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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:祈りの家の喜びの祝い(イザヤ56章、マタイ21:12-17)
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イザヤ56章によると、祈りの家の喜びの祝いに連なる事が許される者とは安息日を守る者で(2,4,6節)国籍や立場は関係無く、宦官であっても息子・娘達に勝る分け前と名が与えられ、絶えることの無い永遠の名が与えられ、異邦人であっても聖なる山に連なり、いけにえ(祈り)は受け入れられ、祈りの家で楽しむ。

祈りの家に行く事の楽しさ、喜ばしさの味を占めた者は、たとい仕事が忙しくても、疲れても、集まってくる。
祈り会に出ると一日の疲れが吹っ飛ぶし、皆と遅くまで交わって教会のベンチで寝るなら、柔らかいベッドで寝るよりも爽やかにリフレッシュされる。そのため最近、金曜祈祷会で泊まる人が増えている。
兄弟姉妹が一つになって共に住む所には、主が真ん中におられ、とこしえの祝福を命じておられるからだ。

主は散らされた者達を集める神であり(8節)、なんと、野や林の獣にも食べに来いと命じておられる。(9節)
そこには見張り人がいる(9-12節)が、盲目でおしの犬で、夢を見て眠りを貪り、貪欲で、足る事を知らない。
彼らは悟らない牧者で、自分勝手な道・自分の利得に向かい、自前のぶどう酒を持参し、酒を勧め合う。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、このように利得を貪り、霊的に眠っているなら、主はどうされるか。

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
主がそのように強制力を行使してまでして怒ったのは、主が聖と定めた「祈りの家」で、人間による売り買いをはびこらせ、しかも祈りに来る人達の、尊いささげものを、自らのために搾取したからだ。
主が忌み嫌われる事は、主が聖だと定めた事を、私たちも聖とするべきなのにそうしないで、人間的な汚い欲望や教えを混ぜ込み、不純なものにしてしまう事だ。
パリサイ人たちは安息日を聖とする代わりに、働いてはならない事を強調して不自然なまでの規則で埋め尽くし、アブラハムの娘が解放される事から阻んだように(ルカ13:16)、人を救いから阻んだ。
主は、聖徒達の尊い祈りや捧げもの、聖徒達の御言葉を守ろうとする気持ちを利用して逆手に取ったり、それを搾取して私腹を肥やす者がいたら、その両替台や腰掛は倒され、その者達は追い出される。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、不純な有様でいると、主はそのようにされるのである。

主が人の薄汚い欲望の座や両替代を引き倒した後、主の元に集って来たのは、目の見えない人や足の不自由な人達で、主は彼らを受け入れ、癒して下さった。
主が受け入れるいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は低くへりくだった者を受け入れ、癒して下さるのだ。
また、そこにいた子供達は「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたが、それを聞いた祭司長、律法学者達は怒った。それは、子供が賛美を口にするなど不敬だ、おこがましい、というのである。
しかし主は、小さくなった者達の賛美をこそ、受け入れてくださるお方だ。

「イエスは彼らを後に残し、都を出て、ベタニヤに行き、そこに泊まられた。」(17節)
ベタニヤには「歌の家」「病む者の家」あるいは「貧困の家」というヘブライ語の意味がある。
祈りの家を不純なものとしてしまった無能な牧者たちが悔い改めず、むしろ主に怒りを燃やすようなら、主は放って置かれ、そこを出てベタニヤ、即ち小さき者の歌う家、病む者の家、貧困な者の家へと宿られる。

主が宿られるその時、荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(イザヤ35章)
足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。
楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。
へりくだった者となって主を宿し、このイザヤ35章の祝福にあずかる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:もはや人の祭りは終わり (ヨハネ2章1−11節)
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聖書はアダムとエバの結婚に始まって、キリストと教会の結婚に終わるように、結婚は偉大な奥義である。
キリストは十字架の血潮(ぶどう酒)を手付金として御父に支払い、私達をめとって下さった。
私達教会が彼とひとつになる事こそが福音の目的であるため、キリストの十字架抜きの福音はありえない。
それなのに、昨今のキリスト教会の中では、十字架抜きの繁栄の法則が語られ、神は愛だから地獄は無いと言う牧師も現れ、さらにカトリックでは、どの宗教も行き着く先は同じ神である、と公言してしまった。
ニューエイジの主張は、魚座の時代(キリストの支配)は終わって水瓶座の時代(アクエリアス・エイジ)に入り、この黄金時代には宗教体制を全て統合し、かつ不知と惑いの心を解放する時代だと、標榜している。
(あいにく、魚座や水瓶座といった星座も、全宇宙さえも創ったのは、ロゴスなる主イエスキリストだが。)
このように、キリスト抜きに人間が高められる様こそ「人の祭り」の行き着く所であり、こういった動きが活発になって以来、その反動としての災いも活発になっているのは、予め御言葉に示されていた通りである。
私達はこれにNOと宣言し、十字架につけられたイエス・キリストこそ主であると明確に宣言するべきである。

昨今のキリスト教世界では、主の栄光より人の栄光を追求し、主の御言葉よりも人間の教えを優先し、主の御心より人の良かれと思った事を成就させるといった、人間主体の「人の祭り」がはびこっている。
カナの婚礼(ヨハネ2:1-11)のように、イエス様がおられるというのにイエス様の名は単に飾りとなって、人の好き勝手などんちゃん騒ぎという「ぶどう酒」はもはやネタが尽き、カラカラに渇いている状況である。
「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

イエス様を主と認めず、彼の力を単に利用しようとする者には、たとえ母であっても、主ははっきり拒絶する。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの「時」はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)
「女の方(ギュナイ)」のギリシャ語の呼格は大人の女性への尊敬をこめた呼びかけで、ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶのに用いた尊称でもある。
「私よりあなたが偉いとし、自分の力で何とかしようとしているなら、あなたの方で何とかするが良かろう。」
イエスを主としない者には主の「時」は来ず、人が勝手に用意したぶどう酒が尽きようとも、主は動かれない。

人の祭りがはびこっている現代において、我々が取るべきスタンスは何だろうか。
マリヤは人々の前で自分を下ろし「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」』(5節)と言った。
「イエス様、あなたがあれをして、これをして下さい」では、主は何も起こされない。
「主よ、仰せ下さい。何でもします」という姿勢こそ私達が取るべきである!
そうしてこそ主が働かれる余地が生まれ、福音書に書かれてあるあらゆる良きわざを主が為して下さり、そして、人の祭りの運営に長けた世話役には、とうてい信じられない事が起きる。(ヨハネ2:9-10)

その良いぶどう酒の作成方法は、主が「水がめに水を満たしなさい」と言われた時に水を満たし、「今汲みなさい」と言われた時に汲む事。主が命じられる事は、その時意味不明に見えるかもしれない。
しかし、それでも主の命じられる通りに行うなら、人にはとうてい用意する事の出来ない、最良のぶどう酒を主が提供して下さり、そして人の支配する不完全な祭りは終わり、主が支配する完全な祭りに入るのだ。

6つの水がめは人を表し(創世記1:31・エレミヤ18:3)、水は私達を洗い清める御言葉(エペソ5:26)を表す。
私達が主の言葉に従順し、私達という器に御言葉の水が満ちる時、水はぶどう酒へと変わり、私達は最上のぶどう酒を味わい、喜びに満たされる。
ぶどう酒はイエスの流された血潮であり、それによって私達の罪は赦され、病人は癒され、束縛されている人は解放され、貧しい者は富む者へ変えられ、死のとげは抜かれ、呪いは祝福へと変えられるのである。
こんな極上のぶどう酒は見た事が無い、なぜ今まで取っておいたのか、と人が言うようなぶどう酒を、主が整えて下さる、その宴会の手伝いをする皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者2 (民数記14章)
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カデシュ・バルネアは「神聖な砂漠を放浪する」という意味があり、神の子とされる者なら誰しもカデシュ・バルネアを経験し、速やかに抜けて約束の地に入る者もいれば、ずっと抜け出せないまま屍を晒す者もいる。
もし神を信じた今のほうが、そうでなかった時より苦しみに溢れているとするならば、それは、信じると言いつつも実は信じ切っておらず、出エジプトの民のようにどっちつかずのまま砂漠をさ迷っているからだ。
この砂漠から抜け出せる者と、抜け出せない者の違いを、民数記14章から学びたい。

斥候の知らせを聞いた民は、カレブの「必ず占領できる」という言葉に耳を貸さず、悪く言いふらす者達の言葉を受け入れ、夜通し泣き明かし「死んだほうがましだ」「妻子はさらわれてしまう」「エジプトに帰った方が私達に良い」と叫び、ついには「一人のかしらを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出した。(民14:1-4)
カデシュ・バルネアとは、目の前の現実に「自分の資力」で対抗しようとするなら、絶望しかない状況である。
このままでは妻も子供も養えず、一家離散だ。だから神ではなくエジプトに頼っていた生活に戻ろう、というのが、人間の考えうるケチなベストである。このカデシュ・バルネアを速やかに抜け出すコツは、目の前にそびえる現実に対抗する基を、「自分」ではなく「自分と共におられる全能なるお方」へと換える事である。

そのような時にモーセとアロンが真っ先にした事は、民と向き合う事ではなく、全能なる「お方」にひれ伏す事であり(5節)、ヨシュアとカレブは民を説得し、全能なる「お方」が自分達と共におられ、このお方に従うよう勧めた(9節)
しかしそれに対し、全会衆はモーセ達やヨシュア達を石で撃ち殺そう、という判断を下してしまった。
彼らを民が石で打とうとした、まさにその時、主の栄光が会見の幕屋から全イスラエルに現れ(10節)、主は、「この民を滅ぼし、あなたを大いなる強い国民にしよう」と言った。それでもモーセは神に執り成した。

13節から19節まで続くモーセの執り成しに、「あなた」という言葉が10回も出て来る事は、注目に値する。
民にも少しはいい所があるでしょう、とか、民がかわいそうだ、ではない。「あなた」の栄誉のため、「あなた」の約束の故に、民を滅ぼさないで下さい、と言っているのだ。
私達は何かと自分や他人の事を挙げて祈りがちだが、自分や他人の問題は脇に置き、まず主の前にひれ伏して、主の栄誉・主の御言葉を第一にして祈る、その祈りこそが、聞かれる祈りである。

主は確かにモーセの執り成しを聞かれ、滅ぼす事を思い留めて下さった。しかしそれは、民が選択した事の責任を見過ごす事でも、取った行動に対する実を自ら刈り取る事から逃れる事でも無い。
主が生きており、栄光が全地に満ちている以上、自分の蒔いた種は必ず自分で刈り取る事になり、主の栄光と徴を見つつ、なお御声に聞き従わない者は、約束の地に入れないと宣告された。(民14:21-23)

宣告された時に悔い改めれば、まだ赦されたかもしれない。しかし民が荒野で死ぬ事が決定的となってしまったのは、民が主の栄光を見、その戒めを聞きながらも、なお「つぶやいた」からだった。(27節)
主は幾度も栄光を見せ、戒めたのに、それでなおもつぶやくなら、自らがつぶやいた通りになってしまう。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在はない。
キリスト者は、信じて前進すればこそ約束された良き地に入り、豊かな祝福と命を楽しむ事ができるのだ。

以上学んできた事の結論として、約束の地に入れない者とは、全能なる主を信ぜず、信仰者の勧めに耳を貸さず、主に戒められても、なおつぶやく者である。
それに対し、約束の地に入れる者とは、救いの源は自分ではなく主とし、信じて前進する者である。
「私達は、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブル10:37-39)
今、皆さんには信じなさい、と勧めます。信仰によって前進し、約束の地に入り、豊かな祝福といのちを楽しむ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者 (民数記13章)
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主が私達に用意して下さった約束の良き相続地を、私達が得るための法則は実はシンプルだが、そのシンプルな事を人はいかにややこしく難しく考えてしまうか。
出エジプトの民が約束の地に入れず荒野で40年さ迷う事が決定的となってしまった事件から見てみたい。

「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記1:21)
この言葉の通りそのまま攻め上っていれば、神様が約束された良き地をすぐにでも自分のものとしたはずだったが、民は余計な要望をしてしまい(22節)まず斥候を遣わして探らせて欲しいと、モーセに進言した。
モーセにとってその進言は良いと見えた(23節)し、ヨシュアやカレブも行き巡って見た時、こんなにすばらしく良い土地が与えられるのかと心躍ったが、荒野で屍を晒す事になる民には、そうではなかった。
彼らは立ちはだかっている城壁や強そうな先住民、それに比べた自分自身を見たのだ。(民数記13:31)
「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民数記13:33新共同訳)

荒野で屍を晒してしまう第一の兆候として、まず、立ちはだかっているものを、過大に大きく見る事だ。
ネフィリムとは大昔の名高い英雄たち(創世記6:4)だが、御言葉によると、ノアの洪水で全滅した筈である。
全滅したはずのネフィリムを何故見たというのか? それは彼らの見たアナク人という背の高い現住民を勝手にネフィリム人とし、民も御言葉や約束ではなく彼らの恐怖の産物「脳内ネフィリム」に伝染されたからだ。
荒野で屍を晒してしまう二つ目の兆候として、自分を「いなご」のように卑しく見積もる事だ。
自分達は神がことさらに目を留め多くの奇跡によって救い出した民、地を相続するという約束が与えられたアブラハムの子孫であるにもかかわらず、自らを「いなご」と呼んでいる。
キリストのいのちの代価がつけられた私達をそのように卑下する事は罪である。
私達も信仰によるアブラハムの子孫として、約束されたあらゆる良き祝福を信仰をもって受けるべきである。

恐怖や不信仰、御言葉と違う事の流布といった「死」がはびこる時、いのちで飲み込まなくてはならない。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とは兄弟愛をもって心から互いに愛し合う勧めであって、不信仰な者と共に信仰を捨てる事でも、臆病者と共に臆病になる事でもない。
不信仰や臆病には決して同調してはならず、カレブのように信仰を表明するのである。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)
カレブは信仰にしっかりと結び付けられていたから、実にあっさり約束の地を勝ち取った。(ヨシ14:12-15)

ヨシュアやカレブのように不屈で強い信仰が無くても、約束の地に入る方法はある。
それは、彼らのように信仰に結ばれた者に、何も言わずについて行く事である。
モーセの後の指導者、ヨシュアについて行った者達の中にも、もしかしたら恐れた者もいたかもしれない。
それでも不平を言わず、進言もせず、ただヨシュアの言う通りに為し、ついて行っただけで約束の地を得た。

モーセはヨシュアを斥候に遣わす時、ホセアという名だったのをヨシュアとした。(民数記13:16)
ホセアの名の意味は「救い」で、ヨシュア(イエシュア:イエス)の名の意味は「主は彼の救い」である。
モーセが約束の地カナンを探らせるにあたってそのように名を変えさせたのは、「救い」を得る源は主である事を教えるためであり、現代の私達にも、まことのイエシュア、すなわち信仰の創始者また完成者であるイエスに聞き従い、彼について行くようにと勧めるためだったのではなかろうか。
約束の地に入れる者と入れない者の違いは、救いを主に置くか、それとも自分に置くかである。
その法則を知って、救いを自分には置く事を止め、神に置き、恐れずに前進する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会 2 (マタイ22:1-14)
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神の国の宴会に与る者について、前回とは別の平行箇所であるイエス様のたとえ話から見ていきたい。
ある王が王子のために婚宴を催し、招いておいた人々に「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と僕に言わせた。
神の祭り(宴会)においては、既に、最良の家畜は屠られ、天の食卓は整えられてある。
この屠られた最良の家畜とは、屠られた子羊イエス様(黙示録5:6)であり、私達はその流された血潮によって天の大宴会に誘われ、いつでも参加できる特権が与えられている。

しかし人々は無視したり、色々な口実をつけては断り、あるいは僕達を殺してしまった。(マタイ22:6)
前回、神の宴会を断る者達に3パターンあるのを見た(ルカ14:16)が、神は誘っても来ない者達については放っておかれ、そして決して神の食卓には与からせないし、神の僕を殺すような者は滅ぼされる。
しかし神の宴会に参加したら万事OKというわけではなさそうで、宴会場から追い出されてしまう者もいる。
どういう人が追い出され、どういう人が追い出さされないのか。その選別基準は、礼服である。(12節)

宴会には悪人も善人も集まっていた(10節)が、追い出されたのは礼服をつけていない者だった。
という事は、偶像崇拝や盗みを働いていた者が、たまたまその時礼服を身に着けて宴会に参加しても、何のお咎めも無しなのに、品方向性に生きてきた者が、たまたまその時礼服を身に着けずに参加したら、外に追い出されてしまう、という事態も、大いに起こりうる。
一体、礼服とは何だろうか。

この時代、王様が披露宴などに人を誘う時は礼服も一緒に贈ったため、礼服を持っていないというのは有り得ず、礼服なしに宴会に来たのなら、王の贈った服を身に着けるのを敢えて拒否した上で来た事になる。
つまり、王の用意したものを着るなら大丈夫で、自前の服で王の前に出る事はダメなのである。
大祭司ヨシュアは神の前に汚れた服を着ていたが、神様は汚れた服をまず脱がせ、きよい礼服(新共同:晴れ着)を着させた。(ゼカリヤ3章。1-5)
この礼服も大祭司ヨシュアの自前ではない。彼の自前の服は汚れている。その服は神様が支給して下さったもので、その礼服を着る事によってサタンの訴えは無効となり、神の御前に大胆に進み出る事が出来た。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26,27)
すなわち礼服とはキリストご自身であり、汚れた衣・自前の服とは私達の”正しいわざ”(イザヤ64:6)である。
自分のがんばりによっていくら正しい行いをしてみても、神の御前には汚れた衣を着ているようなものであり、サタンは平気で訴えて来る。しかし、神の支給された礼服、すなわち、イエス様の裂かれた体を着る時、神の目からは私達はキリストと同様に見られ、サタンの訴えの口は封じられるのである。
ヤコブがイサクから祝福を得たのは、ヤコブが兄の晴れ着と動物の毛皮を身に着けたためで、本来祝福を受けるべきでない者が祝福を受けるのは理不尽に見えるが、支給された晴れ着を着、屠られた動物の毛皮を着た者に、祝福が与えられるというのが、神様のやり方である。

だから、支給された礼服を脱いで、自前の服を再び着て、神の御前に出るなどとは、言語道断である。
私達の「行い」という古い着物なぞは脱いで、神様が用意して下さった礼服すなわちキリストを着てこそ、神の祭りに参加でき、神の用意された最上の料理(キリスト)を味わい、飲み食いする事が出来るのである。
つまり、宴会に参加出来る者、キリスト者とは、人のまわしで相撲を取る者ならぬ、イエス様のまわしで相撲を取る者、虎の威を借りた狐ならぬ、イエス様の衣を借りた狐である。
私達は既に、キリストという礼服の支給を受けており、それを身に着けるかつけないかは、各人次第だ。
神の支給された贖い、イエスキリストを身に着け、神の宴会で大いに楽しみ食事を味わう皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会(ルカ14:15-24)
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神の国の宴会に与る者は、どういう者か。イエス様は、ある主人の開く盛大な宴会のたとえ話をされた。
宴会が始まる時、招待しておいた客はことごとく何かしら理由をつけて断り(ルカ14:15-24)、主人は怒って、招待したけれど来ない人達は為すがままにさせておき、僕に命じて、町の広場や路地へ行って貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を家に連れて来させた。
神の国の宴会に与かれる者は、招かれた者ではなく、呼びかけに単純に応じて、宴会場に来る者である。

このたとえの宴会とは、義人の復活の時に行われる神の大宴会(イザヤ25:6-12)の事で、主は、空席が埋まるまでは誰彼関係なく無理にでも連れて来て、宴会場をいっぱいにするよう命じている。(ルカ14:23)
その宴会はどんな人にも広くオープンに開かれていて、主人の僕は誰でも参加するよう無理やりにでも呼びかけるし、どうやら無料で参加できるというのに、なぜか、断る者がいる。
宴会に招かれた人は、なぜ断るのか。それは、宴会を招いた主人より、自分の用事のほうが大事だからだ。

最初に断った者の口実は、畑を買ったので見に行く、だから宴会には参加出来ない、というものだ。
畑は生活の食を得る場所で仕事に相当するが、主を祝うべき日に仕事を優先させるなら実入りは少ない。
別の者が宴会を断った口実は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行く、というものだ。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
牛は、トラクターやパソコンのように業務効率化の道具にあたり、仕事の上でそうした投資は当然必要だ。
しかし、神の宴会を後回しにして収穫を多くしようとするのなら、結局は労多くして益少なくなってしまう。

アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた者ではなく、主日にしっかり安息して礼拝したクリスチャンだった。
主日に礼拝時間を惜しんで働いた者達はことごとく失敗し、ある者は馬がつぶれ、ある者は病気になり、休む間も無く積み上げた財産は、結局クリスチャンが受け継ぐ事となった。
「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。」(イザヤ58:13)

3番目に断った者の口実は、結婚したので宴会に参加出来ない、というものである。
妻や夫を喜ばせるのは良い事だが、神の国より妻や夫を優先させるのは、アダムとエバ同様の失敗をする。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17)
神よりも妻や夫を優先するのは、額に汗し苦しんで働かねばならない呪いの元凶であると覚えて置きたい。

このように、あらかじめ招かれていたのに来ない人々は、宴会で食卓を味わう事は出来なくなってしまう。
大宴会への参加に最も邪魔になるのが、人間のそそり立つ要塞、すなわち、神よりも自分を主とする高慢だが、宴会の日に「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ25:12)

だから私達は、神の僕から宴会の誘いを頂いた時、何にも優先して、それに参加すべきだ。
そして私達も神の僕となり、至る所に出て行き、天の宴会の空席が埋まるまで、誰彼かまわず宴会の誘い、すなわち、イエスキリストに繋がる招きをするのである。

人の祭りから離れて自分のわざを休め、神の大宴会に参加して安息し、仕事や資産、結婚が何倍にも豊かに祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:何にも勝る主へのいけにえ(1サムエル15章)
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天声教会では、人の祭りは終わりにし、純粋な主の祭りが行われるように、と日々祈り整えている。
今回、サウル王の失敗(1サムエル15章)から、人が犯しやすい間違いと、主は何を第一に求めておられるのかを見て行きたい。

アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ(1サムエル15:3)という命令は、とても厳しいように見えるが、主は最善を知り、未来をも見通されるお方である。
アマレク人を生かすか生かさないかは、将来のイスラエル存亡に関わる重要問題だったため、主はその命令を与えられたのだが、サウルと彼の民はそれに従わず、王アガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで聖絶するのを好まず、ただつまらない値打ちのないものだけを聖絶した。(15:9)
良い物まで滅ぼすのは惜しい、主は厳しすぎる、少しは取って置いてもいいのでは、と言って、最善なる主の言葉に自分の思いを混ぜてしまうと、最善は最悪に取って替わり、災いが起こる。
事実、その事が災いとなり、アマレク人は、後にダビデと部下達全ての財産と妻を奪い、サウル王にとどめを刺し、ずっと後のエステルの時代には、アガグの子孫ハマンがイスラエル民族を皆殺しにしそうになった。
主の命令は時に厳しく見えたり、人の目に違うように見える事もあるが、サウルのように自分の判断を優先させると、後にその判断が仇となって滅びを招き、主が正しいお方だったと後悔しながら思い知るのである。

サウルは主のあわれみによって勝利したにもかかわらず、さっさと自分の記念碑を立て(12節)、自分の手柄にしたが、悪い結果は人のせいにする性質がある。(21節)
それはアダムと同じ性質で、罪を認めなかったり責任転換するなら、主との正常な関わりは持てない。
『サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」』(15:13)
一見キレイな言葉だが、主の言葉を守っていないのに守りましたと言い、主の悲しみがあるのに主の祝福がありますように、と言って、偽りのキレイな飾り言葉を多くする所に、主の嫌われる罪が潜んでいる。

サウルは、主への供え物にするために最上の物を取って置いた、と言っているが、本当にそうだろうか?
『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』(15:22,23)
もし彼が本当に主を愛していたなら、主が言われた通り、最も良い物は、真っ先に滅ぼしたはずである。
主を礼拝するとは、自分にとって最も大切な物、最も良い物を捧げてでも、御言葉に従う事である。
アブラハムは主の命令通り、ひとり子イサクをささげようとしたため大いなる祝福を勝ち取ったし、アベルは羊の最良のものを神にささげたため、その捧げ物に目を留められた。
私達の最も大切な物を明け渡して礼拝する時、主は満足され、捧げた物の何倍にも勝る祝福を得るのだ。

『サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」』(15:30)
彼は王国が自分から取り上げられたと宣告され、その事の赦しを願うよりも、なんと、この期に及んで民と長老の前で面目を保つ事を願っている!ここまで来るとどうしようもなく、サムエルも彼と2度と会わなかった。
もし神に喜ばれない事を示されたなら、私達が取るべきはダビデのように正直に認める態度である。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」詩51:19
主の前に砕かれた心でいるなら、主はその者の罪を赦し、ささげ物を受け入れてくださる。

人の目を気にする以前に、また、人をどうこうして支配する以前に、真に主に喜ばれているかどうか、心を吟味し、常に「聞き従う」という、どんないけにえにも勝るいけにえを捧げ続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:栄光を捧げるべき主・十字架のイエス(ルカ23:33-43)
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「されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)
我々人間は、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、主人も奴隷も、されこうべ、即ち死へと皆向かっている。
そして我々人間は皆、神の御前で犯罪人であり、イエス様の右か左か、どちらかに行くことになっている。
十字架は人を、右と左、すなわち永遠の救いと滅びのどちらかへと切り分ける。その分かれ道は何だろう。

指導者達も、兵士達も、受刑者の一人も、共通してイエス様に「自分自身を救え」と言っている。
しかしイエス様は自分を”救えなかった”のではない。圧倒的な天の兵力を動因する権力も、自身を奇跡的に救う力もあったのに”敢えて自分を救わなかった”のが正しい言い方である。
もしイエス様が圧倒的力によって自分を苦しめる者を滅ぼしたりしていたら、救いは「圧倒的力」による事になってしまい、そして神の王国は、圧制によって支配する恐怖政治の極みとなってしまっていただろう。
そして何より、もしイエス様が十字架から降りて自分を救ったなら、人類に救いは無かったのだ。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
その時その場所で無事だったから分からないが、主のこの言葉によって、知らずにのんきに罵詈雑言を丸投げしている彼ら(我々)は執り成され、義なる神からの聖なる炎によって滅ぼされずに済んだのである。

人は思う。自分を救ってくれるのが神だ、願いを叶えてくれたら神だと認めてやるよ、と。
自分の願いを叶えてくれるのが神、自分を救うのがメシヤだと、人は当たり前のように思い込んでいるが、「主」は自分ではなくイエスとすべきであり、自分の願いではなく、神の願いの方を救うべきである。
自分を滅びから救ってくれた方を嘲り、罵り、どんちゃんさわぎする所に、滅びに向かう人の愚かさがある。
イスラエルの民は、神は牛のように俺達の役に立ってほしいと鋳型に自分の願いを嵌め金の子牛を造った。
滅びに向かう者の特徴とは、自分が正しい、イエス様が間違っている、とする事である。

それに対し、救いに向かう者の特徴は、自分が間違っている、イエス様が正しい、とする者である。
その日、唯一パラダイスに行った者を詳しく見たい。
「我々は自分のやった事の報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪い事をしていない。」
彼は、自分が今受けている苦しみは自分の罪の当然の報いであり、イエス様は悪い事は何もしなかった、と告白した。これが、イエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。
「御国の位におつきになる時には、思い出してください」(40節)
彼もイエス様も死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずである。なのに、なんと、その先の話をしている。
しかもなんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側に、「御国」があると告白している。
彼はイエス様を、生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には栄光の御国があると告白し、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これもイエス様と共にパラダイスに行く者の特徴である。

この告白をした者は強盗で、死刑判決を受ける程の悪人である。
教会に行ったことも無ければ、良い事をした事もあまり無く、生涯の最後の最後、死刑執行の真っ最中に告白しただけで、パラダイスに行けると約束された。
どんな生き方をして来たのか、どんな状況にあるかは全く関係無い。
パラダイスに行く者とは、自分は罪人であり、キリストが義人であると認め、キリストこそ生死を越えた王であると認め、十字架の向こう側には、栄光の御国があると告白し、主と個人的に関わって欲しいと進み出る者である。
そのように主に告白して、その日をパラダイスとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストの祭りと人の祭り(出エジプト20:23-25)
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神の定めた掟
「あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。」(出エジプト20:23-25)
出エジプト20章は有名な十戒授与の場面で、この命令は、火と密雲が立ち込めるシナイ山の麓で、大地は震え、雷鳴と角笛の音が高く鳴り響くという、モーセさえ恐れて震える程恐ろしい状況の中で与えられた。
エジプトを出たイスラエル民族に、神が幾度も偶像を作ってはならないと幾度も命じたのは、神は見えないお方である故、人は神から目をそむけ、目に見える偶像や指導者のほうを頼りやすいからである。
私達が神に捧げるべき礼拝は、土、あるいは、ノミを当てない(汚されていない)石の祭壇の上で、まことの犠牲となられたイエスキリストのみを捧げるべきである。

人の祭り(出エジプト32:1-6)
ところがイスラエルの民は、指導者モーセが40日姿を見せなくなると、金の子牛という偶像の神を造って早くも逆らい、各自身につけていた飾りの品々を寄せ集め、ノミで型を作り、若い雄牛の鋳像を造り「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。(出エジプト32章)
そして焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
鋳像とは、鋳型にノミを当てて好き勝手な形を造り、そこに溶かした金属を流し込んで作る像である。
人の祭りは、人手による「型」にノミを当て、各自が身につけていた飾りを集約して流し込み、そうして作った好き勝手な「理想像」にいけにえを捧げ、その前にで飲み食いしたり戯れたりするのである。
主の大いなる御技の数々を経験し、主の臨在の雲と火の柱の前にあっても、自分の欲に従って動きたい者は、まことの神を押しのけ、節操無く好き勝手な神を作り出し、好き勝手な礼拝を生み出すものである。
こうした人の力による「理想像」は、古くはバベルの塔であり、神無しでやっていくための文明の利器である。
牛は畑の力であり(箴言14:4)、物を運んだり食肉にしたり、便利で有用な財産である。
そして人が神に捧げるべきものであるが、決して人間が神にしてあがめるものではない。
人にとって有用な牛や、文明の利器、あるいは指導者を偶像化し神格化し、まことの神以外を神とする行為こそ、最も忌み嫌われる罪であり、親子3代4代にも呪いを招く行為である。(十戒第1,2戒)

私達の勤め
モーセは民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。(32:25)
民が乱れかける最初の時、アロンはほうっておいたため節操無く乱れて行き、敵の物笑いとなった。
「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(詩篇106:23)
本来神は偶像礼拝を忌み嫌われ、民はこの時全員殺されて然るべきだったが、それでも生き残れたのは、モーセが執り成したからに他ならない。
私達も破れを担って神と人との間に立ってとりなさなくてはならない。
また、我々のエクレシアにおいて「人の祭り」が兆候を見せた時、速やかにその芽を摘み取らなくてはならない。
我々はキリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたため、混じりけの無い純粋なパンであり(1コリント5:6-8)そしてそれは、わずかのパン種によって容易に汚されてしまう。
人間の祭りの原因となる人の欲望や、人の手による業というパン種をきれいに取り除き、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭を祝うみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

 

礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステとは(使徒2:1-36)
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ペンテコステとは、イエス様の復活後50日目(ユダヤの祭りでは五旬祭または七週祭という収穫祭)に、イエス様の約束どおり、弟子達に聖霊が目に見えるしるしとして降り、力に満たされた日である。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

聖霊充満の動機 - 神の栄光を現すため
彼らが自分とは異なる国々の言葉で語った内容は、「神の大きな御技」である。(使徒2:11)
聖霊充満を求める者は多いが、その動機は自分の栄光や自分の活躍のためではなく、主のためであるべきで、まことの言葉である主イエスキリストをのべ伝えるために言葉の壁を越える徴が与えられたのである。
事実、大いなるしるしに驚いて集まった者達に語ったペテロの説教は、大いなるしるしについてよりも、むしろナザレ人イエスについて、時間を割いて丁寧にメッセージしている。(使徒2:14〜36)

聖霊充満の特徴 - 舌が替えられる
彼は以前、とんちんかんな事言ったり、舌の渇かぬ内に裏切ったりと、舌による過ちをよく犯し、神のことがらを思わず人間のことがらを思っている、と、主からサタン呼ばわりされた事さえあった(マタイ16:23)
生来の舌は「不義の世界」であり、自分を汚す火であり自らも地獄の火によって燃やされる。(ヤコブ3:5,6)
しかし、彼が聖なる炎の舌に触れられ、聖霊に満たされてからは、人間のことではなく主イエスキリストのことをもっぱら伝える者となり、別人と思えるほど大胆な説教者として造り変えられた。
私達はそのままでは汚れた唇の者であり、聖なる神の御前に立てず、神にとって有用ではなく有害である。
イザヤは祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいてから、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となる事が出来るのだ。(イザヤ6:1-8)

ペンテコステの逆現象 - 混乱:神ではなく人間が高くなる事
ペンテコステでは言葉の壁を破る奇跡が現れたが、そもそも言葉の混乱という呪いの原因は、人間がひとつの言葉の元で天まで届く塔を建て、人間が高く上がろうとした事が大元である。(創世記11:1-9)
バベルの町のトップに君臨していたのは、地上で最初の権力者でもあるニムロデ(反逆者という意味)で、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)という性質は、「私は天に昇ろう、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)という究極の反逆者・サタンの性質である。
ペテロは主から「あなたは神のことがらを思わず人間のことがらを思っている」と、サタン呼ばわりされたが、主イエス様を脇に寄せ、自分を上にあげて主張する動機こそ、サタン由来であり、人間が高く上げられて神のようになる事による事の成果物は、混乱と離散、滅びである事は、歴史が証明する所である。

聖霊に満たされ、主に有用な者となるには
聖霊に満たされるコツは、第一に、主イエスの御名の元に一つになっている事(使徒2:1)であり、ユダのように、自分勝手に一匹狼で行動してイエスの名の集まりから離れる者には、滅びが待っている。
「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。(使徒2:20,21)
被造物の光は陰り、人の栄光は廃って行くが、まことの光であるイエス様の名を呼ぶ者は、決して闇の中を歩む事は無く、いのちの光を持っている。
主の集まりに集い、聖なる火によって人間のことがらと汚れた唇を焼き清めていただいたなら、初めてイザヤのように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と主に申し出る事が出来、そして御言葉を伝えるために、主の導きに従って遣わされて行くのである。
主にとって有用な者となり、御霊に満たされ、力強く遣わされて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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