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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

王としての本格トレーニングが始まるダビデ(1サムエル記18:1-16)
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週報/メッセージ(説教)概要

サムエル記は歴史書であるが、同時に非常に優れた「帝王学」の書である。今回もダビデから、また、彼の周辺の人々から、神の国において、王たるに相応しい者の性質と、相応しくない者の性質とを学びたい。
ゴリヤテを倒した事は、終わりではなく、神様による本格的なトレーニングの始まりだった。
ダビデはつい前日まで野における羊飼いだったが、サウルが召し抱えた日以降、彼はそうではなくなり、今までは全く経験した事が無い所を、否が応でも通らされる。主に用いられるなら、その気がなくても否が応でも有名になり、多くの人々から賞賛と寵愛を受け、同時に妬まれ、脅かそうとする者も現れて来る。
ダビデが信仰によって勝利した事を大いに喜んだのは、サウルの子ヨナタンと、イスラエルの人々だった。
ダビデとヨナタンは、生い立ちも立場もと著しく異なる。一方は王子で長男で、時期の王と注目されていたが、他方は末っ子で、羊飼いで、家の中でさえ軽んじられていた。それでもヨナタンは、身分差別とか、自分の将来の邪魔になるのでは、といった「要らぬ心配」など一切無く、貴重な武器も防具も惜しげなくダビデに与え、彼を愛した。それは、生ける神を信じる信仰者は、身分や国籍など関係なく、互いの内におられる主に惹きつけられ、意気投合し、血が繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるからである。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、「てがらを立てた(セィケル:思慮深くやった、うまくやった KJV:behaved himself wisely)」ので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(5節) ダビデは若干にして戦闘部隊の長になった。
会社では、上司が著しく年下だと、関係が崩れやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は羊飼いの心で、部下の面倒を良く見、戦いでもいつも先頭に立って戦い、「思慮深く、うまく」やっていたため、いつも圧倒的な実績を収めていたからだ。それで誰もが安心してついて行けたのだ。
彼はこうして、急速に有名になり、名声を得、誰もが彼を愛し、急速に社会的に地位を得て行く。
それと同時に、今まで経験した事の無い、人間のどろどろした物事も経験して行く事になる。

サウルの部隊が戦いに勝利して凱旋した時、女達はすべての町々から出てきて、喜び歌いながらサウル王を迎えるのだが、その歌った内容は、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」だった。
ダビデは、羊を飼っていた時、羊達からありがとうの言葉をもらった事は無かったし、命がけで熊を倒した時も、羊達は歌と踊りと華やいだ歓声で迎えてくれなかった。今まで得ていなかった名声を得、異性からもてはやされる事は、大きな誘惑であり、その、「最初の世からの攻撃」によってダメになってしまう人は多い。
しかしダビデは、その点も「うまく」やった。彼があらゆる点でうまくやる事が出来たのは、彼は心を世に向けず、ただ主に向けており、主から知恵と守りを得ていたからだ。そして、羊飼いの心を変えなかった。
名声を得たとたんダメになってしまう人は多いが、ダビデの生涯、誰かに嫉妬した記述は1つも無い。ヨナタンも同じである。彼らはその点クリアだったが、サウルは違った。サウルは女達の歌を聞いて非常に怒り、妬み、不満に思った。部下の活躍を素直に喜ばず、妬み怒るのは、リーダーとしては非常に悪い兆候だ。
ねたみ、怒り、邪推、それらの感情への執念深さ、これらは、最も悪霊が好むものである。
『その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。』(10節) 槍は王宮の中では必要無いはずなのに、サウルは槍を握っており、対してダビデは、主を賛美する楽器を持っていた。
ナイフを持ち歩きたがる人がよく職務質問されるのは、表情が悪いからだが、サウルはもっと悪かった。
 『サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。』(11節) ここで特筆すべきは、二度、それらの事があった、という事である。ダビデは槍を投げられ、それをかわした後、再び楽器を取って賛美を弾き始め、サウルはもう一度槍を投げたのだ。
悪霊は、賛美をする人を極端に嫌い、槍を投げつけるが、主は守られる。サウルが倒せなかったゴリヤテを倒したダビデであるが、彼はサウルに仕返しする事も脅す事もせず、ただ全能者の御手に委ね、賛美による悪霊を追い出すミニストリーをした。まさにイエス様の性質であり、私達も身につけるべきものだ。
キリスト者は、いつも死に渡されているようでいて殺される事は無い。主は、振りかかる全ての困難を通しダビデを守り鍛えられたように、私達をも、王族の祭司として整えられるまで、全てを支配し、守られるからだ。
ダビデのようにただ心を主に向け、あらゆる点で「うまくやる」知恵と力が与えられる皆さんでありますように!

ダビデから学ぶ巨人を攻略する方法(1サムエル記17:38-54)
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 イスラエルの前に巨人ゴリヤテが立った時、それを恐れたイスラエルの人々は40日もなぶられていたが、ダビデは打ち倒した。今回、私達の人生の前に立ちはだかる巨人を打ち倒す術を、ダビデから学びたい。

結論から言うなら、巨人との戦いは、世の方法では勝てないが、「主の戦い」に移行させるなら、勝てる。
サウル王は、戦いを前に、彼の鎧兜をダビデに押し着せた。常識的に、戦いは武具を装備させるものだと思っていたからであるが、ダビデは、それが慣れていないものだと分かると、躊躇なく脱ぎ捨てた。
「主の戦い」は、世の常識や手段に合わせようとすると全然合わず、無理に当てはめようとすると、全く身動き出来なくなる。この罠に陥って身動き出来なくなってしまっている神の国の働き人は、いかに多いだろう。
たとえ、王のような偉い人のものであっても、神の方法に合わないなら、躊躇なく脱ぎ捨てるべきだ。
ダビデがサウルの装備を不採用し、その代わりに採用したのは、羊飼いの道具の杖と、石投げだった。
主の戦いの武器は、人を殺傷する武器や言葉ではなく羊を養い守る道具、真の羊飼いなる主の言葉だ。
また彼は、川から取ったなめらかな石五個を取った。巨人を打ち倒すために用いられるのは、この石のように、御言葉の水の中で揉まれ、あらゆるでこぼこが取り除かれた、「生ける石」である。

ゴリヤテは図体も大きいが、口先も大きい。彼はペリシテの神々の名によって、ダビデを呪い、蔑んだ。
世の中では、さげすみの口が達者な人ほど、場の空気を自分に有利に持って行き、うまく渡り合って行けると思われがちだが、蔑みや糾弾、罵りは、サタンに属するものである。神の国の事柄は、言葉巧みさや、蔑み・罵倒の巧妙さに拠らず、真理のことばによって勝利するものである。暗闇から、悪しき者からの「なじる言葉」や、敵の唇の巧妙さによって、めげそうにな時は、真理のことば、御言葉で上塗りするのだ。
全被造物は、神のことばによって創造された。その「神の子達」が、信仰をもって真理のことばを宣言す時、死はいのちで飲まれ、呪いは祝福に塗り替えられる。全被造物はそれを待ち望んでいる。(ローマ8:19)
ゴリヤテが宣言したペリシテの神は、頭が魚、体が人のダゴン神だ。それは、イスラエルの神の箱を前に、頭と胴体が切り離されてしまった無能無力な神である(5章)。ゴリヤテはその神の名によって呪ったのに対し、ダビデはイスラエル神・主の御名によって立ち向かった。もはや真理の上では、勝利確定である。
私達も、相手がこの世に属する権威や、サタンに属する汚れた罪深い手段に頼って向かってくる時、サタンのかしらを砕いた主であり世に勝利した主イエスの御名によって立ち向かうなら、私達が勝利するのだ。
主の戦いは、肉弾戦や舌戦、心理戦ではなく、背後におられる主にあって勝負するものであり、私達もダビデのように日頃主に従順し、信仰を混ぜて御言葉を宣言し、その通りに行動するなら、ダゴンもゴリヤテも頭と胴体が切り離されたように、悪魔サタンに属する一切のものは、踏みにじられ、粉々に砕かれるのだ。

こうしてダビデとゴリヤテの一騎打ちの火蓋が切って落とされる。人々には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。ダビデは、群衆が状況を把握する間もなく、一瞬で片をつけた。
そう、相手がどんなに仰々しく強がっても、主は、一瞬でサタンの勢力を滅ぼす事が可能なお方だ。
ダビデは最初に宣言していた。『この全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。』(47節)
まさにダビデが宣言した言葉の通りになった。イエス様も何度も言われた。「あなたが信じた通りになれ」と。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは分からないが、石投げのコントロールを鍛えるより、神に愛される品性を鍛えるべきだ。
日頃、ダビデは、羊飼いとして羊を守って行く内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰を培った。
日頃、主との関係を保ち、主と仲良く交わりながら生きている事こそ、大事である。その人は、別に巨人が相手でなくても、何事もすぐに「主の戦い」に移行するくせがついているが、サウル達のように、日頃から御言葉ではなく世の手段で生き、主を度外視して生きているような人は、いざという時、それが出来ない。
ダビデのように、日頃から主と共に親しく歩み、巨人が立ちはだかる時は、主の戦いを呼び込み、勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

生ける神の陣を呼び込んだダビデ(1サムエル記17:1-37)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前々回、ダビデや信仰の先人達が皆経験した「羊飼い」という性質の重要性を見たが、今回は、偉大な王とへと成長して行くダビデが、いかに常人とは違った「神の国の考え方」を持っていたかを見たい。
イスラエルにペリシテが攻めてきた時、ペリシテの代表戦士・ゴリヤテが一騎打ちを申し出て来た。
彼は巨人アナクの子孫で、身長286cm、鎧は57kg、投げ槍は穂先だけでも7kg。彼は言った。一騎打ちする者を出せ、自分を倒せたらお前達の奴隷となってやる、もし自分が勝ったら、お前達が奴隷となれ、と。
人々は彼を恐れ、40日間何も出来ず、いいように言われる屈辱の日々を送った。モーセの時代も、アナク人はイスラエルに罠となった。当時もイスラエルはアナク人を恐れ、約束の地に入る事を拒み、40年の荒野生活を強いられたが、今回もサウル王をはじめ、イスラエルの人々は恐れ、40日、右往左往していた。
ゴリヤテは大上段から、一方的に、彼が決めたルールを押し付けているが、世の、主を敬う事の無い「無割礼の」、大上段な力強い言葉を鵜呑みにするなら、意気消沈し、ただなぶりものにされるだけである。
私達も、目の前に立ちはだかる「現実」「世情」といったゴリヤテの巨大さ・力強そうな有り様を見て、恐れたり、無割礼の者が発信して来る諸々の情報に振り回されてなぶりものにされていないだろうか。
ゴリヤテは「お前達はサウルの奴隷ではないか」と言った。イスラエルの戦士達は、万軍の主のしもべであり、主にあって何者にも勝利するはずである。それなのに皆、ゴリヤテの言葉を鵜呑みにして、神のしもべではなく、恐々なサウルのしもべになってしまっている。世に流れている無割礼のことばは、社会やメディアを通じて私達にもレッテルを張ってくる。「おまえは社会の奴隷ではないか、**会社の奴隷ではないか、おまえは年収**になって、あれとこれを手に入れないなら、おまえの人生は終わりだ」などと。
無割礼のことば、無割礼の強大な者に勝利する秘訣は、真理の言葉を、信仰を混ぜて宣言する事である。

ゴリヤテを打ち倒したダビデは、どうだったか。彼は、父の羊を飼う、紅顔の美少年だった。体重はゴリヤテの鎧ほどにも満たなかったろうし、父の家でも、軽んじられていたが、彼がゴリヤテの言動を見た時、憤りに満たされ、言った。「この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか。」(26節)
他の大人達はゴリヤテの外見や装備を見て恐れたが、ダビデには一切眼中に無く、ただの「無割礼の者」だとし、それに対して自分達は「生ける神の陣」として、「真理の立場」を表明した。偽りの者や割礼無き世の者が大げさに迫って来る時、私達は真理の言葉を信仰を混ぜ込んで宣言するのだ。世の中は、私達神の民が真理を宣言し、真理の御言葉に従う時、霊的世界が動き、そして現実世界も動き出すのだから。
ダビデが宣言した「生ける神の陣」とはどういうものだろう。申命記23:9-13に記されている。
生ける神の陣営は、聖なる所、聖なるお方が歩まれる場所である。『ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたの内に汚い物のあるのを見て、離れ去られる事のないためである。』(申23:14)
ダビデは、聖なる主のために清く保つべき所を、汚れた者に好き放題させていた人達にも憤りを覚えただろう。私達も人生の中、家庭の中に、きよい主を呼びこむためには、自分をきよく保つべきだ。そして、聖なるお方が宿るべき所を、無割礼の者が好き放題にして汚しているのを見たなら、大いに憤るべきだ。
ダビデの長男エリアブは、末っ子・ダビデが、陣営の中で色々な人と話しているのを見て、責めた。年長者の身内が、信仰を挫く事を言って来る時、結構、折れやすかったりするが、ダビデは全く動じなかった。
サウル達もエリアブも信仰が無かったため、「神の陣」ですらなかったが、ダビデは信仰によって、たった一人で「生ける神の陣」を張ったのだ。生ける神の陣が一人でも張られるなら、勝利の主が戦われる。

サウルがダビデを呼び寄せた時、ダビデは、自分が行ってあのゴリヤテを討ち取って来る、と言った。
サウルは、羊飼いの少年が根拠の無い全能感に駆られ大ごとを言っている、と思ったかもしれないが、根拠はあるのだ。彼は父の羊を飼っている時、ライオンや熊が、羊をさらって行こうとしたのを追いかけ、撃ち殺したのだ。彼は誰も見向きもしない羊飼いの仕事をしている間、王の性質と力と信仰を学んでいたのだ。
ダビデは、自分には獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、獅子や熊から羊を救い出す力を与えて下さった主が、勝利をもたらして下さる、と、信仰告白をした。あくまで主の力こそ、勝利の鍵なのだ。
私達も、目の前に、世の強者が立ちはだかる時、真理の立場を表明し、生ける神の陣を張るべきである。
その時、勝利の主が戦いに立たれ、世の無割礼の敵は、この万軍の主の御前に倒されて行くのだ。

愛、憐れみ、恵みという神のわざを為すために(ヨハネ9:1-5)
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 相模原市の障害者施設において、殺人事件としては戦後最悪の19人が刺殺され、26人が重軽傷を負わされるという、未曾有の事件が起きた。今まさに病院で治療を受けている被害者の方々が速やかに回復され、治療や回復の働きに携わっておられる方々の手の技が祝福されるように、また、犠牲者のご家族・友人知人たち、職員たちに慰めがあるように、天声では日毎祈りに覚えている。
植松容疑者は、手紙の中で、「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない」と書いたが、どんな命であれ「命のあり方」は人間が答えを出せるものではないし、また出そうとしてはならない。
 命の事は、いのちの君であるイエス様のものであり、彼こそ、全て、人のいのちの答えを握っておられる。
人は問う。なぜあの人は、あのような障害をもって生まれてきたのか。どうして人生半ばでそうなってしまったのか・・・。イエス様の弟子でさえ、生まれつき目が見えない人をさして、誰が罪を犯したからですか、と主に問うた。人は誰しも、罪の刺が刺さっている。起きている事象を手に取って、見定め、あれこれ批評する本人こそ罪があり、「悪い」のだから、誰が悪い・彼が悪いという議論そのものがナンセンスだ。
唯一、イエス様だけが答えを握っておられる。「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
彼がなぜ、生まれつき目が見えないか。その答えは、「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」。
イエス様はさらに言われる。「わたしたちは、わたしをつかわされた方のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。」(4-5節)
イエス様は「わたしたちは」神のわざをしなければならない、と言われた。「癒し」は神のわざであり、誰も彼もが出来る事ではない。では、「わたしたち」が出来る「神のわざ」とは、何だろう。それは、助けを必要としている人を助け、彼の面倒を見てあげる事だ。それは、世の光であるイエス様を抜きには出来ない。
イエス様抜きにしようとするなら、誰も働けない夜となり、今回の事件のように、底なしの闇へと陥ってしまう。

『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。・・・、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。』(ローマ15:1) キリストは、障害だらけ・罪だらけの私達を、なぜ受け入れ、面倒を見てくださったのか。それは「神の栄光」のためだと書かれてある。つまり、たとえ見返りが望めないにしても、それでも弱っている人達のために働く全ての人達は、「神のわざ」の一旦を担っているわけである。
弱さをおぼえている人の面倒は、本来、身内が見るべきであり、それが出来ないなら、強くまた余裕ある人々が担うべきである(1テモテ5:4-16)。だから、福祉施設で働く人は、本来、子育てをしっかり終えて、いのちを育む喜びと達成感を経験した、余裕のある人が、良い待遇の元で為して然るべきである。
しかし現実には、障害を持っている人の身内は、施設に預けっぱなしの事が多く、また、彼らの面倒を見る職員としては、これからいのちを生み、はぐくみ育てる喜びを未来に控えた、未婚の若者達が、安い賃金で働かされてしまっているケースが多く、彼らは自分の家庭を持つ事もできないまま、将来に希望が見出だせず、いのちの喜びを削りながら働き続ける事になってしまう。これは、国の制度が不当であり、それを改善しないなら、このような事件を「正統」と勘違いして起こすような者達があらわれても仕方がない。

今回の犯人は、社会に益をもたらさず重荷になるなら安楽死を、といった「損得勘定」で計算して事を起こしたが、そういう自分が、損得勘定抜きの愛・憐れみによって育み育てられた事を、計算に入れていない。
人はみな、かつては、自分では何も出来ない赤ちゃんだった。なぜ何も出来ない赤ちゃんであった時代が何年もありながら、今、生きているのか。それは、何も要求する事なく、損得勘定ぬきに無条件に受け入れ、はぐくみ育てる存在があったからに他ならない。「恵み」「憐れみ」は神のご性質であり、人はその「神の仕事」を為す者である。それを人がする時、愛・憐れみなる神の仕事をしているわけであり、神から報いを受ける。『宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたは幸いになるであろう。』(ルカ14:13)
この闇の時代にあって、いのちの君である主からいのちの望みと喜びを頂き、この世の全ての死はいのちで飲み込み、光の子として働いて行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

羊飼い - 主の働き人が受けるべき必須課程(詩篇78:70-72)
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 主はなぜダビデを王として選ばれたのか。また、主から選ばれる人は、どのような性質の人なのか。
そして、主から尊い事に大きく用いられる器となるためには、どのような性質を特に鍛えれば良いのか。
今回は、ダビデが最初に主に選ばれた場面から、そして聖書で重要人物とされている人達から学びたい。

アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル12部族の父祖達、モーセ、ダビデ。これら聖書の中で最重要人物である彼らが、共通して従事した職業を、ご存知だろうか。その職業とは…羊飼いである。
復活のイエス様が、失敗したペテロを再び召命する時、3回も命じた事は「わたしの羊を飼いなさい」であり、そして私達の主は、まことの羊飼いである。神の国の働き人を目指す人は、羊を飼う事は、必須科目だ。
羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で迷子になりやすい。自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは彼らを牧草地や水のほとりへ導く。悪い獣に狙われ易く、現れたなら杖や鞭、石投げで追い払う。
羊はどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。思い当たるふしがあるだろうか?
それで羊飼いは、エジプトでは嫌われ(創世記46:34)、イエス様がお生まれになった時代も、皇帝アウグストから、住民登録から外されてしまうような、卑しい職業とされていた。私達の信仰の父祖達の輝かしい実績が聖書に記されているが、その陰では、羊を養う事で、人生の大半を費やしていたのだ。
主の目は、弱く愚かな羊たちを養っている羊飼いにこそ、注がれる。イエス様の誕生を真っ先に告げられたのは夜番をしていた羊飼いであった。モーセは前半人生は王子として華々しく過ごしたが、その後、荒野で40年も羊を追う生活をした時、主から召命を受け、その後40年は、イスラエル60万という羊を導いた。

ダビデが主からイスラエルの王として白羽の矢が立ったのは、彼がまだ紅顔の少年で、父エッサイの羊を飼っていた時だった(1サムエル記16章)。
エッサイは、サムエルから子を招くよう言われた時、末っ子ダビデだけは同席させず、羊の番をさせていた。
人は、うわべを見る。その人の容貌や美しさ、年齢、立ち居振る舞いなど。しかし、主は心を見ておられる。
少年ダビデが、誰からも目を留められなかった時、主が彼を「王を捜し得た」と評価したのは、彼は、任された羊たちを、忠実に守り、養っていたからだ。皆さんは、ライオンや熊が吠え猛りながら羊を奪って行ったら、奪い返すために追って行くだろうか。ダビデは、それをしたのだ。そしてライオンも熊も打ち倒し、羊を取り戻していたのである。主は、託された羊を守るために、その人に力を与えて下さる。
ダビデは、人に見られない隠れた所で忠実に、弱く、愚かな羊であっても決して見捨てず、命を賭して守る性質だったからこそ、隠れた所を見ておられる主の目に叶い、主から王として人知れず選ばれたのだ。
人目に隠れた所で忠実に羊を養う性質こそ大事である。偉い人の目がある所では美しく飾っても、去ったとたんに、弱く愚かな羊を軽んじ、打ち叩いたりするなら、主から何も任されない。長男エリアブはサムエルからは「これこそ油注がれる者だ」と思われたが、主は彼を退けた(16:7)。彼は麗しい見た目でも、ゴリヤテを前には何も出来ず、末っ子ダビデが来た時は威張り散らし、彼を「羊を放置した」となじった。(17:28)

皆さんは、主から「羊」を託されているだろうか。主の働き人を目指すなら、「羊」を忠実に養うべきだ。
アブラハムもモーセもダビデも、神学校で訓練したのではなく、羊を飼う事で、訓練されたからだ。
羊は、何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。恩知らずかもしれない。汚い所を転げ回って、臭さを振りまくかもしれない。強情で、自分に突進して来るかもしれない。落ち着かせて、ようやく一息つこうとした矢先、どこかに行って迷子になったり、悪い者にたぶらかされて、連れ去られて行ったりするかもしれない。
全然報われていない、埋もれてしまっている、一体いつまで続くのか、と思えるかもしれないが、その道は、決して間違っておらず、尊い時なのだ。それは主の訓練で、私達の”信仰の”父達、おじいさん・ひいおじいさん達は皆、羊の面倒を見たり、引き戻してやったりしている内に、どんどん整えられて行ったのだ。
私達の羊飼いであられる主は、言われる。「わたしの羊を飼いなさい」と。私達も信仰の父達に習い、今、任されている羊達を忠実に養い、主へと捧げられる立派な羊に育て上げ、モーセやダビデのように立派な働き人として成長し用いられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

追え、必ず追いついて救い出す事が出来る(1サムエル記30章)
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 ダビデは、自分や部下達、家族達の生活の保証を得たいと恐れるあまり、礼拝の場所を離れ、弱肉強食の地・ペリシテへ身を投じ、そこの王アキシュに気に入られるために偽りと略奪、殺戮の日々を送っていたが、ついにその報いが自分の身に追いつき、イスラエルに刃を向けに行かなくてはならなくなってしまった。
御言葉から離れ、世に取り入ろうとするクリスチャンは、必ずダビデのこの葛藤に陥る。しかしその中からでも、自分のどうしようもない弱さや罪を後悔し、悔い改め、主に助けを求めるなら、主は助けて下さる。
ダビデ達がアキシュと一緒に出陣した時、ペリシテの領主達はダビデを見て一斉に反対した。彼がかつて強力な敵将であったから信用ならなかったのだ。そうしてダビデは、神の民に手をかけずに済んだが、主は、彼の偽りと暴虐の生活そのものを改めさせ、健全な信仰生活へと戻すために、少々荒治療をされる。
ダビデ達が出かけていた間、アマレクの略奪隊の手により彼らの妻子も財産も全て奪われてしまったのだ。
ある日家に戻ってみたら、家が焼かれていて、妻子も、それまで築き上げて来た財産も全部失っていたら、どうだろう。しかし弱肉強食の世の中で生き残るための騙し合い・奪い合い・殺し合いを続けるならは、いつそれが自分の身に降り掛かって来るか分からない。早かれ遅かれ、その刈り取りをしてしまうものである。
ダビデの部下達は、怒りの矛先をダビデへと向けた。自分達をミスリードした上司は、死んでお詫びしろと。
ダビデは、偽りと略奪を部下達にもさせ続けた結果、部下達にも、妻子や財産を全部奪われさせてしまったのだ。ダビデの悩みは、どれ程だっただろう。この絶望の極地の時、どうすれば良いか。

ダビデは、主によって奮い立った。『ダビデはアヒメレクの子、祭司アビヤタルに、「エポデをわたしのところに持ってきなさい」と言ったので、アビヤタルはエポデをダビデのところに持ってきた。』(7節)
エポデは祭司が主に御心を伺うための道具である。私達キリスト者も、御心を伺うために「祈りや御言葉というエポデ」持っている。不信仰な行いを続け、絶望のどん底に落とされた時こそ、これを活用すべきだ。
『ダビデは主に伺いをたてて言った、「わたしはこの軍隊のあとを追うべきですか。わたしはそれに追いつくことができましょうか」。』(8節) 主の答は、追え、必ず追いつける、必ず救い出す事が出来る、であった。
私達も、どんな”アマレク”に、大事なものを奪われて来ただろう。ただ悲しんで何も手段を講じずに問題を放置していてはならない。自身の罪と不信仰を悔い改め、主に伺う時、それがV字回復の起点となるのだ。
ダビデ達は追撃を開始した。それまでダビデを殺そうとしていた部下達は、信仰によって奮い立った彼を権威に感じ、彼に追随したのだ。状況はとても厳しい。疲れが激しく川を渡れなかった人が200人もいた。
残り400人で追わなくてはならない。どこにどのくらいの相手がいるかも分からず、あてども無い。
ただ1つ、「追え、必ず追いついて救い出す事が出来る」という、主の御言葉の約束だけが、燦然と輝いている。そのような時、人の側が力を尽くして出来る所まで御言葉に従順するなら、あとは主が働いて下さる。

主が彼らに送って下さった助けは、一人の「行き倒れ」だった。ダビデ達は、略奪隊を追う途上の、貴重な時間と食料を裂き、その行き倒れを助けてやった。彼はアマレクの略奪隊の若者で、病気で使いものにならなくなったと、捨てられた者だった。私達は、危急の時こそ、憐れみを忘れてしまいがちになるが、ダビデがかけた憐れみは、1つも虚しく地に落ちた事は無かった。それは、私達も適用すべき法則だ。
この一人の行き倒れが、後には、ダビデ達600人のみならず、その妻子達全員を救ったきっかけとなった。
ダビデ達が到着した時、略奪隊は戦闘の構えを解き、多くを分捕った故に、地に散り散りになって、飲めや食えやのお祭り騒ぎをしていた。急襲するにはうってつけのタイミングである。ダビデ達は夕暮れから翌日夕暮れまで撃ったので、らくだに乗って逃げた400人の他、逃れた者は一人も無かった。もしダビデが時間を裂いて若者を助けていなかったら、このタイミングも、この膨大な敵を討取る事も、不可能だった。
こうしてダビデ達は、妻子を救ったのみならず、奪われた以上を奪い返し、一転して物持ちになった。
ダビデの部下で、よこしまな者は、”自分達が”分捕ったものは、一緒に行かなかった者に分けてやる必要は無いと言ったが、ダビデは”主が賜ったもの”をそのようにしてはならないと言った。(21-25節)
主は、憐れみ深いお方である。私達も不信仰ゆえに、礼拝から離れ、世の方法で罪深い事を増し加える日々を続けるなら、何もかも失ってしまうが、その時、信仰を奮い立たせて主に帰るなら、主は救って下さる。この素晴らしい主から決して離れる事なく、いつも祝福の王道を歩んでいく皆さんでありますように!

人を恐れて罠にかかったダビデ(1サムエル記27:1-28:2)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ダビデはイスラエルでは最も偉大な王であり、神からも「わたしのしもべダビデ」と愛された王である。
今回は、彼が王になる前に犯した失敗から、私達も陥りやすい罠について学び、次回、その失敗からいかに立ち直って前よりも優れた者になるべきか、そして、主はいかに真実なお方であるかを見たい。

ダビデがサウル王の部下として活躍していた時、彼があまりに有能で、神からも人からも愛されていたので、それを妬み恐れたサウル王は、ダビデを殺そうと、彼をつけ狙うのだが、神はことごとくダビデを守られた。
神はダビデに、二度もサウルを殺すチャンスを与えられたが、ダビデは二度とも、主に選ばれた王サウルを殺す事は拒否し、むしろ「憐れみ」「赦し」という、神の前に高貴なわざで、サウルの横暴に勝利した。
その勝利の直後、ダビデは彼らしくない失敗を犯す。彼は思い巡らす。このままではサウルに殺されてしまうから、イスラエルを離れ、敵国ペリシテに逃れよう、そうするなら、自分達は生き長らえるだろう、と。
この決断は、主に伺った形跡は無い。動機はただ将来への不安・恐れである。それで彼は、礼拝する所のあるイスラエルを離れ、弱肉強食の地・ペリシテへ逃れて行った。今風に言えば、将来を不安するあまり、収入は良いけれどいわゆる「汚れた」仕事へ身を投じ、礼拝から離れた生活に入って行くようなものだろう。
ダビデは勇士であり、統率力も人望も実績もある。どこに転職しても、そこそこ上りつめる自信はあっただろうが、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人への「要求」は、どんどん過酷になって行く。

こうしてダビデとその部下600人、そして彼らの妻子全部は、ペリシテの王アキシュの元に身を寄せた。
サウルはそれを聞いて、もはやダビデを追う事を止めた。彼の当初の目論みは「成功」しただろうが、主に頼らない地、弱肉強食の世界で生活し続けるには、その世界の”実績”を上げ続けなくてはならない。
悪徳業者には騙し・脅しなど、暴力的な性質が「価値」であり、それを訓練して行くように、ダビデはペリシテ王に気に入られようとした時点で、その方面の「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまった。
ダビデはそこで「略奪」を”なりわい”とするのだが、彼は表向き、イスラエルの町々を襲っているように見せかけ、実の所、異邦の町を襲って、神の民イスラエルに手をかける事は、かろうじて避けた。
しかし、それを通すためには、女子供さえ皆殺しにし、口を封じていたのだ。偽りと、殺しの生活である。
『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(12節) ダビデは確かにペリシテ王の信頼を得たかもしれない。
しかしひと度、「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と思わせてしまったなら、その方面のプロとして見られてしまい、その方面の要求はさらに過酷になって行き、ついには、最も望ましくない事を要求されてしまう。

ある日、ダビデはアキシュから「一緒にイスラエルと戦おう」と持ちかけられ、彼はそれを”快諾”してしまう。
それでダビデは一層アキシュの歓心を得、生涯、護衛長として雇おう、という確約も得た。周りからは、僅か一年数ヶ月での大昇進だ、となるだろうが、彼はは果たしてその”終身雇用”の保証を喜べただろうか。
彼の妻になったばかりのアビガイルは、ダビデは必ずイスラエルの王になると確信していたが、彼女はこんなダビデをどう思っただろうか。とてつもない嵐が、彼の心に吹き荒れていたのではなかろうか。
自分はなんという生き方へと嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻子や部下たちを導いてしまったのだろう、こんな事なら、サウルに追われながらでも、神様との健全な関係の内に、信仰者として恥じない生活を、神の民としての誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
そしてその大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。
『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)
神から離れ、世に取り入ろうとするクリスチャンは、必ずダビデのこの葛藤に陥る。しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
それはもちろん、簡単にではないだろう。痛みを伴った、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒すという事はされない。次回、主がいかに憐れみをもって導いて下さり、そしてダビデがいかに信仰にあって立ち直り、以前よりもさらに強固になったのかを見て行きたい。

ヒゼキヤ - 命が延長されない方が良かった善王(2歴代誌29-32章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 預言書であるイザヤ書の中間に、ヒゼキヤ王の時代に起きた出来事が唐突に挿入されている。この出来事は、列王記にも歴代誌にも記されているが、それはこの出来事が、ユダ王国がバビロンに滅ぼされる原因となった重要な出来事だからだろう。今回、その中心人物であるヒゼキヤ王について見て行きたい。
ヒゼキヤ王については、2歴代誌29-32章に詳細に記されており、彼は良い王として記録されている。
彼の父アハズ王は至る所に偶像を建て、主の宮も偶像で汚し、封鎖した故に神の怒りを買い、国はだいぶ弱体化してしまった。ヒゼキヤは25歳で王になったその第一年一月、主の宮を開いて清め、祭司やレビ人を激励し、勇気を出して主の奉仕に当たるよう命じて、礼拝と賛美を回復させた。(29章)
また、南ユダだけでなくイスラエル全土におふれを出し、心から主に立ち帰って、久しく途絶えていた過ぎ越し祭に参加するよう呼びかけた。北イスラエルのほとんどはそれをあざけり笑ったが、呼びかけに応じて集う人々もあった。主から離れた時代が久しく続いたため、祭司や働き人はわずかで、祭りのための知識も準備も不完全であったのに、主は、そんな彼らを執り成すヒゼキヤの祈りに答えられた。
主は祭司の祝福に答えられ、礼拝に参加した人々には大きな喜びがあった。(30章)
人々は霊的に奮い立ち、各所にある偶像を打ち壊した。また、ヒゼキヤは、それまで途絶えていた日ごと・週ごと・月ごとの礼拝を回復させた。その結果、主の豊かな祝福が臨んだ。 『民が主の宮に供え物を携えて来ることを始めてからこのかた、われわれは飽きるほど食べたが、たくさん残りました。主がその民を恵まれたからです。それでわれわれは、このように多くの残った物をもっているのです。』(2歴代誌31:10)
そのような時、大国アッシリヤが攻めて来た。アッシリヤは各国を制圧し、北イスラエル王国も打ち破り、首都エルサレムは、十八万五千もの軍隊によって取り囲まれてしまった。将軍ラブシャケは自分達がいかに強く降伏する事がいかに得策か、ユダヤの言葉で人々に聞こえるように叫びさえした。(イザヤ36章)
『そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、主はひとりのみ使をつかわして、アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。・・・そこで多くの人々はささげ物をエルサレムに携えてきて主にささげ、また宝物をユダの王ヒゼキヤに贈った。この後ヒゼキヤは万国の民に尊ばれた。』(2歴代誌32:20-23)
ヒゼキヤ王の信仰も、主に貫いた従順と忍耐も、主の御前にとても高貴なものである。しかしこの絶頂の時、彼は病にかかり、預言者イザヤから、もうじき死ぬから身辺整理せよ、と宣告される。なぜあの素晴らしい人が?という事はあるが、主は全てのいのちを計っておられ、主の為される事は時に適って最善なのだ。
人は弱くいつでも主に喜ばれる歩みをするとは限らない。実は、命が延長されない方が良い事もあるのだ。

ヒゼキヤ王が主に祈った結果、その祈りは答えられ、彼は15年命が引き伸ばされる事を、しるしをもって示された。そのしるしはなんと、太陽が逆行するしるしであった。(2列王記20:11)
『ヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶった』(2歴代誌32:25) 彼はせっかく主からもらった15年の命を、悪い事に用いてしまった。彼が癒やされた事や、大いなるしるしが起きた事で、バビロンから使節が来たのだが、それに気をよくし、宝物倉も武器倉も全てを彼らに見せたのだ。
しかし、これが元となって、彼が見せた全ては将来全てバビロンに奪われてしまうばかりでなく、彼の子達もそこで宦官にされてしまう事さえイザヤは預言した。『ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。』
彼のこの言葉からは、自分のいのちと保身にしか関心が無い事がわかる。彼は当初、とても高貴な信仰の働きをしたのに、こんなにも卑しい心に成り下がってしまった様を見るのは、とても残念な事だ。
私達はこの事をよくよく気をつけるべきである。当初は素晴らしい信仰と忍耐によって高貴な働きをし、多くの奇跡が起きても、豊かに有名になるにつれて傲慢になり、悪い事に用いられてしまった例は、沢山ある。
心を尽くして主に信頼して歩むなら、確かに祝福され、勝利し、奇跡も起き、病の癒しもあるだろう。成功して有名になるだろう。しかしその時こそ強敵が必ず現れる事を忘れてはならない。その敵は自分自身の「傲慢」である。多くの王達や牧師達の中に、それに負けてしまった人達も多くいる。私達は主のために生き、死ぬなら主のために死ぬ者である事を忘れず、生きるにも死ぬにも主の栄光を現す者でありたい。

わたしは主である(イザヤ41:1-20)
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 先週もコーヘン博士課程で学ぶため韓国に行って来た。今回は特にイザヤ書とレビ記から学んで来た。
主は毎回、素晴らしい御言葉の奥義を与えて下さっておられるが、今回は御言葉においても実体においても、主から「押入れ、ゆすり入れ」しての祝福が与えられた。まことに主は、主を愛し、御言葉に従って歩む人を特別扱いし、あらゆる良きものを与えようとして取り囲み、これもあれもあげようと待っておられるのだ。

天声では毎回、御言葉を自分自身に当てはめ、自分の名前を代入して宣言しているが、それは聖書の勝手な乱用ではなく、御心に適った事である。聖書は新旧約の合計66巻、すなわち、「旧契約」と「新契約」から成り立つ「契約」の書である。旧約聖書は、神がアブラハムの子孫、すなわちイスラエル民族に対して結ばれた契約であるが、彼らはそれをないがしろにし、破ってしまった。
そこで、神の救いは、イエス・キリストを通して全人類へと及ぶ「新契約」として制定され、こうして、全人類が救われるべき対象となり、イエス・キリストを信じる者には誰でも救いが与えられるようになった。
では、旧約聖書は私達と関係が無いのか?『もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:29) キリストにあってアブラハムの子孫、であるからには、旧約は私達に大いに関係がある。トラー(モーセ五書)には248の「しなさい」と、365の「するな」の、合計613の命令がある。これは命令形の動詞で、神の命令形動詞には従順が要求される。
もし命令に不従順なら、何もおきないのではない。呪いが足音を立ててやって来るのだ。しかし従順するなら、奇跡が起きる。救いは確かに福音書に示されているが、その人生が祝福されるか呪われるかは、100%、命令に従うか、従わないかにかかっている。クリスチャンはこれをしっかり把握しなくてはならない。世の人と違って、従順するなら誰より祝福され、しないなら誰より呪われてしまう。それは、特別だからだ。

契約書を交わす時、必ず双方が自分の名を記し、サインまたは印鑑を押して、「これは確かである」というしるしを残す。神は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」と宣言し、あなた達を「贖い」、「神の民とし」、「あなた方は神を知り」、「素晴らしい地を所有する」という4点を「アニ・ヤーウェ」の元に宣言し、そして最後に再び「アニ・ヤーウェ」を宣言して、この約束は確かである、とした。(出エジプト記6:6-8) ユダヤ人達はこの「アニ・ヤーウェ」を、神ご自身の自己署名(サイン、または印鑑)であるとし、また、この一連の御言葉を、神の天国経営のマニフェストと語っている。
つまり、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」という言葉が出てくる時、そこに記されてある内容は、主が「ハンコ」を押した、重要かつ確かな内容であり、主の側が「契約を交わそう」と言っておられる場面である。
「さあ、あなたとこの御言葉をもって契約を結ぼう、既にわたしの側は「アニ・ヤーウェ」のサインをした、あとはあなたの側が、信仰をもって「アーメン」の捺印をし、この言葉の祝福を、ただ受けとる番だ」と。

イザヤ書41章も「アニ・ヤーウェ」が4回も出てくる重要な章である。「海沿いの国々、東の地」(1-2節)の「アブラハムの子孫よ」(8節) と呼びかけられている言葉は、まさしく、キリストにあって霊的アブラハムの子孫とされた、東の地、海沿いの地域に住む”私達”に呼びかけられている場面とすべきだ。
なぜなら、主の側が、アニ・ヤーウェの言葉をもって、私達に迫って来ておられるからだ。
私達は、その行く所で勝利をもって迎えられ、諸々の国々を征服し、諸々の王達を足下にし、足の踏んだ事のまだ無い道を安らかに過ぎて行くという、1-2節の言葉を感謝し、信仰のサインを記すべきである。
また9節からは、私達は主に連れ出され、「__は、わたしのしもべ。わたしは__を選んで、捨てなかった。」という言葉をそのまま信じ、自分のものとし、自分の名前を__に入れ、自分のものとすべきである。
「恐れるな。わたしは__とともにいる。たじろぐな。わたしが__の神だから。わたしは__を強め、__を助け、わたしの義の右の手で__を守る。」(10節) 本当に、主の側からの、しつこい程の促しである。
恐れるな、たじろぐな、わたし、エホバが、あなた__とともにいるのだ、わたしエホバが4回もアニ・ヤーウェのサインしただろう、あなたのために。 主の側がこれ程までに、信仰をもって契約せよ、せよ、と言っておられるからには、どうして私達はそれを感謝して受け取らない事があろうか。受け取らない事はどれほど失礼な事だろう。私達は、信じないで退く者ではなく、信じて進み行き、栄光を勝ち取るものでありたい。

モーセ - 一家の大黒柱の働き(出エジプト記17:8-16)
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 今日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。父の存在は一家の中で最も大きい。男性は家では大抵無口なので、あまり目立たないかもしれないが、父がいるというだけで、妻も子供も安心感を得ているものである。今回、かの有名な人物、モーセから、父親像を見たい。
モーセは父としてのイメージはあまり無いかもしれないが、彼がイスラエルに成した事はとても偉大である。
そんなモーセも、最初から偉大な性質の持ち主だったわけではなかった。主から召命を受けた時、彼はただの80歳の口下手な羊飼いだった。最初は、神様から言われた事を「できません」と何度も断って神様を怒らせたり、やっとパロの前に出ても怖気づいて神様から示された通りに正しく出来なかったりもした。
しかし、曲がりなりにも、神様から示された通りにしたら、それはことごとく驚くべき結果になった。彼はそうした一つ一つの小さな従順の積み重ねで、徐々に神様に信頼を置く事の確信を得ていく。そうしてついにはエジプトに決定的な災いが降され、全イスラエルはようやくエジプトを脱出する。主と歩むなら、実に有り得ない事の連続である。主に依り頼まず自分の力に頼って挫折し、そのまま歳を重ね、口下手な80歳になってしまっても、主に依り頼み始めたその時点で、その性質は徐々に変わって行くのである。

エジプトは戦車や騎兵で追って来た。しかしモーセが主から指示された通りに、杖を海に向けて差し伸べると、主は海を分けて、イスラエルを通れるようにし、エジプトに対しては海を閉じて滅ぼした。
この偉大な事が為されてからわずか3日後、民は、モーセに文句を言い出す。マラという所に来たのだが、その水は苦くて飲めなかったのだ。(出15:22-27) 父というものは、何年がかりの偉大な事業を成し遂げても、目の前にちょっと不足が生じると、たちまち家族から非難の矢が飛んで来てしまうものだ。家族の中でいつも一番心砕いて家族を導いているのに、どう頑張っても、必要なものが得られないという時がある。
その時、家全体を守らなくてはというプレッシャーのみならず、一番助けてもらいたい家族からも非難を受けて、窮地に陥る事もあるが、その時こそ、一家の長たる父は、主に叫ぶべきである。(出22:25)
モーセは主に叫んだ所、一本の木を主から示され、それを水に投げ入れてみると、その水は甘くなった。
こうして彼らは12の水の泉と70本のなつめやしの木がある「エリム(丈夫な木という意味)」へと辿り着いた。
私達の人生においても、苦労の末に辿り着いた所は、苦い所だった、という時こそ、主に祈って叫び、「キリストの十字架という木」を、そこに投げ込むのだ。そうすると、そこは甘い場所になるのだ!

主は彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出し、食料の心配を除いて下さったが、時に、外敵・アマレクが戦いを仕掛けて来た。彼らは疲れ弱っている人達を攻め打ったのだ。(申命記 25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9)
モーセはそれまで、困った事が起きる度に主に叫んでいたが、今回彼は「主は必ず助けて下さる」と積極的に信じ、彼の従者ヨシュアに戦うよう指示して、モーセ自身はあの杖を持って、丘の上に立った。
『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、一人はこちら側、一人はあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。』(出エジプト記17:11-12)
ヨシュアは前線に出て戦っていたが、戦いの勝敗を切り分けたのは、モーセの執り成し祈りであった。
父は一家の長として、そして祭司として、家全体のために祝福し祈る者である。アブラハムもイサクもヤコブも、ダビデも、家族のために祈る祭司だった。そして、執り成し祈りという格闘を続けていると疲れも出てくる。
そんなモーセを助ける「手」となったのが、アロンとフルだった。一家の長が、家族のために働く時、そして執り成す時、疲れも出てくる。その時こそアロンとフルのような、助け手が必要である。助けが無い家、ただ文句ばかり言う家族しかない家は、一家の大黒柱が倒れ、全体が倒れてしまう。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立って取り成して祈る姿を見て、安心して戦えた。父の祈りと励ましによって、妻も子供も安心して出入り出来る。そして主は彼らの旗となって導き、その家を勝利へ導いて下さるのだ。普段から家族のために骨折っている父達を、その家族を、イエス様の名前によって祝福します!

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