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メッセージ - レビ記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:罪が明らかとされたなら(レビ記4:13-21):右クリックで保存

今回の箇所は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方で、前回の祭司が罪を犯した場合でのやり方と、ほぼ一緒である。
『もしイスラエルの全会衆があやまちを犯し、そのことが会衆の目に隠れていても、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをなして、とがを得たならば、その犯した罪が現れた時、会衆は雄の子牛を罪祭としてささげなければならない。』(レビ記4:13-14)

会衆が罪を犯した場合、その代表者である長老が主の御前に出て、犠牲の子牛の頭に手を置き、罪をその子牛に転嫁して、その子牛は主の前でほふられる。
祭司は、その血潮を携えて聖所に入り、指をその血に浸して、至聖所と聖所を仕切る幕の前で、主の前に七たび注がける。
また、その血を取って、聖所にある香壇の角にそれを塗り、血の残りは、ことごとく会見の幕屋の入口にある、全焼のいけにえを捧げる祭壇の土台に注がれる。(レビ記4:15-18)

捧げられる牛の脂肪の部分は、和解のいけにえのように、祭壇の上で焼かなければならず、このように、祭司が彼らのためにあがないをするならば、彼らの罪は、赦される。そして、その残りの肉は、宿営の外の灰捨場で焼き捨てられる。(レビ記4:19-21)
この残りの部分は、神に捧げたり、食べたりしてはならない。なぜなら、この牛は罪を負ったからである。

外に出されて捨てられる罪祭のいけにえは、イエス・キリストを意味している。
キリストも、都の外に出され、そこで十字架につけられ、神と人とから捨て去られた。
『わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。』(ヘブル13:10-13)

全会衆の犯した罪が人々の目に隠れていて、自分たちが罪を犯したという事に気付いていなくても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは罪であり、それが明らかになったのであれば、罪祭のいけにえを捧げる事が、定められている。
罪の意識が無いのに、それは罪だ、悔い改めよ、と言われても、良心が麻痺していて実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉の光によって罪が照らしだされてのみ知ることが出来、そして、自分が犯した罪を悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊の働きによって示される。

私達の内にある罪が明らかとされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
罪責感、それは、時間と共に薄れるものではなく、むしろ、対処しなければ、しない分だけ増し加わって行くものである。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実をそのまま持ち続けるからである。

ある人が、イエス様を信じる前までは罪の認識が無かったのに、イエス様を信じた時、犯して来た罪の数々を示され、昔犯した罪も思い出すようになった事を、証していた。
その人は、戦後の食糧難の時、人の家で煮立っている食事を鍋ごと盗み、自分一人で食べた事を思い出し、主の御前に出る度に、その事がいつも心に残りとなり、ついには、いても立ってもいられなくなって、何十年も前の記憶を辿って東京のその家の場所へ行ったそうである。
そして、その家の門を叩き、出てきたその人に謝って、赦してもらい、とてもすっきりして帰って来たそうである。

彼のように、謝るべき相手が生きていれば、謝ったり償ったりする事は出来るが、しかし、もはやどうしようもないような場合もある。
そのような場合こそ、主の御前に出て、身代わりの犠牲となって下さった、イエス・キリストの血潮によって、扱うべきである。
「すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

礼拝説教メッセージ音声:罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17):右クリックで保存

レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。

この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)

この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)

『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。

耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。

聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。

『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)

祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)

『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)

礼拝説教メッセージ音声:酬恩祭 - 和解のいけにえ(レビ記3:1-17):右クリックで保存

『もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。』(レビ3:1)
和解のいけにえ、すなわち酬恩祭は、捧げる人がその手をいけにえの頭に置く事や、いけにえをほふった血を祭壇の周りに注ぐ事、解体して火で焼く点では、全焼のいけにえと同じだが、ささげる動物は雄でも雌でも良い、とうい点で、全焼のいけにえと違う。

私達はキリストにあって神と和解した故、その救いには、男女の違いや、人種の違いなどは無いのである。キリストにあって皆、ひとつである。
『キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:27-29)

もう一点、全焼のいけにえと違うのは、全焼のいけにえはからだの全てを火で焼いて捧げるのに対し、和解のいけにえは、内蔵や脂肪のみを焼いて主に捧げ、胸や足などの肉は、捧げた人や祭司が食することが出来る。(レビ記7:11-34)
つまり、和解のいけにえに関しては、神と人と、祭司とが、同じ一つのからだを食す事になる。
これはまさしく、キリストを意味している。

『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。』(エペソ2:13-19)

キリストこそ、唯一、神と人との仲保者であり、まことの大祭司である。
私達キリスト者も、聖餐において、キリストのこの裂かれた肉であるパンと、キリストの流された血潮である杯に与る事によって、キリストと一つとされ、神と和解するのである。

『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。』(1コリント11:23-25)

和解のいけにえは、汚れた人が食べてはならない、と定められている。
主と和解したいという意思があり、それに相応しく身を清め、主に対してそれなりの敬意を払う者のみが、食することが出来るのである。
『もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。』(レビ記7:20-21)

同じように、聖餐のパンと杯でも同じ事が言える。
『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。』(1コリント11:27-29)

ここで「ふさわしくない」とは、罪を犯す・犯さないの問題ではなく、キリストを「記念し」「覚え」、みからだを「わきまえ」るかどうかである。
もし罪を犯した者は聖餐にあずかれないとするなら、人間は誰も聖餐にあずかれない。
ただ、私達の罪の身代わりとなり、和解のいけにえとなって下さったキリストを覚え、キリストを記念し、罪赦された事をわきまえる者こそ、聖餐にあずかれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:礼拝とパン種(レビ記2:11-16):右クリックで保存

『あなたがたが主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。パン種も蜜も、すべて主にささげる火祭として焼いてはならないからである。ただし、初穂の供え物としては、これらを主にささげることができる。しかし香ばしいかおりとして祭壇にささげてはならない。あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:11-13)

パン種は、パン生地に入ると発酵してふくらみ、食べやすくなるが、すぐに酸っぱくなって腐ってしまう。
このパン種は、主に火で焼いて捧げる「素祭」の供え物としては捧げてはならないと命じられているが、「初穂」の供え物は逆に、種を入れたパンを捧げなくてはならないと命じられている。
『また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に「種を入れて」焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。』(レビ記23:15-17)

パン種は、聖書ではあまり良い意味で用いられていない。例えば、純粋な「御言葉」に、不純な「人間の教え」が混ぜ込まれると、全体が不純に膨れてしまう事のたとえとして用いられたり、純粋な「交わり」の中に、サタンに属する「にせ兄弟姉妹」「にせ預言者」「にせ教師」が入り込み、交わり全体を不純に膨らませてしまう様を意味したりする。
このパン種が、七週の祭りに用いられるのは、どういう事だろうか。

この「七週の祭り」は、新約におけるペンテコステの日であり、多くのキリスト者達が、公に、目に見える形で聖霊が注がれ、初代教会の初穂として、主に捧げられた。
この日は、聖徒の「集団」が主に捧げられた日であるが、「集団」の中にはどうしてもパン種が入り込んでしまうものである。
事実、初代教会の中にも、偽信徒や偽預言者、偽教師達が入り込み、パウロもヨハネもペテロもユダも、皆、そのような「パン種」に気をつけるよう、注意の手紙を書いている。
私たちは、人の集団の中からよりも、パン種の入っていない純粋な御言葉にこそ養われるべきであり、純粋な礼拝を捧げるべきである。

もう一つ、パン種が入る捧げ物のケースは、酬恩祭(和解のためのいけにえ)においてである。
『また「種を入れた」パンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。すなわちこのすべての供え物のうちから、菓子一つずつを取って主にささげなければならない。これは酬恩祭の血を注ぎかける祭司に帰する。』(レビ記7:13-14)

和解のためのいけにえは、神と人との関係の和解を祝い、いけにえの脂肪を焼きつくして神に捧げた後、残りの肉を、祭司と奉献者が食べ、神と人との平和を喜び、味わうものである。
このように、神と自分との間に「人が関わる」祭りには、パン種が入る。
神と人との間に立って、御言葉を解き明かすメッセンジャーも、御言葉を噛みやすく、食しやすくする為に、例話を用いたり、面白く工夫したりするものであり、多少のパン種や蜜が入り込むものである。
確かに信仰において赤ちゃんである初心の者には、そういう事も必要であるが、いつまでもそうであっては、困りものである。
私たちは成長するためには、パン種の入っていない御言葉によってこそ養われるべきである。
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(ヘブル5:12-14)

そして、私達の交わりからも、努めてパン種を取り除くべきである。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

教会の人間関係のトラブルは、大抵、不純なパン種を取り扱わない故に発酵し、膨らんだものである。
何でもかんでも愛で包んだり、なんでもかんでも赦したり、そうした甘ったるいだけの、蜜だけを混ぜ尽くしたような交わりは、腐る一方的であり、時には、責め、教え、訓戒する、という「塩気」も必要である。
時には甘さも必要だが、私達はむしろ、塩気によって互いに和合すべきである。
『人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。』(マルコ9:49-50)

礼拝説教メッセージ音声:素祭 - 穀物の捧げもの(レビ記2:1-10):右クリックで保存

レビ記2章は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについての規定が記されている。
『人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。』(レビ記2:1-2)
供え物として捧げられるものは「麦粉」であって、殻がついたままのものでも、砕かれる前の状態でもない。
殻を取り除かれ、粉々に砕かれた「麦粉」に、油を混ぜ、乳香を添える事によって、捧げ物として有効になる。

『祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。』(レビ記2:2-3)

捧げもの全般に言える事であるが、主に捧げられるいけにえは、キリストをあらわしており、そしてまた、主に捧げられる私達をも表している。
この、祭司が記念の分としてつかむ最初の一握りは、主に捧げられる香ばしいかおりであり、キリストも、私たちの先駆けとして、十字架上で香ばしいかおりとなって捧げられた。
それに続く私たちは、大祭司なるキリストの食物として、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)

この麦粉に混ぜ合わされる油は「聖霊」を意味し、乳香は「キリストのかおり」を暗示する。
素祭として捧げられる小麦が粉々に砕かれたように、十字架上で捧げられるキリストも、主の御前に粉々に砕かれ、そして、油注がれた。

私達もまた、主の御前に捧げられる際には、人間的な知恵や力は、粉々に砕かれるべきである。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)

素祭は、単に麦粉にそのまま油と乳香を混ぜた状態で捧げる方法の他に、かまどで焼いたり、平なべの上で焼いたり、なべで煮たり等、色々な方法で調理された状態で捧げる方法もある。
『あなたの供え物が、もし、平鍋で焼いた素祭であるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬものでなければならない。あなたはそれを細かく砕き、その上に油を注がなければならない。これは素祭である。』(レビ記2:5-6)
この、平鍋で焼いた素祭は、調理された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油が注がれる。
同じように私たちも、主にあって色々な方法で「料理」され、ある人は「料理」された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油注がれる、という事もある。

いずれの捧げられ方でも、共通している事は、麦粉は細かく砕かれており、油を混ぜられ、パン種は入っていない、という事である。。
私たち自身も、主に喜んで受け入れられる「捧げ物」となるためには、まず、主に敵対する「自我」は粉々に砕かれている必要があり、自分由来の人間的な力や知恵といった「パン種」は取り除かれている必要があり、そうであるなら、さらに主から聖霊の油が注がれ、ますます主に喜ばれる捧げ物となって行くことができるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:どんな捧げものであっても(レビ記1:10-17):右クリックで保存

『もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。』(レビ記1:10)
前回は、燔祭すなわち全焼のいけにえが、牛の場合について見たが、捧げものは何も必ず牛でなくてはならないというわけではなく、捧げる人の状況に合わせ、羊、やぎ、あるいは山鳩、家鳩のひなでも良い事となっている。
この世において、人には貧富の差があり、牛を多く持てる人もいれば、貧しくて、やぎ一匹も持てない人もいる。
しかし、どんなに貧しい人であろうと、山鳩や家鳩のひなくらいは、手に入る。

主は、牛を捧げた人はひいきして、鳩のひなを捧げる人は蔑むような事は、なされない。
むしろ主は、人が捧げものをする時は、その人の心の成り立ちを、見ておられるのである。
『イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』(ルカ21:1-4)

そして、捧げものがいかに肥えた牛や羊であったとしても、汚れた者による、間に合わせ的な捧げものは、忌み嫌われる。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル 15:22-23)
主は何より、聞き従う耳と、従順な心をこそ、全ての捧げものに勝って、受け入れられるのである。

『彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。』(レビ記1:11-12)

いけにえの動物は、ほふられ、血を祭壇の周囲に流され、体は解体されるが、このいけにえはイエス・キリストをあらわしている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14)

この詩篇の通り、イエス様は十字架上で、悪者どもに囲まれ、手と足を(直訳:獅子のように)刺し貫かれ、手足を引き裂かれ、わきを槍で貫かれた。
その、衣服はローマ兵達に分捕られ、分けられ、下着はくじにひかれた。
イエス様は御父の前に、完全ないけにえとして捧げられたのである。
これら、動物のいけにえは、主イエス・キリストの予表である。

礼拝説教メッセージ音声:全身全霊の捧げ物(レビ記1:1-9):右クリックで保存

レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されており、ここ一章では、燔祭(全焼のいけにえ)についての主の命令が記されている。
和解のいけにえや罪のためのいけにえ等は、和解や罪のゆるし等、要件がある故に捧げるものであるのに対し、この全焼のいけにえは、純粋に自ら進んで捧げるものである。

『「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。』(レビ記1:2-3)

主はこれをイスラエルの人々全員に対して言っている。
日本語の聖書では分かりづらいが、この燔祭、すなわち全焼のいけにえは、自ら進んで捧げるものである。
KJVでは3節に「he shall offer it of his own voluntary will」とある。すなわち、自発的な意思によって捧げるもので、強制ではない。
つまり、捧げなくても良いといえば良い。その点は教会の献金と同じであるが、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」の御言葉どおりである。(2コリント9:6)

「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。」
もし主に捧げるのであれば、それは、傷のつきの、余り物のような、そんなどうでも良いものであってはならない。愛する相手にプレゼントする時、傷モノを贈るとしたら、かえって相手を怒らせ、逆効果であるのと同じである。

また、捧げ物全般に言える事は、それは「家畜」からであって、野で狩猟したものを捧げものにさせるような命令は、どこにも無い。
狩猟は、いわば自然界のものを分捕り奪って来たもので、自分の財産を痛めるものではないが、家畜は、自らの手で育てたものであり、捧げる時に、ある種の痛みを覚える。
ささげものはヘブル語でコルバン、それは「犠牲」も意味し、主への捧げ物は、必ず犠牲をともなうものである。

神は、清く傷の無い御子キリストを捧げるという、究極の痛みを担われ、イエスキリストは、御自身を捧げるという、究極の犠牲を捧げらえた。
『こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。』(エペソ5:1-2)
キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われ、霊も肉も全身が焼き尽くされる苦しみを味わい、そのキリストが十字架という祭壇で捧げられ尽くした事によって、御父は完全に宥められた。

『彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。』(レビ記1:4)
頭に手を置く行為は、その対象と一体化する事を意味している。
つまり、捧げる人は、獣の上に手を置く事によって一体化し、獣が全焼のいけにえとして捧げられる時、その人自身も全身全霊、主の御前に捧げられた事になる。

『彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。』(レビ記1:5-6)
獣をほふるのは、その人自身である事に注目したい。
その獣を養い育てた本人自らが、手をかけ、血を流し、死なせるのだ。それは実に、心に痛みが伴う行為である。
事実、キリストに手をかけ、血を流し、十字架上で死なせたのは、私達自身である。
彼の犠牲の故に、私達は救われた。その事をいつも覚えるべきである。

そして、キリストが御自身を捧げられたように、私達も、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛し、ささげるべきである。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)

礼拝説教メッセージ音声:レビ記概要(レビ記1:1):右クリックで保存

「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた」(レビ記1:1)
レビ記はモーセ五書の第三の書、ヘブル語ではワイクラー、意味は「そして主(彼)は呼び寄せられた」という、このレビ記1章1節の言葉である。
レビはイスラエルの三番目の息子で、その子孫達が人情よりも御言葉に従順したため、神と人との間を取り持つ祭司としての職務が与えられた事は、出エジプト記で学んだ通りである。
ちなみにレビの名は「結びつける」という意味で、神と人とを結びつける祭司にふさわしい名である。

レビ記の内容が主から与えられたタイミングは、エジプトを出て第2年目の1月から2月までの間である。(出エジプト記40:1、民数記1:1)
その間、このレビ記に記されている主の戒めとさとしを、じっくりと主から教わったのだ。
そして、第2月の二十日に、雲があかしの幕屋を離れ、イスラエル人はその主からのゴーサインにより旅立ちを始めた。
私達は、身勝手に行動を始めるべきではなく、まず主の御言葉をじっくり聞いてから、主のゴーサインによって行動を起こすべきなのだ。

このレビ記には、律法の細則が示されており、種々の捧げ物や礼拝、祭りに関する規定や、何が清く何が汚れた事であるのかについて、また、何が義であり何が罪であるのか、何が聖であり何が俗であるのか等を、具体的なケースを用いて詳細に示している。
それらの内容から、主は何を喜ばれ、何を嫌われるのか、主はどのようなご性質であるのかを、私達は知ることが出来る。

レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されている。
それは現代の私達にも、捧げ物はどのように、どのような気持ちで捧げれば良いのかのガイドラインとなり、そしてまた、人類を贖うまことの犠牲となられたキリストのご性質を、詳細に知る事が出来る。
レビ記からは、キリストの贖いや、キリストの大祭司としての性質を見ることが出来、また、各種の祭りからも、キリストの誕生や生涯、十字架での死と復活、再臨の性質を知る事が出来る。(ヘブル9章)

旧約律法はもう終わった、異邦人である我々には関係ない、というような心持ちで読むと、レビ記ほどつまらない書は無いだろう。
しかし、レビ記に限らず、モーセ五書は、神がどのように世を造られ、神は人とどのように関わられ、何を好まれ、何を憎まれるのか、そうした神と人との関係の根幹的な事柄が記されているため、決しておろそかにはできない。
よく、「旧約聖書は自分とは関係ない」と思う人がいるが、その人は、以下の御言葉を熟考すべきである。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)

ここで明記されている通り、モーセ五書に記されている諸々の事は、世の終わりに臨んでいる私達への警告であり、訓戒としてしっかりと捉えるべきである。
悪をむさぼった彼らが荒野で屍を晒していったように、わたしたちも、悪をむさぼって中途脱退者にならぬように、また、偶像礼拝者となって兄弟姉妹から絶たれてしまわぬように、また、不品行をして倒されてしまう側とならぬように、また、つぶやいたりして「死の使」に滅ぼされぬよう、日々互いに励まし合い、そのような誘惑に陥って、荒野で屍として永遠に置いてけぼりになってしまった者に加わる事のないように気をつけるべきである。

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