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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

あなたは誰と戦っているのか(2コリント10:3-6) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)

10/10/31 週報


ある映画において、見えない敵から攻撃を受け、混乱してやみくもに同士討ちしている所に、上官が
「落ち着け、敵はどこだ、おまえ達は一体誰と戦っているんだ」と言うシーンがある。
私達も、見えない敵に攻撃されて混乱に陥り、やみくもに兄弟姉妹を傷つけ、平和であるべき日常に無駄な争いを持ち込み、無駄な時間やエネルギー、お金を注ぎこむような事が無いだろうか。
まず、戦うべき相手を正確に補足し、正しく攻撃する知識を身につけなくてはならない。

敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく目に見えないサタン
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
権威も支配も諸霊も目で見ることができないが、私達が格闘すべき相手は血肉(人間)ではなく、そうした見えない存在である事が、この御言葉から分かる。
サタンは物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人は訳も分からず攻撃されたのでやり返し、、、といった、本質から逸れた空回りの内紛を私達兄弟姉妹に起こさせる。
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、物陰から矢を射掛けて来た悪しき者の存在に留意すべきであり、攻撃の大元である支配や権威といった、見えないものにこそ目を注ぐべきである。
攻撃の矢を防ぐことができるのが信仰の大盾であるが、ただ防いで耐えるだけでは能が無いので、攻撃の武器として御言葉の剣を取り、矢を射てくる元を攻撃して、沈黙させるべきである。

戦いの場は「思い」
罪への誘惑は「思い」に対する攻撃であり、エバはそのようにして惑わされた。
私達も御言葉どおりでない別のイエスをのべ伝えられたり、異なった霊、異なった福音を受けたりする事によって思いが汚されることがある。(2コリント11:3,4)
敵の誘惑方法は、まず「思い」の中に肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という種を蒔き、それを掻き立ててて思いの内を膨らませ、肉を疼かせ、意思で決定するよう促し、結果罪の行動をさせる。(創世記3章)
この「思い」の中に蒔かれた時点で対処しないと、後にはもっと対処が困難になる。
対処方法は2コリント10:3-6にある通り、全てのはかりごと(思い)を虜にしてキリストに服従させる事である。
「今のこの思いはイエスキリストの名にふさわしいか?」と常に点検し、そうでなかったら敵が蒔いたものだから、キリストの名によって破棄し、どうしようもない程虜にされてしまう前にキリストのことばを豊かに満たす事である。
御言葉によって養われた者は、経験によって見分ける感覚を身につけられる。(ヘブル5:14)

サタンに嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には
サタンにまんまと嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には、柔和な心で正しい道に立ち帰らせ、彼らを憎むのではなく、自身も誘惑されないように自分に気をつけるべきである。(ガラテヤ6:1)
兄弟姉妹を諭す場合は、まず二人だけの所で、聞き入れなければ複数人で、それでも聞かなければ教会が諭し、それでも聞き入れなければ異邦人として扱う、というのが順序である。(マタイ18:15-20)
いきなり罪に定めて突き放すのは聖書的ではない。
忍耐を持ってその人の内にいる悪しき者を御言葉によって切り、主へと取り戻すべきである。
何よりも日々、「きょう」と言われている間に兄弟姉妹の間で互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにするべきである。(ヘブル3:12,13)

見える兄弟姉妹ではなく、見えない敵であるサタンに対抗し、そのはかりごとを見抜き、戦って勝つ皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝メッセージ音声: 災いの深みから救い出される主(ダニエル3 章)


10/10/24週報


ネブカデネザル王は約27mの金の像を作り、これを拝めと皆に命令した。(ダニエル3章)

ネブカデネザル王は自分の構築した像を拝め、さもなければ殺すと言ったが、人は自分の編み出した主義主張という偶像に跪く事を要求し、さもなければ殺したい、という欲望がある。

さらにそういう人の立てたそういう仕組みを利用し、気に食わない人を告げ口し、殺させるという手も用いるシャデラク・メシャク・アベデネゴは像に跪かない事を告げ口され、彼らの主張(3:16-18)を聞いたネブカデネザル王は怒り狂い、彼らを投げ込むための炉を7倍熱くせよ、と命じた。

彼らは激しく燃える火の中に落ちたが、火は彼らを害せず、それどころか、第四の者が彼らと共にいて守っていた。

信仰を守り通すにあたって、火のような試練の中をくぐる事があっても、主は第四の者を遣わして守り、髪の毛も上着も損なわれる事が無く、火のにおいもしないまでに守って下さるのだ。

そこでネブカデネザル王は彼らの神をほめたたえ、このまことの神を侮る者には手足を切り離し、その家をごみの山とする命令を発布し、そして彼らはバビロン州で大いに栄えた。

さて、チリ鉱山の落盤事故で33人が救出されたが、そのほとんどは敬虔なクリスチャンであり、彼らはホセ・エンリケス(Jose Henriquez)という福音派の牧師のもと、毎日2回、12時と6時に礼拝を持っていたという。

最年少であったジミー・サンチェスは、閉じ込められたのは33人だったが、34人目がいた、と語った。

人間の汚らわしい欲望によって、火の中に落とされても、地中深くに落ちても、主に信頼する者達には、プラス1人の神様からの使いがいて、その方が困難な状況から守り、救い出して下さるのである。

新聞やネットにて、写真つきで大いに宣伝されたあのチリ国旗をあしらった褐色のTシャツには、左腕に「JESUS」、正面にはスペイン語と英語で「神様ありがとう」と書かれており、背中に詩篇95:4の「神に栄光と敬意をささげよう。地の奥深くも山々の頂きも、神の両手の中にあるのだから」という言葉が書かれてあった。

このTシャツは、ホセ・エリンケスの家族からキャンパスクルセード・フォー・クライスト・チリへの依頼に基づいて作られ、この団体は、Tシャツと聖書、「イエス・キリストは墓のような洞穴の奥から、岩を動かして復活する」という聖書をもとに作られた映画を地下へ提供し、作業員を励ましていた。

実は、ホセ・ヘンリケスは20年ほど前にも洪水被害に遭い、水中で40時間もレスキュー隊を待つ、という体験をしていて、命の危険の中では主を信じて救いを待つ、という、素養があらかじめ培われていた。

生涯に2度も、閉じ込めによる命の危機が訪れるのは、よほど運が無いという見方もあるが、主が栄光を現すために彼にあらかじめそのような経験をさせた、という主の大いなるご計画があったのだ。

私はこの面において運が無い、と思われる方は、もしかしたら主のご計画があるのかもしれない。

彼はインタビューで、「救出される前の最後の数時間はどのように過ごしましたか?」という質問に、「私はいつもと同じように、現実に生きておられ、永遠にすべてを支配されている主イエスキリスト様に信頼し続けました。」と応え、特に「いつもと同じように」と強調している。

キリスト者として、どんな時でもいつもと同じように礼拝している事こそ、主の御技と大きな証の源になる。

ダニエルは例え国の法律が礼拝を禁止されるような状況になっても、いつもと同じように礼拝する事を止めなかった結果、ライオンの穴に投げ込まれることもあったが、主の大いなるみわざがあり、結局王は、ダニエ

ルの神に震えおののくよう命令を発布している。

主が大いに伝えられ栄光を受けられるには、私達の力や言葉巧みさは必要なく、私達がいつものように礼拝している毎日から生み出される。

私達はもしかしたら火や水の中、地の底、獣のいる檻に落とされる事があるかもしれないが、主は全ての災いの中から、御使いを遣わして救い出され、災いさえも主の栄光のために用いる事がおできになるのだ。

この主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを知り、その主の素晴らしさを味わい尽くす皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

※本日の礼拝音声は、レコーダーの容量が不足していたため、メッセージの途中で切れてしまっております。

礼拝音声:救いの勇士(2歴代20章)

2010/10/17 週報

2歴代誌20章にはヨシャパテ王の活躍が書かれてある。それまでの王たちは異国の神々や偶像を拝んでいたが、ヨシャパテ王は天と地を創られたまことの神様に頼っていた。
私達は祈る時は、大抵まず自分の願いを述べるものだが、彼はまず、主がどういうお方であるかを信仰によって告白し(6節)、主は天におられ全ての異邦の王国、全世界を統べ治めるお方であり、対抗できる者は無い、と、信仰によって宣言した。
次に彼は、御言葉を盾にして祈り(7-9節)、彼の先祖アブラハムに永遠にこの地を与えて下さったという約束を持ち出し、アブラハムの子孫である自分達がそこから追い出されるのはおかしい、と、告白した。
私達も御言葉を盾にとって祈るべきである。
病の内にある場合は、箴言3:8やイザヤ53章を、貧しさに対しては2コリント9:8-11やピリピ4:19を盾に取って祈る事ができる。
次に、やっと現在の彼我の状況を訴え、最後に彼の願いを申し立てた。(10-12節)
王と民が心をあわせ祈った時、主は具体的な指示と、恐れなくて良い事をある人を通して語った。
私達はもしかしたら神様の御声を具体的に聞くという事は、あまり無いかもしれないが、心を尽くして祈った結果、「神様は答えてくださった」と分かった瞬間が来て、言葉では言い表せなくても「大丈夫だ」と分かり、世のものでは無い平安に包まれたという経験を持つクリスチャンは、たくさんいる。
私達の戦いは主のものであり、御心に沿っていない勝利はかえって人を不幸に陥れる結果になってしまう。
自分の願いを主に明渡し、御心のままになさって下さいと祈るなら、私達にはできない勝利が与えられる。

イスラエルの人々は、大いなる戦いの日、主が示して下さった通り出陣した。
地平線を埋め尽くすような大軍団を前に、イスラエル軍はどのような陣を張ったか。
なんと、その大軍と自軍との間に、全く武装をしていない聖なる飾り物をつけたレビ人の聖歌隊を配備した。
恐らく、それを見た敵軍は、あざ笑い、罵倒し、飲み込んで奪い取ってやろうと押し寄せた事だろう。
戦術的に見ればこれほど無謀な事はないが、聖歌隊は進み出て「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と、喜びの声をあげた時、主は伏兵を備え、イスラエルの敵を襲わせた。
主の助けは私達の思いもしなかった隠れた所から現れ、私達と敵との間に立ちはだかり、戦って下さる。
結果、敵は敵同士で戦い合い、互いに滅ぼし合い、一人残らず死体になって横たわっていた。(24節)

分捕りの時、分捕るための武具や高価な物があまりにも多くて、3日もかかった。
一人が一つの死体から分捕るのに多く見積もって30分かかるとし、それを1日12時間働いたとすると、1日で24体、3日で72体分の死体から分捕った事になる。
敵は少なくとも自軍の72倍はいた事になるが、戦わずに勝利したのだ。

もちろん、敵を前にしたら戦わずに賛美するというのを、そのままマネしたら必ず勝てるという訳ではない。
一人一人に与えられた戦いと神の救いの方法は違う。しかし、心を尽くしてイエスキリストの名によって祈るなら、人知を超えた平安が与えられ、人の方法ではない救いが来る。(ピリピ4:6,7)
私達は救ってくださる方、救いの勇士である主イエスキリストに拠り頼まないと、損である!
神様が私達の代わりに戦って下さるなら、例え72人が自分に対抗して攻め立てても恐れる事は無い。

戦いから4日目、イスラエルの民はこぞって主を褒め称え、喜んだ。
周りの国々は、主はイスラエルの敵と戦われたということを聞き、神の恐れが彼らの上に臨み、そのようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。
主に信頼し、主ご自身が戦って下さるなら、大いに分捕りができて、生涯安泰。周りはそれを見て恐れる。
主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを知り、その主の素晴らしさを味わい尽くす皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

礼拝音声:天の奇跡を求めるよりも、空模様を見分けよ(マタイ16:1-4)

第3礼拝音声:メッセージのみ、韓国語通訳つき 한국어예배

週報

パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めたが、イエスは霊において深く嘆息し、わずかな言葉を言って彼らをそのまま残し、船に乗ってどこかへ行ってしまった。(マタイ16:1-4)
イエス様の対応はたったそれだけであるが、それで良いのだろうか。
議論を仕掛けてくる人へのイエスの方法は、論破する事ではなく、真理を語って立ち去る事。
そもそも彼らはそれ以前に、イエス様の色々な奇跡のうわさを数多く聞いてきたはずであるし、この直前にもイエスは4千人にパンを与える奇跡を行ったばかりだった。
彼らは、イエスが悪霊を追い出した時もベルゼブルの力によるものだと揶揄したし、死人を蘇らせる奇跡の時も自分よりも目立つイエスを殺そうと企んだだけだし、また、イエスご自身が蘇られた時も、彼らは兵士達を買収して「この事を言うな、寝ている間に弟子達が持ち出したのだと言え」と情報を捏造したものである。
現代でも、同じように挑発してくる輩はいるが、十字架のことばは、人間から見れば愚かである。
しるしを見せても無駄な者達への、私達の取るべき対応は、イエスの言葉を言い残して立ち去る事だ。
御言葉の真理をそのまま語り、議論したい人はそのままそこに残しておいて、私達は船に乗ってイエス様が行かれる所へと、一緒に行ってしまえばいいのである。

さて、パリサイ人達は、天の大いなる印を求めたのに対し、イエスが答えたのは、夕焼けなら晴れ、朝焼けなら雨という、万国共通・昔ながらの暮らしの知恵だった。
彼らが天からのしるしという「非日常」を要求してきたのに対し、イエスが「空模様の見分け」という、いわば「日常」を切り返したのは、私達は、大いなるしるしという手の届かないものを追いかけるべきではなく、日常の、すぐ手が届く、万国共通・昔ながらの「御言葉」に目を留めるべきである事を伝えるためではなかろうか。
時代のしるしとは「夕焼けなら晴れ、朝焼けなら雨」と同じで、「御言葉のあれが起きればこうなる」事である。
当時の時代のしるしとはどういうものであろうか。

メシヤが現れる前にエリヤが現れ、人々の心を整えさせる事がマラキ4章に書かれており、主の前で山や谷が埋められ、でこぼこ道は平らになる事が、イザヤ40章にて語られていた。
これらの預言の通り、まずバプテスマのヨハネが現れ、彼によって整えられた民がイエスへと導かれた。
「道を整える」とは悔い改めて心を整え、主の救いに備える事であり、この悔い改め無しにイエスの道を進もうとしても、山や谷のでこぼこにつまづきっぱなしとなってしまう。
私達はまず、悔い改めて主の前に道を整え、大いなる目新しいものではなく、身近にある御言葉に目を留めるべきである。

主は、あなたたちに与えられるしるしは「ヨナのしるし」だけであると言われた。
「ヨナのしるし」とはすなわち、主は死んで葬られ、黄泉に降り、3日目に死人のうちよりよみがえられた事。
私達は、イエスにあって死に、よみがえり、新しいいのちで新しい人生を生きなおす事ができるという、偉大なる「ヨナのしるし」に留まるべきであり、それ以上のしるしは無いし、求める必要も無い。
昔は預言者や色々な方法で語られたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られた。(ヘブル1:1,2 Darby訳では「in the person of the Son」御子の人格において。)
この時代、御子イエスというお方のご人格によって、既に、語られ「た」(完了形)。
私達が模範とすべきはイエスの繊細なご人格、イエスの優雅な品性である。
御言葉であるキリストによって、既に福音は完成しており、それに付け加えられるものは無い。
今の時代、私達が求めるべきは、偉大な先生達の新しいことばや、大いなるしるし、不思議といったものではなく、みことばなるキリストというお方であり、ここを離れて右往左往してしまうと、本質をはずしてしまう。

天の大いなる徴ではなく、御言葉なるイエスを信じる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!

礼拝音声: いのちから遠ざける「人の言い伝え」2(マルコ7:5-13)主日礼拝

週報

ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」を守らない事でイエスの弟子達を非難した。(マルコ7:5-13)

それに対しイエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言って非難し、「父と母を敬え」という十戒の一つを例に取って、「この場合は守らなくて良い」という例外を設ける事で神の言葉をないがしろにしている事を明らかにした。
現代も、色々な形を取った「人間の言い伝え」が数多くはびこり、御言葉に人間の編み出した学問をパン種のように付着させ膨張させては、人々を神から引き離し、人間の教えへと目を向けさせている。

人間の教えというパン種が私達の身近に尤もらしく浸透している例を挙げてみたい。
第2次世界大戦中のヨーロッパで、ユダヤ人達はナチスドイツの迫害に遭っている時、一部の勇敢なオランダ人はユダヤ人をかくまい、「ここにはユダヤ人はいません」と偽って、彼らの命を助けた。
さて問題。聖書には「偽ってはならない」と書いてあるが、このオランダ人は罪あり、とされるのだろうか?
嘘も方便、良い嘘もあるのだろうか・・・。
しかし、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽るのは罪なのである。
ここで「人間の教え」は、次のように声高に叫ぶ。
「罪なき人の命を助けた功績は大きいし、身の危険を冒して憲兵に対処した勇気もすごいではないか」
「聖書でも遊女ラハブが嘘でユダヤ人を助けたし、ダビデもミカルの嘘によって助かったではないか。」
「『ここにユダヤ人がいます』と本当の事を言って、ユダヤ人を見殺しにしろというのか」、等など。
尤もらしく聞こえる内容は置いておき、こうした議論は「善し悪しの判断基準に閉じ込め」、「御言葉から目を背けさせ」、「人間第一主義に走らせようとする」性質がある事に気付いただろうか。
私達はイエスの嫌われた「人間の言い伝え」そのものが何であるかに、意外と気付かないものであり、常に御言葉による計測飛行をしているか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。
私達の御言葉に対する正しい対応は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」、それ以外は悪から来る。

神の要求を全部守らなければ救われないのであろうか?
もしそうなら、誰も救われないし、私もとうの昔に投げていた事だろう。しかし感謝すべき事に、救いは行いによるのではない。
聖書が初めから提示している人間の歩む路線は、善悪の路線か、いのちの路線か、どちらかであり、福音は「この場合はこうせよ/するな」という善悪判断の集大成ではなく、いのちの路線である。
救いに至るには、御言葉をしっかり受け止め、まず自分達は神の基準を達し得ない事、違反がある事を認める所から始まり、そして救いが必要である事を認め、そしてイエスへと導かれるのである。(ガラ3:19-29)
故に、御言葉の元の意味を希釈してはならないし、神は厳しすぎる、ひどいと言って、否定してもならない。

私達が義とされるのは、行いによるのではなく信仰によるものであり、また「信じれば救われる」という、いわば誰にでもできる救いが与えられたのは、恵みによる。(エペソ2:1-10)
その信仰はどのようにしてもたらされるか。
ガラテヤ2:16、2:20は「キリスト・イエスを信じる信仰」と新改訳では訳されているが、原文はピスティス・クリストゥすなわち「キリストの信仰」であり、私達人間の信仰ではない。
「一人の従順によって、多くの人の不従順が赦される」(ローマ5:19)とあるように、人間が赦されたのは実にキリストの従順によってであり、人の従順によってではない。
救いも赦しも全ては信仰の創始者であり完成者なるキリストから出ており、キリストへと行き着くのである。

私達が生きることを止め、私達の内でキリストに豊かに生きていただく事によって、宗教臭い人間的な頑張りから開放されるのである。

礼拝音声: いのちから遠ざける「人の言い伝え」(イザヤ28:9-13)主日礼拝


週報


バプテスマのヨハネも、イエス様も、パリサイ人を「まむしの子」と呼んだ。(マタイ3:7、23:33)

まむしとは噛まれれば死に至る毒蛇であるが、なぜパリサイ人達は「まむしの子」と呼ばれたのか。

まむしはサタンを意味する最たる動物だが、彼らは人を福音から遠ざける事に、非常に役立っていた。

彼らは膨大な良い悪いの基準を押し付け、安息日が安息の日でなく重苦しい日、重荷の日と思わせるほど、色々な「言い伝え」によって付け足してきた。



律法の要求するレベルは誰にも到達し得ない。

律法は神の要求には人間は誰も答えられない事を教え、そうしてキリストへと導く養育係のようなものである。

それなのにパリサイ人達は、律法を全て守りきれない事の言い訳をするために、神様から求められてもいない別の戒めや規則を「言い伝え」として作り、それを一生懸命守り行う事によって、全ての律法を守りきれない「やましさ」を補填している。

イザヤ28:9-13 には戒めに戒めを加える者達の様が書かれてある。

彼らは乳離れした子、乳房を離された子に教えようとしているのか、と主は質問しているが、純粋なみことばの乳(1ペテロ2:2)を離れて、戒めや規則の迷路に迷い込んではならない。

主は人にいこいを、疲れた者には休みを与えたかったのに、それでも戒めや規則に迷い込もうとする者はうしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕らえられてしまう。(13節)



パリサイ人は、人間の言い伝えによって逆に御言葉から人を遠ざけて人間中心の教えへ誘い込み、結果イエスからも人を遠ざけさせ、滅びに至らしめるから、イエスやヨハネに「まむし」呼ばわりされたのである。

人は「言い伝え」や「言い訳」を大々的に喧伝し、神の要求を守れない事の「しょうがなさ」へと持っていこうとするが、神が目を留めるのは、あくまで御言葉を「守ったか、守っていないか」である。

律法を守り切るのは人にはできない。しかし、神にはできない事は無い。

律法を妥協したり意識的に逆らうのではなく、律法を守れない自分を認め、救いが必要である事を告白し、律法を成就された主イエスを信じ、そのイエスの内に入れられ、全く新しいいのちを歩むべきである。



宗教という言葉の響きに窮屈さ、いかがわしさといった不健全なイメージが付きまとうのは、宗教を信じている人達が、何らかの理想を固守し、いのちの望むまま生きる事ができない事例を多く見ているからだ。

キリストを信じた者達は、キリストを信じた事により、生まれながらの古いいのちが死んで、全く新しいいのちに生まれ変わった、神の子としての新しいいのちの内に歩む者達である。(ヨハネ1:12,13)

古い命では本能的に罪を犯してしまい、良い事は努力しなくてはできなかったものが、新しいいのちでは、罪を犯す事を本能的に嫌がり、ごく自然に良い事をしてしまうようになる。

それは、信じる者にはキリストのいのちが種のように蒔かれ、キリストの性質を帯びるようになるからである。

そのいのちは宗教者的不自然さ、無理矢理さは無く、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに育つ。

どのようにしてか、人は知らないが、苗となり、穂を結び、実が熟する。(マルコ4:26-29)

神の国は自分の生来的な力の頑張りでは決して育たず、ただキリストのいのちの原動力によるのである。



主イエスが来られたのは、疲れた者、重荷を負っている者を休ませてあげるためであって、さらに重荷を負わせ難しい事を要求するためではない。(マタイ11:28)

もしイエスを信じた事によって重荷を負っているような感覚、難しい事を要求されているような疲れを覚えているなら、宗教的・人間的な頑張りをしていなかったか、自分の歩みを振り返る必要がある。

イエスは心優しくへりくだっているが、自分の力で神の要求する歩みを為そうとするのは、傲慢である。

イエスとくびきを負い、イエスと歩調を合わせて一緒に歩めば、たましいに安らぎを得る事ができるのである。

主と共に負うくびきは負いやすく(χρηστόςクレーストス: 快い、楽、恵み深い、優しい)荷は軽い。(11:30)



イエスと共なるいのちの歩みは、軽く、快く、ラクで、恵み深く、優しいのである。

本日は機械の具合が悪く韓国語メッセージを流せなかった為、急遽、林が第3礼拝メッセージを行いました。


主日第3礼拝メッセージ音声:アビナダブ(2サムエル6:1-5) 主日第3礼拝 한국어예배


2サムエル6:1-5より。


サウル王以前から長らくアビナダブの家に置かれていた契約の箱をダビデは携え登ろうとしたが、驚くべき、酷いと思えるような事が起こる。


満場一致で人々の支持を得て決定したはずであるが、ある重大な間違いをダビデは犯していたのだ。。。続き

礼拝音声: 味噌からにじみ出た愛(1コリント12:18-27) 第1礼拝全体音声

第2礼拝音声:(メッセージのみ、韓国語通訳つき) 한국어예배


週報


先週、静岡の姉妹から天声の兄弟姉妹に、と、サムジャンという合わせ味噌をいただき、賞味した。


ゆでたキャベツにごはんを乗せ、その味噌も乗せて食べるという韓国風の食べ方があるのだが、シンプルであるがとても旨く、野菜もおいしく摂れ、身も心も温かく幸せな気持ちに包まれつつ頂いた。


その幸せさは、高級レストランなどお金を積む事では決して味わえない、「聖徒を思う愛」という、世の何物よりも尊い「素材」から来るものだ。


今、この世で生きていて、聖徒の為に愛を込めて料理を作ったり、作ってくれたものを味わうことが出来るのは、「生きていて良かった」と思えるほどの幸せがあり、天における愛に満ちた交わりの前味わいである。


聖徒達の心の篭った捧げものは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物である。(ピリピ4:18


御父が求めるいけにえは、高級食材でも膨大なお金でもなく「心」の込められたものである。


御父は何よりも富んでおられるお方なので私達がいかに富を積んで捧げたところで、たかがしれている。


主が人を間違いを犯さないロボットとして造らず、間違いを犯すかもしれない自由意志を持った「人」としておつくりになったのは、「心から」主を主を選択し、愛し、敬う者を、求めておられるからだ。


天の御国は、確かに高級素材に満ちたリッチな所ではあるが、むしろ、愛の篭った贈り物でいっぱいの、心が暖かくなる所である事の方が「売り」であり、私達に喜ばしく楽しみである事なのだ。


まことの食物はキリストであり(ヨハネ6:55)、その食物にはどれほどの愛が込められているか。


それは命を捨てるほどの愛が込められており、その食物は決して無くなる事無く、乏しくなる事も無い。


5千人以上にパンを与えた奇跡において、主は、その奇跡の源、愛の源であるイエスキリストを本来求めて欲しかったのだが、大勢の群集が求めたのは、実に、食物のパンであり、彼らが主を探して来たのは、食べて無くなる食物のパンを食べ、満腹したからだ。(ヨハネ6:26


どれほど主は寂しい思いをされたであろうか。


私達は無くなるパンではなく、まことの食物である愛の篭ったイエスを、心から感謝しつつ頂くべきである。


サムジャンで食事しながら与えられたもう二つの事は、味噌がおいしいからといって、味噌「そのもの」が脚光を浴び奉られてはならず、味噌の作り主こそ感謝されるべきである事。


そのおいしい味噌を使い切ってしまうのを恐れるよりも、味噌の作り主に作り方を聞くべきである、という事。


その時々に与えられた人、いただいた恵みなどがなくなる事を恐れる傾向があるが、それは無くなるパンをいつも与えてくださいと求めて来た寂しい人々のようなものであり、その恵みを下さった根源なるお方により頼み、そのお方が愛をもって、無尽蔵に与えてくださる事に信頼すべきである。


私達は、キリストのからだであり、それぞれは器官であるが故、誰か特別な人だけが作り主を差し置いて大きく取り上げられてしまうのは良くない。


体はどこかをケガした時、そこに血小板や白血球が集まるが、血小板や白血球は普段何のために役に立つのか分からなくても、ケガをした時、これらはそこに引き寄せられるように真っ先に集まり、血小板は傷を塞ぎ、白血球は進入して来た悪いものを殺すために、機能する。


どこの器官が無くなっても、体はやってゆけないし、どこかだけが大きくなったり増えたりしても病んでしまう。


キリストの器官は愛の機能体であり、その内の誰か一人でも欠けてしまったら、大変であり、また、その誰かが傷ついてしまったら、周りの器官が全力を持ってそこをいたわり、癒す事に全力を注ぐ。


一切の賜物の源であり、愛を持って一つとしてくださるキリストこそ、全ての栄光を受けるに相応しいお方であり、この方のために私達は在るのである。

9/12主日礼拝の音声


今回は第1・第2礼拝続けての録音です。

第1礼拝は整えの礼拝として林が取り持ちショートメッセージはエレミヤ31:13より。

第2礼拝は鄭先生が聖餐礼拝を司式し、メッセージは「勝利の賛歌」と題して第2サムエル22:1-7より。



プログラムで用いた讃美・聖書箇所など


※ 週報はハングルワードプロセッサ「hwp」形式になります。

9/5主日礼拝の音声


週報


人は元々神の似姿であり滅びとは何の関係も無く、神と共に永遠に生きるよう創られている(創世記1:24-31)が、悪魔の誘惑によって人に罪と死が入ってしまった。

それを憐れんだ神は人となって来られ、人としての誘惑や苦労を全て嘗め、人の罪の身代わりとなって死なれ、よみがえり、それを信じる者は、罪と死から開放されて神の子とされる特権が与えられるように、取り計らってくださった。−−これが福音の本質である。



聖書は人の設計図であり、人が歩むべき道を示した地図でもあり、愛の込められたラブレターでもある。

人間は元々滅ぼされるべき存在ではなく、神に似た者として、神と共に永遠に生き、全て創られたものを支配するように創られている(創世記1:26-31)。

「神から独立して生きる」という生き方は実に設計外、サポート外であり、神から離れた生活には、当然、様々な障害が生じる。



人間は、神の創作物の中で最高の、愛するべき存在であり(創世記1:31)、神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られ、良い行ないをもあらかじめ備えられている。(エペソ2:10)

例えば何かの芸術作品を作り、その作品は自らの息吹を丹念に込め、自らの性格や品性を見事に表現した、最高傑作であったとすして、もしそれを台無しにされたとしたら、どんな思いがするだろうか。

サタンは神の最高に良い作品である「人」をダメにした事で、神ご自身の品性につばきをかけたのである。



サタンが赦されるべきではないもう一つの理由は、彼は人間と違い、誰にも唆されず、自ら堕落し、罪を犯して神に逆らい、自分だけが滅びるのに飽き足らず、周りの天使や人間までも道づれにした事だ。

エゼキエル28章はツロの王に対する預言であるが、12節以降は明らかに「人間」に対するものでは無く、サタンについての記述である。

神は元々サタンを「油注がれたケルブ」すなわち特別な役割を果たす天使として創られた。

彼は様々の宝石の飾りで覆われ、美の極みであり、タンバリンと笛などの楽器が予め整えられ、与えられた。とあるため、彼は神を賛美するための指導的で特別な役割が与えられていたようである。

しかし彼の商い(やり取り)が繁盛するとそのやり取りの中心は暴虐で満ちるようになり、罪を犯したため、主は彼を汚れた者と見なし、追い出した。(16節)

彼は指導する事の味を知り、神の座に座って支配し、高き者として扱われたい、と思うようになった。

一人一人が各々の力量に応じて神に向かって奏でた素晴らしいメロディ、調和、美しさを、あたかも全て自分のものであるかのように、自分自身が栄光そのものになったかのような錯覚に陥り、自ら創られる前から整えられていたタンバリンや笛さえも、あたかも自分のものであるかのように高ぶった。

それ故彼は地に投げ落とされ、火で焼き尽くされる運命となり、自らの滅びが近い事を知って、一人でも多くの者を滅びの道連れにしようと、躍起になっているのである。



もし人が様々な良い物で飾られているとしたら、それは神のためであり、予め与えられ整えられた賜物、能力があるのなら、神をあがめるためである。

神が、私達が産まれる以前から生きる環境を整え、母の胎の内で能力や特性を仕込み、産まれた後もずっと導いておられたのは、キリストのためである。

一人一人は各々与えられた力量に応じて、「私達の生き様」というメロディを主のために 奏でるべきだ。

サタンのように、自分が今生かされている本質を忘れたり、神のために奏でるべきメロディを自身の栄光のために奏でたり、あるいは、神から離れて「設計外」の生き方をしてはならない。



思うべき限度を越えて思い上がらず、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、

神の作品である私達は、神の作品らしく、あらかじめ備えられた良い行いをするべきである。

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