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メッセージ - 民数記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:相続地を絶やさぬために(民数記36:1-13):右クリックで保存

いよいよ民数記最後の章である。
出エジプト記とレビ記が、主から与えられた学科であるとするなら、民数記は、実技試験の記録であった。
主の山・ホレブで律法が授けられ、礼拝から日常生活に至るまでの多岐にわたる学びを受け、いざ、これから主が約束された地に向かって編隊を組み、意気揚々と出発し始めたのが、民数記のはじめであった。
しかしイスラエルの民は、その実技試験をかなりまずく行い、面接官である主の御前に度重なる無礼なふるまいを続けた。
それで、その世代の者たちは約束の地に入る資格無しとされ、子の世代は、荒野での余計な38年の放浪生活を通らされてしまった。

信仰生活において、荒野の放浪に陥ってしまう原因は、「不信仰」である。
遡る事38年前、カデシュ・バルネアにおいて、主が与えると示された地に、いざ入ろうとしている時に、民は「その地には行けない」「そこの住民たちは我々を食いつくす民だ」「エジプトへ帰ろう」と言い出し、モーセ達に石を投げつけようとさえした。
主は、民の不信仰や御怒りを引き起こす度々の振る舞いを、幾度も赦し、憐れみを注いできたのに、民はことごとくモーセの執り成しや主の憐れみを踏みにじり、つぶやきを止めなかったため、ついにその世代は、荒野で滅ぶようにされたのである。

不信仰な世代が死に絶え、その子にあたる世代は、失敗を繰り返しながらも、着実に主に従う事を学び、良き性質へと変えられてきた。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1654&cid=35
このような所を経て、これからいよいよカナンの地に入ろうとしているこの時期、民数記の最後の記述は、ゼロペハデの娘たちに関するマナセ族の訴えと、それに対して主が応えている場面で終わっている。

『イスラエルの人々に、その嗣業の地をくじによって与えることを主はあなたに命じられ、あなたもまた、われわれの兄弟ゼロペハデの嗣業を、その娘たちに与えるよう、主によって命じられました。その娘たちがもし、イスラエルの人々のうちの他の部族のむすこたちにとつぐならば、彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の嗣業のうちから取り除かれて、そのとつぐ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうしてそれはわれわれの嗣業の分から取り除かれるでしょう。
そしてイスラエルの人々のヨベルの年がきた時、彼女たちの嗣業は、そのとついだ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうして彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の部族の嗣業のうちから取り除かれるでしょう」。』(民数記36:2-4)

すなわち、ゼロペハデの娘達のように、父親が娘しか生まなかった場合、彼女たちが結婚して嫁いで行くとしたら、子々孫々へと受け継いでいかなくてはならない先祖代々の相続地が、嫁ぎ先の部族のものとなってしまい、そこで途絶えてしまう。
それでは不服だ、という訴えである。
主は、御言葉に沿った正当な訴えは、喜んで聞いて下さる。

『モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。ゼロペハデの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち、彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない。そうすればイスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである。」』(民数記36:5-7)
このような場合は、自分の父祖の部族としか結婚できない、という「制限」があるかもしれない。
しかし、結婚相手の選別は、自分の好みによって行ってはならない。
主の約束と御言葉を優先させるべきなのだ。

結婚相手を自分の好みで選ぶと、大体良くない事が起きる。ノアの時代はそれでネフィリムが誕生し、サムソンはそれで身を滅ぼした。
人間の「好き」という感情は、良いもののように見えて、実は当てにならないし、何より自己中心的な感情である。
結婚相手の選別において優先すべきは、主の御心であり、主からいただくべき地をしっかりと受け継いで、それを子々孫々へと相続できるかどうか、である。
それが望めない結婚は、最初からしないほうが良い。

イスラエルの民にとって、約束の地を継ぐ権利は、最優先で守られるべき権利であり、父祖の部族の相続地は、結婚などの理由によっても、決して他に譲ったりしてはならない。
神の民である私達も、同じ価値観である。
私達が死守すべきは「天の御国を受け継ぐ権利」であり、それは結婚などによって決して奪われてはならない。
もし妻が、あるいは夫が、主の御言葉にも、天の御国にも一切興味を示さず、世において罪を飲み食いし続ける事に固持するなら、その結婚は、どんなに苦々しいものであろうか。
子を霊的に健全に育てるのに、どんなに苦労するだろうか。

民数記でのイスラエルの失敗は、主の御言葉や約束よりも、自分の好む所に従って歩もうとした事にあった。
自分達の欲望を貫かんとするために、主のさとしを跳ね除け、神とモーセに逆らい続けた民は、荒野で屍をさらし、死に絶えてしまった。
見える所によらず、見えない信仰によって歩む人、主が与えて下さると約束して下さった、その約束に従って歩む人こそ幸いである。

この民数記の終わりが、相続地を絶やさぬためには、結婚相手を選びなさい、という命令で終わっているのは、実に興味深い。
荒野での余計な歩みをせず、約束にかなった結婚し、子供達に天の御国を継がせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:土地を汚す者(民数記35:16-29):右クリックで保存

故意に、あるいは一時の激情によって人を殺した人の死刑を求刑するには、一人の証言のみでは有効ではない。二人以上の証人が必要である。(民数記35:30)
二人または三人の主の御名の集いの内に、主がおられ、そこで御名によって宣言される事は、神と人との前で宣言されるのである。

新約においても、兄弟姉妹の誰かが罪を犯したなら二人または三人でさとし、それでも言って聞かないなら教会に告げ、それでも聞かないなら、その者を交わりから断つべき事を、主は言われている。(マタイ18:15-17)
『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18)

また、人のいのちを故意に奪う罪については、お金を幾ら積んでも、誰であろうと、見逃してはならないと主は定めている。(民数記35:31)
もし、人のいのちを奪う事が金銀で解決するなら、お金を持つ者なら、いくら人のいのちを奪ってもお咎めなし、という事になってしまう。
主の御前には、「カネがあれば何でも許される」は通用しないのだ。
人のいのちを取ったら、その人のいのちで償うのが原則である。

また、故意にではなく不慮に人のいのちを奪ってしまった場合、その人は逃れの町に逃れる事になっているが、その場合も、お金では解決できず、その時の大祭司が死ぬまで、逃れの町から出る事は許されない。(民数記35:32)
大祭司の死以外には、幾ら支払っても自由になる術は無い、というのは、まことの大祭司キリストの十字架以外に、罪と死からの贖いはありえないのと同じである。

『あなたがたはそのおる所の地を汚してはならない。流血は地を汚すからである。地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければあがなうことができない。あなたがたは、その住む所の地、すなわちわたしのおる地を汚してはならない。主なるわたしがイスラエルの人々のうちに住んでいるからである。』(民数記35:33-34)

不当に血が流された土地は、汚れる、と書いてある。
罪なき人が不当に流された血は、神に叫び訴えるからだ。

カインは、正しくない礼拝をして神に受け入れられなかったが、アベルは正しい礼拝をして神に受け入れられた。カインはその事を憤り、御前に顔を伏せた。
彼は、門口で彼を待ち伏せ恋い慕っている罪を支配せず、かえって罪を飲み込み、怒りと妬み、嫉妬の激情に、身も心も委ね、弟アベルを殺してしまった。
『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」』(創世記4:9-12)

主は、カインのした事をご存知だった。しかし、あえて彼の口で告白させるために、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と問うた。
カインはこの主が与えて下さった機会を、罪を告白して悔い改める事に用いるべきだったのに、「知りません」と答え、そればかりでなく「わたしは弟の番人でしょうか。」と、主にたてをつく言葉さえ吐いた。

カインの特徴は、自分が手を下して死んでしまったアベルを見ても何とも思わず、また、兄弟姉妹に対し一体何をしてしまったかに、何ら心配らず、全能者の前におそれる事もなく、うそをつき、たてをつく性質である。
そのような者は、呪われ、人々からも忌み嫌われ、どこにも居場所が無くなって、さすらい人となるのだ。
全てを見ておられる神は、侮られるようなお方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのだ。

不当に流された血は、その土地を汚す。
同じように、性的不品行もその土地を汚し、それを行った者どもは、土地から吐き出される。(レビ記16:24-30)
人殺しも、性的不品行も、「いのち」を汚す行為であり、土地に呪われ、土地から吐出される元となる行為なのだ。

私達は、主に対し、あるいは人に対して罪を犯した時は、すみやかにそれを告白し、悔い改め、兄弟姉妹に損害を与えたなら、その償いをするべきである。
そうして赦していただき、主と、兄弟姉妹との、光の交わりに速やかに戻って、楽になるべきである。
『神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。』(1ヨハネ1:7-9)

礼拝説教メッセージ音声:復讐者とのがれの町(民数記35:16-29):右クリックで保存

主から与えられた律法を見ると、現代の日本国憲法とはずいぶん違うと思う。

律法によれば、鉄や石、木製などの器物で人を打って死なせた場合は、必ず死刑である。(民数記35:16-19)
『血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き、あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ、あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は、その故殺人に出会うとき殺すことができる。』(民数記35:19-21)

故殺とは、故意に人を殺すこと、また、一時の激情によって殺意を生じ人を殺す事(デジタル大辞泉)であり、そのような悪意や殺意をもって故殺した人への復讐は、主が許している。
そこには、未成年者の場合はどうとか、その時の精神状態とか、責任能力が云々とかは、一切なく、意図的に人を打って死なせたなら「必ず殺されなければならない」と主は定めている。

このは、現代日本を生きる私達が見ると、随分厳しすぎるように思えるかもしれない。
しかし私達は、日本国憲法の中で育まれた現代の常識や民主主義や人権思想を基準にして、神様が定めた律法を、評価したり、批評したりする立場にはない。
私達・神を主とする者が取るべきスタンスは、その逆である。
すなわち、神様が定めた法のほうを基準とし、それを元にして、現代の常識や思想のほうを、評価すべきである。

現代日本は、ゲームやメディアの影響を受けて、ずいぶんと手軽に殺人をする傾向にあり、親が子を殺したとか、子が親を殺したとか、一昔前なら大事件にもなるような記事が、平気な顔をして毎日登場する。
それは、現代日本が、主のスタンダードから離れた所にあるからに、他ならない。
もし現代日本に、この神の法が適用されたなら、人はもっと人のいのちを大切にして、殺人は随分と減るのではなかろうか。

『しかし、もし恨みもないのに思わず人を突き、または、なにごころなく人に物を投げつけ、あるいは人のいるのも見ずに、人を殺せるほどの石を投げつけて死なせた場合、その人がその敵でもなく、また害を加えようとしたのでもない時は、会衆はこれらのおきてによって、その人を殺した者と、血の復讐をする者との間をさばかなければならない。』(民数記35:22-24)

主は、意図せずに人を殺してしまった場合の温情措置も、しっかりと定めておられる。

『すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して、逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで、そこにいなければならない。しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:25-27)

主は、意図せず殺してしまった人は、この「のがれの町」に逃れて保護され、復讐者から守られるよう定められた。
しかし、その町から出歩いてしまっている場合は、その限りではなく、いのちが守られる保証は無い。
この定めは、罪を犯してしまう私達と、その事を訴え追い回すサタンと、キリストという「のがれの町」を用意して下さった神様との関係に似ている。

罪のとげの刺さった肉体をまとっている私達は、どうしても罪を犯してしまう。
あのパウロでさえ、罪と死の法則に縛られている自分達は、なんとみじめな人間であろう、と嘆いた。
罪と死の法則にいる間、私達は、死とのろいという復讐者にいつも追い回されるが、しかし主が定めて下さったのがれの町、「いのちの御霊の法則」へと逃れるならば、もはや安全であり、罪と死の法則に追い回される必要は無くなる。その事を、パウロは見出したのだ。(ローマ7:14-8:2)
私達も、主がその「いのちの御霊の法則」という逃れの町に逃れるなら、サタンの責め苦から守られ、安全である。
(いのちの御霊の法則に乗る方法: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1317

意図せずして殺人してしまった人は、大祭司が死ぬ日まで、のがれの町でかくまわれ、大祭司が死んだ後は、自由とされるように、私達の大祭司であるキリストは、私達のために、死んで下さった。
その事を、信仰によって自分自身に適用するなら、私達は罪の責め苦から自由なのである。

礼拝説教メッセージ音声:レビ人の町と逃れの町(民数記35:1-15):右クリックで保存

この章は、レビ人が相続する町と、人が誤って人を殺してしまった場合に逃げ込む「のがれの町」についての主の指示である。

『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)

イスラエル人は、神の働き人であるレビ人のために、十分の一を捧げるよう、主から命じられていたが、レビ人が住むための町も、それぞれの部族が提供しなくてはならない。
大きい部族も、小さい部族も、必ず主の奉仕者に捧げるべきであると主は命じており、それは、富めるも貧しきも、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと同じである。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1417 )

レビ人や祭司は、100%、一般の会衆が主に捧げる捧げ物によって、生活が成り立っている。
民が主に捧げ、レビ人達を養う事を止めないなら、彼らは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれるが、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
この事は、現代を生きる私達にとっても同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。

また、意図せず人を殺してしまった人が逃れるための町についても、主は命じておられる。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。』(民数記35:9-12)

この「のがれの町」は、レビ人が住む町の中から、合計六つ提供しなくてはならない。
これは、人が誤って人を殺してしまった場合の、主からの温情措置であり、自分が意図せずして人を傷つけたり、恨まれてしまったりする事への、保険的意味合いもある。

いかにキリスト者であっても、人には罪があり、弱さがあり、また無知の故に、意図せずして人を傷つけてしまう事がある。
神と人の間に立つレビ人の町の中から、逃れの町が提供されたように、キリスト者の中で、意図せずに人を傷つけてしまった人も、神の奉仕者の所へ逃れて来て、匿われる権利がある。
そして、私達がどうしても罪を犯してしまい、サタンがそれを訴え攻め立てる時、私達は、イエス・キリストという逃れの岩に逃げ込み、匿われる事が出来る。

主がのがれの町を定め、イスラエルからそのような町を提供するよう命じられたように、私達も憐れみを受けるために、常日頃、私達の内から憐れみの余地を差し出しておくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:受けるべき相続地(民数記34:1-29):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に命じて言いなさい。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの嗣業となるべき地はカナンの地で、その全域は次のとおりである。』(民数記34:1-2)
主は、イスラエルが獲得すべき相続地の、東西南北の境界を明確に示し、また、それぞれの部族の長と、相続地を分け与える担当とを、定められた。

主は私達にも、人生の色々な領域において、境界を定められている。
すなわち、住むべき領域や、為すべき仕事の領域、そして、主のために働く奉仕の領域において。
私達は、主から時に応じて与えられる分に従い、忠実に仕事し、働き、住まうもので、その「分」を超えて為すべきではないし、また、「分」を軽んじて、為すべき事を何もしないのも良くない。

士師記以降のイスラエルの歴史を見ると、どうも彼らは、主から与えられた「分」を軽んじ、分捕るべき土地を分捕らず、取るべき行動を取らず、かえって災いの多き歴史だった。
なぜなら、主が今回示された土地を、積極的に勝ち取りに行かず、主が「追い出せ」と言われていた先住民を追い出さず、ある程度まで到達した事で妥協した。
その結果、彼らは、先住民が行っていた偶像崇拝を行うようになり、主の忌み嫌われる者となったため、主は約束通りに、災いと呪いを送り、国全体は弱体化してしまうような時代がしばし続いたからである。

元々、主がアブラハムに約束して下さった相続地は「エジプト川からユーフラテスまで」という、この章で示された土地より、遥かに広大な土地であった。
主はなぜ今回、エジプト川からユーフラテスまでを得よ、とは言わず、それよりも狭い土地をここに示されたのか。
それは、主は、人がまず当面為すべき事を命じられ、人がそれに従順し、服従し、そこに到達したなら、主はさらに次のステップとビジョンを見せて、さらに次元の高いステップへと導かれるお方であって、もし将来、イスラエルの民が今回示された境界へと達し、得たなら、主はさらなる祝福の高みへと導こうとされていたのだろう。
実際、アブラハムの導かれ方は、そうだった。

主はアブラハムにはじめて現れた時、以下の約束をされた。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」(創世記12:1-3)

この時の命令は「わたしが示す地に行きなさい」だけで、具体的にどこに行くかは示されなかった。
そして、その命令を守り行うなら「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。」という約束された。
これらは具体性に欠けた内容だったが、それでもアブラハムは、信仰をもって進み行き、75年も住み慣れた生まれ故郷を離れた。
道中、色々の失敗は確かにあった。しかし、それでも彼は、主が示される地へと出て行くという、最初の従順・服従を達成した。

すると主は、アブラハムに次の約束を与えられた。
「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます。」(創世記13:14-17)
ここでは、与えられるべきものがさらに具体性を帯びており、さらに高次なものとなっている。

その後、アブラハムは信仰によって王達に戦いを挑み、見事勝利し、王である祭司・メルキゼデクから祝福を受け、アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた。
そのような輝かしい勝利と祝福を得た彼と、主は具体的な契約を結ばれた。
『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。
すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える。』(創世記15:18-21)

主の人との関わり方は、以上のようである
すなわち、人にはまず従順すべき命令を与え、人がその命令を守り行った暁には、これこれの報いが与えられる、という事を、主はまず明示される。
人がそれに従順し、服従し、成し遂げたなら、さらに高次のステップへと進ませ、約束も以前よりも具体的に示され、そして祝福の内容も、さらにバージョンアップしていく。
私達は、主が最初どこに導かれるかが分からない。
しかし、私達が主からの最初の命令に従順し、服従して実行するのであれば、主はさらなる祝福の高みへと導き、進み行かせて下さる。

ひるがえって、ヨシュア以降の世代のイスラエルは、どうだったか。
彼らは、主からチャレンジを受けた最初の境界線に達する事なく、妥協し、安住し、御胸どおりに動かなくなってしまった。
それでイスラエルの民は、何百年もの間、蹂躙され、災い多き日々を送るはめになってしまった。

皆さんは、この時のイスラエルのようになっていないだろうか。
主から最初に与えられたビジョンを、しっかりと握り続け、その目標に到達するために、行動し続けているだろうか。
妥協したり、安住したりして、かえって災いに遭ってはいないだろうか。

私達は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
アブラハムのように大胆に進み行き、さらに高次元の役割を与えられ、さらに多くを任される皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「所有せよ」という命令(民数記33:50-56):右クリックで保存

『エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの平野で、主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない。またあなたがたはその地の民を追い払って、そこに住まなければならない。わたしがその地をあなたがたの所有として与えたからである。』(民数記33:50-53)

主が直接モーセへ命じられた事は、これから入って行こうとしているカナンの先住民の徹底追放と、偶像の徹底破壊、そして、土地を所有しなければならない、という命令であった。
主が「所有せよ」と言われたからには、「少しだけで結構です」などという”謙虚”は許されない。文字通り、「所有」しなければならないのだ。

この主の命令は、ある人には野蛮に聞こえるかもしれない。
なぜ野蛮に聞こえるか。それは、罪ある人間が汚れた欲望に突き動かされ、ほしいままに殺したり奪ったりという歴史を、私達はうんざりする程聞かされてきたからだ。
しかし、主が命じられるこの戦いは、人間の汚れた破壊欲や略奪欲、支配欲などとは全く別次元のものだ。
カナンの先住民は、道徳的にも人道的にも退廃し、その悪行の数々は、主の憐れみと忍耐の目盛りを超えたため、主がイスラエルの民を用いてその悪い民を滅ぼすためである。(申命記9:3-5、創世記15:16)

主は元々、世を正しく支配し、管理する仕事を堕落する前の人間に与えられた。(創世記1:26-28、2:15)
だから人は本来、世界を正しく支配するのが、本業である。
しかし今、人が世界を正しく支配せず逆に破壊しているのは、汚れた欲望や罪の性質があるからだ。
だから主は、主に贖い出された人々であるアブラハムの子孫を起こし、彼らに正しく世を治めさせるために、カナンで罪深い習慣に染まった先住民は徹底的に排除し、不品行の汚れた行いの元となった偶像も、徹底破壊し、その土地を所有し、正しく支配しなくてはならない、と命じられたのだ。

私達の内からも、断ち切るべき以前の悪習は、徹底的に排除しなければならない。
そうして後にはじめて、神の栄光をあらわすための正しい働きが出来るのだ。

『あなたがたは、おのおの氏族ごとにくじを引き、その地を分けて嗣業としなければならない。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなければならない。そのくじの当った所がその所有となるであろう。あなたがたは父祖の部族にしたがって、それを継がなければならない。』(民数記33:54)
次に主が与えられた命令は、氏族ごとに相続地を分与する事であった。

ここでは、大きい部族には相続地は多く、少ない部族には少なく与えられ、そしてこの時に定められた境界線は、後代もずっと変わる事は無い。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
この永遠の分け前は、会社のボーナス査定と同じで、査定日までの実績によって左右されるものであり、査定日直前で不祥事を起こして一気に査定が下がってしまう、という事もある。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1677 )
だから私達も、いつになるとも知れない、主の御元に行くその日まで、霊的に目を覚ましつつ、用心して日々を歩むべきである。

そしてまた、滅ぼすべきものは、徹底的に滅ぼすべきである。
『しかし、その地の住民をあなたがたの前から追い払わないならば、その残して置いた者はあなたがたの目にとげとなり、あなたがたの脇にいばらとなり、あなたがたの住む国において、あなたがたを悩ますであろう。また、わたしは彼らにしようと思ったとおりに、あなたがたにするであろう」。』(民数記33:55-56)
イスラエルの民は、残念ながら追い出すべき先住民を追い出さず、結局主からの災いを受ける事になってしまった。(士師記1-2章)

私達は「これを滅ぼすのはもったいない」「今じゃなくても良いのではないか」と、惜しむ性質があるが、しかし、主が「滅ぼせ」と言われたものは、今すぐにでも滅ぼすべきである。
それは、ある人にとっては、パソコンのあのデータかもしれない。
携帯のブックマークかもしれない。あるいは、汚れた欲を湧き起こす本やゲームの類かもしれない。
御前に滅ぼすべきものはすぐにでも滅ぼし、そうして、祝福をさらに受け継ぐにふさわしく整えられたならば、主はさらに「これも所有しなさい」と言って、押入れ揺すり入れして与えて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:荒野の放浪の全行程(民数記33:1-49):右クリックで保存

民数記33章は、イスラエルの民が荒野を歩んだ全行程が記されている。

『イスラエルの人々が、モーセとアロンとに導かれ、その部隊に従って、エジプトの国を出てから経た旅路は次のとおりである。モーセは主の命により、その旅路にしたがって宿駅を書きとめた。』(民数記33:1-2)
主と共に歩んだ道を思い起こし、書き留め、それを後に残す事は、とても有益である。
その全行程が、いかに、自分の罪と愚かさゆえの迂回経路ばかりであったとしても、それをフォローして余りある主の恵みと憐れみを、私達は知るからである。

『彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。すなわち過越の翌日イスラエルの人々は、すべてのエジプトびとの目の前を意気揚々と出立した。その時エジプトびとは、主に撃ち殺されたすべてのういごを葬っていた。主はまた彼らの神々にも罰を加えられた。』(民数記33:4-5)
イスラエルにとって、主と共なる歩みの始まりは、過越の小羊を食した翌日、奴隷を強いた国が処罰され、奴隷から開放された日であり、その月がイスラエルの年のはじめとなった。
同じように、私達の主と共なる歩みのはじめも、ほふられた小羊キリストの贖いにあずかった日、奴隷の状態を強いてきたサタンが処罰され、罪と死の束縛から開放された日が起点となる。

『こうしてイスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに宿営し・・・』(民数記33:5)
5節以降から49節までの長きにわたり、**を出立して**に宿営し、という言葉が幾度も続く。

「出立する(あるいは、旅立つ)」のヘブライ語は「上げる」との意味であり、「宿営する」のヘブライ語は「テントを張る」あるいはテントの杭を「下ろす」意味である。
イスラエルの民の全旅路は、主の臨在の雲が上がるとテントの杭を上げ、主の臨在の雲が下りて留まると、そこにテントの杭を打ち下ろした。
全行程、主の導きに従って出立し、宿ったわけである。

私達の人生も、仮宿の杭を下ろしたり、上げたり、という連続である。
人生のあの時は**中学に宿り、やがてその杭を上げて次は**高校に宿り、ある所では敵が攻めてきたり、ある所では海の中をくぐるように救われたり、ある場所では水が無くて渇いたり、そしてある場所では、大切な人が死んでしまったり、といったドラマの連続である。

5節以降には、色々な地名が出てくるが、それぞれの場所には諸説があり、あまり定かではない。
ただ確かな事は、荒野の旅路は、そのまま行けば2週間で行ける行程であるのに、自分達の不従順のゆえに、40年もかかってしまった、という事である。
そしてもう一つはっきりしている事は、その40年の間、ずっと主が共におられ、昼も夜もたゆまず守り、導き、恵みによって養い、やがては終着点へと導いて下さった事である。

40年という月日は、人間にとって決して短くはない。
なぜそんなにも長きに渡って、荒野を放浪しなくてはならなかったのか。
それは、人々が神とモーセからの再三の警告があったにもかかわらず、自分勝手を捨てず、主に逆らう性質を改めず、その唇から発する不信仰告白を、止めなかったからである。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1615&cid=35

皆さんは、現実世界には実在しないアニメキャラに恋をする人を、愚かだと思うだろうか。
決して実現する事の無い「無駄な幻想」を抱いている、と。
サタンは人に「無駄な幻想」を抱かせ、そこに執着させ、しまいには、滅びへと至らせる事のプロである。
すなわち、神は無視して自分の好き放題が出来るのだ、主からも誰からも何も指図されずに、神のようになって生きていけるのだ、という、悪い幻想を抱かせる事の。
現実逃避している人がテレビにのめり込んで、実在しないアニメキャラに恋をするように、「真実逃避」している人は、サタンの偽りにのめり込んで、実在しない真理もどきを追い求めて滅びへと向かう。

その「真実逃避」こそ、荒野の放浪生活の原因であり、滅びの元である。
アダムとエバも、そしてサタンも、無駄な幻想を抱いて滅びへと落ち込んでいった。(イザヤ14:12-15)
その無駄な「真実逃避」をいち早く手放し、主の御言葉の真実に向き直る人は、幸いである。

イスラエルの民は「真実逃避」をしてしまったが故に、荒野で放浪を40年してしまった。
できれば、そんな放浪なぞ無しに、信仰によって、すぐにでも安息へと入るのが理想であるが、いかに不従順の故に荒野のような人生を余儀なくされているとしても、マナは降り続け、雲と火の柱による主の導きがあったように、主の恵みと導きは絶えずある。
無駄な幻想は速やかに取り降ろし、信仰によって、安息の地へとすんなり入る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:軽々しく口約束する人への対処方法(民数記32:16-42):右クリックで保存

ルベンとガドの部族は、モーセの叱責によって自分達の願った事が他の部族のつまづきになると気づき、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地は先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)

言っている内容はとても立派であるが、果たして彼らがその通りにするかどうかは、この時点では分からない。
ひと度、ふとした言動によって周囲を心配させてしまった時は、その心配を取り除いて安心させるために、しっかりとした確約が必要な時もある。
モーセは実に上手にその確約を引き出した。

『モーセは彼らに言った、「もし、あなたがたがそのようにし、みな武装して主の前に行って戦い、みな武装して主の前に行ってヨルダン川を渡り、主がその敵を自分の前から追い払われて、この国が主の前に征服されて後、帰ってくるならば、あなたがたは主の前にも、イスラエルの前にも、とがめはないであろう。そしてこの地は主の前にあなたがたの所有となるであろう。
しかし、そうしないならば、あなたがたは主にむかって罪を犯した者となり、その罪は必ず身に及ぶことを知らなければならない。あなたがたは子供たちのために町々を建て、羊のために、おりを建てなさい。しかし、あなたがたは約束したことは行わなければならない」。』(民数記32:20-24)

ルベン、ガドの言葉には「主(エホバ)」という言葉は一つもなかったのに対し、モーセはこの会話の中で「主の前に」「主にむかって」と、「主(エホバ)」を6回も出している。
つまりモーセは、あなた達がこれからする事は、主の御前で為す事だ、あなたが今言っている事は今、主の御前で言えるだろうか、と、主を真ん中に立てているのである。
そして、彼らがこれから取るべき二つの道を示した。
すなわち、主の御前で約束どおりの行動をし、何のとがめもなく、望み通りの相続地を得るか。
それとも、約束を破り、罪を犯した者となって呪いを身に受けるか。

モーセの、この確約の取り方は、無責任に口約束を連発する人に対して、非常に有効である。
すなわち、自分と相手との間に主を置いて、主の御前で約束させ、そして祝福とのろいの二つの道を示すのである。
もし彼が約束を守るなら、主ご自身が彼を祝福されるが、破るなら、主ご自身が彼を取り扱う。
そうするなら、私達には「もし彼が約束を破って、また自分達をないがしろにしたらどうしよう」という心配は、一切必要無くて、楽である。なぜなら彼がないがしろにするとしたら、私達ではなく、主をないがしろにするのだから。

約束を破っても良いような含みも残して"あげる"事は、思いやりでも、やさしさでもない。偽りの余地を残し、暗闇に加担する事である。
和をもって尊しとなす日本人は、特に気をつけたほうが良いだろう。

私達も誰かに「あなたは、主イエス・キリストの御前でも、それが言えますか、それができますか」と聞く時、相手がその言葉を嫌がったり、頭がカタいとか、冗談も通じないのかとか、平気で言い出すようであれば、主にある交わりから閉めだした方が良い。
なぜなら私達の交わりは、真実の交わり、光の交わりだから。
『わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。・・・神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。』(1ヨハネ1:3-7)

『ガドの子孫とルベンの子孫とは、モーセに言った、「しもべらはあなたの命じられたとおりにいたします。われわれの子供たちと妻と羊と、すべての家畜とは、このギレアデの町々に残します。しかし、しもべらはみな武装して、あなたの言われるとおり、”主”の前に渡って行って戦います」。』(民数記32:25-27)
この時、彼らは「主(エホバ)」の御名をもって、主の前で約束した。

『そこでモーセはガドの子孫と、ルベンの子孫と、ヨセフの子マナセの部族の半ばとに、アモリびとの王シホンの国と、バシャンの王オグの国とを与えた。すなわち、その国およびその領内の町々とその町々の周囲の地とを与えた。』(民数記32:33)
モーセが話していた相手は、ルベンとガドの部族であったはずだが、ここになぜか突然、マナセの半部族も出て来ている。

もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が、条件付きで通ったのを見て、マナセも進み出たのかもしれない。
しかもマナセ族はその後、積極的にエモリ人を攻め取り、その土地はモーセ公認の元で与えられ、しかも彼らはそこに自分達の新しい名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、他の兄弟姉妹が先取りして相続が与えられたのを見て、自分達も積極的に信仰を用いて進み出て、大胆に勝ち取る兄弟姉妹もいるのだ。

私達は祈りによって、御前に許されている素晴らしい特権を用い、色々なものを求めるが、もしそれを得たのなら、主に果たすべき分を必ず果たす事も日々考慮しておくべきである。
主からいただいた途端に、義務を忘れて遊び呆けるような性質のままでは、いつまで経っても与えられないものである。

礼拝説教メッセージ音声:権利を主張して良い時といけない時(民数記32:1-15):右クリックで保存

いよいよヨルダン川を超えて全軍ともにカナンの地に攻め入ろうとしているこの時、ルベン族とガド族が進み出て、モーセとエルアザルや会衆の長たちを前に、ある申し出をする。
『「主がイスラエルの会衆の前に撃ち滅ぼされた国は、家畜を飼うのに適した地ですが、しもべらは家畜を持っています」。彼らはまた言った、「それでもし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください」。』(民数記32:1-4)

もしこれから、ある部族が領地を勝ち取るたびに、その部族は戦いから離れてしまうとしたら、まだ戦いの残っている部族の負担はどんどん大きくなってしまう。
この申し出は、モーセを怒らせた。
『あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。すなわち彼らはエシコルの谷に行って、その地を見たとき、イスラエルの人々の心をくじいて、主が与えられる地に行くことができないようにした。』(民数記32:6-10)

確かに彼らは、この地を受け継ぐ権利はある。
神がアブラハムの子孫に与えると約束された地は、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」という広大な地で、彼らが求めた地はそれに含まれているのだから。
しかし問題なのは、「イスラエルの意気をくじく事」点にある。(7,9節)
かつてヨシュアとカレブと共に行った10人の斥候たちは、イスラエル全体の意気をくじき、そうして、イスラエル全体を荒野での40年へと導いてしまった。
それでその10人は皆、主に打たれて死んだ。

教会で兄弟姉妹が誰かのために心を合わせて祈り、信仰の戦いをしている時に、ある人は祈りに参加せず、飲み食いする権利ばかり主張して、座してのうのうとしているとしたら、その存在そのものが、集会全体の意気をくじき、聖なる集い全体のつまづきとなってしまう。
私達はそのような者にはなるべきではないし、そのような人にはモーセのように戒めるべきである。
主も、信じる最も小さい人のひとりをつまずかせるような者は、大きな石臼を首にかけられ、海の深みに沈められる方がましだ、と言っているからだ。(マタイ18:6-7)

私達は確かにキリストにあって自由が与えられているし、聖徒として色々な権利が与えられている。
しかし、その権利を主張したり行使したりする時期を間違えると、他の聖徒をつまづかせて罪を増し加えてしまう事もあるのだ。

パウロは、自分に与えられている自由や権利、あるいは知識が、弱い人のつまづきとなるなら、その権利は行使しないと言っている。
『あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。
だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。』(1コリント8:9-13)

自分に与えられている権利や自由を、兄弟姉妹のために、あえて下ろすべき時もある。
思いやりもなく権利を押し通す事によって、兄弟姉妹をつまづかせる事の無いよう、私達は気をつけなくてはならない。

教会はキリストのからだであり、おのおのが各器官である。
それ故、教会とは自分の権利を押し通す所ではなく、キリストの権利を通す所であり、キリストのからだ全体の益のために物事をなすべき所である。
キリストのからだの一部分として、からだ全体が戦うべき時には共に戦い、分かち合うべき時には、共に分かち合う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:やらねば損な主の戦い、やらねば損な主のビジネス(民数記31:25-54):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「あなたと祭司エレアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、その生けどった人と家畜の獲物の総数を調べ、その獲物を戦いに出た勇士と、全会衆とに折半しなさい。』(民数記31:25)
主は、戦いで勝ち得たものを数えなさい、と言われた。
それは、イスラエルの民を勇気づけ、主に命じられた戦いに恐れずに出て行くなら、必ず大きな報いがある事を、知らしめるためである。

勝ち得たものの総数は、羊が六十七万五千、牛が七万二千、ろばが六万一千、男と寝た事の無い女が三万二千であった。(民数記31:32-35)
イスラエルの側は、一万二千で戦いに出たのに、これだけの分捕りをしたのだから、すさまじい戦果である。
偶像礼拝が盛んな国では、女の子が10代になる前に性行為を持つのは普通である。ミデヤンから連れてきた、男を知らない女の数が三万二千人、という事は、イスラエル人が戦った相手、戦闘できる成人男性の数は、その2,3倍、6〜9万はいたと推測できるだろう。
それだけを相手にして圧勝し、一人あたま羊だけで50頭以上を持ち帰る程の、膨大な分捕りを携えて来たわけである。

生けどった人と家畜の獲物は、まず、戦闘に出た戦士と、戦闘に出なかったイスラエルの会衆とで、折半された。
以下が、戦闘に出た兵士一万二千の受け取った分である。
『戦いに出た者の分は羊三十三万七千五百、主にみつぎとした羊は六百七十五。牛は三万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは七十二。ろばは三万五百、そのうちから主にみつぎとしたものは六十一。人は一万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは三十二人であった。』(民数記31:36)

これから主へのみつぎ分を差し引いて、それを一万二千で割ると、一人あたま受け取った数は、羊は約28頭、牛は約3頭、ろばは2〜3頭、人は1〜2人。
この他にも、彼らは金銀や木、革製品などの分捕りを自分のものと出来たのだから、戦闘に出た人は、一気に物持ちになった事が分かる。

いくさに出なかった人(59万ほど)の受け取った数も計算すると、一人頭が受け取る数は、羊は0.55頭、牛三万六千、牛は0.06頭、ろばは0.05頭、人は0.03人である。
いくさに出なかった人にも、確かに配分はあったのだが、それはほんのわずかで、羊は二人に一人もらえるかどうか、牛やろばや人に至っては、20人に一人がもらえるかどうかである。

以上の結果を聞くだけでも、戦いに出たほうが断然得だったと分かるが、さらに、次の事を聞くと「是非とも次は自分を戦いに参加下さい!」と言うようになるだろう。

『時に軍勢の将であったものども、すなわち千人の長たちと百人の長たちとがモーセのところにきて、モーセに言った、「しもべらは、指揮下のいくさびとを数えましたが、われわれのうち、ひとりも欠けた者はありませんでした。それで、われわれは、おのおの手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主に携えてきて供え物とし、主の前にわれわれの命のあがないをしようと思います」。』(民数記31:48-50)

なんと、何倍も多い敵と戦ったのに、一人も戦死者がいなかったのだ!
これはもう、主の御技としか思えない。だから百人の長、千人の長は主をおそれ、兵士たちのいのちのあがない金として、金を捧げたのだ。
そして残りの金銀や木製品、革製品などは、彼ら兵士のものとなったのだ。

こうなる事が最初から分かっていたなら、我も我もと、出て行っていただろう。
いや、こうなる、のである!
主は、昔も今も、同じである。
皆さんも、主を信頼して戦い出るなら、彼らと同じ分捕りが出来るのだ。

主が「行け」と言われる戦いに、敗北は無い。
主が「これを用いて商売せよ」と言われる商売に、損失は無い。
実際、タラントのたとえ(マタイ25章)でも、ミナのたとえ(ルカ19章)でも、損失を出した人は、一人もいなかった。

そのたとえの中で、持っているものを取り上げられ追い出された人は、主人を「預けなかったものをも取り立て、蒔かなかったものを刈り取る方だ」と邪推し、何の運用もしなかった者だ。
銀行に預けてさえいれば、利息はもらえたのだ。
イスラエルの民も、戦いに出ずとも、イスラエルの会衆の中にいれば、わずかながらの分配にあずかったのだ。

主の戦いに敗北は無く、主の商売に損失は無い。
最もよくないのは、主を邪推し、主から与えられたものを地に埋めて何もしない者である。
だから、大いに勇気を出し、神の戦いには強く雄々しく出て行って勝利し、神のビジネスには大いに出て行って利益を出し、主から「よくやった、忠実な良いしもべよ」と喜ばれ、さらに多くを任される皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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