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メッセージ - レビ記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。』(レビ記19:19)
主は、生き物を色々な種類に従って創造され、一つ一つをそれ自体、良きものとして完成された。
それ故、それを不服として、人為的に別種のいのちとかけ合わせる事を、主は禁じている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-17)

次に、婚約相手のいる女奴隷を、別の男が寝て交わる場合について、主は教えている。
『だれでも、人と婚約のある女奴隷で、まだあがなわれず、自由を与えられていない者と寝て交わったならば、彼らふたりは罰を受ける。しかし、殺されることはない。彼女は自由の女ではないからである。しかし、その男は愆祭を主に携えてこなければならない。すなわち、愆祭の雄羊を、会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。』(レビ記19:20-23)
こうした場合、本来なら、男も女も両方石打ちにされるはずである(申命記22:23-27)が、女が奴隷だった場合、他人の財産に損害を与えた場合の賠償が適用され、双方が殺される事は無い。
と言っても、男が愆祭の雄羊を捧げて、それで済むという話でもない。愆祭とは、「賠償」の意味もある事を、以前習った。
その男は償いをし、その女奴隷に対しては、出エジプト記21:7-11の規定どおり養って、食物と衣服を与えることと、その夫婦のつとめを絶えさせてはならない。

『あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。
四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それを「さんびの供え物」として主にささげなければならない。しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:23-25)
ここは、約束の地カナンに入った時に、果物の木を植えた場合のその実りに対する命令であるが、このように、三年の間は誰もその実りに手を付けてはならず、四年目にはそれを「賛美の供え物」として主に捧げ、五年目から食べるようにすると、その木はとても多く実を結ぶようになる。

初物を主に捧げると、確かに、実り豊かになる。(箴言3:9-10)
律法を守っているイスラエルは、実に産物が祝福されており、現代でも、色とりどりの野菜を毎日たっぷりと食べられる。
「イスラエルは中東に位置し、国土の60%が乾燥地に覆われている。雨季は11月から4月までの間しかない。その降雨量は北部で平均700ミリ、南部では50ミリ以下である。ちなみに、農業県の新潟、高知、鹿児島の降雨量は1800ミリから2500ミリである。
この過酷な条件にもかかわらず食料自給率は93%以上を維持している。イスラエルの農業人口は8万人。一方日本の農業人口は400万人。現在の農業輸出高は21億ドルでほぼ同じだ。イスラエルは日本の50倍の生産性を持っていると言える。」(「食糧自給率」より「稼ぐ農業」!:日経ビジネスオンラインより: http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110124/218115/?rt=nocnt)
律法を尊守すると、農産物も、科学技術も、相乗効果で祝福されるのだ。

果物の実りは、三年間は「未割礼のもの」で、四年目の実りが「賛美の供え物(holiness of praises to the Lord)」と呼ばれる事は、実に興味深い。
私達は元々、くちびるの汚れた民の中に住んでおり、世から贖い出されたままでは、未割礼の者である。
そのくちびるを、賛美に用いるとするなら、罵詈雑言や呪い、下品な冗談など、汚れた言葉を一定期間、断食すべきである。
賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13:15)を捧げる者が、もし、罵詈雑言や呪い、下品な冗談などを、世の人と変わらずに続けているとしたら、そのような「果実」を、果たして主は受け取るだろうか。
賛美とのろいが同じくちびるから出てくるような事はあってはならない。

賛美のいけにえは、礼拝中やステージで歌っている「その時」が良ければいいというものではない。
果実は、人間の誰にも味わわせない三年間、そして、四年目には神にのみ捧げる事、それを通してこそ、実り豊かなものとなる。
それと同様に、賛美の果実も、人間の誰にも味わわせない整えの期間と、神にのみに捧げる賛美があってこそ、人々を恵みへと導く賛美ができるのである。
セミは、六年の地中生活を経て、七年目に、自由に空を駆け巡るが、その地中での6年も、全部ひっくるめた期間が、セミの一生であるように、賛美も、人前で歌う時だけが賛美ではなく、その背後にある、誰にも人間には味わわせぬ期間も、神様のみに捧げた心や思いも、それら全てをひっくるめたものが、賛美なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての人間関係(レビ記19:11-18):右クリックで保存

今回の箇所は、特に、兄弟姉妹や隣人との「関係」において、いかに「聖」を保って行くべきかが示されている。
『あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記19:11-12)
ここでも十戒がいくつか引用されている。
第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽ってはならない」、また、第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」、これらは、人と人との関係において重要な戒めであり、神の民の人間関係は、いつも真実であるべき事が命じられている。
そして、続く節では、弱い人に対する配慮が命じられている。

『あなたの隣人をしえたげてはならない。また、かすめてはならない。日雇人の賃銀を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない。』(レビ記19:13)
若かったり、没落したりして、土地や定職が持てていない日雇い人などから搾取する事は、聖なる民がする事ではない。
彼らの叫びは主が聞いておられ、そのように搾取するような者は、やがて万軍の主にほふられてしまう。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。 あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。 』(ヤコブ5:4-5)
そういう意味で、現代社会は本当に呪いを招く事をたくさんしているわけである。

『耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:14-15)
耳が聞こえない人が聞こえないのを良い事に、のろいの言葉を発したり、目が不自由な人が見えないのを良い事に、つまづかせる物を置いたりする。
そのように、知識や能力が無いのを利用して、その人を陥れたり、搾取したりする事は、聖なる民がする事ではない。
彼らが主に叫ぶ時、主が訴えを聞き入れ、そのような者の命は、そこなわれてしまう。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。 』(箴言22:22-23)

『さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。』(レビ記19:15)
強い人や多数意見に自分も流されたり、その逆の、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならない。主は、公正にジャッジする事を求めておられる。

『民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:16)
誹謗中傷する事、これは、悪魔の性質である。(悪魔:「ディアボロス」のギリシア語の意味は、告発者、中傷者)
そのような者は、天から投げ落とされてしまう運命にある。(黙示録12:10)

『あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。』(レビ記19:17)
表面上は穏やかに繕ろっていても、心中はおだやかではない。それは、偽りの生活である。
もし兄弟姉妹に人をつまづかせるような性質があるのなら、面と向かって言うべきである。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。 』(箴言27:5-6)

『あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:18)
隣人関係において、最も大切な戒めは、この「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」である。
イエス様も、最も大切ないましめの内の一つである事を言われた(マタイ22:39、マルコ12:31-34)し、パウロも、律法全体はこれに尽きると言っている。
『互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 』(ローマ13:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての生活(レビ記19:1-10):右クリックで保存

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記19:2)
レビ記19章は、一見すると、十戒をはじめとした様々な規定が、雑然と並んでいるかのように見えるが、この箇所は、イスラエルの人々が日常生活において、いかに「聖なる民」とされる、いかに「聖」を保って行くべきかが、示されている。
今まで記されてきた祭儀規定は、祭司の視点で分類的に記されていたのに対し、この章は、イスラエルの一般的な「生活者」としての視点で記されていると言える。

『あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:3-4)

聖なる生活を送るための命令の中で、まっ先に命じられた事は、十戒の第五戒、母と父を敬え、である。
最も身近な権威者である父母を敬う事、それは、最高権威者である主に従う雛形であり、目で見える父母を敬えずしては、目に見えない神を敬う事ができない。
そしてそれは、末永く幸いな生活の約束を伴った命令である。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
なお、父母を敬う命令は聖書の他の箇所でも多く登場するが、「母と父」と、母を先に出しているのは、レビ記のこの箇所だけである。
父は一家の長として、権威的に先んじて敬われなくてはならないが、やはり「生活者」として最も頻繁に親しく接するのは、「母」の方なのだろう。

そしてその次の命令は、十戒の第四戒、安息日の尊守である。
世に出て働く人は、仕事に夢中になるあまり、主が聖別された安息日を忘れやすいため、順番的に先の方で命じられたのだろう。
主が礼拝するようにと定められた日を守る事は大切であるが、しっかりと「安息する」事もまた大切である。

続く命令は、十戒の第二戒、偶像の禁止である。
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの、どんな像(イメージ)も作ってはならず、それに仕えたり拝んだりしてはならない。(出エジプト記20:4-6)
偶像(アイドル、イメージ)を崇拝する、とは、まことの主以外のものを神とする行為である。
異教の寺院などに限らず、実体を持たないイメージ、すなわち、イデオロギーや論理、時にはサイエンスや神学さえ、神よりも優先した「頼りどころ」という偶像となりうる。
私達は、「神以外のものを神とする」偶像崇拝に気をつけなくてはならない。

『酬恩祭の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。 それは、ささげた日と、その翌日とに食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。 もし三日目に、少しでも食べるならば、それは忌むべきものとなって、あなたは受け入れられないであろう。 それを食べる者は、主の聖なる物を汚すので、そのとがを負わなければならない。その人は民のうちから断たれるであろう。 』(レビ記19:5-8)

ここでは、酬恩祭(和解のいけにえ)で民が守るべき事を、日常生活者の視点で命じられている。
酬恩祭(和解のいけにえ)は、神と祭司と人とが、同じ一頭の動物を共に食するもので、民が捧げるいけにえの中で、唯一、民がいけにえを食べる事の出来るものであり、約束の地に入るまでは、牛や羊、山羊を食す場合は、かならず「和解のいけにえ」という儀式を通して食さねばならない事が、一七章で規定されている。

この肉を食べる際は、捧げた当日と、その翌日は食べても良いが、三日目は食べてはならない。
それは、冷蔵が出来ない当時の、衛生的の観点から、というより、主がそのように命じられた命令を尊守するためで、日が経って肉が腐っている・いない、の問題ではなく、主がNOと言うなら、してはならず、主がYESと言うなら、するべきなのだ。

『あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:9-10)

実りを全部独り占めする事は、汚れた人がやる事である。
聖なる主は、憐れみ深い。同じように、畑を刈り尽くさず、貧しい人々のためにとっておく事は、聖なる民の性質であり、地の実りを一粒たりとも残すまいと、畑を刈り尽くす事や、貧しい人や寄留者を憐れまない者は、聖なる民ではない。

全てのものは主のものであり、人を富ませるのも、貧しくさせるのも、畑を実らせるのも、実らせないのも、主の御手の内で為される事である。
だから私達は、与えられている恵みを、自分一人のものとせず、貧しい人には、主の代理として恵みを施し、そうする事によって聖なる主のわざに私達も加わるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:乱れた性の行く果ては(レビ記18:19-30):右クリックで保存

今回の箇所では、道を外した性的不品行を禁じている。
『あなたは月のさわりの不浄にある女に近づいて、これを犯してはならない。隣の妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。』(レビ記18:19-23)

性的な罪は、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。
ガラテヤ5章にある肉のリストで、真っ先に登場するのは、不品行、汚れ、好色である。
また、エペソ人への手紙でも、パウロは次のように書いている。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。』(エペソ5:3)

性的な罪は、なぜ重点的に気をつけなければいけないか。
それは、性的不品行は「その身を汚す」からである。今回の箇所だけでもそれらの行いによって「汚す」という言葉は、9回も登場する。
不品行を犯すなら、その身を汚す事となり、主の臨在を離れさせる事になってしまうのだ。

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』(1コリント6:15-19)

性的な交わり。それは、愛において一つ肉となる事であり、喜びと快楽を伴ったものであり、その成果として新しい命を生み出す、神の御胸に叶った、良きものだった。
しかし今や性は、ただ快楽を得る事だけが全面押し出され、愛も、いのちも軽んじられてしまった。
性的な交わりの中から、愛といのちだけが、すっぽりと抜き取られ、ただ快楽のみを得ようとする事、それは、実に大きな呪いをもたらす。

『あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記18:21)
モレクとは、子供を人身御供として捧げる偶像の神である。
子供をその偶像の手に乗せ、下から火を焚いて子供を焼き殺し、そのように「神に捧げる」という名目で、望まぬ命を断ったものである。そしてモレク神殿からは、子供の骨が大量に発掘されたそうである。
この「モレク」の意図は、現代の中絶と良く似ている。

日本の年間中絶数は、1950年代はなんと、100万以上だった。戦時中の死亡者数が310万だったのを見ると、かなり多い数値である。
それが近年徐々に減っていき、2005年でようやく30万台を割った。(国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集(2012)より)
事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。
現在の日本の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」だったわけである。

性は、いのちに関わる事であり、そこからいのちを抜き取って、情欲だけの、汚れたものとしてしまうと、どうなるか。
その人は呪われ、その土地から吐き出されてしまうのだ。
『あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。・・・これは、あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないためである。』(レビ記18:24-28)

かつて世は、道を踏み外した行為のはびこりによって、一度滅びた事がある。
ノアの洪水の前、神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)

ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、、、新しく世に生まれてくるいのちたちは、暴虐に満ちた世に、無防備にただ送り出されて行く。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。

性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出されて元である。
私達キリスト者は、御言葉に従って正しく愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くためにも、福音を告げ知らせて行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦はなぜ良くないのか(レビ記18:1-18):右クリックで保存

『あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:3-5)

この章で、主は幾度も「わたしはあなたの神、主である」と言っており、あなたは、わ た し の お き て と 定 め に 従 っ て 歩 み な さ い、と特に強調している。
パウロも同じように、「もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。」と強調している。(ローマ10:5、ガラテヤ3:12)

もしイスラエルが、かつていたエジプトの風習に従って生きるなら、エジプトに下った災いを生きる事となり、入ろうとしている国・カナンの風習に従って生きるなら、主がカナンの人々をそこから追い払ったように、彼らもまた、祝福の地から追い出されてしまう。
しかし、彼らが主から与えられた御言葉によって生きるなら、主の中を生きるようになる。
それは私達も、同じである。
私達が、キリストにあって新しく創り変えられた者として生きるのなら、新しい永遠のいのちに生き、救われる以前の世の習慣によって生きるなら、呪いの内に生きるのだ。

エジプトやカナンの風習に染まってはならぬ。
主がその命令をされた時、真っ先に禁じられた事は、肉親や身内との性行為であった。
『あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。』(レビ記18:6-7)

ここで「肉親」という語は「肉」あるいは「肉体」という意味でもあり、創世記2:24の「人はその父と母を離れ妻と結び合い、ひとつ”肉”となる」という場面でも使われている語である。
つまり、実の母義理の母と性関係を持つ事は、母と一つ肉である"父"を辱める行為であり(7-8節)、孫娘と性関係を持つ事は、自分自身を辱める行為である。(10節)
他にも具体的に、自分の姉や妹、腹違いの姉妹、おば、息子の妻、兄弟の妻と、性関係を持つ事を禁じており、また、母と娘を同時にめとる事や、姉と妹の二人を同時にめとる事も、主は明確に禁じている。

「肉親」と交わる事は、エジプトやカナンでは、日常的に行われていた。
実際、アブラハムの妻サラは腹違いの妹だったし(創世記20:12)、ヤコブがめとったラケルとレアは互いに妹と姉だったし、モーセやアロンも、父とおばが結婚して生まれた子であった。その他にも、近親相姦の例はいくつか見いだせるが、イスラエルの民は、それほど、現地異教徒の風習に染まりやすかったのだ。

肉親と性行為を持つ事には、嫌悪を覚えるのが普通の感覚であるが、エジプトやカナンでは、そうではなかった。
それは、エジプトも、カナンも、同じ「ハム」の子孫であるが故である。

「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語(raah)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。つまりハムは、敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、それでは飽きたらず、天幕から出て兄弟たちに言いふらし、来て、見るよう、招いたのだ。
肉親、特に父親の、裸を、性的秘密を、指さし、あげつらえ、吹聴し、一緒になって中傷するのは、サタンの道であり、子々孫々が呪われてしまう道である。

身内や肉親には、親密な愛情(フィレオー)のみ抱くのが普通だが、肉親同士が性行為にまで及ぶ所には、相当の情欲(エロース)を燃え立たせなければならないはずである。
エロースは奪う愛、破滅へと導く愛である。
親子同士・兄弟姉妹同士など肉親との性行為の結果、生まれる子も、その親に当たる男女も、とても不幸な境遇を生きねばならない事は、どの時代・どの国でも同じはずである。
エジプトやカナンでは、それをおかしい事とも何とも思われず、当然のごとく行われていたが、神の民は、そうであってはならない。

不自然な情欲に駆られた結果、はびこるものは悲惨と不幸であるが、しかし、たとい、そのような境遇にあって生まれた人でも、神にあって、希望がある。
『あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:5)
イスラエル一族も、モーセも、大祭司の家系も、肉親同士の結婚によって生まれた。
しかし、彼らに与えられた神のいましめによって歩む事によって、神にあって生きるようになり、神の民として、新しい生き方を歩むようになった。
それは私達も、キリストにあって、そうである。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲(直訳:男の欲望)にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)
人は、その生まれがどのようであっても、たとい肉親同士の情欲によって生まれたとしても、男が無理矢理に思いを遂げた事によって、生まれた命であったとしても、キリストを信じた人は、肉の欲によらず、男の欲望によらず、ただ、神によって新しく生まれた者とされるのだ。
その事は、人にとって大きな慰めである。

礼拝説教メッセージ音声:イエスのDNA(レビ記17:10-16):右クリックで保存

『だれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。』(レビ記17:10-11)

肉のいのちは血にある、血はいのちそのものである、という事を、主は今日の箇所だけでも三度も呼びかけている。
そして、血を飲む者は、イスラエルから絶たれるとまで定めており、主はそこまで、血を重要なものとして位置づけている。

聖書の中で、血は、非常に重要なものである。
血の性質の第一は、今日の箇所からも見た通り、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。
『そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:8)
『イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」』(マルコ14:24)

日本では、印鑑が契約のしるしとして用いられる。印鑑はその持ち主の人となりをあらわし、朱肉が印鑑の複雑な文様を大きく赤々と写し出している契約書を見ると、何か荘厳な気持ちにさせられるものだが、血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。
事実、科学的にも、血の中には、多くの情報が隠されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。

血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては、罪定めを叫ぶのだ。

また、血潮はきよめの役割を果たす。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。・・・
だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:13-22)

レビ記では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と、血を摂る事を禁じていたが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)

レビ記や、聖書の色々な箇所において、血潮がとても重要なものとして位置づけられている事の、全ての理由は、イエスの血潮に行き着くため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである、その血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:肉を食べる度に「礼拝」する(レビ記17:1-9):右クリックで保存

レビ記16章までは、いかにすれば罪が清められ、聖とされるのか、いかにすれば神に近づけるかについて語られていた。
イスラエルの民は、血潮や水の洗いによって清められ、身代わりの犠牲によって神に近づく事が出来たが、それらは全て、キリストをあらわしていた。
このレビ記17章以降は、聖められた民として、いかに日常生活を歩んで行くべきかについて記されている。
その冒頭の17章では、いのちをいただく事について、そして、いのちそのものである「血」についてのおしえである。

出エジプトの民は、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず、主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。そうしないのであるなら、その人は「血を流した者」とされ、民の内から絶たれる、とまで言われていた。(レビ記17:3-5)
酬恩祭とは、神と祭司と捧げる人とが、共に同じ動物からいただく、神と人との交わりの祭りであるが、いけにえとして定められている動物のいのちは、ほんのささいな肉であっても、必ず神を通し、祭司を通し、礼拝を通さなくてはならない。

もっとも、その事は、約束の地に入るまでの間、という期間限定であった。(申命記12:20-23)
一体なぜ、イスラエルの民は、出エジプトしてから約束の地に入るまでの期間、そこまで徹底して、牛や羊、やぎの肉を食べるごとに、「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、7節の御言葉から、エジプトにいた頃に染まってしまった「偶像崇拝」の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。

このレビ記の命令が与えられた時は、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。

イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す。
その毒抜きのために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行った。その事を、約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。

同じように、私達も、脱出すべき以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、例えば、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔するが、それらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来る。

以前のエジプトでの習慣を断ち切りたくないがために、あるいは、御言葉に従う事を窮屈に思うために、モーセとアロンに逆らった者達が出てきたが、同じように、現代でも、健全な御言葉に逆らう者が出てくる事がある。
しかし、そのような者は、荒野で屍として取り残さ荒れて行ったように、そのような人は、自ら会衆から離れていく。そして彼らは決して安息には入れない。

今を生きる私達は、荒野を歩んでいるようなものかもしれない。
しかし、その荒野でしっかりと主からの訓練を受け、成熟するのであれば、約束の御国に入る資格が与えられ、永遠のいのちに預かる事ができるのである。

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の実体なるキリスト(レビ記16:23-34):右クリックで保存

『そして、アロンは会見の幕屋に入り、聖所に入る時に着た亜麻布の衣服を脱いで、そこに置き、聖なる所で水に身をすすぎ、他の衣服を着、出てきて、自分の燔祭と民の燔祭とをささげて、自分のため、また民のために、あがないをしなければならない。また罪祭の脂肪を祭壇の上で焼かなければならない。』(レビ記16:23)
大贖罪の日、イスラエル全体の贖いを為し終え、アザゼルのやぎを解き放った後、大祭司は、着ていた亜麻布の衣服を脱ぎ、今度は通常の大祭司服 - エポデやさばきの胸当てなど、栄光と美をあらわす大祭司の衣装 - に着替え、大祭司自身とイスラエルの民のために、全焼のいけにえを捧げる。
全焼のいけにえは、自らの全身全霊を捧げる事を意味するが、全ての罪が贖われ、清くされた後は、主に全身全霊捧げる思いを新たにし、この新しく始まった年を送ろうと決意するのである。

『これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。
この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。』(レビ記16:29-31)

この、第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」であり、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、出エジプトを起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)
新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備える。
大贖罪の日は、「あなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない」とあるが、具体的には、一切の仕事も、娯楽もせず、断食して祈りに専念する。
ユダヤ教を厳格に守る人は完全断食をし、水も飲まず、唾液さえ飲まず、悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ取り除かれる事を祈る。

しかし、いかに”儀式”を厳格に守ろうとも、それら一連の定めはキリストによる完全な贖いの比喩であって、携わる人の良心を完全なものとする事はできない。
『幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。・・・この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。』(ヘブル9:7-10)

キリストは既に現れ、完全な贖いの務めを、まことの大祭司として成し遂げてくださった。
『キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:11-15)

結局、大贖罪日の実体は、キリストである。
今や私達は、儀式によるのではなく、肉体による善行によるのでもなく、ただ、キリストが成してくださった完全な贖いによって、永遠に罪が赦され、呪いから開放され、永遠のいのちに入れられた。
私達はその尊い贖いを、軽んじたり、侮ったりしては決してならず、ただ、その事に感謝しつつ、喜びながら生かされて行くのみである。

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の贖いのつとめ(レビ記16:11-22):右クリックで保存

『彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。』(レビ記16:17)
大贖罪日の贖いの務めは、一人の大祭司の手によって執り行われる。
同じように、人類全体の贖いも、キリストという一人の大祭司によって行われた。
今回の箇所は、大贖罪日にて大祭司が執り行うべき事の指示で、この日、大祭司が為す事は、大きく分けて三段階ある。

その第一のステップは、まず、大祭司自身とその家族のための贖いであり、そのためにまず罪祭の雄牛をほふる。
そして、祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた薫香を両手いっぱいに取って垂幕の内に携え入り、主の前に薫香をその火にくべ、薫香の煙で、契約の箱の贖罪蓋を覆わせ(レビ記16:11-13)、大祭司と契約の箱の間に、香り高い香の煙を置く事によって、罪ある大祭司が直接、主の栄光に触れぬようにする。
そうしてから、罪祭でほふった血潮を、七という完全数が満ちるまで、振りかける。
『こうして、彼は死を免れるであろう。』(レビ記16:13)とある通り、一連の手順を一歩でも間違えると、死ぬ事があったのだ。
こうして、まず、贖罪を執り行う大祭司自身の贖いが為される。

第二のステップは、民全体の罪咎の故に汚れてしまった聖所、会見の天幕、祭壇のための贖いである。(レビ記16:15-19)
聖なる場所が、人々の罪の故に汚れ、その「聖」をあらわさなくなってしまう、という事は、実際にある。誤って契約の箱に触れるなら、大祭司でさえ死んでしまったというのに、イスラエルの罪が甚だ大きくなった時には、異邦人の手で、やすやすと、契約の箱が奪われてしまった。
同じように、かつては聖なる性質を現していたキリスト者であっても、罪に罪を重ねているなら、主の栄光は離れ、もはや聖なる趣きを醸さなくなってしまうのだ。
それ故、会見の天幕と、祭壇から、人間の汚れを取り除くための贖いが必要なのである。

『そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。』(レビ記16:18-19)
民の罪を清めるために、祭司は罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入って、祭司自身の贖いの時のように、贖罪蓋にその血潮をかける。
こうして大祭司は、イスラエルの人々の汚れと罪咎のゆえに汚れてしまった聖所と、会見の幕屋の贖いをする。

三番目のステップは、イスラエル全体の罪を、一匹のやぎに移し、それを遠くに追いやる事である。
『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。』(レビ記16:20-22)

大祭司が、そのやぎの頭に手を置き、イスラエルが犯してきた思いつく限りの罪をことごとく告白して、全ての罪を、そのやぎに転嫁する。
そしてやぎは荒野へと解き放たれ、イスラエルの共同体から、遠く離れて行く。

このやぎは、まさしくキリストのご性質を現している。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)

キリストがイスラエル共同体から外へ追い出され、全ての罪、全ての病、全ての悲しみを背負ってくださった。
全イスラエルの罪を負ったやぎが、イスラエルから遠く離れて行くように、主は私達の罪を、全てキリストに背負わせ、私達から罪を遠く引き離して下さる。
そのお陰で、私達はいやされ、彼のその身代わりの懲らしめの故に、私達に平安が与えられたのだ。

『主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。』(詩篇103:10-12)

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存

レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。

主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。

『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)

大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。

人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)

そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。

大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)

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