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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:永遠の塩の契約(民数記18:19-20):右クリックで保存

『イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である。』(民数記18:19)
主は、人々が主に捧げる供え物を、祭司が受け取る分として永遠に定められ、祭司の養いは永遠に絶える事がない、というこの約束を、「塩の契約」と言われた。
では、塩は、聖書の他の箇所で、どのように用いられているだろうか。

『あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:13)
主に捧げる素祭の穀物は、一粒一粒がよく砕かれた粉末でなくてはならず、蜜などで人工的に甘くしたり、パン種などで人工的に膨らましたりする事もせず、シンプルに、塩で味付けなければならないと命じられている。

現代を生きる私達・キリスト者の交わりも、塩を添えて捧げられた素祭のようであるべきだ。
すなわち、私達一人ひとりが主の御前によく砕かれ、交わりの中には、人工的な甘ったるさを交えてはならず、教会を大きくしようとして不純物を混ぜ膨張させてもならない。
むしろシンプルに、塩気でもって、互いに和合すべきである。
『ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:8)

塩は、食物の味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをする。この実にシンプルな味と性質は、永遠に変わらない。
祭司は、神の共同体という「パン生地」の中では、「塩」のような役割とも言える。
共同体全体の、味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをするからである。

祭司には、永遠に受ける分として「塩の契約」が定められているが、実は、一般の民なら普通に受け継ぐ事は出来ても、祭司に限っては、受け継ぐ事が許されていないものがある。
『主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。』(民数記18:20)

祭司がゆずり受けてはならないもの、それは、相続地である。祭司にとって、主御自身がゆずりの地であり、地上の相続地を得てはならない。
それ故、私達キリスト者も、この地上には、永遠のゆずりは無いと知るべきである。
私達のゆずり、それは、主ご自身であり、永遠に変わらぬ天の王国にこそ、私達のゆずりがあるのである。
だから、この地上に宝を蓄える努力は止め、天に宝を積み立てる努力をすべきである。

神の国を追い求めつつ、同時に、地上の宝も手放さないような人は、十分な予算審議もしないままに、邸宅を建設しようとして、結局土台しか建てられなかった、と、あざ笑われてしまう人のようである。
『あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。・・・それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
「塩」は良いものだ。しかし、「塩」もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。』(ルカ14:28-35)

だから私達は、神の国とその義とを、まず第一に求めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:祭司が与れる食物(民数記18:8-18):右クリックで保存

前回は、祭司の役割と責任が主から示されていたが、責任ある務めには報いがある。
この、祭司が受け取るべき報いは「永久に受くべき分」として、今も有効である。
『主はまたアロンに言われた、「わたしはイスラエルの人々の、すべての聖なる供え物で、わたしにささげる物の一部をあなたに与える。すなわち、わたしはこれをあなたと、あなたの子たちに、その分け前として与え、永久に受くべき分とする。』(民数記18:8)

この中で、「素祭」、「罪祭」、「愆祭」は、男子だけが与かる事ができ(民数記18:9-10)、新鮮な油や、新しいぶどう酒、初物の穀物など、民が主に捧げる「初物」は、祭司の家族も、それにあずかる事ができる。(民数記18:11-13)
しかし、11,13節にある通り、それには「きよい者」だけが与かる事が出来る、とあるため、いかに祭司の一族であっても、きよくない状態であれば、それにあずかる事は許されないのだ。
その事は、レビ記にも記されている。
『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
アロンの子孫のうち、だれでも、らい病の者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。』(レビ記22:3-6)

私達キリスト者は、キリストにあって祭司とされたが、キリスト者であれば誰でも「御言葉」という聖なる食物にあずかれるか、というと、そうではない。
キリスト者であっても、聖なる食物に共にあずかれない人がいる。それは、汚れた人である。
例えば、主の恵みと祝福はいただきたいけれど、同時に、世的な罪深い欲望を手放す事もしたくないような人や、教会には一応通ってはいても、御言葉よりも世の通念のほうを優先している人などは、そうである。

彼らが、恵みの食卓で共に食べられないのは、誰かが禁止するからではない。
むしろ彼ら自身に、恵みに預かる感性が無いというか、聖なる食物を食べる「専用の口」が、無いのだ。

教会の皆が「イエス様は素晴らしいね」「御言葉はこんなに凄いのか」「恵まれるね」と楽しそうに盛り上がっているのに、その人だけは退屈そうで、何を机上の空論で盛り上がっているのだろう、などと思えて、キリストのいのちが、さっぱり理解できないのである。
だから私達は、霊的感性が開かれるよう、祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:お門違いの恐怖(民数記17:12-18:7):右クリックで保存

『イスラエルの人々は、モーセに言った、「ああ、わたしたちは死ぬ。破滅です、全滅です。主の幕屋に近づく者が、みな死ぬのであれば、わたしたちは死に絶えるではありませんか」。』(民数記17:12)
彼らが言っている事は、ある部分は正しいが、重要な「しかし」を抜かしている。
この直前に起きた恐ろしい事件、コラのさばきと、民のつぶやきによって14700人が死んだ事件の、直後であるがら、御言葉を正しく理解していない民は、必要なき恐怖に陥って、混乱していたのかもしれない。

私達も、神は厳しく裁かれるお方だ、恐ろしい方だ、など、神を正しく理解していないが故の、必要なき恐怖に陥ってしまう事がある。
私達はそのような霊的な無駄足を踏まぬためにも、聖書を正しく理解したい。

確かに、人はみな罪咎を持っており、そのまま主に近づくなら、皆、死ぬ他無い。
ここに、重要な「しかし」がある。
主は人が罪を持っている事は百も承知で、憐れみ深い主は、そんな人間を罪と死の束縛から開放するために、大祭司を立ててくださったのだ。

『そこで、主はアロンに言われた、「あなたとあなたの子たち、およびあなたの父祖の家の者は、聖所に関する罪を負わなければならない。また、あなたとあなたの子たちとは、祭司職に関する罪を負わなければならない。』(民数記18:1)
これは、別段新しい命令ではない。主は、混乱している民に、正しい知識を再び思い起こさせるために仰せられたのだ。
アロンとその父祖の家のもの、すなわち、大祭司の一族とレビ族は、共に聖所に関する「罪を負い」、大祭司の一族は、祭司職に関する「罪を負う」のだが、では「罪を負う」とはどういうことか。
主は出エジプト記にて以下のように言っている。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)

すなわち、祭司とは、一般の人々の罪を代表して背負い、神と人との間に立って、罪の身代わりとしてのいけにえを捧げ、和解の務めをなす者である。
それ故、この時の民の恐れは、執り成してくれる祭司の存在を忘れた、お門違いの恐れである。

私達も、まことの大祭司キリストを忘れた、お門違いの恐れに憑かれていないだろうか。
キリストは、私達の罪咎を背負い、自らがいけにえとなって捧げられ、それによって、私達を神と和解させて下さった。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
そういう訳で、私達の大祭司キリストのゆえに、私達の罪咎は主の御前に覚えられず、罪と死の束縛から開放され、永遠のいのちを得たのだ。

礼拝説教メッセージ音声:芽を出したアロンの杖(民数記17:1-11):右クリックで保存

古今東西、人々の上に立つ人は、どんなに完璧であっても、謙遜であっても、人々からの攻撃が絶えないものであるが、主は、アロンこそ、主が立てた大祭司である事を誰も反論できないように「しるし」を与えられた。

『「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。
わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。』(民数記17:2-5)

生物の「木」としてのいのちは死んでいる「杖」から、いのちが吹き出す。
この「死からの復活」を「しるし」とし、アロンこそ、神が直接任命した大祭司である事を人々に示すのだ。

死からの復活を、神の権威のしるしとする。
そのしるしは、創世記から黙示録に至るまで、聖書の随所にある。

神は、生物的には死んだも同然のアブラハムから、いのちを起こされた。
百歳の男と、九十歳の女との間から、いのちが生まれる。それはまさしく、神が働かれたとしか思えない。
この、死の中から生まれ出たイスラエル民族こそ、神の選ばれた民であると、人類は知るのだ。

イスラエル民族は、幾度も、他民族の虐待によって滅亡の危機に陥った。古くはエジプトにはじまり、バビロン捕囚やユダヤ戦争、近年のホロコーストなど、民族滅亡の危機が幾度も訪れたが、それでも生き残っている。これは他の民族では、考えられない。
全能なる神が働いて、守っているとしか、考えられない。

『その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどう(アーモンド)の実を結んでいた。』(民数記17:8)
果たして、モーセとアロンが一晩掛けて、精巧にアーモンドそっくりの模造品をこしらえたのだろうか?
いや、現代の技術をもってしても、本物の命と見まごうような物を作り出す事は出来ない。
偽物の命であったら、すぐに分かってしまうものだ。

人は、いのちを造り出す事も、模造する事さえも出来ないし、まして人は、死んだいのちをよみがえらせる事など、できない。
人類は古くからそれを願い、努力し求めて来たが、未だにそれには至っていない。
いのち。それは神にしか出来ない作品であり、死からの復活こそ、神のあかしである。

『主はモーセに言われた、「アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない」。』(民数記17:10)
人々は、この新しく息吹いたいのちを見て、アロンこそ、神が選ばれた祭司だと、認めざるを得なかった。
それでも逆らう民はいたが、神が「死と復活」のしるしを示し、認定された以上、それに逆らうとしたら、もはや弁解の余地は無く、その者は、死を免れる事は無い。

死と復活。これこそ、神が選んだ事のしるしであり、神が最も顕著に示した「死と復活のしるし」は、イエス・キリストの十字架である。
神は、杖という木からいのちが芽吹く事によって、アロンこそ、神が認定された祭司である事を示された。
同じように、十字架という木の死から復活したキリストこそ、唯一まことの大祭司であると、神は示されたのであり、それを否定する者には弁解の余地なく、滅びが待っている。

主は、いのちが息吹かれたアロンの杖を、あかしの箱の前に持ち帰りなさい、と言われた。
あかしの箱の中には、次の三点のものがある。すなわち、マナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板である。(ヘブル9:4)
これら三種は皆、神ご自身の手による、人々への「あかし」である。
契約の石板は、神の指によって記された、神から人への言葉、御言葉であり、マナのはいっている金のつぼは、天から与えられた神からの食物、神からのいのちの養いであり、芽を出したアロンのつえは、神が公認した祭司のしるし、それも、死と復活による祭司のしるしである。

これら”三種の神器”は、全て、キリストをあかししている。
契約の石板は、天から降った御言葉であるキリストをあかしし(ヨハネ1:1-14)、マナのはいっている金のつぼは、天から降ったまことの食物であるキリストをあかしし(ヨハネ6:47-51)、芽を出したアロンのつえは、神が公認した祭司、それも、死と復活を経た大祭司であるキリストをあかししている(ヘブル5:1-10)。
復活のいのち。それこそ、神のあかしである。

礼拝説教メッセージ音声:つぶやき - 一万四千七百人が倒れた災いの元凶(民数記16:41-50):右クリックで保存

『 その翌日、イスラエルの人々の会衆は、みなモーセとアロンとにつぶやいて言った、「あなたがたは主の民を殺しました」。』(民数記16:41)

前回、あれだけの主の恐ろしさを垣間見ながら、また、主が立てられた権威者であるモーセとアロンに逆らった者に対する、あれだけの恐ろしい罰を見ながら、なんと、翌日から早速つぶやきはじめている。
しかも、彼らはみなモーセとアロンが殺した、と言っているのだ。
一体、モーセとアロンが大地を裂けさせて逆らう者達を突き落としたとでも言うのだろうか。一体、モーセとアロンが火炎放射器のようなものでで250名を焼き殺したとでも言うのだろうか?
あれだけ明確に「主が為された」のに、民はなお主を見ず、主を無視し、モーセとアロンに言い逆らう。
主の警告と主の存在を無視したような、度重なる民の不従順を、主はそのまま見過ごしにはされない。

『会衆が集まって、モーセとアロンとに逆らったとき、会見の幕屋を望み見ると、雲がこれをおおい、主の栄光が現れていた。モーセとアロンとが、会見の幕屋の前に行くと、主はモーセに言われた、「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう」。そこで彼らふたりは、ひれ伏した。』(民数記16:42-44)

民が主を怒らせ、主が民を滅ぼそうとし、そのたびに、モーセとアロンがひれ伏して取り成す。
もう幾度、このパターンを見ているだろうか。
それ程に、民の愚かさは根強く、それ程にモーセとアロンの取り成す心は深い。

『モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。』(民数記16:46)

今までのパターンなら、主が「滅ぼす」言っても、モーセがすぐに執り成し、主はそれで災いを留められていたが、今回、モーセが執り成す間も無く、すぐに災いが始まっている。
このままでは、民全体はじきに滅ぼされてしまう。
そこでモーセは、アロンに命じたのだ。

『そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。』(民数記16:47-48)

大祭司アロンは、祈りの香、宥めの香りを持って、走って行った。
アロン自身を悪しざまに罵った、当の本人達を、救うために。
自分も疫病に打たれてしまうかもしれないリスクを顧みず、執り成しに行くために、死んだ者と生きている者との間へと走っていった。

この大祭司アロンの行動は、私達の大祭司である主イエス・キリストの有り様を示している。
主は、そむいた私達を救うために、天から降りて来られ、罪とがの中でもがいている私達の中に飛び込んで来られ、死んだ者と生きている者との間に立ち、父なる神に執り成しておられる。

主は、私達にも、祭司として執り成し祈る事を求めておられ、罪とがの故に滅ぼされていく人々の間に立ち、祈りの香を立ち上らせる事を求めておらる。
もし、執り成し祈る人がいないとしたら、主はその所を滅ぼしてしまう。
『わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らのおこないを、そのこうべに報いたと、主なる神は言われる」。』(エゼキエル22:30-31)
それ故、キリストにあって祭司として任命された私達も、国のために、置かれている会社や環境のために祈るべきであり、それによって、私達が遣わされている所は清められ、守られるのである。

『コラの事によって死んだ者のほかに、この疫病によって死んだ者は一万四千七百人であった。アロンは会見の幕屋の入口にいるモーセのもとに帰った。こうして疫病はやんだ。』(民数記16:49)
イスラエルの全会衆が六十万ほどであるから、今回の災いで、およそ四十人に一人が死んだ割合になる。
民はなんと頑なで、聞かず屋であろうか。
私達はこれらの事に戒めを受け、頑なになったり、つぶやいたりして滅ぼされる事の無いように気を付けるべきである。

『彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・
また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:5-12)

礼拝説教メッセージ音声:悪い意味での記念の物(民数記16:36-40):右クリックで保存

『「あなたは祭司アロンの子エレアザルに告げて、その燃える火の中から、かの火ざらを取り出させ、その中の火を遠く広くまき散らさせなさい。それらの火ざらは聖となったから、罪を犯して命を失った人々の、これらの火ざらを、広い延べ板として、祭壇のおおいとしなさい。これは主の前にささげられて、聖となったからである。こうして、これはイスラエルの人々に、しるしとなるであろう」。』(民数記16:38)

エルアザルにとって、この命令は、かなり強烈なものであったろう。
焼き滅ぼされた250人の死体が、まだそこここでくすぶっている所に入って行き、彼らが手にしていた火皿を250個、取り集めよ、というのだから。
彼は二人の兄も、同じように亡くしている。
きっと彼は、子に、孫に、くれぐれも主の前に分を超えて思い上がってはならない、と、きつく教育しただろう。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)

『そこで祭司エレアザルは、かの焼き殺された人々が供えた青銅の火ざらを取り、これを広く打ち延ばして、祭壇のおおいとし、これをイスラエルの人々の記念の物とした。これはアロンの子孫でないほかの人が、主の前に近づいて、薫香をたくことのないようにするため、またその人がコラ、およびその仲間のようにならないためである。すなわち、主がモーセによってエレアザルに言われたとおりである。』(民数記16:39-40)

いかに反逆した者達が捧げたものとはいえ、彼らが捧げたものは聖となり、それらはイスラエルの記念として、祭壇のおおいとして用いられた。
イスラエルの人達は代々、何百年も、その祭壇のおおいを見ては「これがコラと共に主の権威に逆らった、あの250人の火皿か」と、恐れおののいただろう。

しかし、後の時代には、祭司でないのに不遜にも香を捧げようとした王がいた。ウジヤ王である。
彼は最初は、主を敬う良い王だった。
それで祝福され、周辺諸国との戦争に勝ち、内政を充実させ、その名声は大いに広がった。
『ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。』(2歴代誌26:16)

それを祭司アザリヤに「主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません。」と戒められると、ウジヤは激しく怒り、香炉を手にとって香をたこうとしたが、そのとたん、らい病(ツァラアト)が彼のひたいに現れた。
『ウジヤ王は、死ぬ日までらい病人であった。彼はらい病人であったので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。』(同21節)

ウジヤ王も、コラも、共通している事は、主の御前に自分の分ではない礼拝を捧げようとし、それをひと度戒められ、正しい道の何であるかを示されたのに、戒めに対して怒り、あざけり、無視し、あくまで自分を押し通そうとしたとたん、主のさばきが降った事だ。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。』(ローマ12:3)

コラやウジヤ王のように、悪い意味で記念となり、その名が永遠に記される者もいるのだ、という事を、忘れてはならない。
イエス様の葬りの整えのために、高価なナルドを捧げたベタニアのマリヤは、その行いが永遠の記念とされたが、彼女のように、従順の行動が主の御前に覚えられ、永遠の記念として残る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生きながらにして地の底に落とされる者の性質(民数記16:25-35):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

『モーセは会衆に言った、「どうぞ、あなたがたはこれらの悪い人々の天幕を離れてください。彼らのものには何にも触れてはならない。彼らのもろもろの罪によって、あなたがたも滅ぼされてはいけないから」。そこで人々はコラとダタンとアビラムのすまいの周囲を離れ去った。そして、ダタンとアビラムとは、妻、子、および幼児と一緒に出て、天幕の入口に立った。』(民数記16:26)

モーセはイスラエルの民を、分派を促して反逆させる者どもから、離れさせた。
彼らと同じさばきに遭わせないためである。
キリスト教は、赦しの宗教だとよく言われるが、聖書が教えている所は、『分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。』であり(テトス3:10)、戒めても聞かず、悔い改めないような者からは「離れる」事も、その人自身にとって、そしてその周りの人にとって益である。

『モーセは言った、「あなたがたは主がこれらのすべての事をさせるために、わたしをつかわされたこと、またわたしが、これを自分の心にしたがって行うものでないことを、次のことによって知るであろう。すなわち、もしこれらの人々が、普通の死に方で死に、普通の運命に会うのであれば、主がわたしをつかわされたのではない。
しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」。』(民数記16:28-30)

あまりに悪辣な事を止めず、神を怒らせ続けて来た人が、ある日突然、普通でない死に方をした、というような事が、確かにある。
その時、人は、義なる神が確かに生きておられ、自身が介入されたのだ、と、誰もが思うのである。

『モーセが、これらのすべての言葉を述べ終ったとき、彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物をのみつくした。すなわち、彼らと、彼らに属するものは、皆生きながら陰府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。
この時、その周囲にいたイスラエルの人々は、みな彼らの叫びを聞いて逃げ去り、「恐らく地はわたしたちをも、のみつくすであろう」と言った。また主のもとから火が出て、薫香を供える二百五十人をも焼きつくした。』(民数記16:31-35)

地がぱっくりと口を開いて、人々を飲み込み、生きながら陰府(よみ)に降ってしまう。
実に恐ろしい出来事であるが、聖書には、生きたまま陰府に投げ落とされるような者達が他にも登場するが、そんな彼らには共通した性質がある。

『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)

この「黎明の子、明けの明星」は、堕天使ルシファー、すなわちサタンの事である。
彼もコラ達のように、陰府に落され、穴の奥底に入れられるが、共通しているのは、自ら高みにのぼり、人々の上に立ち、神のようになろうとする「高ぶり」の性質である。
そして、暗闇で謀略を巡らし、相共に集って、神の権威に反逆する者も、生きながらに地獄に投げ落とされる。

『なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。』(黙示録19:19-20)

この「にせ預言者」は多くの人々を惑わし、神とその民に対して戦いを挑む者だが、それはまさにコラと同じ性質である。
コラに惑わされた250名の有力者達は、神の元から火が降ってきて焼き滅ぼされたが、欲望におびき寄せられて惑わされ、神の立てた権威に歯向かう者達に、主が用意されているのは、焼きつくす火である。

『そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:8-10)

惑わされる人には、必ず、惑わされるための”とっかかり”があり、そのとっかかりには、その人の欲や怒り、ねたみ、高ぶりなど、色々な要素がある。
『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブ1:14-15)
私達は、惑わされないために、そのとっかかりである「欲」や「怒り」、「ねたみ」、「高ぶり」などを、主イエスの血潮によって捨て去り、清めていただく必要がある。

地が口を開けて生きたまま飲み込まれるさばきも、火が降ってきて焼き滅ぼされるさばきも、いずれも恐ろしいものであるが、それは、主の敵に対して用意されているものであり、主に従順し服従している私達には、届かないものである。
不従順を続けて滅ぼされる者ではなく、モーセのように、そのような者どもから主に弁護される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:差し伸べられた憐れみを踏みにじる者達(民数記16:12-24):右クリックで保存

モーセはコラに穏やかに諭したように、ダタンとアビラムを呼んで、彼らも同じように諭そうとしたのであろう。
しかし彼らは、モーセの呼びかけを無視し、対話を拒絶したばかりでなく、悪辣な言葉を返して来た。

『モーセは人をやって、エリアブの子ダタンとアビラムとを呼ばせたが、彼らは言った、「わたしたちは参りません。あなたは乳と蜜の流れる地から、わたしたちを導き出して、荒野でわたしたちを殺そうとしている。これは小さいことでしょうか。その上、あなたはわたしたちに君臨しようとしている。
かつまた、あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。これらの人々の目をくらまそうとするのですか。わたしたちは参りません」。』(民数記16:12-14)

彼らはなんと、エジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼び、モーセはそこから人々を導き出して、荒野で殺そうとしている、と言っている。
おそらく、モーセがよく口にする「乳と蜜の流れる地」という言葉を嘲って言ったのだろうが、主を恐れぬ、極めて悪どい言葉である。
彼らはまた、「あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。」と言っているが、そもそも、乳と蜜の流れる地に、すんなりと入れなくしてしまったのは、ダタンたちルベン族の代表をも含めた10人の斥候たちだったのではなかったか。

モーセはこの悪辣な返事に激しく怒り、「彼らの供え物を顧みないでください。わたしは彼らから、ろば一頭をも取ったことなく、また彼らのひとりをも害したことはありません。」と、主に申し立てている。(民数記16:15)
ダタンとアビラムは、自らモーセとの対話を拒否し、モーセの執り成しの心を踏みにじったのである。

モーセは、誰が主に選ばれた者であるかは、主に聞こうではないか、と、次のように申し出ている。
『あなたとあなたの仲間はみなアロンと一緒に、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの火ざらを取って、それに薫香を盛り、おのおのその火ざらを主の前に携えて行きなさい。その火ざらは会わせて二百五十。あなたとアロンも、おのおの火ざらを携えて行きなさい。』(民数記16:16-17)

コラは、ダタンとアビラムと違い、モーセのさとしを聞いただけ、まだましだった。
この時点でモーセの言うとおりにして、主が示された結果に、素直に従順していれば、まだ穏便に済まされていたかもしれない。
しかし、彼が取った次の行動で、コラの裁きも確定してしまう。

『彼らは、おのおの火ざらを取り、火をその中に入れ、それに薫香を盛り、モーセとアロンも共に、会見の幕屋の入口に立った。そのとき、コラは会衆を、ことごとく会見の幕屋の入口に集めて、彼らふたりに逆らわせようとしたが、主の栄光は全会衆に現れた。』(民数記16:18-19)
彼らは、祈りの香を手にして、主の御前に出ているにもかかわらず、なんと、会衆のほうに向き直り、モーセとアロンに逆らわせようと扇動したのである。
こうしてコラも、モーセの親身な諭しを、踏みにじった事になる。
主に祈りの香を捧げるべき献身者が、主から顔を背け、人々の栄誉を受けようと向き直り、祈りを捧げるべき聖なる場所で、汚れた動機をもって神のしもべに争いを仕掛ける事は、とんでもない災いをもたらす行為である。

『「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼすであろう」。彼らふたりは、ひれ伏して言った、「神よ、すべての肉なる者の命の神よ、このひとりの人が、罪を犯したからといって、あなたは全会衆に対して怒られるのですか」。
主はモーセに言われた、「あなたは会衆に告げて、コラとダタンとアビラムのすまいの周囲を去れと言いなさい」。』(民数記16:21-24)

モーセは今回の反逆で、かなり面目を貶められ、今までになく怒ったが、それでもなお、執り成すためにひれ伏した。
それで会衆一同は滅ぼされずに済んだが、しかし、コラとダタン、アビラムへの裁きは、確定してしまった。
彼らは、最後まで神が立てられた権威に逆らい、主を無視して、人々からの栄誉を求めたからだ。

彼らも、出エジプト以来の長い間、主の栄光と素晴らしさ、そして恐ろしさを、幾度も見てきたであろうに。
また、そんな事をすれば恐ろしい裁きが待っている事は、今までの経緯を見て、いい加減学習していても良さそうなものだろうに、と思うかもしれない。
しかし、頭の中が、自分のやりたい事でいっぱいだと、そこまで物事が見えなくなってしまうものである。
私達は、災いに遭わないために、思いの中ではいつも自分を降ろし、主の御心に聞く「ゆとり」を、いつでも持っているべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主から与えられた「分」に応じて(民数記16:5-11):右クリックで保存

『やがて彼はコラと、そのすべての仲間とに言った、「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう。それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは、火ざらを取り、その中に火を入れ、それに薫香を盛って、あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている」。』(民数記16:5-7)

モーセは別に、人の上に立ちたくて、イスラエルの民を導いているわけではない。
神の山ホレブで主が現れ、一方的に選ばれ、「いやだ」と言っているのに、アロンに助けを得て行け、と言われたから、それに従っているだけなのだ。
コラは、人々から人望を集めて、政治的に上にのし上がろうとしたのに対し、モーセは、人を上に立てるのは主であり、人間ではない事を示した。
パウロも言っている。
『自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:18)

神の国の奉仕者は、主が選び任命して下さるものであり、人望を集める事に奔走して、奉仕者になってはならない。
私達も、神の御言葉を守るよりも、人間受けする事を追求する罠に陥りやすく、教会も、人を集めたいがために、御言葉とは関係の無いイベントを連発して、とんちんかんな方向へ行ってしまうケースも多々あるが、主と主の言葉から離れた所に、主の助けは無い。

大切なのは、自分で努力して何かをする事ではなく、神に選ばれキリストにあって清められた事を自覚し、与えられた神の子たる身分にしっかり留まり、神に愛された者として、与えられた奉仕を忠実に為す事である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、”キリストにあってわたしたちを選び”、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)

『モーセはまたコラに言った、「レビの子たちよ、聞きなさい。』(民数記16:8)
欽定訳を見ると、モーセは「Hear, I pray you,」と呼びかけている。
自分と同族であるケハテ族のコラに対し、父親が子を諭すように諭しているのだ。
モーセは、あなた達には素晴らしい務めが任されている、せっかく主がそのような栄誉に預からせてくださったのに、それを不足だと思うとしたら、あなた達は「分」を超えているよ、と。
その尊い立場を「不足」とし、祭司の立場をさらに求めるのか、と。(民数記16:9-11)

実際、彼らは、祭司としての責任と立場を、わきまえていない。
もしわきまえていたとしたら、神の怒りを引き起こすような、こんな恐ろしい反逆など思い浮かばないはずだ。

コラ達は、イスラエルの会衆全体が聖なる者であると言ったが、祭司に要求される「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民より、はるかに高度である。(レビ記21章 http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1497 )
大祭司アロンの一族は、至聖所のつとめを少しでも誤ったら、火で焼かれてしまうし、いかに自分の肉親が死んだとしても、神のつとめのほうを優先させなくてはならないのである。(レビ記10章 http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1440 )
祭司という名誉ある職に就くからには、それなりの重大な責任も要求されるのだ。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)

私達は傲慢にならず、与えられた「分」を超えず、神が与えて下さったタラントに応じ、与えられている環境で、忠実に歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:コラ達の反逆(民数記16:1-4):右クリックで保存

『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。』(民数記16:1-2)
今まで幾度か、主とモーセに対する反逆は、幾度かあったが、いずれも、肉が食いたいと泣き喚きちらすとか、主に示された事を「いやだ」と言って一晩中泣き明かすなど、幼稚で、直情的・原始的なものだった。
しかし今回の反逆は、知的で、計画的で、裏で手を回し有力者を味方につけるなど、組織的・政治的である。

コラは、ケハテ族のレビ人で、彼らは聖所の最も聖なる祭具を運ぶべき任を負っている。(民数記4章)
とは言っても、彼らがいつも運んでいる聖所の祭具は、彼らは一生、見ることは出来ない。
なぜなら、それらの祭具は、アロンとその子達のみが扱う事を主から許されており、ケハテ族が運搬する際には、アロンとその子らが、あらかじめ青布やじゅごんの皮で梱包してからでないと、運べないからだ。

聖所の祭具は、純金がふんだんに使われているため、とても重い。
だから、ケハテ族のレビ人は、自分達が運んでいるその中身を見ることは出来ず、ただ、じゅごんの皮で梱包された”重たい物”を、担いで運ばなくてはならない。
それだから、コラはもしかしたら、自分が担当しているの奉仕を、きつく、つまらない、日の目を見ない作業として、見ていたかもしれない。
モーセやアロンは、自分と同族のケハテ族なのに、彼らだけが、人の上に立って目立ち、聖所にも出入りする事が出来、民の捧げ物のうちから取り分もある。
それに引き換え、自分達は・・・と。

現代を生きる、神の働き人たちも、同様の罠に陥りやすい。
こんな、じゅごんの皮のような、つまらない信徒たちを、毎日霊的に背負って運ぶのは、重くてきつい。日の目を見ない奉仕だ、と。
しかし、忘れてはならない。
いかにじゅごんの皮のように、見栄えせず、つまらない人に見えても、イエス・キリストにある信徒であるからには、その中身は、イエス様をお入れする尊い神の器である事を。
そして、彼らを霊的に担うその奉仕は、主の御前に、とても尊い奉仕である事を。
コラは、自分がどれ程栄光ある奉仕を担っているのか、忘れていた。

『彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:3)
この言い分は、尤もらしく聞こえる。
「全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられる」、民主的に聞こえるし、プライドを刺激する言葉である。
二五〇名の有力者たちも、その言葉に刺激を受けたのだろう。
神が立てた権威を引きずり下ろし、自分を高く引き上げよう、という性質は、サタンの性質と同じ「高ぶり」であり、罰されるべき反逆の罪である。

『あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ5-6)
自分達のおるべき地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った使いへの裁きは、暗闇に落とされ、そこに永遠に縛られ閉じ込められる事であったが、コラたちも反逆する事を止めなかったために、後には同じ裁きを受ける事になってしまう。

モーセはコラの反抗に対し、知力や雄弁さで対抗するでもなく、それまで培ってきた政治的な手腕を用いるでもなく、真っ先に、主の御前にひれ伏した。(民数記16:4)
ひれ伏す。それは人の目には愚かで、弱々しく、みっともなく見える。
しかし、主にひれ伏す姿勢こそ、人には愚かでも、主の御前には最も偉大な態度である。
彼は、反逆の民と面と向かって反論せず、真っ先に主に向かい、主に訴えた。
それが、全ての解決の近道であり、主は結局彼を守り、彼の側について下さる。

『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:8-9)

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