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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:永遠のマンションに入居するための査定(民数記26:1-56):右クリックで保存

民数記はその名前の通り、民の数を数える場面から始まっており、その第一回目の人口調査は、戦争に出る事の出来る20歳以上の男子を登録し、荒野を進み行く上で、秩序正しく宿営したり、行進したりするための、事前調査の意味合いも濃かった。
そして、荒野での日々も40年を経、あと少しで約束の地に入ろうとしているこの時、主は、第二回目の人口調査を命じている。
『疫病の後、主はモーセと祭司アロンの子エレアザルとに言われた、「イスラエルの人々の全会衆の総数をその父祖の家にしたがって調べ、イスラエルにおいて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を数えなさい」。』(民数記26:1-2)

主がこの時、再び民の数を数えるよう命じられた事の目的が、52節以降に記されている。
『これらの人々に、その名の数にしたがって地を分け与え、嗣業とさせなさい。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなさい。すなわち数えられた数にしたがって、おのおのの部族にその嗣業を与えなければならない。ただし地は、くじをもって分け、その父祖の部族の名にしたがって、それを継がなければならない。すなわち、くじをもってその嗣業を大きいものと、小さいものとに分けなければならない。』(民数記26:53-56)
つまり、これから勝ち取って行くべきカナンの広大な土地を、各部族に割り当てる際、数の多い部族は多く、数の少ない部族は少なく割り当てるための、事前調査と言える。

この時に相続地として定められた境界線は、後代もずっと変えてはならない事を、主は定められた。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
つまり、イスラエル12部族がそれぞれ受け継ぐ土地の広さは、この時点の人口の数によって、永遠に決定づけらる事になる。
同じように、今、私達が生きている「人生」という荒野の歩みは、天における永遠の相続を決定づけるための、査定期間のようなものである。

クリスチャンの中に、ひと度イエス様を信じたなら、全ては赦されるのだから、何やっても天国行きだ、だから何をしても良い、と、思い違いをしている人がいるが、聖書には次の御言葉もある事を、忘れてはならない。
『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)

イエス様を信じる人は、確かに天国に行く。
しかし、天において頂ける相続には、個人差があり、それは地上で為した行いに拠りけりだという事は、確かである。
言ってみれば、天にはキリスト者が永遠に住まうマンションが相続地として用意されており、どのくらい良いグレードのマンションに住まう事が出来るのかは、この地上での人生という査定期間にかかっているのである。

荒野での40年で、増えた部族もあれば、減った部族もある。
ユダ族は、最初の調査と後の調査の両方において、トップの数字を誇り、ユダ族が主に喜ばれる生活をして来た氏族である事が分かる。
彼らは良い土地を相続し、後には王達が生まれ出て、さらには、全人類の救い主、イエス・キリストの家系を生み出す栄誉にあずかった。

増加率が最も多かった民族は、マナセ族で、32,200人から52,700人に増えており、増加率はプラス64%である。
ちなみに、同じヨセフから生まれたマナセの弟の部族・エフライム族は、荒野の生活のはじめよりも減少している。
エフライムのほうがヤコブから祝福を多く受けたというのに(創世記48章)、減少しているのは、エフライムが祝福に値しない事を続けてきたからだろう。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1144 )

そして、減少率が最も顕著だったのが、シメオン族である。
59,300人だったのが、22,200人になっており、マイナス63%である。
これは、前回の箇所の、あのコズビ事件の故であろう。
あの事件は、査定終了の直前に大きな不正事件を起こしてしまって、査定点数が一気に下がってしまったようなもので、私達の人生の歩みでも、それまで順調に主に喜ばれる信仰生活を送っていたのに、人生の終わりになって傲慢になり、それまで積み上げて来た良き評価が、一気に崩れてしまう、というような事がありうるのである。
親が子を祝福したり、牧師が信徒を祝福したりする事は、確かに大事ではある。しかし結局のところ、その人が本当に祝福されるかどうかは、その人本人がどのような信仰の歩みをし、どのような行いを積み重ねて行くかに、かかっているのだ。

そしてまた、約束の地に入れず、途中で脱落した人も多数いる事も忘れてはならない。
実に多くの人たちが、荒野に屍となって、置いてけぼりにされた。
これらの事は全て、私達に対する教訓である。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)

礼拝説教メッセージ音声:誘惑者は決して放置してはならない(民数記25:14-18):右クリックで保存

『ミデアンの女と共に殺されたイスラエルの人の名はジムリといい、サルの子で、シメオンびとのうちの一族のつかさであった。またその殺されたミデアンの女の名はコズビといい、ツルの娘であった。ツルはミデアンの民の一族のかしらであった。』(民数記25:14-15)

一族のつかさたる者が、主に忌み嫌われる事を率先して行っており、しかも、相手の女性は、ミデアン人のかしらの娘であるという。
イスラエル12部族のひとつ、シメオンの長の家と、イスラエルに敵対するミデアンの長の家とが、互いに縁を結ぶ。これは、実に由々しき事である。

彼れは堂々とミデヤンの女を連れてきた事ため、もしかしたら、この縁結びは内々で行われたのではなく、配下にいる多くの人達の合意もあったのかもしれない。
シメオン人は、その長たる者の為す事に習い、主に忌み嫌われるみだらな事を一族合同で行いはじめていたのかもしれない。
というのは、次章では第二回目の人口調査が行われるのだが、シメオン人は、イスラエル12部族中、減少率が最も激しかったのだ。
エジプトを出たばかりの第一回目の人口調査の時に、シメオン族は59,300人だったのに、荒野での生活をまさに終えようとしているこの時は、22,200人に減っている。
荒野での生活の最初と最後で、3,7100人の減少、減少率は、およそマイナス63%である。
もしかしたら、「トップがやっているし、みんなもやっているから」と、不品行がはびこり、それで多くの人達が主に打たれたのかもしれない。

トップの人や、身内の人が犯す罪は、大目に見てしまったり、見て見ぬ振りをしてしまいがちである。
しかし主は、それを許さない。
レビ記20章によると、ある人が子供をモレクにささげたのを目撃した時、あえてその事を黙認し、大目に見るのであれば、主ご自身が、その人とその家族とに顔をそむけ、彼および彼に見倣ってモレクを慕い姦淫する者を全て民のうちから断つ、と、主は宣言している。(レビ記20:4-5)
見て見ぬ振りは、いけないのだ。それによってますます不品行がはびこるからである。

異邦人との結婚を、民のつかさが率先して行う。それは深刻な罪である。
今回のコズビの事件では二万四千人が倒れたし、あの人類で最も知恵を得た王、ソロモンでさえ、異邦の女達との結婚によって、ついには公然とモレク礼拝をするようになり、それが引き金となってイスラエルは二つに分裂し、後々には亡国の憂き目に遭ってしまったし、また、ピネハスの子孫エズラも、民が異邦の女達と結婚し、しかも民の長たる者達が率先してそれを行っている事を聞いた時、色を失い、ショックのあまり夕方まで呆然として何も出来ない程だった。
多くの人を、誤った方向へと導いてしまう可能性がある故に、師たる者は、格別厳しいさばきを受けるのだ。(ヤコブ3:1)

『主はまたモーセに言われた、「ミデアンびとを打ち悩ましなさい。彼らはたくらみをもって、あなたがたを悩まし、ペオルの事と、彼らの姉妹、ミデアンのつかさの娘コズビ、すなわちペオルの事により、疫病の起った日に殺された女の事とによって、あなたがたを惑わしたからである」。』(民数記25:16-18)
誘惑者は、決して、そのまま野放しにしてはならない。
主は、主を信じる小さい者のひとりにでも、つまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましだと言っている(マタイ18:6)し、黙示録においても、多くの人々を惑わした大淫婦には、二倍にして報復し、彼女のしわざに従って災いの杯を倍にして入れよ、と言っている。(黙示録18:4-8)

人を誘惑し、人類全体を堕落へと導いたサタンを、主は決して赦されなかった。
同じように、誘惑さえ無ければ滅びとは無縁のような人を、あえて誘惑して滅びと導くような者は、決して赦してはならないのだ。
「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。」(黙示録14:11)

礼拝説教メッセージ音声:祭司ピネハスの性質(民数記25:6-13):右クリックで保存

今回、イスラエルが異邦の女達とみだらなことし、偶像崇拝に走ったために、2万4千人が神罰(疫病とも訳せる)によって倒れた。
イスラエル全男子の、およそ25人に一人が倒れた事になる。
なぜこの恐ろしい出来事が聖書に記されているか。
それは、現代を生きる私達への警告のためである。
『また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:8-11)

神様は寛大なお方だから、時代の流れに習って、性にみだらになったり、一緒に偶像を拝んだりしても許される、と思っているクリスチャンもいるが、そうだとしたら、この民数記の出来事や第一コリントの記述は、一体何のために記されているのだろう。
この事は当然、現代の私達にも関係があり、そのような事をしたら主に忌み嫌われ、災いに遭うからこそ、警告のために私達に向けて記されているのではないか。

『モーセとイスラエルの人々の全会衆とが会見の幕屋の入口で泣いていた時、彼らの目の前で、ひとりのイスラエルびとが、その兄弟たちの中に、ひとりのミデアンの女を連れてきた。』(民数記25:6)

言ってみれば、悔い改めの祈りの集会で、皆が真剣に罪を告白し祈り、主に立ち返ろうとしている最中、突然スマートフォンを出し、堂々と淫らな動画を再生しだした者が現れたようなものだろうか。
聖なる集会中に、そのような不遜な者が現れたなら、「クリスチャンならニコニコ黙って耐えている」場合ではない。
ピネハスが、祭司として手本となる行動を取っている。

『祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスはこれを見て、会衆のうちから立ち上がり、やりを手に執り、そのイスラエルの人の後を追って、奥の間に入り、そのイスラエルの人を突き、またその女の腹を突き通して、ふたりを殺した。こうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのがやんだ。』(民数記25:7-8)

礼拝中に敢えて不快な言動をして、皆の心を御言葉から逸らすような者や、兄弟姉妹の聖なる集いに、敢えて汚れを持ち込むような者たちによって、礼拝されるべきお方が侮られ、聖徒達の礼拝への意欲が汚され、そうして、主の怒りが燃え上がるのだ。
そのような時、私達もピネハスのように毅然と立ち上がり、「御言葉の剣」によってその者を刺し貫き、聖なる場から排除し、主の怒りをなだめるべきである。

祭司というと、どちらかと言うと、力を使わず、祈り、なだめる、平和な系統の人を思い浮かべるかもしれないが、時には、御言葉の剣を取り、神の怒りを引き起こす根源を抹殺するべき時もあるのだ。
レビ人が祭司の一族となった最初の成り立ちを思い出して欲しい。
あの金の子牛事件の時、血肉に逆らってでも、主に従い通したからだった。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1361 )

この出来事の故に、主は、ピネハスに永遠の祭司職の契約をされた。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)

ピネハスの子孫には、バビロン捕囚の後にイスラエルを霊的に立て直した祭司・エズラがいる。
彼も、イスラエルの中で異邦人と結婚した者達が現れた時には、ピネハスのように、毅然とした態度でつまづきとなる者を除き去った。

ピネハスやエズラ、レビ人のした事を見ると、ちょっとやり過ぎなのでは、と思うかもしれない。
しかし、御言葉を私達の常識に服従させるべきでなく、私達の思いを御言葉に服従させるべきであり、キリスト者である私達の内に入り込んでこようとする誘惑の芽には、それだけ、毅然とした態度で望まなくてはならない、という事なのだ。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を”殺して”しまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

礼拝説教メッセージ音声:誘惑には勝とうと思うな、逃げよ(民数記25:1-5):右クリックで保存

前回の所では、イスラエルの敵モアブが、大金を積んで有力な”預言者”バラムを雇って呪わせようとしたが、決して呪う事は出来なかった。
サタンの側が、いかに神の民を霊的に攻撃しようとしても、神の許し無しには、決して手出しできないのである。
私達キリスト者も、キリストにある限りは、100%安全な城の中で匿われているようなもので、世の何者も手を出す事は出来ないのだ。
それ故、敵は、別の戦法に出て来る。

『イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。』(民数記25:1-2)

敵は、難攻不落の城を直接攻撃する戦法でなく、城中の人の心を惑わし、城主と僕とをたがいに仲違いさせるような戦法を取ってくる。
すなわちサタンが取る戦法は、人を誘惑し、堕落させ、神の怒りを引き起こさせ、神が人を滅ぼすように仕向けるものである。
サタンのこの戦法は、人類初めの人・アダムの時からずっと用いて来たものである。

『イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。』(民数記25:3)
ここの「つきしたがった」は、ヘブライ語ではツァーマド、すなわち「くびきを共にする」事であり、イスラエルの民は、ペオルのバアルという異教の神と「くびき」を共にしたのである。

くびきとは、二頭の動物を一つにつなぎ、二頭分の力を得る農具であるが、ようするに、イスラエルの民が、偶像の神とくびきを共にし、一つとなったのである。
偶像崇拝と、姦淫の罪とは、イコールである。
男と女が交われば、一つ肉となるように、偶像崇拝も、悪霊と一つに交わる行為だからである。(1コリント10:20)
病気持ちの者と一つとなったら、自分もその病気を身に負ってしまうように、主に滅ぼされるべき異教の神と一つとなるなら、主の怒りと滅びをその身に負ってしまう。

パウロは、偶像崇拝と不品行に満ちた都市・コリントの信徒達に言っている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-16)

私達はどのようにして、このような姦淫の罪から身を守れば良いだろうか?
パウロは、続けて勧めている。
『だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(同17-18節)

ようするに、誘惑になるような人や物を、自分から遠ざける事、あるいは、自ら遠ざかる事。
それが、姦淫や偶像崇拝から身を守るベストな方法である。
ヨセフは、ポティファルの妻が性的誘惑を仕掛けて来た時、そんな言葉は聞き入れず、一緒にいる事もしなかった。
二人きりの時に強引に迫ってきたら、ヨセフは上着を捨てて逃げた。そのように、逃げるが勝ちである。(創世記39章)

人は、外的な攻撃にはよく抵抗できるものだが、気持ち良くさせる誘惑に対しては、弱いものであり、誘惑に身を晒してギリギリ一線を超えない程度に楽しむ人は、敗北のパターンに陥っている。
たばこや酒、ドラッグなどにはまってしまった人は、皆、そうだった。
だから、誘惑するものには近づかない事。それが最善である。

女性で失敗したソロモンも、言っている。
『遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府(よみ)の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。』(箴言5:3-6)
姦淫の誘惑は、蜜のように甘く、それはどんな勇者でも簡単に陰府に送り込んでしまう諸刃の剣であり、その最後は、苦よもぎのように苦い。
サムソンは、ペリシテの屈強な男たち千人がかりでも屈服させられなかったのに、たった一人の女によって、いとも簡単に屈服させられ、苦々しい最後を遂げてしまった。

『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。』(同7-8節)
誘惑への対処方法は、旧約も新約も全く一緒である。すなわち、近づかない、自ら離れる、それに尽きる。

『おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。』(同9-10節)
人生が80年だとしたら、伴侶と共に過ごす事のほうが、圧倒的に長い。
伴侶選びで失敗してしまうとしたら、人生の大部分を「無慈悲な者」に渡す事となってしまい、長年築き上げていく資産を、労苦の実を、他人の家に渡してしまうのだ。
サムソンは、妻の昼夜となく言い寄ってくる声に、死ぬほど辛い思いをして、尊厳を残虐な者へと渡してしまった。

『そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。』(同11-14節)
誘惑に陥っている人、姦淫の罪を隠している人は、神の会衆の中において、破滅に陥っている。
叱責を聞かず、教訓を聞かずに誘惑の穴に陥り、そこから這い上がれなくなって後悔しても、先立たずなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら(民数記24:14-25):右クリックで保存

バラムは続いて、遠い将来の事を予言する。
『ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉。神の言葉を聞く者、/いと高き者の知識をもつ者、/全能者の幻を見、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。』(民数記24:15-17)

バラムが予言した、イスラエルから出る一本のつえ。それは、ユダから出る支配者の杖(創世記49:9-10)、すなわち、ダビデ王の事であり、イエス・キリストの事でもある。
バラムは神の霊感によって、イスラエルから出る全世界を治める王、イエス・キリストを見たのである。

『敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。』(民数記24:18-19)
確かにエドムは、イスラエルが国内を通行する事を武力でもって邪魔したが、この時点、イスラエルはエドムに手出しする事が禁じられている。
しかしエドムはその後も、イスラエルに悪を図る事をずっと止めず、結局、主の怒りにあって滅びてしまう。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1652 )

『バラムはまたアマレクを望み見て、この託宣を述べた。「アマレクは諸国民のうちの最初のもの、/しかし、ついに滅び去るであろう」。』(民数記24:20)
当時、アマレクは国々の中で栄えていたが、後に、イスラエルによって打ち負かされてしまう。その時、バラムもアマレクの中にいて、一緒に剣で殺されてしまうのだが、その事については後述する。

『彼はまたこの託宣を述べた。「ああ、神が定められた以上、/だれが生き延びることができよう。キッテムの海岸から舟がきて、/アシュルを攻めなやまし、/エベルを攻めなやますであろう。そして彼もまたついに滅び去るであろう」。』(民数記24:23-24)
キティムはキプロス島、つまり、地中海沿岸地域である。
そこから船団が来て、アシュル(アッシリア)と、エベル(ヘブル:イスラエル)を悩ます・・・この事は、ローマ帝国がアッシリアやイスラエルを席巻した史実と一致する。

『こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。』(民数記24:25)

バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。
では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。

次回、民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)

バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。

彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。

『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

礼拝説教メッセージ音声:神の民を見た時の感動(民数記24:1-13):右クリックで保存

『バラムはイスラエルを祝福することが主の心にかなうのを見たので、今度はいつものように行って”魔術”を求めることをせず、顔を荒野にむけ、目を上げて、イスラエルがそれぞれ部族にしたがって宿営しているのを見た。その時、神の霊が臨んだので、彼はこの託宣を述べた。』(民数記24:1-3)
バラムが託宣を求めるために、今までしてきた事は、結局、”魔術”だったようである。
彼は、主の御心は「イスラエルを祝福する事」であると明確に示されていたのに、「もしかしたら別の示しがあるかもしれない」と思って、バラクに言われるままに、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりした。しかし結局、そうした全ては、無駄だと悟ったので、もはや魔術は止めにして、目を上げ、イスラエル12部族の宿営している様に目を向けたのだ。

彼が見たイスラエル六十万の宿営は、神の幕屋、すなわち神を礼拝する所を中心とし、そしてそれぞれの部族は、好き勝手な所に無秩序に住むのではなく、それぞれが主から定められた定位置に宿り、導きに従って進み、導きに従ってとどまっている。
そして、この隊形は、上から見ると巨大な十字架の形を成している。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1588
彼がその、壮大な十字の陣形を見た時、神の霊が臨んだ。

「ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉、神の言葉を聞く者、/全能者の幻を見る者、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。」(民数記24:3-4)

彼が語り出した言葉は、相変わらず「ベオルの子バラムとしての託宣」であるが、しかしそれは神の霊に促された言葉であり、その内容は、イスラエルへの祝福に満ちている。
『ヤコブよ、あなたの天幕は麗しい、/イスラエルよ、あなたのすまいは、麗しい。それは遠くひろがる谷々のよう、/川べの園のよう、/主が植えられた沈香樹のよう、/流れのほとりの香柏のようだ。』(民数記24:5-6)

私達は「これをせよ」という主の御心が明らかに示されているのに、それを中々為さなかったり、あるいは「これはするな」という主の御心が明らかに示されているのに、それを止められなかったり、という事がある。
主日の礼拝を守りなさい、とか、嘘をつく癖はもう止めなさい、とか、御心が既に示されているのに、「もう少しくらい良いだろう」と、だらだら先延ばしにしてしまったりいては、いつまで経っても、主の霊が臨む事は無い。
私達も、この時のバラムのように、御心に反する事は、もう止めにして、目を上げて十字架を仰ぎ見るならば、主の霊が臨み、次に為すべき事や歩むべき道が新たに示されるのだ。

バラムが見た、巨大な十字を描いているイスラエルの隊形は、何と壮麗壮大で美しかったことだろう。
彼は、イスラエルの民が、主の命令どおりの所に留まり、礼拝を中心として、導きに従って歩み、導きに従って留まる、その神の民としての歩みを見た時、神の霊感に動かされ、感動し、祝福せざるを得なかったのだろう。
バラムはその「はじめの感動」を、いつまでも保ち続けていればよかったのだが、残念ながら、そうではなかった。

私達キリスト者は、いつまでも礼拝を中心とした歩みを保ち続け、主の導きに従って歩み、主の導きに従って留まり、主イエスにあって神の民とされた「はじめの感動」を、バラムのように手放す事は決してせず、いつまでも保ち続けたい。

礼拝説教メッセージ音声:託宣を求めたがる人の罠(民数記23:13-30):右クリックで保存

『バラクは彼に言った、「わたしと一緒にほかのところへ行って、そこから彼らをごらんください。あなたはただ彼らの一端を見るだけで、全体を見ることはできないでしょうが、そこからわたしのために彼らをのろってください」。』(民数記23:13)
バラクは、預言者バラムの託宣が、期待外れだったので、それなら、今度は場所を変えてみたら、神はもしかして心を変えて、自分の思い通りの事を言ってくれるかもしれない、と思い、バラムを別の所へ連れて行った。

『そこでバラムはまたこの託宣を述べた。「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。神は人のように偽ることはなく、/また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。』(民数記23:18)
前回の一回目の託宣の時もそうだったが、バラムが言っている事は一見、預言のように見えるが、実はそうではなく「託宣(ヘブル語「マーシャール」:格言、決まり文句、寓話)」である。

彼の言葉が、それっぽく聞こえるのは、彼がヘブル詩形式で語っているからだ。
ヘブル詩には、同じ内容の事を平行して繰り返す特徴がある。例えば、「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」は、同じ内容を平行して繰り返しているし、「言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。」も、同様である。
聖書はこのような形式の言葉が多いため、バラムの言葉が、それっぽく聞こえるのである。

『祝福せよとの命をわたしはうけた、/すでに神が祝福されたものを、/わたしは変えることができない。』(民数記23:20)
このバラムの言葉を見ると、彼は「預言」を語っているのではなく、やはり「彼の格言」を語っているのだということが分かる。
なぜなら彼の言葉の源は、主ではなく、「わたし」(バラム)だからである。
預言の源は神であり、人はその届け人に過ぎない。
それ故、預言には神の権威に裏付けされた力があるが、それに対し、託宣の言葉の源は、その人であり、その人の権威程度の力しか無い。

バラムが「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」と語りかけている以上、この格言はバラクに対して語られたものであり、バラクは少なくとも、この格言に従うべきだった。
すなわち、神はイスラエルに祝福の約束をされており、それは決して変更する事なく必ず成し遂げ、そのイスラエルに手を出すなら、ただではおかない事を、バラクは悟り、神を恐れ敬うべきだった。

それなのにバラクは、この格言を聞いても、何も得る所が無かった。それは次の言葉で分かる。
『バラクはバラムに言った、「あなたは彼らをのろうことも祝福することも、やめてください」。』(民数記23:25)
この言葉には、悔い改めも、神への恐れ敬いも、一切無く、ただ、自分の思い通りに行かなかった事への苛立ちのみがある。
これが、託宣を求める者が陥る罠である。
いかに素晴らしい言葉を聞いても、気に入ったか、気に入っていないかの印象だけが残っていて、内容を全く得ていないのだ。

キリスト者の中にも、霊的指導者に、託宣や決まり文句、寓話の類を求めて来るような人がおり、そのような人は、「それっぽい」話を聞いたなら、それで良い気になって、しかし蓋を開けてみると、気に入ったか気に入っていないかの印象しかなく、内容がすっかり抜けてしまっていたりする。
しかし、忘れてはならない。
人が伝えられる最も良き言葉は、聖書の御言葉であり、御言葉を信じて実行する人のみが、主から祝福を得る事を。
そして、聖書の御言葉が示されたからには、たとい、ろばが語っていたとしても、それに聞き従わなくてはならない。

『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:2-4)

礼拝説教メッセージ音声:礼拝「もどき」の罠(民数記23:1-12):右クリックで保存

『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1-2)

バラクは、イスラエルを呪ってほしい、という自分の願いを叶えるために、バラムを雇ったが、その動機は、占いや呪術を求めて霊能者の元に通う人そのもので、主の御心を求めて預言者に聞く人の持つべき心とは、正反対を向いている。
占いや呪術の類に行く人の動機の源は、自分の欲望にあるが、主に御心を求めて預言者に聞きに行く人の心は、本来、自分には無く、主にあるはずである。

『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1)
祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、私達には「良いこと」のように思えるが、聖書をよく調べると、彼のしている事は、御言葉に適っていない事が分かる。
いけにえを捧げるべき祭壇は、唯一であり、それ以外に祭壇を築いて捧げる事は、御言葉に沿っていないのだ。(申命記12章、ヨシュア記22章)

人は思う。
祭壇でいけにえを捧げる事は「良いこと」で、それなら、祭壇を七つも築いて捧げるなら、主はもっと喜んで下さるのではないか、と。
しかし、人が思う「良いこと」には、呪いの罠が潜んでいる。
私達は、自分の思い描く「良い」と思うことよりも、御言葉を優先させるべきである。
人がそれぞれ「良いこと」を思い浮かべ、それぞれが邁進するなら、あの、士師記の荒んだ時代に突入してしまうのだ。(士師記18:1,21:25)

私達が捧げるべき祭壇、それは、十字架以外に無い。
私達の肉由来の全ての思い、御言葉に逆らう全ての意志、嵐のように波打つ感情の全てを、十字架に釘付けにし、キリストに服従させるなら、新しいいのちの復活の領域に入り、復活のいのちのパワーが働き、キリストのものとされ、もはや、世の何者も手出しできなくなるのだ。
『神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリント10:5-6)

『神がバラムに会われたので、バラムは神に言った、「わたしは七つの祭壇を設け、祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました」。』(民数記23:4)

人は主張する。
主よ、私はあなたのために、あなたの好きな祭壇を、七つ造りました、私はそこで何々を捧げました、と。
しかし、祈りの場面で「私はあれをしました、これをしました」と自己主張する事は、パリサイ人の道である。
『自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。』(ルカ18:9-14)

『バラムはこの託宣を述べた。「バラクはわたしをアラムから招き寄せ、/モアブの王はわたしを東の山から招き寄せて言う、/『きてわたしのためにヤコブをのろえ、きてイスラエルをのろえ』と。神ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。主ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。』(民数記23:7-8)

バラクの思いは、イスラエルを呪って欲しい、だった。
しかし、全能なる神の御心は、イスラエルを祝福せよ、である。
主の御心が「祝福せよ」であるなら、いかに世の有力な王が大金を積んでも、いかに有能な預言者が呪おうとしても、主が、そうはさせないのだ。

祭壇をたくさん築けば良い、というものではない。
いけにえをたくさん捧げれば良い、というものではない。
大金を積めば良い、というものではない。

主が喜ばれるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。(詩篇51:17)
「主はその御言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。」(1サムエル15:22-23)

御心を外した祭壇構築や、いけにえの数々、費やした金銀は、無駄以外の何者でもない。
大切なのは、砕かれた悔いた心をもって、御言葉に聞き従うことである。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣の前に(民数記22:31-41):右クリックで保存

『このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。』(民数記22:31)
バラムは、目が塞がれていた。富と名声を得ようという貪欲さによって。

人は、内から湧いてくる肉的な要因によって、真理が見えなくなってしまう事がある。
ハガルの場合は、水が切れた事の心配と絶望感で目が塞がれ、近くに井戸があるのが見えなかった。(創世記21章)
エマオの途上の二人の弟子も、イエス様が十字架につけられた事へのショックと、これからの心配とのゆえに目が塞がれて、目の前にイエス様が現れたのに、しかも、イエス様がずっとお語りになっていたのに、イエス様だと気づかなかった。
そしてバラムの場合、欲に目が眩んでいたがために、ろばに見えていた御使いが、見えなかった。
私達は、真理を見えなくさせてしまう、肉的な思いや諸々の心配事を、主の御前に取り扱っていただく必要がある。

『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
ここは欽定訳聖書では「because thy way is perverse before me(あなたの道は私から踏み外れていたから)」とあり、私達も、主の道から踏み外れてしまうと、今まで味方だった主は、今度は敵対して立つ事になってしまう。

『ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。』(民数記22:33)
バラムは剣でろばを殺そうとおもったが、実はバラムは、このろばのおかげで剣で殺されずに済んでいたのだ。

主の剣が立った時は、どうするのが良いか。
ヨシュアが模範的な対応をしている。

『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:13-14)
ヨシュアが目の前にそびえ立っているこの堅固な町を、どう攻略しようかと頭がいっぱいとなっていた時、彼は知らない間に、主の軍勢の将さえも「自分の味方につくかか、それとも敵につくか」という、自分にとって損か得の秤にかけてしまっていた。

しかし主は、そのような自分主体の質問には「いや」と応え、そしてご自分の聖なる立場をお示しになる。
ヨシュアにそれが示された時、彼は実に正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:14)
彼は地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明らかにし、「何を告げようとされるのですか」と言って、主の言葉を待った。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じられた。

私達が世の中を渡り歩く時、様々なほこりや汚れを付けて来る。
世の人の、良からぬ思いや、世的な価値観など、そうした罪や汚れを付着させてしまう。
私達が主の御前に出る時は、そうした世的な汚れやしがらみという履物を脱ぎ捨てて、出る必要がある。

みことばの剣は、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うには、あまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ御言葉に従順するかどうかが試され、そして従順する時、私達はあらゆる問題に対する解決が与えられるのである。
ヨシュアは、御言葉の通り忠実に実行し、そうして大勝利を収めた。

主の剣は御言葉であり、敵を切り裂くか、それとも自分を切り裂くかの「諸刃の剣」である。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)
この諸刃の剣を正しく用いる方法は、御言葉に従順し服従する事以外に、無い。
聞き従い服従する人にとっては、御言葉は勝利の剣であるが、主を軽んじ自分の肉欲によって歩む者には、自らを傷つける災いの剣となってしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:しゃべり出すろば(民数記22:21-30):右クリックで保存

『明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。』(民数記22:21-23)

バラムは、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっているのが、見えなかった。
彼は、「呪うものは呪われ、祝福する者は祝福される」と言われている程の、著名で力ある預言者だと言うのに、ろばにさえ見えていた主の使いと抜き身の剣が、見えていなかった。
いかに有力で著名な預言者と言えども、欲に目が眩み、富と名声を手に入れようと奔走しだすなら、動物のろばが見えるものさえも、見えなくなってしまうのだ。

主の剣は御言葉であり(エペソ6:17、ヘブル4:12)、私達は常日頃、この御言葉に目を留め続ける必要がある。
そうでないと、私達が御心に反して、主が剣を立てて立ちふさがっている時、何も見えなくなってしまい、そのまま滅びへと邁進してしまうのだ。

バラムが行こうとした道は、不義の報酬を愛する道であり、主の御言葉を取り次ぐ「預言者」にとって、不義の富を追い求めて御言葉を脇に押しやる事は、「気違い沙汰」なのである。(2ペテロ2:15)
主は、どのようにして、彼の気違い沙汰を止めたか。
それは、物言わぬろばが口を開き、人間の言葉を語る事を通して、である。

『主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。』(民数記22:28-30)
有り得ない事に、ろばは人間の言葉で物を言った。
しかしバラムは、何の不思議も無く、普通にろばと会話した。
それ程彼は欲に目が眩んでいて、富と栄誉を得るために奔走するのに必死だったのだろう。
彼は、自分の思い描いた通りに動かないろばに大きな怒りを燃やし、ろばから「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」と問われるまで、主の道に反していた事も、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっていた事も、気づかなかったのだ。

主は、エルサレムに入られる時、ろばを召し入れるために言われた。
『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。』(マタイ21:2-3)

イエス様は、ろばがお入り用になった時、これこれのろばが、これこれの場所にいるから、縄をほどいて、連れて来なさい、と言われた。
主が私達を召しだされた時も、同じだったのではないだろうか。
ろばが主のもとに連れて行かれる時、誰かが何かを言っても、「主がお入り用なのです」と言わせて、誰も、主のもとに行かせるのに、邪魔しないようにして下さる。

私達は、イエス様をお乗せする「ろば」のようなものであるが、時に私達も、普段仕えている預言者が、欲に目が眩んで気違い沙汰に陥る事があるかもしれない。
彼を乗せて、主の剣が立っている所へと、鞭打たれながらも邁進して行かされてしまうような事があるかもしれない。
そのような時、主の剣が立っているのが見えたのなら、怒られようとも、呪われようとも、立ち止まるべきである。
その預言者の気違い沙汰を防いで、いのちを救うために。
いかに相手が、それまで支えてきた著名な預言者であろうとも、主は、ろばを弁護して下さったように、私達のほうを弁護して下さるのだ。

バラムのような気違い預言者を載せるろばではなく、イエス様をお乗せして運ぶろばとして、大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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