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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

イエス様の名前によって父なる神に祈る(ヨハネ16:23-27)
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 人は「願う」「求める」という事をする。人にはそれぞれ欲しいものがあり、必要なものがあるからだ。しかし、その動機と相手は必ずしも正しいとは限らず、たとえ願っている事が叶えられたからと言って、本人や周囲が必ずしも祝福されるわけでもない。間違えた動機・間違えた相手に祈り求めるなら、かえって、呪われた結果になってしまう。私達は誰に対し、どのような事を願い求めるのが良いのかを、本日探って行きたい。

人はよく「神様」に願い祈る。ではその「神様」とは、一体誰だろう。この世に「神々」と言われるものはあるにしても、私達には、唯一なる天の神がおられるのみである。(1コリント8:5-6) 多くの人々は偶像に願い求め、供え物を捧げているが、偶像は、何か崇高な神ではなく、何か意味のあるのでもない。
実は、偶像に祈り、願い求め、犠牲を供えるのは、悪霊達に願い求め、供えているのだ。(同10:19-20)
悪霊に願って、何かが叶えられたとするなら、それは所詮、闇からのものであり、必ず呪われた結果となる。
私達が祈るべき相手、それは全てを創造された、父なるまことの神である。その神は元々、私達を創造する前から、御前できよく、傷のない者にしようと、キリストにあってあらかじめ定めておられた。すなわち神の似姿として、キリストの花嫁として、神と「父子関係」となるように創造された。(創世記1章、エペソ1:3-5)
ところが人は、父なる神から離れ、自分勝手に歩んで行った。神から離れた人の願う事は、身勝手で破壊的で、自堕落なものである。それで世界は、誰か力ある者達の、欲しいままの欲望の圧政下にあるのだ。

人の本来あるべき姿は、まことの神と「父と子」の関係を保ち続ける事である。父子関係は愛の関係であり、子は、父の言葉に服するものである。父に服している子が「お父さん」と呼ぶなら、父は答えざるを得ない。
しかし一体、罪のある欠けだらけの人間が、どうしてこの聖なる神と、父子関係を結ぶ事が出来るのだろう。
人が神の子になる・・・そのような途方も無いように思える手続きと認可は、万物を創造し、かつ成り立たせておられるお方の権威によって、すなわち、神のひとり子、イエス・キリストの御名によってこそ、実現する。
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた…』(ヨハネ1:12)
彼、それは、神のひとり子・イエスキリストである。天地万物の源であられる彼の名、それこそ全てに勝る権威ある名である。神のひとり子・イエス様が御父に祈った祈りは、必ず聞き届けられた。(ヨハネ11:41-15)
私達も、このイエス様の御名を信じる事によって、神様と親密な「父子の関係」に入り、そうしてイエス様の名前によって祈るなら、その祈りは何でも聞き届けられる。(ヨハネ14:14、16: 23-26)
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(ヨハネ15:7-8) 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(同15:16) 

聖書では、神様が「父」なるお方であると、何度も何度も繰り返されている。だから、私達が何かを願い、祈り求める相手は、全てを所有し支配しておられる神様であり、この神様と「イエス様の御名によって」父子関係を結んだ上で、求めるのが、祈り求める事の正しい手順である。イエス様が「こう祈りなさい」と言って示された「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」という呼びかけから始まる。求める相手は、父なのだ。
確かに子供は親に何でも求めるものであるが、全てが全て、願った通りにかなえられるものではない。
イエス様もゲツセマネで、「父よ、この杯を過ぎ去らせて下さい」と願ったが、それでも「あなたの御心の通りになさって下さい」と祈った。父子関係は「愛の関係」であると同時に、子は、父の言葉に服すものである。
確かに私達は、イエス様にあって何でも祈り願う事は出来るが、最終決定権は父なる神にあり、彼のなさる事は全て最善である事を認める時、全能の神と親密な関係にある事の、絶大な平安の中に憩うのである。
だから主の祈りでは、「御国(神の支配)を来たらせたまえ」と、神の統治が全てに及ぶ事を求めるのであり、「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈る事で、自分の願いより、御父の御心が優先的に成就するように、と祈るのだ。天地を創造し、全てを見通し、私達の全てを知っておられる神様の御心が成る。それこそ私達も計り知れない最善が、自分の人生に、家庭に、仕事に、そして世界に成就する秘訣である。
イエス様の御名によって、神様と親密な父子関係に入り、全てにおいて平安となる皆さんでありますように!

全ての闇を払拭する「有りて有られるお方」の御言葉(ヨハネ1:1-14)
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 神は、永遠の昔から永遠の未来で「存在」されるお方、そして私達を存在させ、存続させるお方である。
それ故、信じる私達は「自分は愛なる神に存在させられている」と自信を持ち、そう主張する事ができる。
だから、永遠の御言葉であられるお方イエス様を、私達の内に住まわせるための御言葉を暗唱する事(テフィリン)こそ、人格において、精神において、あらゆる面において安定する秘訣である事を、先週学んだ。
ヨハネ1章からも、御言葉であられるキリストがいかに素晴らしいお方であるかを、見る事が出来る。御言葉なるお方は、永遠のはじめから神とともにおられた(1-2節)。それがキリストのアイデンティティ宣言である。

全てのものは、彼によって創造された(3節)。私達が100年ほどの一生の間に目にするもの、触れる全てのもので、彼によらずして出来たものは一つもない。このお方こそ、有りて有られるお方であり、私達が目で見、手でさわれるお方、そして、死に陥った私達を、命をかけて救う、愛なるお方として、私達に現れた。
彼が、愛の意図をもって計られたタイミングにより、今、こうして私達は愛され、生かされている。息を引き取る時さえ彼の愛のタイミングの中で計られており、その息(霊)は、全能なるイエス様のところに帰って行く。
このお方を信じる人は、自分は神の子であるという、盤石の、安定した生き方が出来るが、彼を認めない人は、自分は偶然に進化した者、脳の電気信号で動く偶然の産物として、自力で生きなくてはならない。
太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人の共感を得たが、全存在の源・「有る」お方を持たない人がサタンの言葉に惑わされるなら、そのように考えてしまう。神の敵・サタンが人を破壊させる言葉の、最たるものは、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならないである。
それを打ち消すのは唯一、全存在の根拠なるお方・キリストの言葉である。 『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』(4-5節)
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無いのだ。
イエス様は、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が、ご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる、という事までして人を救おうという愛の意図を、なんと、永遠の昔から持ちながらにして、人を創造されたのだ。(エペソ1:3-6)

『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) つまり、イエス様を信じている人は、血筋や外見、能力や社会ステータスに左右されなくなる。世の人は血筋を重んじるだろう。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、彼らは、そうした「血筋」の束縛から開放される。
また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、彼らが望まぬ命が「できてしまった」、と言う事は多々あるが、自分はそういった人の欲望の産物だという空しさもなくなる。また「人の意欲にもよらず」とある通り、親や誰か人の政略的な操作によって自分は存在する、という空しさもなくなる。
信じた人は、ただ神によって、神の子として完全なる愛に愛される存在として生まれた、と確信するのだ。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(14節) 書かれてある通り、肉体となって来られた「言」であられるお方は、神のひとり子であり、御父の栄光に満ちておられ、恵と真理に満ちておられるのだ。
御言葉なるお方を、私達という肉に住まわせる事がここで命じられている。『キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい…キリストの言葉をあなた方の内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。』(コロ3:15)
結局、今、わたしがここに存在している理由は、わたしを存在させて下さっているお方、「有る」というお方に由来し、ここに有る。その御方は、天地創造され、わたしが知り得ない全てを、知っておられる。
この御方を豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。このお方は「言」であられ、私達が目で見、耳で聞き、手で触れる「聖書の御言葉」として、今、ここに現れておられる。御言葉暗唱(テフィリン)によってこのお方を豊かに住まわせ、あらゆる自分のあやふやさ、自分の中にある闇を払拭し、神の子として大胆に、豊かに歩んでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

全能者の「存在」を私達の中に在らせるために(申命記6:6-8)
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 神は人を、神のかたちに創造された。ところが今、人は神を離れ、各々自分勝手な善悪判断をしつつ、罪と肉欲に従って生きている。神である主の最終目標は、人を本来あるべき「神のかたち」「神の子」へと回復する事であり、私達もそれを目指すべきだ。どうすればそれが回復するのか。それを今日見ていきたい。

『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
ここの神の「イェヒエ」はハヤーの一人称単数未完了形で、ヘブライ語の未完了形は、動作が未だ終わっておらず、ずっと続いて行く事である。すなわち神の「ある」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
神は、ご自身で存在されるお方であり、そして、私達を存在させるお方。イエス様もまた、ご自身を幾度も「わたしは有る(ギ:エゴ・エイミー)」と言われ、人を活かす者・いのちを有らせる者としてご自身を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
イエス様はもとから世におられ、世はイエス様によって創られたのに、世はこのお方を知らなかった。
しかし彼を信じた人、すなわち彼の名を信じた人には、神の子とされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
イエス様ははじめから、人を活かす目的で、自らが死ぬ存在として人としてこの世にお生まれになった。
そのイエス様は、世を創造されたのみならず、愛ゆえに身代わりとなり、そして命吹き込むお方として「有られる」。イエス様は「御言葉」であられ、彼は、肉の幕屋を張って私達の内に宿られた。(ヨハネ1:1,14)

この、永遠から永遠の「ハヤー(ある)」なるお方を、私達はいかにすればハヤーさせられるか。その答えが、申命記6:6である。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』
ハヤーとは、存在をあらわすBE動詞である。ハヤー。それが主の名前であり、アイデンティティである。
私達が御言葉を暗唱(テフィリン)し、心に、思いに、知性に刻みこむ事によって、この神から離れ死に陥ってしまう私達の中に、全能者なるお方が、私達の内に「存在(ハヤー)」させる事が出来るのだ。その時、全能者であり、永遠から永遠に至るまで「存在(ハヤー)」されるお方のハヤーが、その人の中に起こる。
主はテフィリンを命じておられる。『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御胸は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。

クリスチャンはよく口にする。「イエス様は共におられます」と。しかしそう口にするものの、「本当かな」と揺らいでしまったり、あるいは全然実感なく機械的に「イエスサマハトモニオラレマス」と言っていないだろうか。
全世界を御言葉によって創造されたお方の「ハヤー」が無い人、すなわち、テフィリンしていない人は、その伝道には力は無く、また、何か不安な事が起きると、土台の無い家のように、心がぐらぐら揺らいでしまう。
しかし、その人の中に、御言葉の蓄えが増えれば増えるほどに、自分が存在(ハヤー)する根拠、生きる根拠、伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行くため、心も、人格も、ことばも、人生も、全て安定して行く。
御言葉の根拠が無い、自分に神の子としてのレベルが低いままであるなら、いくら祈っても、いくら主のミニストリーに励んでも、目が見えないまま闇雲に数を撃っているようなもので、たとえ祈りが「聞かれた」としても、数撃ってようやく当たったような、おこぼれの、憐れみ故の「聞かれ方」である。その生き方は、疲れる。
しかし、テフィリンして御言葉のハヤーがある人は、見えないけれど確実に「ハヤー」されるお方があるため、たとえ今、必要なものが目の前・現実に無いとしても、全能者のハヤーを根拠に、揺るがず、無駄な祈りを乱発せず、無駄な動きをせずに、本当に的を射た祈りと行動が出来、無駄をしないので、疲れない。
そういうわけで、私達はぜひとも、御言葉を蓄え、テフィリンするべきなのだ。自分で善悪判断する事を下ろし、御言葉なるキリストのハヤーを自分自身の内に構築し、全てに安定して行く皆さんでありますように!

どんな悪巧みの中にさえも最善を織り込ませる主(創世記50:15-21)
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 天地創造から始まる創世記の終盤は、イスラエル民族の父祖ヤコブの子、ヨセフの歩みが詳細に記されている。彼はエジプトの宰相となって、父ヤコブと12人の家族を一つの国家へと成長させる重要な役割を主から任された。その全ての発端となった出来事が、彼がエジプトに奴隷として売られてしまう事件だった。
彼が父から寵愛を受けているのを、兄達は妬み、彼をエジプトへ奴隷として売るよう企んだのだ。

ヨセフは奴隷生活を経、牢の中の囚人も経たが、最終的に彼はエジプトの宰相にまで引き上げられた。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。
それに対し兄達は、後悔と悲しさの日々を送り、一家全体は暗かった。主と共に歩んでいる人が、いかに不当な扱いを受けようとも、神がその人を癒やし、慰め、引き上げ、労苦を忘れさせてくださる。しかし怒りやねたみ、暴力など悪い力によって身を立てて来た人は、怯えながらの底辺生活を続けなくてはならない。
底辺生活を続けてきた兄達は、祝福されたヨセフと再会して以来、ずっと彼を恐れ続け、父ヤコブが死んだ時、自分達は殺されるかもしれない、と恐れた(15節)。ところがヨセフのほうは、とっくの昔に忘れていた。
兄が自分にした悪も、心の傷もトラウマも、苦労した日々さえも(41:51)。私達も、親しい誰かからひどい目に遭わされ、傷を受けるとしても、神と共に歩み続けるなら、神が私達を慰め、忘れさせ、栄えさせて下さる。

ヨセフは兄達に「わたしが神に代ることができましょうか」と言った(19節)。もしヨセフが兄達をずっと恨んでいて、父が死んだ機会に兄もその家族も殺してしまうとするなら…そのような人は世の中にごまんといて、世界史はその繰り返しだったが…、もしそのような矮小な器なら、神ははじめからヨセフを用いていない。
神のご計画は最初から、イスラエル家族をエジプトのゴシェンの地に移し、わずか70名の一家を「一国」へ成長させる事だった。この遠大なる計画を、どうして一人の人間の私怨ごときで覆す事が許されるだろう。
ところが多くの人は、自分の私怨や私利私欲ごときで、神様の遠大なるご計画を平気で覆そうとする。
だから神に用いられる器とは、ヨセフのように柔和で怒らず、自分の思いより御心を優先させる人なのだ。

『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(20節) ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。
トーブはヘブライ語のテット、ヴァヴ、ヴェートの三文字だが、最初のテットは蛇の意味、次のヴァヴは釘、最後のヴェートは家の意味がある。つまり、ヘビ(サタン)によって罪の奴隷に陥らされても、イエス様の十字架の釘によって永遠の家・天国に迎え入れられる、という意味が、このヘブライ語に込められているのだ。
つまり、トーブの単語そのものの中に、神は、神を愛する人達に働いて、万事を益とし、御子のかたちにしようと永遠の計画の中にあらかじめ定めおられた、という、ローマ8:28-29の意味が込められていたのだ。
ヨセフの兄は、ヨセフに悪い事を謀ったが、神は神と共に歩む彼を通してイスラエルの全家を救いへ導いた。同じように、神は、蛇(サタン)に妬まれ、陥れられ、罪と死の牢獄状態になってしまった人をも、イエス様の十字架を通して、永遠の神の家に花嫁として迎え入れられるという「トーブ」へと塗り替えられるのだ。
私達の中にも、ヨセフのあの頃のように、不当に牢に閉じ込められ奴隷のような状況を通らされる事があるかもしれない。先が見えず、いつまでこの状況が続くのか分からないかもそれないが、忘れてはならない。
神はその中にトーブを織り込み、染み込ませ、その状況さえも働かせて益とする事がおできになる事を。
悪を悪で返さず、平和で、正直で、神を第一に歩んできたヨセフが、癒され、傷も人のした悪も忘れさせられ、大いに祝福されたように、私達もこの時代、彼のように歩み、大いに用いられる者でありたい。

はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!

「量」の信仰から「質」の信仰へ転換するために(ヘブル11:24-29)
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 先週はコーエン大学日本ラーニングセンターの学びの週であった。「大学の講義」であるのに、参加された方々は皆、喜びに溢れ、癒され、解放された。諸々の攻撃もあったが講義には何の影響も無く、むしろ私達はサタンが嫌がる事をしているのだ、しかしサタンは、キリストにある私達には何ら手出しが出来ず、むしろ、このコーエンの学びはますます日本に必要であり、それがもたらす祝福は大きいと再認識させられた。
イエス様を信じ、救われた事には、大きな喜びがある。そして救われた時以降、信仰生活が始まるのだが、この地上で信仰生活をして行く時、喜びだけとは限らず、イエス様を信じている故の様々な困難や迫害など忍耐や苦しみもあるが、その向こうには、計り知れない報いと栄光があるのだという事を今日学びたい。

ヘブル11章には信仰の偉人達が名を連ねている箇所であるが、モーセは少し特別である。
モーセは、80歳の時に主からの召命を受け、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放し、神が約束された土地に至るまで荒野の中を導き、荒野の中では神と人との間で契約を結び、神が人の側に要求された基準・「律法」が授けられた。彼はユダヤ人として生まれたが、40歳まで、エジプトの王子として育てられた。
しかし『信仰によって、モーセは、成人(μέγας)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語「μέγας(メガス)」は「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。
最近、スマホやパソコンの普及でメガやテラというギリシア語数字単位もよく耳にするが、いずれも聖書に登場する言葉で、メガ(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(τέρας 1兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。「あなた方は、しるしと奇跡(τέρας)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)

モーセは「信仰によって」100万倍の成長をした故、彼は神に用いられる器として、神に目を留められた。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
人の信仰は、神の元へと登って行く。その時、恵みが天から降りてきて、二つが出会う時、奇跡が起きる。
ツロの女は、イエス様から小犬と呼ばれても「その通りです(アーメン)、しかし小犬でもパン屑には与ります」と言った故、イエス様から「メガス」の信仰だと褒められ、娘の癒しという「奇跡(テラス)」を引き出した。
イエス様を信じる信仰は、最初は「ご利益信仰」かもしれない。神様は**してくれるから、信じます、と。
しかしそのままでは、信仰ゆえの困難や迫害が起きると、手のひらを返したように信仰を捨てかねない。そこで、信仰の「質」が変わる必要がある。たとえ困難や迫害があったとしても忍耐し、信仰を捨てないように。
モーセは、『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と「考えた(ἡγέομαι:ヘゲノマイ: 支配する、導く、判断する)」。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』(ヘブル11:25-26) まさに質が変えられた信仰である。
そのような信仰を主は喜び、用いられる。どうすれば私達も、そのような質の変えられた信仰を持てるだろう。
それは第一に、モーセのように、罪のはかない歓楽よりも、キリストの故に受けるそしりのほうが、世の宝にまさる富であると判断(ヘゲノマイ)し、自ら支配し、導くのである。第二に、「報いを望み見る」事である。
信仰の行いには、必ず主が報いて下さる、と信じているだろうか。信仰でも、世の仕事でも、報われるという望みを持たない人は、本当は嫌だけど怒られるのも嫌だから仕方なしにする、という、非常に「楽しくない」生き方をしている。永遠にしぼまない、世の宝にまさる富が手に入る事を望みつつ、歩むべきである。
主は、種まきのたとえの中で言っている。『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) すなわち、御言葉を受けたなら、それを正しい良い心で、しっかり守り、耐え忍ぶ事である。100倍の実りに預かれる人は、聞いて、すぐに従順する人である。忍耐とは悲痛な顔をして我慢する事ではなく、目の前にその希望を楽しく望み見て、それを目指して歩むものである。この喜びに満ちた信仰生活を送って行く皆さんでありますように!

祝福の法則を体得しているユダヤ人の秘訣(ネヘミヤ8:5-6)
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 今週はコーエン日本ラーニングセンターの学びが行われる。それに先立ち、本日はヘブライ思考はいかに確立して行ったのか、またユダヤ人は主に対し、御言葉に対し、いかに本気で取り組むようになったのか、そして、ユダヤ民族はなぜニ千年の離散を経ても一つになる事が出来たのか。その秘訣をを学びたい。

『エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6) この節に秘訣が隠されている。
エズラ(עזרה :エホバが助ける)は、大祭司アロンの16代子孫の大祭司で、『モーセの律法に「精通した学者(「ソヘルマヘル סופר מהיר:巧みな書記(詩45:1)」』(エズラ7:6)であった。マヘル(書記官)は、聖書を全部丸暗記している。彼は頭に聖書を全部入れていたため、それを起こし、神学校をつくった。
バビロン捕囚から帰還した民は、神の言葉の書をエズラが開いた時、第一に「起立」した。起立という行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立は少々の体力を使う行動だが、御言葉を「聞く」においても「朗読する」においても、「反応する」においても、「身体を使う」のが、ユダヤ式である。
御言葉は主イエス様ご自身であり、その御方に敬意を表すなら、相応の祝福と恵みを頂く事が出来る。
身体を使う2つ目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「手を挙げ」「アーメンする」事である。アーメンאמן とは「それは真実です、真理です」「信じます」「そのようになりますように!」という同意の表明である。
キリスト教では口でアーメンを唱えるが、ユダヤでは起立し、両手を上げ「アーメン、アーメン」と同意する。
それによって口と耳が開き、心が開き、そして天が開いて、同席している人にも聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。
こうして彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、そして「地に平伏して主を誉めたたえた」。ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対し、身体全体を用いて敬意を表す事によって、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に刻み込まれ、霊魂体の全てが活性化されるのだ。

彼らがエズラの御言葉を学んで分かったのは、自分達は御言葉教育を受けておらず、御言葉を知らない、御言葉を守り行わなかった、それでこうなったのだ、と。そこで彼らは、神の言語・ヘブライ語の御言葉を子々孫々へ伝授し、体質化しようとして始めたのが、ヘブライ語の御言葉暗唱(テフィリン)教育である。
人は何か事が起きた時、それに対する考えや解釈、とっさに出る反応や対処は、幼児体験や記憶、刻まれて来た言葉に基づく。もしその人の記憶が、否定的・消極的な「ことば」で満たされていたなら、事が起きた時、消極的・否定的な考えや反応しか出ない。しかしもし、その人の中が、超・積極的な、いのちに溢れた神の言葉で満たされていたら、どうだろう。ユダヤ人は、母の胎にいる時からその教育を受けて来たのだ。
私達異邦人は、元々御言葉がない環境に生まれ、何が神に喜ばれ、創造者の御胸にかなった生き方は何か、成功法則も失敗法則も何も知らずに育った。ほしいままに御言葉に反した生き方をしようとしては呪われ、傷つき、わけも分からず、ぶつかりながら生きて来たが、そんな私達でも、御言葉暗唱して、心と記憶と唇を「御言葉」で満たすなら、主に喜ばれる、いのちの溢れた生き方が体質化されて行くわけである。
私達は意思をもって自分なりに考え、判断し、評価する。しかし世界は御言葉によって創造され、万物は御言葉法則によって成り立っている。ヘレニズム思考(ギリシア思考)に毒された私達異邦人は、その御言葉さえ評価・判断・批判の対象にしてしまうが、ユダヤ人は、その万物の法則たる御言葉が思考の根幹にあり、御言葉を通して、物事を判断し、対処し、行動するのだから、異邦人は彼らにかなうはずがないのだ。
ユダヤ人は御言葉暗唱と、子供への徹底した伝授ゆえに、世界のどこに散らされても成功し、そして2千年もの離散を経ても信仰と民族は根強く存続した。それに対しキリスト教は、伝道は熱心にしても、子供への御言葉伝授をしてこなかった故に、全世界各地で信仰復興が起きては消え、起きては消えを繰り返した。 世界5大宗教は、キリスト教以外、暗唱している。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、これらには、いのちは無いが、暗唱する故に存続している。しかし、キリスト教だけは暗唱しない故に、ただ栄枯盛衰を繰り返すだけだった。今、私達も、使徒時代に生きていたヘブライ思考に戻り、御言葉暗唱をすべき時だ。

聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
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 病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれないような、何か天が塞がれてしまっているような、あるいは、ただ主から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合の解決の示唆として、イザヤ59章を開きたい。
イザヤ書は、57章から59章の中盤までの内容は、主の側からの、人の側にある罪の指摘と叱責が記されているが、59章の後半以降、62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。この59章に、呪いが祝福へと変わるターニングポイントの「鍵」があるのだ。

59章は、1-3節の主語は「あなたがた」であり、あなたがたの罪や不正が、神との隔ての壁を構築し、祈りを主に聞けなくさせている事が指摘されている。続く4-8節の主語は「彼ら」であり、その「彼ら」は悪魔の申し子のような性質で、その意図する所はただただ悪であり、好んで人々を虐げ、血を流すような者達である。
「彼ら」が好き放題に神の民を虐げるのだが、祈っても主が全く聞いて下さらない理由は既に1-3節にある。
そして、9-15節の主語は、「私たち」に変わり、9-11節では自分達の悲惨を嘆く呻きがある。自分の悲惨を嘆く「演歌」を幾ら並べ立てたり申し立てても、何も変わらない。肝心なのは次に続く節である。
12-15節に、「我々」の中に罪があって主に背いて来た事の告白がある。『我々のとがは、あなたの前に多く、罪は、我々を訴えて、あかしをなし、とがは、我々と共にあり、不義は、我々がこれを知る。』(12節)
イザヤ書の後半は、この「我々に罪がある事を認め、告白した事」で、大きなターニングポイントを迎える。
16節以降、主語は「主」に変わり、悲しみ嘆く主の民を救おうと、主ご自身が動き出し、主の民を苦しめる「彼ら」に報復し、戦われるために、主みずからが武装される様が記されている。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵が、自分自分の罪の告白と悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。なぜ、「ごめんなさい」という、良き日本人として生きていく上で欠かせない重要な言葉が聖書の中に無いのか。それは聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉だからである。ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。またネヘミヤやダニエルも、自分達が主の前で、何と何と何の罪を犯して来たか、かなり詳細かつ具体的に告白している。
ある悪霊に憑かれた息子を持つ父親は、今まで何もかも人任せにしていたが、イエス様から不信仰を指摘され、悔い改めた時、イエス様は「言うことも聞くこともさせない悪霊」を追い出した。(マルコ9:23-25)
だから、自分が主に何をしたのかを明確に告白する事、そして、そこから1ミリでも離れる決心と努力をし続ける事が聖書的な正しい謝罪であり、それをしないと、罪の追求と呪いがひたすら憑き纏ってしまうのだ。
もし私達が罪を言い表さず、罪の「楽しみ」を手放す事を惜しんでそこから離れないなら、いかに病や悪霊、貧乏に「出て行け」と言っても、全然効き目は無い。なにしろ、本人自身が、その取っ掛かりとする「ネタ」を握りしめ続けている訳だから。しかし、自分の罪を主に言い表す時、病や悪霊は、取っ掛かりを失う。
サルスベリという木がある。その木はツルツルして、サルに取っ掛かりとなるものが無いので登れない、という木であるが、自分の罪を主に言い表し、悔い改めるなら、「病スベリ」「悪霊スベリ」「貧乏スベリ」となるのだ。「主イエスの名によってサタンよ去れ」という祈りより遥かに効果的なのが、告白と悔い改めである。

『主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。』(20)
主が「贖い主」として現れてくださるのは、とがを離れる者、悔い改める者のところに、と書いてある。
結局、罪を告白した時、主みずから助けるために動いて下さり、その結果、イザヤ60章以降の祝福がある。
しかし、自分の罪を口で言い表さず、改めようとしない人にはいつまでも、罪から、サタンから、そして主から追求され責められる事がつきまとう。日々、罪から一ミリでも離れる努力をし、罪や病、貧乏、悪霊に掴まれる所なく、祝福と幸いの日々を歩み、ますます働き人として整えられていく皆様でありますように!

私達が目指すべき目標の地(申命記34:1-7)
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 一昨日の未明、私の祖母の林アイコが100歳と5ヶ月で天に召された。昨日、親類一同と天声の十数名の少数で、ささやかな葬儀を行ったが、それは、私が体験したどの葬儀よりも美しく荘厳で、清らかで、そして静かな喜びに満ちていた。祖母の顔は明らかに、真の故郷に迎え入れられ、満ち足りている表情だった。
私達が目指すべき故郷は一体どこにあるのか。今回、モーセが主にとり上げられる場面から見ていきたい。

モーセが生涯を終える直前、イスラエルがいよいよ約束の地カナンを目前にした時、彼は全イスラエルに向けて最後の説教をし、それぞれに相応しい祝福をした。それが終わると彼は、主があらかじめ「そこで死ぬ」と告げられていたピスガの山を登りはじめる。彼は120歳ではあるものの、目はかすまず、気力は衰えていなかった。皆に見つめられながら登っていく彼の足取りは、しっかりしていただろう。
山頂からは、イスラエルが継ぐべき土地が、北から南に至るまで、ヨルダン川から地中海に至るまでが全部見えるが、主は言われる。あなたはそこへは、入れない、と。そしてモーセは、そこで死んだ。(4−5節)
ここで疑問が起こる。皆はあそこに入れるのに、どうして一番の功労者のモーセだけ入れないのだろうか。
私達も、思う時があるかもしれない。あの人この人は、あの幸せの中に入っている、どうして私だけが入れないのか。そして、主から「あなたはそこに入って行くことはできない」と言われる時、本当に切なさを覚える。
モーセが最後、ピスガ山を登る時、どんな心境だったのだろうか。ああ、これで人生が終わってしまう、あれができないまま、これをしないままなのに、と思っただろうか?そうではないと思われる。その根拠は・・・。

モーセが死んだ後、イスラエルの民は確かにヨルダン川を渡り、乳と蜜の流れる地を受け継いだ。しかしその2世代後、そこは呪いの地となってしまった。なぜなら彼らは、主の御言葉を軽んじ、背いたからだ。
さて、約束の地とは一体、どこにあるのだろう?神の国は一体どこにあるのだろう?
思っていないだろうか。自分はあの領域に入ったら、あの人のようになったら、神の国が成就するのだ、と。
しかし主は言われる。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
だからもし、結婚したら幸せになれる、と思って結婚しても、その人の中に神の国が構築されていないなら、結婚生活は苦々しい生活となるのだ。たとえあこがれの会社に入っても、あるいはあの地位を得ても、そのに神の国が構築されていないなら、すなわち、その人が神の支配を嫌がり、自分勝手なままなら、そこは乳と蜜が流れる地ではなく、呪いの地となってしまう。ちょうどイスラエルの民が、そうだったように。
だからまず、神の国を構築する事、すなわち、神の統治をそのまま受け入れる事こそ、必要である。

ヘブル書に記されている。モーセはキリストの故に受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考え、見えない方を見ているようにして、忍び通した事が。信仰の先輩たちは皆、地上では寄留者であると言い表し、天にあるふるさとを求め、神はそんな彼らのために、都を用意しておられたのだ、と。(ヘブル11:13-27)
モーセの時代に、キリストは人として来ていなかったが、モーセははっきりと、信仰の目で仰ぎ見ていた。
この真の指導者がやがて来られる、彼に聞け、と彼はイスラエルの民に指示したのだ。そう、キリストこそ本題である。カナンの地ではない、地上のあの地でも、あるいは富でも地位でも状態でもない、ただ望むべきは、私達の只中におられるキリストによって支配される事。それこそ、まことの神の国である。

モーセは主に言われた。「おまえはもはや足りている(rab)。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26) ここの「足りている(rab)」は、十分に満ちている、という意味である。
主は言われた。あなたは地上で為すべき事を十分に満たした、もう地上のカナンの地を求める必要はない、むしろ、天の故郷に帰りなさい、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と。
そして最後、彼は主の「言葉(peh:口づけ)」(申命記34:5)によって、ピスガの山で死んだ。
主は、御口から出る息によって人を生かし、御口によって息をとられる。だから、生きるにしても、死ぬにしても、何の恐れもないのだ。私たちが目指べきは、モーセも、信仰の先祖達もいる、あの天の御国である。
私達は生きる限り、そこへ心を結びつけ、やがてあの信仰の先輩たちが待つ天に上げられる者でありたい。

信仰とは(ローマ1:17)
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 信仰義認(人は信仰によってのみ救われる)という言葉は有名である。この言葉はちょうど500年前、カトリックの腐敗は、「行為義認(善行によって神は人を義とする)」に由来する、とルターは考え、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる、と、パウロ書簡から説いた事によって生まれた。しかし、この言葉ゆえに、救われた事に満足し、安住して、世の人と何ら変わらない罪深い生活を送っているクリスチャンが多くなってしまった。そもそも信仰とは何か。また、救われた私達はいかに歩むべきか。それを今日学びたい。

「信仰」という言葉は、新約では多く登場するが、旧約にはほとんど登場しない。この「信仰」という概念は、新約聖書が記される前、サンスクリット語の「Behid(ビヒド)」が元になった。ビヒドはBeとHidから構成され、Beには「to unite(連合する)」、Hidは「to band (結合する)」の意味がある。
すなわち信仰とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。
信仰の歩みは、常に、連合し結合する相手、すなわち「主人との関係」を意識し保ちながらの歩みである。
例えば、悔い改めとは、必ず信仰の「主人」を意識し、相手にふさわしくなかった自分・悪かった自分に気付いたなら、悔いて悲しみ、主人に帰る事で成立する。信仰なしの悔い改めは、有り得ないのだ。

イエス様を売り渡したイスカリオテのユダには、悔いる心はあった。銀貨を投げ返したからだ。しかしイエス様に帰る事をせず、首をつって死んだ。それは、イエス様を「主人」として結びつけていなかったからだ。
彼の場合、3年半の間も、心は「世」にバンドされ、イエス様とバンドするには至らなかった。そしてイエス様の十字架が近づくと、彼はサタンにバンドされ、イエス様を売り渡した。後に悔いた時も、その絆を断ち切る事をせず、どこにも居場所がなくなった時、自殺してまでイエス様にバンドする事を拒否したのだ。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行く。
ユダのケースで分かるように、何年もキリスト者の交わりに居ながら・御言葉を聞きながらにして、イエス様と連合せず、世に、サタンに心を結びつけながらキリスト者の交わりに一緒にいる者も事実存在する。
そのような人は、早々にキリストを主人として連合するべきだ。なぜなら「自分の行くべきところへ行く」日がいつになるのかは、誰にも分からないし、いざ、二者択一が迫られた時、人は、心が結びつけられていた方を選びとる事になるからだ。私達はいつでも、天国という杭に自分をバンドし続けて行くべきである。

パウロは言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは、「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者である。
イエス様を信じた時、すなわち、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、スタート地点である。
宗教改革以来、信じた時点で救いが成就したかのような誤解が多くなってしまったが、それは単にスタート地点に立ったのみであり、この時点から、信仰を所有して歩む、長い歩みが始まる。それはエイス・ピスティン、信仰の目的地、すなわち、天国に至るまで、ずっと所有し握りしめ続けながら歩んで行くのである。
信じればすぐに聖化・栄化されるのではない。聖なる者になるための「もがき続け」が必要である。
エジプトを脱出すれば、すぐに約束の地に入ったのではない。荒野という過程を経なければならなかった。
自分は神の民だ、エジプトという奴隷の国から開放された、というだけで、聖化のもがきをしなかった多くの民は、荒野で死に絶えてしまった。「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2) しかしヨシュアとカレブは、ずっと約束の地に心を縛りつけていたため、彼らだけが約束の地に入り、そこを所有できた。私達もヨシュア達にならい、世とサタンという縛りから、自らほどき、天国という約束の地に心を縛りつけ、かの地に入るその時まで信仰の歩みをし続ける者でありたい。

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