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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:天に属する事のしるし(民数記15:31-41):右クリックで保存

『イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。
そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。』(民数記15:32-36)

行為だけ見ると、彼が行ったのは「たきぎ集め」である。
人は思う。たかが、***しただけで、主がそこまでされるのは、ひどいのではないか、と。
しかし、人は例外なく、真理の法則に支配されるものであり、それに反した行為をするならば、破滅を身に招くものだ。

彼がいた環境は、神の民の中である。
安息日を覚えて聖とすべき事、その日は一切働いてはならぬ事を、彼は幾度も聞いていたはずであるし、二百万ほどのイスラエルの全会衆が、安息日には一斉に休んでいるのを長らく見続けている状況で、それでも彼は安息日に「たきぎ集め」という労働をした。
彼の罪過は、明白である。
そんな彼を、敢えて野放しにして置くとしたら、会衆全体の中に、すぐに主を侮る心が蔓延してしまう。
主は、約束の地を継ぐべき新しい世代を、そのような呪いのパターンに陥らぬようにと、敢えて厳しい措置を取られたのだろう。

「たきぎ集め」が労働に値するかどうか。クリスチャンが「酒を飲む」「パチンコに行く」事が、罪に値するかどうか。私達は良く議論する。
そうした事がグレーな場合は、しないに限る。そして、神と人との前でそれらの事が出来るかどうかを、自身に問うて見ると良い。
もし、神と人の前で、それをする事に呵責を覚えるとしたら、それはしない方が良いのだ。

主は、民が滅びを招くような行動に出る事を防ぐために、次の事を命じられた。
『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。』(民数記15:37-40)

青は、天の色である。
つまり、互いの衣服についている青いしるしを見る度に、自分達は天に属する者、神の民である事を思い起こさせ、親の世代が滅んだような誘惑に陥って堕落させないために、この事を定められた。
私達にとって、救いのしるしは十字架であり、私達が日常を過ごす時、自分が天に属する者であると思い起こさせて下さるお方は、聖霊である。

イエス様の時代、パリサイ人は、この”しるし”を形骸化させてしまったようである。(マタイ23:5-7)
彼らは、衣のふさの青いしるしを、自分を戒めるためではなく、人にアピールして飾るためのものとしてしまった。

同じように現代、十字架というと、ネックレスなどのアクセサリーとして思い出す人は多くいても、イエス様の痛みを覚えるしるしとして思い出す人は、ほとんどいない。
私達は、そうあってはならない。
十字架は、背負うものであり、自分を飾り付けたりアピールしたりするものではない。
私達はいつでも自分の十字架を背負って歩み、自分達が天に属する者である事を、いつも思い起こすべきである。

礼拝説教メッセージ音声:罪が示された時は(民数記15:22-30):右クリックで保存

『あなたがたが、もしあやまって、主がモーセに告げられたこのすべての戒めを行わず、主がモーセによって戒めを与えられた日からこのかた、代々にわたり、あなたがたに命じられたすべての事を行わないとき、すなわち、会衆が知らずに、あやまって犯した時は、全会衆は若い雄牛一頭を、燔祭としてささげ、主に香ばしいかおりとし、これに素祭と灌祭とを定めのように加え、また雄やぎ一頭を、罪祭としてささげなければならない。』(民数記15:22-25)

ここは、故意にではなく、知らない間に罪を犯した場合の教えであり、御言葉の光に照らされ、それが明らかになった際には、罪のためのいけにえを捧げる事が、定められている。
罪が人目に隠れていて、自分達は実は罪を犯していた、という事に、たとい気付いていなくとも、御言葉で定められた事に違反していたのであれば、それは、主の御前に悔い改める必要がある「罪」である。

罪の意識が無いのに「それは罪だ、悔い改めよ」と言われても、実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉が示すものであって、自分の実感に拠るものではない。
そして、自分が罪を犯した事を、悲しみ、悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊によって与えられる。

私達の内にある罪が、明らかにされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実を、そのまま持ち続ける事だからである。
対処せずにそのまま放置する時間が長ければ長い程、神様との間の隔ての壁はますます厚くなり、主の声を聞く感受性がますます鈍くなっていき、ますます祝福されない体質となってしまう。

『もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。』(1ヨハネ1:8-10)
それだから、一刻も早く主との健全な関係を取り戻すために、一刻も早くラクになるために、罪の告白と悔い改めは、すみやかに為すべきだ。

次に、故意に罪を犯す場合についての教えである。
『国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない。彼は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、必ず断たれ、その罪を負わなければならない。』(民数記15:30)

故意に、すなわち、それが罪であり主が忌み嫌われる事を知らされつつも、平気で、好き好んでその罪を犯し続ける場合は、民の中から「断たれ」、その罪を負わなくてはならない。
たとえば、御言葉の光に照らされ、自分の中の罪が明らかになった場合、罪祭のいけにえを捧げる事を億劫がったり、あるいは「だって、しょうがないじゃないか!」「そんなこと知らない!」と逆ギレしたり、といった場合も、そうである。

その教えは、他国人であろうとイスラエル人であろうと、同じであり、現代を生きるキリスト者に対しても、同じである。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」という意味もある。
私達は、主の民から追放されていない今の内に、恵みと憐れみが示されている今の内に、すみやかに悔い改めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:将来の幸いのご計画(民数記15:1-21):右クリックで保存

民数記の10章から21章は、民の荒野での行程の記録だが、15章は例外的に、レビ記のような主の定めが記されている。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、わたしの与えて住ませる地に行って、主に火祭をささげる時、すなわち特別の誓願の供え物、あるいは自発の供え物、あるいは祝のときの供え物として、牛または羊を燔祭または犠牲としてささげ、主に香ばしいかおりとするとき、その供え物を主にささげる者は、燔祭または犠牲と共に、小羊一頭ごとに、麦粉一エパの十分の一に、油一ヒンの四分の一を混ぜたものを、素祭としてささげ、ぶどう酒一ヒンの四分の一を、灌祭としてささげなければならない。』(民数記15:1-4)

主のこの命令に、イスラエルの民は、戸惑いを覚えた事だろう。
なにしろ、二十歳以上の男子は約束の地に入れない事が確定してしまい、もうあと三十八年の放浪が確定したばかりなのに、主は、約束の地に入った後の事を命じておられるのだ。
それに、「主に捧げる」という行いからは縁遠いような、主の恵みにケチをつけ、逆らい通して来たような民に、「捧げる事」の命令である。

主は、不従順な世代は放って置かれ、将来起きる従順な世代のために、将来起こる幸いのご計画を、あらかじめ告げ知らされるのだ。
預言者イザヤやエレミヤを通しても、バビロン捕囚前の不従順な世代の時に、主は、捕囚後の幸いを、既に告げ知らされていた。

主は、この不従順な世代、肉が大好きで捧げる事が大嫌いな世代は、死に絶えさせ、その子の世代が、従順になり、幸いを得るようにと、約束の地に入った後の事の命令を、あらかじめ授けられたのだ。
主の御思いは一貫して、民が主に従順となり、約束の地を受け継ぎ、彼らが主と共に歩み、主は彼らの神となって、神と人とが共に永遠に住まう事を、望んでおらえる。

『その供え物を主にささげる者は、燔祭または犠牲と共に、小羊一頭ごとに、麦粉一エパの十分の一に、油一ヒンの四分の一を混ぜたものを、素祭としてささげ、ぶどう酒一ヒンの四分の一を、灌祭としてささげなければならない。 』(民数記15:5)

この量は、結構な分量である。
油一ヒンの四分の一は、約0.95リットルで、小麦粉十分の一エパは、約2.3リットルである。
1リットル牛乳パックおよそ一本分の油と、2リットルペットボトルより少し多い分量の小麦粉を、燔祭または犠牲のいけにえ一頭につき、添えて捧げるのだ。

小麦粉も、オリーブオイルも、ぶどう酒も、荒野では取れない。
荒野の民がその命令を聞いた時、そんな貴重な食品を、そんなにたくさん、と思ったかもしれないが、彼らがこれから入ろうとしている約束の地は、乳と蜜の流れる地、ぶどう一房さえ、大人二人がかりで担いだ程であるから、それを捧げる事は、十分可能である。
主は、喜んで捧げる人にはさらに増し加えて祝福を与えて下さるお方である。

『またあなたがたのうちに寄留している他国人、またはあなたがたのうちに、代々ながく住む者が、火祭をささげて、主に香ばしいかおりとしようとする時は、あなたがたがするように、その人もしなければならない。』(民数記15:14)

キブロテ・ハタアワでの災いを引き起こしたのは、この、寄留している他国人のつぶやきが元だったが、だからと言って主は、もう他国人はイスラエルの民に混ざってはならないと言ったり、他国人には神の祝福は与えないと言ったり、なさらない。
主に仕えたいという外国人は、確かにいる。
そのような彼らにも、同じように礼拝をさせ、同じような祝福を、主は与えて下さるのだ。
『信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。』(ガラテヤ3:7-9)

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが導いて行く地に、あなたがたがはいって、その地の食物を食べるとき、あなたがたは、ささげ物を主にささげなければならない。すなわち、麦粉の初物で作った菓子を、ささげ物としなければならない。これを、打ち場からのささげ物のように、ささげなければならない。あなたがたは代々その麦粉の初物で、主にささげ物をしなければならない。』(民数記15:17-21)
私達も、新しい仕事やビジネスなどを開始した時、その初月給や初売上の内から、喜んで主に捧げるなら、主は、さらにその分野を祝福して下さる。
次のように約束されている通りである。
『あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。』(箴言3:9-10)

礼拝説教メッセージ音声:とんちんかんな人の特徴(民数記14:37-45):右クリックで保存

『モーセが、これらのことを、イスラエルのすべての人々に告げたとき、民は非常に悲しみ、、、』(民数記14:39)

彼らは、主の約束された地に入れない事が確定してしまった事を、悲しんだが、そんなに深刻に悲しんだわけではなかったようだ。
11章では、大勢の人達が宿営のあちらこちらで「ああ肉が食べたい」と泣いていたし、14章のはじめでは、約束の地には力の強いアナク人がいると知らされた時は、会衆みな声をあげて叫び、夜どおし泣き明かしたが、それらに比べると、悲しみの表現の度合いは、明らかに小さい。
結局、彼らにとって、主の約束の土地を受けられなくなった事には、あまり深刻さを覚えず、むしろ、自分の腹の欲求や、ほしいままの思いが満たされない事のほうが、より大きな悲しみなのだ。

彼らの悲しみは、御心に添えなかった事を悔いるものでも、自分の罪を悲しむものでもなく、ただ、自分の望みが叶えられない事への悲しみだった。
その証拠に、彼らは早速、次のように言っている。
「わたしたちはここにいる。さあ、主が約束された所へ上って行こう。わたしたちは罪を犯したのだから。」(民数記14:40)

彼らはモーセやカレブの勧めを、そして、主の命令を、ことごとく拒否し、モーセ達を石で撃ち殺してでも、エジプトに帰ろう、と言っていた。
ところが、いざ、主が「葦の海を引き返せ」と、すなわち、エジプト方面へと戻れと言われると、今度は手のひらを返したように「さあ、主が約束された所へ上って行こう」と言いだす。
なんという、とんちんかん、なんと御心に逆行してばかりいる民だろうか!
自分のやりたい事で頭がいっぱいで、ウズウズしているような人は、いつもその通りである。

『しかし、彼らは、ほしいままに山の頂に登った。ただし、主の契約の箱と、モーセとは、宿営の中から出なかった。そこで、その山に住んでいたアマレクびとと、カナンびとが下ってきて、彼らを撃ち破り、ホルマまで追ってきた。』(民数記14:44-45)
彼らは「ほしいままに」自分で決めた道を貫こうとした。
主の箱と、モーセは、宿営にとどまり、そちらに「行かない事」が御心であると、はっきり示されているのに。
それでも彼らは行ってしまい、あっけなく、返り討ちにあってしまう。

彼らは、山の頂を越えて約束の地に攻め入るのが「良いこと」だと思ったのだ。
主は確かに、かつて、そこに攻め上れ、と、言われた事はあった。
しかし、彼らが思う「良いこと」が、主の御前にも「良いこと」であった時期は、もはや、その前日に終わってしまっており、今や、攻め入る事のほうが「悪いこと」となっているのだ。

私達も、そのような過ちを犯しやすい。
伝道する事が良いこと、礼拝を捧げる事が良いことだと思って、無鉄砲に飛び込み、かえって、物事を悪くしてしまう事がある。

パウロは、第二次宣教旅行の時、前回はアジヤでの伝道が成功したから、今回もアジヤで頑張っていたのに、行く先々、聖霊によってはばまれ、大した成果も無いまま、千キロ以上もさまよう事になった。主の御心はその時、アジヤではなく、マケドニアにあったのである。(使徒16章)
サウル王は、預言者サムエルをただ待つべき時に、待っていられず、礼拝を捧げることが良い事だと考え、勝手にいけにえを捧げてしまい、それで御心を損ねてしまった。

クリスチャンは、伝道も礼拝もいけにえも、両手放しで「良いこと」だと思っている。
しかし、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。そして、御声にそむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪である。(1サムエル15章)

料理には賞味期限があるように、御声に聞き従い、それを行う事にも、期限があるのだ。
賞味期限切れのものを食べたらお腹をこわすように、”御心期限切れ”の行いは、ただ自分を滅ぼすだけだ。

何事にも、定まった時がある。(伝道者の書3章)
主のなさる事が美しいのは、時に叶った事をなさるからだ。
しかし自分の事で頭がいっぱいの人は、御心を無視し、美しくない事、見苦しい事、とんちんかんな事をする。

とんちんかんな事をするコツは、主の声や他人の声に「耳を貸さない」事であり、時に叶った美しい事をするコツは、主の声や他人の声に、よく「聞き耳を立てる」事である。
主の時を見極め、時に叶った美しい事を為し、神と人とを喜ばせ、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:口で語った通りの刈り取り(民数記14:26-36):右クリックで保存

前回の箇所で、主ご自身から直接警告を受けたにもかかわらず、イスラエルの民は、あちらこちらで早速、主につぶやいた。
『主はモーセとアロンに言われた、「わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。わたしはイスラエルの人々が、わたしにむかってつぶやくのを聞いた。』(民数記14:26-27)
主の耳は至る所にあり、民が何気なくつぶやくそのつぶやきは、主の耳に向かって直接語るようなものである。

この民、神とモーセ達からの再三の警告にもかかわらず、主に逆らうその性質を、改める事をしなかった。
それで、ついに、二十歳以上の男子は全員、主が入らせようとした約束の地には入れず、荒野で死体としてて倒れてしまう事が、確定してしまった。
「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。」(民数記14:28-29)
また、彼らの子の世代は、荒野を四十年放浪する事が確定してしまった。それは、親の「不信の罪を負う」ためである。(同33節)

モーセ五書をおおざっぱに説明する時、「主は、イスラエルの民の不信仰のため、荒野で四十年間放浪させ、エジプトを出た世代は誰も約束の地に入れず、荒野で死んでいった」のように、要点だけの説明がされるため、あたかも、主は、人が少しでも罪を犯したら、すぐにでも厳しい罰を下されるかのような印象がある。
しかし、ひどいのは主ではなく、逆らってきた人間のほうである。
主はどれ程、民の悪行を忍耐され、それでも彼らに必要なものを満たされ、罪を赦されて来たか、それに対し、民はいかに調子に乗って、主とモーセに逆らってきたか、今まで学んで来た皆さんは、見てきただろう。

『あなたは彼らに言いなさい、『主は言われる、「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。』(民数記14:28-29)

人は、そのくちびるで語った事の、刈り取りをしなければならない。
彼らは実際、自分達はこの荒野やエジプトで死んでいたほうがましだった、と、つぶやいたが(民数記14:2)、果たして、その通りになった。
自分の妻や子はさらわれてしまう、と彼らは言ったが、彼らの妻子を、不信仰な言葉の通りにするような事を主はされず、かえって、その子達の世代が、約束の地を受け継ぐようにされた。

『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20-21)
『愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。人のよしあしをいう者の言葉は/おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。』(箴言18:6-8)

まことに、口はわざわいのもである。
箴言には、愚か者でも黙っていれば賢く見えると記されているが、ただ、口を慎んで黙っているという、それだけで、人生が大きくプラスに転じるような人は、結構多いのではないだろうか。
荒野で滅んでいった世代をよく見ていたヨシュアは、「無駄口をきかない事」がいかに大切であるかを、よくわきまえていた。

『ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。』(ヨシュア記6:10)

ヨシュアは、大切な戦いの時に、口から言葉を出してはならないと命じて、黙らせた。
もし黙らせていなかったら、民の中に、「こんな意味不明な行動に、何の意味があるのだろう」などと、つぶやきが蔓延していたかもしれない。
ヨシュアは、つぶやきの蔓延を防ぎ、見事、民全体を信仰の勝利へと導いたのだ。

ヨシュアとカレブは、主を信じて従い通し、最後には、彼らの口が告白した通り、約束の地を継ぐ者となり、また、継がせるために導く者となった。
真理の御言葉を信仰をもって語り、祝福の言葉を語り、そのくちびるの良き産物で満ち足りる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主に聞き従わない事の報い(民数記14:20-25):右クリックで保存

『主は言われた、「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう。』(民数記14:20)
主はモーセの執り成しを聞き入れ、赦して下さった。
しかし人は、自分が為した事の報いは、当然受けなければならない。

イエス様を信じれば罪赦されるから、好き放題の事をやって良いのだ、と、「赦し」を勘違いしているクリスチャンは多い。
確かに主の御前に罪は覚えられないが、人が罪の行いをした結果は、必ず刈り取らなくてはならない。
クリスチャンがたばこを止めなかったら、健康を害するリスクが減少するわけではないし、クリスチャンが銀行強盗を犯したら、銀行強盗を犯したなりの刑罰は、当然受けなければならない。

『しかし、わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。』(民数記14:21)
主の栄光は、全世界に満ちている。
彼らが宿営のテントの片隅で呟いた事でも、大群衆の中でぼそっと言った一言でも、主の耳は聞いておられ、主の目は見ておられる。
わたしたちが喋った言葉も、隠れて行った行動も、全てそうである。

『わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。』(民数記14:22-23)
荒野の民は、主の栄光を見た。主の恵みを、食べた。主の素晴らしさを、体験した。
それでも主を「十度も」試みて(原意:試す、テストする)、主が御業をなされても、なお御声に聞き従わなかった。
彼らがそのように為した事への報い、それは、主が与えると誓った地を見れない事である。

しかし、後になって分かるが、主はまだその事を確定した訳ではなかった。
主は、ニネベの町の滅びを、預言者ヨナを通して語られたが、ニネベがその預言で行いを悔い改めると、主はその災いを思い直された。
同じように、イスラエルの民がここで悔い改めていたら、きっと、約束の地に入る余地は、まだあっただろう。

主は、イスラエルの民は「十度もわたしを試みた」と言われた。
十という数字は、「わずかな」数ではないが、数え切るのに、そう時間のかからない数字である。
主に三度、四度、試みに怒らせるような事をしてみても、何も罰せられないのを見て、主はずっとゆるして下さる、と、勘違いし、好き放題したりしていると、そう遠くはない将来に、赦しのリミットが尽きてしまうようである。

主は、彼らは「しるし」を幾度も「見た」と言っておられる。
キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば、信仰がレベルアップすると思ったら、大間違いである。むしろ、逆である。
しるしや奇跡がなければ、信仰の行動ができないようでいては、その信仰は、かなりレベルダウンしている。

聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も体験した、あの六十万の人々の内、何人が約束の地に入れただろうか?わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。
主イエス様は、見ないで信じるものは幸いだ、と言われた。
大切なのは、しるしや奇跡を「見る」事ではない。御言葉を「聞いて、従う」事である。

『ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:24)
暗澹とした今回の箇所で、唯一、光輝いている節である。
カレブは、違った心(原意:霊)を持っていた。
つぶやきの霊、恩知らずの霊、の集団の中に、主に聞き従う霊という光があった。
私達も、邪悪な世代の中にあって、主に聞き従う「霊」を持ちたいものである。
では、どのようにすればそれが注がれるだろうか。箴言一章に、以下の言葉がある。

『知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。』(箴言1:20-23 新共同訳)

ここにあるように、知恵の言葉である御言葉に立ち返り、御言葉からの懲らしめを受け入れるなら、主の霊が注がれ、ますます知恵の言葉が示される。
しかし、懲らしめをないがしろにする者には次のように言われている。

『彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばずわたしの勧めに従わず/懲らしめをすべてないがしろにした。だから、自分たちの道が結んだ実を食べ/自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無為の内に滅びる。わたしに聞き従う人は確かな住まいを得/災難を恐れることなく平穏に暮らす。』(箴言1:29-33)

知恵の言葉を退ける者は、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き飽きする事になる。
彼らは、自分の蒔いた種が結んだ実を食べるが、それは死に至り、滅びに至ってしまう。

『谷にはアマレクびととカナンびとが住んでいるから、あなたがたは、あす、身をめぐらして紅海の道を荒野へ進みなさい」。』(民数記14:25)

主は最後に、イスラエルの民が進みたかった「道」、すなわち、紅海への道へと進み行きなさい、と命じられるが、それでイスラエルの民が「やった、望みどおりエジプトに戻れるぞ」と思ったかというと、そうではない。
結局彼らは、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちが身勝手にわめいていた「意見」に、飽き飽きする事になったのだ。

私達は、主の叱責をしっかり受け入れ、カレブのように、世の民とは違った霊、主に聞き従う霊を持ち、約束の地を受け継ぐものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:これぞ「執り成しの祈り」(民数記14:10-19):右クリックで保存

『ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。』(民数記14:10)
モーセとアロンの必死の執り成しに、また、ヨシュアとカレブの必死のすすめに、イスラエルの民が報いようとした事は、「石打ち」だった。
ひれ伏して執り成しているモーセ達に、民が石を投げようとしたその時、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。

『主はモーセに言われた、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」。』(民数記14:11-12)
普通の人なら、「ぜひそうして下さい、こんなに聞き分けのない、文句ばかり言うような民はさっさと滅ぼして、私を栄えさせて下さい」とでも言いたい所であろう。
しかし、彼の対応は、逆であった。

『モーセは主に言った、「エジプトびとは、あなたが力をもって、この民を彼らのうちから導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。彼らは、主なるあなたが、この民のうちにおられ、主なるあなたが、まのあたり現れ、あなたの雲が、彼らの上にとどまり、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前に行かれるのを聞いたのです。』(民数記14:13-14)

モーセの言葉の主語は、自分でも民でもなく、あくまで「あなた(主)」だった。
彼は、逆らった民への報復も、自分の栄えや守りも、一切求めなかった。
ただ、主がどのようなお方であるか、そして、今まで主がどのように栄光を受て来られたかを、思い起こさせた。

『いま、もし、あなたがこの民をひとり残らず殺されるならば、あなたのことを聞いた国民は語って、『主は与えると誓った地に、この民を導き入れることができなかったため、彼らを荒野で殺したのだ』と言うでしょう。』(民数記14:15-16)
モーセは、民を滅ぼす事の無いよう、主に執り成している。
主よ、あなたの栄光は、既に、全地に語り継げられています。つきましては今、もしここで民を殺されるのでしたら、主は民を導く事を出来ずに荒野で殺した、という、不面目な噂が立つでしょう、それではあなたの栄光にはなりません、という論法である。

『どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください。』(民数記14:17)
ここは、伝統的な英訳聖書(KJV)では
「あなたに願います。どうか、力の主は、偉大であられて下さい。あなたがおっしゃられた通りに」
という意味であり、モーセは、主はその偉大な御名にふさわしく、不名誉な噂さえ流れるような事は、なさらないで下さい、と願っているのである。

『あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください」。』(民数記14:18)
さらにモーセは、主がかつて語られた御言葉を人質に取り、それを盾に取って、主の慈しみを求め、赦しを求めた。

これこそ、「執り成しの祈り」である。
私達は何かと「あの人を救って下さい」「赦してください」「ください、ください」といった願い言葉を、何百遍も繰り返しがちだが、聞かれる祈りとは、人間の何かを押し出すものではなく、主がどなたであるか、主はどのような御言葉を語られたかを盾に取る祈りこそ、聞かれる祈りである。

モーセの祈りの中には、イスラエルの民の良さをアピールする言葉は、何一つ無かった。事実、そうだから。
彼はその代わり、「あなた」という言葉を幾度も繰り返し、主を主語として祈り、主の憐れみに訴えている。
主が真実だから、主が憐れみ深く赦しに富みたもうお方だから、赦してください、と。
そのように祈った結果、その祈りは、聞かれた。

私達も同様に、主の御前に誇れるものは、何一つ無い。
だから私達は、自分の義を主張する事なく、ただ自分の心を全て晒して主の憐れみにすがるのみである。
主は、パリサイ人の「私は週に二度断食し、捧げ物はちゃんと納めています」的な祈りは聞かれず、ただ、胸を打ち叩いて自分の罪を悲しみ、主の憐れみを乞うた取税人の祈りを聞かれ、義として下さるお方なのだ。(ルカ18:10-14)

礼拝説教メッセージ音声:民の"不信仰"告白(民数記14:1-9):右クリックで保存

『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。』(民数記14:1-3)
12人の斥候がもたらした報告を、民は「悪い方」に受け止めた。
それも、声をあげて叫び、夜通し泣き明かす程に。

主は、彼らの先祖アブラハムに現れ、この地を継がせようと400年も前から約束されておられるのに、そして今や、その地まではあと一歩なのに、彼らはこの期に及んで「エジプトの国で死んでいたらよかった」「この荒野で死んでいたらよかった」「主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされる」「エジプトに帰る方が、むしろ良い」とまで言ったのだ。(民数記14:2-3)
なんという「不信仰告白」だろう!

『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)
箴言のこの言葉が真実である事を、私達は、じき知るようになる。

『彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記14:4)
彼らは、ミリヤムの一件を見ていたはずである。神が立てられた権威・モーセに逆らった結果、ミリアムの身に何があったかを。
それなのに、そのモーセを退け、別の指導者を立てて、エジプトの戻ろうと言う。
そのエジプトは、400年もの間、イスラエルを奴隷として酷使し、男の子が生まれたらナイル川に投げられ、それ程の圧制の中で苦しめられている所を、主が、力強い御手でエジプトを打ち、そこから救い出されたというのに。

主は、荒野でも数々のすばらしいわざによって民を養い、パンと水を与え、主に逆らう者には、災いが下った。
タブエラでは、民のつぶやきの故に主の火が燃え上がり、キブロテ・ハタアワでは、主を軽んじ肉欲に駆られた者達の墓が立ち、ハツェロテでは、モーセの権威を軽んじたミリアムがツァラアトにかかったというのに、彼らは相変わらず、主を畏れるという事をしなかった。
そして民が、恐ろしいほどの不信仰告白を為し、主とモーセへの反逆の言葉をつぶやいているが、この時点で、主はまだ何も仰せられない。

モーセとアロンは、民に即答する事なく、主に向かってひれ伏した。(民数記14:5)
ひれ伏しているその姿は、人には弱さの極地と見えるかもしれない。
しかし主の御前にひれ伏す事こそ、御前に最も偉大な姿勢である。
民がめいめい叫んでいる内容やその態度が、いかに主の御前に罪深く、御怒りを引き起こすものであるのかを熟知しているため、何よりも先ず主にひれ伏し執り成す事が、最優先事項なのだ。
アロンもひれ伏しているという事は、彼も、ミリヤムの一件以来、御前に謙遜に執り成す事の大切さを学んだのだろう。

『このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。』(民数記14:6-9)

モーセとアロンが主にひれ伏している中、ヨシュアとカレブが立ち上がった。
二人は衣を引き裂いた。民の不信仰が悲しく、やるせなく、憤りを覚えたのだろう。主があんなにも力強く敵を倒し、恵みを与え、逆らう者を滅ぼした事を、どうして皆、それが無かったかのような反応をするのだろう、と。
彼らは、その地がいかに良い地であるか、また、主が我々と共におられるなら、主が勝利させて下さり、その地を手に入れさせて下さる事を、力説した。

主に信頼して進み行こうという意見は、わずか四人。進み行かずエジプトに戻ろうという意見は、およそ六十万人。
この場面は、多数決として見ると、どう見ても敗北である。
しかし主は、人間の多数決で、御心を動かされるお方ではなく、主の真実がある側に、味方される。
たといそれが、4人対、600000人であったとしても、4人の側に真実があるなら、主は600000人のほうを退け、4人の側につかれるのだ。
それ故、私達は、たとい大勢を前にしても、主の真実を告白すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:脳内ネフィリムに感染された十人(民数記13:25-33):右クリックで保存

『彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。』(民数記13:27-29)
斥候達が戻って来て報告した内容は、客観的事実であり、持ってきたくだものは、約束の地が祝福されている事の物的証拠である。

そこはまことに、乳と蜜が流れているかのように潤った、肥沃で良い地。二人がかりで担いだ一房のぶどうさえ産出する地。
そしてまた、強いカナン人が堅固な町々に住んでいる地。
この事実に対し、斥候達の評価は、真っ二つに分かれる。

『そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。』(民数記13:30-31)
カレブとヨシュアは「必ず勝つ」という判断をした。
しかし他の10人は、「そこに攻めのぼる事は出来ない」と判断し、その理由は「彼らはわたしたちよりも強い」からだとした。

ヨシュアとカレブも「彼らはわたしたちよりも強い」事は重々承知していたはずだが、なぜこの二人は、「必ず勝てる」と判断したのか?
それは、自分達の内におられるイスラエルの神は、彼らよりも遥かに強いと判断したからだ。
神はエジプトを十の災いで徹底的に打ち、追い迫るエジプト軍を海で滅ぼし、装備にも経験にも勝っていたアマレクに勝利させて下さった主は、この、強大なカナン人にも、必ず勝利させて下さる、と。

他の十人は、自分達に大いなる事をして来て下さった主を、きれいさっぱり忘れてしまったかのように、「自分たち」と「彼ら」とを比較した。
確かに、イスラエル民族だけで戦うなら、勝てない事は確実だろう。
相手は巨体で、弱肉強食の世界を勝ち抜いてきた共謀な者達である。
しかし、エジプトを滅ぼし荒野で養ったあの主が共におられるのだ。
ここに、普段から、主を主としている人と、そうでない人の違いが、あらわにされた。

『そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。』(民数記13:32-33)

彼らは「勝てない」と不信仰告白しただけでなく、主が、何百年も前から彼らに継がせようとしておられた乳と蜜の流れる地を、悪く言いふらす事さえした。
彼らは「ネピリム人」がいる、と言ったが、御言葉によると、ネピリムはノアの洪水で全滅した筈である。
それでは彼らが見たという「ネピリム人」とは、一体何か?
それは、アナク人という背の高い現住民を誇張し、脳内で勝手に生成した太古の巨人、「脳内ネピリム」である。

神様は、彼らに目を留め、多くの奇跡によって救い出された。
それなのに彼らはなお、敵を過大に見積もり、神の民であるはずの自分達を「いなご」と卑しく見積もり、勝手に作り出した「脳内ネピリム」を声高に喧伝した。
人々を自分の思い通りに動かしたいがために、物事を良くも悪くも誇張し伝える人間にとって、何百も前から主が温めておられたご計画など、関係無いのだ。
このような性質こそ、安息の地に入れない人の特徴である。

しかし、主が定められていた約束を、信仰によって受け取る人は、その安息に入る事が出来る。
私達には、いつから、どんな祝福が約束されていたのだろうか。
『神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)

主は「あなたの信仰のとおりに、なれ」と言われた。
主は、天地を造られる前から私達を選び、きよく傷無き者にしようと、あらかじめ定めておられた。
その事を信じ、天にあるもろもろの霊的祝福を得て、主が愛をもってあらかじめ定めておられた祝福を、信仰をもって受け取る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:良い地にはびこる、追い払うべき巨人(民数記13:17-24):右クリックで保存

モーセは、斥候部隊を遣わして主が約束された土地を探らせる時、その土地がどんなに良い所か、実際に目で見、よく調べ、くだものを運び来るように命じた。

『そこで、彼らはのぼっていって、その地をチンの荒野からハマテの入口に近いレホブまで探った。』(民数記13:21)
彼らはレホブまで、すなわち、ダマスコよりも北の、ユーフラテス川近くにまで、探りに行ったようであるが、その広大な土地の中で、特に重要な土地は、以下である。
『彼らはネゲブにのぼって、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマン、セシャイ、およびタルマイがいた。ヘブロンはエジプトのゾアンよりも七年前に建てられたものである。』(民数記13:22)

ネゲブは、主がアブラハムに現れた所であり、またヘブロンといえば、アブラハムがロトと別れた後に、主からさらなる祝福の約束を頂いて、定住した地である。
アブラハムはそこから近いマクペラの洞穴を買い、そこに妻サラを葬った。
そしてそこは、アブラハム・サラだけでなく、イサク・リベカ、ヤコブ・レアも葬られている。
ヘブロンは、アブラハム・イサク・ヤコブゆかりの地、彼らの墓がある土地であるが、その、信仰者が住べき土地には、アナク人という身長2mを超える巨人たちが住んでいた。

『ついに彼らはエシコルの谷に行って、そこで一ふさのぶどうの枝を切り取り、これを棒をもって、ふたりでかつぎ、また、ざくろといちじくをも取った。イスラエルの人々が、そこで切り取ったぶどうの一ふさにちなんで、その所はエシコルの谷と呼ばれた。』(民数記13:23-24)
ここでは、一房のぶどうさえ、大人が二人がかりで担がなくてはならない程、大きかった。

ヨシュアとカレブは、この探り巡ってきた土地を見て、強烈なあこがれを抱いたようである。
主が与えようとしておられた土地は、こんなにすばらしく良い土地だったのだ!
ぜひとも自分達のものにしたい!と。

多くの人達はアナクの子孫の巨大さに怖気づいたが、しかしその巨人達は、85歳の老人の信仰によって、あっけなく倒された。
その老人とは、この斥候部隊の中に加わっていた、エフネの子カレブである。
彼は、斥候部隊としてこの土地を探っていた時は40歳だった。しかしその45年後、彼らは信仰によって進み出て、勝利し、その土地を勝ち取った。
実に、45年もの間この土地を望み見続け、そしてようやく手に入れたのである。

彼が45年も待ちぼうけをくらってしまったのは、斥候部隊の他のメンバーが、ヨシュアやカレブが見るようには見ず、不信仰に陥ってしまったからである。
不信仰に陥ってしまった彼らは、その土地の素晴らしさではなく、敵の巨大さや城壁の堅固さを見、それと自分達の力とを比較してしまったのである。
しかし、ヨシュアとカレブは、確かに敵の巨大さや城壁の堅固さも見たが、それらを主と比較したため、これは楽勝だ、と思ったのだ。

主が「この方面へ行け」と言っておられる時、そこを探る際は、誰と誰を比較すべきかが大事である。
自分と相手を比較すると、罠に陥る。
しかし、主と相手とを比較するなら、平安があり、勝利がある。

信仰者が定住すべき土地には、元々、巨人が住んでおり、まず、それを倒さなくてはならない。
私達も、心の内に邪悪な巨人が住んでいて、それが邪魔をして、安息して生活できなくしている場合がある。
その巨人とは、過去に受けたトラウマであったり、どうしても止められない不健康な習慣であったり、どうしようもない性格であったりする。
しかし、それらに対して怖気づいてはならない。
肉に頼るのではなく、御霊によって望むなら、御霊の圧倒的な破壊力でもって、その敵を打ち破る事が出来るのだ。
『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリント10:3-6    )

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