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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:霊的負け組のパターン:御心に自分の提案を混ぜる(民数記13:1-16):右クリックで保存

民数記の13から14章にかけては、イスラエル民族にとって最も忘れてはならぬ戒めの箇所であり、それは私達にとっても同じである。
なぜなら、イスラエルの民は、必ず占領できるという主からのゴーサインをいただき、その地からもう目と鼻の先の所に来て、あとはそこに入って占領するだけ、という場面まで来ていたのに、彼らは余計な事をし、余計な判断をしてしまい、結局、その世代の人は約束の地に入れず、子の世代にも38年もの放浪をさせてしまったからだ。
私達も、主が今にも幸いと祝福を与えようとしておられるのに、余計な事をしてしまったり、主の言葉に余計な判断を混ぜ込んでしまって、せっかくの祝福を自ら拒んでしまう、というような事が「ありがち」である。

『主はモーセに言われた、「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。』(民数記13:1)
ここを見ると、カナンの地に入る前に斥候を遣わすように命じられたのは、主だったかのように思えるが、そうではない。ここに至るまでの経緯は、申命記に記されている。

『われわれの神、主が命じられたように、われわれは、ホレブを出立して、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:19)

イスラエルの民は、約束の地カナンからは、もうあと目と鼻の先のカデシュ・バルネアにまで来ていた。
そこで主は、カナンの地は既にあなた方の手に渡している、だから行って、自分のものとしなさいと言われており、モーセも、既に勝利宣言を出していた。
あとは実際に行って、勝利を受け取るだけ、という場面である。
そこに民は、余計な提案をした。

『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう』。』(申命記1:22)
自分達がそこに入る前に、事前にリサーチさせてほしいという提案は、極めて常識的で、まっとうである。

しかし、主の導きの下にある生活では、主が既に「これをせよ」と命じられている状況下で、自分でも判断がしたいがためにリサーチする事は、御心に不純物を混ぜ込む事であり、主の御業を阻害してしまう事なのだ。

『このことは良いと思ったので、わたしはあなたがたのうち、おのおのの部族から、ひとりずつ十二人の者を選んだ。』(申命記1:23-26)
モーセはこの時、それは良いとおもった。
なぜなら、その土地がいかに良い所かを、彼らが探り見れば、民はますますその土地に入るのが楽しみになり、士気がますます鼓舞されるだろう、と思ったからである。
実際、ヨシュアとカレブはそのような反応をしたし、モーセとしても、民がまさかそれ以外の反応をするとは、考えつかなかったのかもしれない。

『モーセは主の命にしたがって、パランの荒野から彼らをつかわした。その人々はみなイスラエルの人々のかしらたちであった。彼らの名は次のとおりである・・・。』(民数記13:3-4)
ここでイスラエルの人々のかしら達の名が上がっているが、その中に、ヌンの子ホセアがいる。
ホセアはこの時、モーセによって「ヨシュア」という新しい名を付けられた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。

ヨシュアの親はもしかしたら、彼が生まれた時、自分で自分を救えるような強い者となって欲しい、という願いを込めて、名づけたのかもしれない。
しかしモーセは、主こそ救いの拠り所であるとし、彼には、その名の通りになって欲しいと思って、新しい名をつけてから、斥候として遣わしたのかもしれない。
彼の名前は、重要である。救いは、自分の力には無い。主にのみ、救いがあるのだ。

自分の力や知恵を、救いの源とする所には、罠が潜んでいる。
会社の会議などでは、自分の提案を主張して人々を説得する事は当たり前のように行われ、それがうまく出来る人が出世するものだが、神の国では、逆である。
御言葉の真理に対し、自分の良かれと思った事や、自分の提案を混ぜ込む事は、霊的負け組のパターンである。
ヨシュアとカレブ以外は、その罠に陥ってしまい、ここぞという時に、約束の地に入る事を、自ら拒んでしまった。

見える所によってではなく、主の御言葉の約束に依り頼みつつ歩み、生きていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:非難するミリヤム、飲まれるアロン、執り成すモーセ(民数記12:10-16):右クリックで保存

『主は彼らにむかい怒りを発して去られた。雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病(ツァラアト)となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病(ツァラアト)になっていた。 』(民数記12:9-10)
ミリヤムが主にツァラアトにされてしまったのは、権威に逆らう高慢さの故である。

ウジヤ王も同じように、高慢さの故に主に打たれ、ツァラアトにされた。(2歴代誌26章)
彼は最初は、主の御心に叶う事を守り行う、良い王だった。
それで主は彼を助け、ペリシテ人に勝利させ、内政も軍備も充実させる事で、その名声は鳴り響き、大いに強くなった。
『ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。』(2歴代誌26:16)
律法によると、主の宮に入って香を炊く事が出来るのは、王ではなく、祭司のみであり、その事を祭司アザルヤによって戒められたが、ウジヤ王はそれを聞くと激しく怒り、頑として、思っていた事を為そうとした、まさにその時、彼の額に、ツァラアトが現れた。
彼は死ぬまでツァラアトに冒され、隔離されたまま生涯を終えた。

ウジヤ王がツァラアトになったのも、ミリヤムと同じ「高慢」故であり、戒めを聞かず、怒り、頑なになったからである。
彼は、生涯の前半、輝かしい実績の数々を残した。それなのに、その成功が高ぶりを呼び起こし、それがツァラアトという実体となってしまい、人生の後半は、ツァラアト患者として隔離され、死んだ後も、王たちの墓に葬られるのではなく、連なる墓地に葬られた。

このように主は、その人の内に秘められた高慢が、ある点に達した時、明らかな形で打たれる。
成功した時こそ、注意が必要である。
罪や高ぶりを悔い改める事は、一生続けるべきものであり、「悔い改め」なる「苦行」を10回したら、もう悔い改めはしなくても良い、といった類のものでは、決してない。
従順と謙遜、そして悔い改めを、私達は一生続けるものであり、終わりは無い。

「ツァラアト」は、私達の肉の奥底に住んでいる「内住の罪」をよく表している。
この病は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多い。
またこの病は、伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した場合は、人々から離れる事が定まっている。
実際アロンは、ミリヤムの「権威への不従順というツァラアト」が、伝染されてしまった。

『そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。』(民数記12:11-13)
ミリヤムがツァラアトに冒されたが、悔い改めの口火を切ったのは、アロンだった。
それもアロンは、主(エホバ)にではなく、モーセに「主よ」と言って願い、それでモーセは、主(エホバ)に直接執り成し祈った。

十二章の登場人物がそれぞれした事と、語った言葉を見てみると、とても興味深い。
まずミリヤムは、モーセを非難する言葉を語ったが、主に打たれ、ツァラアトに冒されたのに、悔い改めも謝罪の言葉も無かった。
アロンは、ミリヤムの高慢や嫉妬に「感染」し、一緒にモーセを非難するために入って来たが、彼女が主に打たれた時、主にではなくモーセに執り成しを願い求めた。
そしてモーセは、彼女達に非難された事に対しては何の口も開かず、主が直接弁護して下さり、そして、主に打たれたミリヤムのために、直接執り成した。
ミリヤムとアロンの訴えは「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」だったが、もはや、勝負ありである。

『主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。』(民数記12:14)
彼女は七日間ツァラアト患者として隔離され、その後、癒されたようである。
そして民は、ミリヤムが連れ戻されるまでは旅立たなかった。
この事は、宿営全体が知り、見ていた事なのだ。
それ程、彼女がした罪、すなわち、権威に逆らう罪は、見過ごしに出来ない事であり、また、権威に逆らうと、どんな罰が待っているのか、民は見知ったのである。

私達はモーセのように、キリストのように、謙遜で、主ご自身から直接弁護される者でありたい。
『キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。』(1ペテロ2:22-24)

礼拝説教メッセージ音声:モーセの人となり(民数記12:1-8):右クリックで保存

モーセの姉ミリヤムは、アロンを引き連れて来て、モーセを非難した。
『モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。 』(民数記12:1-2)
モーセがどういう経緯と理由でクシ(KJV:エチオピア)の女をめとっていたのか、聖書に記されていないので分からないが、とにかく、ミリアムはその点を訴えの拠点とし、あなたにはこれこれの罪がある、だからあなたは指導者としての資格は無い、だから我々をもっと活躍させろ、という論法で詰め寄った。

ミリアムは、主がエジプト軍を海で打たれた時も、女達の先頭に立ち、率先してタンバリンと踊りで主をほめたたえた。
また彼女は「女預言者」である。度々、主からの預言が与えられていた。
それなのに、なんで弟のモーセだけ目立つのか、自分達も預言を語るではないか、と、常日頃思っていたのかもしれない。
前回の箇所では長老たち七十人にも預言の霊が与えられたのを見て、彼女はもしかしたら、自分の立ち位置に不安を覚え、このタイミングでモーセの欠点を突いて訴え出て来たのかもしれない。

どんな理由であれ彼は、異邦人を妻としている事は否めない。それは律法に照らせば、良くない事である。
モーセはそれに対し、何の口答えもしなかったようだ。

『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。』(民数記12:3)
モーセの人となりを表す「柔和」と訳されたこの言葉「アナーブ」には、他にも「貧しい、弱い」の意味があり、七十人訳聖書では「プラウース」と訳され、「非難を受けた際は即座に反応しない」性質である。

モーセは、色々の場面において、実にそうだった。
民から分からない事を質問をされた時も、適当に即答する事をせず、主に伺ってくるから待つように指示したし(民数記9:8)、民がモーセにつぶやいた時や非難した時も、口答えする事なく、いつでもすぐ主にひれ伏した。(民数記14:5、16:4,45、20:6)
主に用いられる人とは、強い人でも知恵ある人でも、カリスマ性のある人でもない。柔和な人である。
なぜなら、「柔和」な性質が、キリストのご性質だからである。
そしてそれは、とても楽で平和な、心地良い道である。
『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 』(マタイ11:28-30)

ミリアムの非難は、会見の幕屋ではない場所で、すなわち、プライベートな場所で為された事だったが、主の耳はどこにでもあり、それを聞いておられ、即座に「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われた。
ミリアムは人々の先頭に立って指導する事を得意とし、アロンは弁が立って物事を丸く収める事に長けているが、口下手で、口答えをしない、いつでも主にひれ伏す柔和なモーセの弁明は、主御自身がして下さった。

『彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。 』(民数記12:6-8)

主は彼を、「わたしのしもべモーセ」「彼はわたしの全家に忠信なる者」と評価された。
彼は神の友呼ばれ、他の人には語らない事でも、主は明瞭に語られた。
主は、普通の預言者には、夢や幻によって、おぼろげに、断片的に語るが、モーセにはそうではない。
主はモーセには口ずから(KJV: マウス・トゥ・マウスで)語り、なぞを使わずに、ご自身を明らかに表明される。

人には誰しも必ず欠点があり、もし主が人の欠点を見るなら、この世の誰をも用いる事はしなかっただろう。
主は、人の罪を見てその罪に従ってあしらわず、柔和な人、主に従順な人を用いられるが、人の些細な欠点をじっと見て非難し、貶めるような人を、主は退けられる。
モーセのように、物事を自分で即断せず主に持っていく性質の人であればあるほど、主はますます親しく語られ、謎を明らかにされ、ご自身をはっきりと示される。

『僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。』(1ペテロ2:18-24)

礼拝説教メッセージ音声:見渡す限り一面「肉」世界(民数記11:31-35):右クリックで保存

神を何か、欲望を叶える「道具」の一つのように見る人がいる。
レストランや学校などに、クレームを言えば言う程、色々なサービスを引き出せる、と、思っている人達がいるが、それと同じ感覚で、神や、モーセなど主の働き人に、うるさくクレームつければつける程、色々なサービスを引き出せる、と、思っているとしたら、大きな勘違いである。
私達は神にサービス(礼拝)を捧げる側で、サービスを受けられるのは、神の側である。
肉欲に駆られて不平不満をつぶやく民が、一方的に不平不満をぶちまけ、モーセなど主の働き人達が、一方的にその重荷を負わされる、という状態が、いつまでも続く事を、主は許されない。

『さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した。その落ちた範囲は、宿営の周囲で、こちら側も、おおよそ一日の行程、あちら側も、おおよそ一日の行程、地面から高さおおよそ二キュビト(およそ八十八センチ)であった。』(民数記11:31)
人が一日ずっと歩き通しても、見渡す限りは、九十センチ近くにまで降り積もった、肉、肉、肉。
一面銀世界ならぬ、一面「肉」世界である。
これは、単純に「肉が与えられた」と喜んで良いものではなく、圧倒的な御業をなさる主を恐れ、今まで主につぶやいて来た事を悔い改めるべきではないだろうか。

『そこで民は立ち上がってその日は終日、その夜は終夜、またその次の日も終日、うずらを集めたが、集める事の最も少ない者も、十ホメルほど集めた。彼らはみな、それを宿営の周囲に広げておいた。』(民数記11:32)
一ホメルは、二百三十リットル、ゆったり目な風呂一杯分ほどである。
だから、少なく集めた人でも、風呂十杯分の肉を集めたのだ。
実に、驚くべき分量である。

彼らは望みどおり、向こう何日分もの肉が確保できた事を、喜んだかもしれない。
ところが、である。
主が備えて下さった、その驚くべき膨大な肉を見、手に取り、口の中にまで持っておきながら、それを歯の間に残したまま死んだ人達が、大勢いた。

『その肉がなお、彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。欲心を起した民を、そこに埋めたからである。キブロテ・ハッタワから、民はハゼロテに進み、ハゼロテにとどまった。』(民数記11:33-35)
もし、肉に病原菌が含まれていたとか、肉が腐っていた、とかいった事だったら、全ての人が害を受けていたであろう。
ところが、どうもそういう事ではなさそうで、ある特定の人々を狙い撃ちしたようである。
狙い撃ちされた人とは、すなわち、欲心を起こした民(34節)であり、相変わらず欲から離れなかった者達である。(詩篇78:27-29)
主が、圧倒的な御業によって恵みを与えられたのに、感謝もせず、主の素晴らしさを覚えもせず、望んでいた肉が与えられたら、早速欲深い手を伸ばし、ただ貪り食おうとした者達を、主は、打たれたのだ。

肉欲を追求して止まず、主に感謝もせず、ただつぶやくままにつぶやく者達に対し、主は、圧倒的な分量の肉まみれにして、その肉の中で、滅び行くまま任せられる。
そのような「主の滅ぼし方」もある事に、私達は恐れおののくべきである。
主から顔をそむけ、金を追求して止まない者を、主は、圧倒的な金で満たして、滅び行かせる。
権力、名声、快楽を追求して止まない者を、主は、圧倒的な権力、名声、快楽で満たして、滅び行かせる。
私達は滅びる前に、それらを手放し、主に心を向けるべきである。

『彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:5-11)

私達は、これらの事から教訓を得るべきであり、また、次の主の言葉をよく心に刻みつけるべきである。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。」(ヨハネ6:26-27)

礼拝説教メッセージ音声:一度きりで終ってしまった預言の唇(民数記11:24-30):右クリックで保存

主は、モーセに与えられた霊を、長老たち七十人にも分与し、モーセ一人の重荷を、共に負わせる事にされた。
『この時モーセは出て、主の言葉を民に告げ、民の長老たち七十人を集めて、幕屋の周囲に立たせた。主は雲のうちにあって下り、モーセと語られ、モーセの上にある霊を、その七十人の長老たちにも分け与えられた。その霊が彼らの上にとどまった時、彼らは預言した。ただし、その後は重ねて預言しなかった。』(民数記11:24-25)

この時、長老として登録された人達のうち、エルダデとメダデという二人の人は召集に応じず、集うべき場に集っていなかったのに、その二人にも主の霊が注がれて預言した。
主の霊は至る所に満ちており、いかに人がどこに隠れようと、主は、その資格がある人には、霊を注がれるのである。

『若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。』(民数記11:28-29)

モーセは、主の民全員に主の霊が与えられ、皆が預言する事を願った。
ヨシュアもモーセも「まさかそんな事は起きるはずは無いだろう」と思っていたであろうが、しかし、ご存知だろうか。現代まさに、そのような時代に突入している。
『終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。』(使徒2:18-19)
イエスを主とする人には、賜物として聖霊が与えられ、この聖霊の助けによって、諸々の御霊の良き実を結び、主のわざを為すのだ。

忘れてはならない。預言の霊が分与されたのは、長老たちも「重荷を負うため」であって、特殊能力が与えられて大いなる活躍をしたり、人の上に立って好き放題に指示したり、エキサイティングで面白い人生を送るためではない事を。
もし私達にも、預言などの何か特別な賜物が与えられるとしたら、それは、主の重荷を共に負うためである。
多くのタラントが与えられる人は、同時に、主からそれなりの成果も期待される事を、忘れてはならない。

ヨシュアが長老たちが預言するのを「止めさせて下さい」と願ったのは、もしかしたら、ある長老たちは集うべき時に集わず指示に従順しなかったのに、そんな長老達にさえ、預言の霊が与えられた事を不服だと思ったのかもしれない。
しかし、本当に幸いな人とは、預言する人よりもむしろ、主の御言葉を信頼し、従順して守り行う人、である。

事実、預言した長老たちの内、誰か一人でも、約束の地に入っただろうか?
むしろ、約束の地に入れたのは、いつもモーセに従い、主の幕屋から離れなかった、ヨシュアのほうだった。
ヨシュアとカレブは、主への信頼を貫き通し、大勢の人達がつぶやいてもそれに迎合せず、主への信頼を揺るがさなかったから、約束の地に導く指導者とされた。(民数記14章)
それに対し、長老たちは主への信頼を貫かず、大勢の人達と一緒につぶやく側に周り、結局誰一人として約束の地に入る事なく荒野で屍をさらして行った。

長老たちに預言が与えられたのは、モーセの重荷を分散し、共に重荷を負うためだった。それなのに彼らがやった事と言えばその逆で、民衆と一緒につぶやき、モーセの重荷を、増し加えただけだった。
そのような性質だから、「その後は重ねて預言しなかった。」(25節)とある通り、一度だけ預言して、ただそれで終わったのではないだろうか。

結局、主のために重荷を負って歩む気が、本人に無ければ、何の意味も無いのである。
サウル王も預言したが、御言葉を退けたが為に、王位は奪われ、それでも頑なになり続けたが故に、悲惨な最後を遂げた。

本当に幸いな人とは、預言したり目を見張る不思議を為して大活躍する人ではなく、主の御言葉を信頼して、守り行う人である。
自分の負うべき十字架を負い、モーセなど神の働き人と共に、神の働きの重荷を負って、神の民を導き、幸いを得て、約束の地・天の御国を受け継ぐ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:想像を遥かに超えた分量の肉(民数記11:16-23):右クリックで保存

主は、モーセと民の願いの両方を聞き入れられ、実際に目に見える形で行動を起こして下さった。
しかし、後になって見ると、彼らが叫び願った事が叶えられた所で、結局、何も良くなってはおらず、民が主につぶやき主を怒らせる事も相変わらずだったし、そして、それを直さない人に待っているのは結局、滅びである。

主は、民が願った通り、肉を与えて下さるのだが、その与え方は半端ではない。
『あなたはまた民に言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすを待ちなさい。あなたがたは肉を食べることができるであろう。あなたがたが泣いて主の耳に、わたしたちは肉が食べたい。エジプトにいた時は良かったと言ったからである。それゆえ、主はあなたがたに肉を与えて食べさせられるであろう。
あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである。』(民数記11:18-20)
なんと主は、二百万以上もの人々を、今後一ヶ月にも及んで満腹させる程の膨大な肉を与えられるという。
食料など何もない岩砂漠地帯に、主は、とてつもない分量の肉を、満たして下さる、というのだ。

『モーセは言った、「わたしと共におる民は徒歩の男子だけでも六十万です。ところがあなたは、『わたしは彼らに肉を与えて一か月のあいだ食べさせよう』と言われます。羊と牛の群れを彼らのためにほふって、彼らを飽きさせるというのですか。海のすべての魚を彼らのために集めて、彼らを飽きさせるというのですか」。』(民数記11:21-22)
きっとモーセは、目の前の六十万以上の文句を言う民に目を留め、海がどれ程広いか、どれ程生物がいるかも知らず、主にそのような事を告白したのだろう。

『主はモーセに言われた、「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」。』(民数記11:23)
主の御業はなんと大きい事だろう。それに対して、人の頭はなんと小さいく、求めるものは何とつまらない事だろう。

人は思う。何故にそんなにも多くの肉を主は備えられるのか、と。
民の身勝手な要求に対して、そんなに多くの肉を与える必要ないのでは、やり過ぎでは、と。
しかし実は、その量の「膨大さ」に、主の怒りが込められているのだ。

主は、人が御言葉を軽んじて、欲望に飛び込んでいきたいのであれば、そうするがままにされるのだ。(ローマ1:24)
『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。』(黙示録22:11-12)

いずれにせよ人は、主が提示された事を、計算する”くせ”があるが、主は、人の計算を遥かに超えた事を計画しておられる。
主に求める聖徒の必要は、人の思いをはるかに上回る形で主は叶えて下さり、また、身勝手な欲望を主にぶちまける人には、その人をその欲望のままに、滅びへと引き渡されるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:見ていると怒りがこみ上げてくる「泣き顔」(民数記11:10-15):右クリックで保存

タブエラでの主の懲らしめを無視するかのように、民は早速、つぶやきを再開した。
『モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。』(民数記11:10)

整然と十字の形の隊列を組んだ、主が住まわれる陣営、汚れた者の立ち入りを許さぬ聖なる陣営の、至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しむ人々が、泣いている。
それはなんと醜く、主の怒りを引き起こさせ、主に忠実に従おうとする人々を、なんと気落ちさせた事であろうか。

美しい涙と、醜い涙がある。
自分の中にある罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は、美しい。
しかし、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、思い通りに行かない事を嘆く涙は、醜い。その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。
モーセはその醜い涙を見て、かつて無い程の「不快」な思いをした事が、彼の続く言葉から察せられる。

『わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。』(民数記11:13)
人が霊的養いを受けてますます良くなり、健全になり、罪から離れ聖なるものとされて行く様が見れるのなら、どんな骨折りもいとわない、というのが、主の働き人である。
しかし、主の働き人であればあるほど、人の汚れた肉欲を満たしてさし上げるために奔走し、その人の罪や傲慢さが、つけ上がりの度合いが、日々育っていく様を見るのは、耐え難い苦しみである。

「人に仕える」事が、主の働き人のつとめだと、勘違いしている人がいる。
しかし、主の働き人は、人の肉欲に仕えるのではない。「主に」仕える人である。
だから、主への奉仕を阻害するタイプの人への奉仕は、人の罪を増し加えるだけであり、即刻、切り上げるべきである。

『わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。』(民数記11:14)
モーセは当然、二百万もの人々を満たすような「肉」は、持っていない。
それなのに、人々はそれが必要だと要求する。
それでモーセは主に、こんな「重荷」はとても背負いきれない、こんな「仕打ち」をされるくらいなら、むしろ「殺して下さい」とまで言った。

私達も時に、似たようなジレンマに陥る事がある。
例えば、子供を養育するためにお金が必要である。でも、どう絞っても、無い。そんな事なら、むしろ、殺して下さい、と。
しかしキリスト者は、必要の満たしを「どこから」得ようかと奔走するのではなく、「どなたから」必要の満たしが得られるのかという信仰を、いつも持つべきだ。

主は、私達が思い煩うよりも前から、既に、私達の事を心配しておられ、必要なものを全て備えて下さるお方である。
『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』(マタイ6:31-34)
主は今、私達の主であるが、明日の主でもある。
その主に、呼び求めるべきである。

多くの民が至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しんで流したその涙は、主を怒らせ、モーセに死ぬほど嫌な重荷を負わせたような感覚を与えた。
民のその涙は、主の御心よりも自分の欲望を優先させたいという表明であり、エジプトが、世が、罪の飲み食いが、奴隷状態が、なつかしい、という告白であり、主の恵みへの否定であった。
モーセはいつまでも一方的に重荷を負わされ、民はいつまでも一方的に不平不満をぶちまける、という事が、延々と続くのだろうか?
主は、それを許されない。
その事を、次回以降に見て行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9):右クリックで保存

前章までの民数記は、壮大で驚くべき内容が多かった。
しかしこの章以降、読んでいてがっかりするような、怒りや悲しみが湧いてくるような、そして、恐ろしい内容が、多くなる。

前章までは、主が命じられた事を、民は反発もなく実行していた。
主に命じられた通りに守り行った結果は、必ず、良きものであり、美しく、壮麗壮大なものである。
しかし、人が主の命じられた通りに行わず、人の好き勝手に行った結果は、必ず、悪しきものであり、それは醜く、人を気落ちさせ、怒りや悲しみをあおるものである。
そして、そのような事を改めずに押し通そうとする者の最後は、恐ろしいものである。

『さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。』(民数記11:1-3)

荒野の行進がいよいよ始まり、その様は壮麗なものだったが、それも、人々の「つぶやき」によって、台なしになってしまった。
主は人々のつぶやきを聞いて怒り、宿営の端を焼いた。
主が焼いたのは、宿営の中央ではなく、端、である。
そして、この災いで、誰かが殺されたという記録が無い事から、最小限の被害で、つぶやきを止めるようにという警告を、主は与えられたのだろう。

民はこの時、驚きあわてて、主にではなく、人間指導者モーセに願い、モーセの祈りによって、火は鎮まった。
このように、直接主に向かおうとせず、モーセや牧師のような人間霊的指導者におんぶにだっこ状態の人は、心から悔い改めるという事が難しい。
事実、この災いがあったというのに、なんとその直後、次の節で早速つぶやきを再開する。

『また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。』(民数記11:4)
エジプトを出てきたこの集団は、皆が皆、イスラエル人ではない。「多くの寄り集まりびと」が雑多に混じっていた。
彼らが真っ先に「ああ肉が食べたい」と叫び出し、それを見聞きしたイスラエル人も、情欲が掻き立てられ、連鎖反応的に、宿営の中に叫びが広がっていったのだ。

『われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。』(民数記11:5)
彼らは「ただで」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。
彼らは奴隷として、息もつかせぬ重労働の内にエジプトに搾取され、将来も希望も一切無い状態だった所を、主が救い出して下さったというのに、その事がすっぽり抜けてしまっている。
また、彼らは具体的な野菜名を上げているが、それらはいずれも刺激があり、食欲をそそるものである。
「梅干し」と聞くと唾液が分泌するように、イスラエルの民は、この野菜名を聞いて、肉欲が刺激されたのだろう。

このような手段で聖徒をそそのかす人は、現代にも、いる。
私達はかつて、サタンの奴隷状態で、罪の結果の重労働と悪しき者の搾取の中、将来に何の望みも見いだせない所を、主によって救い出され、祝福の将来と永遠の希望が与えられた。それなのに、主が良くしてくださったそれら良き事を、すっぽり除外して、以前の肉欲の刺激そそる退廃的な生活を口に出して、なつかしむような人が。
私達はそのような者には要注意であり、彼らに耳を貸したり同意したりしてはならない。

『しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。』(民数記11:6)

しまいに彼らは、主が毎日欠かさず与えて下さっている恵みに、ケチをつけている。
サタンがエバを誘惑する時も、初めは、御言葉に疑いを持たせるような毒を小出しに混ぜ、次に肉欲をそそり、あたかも主は良いものを出し惜しみしているかのような疑いを起こさせ、そしてしまいには御言葉を全面否定し、そうしてエバを堕落へと引きずり込んだ。
サタンが人を堕落させるパターンは、そのようなものである。
私達はこのサタンの誘惑のパターンを知り、注意して回避すべきである。

『マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。』(民数記11:7)夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。』(民数記11:7-9)

マナその性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、私達が日々必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
それは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わる。

マナには色々な料理方法があったように、御言葉も、人はそれぞれの生活、仕事、状況に応じて「料理」し、世界中の人が、それぞれの場面で、必要な霊的ないのちの養いを受けている。
きっと荒野では、あそこのお母さんが焼いたマナせんべいはとてもおいしい、という会話が、取り交わされたであろう。
同じように私達も、霊的に成長していない人には、御言葉を食べやすいように料理して養う働きも、ある程度は必要であるが、最も望ましいのは、個人個人が直接、主から御言葉をいただき、養いを得る事である。

私達はこの御言葉による養いを絶やしてはならない。
世の刺激にではなく御言葉の良さに目を留め、信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストから目を離さぬ歩みをしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:先だって進む主の契約の箱(民数記10:29-36):右クリックで保存

モーセは義理の兄弟であるホバブに、一緒に行くよう勧めた。
彼は、モーセが40歳から80歳の時までの長きに渡って、ミデヤンの荒野で親しくしていた身内である。
「わたしたちは、かつて主がおまえたちに与えると約束された所に向かって進んでいます。あなたも一緒においでください。あなたが幸福になられるようにいたしましょう。主がイスラエルに幸福を約束されたのですから。」(民数記10:29)

モーセの言葉は、自分の身内への立派な伝道をしているように見える。
「主がイスラエルに幸福を約束されたのだから。」だから、私達と一緒に来れば、あなたも必ず幸せになれる、と。
しかしホバブは、自分はやはり国の親族の元に帰ると答えた。
彼はきっと不安があったのだろう。長らく住み慣れた、勝手知ったる土地を離れ、モーセと共に、全く新しい人生に飛び込む事に対して。
そして、神様の祝福の「約束」はあっても、現実的には、主の御助けが一時でも途絶えてしまったら、すぐに死んでしまうであろう荒野の状況に対して。

モーセはそんな彼に、今までの彼らしからぬ発言をする。
『モーセはまた言った、「どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じですから、わたしたちの目となってください。もしあなたが一緒においでくださるなら、主がわたしたちに賜わる幸福をあなたにも及ぼしましょう」。』(民数記10:31-32)

主が、視覚でも聴覚でも、具体的に分かる導きを与えて下さり、それに従って実際、イスラエル二百万の人々が動き始めた所なのに、モーセはなんと人間であるホバブに「見捨てないでください」「わたしたちの目となってください」と願っている。
これは一体どうした事だろう。

モーセはもしかしたら、実際に動き出した大きな事に不安になって、長い間頼りにしてきた義兄弟に、頼りたくなったのかもしれない。
あるいはそうではなく、ただ単に親しい義兄弟を自分達の所に繋ぎとめ、彼も祝福にあずからせようとしたいがために、あえて、そのように言っただけなのかもしれない。
事実、モーセのこの時の説得によって、ホバブはイスラエルの民と共に、荒野を行ったようであり、その事は、後の時代にホバブの子孫たちがユダ族の土地に一緒に住んでいる事からわかる。(士師記4:11、1:16)

モーセの言葉の真意は分からない。
しかし、その後に主が為して下さった以下の事は、モーセとイスラエルの民全体の不安を、大いに払拭させ、勇気づけさせたに違いない。

『主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。』(民数記10:33)
なんと、主の契約の箱が先立って進んで行き、彼らのために、休む所を探し求めてくださったのである。
前回の箇所を見ると、契約の箱の位置はケハテ族の所で、隊列のもっとも真ん中で守られていたはずだった。
ところが、それは先頭に立って進み行き、イスラエル全体を導いたのだ。

『契約の箱の進むときモーセは言った、/「主よ、立ちあがってください。あなたの敵は打ち散らされ、/あなたを憎む者どもは、/あなたの前から逃げ去りますように」。またそのとどまるとき、彼は言った、/「主よ、帰ってきてください、/イスラエルのちよろずの人に」。』(民数記10:35-36)
この短いシンプルな祈りの中から、主を全面的に頼りとするモーセの信仰がにじみ出ている。

主の契約の箱は、かつてエジプトの軍団に対しても、紅海に対しても、そして荒野の至る所においても、将来のヨルダン渡河においても、エリコ攻略の際でも、主は先んじて進み、イスラエルの歩むべき道を拓いて下さった。
主の契約が、主の約束が、主の御言葉が、先んじて進む。これ以上の安心はあるだろうか。
私達もモーセのように、行くにも帰るにも、主の守りと導きを祈る時、人生という荒野の旅を、安心して進み行く事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:荒野を進み行く二百万の大行進(民数記10:11-28):右クリックで保存

今までの所では、主の雲の柱という目に見えるしるしと、耳に聞こえるラッパの音によって導かれる事を「学科」として学んだが、今回ついに、その今まで学んだ事を「実践」するべき時が来た。
『第二年の二月二十日に、雲があかしの幕屋を離れてのぼったので、イスラエルの人々は、シナイの荒野を出て、その旅路に進んだが、パランの荒野に至って、雲はとどまった。こうして彼らは、主がモーセによって、命じられたところにしたがって、道に進むことを始めた。』(民数記10:11-13)
主から学んだ事の最初の実践、それは、二百万にも及ぶイスラエルの民が、荒野を進み行く”大行進”である。

イスラエルの宿営全体は、上空から見たら、巨大な十字架の形をしていた。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1551&cid=35
その陣形が定位置から進み行くべき時、ラッパの合図がなされ、民数記2章で主が命じられていたように、まず、東側に宿営する三部族が先頭に立って進んだ。
『先頭には、ユダの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ユダの部隊の長はアミナダブの子ナション、イッサカルの子たちの部族の部隊の長はツアルの子ネタニエル、ゼブルンの子たちの部族の部隊の長はヘロンの子エリアブであった。』(民数記10:14-16)

続いて、全宿営の真ん中に建っている神の幕屋が、レビ人たちによって解体され、幕屋周辺に天幕を張っていたゲルション、メラリの二部族が、その部材を牛車に載せて運搬しつつ、この行進に加わる。(民数記10:17)

それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の南側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にルベンの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。ルベンの部隊の長はシデウルの子エリヅル、シメオンの子たちの部族の部隊の長はツリシャダイの子シルミエル、ガドの子たちの部族の部隊の長はデウエルの子エリアサフであった。』(民数記10:18-20)

そして、この大隊列の一番真ん中に位置するものは、やはり、神の幕屋の中の、聖なるなものである。
ルベンやシメオン、ガド族の隊列に続き、レビのコハテ族が、聖所の器物を担ぎつつ、その行進に加わる。(民数記10:21)
彼らは牛車を用いず、契約の箱や香壇、パンの机などについている担ぎ棒で担いで、荒野を進み行く。

それに続いて、ラッパの合図と共に、幕屋の西側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にエフライムの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。エフライムの部隊の長はアミホデの子エリシャマ、マナセの子たちの部族の部隊の長はパダヅルの子ガマリエル、ベニヤミンの子たちの部族の部隊の長はギデオニの子アビダンであった。』(民数記10:22-24)

そして最後に、ラッパの合図と共に、幕屋の北側に天幕を張っていた三部族が出立する。
『次にダンの子たちの宿営の旗が、その部隊を従えて進んだ。この部隊はすべての宿営のしんがりであった。ダンの部隊の長はアミシャダイの子アヒエゼル、アセルの子たちの部族の部隊の長はオクランの子パギエル、ナフタリの子たちの部族の部隊の長はエナンの子アヒラであった。イスラエルの人々が、その道に進む時は、このように、その部隊に従って進んだ。』(民数記10:25-28)

荒野の行進は、どこかが少し遅れても、速すぎても、大いに乱れてしまう。これは神の民全体の、連携プレーであり、チームワークである。
現代を生きる私達も、教会での礼拝や聖徒の交わり、伝道活動やミニストリーは、主にある兄弟姉妹との連携プレーであり、それぞれが御言葉から主のサインを学び、キリストという旗の元に連携し、自分の好き勝手は捨て去って、秩序正しく、それぞれに託された神の国の活動を為して行くべきである。

このように、二百万にものぼる大部隊が、荒野において、秩序正しく進んで行った。
それはいかに壮麗壮大な光景だっただろうか。
主の指示に従い、それを忠実に守り行う人々は、主の守りと、導きと、必要の満たしを、自分のものとし、そして、その様を見た人々は驚嘆し、まことに神は生きておられ、実際に働かれ、御言葉を守り行う人には、豊かな恵みを施し栄誉を与えて下さる事を、世は知るのだ。

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