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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ふるさと眺めて昇り行く日まで(申命記34:1-12):右クリックで保存

モーセ五書の最終章である。
モーセは、主から与えられた御言葉を全て伝え尽くし、従順と不従順、祝福とのろいとをはっきり示し、将来彼らが主から離れて災いに遭った場合に備えて歌まで残し、そして、イスラエル十二部族のひとつひとつを名指しして祝福し、そうして為すべき事を全て為し終えて、いよいよ、先祖たちの列に加えられるべき時が来た。

『モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。・・・そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」』(申命記34:1-4)

あらかじめ主から示されていた通り、モーセがこのピスガの山の頂から見える約束の地を見渡す時、彼は息を引き取って、先祖たちの列に加えられる。
彼は百二十歳といえど、目はかすまず、まだまだ健強である。
全ての民が見守る中、彼が一人、ピスガの山の頂へと一歩一歩進んで行くその足取りは、しっかりしていたであろうが、その心はどうであっただろう。

彼はかつて、主に、「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしたが、主は言われた。
「おまえはもはや”足りている”。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。」(申命記3:25-28)

モーセは、主に願った事がぴしゃりと断られ、ああ、自分だけが約束の地に入れないのだ、と、やるせない悲しみを握りしめながら、山を登っていったのだろうか?
そうではない、と、私は思う。
むしろ、走るべき行程を走り終え、為すべき事を為し尽くし、これからは、栄光の冠が待っているという希望に満ち足りた思いで、ピスガの山を登っていったのではないか、と。
そのように思う根拠は、ヘブル書にある。

『信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル11:24-27)

彼は、不従順による楽しみよりも従順による苦難を、地上のものよりも天のものを、目に見える過ぎ去っていくものよりも、目に見えない永遠のものを望み見る「信仰者」だった。
だから彼は、ピスガの山から目で見える乳と蜜の流れる地よりも、目で見る事の出来ない、さらに優れた「天の故郷」をこそ、彼は望み見ていたのではなかろうか。

主が言われたのは、「おまえはもはや”足りている(満ち満ちている)”、この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26)だった。
モーセ、おまえが相続すべきものは、もっと優れたものだ、もう、満ち足りている、だから、その事を尋ねる必要さえ無いのだ、というニュアンスなのかもしれない。

モーセは確かに、ヨルダンを渡る事も、民を約束の地に導き入れる事も許されていなかった。
しかし実は、ちゃっかりと約束の地の中にモーセがいる記事もある。イエス様の時代、モーセは神々しい光の内に、預言者エリヤと一緒に現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる「ご最期:エクソダス:出エジプト」について、イエス様と一緒に話している場面をご存知だろう。(ルカ9:28-36)
モーセは、肉の体では約束の地に入れなかった。
しかし、より優れた栄光の体で、イエス・キリストという真の約束の地へと、入る事が出来たのだ。

『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:13-16)
私達も、モーセやアブラハムのように、目に見えるものではなく見えないもの、地上のものよりも天のもの、古び廃れていくものよりも、永遠のものを望む「信仰者」であるからには、信じた通りのもの、すなわち、罪のゆるしと体のよみがえり、永遠の命という、永遠の栄光ある「約束の地」を得るのである。

モーセが荒野で導いて来た民は、モーセがピスガの頂から仰ぎ見たあの大地で、わずか二世代で主を裏切り、その地は彼らに対して乳と蜜の流れる地ではなくなり、さらに後の時代にはバビロン捕囚の憂き目に遭い、イエス様の時代以降には、イスラエルの領土は異邦人に奪われ、約1900年間もの離散の憂き目に遭う。
安息の地は、地上に見える形のものではない。
『イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。』(ルカ17:20-21)
『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』(ヘブル4:8-11)

『こうして、主の「命令」によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。』(申命記34:5-7)

この「命令」は「ペー」、「言葉」とも「口」とも訳せるもので、ユダヤ人の伝説によれば、モーセは、主の口、すなわち、主の接吻によって死んだ、と教えられているようである。
主は人に、いのちの息吹を吹きこまれ、そして、取られる。
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」』(詩篇90:3 モーセの祈り)

私達のいのちは、主のものであり、主が与えて下さり、主が取って下さる。
そして、信仰者の行き先は、天であり、その事は大いに希望であり慰めである。

『静けき祈りの 時はいと楽し
聳(そび)ゆるピスガの 山の高嶺(たかね)より
故郷(ふるさと)眺(なが)めて 昇り行く日まで
慰(なぐさ)めを与え 喜びを満たす』(賛美歌310 静けき祈りの 3番)

モーセは、その走るべき道のりを、しっかりと走りぬいた。
語るべき御言葉を語りつくし、預言し、祝福し、そうして、主ご自身の接吻によって、天に挙げられた。
モーセのように、しっかり後継者へ御言葉を語り伝え、為すべき霊的子育てをなし、執り成しの祈りと祝福をしつつ、天に上げられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:しあわせなイスラエルよ(申命記33:26-29):右クリックで保存

今回の箇所で、申命記全体に渡って記されたモーセの最後の説教は終わる。

『「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。』(申命記33:26)
再びイスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味であったが、イスラエルの歩みは、エジプトを出た直後からその名に相応しくない歩み、主に対して逆らい通しの歩みであった。
それでも主は、イスラエルを助けるために、天から守りの御手を差し伸べ、誠実に導いて下さった。
そのようなお方は、世のどこにもない。

『昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。』(申命記33:27-28)
主は、イスラエルにとっては「住む家」となられ、夫が妻を腕枕するように、主の御腕は、いつも彼らの下へと差し伸べられていた。
今や、その主の愛による守りと祝福は、イスラエルだけが独占的に得ているものではなく、イエス・キリストにあって、信じる私達のものともなっている。

詩篇91編にある通り、主は、主の御翼の陰に助けを求めてくる人には、仕掛けられた罠から、陥れる言葉から、救い出してくださる。
主の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、恐れることはない。
暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。
たとえ、一千の人が、たとえ一万の人がその右に倒れる時さえ、その人に災いが襲うことはなく、その人はただ主に逆らう人達が滅んでいくのを眺めるのみである。
主は御使いに命じて、その人の道のどこにおいても守らせてくださり、その人は、獅子と毒蛇を踏み、獅子の子と大蛇を踏みにじって行く。

イギリスのウイットルゼイ大佐は、第2次世界大戦中、この詩篇91篇を、部下全員に暗誦させ、毎日祈らせたところ、5年間、その部隊からは一人の死者も出さなかった。
主の守りは、信じる者に実際に現実に起こる、確かな盾であり、守りなのである。

そして、モーセ五書で記録されている、モーセの最後の言葉は、以下の祝福である。
『しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。』(申命記33:29)

モーセが長い人生の中で、イスラエルについて、一言で端的にあらわした言葉は、これであった。
しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。

全能なる主、万軍の主に守られ、救われ、赦され、導かれ、勝利する民は、何と幸せな事か。
この幸せは、今やイスラエルだけのものではなく、イエス・キリストを通して信じる人達に対して、全世界へと広まっている。
主を主として歩む人々は、なんとしあわせであろうか。

礼拝説教メッセージ音声:ダン、ナフタリ、アシェルへの祝福(申命記33:22-25):右クリックで保存

今回は、ダン、ナフタリ、アシェルに対する祝福である。
彼らの相続地は、いずれもガリラヤ湖近くで、後の時代にイエス様が活動された地域である。

『ダンについては言った、/「ダンはししの子であって、/バシャンからおどりでる。」』(申命記33:22)
ヤコブも、死ぬ間際に彼らについて預言している。『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。』(創世記49:16-18)

これらの言葉から、ダンは力強くて、他を害する者である事がわかる。
実際、獅子を素手で引き裂いた士師・サムソンは、ダン族の出で、ペリシテに多くの打撃を与え、敵にとってはまさに「道のかたわらのへび、道のほとりのまむし」であったが、その力の矛先を、主にある兄弟姉妹に向けるとなると、それは、呪いと災いの性質となってしまう。
ダン族は、黙示録7章の12部族リストからは除外されてしまっているが、そういう事なのかもしれない。

『ナフタリについては言った、/「ナフタリよ、あなたは恵みに満たされ、/主の祝福に満ちて、/湖とその南の地を所有する」。』(申命記33:23)
ヤコブの彼らについて預言は『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)である。
この「子じか」は、「歌」や「ことば」の意味もあり、「彼は美しい歌(ことば)を生む」とも訳せる。

ナフタリの地、それは、イエス様が住まわれた所であり、宣教を開始した所でもある。
『イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。』(マタイ4:12-17)
ヤコブはナフタリを、美しい歌、美しい言葉を生み出す地として祝福し、モーセも恵みと祝福に満ちた地として祝福した。
それはもしかすると、メシヤのおとずれをナフタリに見ていたからなのかもしれない。

アセル部族に対しては、ヤコブも祝福している。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)

アシェルは、幸せという意味である。彼らは豊かな食物で、王の美味な食卓を整える、という。
王といえばキリストであるが、キリストの食物とは「御心を行い、御業を成し遂げる事」である。(ヨハネ4:34)

『アセルについては言った、/「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、/その足を油にひたすことができるように。あなたの貫の木は鉄と青銅、/あなたの力はあなたの年と共に続くであろう。」』(申命記33:24-25)
足に油を、という言葉からは、ベタニヤのマリヤを思い出す。彼女は高価なナルド油のつぼを割り、イエス様に注ぎ尽くして、足へと流れた油を髪でぬぐった。(ヨハネ12章)
彼女は、誰よりもイエス様の言葉を慕い求め、イエス様の足元で聞き入っていたため、御心を悟り、イエス様の葬りの整えを唯一行う事の出来た人である。彼女は見事、御心を行い、王であるキリストの美味なる食卓を整えたわけだ。
その行いは、永遠に記念として、今も語り伝えられている。

主にある兄弟姉妹にも、色々なタイプがあるが、私達は、ダン族のような、蛇のように草むらから伺って他を噛み付くような性質ではなく、ナフタリのように美しい言葉・美しい歌を生み出す者、アセルのように王なるキリストに美味な食卓を整える者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ゼブルンとイッサカル、ガドへの祝福(申命記33:18-21):右クリックで保存

今回は、ゼブルンとイッサカル、ガドに対する祝福である。

『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。彼らは国々の民を山に招き、/その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼らは海の富を吸い、/砂に隠れた宝を取るからである」。』(申命記33:18-19)
ゼブルンとイッサカルは、聖書の他の箇所でも、よくペアで登場するが、ヤコブが祝福した時も同じように預言している。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(創世記49:13-15)

ゼブルンは、海と関係した祝福があるようである。ヤコブが言及したシドンは、地方最大の港町であり、地中海の海洋貿易で大いに栄えた。
イッサカル部族はゼブルンの領地の南に、狭いながらも豊かな相続地を得た。
しかし、良い地を得て安逸をむさぼった結果、やがては奴隷とされてしまう事を、ヤコブは預言したが、後にはその言葉の通り、カナン人やアッシリアなど他国に貢を収めたり、苦役を課せられる事になってしまった。

私達も、祝福されて油断し、信仰になまけ癖をつけてしまうと、やがては敵にいいようにされ、罪の奴隷となってしまう事もありうる。
祝福を受けたからと言って、なまけてはならない。怠け続けていると、以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)

『ガドについては言った、/「ガドを大きくする者は、ほむべきかな。ガドは、ししのように伏し、/腕や頭の頂をかき裂くであろう。彼は初穂の地を自分のために選んだ。そこには将軍の分も取り置かれていた。彼は民のかしらたちと共にきて、/イスラエルと共に主の正義と審判とを行った」。』(申命記33:20-21)
ガド族はルベンやマナセと共に、他の部族に先んじて、ヨルダン川の東に相続地を得た。
彼らは、イスラエルがカナンに攻め入る前、非常に多くの家畜を得ていたため、ヨルダン川の東側に相続地を先に与えてくれるようにモーセに願い出たのだが、モーセは、ガド族たちは民の先頭に立って戦う事を条件に、それを受け入れた。(民数記32章)

実際、彼らは先に先んじて戦い、イスラエルの他の部族のために多くの相続地を勝ち得たため、ヨシュアから祝福されて送り出された。
「あなたがたは主のしもべモーセが命じたことを、ことごとく守り、またわたしの命じたすべての事にも、わたしの言葉に聞きしたがいました。今日まで長い年月の間、あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令を、よく守ってきました。今はすでに、あなたがたの神、主が、あなたがたの兄弟たちに、先に約束されたとおり、安息を賜わるようになりました。それで、あなたがたは身を返して、主のしもべモーセが、あなたがたに与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、自分たちの天幕に帰りなさい。」(ヨシュア22:2-4)

キリスト者にも、色々なタイプがいる。
ゼブルン族のように、積極的に世に出て行って、外部との交渉によって聖徒の交わりに富をもたらしてくれる人もいるし、イッサカル族のように、神の国の内側において本領を発揮する人もいる。
ガド族のように、真っ先に祝福が与えられて、幸いがまだ与えられていない人を積極的に支援し助ける人もいる。
主はおのおのにバラエティに富んだ賜物を与えて下さり、それぞれが、与えられた量りに応じ、互いに助け合い、互いに成長して行くのが、教会の特色である。
それぞれに与えられた賜物を有効に活用し、共に立て上げられ、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ラケルの子達への祝福(申命記33:12-17):右クリックで保存

今回は、ラケルの二人の子、ベニヤミンと、ヨセフへの祝福である。

『ベニヤミンについては言った、/「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」。』(申命記33:12)
ベニヤミンへの祝福は、主に愛され、守られ、良い所にすまいを得る事であるが、ベニヤミン族の歴史を見ると、その祝福はなるほどと思えてくる。

この部族は、エルサレムのすぐ北に相続地を得、戦闘能力に非常に長け、強くなったが、その祝福にいい気になってしまったのか、士師記の時代には、ソドムやゴモラにも勝るとも劣らない邪悪な集団となってしまった。
それで、ベニヤミン以外のイスラエル全部族が、四十万の軍隊を招集し、討伐に向かったのだが、ベニヤミン族はそれに対し、わずか二万六千七百人で立ち向かい、それで二度も勝利をおさめたのだ。(士師記20章)
しかし、いかに祝福され強くなろうとも、御心に反した歩みをしているなら、長くは続かない。
三度目の戦いの時、ベニヤミンは慢心し、おびきだされ、徹底的に打ち尽くされ、ベニヤミン族で生き残ったのは、わずか600人だけとなった。
そのように、ひと度は絶滅の危機に陥ったにもかかわらず、この部族は生き残り、再び増え、後にはユダ部族と共に末永く生きながらえている。
主は、その愛する民が誤った道に入り、主の道を捨て去るなら、その民を徹底的に懲らしめるが、しかしそれで悔い改め、立ち返るなら、主は再び憐れみを注いで下さるのだ。

『ヨセフについては言った、/「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。上なる天の賜物と露、/下に横たわる淵の賜物、日によって産する尊い賜物、/月によって生ずる尊い賜物、いにしえの山々の産する賜物、/とこしえの丘の尊い賜物、地とそれに満ちる尊い賜物、/しばの中におられた者の恵みが、/ヨセフの頭に臨み、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。』(申命記33:13-16)
モーセは、ヨセフに対しても、素晴らしい祝福を宣言している。
ヨセフの二人の子であるエフライム・マナセの二部族に与えられた所は、実に広大で肥沃な土地である。

『彼の牛のういごは威厳があり、/その角は野牛の角のよう、/これをもって国々の民をことごとく突き倒し、/地のはてにまで及ぶ。このような者はエフライムに幾万とあり、/またこのような者はマナセに幾千とある」。』(申命記33:17)
ヤコブは死を目前にした時、ヨセフの長子マナセよりも、弟エフライムのほうに右手を置いて祝福した。
そして後には、エフライム部族は、北イスラエル王国を代表する象徴的な部族となった。(エフライムの名前の意味は「実りが多い」)

ソロモン王の時代、ソロモン王は次第に、主に対して不従順な者となって行ったため、それを懲らしめるために、主は、エフライム人・ネバテの子ヤロブアムを選び、彼にイスラエル10部族を治めるという預言を与えられた。
『わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない。』(1列王記11:37-39)

主はなんと、エフライム人ヤロブアムに対し、ダビデのように長く続く堅固な家を立てる、という約束を与えられたのだ。
歴史に「もし」は禁句だが、もし、彼が主の命令に聞き従って、主の目にかなう事を行っていたのなら、ヤロブアムの名は、ダビデに次ぐ栄光の名前になっていた事だろう。

しかし、実際はそうではなかった。
彼は人を恐れ、金の子牛像を、彼に祝福を与えた神に取り替えて、身勝手に祭司を任命し、勝手に定めた月日に礼拝をささげさせるという罪を行った。(1列王記12章)
主は預言者を遣わし、しるしをもって彼に警告を与えたのに、それでも彼は悪い道から立ち返る事をせず、ついには、彼の子の代には謀反が起こり、ヤロブアムの家は、一族郎党皆殺しにされてしまった。
永遠に堅固な家が立てられるどころか、わずか二代で根絶やしとされ、ヤロブアムの名はその後、呪いの代名詞となってしまったのだ。

このように、元々は、主から素晴らしい祝福や預言をいただいているのに、その後、主の御声を軽んじ、御言葉に反して身勝手に生きるなら、主は、本来与えようとしていた祝福を取り上げて、それでも悔い改めないなら、徹底的に滅ぼされるのだ。
一体、幾人の人達が、主から素晴らしい祝福や預言をいただいておきながら、不従順によって祝福を逃し、歴史の闇へと消えていった者達がいたのだろうか。
ダビデは、罪が指摘された時、”たまたま”素直に受け入れて、悔い改める性質だったが故に、あれだけの栄光の名が与えられたのだろう。
私達も、主から罪が指摘された時、戒めを受けた時は、素直にそれを受け入れ、悔い改めて立ち返る性質をしっかり身につけ、祝福を逃すことがないようにしたい。

黙示録七章には、神の印が押されたイスラエル12部族が登場するのだが、エフライム部族は、ヤコブやモーセから素晴らしい祝福を受けていたにもかかわらず、そこからは除外されてしまっており、代わりに、モーセの祝福からは除外されていたはずのシメオン部族が、そこに復帰して、名を連ねている。
確かに、親の祝福や、牧師の祝福は、大切である。しかし、その人が祝福を受けるかどうかは、最終的には、本人次第なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:レビへの祝福(申命記33:8-11):右クリックで保存

今回は、レビ族への祝福である。
『レビについては言った、/「あなたのトンミムをレビに与えてください。ウリムをあなたに仕える人に与えてください。かつてあなたはマッサで彼を試み、/メリバの水のほとりで彼と争われた。』(申命記33:8)

前回見たように、シメオンとレビは、シェケムの事件での暴虐な行動のため、ヤコブからのろいを受けた。(創世記49:5-7)
シメオン族は荒野での行状が悪かったからなのか、モーセはシメオン族を今回の祝福から外してしまったが、レビ族に対しては、モーセはとても素晴らしい祝福をしている。
それは、レビ族は、イスラエル全体がシナイ山のふもとで堕落して、金の子牛を拝み、戯れた時、彼らは御言葉に従順し、信仰をその行動であらわした唯一の部族だからである。

『彼はその父、その母について言った、/『わたしは彼らを顧みない』。彼は自分の兄弟をも認めず、/自分の子供をも顧みなかった。彼らはあなたの言葉にしたがい、/あなたの契約を守ったからである。』(申命記33:9)
あの事件の時、レビ族は、自分の兄弟姉妹、自分の子供に逆らってでも、主の言葉に従い通した。

『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。』(出エジプト記32:26-27)
モーセはこの時、自分の兄弟、友、隣人は、誰彼かまわず殺せ、というニュアンスで言ったのではなく、モーセが金の子牛を粉々に砕いても、恐れる心なく、なお、ほしいままにふるまっていた者達を見て(25節)、そのような者達を殺すように言ったのであろう。
事実、この時殺されたのは、イスラエル全六十万中、三千人しかいなかった。そして、それだけの人数が、モーセが戒めても、付け上がっていたのだろう。

ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、調子に乗ったまま嘲るような者はいるが、神の会衆の中でそのような者が出た時、放っておいてはならない。
そのまま野放しにしておくと、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)

『レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:28-29)
レビ族にモーセからの祝福が与えられ、主から祭司の任が与えられたのは、実に、「おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた」からだ。

私達も、もし、自分の兄弟、友、隣人が、主から離れて反逆した時、彼らには、逆らわなければならない。
聖書は確かに、与えられた権威には積極的に従い、血縁の面倒をしっかり見るよう命じているが、ただし、彼らが信仰を棄却するよう命じて来たり、罪や汚れた事を犯させるように仕向けて来るなら、それに対しては、逆らわなければならないのだ。

キリストを主として受け入れるなら、誰でも、王のような祭司、聖なる国民としての特権が与えられる。(2ペテロ2章)
『彼らはあなたのおきてをヤコブに教え、/あなたの律法をイスラエルに教え、/薫香をあなたの前に供え、/燔祭を祭壇の上にささげる。』(申命記33:10)
祭司のつとめは、ここに記されている通り、御言葉を人々に教え、神と人との間に立って執り成しの祈りをささげる事である。
レビという名には元々、「結ぶ(ラバ)」という意味があり、神と人とを結びつける役割があるのだ。

そして、彼らに対する祝福は、資産が豊かにされ、手のわざが恵まれ、敵の腰が主に打たれて立ち上がれなくなる事である。
『主よ、彼の力を祝福し、/彼の手のわざを喜び受けてください。彼に逆らう者と、/彼を憎む者との腰を打ち砕いて、/立ち上がることのできないようにしてください」。』(民数記33:11)
これが、自分を捨てて自分の十字架を負い、御言葉に聞き従って主についていく者、すなわち、祭司とされる者に与えられる祝福である。
祭司には、このように素晴らしい特権が確かにあるが、与えられたからには、為すべき務めがある事も忘れてはならず、それを怠ってはならないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ルベン、ユダへの祝福と、除外されたシメオン(申命記33:6-7):右クリックで保存

6節から、モーセからの各部族への祝福に入る。

「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう。」(申命記33:6)
長男ルベンへの祝福は、たとえ人数が少なくなろうとも、生きて、死なない事である。
それがこの部族への祝福なのか、と、驚くかもしれないが、それには訳がある。

ヤコブも死ぬ前、12人の子たちを呼び寄せ、彼らが今後どのようになるかという預言的な言葉を残したが、ルベンへの言葉は以下だった。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。』(創世記49:3-4)
ルベンは、沸き立つ水のように奔放で、父のそばめと寝る、という、性的な罪を犯したため、彼の長男の権利は剥奪されてしまった。
この部族は、死海東岸付近に相続地が与えられたが、その部族は後の歴史で、冴える事は無かった。

『ユダについては、こう言った、/「主よ、ユダの声を聞いて、/彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください。」』(申命記33:7)
ユダへの祝福は、主がユダの声を聞いて下さり、主が助け、ユダのために戦って下さり、彼の元に彼の民を導き返して下さる事である。
創世記49章のヤコブの預言では、ユダは獅子の子として勝利し、支配者の杖は離れる事は無いという、素晴らしいものだったが、それに比べると、このモーセの祝福は見劣り感が否めない。
しかし、このモーセの祝福は、ソロモン王以降の時代、イスラエルの他の部族がこぞってユダから離れ、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して後のユダに対しては、実に的確な執り成しの祈りであると言える。

さて、実は、この申命記33章には名が出てこない部族、モーセの祝福の祈りから除外されてしまった部族がいる。それはシメオン族である。
シメオンとレビは、創世記34章のシェケムの事件で見せた暴虐な行動の故に、ヤコブは以下のように言った。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

また、民数記25章にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受けて、皆が悲しみながら、自分達の中から悪を取り除こうと、悔い改めの集会をしている最中、その目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む、という事をした。
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだ。
シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であった事が伺える。
そのためか、シメオン族は荒野の40年で、イスラエル12部族中、最も減少率の激しい一族であった。

このように、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもないシメオン族だったが、新約においては、シメオンの名を持つ人には良い人物が多く、黙示録では、贖われたイスラエル12部族の一つとして、シメオンは復活している。

イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊が宿っており、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。

シメオン、その名の意味は「聞く」である。
申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。

モーセの祝福から漏れてしまった事で、シメオン族は、きっとあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセの最後の祝福の祈り(申命記33:1-5):右クリックで保存

『神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。祝福の言葉は次のとおりである。』(申命記33:1)
モーセは、先祖の列に加えられる間際、すなわち、死を目前にして、イスラエル民族を祝福した。
彼らの祖先のヤコブ、すなわち、イスラエルも、先祖の列に加えられる間際に、彼の12人の子たちを呼び寄せて、祝福したし、主イエス様も、十字架にかかられる直前、弟子たちを御名と御言葉へと託す祈りをし(ヨハネ17章)、また、イエス様がよみがえってから、天にあげられる際にも、イエス様は祝福の姿勢のまま、挙げられて行った。(ルカ24:50-51)

祝福、それは私達聖徒が、たがいに愛する者に対して、為すべき事である。
パウロも、殉教を覚悟した時、自分がそれまで養ってきた聖徒達を集め、彼らを、主の恵みと、御言葉とに託す宣言をした。
『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)私達聖徒が、息子や娘たち(肉的であれ霊的であれ)に残すべきは、祝福の祈りであり、そして託すべき先は、決して変わる事の無い御言葉であり、神の恵みなのだ。

『「主はシナイからこられ、/セイルからわれわれにむかってのぼられ、/パランの山から光を放たれ、/ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。』(申命記33:2)
主は、荒野の行程におけるそれぞれの場所で、必要な御言葉を授け、時に道を示し、時には戒め、懲らしめ、そして憐れみで包んで下さった。
私達の人生においても、それぞれの場面場面において、主が御言葉を授けて下さり、導いて下さり、時には訓戒し、そして、私達弱さや罪を、憐れみによって包んで下さった事を、思い出すはずである。

『まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。』(申命記33:3)
主は、主に聖別された民を愛される。それは何も、イスラエルだけに限った事ではない。
「彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。」とある通り、主の御言葉を慕い求める、主の足元に座して教えを受ける人なら、全て、主の民であり、そこには、国籍も血筋も関係無いのだ。

イエス様は、十字架の前夜、弟子たちのために祈られたが、その祈りは、何も、そこにいた弟子たちだけに対してのものではない。
その時代にはまだ生まれていなかった「私達」も含め、将来、キリストにあって信じる全ての者に対し、主は、祈られたのである。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。』(ヨハネ17:20-23)
ゆえに、私達は主の執り成しと、御言葉によって、聖められ、世から分離されるのである。

『モーセはわれわれに律法を授けて、/ヤコブの会衆の所有とさせた。民のかしらたちが集まり、/イスラエルの部族がみな集まった時、/主はエシュルンのうちに王となられた」。』(申命記33:4-5)
再び、「エシュルン」という言葉が用いられている。
エシュルンは、イスラエルをあらわす言葉であるが、最初に登場したエシュルンは、主に良くしていただいて肥え太った時に裏切る者として記された。(32:15)
そして、次に登場するエシュルンが、今回の箇所であり、主が王となられる様が記されており、そして、最後に登場するエシュルンは、主が共におられるさいわいな者として、記されている。(26節)
これは、私達が造り変えられていく有り様にも似ている。
最初は主を裏切っていた私達も、主が王となられ、私達を支配し、私達が主の支配の内に整えられて行く内に、とこしえに主が共におられる幸いへと入るのである。
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』(黙示録21:3-4)

礼拝説教メッセージ音声:御言葉は虚しい言葉ではなく、いのちである(申命記32:44-52):右クリックで保存

『モーセとヌンの子ヨシュア(原文:ホシェア)は共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、彼らに言った。』(申命記32:44-46a)

ヨシュアは、以前はホシェアという名前だったが、エジプトを出たばかりの40年前、彼が12人の斥候として約束の地を探りに行く際に、モーセが彼の名前をヨシュアに変えたのだ。(民数記13:16)
モーセは、信仰のチャレンジが要求される任務に就かせるにあたって、救いの拠り所は「主」にあると、明確にしたのだろう。
ホシェアは「救い」という意味であるが、ヨシュアは「主は彼の救い」という意味であり、また、ヨシュア(イエシュア)は、イエス様と同じ名前である。
私達も、救いの拠り所が「主」であると明確にされる時、強く雄々しくなれる根拠が、はっきりとされる。

『「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう。」』(申命記32:46-47)

主の御言葉を「難しい」「堅い」などと言って、自分の中で「むなしい」と見做したり、捨て去ってはならない。
「これはあなたがたのいのちである」からである。

もし、御言葉をつまらない、むなしい、とするなら、いのちを捨てるようなものである。
だから、もし御言葉が難しいなら、その内容が理解できるよう、祈り求めるべきである。
御言葉は、実は自分を生かすいのちそのものである事が分かる知恵を下さい、その良き「いのち」の魅力がわかるように、もっと慕い求める事が出来るように、と、祈り求めるべきである。
求めるなら、主は、必ず与えて下さる。

『この日、主はモーセに言われた、「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。
これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない。」』(申命記32:48-52)
いよいよモーセの最後の時が近づいた。
イスラエルをここまで導いて来た立役者であるモーセ自身は、その地をはるかに仰ぎ見る事は出来ても、入れないのである。
律法は、せよ・するなの集大成であり、彼はその律法の象徴的な存在であるが、律法によっては、まことの約束の地である天の御国に入れないのだ。

『いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。』(ヘブル10:1-4)

律法は、来たるべき良いことの影であり、罪のきよめも、永遠のいのちの授与も、無い。
しかし人は、キリストを信じる信仰によって、新しく造り替えられる望みが与えられた。

最初の人アダムの失敗により、罪が混じって台無しになってしまった古きこの肉の体は、イエスを信じる信仰によって、死へと明け渡され、イエスの復活と共によみがえらされ、新しい、永遠のいのちが与えられる望みが開かれたのだ。
まことの約束の地へと導くのは、モーセや律法ではない。ヨシュア(イエシュア)、すなわち、私達の主・イエス様なのだ。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(ヘブル10:10-14)

礼拝説教メッセージ音声:主は打ち、また癒やす(申命記32:36-43):右クリックで保存

『主はついにその民をさばき、/そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、/つながれた者もつながれない者も、/もはやいなくなったのを、主が見られるからである。』(申命記32:36)
主は懲らしめられるが、いつまでも罰するという事はしない。主は、人を打ち叩く事を趣味とはされず、むしろ立ち返って幸いを与える事を、望まれる。

『わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた。』
主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。』(エレミヤ31:18)

人が心から悔い改め、主に立ち返るなら、主は再び憐れみの御手で包み、癒して下さる。
心から悔い改める、とは、このエフライムの嘆きのように、自分がして来た事の罪深さを知り、悲しみ、ももを打ち叩くような恥ずかしさを覚える事である。
もし自分がして来た事を理解せず、それを恥じたり悲しんだりという事が無いとするなら、再びその罪を繰り返すものだ。

『そのとき主は言われるであろう、/『彼らの神々はどこにいるか、/彼らの頼みとした岩はどこにあるか。彼らの犠牲のあぶらを食い、/灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、/あなたがたを守らせよ。今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、/傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。』(申命記32:37-39)

人が主を離れ、それぞれ好き勝手な神々により頼み、何の恩恵も無いどころか、災いばかりが降され、さんざんな目にあった時、主は、その人に思い起こされる。
あなた方が頼みとして来た神々は、一体、どこにあったのか。
結局、わたしこそが唯一の主、唯一の神ではなかったのか。思い出してみなさい、と。

ハンナも、同じ賛美をしている。
『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。
地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。』(1サムエル2:6)

主は確かに、一時的に懲らしめられる。しかし、再び憐れんで下さる。それは、私達の中から高ぶりや罪の愚かさを取り除くためである。
主は確かに、一時的に痛めつけられるが、再び癒やして下さる。それは、主に仕える事の幸いと謙遜さを学ばせるためである。
そして、懲らしめの中から学ぶべき事を学んだ時、主は再び高くあげ、もう二度と、私達を不従順による滅びには向わせないようにされるのだ。

『わたしは天にむかい手をあげて誓う、/「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめくつるぎをとぎ、/手にさばきを握るとき、/わたしは敵にあだを返し、/わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、/わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、/敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、/その敵にあだを返し、/その民の地の汚れを清められるからである。」』(申命記32:40-43)
主は、民を懲らしめるために、敵をも用いられるが、もし彼らが、神の民に勝利した事でいい気になり、勝利させて下さった主を恐れず、主の民を打ち叩くを止めないなら、主はその者達をも必ず罰されるのだ。

以上が、イスラエルの民が約束の地に入る直前、モーセが死ぬ間際に、イスラエルに主が与えられた歌の全容であるが、この内容は、キリストにあって神の民とされた私達にも、深く関わりのある事である。
主は、主をないがしろにする者に対しては、災いをもって懲らしめるが、悔い改めるなら癒やし、再び愛の御手で包まれる。
そして主の敵に対しては、必ず復讐される。
私達は、決して、主をないがしろにしたり、主からの恩を仇で返すこと無く、初めから終わりまで、主を敬い、御言葉を守り行い、災いに遭わされる事なく、いつも祝福が注がれる者でいたい。

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