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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神の会衆に入れる者とは(民数記31:13-24):右クリックで保存

『ときにモーセと祭司エレアザルと会衆のつかさたちはみな宿営の外に出て迎えたが、モーセは軍勢の将たち、すなわち戦場から帰ってきた千人の長たちと、百人の長たちに対して怒った。』(民数記31:13-14)
今回の圧倒的勝利の戦績からすれば、むしろ褒められて然るべきの所だが、モーセは、彼らの「ある事」を怒った。
それは、彼らが女たちを生かしておき、分捕りものとしてイスラエルの陣営に持ち込もうとした事である。

そもそも、この戦いでいともたやすく勝利できたのは、主がそのようにして下さったからである。
しかし、その主を怒らせる要因となるようなものを、彼らは持ち込もうとしたのだ。

『モーセは彼らに言った、「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。彼らはバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至った。それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。』(民数記31:15-17)

イスラエルを誘惑して堕落させ、疫病を起こらせたのは、この女達であった。(民数記25章)
モーセは、そのような誘惑の元になりそうなものは、持ち込んではならないと命じているが、私達も、誘惑の元になりそうなものを、家の中、持ち物の中、あるいはコンピューターの中に取り込まないよう、気をつけるべきであり、既に取り込んでしまっているものは、速やかに抹消すべきである。それは、私達が主との関係を正しく保つためである。

今回のこのモーセの指示は、どのようなものが神の会衆に入る事が出来るか、また、どのようなものは入れないかを表している。

まず、いかに神の民といえども、戦争などで人を殺した人や、殺された人に触れた人は、所定の清めを経なければ宿営に入れない。(民数記31:19)
私達キリスト者も同じように、世に出て戦い、汚れを受けてしまった場合は、主の血潮によって清めていただいてから交わりに加わったほうが良い。
それは、世の汚れを会衆の中に持ち込まないためである。

ミデヤン人の中で、神の会衆に入る事が出来たのは「男を知らない娘」だけであった。(17節)
この事は、次のような霊的示唆を示している。

すなわち、主の御前に「男の性質」を持つ者、つまり自律的に主を離れ、自分が主人となる「男の性質」を持つ者は、いかに幼くても、神の会衆には入れない。
また、男知った事のある女、すなわち、神の以外の者と、既に結合してしまっている女も、そうである。なぜなら、世と一体化している女は、神の会衆を世の価値観へと引きずり込んでしまうからだ。
実際、イスラエルの会衆は、そのような女たちに惑わされたために、あのコズビの事件へと発展してしまったのだ。

神の会衆に入れる者とは、神から離れて自立する「男の性質」を持つ者ではなく、また、女であっても既に世の価値観と一体化している者でもない。
何にも染まらず、純粋に主をのみを主人とできる人のみが、神の会衆に入れるのである。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコ10:14-15)

また、金銀や青銅、鉄など、火に耐える物は全て火の中を通さなければならず、また、衣服や毛皮、木の器など、火に耐えないものは水の中を通さなければならない。(民数記30:20-23)
私達キリスト者も、水のバプテスマ、あるいは、聖霊と火のバプテスマを通って、神の会衆に入って来た。(バプテスマは「浸し込み」という意味)
水のバプテスマは、罪に対して死ぬために、「死」に浸しこまれるものであり、聖霊(火)への「浸し込み」がなされると、力を受け、力強きイエスキリストの復活の証人となる。(使徒1:8)

そういうわけで、神の会衆に入って主の御前に出られる人とは、何にも染まらぬ女の性質を持つ人であり、きよめの水を通り、あるいは聖霊の火への浸し込みが為された人である。

礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた戦い(民数記31:1-12):右クリックで保存

『さて主はモーセに言われた、「ミデアンびとにイスラエルの人々のあだを報いなさい。その後、あなたはあなたの民に加えられるであろう」。モーセは民に言った、「あなたがたのうちから人を選んで戦いのために武装させ、ミデアンびとを攻めて、主のためミデアンびとに復讐しなさい。すなわちイスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人ずつを戦いに送り出さなければならない」。』(民数記31:1-4)

主は、モーセの生涯最後の働きとして、ミデヤン人への復讐を命じられた。
ミデヤン人はイスラエルを誘惑し堕落させ、イスラエルはその主への背きのゆえに二万四千人が倒れたからだ。

『そこでイスラエルの部族のうちから部族ごとに千人ずつを選び、一万二千人を得て、戦いのために武装させた。モーセは各部族から千人ずつを戦いにつかわし、また祭司エレアザルの子ピネハスに、聖なる器と吹き鳴らすラッパとを執らせて、共に戦いにつかわした。彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。』(民数記31:5-7)

モーセは、戦いに出て陣頭指揮をしたのではなく、イスラエルが今後カナンと戦う際に気をつけるべき重要な事柄のアドバイスをするのみで、実働は全て、新しい世代に託している。
実際の戦闘には、12部族から各千人ずつが召集され、祭司ピネハスが、ラッパを吹き鳴らす祭司として、そして執り成し手として、参加している。
祭司が吹き鳴らすラッパは、戦闘の合図であり、神の救いを宣言する音でもある。(民数記10:9)
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1587 )

この戦いは、実にあっけなく勝利したかのように記されているが、その内訳を見ると、実に奇跡の連続であり、まさに神の救いが為されたものだった。
分捕った分量からすれば、敵軍は自軍の少なくとも三倍以上はいたはずなのに、なんと戦死者は一人もおらず、おびただしい量の戦利品を持ち帰るだけで、かなり大変だったのでは、と思えるほどである。

主は確かに戦いに勝利させて下さるが、勘違いしてはならない。
神の民は、何でもかんでも戦争して勝利して祝福される、というものではない。
歴史を見ると、「キリスト教徒」が欲深く身勝手な動機で戦いを仕掛けて、平和の神の御名を汚す事例が、実にたくさんある。

神の名を振りかざし、正規の戦いだ、とは言ってみても、実のところは相手が憎いからとか、相手国の資源を奪いたいからとか、聖なる御心からかけ離れた動機で戦争し、むしろ、サタンに用いられている事が多い。
主は、愛なる神であり、平和の神であり、悪人が滅びるのは望んでおられない。
そんな主が戦いを命じられる場合には、必ず御心があり、それを外した身勝手な戦いは、してはならないのだ。

神の命じられる戦いは、世の中で行われる戦争とは、全くタイプが違う。
世の戦争は、分捕りたいからとか、憎いからとか、スカッとしたいとか、必ず人間の汚れた欲望が絡んでいるが、主が戦いを命じられるのは、神の民をスカッとさせるためでも、他を殺して自分だけ富ませるためでもない。悪い国々を滅ぼすためである。(申命記9:3-6)

どのような者が滅ぼされるべきか。それは、人をつまづきへと導く者である。
主は、人を堕落へと誘うような者に対しては、厳しい。
この度、ミデヤン人に復讐するよう主が命じられたのは、彼らは巧妙にたくらんだたくらみで誘惑し、多くのイスラエルの民を堕落へと導いたからだ。(民数記25:17-18)

新約でも、主は言っている。
『わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』(マルコ9:42)
もし手が、足が、目が、つまずきの元となるのなら、それを切って捨ててしまいなさい、体全部がゲヘナに投げ入れられるよりは、そのほう良い、と言っている。
それ程に、私達の内からつまづきの元を、気をつけて取り除かなくてはならないのだ。
サタンはなぜ決して赦されないのか。
それは、神の似姿である人間全体をつまづかせ、堕落へと導き、死をもたらしたからだ。

『その殺した者のほかにまたミデアンの王五人を殺した。その名はエビ、レケム、ツル、フル、レバである。またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。』(民数記31:8)
バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなく、不義の報酬を愛し、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導き、災いをもたらしたのだ。
それで彼は、ミデヤン人の中をうろうろしていている内に、戦いに巻き込まれ、死んでしまった。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1669 )

いかにイスラエルの遠い未来を予言したとしても、不義の報酬に目がくらんでしまうと、滅びに向かっている自分自身の将来すら、見えなくなってしまうのである。
『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』(1テモテ6:9)

礼拝説教メッセージ音声:女性が誓う場合(民数記30:3-16):右クリックで保存

男性が「誓う」場合の指示は、わずか2節で終わったが、女性が誓う場合は、3節から15節にかけて詳細に記している。

『またもし女がまだ若く、父の家にいて、主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようとする時、父が彼女の誓願、または彼女の身に断った物断ちのことを聞いて、彼女に何も言わないならば、彼女はすべて誓願を行い、またその身に断った物断ちをすべて守らなければならない。しかし、彼女の父がそれを聞いた日に、それを承認しない時は、彼女はその誓願、またはその身に断った物断ちをすべてやめることができる。父が承認しないのであるから、主は彼女をゆるされるであろう。』(民数記30:3-5)
未婚の女性が誓う場合は、父親の承認が必要であり、結婚した女性の場合は、夫の承認が必要である。(6-15節)
『もし夫が彼女に何も言わずに日を送るならば、彼は妻がした誓願、または物断ちをすべて認めたのである。彼はそれを聞いた日に妻に何も言わなかったのだから、それを認めたのである。しかし、もし夫がそれを聞き、あとになって、それを認めないならば、彼は妻の罪を負わなければならない」。』(民数記30:14-15)
また、やもめとなった女性や、離縁された女性の誓願や物断ちは、彼女自身が責任をもたなければならない。(9節)

基本的に、女性は男性の保護下にあり、男性は保護している女性について責任を負っている。
それは、創世の当初より、女性は男性の助け手として創られており、男性の栄光をあらわす器として(1コリント11:7)、男性の保護下に囲われるよう創られているからである。
『妻(女)たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。』(エペソ5:22-24)

例えば、真珠は宝石箱の中に囲われ、守られ、時に取り出されては、その美しさを賞賛され、繊細さを愛でられるものだが、もし、真珠が自立して足が生え、箱から抜け出して何かしでかそうとするなら、たちまち傷を受けて不幸になってしまう。
そのように、女性は、男性の保護の囲いの内に守られ、愛でられる状態が、一番、創造の理に適った事である。

そして男性は、女性を愛し(アガペー:全てを尽くして愛し)、守り、自分のからだとして愛し、家の主として、家全体を神である主に忠実に仕える責任を負っている。
『夫(男)たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。』(エペソ5:25-28)

エバは蛇にそそのかされ、自立的に神の命令を破り、しかも、夫アダムの助け手としての領分を超えて、夫を堕落へと引き込んだ。
アダムも、神の命令より妻の言う事を聞き入れ、その結果、全人類に死が入り、被造物全体は呪われてしまった。
エバが先に失敗したのに、聖書はいつも「アダムが失敗した」と言っているのは、男性は、保護下にある女性の責任をも負っているからである。
それで女性は、男性を頭として歩むべきなのである。

私達が神から創られた分に応じ、与えられた役割の範疇内に留まって物事を為すなら、全ての事は秩序正しく、創世のはじめのような調和と美しさが保たれるが、もし、主から創造された分を超えて何かを仕出かすなら、無秩序と破壊をもたらし、不幸を招く事となる。
与えられた分、与えられた責任に応じ、それぞれの場で、それぞれの役割をしっかりと果たし、主の栄光を表していく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「誓い」について(民数記30:1-2):右クリックで保存

民数記30章で、主は「誓い」について指示を与えている。
『モーセはイスラエルの人々の部族のかしらたちに言った、「これは主が命じられた事である。もし人が主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言ったとおりにすべて行わなければならない。』(民数記30:1-2)

聖書には、結構多く「誓い」をする場面がある。
信仰の偉人・アブラハムは、ソドムの王に「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」(創世記14:22-23)と言って堕落と不品行の富を受ける事を拒否し、天と地を造られた主が自分を富ませて下さる事を大胆に告白した。
また、年を重ねた時、家の最年長のしもべに「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」(創世記24:2-4)
と言って、見事、立派な信仰の妻リベカをイサクの元にむかえさせた。
他にも、ヤコブやヨセフ、モーセ、遊女ラハブなど、それ以外にも多くの信仰の偉人達が立派に誓いを果たし、その信仰をひときわ輝かせた箇所が聖書にある。

しかしその逆に、軽率な誓いをして、誓いを破り、かえって恥ずかしい思いをした例も、多くある。
ペテロが「イエスという者なぞ知らない」と、呪いをかけて誓ったのは、その好例だろう。
エフタは軽率な誓いをして、娘と自分自身を苦しめ(士師11章)、サウル王は、彼自身の軽率な誓いの故に、多くの人を苦しめた。(1サムエル14章)
信仰のしっかりした人が立てた誓いは、豊かな実りと栄光をもたらすが、軽率に立てる誓いは、その人自身と周りの人々に災いと恥を招くものだ。

誓いは、そもそも、すべての反対を封じる保証とするために、自分より上のものをさして誓うものである。(ヘブル6:16)
だから、人が何かをさして誓い、そしてそれを破る時、その人は、「さした」ものを冒涜する事になる。
それでイエス様は、人は天をさしても、地をさしても、自分の頭をさしても、決して誓ってはならない、と、言われた。(マタイ5:33-37)
天は神の御座であり、地は神の足台であり、そして、自分自身の体でさえ、実は自分のものではなく、主のものであるからだ。
人は、自分の体は自分自身のものだから、好き放題にして良い、と思ってはいても、髪の毛さえ白くも黒くもできず、主が定められた寿命を、一日も先延ばしにする事さえできないのだ。

主は真実であるが、それに対し、人間は不真実である。
『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。』(ローマ3:10-14)
人間誰しも欺きがあるゆえに、「誓い」という言葉がどの言語にも存在するわけだが、真実である主は、そもそも誓う必要は無い。
それなのに、「信じて受け止める」事さえままならない不真実な人間を、安心させるために、主は、わざわざ誓いを立てられた。

『神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。
いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。
それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。』(ヘブル6:13-19)

主こそ真実である。
いかに何億人もの人間が、不真実を犯したとしても、それによって主の真実が邪魔される事など、絶対にあり得ない。(ローマ3:3-5)
全ての人を偽り者としても、主こそ真実とすべきであり、主のさばきを正しいとするべきである。

そして今や、イエス・キリストを信じる信仰による神の義が、明らかにされた。
『それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:22-26)

私達はイエス・キリストを信じる信仰によって、不真実な私達であっても、神の前に真実とされるのである。

礼拝説教メッセージ音声:第七月の祭り(民数記29:1-40):右クリックで保存

29章は、第7月(チスリの月、天地創造を期限とした新年)に行われる祭りにおいて、主に捧げる捧げ物の指示である。

『七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。』(民数記29:1)
7月第一日、元旦に当たる日は、ラッパの祭りの日である。
この日は、若い雄牛を1、雄羊を1、一歳の雄の傷のない小羊を7の割合で捧げるように示されている。
また、新月祭の時と同様に、雄牛一頭につき小麦粉6.9リットルを、雄羊一頭につき小麦粉4.6リットルを、小羊一頭につき小麦粉2.3リットルを添えて捧げるように、また、他にも罪祭として雄やぎ一頭をささげるようにと、命じられている。

『またその七月の十日に聖会を開き、かつあなたがたの身を悩まさなければならない。なんの仕事もしてはならない。』(民数記29:7)
七月の十日は、大贖罪日であり、年に一度、大祭司が血を携えて至聖所に入ってイスラエル全体の罪の贖いをする日である。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1471

この日もまた、ラッパの祭りの日と同様に、若い雄牛、雄羊、一歳の雄の傷のない小羊を、それぞれ、1,1,7の数で捧げ、それぞれに添えて捧げる小麦粉の分量も同じであり、罪祭も同様に雄やぎ一頭をささげるよう命じられている。

『七月の十五日に聖会を開かなければならない。なんの労役もしてはならない。七日のあいだ主のために祭をしなければならない。』(民数記29:12)
この七日間は「仮庵祭」と呼ばれる祭りで、祭りの期間、仮小屋(仮庵)を建て、ぶどうやいちじくなど秋の収穫を飾ってそこに住み、主からいただいた収穫を感謝して喜ぶ祭りである。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1513

この祭の期間は、一年で最も盛大にいけにえが捧げられる時である。
まず、祭りの第一日目は、若い雄牛が13,雄羊が2、一歳の雄の傷のない小羊が14も捧げられ、それに添えられるものも同じ分量で捧げられ、また、罪祭も同様にささげられる。
第二日目は、若い雄牛、雄羊、一歳の雄の傷のない小羊は、それぞれ、12,2,14の割合で捧げられる。つまり、前日と比べて雄牛が一頭減るだけで、あとは第一日目と全く同じである。
第三、第四日と日を追うごとに、雄牛の数だけは一頭ずつ減っていくものの、他のいけにえは全く同じ分量が捧げられ、それが第七日目まで続く。
つまり、仮庵祭の全期間を通じて捧げられる動物の合計は、雄牛は七十頭、小羊は九十八頭、雄羊十四頭、雄やぎは七頭、かなりの分量である。

この祭りは、最も盛大で喜びの祭りのはずである。
仮小屋を作って、その中をあらゆる果物や地の産物で飾り、その香りを嗅ぎながら、主に感謝を捧げつつ、兄弟姉妹たちと小屋の中で過ごす。
聞いているだけでも、わくわくしそうな祭りである。
しかしどういうわけか、この祭りは、ヨシュアの時代からバビロン捕囚後までの長い間、ずっと疎かにされていたようである。(ネヘミヤ記8:13-18)

人が神から離れる時は、主へ捧げ物を惜しんで、真っ先に切ってしまうのかもしれない。
しかし、人が喜んで捧げるのであれば、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さるのである。

主はなぜ、28-29章にわたって、事細かく捧げ物の指示をされたか。それは、祝福を受けるための法則は、主に捧げる事がまず先にあるからだ。
人が主に為すべきは、まず「捧げる事」で、そうするなら、主の側から祝福をいただく。この神と人との双方向のコミュニケーションこそ、永遠に続く礼拝である。

礼拝説教メッセージ音声:祭りの実体であるキリスト(民数記28:11-31):右クリックで保存

11-15節は、新月ごとに行われる「新月祭」において、主に捧げるべきものが定められている。

新月祭で、全焼のいけにえとして捧げられる動物は、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の傷の無い小羊七頭である。
それに添え、雄牛一頭につき、小麦粉6.9リットルに油を混ぜたものを、雄羊一頭につき、小麦粉4.6リットルに油を混ぜたものを、小羊一頭につき、小麦粉2.3リットルに油を混ぜたものを素祭として一緒に捧げるように命じられている。
また、注ぎの捧げ物として、ぶどう酒を、雄牛一頭にき1.9リットル、雄羊一頭につき1.3リットル、小羊一頭につき0.95リットルを、ささげなければならない。
その他に、罪祭として、雄やぎ一頭を主にささげなければならない。

ここで添えて捧げられる小麦粉も、ぶどう酒も、結構な分量である。
荒野を旅する民には、畑は無いので、当時のそれらは、貴重なものであるが、主は、乳と蜜の流れる約束の地において、それらを十分に与えて余らせるお方である。
主は、喜んで捧げる人には、さらに押入れ、揺すり入れして多くを与えて下さるお方だ。

16-25節は「過越祭」と、それに続く七日間の「種を入れないパンの祭り」にて捧げるべきものが定められている。
既に習った通り、過越祭は、正月14日の夕に子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗り、夜、それを食して、主がイスラエルの民をエジプトから贖い出して下さった事を記念する祭りであるが、この祭りはまさしく、キリストを表し、サタンから私達を贖い出すために、ほふられた小羊となって血を流し、その血によって私達は滅びを免れた事を予表している。
この祭りの間は、毎日、新月祭と同じいけにえと添え物が捧げられる事になる。

26-31節は「初穂の日」すなわち「七週の祭り」にて捧げるべきものが、定められている。
初穂の日は、種を入れないパンの祭りの安息日から50日目の日であり、それはすなわちペンテコステの日、イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主に捧げられる者の初穂として公に示された日である。
この日も、新月祭や過越祭の時と同じいけにえと添え物が捧げられる。

これら祭りで捧げられる動物も、添えられるものも、そして、これらの祭り自体も、全てはイエス・キリストのご性質を表している。
旧約の全ての事は、イエス・キリストをあらわしており、旧約の実体であるキリストがあらわれた今、私達にはそのような動物を捧げる礼拝は、もはや無用である。

パウロは、日ごと月ごと年ごとの例祭を守ろうとしているガラテヤの人たちに警告している。(ガラテヤ4:8-11)
キリストを知り、キリストに救われておきながら、それでなお例祭などの「律法」によって義に至ろうとする行為は、ナンセンスだ、と。
『それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。』(ガラテヤ3:19)

律法とは、人には「罪」という違反がある事を示すためのものだと、書いてある。
だから、私達にはまことの犠牲が必要であり、まことの贖いが必要である事を渇望するようになり、そうして人は、救い主へと導かれるのである。
『このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』(ガラテヤ3:24-26)

律法の実体であり、まことのいけにえとして、ただ一度完全な贖いをして下さったキリストが現れた以上、もはや、私達は律法という養育係の下にいる必要は無く、日ごと、月ごとのいけにえは不要となった。
『あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
だから私達は、感謝して、日ごと、月ごと、年ごとに、キリストを覚え、キリストに感謝しつつ、世にある日々を送って行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:朝ごとに、夕ごとに(民数記28:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に命じて言いなさい、『あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない』。』(民数記28:1-2)
後に続く28-29章は、主への日ごと、週ごと、月ごと、年ごとの捧げ物の指示である。
その内容はほぼ、出エジプト記やレビ記で記されている通りだが、主はここで特に「定められた時に」「忠実に」捧げるべき事を強調している。

主がイスラエルの民を、約束の地へと入らせるのは、ただ、一つの民族を祝福し、そこで安穏と、のんべんだらりと過ごさせるためではなく、「礼拝を中心とした日々」を送らせるためである。
礼拝とは、人の側が為すべきは「捧げる事」で、そうして神の側から、御言葉のいのちと祝福をいただくという、神と人との双方向のコミュニケーションである。

そして、礼拝には捧げるべき「時」があり、その「時」とは、私達の「時」ではなく神の「時」である。
また、礼拝を捧げる際には「忠実に(新共同訳)」「気をつけて(新改訳)」捧げるべきだと、2節で示されている。
例えば、主日礼拝に参加できるように、私達の側が仕事の都合を調整する等、私達の側が「気をつけて」神の側に合わせ、神に「忠実さ」を示すのだ。

礼拝を捧げるべき「神の時」は「毎日」、それも、朝ごと、夕ごとである。
『また彼らに言いなさい、『あなたがたが主にささぐべき火祭はこれである。すなわち一歳の雄の全き小羊二頭を毎日ささげて常燔祭としなければならない。すなわち一頭の小羊を朝にささげ、一頭の小羊を夕にささげなければならない。また麦粉一エパの十分の一に、砕いて取った油一ヒンの四分の一を混ぜて素祭としなければならない。』(民数記28:3-5)

捧げ物として用いられるのは、一歳の雄の傷のない小羊であり、それに添えて、小麦に油を混ぜたものと、強い酒(出エジプト記29章によると、ぶどう酒)とを捧げる。
一歳の雄の傷のない小羊は、ほふられた小羊キリストを、また、添えて捧げられる小麦粉とぶどう酒は、キリストの裂かれた体なるパンと、キリストの流された血を、思い起こさせる。

キリストはただ一度、永遠の贖いを成し遂げられた。
それ故、私達には旧約の礼拝、動物を屠って祭壇に捧げるような礼拝は不要であるが、キリストにあって、そのような特権に預からせて頂いたからには、私達もまた、朝ごとに、夕ごとに、ほふられたキリストを思い起こすべきであり、自分自身をきよい生きた供え物として、日々神に捧げるべきである。

『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)

礼拝を捧げる際の、私達の側の責任は、まず、積極的な意志を用いて、この世から離れ、思いを「自分中心」から「神中心」に切り替え、神に思いを向ける事である。
そうするなら、神は御力を働かせ、私達を造り変えて下さる。(新改訳では、自分を「変えなさい」とあるが、正確には、自分を「変えていただきなさい」)

この、日ごと捧げる命令は、出エジプト記29章で既に命じられており、朝ごと夕ごとに捧げる事によって、以下の恩恵が約束されている。
『これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。』(出エジプト記29:42-45)

日ごと、絶やすことなく主に捧げるのであれば、主は、その所で会って下さり、語って下さり、その所を聖別して下さる。
天地を創られ、今私達を守り導いておられる主ご自身が、語って下さる言葉を聞く事。会って下さる事。私達を聖別して下さる事。
それは、何にもまさるプレゼントである。

主はこれを、代々にわたって絶やすことなく、捧げるべきものとして定められた。(同42節)
だから、現代の私達も、朝ごと夕ごとに、ほふられた小羊キリストを覚え、自分自身を生きた供えものとして捧げるべきであり、そうするなら、約束しておられる通りに、主は私達に会って下さり、語りかけ、聖別して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの任命(民数記27:12-23):右クリックで保存

主は、モーセのその役割がいよいよ終わりに近づいた事を示された。

『主はモーセに言われた、「このアバリムの山に登って、わたしがイスラエルの人々に与える地を見なさい。あなたはそれを見てから、兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう。』(民数記27:12-13)
40年間、ずっとイスラエルの民を約束の地へと導いて来たモーセとしては、色々と複雑な心境であったろう。
やるせない思いもあったかもしれない。
しかし彼は、この期に及んで「どうか自分も約束の地に入れせて下さい」とか「あと10年生きさせて下さい」など、自分の事は一切願わず、このイスラエル60万以上を、牧者のいない羊のように、路頭に迷うようにはさせないで下さい、と、ただイスラエルのために主に求めた。
『モーセは主に言った、「すべての肉なるものの命の神、主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」。』(民数記27:15)

『主はモーセに言われた、「神の霊のやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。』(民数記27:18)
主は、ヌンの子ヨシュアを「神の霊のやどっている」者と呼び、モーセに代わる指導者として指名された。

主が、モーセひとりに重荷を負わせぬようにと、70人の長老に霊を与えられた時(民数記11章)、ヨシュアにはその時与えられなかった。
しかし彼はずっとモーセの従者として、誰よりも忠実に仕えて来た。
そして彼は、誰より主を慕い続けて来た。
『人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。』(出エジプト記33:11)

70人の長老たちは、約束の地に入る事なく、荒野で死んで行ったが、ヨシュアは、入る事ができた。
なぜなら、そのすぐ後の12人の斥候の事件の時、ヨシュアは主を信じ、約束の地に入れる事を信じたが、長老達を含む他の全員はそれを信ぜず、エジプトに帰ろうと言い出し、モーセやアロン、ヨシュアやカレブを石で撃ち殺そうとまで言い出したからだ。(詳細:民の"不信仰"告白(民数記14:1-9) http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1612 )
70人の長老たちに霊が与えられたのは、元々、モーセの重荷を共に負うためだったのに、かえって、モーセ重荷となるような性質を改めず、だから彼らが預言したのは、たったひと度で終わってしまったのだ。(詳細:一度きりで終ってしまった預言の唇(民数記11:24-30) http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1597 )

主の霊が注がれたからと言って、また、預言した事があるからと言って、必ずしも、約束の地に入れるとは限らない。
この70人の長老や、サウル王のように。
約束の地に入れる人とは、ヨシュアのように主を慕い求め、主に与えられた権威に忠実に仕え、そして、主の御心を行う人である。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:21-23)

『そして彼にあなたの権威を分け与え、イスラエルの人々の全会衆を彼に従わせなさい。彼は祭司エレアザルの前に立ち、エレアザルは彼のためにウリムをもって、主の前に判断を求めなければならない。ヨシュアとイスラエルの人々の全会衆とはエレアザルの言葉に従っていで、エレアザルの言葉に従ってはいらなければならない」。そこでモーセは主が命じられたようにし、ヨシュアを選んで、祭司エレアザルと全会衆の前に立たせ、彼の上に手をおき、主がモーセによって語られたとおりに彼を任命した。』(民数記27:20-23)

今後、イスラエルの人々の全会衆はヨシュアに従い、ヨシュアは祭司エルアザルに御心を求め、エルアザルは、ウリム(主の御心を求める祭具)を用いて主に御心を求める。
全会衆も、指導者ヨシュアも、そして大祭司も、全員が主の御言葉によって出入りし、進退する事になる。そこに人間の思惑は一切入らない。
このようにして、モーセの次の世代の、神を中心とした体制が確立された。

私達も、今立てられている霊的権威に従うべきであるが、その最頂点は主であって、それ以外の誰かであってはならない。

礼拝説教メッセージ音声:永遠に名前が記される栄誉に与った娘たち(民数記27:1-11):右クリックで保存

『さて、ヨセフの子マナセの氏族のうちのヘペルの子、ゼロペハデ(ツェロフハデ)の娘たちが訴えてきた。ヘペルはギレアデの子、ギレアデはマキルの子、マキルはマナセの子である。その娘たちは名をマアラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといったが、彼らは会見の幕屋の入口でモーセと、祭司エレアザルと、つかさたちと全会衆との前に立って言った』(民数記27:1-2)

このゼロペハデの娘たちに関する出来事は、二十六章にも、三十三章にも記されている。
女の名が系図に記されるのは、通常の事ではなく、そのような場合は、必ず、主が特に我々に伝えたい事があるはずである。

彼女たちは、モーセや祭司、全会衆の前で、以下の事を主張した。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主はそれに対し、どう判断を下したか。
『主はモーセに言われた、「ゼロペハデの娘たちの言うことは正しい。あなたは必ず彼らの父の兄弟たちと同じように、彼らにも嗣業の所有地を与えなければならない。すなわち、その父の嗣業を彼らに渡さなければならない。』(民数記27:6-7)

主は、彼女たちの訴えを、もっともとされた。なぜなら、彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。
主は、その土地が別の者の手に渡る事も、氏族の名がその土地から絶えることも、よしとしない。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださる。

そして何より、彼女たちが「相続地」について訴え出た行いそのものが、彼女たちの立派な「信仰告白」であった。
一体どこが「信仰告白」なのか。

この事が起こった時期は、イスラエルがまだヨルダン川の東にいる時、自分達がこれから入っていこうとしている地には、父の代の者達がその前から逃げ出した、強力なカナン人が跋扈しているような状況であり、各部族への相続地の割り当てもまだ為される前、どんな相続地が与えられるのかも、また、果たしてカナン人に勝てるのかも分からない時期である。

そんな時なのに、彼女たちは、主が必ずこの土地に住んでいるカナン人を追い払って下さると信じ、イスラエルには多くの相続地が与えられる、と、主に期待している。
将来必ずそうなる、だからこそ今、自分達には男の兄弟がいないこの状況のままだと、自分達に与えられるはずの相続地は、他人のものとなってしまう。
それでは困る、と。
だから彼女たち五姉妹は、モーセと大祭司エルアザルと、全会衆の前に、勇気を絞って進み出て、訴えたのだ。
カレブと同じ信仰である。(ヨシュア14:6-15)

主は、彼女たちの訴えを取り上げて下さり、次の新しい戒めをも制定された。
『あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『もし人が死んで、男の子がない時は、その嗣業を娘に渡さなければならない。もしまた娘もない時は、その嗣業を兄弟に与えなければならない。もし兄弟もない時は、その嗣業を父の兄弟に与えなければならない。もしまた父に兄弟がない時は、その氏族のうちで彼に最も近い親族にその嗣業を与えて所有させなければならない』。主がモーセに命じられたようにイスラエルの人々は、これをおきての定めとしなければならない」。』(民数記27:8-11)

思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他にも多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、子供には女の子しかいない家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからである。
裏を返せば、それだけ他の多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。

「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)

彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがあるが、それでも、信仰を持って進み出るなら、主は報いてくださる。

彼女たちの父は、特に何をしたとも記されていない。ただ、罪に死んだ、とだけ記されている。
しかし、彼の名が永遠の書物に記されたのは、その娘たちの信仰の故である。
私達も信じるなら、私達も、私達の家族も、救われるのである。(使徒16:31)

礼拝説教メッセージ音声:六十万中、わずか二人(民数記26:57-65):右クリックで保存

続いて、レビ人の氏族と祭司の家系についてである。
『レビの氏族は次のとおりである。すなわちリブニびとの氏族、ヘブロンびとの氏族、マヘリびとの氏族、ムシびとの氏族、コラびとの氏族であって、コハテからアムラムが生れた。アムラムの妻の名はヨケベデといって、レビの娘である。彼女はエジプトでレビに生れた者であるが、アムラムにとついで、アロンとモーセおよびその姉妹ミリアムを産んだ。アロンにはナダブ、アビウ、エレアザルおよびイタマルが生れた。ナダブとアビウは異火を主の前にささげた時に死んだ。』(民数記26:58-61)
ここには、大祭司アロンの家系が記されており、その中には、主に滅ぼされてしまった人達もいる。
いかに大祭司の息子と言えども、主の御言葉をないがしろにし、自分の判断に従って歩むなら、滅ぼされてしまうのだ。

『その数えられた一か月以上のすべての男子は二万三千人であった。』(民数記26:62)
レビ人は、第一回目の人口調査では22,000人だったのが、今回は23,000人。1000人の増加である。

『彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。』(民数記26:62)
レビ人は主のものとされた故、他の部族のように、イスラエルの人々としては数えられず、軍務につく者としても登録されず、相続地の分与が無い。(民数記1:49)
彼らには、イスラエルの神・主ご自身が、相続そのものであり、聖所の奉仕という霊的軍務に就く者達であり、永遠の塩の契約により、一般の民からの十分の一が、彼らの受ける分として定められている。(民数記18:19-20)

またレビ人は、他の部族のように、20歳以上が登録されるのではなく、生後一ヶ月から主の働き人として登録される。
つまり、母の胸に抱かれている時から、主の奉仕者として数えられ、教育されるのだ。

『これらはモーセと祭司エレアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりにあるモアブの平野で数えたイスラエルの人々の数である。
ただしそのうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。それは主がかつて彼らについて「彼らは必ず荒野で死ぬであろう」と言われたからである。それで彼らのうちエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほか、ひとりも残った者はなかった。』(民数記26:63-65)
38年前の、第一回目の人口調査の時の、六十万以上のあの人々は、二名を残して全員が死に絶え、第二回目の人口調査も経験したのは、カレブとヨシュアだけだった。
この事は、信仰によって歩まない者、不信仰の者は、決して約束の地を相続できない事を示唆している。

一方で、60万以上の民が、不信仰で「エジプトへ帰ろう」と言い、他方、わずか二人が、信仰をもって「約束の地へ行こう」と言うなら、主は六十万は捨て、信仰ある二人を取られるのである。
人間の多数決の原理では、六十万を取るだろう。しかし真実であられる主は、不信仰の六十万よりも、信仰ある二人の方が価値が高いのだ。

主が「約束の地へ行け」と言っているのであれば、シンプルに「行く」べきであり、それに逆らったのが、いかに、神の民イスラエル60万以上であったとしても、大祭司であっても、例外なく荒野で屍を晒してしまうのである。
主の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう者には、厳然たる「災い」しか無いのだ。

『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
肉にあって歩む者は、決して、神の国を相続できない。
ただ、信仰によって歩む人のみが、神の国に入れるのだ。

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