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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

第一礼拝(日本語)礼拝音声:救いは何処に?(詩篇18篇):右クリックで保存
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今回の地震によって、世の人は色々な準備をしている。
CNNmoney.comによると、doomsday(最後の審判の日、この世の終わり)に備えるための地下シェルターを売っている米国企業の売上高が、20%から1,000%にまで伸びたという。
20万ドルから2千万ドルもする地下シェルターを買える者は買いあさり、買えない者は安全と思われている所に逃げ、逃れるつてもお金も無い者は、命を長らえるために物を買い込んで備えている。
あるいはこの終末的状況から目を逸らし、自らの欲にますます耽る者、絶望して何もしない者もいる。

大地が揺るがされ大水が襲い、害為す物質が撒かれた時、各人が最も拠り所とする対象が明らかになり、信仰が試された。
世の人はシェルターを買おう、飛行機に乗って逃げよう、水や食料を買い置いておこう、など、自らの富や知恵、力によって自分を救おうとしているが、結局何に頼ればいのちを伸ばせるのか、誰も知る由が無い。
人間には生まれる予定日はあっても、死ぬ予定日は誰も知る者はいない。
死ぬ時は皆死ぬ。それは、命の日数は、主が数えておられるから。
そして信じても信じなくても、地獄と天国はあり、どちらに行くかは、生きている時の選択にかかっている。

「主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇18:3)
主こそ私達の助けであり、この世から来る世まで通じて、唯一安心して頼れるお方である。
人生の大川を越える時も揺るがされることは無く、いのちに溢れ、敵の前でさえ宴会を設けて下さる。

「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
これは、何もせず静かにしていよ、という事ではなく、「立ち帰って」という所が重要である。
立ち返るとは、自分の考え、自分の業でやってきた方向性を180度転換し、神様の業、神様の御心に委ねる方向転換であり、そうして静かに信頼するなら力を得るのだ。

「「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」(イザヤ30:16)
地下シェルターを買い飛行機で逃げても、主に計り与えられた命の日は、延ばす事も縮める事も出来ない。
しかし少なくとも、主に信頼する者は、世の何者も提供できない、人知を超えた神の平安が、心と考えとをキリスト・イエスによって守られる。(ピリピ4:7)

「一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、五人の威嚇によってお前たちは逃れる。」 (イザヤ30:17)
中国浙江慈渓市の男性は、日本からの放射能を恐れるあまり、ヨウ素入りの塩を食べ過ぎて亡くなられた。
主に信頼せず、恐れに捕らわれ右往左往するなら、たとい安全な地にいたとしても、死の危険にあるのだ。

今の時代、真偽の入り混じった様々な情報が飛び交い、何を信じれば良いのか分からないし、どの情報が正しくどの情報が違うと判断する能力は、我々には無いかもしれない。
しかし世の終わりにはそのようになる事が、予め主によって示されており、主が真っ先に気をつけるべき事として言われたのは「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:3-4)である。
何が最善であるかを知っておられるお方はイエスであり、決して変わる事の無い真理が、御言葉である。

世の終わりまで守られる者とは、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。
この時代、主の御言葉をよくよく注意して留まり、全世界にきているこの試練の時、守られる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:真の隣人(ルカ10:25-37)
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「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」(ルカ10:30)

この度、日本列島は、非常に強悪な追いはぎに襲われた。
ある者はこの災いを見て、聖書のあの箇所の成就だ、終末が近づいた、と、短絡的に聖書や神様の話をしたり、この国が普段から悪い事している罰だ、安全管理をきちんとしていないからこんな事になった等、あれこれ言うだけで何の助けもせず、放射能の穢れを受けたくないからと、安全な所へ逃げてしまう。。。
祭司やレビ人は律法を体現する者達で、穢れを受けてしまうと務めができない為、相当穢れには敏感であるが、律法は「善か悪か、聖か罪か」の区別を示すだけで、いのちを与える事はできない。
故に彼らは罪人や傷を負った者に、あれこれ言ったり分析はしても、実際的には何の助けも出来ないのだ。

律法の専門家は、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐ事ができるでしょうか」と主イエス様に問うた。
永遠のいのちを受け継ぐには、全てを尽くして神である主を愛する事、そして隣人を愛する事である。(27)
彼は再びイエスに問うた。「では、隣人とは、一体誰か??」

「あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の想いに駆られた。」(33節)
この、断腸の思いに駆られて実際の助けをしたサマリアの旅人だけが、追いはぎに襲われた者の隣人となった。サマリヤの旅人が隣人である事は分かったが、彼は具体的にどのような者か。
彼はまず、オリーブ油(聖霊)と葡萄酒(イエスの血)を、彼の傷に注いだ。
その傷に包帯(裸を覆う毛皮)を施してやり、また彼を自分の家畜(ろば:イエスの乗り物)に乗せて、宿屋(安全な場所:教会)に連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、デナリオン(贖いの代価)2枚を取り出して宿屋の主人に渡し、介抱に必要な費用を払い(教会への必要の満たし)、出費がかさんだらさらに支払う約束までしてくれた。
このやり方、このご性質、見覚えはないだろうか? 明らかに、私達の主イエス様である!
永遠の命を得るには、全てを尽くして神を愛する事、そして、この真の隣人なるイエス様を愛する事である。

なぜ主イエス様は、罪に穢れ見下されている民「サマリヤ人」として来られたのか?
私達は例えサマリヤ人のように罪穢れ見下されていても、イエス様のご性質を帯びる事ができるという事だ。
まことの隣人・イエス様に「隣人としてのもてなし」をして頂いた者は、心から彼を愛し、彼を愛した者はサマリヤ人のようにイエス様のご性質を帯び、心から隣人を愛する事が出来るようになるのである。
そうなると、祭司やレビ人のように避けて通って行きたい気持ちをいちいち押し殺したり、雀の涙ほどの愛をいちいち振り絞らなくとも、追いはぎに襲われて身動き出来ない者を見てしまえば、主イエス様のように腸のちぎれる思いとなって、穢れも厭わず駆け出してしまうのである。

地震という追いはぎによって親兄弟、財産、ふるさとまで奪われ、傷を負ってしまった全ての日本人の、真の隣人となれるのは、主イエスだけであり、彼のみが追いはぎの親分「サタン」に勝利したお方である。
私達はそのままでは、隣人になる事は出来ず、祭司やレビ人のようにあれこれ言うだけである。
しかしイエス様に聖霊と血によって傷を洗われ、罪が覆われ、主の乗り物に乗せられ、教会で介抱され、贖いの代金を支払われるなら、私達も真に傷ついた者の隣人となる事が出来るようになる。
そして信じて主の権威を帯びた者は、へびをつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という保障がある。(マルコ16:18)そうして真に日本のために、良い働きができるのである。

イエス様にあって整えられ、地震という追いはぎに遭った人の隣人となり、主イエス様を日本の至る所で表現する皆さんでありますように。
まことの隣人・イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:日本のプリム祭となるように(エステル記、1テモテ2:1-8)

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今年は本日3/20がプリムの日、すなわちユダヤ民族が滅亡の危機から開放されたお祝いの日である。

エステルは捕囚先ペルシヤに住む、姿形の美しい従順な女性であり、ペルシャ王アハシュエロスに従順でなかったかつての王妃ワシュティに代わって王妃となった。(エステル2:17)
ある日、ユダヤ人に絶滅の危機が訪れる。
エステルのいとこモルデカイが、ハマンにひざまずかなかったため彼の怒りを買い、モルデカイだけでは飽き足らずユダヤ民族全員をも滅ぼそうという企てに王の印が押され、法として定められてしまった。
そのユダヤ人が殺されるべく日はハマンが「プル」と呼ばれるくじによって決め、その日がプリムの日である。
モルデカイが頑固なまでにハマンにひざまずかなかったのは、ハマンがキシュの子サウルの敵であったアマレク人の王アガグの子孫であったから、と思われている。
しかし結果、思いもよらない悪い事態に発展してしまい、ユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。

モルデカイは同胞達にリンチされてもおかしくない状況である。
ユダヤ人達は、言ってみれば自分を危機に陥れたようなモルデカイを糾弾する事はせず、また、高貴で安全な立場にいる王妃エステルの提案を怒って蹴る事もせず、ただモルデカイの提案に従い、3日間の断食をする事にした。
神はユダヤ人たちの祈りを聞いてくださり、その日はユダヤ人にとっての滅びの日とはならず、逆に彼らの敵を滅ぼす日となり、彼らにとって誉高き日となり、プリム祭の起源となった次第である。

ここではエステルやモルデカイにスポットライトが当たりがちだが、怒ったりせず清い手を挙げて祈ったユダヤ人一人一人こそ重要であり、祈りに応えた神こそが主人公である。
それと同様、今日本において救援活動している特定の働き人だけが重要なのではなく、聖徒達一人一人が手を挙げて祈って神に求める事も重要である。

今、日本のメディアでは様々な怒号が飛び交い、国中の論客達は、やれトップ対処が間違っていた、何であの時ああしなかったのか等と叫んでいる。
そんな中で聖徒達が為すべきは、1テモテ2:1-8に集約される。
1節「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげ、王たちやすべての高官のためにもささげ」るなら、平和で尊厳に満ちた、品位ある生活が御言葉によって約束されている。
クリスチャンの中においても、社会情勢や上に立てられた権威に否定的意見があるが、それこそ善悪判断の路線であり、いのちから遠ざかる路線である。
復旧活動に当たっている働き人達の献身的・命がけの働きのお陰で、現在、状況は良くなりつつある。
このユダヤにおけるプリムの日も、日本におけるプリムの日として祝えるよう、私達も祈りたい。

今、実際的な助けを必要としている人達に、一刻も早く助けが備えられるように。
上に立てられている権威に良き知恵が与えられ、正しい判断によって混乱なく指示を出しますように。
今、被災地で救助活動しておられる働き人達の手が守られ、滞りなく進められますように。
分子の陽子・電子・中性子に至るまで、全宇宙の運行を全て支配し管理しておられる主・イエスの名によって、原発や地下プレートが、この国の人々に害する事を禁じます。
今、人を脅かしているあらゆる自然の活動に対し、地の深みから山々の頂に至る全地を統べ治めておられる主イエスの名によって、これ以上この国に害を及ぼす事を、禁じます。
人々を害為そうとしている邪悪な人的・霊的な存在には、自ら掘った墓穴に入るよう呪います。

陽子・電子・中性子から全宇宙の運行に至るまで、全て支配し管理しておられる、主イエスの名によって、日本を祝福します。アーメン。

第1礼拝音声(林パスター):執り成す者(創世記18:16-38):右クリックで保存

第1礼拝メッセージ概要

ソドムとゴモラの町は実に暴虐に満ち、多くの人達の叫びが天に届いていた。
そのため神の使い達は、実際にその通りか確認した上で滅ぼすつもりでいたが、その事を「アブラハムに隠す必要があろうか」と言って、ご自身が為そうとしておられる事をアブラハムに隠さず打ち明けた。
アブラハムは御使い達を相手に、ソドムとゴモラに執り成し、6度も交渉し、例え10人しか救われるべき義人がいないとしても、町を滅ぼされない事を約束させるに漕ぎ着けた。

日本もバブルが弾けて以来、特に若者達の叫び声が天に上がっている。
先般起きた地震という災害は、確かにこの国に対する警告の意味もあるだろう。
しかし私達聖徒達は、この状況をただ指を咥えている訳にはいかないし、「災いだ、罰だ、終末だ」とニュースキャスター的に叫ぶだけではならない。
皆一人一人がアブラハムのように、神の祭司として、聖なる国民として、神に、この国の悲惨な状況を、取り成しを訴えるべきである。
私達の主は「人間どもは汚らわしい。だからから滅ぼせ」という短絡的な神ではなく、聖徒達にまず聞き、その上で聖徒達の執り成す祈りに耳を傾けて下さるお方である。

アブラハムの訴えにもかかわらず、その町で唯一善良だったロトの家族だけが、滅びから免れるよう御使いの手引きで導かれたが、それ以外の人達は、実に邪悪だったため、結局滅ぼされる事となってしまった。

それでもアブラハムは最初、恐る恐る50人を訴え、そ次に45人、40人、、、最後に10人となるまで交渉し、神様は取り成しに応えて下さった。
神様は、そいうお方である!

今、東北地方が大変な状況である。
この時、寒くひもじい、恐怖の中で救出を待っている人のために、余震が続き2次災害や被爆の恐れのある中、救出作業に従事している方のために、一人でも多くがいのちが救われるように祈るべきである。
友人知人がいるならなおさら、そうでなくても、そこにいる人達のために取り成し祈りたい。
 

第2礼拝音声(鄭牧師):勝利をさせて下さる神様(イザヤ3:1-8):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:

第一礼拝(日本語): 御言葉はそのままに(黙示録22:18,19):右クリックで保存

第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージ:右クリックで保存

週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

9x9は、81である。
九九は算数の基本中の基本で、小学2年で学び、その時は訳も分からず覚え込ませられるが、大学に行っても、社会に出ても、計算の際には必ず必要になってくる。
当然のごとく、誰も9x9を20とは主張しないし、81以外の例外を証明できた者はいない。
算数や数学の答えは単純明快、世界共通であり、私情を挟む余地が無いものである。

主イエスは、算数という「ことば」を創られたお方であり、主の御言葉の一点一画が落ちるよりは、算数や物理法則を含めた全宇宙の理(ことわり)が滅びる方が、はるかにたやすい。(ルカ16:17)
にもかかわらず、人は御言葉において、「私の9x9は11だ」とか「今日の気分は9x9=1だ」とか、「みんな一人一人、個性的な解釈があって良いんじゃないか」といったような事を、なぜか仕出かす。
9円の商品が9個欲しいなら、きっちり81円出さなくては、お店の人は商品を出さないし、「私の9x9は11だ」と主張しても、商品はもらえない。
それと同様、人の救いの贖い代は値高く、きっちり支払えるのは御子イエスのみである。(詩篇49)

聖書は算数よりも確かな法則で、「こうすればこうなる」の宝庫であり、蓄えれば蓄えるほど生きる上で必要な知恵に満たされ、信じれば信じるほど豊かになる。
収穫物の初物を捧げれば、主はきっちりと、倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる(箴言3:9,10)し、イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる(使徒16:31)と書いてある。
倉が満たされないのは、主に捧げていないからであり、あなたもあなたの家族も救われないのは、肝心の「イエスを信じる」事をおろそかにしているからではなかろうか。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)
御言葉は人を照らす光であり、人がどのような状態であるかを明るみに出す。

人は体重計に乗って、指し示す数字を見て「ひどい」と言う事は出来ない。
その目盛りが重すぎるのならダイエットすべきであり、それが軽すぎるなら、きちんと栄養を取るべきである。
「体重計は私の心を傷つけてばかりいるから、体重計の方が間違っている。」とか、「体重計が今100を示しているけれど、実はこれこれの意味があって、その場合は50と解釈すれば良いのだ」などと余計な解釈を付け足したりしていたら、いつまでも不健康のままである。
人は、そのような解釈による付け足しを、御言葉において、なぜか仕出かす。

御言葉が人を量る時、人の罪の本性を指し示す。それを希釈してはならないし、付け足してもならない。
罪から救い出せるお方はイエスキリストお一人であり、例え罪が緋のように赤くとも雪のように白くされる。
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18,19)
エバはサタンにそそのかされた時、善悪の実に「触れてもいけない」と、御言葉に勝手な解釈を付け加えたが、それはパリサイ派の種であり、偽りへ踏み出す第一歩である。
御言葉に対しての正しい対処は、御言葉は足し引きせず、そのままいただく事である。
御言葉は一人一人に対する愛の込められた手紙であり、信仰をもってそのままいただくなら、キリストの香りが春の花の香りのように心と霊、体に充満し、愛と嬉しさによって満たされるのである。

もっとも強力な祈りは、御言葉をそのまま祈る祈りであり、難しい事は考えずいつでもどこでもシンプルに
「イエスよ助けて下さい」と祈るなら、イエス(イエシュア=「神は救い」)は救いを与えて下さる。
御言葉ご自身であるキリストを豊かに住まわせる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:言葉の種類と力(ヨハネ1:1−14):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要

人は言葉という種を入れる袋のようなもので、どの言葉によって満たすかで人格が決まり、どの種を自分の人生や環境に対して蒔くかによって、どんな実を刈り取るかが決まる。
神は言葉であり、世は言葉によって成り立ったと書かれてある程重要なのに、人はあまりに意識していない。
言葉の大切さを示すためにキリストは肉体という幕屋を張って、直接地上に来られたが、人はその大切な言葉を受け入れなかった程、思いが眩まされていた。(ヨハネ1章)
今日は、その眩まされている原因を突き止め、目のうろこを取って行きたい。

言葉には、3つの種類がある。
すなわち人間から出てくる「人の言葉」、サタンから出てくる「世の言葉」、そして神から出てくる「御言葉」。

「人の言葉」は生まれながらの人間から来る言葉で、喜怒哀楽があり、相手が好きであれば良い感情を込め、嫌いであれば嫌な感情を込めてぶつけるが、保障が無く、永遠の視点から見れば何も生み出さない。
イエス様の代表的な弟子であるヨハネの子シモンは、イエス様に死ぬまでご一緒すると力を込めて言ったが、それを言った夜が明けない内に3度、力を込めてイエスを知らないと言った。
後に「あなたは私を愛しますか」と3度聞かれた時、自分には完全な愛は無いと告白するしか無かった。
人の言葉には保障は無く、永遠の視点から見れば何も生み出さないのである。

「世の言葉」とは何であろうか。それは世代に流行っている風潮、時代の空気から流れてくるぼんやりとしたイメージであり、それは空中の権力を持つ支配者(エペソ2:2)すなわち、サタンから由来する。
この言葉には力があり、不安や絶望といったサタンの悪しき思いが込められている。
人の心がそれに付着すると、いのちから遠ざけられ、死、滅びへと導かれる。
「世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは御父から出ないで世から出るからです。」(1ヨハネ2:16)
その仕向けてくる言葉は、目にはカッコ良く、情欲をそそり、より良く安定した生活へと向かうかのように惹き付けるが、その実、いのちからより遠く遠く離れさせようとして欺く。
マイケル・ジャクソンはそれらを収めたかのように見えたが、逆にそれらに支配され、縛られ、犠牲となった。
クールでワルでセクシーな「良さ」は、本来のいのちから離れた所にあり、追求し過ぎると破滅をもたらす。

愛する妻子を、都心の高層のマンションに住ませ、無菌パックに入った食物や、最先端のデバイスを与え、恥ずかしくないブランドを身につけさせるために、夫婦揃って残業漬けになる生活は、健康的だろうか。
子供や妻に、モノしか与えていなければ、時間が経てば「何もしてくれなかった」という思いしか残らないが、信頼や希望、愛情はいつまでも残り、その思い出は時が経てば経つほど麗しくなっていくものである。

唯一有益な言葉が、「神の言葉」である。
それは一見、魅力的には写らず、地味で、忍耐が必要な事もあるが、力と保障があり、ふんだんに愛が込められ、そこに留まればいのちを豊かに生み出し、無から有を生み出す。
時には痛い事もあるが、その痛みは滅びに至るものではなく、余計な所に力を使わせないためであり、後にはいのちと有益をもたらす。(ヨハネ15章)
雨が降ると必ず地を潤し、実を結ばせ、空しく戻らないように、信仰を持って聞くと必ず良い実を結ばせる。
神様の言葉は、元来備わっているいのちが成長し、元来持っている美しさが豊かになって行く。

神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声 言葉の力と用い方(創世記3章) :右クリックで保存

※ 途中の写真は、音声メッセージ中に話題に上った、ナゾの液体です。

神様ははじめに、天と地すべてをことば(ロゴス)によって生じさせた。(ヨハネ1:1)
世に向かってことばを投げ、光や陸地、生き物など、色々なものを生え出でさせた。
神のことばは種、世の全ては畑のようなもので、神はあらゆる良い言葉を蒔き、世は良き実を結ばせて来た。

言葉には力がある
言葉は唇から出る音声や文字に限らず、音楽でも、人の動作でも、物の配列でも、立派な言葉である。
私達の周りは、環境も、人間関係も、人生経験も、全て言葉によって成り立っていると言って過言ではない。
良い人、良い物でも、言葉によって印象が大いに汚らわしく歪曲されうるし、悪い人、悪い物でも、言葉によって印象が大いに清らかに歪曲されうる。
中睦まじい恋人であっても、何か一つの言動によって生理的嫌悪を覚え二度と見たくない程になるのは大いにあり得るし、ある人が意図を持って石ころを並べ、それを見た別の人が感動し涙する事も在りうる。

ことばの恐いところ−エデンの園における失敗
エバは食べてはならぬと命じられていたものを食べてしまい、人類に罪と死を招いてしまった。
なぜ食べたら必ず死ぬと言われていた木の実を、取って食べてしまったのか。
それはエバが、サタンの意図を持った言葉に聞き入り、元々エバの内に宿っていた主のことばが掻き乱され、その結果、自分の中に新しく生じてた「異質のいのち」の衝動に突き動かされてしまったからである。
「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(2コリント11:3)

悪しき言葉に勝つには
この戦いは、能力の問題ではなく、誰のことばを信仰に混ぜ込み、何を思い巡らすか、という問題である。
私達の戦いは血肉のものではなく、御言葉の剣によって、闇の世界の支配者や、天にいる悪の諸霊を相手にするのである。(エペソ6:12)
主はサタンの誘惑を、全て御言葉で撥ねつけた。
そのように、エバもサタンの言葉が来た時、単に御言葉(ロゴス)をそのまま語れば良かったのだ。
そのためには「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉の剣で撥ねつけるタイミングはいつか?それはサタンの言葉が来た、その時である。
エバのようにサタンの言葉を思い巡らしたりして「異質のいのち」という苦い根を生じさせてはならない。
私達という種袋の中を満たすべきは、御言葉であり、いつでも御言葉を取り出して振り蒔くべきである。

言葉の用い方
「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコブ3:6)
私達は語る唇に、よくよく気をつけなければならない。誰かの噂や悪口を言いふらす事は、偽りの印象を振り蒔き、滅びの実に栄養を与える事である。
「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。」(箴言10:19)
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声 御心とは(ヨハネ6:26-35) :右クリックで保存

受験や就職、結婚など、人生の節目節目でクリスチャンは御心を仰ぐ。
今、自分が最も気になっているこの事は、はたして成功するだろうか失敗するだろうか、あの道を進むべきか、それともこの道にするべきか、一体何が御心なのだろうか、と。
一体、御心とは何だろうか。

目先の事について、何が御心であるのか分からない時は、何であれ、ベストを尽すべきである。
例えパンを川に流すような事であっても後に見出すかもしれないし、風向きを気にすれば種は蒔けない。
「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト(伝道者)11:1-6)
御心を探るとは、口を開けてじっと木の下で待っている事ではなく、積極的に求め行動するべきものである。

主が求める御心については、御言葉に明快に書いてある。
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(1テサロニケ4:3)
「聖なる者となる」とはἁγιασμός(ハギーアスモス)、清める、不純物を除く、という意味がある。

また、主イエス様が5千人以上にパンを与える奇跡を行った後、イエスを追いかけて来た群集が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いた時、彼は答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29,30)

また主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39,40)と言われた。
人が「神の業を行うにはどうすれば良いか」と聞く時はきっと、大いなる事、難しそうな事を考えるかもしれないが、答えは実にシンプルで、「神がお遣わしになった者を信じること」である。

以上の事から、主の御心とは「私達が聖なる者となる事」で、そのためには、「神がお遣わしになった者を信じること」、その結果、信じる者が皆永遠の命を得、終りの日に復活する事が、御心である。
そういうわけで、人生の節目節目において進路を仰ぐ際、どちらがより聖なる者となれる道か、どちらがより清められる道か、どちらがより不純物を除かれる道か、どちらが主の栄光となり、人がよりいのちを得る道であるか、という基準で見れば、御心に添った道が見えてくる。

しかし神様抜きで生きてきた人は、御心の道が示されると、その道は損をするような気がするものである。
聖なる道や清い道、不純物がより除かれる道というのは分かるのだけれど、イコール、損したり貧乏になったり、不名誉になったりすると思うもので、だから、自分で考え出した道を神様に示し「この通り進ませて下さい」という祈りをしては、答えられずに失敗を繰り返すクリスチャンは多い。
主に委ね切れず、自分が時折茶々を入れるような、中途半端なクリスチャンは、苦労が尽きないものである。

御心どおり行っていれば、実は良い事づくしなのだ。我々は、損な人生から脱出するべきである。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-13)

しかし主の御言葉は、天からの雨が必ず地を潤して物を生えさせ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えるように、決して空振りする事は無く、私達は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

例えパンを水の上に投げるような事であっても、後の日にそれを見出す。
(コヘレト11.1)

私達には何が最善か分からないが、全てをご存知であるお方に、委ねていれば良い。(詩篇139:2-18)

私達が座るのも立つのも知り、遠くから私達の計らいを悟っておられ、暗闇に隠れた所も、私達が胎児であった時さえも、見つめておられた主に、一切を明け渡して、ラクになる皆さんでありますように!

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礼拝説教メッセージ音声 安息に入るには(ルカ14:1-6) :右クリックで保存

ファリサイ派の人達が見ていた事(ルカ14:1-6)
ある安息日、イエス様がファリサイ派の家に入った時、人々は彼をじっと見ていた(ルカ14:1)
彼らは、そこにいる水腫を患っている人を癒すか、癒さないかを注視し、病人さえイエス様を訴えるネタとして用いようとし、その病人に対する憐れみの心は、全くなかった。
パリサイ人たちは、働いてはならないという事に固執し、歩くのは何歩以上は良く何歩以上はダメ、といった細かい決まり事を制定し、いのちを救う、救わないではなく「する」「しない」を強烈にこだわっている。

そこで、安息日の主であるイエス様は言われる。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか?命を救うことか、殺すことか?」(マルコ3:4)
主が求めるのは、あわれみであっていけにえではないし、善悪の行いではなく、いのちを救う事である。

安息日とは?
安息日の制定は、十戒の第4戒においてである。(出エジプト20:8−11)
主が真っ先に言われているのは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」である。
つまり、主の創造の仕事が完成した事を祝い、その時の主の満足を満足し、主の安息を共に安息するべきであって、「働かない」「動かない」といった2次的な事に心奪われるのは、本末転倒である。
創造のみわざが完成した次第は、創世記2:1−3 に書かれてある。
ご自分の仕事が終り、全ての創造のみわざが完成し、休まれた日が、安息日である。
私達も、仕事が終わった後は、休んで安息し、あれやこれやと仕事をする事はしない。

完成された被造物を壊すもの
ところが、完全だった創造の御技はサタンによって破壊され、アダムの過ちにより罪と死が入ってしまった。
完全な美しい調和が保たれていた世界は混沌となってしまったのは、神様以外の者が介入したからだ。
安息日とはああだこうだ、御言葉とはああだこうだ、と言って、御技も御言葉もさも不完全であるかのような、さも自分達が主の御言葉を完成させるかのような振る舞いは、創造のみわざを壊す事である。

壊された被造物を贖う主
水腫の人は、その病によって、本来あるべきはずの完全さが破壊され、長らく安息できなかった。
ファリサイ人のネタにされている事に甘んじ、何も言わず、ただ主の御前に出て行った。
そんな彼に、主は御技をなす事によって、彼がそれまで心底欲していた安息が復活させられたのである。
病によって破壊された体は癒されなくてはならなず、不完全な状態は完全にされなくてはならない。
破壊された状態から回復するには、どうすれば良いのか。
「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒3:16)
完全な状態に復帰されるには、安息日のマスターである主、イエス様を信じ、御前に出て行く事である。

信仰によって安息に入る
創造のみわざは完成されたが、サタンによって、人の罪にって台無しにされてしまった。
それを主イエスが十字架の死によって罪を罰し、死から蘇った事によって、死と病と貧しさに勝利し、彼を信じる信仰によって、台無しの状態から完全な状態へと復活し、そして安息できる。それが福音である。
安息日の休みは、神の民に残されている。なぜなら、神の安息にあずかった者は、自分のわざを終え休み、神の用意された安息に入るからである。(ヘブル4:9、10)
この神様の安息への招待状を、信仰によって受け取り、みわざの完成にただ入る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

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