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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会(ルカ14:15-24)
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神の国の宴会に与る者は、どういう者か。イエス様は、ある主人の開く盛大な宴会のたとえ話をされた。
宴会が始まる時、招待しておいた客はことごとく何かしら理由をつけて断り(ルカ14:15-24)、主人は怒って、招待したけれど来ない人達は為すがままにさせておき、僕に命じて、町の広場や路地へ行って貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を家に連れて来させた。
神の国の宴会に与かれる者は、招かれた者ではなく、呼びかけに単純に応じて、宴会場に来る者である。

このたとえの宴会とは、義人の復活の時に行われる神の大宴会(イザヤ25:6-12)の事で、主は、空席が埋まるまでは誰彼関係なく無理にでも連れて来て、宴会場をいっぱいにするよう命じている。(ルカ14:23)
その宴会はどんな人にも広くオープンに開かれていて、主人の僕は誰でも参加するよう無理やりにでも呼びかけるし、どうやら無料で参加できるというのに、なぜか、断る者がいる。
宴会に招かれた人は、なぜ断るのか。それは、宴会を招いた主人より、自分の用事のほうが大事だからだ。

最初に断った者の口実は、畑を買ったので見に行く、だから宴会には参加出来ない、というものだ。
畑は生活の食を得る場所で仕事に相当するが、主を祝うべき日に仕事を優先させるなら実入りは少ない。
別の者が宴会を断った口実は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行く、というものだ。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
牛は、トラクターやパソコンのように業務効率化の道具にあたり、仕事の上でそうした投資は当然必要だ。
しかし、神の宴会を後回しにして収穫を多くしようとするのなら、結局は労多くして益少なくなってしまう。

アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた者ではなく、主日にしっかり安息して礼拝したクリスチャンだった。
主日に礼拝時間を惜しんで働いた者達はことごとく失敗し、ある者は馬がつぶれ、ある者は病気になり、休む間も無く積み上げた財産は、結局クリスチャンが受け継ぐ事となった。
「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。」(イザヤ58:13)

3番目に断った者の口実は、結婚したので宴会に参加出来ない、というものである。
妻や夫を喜ばせるのは良い事だが、神の国より妻や夫を優先させるのは、アダムとエバ同様の失敗をする。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17)
神よりも妻や夫を優先するのは、額に汗し苦しんで働かねばならない呪いの元凶であると覚えて置きたい。

このように、あらかじめ招かれていたのに来ない人々は、宴会で食卓を味わう事は出来なくなってしまう。
大宴会への参加に最も邪魔になるのが、人間のそそり立つ要塞、すなわち、神よりも自分を主とする高慢だが、宴会の日に「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ25:12)

だから私達は、神の僕から宴会の誘いを頂いた時、何にも優先して、それに参加すべきだ。
そして私達も神の僕となり、至る所に出て行き、天の宴会の空席が埋まるまで、誰彼かまわず宴会の誘い、すなわち、イエスキリストに繋がる招きをするのである。

人の祭りから離れて自分のわざを休め、神の大宴会に参加して安息し、仕事や資産、結婚が何倍にも豊かに祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:何にも勝る主へのいけにえ(1サムエル15章)
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天声教会では、人の祭りは終わりにし、純粋な主の祭りが行われるように、と日々祈り整えている。
今回、サウル王の失敗(1サムエル15章)から、人が犯しやすい間違いと、主は何を第一に求めておられるのかを見て行きたい。

アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ(1サムエル15:3)という命令は、とても厳しいように見えるが、主は最善を知り、未来をも見通されるお方である。
アマレク人を生かすか生かさないかは、将来のイスラエル存亡に関わる重要問題だったため、主はその命令を与えられたのだが、サウルと彼の民はそれに従わず、王アガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで聖絶するのを好まず、ただつまらない値打ちのないものだけを聖絶した。(15:9)
良い物まで滅ぼすのは惜しい、主は厳しすぎる、少しは取って置いてもいいのでは、と言って、最善なる主の言葉に自分の思いを混ぜてしまうと、最善は最悪に取って替わり、災いが起こる。
事実、その事が災いとなり、アマレク人は、後にダビデと部下達全ての財産と妻を奪い、サウル王にとどめを刺し、ずっと後のエステルの時代には、アガグの子孫ハマンがイスラエル民族を皆殺しにしそうになった。
主の命令は時に厳しく見えたり、人の目に違うように見える事もあるが、サウルのように自分の判断を優先させると、後にその判断が仇となって滅びを招き、主が正しいお方だったと後悔しながら思い知るのである。

サウルは主のあわれみによって勝利したにもかかわらず、さっさと自分の記念碑を立て(12節)、自分の手柄にしたが、悪い結果は人のせいにする性質がある。(21節)
それはアダムと同じ性質で、罪を認めなかったり責任転換するなら、主との正常な関わりは持てない。
『サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」』(15:13)
一見キレイな言葉だが、主の言葉を守っていないのに守りましたと言い、主の悲しみがあるのに主の祝福がありますように、と言って、偽りのキレイな飾り言葉を多くする所に、主の嫌われる罪が潜んでいる。

サウルは、主への供え物にするために最上の物を取って置いた、と言っているが、本当にそうだろうか?
『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』(15:22,23)
もし彼が本当に主を愛していたなら、主が言われた通り、最も良い物は、真っ先に滅ぼしたはずである。
主を礼拝するとは、自分にとって最も大切な物、最も良い物を捧げてでも、御言葉に従う事である。
アブラハムは主の命令通り、ひとり子イサクをささげようとしたため大いなる祝福を勝ち取ったし、アベルは羊の最良のものを神にささげたため、その捧げ物に目を留められた。
私達の最も大切な物を明け渡して礼拝する時、主は満足され、捧げた物の何倍にも勝る祝福を得るのだ。

『サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」』(15:30)
彼は王国が自分から取り上げられたと宣告され、その事の赦しを願うよりも、なんと、この期に及んで民と長老の前で面目を保つ事を願っている!ここまで来るとどうしようもなく、サムエルも彼と2度と会わなかった。
もし神に喜ばれない事を示されたなら、私達が取るべきはダビデのように正直に認める態度である。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」詩51:19
主の前に砕かれた心でいるなら、主はその者の罪を赦し、ささげ物を受け入れてくださる。

人の目を気にする以前に、また、人をどうこうして支配する以前に、真に主に喜ばれているかどうか、心を吟味し、常に「聞き従う」という、どんないけにえにも勝るいけにえを捧げ続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:栄光を捧げるべき主・十字架のイエス(ルカ23:33-43)
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「されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)
我々人間は、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、主人も奴隷も、されこうべ、即ち死へと皆向かっている。
そして我々人間は皆、神の御前で犯罪人であり、イエス様の右か左か、どちらかに行くことになっている。
十字架は人を、右と左、すなわち永遠の救いと滅びのどちらかへと切り分ける。その分かれ道は何だろう。

指導者達も、兵士達も、受刑者の一人も、共通してイエス様に「自分自身を救え」と言っている。
しかしイエス様は自分を”救えなかった”のではない。圧倒的な天の兵力を動因する権力も、自身を奇跡的に救う力もあったのに”敢えて自分を救わなかった”のが正しい言い方である。
もしイエス様が圧倒的力によって自分を苦しめる者を滅ぼしたりしていたら、救いは「圧倒的力」による事になってしまい、そして神の王国は、圧制によって支配する恐怖政治の極みとなってしまっていただろう。
そして何より、もしイエス様が十字架から降りて自分を救ったなら、人類に救いは無かったのだ。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
その時その場所で無事だったから分からないが、主のこの言葉によって、知らずにのんきに罵詈雑言を丸投げしている彼ら(我々)は執り成され、義なる神からの聖なる炎によって滅ぼされずに済んだのである。

人は思う。自分を救ってくれるのが神だ、願いを叶えてくれたら神だと認めてやるよ、と。
自分の願いを叶えてくれるのが神、自分を救うのがメシヤだと、人は当たり前のように思い込んでいるが、「主」は自分ではなくイエスとすべきであり、自分の願いではなく、神の願いの方を救うべきである。
自分を滅びから救ってくれた方を嘲り、罵り、どんちゃんさわぎする所に、滅びに向かう人の愚かさがある。
イスラエルの民は、神は牛のように俺達の役に立ってほしいと鋳型に自分の願いを嵌め金の子牛を造った。
滅びに向かう者の特徴とは、自分が正しい、イエス様が間違っている、とする事である。

それに対し、救いに向かう者の特徴は、自分が間違っている、イエス様が正しい、とする者である。
その日、唯一パラダイスに行った者を詳しく見たい。
「我々は自分のやった事の報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪い事をしていない。」
彼は、自分が今受けている苦しみは自分の罪の当然の報いであり、イエス様は悪い事は何もしなかった、と告白した。これが、イエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。
「御国の位におつきになる時には、思い出してください」(40節)
彼もイエス様も死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずである。なのに、なんと、その先の話をしている。
しかもなんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側に、「御国」があると告白している。
彼はイエス様を、生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には栄光の御国があると告白し、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これもイエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。

この告白をした者は強盗で、死刑判決を受ける程の悪人である。
教会に行ったことも無ければ、良い事をした事もあまり無く、生涯の最後の最後、死刑執行の真っ最中に告白しただけで、パラダイスに行けると約束された。
どんな生き方をして来たのか、どんな状況にあるかは全く関係無い。
パラダイスに行く者とは、自分は罪人であり、キリストが義人であると認め、キリストこそ生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には、栄光の御国があると告白し、主と個人的に関わって欲しいと進み出る者である。
そのように主に告白して、その日をパラダイスとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストの祭りと人の祭り(出エジプト20:23-25)
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神の定めた掟
「あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。」(出エジプト20:23-25)
出エジプト20章は有名な十戒授与の場面で、この命令は、火と密雲が立ち込めるシナイ山の麓で、大地は震え、雷鳴と角笛の音が高く鳴り響くという、モーセさえ恐れて震える程恐ろしい状況の中で与えられた。
エジプトを出たイスラエル民族に、神が幾度も偶像を作ってはならないと幾度も命じたのは、神は見えないお方である故、人は神から目をそむけ、目に見える偶像や指導者のほうを頼りやすいからである。
私達が神に捧げるべき礼拝は、土、あるいは、ノミを当てない(汚されていない)石の祭壇の上で、まことの犠牲となられたイエスキリストのみを捧げるべきである。

人の祭り(出エジプト32:1-6)
ところがイスラエルの民は、指導者モーセが40日姿を見せなくなると、金の子牛という偶像の神を造って早くも逆らい、各自身につけていた飾りの品々を寄せ集め、ノミで型を作り、若い雄牛の鋳像を造り「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。(出エジプト32章)
そして焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
鋳像とは、鋳型にノミを当てて好き勝手な形を造り、そこに溶かした金属を流し込んで作る像である。
人の祭りは、人手による「型」にノミを当て、各自が身につけていた飾りを集約して流し込み、そうして作った好き勝手な「理想像」にいけにえを捧げ、その前にで飲み食いしたり戯れたりするのである。
主の大いなる御技の数々を経験し、主の臨在の雲と火の柱の前にあっても、自分の欲に従って動きたい者は、まことの神を押しのけ、節操無く好き勝手な神を作り出し、好き勝手な礼拝を生み出すものである。
こうした人の力による「理想像」は、古くはバベルの塔であり、神無しでやっていくための文明の利器である。
牛は畑の力であり(箴言14:4)、物を運んだり食肉にしたり、便利で有用な財産である。
そして人が神に捧げるべきものであるが、決して人間が神にしてあがめるものではない。
人にとって有用な牛や、文明の利器、あるいは指導者を偶像化し神格化し、まことの神以外を神とする行為こそ、最も忌み嫌われる罪であり、親子3代4代にも呪いを招く行為である。(十戒第1,2戒)

私達の勤め
モーセは民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。(32:25)
民が乱れかける最初の時、アロンはほうっておいたため節操無く乱れて行き、敵の物笑いとなった。
「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(詩篇106:23)
本来神は偶像礼拝を忌み嫌われ、民はこの時全員殺されて然るべきだったが、それでも生き残れたのは、モーセが執り成したからに他ならない。
私達も破れを担って神と人との間に立ってとりなさなくてはならない。
また、我々のエクレシアにおいて「人の祭り」が兆候を見せた時、速やかにその芽を摘み取らなくてはならない。
我々はキリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたため、混じりけの無い純粋なパンであり(1コリント5:6-8)そしてそれは、わずかのパン種によって容易に汚されてしまう。
人間の祭りの原因となる人の欲望や、人の手による業というパン種をきれいに取り除き、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭を祝うみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

 

礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステとは(使徒2:1-36)
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ペンテコステとは、イエス様の復活後50日目(ユダヤの祭りでは五旬祭または七週祭という収穫祭)に、イエス様の約束どおり、弟子達に聖霊が目に見えるしるしとして降り、力に満たされた日である。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

聖霊充満の動機 - 神の栄光を現すため
彼らが自分とは異なる国々の言葉で語った内容は、「神の大きな御技」である。(使徒2:11)
聖霊充満を求める者は多いが、その動機は自分の栄光や自分の活躍のためではなく、主のためであるべきで、まことの言葉である主イエスキリストをのべ伝えるために言葉の壁を越える徴が与えられたのである。
事実、大いなるしるしに驚いて集まった者達に語ったペテロの説教は、大いなるしるしについてよりも、むしろナザレ人イエスについて、時間を割いて丁寧にメッセージしている。(使徒2:14〜36)

聖霊充満の特徴 - 舌が替えられる
彼は以前、とんちんかんな事言ったり、舌の渇かぬ内に裏切ったりと、舌による過ちをよく犯し、神のことがらを思わず人間のことがらを思っている、と、主からサタン呼ばわりされた事さえあった(マタイ16:23)
生来の舌は「不義の世界」であり、自分を汚す火であり自らも地獄の火によって燃やされる。(ヤコブ3:5,6)
しかし、彼が聖なる炎の舌に触れられ、聖霊に満たされてからは、人間のことではなく主イエスキリストのことをもっぱら伝える者となり、別人と思えるほど大胆な説教者として造り変えられた。
私達はそのままでは汚れた唇の者であり、聖なる神の御前に立てず、神にとって有用ではなく有害である。
イザヤは祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいてから、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となる事が出来るのだ。(イザヤ6:1-8)

ペンテコステの逆現象 - 混乱:神ではなく人間が高くなる事
ペンテコステでは言葉の壁を破る奇跡が現れたが、そもそも言葉の混乱という呪いの原因は、人間がひとつの言葉の元で天まで届く塔を建て、人間が高く上がろうとした事が大元である。(創世記11:1-9)
バベルの町のトップに君臨していたのは、地上で最初の権力者でもあるニムロデ(反逆者という意味)で、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)という性質は、「私は天に昇ろう、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)という究極の反逆者・サタンの性質である。
ペテロは主から「あなたは神のことがらを思わず人間のことがらを思っている」と、サタン呼ばわりされたが、主イエス様を脇に寄せ、自分を上にあげて主張する動機こそ、サタン由来であり、人間が高く上げられて神のようになる事による事の成果物は、混乱と離散、滅びである事は、歴史が証明する所である。

聖霊に満たされ、主に有用な者となるには
聖霊に満たされるコツは、第一に、主イエスの御名の元に一つになっている事(使徒2:1)であり、ユダのように、自分勝手に一匹狼で行動してイエスの名の集まりから離れる者には、滅びが待っている。
「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。(使徒2:20,21)
被造物の光は陰り、人の栄光は廃って行くが、まことの光であるイエス様の名を呼ぶ者は、決して闇の中を歩む事は無く、いのちの光を持っている。
主の集まりに集い、聖なる火によって人間のことがらと汚れた唇を焼き清めていただいたなら、初めてイザヤのように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と主に申し出る事が出来、そして御言葉を伝えるために、主の導きに従って遣わされて行くのである。
主にとって有用な者となり、御霊に満たされ、力強く遣わされて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の憐れみの説明責任(ヨナ書3,4章)
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魚の腹から3日目に生還したヨナに再び神から「わたしがお前に語る言葉を告げよ。」という召命があった。
ヨナはすぐに行って「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と説教をした。(3:4)
ところがニネベの人々は、意外にも、ただその説教によって悔い改め、王から家畜に至るまで断食し、粗布をまとって悪から離れようと努力したため、神は思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
もしかしたら、ヨナが当初逆らった事によって大いなる事が起こり、そのために船に乗っていたあらゆる種族の人達が主の名ととヨナの名を轟かせ、それによってニネベは大いに恐れ悔い改めたのかもしれない。

外れる預言がある。それは、ただ「滅びる」だけを言う預言で、預言を受けた者がそれで悔い改めた場合だ。
ヨナは、ニネベが自分の預言によって悔い改めた事、主が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方である事を、なんと、不服に思って、死んだほうがましだ、命を取って下さいとまで言った。
ヨナはニネベが滅びるのを期待して、遠くに仮小屋を作り、何が起きるか眺めていたが、神はヨナの命を取るのではなく、彼を自身の怒りから救うため、一本のとうごまの木に命じて彼の日陰になるように生えさせた。
ヨナはそれを非常に喜んだが、神は翌日、虫に命じてとうごまの木を枯れさせ、神はさらに焼けつくような東風に吹きつけるよう命じ、太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナは怒り、死ぬことを願った。
神はヨナに、おまえが労することも育てることも無く一夜にして生じ滅びたとうごまの木を惜しむなら、どうしてわたしは十二万人以上の右も左も分からぬ人と家畜のいるニネベを惜しまずにいられるだろう、と諭した。

なぜヨナが、これほどまでニネベが悔い改めて救われるのを嫌がったのかには、理由がある。
ヨナはヤロブアム2世の時代(B.C.793〜753年)に北イスラエル王国で活躍したと思われる(第二列王14:25)が、その時代のニネベとは、イスラエルに敵対する不道徳で強力な国・アッシリヤ帝国の首都であり、もしニネベのために助けるなら、母国イスラエルに滅びを招く手伝いをする事である。
ヤロブアム2世は悪い王だったにもかかわらず、ヨナに与えられた預言どおりイスラエルは領土回復した。
なぜ神は悪い王を助けたのかというと、その時のイスラエルの苦しみが非常に激しい事を憐れまれ、イスラエルが助かるための猶予を与えられた(第二列王14:23-27)からだが、イスラエルは悔い改めず、遂に30年後のB.C.723年に北イスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされてしまった。

もしあの時ヨナが遣わされて説教さえしていなければ、アッシリヤはそのまま神の怒りによって滅び、ひいてはイスラエルが滅びずに済んだであろうに、と思うだろうか?そんな事は無い!
神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方」だ。(4:2)
悔い改めない選びの民ではなく、悔い改める異邦の民のほうを神は助け、選びの民がどうしても悔い改めないのなら、悔い改めた異邦の民を用いてでも、裁きを遂行しなくてはならない義なるお方だ。
ニネベがいかに堕落し邪悪であっても、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜を憐れまれたのなら、神は、選びの民イスラエルをどれほど愛され、悔い改める事をどれほど望んでおられただろう。
ヨナはうめいたが、愛と憐れみに満ちた神は、もっと葛藤し、さらにうめいておられたのではなかろうか。

その神は、1億2千万の右も左もわきまえぬ日本人や無数の家畜達を、どうして憐れまない事があるだろう。
我々は日本という国を愛するにしても嫌でたまらないとしても、御言葉を伝え、悔い改めを促すべきである。
あの邪悪な町ニネベが、単純な説教によって悔い改めたように、日本も意外に悔い改めるかも分からない。
もし嫌だからといって憐れみのチャンスを伝える事から逃げるなら、嵐に遭い、魚が口を開けて待っている。
国が滅びるのを期待して、遠くに仮小屋を作って眺めているなら、神はその者のとうごまを枯らし、焼けつく東風と太陽を送られ、死ぬほどの怒りに、のたうち回る事になる。
ヘブライ語の名「ヨナ」には鳩という意味があり、鳩といえばノアに裁きの終了と平和を伝えた鳥である。
主の平和を告げ知らせる使者として用いられる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:破れ口に立つ者(ヨナ書1,2章)
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ニネベは邪悪な町で、その悪が神の御許に達したために滅びの危機が訪れた。
日本も滅びの危機に瀕しているが、偶然の連続によって、大規模爆発や放射能拡散から守られている。
神様は邪悪な町ニネベさえも憐れまれたように、日本も憐れまれ、ニネベに対して御言葉を伝える者・ヨナを整えたように、日本にも取り成す者、御言葉を伝える者を整え、導いておられるのだ。
ヨナは他の預言者に比べると、神様への文句と痛い目に満ちた出来の悪い預言者のように見えるが、為された事だけ着目すると、船に同乗した者全員をまことの神に立ち返らせ、巨大な魚に飲まれ3日3晩海の中にいたのに生還し、歩いて3日もかかる大きな町ニネベを悔い改めへと導くなど、多くの実績を残した。
私達もできの悪い預言者のようかもしれないが、神は憐れみ深く、私達を整え、失敗さえも用い下さる。

ヨナは主の命令を受けた時、まず逃げた。人々に埋もれ、船に乗り込み、主の示しとは逆方向へと向った。
その船が沈みそうになった時、他の皆は自分の神に祈ったり荷物を捨てて働いているというのに、彼はぐっすり眠り込み、まことの神の預言者のくせに、異教の民の船長から「寝てないで神に祈れ」と叱られた。
人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。(ヨナ1:8)
神は災いを通じ、強制的に私達に思い出させる。私達は何の仕事をしている者か。どこの民族出身なのか。
私達の仕事は神の祭司であり、天の国籍を持つ者、神の民族出身である。
神が何を望んでおられるのか知りつつ敢えて無視し、人の中に紛れ込み、祈る事を止めていないだろうか。
まことの神の言葉を伝える者なのに眠っていないだろうか。
ヨナは人々から問いただされ、自分は「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と告白し、人々は聞いて非常に恐れ「なんでそんな事をしたのか」と言った。
私達も神から与えられた役割をおろそかにしていると、乗る船は嵐に遭い、荷物は捨てる羽目に遭い、ヨナのように海に投げられ、魚に飲み込まれ、それを見ていた周りの者達は畏れて神に立ち返るのだ。
人々はヨナを恐れ、特別扱いし、何とか救おうとしたが、ヨナは自分を海に投げ込むように言った。
主から過ちを指摘されたなら、人々に荒海の中を岸まで漕いで生かしてもらう事を願うのではなく、御心から離れている自分の自我を十字架の死へと明け渡す宣言をし、3日目の復活に委ねるべきである。

ヨナが海に投げ込まれた時、風は止んで海は大凪になったが、主が見腕を動かされたのはそればかりでなく 巨大な魚、とうごまの木、虫、東風をも動かしてまでヨナを整え、同時に御心を遂げられた。
ヨナ書を読むと、神様とヨナの一対一の対話のように読み進められるが、ヨナの周りの者の視点に立って読んでみると、ヨナを中心に彼の周りの世界が、彼の言動によって振り回されている事が分かる。
私達は神の僕である故に、神は、自然界を振り回すほどに、厳粛に私達を特別扱いしておられるのだ。
もし私達が整えられ、執り成して祈るとしたら、主はどれほど御心を動かすだろうか。

 ヨナは人々から捨てられ、海に投げ込まれ、魚に飲み込まれ、山々の根元まで下った。
その絶望のどん底、助かる見込みの無い静寂の暗闇から、ヨナは主に祈り、主と一対一で深く交わった。
どんなに御旨から逸れて堕落し、底の底まで下っても、主はそこにおられ、祈りを聞いて下さる。
初めから平伏して御声に従っていれば、こんな大事にはならなかったはずだが、そういう者は、自分の好き勝手を捨てる「十字架の経験」と、全能者の前にいのちを横たえる「3日3晩の死」を通される。
その向こうには復活が待っており、余計なものは削ぎ落とされ、主の働きが出来るよう整えられるのである。
ヨナはそうしてニネベを救うための使者として整えられていった。
日本は今、憐れみが注がれており、この国のために執り成し、忠実に御心を行う者を主は望んでおられる。
主がニネベへの40日のカウントダウンを開始されたのは、ヨナが十分整えられてからである。
主は日本を執り成す為に破れ口に立つ者(エゼ22:24-31)が整えられる日を、一日も早く待っておられる。
文句と苦難だらけのヨナをも整えら用いられた主が、皆さんをも整え、この国のために執り成し、御言葉を伝え、いのちを救うために、大いに用いられますように。

礼拝説教メッセージ音声:イエスの名によって(使徒3:1-10)
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我々は祈る時、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と締めくくる。
なぜか。それは、イエス様の名前によらない祈りは、日本銀行券と書いていない万札は使えないように、権威の裏づけが無いからだ。
万札という紙が価値を持つのは、日本銀行という権威ある機関が、これには価値がありますよ、というハンコを押しているからで、それが無ければ、ただのキレイな模様が書いてある紙切れに過ぎない。
和紙にどんな綺麗な模様や偉大な人物像を描いて、精巧なすかしを入れて、千万円とか壱億万円とか、桁を大きくしてみせても、日本銀行のハンコがなければ「ニセ札」であり、そんなものを使えば逮捕されるのと同様、祈りに「イエス様の名前」が無ければ、どんなに一晩中祈っても、体を傷つけても、夕暮れまで踊っても、そんなものは「ニセ祈り」であり、神の御前に差し出せば、罰を免れない。(1列王記18:21-40)

教会に何年通っても、イエスの名によって祈るのを忘れてしまう人がいるが、それには理由がある。
それは、イエス様の名前がホンモノで、この世でも来る世でも力があり、真に人を救うものであるのだが、そのホンモノを妬んで反逆した奴・サタンがいて、そいつらがホンモノを隠そうと、常に見張っているからだ。
ただの紙であるはずの札束も、手に入れるために裏切ったり、殺したりするのは、そこに価値があるからだ。
ホンモノであるイエス様の名は、どれほど妬まれるものだろう。
ホンモノを隠す奴が頭に入り込んでくるのは、つけ込まれる土壌があるからで、不平不満や怒り、つぶやきは奴らが付け入る格好の土壌となる。

このイエスの名に、いかに力があるか。使徒3:1-10を見てみたい。
ペテロとヨハネが神殿の門に入ろうとすると、生まれつき足が利かない物乞いに施しを求められた。
彼は40歳を越えており、施しは頂いていても門の向こう側に入って礼拝する事は許されていなかった。
二人はその人をじっと見た所、二人はきっと感じ取ったのであろう。その人が切実に礼拝する事を求めており、イエスを知っており、イエスは癒して下さるお方であると信じている事を、恐らく感じ取ったのだろう。
ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って手を取って彼を立ち上がらせると、自分の足で立ち上がった。
イエスこそ救ってくださるお方だと信じる者には、仰々しい祈り文句も多くのパフォーマンスもいらず、イエスの名によって瞬時に束縛から解放されるのである。

当時はイエス様の名前を使ったら逮捕されてしまうご時世で、ペテロ達はイエス様の名前を使ったかどで逮捕され、祭司長や議員達、法律家などの偉い人達に尋問されたが、ペテロは聖霊に満たされて言った。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10-12)
40年足が不自由だった人が癒されたのも、ペテロ達が大胆に告白できたのも、イエス様の名前による。
私達は世の中で色々なものを土台とし、救いを求めるが、唯一土台となり得て救われるのはイエス様のみ。
その土台石は捨てられたが、このお方以外に救われるべき名は、他には無い。
「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)
主は私達に、イエス様の名前によって「祈ります」「求めます」「祝福します」「悪い者は出け」と、イエス様から与えられた御名の権威を大胆に行使する事を望んでおられる。
なぜなら、この世は主に贖われた者達が支配するよう創られているからである。(創1:28,ロマ8:19-22)
主から与えられた大いなる御名の権威を大胆に行使し、分捕り、立ち取る皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:鶏の鳴く時(ルカ22:31-34)
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「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは「立ち直ったら(エピストレフォー:向き直る、転向する)」、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)
人が力を込めて言う言葉は、自身の弱さの前に何の保証も無く、死の覚悟も、サタンの前には無力である。
しかし大祭司なるイエス様は、私達が裏切る前から、いや、私達が「あなたを裏切りません」と力を込めて言う以前から、既に、私達が裏切った後も信仰が無くならないよう、あらかじめ取り成して祈っておられた。
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:33,34)
イエス様のために牢に入ったり死んだりする程に、ついて行くなら、イエス様に認められるのだろうか?
結局、12弟子の全てがイエス様を裏切ったのだが、その中で唯一、死して主にお詫び申した者がいた。
日本人の価値観では彼を潔い、立派だと思うかもしれない。しかし、滅びに下ったのは彼一人だけ、他の生き恥を晒した11人は、後に聖霊を受け、主のために大胆に造り変えられた。
滅んだ一人と、造り変えられた11人との違いは、主イエス様の集まりを止めたか、止めなかったかである。
人間的な美学に勝手に従って一匹狼で行動し、イエス様の名の下から離れる事は、滅びに至る道である。
例え生き恥を晒しても、主の名の集まりから決して離れない者こそ、聖霊によって造り変えられる者である。

信仰生活は、イエス様のために死ぬ覚悟を決める所から始まるのではなく、私達がまだ罪人であった時から既に私達を愛し、私達の罪のために死んで下さったイエス様の愛に気付く所から始まるのであり(1ヨハネ4:10)、自分には主に従い尽くす愛も力も信仰も無い、と、徹底的に示されるような最も暗闇の時、すなわち「鶏の鳴く時」が原点である。
イエス様は復活の後、ペテロ達が一晩中漁をしても魚一匹さえ取れない日の明け方に現われ、たった一言のアドバイスによって、人の経験や知識を遥かに越える結果を示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えただけでなく、暖かい炭火を熾してパンと魚を焼き、香ばしいかおりを漂わせつつ待っておられた。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心をほぐして下さる。(ヨハネ21章)
イエス様はペテロに3度「あなたは私を愛しているか?」と聞いたが、ペテロは「あなたは私に完全な愛は無い事を知っておられます」と、イエス様に「知っていただく」しか無かった。
信仰が若ければ若い程、情熱と血気によって自分のやりたい事をし、自分の望む所へ行くが、人はイエス様に従い尽す事が出来ない事を思い知る「鶏の鳴く時」が来る。
そこを通った者は、自分のわざを終えて安息し(ヘブル4:10)、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行くのである。

その数ヶ月後、ペテロは再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来たが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事である。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、イエスと一緒にいた者(使徒4:13)である事が大切である。

全てを知っておられる主の前に、まな板の上の鯉となって全てを明け渡し、そして、新しいいのちを息吹いていただく「復活」に入ったなら、ペテロのように大胆に証できるのである。
私達が立つのは、私達の力や意地ではなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方と共に十字架につけられ、共に死に、共に復活し、新しいいのちを息吹かれる故である。
主の憐れみと慈しみの中に育まれ、何度倒れても、イエスの名の下に立ち直る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:誰を夫とするか(ヨハネ4:3-42)
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ある女がサマリヤという町に住んでいた。
彼女は、自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる男性と結婚さえすれば、自分の内側にある渇きを癒す事ができる、と、ささやかな夢を見つつ結婚した。
しかし結婚生活は彼女が夢見ていたようなものではなく、渇きはますますひどくなり、離婚する事となった。
すぐに別の男と結婚する事が出来たが、これまたうまく行かず、離婚する事となってしまった。
同じようにまた別の男と結婚し、うまく行かず離婚し、そうして5回も結婚と離婚を繰り返したものの、どの男も彼女のささやかな夢を満たす事は無く、6人目の男と同棲を始めた所であった。
人は、外見や自分の好みという計りによって物事を判断するなら、必ず失敗するものであり、また類は友を呼ぶもので、自分が失敗したのと似た境遇の者同士が惹かれ合ってしまう。
彼女は決して人前で堂々とできるような年月を過ごして来なかったため、人が出歩かないような昼の熱い時間を選んで、井戸まで行って水を汲み、汗しながら同棲相手のために運ぶ仕事が日課となってしまった。

人は、ささやかな夢を見る。「自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」者の存在を。
しかし、そんなささやかな夢さえ叶えてくれる人間は、実は地上にはいない。
人間関係とは都合が悪くなればすぐ壊れてしまうもので、そのはかない人間関係がひしめく世界の狭間で、ある者はそれを知らず奔放に出て行き取り返しの無い傷を負い、ある者は関係が壊れる事を恐れながら細々と生き、ある者は早々と諦め、関係を自分に有利な方向に利用し、騙し続けながら生きていく。
そもそも人の命には限りがあるため、ずっと愛し守る事は出来ないし、体はひとつしか無いため、四六時中いつでも付きっ切りで傍にいる事も不可能である。

サマリヤの女は期待する事に疲れ切り、心にますます渇きを覚えつつ日々を送っていた。
そんなある日、一人の男が彼女を待っていた。 毎日汗を流して往復していた、あの井戸の傍で。
その男こそ、今も生きておられる私達の救い主、イエスキリストである。

彼は、永遠の命へと至る水がわき出る「生ける水」を与えると言われたが、彼女は、もう井戸に汲みに来なくて良いように、すなわち、暑い思いや恥ずかしい思いをしないために、その水を求めた。(13-15節)
イエスの提供する水は、私達が罪の故に蒔いた実である苦々しい炎熱を、ほんの少し和らげるような程度のものではなく、炎熱の原因である罪を抜本から除き去り、愚かな判断の実である失敗さえも最善へと塗り替え、永遠のいのちへと導いて下さるお方である。

主イエスにある者は、男も女も皆等しく、イエスの「花嫁」であり、イエスは私達の夫である。(黙示録21章)
サマリヤの女は、7番目のまことの夫であるイエスを得、どんな人も叶える事の出来なかった彼女の夢を叶えられ、内側にあったどうしようもない空白を、テトリスのように気持ちよく合致して、渇きも消された。
以前の愚かな失敗も、むしろイエスを証するネタとして栄光の道具へと塗り替えられた。(28-30,39-42節)
私たちにも、彼によってしか潤されることの無い渇きがある。家庭や日常の職場、学校といった、私達の井戸のそばでイエスは待っておられ、そして、彼に潤して頂く事を、イエスは望んでおられる。
イエスを主とする者は、もはや不足は無くなり、再建して下さる主に愛され、喜びとされる者である。
「あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:4,5)

渇きが癒され、得るべきものを得、収まるべき所に収まったサマリヤの女のように、愛され、育まれ、建て直され、満たされる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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