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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ナジル人の誓い(民数記6:13-21):右クリックで保存

『これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。』(民数記6:13-15)

ナジル人が主に捧げている期間が満了した時、彼らは所定の捧げ物をする。
すなわち、罪のための犠牲を捧げて自らの罪を清め、また、焼き尽くす捧げ物を捧げて献身の思いを新たにし、また、和解のいけにえを捧げて、神と祭司と同じテーブルのごちそうにあずかる。

この和解のいけにえの際、その聖別した頭の髪を剃り、それを和解のいけにえの火にくべる。
ナジル人としての期間が短ければ、この時の髪はわずかで、期間が長ければ長いほど、それは結構な分量となるだろう。
そうして、所定の務めを主に果たした後、彼らは一般人のように、ぶどう酒を飲む事ができるようになる。

こうして見ると、ナジル人の生活にはかなりの制約があり、好きな事もあまり出来ず、期間が終っても、多くの捧げ物を捧げなければならずで、神を知らない人には、どうしてわざわざそんな立場に身を置くのか、と思うかもしれない。
しかし、キリストにあっていのちを得た人にとって、主に捧げられ、主のものとされている期間は、実に幸いである事を、経験しているはずである。
その人の所属先は、神にあり、守りの根拠も、必要の満たしの源も全能者にあり、しかも、神は決して変わる事の無い愛で愛され、全ての事を最善へと導いて下さるお方だ。
この御方に捧げている限り、決して物事を間違え無駄に過ごす事はなく、揺るがされない事も、心が飢える事も、渇く事も無い。
私達キリスト者は、キリストにあって神に捧げられた者達であるため、その大いなる祝福にあずかっているのである。

中には、自分を誇るため、人々から「すごい」と思われたいがために、断食したり、ナジル人のようになりたがる人もいるかもしれない。
しかし、断食や、ナジル人へと身を投じる事は、本来、主に対して自ら「聖別」する事である。
それは初めから終わりまで「主のためになすべき」ものであり、自分の誇りは一切入ってはならない。

断食や誓いは、むやみにすべきでない。御心でない断食や誓いは徒労以外の何者でも無いからだ。
パウロがエルサレムでユダヤ人達に捕らえられた時、ユダヤ人のうち、40人以上の者達が、パウロを殺すまでは飲み食いをしない、という誓いを立てた。(使徒23章)
しかし、神の御心は、パウロを生きながらえさせ、彼をローマへと連れて行き、カイザルや王達の前で、主イエスの証をする事だった。
結局、主は、パウロがみすみす殺されるような事は許されず、ローマ兵470名の護衛と、車つきで、パウロを安全な所へと護送した。
いかに多くの人間が、熱心や感情の高ぶりによって、パウロを殺すまでは飲食を断つ、という固い誓いを立てたとしても、主の御心に沿っていないなら、それは虚しく、徒労に終わるのだ。

『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。』(詩篇127:1-2)
私達も、主の御心がどこにあるかを必ず探り、自分の心の動機をよく確かめ、御心でない誓いや、御心でない断食は、やめるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主に捧げられた者が気をつけるべき事(民数記6:1-12):右クリックで保存

民数記6章は、神に特別に誓願を立ててその身を主に聖別した人、「ナジル人(ナーザル:聖別する、分離する)」についての規定である。
聖書には、特別に主に捧げたこのナジル人が、何人か登場する。
ナジル人になる人は、普通、ナジル人としての期間を自由意志で決められるが、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネなど、親や主から生まれながらにナジル人として捧げられた人もいる。
彼らに共通している事は、神業としか思えないような働きを為している事であるが、その力の秘密は、忠実に「捧げ尽くし」「身を聖別している」事である。

神は何ゆえか、人間に神の御国の事業に参加する事を願っておられる。
それも、人が捧げたら捧げた分、明け渡したら明け渡した分、神は人を通して働かれる機会を得、人が捧げたらそれ以上に、大いに御業を為される。
人が自分のものとして握り締めている領域には、主は働く事は出来ない。
しかし、手放せば手放す程に、その領域において主は働く事が出来る。
だから、ナジル人のように主に捧げ尽くした人であるなら、主は、その人を通して、大いなる御業を働かれるのだ。

ナジル人は、世とは分離し、主に聖別されているため、以下の事で、他の人と区別されている。
すなわち、その食物において、イスラエルの民は日常的に食べる「ぶどう」のものを、一切食べてはならなず、飲んではならない。(民数記6:2-4)
また、ナジル人としての誓願を立てている間は、頭に剃刀を当ててはならない。その身を主に聖別した日数が満ちるまで、彼らは聖なる者として、髪の毛をのばしておかなければならない。
また、彼らは死体に触れてはならない。

『身を主に聖別している間は、すべて死体に近づいてはならない。父母、兄弟、姉妹が死んだ時でも、そのために身を汚してはならない。神に聖別したしるしが、頭にあるからである。彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。もし人がはからずも彼のかたわらに死んで、彼の聖別した頭を汚したならば、彼は身を清める日に、頭をそらなければならない。すなわち、七日目にそれをそらなければならない。』(民数記6:6-9)
もし死体に触れるなら、意図的・自主的に死体に触れたのでないとしても、たとい、死体が向こうからぶつかって来るような事があったとしても、罪のためのいけにえを捧げなくてはならない。
そして、それまでの捧げて来た期間はリセットされ、彼らの頭にある聖別のしるしは無効とされてしまい、定められた捧げものを捧げてから、再度、ナジル人としての期間を開始しなくてはならない。

死体が向こう側からぶつかって来るような事は、人生で滅多に無いであろうが、状況的にそれに似たケースが、サムソンの場合である。
サムソンは、イスラエルには女が大勢いるのに、よりによって、ペリシテの女デリラを愛し、妻に迎えた。
そこで、サムソンによって悩まされていたペリシテ人たちは、デリラを銀で買収し、サムソンの力の秘密を探らせた。

『女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。
彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。
女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:15-20)

サムソンは、自ら髪を切ったわけでも、自らぶどう酒を飲んだわけでも、なかった。
しかし、彼が聖別のしるしを汚す事になってしまった原因は、異邦の女に身も心も委ねてしまったからである。

汚れが偶発的に向こうから降って来る事は、まず無いであろう。
ただし、汚れが降りかかりそうな所に身を置かないようには、注意すべきである。
たとい自分は強いと思っていても、誘惑になりそうなものは避け、味見すらしない事である。

ペリシテ人の屈強な戦士は、サムソンを苦しめる事は決して出来なかったが、妻デリラは、サムソンを死ぬほど苦しい目にあわせる事が出来、結局、サムソンは聖なるものの与奪の権利を、彼女に渡してしまった。
異邦の女と結婚した事、そのような、つまづきのとっかかりとなる事を、初めからしていなければよかったのだ。
サムソンも、ソロモン王も、まんまんとその罠に陥ってしまい、人生を転落させてしまった。

私達キリスト者も、いわば主に「捧げられた者達」である。
私達も、つまづきになりやすいものを近くに置くべきでない。

礼拝説教メッセージ音声:のろいの苦い水(民数記5:11-31):右クリックで保存

この章は、イスラエルの宿営の中から汚れを取り除く命令であるが、神の共同体の中で、最も根幹を為す「夫婦関係」という、絶対に親密であるべき信頼関係において、夫が妻の貞節を疑うという「汚れ」が生じた場合、たとい妻が無実であったとしても、夫のために、必ず取り扱かわなくてはならず、その方法を、主は示しておられる。
『「イスラエルの人々に告げなさい、『もし人の妻たる者が、道ならぬ事をして、その夫に罪を犯し、人が彼女と寝たのに、その事が夫の目に隠れて現れず、彼女はその身を汚したけれども、それに対する証人もなく、彼女もまたその時に捕えられなかった場合、
すなわち、妻が身を汚したために、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあり、または妻が身を汚した事がないのに、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあれば、夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。』(民数記5:12-15)

ここには女性に不貞の疑いが生じた場合が記されているが、聖書には、男性が不貞を犯した場合の指示は、記されていない。
なぜなら、夫の「主人」は、全てを見ておられる全能の主であり、彼が不貞を犯す場合は、ダビデの場合のように、主ご自身がその罪を露わにされるからである。
しかし、妻の主人は、全能ではない男性であり、彼は妻が本当に不貞を犯したかどうかが分からないため、それを明らかにするために主はその方法を示された。

『その女を主の前に立たせ、女にその髪の毛をほどかせ、覚えの供え物すなわち、疑いの供え物を、その手に持たせなければならない。そして祭司は、のろいの苦い水を手に取り、女に誓わせて、これに言わなければならない、「もし人があなたと寝たことがなく、またあなたが、夫のもとにあって、道ならぬ事をして汚れたことがなければ、のろいの苦い水も、あなたに害を与えないであろう。
しかし、あなたが、もし夫のもとにあって、道ならぬことをして身を汚し、あなたの夫でない人が、あなたと寝たことがあるならば、―― 祭司はその女に、のろいの誓いをもって誓わせ、その女に言わなければならない。――主はあなたのももをやせさせ、あなたの腹をふくれさせて、あなたを民のうちの、のろいとし、また、ののしりとされるように。また、のろいの水が、あなたの腹にはいってあなたの腹をふくれさせ、あなたのももをやせさせるように」。その時、女は「アァメン、アァメン」と言わなければならない。』(民数記5:18-22)

こうして、女はその「のろいの苦い水」を、主の御前で飲む。
もし彼女が潔白なら、その水は害を与えず、かえって、彼女は子を宿すようになる。
そうでなく本当に彼女が不貞を犯したなら、その女のももは痩せ細り、腹がふくれ、彼女はのろいのしるしとなる。
通常、男が他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も殺されなければならないが(レビ記20:10)、この場合、彼女は「のろいのしるし」として、共同体の中で生きなければならない。

不貞の疑いがかけられている間、妻にとっては苦しみの時であるが、主が、彼女の潔白を明らかにされ、それで夫の愛が以前にも増して戻って来て、しかも、子を宿すようになるからには、この「呪いの苦い水」は、後の彼女には幸いである。
同じように、私達も、主から試され、心の隠れた思いが明らかにされるために、御前で苦い水を飲まされるような時がある。

私達キリスト者は、男も女も全員、主の御前には「妻」という立場であり、他の神々を拝む事は、霊的姦淫である。
のろいの苦い水を飲んだ不貞の女は、腹が膨れ、ももがやせたように、私達も、主に対して隠れた不貞がある時、私達の健康や、経済、あるいは外見などに、必ず何かしらの変調が現れる。
その時は主に罪を告白し、悔い改めるべきである。主は、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが自分の罪を主に認めた時、それを赦して下さったし、イエス様も、姦淫の現場で捕らえられた女を罪に定めず、「これからは決して罪を犯してはならない」と言われた。

主が、敢えて私達を苦々しい試練に遭わせられるのは、私達の心の中が明らかにされるため、私達が全き心で主に従い通すかを、探るためである。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)

のろいの苦い水には、聖所のちりが混ぜられたが、私達も、試練に会った時は、口をちりにつけ、主の御前でおとなしく、自分が「ちり」である成り立ちを思い返すべき時である。
『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。 』(哀歌3:28-33)

のろいの水の試練にあって、潔白が証明された時、夫の愛が戻って来て、以前にも増して愛され、さらに、子を生むようになった。
同じように私達も、主から試され、苦い試練を通され、そしてそれをパスしたなら、主からの寵愛は以前よりも増し、健康や経済など、いのちの祝福は増し加わるのだ。
だから私達は日々、主に対して、全き心であり続けるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主の住まわれる集会の清め(民数記5:1-10):右クリックで保存

『「イスラエルの人々に命じて、らい病人(原語:ツァラアト)、流出のある者、死体にふれて汚れた者を、ことごとく宿営の外に出させなさい。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。』(民数記5:2-5)

ツァラアトに罹っている人や、流出のある人等は、宿営の外に隔離し、そこで生活しなければならないという事を、主は既にレビ記で命じられていた。
その命令が出された時点で、自主的に出て行った人も、出て行かなかった人もいたのだろう。
そしてここで主は、明示的に「ことごとく宿営の外に出させなさい」と命じ、こうしてツァラアトに罹っている人や流出のある人たちは全て宿営から出て行った。

この事は、現代の民主主義・人権主義の観点からは、ひどいよう見える。
しかし、忘れてはならない。神の民は、「民主主義」ではなく「神主主義」、「人権主義」ではなく「神権主義」で生きるべき事を。
主は、イスラエルの宿営を「わたしがその中に住んでいる」と言われた。
聖なる主が、宿営の中に共に住んでおられるからには、一切の汚れをその中から除き去るべきである。
現代は「人権」を不自然に重んじるあまり、殺人者や未成年者の「人権」が歪んだ形でまかり通ってしまい、本来あるべき善悪の概念や、清さと汚れの概念が、混乱を来たしていて、罰するべきを罰さず、罰さぬべきを罰してしまうような事が、まかり通ってしまっている。
民主主義や人権主義は、罪過ちのある不完全な人間を主体とする所に、致命的な欠陥がある。人は結局、神を主として生きる事こそ、最善と幸いがあるのだ。

自分の中に、他人を汚してしまうような罪や汚れがある時は、周囲の人達を汚したり不愉快にしてしまうだけであるので、人の集まりから出て、主と一対一で向き合い、主にこの罪や汚れを対処して頂くうべき時だ。
『ひとりの重い皮膚病人(ツァラアト)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病(ツァラアト)は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)

また主は、和解すべき紛争を和解し、解決すべき問題を解決し、そうして、イスラエルの宿営の中から平和を乱す種を除き去るよう命じておられる。
『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。』(民数記5:6-7)
ここはKJVでは「When a man or woman shall commit any sin that men commit,」と始まる。
罪にコミットする事、すなわち、「罪」状態に入る事は、人に損害を与えるだけでなく、「主に罪を犯す事」と記されている。

その解決のために、犯した罪を告白し、損失を与えた相手がいる場合には、五分の一を加えて償いをし、償いをすべき相手がいなければ、主に対して償わなければならない。
私達が罪を犯す事によって、主も、兄弟姉妹たちも、心に傷を受ける。だから、単に物品の償いをすれば良いという問題ではなく、相手の心のためにも、主のためにも、ある程度のペナルティを自分が受ける必要があるのだ。

イスラエルの会衆は、このように、共同体の中から汚れを除き去り、主の住まわれるイスラエルの宿営を清めた。
私達も、主から除き去るべき罪、解決すべき問題が示されたなら、早急にそれを除き去り、私達が属する主の集会を清めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:御国のオーケストラ奏者である神の奉仕者(民数記4:34-49):右クリックで保存

『モーセとアロン、およびイスラエルのつかさたちは、レビびとを、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、会見の幕屋にはいって務の働きをし、また、運ぶ働きをする者を、ことごとく数えたが、その数えられた者は八千五百八十人であった。彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。こうして彼らは主のモーセに命じられたように数えられたのである。』(民数記4:46-49)

こうしてレビ族のうち、幕屋の奉仕が出来る人々が数えられ、登録された。
コハテ族の二千七百五十人は、アロンの子エルアザルが指揮をとり、ゲルション族の二千六百三十人・メラリ族の三千二百人は、アロンの子イタマルが指揮をとる。

神の奉仕者達には、必ずそれぞれ従うべき権威があり、その指揮の元に、各自の奉仕が割り当てられ、秩序正しく奉仕を遂行していく。
レビ以外の部族は、20歳以上が戦う者として登録されたが、ことに神の務めは、若い情欲や血気盛んさが抜けて、ある程度大人として成熟してからでないと、奉仕できる者として登録されない。

神の奉仕は、オーケストラのようであり、奉仕者は自分のやりたい事を捨て、指揮者であるキリストのタクトをよく見、その導きに従い、全体で、キリストのからだという美しいハーモニーを奏でるために、それぞれに与えられた賜物という楽器を演奏するものである。
誰か一人でも、目立ったり注目してもらいたいと、身勝手に指揮されてもいない事をするならば、全体のハーモニーを台無しにしてしまう。
祭司の奉仕も、レビ族の奉仕も、一歩誤ると、神に打たれて死んでしまう。だから神の奉仕は本来、信仰がある程度成熟していなくては、任せられないものである。

旧約時代は、ただ祭司だけが聖所の奉仕が許されているのみで、いかにコハテ族といえども、聖所の器物を見る事さえ許されていなかった。
しかし現代、キリスト者は、キリストにあって隔ての幕は打ち壊され、王族の祭司とされ、聖所の覆いは取り除かれている。
キリストにあるなら、誰もが、大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得ることができる。
新約の現代、キリストにあって自らを清める人は、ますます、尊い事に用いられる器とされていく。
『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2:20-22)

このように、主の奉仕者は、汚れから離れ、自らを清めていく必要があり、そのための「清め」は、私達のがんばりによるのではなく、主の導きに従って行く事による。
『去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:11-12)
若い時の情欲から離れ、成熟した者として自らを清め、主に有用なものとされ、ますます尊い事に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ゲルション族、メラリ族の奉仕(民数記4:21-33):右クリックで保存

今回の箇所では、ゲルション族、メラリ族の奉仕分担について命じられている。

『ゲルションびとの氏族の務として働くことと、運ぶ物とは次のとおりである。すなわち、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、そのひも、ならびにそれに用いるすべての器を運ばなければならない。そして彼らはすべてこれらのものについての働きをしなければならない。』(民数記4:24-26)
ゲルション族が運ぶべき幕屋の器具は、幕や覆い、皮などの布製品で、幕屋を覆うもの、折り曲げ可能なものである。

それに対し、メラリ族が運ぶべき幕屋の器具は、立て板や土台などの、幕屋の骨格みをなす部分で、大きく硬いものである。
『彼ら(メラリ族)が会見の幕屋でするすべての務にしたがって、その運ぶ責任のある物は次のとおりである。すなわち、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものである。あなたがたは彼らが運ぶ責任のある器を、その名によって割り当てなければならない。』(民数記4:31)

彼らが取り扱うものは、ケハテ族のような聖なる祭具でなく、板や布など、霊的レベルの低いものを運ぶ奉仕、と思われがちだが、それらが無くては、幕屋は成り立たない。
イエス様も、神殿と神殿の黄金に貴賎の区別をつけているパリサイ人を「愚か」だと叱責している。
『盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。』(マタイ23:16-17)

ゲルション族やメラリ族が運ぶべきものは、出エジプト記26,27章で主が示されている幕屋の寸法を見ると、結構な大きさのものである事が分かる。
幕屋全体を覆う幕は、1.78mx12.5mほどの布を基本構成とし、それを10枚つなぎあわせ、大きな一つの幕としている。さらに、そのような大きさの幕が、合計4層に渡って覆われている。
幕屋の壁は、4.45mx0.66mのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
そればかりでなく、外庭の寸法は、およそ22mx44mであるが、その外庭と外界を区切る架け幕、およそ2mほどの感覚で立てられた立板と、それを支える青銅の土台もある。
このように、幕屋全体の器物となると、結構膨大な量となり、それを解体したり運んだり組み立たりするとなると、とても数人でできるものではない。

幕屋から臨在の雲が離れてのぼった時、すなわち、主がその場所から行くようにとのGOサインが出た時、まず、祭司が至聖所と聖所の器物を梱包し、それが終わったら、エルアザルがケハテ族にそれらを運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルがゲルション族に布製品を解体して運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルはメラリ族に骨組みと土台を解体して運び出すよう指示し、そうして、幕屋が荒野を移動する準備が整うのである。
これら全ては、秩序正しく為されなければならない。
神の国の奉仕も同じで、それぞれが身勝手になってはならず、主にあって秩序正しく為されなければならない。

礼拝説教メッセージ音声:コハテ族の奉仕(民数記4:1-20):右クリックで保存

『「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。』(民数記4:2-3)
3章では、生後一ヶ月からのレビ族の男子が数えられたが、4章ではさらに、幕屋の奉仕に携わる事のできる、三十歳以上・五十歳以下の、働き人の数を数えるように、命じられている。
レビ人の幕屋の奉仕は、幕屋の器物を実際に運ぶ事だが、それらの多くは、金や銀、アカシヤ材などで出来た重量物であり、また、全て主の礼拝に用いられる聖なる器物であるから、この奉仕に当たるのは、ある程度成熟した男性でなければならない。

『宿営の進む時に、アロンとその子たちとは、まず、はいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって、あかしの箱をおおい、その上に、じゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にさおをさし入れる。』(民数記4:5-6)
主の臨在の雲が立ち上がり、イスラエルが進むように導かれた時、幕屋は解体して、荒野を運んで行かなくてはならないが、解体するにあたって、まず、祭司であるアロンとその子達が解体して梱包し、担ぎ棒を通し、運べる状態にし終わってから、初めて、レビ人達の手に委ねる事が出来る。

この、幕屋の聖なる器物には、それぞれ、梱包する手順も、主から定められている。
まず、あかしの箱の場合は、聖所と至聖所を仕切る幕で覆い、次はじゅごんの皮で、そして一番外側は、青色の布で覆う。
供えのパンの机と、それに属する祭具の場合は、まず青布で覆い、次は緋色の撚り糸の布、そして一番外側は、じゅごんの皮で覆う。
燭台や金の香壇など、その他に聖所の務めに用いる道具は、全て、まず青布で覆い、その上にじゅごんの皮で覆う。
つまり、レビ人がそれらを運搬する際は、契約の箱は、青布で包まれた神輿のようなものとなり、それ以外の祭具は、じゅごんの皮で包まれたものとなる。

これら聖なる祭具は、少しでも中身を晒してはならない。
それらは、あまりに聖であるため、主の許しの無い人が触れてしまうと、死んでしまうためであり、それは、いかに祭具を運ぶ役割が与えられたケハテ族のレビ人であっても、それを直接見るなら、死んでしまうのである。(15,20節)

これらの中身は、尊き神の聖なる器具ではあるものの、ケハテ族にとっては、それは単に、じゅごんの皮で包まれた、見栄えの良くない、運ぶには重たく難儀するもの、と、思えるかもしれない。
そのように、外見的・表面的な事で、奉仕を見てしまうと、自分達は、つまらない、きつい、地味すぎる奉仕ばかりやらされている、と、良からぬ思いで満ちて行ってしまう。
だからいつも、自分達は尊い器を運ぶという、尊い奉仕をさせていただいている、という、感謝を忘れぬべきである。
しかし、聖なる祭具を運ぶ役割が与えられているコハテ族のコラは、モーセとアロンに逆らった。

『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:1-3)
彼らの言い分は、全会衆はことごとく聖なるもので、主がその内におられるのだから、モーセとアロンだけが人の上に立って祭司として偉そうにしているのはおかしい、というものだ。
その言い分は、現状の立ち位置に不満のある人々には、もっともに聞こえ、ある種の自己実現欲をくすぐるものである。
ここにいる、名のある二百五十名も、その欲望をかき立てられて、コラと共に立ったのだろう。

モーセは、そんな彼らに、本来的な事を思い起こさせようと、説得する。
コラ達コハテ族は、主の御そば近くで栄誉ある務めに任じられており、それは小さなことではなく、特別な事である。
それで満足せず、なお祭司の職務を求めるのは、主に敵対する事だ、と。
しかし、彼らはモーセの説得を突っぱねた。

そんな彼らの末路は、とても恐ろしいものであった。
『エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムとは会衆のうちから選び出された者で、コラのともがらと共にモーセとアロンとに逆らって主と争った時、地は口を開いて彼らとコラとをのみ、その仲間は死んだ。その時二百五十人が火に焼き滅ぼされて、戒めの鏡となった。ただし、コラの子たちは死ななかった。』(民数記26:9-11)

コラの子達は、父が滅びるまさにその時、その天幕から離れて、滅びを免れていたようである。
恐らく彼らは、父よりも主を恐れ、父の陰謀から離れていたのだろう。
そして、そのコラの子孫たちは、詩篇において、素晴らしい信仰告白をいくつも残している。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。』(詩篇42:1-2)
いかにコラの子といえど、主を慕いあえぐ心をもって、主の奉仕を感謝しつつ望むなら、後に大きな栄誉に与るのである。

私達の奉仕も、もしかしたら、じゅごんの皮の重たいものを運んでいるかのような、地味なものであるかのように見えるかもしれない。
しかし、その中身は、主の尊い事に用いられる、聖なる器である。
その事をいつも忘れずに、主を慕いあえぎつつ感謝を持って、奉仕に当たっていく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの長男の数(民数記3:40-51):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「あなたは、イスラエルの人々のうち、すべてういごである男子の一か月以上のものを数えて、その名の数を調べなさい。また主なるわたしのために、イスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りにレビびとを取り、またイスラエルの人々の家畜のうちの、すべてのういごの代りに、レビびとの家畜を取りなさい」。』(民数記3:40-41)
イスラエルにおいて、長男は主のものである。
その長男を主に捧げる代わりに、レビ人をその代わりとするため、イスラエルの長男の数を数えるよう、命じられている。
面白い事に、家畜の初子も、同じように、レビ人が所有する家畜の代わりとせよ、と言われている。
レビ人の持ち物も、イスラエル民族の持ち物の代表として、神に捧げられている、という事だろうか。

『またイスラエルの人々のういごは、レビびとの数を二百七十三人超過しているから、そのあがないのために、そのあたまかずによって、ひとりごとに銀五シケルを取らなければならない。すなわち、聖所のシケルにしたがって、それを取らなければならない。一シケルは二十ゲラである。あなたは、その超過した者をあがなう金を、アロンと、その子たちに渡さなければならない」。』(民数記3:46-48)
イスラエル全体の長男の数を数えてみた所、長男の数のほうが、レビ人の数より273人多い事が分かり、『一か月から五歳までは、男にはその値積りを銀五シケルとしなければならない。』(レビ記27:6) という規定に従って、その人数分の贖いの銀を主の元に納め、そうして、イスラエルの初子の贖いを完済した。

『その数えられたういごの男子、すべて一か月以上の者は、その名の数によると二万二千二百七十三人であった。』(民数記3:43)
イスラエル全体の長男の数は、22,273人。それに対し、イスラエル全体の男子の数は、レビ族を除いて、603,550人。(1:46)
全男子の数を、長男の数で割ると、イスラエルの一家の平均的な男子の数となるが、その数、およそ27!
驚きである。
ひと家庭に、男子が27人いたという事は、男女比率が1:1だとすると、一家庭に、60人近くの子供がいた、という事だろう。
それは、現代日本の常識では想像もできないが、ギネスブックによると、18世紀のロシアの農民ヒョードル・ワシリエフの妻が、1725年から1765年にかけて、27回の出産で、双子16組、三つ子7組、四つ子4組の、計69人を産んだ記録があるそうだ。
イスラエルは、エジプトに滞在した400年で、70人から六十万以上に増えた。エジプトがイスラエルを脅威に感じたのも、うなずける。

カナンの地で穫れたぶどうは、あまりに大きく、そのひと房を、大人が二人がかりで担いだ(民 13:23)とか、七日間イスラエルの民がエリコを廻ったら城壁が崩れたとか、ヨシュアが祈ると地球の自転が一日止まったとか(ヨシュア10:12)、聖書は、現代の常識では考えられない記述の連続である。
しかし、考古学の発掘で、エリコの城壁は内部から外部へと不自然な崩壊の仕方をしている事が発見され、宇宙物理学でも、地球は確かに過去、一日自転が止まった事が証明されているそうである。

聖書の記述は、現代を生きる私達にとって、あまりに想定外のため、多くの人が信じられないと言っているが、主は、天地を創られ、物理法則を定められた、不可能の無いお方であり、信じる者には、力強き助けの御手を伸ばして下さるお方である。
イスラエルの民に注がれたのと同じ祝福を、いや、それ以上の祝福さえ、私達・信じる者に与えて下さると、私達も大いに信じるべきである。
『イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:23-24)

礼拝説教メッセージ音声:神の奉仕者として登録される(民数記3:14-39):右クリックで保存

「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」(民数記3:15)
一般のイスラエル部族が登録される場合は、二十歳以上の成人男性が数えられたが、レビ族に限ってはそうではなく、生後一ヶ月以上の男子を数えなければならない、とされた。
レビ族は、神殿や幕屋で、神の奉仕をする部族である。
つまり、神の奉仕者は、たとい、生後一ヶ月の、母に抱かれている乳幼児であっても「神の奉仕者」としてカウントされており、彼らは子供の頃から働き人として教えこまれ、育てられるのである。

『レビの子たちの名は次のとおりである。すなわち、ゲルション、コハテ、メラリ。』(民数記3:17)
レビ族にはこの三部族がおり、それぞれの部族ごとの役割は、21-39節で示されている。
まず、ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる事で、神の幕屋の西側に宿営する。
ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる事で、幕屋の南側に宿営する。
メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる事で、幕屋の北側に宿営する。

そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)

主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。

教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。

『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。

実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。

ところで、16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:代表選手がした事は(民数記3:1-13):右クリックで保存

この章は、レビ族の務めと役割分担が記されているが、その、主が命令されている内容から、主の定められたルールの特徴と傾向を見る事ができる。

『主がシナイ山で、モーセと語られた時の、アロンとモーセの一族は、次のとおりであった。アロンの子たちの名は、次のとおりである。長子はナダブ、次はアビウ、エレアザル、イタマル。これがアロンの子たちの名であって、彼らはみな油を注がれ、祭司の職に任じられて祭司となった。
ナダブとアビウとは、シナイの荒野において、異火を主の前にささげたので、主の前で死んだ。彼らには子供がなかった。そしてエレアザルとイタマルとが、父アロンの前で祭司の務をした。』(民数記3:1-4)
祭司は民を代表して主の御前に立つものであり、その代表である大祭司が違ったことをするなら、イスラエル全体に罪を運んでしまうため、責任重大である。
主の前に異なった火を捧げたナダブとアビフは、主に打たれてしまったため、その弟達であるエルアザルとイタマルが代わりに祭司の務めを為す事となった。
しかし、彼ら祭司たちだけでは、天幕の務め全体を担い切る事はできない。
そこで主は、レビ族を特別に召しだされ、神の奉仕に当てるために召しだされた。(同9節)

『レビの部族を召し寄せ、祭司アロンの前に立って仕えさせなさい。彼らは会見の幕屋の前にあって、アロンと全会衆のために、その務をし、幕屋の働きをしなければならない。すなわち、彼らは会見の幕屋の、すべての器をまもり、イスラエルの人々のために務をし、幕屋の働きをしなければならない。・・・あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう』(民数記3:6-10)
この所から、主の御前に仕える事が許されているのは「主が定めた人のみ」であり、それ以外は、決してそれを為してはならない事が分かる。

『主はまたモーセに言われた、「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。』(民数記3:11-13)
ここからも、動物も人も、全ての「初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる、という主のルールも、ここから読み取る事が出来る。

罪は、私達人生全員の代表選手・アダムひとりによって罪が入り(最初に罪を犯しアダムを唆したのは妻エバだが、アダムが代表であり、彼が罪を犯した事になる)、こうして一人の人を通して人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
このアダムは、きたるべきお方・キリストの型である。

『しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか・・・。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか・・・。
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。』(ローマ5:15-19)

イエス様を信じ、神の子とされた私達にとって、今や、イエス様が長男であり、代表選手である。
そのイエス様がして下さった事は、私達もした、と、見なされる。
すなわち、キリストが受けた裁きと罰も、キリストが死んで下さった「死」も、キリストがよみがえって下さった「よみがえり」も、キリストが律法を成就して下さったその成果も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と、主の御前で見なされる。
私達は、十字架に架けられた記憶は無いし、罪が処罰された記憶も無い。律法を成就した記憶も、キリストが行った素晴らしい行いを行った記憶も無い。
しかし私達は、キリストにあって、神の御前には、私達も「した」と見なされているのである。
どれほど都合の良い話しであろうか!
そう、福音は都合が良すぎて、にわかに信じがたい事である。

『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に”御子のかたちに似たもの”としようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で”長子”とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。』(ローマ8:28-30)

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