• カテゴリ 主日礼拝 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:破れ口に立つ者(ヨナ書1,2章)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ニネベは邪悪な町で、その悪が神の御許に達したために滅びの危機が訪れた。
日本も滅びの危機に瀕しているが、偶然の連続によって、大規模爆発や放射能拡散から守られている。
神様は邪悪な町ニネベさえも憐れまれたように、日本も憐れまれ、ニネベに対して御言葉を伝える者・ヨナを整えたように、日本にも取り成す者、御言葉を伝える者を整え、導いておられるのだ。
ヨナは他の預言者に比べると、神様への文句と痛い目に満ちた出来の悪い預言者のように見えるが、為された事だけ着目すると、船に同乗した者全員をまことの神に立ち返らせ、巨大な魚に飲まれ3日3晩海の中にいたのに生還し、歩いて3日もかかる大きな町ニネベを悔い改めへと導くなど、多くの実績を残した。
私達もできの悪い預言者のようかもしれないが、神は憐れみ深く、私達を整え、失敗さえも用い下さる。

ヨナは主の命令を受けた時、まず逃げた。人々に埋もれ、船に乗り込み、主の示しとは逆方向へと向った。
その船が沈みそうになった時、他の皆は自分の神に祈ったり荷物を捨てて働いているというのに、彼はぐっすり眠り込み、まことの神の預言者のくせに、異教の民の船長から「寝てないで神に祈れ」と叱られた。
人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。(ヨナ1:8)
神は災いを通じ、強制的に私達に思い出させる。私達は何の仕事をしている者か。どこの民族出身なのか。
私達の仕事は神の祭司であり、天の国籍を持つ者、神の民族出身である。
神が何を望んでおられるのか知りつつ敢えて無視し、人の中に紛れ込み、祈る事を止めていないだろうか。
まことの神の言葉を伝える者なのに眠っていないだろうか。
ヨナは人々から問いただされ、自分は「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と告白し、人々は聞いて非常に恐れ「なんでそんな事をしたのか」と言った。
私達も神から与えられた役割をおろそかにしていると、乗る船は嵐に遭い、荷物は捨てる羽目に遭い、ヨナのように海に投げられ、魚に飲み込まれ、それを見ていた周りの者達は畏れて神に立ち返るのだ。
人々はヨナを恐れ、特別扱いし、何とか救おうとしたが、ヨナは自分を海に投げ込むように言った。
主から過ちを指摘されたなら、人々に荒海の中を岸まで漕いで生かしてもらう事を願うのではなく、御心から離れている自分の自我を十字架の死へと明け渡す宣言をし、3日目の復活に委ねるべきである。

ヨナが海に投げ込まれた時、風は止んで海は大凪になったが、主が見腕を動かされたのはそればかりでなく 巨大な魚、とうごまの木、虫、東風をも動かしてまでヨナを整え、同時に御心を遂げられた。
ヨナ書を読むと、神様とヨナの一対一の対話のように読み進められるが、ヨナの周りの者の視点に立って読んでみると、ヨナを中心に彼の周りの世界が、彼の言動によって振り回されている事が分かる。
私達は神の僕である故に、神は、自然界を振り回すほどに、厳粛に私達を特別扱いしておられるのだ。
もし私達が整えられ、執り成して祈るとしたら、主はどれほど御心を動かすだろうか。

 ヨナは人々から捨てられ、海に投げ込まれ、魚に飲み込まれ、山々の根元まで下った。
その絶望のどん底、助かる見込みの無い静寂の暗闇から、ヨナは主に祈り、主と一対一で深く交わった。
どんなに御旨から逸れて堕落し、底の底まで下っても、主はそこにおられ、祈りを聞いて下さる。
初めから平伏して御声に従っていれば、こんな大事にはならなかったはずだが、そういう者は、自分の好き勝手を捨てる「十字架の経験」と、全能者の前にいのちを横たえる「3日3晩の死」を通される。
その向こうには復活が待っており、余計なものは削ぎ落とされ、主の働きが出来るよう整えられるのである。
ヨナはそうしてニネベを救うための使者として整えられていった。
日本は今、憐れみが注がれており、この国のために執り成し、忠実に御心を行う者を主は望んでおられる。
主がニネベへの40日のカウントダウンを開始されたのは、ヨナが十分整えられてからである。
主は日本を執り成す為に破れ口に立つ者(エゼ22:24-31)が整えられる日を、一日も早く待っておられる。
文句と苦難だらけのヨナをも整えら用いられた主が、皆さんをも整え、この国のために執り成し、御言葉を伝え、いのちを救うために、大いに用いられますように。

礼拝説教メッセージ音声:イエスの名によって(使徒3:1-10)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

我々は祈る時、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と締めくくる。
なぜか。それは、イエス様の名前によらない祈りは、日本銀行券と書いていない万札は使えないように、権威の裏づけが無いからだ。
万札という紙が価値を持つのは、日本銀行という権威ある機関が、これには価値がありますよ、というハンコを押しているからで、それが無ければ、ただのキレイな模様が書いてある紙切れに過ぎない。
和紙にどんな綺麗な模様や偉大な人物像を描いて、精巧なすかしを入れて、千万円とか壱億万円とか、桁を大きくしてみせても、日本銀行のハンコがなければ「ニセ札」であり、そんなものを使えば逮捕されるのと同様、祈りに「イエス様の名前」が無ければ、どんなに一晩中祈っても、体を傷つけても、夕暮れまで踊っても、そんなものは「ニセ祈り」であり、神の御前に差し出せば、罰を免れない。(1列王記18:21-40)

教会に何年通っても、イエスの名によって祈るのを忘れてしまう人がいるが、それには理由がある。
それは、イエス様の名前がホンモノで、この世でも来る世でも力があり、真に人を救うものであるのだが、そのホンモノを妬んで反逆した奴・サタンがいて、そいつらがホンモノを隠そうと、常に見張っているからだ。
ただの紙であるはずの札束も、手に入れるために裏切ったり、殺したりするのは、そこに価値があるからだ。
ホンモノであるイエス様の名は、どれほど妬まれるものだろう。
ホンモノを隠す奴が頭に入り込んでくるのは、つけ込まれる土壌があるからで、不平不満や怒り、つぶやきは奴らが付け入る格好の土壌となる。

このイエスの名に、いかに力があるか。使徒3:1-10を見てみたい。
ペテロとヨハネが神殿の門に入ろうとすると、生まれつき足が利かない物乞いに施しを求められた。
彼は40歳を越えており、施しは頂いていても門の向こう側に入って礼拝する事は許されていなかった。
二人はその人をじっと見た所、二人はきっと感じ取ったのであろう。その人が切実に礼拝する事を求めており、イエスを知っており、イエスは癒して下さるお方であると信じている事を、恐らく感じ取ったのだろう。
ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って手を取って彼を立ち上がらせると、自分の足で立ち上がった。
イエスこそ救ってくださるお方だと信じる者には、仰々しい祈り文句も多くのパフォーマンスもいらず、イエスの名によって瞬時に束縛から解放されるのである。

当時はイエス様の名前を使ったら逮捕されてしまうご時世で、ペテロ達はイエス様の名前を使ったかどで逮捕され、祭司長や議員達、法律家などの偉い人達に尋問されたが、ペテロは聖霊に満たされて言った。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10-12)
40年足が不自由だった人が癒されたのも、ペテロ達が大胆に告白できたのも、イエス様の名前による。
私達は世の中で色々なものを土台とし、救いを求めるが、唯一土台となり得て救われるのはイエス様のみ。
その土台石は捨てられたが、このお方以外に救われるべき名は、他には無い。
「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)
主は私達に、イエス様の名前によって「祈ります」「求めます」「祝福します」「悪い者は出け」と、イエス様から与えられた御名の権威を大胆に行使する事を望んでおられる。
なぜなら、この世は主に贖われた者達が支配するよう創られているからである。(創1:28,ロマ8:19-22)
主から与えられた大いなる御名の権威を大胆に行使し、分捕り、立ち取る皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:鶏の鳴く時(ルカ22:31-34)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは「立ち直ったら(エピストレフォー:向き直る、転向する)」、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)
人が力を込めて言う言葉は、自身の弱さの前に何の保証も無く、死の覚悟も、サタンの前には無力である。
しかし大祭司なるイエス様は、私達が裏切る前から、いや、私達が「あなたを裏切りません」と力を込めて言う以前から、既に、私達が裏切った後も信仰が無くならないよう、あらかじめ取り成して祈っておられた。
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:33,34)
イエス様のために牢に入ったり死んだりする程に、ついて行くなら、イエス様に認められるのだろうか?
結局、12弟子の全てがイエス様を裏切ったのだが、その中で唯一、死して主にお詫び申した者がいた。
日本人の価値観では彼を潔い、立派だと思うかもしれない。しかし、滅びに下ったのは彼一人だけ、他の生き恥を晒した11人は、後に聖霊を受け、主のために大胆に造り変えられた。
滅んだ一人と、造り変えられた11人との違いは、主イエス様の集まりを止めたか、止めなかったかである。
人間的な美学に勝手に従って一匹狼で行動し、イエス様の名の下から離れる事は、滅びに至る道である。
例え生き恥を晒しても、主の名の集まりから決して離れない者こそ、聖霊によって造り変えられる者である。

信仰生活は、イエス様のために死ぬ覚悟を決める所から始まるのではなく、私達がまだ罪人であった時から既に私達を愛し、私達の罪のために死んで下さったイエス様の愛に気付く所から始まるのであり(1ヨハネ4:10)、自分には主に従い尽くす愛も力も信仰も無い、と、徹底的に示されるような最も暗闇の時、すなわち「鶏の鳴く時」が原点である。
イエス様は復活の後、ペテロ達が一晩中漁をしても魚一匹さえ取れない日の明け方に現われ、たった一言のアドバイスによって、人の経験や知識を遥かに越える結果を示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えただけでなく、暖かい炭火を熾してパンと魚を焼き、香ばしいかおりを漂わせつつ待っておられた。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心をほぐして下さる。(ヨハネ21章)
イエス様はペテロに3度「あなたは私を愛しているか?」と聞いたが、ペテロは「あなたは私に完全な愛は無い事を知っておられます」と、イエス様に「知っていただく」しか無かった。
信仰が若ければ若い程、情熱と血気によって自分のやりたい事をし、自分の望む所へ行くが、人はイエス様に従い尽す事が出来ない事を思い知る「鶏の鳴く時」が来る。
そこを通った者は、自分のわざを終えて安息し(ヘブル4:10)、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行くのである。

その数ヶ月後、ペテロは再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来たが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事である。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、イエスと一緒にいた者(使徒4:13)である事が大切である。

全てを知っておられる主の前に、まな板の上の鯉となって全てを明け渡し、そして、新しいいのちを息吹いていただく「復活」に入ったなら、ペテロのように大胆に証できるのである。
私達が立つのは、私達の力や意地ではなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方と共に十字架につけられ、共に死に、共に復活し、新しいいのちを息吹かれる故である。
主の憐れみと慈しみの中に育まれ、何度倒れても、イエスの名の下に立ち直る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:誰を夫とするか(ヨハネ4:3-42)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ある女がサマリヤという町に住んでいた。
彼女は、自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる男性と結婚さえすれば、自分の内側にある渇きを癒す事ができる、と、ささやかな夢を見つつ結婚した。
しかし結婚生活は彼女が夢見ていたようなものではなく、渇きはますますひどくなり、離婚する事となった。
すぐに別の男と結婚する事が出来たが、これまたうまく行かず、離婚する事となってしまった。
同じようにまた別の男と結婚し、うまく行かず離婚し、そうして5回も結婚と離婚を繰り返したものの、どの男も彼女のささやかな夢を満たす事は無く、6人目の男と同棲を始めた所であった。
人は、外見や自分の好みという計りによって物事を判断するなら、必ず失敗するものであり、また類は友を呼ぶもので、自分が失敗したのと似た境遇の者同士が惹かれ合ってしまう。
彼女は決して人前で堂々とできるような年月を過ごして来なかったため、人が出歩かないような昼の熱い時間を選んで、井戸まで行って水を汲み、汗しながら同棲相手のために運ぶ仕事が日課となってしまった。

人は、ささやかな夢を見る。「自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」者の存在を。
しかし、そんなささやかな夢さえ叶えてくれる人間は、実は地上にはいない。
人間関係とは都合が悪くなればすぐ壊れてしまうもので、そのはかない人間関係がひしめく世界の狭間で、ある者はそれを知らず奔放に出て行き取り返しの無い傷を負い、ある者は関係が壊れる事を恐れながら細々と生き、ある者は早々と諦め、関係を自分に有利な方向に利用し、騙し続けながら生きていく。
そもそも人の命には限りがあるため、ずっと愛し守る事は出来ないし、体はひとつしか無いため、四六時中いつでも付きっ切りで傍にいる事も不可能である。

サマリヤの女は期待する事に疲れ切り、心にますます渇きを覚えつつ日々を送っていた。
そんなある日、一人の男が彼女を待っていた。 毎日汗を流して往復していた、あの井戸の傍で。
その男こそ、今も生きておられる私達の救い主、イエスキリストである。

彼は、永遠の命へと至る水がわき出る「生ける水」を与えると言われたが、彼女は、もう井戸に汲みに来なくて良いように、すなわち、暑い思いや恥ずかしい思いをしないために、その水を求めた。(13-15節)
イエスの提供する水は、私達が罪の故に蒔いた実である苦々しい炎熱を、ほんの少し和らげるような程度のものではなく、炎熱の原因である罪を抜本から除き去り、愚かな判断の実である失敗さえも最善へと塗り替え、永遠のいのちへと導いて下さるお方である。

主イエスにある者は、男も女も皆等しく、イエスの「花嫁」であり、イエスは私達の夫である。(黙示録21章)
サマリヤの女は、7番目のまことの夫であるイエスを得、どんな人も叶える事の出来なかった彼女の夢を叶えられ、内側にあったどうしようもない空白を、テトリスのように気持ちよく合致して、渇きも消された。
以前の愚かな失敗も、むしろイエスを証するネタとして栄光の道具へと塗り替えられた。(28-30,39-42節)
私たちにも、彼によってしか潤されることの無い渇きがある。家庭や日常の職場、学校といった、私達の井戸のそばでイエスは待っておられ、そして、彼に潤して頂く事を、イエスは望んでおられる。
イエスを主とする者は、もはや不足は無くなり、再建して下さる主に愛され、喜びとされる者である。
「あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:4,5)

渇きが癒され、得るべきものを得、収まるべき所に収まったサマリヤの女のように、愛され、育まれ、建て直され、満たされる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の立てた権威に逆らう者(民数記16章)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

現代のキリスト教界では、人々に取り入ろうと福音に混ぜ物をし、救いに通じる道はいろいろあるとか、どんな宗教でも信仰深く生活してれば神に通じる等、御言葉とは違う風潮を流すようになり、全ての宗教を一つにまとめようとする時代の流れを感じる。
主イエスは明確に、御言葉に付け加える者があれば、神は書いてある災いをその者に加えられ、また、取り去る者があれば、その者が受ける分を取り除かれる(黙示録22:18)と言われている。

かつてエジプトから約束の地に向かう途中にも、神の立てた指導者に逆らった者がいた。(民数記16章)
イツハルの子コラは幕屋の奉仕を受け持つレビ族であったが、その地位を不服としていた。
また、エリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンは、イスラエルの長子ルベンの子孫だったため、会衆の上に立っていたレビ族のモーセとアロンが面白くなかった。
彼らは会衆の上に立つ名士250人を仲間につけ、モーセに立ち向かった。

逆らう者の特徴としては、裏で動き回り、耳障りの良い言葉で有名人や権威ある者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立つ事である。
彼らの言い分は「あなたがたは分を越えている」「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる」(3節)であるが、現代でも似た言葉を良く聞く。
キリストだけが救いに至るなどと言うのは傲慢である、キリストだけが救い主などとは分を超えている、人間皆残らず尊い者であって、神の性質を備えている、救いは色々あるべきだ、等など。
しかし御言葉が示す所は、神が立てた救い主とはイエスキリストであり、唯一彼を通してのみ救いに至る事が出来る。この福音には決して付け足してはならず、差し引いてもならない。

彼らは一見、全民衆の公平な権利を主張しているため民衆の耳に良く、主だった者達250人が支持しているため見た目も正しく見え、それらをバックに集団心理を操作するだけの威力も十分にあった。(19節)
民衆にはコラ達に分があったように見えたかもしれないが、主の栄光が現れた時、神はモーセとアロンに「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまう」(16:21)と言った。

私達はこのような反逆に対して、どのように対応すれば良いだろう。モーセの姿勢から学びたい。
まず、絶対的な権威者である主の前にひれ伏す事(4節,22節)であって、弁論や群集心理操作ではない。
権威にひれ伏す姿勢は一見弱く見えるが、これこそ主の御前には最も尊く、敵が最も嫌う姿勢である。
第2に、その権威者なる主に執り成す事である。執り成すのは、主に逆らう者達が救われるためではなく、会衆全体が巻き添えを食らって滅ぼされないようにするためである。(22節)
そして、反逆する者達から離れるように警告する事である。

主と主の立てられた権威に逆らったコラ達には、地が口を開いて彼らと彼らに属する者たちとを飲みこみ、彼らは生きながらよみに下るという、恐ろしい最後が訪れた。(32,33節)
それによってコラ達こそ神に反逆した者であり、モーセとアロンこそ神の御心に叶う者だと民衆は知った。
今、神の立てられた唯一の指導者であり大祭司であるイエスキリストに反抗し、民衆を真理から引き離そうと耳障りの良い言葉で惑わす者達には、断じて同調すべきではなく、むしろひれ伏し、取り成し、彼らから離れるよう注意を促し、彼らが普通でない死に方をすると宣言するべきである。

モーセとアロンの側に立っているか、コラの側に立っているかよくよく注意し、真実の側に立って祈り、はびこってきた偽預言者の偽りを暴いて光へと導く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:死からいのちへの名義変更(2コリント5:14−17)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日イースターはイエスキリストの復活を祝う日である。
なぜ今日のキリスト者は、そんな2000年前の出来事を祝うのだろうか。現代の私達と、どんな関係があるのだろうか。また、イエスは死と復活によって、私達に何をして下さったのだろうか。

私達は、生まれながらの状態にあっては自分の過ちと罪のために死んでおり、この世を支配する者サタンの支配下において過ちと罪を犯して歩み、神の怒りを受けるべき者だった。(エペソ2:1-3)
神の基準を満たす事は出来ず、むしろ罪の故の債務証書が私達を責め立てていた。
しかし私達の主は、復活の日、私達を訴える罪と言う債務証書を、流された血によって帳消しにし(コロサイ2:14)、努力しても決して届かなかった永遠の命という代金を、ご自分のいのちで払い済みにして下さった。
それは客観的事実であり、真理だが、その事は誰にも彼にも無条件に自動的に適用されるものではない。
その事を信じる事、すなわち「信仰」によって歴史上の人物イエスから、「私の主イエス」とする必要がある。

「信仰とは、望んでいる事がらを"確信"(ὑπόστασις フーポスタシス:実体、権利証書)し、まだ見ていない事実を"確認"(ἔλεγχος エレグコス:証拠、監査明細)する事である。」(ヘブル11:1)
即ち、「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書であり、まだ見ていない事実の監査明細である。」
もし、この教会のビルの全所有権は天声教会のものである、という不動産権利証書があって、それを提示して主張するなら、ビル全フロアを教会にもできるし、監査証があるなら誰も文句を言う事はできない。
同様に、信仰があるなら御言葉に示されている莫大な権利の目録は私達のものとなるが、信仰がなければ、神に対して、永遠の命に対して、サタンに対して、何の権利を主張出来ない。
私達の所有はサタンからイエスへと、死からいのちへと名義変更された事を信じ、主張するべきである。

イエスのものに名義変更されたと信じた者には、どのような特典が与えられているだろうか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

また、信じる者には、次のような権威が与えられている。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:18,19)
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17,18)

聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
しかし、信じない者には、この栄えある領域には足一本も踏み入れることが出来ない。
主イエスの流された血によって名義変更され、共に復活した者として、大胆にこの莫大な権利を主張し、行使する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:救いの置き所(マタイ21:6-11)
第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日4/17は、教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」にあたり、次週日曜日 のイースター(復活祭) 前日の土曜日までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
「しゅろの聖日」の名前の由来はイエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、人々は各々の衣服や、しゅろの葉を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した事から呼ばれている。(マタイ21:6-11)
この日、群集は諸手を挙げてイエスを歓迎したのだが、その1週間後、彼らはこぞってイエスを「十字架につけろ」と叫び、つばをかけ、十字架を引き摺って歩くイエスを罵った。この落差は一体何だろうか??

ホサナ という言葉は、現代キリスト教では神を褒め称える礼典的な響きを持つ言葉となっているが、元々はヘブライ語で「ホシア・ナ」、これは「おお!救って下さい」という意味である。
群集の叫びの動機は、褒め称えるというより「救って下さい」のニュアンスが濃かったかもしれない。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、ローマの支配から力強く救ってくれる者、パンをいつでも提供してくれる者、病気や悪霊を追い出してくれる者、といった幻想を、イエスに抱いていた。

人とは身勝手なもので、奇跡によってパンを増やしてくれると期待していたメシヤがパンをくれず、「わたしがまことのパンです」と言い出すと、皆去って行った。
清純派で売っていたアイドルが実は不純だったとスクープされるや、ファンが手の平を返し、こき下ろすように、力でローマを屈服してくれると期待していたメシヤが、だらしなくパリサイ人に乱暴され、ローマ兵に引きずり回されているのを見ると、群集は手の平返して、乱暴する側に回るのだ。
このように人々は、力強い救世主を求めるものの、その力が自分の願いを満たす方向性とは関係が無く、自分に罪があると示されたり、悔い改めを要求されると知ると、そのようなメシヤなぞいらない、となるのだ。

イエスの十字架の道は、人々の期待に応える道ではない。
人を愛する事と、人の期待に応える事は別物だし、人を救う事と人の期待に応える事もイコールではない。
人の期待に応える事、人の歓心を買う事で「支持者が増えた」「集会が盛り上がった」といった幻想を抱き、気がついたら御心とは全然違う方向へと振り回されて行った、というような過ちを、教会はしがちである。
十字架の道とは、自分の握り締めている期待、握り締めている自我を、十字架に磔にし、主の期待、主の御心に委ねる道だ。
自分の思い・意思・感情をホサナ(救いたまえ)と思う者は、それを失うが、主イエスのために自分の思い・意思・感情を失う者は、それを得るのである。(マタイ10:38、16:25)
主はゲツセマネで「私の思いではなく御心が成りますように」と祈られた。私たちもそれに習うべきである。
救いの源は、どこに置けば良いのか。黙示録に登場する、しゅろの葉を持った聖徒達からヒントを得たい。

「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」(黙示7:10)
救いとは、自分由来の何かを救う事ではなく、「私達の神と子羊を救いとする」事だ。
長老達は自分達の栄光の印である冠を御座の前に投げ出し、天使達も「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」と栄光を捧げ尽して、アーメンと平伏した。
この聖徒達の告白、長老達の態度、天使達の賛美こそ私たちが見習うべき姿勢である。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)
人々は好き勝手な「ホサナ(おお救いたまえ)」を叫び、「いちじくの葉」の進化形である好き勝手な衣服をイエスの敷物にしたが、私たちが纏うべきは、子羊の血で洗った白い衣である。
それがまことの「しゅろの日」であり、私たちが主を迎えるべき姿勢である。

子羊の血によって白くした衣を纏い、勝利のしゅろの葉を持って、イエスを迎える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生きている者と死んだ者の狭間で いのちのために執り成せ(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)

第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

放射能について最悪の事態に備える事や、食料やガソリンの備蓄など、生物的な命を保つための警鐘は確かに大切だが、それだけに始終し、いたずらに不安を煽ったまま終わってしまうクリスチャン論客は多い。
そして肝心の、霊的な命を保つための警鐘や、平安を保つための御言葉を流すキリスト者は実に少ない。
今、全ての聖徒達に喚起したい事は、持ち場を離れず、立つべき所に踏み留まり、戦う事である。
「持ち場」とは地域的な場所の事ではなく、霊的なポジション、すなわち、祭司として執り成し祈る立ち位置の事であり、「戦う」とはサタンと呪われた被造物に対し、信仰の篭った御言葉の剣を差し出す事である。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)
私達は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。(1ペテロ2:9)
霊的深酒に陥って、王族の祭司としての義務を忘れたり、貧しい者のために執り成す事を止めていないだろうか?王たる者には、酒を飲むことは相応しくない。
深酒は、没落した者、苦い思いを抱く者が、貧乏や労苦を忘れるためにする事であり(箴言31:4-7)そのように酔っ払っている者の所に、ある日ドアが突然バンと開き主が乗り込んで来て、深く眠りこんでいたり、主にあるしもべ仲間を打ち叩いている所を見られるなら、主から厳しく追求されるのではなかろうか。

現在、原発の危機や、戦争や地震、薬の利かない病など、四方八方に死の危機がある。
一つ確かな事は、人間、死ぬ時は死ぬ。
生物的な命のための備えをしたなら、あとは右往左往せず、霊的いのちの働きのために走り抜きたい。
しかしながら、起こるべき全ての災いから逃れ、人の子の前に立つ事の出来る者は、確かにいる!
それは「いつも目を覚まして祈っている」者(ルカ21:36)、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。(黙示録3:8-12)
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

私達が今為すべき務めは、アロンのように死者と生者との間に立ち、執り成す事である。
神の民イスラエルが、神の立てた指導者モーセとアロンに逆らって集結し、不平を言った時、主の怒りが出て、宿営の端から疫病が流行りだした。(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
その不平の内容は、自分勝手な礼拝を捧げようとしたコラの仲間達を「主の民」とし、その「主の民」が滅ぼされた事を不服とするものだった。
疫病が出たのは、言ってみれば民の手前勝手な罪の故、自業自得かもしれないが、アロンはどうしたか。
「アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」
我々王族の祭司は、アロンと同じように、滅んでいく人々の中へ走って行き、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ち、祈りの香を炊き、賛美の煙を登らせ、取り成しの祈りを捧げるべきである。
彼らは主から「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。」と言われた時、その言葉どおり立ち去らず、主にひれ伏し、この頑なな民と共に滅びてしまう危険を顧みず、走って行き、祭司としての贖いのわざを為した。

私達も、生きるにしても、死ぬにしても、いのちを救うために執り成すという、祭司のわざを為していきたい。
アロンのように、神と人との間に、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

第一礼拝(日本語)礼拝音声:救いは何処に?(詩篇18篇):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今回の地震によって、世の人は色々な準備をしている。
CNNmoney.comによると、doomsday(最後の審判の日、この世の終わり)に備えるための地下シェルターを売っている米国企業の売上高が、20%から1,000%にまで伸びたという。
20万ドルから2千万ドルもする地下シェルターを買える者は買いあさり、買えない者は安全と思われている所に逃げ、逃れるつてもお金も無い者は、命を長らえるために物を買い込んで備えている。
あるいはこの終末的状況から目を逸らし、自らの欲にますます耽る者、絶望して何もしない者もいる。

大地が揺るがされ大水が襲い、害為す物質が撒かれた時、各人が最も拠り所とする対象が明らかになり、信仰が試された。
世の人はシェルターを買おう、飛行機に乗って逃げよう、水や食料を買い置いておこう、など、自らの富や知恵、力によって自分を救おうとしているが、結局何に頼ればいのちを伸ばせるのか、誰も知る由が無い。
人間には生まれる予定日はあっても、死ぬ予定日は誰も知る者はいない。
死ぬ時は皆死ぬ。それは、命の日数は、主が数えておられるから。
そして信じても信じなくても、地獄と天国はあり、どちらに行くかは、生きている時の選択にかかっている。

「主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇18:3)
主こそ私達の助けであり、この世から来る世まで通じて、唯一安心して頼れるお方である。
人生の大川を越える時も揺るがされることは無く、いのちに溢れ、敵の前でさえ宴会を設けて下さる。

「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
これは、何もせず静かにしていよ、という事ではなく、「立ち帰って」という所が重要である。
立ち返るとは、自分の考え、自分の業でやってきた方向性を180度転換し、神様の業、神様の御心に委ねる方向転換であり、そうして静かに信頼するなら力を得るのだ。

「「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」(イザヤ30:16)
地下シェルターを買い飛行機で逃げても、主に計り与えられた命の日は、延ばす事も縮める事も出来ない。
しかし少なくとも、主に信頼する者は、世の何者も提供できない、人知を超えた神の平安が、心と考えとをキリスト・イエスによって守られる。(ピリピ4:7)

「一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、五人の威嚇によってお前たちは逃れる。」 (イザヤ30:17)
中国浙江慈渓市の男性は、日本からの放射能を恐れるあまり、ヨウ素入りの塩を食べ過ぎて亡くなられた。
主に信頼せず、恐れに捕らわれ右往左往するなら、たとい安全な地にいたとしても、死の危険にあるのだ。

今の時代、真偽の入り混じった様々な情報が飛び交い、何を信じれば良いのか分からないし、どの情報が正しくどの情報が違うと判断する能力は、我々には無いかもしれない。
しかし世の終わりにはそのようになる事が、予め主によって示されており、主が真っ先に気をつけるべき事として言われたのは「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:3-4)である。
何が最善であるかを知っておられるお方はイエスであり、決して変わる事の無い真理が、御言葉である。

世の終わりまで守られる者とは、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。
この時代、主の御言葉をよくよく注意して留まり、全世界にきているこの試練の時、守られる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:真の隣人(ルカ10:25-37)
第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」(ルカ10:30)

この度、日本列島は、非常に強悪な追いはぎに襲われた。
ある者はこの災いを見て、聖書のあの箇所の成就だ、終末が近づいた、と、短絡的に聖書や神様の話をしたり、この国が普段から悪い事している罰だ、安全管理をきちんとしていないからこんな事になった等、あれこれ言うだけで何の助けもせず、放射能の穢れを受けたくないからと、安全な所へ逃げてしまう。。。
祭司やレビ人は律法を体現する者達で、穢れを受けてしまうと務めができない為、相当穢れには敏感であるが、律法は「善か悪か、聖か罪か」の区別を示すだけで、いのちを与える事はできない。
故に彼らは罪人や傷を負った者に、あれこれ言ったり分析はしても、実際的には何の助けも出来ないのだ。

律法の専門家は、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐ事ができるでしょうか」と主イエス様に問うた。
永遠のいのちを受け継ぐには、全てを尽くして神である主を愛する事、そして隣人を愛する事である。(27)
彼は再びイエスに問うた。「では、隣人とは、一体誰か??」

「あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の想いに駆られた。」(33節)
この、断腸の思いに駆られて実際の助けをしたサマリアの旅人だけが、追いはぎに襲われた者の隣人となった。サマリヤの旅人が隣人である事は分かったが、彼は具体的にどのような者か。
彼はまず、オリーブ油(聖霊)と葡萄酒(イエスの血)を、彼の傷に注いだ。
その傷に包帯(裸を覆う毛皮)を施してやり、また彼を自分の家畜(ろば:イエスの乗り物)に乗せて、宿屋(安全な場所:教会)に連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、デナリオン(贖いの代価)2枚を取り出して宿屋の主人に渡し、介抱に必要な費用を払い(教会への必要の満たし)、出費がかさんだらさらに支払う約束までしてくれた。
このやり方、このご性質、見覚えはないだろうか? 明らかに、私達の主イエス様である!
永遠の命を得るには、全てを尽くして神を愛する事、そして、この真の隣人なるイエス様を愛する事である。

なぜ主イエス様は、罪に穢れ見下されている民「サマリヤ人」として来られたのか?
私達は例えサマリヤ人のように罪穢れ見下されていても、イエス様のご性質を帯びる事ができるという事だ。
まことの隣人・イエス様に「隣人としてのもてなし」をして頂いた者は、心から彼を愛し、彼を愛した者はサマリヤ人のようにイエス様のご性質を帯び、心から隣人を愛する事が出来るようになるのである。
そうなると、祭司やレビ人のように避けて通って行きたい気持ちをいちいち押し殺したり、雀の涙ほどの愛をいちいち振り絞らなくとも、追いはぎに襲われて身動き出来ない者を見てしまえば、主イエス様のように腸のちぎれる思いとなって、穢れも厭わず駆け出してしまうのである。

地震という追いはぎによって親兄弟、財産、ふるさとまで奪われ、傷を負ってしまった全ての日本人の、真の隣人となれるのは、主イエスだけであり、彼のみが追いはぎの親分「サタン」に勝利したお方である。
私達はそのままでは、隣人になる事は出来ず、祭司やレビ人のようにあれこれ言うだけである。
しかしイエス様に聖霊と血によって傷を洗われ、罪が覆われ、主の乗り物に乗せられ、教会で介抱され、贖いの代金を支払われるなら、私達も真に傷ついた者の隣人となる事が出来るようになる。
そして信じて主の権威を帯びた者は、へびをつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という保障がある。(マルコ16:18)そうして真に日本のために、良い働きができるのである。

イエス様にあって整えられ、地震という追いはぎに遭った人の隣人となり、主イエス様を日本の至る所で表現する皆さんでありますように。
まことの隣人・イエス様の名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest