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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝音声:終わりの時代に勝ち取る栄光(ルカ21:7-19)
週報/メッセージ(説教)概要

「私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)


「博士達」(口語訳)は原文は「マゴス」、ペルシャ系祭司で占星術を行っていたと考えられており、イスラエルの神が忌み嫌うはずの者達である。


彼らは、新しく生まれたイスラエルの王を求めて来たが、本来、ユダヤ人こそそれを知っていなければならないはずであるのに、誰も知らなかったばかりか、それを聞いた者達は不安を抱き、王ヘロデにいたっては、拝んで行くかのように見せかけつつ、殺そうとさえ企んだ。


色々と不思議に見えるが、これは当時の時代背景と、ヘロデ大王がどういう人物かを見れば納得が行く。



ヘロデ大王はユダヤ人ではなくエドム人で、巧みな政治手腕によってローマ元老院に取り入り、エルサレム神殿の大改修を行う事でユダヤ人の歓心を買ったが、冷徹で残虐な面もあり、彼の王座を脅かす者は自分の妻であろうと子であろうと処刑し、反対する祭司やレビ人達も多く処刑された。


王の宮殿は、彼に追従し取り入ろうとする者達によって満ち、王にとって利益を出す者が重んじられ、役に立たない者や反対する者は阻害され、権謀術数が渦巻き、誰が敵で誰が味方か分からない疑心暗鬼に満ちた場であった。


王で居たい者にも、それにぶら下がる者達にとっても、新しい王など居てもらっては困るのである。



主が来られる時、人々の心は冷たくなり、非常に生きづらい世の中となり、本来こぞって迎えなくてはならないはずの者達は、生き残るための策略に忙しく、中にはメシヤさえも殺そうと計る者さえ出てくる。


そんな中であっても、導かれる者は確実におり、それは神から最も遠いと思われる人かも分からない。


忌み嫌われるはずの占星術師達は、メシヤを拝むために、はるばる遠い東の国から来た。


イスラエルの嫌う邪悪なニネベの住民はヨナの説教によって悔い改め、南の女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た。


裁きの時、ニネベの住民や南の女王が、そして、東方の占星術師達も、イエスを受け入れない者やイエスを排斥した者達を罪に定めるのである。(マタイ12:42)



エルサレムを出た彼らはベツレヘム(パンの家)へ向かったが、頼りとなるのは再び星だけになってしまった。


しかしなんと、星が先立って進み、幼子のいる場所の上に止まった。


この星が何であったのか、彗星説、変光星説、惑星会合説、超新星説など色々あるが、いずれにせよ、星が少数の人々のために動くというのは、地球が逆回転するよりもスケールの大きな不思議である。


神はそのスケールの大きい不思議を、博士達を幼子のおられる家へと導くために、やってのけたのである。


彼らが、はなはだしく大きな喜びを喜んだ(直訳)のは、彼らが日頃見て研究していた星々さえも支配する偉大な方が、彼ら自身に直接関わり、スケールの大きな助けを彼ら自身に向かって為して下さったから。


主の目から見れば嫌われるかのように見えても、またどんなに邪悪な世代の中にあったとしても、そして、どんな策略が計られたとしても、主を求める者達には、宇宙規模の助けによって導いて下さる。


そのしるしは王宮にいる者たちには見られなかったし、知られもしなかったが、神は、御心に留められた者達に、人知れず大いなる助けを、導きを、示して下さるのである。



「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)


彼らは時間と労力、大切な宝物を捧げるだけで、物としては何も得なかったが、宇宙規模の素晴らしい体験をした。礼拝とは良き物をいただく事ではなく、自分の良きものを捧げる事である。


メシヤを求める一人一人が、策略と疑いに満ちた世から脱出し、大いなる不思議によってメシヤの元へと導き出され、まことの礼拝を捧げる事ができますように。

copyright 2010 横浜天声キリスト教会

主日第3礼拝メッセージ音声:ザカリヤ(ルカ1:5-25)

イエスの受胎告知は無名の密やかな所で行われたのに対し、バプテスマのヨハネの告知は神殿において公に、有名な出来事として行われた。
律法と預言者はバプテスマのヨハネまでであり、彼以降、神はイエスキリストによって人を通して現れ、人と神との関係は公ではなく、非常に個人的、親密的である。
ザカリヤは口がきけなくなってしまい、一見災いのように見えるこの出来事は非常に多くの人々を驚かせたが、それらの出来事は、産まれてくるバプテスマのヨハネが、人々を主の道へと帰らせ、ひいては救い主イエスに心を向けさせるために、しるしとして現れたのであるが、そのしるしを見てイエスキリストへと導かれた者は残念ながら少ない。
今の終わりの時代もしるしが顕著になってきているが、そのしるしに目を見張る者は多くても、主が戸口まで近づいている事に目を向ける者は少ない。
この時代を生きる者として、主イエスを個人的に宿し、親密に主と交わり、世に対して主イエスをあかししてゆく皆さんであるように。イエスの名によって祝福します!

第1・第2礼拝 「二組の夫婦」(ルカ1:26-38、マタイ1:18-25)礼拝メッセージ音声
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

第1礼拝音声(日本語のみ)

第2礼拝音声(日本語、韓国語通訳つき한국어예배)

週報/メッセージ(説教)概要


クリスマスが近づくと世間は華やいで来るが、クリスマスの主人公についてはあまり知られておらず、救い主の誕生の次第も、主が目を留められるのも、クリスマスイメージのようなキラキラと輝いたものではない。
主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、、、読めば簡単に流してしまうこの一文には、マリヤとヨセフの言語を絶する記憶と日々が含まれているのだ。
この夫婦を見る前に、彼らと対照的な夫婦であるアダムとエバを見てみたい。

エバは御言葉よりも感覚を優先し、目に良く、肉に良く、賢くしそうな禁断の実を取って食べたばかりでなく、夫にも与えて堕落させた。アダムは御言葉よりも妻の言葉を優先し、堕落へ引きずり込まれ、後には「エバのせいで」と、妻を攻め、突き放つ発言をした。
人類最初の夫婦はこのようにして人類に罪と死を導入してしまったが、救い主を生み出し永遠のいのちを人類に導入した夫婦はどうであったか。

ある日突然マリヤに御使いが現れ、身篭って永遠の王を生むという事を告げ知らされる。(ルカ1:26-38)
彼女は貧しいながらでもささやかな幸せが約束されている身であったはずであったが、結婚前の乙女が身篭る事には当然周りの追及があるだろうし、何より夫ヨセフがどう反応するか、大いに懸念された。
しかし彼女は、御使いとやりとりする僅かな時間の間に、大胆な決心をし、「おことばのとおりになるように」と言って神のことばを受け入れ、世間の目も生活も明らかに苦しくなるであろう道を、あえて選んだ。

「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(マタイ1:19)」 
知らぬ間に身篭った婚約者である。公に離縁すれば、周囲は当然同意するであろうし、既に払った花嫁代は返済してもらい、別の女性と結婚をやり直す事もできたろうが、彼が選んだのは、ひそかな離縁だった。
律法に従えば、結婚前に姦淫を犯した女は石打、それを免れたとしても、マリヤは姦淫による子持ちの女として、再婚も叶わない苦しい人生を送っていかなくてはならない。
ヨセフは彼女を愛したが故に苦しんだが、真実であろうとしたが故に、ひそかな離縁を選択したのだ。
そんな思い悩んでいる所へ、御使いが夢に現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20,21)と告げられる。
ヨセフは主が仰せられたが故に、言葉どおりに彼女を迎え入れ、ユダヤ社会から「結婚前に身篭った夫婦」と後ろ指をさされる冷ややかな一生をあえて選び、主の約束された救い主を育てる栄誉を勝ち取った。
彼は真実に基づく愛をフル稼働し、忍耐し、情け深く、妬まず、自分の利益を求めず主の約束を望み、耐えたため、主イエスの養父という、古今東西唯一の栄誉を任せられたのである。(1コリント13:4-7)

アダムとエバが守り通せなかった御言葉を守り通し、判断を目・肉・暮らし向きの欲求には置かず、御言葉に委ね、そうしてマリヤは従順によって救い主を宿し、ヨセフは愛と真実によってマリヤと救い主を守った。
マリヤもヨセフも立派であったが、神はなぜよりによって、貧しく目立たないこの二人を選んだのか。
「私達の聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)
救い主のおとずれを、王宮や神殿にではなく、異国の占星術師や夜番をしている羊飼いに示し、主が旅先の馬小屋で産まれた、その事が、神は何を選び、大事にされるのか、という価値基準を示している。
人が目に留めないもの、人に尊重されないもの、見過ごしてしまうようなつまらないものにさえ、主は目を留め、養って下さる。

マリヤが喜び歌ったように(ルカ1:46-55)、救い主を宿し、育み、どの時代の人々もしあわせだと思うような皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝音声:終わりの時代に勝ち取る栄光(ルカ21:7-19)
週報/メッセージ(説教)概要

終末の時代の徴(ルカ21:7-19)
終わりの時代には、戦争や暴動、地震、疫病などの災いが起こる事が、主から予告されている。
そのような苦難の予告は、主はシナリオライターのように思いつきや気まぐれで組み立てているのではない。
人間が誤った選択をし続けた結果、そのような苦しみのシナリオが起こる事は確定しており、人間が日夜自分中心の罪深い選択を積み重ねる事によって、主も悲しまれ呻かれつつ、その予告をされたのである。
しかし主は世の終わりまでいつも共にいまして、そのような時でも助けて下さるべく、予め教えられたのだ。

この時代に気をつけるべき事
主が真っ先に警告されたのは「惑わされないように気をつけなさい」であり、終わりの時代にメシヤを語る者や、「時が近づいた」と言って人を囲い込むような者にはついて行かないよう予め警告されている。
また、おびえてはならないとも言われており、イエスの名の故に王や総督の前に引っ立てられて行っても、どんな反対者にも対抗も反論もできないような言葉と知恵が与えられ、主を証する機会として用いられる。
また、主の名の故に全ての人に憎まれるが、髪の毛の一本も失われる事がないという約束に堅く立ち、忍耐によって命を勝ち取る事ができる。(ルカ21:17-19)

終わりの時代に守られる者とは(黙示録3:7-13)
終末のクリスチャンは苦難ばかりのように見える、クリスチャンにならなければ良かったと思うだろうか。
しかし主の魅力を味わってしまった者達は、イエス様から離れたいと思っても、離れていると心配でたまらなくなり引き摺り戻されてしまうのではないだろうか。
むしろ、今の時代に生かされたのは、大いなる栄冠を勝ち取ることの出来るチャンスでもある。
地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に守られる者とは、イエスが忍耐されたように忍耐し、イエスの名を否まず、あかしのことばを守る者で、力のある無しは関係ない。(黙示録3:8-10)
艱難の時代に守られるシンプルなコツとは、イエスのことばを守り、イエスの名を知らないと言わない事。
そのような者には栄光の冠が待っている。(12節)
神は真実な方だから私達に耐えることの出来ない試練に合わせられないばかりか、脱出の道も備えてくださる。(1コリント10:13)

主に仕える私達はどれほど栄光に富んでおり、まさにその瞬間、主がどれほどの守りを与えて下さるか
天と地において一切の権威が与えられている主に仕える私達は、どれほど栄光に富んだ者であろうか。
ステパノは殉教する直前、主の栄光を見た。(使徒7章)
怒り、殺意、叫びに満ちた群集が押し寄せても全く動じる事無く、御使いのように輝いた表情となり、平安の内に満たされ、彼を殺そうとする者達のため取り成しさえしたのは、まさに主の栄光を見たからである。
主の栄光を見た者は、いかなる罵詈雑言、群集の憎悪、生死にかかわる危機、殺気立って殺到する群集さえも、その平安を邪魔する事はできないのだ。
たとえ殉教するその時でさえも守られるのは、この何物も奪うことのできない平安によってであり、しかも燦然と輝く栄光の主から冠をいただけるのである。

その栄光を知るための祈り(エペソ1:17-23)
キリストは全ての支配、権威、勢力、主権の上に置かれ、今の世ばかりでなく、来る世においても唱えられるあらゆる名の上に置かれた。(21節)
教会はそのキリストの体であり、そのお方の満ちておられる場である。(22,23節)
聖徒達の受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、私達の内で働きをなさる神の力がどれほど絶大かを知ることができる皆さんでありますように。

イエスの御名によって祝福します!

礼拝音声: 種と実と収穫と(マルコ4:26-29)

礼拝週報

神の国のたとえ(マルコ4:26-29)
神の国(バシレイア・トゥー・テウー)は、一定の国ではなく、神の統治領域であり、「神が王であること」である。
それ故「神の国」は、神の支配が行き届いているまさに人間の中にあり、そのような人がいる場所や集会、経営する会社なども含まれる。
この箇所では、神の国は土に種を蒔いたもののようであると書いてあるが、種はどのように育つだろうか。
夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らないし、仕組みは知らなくても良いし、理解する必要も無い。
種が育つための必要条件は、「種が蒔かれている状態にある事」(スポロス)である。
そうれば種はおのずと成長していくものであり、そこには人間の働く余地はない。

蒔かれた状態にある種の力
「スポロス」は蒔かれた状態にある種を意味するが、その他にも、人を援助できる資力という意味もある。
人を助けたり御霊の実を結ばせたり、神の国を成長させるためには、「蒔かれた種」である事が大切である。
太陽と雨の恵みを受けていれば何の苦労も無く自然すぎるほど自然に実を結ぶものである。
神から産まれた人は、神の種が宿っているから罪を犯さない。(1ヨハネ3:9.10)
罪も犯したとしても、神の種が宿っているなら、罪を犯し続けるということはできないのは、神の種が宿ってから、罪を犯し続けると苦しくなるのである。
それに対し、悪魔の子達は罪を犯し続けても何とも無く、正しい生活を続けられない。たとえ神を信じると言っていても、兄弟を訴え続けたり、分裂を促したりしているようでは、神の種が宿っているとは言えない。

世の始まる前から隠されていた奥義
神の国のたとえは、世の始まる前から隠されていた奥義であると主は語った(マタイ13:35)。
目に見える種、実、土は、全て目に見えない世界の写しであり、成長する種蒔きのたとえは、世の始まる以前から隠されていた奥義である。
1ヨハネ3:9に出てくる神の種「スペルマ」は種、精子を意味し、子孫という意味もある。
神の種が蒔かれるというのは、男性が女性に精子を植えるのに似ている。
「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」(スペルマ)とは、キリストのことです。」(ガラテヤ3:16)
つまり、「人類」という土地に、ひとつのスペルマが蒔かれた。それがイエスキリストであり、それによって新しいいのち、すなわち永遠のいのちが生まれ、育ち、良き実を結ぶ。
そしていずれは、まことの夫であるキリストは、まことの花嫁である教会をめとり、二人は一体となって永遠に生きるのである。
神が人を男と女とに造られたのも、種を結ぶ実を創られたのも、天の形を世において示すためだ。

結ぶ実 - 御霊の実
神の種を植えられた人は、以下の良き実を結び、より健やかに、より豊かになって行く。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22,23)
それらの良き実は収穫の時に天の倉に納められ、永遠に残る。
悪い種によって生った実は永遠に消えない火の中に投げ込まれる。
実には色々な色、形、大きさ、味、効用があるように、人それぞれが結ぶことの出来る実もバラエティに富、それぞれ違うが、いずれも主イエスの素晴らしさを表現し、父なる神の栄光を現する。
みことばに留まり、豊かな実を結び、収穫の時に主にたくさんの良き実を捧げられる皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

なくならない食物、湧き上がるいのちの泉であるイエス 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)

10/11/14 週報

世間一般の人が「キリスト教会」と聞くと、どういうイメージがあるだろうか。
教会では、お金や食べ物に困っている人を助けるといった「慈善活動」をする、あるいは、社会的弱者を擁護するために署名活動したり政治と戦ったりするような「社会活動」をする、あるいは、ゴスペルや外国語教室など「文化的活動」をする、といったイメージがあるかもしれない。
しかしそれら慈善・社会・文化的活動は副次的なものであって、本体ではない。
「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:23)
教会はキリストというお方を伝える事が本来的な役割であって、イエスキリストを中心とした生活をし、このお方を中心とした者達で交わるうちに、前述したような活動が、副産物として生まれてくるのである。

そういった副産物を求めて教会の門を叩くのは、福音に入る取っ掛かりとなるため大いに結構な事である。
しかし、いつまでもそうした副産物を、ただ受けるだけの人、ただ与えるだけの教会は、本質を外している。
人は何を教会から受け、教会は人に何を与えるべきなのだろうか。それは、キリストである。

主が5千人にパンを与える奇跡をした後、群集はイエスを探し出したが、その群集にイエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネ6:26,27)と言われた。
困って教会の門を叩く人々は、いっときのパンやお金、精神的な満たしなどを教会に求めがちであるが、そうした物はいつか使い果たしてしまうもので、あげてももらってもキリが無い。
群集は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6:34)と言ったが、主は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と言われた。
教会は本来、肉体・精神・物質全ての満たしの根源であるお方、まことのパンなるイエス・キリストを提供するべきである。

人は本質的に、自分の事しか見ておらず、人が言っている事は中々理解できないものである。
主の元に何かを求めて来る者は多いものの、主が私達に求めておられる事は聞かず、守らないものである。
主は耳が聞こえず舌の回らない人を癒した際(マルコ7:31-37)、彼を群集から隔離して、指を両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられ、天を仰いで「エッファタ」(「開け」という意味)と言われ、癒された。
主は群集にこの事を口止めしたが、口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
それ以前にも、主が口止めしたのに言い広められて、公然と歩くこともできなくなってしまった事があった。
主が口止めするのは「癒してもらえたぞ」「パンがもらえるぞ」と言った表面的な祝福、副産物だけを言い広める者に対してであり(マルコ1:44)、主がどんなに憐れみ深いお方か、どんなに良いお方か、つまりキリストという「お方」を言い広める事は大いに勧めている。

主が癒しや開放の良きわざを為し、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌うのは、イザヤ35章の預言の成就であった。
その預言は、現代の私達に対しても成就するのであり、イエスを信じた者には、既に成就している。
私達の人生がいかに砂漠のように味気無く、花が無くても、花が盛んに咲く人生となり、あらゆる束縛は解放され、水の湧かない砂漠のような私達の心に対しても、主はエッファタと言って下さり、永遠のいのちに至る泉が開き、いつまでもなくならないいのちの水がほとばしり出るようになる。

主イエスから「エッファタ」と言っていただき、祝福が開かれ、御言葉に対する耳が開かれ、賛美の口が開かれ、腹の底から生ける水が川々となって流れ出る皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

何によって一つとなるか(ピリピ2:1−11)礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)

10/11/7 週報

「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(ピリピ2:2)」
「一致」「志を一つに」という言葉はキリスト教会においても頻繁に使われるが、誰かの考え方やイデオロギーを中心にして、人々を従わせるかのような誤解を招きやすい。
キリスト教会に限らず、幾多の組織が、志を一つにして彼らの正義の名の下に人を支配し、それに逆らう者は攻め、殺して来た。
パリサイ人は自分達の神学を第一とし、それに同意しなければ追放し、神の子イエスさえ十字架につけた。
志とは、私達の中にそうっと置かれ、主から差し出された分に自発的に応答するものであって、人の議論や会議などによって導きだされるものではない。(ピリピ2:13)
天声教会では会議を開いた事が実は無いが、会議をする時は使徒15章のエルサレム会議のように、人の慣習や人の良かれと思われる事ではなく、あくまで主の御心、主のよかれを優先させるべきである。

人間の意見による一致の極み:バベルの塔
人々が主体となり、一丸となって構築した究極の建造物が、バベルの塔である。(創世記11:1-9)
「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)という性質は、「私は天に昇ろう、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)というサタンの性質と、同じである。
バベルの町のトップに君臨していたのは地上で最初の権力者でもあるニムロデ(反逆者という意味)で、彼はシヌアルの地にバベル、エレク、アカデの王国を建てた。(創世記10:8-10)
シヌアル(追放する、撒き散らす)の地はメソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が神殿に安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
私は幼い頃、人類歴史は何千年も続いているのにどうして平和が実現しないのだろう、文明が進歩し、国々の一致が進んだ将来なら、平和で殺し合いの無い人類になるだろうか、と考えていた。
しかしそれはありえない事で、罪ある人々が一致して生み出すものは反逆、分裂、混乱である。

神の国で上に立つ者(マルコ10:35-45)
ゼベダイの子達は野心を持ち、他の弟子達をさしおいて自分達を主の栄光の座の右、左に座らせて下さいと願ったが、主が示されたのは、主の杯と主の洗礼、すなわち、キリストのあかしの故の苦しみと死である。
彼らは人の上に立って支配し、権力を振るいたかったし、それを聞いて憤った他の弟子達も、自分達は支配される側、こき使われる立場に立たされる事を思い、当然のように憤ったのである。
人々の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るうものだが、天の御国の中では、皆に仕える者が偉く、すべての人の僕になる者がいちばん上の者である。(マルコ10:43)
イエス様は人々に仕えるため、人々を贖うため、人々の身代わりとなって罰を受けるために来た。
つまり「自分を高く」できりょうな要素は微塵もなく、むしろ人のため、主のために仕え、犠牲となる事であり、それは人の生来の性質では決してできない。
私達のスタンスは、相手を自分よりも優れた者と考え(ピリピ2:3-5)、キリスト・イエスの心を心とする(5節 ・文語訳)事であり、十字架の死に至るまで忠実であったイエスに習う事である。

主にある一致
すなわちピリピ2:2の心を一つにする、志を一つにするというのは、キリストの心と一つとなる、という事であり、キリストと一つとなる時、兄弟姉妹の間に和解と一致が生まれ、交わりは美しい調和によって保たれる。
バベルの塔の呪いの逆は、ペンテコステに始まり、使徒達によって伝えられた福音であり、それは言葉の壁を越え、国、文化を越え、イエスという「ことば」を中心に、皆の心を一つにする。
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人間的な主義主張、神学知識によるのではなく、イエスというお方にあって一つとなれる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

あなたは誰と戦っているのか(2コリント10:3-6) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)

10/10/31 週報


ある映画において、見えない敵から攻撃を受け、混乱してやみくもに同士討ちしている所に、上官が
「落ち着け、敵はどこだ、おまえ達は一体誰と戦っているんだ」と言うシーンがある。
私達も、見えない敵に攻撃されて混乱に陥り、やみくもに兄弟姉妹を傷つけ、平和であるべき日常に無駄な争いを持ち込み、無駄な時間やエネルギー、お金を注ぎこむような事が無いだろうか。
まず、戦うべき相手を正確に補足し、正しく攻撃する知識を身につけなくてはならない。

敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく目に見えないサタン
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
権威も支配も諸霊も目で見ることができないが、私達が格闘すべき相手は血肉(人間)ではなく、そうした見えない存在である事が、この御言葉から分かる。
サタンは物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人は訳も分からず攻撃されたのでやり返し、、、といった、本質から逸れた空回りの内紛を私達兄弟姉妹に起こさせる。
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、物陰から矢を射掛けて来た悪しき者の存在に留意すべきであり、攻撃の大元である支配や権威といった、見えないものにこそ目を注ぐべきである。
攻撃の矢を防ぐことができるのが信仰の大盾であるが、ただ防いで耐えるだけでは能が無いので、攻撃の武器として御言葉の剣を取り、矢を射てくる元を攻撃して、沈黙させるべきである。

戦いの場は「思い」
罪への誘惑は「思い」に対する攻撃であり、エバはそのようにして惑わされた。
私達も御言葉どおりでない別のイエスをのべ伝えられたり、異なった霊、異なった福音を受けたりする事によって思いが汚されることがある。(2コリント11:3,4)
敵の誘惑方法は、まず「思い」の中に肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という種を蒔き、それを掻き立ててて思いの内を膨らませ、肉を疼かせ、意思で決定するよう促し、結果罪の行動をさせる。(創世記3章)
この「思い」の中に蒔かれた時点で対処しないと、後にはもっと対処が困難になる。
対処方法は2コリント10:3-6にある通り、全てのはかりごと(思い)を虜にしてキリストに服従させる事である。
「今のこの思いはイエスキリストの名にふさわしいか?」と常に点検し、そうでなかったら敵が蒔いたものだから、キリストの名によって破棄し、どうしようもない程虜にされてしまう前にキリストのことばを豊かに満たす事である。
御言葉によって養われた者は、経験によって見分ける感覚を身につけられる。(ヘブル5:14)

サタンに嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には
サタンにまんまと嵌められて私達を攻撃してくる兄弟姉妹には、柔和な心で正しい道に立ち帰らせ、彼らを憎むのではなく、自身も誘惑されないように自分に気をつけるべきである。(ガラテヤ6:1)
兄弟姉妹を諭す場合は、まず二人だけの所で、聞き入れなければ複数人で、それでも聞かなければ教会が諭し、それでも聞き入れなければ異邦人として扱う、というのが順序である。(マタイ18:15-20)
いきなり罪に定めて突き放すのは聖書的ではない。
忍耐を持ってその人の内にいる悪しき者を御言葉によって切り、主へと取り戻すべきである。
何よりも日々、「きょう」と言われている間に兄弟姉妹の間で互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにするべきである。(ヘブル3:12,13)

見える兄弟姉妹ではなく、見えない敵であるサタンに対抗し、そのはかりごとを見抜き、戦って勝つ皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝メッセージ音声: 災いの深みから救い出される主(ダニエル3 章)


10/10/24週報


ネブカデネザル王は約27mの金の像を作り、これを拝めと皆に命令した。(ダニエル3章)

ネブカデネザル王は自分の構築した像を拝め、さもなければ殺すと言ったが、人は自分の編み出した主義主張という偶像に跪く事を要求し、さもなければ殺したい、という欲望がある。

さらにそういう人の立てたそういう仕組みを利用し、気に食わない人を告げ口し、殺させるという手も用いるシャデラク・メシャク・アベデネゴは像に跪かない事を告げ口され、彼らの主張(3:16-18)を聞いたネブカデネザル王は怒り狂い、彼らを投げ込むための炉を7倍熱くせよ、と命じた。

彼らは激しく燃える火の中に落ちたが、火は彼らを害せず、それどころか、第四の者が彼らと共にいて守っていた。

信仰を守り通すにあたって、火のような試練の中をくぐる事があっても、主は第四の者を遣わして守り、髪の毛も上着も損なわれる事が無く、火のにおいもしないまでに守って下さるのだ。

そこでネブカデネザル王は彼らの神をほめたたえ、このまことの神を侮る者には手足を切り離し、その家をごみの山とする命令を発布し、そして彼らはバビロン州で大いに栄えた。

さて、チリ鉱山の落盤事故で33人が救出されたが、そのほとんどは敬虔なクリスチャンであり、彼らはホセ・エンリケス(Jose Henriquez)という福音派の牧師のもと、毎日2回、12時と6時に礼拝を持っていたという。

最年少であったジミー・サンチェスは、閉じ込められたのは33人だったが、34人目がいた、と語った。

人間の汚らわしい欲望によって、火の中に落とされても、地中深くに落ちても、主に信頼する者達には、プラス1人の神様からの使いがいて、その方が困難な状況から守り、救い出して下さるのである。

新聞やネットにて、写真つきで大いに宣伝されたあのチリ国旗をあしらった褐色のTシャツには、左腕に「JESUS」、正面にはスペイン語と英語で「神様ありがとう」と書かれており、背中に詩篇95:4の「神に栄光と敬意をささげよう。地の奥深くも山々の頂きも、神の両手の中にあるのだから」という言葉が書かれてあった。

このTシャツは、ホセ・エリンケスの家族からキャンパスクルセード・フォー・クライスト・チリへの依頼に基づいて作られ、この団体は、Tシャツと聖書、「イエス・キリストは墓のような洞穴の奥から、岩を動かして復活する」という聖書をもとに作られた映画を地下へ提供し、作業員を励ましていた。

実は、ホセ・ヘンリケスは20年ほど前にも洪水被害に遭い、水中で40時間もレスキュー隊を待つ、という体験をしていて、命の危険の中では主を信じて救いを待つ、という、素養があらかじめ培われていた。

生涯に2度も、閉じ込めによる命の危機が訪れるのは、よほど運が無いという見方もあるが、主が栄光を現すために彼にあらかじめそのような経験をさせた、という主の大いなるご計画があったのだ。

私はこの面において運が無い、と思われる方は、もしかしたら主のご計画があるのかもしれない。

彼はインタビューで、「救出される前の最後の数時間はどのように過ごしましたか?」という質問に、「私はいつもと同じように、現実に生きておられ、永遠にすべてを支配されている主イエスキリスト様に信頼し続けました。」と応え、特に「いつもと同じように」と強調している。

キリスト者として、どんな時でもいつもと同じように礼拝している事こそ、主の御技と大きな証の源になる。

ダニエルは例え国の法律が礼拝を禁止されるような状況になっても、いつもと同じように礼拝する事を止めなかった結果、ライオンの穴に投げ込まれることもあったが、主の大いなるみわざがあり、結局王は、ダニエ

ルの神に震えおののくよう命令を発布している。

主が大いに伝えられ栄光を受けられるには、私達の力や言葉巧みさは必要なく、私達がいつものように礼拝している毎日から生み出される。

私達はもしかしたら火や水の中、地の底、獣のいる檻に落とされる事があるかもしれないが、主は全ての災いの中から、御使いを遣わして救い出され、災いさえも主の栄光のために用いる事がおできになるのだ。

この主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを知り、その主の素晴らしさを味わい尽くす皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

※本日の礼拝音声は、レコーダーの容量が不足していたため、メッセージの途中で切れてしまっております。

礼拝音声:救いの勇士(2歴代20章)

2010/10/17 週報

2歴代誌20章にはヨシャパテ王の活躍が書かれてある。それまでの王たちは異国の神々や偶像を拝んでいたが、ヨシャパテ王は天と地を創られたまことの神様に頼っていた。
私達は祈る時は、大抵まず自分の願いを述べるものだが、彼はまず、主がどういうお方であるかを信仰によって告白し(6節)、主は天におられ全ての異邦の王国、全世界を統べ治めるお方であり、対抗できる者は無い、と、信仰によって宣言した。
次に彼は、御言葉を盾にして祈り(7-9節)、彼の先祖アブラハムに永遠にこの地を与えて下さったという約束を持ち出し、アブラハムの子孫である自分達がそこから追い出されるのはおかしい、と、告白した。
私達も御言葉を盾にとって祈るべきである。
病の内にある場合は、箴言3:8やイザヤ53章を、貧しさに対しては2コリント9:8-11やピリピ4:19を盾に取って祈る事ができる。
次に、やっと現在の彼我の状況を訴え、最後に彼の願いを申し立てた。(10-12節)
王と民が心をあわせ祈った時、主は具体的な指示と、恐れなくて良い事をある人を通して語った。
私達はもしかしたら神様の御声を具体的に聞くという事は、あまり無いかもしれないが、心を尽くして祈った結果、「神様は答えてくださった」と分かった瞬間が来て、言葉では言い表せなくても「大丈夫だ」と分かり、世のものでは無い平安に包まれたという経験を持つクリスチャンは、たくさんいる。
私達の戦いは主のものであり、御心に沿っていない勝利はかえって人を不幸に陥れる結果になってしまう。
自分の願いを主に明渡し、御心のままになさって下さいと祈るなら、私達にはできない勝利が与えられる。

イスラエルの人々は、大いなる戦いの日、主が示して下さった通り出陣した。
地平線を埋め尽くすような大軍団を前に、イスラエル軍はどのような陣を張ったか。
なんと、その大軍と自軍との間に、全く武装をしていない聖なる飾り物をつけたレビ人の聖歌隊を配備した。
恐らく、それを見た敵軍は、あざ笑い、罵倒し、飲み込んで奪い取ってやろうと押し寄せた事だろう。
戦術的に見ればこれほど無謀な事はないが、聖歌隊は進み出て「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と、喜びの声をあげた時、主は伏兵を備え、イスラエルの敵を襲わせた。
主の助けは私達の思いもしなかった隠れた所から現れ、私達と敵との間に立ちはだかり、戦って下さる。
結果、敵は敵同士で戦い合い、互いに滅ぼし合い、一人残らず死体になって横たわっていた。(24節)

分捕りの時、分捕るための武具や高価な物があまりにも多くて、3日もかかった。
一人が一つの死体から分捕るのに多く見積もって30分かかるとし、それを1日12時間働いたとすると、1日で24体、3日で72体分の死体から分捕った事になる。
敵は少なくとも自軍の72倍はいた事になるが、戦わずに勝利したのだ。

もちろん、敵を前にしたら戦わずに賛美するというのを、そのままマネしたら必ず勝てるという訳ではない。
一人一人に与えられた戦いと神の救いの方法は違う。しかし、心を尽くしてイエスキリストの名によって祈るなら、人知を超えた平安が与えられ、人の方法ではない救いが来る。(ピリピ4:6,7)
私達は救ってくださる方、救いの勇士である主イエスキリストに拠り頼まないと、損である!
神様が私達の代わりに戦って下さるなら、例え72人が自分に対抗して攻め立てても恐れる事は無い。

戦いから4日目、イスラエルの民はこぞって主を褒め称え、喜んだ。
周りの国々は、主はイスラエルの敵と戦われたということを聞き、神の恐れが彼らの上に臨み、そのようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。
主に信頼し、主ご自身が戦って下さるなら、大いに分捕りができて、生涯安泰。周りはそれを見て恐れる。
主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを知り、その主の素晴らしさを味わい尽くす皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!

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