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メッセージ - レビ記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹が貧しくなったら(レビ記25:35-46):右クリックで保存

イスラエルの中で誰かが落ちぶれて暮らして行けなくなった場合は、その近親の人が扶養し養わなくてはならず、その際は、困っている兄弟姉妹の足元を見て利息を取ったり、利得を貪ったりしてはならない事が命じられている。(レビ記25:35-37)
家族や近親者から利息を取ったり利得を貪ったりするような事は神の民のする事ではない。
『わたしはあなたがたの神、主であって、カナンの地をあなたがたに与え、かつあなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの国から導き出した者である。あなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身を売るときは、奴隷のように働かせてはならない。彼を雇人のように、また旅びとのようにしてあなたの所におらせ、ヨベルの年まであなたの所で勤めさせなさい。その時には、彼は子供たちと共にあなたの所から出て、その一族のもとに帰り、先祖の所有の地にもどるであろう。』(レビ記25:38-41)

イスラエル民族は皆、同じアブラハムから生まれ出た「兄弟姉妹」であり、同じアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に、拠り頼んでいる者達である。
そして共に奴隷の国エジプトから導き出された者達であり、素晴らしきゆずりの地・カナンが共に主から与えられたのだ。
だから、彼らの誰かが落ちぶれたとしても、奴隷のようにしてはならない。
むしろ雇い人のようにしてしっかり働かせ、蓄えさせ、ヨベルの年には、しっかりと独り立ちできるようにさせなくてはならない事が命じられている。

もし困っている兄弟姉妹の足元を見て、隷属的に扱うならば、主が黙っていない。
ヤコブが身を寄せた、彼のおじ・ラバンは、ヤコブを少ない報酬で何年もこき使ったり、幾度も報酬をだましたりして、ヤコブは何の蓄えもできずにずっといたが、主が祝福の御手を動かして下さったために、ヤコブの持ち物は祝福され、ラバンは逆にどんどん衰退していった。

『彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない。あなたは彼をきびしく使ってはならない。あなたの神を恐れなければならない。』(レビ記25:42-43)
彼ら(イスラエルの民)は「わたしのしもべ」だと、主は言われた。故に、主にある兄弟姉妹は、人間の奴隷になってはならない。

これらの命令は、信仰によってアブラハムの子孫となった私達にも命じられている事である。
主にあって私達はもはや人の奴隷ではなく、罪の奴隷でもなく、キリストにあって自由とされた。
そして同時に私達は、キリストの血の代価で買い取られた、キリストの奴隷である。
『主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。』(レビ記7:22-23)

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利(レビ記25:23-34):右クリックで保存

『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
これは、全ての人が持つべき価値観である。
全地は主のものであり、私達はこの地上において、仮に住まわせて頂いている者である。

私達は、不動産買った時、その土地は自分のものであるかのように錯覚しがちだが、元々、土地は本来主のもので、私達は主から土地をお借りして、そこに住まわせて頂いたり、そこで作物の実りを頂いているに過ぎない。
そしてその事は、土地や畑のみならず、今置けれている環境も、与えられている子供も、自分自身の体さえも、主から借り受けているものである事を忘れてはならない。

だから、それらを身勝手に用いたり、粗末に扱ったりしてはならないし、また、貪欲に富を増し加えようとして人の土地を買い漁ったり、労働者をこき使ったりしてはならない。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。』(箴言22:22-23)
富む者も貧しい者も、両方創られたのは主であり(箴言22:2)、主は、それぞれが分かちあい、助けあって、共に生きるよう創られたのだ。

『あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者(ゴエル)がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。』(レビ記25:24-25)
ここで「ゴエル」とは、ただ「親類」という意味ではない。
「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来、ルツがボアズに訴えた言葉である。
『「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」』(ルツ3:9 新共同訳)

『人が城壁のある町の住宅を売った時は、売ってから満一年の間は、それを買いもどすことができる。その間は彼に買いもどすことを許さなければならない。満一年のうちに、それを買いもどさない時は、城壁のある町の内のその家は永代にそれを買った人のものと定まって、代々の所有となり、ヨベルの年にももどされないであろう。しかし、周囲に城壁のない村々の家は、その地方の畑に附属するものとみなされ、買いもどすことができ、またヨベルの年には、もどされるであろう。』(レビ記25:29-31)
城壁のある町の中の住宅については、買い戻しできる権利は、一年と決まっている。
城壁は、人の手による守りであり、多くの人がその中で売り買いして生活す場所で、その中には大地の実りは無く、主の守りも主の保証も、あまり無いものである。

『レビびとの町々、すなわち、彼らの所有の町々の家は、レビびとはいつでも買いもどすことができる。レビびとのひとりが、それを買いもどさない時は、その所有の町にある売った家はヨベルの年にはもどされるであろう。レビびとの町々の家はイスラエルの人々のうちに彼らがもっている所有だからである。ただし、彼らの町々の周囲の放牧地は売ってはならない。それは彼らの永久の所有だからである。』(レビ記25:32-34)
レビ人は、主の御前で仕える奉仕が割り当てられ、全ての十分の一が与えられている代わりに、彼らへのゆずりの地は無い。なぜなら、主ご自身が彼らのゆずりの地である。(民数記18:20-21)
そのレビ人の放牧地は、売買してはならない、と定められている。
主の御前に仕えるレビ人は、本来、民の十分の一で養われているはずであり、貧しくなって土地させも手放すという事は、そもそもあってはならないからだ。

世に満ちるもの全ては、主のものであり、私達はその中に仮住まいさせていただいている者達である。
そして私達は、自らの罪の故に落ちぶれ、破産したような者達であったが、私達はまことのボアズであるキリストによって買い戻され、キリストに嫁ぐ者とされ、栄光の家系へと加えられる栄誉に預かった。
主イエスこそ、私達を絶やさぬ責任のある方であり、私達もルツのように、イエス様こそ自分の主人であると訴えるべきである。
そして、そのように訴えるからには、イエス様を主として歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:安息させるための祝福(レビ記25:18-22):右クリックで保存

『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)

主は、人が当然のように心配する事について、どのようにフォローして下さるかを、先んじて教えて下さる。
事実、イスラエルの民が命じられた通りに、安息を守った時、前もって、三年分の祝福を与えて下さったのだ。
もしそうでなかったとしたら、イスラエルの民は、とっくの昔に滅んでいただろう。
主は、マナを与えて下さった時も、同じような指示をされ、イスラエルの民がしっかり「安息」を守って主を覚えるようにと、安息日の前には、二倍の祝福を与えられた。(出エジプト記16章)

主は人に、一気に何年分もの食い扶持を与える事は、滅多にしない。
何年分も先の食料を貯められ、たましいに安心を宣言した者に、主は愚か者と言われた。
『「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」』(ルカ12:21)

主が、この先何年分も暮らしていけるような金銀や食料を一気に与えない事が多いのは、祝福が与えられて、なお主への忠実さを失わない人よりも、むしろ傲慢になって、主を軽んじてしまう人のほうが、多いためだ。
『貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。』(箴言30:8-9)
私達は、先々も安心して暮らせる金銀を求める事にたましいを使うのではなく、日々、主を求め、御言葉をしっかりと守り、毎日を主と共に歩む事を求めるべきだ。

地は主のものであり、金銀は主のものである。
主は、御言葉を守り行う人には、地に三倍の実りを命じて下さるお方であると同時に、主を軽んじた世代には、三年半の間雨を降らせる事をしなかったお方でもある。
だから私達は、主こそ第一とすべきである。

『あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。』(ルカ12:29-34)

礼拝説教メッセージ音声:ヨベルの年(レビ記25:8-17):右クリックで保存

『あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。』(レビ記25:8-10)
前回は、七年ごとに安息年を守るように、という命令だったが、その、七を七倍した安息年の、第七の月にはラッパを吹き鳴らし、その五十年目を特別な年「ヨベルの年」として聖別するよう、主は命じている。(「ヨベル」とは、角笛(ラッパ)を意味する。)

その時、イスラエルの中では、全て奴隷とされていた人は開放され、借金のある人も一切免除される。
国中のすべての住民に、自由と開放が告げ知らされ、元の所有地から離れていた人達はおのおのの地に帰り、家族の元に帰らなければならない。

イスラエルには元々、土地の永久所有権という概念は、無い。
『ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。』(レビ記25:15-16)
すなわち、土地について売買できるのは「その土地で収穫できる回数」であり、それも、ヨベルの年を中心に考え、ヨベルの年まであと何年かによってその値段が決まる。

人がたとい貧しくなって、土地の「収穫権」を売ったとしても、ヨベルの年にはその土地は返され、そこに帰る事が出来る。
このように聖書には、明確に、負債の帳消しが、借金の免除が、記されている。
だから、どんなに凋落した一家でも、五十年に一度必ず訪れるヨベルの年には、全ての借金は帳消しになる事で、新たなやり直しがきくのである。
人が五十年生きるなら、誰でも、生涯に一度は負債取り消しのチャンスが巡ってくるのである。

主がヨベルの年を定めておられるために、お金を持った人は他人の土地を貪欲に買い漁って独占し続けたり、落ちぶれた人はずっと労働者として安い賃金で働き続けたり、といった事は、イスラエルの中では起こりえない。
物持ちはずっと物持ちのまま、落ちぶれた人はずっと落ちぶれたまま、という、貧富の差の固定的な状況を、神様はお許しにならないのだ。

主が定めて下さったこの命令は、ただ単に弱者救済というだけで制定されたのではない。
土地は元々人のものではなく、神のもので、人はそれをお借りしているだけである。
そして何より、ヨベルの年を定められた事により、やがて全被造物が改まる時に起きる出来事も、あらかじめ予表して示しておられたのだ。

ヨベルの年にはラッパが吹き鳴らされ、負債の取り消しが宣言され、それぞれ自分の故郷に戻る事が出来るが、同じように、主が再び来られ全被造物が改まる時、御使いの号令と共に、至る所でラッパが鳴り響き、キリストを信じていた人々は、罪の体を脱ぎ捨てて全く新しい体が着せられる。
神の国に属する人達は、罪からの開放と肉体からの自由が告げ知らされ、神の国へと帰り、そうでない人は、それぞれの行くべき所へと送還されていく。

ヨベルの年は、七を七倍した安息年の、第七月だったが、そのような「スリーセブン」が聖書には幾度か出てくる。
ヨシュア記では、七人の祭司が、七日目に七度、回った時、邪悪な都市・エリコの城壁は崩壊し、その中の赤い印がつけられた家の内に逃れていた人達は救われた。
黙示録でも、七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹き鳴らされ、七つの鉢の災いが全て満ちた時、全てが成就し、聖徒達は真の故郷である天に入るのである。

私達は、この地上に住まいがあるのではない。だから、貪欲さを捨てて、まことの故郷である天を覚えつつ、天に相応しい歩みをする皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:安息の年(レビ記25:1-7):右クリックで保存

『わたしが与える地に、あなたがたがはいったときは、その地にも、主に向かって安息を守らせなければならない。六年の間あなたは畑に種をまき、また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、その実を集めることができる。 しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。』(レビ記25:2-5)

被造物は全て、七の周期で回っている。なぜなら、全被造物を創られた創造主が、六日間働かれてその全てを完成し、第七の日に休まれたからである。
主は、第七の日を安息日として定められたように、第七年を安息”年”として定められた。

主が安息年を制定されたのは、地と人とが七の周期ごとに休みを得るためでもある。
『安息の年の地の産物は、あなたがたの食物となるであろう。すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう。』(レビ記25:6-7)

七の周期ごとに休むなら、単純計算すれば、生産性は七分の一マイナスになってしまう、と思うかもしれない。
しかし、神の国の事は、単純計算で計れると思ったら、大間違いである。
実質は、安息を守る事によって、大いにプラスとなるのだ。
なぜなら、ゆとりのある働きのうちに生産性が上がり、地も、人も、さらに豊かな実りを得るからである。
そして何よりも、生産性が大いにプラスになる理由は、「主を覚えて聖とする」(出エジプト記20:8)事によって、主からの祝福を大いに受けるためだ。
イスラエルの民は、主が命じられた安息日や安息年を守るごとに、主を、主として敬っているのであり、主を敬う人は全て祝福をいただく事が出来るのだ。

もし、主が命じられた事を守らず、土地を安息させないと、どうなるか。それも主は予め示している。
『わたしはあなたがたを国々の間に散らし、つるぎを抜いて、あなたがたの後を追うであろう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は荒れ地となるであろう。こうしてその地が荒れ果てて、あなたがたは敵の国にある間、地は安息を楽しむであろう。すなわち、その時、地は休みを得て、安息を楽しむであろう。それは荒れ果てている日の間、休むであろう。あなたがたがそこに住んでいる間、あなたがたの安息のときに休みを得なかったものである。』(レビ26:33-35)
もし、人が土地を休ませないなら、あるいは、奴隷や雇い人、他国人や家畜を休ませないなら、主はそのような御言葉を守らない人を強制的に散らし、敵国へと追いやり、主はそうしてその地に強制的に安息をもたらすのだ。
そしてその事は、実際にイスラエルの歴史の中で起こってしまった。(2歴代誌36:21)

労働者も奴隷も家畜も、休みなく働き詰めとする事は、主の御心ではない。七の周期ごとに安息する事が、主の御心である。
だからもし、職場など置かれている状況が安息させてくれない状況であるなら、主の御心の通りに安息を与え、主を礼拝させてください、と、祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:感情を治めない者の災い(レビ記24:10-23):右クリックで保存

『イスラエルの女を母とし、エジプトびとを父とするひとりの者が、イスラエルの人々のうちに出てきて、そのイスラエルの女の産んだ子と、ひとりのイスラエルびとが宿営の中で争いをし、そのイスラエルの女の産んだ子が主の名を汚して、のろったので、人々は彼をモーセのもとに連れてきた。その母はダンの部族のデブリの娘で、名をシロミテといった。人々は彼を閉じ込めて置いて、主の示しを受けるのを待っていた。』(レビ記24:10-12)

イスラエルの民が守るべき法規が続く中で、唐突に、一つの事件が挿入されている。
エジプトとの混血の者が、主の名を「汚して」「のろった」のである。
「汚す」とは、突き刺す、刺し通すの意味で、「のろう」とは、軽蔑したりばかにしたりする意味である。

『「あの、のろいごとを言った者を宿営の外に引き出し、それを聞いた者に、みな手を彼の頭に置かせ、全会衆に彼を石で撃たせなさい。あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他国の者でも、この国に生れた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない。』(レビ記24:14-16)
主の御名を汚し、のろって主を軽蔑した者への、主の判決は、石打ち刑である。
主の御名を汚し、主を「突き刺した」者は、そのまま報いが呪いとして跳ね返ってくるのだ。

この者は公の前で、多くの人々が聞いている中で、主の御名を「のろった」ようである。
ずいぶんと尊大なように思えるが、彼は何がきっかけで御名を呪ったのか。それは、イスラエル人との喧嘩がきっかけであり、おそらくそれで頭に血がのぼり、怒りに任せて尊大な言動をさせたのだろう。
怒りっぽい人は、根拠のない自信が大きく、怖いもの知らずである。しかし、その人には、災いが多い。
『怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い。』(箴言14:17)
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(同29-30節)

怒ったり感情が高ぶったりすると、その人の本性があらわれるものである。
怒りなどの高ぶる感情。私達はそれを、努めて支配しなくてはならない。
それを支配せずに、逆にそれの飲まれるがままにしておくと、永遠に取り返しのつかない事になってしまう。

カインは、自分が捧げたものは受け入れられず、アベルが捧げたものは受け入れられたのを見て、大いに憤り、御前から顔を伏せた。(創世記4章)
主に対して尊大な態度を取ったにもかかわらず、主は、カインを取り扱われた。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:6-7)
しかしカインは、怒りを治める努力もせず、逆にそれに身を委ね、弟を殺してしまった。
それでも主はカインに、弟はどこにいるのか、と、敢えて尋ねられた所、カインは神に対し、さらに尊大に答えた。
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
そうしてカインは呪われ、地を耕しても彼に産物は生じず、人々から憎まれる者として、さすらい人となった。

怒り。それに身を委ねると、神をもおそれなくなり、御名を冒涜するという、してはならぬ事をも、してしまうものだ。
主イエスは、御父や御子を冒涜する罪は許されても、聖霊を冒涜する罪は決して赦されない、と言われた。
なぜなら、聖霊は、御子と御父をあらわす霊であり、誰も、聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できないし、聖霊の働きがなければ、神を知ることもない。
聖霊によって光当てられ、キリストがどのようなお方であるか、神がどれほどのお方であるのかを知りながらも、あえて、その素晴らしい事を示して下さった聖霊を冒涜するのであれば、御父も、御子をも知った上で、その全てを冒涜した事になる。
聖霊は、助け主であり弁護者である。
その助け主であり、弁護者なる方をを、自ら拒絶するとしたら、もうどうしようもない。

普段から主への恐れや感謝が無い者は、いざという時にポロが出てしまうものである。
主の御名を呪った、あのエジプトとの混血の者は、主からいただいたマナを食べたその口で、御名を呪った。
怒りが彼を尊大にさせたから、というより、普段から怒りを制御しない彼の霊的怠慢が、たまたま「喧嘩」というきっかけによって露わにされたのだ。

それ故、私達は普段からの心がけが大事である。
普段から、神と人への感謝の心が無い者は、いざという時に感謝が出てこないものである。
また、普段から怒りっぽい者は、高ぶってはならぬ時にも、それが制御できないものである。
前回の箇所は、普段から主の御前に油を絶やすことなく、ともし火をともし続ける事、安息日ごとに、主の御前に欠かすこと無く純粋なパンを備える事の命令だった。
私達には、そうした、毎日為すべき地道な信仰の積み上げが大切である。

礼拝説教メッセージ音声:御前にいつも整えておくもの(レビ記24:1-9):右クリックで保存

今回主は、イスラエルの民が主の御前にいつも用意しておくべきものについて、再確認している。
その一つが、主の御前にともしびを灯しておく事である。

『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。』(レビ記24:2-3)
ともしびを灯し続けるためには、油が必要だが、その油は、一般のイスラエル人が用意するべき事を命じている。
一般の人は主の聖所に入る事はできないが、その人の「捧げ物」は主の聖所の内側へ入って行って、主の御用に用いられるのである。

燭台は世を照らす光としての教会をあらわし(黙示録1章)、その光をともし続けるための油は、主の御霊をあらわす。
ゼカリヤは主から、七つの皿がある金の燭台の幻を見せられた(ゼカリヤ4章)。
その七つのともしび皿には、おのおの七つの管があり、また、燭台の左右に、二本のオリーブの木があった。
『わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。』(ゼカリヤ4:4-6)
ゼカリヤは、主の御前で灯され続ける燭台の仕組みを見せられ、それが何なのか分からなかったが、主はそれを「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」と言われた。

主の御前の燭台に灯す事が出来るのは、誰か人間の権力によるのではなく、能力によるのでもなく、主の霊によって、である。
教会の運営は、誰か特別な人だけのものではない。
聖霊の油に促された聖徒たち一人一人の奉仕によって、であり、それは権力や能力によるものではない。
いくら音楽の才能がある人でも、信仰が無いなら、主に受け入れられる賛美を捧げる事は出来ないものである。
教会こそ、世を照らすともしびであり、その、ともし火の真ん中におられるお方は、キリストである。(黙示録1章)

もう一つ、イスラエルの民が、主の御前にいつも用意しておくべきものがある。
『あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。』(レビ記24:5)
パンの数は、イスラエル部族の数と同じ十二であり、一つ一つのパンは、神に捧げられた民一人一人をあらわしている。
私達も、純粋なパンとして、神に捧げられられるものとなるため、私達の内から悪意と邪悪のパン種を取り除くようにと、パウロはすすめている。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

『そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。』(レビ記24:6)
主に捧げられるパンはこのように規律正しく並べられる。
同じように、人が主の御前に捧げられる時は、誰かが飛び抜けて目立ったりするものではない。
主の前に、きよい、生きた供え物として捧げられる時は、誰か人間が特別扱いされたり、誰か人に栄光が帰されるのではなく、御前で規律正しく捧げられるものである。

『安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」。』(レビ記24:8-9)
この事は永遠の契約であるとある通り、現代も有効である。
現代では、私達キリスト者が主日ごとに主に礼拝を捧げているが、私達は主日の礼拝を捧げるごとに新たにされ、力を得て、御前できよくその週を生きて行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 仮庵の祭り(レビ記23:33-44):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。』(レビ記23:33-34)
今回は、ラッパの祭り・大贖罪日に続く、新年の祭りである「仮庵祭」についてである。
春に行われる「初穂の祭り」や「七週の祭り」は、大麦や小麦など穀物の収穫シーズンの祭りであるのに対し、「仮庵の祭り」は秋の収穫祭で、ぶどうやいちじくなど、果物の収穫を主の前で感謝して喜ぶ祭りである。
この、過越祭と七週の祭り、そして仮庵の祭りが、『年に三度、男子はみな主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない。』(出エジプト記34:23)と言われている「ユダヤ教三大祭」である。

『初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。』(レビ記23:40)
それまでの、ラッパの祭から大贖罪日へと続いた、断食と悔い改めの日々とは打って変わり、喜びと楽しみの七日間である。
この祭りの期間、イスラエルの人々は、庭や屋根などに仮庵(仮小屋)を立て、なつめやしの葉や、葉の多い茂った枝、秋に取れた収穫物で小屋を飾り、その仮庵の中に七日間宿り、主の御前で収穫を喜ぶ。
仮庵を作ってそこに宿るのは、イスラエル民族はかつて、荒野で四十年仮庵に住み、約束の地カナンへと主が導いて下さった事を、いつも覚えるためである。

『その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:14-15)
大いに喜び楽しまなければならない、と命じられている通り、この期間、イスラエル人は富めるも貧しきも、老いも若きも、豊かな収穫を多くの人と分かち合い、喜び祝った。
現在でもイスラエルでは、仮庵に多くの客を招いて食事をする習慣になっている。
また、民数記29章を見ると、この期間に祭壇で捧げられるいけにえもまた盛大で、七日間に捧げられる量を合計すると、雄牛70頭、小羊98頭、雄羊14頭、雄ヤギ7頭である。

そしてこの祭りは、地上に肉体として仮庵を設けて下さった主イエスキリストをあらわしている。
イエスキリストがお生まれになった時期を、聖書の記述から計算すると、実は、ちょうどこの仮庵祭の時期であると分かる。
ザカリヤはアビヤの組の祭司で(ルカ1:5)、アビヤの組は8番目(砧鯊綮24:10)である。第8組は5月半ば〜6月半ばであり、エリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもったのは、その時期という事になり、マリヤが身ごもるのはその6ヵ月後、11月半ば〜12月半ばであるから、そこから出産までの約10ヶ月を足すと、キリストがお生まれになったのは、9月から10月の間、すなわち、ちょうど仮庵祭の頃となる。

『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った(仮庵を設けた)。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
天地の主であり、真理のロゴスなるキリストが、人として、肉体をとって仮宿を取られ、私達の内に宿って下さった。
これは驚くべき事であり、喜ばしい事である。

第七の月、年が改まったユダヤでは、ラッパの祭り・大贖罪日に続いて仮庵の祭りを行ったが、これら新年の一連の祭りは、今の世の終わりから新天新地に至るまでの期間を予表している。
終わりの時、ラッパの音と共にキリストが再臨され、キリストの贖罪により、キリストを信じる人々の罪は赦され、全く新しいものとして創り変えられ、そうして新しくされた多くの民族、国々の人達が、天の収穫の実りとして盛大に神に捧げられ、老いも、若きも、富めるも、貧しきも、共に神の御前で喜び祝うのである。
『また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋(仮小屋)が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。』(黙示録21:3)

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - ラッパの祭りと大贖罪日(レビ記23:23-32):右クリックで保存

続いて、第七月に行われる祭りについての教えである。
この第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」である。
それに対し、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、エジプト脱出を起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。どのような労働もしてはならない。しかし、主に火祭をささげなければならない』」。』(レビ記23:23-25)
ユダヤでは、第七月が「新年」すなわち、「万物が改まる」時期であるが、その新年の第一日、ユダヤの人々は一切の労働をやめ、あちらこちらでラッパ(角笛)の音を鳴り響かせた。

この世もやがて、万物が一新される日が来る。
その日、御使いのかしらの号令と共に、あちらこちらでラッパが鳴り響き、主ご自身、みずから天から下って来られ、その日、人々はもはや世の仕事をやめ、キリスト者は空中で主と出会うのである。(1テサロニケ4:16)

新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備えている。
『主はまたモーセに言われた、「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。』(レビ記23:26-17)
この日は、大祭司が年に一度だけ至聖所に入って、イスラエル全体の贖いの務めを為す日、大贖罪日である。
まず、大祭司自身の罪の贖いが為され、次にイスラエル全体の贖いが為され、最後に、イスラエル全体の罪を一頭のやぎの頭に乗せ、それを荒野へ追放する。(レビ記16章)

『その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。』(レビ記23:28-30)
「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれる」とあるが、身を悩ますとは、具体的には、一切の娯楽も食事も味わう事をせず、祈りに専念する事である。
この教えを厳格に守る人は、完全断食を実行し、水はもちろん唾液さえ飲まず、ただ悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ、取り除かれる事を祈る。

この贖罪日に行われる全ては、キリストの贖いを表している。
キリストは私達の全ての罪とがを負って、身代わりに罰されてくださった。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
イスラエルが守り行う祭りの内に、イエス・キリストのご性質と、異邦人の救い、そして終末に至るまでの、将来起こるべき事が、隠されていたのである。

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 七週の祭り(レビ記23:15-22):右クリックで保存

続いて「七週の祭り(シャブオット)」についての教えである。
初穂の祭りは、大麦の収穫の時期であるのに対し、七週の祭りは、小麦の収穫の時期である。
イスラエル地方で、穀物の収穫は、初穂の祭りの時期に始まり、七週の祭りの時期に終わる。

『また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。』(レビ記23:15-16)
この祭りは、初穂の祭りからちょうど五十日目に行う。
この日は、新約におけるペンテコステである。ちなみに「ペンテコステ」という言葉は、ギリシア語で「五十」を意味するペンテコストスの女性形である。

この、七週の祭りの日、イエスの弟子達が、主から約束されていた聖霊を待ち望みつつ、一つ所に集まっていた時、そこに聖霊の風が吹きすさび、弟子達は聖霊に満たされた。
ちょうど七週の祭りを祝うために各地から大勢の人達がエルサレムに集まっていたが、その多くの人達がその聖霊のわざを見、ペテロの御言葉による説教に悔い改め、三千人ほどが、初穂として救いに入れられた。
イスラエル地方で、穀物の収穫は、初穂の祭りの時期に始まったように、いのちの刈り入れはキリストの復活に始まり、収穫は七週の祭りの時期に終わったように、いのちの成熟は、七週の祭りの時期に完成するのである。

『またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。』(レビ記23:17)
七週の祭りでは、パン種を入れたパン二個が捧げられる。
捧げ物の中に、パン種がはいるのはめずらしい。なぜなら、パン種入りのパンは、聖書では不純物の混じったものとして、あまり良い意味では使われないからだ。

この、二つの種入りのパンは、新約の教会の特徴をよくあらわしている。

キリストの十字架と復活の前までは、神の道はユダヤ人にしか示されていなかった。しかしキリストの復活以降、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶようになり、イエス・キリストを信じる者は、全て救われるようになった。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)
この箇所の「二つのもの」とは、ユダヤ人と、私達異邦人である。

しかし、この集まりの中には、パン種のような不純な者も混ざっている。
主はどういうわけか、あえて、麦の中から毒麦を除いたり、羊の中から山羊を除いたりする事はせず、そのまま共に育てるがままにされた。
それらを選り分ける日時は、主が定めており、その時まで、主は、敢えて混在したままにしておかれるのだ。

『あなたがたはまたパンのほかに、一歳の全き小羊七頭と、若き雄牛一頭と、雄羊二頭をささげなければならない。すなわち、これらをその素祭および灌祭とともに主にささげて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主に香ばしいかおりとなるであろう。』(レビ記23:17-18)
七週の祭りでは、パンの他にも、多くの種類のいけにえが捧げられる。

過越祭でも、初穂の祭りでも、傷の無い一歳の小羊が捧げられていたが、この七週の祭りでは、それが七頭になっている。
以前も説明したように、傷の無い一歳の小羊は、キリストをあらわしている。
キリストの苦難と復活の時は、キリストという人格(神格)は、地上でひとりだったが、キリストの昇天と聖霊降誕以降、キリストの似姿である聖徒達が、地上で増え広がりつつあるのだ。

『あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。』(レビ記23:22)
初穂の祭りも、七週の祭りも、共に収穫の祭りである。
貧しい人のために、畑の実りを残しておいてやるべき事を、主はここでも示された。なぜなら、全ての人が、いのちの収穫の恵みに与るべきだからであり、それを独り占めしてはならないからだ。

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