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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
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週報/メッセージ(説教)概要

 苦難の内にある聖徒を主が助けられる時、主ご自身が奇跡でもって直接助けられる事はあるが、主にある兄弟姉妹の手を通して助けられる事が多い。それは助ける側も、助けられる側も、共に主のものであり、互いが愛し合う事によって、全ての人が、彼らが主の弟子である事を知るためである。(ヨハネ13:34-35)
前回、聖霊の直接介入によってサウル王から助けられたダビデは、信仰の友でありサウルの子でもあるヨナタンの所に行って訴える。自分にはどんな罪があって、あなたの父は私を追いかけるのか、と。(1)
この状況で知っておくべき前提知識は、この時ダビデは、ヨナタンさえも信頼していいのか分からない状態だった事だ。ヨナタンから聞いていた所では、自分はサウルを執り成し、もう安全だから戻って来なさい、だったのに、全然安全ではなく、ヨナタンに会う間もなく逃げた状態だった。情報交換する間も無いまま時間が経ち、もしや彼は父と共謀していたのでは、という疑心暗鬼が生まれ育っても仕方ない状況である。
サウルがなおダビデの命を狙う事について、ヨナタンはどういう立場にあるのか、探りを入れるためにそう言ったのであろうが、ヨナタンは答える。そんな事は絶対無い、父は必ず自分の耳に入れる筈だ、と。(2)
ヨナタンはどうしてこう、ちぐはぐな、脳天気な返事を返すのか。信仰の兄弟姉妹が、ちぐはぐな返事を返した時、相手を「人でなし」と決めつけて怒ったり責めたりするべきでない。ヨナタンの言葉を冷静に見ると、彼は、父サウルがダビデに槍を投げた事さえも知らなかった様子である。命の危険に晒され続けたダビデからすれば「なんでそんな事も知らないのか」と激昂しても無理はない状況だが、ヨナタンからすれば、父はずっとダビデに手をかけないという誓いを今まで守り続けてくれていた、と信じていたのではなかろうか。
もし二人のうち、どちらかが怒りをぶちまけ、「自分はこうだと言っているだろう」「いや私は和解させた、けちをつけるあなたが違う」と、自分の義を主張し、怒りの感情に心を注ぐなら、誤解したまま喧嘩別れしていただろう。それではせっかくの信仰の麗しい交わりが破壊されサタンの思う壺である。どれ程多くの信仰の交わりが、冷静になる事を怠り、サタンの罠にかかり、友情関係、夫婦関係、信頼関係が破壊されただろう。
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(箴言14:29 -30) 幸い二人には、怒りを遅くする「たしなみ」があった。
ダビデはヨナタンの父サウルを悪く言わず、むしろ擁護しつつ事実を伝え(3)、ヨナタンも短絡的なアドバイスはせず「あなたの言われる事は、何でもあなたのためにしましょう。」(4)と、ダビデに今必要な助けとなるよう申し出た。柔和な心と穏やかな言葉は、悪魔サタンの罠を砕く最善の武器である。神経を逆撫でするような、感情を害する状況や言葉に、穏やかに応対できる程の心のゆとりが与えられるよう、祈るべきだ。

サウルの王宮では月毎の例祭(民数記28:11-15)が守られていたが、ダビデはそれに出席しない事で、サウルに殺意があるかどうかを計ろうと提案し(5)、ヨナタンもまた、ダビデをかくまう事を主の前で誓った。
サウルが心配している通り、ダビデの存在は、ヨナタンが王になる事を脅かしているかもしれないが、ヨナタンはそんな事より、ダビデをかくまう事と、主の御旨が成る事とを選んだ。主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも神の国のことを、兄弟姉妹を守る事を優先させるものであるが、ヨナタンの、主の御旨に従順する思いは、とても偉大なものであった事がこれら一連の事を通して明らかにされる。
『もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。』(14-16)
なんとヨナタンは、この時、ダビデに命乞いをしているような言葉をかけている。国家から追われ、命の危険が迫っているのは、ダビデのほうで、王子ヨナタンのほうが圧倒的に強い立場であるはずなのに。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。今のままでは必ずサウル家は没落し、ダビデが王になる、と。
今、ダビデはどんなに立場が弱く、風前の灯のように見えても主の御旨を行っており、サウルはいかに栄えているようでも主の御旨を損ねているからだ。実際、ダビデは王となり、ヨナタンの家に慈しみが施される。
ダビデとヨナタンの穏やかな受け答えは、破壊を締め出し、麗しい友情と、将来と、いのちを生み出した。
今、まことのダビデであるイエス様は、今の世でどんな風に見えたとしても、やがては世を裁く永遠の王として来られる。今、私達はヨナタンのように、信仰によって知るべきである。来るべきイエス様の王国に備え、信仰の兄弟姉妹を助け合うのだ。それによって私達が主に属する者達であると、明らかにされるためだ。

聖霊によって軍事力から守られる聖徒達(1サムエル記19:18-24)
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週報/メッセージ(説教)概要

 私たちのこの地上での日々には、苦難があるが、それら全ては全能なる主のコントロールの下にある。
主がそれらを許されるのは、それらを通して私達を練り、鍛え、ちょうど良い時に高めて下さるためだ。
今日もダビデが歩んだ苦難の日々から、主はいかに主を頼る人達を守って下さるかを、見ていきたい。

サウルに追われ、自分の家さえ安全でなくなってしまったダビデが最初に逃げた先は、彼に油を注いだ預言者・サムエルの所だった。ダビデはサウルが自分にした全ての事を彼に告げると、彼らはナヨテに行って住んだ。「ナヨテ」はヘブル語で「住居」、アラム語訳では「教えの家」を意味し、預言者学校という語も、ここから出たらしい。そこには、預言者としての訓練を、サムエルから受けている人々の群れがあった。
預言者学校ではどんな訓練が為されていたのだろう。そこでは日々、主に心を向け、色々な楽器を用いて主をほめ讃えつつ、御言葉を宣言する集会が開かれていたと思われる。なぜなら「預言」は、その漢字の通り、神の言葉を預かって宣言する事であり、また、賛美と預言とは、密接な関係があるからだ。(10:5)
ダビデは暫くそこで養いを受けていたが、サウルはそれを聞きつけ、そこにも追手が迫る。(19-20)
サウルは、思ったかも知れない。ダビデの周りには、預言を学ぶ生徒達がいるだけで、鍛えた体と武器を持った追手を邪魔する者はいない、簡単に捕らえられるだろう、と。しかし、知るべきだ。聖徒達に賛美されるお方は、天地万物を創られた万軍の主。ダビデを囲んでいるのは、軍隊よりも遥かに強力な聖霊だ。
後のエリシャの時代、預言者学校の一人の生徒が、朝早く起きてみると、シリヤの軍隊に囲まれていた。
シリヤがイスラエルに戦いを仕掛けようと策略を巡らしても、預言者エリシャによってことごとく見破られ、先手を打たれる事が続いたので、怒ったシリヤの王は軍隊を差し向け、エリシャ達を滅ぼうそうとしたのだ。
『その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。』(2列王記6:15-17)
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とは、ダビデが後に詠んだ詩であるが(詩篇34:7)、ダビデは、この預言者学校で守られている時、それを知ったのだろう。

ダビデを捕える使者達が来た時、ちょうどサムエルがリードする預言の集会の最中で、聖徒達はそれぞれ主をほめたたえ、祈り、御言葉を宣言し、あるいは語られる御言葉に耳を傾けていた。「その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。」(20-21)
実にユニークな守られ方である。サウルから遣わされた捕り手達は主の霊に臨まれ、預言し、そしてダビデを捕らえる事を止めたのだ。実際にそのような事は、ある。コロンビアのある教会で、悪霊に憑かれた人が入ってきて刃物を出し、牧師を刺そうとするのだが、人々が祈ると彼は何も出来なくなり、その場で倒れた。
主の霊が満ち溢れる聖なる所では、悪しき者は活動する事が出来なくなるのだ。
この事は、サウルに対する主の明らかな警告である。主はダビデの側についている、サウルのダビデを殺そうとする企みは、完全に御心に反する事だ、サウルはそれを知ってそれをやめ、悔い改めよ、と。
サウルはそれをも心に留めず、再三、捕り手を遣わした挙句、最後にはサウル自らダビデを捕らえに行く。
しかしなんと、サウルにさえも神の霊が臨み、サムエルの前で預言し、王服を脱いで裸で倒れ伏していた。
イスラエルの間では「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というい言葉が、ことわざのように言い交された(23-24)。人々は本当に驚いただろう。聖霊充満から程遠いような人が、聖霊に満たされるのだから。
しかし、やがて来る。しもべにもはしためにも主の霊が注がれ、預言する時代が。今が、その時代である。
どんなにつまらない者でも、悪どい事をしていた者でも、主イエスが語られるなら、聖霊によって主を知り、悔い改めるなら、聖霊に導かれる新しい永遠の人生が始まる。
しかしそれでも罪の道を選び、聖霊様を悲しませ続けるなら、やがて救いの道は閉ざされてしまうのだ。
こうして、またしても、サウルの企みは退けられ、ダビデは軍事力によらず、神の霊によって守られた。
私たちを守られる方は、世のあの者よりも強く、賛美は私たちの防護壁となる。いつも主を賛美し、万軍の主に守られつつ安全に歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

どんな時にも主に向かい賛美するダビデ(1サムエル記19:1-17)
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週報/メッセージ(説教)概要

先々週のダビデの話のつづきに戻り、私達はいかに主に喜ばれる者として整えられるべきかを学びたい。
 サウルは、自分の娘を道具にしてまでダビデを殺そうと色々企んだが、それらは全て虚しく失敗し、ダビデはことごとく守られた。サウルは、主がダビデと共におられ主が守っておられる事を、そこまで見せられても考えを改める事をせず、ダビデを殺す思いを捨てる事を選ばず、さらに殺意を燃やす方へ進んでしまう。
今までは秘かに殺意を抱いていたのに、今度は、おおっぴらに「ダビデを殺せ」と家来達に言った。(1節)
ダビデは、全ての部下達から愛されていたので、衝撃が走っただろうが、ヨナタンは和解の行動に出る。

『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。』(4節) ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺す「罪」を犯さないで下さい、と、聖書の真理に従った嘆願をした。聖書には「殺してはならない」とあるし、また本来、罪なき人を殺そうと謀ったなら、「目には目、いのちにはいのち」として、彼がはかった通り、はかり返されるはずである。(申命記19章)
さらにヨナタンは、ダビデがイスラエルに対して為した良き実績と、サウルは実際にそれを喜んだ事実を思い出させた。少しでも霊的良心が残っている人には、切って捨てるような御言葉引用や、感情的な嘆願、責めなじる言葉よりも、愛と憐れみ、真理に基づいた執り成しの言葉のほうが、はるかに効果的だ。
サウルは、この素晴らしい「執り成し」の言葉を聞きいれて、主エホバにかけて誓った。「わたしは決して彼を殺さない」と。こうしてヨナタンはダビデをサウルの元に連れ戻し、元の平和な状態に戻った。(6-7節)
私達も、色々な権威の下にあって服さねばならないものだが、もし、上に立つ人が、御言葉に反する事をするなら、その罪に関わる事なく、ヨナタンのように知恵深く、愛と真理に基づいて対応したいものである。
ヨナタンによる和解は大成功に終わったように見えたが、サウルはいともあっさりと、主の御名によって立てた自分の誓いを破ってしまう。サウルはまたしても、ダビデに槍を投げ、突き刺そうとしたのだ!(8-10節)

サウルは、いつ悪霊が入ってしまったか。それはサウルとダビデが家にいた時、サウルは槍を手にし、ダビデは主を賛美する竪琴を手にしていた時だった。サウルは賛美よりも槍を選び、その槍のたった一投によって、自分が立てた誓いも、ヨナタンの尊い和解のわざも、全て台無しにしてしまった。
サウルに悪い霊が入るきっかけとなったのは何か。それは、ダビデがペリシテとの戦いで大活躍した事が、大いに関係ある。つまりサウルは、ダビデの活躍への「嫉妬」「恐れ」「怒り」という、悪霊が好む「エサ」を放置したままだったために、再び悪霊をおびき寄せ、その侵入をゆるしてしまったのだ。
私達も悪しき者が自分の中から出て行った時、そのまま放置し、悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっと性質の悪いものに入り込まれてしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)
私達もサウルのように、言葉のたった一投・行動のたった一投によって、神と人の前に積み上げた尊いわざを、積み上げて来た尊厳を、一瞬にして台無しにしてしまう事がある。それをしてしまう原因は、槍をいつも手元に置いて手放さない事、人を傷つける言葉を思いの中にいつも置いて手放さない事だ。
 私達には、理不尽で不可避な誘惑が「いわれ」もなくいきなり襲って来るという事は、無い。襲って来るとするなら「いわれ」があるから、すなわち日々、簡単な誘惑に対抗する心の準備を自分でしていないからだ。

 ダビデは、新妻でありサウルの娘であるミカルのいる自分の新居へと逃げたが、そこもサウルからの追っ手が迫って来る。しかし、ミカルの機転によってダビデは逃げる事が出来、命は守られた。(11-17節)
その時の心の状態と祈りを、ダビデは詩篇59篇に記し、彼はそこで切々と主に訴えている。
その時の恐怖、主から守られる願い、また、敵に対する訴えを(1-7節)。しかしやがて主に対する信頼の告白に変わり(8-15節)、そして主への賛美に終わる。(16-17節) どんな状況でも主に向かって心の内を全部主に言い、信仰の告白をし、そうして、主の平安が与えられ賛美をする。これが、ダビデの性質である。
こうしてダビデは10数年の逃亡生活が、これから始まる。この時点のダビデの状況を見るに、あまりにもアンフェアに思われる。神はなぜそんな事を許されるのか、と。しかし後に分かるが、ダビデのこの10数年の逃亡生活こそ、彼が偉大な王となるための人格形成で重要なイベントが目白押しなのだ。全ての事を益として造り変えて下さる主にあって歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

まことの食物、まことの飲みものの頂き方(ヨハネ6:47-71)
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 普段の主日は、聖書人物から、特に最近はダビデからメッセージを頂いているが、本日・聖餐礼拝の日、イエス様という「まことの食物」、「まことの飲み物」に目を向けて、その頂き方を学びたい。
食べ物も飲み物も、毎日自分から摂り入れるもので、誰も、嫌々ながら無理やりする人はいない。
食欲が自然と湧いて来るのは、命を保つため、成長するためで、そこに疑いの余地は無いが、私達が毎日食べる食物、飲み物は、実は「影」で、それとは他に、まことの食物、まことの飲み物がある。
イエス様は言われた。『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ(続け)、わたしの血を飲む(事を続ける)者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハ6:55-56)
ここのイエス様のからだを「食べる」、血を「飲む」の動詞は、現在形能動態で、「し続ける」べき事だ。
有限であるこの「肉体」には、継続的に食物が必要であるのと同じように、永遠なる「霊」にも必要な食物があり、それはイエス様の肉、また血である。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(同63節) 霊の食物である御言葉も、肉体における食物と同じで、日々摂り続けるべきものであり、それをしない人の霊はどんどん干物になって行く。
霊は、神を意識し、神と交わりをする器官で、永遠のものである。人には霊の名残りがあるが(マラキ2:15)
生まれながらの人は霊が死んだ状態である。それで人は、生まれながらにして正常な神との交わりはできないものの、名残りがあるため、永遠なる神をなんとなく意識し、求め、霊的な飢え渇きを満たそうとする。
イエス様こそ真の食物、真の飲みものであり、彼に会うなら、それまで何をしても満たされなかった本質的な渇きは癒され、今まで体験した事のない潤いを得るのである。それ故、霊にあって生きる人は、好んでイエス様と交わり、祈り、御言葉を摂り入れるが、それをしない人は、霊の死んだ、肉に生きる人である。

どのようにして、イエス様の肉を食べ、その血を飲むのか。食べ物は口で摂取し、口で咀嚼し、胃で消化し、腸で吸収して、血肉となって行くが、霊の食物である御言葉は、耳で聞いて摂取し、口で宣言し、あるいは心で思い巡らして「消化」し、信仰によって自分と混ぜあわせる事によって、自分の霊となって行く。
主は最後の晩餐の時、パンを裂いて、言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」また、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。(1コリント11:24-26)
聖餐のパンは、イエス様の裂かれた肉を覚えるものであり、杯は、イエス様が十字架で流された血を覚えるものである。私達の身代わりとなって流されたイエス様の血、彼の苦難と死の、そして、死とサタンに対する勝利のしるしである「血」を思い巡らし、口で宣言する事で、イエス様の血を「飲み」、一体化するのだ。
人は、肉体を養う食物だけによって生きる存在ではない。『主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖達も知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる事をあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
主は、その事を教えるために、荒野で40年間、イスラエルの民を天から降るパン、「マナ」によって養った。
このマナの性質は、まことの食物・御言葉なるキリストをどのようにいただくべきか、その作法を教えてくれる。
マナは朝、霜のように降る。日が熱くなると、拾わないマナは溶けて無くなった。週の六日間は降り、安息日には降らなかった。人手で拾われたマナは溶けないが、拾っても食べずに翌日まで持ち越したマナは溶けないものの臭くなって虫が湧いた。しかし主の定めにより、安息日は前日拾ったマナは腐らなかった。
これを40年、毎日律儀に続ける事によって、イスラエルの民は主の御言葉によって生きる術を学んだのだ。
まことの食物、御言葉なるキリストも、主が定められた時に私達の所に降りて来る。その時、私達がその時拾わないなら、やがて無くなってしまい、後で「あの時欲しかったのに」と思っても、後の祭りである。
御言葉が天から降って目の前に来た時、それを自ら拾い、拾ったなら、それを食べる。翌日まで持ち越してはならない。自分の好きな時間、好きなやり方は捨て、働くべき時に働き、礼拝すべき時に礼拝する。
それを日ごと続けて行く事で、霊はどんどん養われ、そして、キリストの血を日々覚える事によって、日々清められ、サタンに勝利するものであり、それらを止めてしまうなら、どんどん霊は衰弱し、汚れ、サタンに好き放題されてしまう。食事を毎日食べるように御言葉を毎日食べ、イエスの血潮を毎日覚え、ますます霊が清められ成長し、キリストの姿に変えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
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 どういう性質が主の目に価値があり喜ばれるのか、ダビデという人物から学んでいると同時に、どういう性質が主に嫌われ退けられてしまうのか、サウルからも学んでいる。サウルは神の民の敵・ペリシテが打たれた事も、イスラエルが救われた事も喜ばず、ダビデが勝利し、愛され、主が共におられるのを妬み、恐れた。
このサウルの性質は、サタンの性質そのものである。サタンは元々は、音楽で主を褒め称える、極めて美しい天使だったが、分を超えて驕り高ぶり、神の王座に登ろうとして神に反逆し、天から落とされ、そして神の似姿として創られて愛されている人間を、妬み、滅ぼそうとしている。(イザヤ14章、エゼキエル28章)

サウルは、主のために、そしてイスラエルのために、自分が王座から退く考えは無く、自分がそれまで主の御声に反して来た事を悔いる事もなく、主に用いられているダビデをさらに妬み、殺意を募らせ、密かに彼の命を狙う行動に出る。サウルは、自分の娘・メラブを妻として与える代わりに、主(エホバ)の戦いを勇ましく戦いなさい、と命じる。その裏は、彼をペリシテ人の手で殺させよう、と思ったからだ。(17節)
サウルは確かに、部下に勇ましく「主の戦い」を戦って欲しかったろう。イスラエルに平和が来る事や、主の敵が打たれる事を望んではいたであろうが、彼がそれ以上に望んでいたのは、ダビデを抹殺する事だった。
それで彼は、主エホバの御名を用いて、策を弄するのだが、そのような策を、主が成功させるはずがない。
イエス様の名前を用いて、主の聖徒達を騙そうとする企みは、人の心を全てご存知である主が、覆えす。
ダビデはサウルの申し出を断った。自分は身分の低い者だ、どうして王の婿になれるだろう、と。そもそもダビデは、ゴリヤテを倒した時点で、メラブと結婚する事は出来ていた筈だが(17:25)、サウルはその約束を反故にしていた。ダビデは、その事を全く主張せず、ただ命じられるまま、部下を率いて戦って来た。彼は自分の身をわきまえていた。王族の身分は人の賞賛や推薦によるのではなく、主が与えて下さるものだと。
サウルやサタンは「高慢」という性質だが、その逆、謙遜こそ、主に喜ばれる性質である。『互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さる。』(1ペテロ5:5-6)
ペテロは、この箇所で勧めている。自ら進んで、委ねられた羊達を牧しなさい、それも、利得を求める卑しい心ではなく、権威をふるって大上段にではなく、むしろ群れの模範となりなさい、と。(1ペテロ5:2-11)
ダビデは元々、サウルの娘との結婚や、人々の名声などは眼中になく、ただ、「良き羊飼い」をずっと続けて来たのだ。ダビデに委ねられた兵士達を牧し、育て、権威を振るわずにむしろ群れの模範となって、誰よりも先に敵陣へ切り込んで行った結果、兵士達から絶大な信頼と人気を得たのだ。
羊のために命をかけて守り、養う羊飼いの性質こそ、イエス様の性質であり、主に喜ばれるものだ。

サウルは自分が言った事を土壇場で覆し、メラブを別の男に嫁がせる。メラブという褒美をちらつかせても、ダビデは中々死なない、むしろ勝利して、このままではサウル王権が危うくなる、と思ったのかもしれない。
しかし、もう一人の娘・ミカルがダビデを愛している事を知らされた事をサウルは喜んだ。彼女もダビデを死なせる事に利得できる、と思ったからだ。彼は元々、娘達の幸せは全く考えておらず、ダビデが死んでくれるなら、娘が未亡人になってもかまわなかったのだ。自分の保身・願望・欲望に心縛られてしまうと、永遠なる神の事も、家族の幸せも、見えなくなってしまう。速やかにその握りしめているものは手放すべきである。
サウルは兵を通してダビデに伝える。『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる。』(25節) サウルはこれで、ダビデが屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、と思ったが、主にあって、またダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は当然過ぎる事だった。ダビデは百どころか二百を獲て帰ってきて、そしてついにサウルは、娘ミカルをダビデに与える。
一国の王がいかに権威や金銀、人脈を背景に、少年を騙し陥れようとしても、主が守るなら守られ、その企みは決して届かない。たとえ本人を騙したと思っても、主は騙せず、主がその罠から助けだして下さる。
人は、身につけようとする。力を、地位を、お金を、謀の能力を。しかしそれら以上に求めるべきは、主に愛される性質である。なぜなら主は、主を敬わない王を退け、主を愛する羊飼い少年を守られるから。
主を愛し、主を敬う人は、敵が多いかもしれない。悩みも多いかもしれない。しかし主は、主を愛し敬う人の、その全ての敵や災いから守り、ちょうど良い時に、その人を引き上げて下さるのだ。

王としての本格トレーニングが始まるダビデ(1サムエル記18:1-16)
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サムエル記は歴史書であるが、同時に非常に優れた「帝王学」の書である。今回もダビデから、また、彼の周辺の人々から、神の国において、王たるに相応しい者の性質と、相応しくない者の性質とを学びたい。
ゴリヤテを倒した事は、終わりではなく、神様による本格的なトレーニングの始まりだった。
ダビデはつい前日まで野における羊飼いだったが、サウルが召し抱えた日以降、彼はそうではなくなり、今までは全く経験した事が無い所を、否が応でも通らされる。主に用いられるなら、その気がなくても否が応でも有名になり、多くの人々から賞賛と寵愛を受け、同時に妬まれ、脅かそうとする者も現れて来る。
ダビデが信仰によって勝利した事を大いに喜んだのは、サウルの子ヨナタンと、イスラエルの人々だった。
ダビデとヨナタンは、生い立ちも立場もと著しく異なる。一方は王子で長男で、時期の王と注目されていたが、他方は末っ子で、羊飼いで、家の中でさえ軽んじられていた。それでもヨナタンは、身分差別とか、自分の将来の邪魔になるのでは、といった「要らぬ心配」など一切無く、貴重な武器も防具も惜しげなくダビデに与え、彼を愛した。それは、生ける神を信じる信仰者は、身分や国籍など関係なく、互いの内におられる主に惹きつけられ、意気投合し、血が繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるからである。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、「てがらを立てた(セィケル:思慮深くやった、うまくやった KJV:behaved himself wisely)」ので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(5節) ダビデは若干にして戦闘部隊の長になった。
会社では、上司が著しく年下だと、関係が崩れやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は羊飼いの心で、部下の面倒を良く見、戦いでもいつも先頭に立って戦い、「思慮深く、うまく」やっていたため、いつも圧倒的な実績を収めていたからだ。それで誰もが安心してついて行けたのだ。
彼はこうして、急速に有名になり、名声を得、誰もが彼を愛し、急速に社会的に地位を得て行く。
それと同時に、今まで経験した事の無い、人間のどろどろした物事も経験して行く事になる。

サウルの部隊が戦いに勝利して凱旋した時、女達はすべての町々から出てきて、喜び歌いながらサウル王を迎えるのだが、その歌った内容は、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」だった。
ダビデは、羊を飼っていた時、羊達からありがとうの言葉をもらった事は無かったし、命がけで熊を倒した時も、羊達は歌と踊りと華やいだ歓声で迎えてくれなかった。今まで得ていなかった名声を得、異性からもてはやされる事は、大きな誘惑であり、その、「最初の世からの攻撃」によってダメになってしまう人は多い。
しかしダビデは、その点も「うまく」やった。彼があらゆる点でうまくやる事が出来たのは、彼は心を世に向けず、ただ主に向けており、主から知恵と守りを得ていたからだ。そして、羊飼いの心を変えなかった。
名声を得たとたんダメになってしまう人は多いが、ダビデの生涯、誰かに嫉妬した記述は1つも無い。ヨナタンも同じである。彼らはその点クリアだったが、サウルは違った。サウルは女達の歌を聞いて非常に怒り、妬み、不満に思った。部下の活躍を素直に喜ばず、妬み怒るのは、リーダーとしては非常に悪い兆候だ。
ねたみ、怒り、邪推、それらの感情への執念深さ、これらは、最も悪霊が好むものである。
『その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。』(10節) 槍は王宮の中では必要無いはずなのに、サウルは槍を握っており、対してダビデは、主を賛美する楽器を持っていた。
ナイフを持ち歩きたがる人がよく職務質問されるのは、表情が悪いからだが、サウルはもっと悪かった。
 『サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。』(11節) ここで特筆すべきは、二度、それらの事があった、という事である。ダビデは槍を投げられ、それをかわした後、再び楽器を取って賛美を弾き始め、サウルはもう一度槍を投げたのだ。
悪霊は、賛美をする人を極端に嫌い、槍を投げつけるが、主は守られる。サウルが倒せなかったゴリヤテを倒したダビデであるが、彼はサウルに仕返しする事も脅す事もせず、ただ全能者の御手に委ね、賛美による悪霊を追い出すミニストリーをした。まさにイエス様の性質であり、私達も身につけるべきものだ。
キリスト者は、いつも死に渡されているようでいて殺される事は無い。主は、振りかかる全ての困難を通しダビデを守り鍛えられたように、私達をも、王族の祭司として整えられるまで、全てを支配し、守られるからだ。
ダビデのようにただ心を主に向け、あらゆる点で「うまくやる」知恵と力が与えられる皆さんでありますように!

ダビデから学ぶ巨人を攻略する方法(1サムエル記17:38-54)
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週報/メッセージ(説教)概要

 イスラエルの前に巨人ゴリヤテが立った時、それを恐れたイスラエルの人々は40日もなぶられていたが、ダビデは打ち倒した。今回、私達の人生の前に立ちはだかる巨人を打ち倒す術を、ダビデから学びたい。

結論から言うなら、巨人との戦いは、世の方法では勝てないが、「主の戦い」に移行させるなら、勝てる。
サウル王は、戦いを前に、彼の鎧兜をダビデに押し着せた。常識的に、戦いは武具を装備させるものだと思っていたからであるが、ダビデは、それが慣れていないものだと分かると、躊躇なく脱ぎ捨てた。
「主の戦い」は、世の常識や手段に合わせようとすると全然合わず、無理に当てはめようとすると、全く身動き出来なくなる。この罠に陥って身動き出来なくなってしまっている神の国の働き人は、いかに多いだろう。
たとえ、王のような偉い人のものであっても、神の方法に合わないなら、躊躇なく脱ぎ捨てるべきだ。
ダビデがサウルの装備を不採用し、その代わりに採用したのは、羊飼いの道具の杖と、石投げだった。
主の戦いの武器は、人を殺傷する武器や言葉ではなく羊を養い守る道具、真の羊飼いなる主の言葉だ。
また彼は、川から取ったなめらかな石五個を取った。巨人を打ち倒すために用いられるのは、この石のように、御言葉の水の中で揉まれ、あらゆるでこぼこが取り除かれた、「生ける石」である。

ゴリヤテは図体も大きいが、口先も大きい。彼はペリシテの神々の名によって、ダビデを呪い、蔑んだ。
世の中では、さげすみの口が達者な人ほど、場の空気を自分に有利に持って行き、うまく渡り合って行けると思われがちだが、蔑みや糾弾、罵りは、サタンに属するものである。神の国の事柄は、言葉巧みさや、蔑み・罵倒の巧妙さに拠らず、真理のことばによって勝利するものである。暗闇から、悪しき者からの「なじる言葉」や、敵の唇の巧妙さによって、めげそうにな時は、真理のことば、御言葉で上塗りするのだ。
全被造物は、神のことばによって創造された。その「神の子達」が、信仰をもって真理のことばを宣言す時、死はいのちで飲まれ、呪いは祝福に塗り替えられる。全被造物はそれを待ち望んでいる。(ローマ8:19)
ゴリヤテが宣言したペリシテの神は、頭が魚、体が人のダゴン神だ。それは、イスラエルの神の箱を前に、頭と胴体が切り離されてしまった無能無力な神である(5章)。ゴリヤテはその神の名によって呪ったのに対し、ダビデはイスラエル神・主の御名によって立ち向かった。もはや真理の上では、勝利確定である。
私達も、相手がこの世に属する権威や、サタンに属する汚れた罪深い手段に頼って向かってくる時、サタンのかしらを砕いた主であり世に勝利した主イエスの御名によって立ち向かうなら、私達が勝利するのだ。
主の戦いは、肉弾戦や舌戦、心理戦ではなく、背後におられる主にあって勝負するものであり、私達もダビデのように日頃主に従順し、信仰を混ぜて御言葉を宣言し、その通りに行動するなら、ダゴンもゴリヤテも頭と胴体が切り離されたように、悪魔サタンに属する一切のものは、踏みにじられ、粉々に砕かれるのだ。

こうしてダビデとゴリヤテの一騎打ちの火蓋が切って落とされる。人々には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。ダビデは、群衆が状況を把握する間もなく、一瞬で片をつけた。
そう、相手がどんなに仰々しく強がっても、主は、一瞬でサタンの勢力を滅ぼす事が可能なお方だ。
ダビデは最初に宣言していた。『この全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。』(47節)
まさにダビデが宣言した言葉の通りになった。イエス様も何度も言われた。「あなたが信じた通りになれ」と。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは分からないが、石投げのコントロールを鍛えるより、神に愛される品性を鍛えるべきだ。
日頃、ダビデは、羊飼いとして羊を守って行く内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰を培った。
日頃、主との関係を保ち、主と仲良く交わりながら生きている事こそ、大事である。その人は、別に巨人が相手でなくても、何事もすぐに「主の戦い」に移行するくせがついているが、サウル達のように、日頃から御言葉ではなく世の手段で生き、主を度外視して生きているような人は、いざという時、それが出来ない。
ダビデのように、日頃から主と共に親しく歩み、巨人が立ちはだかる時は、主の戦いを呼び込み、勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

生ける神の陣を呼び込んだダビデ(1サムエル記17:1-37)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前々回、ダビデや信仰の先人達が皆経験した「羊飼い」という性質の重要性を見たが、今回は、偉大な王とへと成長して行くダビデが、いかに常人とは違った「神の国の考え方」を持っていたかを見たい。
イスラエルにペリシテが攻めてきた時、ペリシテの代表戦士・ゴリヤテが一騎打ちを申し出て来た。
彼は巨人アナクの子孫で、身長286cm、鎧は57kg、投げ槍は穂先だけでも7kg。彼は言った。一騎打ちする者を出せ、自分を倒せたらお前達の奴隷となってやる、もし自分が勝ったら、お前達が奴隷となれ、と。
人々は彼を恐れ、40日間何も出来ず、いいように言われる屈辱の日々を送った。モーセの時代も、アナク人はイスラエルに罠となった。当時もイスラエルはアナク人を恐れ、約束の地に入る事を拒み、40年の荒野生活を強いられたが、今回もサウル王をはじめ、イスラエルの人々は恐れ、40日、右往左往していた。
ゴリヤテは大上段から、一方的に、彼が決めたルールを押し付けているが、世の、主を敬う事の無い「無割礼の」、大上段な力強い言葉を鵜呑みにするなら、意気消沈し、ただなぶりものにされるだけである。
私達も、目の前に立ちはだかる「現実」「世情」といったゴリヤテの巨大さ・力強そうな有り様を見て、恐れたり、無割礼の者が発信して来る諸々の情報に振り回されてなぶりものにされていないだろうか。
ゴリヤテは「お前達はサウルの奴隷ではないか」と言った。イスラエルの戦士達は、万軍の主のしもべであり、主にあって何者にも勝利するはずである。それなのに皆、ゴリヤテの言葉を鵜呑みにして、神のしもべではなく、恐々なサウルのしもべになってしまっている。世に流れている無割礼のことばは、社会やメディアを通じて私達にもレッテルを張ってくる。「おまえは社会の奴隷ではないか、**会社の奴隷ではないか、おまえは年収**になって、あれとこれを手に入れないなら、おまえの人生は終わりだ」などと。
無割礼のことば、無割礼の強大な者に勝利する秘訣は、真理の言葉を、信仰を混ぜて宣言する事である。

ゴリヤテを打ち倒したダビデは、どうだったか。彼は、父の羊を飼う、紅顔の美少年だった。体重はゴリヤテの鎧ほどにも満たなかったろうし、父の家でも、軽んじられていたが、彼がゴリヤテの言動を見た時、憤りに満たされ、言った。「この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか。」(26節)
他の大人達はゴリヤテの外見や装備を見て恐れたが、ダビデには一切眼中に無く、ただの「無割礼の者」だとし、それに対して自分達は「生ける神の陣」として、「真理の立場」を表明した。偽りの者や割礼無き世の者が大げさに迫って来る時、私達は真理の言葉を信仰を混ぜ込んで宣言するのだ。世の中は、私達神の民が真理を宣言し、真理の御言葉に従う時、霊的世界が動き、そして現実世界も動き出すのだから。
ダビデが宣言した「生ける神の陣」とはどういうものだろう。申命記23:9-13に記されている。
生ける神の陣営は、聖なる所、聖なるお方が歩まれる場所である。『ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたの内に汚い物のあるのを見て、離れ去られる事のないためである。』(申23:14)
ダビデは、聖なる主のために清く保つべき所を、汚れた者に好き放題させていた人達にも憤りを覚えただろう。私達も人生の中、家庭の中に、きよい主を呼びこむためには、自分をきよく保つべきだ。そして、聖なるお方が宿るべき所を、無割礼の者が好き放題にして汚しているのを見たなら、大いに憤るべきだ。
ダビデの長男エリアブは、末っ子・ダビデが、陣営の中で色々な人と話しているのを見て、責めた。年長者の身内が、信仰を挫く事を言って来る時、結構、折れやすかったりするが、ダビデは全く動じなかった。
サウル達もエリアブも信仰が無かったため、「神の陣」ですらなかったが、ダビデは信仰によって、たった一人で「生ける神の陣」を張ったのだ。生ける神の陣が一人でも張られるなら、勝利の主が戦われる。

サウルがダビデを呼び寄せた時、ダビデは、自分が行ってあのゴリヤテを討ち取って来る、と言った。
サウルは、羊飼いの少年が根拠の無い全能感に駆られ大ごとを言っている、と思ったかもしれないが、根拠はあるのだ。彼は父の羊を飼っている時、ライオンや熊が、羊をさらって行こうとしたのを追いかけ、撃ち殺したのだ。彼は誰も見向きもしない羊飼いの仕事をしている間、王の性質と力と信仰を学んでいたのだ。
ダビデは、自分には獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、獅子や熊から羊を救い出す力を与えて下さった主が、勝利をもたらして下さる、と、信仰告白をした。あくまで主の力こそ、勝利の鍵なのだ。
私達も、目の前に、世の強者が立ちはだかる時、真理の立場を表明し、生ける神の陣を張るべきである。
その時、勝利の主が戦いに立たれ、世の無割礼の敵は、この万軍の主の御前に倒されて行くのだ。

愛、憐れみ、恵みという神のわざを為すために(ヨハネ9:1-5)
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 相模原市の障害者施設において、殺人事件としては戦後最悪の19人が刺殺され、26人が重軽傷を負わされるという、未曾有の事件が起きた。今まさに病院で治療を受けている被害者の方々が速やかに回復され、治療や回復の働きに携わっておられる方々の手の技が祝福されるように、また、犠牲者のご家族・友人知人たち、職員たちに慰めがあるように、天声では日毎祈りに覚えている。
植松容疑者は、手紙の中で、「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない」と書いたが、どんな命であれ「命のあり方」は人間が答えを出せるものではないし、また出そうとしてはならない。
 命の事は、いのちの君であるイエス様のものであり、彼こそ、全て、人のいのちの答えを握っておられる。
人は問う。なぜあの人は、あのような障害をもって生まれてきたのか。どうして人生半ばでそうなってしまったのか・・・。イエス様の弟子でさえ、生まれつき目が見えない人をさして、誰が罪を犯したからですか、と主に問うた。人は誰しも、罪の刺が刺さっている。起きている事象を手に取って、見定め、あれこれ批評する本人こそ罪があり、「悪い」のだから、誰が悪い・彼が悪いという議論そのものがナンセンスだ。
唯一、イエス様だけが答えを握っておられる。「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
彼がなぜ、生まれつき目が見えないか。その答えは、「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」。
イエス様はさらに言われる。「わたしたちは、わたしをつかわされた方のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。」(4-5節)
イエス様は「わたしたちは」神のわざをしなければならない、と言われた。「癒し」は神のわざであり、誰も彼もが出来る事ではない。では、「わたしたち」が出来る「神のわざ」とは、何だろう。それは、助けを必要としている人を助け、彼の面倒を見てあげる事だ。それは、世の光であるイエス様を抜きには出来ない。
イエス様抜きにしようとするなら、誰も働けない夜となり、今回の事件のように、底なしの闇へと陥ってしまう。

『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。・・・、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。』(ローマ15:1) キリストは、障害だらけ・罪だらけの私達を、なぜ受け入れ、面倒を見てくださったのか。それは「神の栄光」のためだと書かれてある。つまり、たとえ見返りが望めないにしても、それでも弱っている人達のために働く全ての人達は、「神のわざ」の一旦を担っているわけである。
弱さをおぼえている人の面倒は、本来、身内が見るべきであり、それが出来ないなら、強くまた余裕ある人々が担うべきである(1テモテ5:4-16)。だから、福祉施設で働く人は、本来、子育てをしっかり終えて、いのちを育む喜びと達成感を経験した、余裕のある人が、良い待遇の元で為して然るべきである。
しかし現実には、障害を持っている人の身内は、施設に預けっぱなしの事が多く、また、彼らの面倒を見る職員としては、これからいのちを生み、はぐくみ育てる喜びを未来に控えた、未婚の若者達が、安い賃金で働かされてしまっているケースが多く、彼らは自分の家庭を持つ事もできないまま、将来に希望が見出だせず、いのちの喜びを削りながら働き続ける事になってしまう。これは、国の制度が不当であり、それを改善しないなら、このような事件を「正統」と勘違いして起こすような者達があらわれても仕方がない。

今回の犯人は、社会に益をもたらさず重荷になるなら安楽死を、といった「損得勘定」で計算して事を起こしたが、そういう自分が、損得勘定抜きの愛・憐れみによって育み育てられた事を、計算に入れていない。
人はみな、かつては、自分では何も出来ない赤ちゃんだった。なぜ何も出来ない赤ちゃんであった時代が何年もありながら、今、生きているのか。それは、何も要求する事なく、損得勘定ぬきに無条件に受け入れ、はぐくみ育てる存在があったからに他ならない。「恵み」「憐れみ」は神のご性質であり、人はその「神の仕事」を為す者である。それを人がする時、愛・憐れみなる神の仕事をしているわけであり、神から報いを受ける。『宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたは幸いになるであろう。』(ルカ14:13)
この闇の時代にあって、いのちの君である主からいのちの望みと喜びを頂き、この世の全ての死はいのちで飲み込み、光の子として働いて行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

羊飼い - 主の働き人が受けるべき必須課程(詩篇78:70-72)
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 主はなぜダビデを王として選ばれたのか。また、主から選ばれる人は、どのような性質の人なのか。
そして、主から尊い事に大きく用いられる器となるためには、どのような性質を特に鍛えれば良いのか。
今回は、ダビデが最初に主に選ばれた場面から、そして聖書で重要人物とされている人達から学びたい。

アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル12部族の父祖達、モーセ、ダビデ。これら聖書の中で最重要人物である彼らが、共通して従事した職業を、ご存知だろうか。その職業とは…羊飼いである。
復活のイエス様が、失敗したペテロを再び召命する時、3回も命じた事は「わたしの羊を飼いなさい」であり、そして私達の主は、まことの羊飼いである。神の国の働き人を目指す人は、羊を飼う事は、必須科目だ。
羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で迷子になりやすい。自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは彼らを牧草地や水のほとりへ導く。悪い獣に狙われ易く、現れたなら杖や鞭、石投げで追い払う。
羊はどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。思い当たるふしがあるだろうか?
それで羊飼いは、エジプトでは嫌われ(創世記46:34)、イエス様がお生まれになった時代も、皇帝アウグストから、住民登録から外されてしまうような、卑しい職業とされていた。私達の信仰の父祖達の輝かしい実績が聖書に記されているが、その陰では、羊を養う事で、人生の大半を費やしていたのだ。
主の目は、弱く愚かな羊たちを養っている羊飼いにこそ、注がれる。イエス様の誕生を真っ先に告げられたのは夜番をしていた羊飼いであった。モーセは前半人生は王子として華々しく過ごしたが、その後、荒野で40年も羊を追う生活をした時、主から召命を受け、その後40年は、イスラエル60万という羊を導いた。

ダビデが主からイスラエルの王として白羽の矢が立ったのは、彼がまだ紅顔の少年で、父エッサイの羊を飼っていた時だった(1サムエル記16章)。
エッサイは、サムエルから子を招くよう言われた時、末っ子ダビデだけは同席させず、羊の番をさせていた。
人は、うわべを見る。その人の容貌や美しさ、年齢、立ち居振る舞いなど。しかし、主は心を見ておられる。
少年ダビデが、誰からも目を留められなかった時、主が彼を「王を捜し得た」と評価したのは、彼は、任された羊たちを、忠実に守り、養っていたからだ。皆さんは、ライオンや熊が吠え猛りながら羊を奪って行ったら、奪い返すために追って行くだろうか。ダビデは、それをしたのだ。そしてライオンも熊も打ち倒し、羊を取り戻していたのである。主は、託された羊を守るために、その人に力を与えて下さる。
ダビデは、人に見られない隠れた所で忠実に、弱く、愚かな羊であっても決して見捨てず、命を賭して守る性質だったからこそ、隠れた所を見ておられる主の目に叶い、主から王として人知れず選ばれたのだ。
人目に隠れた所で忠実に羊を養う性質こそ大事である。偉い人の目がある所では美しく飾っても、去ったとたんに、弱く愚かな羊を軽んじ、打ち叩いたりするなら、主から何も任されない。長男エリアブはサムエルからは「これこそ油注がれる者だ」と思われたが、主は彼を退けた(16:7)。彼は麗しい見た目でも、ゴリヤテを前には何も出来ず、末っ子ダビデが来た時は威張り散らし、彼を「羊を放置した」となじった。(17:28)

皆さんは、主から「羊」を託されているだろうか。主の働き人を目指すなら、「羊」を忠実に養うべきだ。
アブラハムもモーセもダビデも、神学校で訓練したのではなく、羊を飼う事で、訓練されたからだ。
羊は、何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。恩知らずかもしれない。汚い所を転げ回って、臭さを振りまくかもしれない。強情で、自分に突進して来るかもしれない。落ち着かせて、ようやく一息つこうとした矢先、どこかに行って迷子になったり、悪い者にたぶらかされて、連れ去られて行ったりするかもしれない。
全然報われていない、埋もれてしまっている、一体いつまで続くのか、と思えるかもしれないが、その道は、決して間違っておらず、尊い時なのだ。それは主の訓練で、私達の”信仰の”父達、おじいさん・ひいおじいさん達は皆、羊の面倒を見たり、引き戻してやったりしている内に、どんどん整えられて行ったのだ。
私達の羊飼いであられる主は、言われる。「わたしの羊を飼いなさい」と。私達も信仰の父達に習い、今、任されている羊達を忠実に養い、主へと捧げられる立派な羊に育て上げ、モーセやダビデのように立派な働き人として成長し用いられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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