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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神からのサイン - 銀のラッパの音(民数記10:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。』(民数記10:1-2)
前回は主ご自身が送られるサインを学んだが、それに続き、主は、イスラエルの民が規律正しく荒野で行動できるよう、銀のラッパを用いた民への指示の仕方を教えられる。
このラッパは、銀製の打ち物で、角笛とは違った特徴的な音が響く。その吹き鳴らし方によって、イスラエルの民への合図を送り分けるよう、命じられた。

『この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。もしその一つだけを吹くときは、イスラエルの氏族の長であるつかさたちが、あなたの所に集まってこなければならない。』(民数記10:3-4)
まず、二本のラッパを同時に長く吹く場合は、イスラエルの民は全員集まれ、という合図であり、吹き鳴らされるのが一本だけの場合は、民の中の代表だけが集まるようにとの合図である。

『またあなたがたが警報を吹き鳴らす時は、東の方の宿営が、道に進まなければならない。二度目の警報を吹き鳴らす時は、南の方の宿営が、道に進まなければならない。すべて道に進む時は、警報を吹き鳴らさなければならない。また会衆を集める時にも、ラッパを吹き鳴らすが、警報は吹き鳴らしてはならない。』(民数記10:5-7)
口語訳で「警報」と訳されている言葉「テルーアー」は、新改訳では「短く吹き鳴らす」と訳されているが、ユダヤ教のラビの解釈では「短い音を連続して吹く」のではないかと言われている。
そのように吹き鳴らす場合は、陣営の一隊に対して「進め」という合図である。

また、敵と戦う際も、この「警報」という形で吹き鳴らす。
『あなたがたの国で、あなたがたをしえたげるあだとの戦いに出る時は、ラッパをもって、警報を吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われるであろう。』(民数記10:9)
主が示された通りラッパを吹き鳴らすなら、「あなたがたは、あなたがたの神、主に覚えられて、あなたがたの敵から救われる」という約束がある。
つまりこのラッパの音は、敵と戦いを交える合図であり、そして、神の救いを宣言する音でもある。

また、このラッパは、祭りや礼拝の合図でもある。
『あなたがたの喜びの日、あなたがたの祝いの時、および月々の第一日には、あなたがたの燔祭と酬恩祭の犠牲をささげるに当って、ラッパを吹き鳴らさなければならない。そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられるであろう。わたしはあなたがたの神、主である」。』(民数記10:10)
これは、聖徒が主とまみえる時の喜びの音、主を祝う事のうれしさを湧き立たせる音であり、「そうするならば、あなたがたの神は、それによって、あなたがたを覚えられる」という約束をも伴った、主の祝福のサインである。

この特別なラッパは、祭司の家の者のみ吹くことが出来、それ以外の者が身勝手に吹き鳴らしてはならない。
『アロンの子である祭司たちが、ラッパを吹かなければならない。これはあなたがたが、代々ながく守るべき定めとしなければならない。』(民数記10:8)
代々ながく守るべき定め、と記されているからには、このラッパに関する規定は現代も有効だという事であり、現代、私達キリスト者も、主からのラッパのサインを聞く時が来る。

以上のように、ラッパの音は主の民へのサインであり、集会の招集や出発、戦い、祭りの合図であった。そしてそれは守りと祝福のサインである。
主の民である私達は、主からのサインを正しく聞き分けなくてはならない。また、聞いたなら、それに従わなくてはならない。

聞き分けるためには、日々、御言葉によく親しむべきである。
イスラエルの民は、主からの合図の意味をしっかり学んだように、私達も御言葉に親しむ内に、主からのサインの内容を聞き分ける耳が鍛えられる。
主からのサインをしっかり聞き、その内容を見極め、その意味を悟ったなら、規律をもって正しく行動しなくてはならない。

『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。』(マタイ24:30-31)
主が来られる大いなる日、すなわち、神の国の民があらゆる所から集められる日であり、この古き地上から出発すべき時、主の永遠の祭りが始まるその時、大いなるラッパの音と共にみ使いたちが遣わされ、神の民が地上のあらゆる所から集められる。
その時はいつか分からない。
それだからこそ、日々、霊的にしっかり目を覚まし、かの日には天に上げられる側の者されるよう、日々たゆまず信仰の内に歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:百パーセントの主の守りと導き(民数記9:15-23):右クリックで保存

『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。』(民数記9:15-16)
荒野で幕屋を建てたその日以来、イスラエルの民は、この不思議な雲によって、岩砂漠の地を進み行く行程が守られ、導かれてきた。

『主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。 』(詩篇121:5-6)
とあるように、主は六十万を超えるイスラエルの民を、その照りつける日差しから、四十年もの間守り続けてきたばかりでなく、朝ごとにマナによって養い、岩からほとばしり出る水によって喉を潤した。
彼らは百パーセント、主の守りと恵みによって守られ続けて来たのであり、それが無かったら、すぐにでも死に絶えていただろう。

イスラエルの民は、今日はマナが降ったけれど、明日から振らなかったらどうしよう、今日は水があるけれど、明日からなくなってしまったらどうしよう、今日は雲によって守られ導かれているけれど、明日から雲が無くなってしまったらどうしよう、と、心配がよぎったかもしれない。
しかし主は毎日、一日もかかさず、律儀にそれらを与えて下さった。
彼らが滅ぼされても仕方ないような事を何度も起こしたにもかかわらず、それでも主は真実を貫かれ、毎日の恵みを忠実また誠実に与え続けてくださったのだ。
主は毎日、正しい人にも悪い人にも太陽を昇らせ、恵みの雨を与えて下さるお方だ。

『雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。』(民数記9:17-18)
イスラエルの民は、幕屋の上に雲が留まる時は進まず宿営し、雲がのぼったなら、幕屋の杭を抜いて出発した。
雲が留まるのが、たとえ二日であっても、一か月であっても、あるいはそれ以上であっても、主の臨在の雲が幕屋にとどまっているなら、イスラエルの人々は宿営し、それがのぼると、出発した。
私達の歩みも、主の臨在を第一に据えて歩むべきである。
主の臨在が留まったなら、たといそこが自分の思いとしては留まりたくなくても留まり、主の臨在が去ったなら、そこから出て行くべきである。
そうでないと、どんどん干からび、渇き、人生の歩みをますます見失って行ってしまう。

荒野の民が行く道先も、進むタイミングも、留まるタイミングも、全て百パーセント、主の導きによった。
この事は、自分で道を切り開き、自分の望む所を行きたがるような人には、つらいかもしれない。
しかし、主の導きを無視し、自分の行きたい道を行く人に待っているのは、百パーセントの滅びである。
一体人間の誰が、岩砂漠の中を四十年もの間、六十万以上の人を養い、導き、守る事が出来るだろうか。

私達キリスト者の人生の歩みも、イスラエルの荒野の旅と同じである。
誰も自分の力で、道を正しく切り開いたり、家族を養ったり、正しく導いたりする事は、誰にも出来ない。それは主の恵みと導きを要するのだ。

『すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:23)
彼らは、このおかげで荒野の行程を無事に終える事が出来た。
私達も、主の導きによってそこに留まり、主の導きに従って進み、そうして正しい道を歩む事が出来、家族を正しく養い導く事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:礼拝をやむを得ず守れなかった人のために(民数記9:1-14):右クリックで保存

エジプト脱出の前夜、イスラエルの民は小羊の血を家のかもいと門柱に塗り、その内側で、安全に過越の小羊を食べていたが、そうでないエジプトの全ての家々では、初子が死ぬという災いが降され、それが決定打となって、イスラエルの民はエジプトを脱出する事となった。
そのちょうど一年目、主はこの過越の祭りを祝うよう命じられた。
『エジプトの国を出た次の年の正月、主はシナイの荒野でモーセに言われた、「イスラエルの人々に、過越の祭を定めの時に行わせなさい。この月の十四日の夕暮、定めの時に、それを行わなければならない。あなたがたは、そのすべての定めと、そのすべてのおきてにしたがって、それを行わなければならない」。』(民数記9:1-3)

過越の祭りは、イスラエル民族がエジプトから救い出され、神から特別な扱いを受けている者達である事を覚える、重要な祭りである。
エジプトを出てちょうど一年目の、イスラエルが自由になってから初めての、記念すべきこの過越祭を、たまたまその時、死体によって身を汚していて、皆と共に祝うことが出来なかった人達がいた。
『ところが人の死体に触れて身を汚したために、その日に過越の祭を行うことのできない人々があって、その日モーセとアロンの前にきて、その人々は彼に言った、「わたしたちは人の死体に触れて身を汚しましたが、なぜその定めの時に、イスラエルの人々と共に、主に供え物をささげることができないのですか」。』(民数記9:6-7)

彼らは記念すべきこの祭りを、皆と共に祝うことが出来なかったので、それが心惜しくてモーセに訴え出たのだ。
礼拝出来なかった事に心惜しさを覚える事は、霊的に健全な証拠である。
イスラエルの歴史を見るに、そのように健全だった期間はあまりなかったが、私達は、礼拝が出来なかった時に心惜しさを感じる霊的健全さを持っているだろうか。

『モーセは彼らに言った、「しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう」。』(民数記9:8)

モーセは、今までに無かったこのケースをどのように対処すべきか、自分で判断する事なく、その人達を待たせ、主に伺いに行った。
この態度は、私達も見習うべきである。
霊的な事で、何か分からない事や問題が起きた時、思いつくまま軽率に答えたり、勝手な判断で対処したりするのではなく、御言葉を開くなり祈るなり、主からの確信を得た上で対処するのが、正しいやり方である。

『イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうち、また、あなたがたの子孫のうち、死体に触れて身を汚した人も、遠い旅路にある人も、なお、過越の祭を主に対して行うことができるであろう。すなわち、二月の十四日の夕暮、それを行い、種入れぬパンと苦菜を添えて、それを食べなければならない。これを少しでも朝まで残しておいてはならない。またその骨は一本でも折ってはならない。過越の祭のすべての定めにしたがってこれを行わなければならない。』(民数記9:10-12)

主のこたえは、死体で身を汚している人だけでなく、遠い旅路にあった人など、諸々の事情でこの祭りを祝えなかった人達のために、ちょうど翌月の十四日に祝うように、という事だった。
それも、一切の手抜きをする事なく、全ての手順をしっかり行うように、という事である。

主は、礼拝を捧げたくても捧げられずに苦しんでいる人のためには、便宜を計り、その邪魔を全て取り除いて下さるお方である。
『わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。』(ゼパニヤ3:18-19)

『しかし、その身は清く、旅に出てもいないのに、過越の祭を行わないときは、その人は民のうちから断たれるであろう。このような人は、定めの時に主の供え物をささげないゆえ、その罪を負わなければならない。』(民数記9:13)

特に差し迫った理由も無いのに、本来礼拝すべき時に礼拝せず、自分の都合で主を祝う事を先延ばしにする人は、主を軽んじる人である。
礼拝すべき時、主に聞き従うべき時、御心を実行すべき時があり、その「時」を軽んじていたら、取り返しがつかなくなくなってしまった、といった事柄は、聖書の至る所にあり、そういう人は、外の暗闇に追い出され、そこで泣いて歯ぎしりするものである。

主は、民が過越祭を確実に行えるよう、二重の備えを用意されたほどに、この祭りを重要なものとして位置づけられた。
傷の無い小羊をほふり、その血のしるしを自分達の所につけ、その中で、自分達のために犠牲となった小羊の肉を噛み締め、救われた事の喜びを味わう。これは、来るべきキリストを、ありありと表現している。
現代、私達キリスト者は、キリストの裂かれた肉と流された血を覚えつつ、聖餐式を行っている。
私達はそのキリストの尊い贖いを覚え、キリストのからだと血をわきまえ、救われた事の喜びを噛み締めつつ、この「祭り」を祝うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:年齢制限の無い天の奉仕(民数記8:20-26):右クリックで保存

『レビびとは次のようにしなければならない。すなわち、二十五歳以上の者は務につき、会見の幕屋の働きをしなければならない。しかし、五十歳からは務の働きを退き、重ねて務をしてはならない。ただ、会見の幕屋でその兄弟たちの務の助けをすることができる。しかし、務をしてはならない。あなたがレビびとにその務をさせるには、このようにしなければならない。』(民数記8:24-26)

レビ記を学んで来た方は、この「二十五歳」という年齢に、「おや?」と思ったかもしれない。
そう、四章では、レビ人として登録され数えられるのは「三十歳から五十歳まで」と書かれてあった。それがここでは二十五歳とあるのは、どういう事だろう。

よく読んでみると、ここ八章では、「二十五歳以上は、幕屋の務めにつかなくてはならない」と記されているのに対し、四章では、「レビ人の奉仕者として登録し数えるべきは三十歳以上」とある。
すなわち、二十五〜二十九歳は、神の奉仕者として「働く」事は出来ても、働き人としての「登録」はされないのである。
その期間は、働き人の見習いとして十分に学ぶべき期間を過ごし、そうして五年後、ようやく働き人として正式に登録されるものなのかもしれない。

ダビデの時代は、レビ人として数えるべきは「二十歳以上」と定められた。
『ダビデは言った、「イスラエルの神、主はその民に平安を与え、ながくエルサレムに住まわれる。レビびとは重ねて幕屋およびその勤めの器物をかつぐことはない。
――ダビデの最後の言葉によって、レビびとは二十歳以上の者が数えられた――』(1歴代誌23:25-26)
ダビデの時代は、神を礼拝する場所はもはや幕屋ではなく、神殿であり、レビ人の奉仕内容も、幕屋の器物をかついで運んだり、組み立てたり、という仕事ではなく、聖歌隊や門衛となり、奉仕内容は時代によって変わっている。

そして現代、神殿はもはや、どこかの場所に建っている建物ではなく、「私達キリスト者」が神殿であり、私達キリスト者がレビ人のような奉仕者として立てられている。
『神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。』(2コリント6:16)
もはや、肉体的な年齢制限は無い。幼子さえもキリストを賛美する事が許されている。そして、肉体の年齢制限は無い代わりに、私達は霊性においての成熟が求められている。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(2ペテロ2:5)

この地上の体は日々衰える。
しかし、私達の希望は、この肉体にあるのではなく、決して古びる事の無い天にあり、天地を治めておられる永遠の主にあって私達は望みがあるのだ。
『だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:16-18)

レビ人として幕屋の奉仕をするには、二十五歳から五十歳まで、という年齢制限があり、人生の内の、わずか二十五年しか、幕屋で務めをする事が出来なかったように、この地上での肉体には、限度がある。
しかし、天の御国では、決して朽ちる事の無い全く新しい体が与えられ、神の幕屋に共に住まい、涙がすっかり拭い取られ、昼も夜も、喜びをもって永遠に神に仕えるのである。
『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:献身者のきよめの手続き(民数記8:5-19):右クリックで保存

今回の箇所では、レビ人を「神に捧げられた者」として任職するため、経なくてはならない手続きが、主から命じられている。
『そして、あなたはレビびとを会見の幕屋の前に連れてきて、イスラエルの人々の全会衆を集め、レビびとを主の前に進ませ、イスラエルの人々をして、手をレビびとの上に置かせなければならない。そしてアロンは、レビびとをイスラエルの人々のささげる揺祭として、主の前にささげなければならない。これは彼らに主の務をさせるためである。』(民数記8:9-11)

民はレビ人の上に手を置き、神と人との前で公に「奉献物」として主に捧げ、民を代表する「神の奉仕者」としての務めに任じている。
彼らは、今で言う所の「献身者」という言葉が、ぴったり当てはまるであろう。
このレビ人を任職するための手続きから、現代の「献身者」すなわち「神の働き人」が、いかに整えられ、清められ、いかに主の仕事に間に合う者とされるのかを、知る事ができる。

『あなたはこのようにして彼らを清めなければならない。すなわち、罪を清める水を彼らに注ぎかけ、彼らに全身をそらせ、衣服を洗わせて、身を清めさせ、そして彼らに若い雄牛一頭と、油を混ぜた麦粉の素祭とを取らせなさい。あなたはまた、ほかに若い雄牛を罪祭のために取らなければならない。』(民数記8:7-8)

彼らを清めるために、最初に為される事は、「水の洗い」による清めである。
つまり、献身者たる者の第一の必要条件は、御言葉という水の洗いによって、清められている事である。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)

続いて彼らは、全身にかみそりが当てられ、全身の毛を剃られるが、それは、ツァラアトからきよめられる人と同じ手続きである。(レビ14:8)
献身者は、諸刃の剣よりも鋭い御言葉によって全身が当てられ、その身から生じた一切の古き生成物は、全部切り捨てられるのだ。

続いて彼らは、衣服を洗って、身を清めさせられる。
黙示録には、その衣を洗って白くし、昼も夜も神の御前で仕えている群衆が出てくるが、彼らは小羊の血で衣を洗って白くしている。
私達は、小羊キリストの血によって、自分の行いという「衣」を洗って白くするのである。

こうして彼らは、古いものは全て過ぎ去り、誰の目にも明らかなまでに、全てが新しくなった。
実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲の血潮により、滅びから免れ、古いものが過ぎ去り、全てが新しくされる事を、暗示している。
このようにして彼らは、神に有用な者として整えられるのだ。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)
という御言葉の通りである。

『わたしはイスラエルの人々のうちからレビびとを取って、アロンとその子たちに与え、彼らに会見の幕屋で、イスラエルの人々に代って務をさせ、またイスラエルの人々のために罪のあがないをさせるであろう。これはイスラエルの人々が、聖所に近づいて、イスラエルの人々のうちに災の起ることのないようにするためである」。』(民数記8:19)
レビ人以外の人、すなわち、主に身を捧げておらず、主のものとされていない人が、聖なる所に近づくと、災いが起きる。なぜなら、神は排他的な「聖」なるお方であるからだ。
私達も、主にますます用いて頂くためには、自らを捧げ、清く聖別しなくてはならない。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)

礼拝説教メッセージ音声:奉仕をする時はともし火をともせ(民数記8:1-4):右クリックで保存

『「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。』(民数記8:2-3)
幕屋の聖所の中は、四重の幕で覆われていて、真っ暗である。
そのため、燭台の七つのともし火を照らさなくては、祭司は正しく務めができない。

同様に、私達・神の奉仕者も、全て、光が無くては正しく奉仕が出来ない。
その光とは、キリストであり、御言葉である。
そして教会は、暗闇の世を照らす燭台であり(黙示録1:20)、その燭台がいつも掲げているべき「光」が、キリストである。

『燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。』(民数記8:4)
この、聖所を照らす燭台は、「打ち物」、すなわち、一つの金のかたまりを槌などで打って、燭台の形にしたものである。
キリストが神に打たれたように、私達も、時に神に打たれ、そうして神に有用な形をなしていく。
また、この燭台は「台」の部分も、「花」の部分もあって、全体が同じ一つの金で出来ているように、教会はキリストのからだで全体は一つであり、聖徒達一人一人は、各々違った役割が与えられている各器官である。

キリストの光なしの奉仕、御言葉の光なしの奉仕は、暗闇の中を手探りでうろついているようなもので、そういう人は、躓いたり、尊いものを壊してしまったり、いたずらに自らを傷つけるだけである。
パウロは、キリストの光に照らされる以前は、神に貢献していると信じて疑わずにいながらにして、実は神に反し、御子キリストを迫害している者だったが、キリストの光に照らされて以来、彼の奉仕は、正しく的を射るものへと変わった。

『わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである。」・・・
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。』(使徒26:12-18)

キリストこそ、世を照らすまことの光であり、そしてキリストは、ロゴス(御言葉)なるお方である。
御言葉は光、私達の足元を照らすともしびである。このともし火をともしてこそ、私達はつまづく事なく正しく道を歩む事が出来るのだ。
時には、御言葉が良く分からない時もあるが、いつかそれが光を放つ時が来る。その時まで、その御言葉に目を留めているべきである。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。』(2ペテロ1:19)
この御言葉を私達に分からせて下さるのは、聖霊によるのであって、人間の知恵や力によるのではない。(同20-21節)

そして、燭台の光をともし続けるためには、その燃料である油、すなわち、聖霊の油が必要である。
10人の花嫁の中、5人の愚かな乙女は、ともし火は持っていたものの、油を用意しておかなかったために、花婿を迎えるべき大事な時に灯しておく事が出来ず、花婿に迎えてもらえなくなってしまった。
いくら御言葉の光を持っていたとしても、御言葉を守る事が持続できない人は、聖霊の油の蓄えが無い人だ。

そういう人は、「油絞り」の祈り、すなわち、「ゲッセマネ」の祈りをするのである。
主はゲッセマネで、「自分の願う所ではなく、御父の御心のままに」と祈り、自分を降ろして御父の御心に委ねた。
私達も自分を降ろし、自分の道を御心に譲るなら、どんどん油が滴って、蓄えられて行くのだ。

御言葉朗読(民数記7:10-88):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:省かれる事の無い捧げ物の目録(民数記7:10-89):右クリックで保存

この民数記7章は、聖書の中で2番目に長い章であり、そしてその中には、イスラエル12部族が主のために捧げた捧げ物の細かな内容が記されている。
主は、イスラエル12部族が捧げものをする上で、一日に一部族ずつが捧げるように、命じられた。

『第一日に供え物をささげた者は、ユダの部族のアミナダブの子ナションであった。
その供え物は銀のさら一つ、その重さは百三十シケル、銀の鉢一つ、これは七十シケル、共に聖所のシケルによる。この二つには素祭に使う油を混ぜた麦粉を満たしていた。また十シケルの金の杯一つ。これには薫香を満たしていた。また燔祭に使う若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の小羊一頭。罪祭に使う雄やぎ一頭。酬恩祭の犠牲に使う雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の小羊五頭であって、これはアミナダブの子ナションの供え物であった。』(民数記7:12-17)

このように第一日はユダ部族の代表が捧げた、そして第二日、第三日と、一部族ずつそれぞれの部族の代表が捧げて行くのだが、おのおのの部族が捧げた内容は、全て同じで、しかも、その数も、重さも、器の中に満たしたものも、全て一緒である。
ユダ部族が一番多く、マナセ族はその半分以下だが、ユダ部族は多く捧げ、マナセ族は少ないという事も一切なく、全て一緒である。

この箇所は、あたかもコピーペーストした内容をひたすら繰り返し読んでいるように、内容に起伏が無く、長い箇所なので、朗読する側も、聞く側も、飽き飽きしくるかもしれない。
しかし、各部族が捧げた物がいかに同じであったとしても、「以下同文」などと省かれる事はなく、一つも漏らさず記された。
同じように、私達が主に捧げたものも、奉仕も、全て、天の書物に正確に記録され、一切省かれるものが無いのだ。

私達は、主イエスにあって祭司である。
一つ一つの恵みを数えて感謝し祈る事や、家庭や職場を執り成す日々の祈りは、時に、あまりに同じ文句を祈っているようで、飽き飽きして来る事もあるかもしれない。
しかし、私達はそういう事に、飽きてはならない。
主の働き人も、もし誰かから献金や献品をいただいた場合、それが、わずかな食事の一杯であったとしても、ないがしろにせず、主に感謝し、その人のために主に執り成して祈る事を、省くべきではない。

これらイスラエル各部族が捧げた品々は、尊い器で、尊い事に用いられた。
将来の不信仰な王の時代に、強国への貢物にされてしまったり、バビロンの捕囚先ではベルシャツァル王によって、これら神殿の尊い器が宴会のさかなにされたりもしたが、主は真実なお方であり、そのような悪い者への報いはきっちり果たされ、そしてさらに将来、エズラによって、これら器は、再びエルサレムの神殿へと返された。

私達は、主の器であり、また、聖徒を導く人は、主の器を運ぶ者である。
私達は自分自身が尊い事に用いられる器として、日々自分を整えるべきであり、そしてまた、主から託された尊い器を、主の御元に納められるその日まで、しっかり管理するべきである。

礼拝説教メッセージ音声:奉仕者の便宜を思った献品(民数記7:1-9):右クリックで保存

『モーセが幕屋を建て終り、これに油を注いで聖別し、またそのすべての器、およびその祭壇と、そのすべての器に油を注いで、これを聖別した日に、イスラエルのつかさたち、すなわち、その父祖の家の長たちは、ささげ物をした。彼らは各部族のつかさたちであって、その数えられた人々をつかさどる者どもであった。』(民数記7:1-2)
モーセが幕屋を建て終わって聖別した日は、出エジプト記40:17によると、第二年目の1月1日であるので、時間的に少し遡った時の事を記している。
この民数記7章は、その日、イスラエル12部族の代表達の捧げ物について詳細に記している章で、聖書全体の中では、2番目に長い章である。

今までは捧げ物というと、動物のいけにえ等、直接主に捧げるものが多かったが、彼らはこの時、主の働き人にとって、「これがあるととても便利なもの」を捧げた。
『彼らはその供え物を、主の前に携えてきたが、おおいのある車六両と雄牛十二頭であった。つかさふたりに車一両、ひとりに雄牛一頭である。彼らはこれを幕屋の前に引いてきた。 』(民数記7:3)
彼らが捧げたものは、幕屋のもろもろの道具を運搬するための、車だった。
モーセが幕屋を建て終わり、イスラエルの民は、主の働き人達にとって便利なものは何だろう、と考えて、それらを準備したのだろう。

直接的な礼拝も主に喜ばれるが、主の働き人のために便宜を考え、それを捧げる事も、立派な礼拝である。
パウロも、彼らのために便宜をはかってくれたピリピの人達を喜んで、それは主が喜んで受けて下さる供え物だ、と書いている。
『私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』(ピリピ4:18-19)

これらの車は、ゲルション族に二両、メラリ族に四両渡され、ケハテ族には一両も渡されなかった。(民数記7:7-9)
なぜなら、ゲルション族は幕屋の幕、布製品など、比較的軽いものを運ぶ担当で、メラリ族は、板や土台など、重いものを運ぶ担当であったが、ケハテ族が運ぶものは聖所の中の尊いもの、直接担いで運ばなければならないからであり、それらを必要としなかった、いやむしろ、それらを用いてはならなかったからだ。
聖徒の献品には、ある奉仕者には非常に助かるものもあるが、別の奉仕者にはそれが全く必要ない、むしろ、それを用いてはならないタイプのものもあるのだ。

ダビデの時代、ケハテ族が担いで運ぶべき契約の箱を、車を用いて運ぶという、「してはならない事」をした事があった。
ダビデも民も、神の箱が自分達の都に来る事を、大いに喜び踊ったが、牛車の牛が車をひっくり返そうとし、その時、ウザが箱を支えた所、ウザは聖なる箱に触れたため、主に打たれて死んでしまった。
ダビデ達の主を喜ぶその志は、人の目には良いものだったかもしれない。ウザのした事も、なぜ悪いのか、と人は思う。
しかし、主の法則を外した形で「主の契約」や「主の御言葉」が運ばれるのは、良くないのだ。
もしこの事件が無かったら、民の興奮と盛り上がりの中、律法はなおざりにされたままになっていたであろう。
しかし、この出来事の故に、ダビデはおそれをもって律法を調べ、正しい方法で契約の箱を運ぶ事となり、ますます恐れをもって主に仕えるようになった。

私達も奉仕する時、正しく御言葉にそっているかどうかを、常に点検すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存

前回に続き、祭司に与えられたこの祝福の命令をもう少し詳しく見て行きたい。
祝福という言葉は、聖書では良く出てくるし、教会でも良く使われ、クリスチャンもよく「祝福を下さい」と祈るが、そもそも祝福とは一体何だろう。

祝福は、必ず神様を通して与えられるものであり、神様を除外した人間が、身勝手な善悪判断によって定めた「これが私にとっての祝福」というものは、実は、自分も他人も、そして自然界をも、不幸に陥れてしまうものだ。
祝福のヘブライ語「バーラフ」の元々の語意は「ひざをつく」で、意味としては、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる」である。

このバーラフが聖書で最初に登場するのは、聖書の最初の書の、最初の章からである。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを”祝福”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。』(創世記1:27-31)

世界に罪が入る以前、神は、アダムと全生物が大いに生んで増えて行くようにと、主が自らがひざをついて便宜を図り、いのちが増え広がって行く様を応援した。
そして神様がその様をご覧になったところ、「はなはだ良し」と評価された。
しかし、アダムが神の言葉に背いて、善悪判断をしだした所、全被造物は呪われてしまった。
それ以来、被造物は神の子たちの現れを、うめきながら待っているのである。(ローマ8章)

神は、御言葉に服従し罪の問題を解決した人達が、繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そのような人達を、ことさら祝福しようとされるのである。
事実、神は、罪を知らない時のアダムになされた、あの「生めよ、増えよ」の祝福を、ノアにも、アブラハムにも為された。
そして私達も、イエスキリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるなら神の子とされ、神がアダムやノア、アブラハムに与えられたあの祝福で、私達を覆って下さるのである。

主が、祭司アロンを通して命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』(民数記6:24)である。
ここに出てくるシャーマルという言葉は「守る」という意味のほか、見張る、気をつける、という意味がある。
主の御心は、主の民とされた聖徒達が、生んで増えて行く事だった。
それ故、この第一の祝福は、あの創世当初の「はなはだ良かった」時のように、御心にかなった人達が、生んで増え広がって行くそのいのちを、主ご自身が見守り、サポートされますように、という祈りである。

第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』(民数記6:25)である。
ここの恵む(ハーナン)という言葉は、憐れむ、情けをかける、という意味で、それは、具体的な行動がともなった同情で、新約のギリシヤ語の「スプランキニゾマイ」に相当し、それは字義通りには「はらわたがちぎれる思いで、かわいそうに思う」である。
つまり、ここの祝福は、主が輝いた表情をあなたに照らし、主のはらわたがちぎれる程の深い憐れみによって、情けをかけて下さるように、という祈りである。

第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安(シャローム)を賜わるように』(民数記6:26)である。
「向け」という言葉は、「上げる」「支持する」という応援的な意味があり、また、シャロームという言葉には広範な意味があって、祝福の総称とも言える。
シャロームは挨拶の言葉であり、平和と安息を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄や、健やかである事や、また、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、そして知恵に満たされ、あらゆる悪や災いから救われ、敵や悪に対して勝利する事を、願い求める言葉でもある。
つまり、主がその眼差しを向けて支持し、家庭も経済も、知恵も力も、あらゆる面で充足し、健やかであり、平安で、あらゆる面で守られ、勝利するよう、主があらゆる面で応援して下さるように、という祈りである。

この民数記6:24-26の祝福は、何世紀にも渡って祭司がイスラエルの民を祝福し、また、キリスト者達が互いに祝福してきた、優れた言葉である。
私達も、キリストにあって祭司という立場を得たからには、大いにこの祝福の祈りを、家族に、仕事に、人生のあらゆる場面に対して、宣言するべきである。
しなければ損である。

礼拝説教メッセージ音声:祝福する祭司として(民数記6:22-27):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。』(民数記6:22-23)
主は、祭司が民を祝福するべき言葉を、具体的に示された。
レビ記が学科であるとすれば、民数記は実技であるが、その実技教習は、いよいよ「祝福の仕方」にまで至った。
今までの実技教習の内容を、振り返ってみよう。

まずは「神の民」「神の部隊」としての登録が1章でなされ、ただの「荒野の民」から、登録された「神の民」へと転換し、2章では、神の部隊として、どの部族がどの位置に配置されるべきかが示され、秩序と規律をもって進み行くべきことを示された。
また、3章では、元々は、長男が「主のもの」とされていたのが、レビ人に転換され、主のものとされたレビ人への奉仕分担が4章で示された。
そして5章では、神が住まわれるイスラエルの宿営の中から、汚れを締め出す事が命じられ、また、最も親しくあるべき夫婦関係の中から、不信を取り除く方法が示された。
6章では、主にまったき献身を誓うナジル人に関する規定が示され、そしていよいよ6章の後半で、いかに民を祝福すべきか、という、祝福のことばの制定が為された。

主は順を負って、神の民としての整えを着実に為しておられるが、この順番は、キリスト者が神のものとされた時から始まる成長に良く似ている。
キリスト者が洗礼を受け、神のものとしてしるしを受けた後、生活のあらゆる面で、神の民としての秩序がどんどん与えられて行く。
次に、神の奉仕者としての役割が与えられ、その奉仕を忠実に為して行く内に、自らの中から汚れを取り除くようになり、さらなる献身へと導かれ、そして遂には、神の代理人として、人々を祝福するものとされていく。

「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
この祝福の文言は、何世紀にも渡って祭司によって宣言され、また、キリスト教界でも、何世代にも渡って、この言葉によって多くの聖徒達が祝福を受けてきた。

主の祝福の最たる事は、「主が共におられる」事である。
荒野での金の子牛の事件の時、モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無いという確約はとりあえずいただいたが、最初、主は、民と一緒には行かないと言われた。(出エジプト記33:1-3)
主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほど主を知らない者であり、よほどの恩知らずである。

主が共におられ、主の祝福があり、主の守りがあるという事は、全宇宙を創られた万能なる神が共におられるという事であり、主の守りの内に最善の道を歩ませ、主の最高教育の内に導かれて行く、という事である。
主は、驚くほどの憐れみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。
私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。

『こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。』(民数記6:27)
ここは英語の聖書(KJV)では、イスラエルの子らの上に「わたしの名を置く」なら、わたしは彼らを祝福する、と記されている。
祭司が、イスラエルの会衆の上に「主の名を置き」、そうして祝福する。
それはあたかも、ハンコを押すようなものだ。

主は「わたしはある」と言われた。
主の名は「ある」である。
英語では「I AM THAT I AM」、すなわち、神は「存在する」という名前であり、在りて在る者、それが主のアイデンティティである。

英語で I am ○○ と言う時、わたしは○○である、という意味であるが、神はその○○の部分に、何でも入るお方だ。
主は全能であり、偏在であり、はじめであり、終わりであり、永遠である。
その素晴らしき主の名をハンコのように押された、という事は、世のどんな大統領のサインよりも遥かに強力な権威を持っている、という事であり、まさに、何でも持っている状態である。

この祝福の言葉は、何世紀にも渡って、祭司によって祝福されてきたが、私達キリスト者も、祭司という立場であり、家族のため、仕事場のために、祝福の祈りをする立場である。
そうであるからには、いたる所に、いたる場面で、偉大なる主イエスの御名によってハンコを押し、祝福すべきである。

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