• カテゴリ 主日礼拝 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

第1礼拝音声(林パスター):執り成す者(創世記18:16-38):右クリックで保存

第1礼拝メッセージ概要

ソドムとゴモラの町は実に暴虐に満ち、多くの人達の叫びが天に届いていた。
そのため神の使い達は、実際にその通りか確認した上で滅ぼすつもりでいたが、その事を「アブラハムに隠す必要があろうか」と言って、ご自身が為そうとしておられる事をアブラハムに隠さず打ち明けた。
アブラハムは御使い達を相手に、ソドムとゴモラに執り成し、6度も交渉し、例え10人しか救われるべき義人がいないとしても、町を滅ぼされない事を約束させるに漕ぎ着けた。

日本もバブルが弾けて以来、特に若者達の叫び声が天に上がっている。
先般起きた地震という災害は、確かにこの国に対する警告の意味もあるだろう。
しかし私達聖徒達は、この状況をただ指を咥えている訳にはいかないし、「災いだ、罰だ、終末だ」とニュースキャスター的に叫ぶだけではならない。
皆一人一人がアブラハムのように、神の祭司として、聖なる国民として、神に、この国の悲惨な状況を、取り成しを訴えるべきである。
私達の主は「人間どもは汚らわしい。だからから滅ぼせ」という短絡的な神ではなく、聖徒達にまず聞き、その上で聖徒達の執り成す祈りに耳を傾けて下さるお方である。

アブラハムの訴えにもかかわらず、その町で唯一善良だったロトの家族だけが、滅びから免れるよう御使いの手引きで導かれたが、それ以外の人達は、実に邪悪だったため、結局滅ぼされる事となってしまった。

それでもアブラハムは最初、恐る恐る50人を訴え、そ次に45人、40人、、、最後に10人となるまで交渉し、神様は取り成しに応えて下さった。
神様は、そいうお方である!

今、東北地方が大変な状況である。
この時、寒くひもじい、恐怖の中で救出を待っている人のために、余震が続き2次災害や被爆の恐れのある中、救出作業に従事している方のために、一人でも多くがいのちが救われるように祈るべきである。
友人知人がいるならなおさら、そうでなくても、そこにいる人達のために取り成し祈りたい。
 

第2礼拝音声(鄭牧師):勝利をさせて下さる神様(イザヤ3:1-8):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:

第一礼拝(日本語): 御言葉はそのままに(黙示録22:18,19):右クリックで保存

第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージ:右クリックで保存

週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

9x9は、81である。
九九は算数の基本中の基本で、小学2年で学び、その時は訳も分からず覚え込ませられるが、大学に行っても、社会に出ても、計算の際には必ず必要になってくる。
当然のごとく、誰も9x9を20とは主張しないし、81以外の例外を証明できた者はいない。
算数や数学の答えは単純明快、世界共通であり、私情を挟む余地が無いものである。

主イエスは、算数という「ことば」を創られたお方であり、主の御言葉の一点一画が落ちるよりは、算数や物理法則を含めた全宇宙の理(ことわり)が滅びる方が、はるかにたやすい。(ルカ16:17)
にもかかわらず、人は御言葉において、「私の9x9は11だ」とか「今日の気分は9x9=1だ」とか、「みんな一人一人、個性的な解釈があって良いんじゃないか」といったような事を、なぜか仕出かす。
9円の商品が9個欲しいなら、きっちり81円出さなくては、お店の人は商品を出さないし、「私の9x9は11だ」と主張しても、商品はもらえない。
それと同様、人の救いの贖い代は値高く、きっちり支払えるのは御子イエスのみである。(詩篇49)

聖書は算数よりも確かな法則で、「こうすればこうなる」の宝庫であり、蓄えれば蓄えるほど生きる上で必要な知恵に満たされ、信じれば信じるほど豊かになる。
収穫物の初物を捧げれば、主はきっちりと、倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる(箴言3:9,10)し、イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる(使徒16:31)と書いてある。
倉が満たされないのは、主に捧げていないからであり、あなたもあなたの家族も救われないのは、肝心の「イエスを信じる」事をおろそかにしているからではなかろうか。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)
御言葉は人を照らす光であり、人がどのような状態であるかを明るみに出す。

人は体重計に乗って、指し示す数字を見て「ひどい」と言う事は出来ない。
その目盛りが重すぎるのならダイエットすべきであり、それが軽すぎるなら、きちんと栄養を取るべきである。
「体重計は私の心を傷つけてばかりいるから、体重計の方が間違っている。」とか、「体重計が今100を示しているけれど、実はこれこれの意味があって、その場合は50と解釈すれば良いのだ」などと余計な解釈を付け足したりしていたら、いつまでも不健康のままである。
人は、そのような解釈による付け足しを、御言葉において、なぜか仕出かす。

御言葉が人を量る時、人の罪の本性を指し示す。それを希釈してはならないし、付け足してもならない。
罪から救い出せるお方はイエスキリストお一人であり、例え罪が緋のように赤くとも雪のように白くされる。
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18,19)
エバはサタンにそそのかされた時、善悪の実に「触れてもいけない」と、御言葉に勝手な解釈を付け加えたが、それはパリサイ派の種であり、偽りへ踏み出す第一歩である。
御言葉に対しての正しい対処は、御言葉は足し引きせず、そのままいただく事である。
御言葉は一人一人に対する愛の込められた手紙であり、信仰をもってそのままいただくなら、キリストの香りが春の花の香りのように心と霊、体に充満し、愛と嬉しさによって満たされるのである。

もっとも強力な祈りは、御言葉をそのまま祈る祈りであり、難しい事は考えずいつでもどこでもシンプルに
「イエスよ助けて下さい」と祈るなら、イエス(イエシュア=「神は救い」)は救いを与えて下さる。
御言葉ご自身であるキリストを豊かに住まわせる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:言葉の種類と力(ヨハネ1:1−14):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要

人は言葉という種を入れる袋のようなもので、どの言葉によって満たすかで人格が決まり、どの種を自分の人生や環境に対して蒔くかによって、どんな実を刈り取るかが決まる。
神は言葉であり、世は言葉によって成り立ったと書かれてある程重要なのに、人はあまりに意識していない。
言葉の大切さを示すためにキリストは肉体という幕屋を張って、直接地上に来られたが、人はその大切な言葉を受け入れなかった程、思いが眩まされていた。(ヨハネ1章)
今日は、その眩まされている原因を突き止め、目のうろこを取って行きたい。

言葉には、3つの種類がある。
すなわち人間から出てくる「人の言葉」、サタンから出てくる「世の言葉」、そして神から出てくる「御言葉」。

「人の言葉」は生まれながらの人間から来る言葉で、喜怒哀楽があり、相手が好きであれば良い感情を込め、嫌いであれば嫌な感情を込めてぶつけるが、保障が無く、永遠の視点から見れば何も生み出さない。
イエス様の代表的な弟子であるヨハネの子シモンは、イエス様に死ぬまでご一緒すると力を込めて言ったが、それを言った夜が明けない内に3度、力を込めてイエスを知らないと言った。
後に「あなたは私を愛しますか」と3度聞かれた時、自分には完全な愛は無いと告白するしか無かった。
人の言葉には保障は無く、永遠の視点から見れば何も生み出さないのである。

「世の言葉」とは何であろうか。それは世代に流行っている風潮、時代の空気から流れてくるぼんやりとしたイメージであり、それは空中の権力を持つ支配者(エペソ2:2)すなわち、サタンから由来する。
この言葉には力があり、不安や絶望といったサタンの悪しき思いが込められている。
人の心がそれに付着すると、いのちから遠ざけられ、死、滅びへと導かれる。
「世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは御父から出ないで世から出るからです。」(1ヨハネ2:16)
その仕向けてくる言葉は、目にはカッコ良く、情欲をそそり、より良く安定した生活へと向かうかのように惹き付けるが、その実、いのちからより遠く遠く離れさせようとして欺く。
マイケル・ジャクソンはそれらを収めたかのように見えたが、逆にそれらに支配され、縛られ、犠牲となった。
クールでワルでセクシーな「良さ」は、本来のいのちから離れた所にあり、追求し過ぎると破滅をもたらす。

愛する妻子を、都心の高層のマンションに住ませ、無菌パックに入った食物や、最先端のデバイスを与え、恥ずかしくないブランドを身につけさせるために、夫婦揃って残業漬けになる生活は、健康的だろうか。
子供や妻に、モノしか与えていなければ、時間が経てば「何もしてくれなかった」という思いしか残らないが、信頼や希望、愛情はいつまでも残り、その思い出は時が経てば経つほど麗しくなっていくものである。

唯一有益な言葉が、「神の言葉」である。
それは一見、魅力的には写らず、地味で、忍耐が必要な事もあるが、力と保障があり、ふんだんに愛が込められ、そこに留まればいのちを豊かに生み出し、無から有を生み出す。
時には痛い事もあるが、その痛みは滅びに至るものではなく、余計な所に力を使わせないためであり、後にはいのちと有益をもたらす。(ヨハネ15章)
雨が降ると必ず地を潤し、実を結ばせ、空しく戻らないように、信仰を持って聞くと必ず良い実を結ばせる。
神様の言葉は、元来備わっているいのちが成長し、元来持っている美しさが豊かになって行く。

神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声 言葉の力と用い方(創世記3章) :右クリックで保存

※ 途中の写真は、音声メッセージ中に話題に上った、ナゾの液体です。

神様ははじめに、天と地すべてをことば(ロゴス)によって生じさせた。(ヨハネ1:1)
世に向かってことばを投げ、光や陸地、生き物など、色々なものを生え出でさせた。
神のことばは種、世の全ては畑のようなもので、神はあらゆる良い言葉を蒔き、世は良き実を結ばせて来た。

言葉には力がある
言葉は唇から出る音声や文字に限らず、音楽でも、人の動作でも、物の配列でも、立派な言葉である。
私達の周りは、環境も、人間関係も、人生経験も、全て言葉によって成り立っていると言って過言ではない。
良い人、良い物でも、言葉によって印象が大いに汚らわしく歪曲されうるし、悪い人、悪い物でも、言葉によって印象が大いに清らかに歪曲されうる。
中睦まじい恋人であっても、何か一つの言動によって生理的嫌悪を覚え二度と見たくない程になるのは大いにあり得るし、ある人が意図を持って石ころを並べ、それを見た別の人が感動し涙する事も在りうる。

ことばの恐いところ−エデンの園における失敗
エバは食べてはならぬと命じられていたものを食べてしまい、人類に罪と死を招いてしまった。
なぜ食べたら必ず死ぬと言われていた木の実を、取って食べてしまったのか。
それはエバが、サタンの意図を持った言葉に聞き入り、元々エバの内に宿っていた主のことばが掻き乱され、その結果、自分の中に新しく生じてた「異質のいのち」の衝動に突き動かされてしまったからである。
「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(2コリント11:3)

悪しき言葉に勝つには
この戦いは、能力の問題ではなく、誰のことばを信仰に混ぜ込み、何を思い巡らすか、という問題である。
私達の戦いは血肉のものではなく、御言葉の剣によって、闇の世界の支配者や、天にいる悪の諸霊を相手にするのである。(エペソ6:12)
主はサタンの誘惑を、全て御言葉で撥ねつけた。
そのように、エバもサタンの言葉が来た時、単に御言葉(ロゴス)をそのまま語れば良かったのだ。
そのためには「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉の剣で撥ねつけるタイミングはいつか?それはサタンの言葉が来た、その時である。
エバのようにサタンの言葉を思い巡らしたりして「異質のいのち」という苦い根を生じさせてはならない。
私達という種袋の中を満たすべきは、御言葉であり、いつでも御言葉を取り出して振り蒔くべきである。

言葉の用い方
「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコブ3:6)
私達は語る唇に、よくよく気をつけなければならない。誰かの噂や悪口を言いふらす事は、偽りの印象を振り蒔き、滅びの実に栄養を与える事である。
「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。」(箴言10:19)
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声 御心とは(ヨハネ6:26-35) :右クリックで保存

受験や就職、結婚など、人生の節目節目でクリスチャンは御心を仰ぐ。
今、自分が最も気になっているこの事は、はたして成功するだろうか失敗するだろうか、あの道を進むべきか、それともこの道にするべきか、一体何が御心なのだろうか、と。
一体、御心とは何だろうか。

目先の事について、何が御心であるのか分からない時は、何であれ、ベストを尽すべきである。
例えパンを川に流すような事であっても後に見出すかもしれないし、風向きを気にすれば種は蒔けない。
「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト(伝道者)11:1-6)
御心を探るとは、口を開けてじっと木の下で待っている事ではなく、積極的に求め行動するべきものである。

主が求める御心については、御言葉に明快に書いてある。
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(1テサロニケ4:3)
「聖なる者となる」とはἁγιασμός(ハギーアスモス)、清める、不純物を除く、という意味がある。

また、主イエス様が5千人以上にパンを与える奇跡を行った後、イエスを追いかけて来た群集が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いた時、彼は答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29,30)

また主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39,40)と言われた。
人が「神の業を行うにはどうすれば良いか」と聞く時はきっと、大いなる事、難しそうな事を考えるかもしれないが、答えは実にシンプルで、「神がお遣わしになった者を信じること」である。

以上の事から、主の御心とは「私達が聖なる者となる事」で、そのためには、「神がお遣わしになった者を信じること」、その結果、信じる者が皆永遠の命を得、終りの日に復活する事が、御心である。
そういうわけで、人生の節目節目において進路を仰ぐ際、どちらがより聖なる者となれる道か、どちらがより清められる道か、どちらがより不純物を除かれる道か、どちらが主の栄光となり、人がよりいのちを得る道であるか、という基準で見れば、御心に添った道が見えてくる。

しかし神様抜きで生きてきた人は、御心の道が示されると、その道は損をするような気がするものである。
聖なる道や清い道、不純物がより除かれる道というのは分かるのだけれど、イコール、損したり貧乏になったり、不名誉になったりすると思うもので、だから、自分で考え出した道を神様に示し「この通り進ませて下さい」という祈りをしては、答えられずに失敗を繰り返すクリスチャンは多い。
主に委ね切れず、自分が時折茶々を入れるような、中途半端なクリスチャンは、苦労が尽きないものである。

御心どおり行っていれば、実は良い事づくしなのだ。我々は、損な人生から脱出するべきである。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-13)

しかし主の御言葉は、天からの雨が必ず地を潤して物を生えさせ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えるように、決して空振りする事は無く、私達は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

例えパンを水の上に投げるような事であっても、後の日にそれを見出す。
(コヘレト11.1)

私達には何が最善か分からないが、全てをご存知であるお方に、委ねていれば良い。(詩篇139:2-18)

私達が座るのも立つのも知り、遠くから私達の計らいを悟っておられ、暗闇に隠れた所も、私達が胎児であった時さえも、見つめておられた主に、一切を明け渡して、ラクになる皆さんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声 安息に入るには(ルカ14:1-6) :右クリックで保存

ファリサイ派の人達が見ていた事(ルカ14:1-6)
ある安息日、イエス様がファリサイ派の家に入った時、人々は彼をじっと見ていた(ルカ14:1)
彼らは、そこにいる水腫を患っている人を癒すか、癒さないかを注視し、病人さえイエス様を訴えるネタとして用いようとし、その病人に対する憐れみの心は、全くなかった。
パリサイ人たちは、働いてはならないという事に固執し、歩くのは何歩以上は良く何歩以上はダメ、といった細かい決まり事を制定し、いのちを救う、救わないではなく「する」「しない」を強烈にこだわっている。

そこで、安息日の主であるイエス様は言われる。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか?命を救うことか、殺すことか?」(マルコ3:4)
主が求めるのは、あわれみであっていけにえではないし、善悪の行いではなく、いのちを救う事である。

安息日とは?
安息日の制定は、十戒の第4戒においてである。(出エジプト20:8−11)
主が真っ先に言われているのは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」である。
つまり、主の創造の仕事が完成した事を祝い、その時の主の満足を満足し、主の安息を共に安息するべきであって、「働かない」「動かない」といった2次的な事に心奪われるのは、本末転倒である。
創造のみわざが完成した次第は、創世記2:1−3 に書かれてある。
ご自分の仕事が終り、全ての創造のみわざが完成し、休まれた日が、安息日である。
私達も、仕事が終わった後は、休んで安息し、あれやこれやと仕事をする事はしない。

完成された被造物を壊すもの
ところが、完全だった創造の御技はサタンによって破壊され、アダムの過ちにより罪と死が入ってしまった。
完全な美しい調和が保たれていた世界は混沌となってしまったのは、神様以外の者が介入したからだ。
安息日とはああだこうだ、御言葉とはああだこうだ、と言って、御技も御言葉もさも不完全であるかのような、さも自分達が主の御言葉を完成させるかのような振る舞いは、創造のみわざを壊す事である。

壊された被造物を贖う主
水腫の人は、その病によって、本来あるべきはずの完全さが破壊され、長らく安息できなかった。
ファリサイ人のネタにされている事に甘んじ、何も言わず、ただ主の御前に出て行った。
そんな彼に、主は御技をなす事によって、彼がそれまで心底欲していた安息が復活させられたのである。
病によって破壊された体は癒されなくてはならなず、不完全な状態は完全にされなくてはならない。
破壊された状態から回復するには、どうすれば良いのか。
「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒3:16)
完全な状態に復帰されるには、安息日のマスターである主、イエス様を信じ、御前に出て行く事である。

信仰によって安息に入る
創造のみわざは完成されたが、サタンによって、人の罪にって台無しにされてしまった。
それを主イエスが十字架の死によって罪を罰し、死から蘇った事によって、死と病と貧しさに勝利し、彼を信じる信仰によって、台無しの状態から完全な状態へと復活し、そして安息できる。それが福音である。
安息日の休みは、神の民に残されている。なぜなら、神の安息にあずかった者は、自分のわざを終え休み、神の用意された安息に入るからである。(ヘブル4:9、10)
この神様の安息への招待状を、信仰によって受け取り、みわざの完成にただ入る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:

第一礼拝全体(日本語) メッセージ:バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存

第三礼拝メッセージ説教(日本語・韓国語)バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存


週報/メッセージ(説教)概要

ベルシャツァルがバビロン最後の王だった。
王は宴会を開き、宴もたけなわの時、聖なる神殿にあった金銀の器を用いて、妾たちと酒を飲もうとした。
本来、聖なる場所にあって聖なる事に用いられるべき器が、悪い王とその取り巻きの娯楽のために使われ、さらに彼らは金や銀、鉄など、色々な材料で作られている神々を褒め称えた。(ダニエル5:1-4)

この聖なる器は、今の終りの時代においては、私達キリスト者になぞらえる事ができる。
黙示録17章において、バビロンを象徴する大淫婦が登場し、彼女は獣にまたがり、杯に聖徒達の血を注いで酔いしれる情景が出てくる。
バビロンにおける神々は、金や銀など黙示録18:11-13 における様々な商品が取引されて築き上げられる富であり、やり取りされる商品には人間さえも含まれているが、いずれ大淫婦は滅ぼされ、取り巻きの商人達も富を失って泣く日が来る。

ダニエルの時代、聖なる器物がはずかしめを受けているその時、超自然的な指が現れ、堕落した世にあって、まことの神に忠実に仕えたダニエルにしか読むことの出来ない字が記された。(ダニエル5:5-9)
その字の中の「メネ」は数えるという意味で、「テケル」は量りにかけられるという意味である。
私達は人生の歩みを数えられ、神様に量られたいのちの時間を生かされている。
いのちの量りが満ちた時、神様の目方に足りるか足りないかを、査定される。
ベルシャツァル王は量られた結果、足りないと見なされ、パルシン、すなわち王国は分裂し引き裂かれてしまい、彼はその夜のうちに殺されてしまい、同じ日にダニエルには偉大な位が与えられた。

今の時代は、有形無形の様々なものが売り買いの道具としてやり取りされ、人の労働時間は切り売りされ、一部の金持ち達は、恋愛も忠誠心も全て金で買えると思っているような、人間が商品として扱われている時代である。
ノアの洪水やカナンの聖絶も、バビロンの滅亡も、人間の高慢がこのように、極みに達した時に来た。
邪悪な者が、聖なる者を蹂躙する期間は、いつまでも続かず、時が量られている。

「メネ、メネ・・・」は、高慢な者や時代の王だけに来る言葉ではなく、全ての人達に、あてはまる事である。
もし私達が数えられ、量られたら、絶対に足りず、裁きの座において裂かれるしか無い。
しかし、イエス様が我々の代わりに、罪人に数えられ(メネ)、邪悪な者に銀で量られ(テケル)、十字架上で裂かれ(パルシン)て下さったから、その裂かれた肉体を食べた私達は、まことの命を得る事ができた。
私達は元々、命の木から分離していたが、イエス様の裂かれた肉体を通していのちの木を得る事ができた。
主の内にいる私達は、決していのちの木から分離される事は無く、裁かれる事もない。
しかし、信じない神に逆らう悪の大盤振る舞いの人達には、メネ、メネは、そのままの言葉であり、王は、その通りの死を遂げた。

私達は、ベルシャツァル王になり得るし、王の取り巻き商人にもなり得るし、ダニエルにもなり得る。
裁きの日は思いがけない時に来て、主イエスの名を持っていない者は、裁きにあう。
主にある者でも、いつまでも主は来ないと思って、聖徒達を打ち叩いたり、酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをしているようなら、思いがけない時に主は来られ、そのような者達を厳しく罰する。(ルカ12:42-46)
終りのしるしが現れている今、私達は常に目を覚まし、私達の身代わりにメネ、テケル、パルシンされて下さったキリストにしっかり留まるべきである。
主が戸口に近づいている事をますます意識して、ダニエルのように忠実に日々を過ごし、かの時には栄光を受け、バビロン王の滅びを見る皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝音声:愛で満たす主(ヨハネ21章)
週報/メッセージ(説教)概要

イエス様は、5つのパンと2匹の魚によって彼を慕ってきた5千人以上の腹を満たしたように、圧倒的な御技でもって主を慕う者を養い、働き人も養って下さった御力がある事を先週見た。
主はそればかりでなく、たとえ彼を慕う者が間違いを犯し、裏切ったとしても、悔い改めて立ち帰るなら赦し、愛による万全のサポートをもって癒し、霊肉魂の全面において満たして下さるお方である。
今日はそのような主のご性質を見ていきたい。

イエス様が十字架に架けられ、死んで、3日目に甦った後、弟子達は主から与えられていた働きから離れ、以前の生活に戻ろうとした事があった。(ヨハネ21章)
元漁師だった弟子達が主の弟子となった原点は、主の言葉どおりに深みに漕ぎ出して網を下ろし、その結果、船が沈みそうになるほど大漁に捕れた経験と、
「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)という招きの言葉である。
弟子達は主の圧倒的な御技を見、自分が罪深い人間であり、とてもこの聖なるお方に近づくには相応しくないにもかかわらず、人間をとる漁師として任命して下さった、主の懐の深すぎる愛に打ちのめされたから、イエスと共に働くようになったのである。

主は十字架に至るまで忠実であり、決して見捨てるが無く、愛に富んでおられた。
それなのに、弟子達は主を見捨てて逃げ、裏切り、ペテロはイエスを「知らない」と3度言った。
主は3日目に甦えり、弟子達に現れたものの、いつも弟子達と共にいるという訳ではなく、聖霊が力ある形で現れていなかったため、弟子達はなんとなく以前の職業に戻ろうとしていたのである。
そこで彼らはある晩、一晩中漁をしたのだが、魚は全く捕れなかった。
夜明け頃、「右側に網を下ろしなさい」と言う者があり、弟子達がその言葉どおりにすると、舟に引き上げられないほど大漁に魚が取れ、その時、弟子達はその者が主だと気付いた。
主は陸に上がろうとする弟子達のために、炭火をおこし、その上に魚とパンをのせて用意されていた。
イエスはパンを取って弟子達に与え、魚も同じようにされた。
「私がイエスだ」「魚を取るのではなく人間を取る漁師になれ」と、言葉で言えば話が早いのに、そうはせず、偉大なご性質を静かに示し、早朝のささやかな食卓を整え、優しいく繊細なご性質を示された。

ペテロは、主を知らないと3度言った手前、心にわだかまりがあったままであったが、主はそれを面と向かって責める事はなさらず「わたしを"完全に愛し尽して"(アガパオー)いるか?」と聞かれた。
ペテロは自分の愛がいかに危うく、いいかげんであるか嫌というほど知っていたため
「私があなたを親っている事をあなたは知っています」と答えるしか無かった。
主は同じ事を2度言われ、ペテロも同じ答えを2度したが、3度目に主は「わたしを親っているか?」と、ペテロの不完全な愛のレベルに降りて来られた。
主は3度目にそのように聞いて来られたので、彼の思いやり、彼の愛の深さにいたたまれなくなり、ただ「あなたは何もかもご存知です」と答えるしか無かった。

私達に出来る事は、私達の弱さ、愛の無さを、ただ主に知って頂く事だけである。
主は、私達が完全な愛を持っていない事は知っていて下さり、いつでも満たして余らせる事が出来る事を無言で示され、弱さに泣く私達を繊細な愛で溶かし、満たした上で、働きのために送り出して下さるのだ。

全てを満たして余らせて下さる主から、愛と慰めをいただき、潤され、愛で溢れ、その溢れた愛を持って世の中に出て行き、主の愛を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝音声:満たし余らせる主(マルコ6:30-44)
週報/メッセージ(説教)概要

主は、より頼む者の必要を満たし、たとえ艱難の時代にあっても助けてくださる。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
この約束を私達のものとするため、御言葉を忍耐して守り、イエス様の名を「知っている」と言うべきである。
以上が主から最近重ねて示されているテーマだが、今日はその裏づけとして、わずか5つのパンと2匹の魚で5千人以上を満たした主の奇跡を見てみたい。

弟子達が伝道旅行から帰ってきて、食事する暇も無いほど働き通しだった状況である。
イエス様が「人里離れた所へ行ってしばらく休む」よう指示し、弟子達は船に乗って人里離れた所へ行ったところ、なんと、大勢の群集が徒歩で既に先回りし、湖の向こう側のその場所へ行っていた。
男だけで5千人ほどである。当時は女子供は人数に数えなかったから、1万人以上いたのではなかろうか。
それほどの群集が人里離れた場所に、弁当の用意も忘れて行くのである。主の魅力はどれほどであろう。

イエス様は、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教えられ、霊的なパンをまず満たした。
日も傾き、弟子達も早く休みたいと思っていた所だったので、人々を解散させて各々で宿なり食事なり探させるよう主に頼むものの、主はなんと「あなたがたが準備しなさい」と、無理を言われる。

尚、ヨハネ福音書6:5-9によると、「ピリポを試みた」とあり、ピリポは現実的に必要な分を計算した。
1デナリを1万円に換算するなら、200デナリは200万円、そこにいるのが1万人だとするなら、一人頭200円、パン菓子2つ分。それでも「足りない」と彼は結論する。
アンデレは群集の中を探していて、少年が持っていたのを見つけたが「何の役にも立たない」と結論する。
考えを絞っても自分達の持ち物ではとうてい足り無いという場面こそ、イエス様の出番である。
私達は何も出来ない、足りないという事を認め、それをイエス様の所に持っていくなら、主は働かれる。
イエス様はそのような無い無いづくしの状況なのに群集を座らせ、食事の体制をするようにし、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
するとそこにいた群集全員を満たしたばかりでなく、働き人の分も十分に満たすほど、満たされたのである。
少年は「5千人」の中にカウントすらされていなかったし、そのささやかな食料は、人からは見向きもされないようなわずかなものだったかもしれないが、その捧げ物を、主は大いに用いてくださった。
たとえ自分自身がどんなにつまらなく、小さい者であったとしても、イエス様に一旦捧げ、イエス様が祝福して下さったものは、大勢の人々を満足させ、働き人の分まで籠いっぱいにするのである。

働き人は、イエス様が祝福しその手で裂いたパンを携えて、人々の中に出て行くべきである。
そのパンは、物質的なものかもしれないし、物質のものでなく霊的なものかもしれない。
それらは見た目少なく、足りなく、どうしようも無いように見えるかもしれない。
「この期に及んでまだ働かなければならないのか」と言いたい状況かもしれないし、持っている物はとても足りない、無理と思えるかもしれない。
しかし、私達はただ主から渡されたものを届けるだけで良く、後を祝福して下さるのは主である。

人はどうしても、霊を満たすパンよりも、体や生活を満たすパンのほうを心配するものである。
注意すべきはファリサイ派とヘロデのパン種(マルコ8:14-21,マタイ16:5-12)、すなわち、人間の教えによるやりくりや、世に対する妥協であり、私達はこれらよりも御言葉を優先させるべきである。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)この主の言葉を信頼する時、全ては「加えて」与えられるのである。
全てを満たして余らせて下さる主から全てをいただき、満たされ、溢れさせ、その溢れた分で周囲をも満たす皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest