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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

大いなる喜びの日(ルカ2:8-20)
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週報/メッセージ(説教)概要

 世間ではクリスマスを祝っているが、このクリスマス、すなわちイエス様が乙女マリヤを通し赤ちゃんとしてお生まれになった日は、BC(BeforeChrist)からAD(アンノドミニ:主の恵みの日々)へと変わった歴史的転換点であり、聖書も、旧約から新約へと転換した、天においても、地においても、大転換した日である。
この大いなる出来事は、バプテスマのヨハネが誕生した時のように、大勢の人々に驚きと共に伝達されたのではなく、人知れず静かに起きた。しかし、この事を知り、信じた人々は、天的な大きな喜びを体験する。
そしてその喜びのおとずれは大いに広がり、今や、この東の果てまで届き、さらに全人類へと広がっている。

『すると、主の使いが彼らの所に来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。』(ルカ2:9)
イエス様がお生まれになった日、それを告げ知らせるために御使いが使わされた先は、人が好んで行かないベツレヘム近辺の野原であり、告げ知らされた人々は、人々に軽んじられて来た羊飼い達であった。
御使いは、屈強な男も恐れ倒れる程、恐ろしい存在である。たった一人の御使いによってアッシリアの軍隊十八万五千人は倒されてしまった。その御使いが軍勢をなし、羊飼いと羊達の前に現れたのはなぜか。
『御使は言った、「恐れるな。見よ、全ての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。』(10節)
天の大軍勢は「恐れるな」と声をかけてくれた。御言葉を愛し、弱く愚かな羊達を忠実に夜通し守っている羊飼いのような人々に、御使いは、恐ろしい有様ではなく、美しく大きな喜びを知らせる者として現れる。
彼らはただの羊飼いではない。「救い主がお生まれになるダビデの町」と言えばベツレヘムだと分かる程、聖書に精通した羊飼いだった。御使いは主に敵対する者には恐ろしい存在だが、主を恐れる人々に仕えるために遣わされる霊であり(ヘブル1:14)、主を恐れる者の周りに陣を張って守ってくれる。(詩篇34:7)
『きょうダビデの町にあなたがたのために救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。』(11節)
私達のためにお生まれになった救い主は、なんと、動物の餌箱の中に見つけられる、と言う。
キリストは神の身分でありながら、神の身分に固執しようとせず、かえって自分を無にし、僕の立場を取って人間となられ、十字架の死に至るまで従順だった(ピリピ2:6-11)。世の始まる前からおられ、人が近づく事のできない聖なる光の内に住まわれる神の御子であられるイエス様が、動物の餌箱のような汚い器である私達の内に、事実、宿って下さったのだ!これは大いなる驚きであり、大いなる喜びでもある。
この、天地がひっくり返るような、歴史がひっくり返るような驚きのおとずれと、大きな天の喜びは誰のものか。それは、羊飼いのように、聖書の言葉を握りしめ、誠実に弱い存在を守っている人々のものである。
あるいは、東方の博士達のように、救い主のしるしを見たなら、遠くから、高価な贈り物を携え、旅して来るような人々のものである。実際に宇宙が彼らのために動き、彼らの礼拝のために、星が都合をつけてくれた。
この大きな喜びは、聞いて、信じて、礼拝に来る人々に与えられる特権であるが、聞いても信じず、相変わらず自分の生きたいように生きる人々には、全く何にもならない。当時、ユダヤの王宮にいた人達や、ヘロデ王は、預言書の内容を知らされ、そこで語られていたユダヤの王が生まれた、という言葉を聞き、実際そのしるしがあらわれているのに、王座を降りようとせず、かえってその王を邪魔者扱いし、異邦の博士たちに調査を全部丸投げして密かに殺そうとさえした。しかし主は、そのような者達には決して見出されない。
主は、誠実な礼拝者には、あらゆる都合をつけ、宇宙を動かしてまでして、赤ちゃんとなられたイエス様と出会わせて下さるが、逆の者達には、あらゆる都合をつけてそのたくらみが頓挫するようにして下さるのだ。

クリスマスはキリストの来られた事を祝う日であると、誰もが一度は聞いているはずだ。しかし大勢の人々は、そっちのけにし、各々、キリストを抜きにした好き勝手な祝いをしている。昔も今もそうであるが、彼らにはこの喜びが分からない。しかし、知ってあらゆる都合をつけて世に現れた救い主を礼拝しに来る人々には、赤ちゃんとなられたイエス様を抱き、胸の内へとお入れできる特権が与えられる。
現代、マタイ24章に示されている預言の諸々が実現し、主が戸口まで近づいている事は明らかである。
『この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた・・・羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。』(17節)
この羊飼い達のように、主から任された羊達を誠実に養い、主から聞かされた事を忠実に行い、人々に伝え、そして自身は主を礼拝し、天的な大いなる喜びに溢れつつ生きて行くみなさんでありますように!

万軍の主の熱心が凝縮された「ひとりのみどりご」(イザヤ9:1-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 処女がみごもってインマヌエル(主が共におられる)という男の子を生む預言は、アハズ王の時代に与えられた。彼は預言者イザヤから「静かに主を信頼しなさい」と言われていたのに、余計な右往左往して、アッシリアに助けを求め、しかもその出先から偶像の設計図を取り寄せ、イスラエルで偶像を建ててしまった。
主に頼る道を捨て、アッシリアという暴力的な力強さに頼る者は、暴力に悩まされ、頑固になまでに御言葉に聞き従わない姿勢を貫き通す者には、頑固なまでに災いが離れない事が、前回のイザヤ8章あった。
人に災いがつきまとう場合、必ず最初に人の側の罪があり、罪が彼を責め立てる口実を得たのである。
しかし主は人がいつまでも災いに苦しんでいる様を黙っておられない。それが今回の箇所で示されている。

『しかし、苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(イザヤ9:1)
ゼブルンとナフタリは、主を礼拝する所から離れていた故、真っ先に異邦人と和合し、罪に染まり、罪由来の災いを真っ先に受けてしまった。私達も御言葉から遠く離れているなら、真っ先に異邦の拝むものや異邦の価値観に感染し染まってしまう。だから、礼拝と聖徒の交わりから離れないように気をつけるべきだ。
『あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。』(3節) 「獲物」とは、勝利した側が敵から分捕るものだが、サタンという敵が不当占拠していたあらゆる良きもの、囚われていた人々を分捕り返し喜び楽しむ様が、ここにある。
『これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。』(4節) 御言葉に背く先には必ず汗と労苦があり、罪由来のむちと杖による刑罰が必ずともなう。しかし、悔い改めて主に立ち返るなら、彼らを打っていたむちと杖は粉々に砕かれる。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。』(5節)
罪の飲み食いをし、罪の取引をする内、人の血を流して返り血を浴びたり、あるいは罪に強い者から血を流されたりする。そうして血に汚れた服や靴は、ひとりのみどりごが来る時、火のえじきとなって清められる。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(6節)
長らく全世界を覆っていた、分厚くしつこい闇と死。その漆黒の世の海に、唯一の光、ひとりのみどりごであられるイエス様が投じられた時、前章までの全ての頑固な闇は、解消される。このお方は、どういう方か。

『まつりごと(government)はその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士(Wonderful Counsellor )、大能の神( The mighty God )、とこしえの父(Everlasting Father)、平和の君(The Prince of Peace)ととなえられる。』
「まつりごと」とは、政治である。日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の政治はイエス様の肩に置かれている。大祭司はイスラエル十二部族の名を肩に負って主の御前でつとめを果たすように(出エジプト記28:9-12)、イエス様は私達の名を負って神の御前で執り成しのつとめを為される。
主は、どんなにしつこい悩みや問題も、解決不能な事さえも解決へと導いてくださるワンダフル・カウンセラーであり、力ある神である。日本の政治のように、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、何々の書類を整えなければ受理しない事も無く、ただ「イエス・キリストの名によって」いつでも、どこでも「永遠の父」に申請する事が出来、それをするなら、素晴らしい助言が与えられ、力ある神の権力が行使され、平和の君であられる、それらのあらゆる善き性質を、いつでも求める事ができるのだ。
『万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。』(7節) 聖書の中で「主の熱心」が現れる時はいつも、人が悔い改め、自分の罪を離れる時、主がその人を助け、救おうとする場面だ。(イザヤ9:7、37:32、59:17)
熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって人を愛し、人を救おうとされる。万軍の主の熱心が、究極的に形を取ったのが、ひとりのみどりごである。イエス様は、命を捨てる「passion」(使徒1:3)をもって、私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。
私達には、2つの道がある。ゼブルンやナフタリのように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続け、ひたすら強い者から奪われ、搾取され、奴隷とされ続けるか、それとも、イエス様の愛の情熱を受け入れ、永遠にイエス様の政治とカウンセルと力の主権の中で歩んでいくか。イエス様の道を選び、そのとこしえの祝福の内に生きる皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

主よ、来てください(イザヤ8:17-9:7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 アドベントの元々の意味は、主の「ご到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事である。『主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。』(イザヤ8:17) 
この世はなぜ、闇に満ちていて、あたかも主が御顔を隠しておられるような状態なのか。
主は元々、人を愛し、救いたくて仕方ないのだけれど、人の悔い改めない心が「隔ての壁」となり、神様に救えなくしているのだ。19節に、人々が死人に伺いを立てている有様が記されているが、神を度外視したこの世の知恵は、全て、死にゆく人々の知恵であり「死人伺い」と変わりが無い。主こそ唯一救って下さるお方なのに、その主に呼び求めない所に、救いが無い状態からいつまでも脱却できない原因がある。だから続く20節で、「ただ教えとあかしとに求めよ。」と促しているのだ。「教え(トラー)」は御言葉である。
御言葉は、書かれてあるだけでは単なる文字列に過ぎないが、それを信仰をもって私達の内に入れる時、それは命となり、力となり、神が実際的にこの世で働くきっかけとなり、そうして私達が、主が働かれる中で生きている時、それを見る人々にとっては、主が生きておられるという「あかし」になる。
この「教えとあかし」に尋ねないなら、「夜明けがな」く、闇から抜け出せない。その闇は、どれほどの闇であったのか、21節以降にある。すなわち、飢えて放浪し、飢えて怒りに身を委ね、上を仰いでは王と神を呪い、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者しか見えない。それでも希望を掴もうとしてもがき、でも、掴んだと思っては、それは希望ではなかったと知って悲しむ。あのサマリヤの女のように、異性や結婚、あるいはお金や地位など、世のものに潤いを求めるが、それを飲めば飲むほど、渇いて行く。(ヨハネ4章)

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(9:1)
人には絶望しか無くても、主には「希望の”しかし”」がある。ゼブルンの地とナフタリの地は、イザヤの時代、アッシリアに占領され、「はずかしめ」を受けた。アッシリアは栄えたが、衰退し、その後にはバビロン帝国が支配した。その後もなお、辱められっぱなしであった。バビロンが栄え、衰退し、後にはメディア・ペルシャが興ったが、その時もそうだった。その後、ギリシア帝国が起きた時も、ずっとそうだった。相変わらず悔い改めず、主に立ち返らず、「死人伺い」と変わらないものに求めていたからだ。
しかしローマ帝国の時代になり、皇帝アウグストゥスが住民登録せよという勅令を出した時、「異邦人のガリラヤ」から、ある貧しい夫婦が、ダビデの町ベツレヘムへと上って来た。彼らがベツレヘムで男の子を産んだその時、長年かなえられていなかった、その慰めの預言が、ようやく成就した。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(9:6)

かのサマリヤの女は、かつて5人の夫があったが、今一緒にいる男は夫ではない、とイエス様に指摘された。同様に、この地も、かつて5つの帝国に辱められ、支配を受けてきたが、真の王は、なかった。しかしローマ帝国の時代、イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになった時、イスラエルは真の王を得たのだ。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イエス様が宣教を開始された地である。当時のイスラエルはイエス様を迫害し、排除した。しかし、彼を主とし、王として受け入れる人には、素晴らしい特権が与えられる。
『主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(6-7節)

イエス様こそ、人となって来られた「御言葉」なるお方であり(ヨハネ1章)、それも、人が抱っこできる赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは小さくて、壊れやすくて、大切に扱わなくてはならない。しかし、このイエス様を胸の中に抱いて迎え入れ、内に宿らせるなら、私達の中に光が宿る。このイエス様に聞くなら、イエス様は私達の内でどんどん大きくなり、ダビデの王座につき、平和の花咲く永遠の国を建てて下さる。
苦しみのあった所に闇がなくなり、辱められていた者は慰めを受け、やがては永遠の国において、流して来た涙は拭われ、慰められ、死もなく、悲しみもそしりも無い、永遠の天国へ、イエス様は導いて下さる。
このアドベントの時、御言葉とあかしを束ね、闇に沈んでいる人々に、イエス様を届ける者でありたい。

主の言葉を「ハヤー」した人の幸い(ルカ1:39-56)
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 先週はコーエンの学びの週だったが、神様は本当に私達が想定していない領域へと導いておられる事を知った週だった。主が備えられた新しい領域へと入って行くためには、アブラハムのように生来の生き方や考え方の「捨て上手」となり、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者となっていく必要がある。
本日よりアドベントが始まったが、今回、今までの生き方・考え方に関しては「捨て上手」であり、主の言われる事には躊躇なく飛び込んで行った「女の中で最も祝福された人」、乙女マリヤの場面を見ていきたい。

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。』(ルカ1:41) 祝福された人の声は、胎の子さえ喜びおどる。胎の子は、分かるのだ。声の主の、霊的性質が。祝福された人とはどういう人かをエリザベツが言っている。『主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。』(45節) つまり、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人が、祝福された人である。
マリヤの親類・エリザベツは「アロン家の娘のひとり」(5節)なので、当然、「ハトラー教育(御言葉を、胎の子に向かって語りかける胎教)」を施していた。乙女マリヤも、同様である。
胎の子は、10週くらいすると、聞く機能が形成され、外界の音を聞くようになる。母の口から出てくる言葉や夫との会話、あるいはテレビやインターネットから流れて来る世の歌やニュース、ゲームやパチンコ等から来る機械音など。胎の子は、意味は分からずともそれらの音の源の霊的性質を察知し、取り入れて行く。
敬虔なユダヤ人女性は、身ごもると、5mほどの特別な布を用意し、この子が生まれたらこのようになって欲しいという御言葉を、刺繍し始める。胎の子に向かってトラー(モーセ五書)の朗読を聞かせながら。
そのように、信仰と愛情に溢れた御言葉によって、胎教された子は、御言葉に関する事、神の国の事柄に関する事に対して喜びを覚え、神から離れた世的な事に気持ち悪さを覚えるようになっていく。

御言葉を口ずさむ時に大事な事がある。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、アロンの大祭司家の末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは「その言葉を存在させ、溢れさせる」という意味だと言った。
つまり「ハヤー」は、神様の言葉が好きで好きで、心に刻まれ、暗記し、その内容が、喜びや感動、時には熱心や激情と共に「溢れ」る事なのだ。ハヤーなきメッセージは無力であり、ただのお説教となってしまう。
あの時のマリヤのあいさつが「シャローム」であったなら、マリヤの人生の中で得たシャロームという意味に込められた、あらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、さらに祭司の娘であるエリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、声高く叫ばせたのである。「わたしの主の母」、と。
クォン・チャンギュ先生は、ハヤーの意味に衝撃を受け、単なる御言葉暗記をするのではなく、神を愛し、御言葉を愛する心をもって口ずさむ「ハヤー」こそすべきだと、提唱している。「ハヤー」は、単なる暗記ではない。私達は、ユダヤ人の真似をして、彼らのように頭脳が明晰になる事や、英語を上達させる事を第一目的としてテフィリンさせてはならない、むしろ、主を恐れ、主を愛し御言葉を愛するように導く事こそ教育のはじめであり、知恵のはじめ(箴言1:7)なのだ。「主を愛する」事を除いて暗唱させるのは、危険だ。
主を恐れ敬う事なしの知能の鋭利化となってしてしまうからだ。御言葉によって「徳」を積んだ上での知識を用いなければ、世界がおかしくなってしまうのは、洪水前の世の中を見れば明らかである。
パリサイ人はよくテフィリンされている。しかし彼らには、神を愛する愛が無かった(ヨハネ5:42)。彼らは神から遣わされたお方を信じなかった、すなわち、御言葉がハヤーされていなかった事を主に指摘されている(同37-38)。彼らは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はイエス様をあかししているのに、イエス様の元に来ようとせず、かえって、人からの栄誉だけを受けようとしている。(同34-44)
私達はパリサイ人のようでなく、マリヤのように神とその言葉を愛し、そして御言葉の「大好き」が溢れ流れるようにしたい。ハヤーに溢れたマリヤは、喜びに溢れて賛美を歌った。その最後を「わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(55節) という言葉で閉じている。
アブラハムの子孫とは、御言葉を信じイエス様を信じる私達の事であり、生来の生き方や考え方については「捨て上手」、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者達である。このハヤーの祝福に共にあずかっていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
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 今週は、いよいよコーエンの学びの週である。主は今、東の地アジアにおいて、事を起こそうとしておられる。コーエンのキム博士がテフィリン(御言葉暗唱)運動を始め、現代、韓国や特に中国(シニム:12節=シナ)においてテフィリン教育を受ける子供達が莫大に広がっている。「海沿いの国々(島々)よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。」という呼びかけで始まるイザヤ49章は、東の果てから主の民が集まって来るという、素晴らしい約束が記されている。主は「しもべ」を用い、イスラエルの残りの民を帰らせるのみならず、彼のしもべを光とし、救いを地の果てへ届けるために用いて下さるのだ。(6節)
しかし彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うが(14節)、それに対し主は、『見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ』(16節) と言って下さった。そう、主は十字架のあの時、私達を、イエス様の手の中へと、刻・ま・れ・たのだ。イエス様のほふられた傷は、永遠に残っている。(黙5:6)
「主はわたしを忘れている」と思う時、イエス様の十字架の釘跡へと永遠に刻まれた私達を、思うべきだ。

なぜ彼らは頑として「主はわたしを忘れた」と言うのか。それは、やられっぱなし・奪われっぱなしだったからだ。何故にそうなってしまったのか。それは自身の罪の故だ。主はずっと、方向を正して御言葉の導きに従いなさい、と言っておられたのに、正さず、あくまで頑なに我が道を進み、してはならない事をしてばかりいたので、彼らの子供達は奪われ、住んでいる家は廃墟と化し、敵に好き放題奪われっ放しだった。
けれども主は、彼らを慰められる。「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。・・・あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」(18節)
花嫁の帯は、当時、決して忘れてはならない花嫁の必需品で(エレミヤ2:32)、尊い石で飾られていた。
主は、彼らの子達を集めて、花嫁の帯のように飾りとして身につけさせて下さる、と言うのだが、この子達は不思議である。彼らは言っている。『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。』(21節) 一体この子供達は、どういう子達だろう。
鍵となるのは、54章である。子を産まない不妊の女に主は「喜びなさい!あなたから出る子供達は、普通に生まれた子達よりもっと尊い、宝石のような輝いた子達だ」と言われる。 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)
ここで大事なのは「主の教えを受け」という言葉である。人を御言葉で養うなら、ちょうどパウロとテモテのような霊的な親子関係となり、たとえ実の子でなくても、尊い宝石のような子供の、産みの親となれるのだ。

聖書は逆転劇に満ちている。ハンナやエリザベツ、そして、多くの国々の母・王たちの母となったサラは、不妊の女だった。なぜ彼女達は、普通に子供ができなかったのか。それは彼女達に子供ができない期間、主に心を向けさせ、熱心に祈らせるためであり、その子を、主に捧げるようにするためである。
親が「自分が育てたから素晴らしい子になった」という願望を子に投影し過ぎてしまうと、子は息を切らしてしまいがちだが、この宝石のような子達は、なんと、育てた記憶が無い(49:21)。鍵は「主の教え」である。
御言葉暗唱(テフィリン)教育は、子の心と思いに刻まれた御言葉が、子を育てるのだ。それは、親流儀の「あれしちゃだめ、これしなさい」ではないので、親も疲れないし、子も疲れない。テフィリン教育で子供を育てるなら、一体いつの間にこんなに素晴らしい子に変わったのだろう、という感想を持つ経験者が多い。
女性はエデンで、神の言葉を乗り越えた罪の故、子を産む時の苦しみをペナルティとして受けた。でも、むしろ、産んだ後、子を世へと「送り出す」ための、子育てという苦しみのほうが大きいのではなかろうか。
人は、御言葉を越えてしまう価値観においては、子育ての苦しみは多く、神の子のような子は育たない。
しかし、主に明け渡した人が、御言葉にその子を委ね、御言葉がその子を育てるなら、子育ての苦しみは少なく、こんなに素晴らしく育った子は一体誰がいつ育てたのだろう、と、不思議がるようになるのだ。
この遠い東の果ての島々の国、シニムの地域において、主の教育を授け、自分が産んだのではなく「主の御言葉」が産んだ子供達が、所せましと多くされ、キラキラ輝く宝石でちりばめられた花嫁の帯のように飾られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エデンの外側でいのちの木の実を得る方法(創世記1:9-13)
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 本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
神は、創造の第3日目、大海の中からかわいた地を出させ、同じ日に大地から草や木を生えさせ、様々な種類の果物や種が出るようにと定められた。それは、私達人間や、あらゆる生き物が「食べる」ためであり、それもなんと、太陽や月、星が創られるより前に、植物は創られた。神は太陽よりも先に果物や種が実る植物を生えさせた程、また、この世が終わった後にも存在する程、実りを実らせる木は重要だ。
今回、人類にとって最も重要な木である「いのちの木」に至る道を学びたい。

私達は普通に、木や草は、太陽光によって育つものと思っているが、どうやら聖書によると、太陽光なしで育つ、私達の知らない木が存在するようである。太陽なしで育つ木、それは、黙示録22章にも登場する。
『川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』(黙示録22:1-2) この聖書最終章においては、もはや太陽も月もないが(同21:23)、いのちの木は、太陽なしで育つ。エデンの園の中にあったいのちの木には、ケルビムの剣に阻まれて行けなくなってしまったが、実は、エデンの外側で「いのちの木」に至る方法が、箴言の中に4箇所しるされているのだ。

 愧侶辰蓮△海譴鯤瓩┐觴圓砲鰐燭量擇任△襦△海譴鬚靴辰り捕える人はさいわいである。』(箴言3:18)
いのちの木を得る人の第一の特徴は、知恵を捉えようと努力し、掴んだらそれを離さない人、すなわち、真の知恵である御言葉をテフィリンする人である。テフィリンとは、いつでも御言葉を口ずさみ、暗唱し、心と思いを御言葉で満たして行くものであるが、実際これをする人は健やかになり、頭脳明晰になり、自ずと必要が満たされ、神の性質を身につけて行くという、エデンの園の住人であるかのような性質を帯びてくる。
◆慇気靴ぜ圈淵張.妊ク:法に則った)の結ぶ実は命の木である、不法な者(カハーム)は人の命(ネフェシュ)をとる。』(箴言11:30) すなわち御言葉という真の「法」に則った人は、命の木の実を結ぶ。次のようにも書いてある。『全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。』(ヘブル12:11)
つまり忍耐して正しい行いをし続ける人は、平安な義の実、いのちの木を得るのである。
それに反し、「不法な者」と訳された語「カハーム」は、呪術的な邪悪な知恵であり、それは人のたましい(ネフェシュ)を魅了し、奪ってしまう。ちょうど善悪知識の木が、人を魅了し、いのちを奪ってしまったように。
『望みを得る事が長びく時は、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。』(箴言13:12-13) ここにおいても御言葉を重んじて忍耐して御言葉の成就を願い待ち望む人は、やがていのちの木を得るような喜びを得る事が記されている。
ぁ慷イ靴ぁ淵泪襯據次ЪL的な)舌は命の木である、乱暴な言葉は魂(ルアハ)を傷つける。』(箴言15:4) 
いつもテフィリンによって口を御言葉で満たしているなら、そのような人の舌は「治癒的」となり、その人がそこで言葉を発する時、周囲の人は、あたかも、いのちの木がそこにあるかのように癒されて行くのだ。
それに反し、乱暴な言葉は、霊(ルアハ)を破滅させる。霊を救う言葉があり、霊を破滅へと導く言葉がある。御言葉によって洗練された人の宣教の言葉は、人を癒やし、生かし、永遠のいのちへと導くが、しかし乱暴な言葉で人をつまづかせるなら、永遠の滅びへと至らせてしまう。だからイエス様は言われたのだ。
小さな人につまずきを与えるような者は、石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と。

以上のように、テフィリンこそ、エデンの外側で生きる私達にとって唯一の、いのちの木に至る道である。
テフィリンの逆、いのちの逆は、御言葉に逆らう事と、御言葉から独立した善悪知識である。
アダムは「御言葉」に逆らって善悪知識の木を食べてしまい、エデンから追い出されてしまった。それこそ楽園から追いやられてしまう性質、死をもたらす性質である。アダムとエバは、善悪の木から取って食べたその瞬間に心臓が止まって死んだわけではなかったが、徐々に「死」が体をむしばんで行った。その、徐々に進行して行く「死」と「呪い」に、唯一対抗する手段が、テフィリンなのだ。
天国は、神の栄光が満ち溢れ、神の支配が行き届いており、いのちの木に満ちている。今、この地上において私達は御言葉を口ずさみ、テフィリンし、神の国をもたらし、いのちの木の実を結ぶ者として歩みたい。

主が行けと言われる所に(使徒1:3-8)
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 今回の訪韓は、前半は韓国コーエンにて研究員として学び、後半はテフィリン教育で素晴らしい成果を上げている学校や、また、中毒患者を御言葉によって見事に回復させ有用な働き人へと育て上げている団体を訪問したりと、多くの実りを得た訪問だった。彼らに共通している事は、ただ「いのち」を建て上げ、神の国を立てあげよう、という点で必死であり、一切、自分の何かを大きくしたいという所がなかった。
今回、韓国コーエンで学んだ「使徒行伝」から、私達神の国の働き人は何を第一にすべきかを学びたい。

使徒行伝、それはイエス・キリストによって召し出された人達が働いた記録である。弟子達をはじめ信じた人達が聖霊に満たされ、力強く大胆にキリストを証して行くこの書の中心は、実は、以下、1章3節である。
『イエスは苦難を受けた後、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日に渡ってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』 イエス様は復活後の40日間、十数回に渡って弟子達に現れ、彼らと一緒に居られる時間が残りわずかな時、最も伝えたかった事は、「神の国のこと」だった。
教会では使徒行伝からは、聖霊充満の事や教会の働きの事が強調されがちだが、私達は主が最後を惜しんで弟子達に示された「神の国のこと」にこそ、思いを向けるべきである。イエス様がいよいよ挙げられる直前、主は「エルサレムから離れないで約束されていた聖霊を待ちなさい」と言われたが、それに対して弟子達が言ったのは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」だった。(6節)
弟子たちはイスラエルの復興、すなわち、自分の願望成就を、握りしめたままだった。イエス様は、どれほど失望されただろう。しかしイエス様は言われた。『ただ、聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』(7-8節)
イエス様は、伝える範囲は「全世界」だと明確に 宣言された。聖霊の力を受けたなら、それは何のために用いるか。それは、主が生きておられる事を地の果てまであかしするためであるが、12弟子はしなかった。

聖霊降臨後、エルサレムで信徒の数が莫大に増えて行ったが(2-6章)、それでも福音が伝えられたのは、いわゆる「ユダヤ教徒」のみで、全くの異邦人には全然伝えられていなかった。しかしステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、エルサレムの教会は強制的に散らされていった。『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。』(8:1)
これを機に、福音を持っている人々はようやくユダヤとサマリヤの地方へ散って行った。それでも使徒達は、なお留まっていた。 ペテロをはじめ12使徒は、主が取り払われた「ユダヤ人」という枠組みを、結局、割る事ができず、自分にとって居心地が良い所を出られずにいたままだった。
それにひきかえ、使徒パウロは、主が命じられるなら、どこにでもすぐに行った。その結果、使徒行伝では12使徒は徐々に影が薄くなり、パウロは大いに用いられ、新約聖書後半の主人公的存在となった。
私達は、自分が「こう」と願った事をずっと握りしめ続けたり、思い通りになるまでそこに留まり続けたりするのではなく、イエス様が時を惜しんで語られた「神の国のこと」に思いを馳せるべきである。今、神の国は、どこにあるのか。自分が今、何をするのが「神の国の成就」であるのかを。

使徒行伝は最後、唐突に終わっているように見えるかもしれないが、使徒行伝の最後の節を良くみると、私達への重要なメッセージがある事を見出す事ができる。『(パウロは)はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。』(使徒28:31) はばからずに、妨げなく、神の国のこと、主イエス・キリストの事を伝え、教え続ける。これこそまさに、私達の本分である。
ここの「伝え」「教え」は、二つとも現在形分詞、すなわち、今なおずっと継続している動詞であり、つまり神の国と、主イエス・キリストのことは、今なおずっと語られ続けているのだ。今も、私達を通して、継続して。
私達は、ある程度満足な「今」の状態にとどまっていたい、という思いを、割らなくてはならない。心地よかった所を出ていく事や、慣れていない働きへ踏み出して行く事には、恐れがあるかもしれないが、主の「働き場」があちらへ移った、という事であるなら、私達もそちらへと移って行かなくてはならない。
そうでないと、12弟子のように、置いてけぼりにされてしまう。心地よい井戸の中を脱却し、主が行けと言われる方へと大胆に進み行くみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

イスラエルとなるためには(創世記32:22-33:4)
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 イスラエル。一つの国家として有名だが、イスラエルは元々は、一人の人で、その名はヤコブだった。
彼から12人の子が生まれ、それが大いに増え、12部族となり、そして現代に至っている。今回、イスラエルとは一体何者か、聖書の中で事実上イスラエルが誕生した場面から、その本質を探りたい。

イスラエルという人は、元々、ヤコブという名だった。名の意味は「かかと」あるいは「押しのける」であり、まさにその名の通りを生きてきた。彼は兄エサウのかかとを掴みながら生まれ出て、長男の権を奪い、父からの祝福を騙し取った。その結果、兄エサウの殺意を買い、母リベカはおじのラバンの所へ彼を送り出した。
時が解決すると思ったのだが(28:44-45)、時は解決しなかった。彼はかつてして来た事のやましさから逃げてきたが、兄と対面しなくてはならなくなった時、大いなる恐れに襲われた事が32章全体にかわ分かる。
彼は群れ全体を二つに分けてリスク分散したり、贈り物を波状的に贈り出す事で兄を宥めようとしたりと、色々な画策を立てたが、それでもなお恐れは消えず、夜、起き出して、妻と子供達を先に川を渡らせた。
32章は「夜」という言葉がよく出てくる。彼が「ヤコブ」として人を掴み、モノを掴み、出し抜いて騙し騙し生きて来た結果、人々を恐れ、彼よりも「騙し・出し抜き」に長けた人から弄ばれる「夜」の生き方で生きてきた。
彼の人生の夜闇が高じて、喉元まで迫ってどうにもならなくなった時、ある人が現れた。『ヤコブは一人あとに残ったが、ひとりの人(イシュ)が、夜明けまで彼と「組打ち(アバク:レスリング、相撲)」した。』(32:24)
彼と相撲したのは、ひとりの「人:イシュ」である。後に分かるのだが、その「人」は、神であった。相撲とは、抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘であるが、この、「神であり人であるお方」と、ヤコブは相撲を取ったのだ。
その格闘は、彼の命運を賭けた祈りでもあった。『どうか、共に「力をつくして」わたしのために神に祈ってほしい。』(ローマ15:30) この「力をつくして(スナゴニゾマイ)」は、奮闘し相撲を取る意味も含まれている。
箇条書きの祈祷課題をダラダラと読み上げるような祈りではいけない。私達もヤコブのように、「神であり人であるお方」、すなわちイエス様に、相撲を取る勢いでぶつかって行くなら、主は答えてくださる。
『ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちする間に外れた。』(32:25) ヤコブは今までその足を使って問題から逃げてきた。
そこを神に触れられ、もはや逃げられなくなった。御前において良くない企みをしながら生きて、それを捨てないまま助かろうとしても、助からない。彼はその格闘の前、自分を一切変えないまま、状況が変わる事によって助かろうとする、都合の良い祈りをしていたが、そんな彼に対する神の答えは、相撲だった。

長い夜は、明けようとしていた。『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた「わたしを祝福して下さらないなら、あなたを去らせません」。』(26節) ヤコブは、自分の「夜」が明けるだけでは飽き足りなかった。さらに突き進んで、「神であり人であるお方」の祝福が欲しかったのだ。
それを表明した時、『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節) こうして彼は新しい名が与えられた。そして、その方から祝福を受け、彼に太陽が照った。今まで問題だと思っていたものは、もう問題ではなかった。
イスラエルの「エル」は「神」の意味、「イスラ」は「サーラー」の派生語で、定義は「粘る」「忍耐強く続ける」、意味は「争う」「苦闘する」であり、イスラエルとは、神に粘り強く時には苦闘する程に関わりを持つ人である。
ヤコブは、主からもものつがいを打たれ、逃げる足をへし折られ、嫌がおうでも逃げられなくなった。
しかし、それが彼の、全く新しい祝福の人生の始まりだった。今まで人を出し抜き、家族やしもべを先に進ませていたが、今や、『みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。』(33:3)
問題から逃げる足はへし折り、ただ粘り強く神と向き合い、神に全てを明け渡して、そうして問題と正面から向き合う時、私達も「イスラエル」となって神に支配され、そして「神のように支配する者」となる。
英語の辞書では、Israel = "God prevails",”he will rule as God”とあり、またガラテヤ6:16によると、「神のイスラエル」とは、割礼を受けた人の事ではなく、十字架によって世と分離し、新しく創造された事の基準に従って進み行く人の事である事が書いてある。神と粘り強く関わりを持ち、神の支配を受け、そうして新しいイスラエルとして世を治めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

敵のそしりを止めさせる「霊的城壁」を築け(ネヘミヤ5章)
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 ネヘミヤ記から城壁を建て直す働きを学んでいる。城壁は外敵を防ぐもので、私達にもそのような城壁は必要だが、どんなに「外」の城壁を堅固にしセキュリティを強化しても、それに関係なく自滅してしまう、という事がある。どんなに経済的・体制的城壁が堅固でも、「霊的城壁」に破れがあるなら、いとも簡単に滅んでしまう。今回、外的な城壁のみならず、霊的城壁を立て直したネヘミヤの働きを、5章から見ていきたい。

5章は、イスラエルの民からの強い訴えで始まる。自分達には養わなくてはならない子供達が大勢で、食料を得るために、働かなくてはならないのに、それが出来ない状態である(2節)、窮乏ゆえに田畑や家を抵当に入れざるを得ず(4節)、それも、重い税金ゆえに窮乏状態となり、田畑は抵当に出ているので収入も得られず、子供を奴隷に売る事を強いられている、しかも、既に娘が奴隷にされてしまった者もいる(5節)。
この訴えは、同胞ユダヤ人に対するもので、同胞の有力者が、同じ同胞から搾取しているのだ。(1,5節)
15節を読むと、ネヘミヤの前任の総督達は負担を重くし、取り立て、若い者達は威張り散らしていたという。
同じ同胞なのに、役職を得たとたん、取り立て搾取する者となり、それで下々の民は貧しくなり、家や畑を抵当に取られ、どうしようもなくなって、息子娘を奴隷として売ってしまう。それを人々はネヘミヤに訴えた。
律法によるなら、同胞の人が貧しくなって生活が成り立たなくなっても、決して奴隷としてはならず、彼らの生活が成り立つようになるまで、雇い人として扶養すべき事が書いてある。(レビ記25:35-43)
3節によると「飢饉(ヘ:ラアブ)」が起きていたようだが、なぜ、ききんが起きるのか。それは、兄弟姉妹が貧しくなったら養うべきを、それをせず、逆に搾取して奴隷にし好き勝手にするという、御言葉違反を延々続けていたから、主の呪いである「ききん」が起こり、貧しい循環から延々と抜け出せないでいたのだ。

ネヘミヤは聞いて怒り、トップ達を集めて言った。「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは我々の敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。」(6節) 
たとえ城壁を立て直しても、もし城壁の内側で、異邦人と同じ流儀で搾取し、虐げ、暴虐で満ちているなら、彼らの叫び声が天に届いて、それによって主からの呪いが送り込まれてしまう。その呪いは、城壁では防ぎようが無いのだ。それでネヘミヤは「敵である異邦人のそしり」を防護する城壁を築くべきだと主張した。
神の民が「敵のそしり」を、すなわち、サタンが嘲り訴える口実を、自らつくってしまい、それが霊的城壁のほつれとなって、呪いが神の民に入り込んでしまった事が、イスラエルの歴史の中で度々あった。
例えばモーセの時代、民は金の子牛を造って主を怒らせたが、それは、民が「たるんで裸を晒す(パラア)」のを、アロンは放置し、敵対する者(クム)が、物笑いするに任せたためだった。(出エジプト記32:35)
アロンは、民が好き勝手にし出すのに対し、霊的城壁を築かず、むしろ、民衆受けする言動をしてしまったため、歯止めが効かなくなり、敵であるサタンの物笑いとなり、付け込む隙をつくってしまった。私達も、養うき子達が乱れているのを放置しておくなら、どんどん敵の物笑いとなり、破れ口が大きくなってしまう。
ダビデもまた、人妻を寝取ってその主人を謀殺した事によって、敵に物笑いの種を与えてしまった。
『あなたはこの行いによって大いに主を侮ったので(直訳:主の敵に冒涜の機会を大いに与えたので)、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル12:14) このように、人が主の前にたるんだ行動をする時、サタンは嘲り訴える口実を得、それでサタンが災いを降す時、主は人を弁護出来ないのだ。

モーセもダビデも、それに気付いた時に、真っ先にしたのは「悔い改め」であり、償うための具体的な行動をすぐに取った。もしサタンに霊的城壁の破れから侵入されてしまっている事に気付いたなら、すぐに悔い改めと償い行動を取るべきであり、それが霊的城壁となるのだ。ネヘミヤも、まさにそうだった。ネヘミヤは自分から率先して人々への借金を免除し、奴隷を解放し、神を畏れる行動を人々にさせた。(7-19節)
貧しい人を助け正しい事をする人こそ、「破れを繕う者」「市街を回復する者」である。(イザヤ58:6-12)
私達がいかに、思いや心や体の城壁、経済の城壁をどんなに堅固にしても、サタンに責められる口実があったなら、どうしようもない。まずは私達の内側から、サタンの攻撃の足がかりを取り除くべきである。
主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しい。
主は、主を愛する者に眠りを与えてくださる。(詩篇127篇) しっかりと霊的城壁を築き、安らかな眠りが与えられ、寝ている間も主に備えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

戦い方を身につけよ(ネヘミヤ4章)
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 神の民イスラエルは、主への数々の無礼を改めず、預言者の警告を聞かず、好き放題し続けたため、バビロン捕囚の憂き目に遭い、敵が好き放題荒らし、土地も財産も奪われ、どん底の生活へと投げ込まれた。
それでも主は、悔い改めて主に立ち返る人々を回復させて下さる。回復のためには、ネヘミヤのように罪の惨状を悲しみ、「なまけぐせ」を取り除き、荒れた現状を立て直すために立ち上がって行動するべき事を、前回学んだ。その時、必ず敵の攻撃が来るが、今回はさらに、敵の攻撃をどう対処すべきかを学びたい。

再建しようと行動を起こす時、今まで搾取し踏みにじって来た者達はそれを良しとせず、攻撃して来る。
2章では、敵は神の民の再建のわざを、「王に反逆している」と、あたかも悪い事のように思わせて来たが、ネヘミヤは真理の御言葉を唇から発して「境界線」を引き、「真理という防護壁」を築いた故、人々は奮い立って再建を進め、仕事はどんどnはかどって行った(3章)。敵はそれを、なお歯ぎしりして、攻撃して来る。
『サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。』(ネヘ4:1)
その「あざけり」の内容を分析すると、今の惨状や山積の問題へと目を向けさせ、絶望させ、無気力にさせる特徴がある事に気付く。実際、敵の脅しに同意して、再建が無駄であるかのように思わされてしまった人々もおり、脅しに「同意」してしまった人には、敵はさらに調子に乗って脅しにかかって来る。(11-12節)
そんな心萎えてしまった人々に対し、ネヘミヤは、具体的な行動で答える。彼は人々に武器を持たせ、城壁の建て上げが進んでいない所に立たせた(13節)。また言った。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、息子、娘、妻および家のために戦いなさい。」(14節)
ネヘミヤは、もし敵が入り込んで来たら返り討ちにしよう、という意気込みを見せた。敵は、私達の意気込みを、最も恐れる。なぜなら私達が主にあって立つ時、敵である悪魔は「負け」以外に有り得ないからだ。
実際、敵はこれを聞いて自分達の企みは「神が」破った事を聞いて、すごすごとあきらめた。(15節)
『その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。そしてつかさたちは城壁を築いているユダの全家の後に立った。荷を負い運ぶ者はおのおの片手で工事をなし、片手に武器を執った。』(16-17節) 片手でしか仕事ができない、それでは全くはかどらないのでは、と思われるだろうか?いや、これが最もはかどる仕方だ。むしろ武器を持たず恐れながら仕事する方が、敵に付け入る隙を与えてしまう。御言葉の武器だけ持って仕事をしないのも、仕事道具だけ持って御言葉を持たないのも、どちらも再建は進まない。しっかり両方を握り締め、仕事に取り掛かるのが、最も効果的だ。
18節以降では、互いが共に助け合う体制を、さらに強化している事が記されている。もしどこかが攻撃されそうになっても、すぐ一斉に集まれるよう、ラッパを持たせた。結果、仕事は非常にスピーディーに終わる。

『こうして城壁は五十二日を経て、エルルの月の二十五日に完成した。』(6:15) わずか52日で、何十年も手付かずにいた瓦礫の城壁は立て直されたのだ!そんなものである。目の前の瓦礫の山に絶望し、あきらめ、何もしないままでは、92年も瓦礫のままだったが、「片手に御言葉・片手に仕事」、さらに兄弟姉妹が助け合う体制を整え、再建に取り掛かるなら、長年出来なかった事は、実にあっけなく完成したのだ。
『われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである。』(6:16)
私達が御言葉に固く立つ時、敵は恥を見る。「偽りの父」であるサタンは、さも自分達は強いかのように、何でも出来るかのように、あらぬ恐れ・あらぬ恐怖を吹き込み、「再建」という良きわざをやめさせようと脅しをかけて来るが、あの者共は、主にある聖徒達が団結し、御言葉に立つ事をこそ、恐れおののいている。
それで、礼拝や賛美、御言葉宣言、聖徒の交わりを、あの者達は最も嫌い、そこを集中して邪魔して来る。
私達は敵の企みを知り、敵の嫌がる礼拝や賛美や御言葉宣言、聖徒の交わりを積極的にして行くべきだ。
人生において、再建をしようとする時、敵からの心くじけさせる色々な言葉が、あるだろう。あるいは自ら弱気が沸き起こって、やる気を失うかもしれない。その時、そのような敵に対して御言葉の剣を、信仰の大盾を奮って、主の御名によって祈り戦いつつ、片方で仕事をして行くなら、再建は速やかに成されて行く。
いつまでも片手に剣、片手に仕事道具、という、労苦の日々が続くわけではない。御言葉と信仰で武装し、兄弟姉妹同士で共に助けあいつつ仕事をする事で速やかに再建されて行く皆さんでありますように!

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