと神殿の奥で陽の目を見る事なく、埃かぶって放置されていたようである。
ヨシヤは信仰回復の執政を行い祝福されたが、彼の前の王達も、後の王達も、災が絶えなかった。

そういう訳で、信仰を子々孫々へと継承する事は、とても大事である。
皆さんは、子供の教育において、いい塾や大学に行かせる事以上に、御言葉を伝え、信仰を継承させる事に、心砕いているだろうか。
確かに勉強も大事だが、信仰を育む事のほうが、はるかに大事である。
なぜなら主は、主を敬わない東大生より、主を敬う中卒の方を、祝福されるからだ。

主はうめきつつ、幾度も幾度も、呼びかけている。聞け、イスラエル、と。
聞かない私達にも、御言葉に聞き従え、と。
私達は断然、主の御声に聞き従い、主が与えようとして用意されている祝福に入るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:強く雄々しく進み行け(申命記31:1-8):右クリックで保存

前章までの所では、祝福を受ける法則と、その逆ののろいを受けてしまう法則とを、繰り返し丁寧に教えこまれて来た。
そして、祝福を受ける法則とは、何度も聞いてきた通り、、御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だった。
この祝福の法則に立つならば、あの有名な励まし「強くあれ、雄々しくあれ」の幸いに入る事が出来る。

『そこでモーセは続いてこの言葉をイスラエルのすべての人に告げて、彼らに言った、「わたしは、きょう、すでに百二十歳になり、もはや出入りすることはできない。また主はわたしに『おまえはこのヨルダンを渡ることはできない』と言われた。あなたの神、主はみずからあなたに先立って渡り、あなたの前から、これらの国々の民を滅ぼし去って、あなたにこれを獲させられるであろう。また主がかつて言われたように、ヨシュアはあなたを率いて渡るであろう。』(申命記31:1-3)

モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセの死は、いよいよ近くなった。
彼は、多くの実績と功労を残したが、たった一つの過ちを犯したが故に、主が用意された安息の地には、入れない事が、確定してしまった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんな功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。

律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、人には違反があるという事を単に示すだけで、いのちを与える事ができない事である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)

モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地に導き入れる場面には立ち会えなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事も、イエス・キリストを信じる信仰と、旧約律法との関係を、よくあらわしている。

ヨシュア、その名はヘブライ語読みでは「イエシュア」、すなわち、イエス様と同名である。
私達を約束の地、すなわち、永遠のいのちへと導くお方は、モーセに代表される律法ではなく、イエスキリストである。
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。
永遠の安息の地・天国へと導き入れるのは、イエスである。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)

律法にあって歩む人は、確かに祝福と幸いを受けるが、律法は人を義とする事も、永遠のいのちを与える事も、出来ない。(ガラテヤ2:21, 3:21)
人を義とするのも、永遠のいのちを与えるのも、唯一、イエス・キリスト、この御方である。

『主がさきにアモリびとの王シホンとオグおよびその地にされたように、彼らにもおこなって彼らを滅ぼされるであろう。』(申命記31:4)
少し前、イスラエルは、広大な地域を支配する王たち、シホンとオグに、やすやすと勝利した。(民数記21章)
そのように、いかに広大な地に住む強敵であっても、以下の事を守るなら、カナンの町々をも勝利させ、やすやすと入る事が出来る。
『主は彼らをあなたがたに渡されるから、あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。』(申命記31:5-)

恐れない事こそ、肝要である。
40年前、イスラエルは、もう約束の地まであと一歩という所で、恐れをなして、進み行かなかった。それで、荒野での40年の放浪に、陥ってしまった。
私達の信仰生活でも、この、恐れの故に、信仰の「あと一歩」が踏み出せず、40年の荒野の放浪に迷っているクリスチャンは多い。

私達は、恐れて尻込みする者ではなく、進み行って勝ち取る者でありたい。信じて進み行くなら、あっさりと勝利し、祝福を勝ち得るのである。
『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:35-39)

礼拝説教メッセージ音声:いのちと死、祝福とのろい - あなたはいのちを選べ(申命記30:15-20):右クリックで保存

『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。・・・わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:15-19)

主は、聖書全体を通して、人に、究極の二択を提示している。
すなわち、命か、死か。幸いか、呪いか。従順か、反逆か。
そして、どちらを選んだら、どんな結果が待っているのかも、あらかじめ明示しておられる。

『すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。』(申命記30:16-18)

ここで人に提示されている命令は、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守る事、である。
それに服従した人に待ち受けている幸いは、長く生き、子孫は多くなり、主が与えて下さる地で祝福される事である。
そして、命令にそむき、主を捨てて他の神に向かう者に与えられる結果は、これから入って行こうとしている地で、長生きできない事、必ず滅びる事である。

クイズ番組では、よく、正解した場合に与えれる賞品と、間違えた場合に受けるべき罰ゲームとが予め示されるが、神が全人類に示された二択クイズには、なんと、はじめから正しい答えが公に知らされており、しかもなんと、正解した場合に与えられる賞品は、永遠のいのちの祝福、そして、間違えた場合に受けるべき罰は、永遠の火による苦しみなのだ。
ところが、最初の人アダムは、神から提示された最初のクイズ、いのちの木か、善悪の知識の木か、という二択において、神から示されていた正解を退け、悪しき者から受けたアドアイスに従ってしまい、「善悪の道」を選んでしまったために、定められていた死と呪いという罰が、科せられてしまった。

それで人は、永遠に退場し、永遠に罰を受けなくてはならなくなったのか、というと、そうではない。
神は人を、限りなく憐れまれ、敗者復活戦のチャンスを用意されたのだ。
その敗者復活クイズとは、御子キリストを信じるか、それとも、信じないか、である。

『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:16-18)
この敗者復活のクイズに正しく答えた人、すなわち、御子イエス・キリストを信じ、彼を救い主とした人に与えられる賞品とは、最初のクイズで間違えた事の罰ゲーム、すなわち、永遠の火というさばきをまぬがれ、むしろ神の子とされ、永遠のいのちを受ける事である。
そこまでのチャンスが与えられているのに、それをないがしろにし、あくまで正当な答えをしない人には、もはや敗者復活は無い。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

主は、この永遠を左右する二択クイズに、あらかじめ正しい答えを示し、しかも、そちらを選べと命じている。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:19)
いのちを捨てる程の愛で迫り、御子の犠牲によって私達に正しい答えを用意し、いのちの道を示して下さった主に対し、私達はどうしてそれをないがしろにし、間違った答えを選択できるだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉はあなたの遠くには無く間近にある(申命記30:11-14):右クリックで保存

『わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。』(申命記30:11)
モーセが命じた”戒め”は、「**しなさい」「**してはならない」という単純明快なもので、それは本来、守る・守らないの二つに一つしかないのに、御言葉をそのままいただくという事をしない人、自己主張が大好きな人は、パリサイ人や律法学者のように、単純明快な主の戒めに身勝手な解釈を付け足したり、あるいは差し引いたりして、複雑怪奇なものにしてしまい、神の国に入ろうとしないばかりか、入ろうとしている人の邪魔さえしている。(マタイ23章)
彼らは、「解釈」という隠れ蓑に隠れて、一見、御言葉を守っているかのように見えるが、実は、守っていなかったりするのである。

『パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。』(マタイ16:1-4)

主が私達に何を求めておられるのかを知るために、また、神のみわざを見るために、なにも、天からのしるしを求める必要はない。
それらは、空模様の見分け方と同じである。
夕焼けが真っ赤であるなら、明日は晴れると容易に予想できるように、主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われると、容易に予想できるはずだし、空が曇っているなら天気は荒れると予想できるように、与えない者や物惜しみする者には、押入れゆすり入れして与えられる恵みにはあずかれないと、容易に予想できるはずだ。
御言葉を実践する事は、大掛かりな、非日常的な、仰々しいものではなく、空模様の見分けと同じくらいに、日常的・身近なものなのだ。

むしろ、私達が主イエスに期待するべきしるしは、ヨナのしるし、すなわち、死と復活である。
つまり、「自己主張」や「身勝手」は、十字架の死へと渡して、キリストにあるいのちの祝福に息吹かれる事を求めるべきである。

『これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。』(申命記30:12-13)

神の御言葉を得るために、何も、海の彼方へと船を乗り出さなくても良いし、ロケットに乗って天に行く必要も無い。
なぜなら、神ご自身が人となって、天を押し曲げて降りて来て下さり、私達の身近に来て、御言葉を示して下さったからだ。
『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
肉として私達の間に宿って下さった、御言葉ご自身なるキリスト。
私達はこの御方にあって、神の栄光を見る事が出来るのだ。

『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』(申命記30:14)
今やキリストにあって、神の言葉は石の板にではなく、私達の心に直接刻みつけられる。
『すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』(エレミヤ31:33-34)

だから私達は、御声を聞くために、大層な事をしでかす必要な無い。
いつも私達の内に生き、いつも共にいて下さるキリストに聞き、手元にある聖書にたずね、示された御言葉に従って行けば良いのである。

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