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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

踏み歩いた所を自分のものとするために(創世記13:10-18)
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週報/メッセージ(説教)概要

 聖書には「約束の地」という言葉はよく出てくる。私たちイエス様を信じる者達が受け継ぐ「約束の地」は天国だが、イスラエルの民がエジプトという奴隷の地を出てから約束の地に入るまでに荒野を通らなくてはならなかったように、私たちもそこに入るまでに、この地上という「荒野」を通って行かなくてはならない。
「民数記(ベ・ミッドバル:荒れ野に)」を読むと、どうやら荒野(ミッドバル)で落伍して約束の地を踏む事ができない人も出てくるようである。約束の地に入れるか入れないかは、ひとえにどの言葉(ダバル)を選択し信じるかにかかっている。すなわち人間言葉か、それとも御言葉か。荒野で人を生かすのは御言葉であって、人間言葉は人を殺す。今回、どんな人が約束の地に踏み入り、どんな人が入れないかを見ていきたい。

本日の箇所は、神がアブラハムに、このカナンの土地を永久に与える、という約束をされた箇所である。
「約束の地」に入るためには、まず御言葉ありき、神の「約束」ありきである。私たちは何かと、ビジョンを思い描いて、自分の判断で「あそこはいい所だ」「あそこに行こう」と行動しがちであるが、それはロトの方法であって、私達の信仰の先祖アブラハムの方法ではない。彼は、ソドムとゴモラという主の御前にはなはだ罪深い町さえ、「よく潤っている」という理由で、「主の園のよう」と判断して、行ってしまった。(10−11節)
ロトはソドムに住処を移したがために、後には、アブラハムと一緒に築いた莫大な財を失い、娘達もソドムの汚れた価値観に染まってしまった。アブラハムがロトと決別したように、私達も、自分の中にあるロトの思考、ただ見た目だけでソドムさえ「主の園」に見てしまうような見方と決別しなければ、約束の地は入れない。
アブラハムが「その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」(17節) と、主から約束が与えられたのは、ロトと別れた直後だった。それで彼は住居をヘブロンに移し、そこに礼拝する所を据え、その後も、天幕生活を続けた。彼は天の故郷を仰ぎ見たので、どんなに祝福されて富が増し加わっても、地上においでは自分の墓の土地しか購入しなかった。私達も、天国こそ真の故郷であり、地上における祝福にじっと目を据えて留まるのではなく、天を見据え、「いかに死ぬか」の準備をする方が良いのだ。

アブラハムの子孫達が、実際にその土地を自分のものとしたのは、さらに数百年後の時代になる。
アブラハムが住んだヘブロンを勝ち得たのは、ユダ族のカレブであった。彼がその土地を偵察部隊としてはじめて足の裏で踏んだのは、彼が40歳の時だった。その時彼は先祖アブラハムゆかりの地に強烈な憧れを抱き、ぜひあの山地を獲たい、と願ったのだが、そこを獲るまでには、さらに45年を経なければならなかった。なぜそんなにも長くかかってしまったか。それは、ロトの価値観を持つ者達の故であった。
偵察にはイスラエル12部族代表の12人が行ったが、ヨシュアとカレブは、そこはとても素晴らしい地だ、主が共におられるなら必ず勝てる、ぜひ進み行こう、という意見だったのに、それ以外の者達は、そこを悪く言いふらした。そこは強大な大勢の者達が城壁の町々を守っている、あそこは自分達を食い尽くす地だ、彼らに比べれば自分達はいなごのようだった、と。(民数記13章)。
ここに、約束の地に入っていける者と、そうではない者とが分かれる。一方は神の約束を信じ、神が共におられるなら、必ずあの地を我がものにする事が出来る、と判断する者。他方は、神を度外視し、ただ相手と自分の力強さや知恵深さ、経験や装備を見比べて判断する。このように、共にいます神を眼中に入れずに、目に見えるもの・数値化されたもので比較し、判断し行動する人は、神の約束の地に入って行けない。
神の言葉を、自分の頑張りや能力で完成させようとする人がいるが、逆である。神の言葉が、人を完全にするのだ。人の頑張りや知恵、能力で神の国の事柄を完成させて行こうとしても、絶対に無理が生じる。
ヨシュアはどのようにして、何世紀にもわたる知恵と力の結集である城塞都市エリコを7日で陥落させたか。
それは100%、主の指示通りに従って行動したからである。それも、6日間は人々の口を閉じさせ、ただ祭司の吹き鳴らすラッパの音だけを響かせて、その城の周りを、足の裏で踏んで回っただけだった。
そして七日目、七人の祭司が七つのラッパを吹き鳴らし、主の民が鬨の声をあげた時、何世代にも渡って築き上げて来た城壁は崩壊し、いともあっさりと勝利できたのだ。そこにはアナク人や筋肉隆々の強者がいたかもしれないが、人間の言葉(ダバル)を閉ざし、神の言葉に従ったからこそ、どんなに経験が無い、弱い人でも、いともあっさりと、ものに出来たのである。沸々と湧き上がって来る人の言葉は閉ざし、ただ御言葉を信じて進み、勝利し、支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

支配者であれ(創世記1:26-31)
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週報/メッセージ(説教)概要

 神は元々、人を、神に「似る(ツェレム:影、像)」ように、神の「かたち(デムース:似ている、類似した)」に、創造した。そして海、空、地の全ての生き物を支配するように(創世記1:26)。宇宙広しと言えど、地球にどんなたくさんの種類の生物がいると言えど、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だけだ。
人は「神のかたち」故に、神のように自由に選択し行動する性質が与えられた。それも、神を裏切る自由さえも。それで人はそれを用いて、神を裏切り、聖なる神とは似ても似つかぬ者に成り下がってしまった。
しかし神は、そんな私たちを簡単に切って捨てるような事はせず、むしろ、私たちを愛し、私たちを神の子と呼ばれるようにするために、どれ程大切な代償を支払って下さか。神は、ひとり子をお与えになった程に私たちを愛された。それは御子を信じる人が一人も滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。
神が本来人に与えて下さった素晴らしい特権を回復するためには、神との「親子関係」を回復する事である。神は、神との親子関係を回復する道を、人に対して開いて下さった。
神の子とは、どういう人か。それはイエス様を自ら受け入れた人、すなわち彼の名を「自分から好んで信じ続ける人々(現在形能動態)」(ヨハネ1:12)であり、自分をきよく保つために汚れから出て行って自らを分離する人であり(2コリント6:14-18)、そして、聖霊に導かれている人である(ローマ8:14,ガラテヤ4:6)。

神の子には、次の命令が与えられた。「生めよ(パラー)、ふえよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)、地を従わせよ(カバッシュ)。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(ラダー)」(創世記1:28)
ここに幾つかの命令がある。まずは「生めよ(パラー)」、この言葉が派生してエジプトの王の称号「パロ」が出た。エジプト人は産んで増えて行く事を願って、「パロ」を王の称号にした。しかしそのパロが恐れる程に、神は、「神の子」を生んで増やし、地に満たして下さる。
次に「増えよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)」も、命令型動詞である。命が増え広がって行く事が主の命令であるからには、産む事を躊躇したり、間引きしたりするのは主の御旨に反するのだ。
また、「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」、これは「本質」を貫きなさい、という命令である。
私達・神の子たちが、世から従わされたり、世からリードされたりする事は、神の本質ではないのだ。
神は私たちに、地の生き物も、海の生き物も、空の生き物も足の下で征服(カバッシュ)せよ!足の下に支配(ラダー)せよ!と命令された。これを、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令、と言う。
神の子として尊厳を持ち、貴族的に、優雅に統治し支配する。このロードシップに信仰の先人達は歩んだ。
主と共に歩んだアブラハムに対し、世の王であるパロは恐れ、アビメレクも彼に平伏して「契約を結ぼう」と媚びて来た。イサクに対しても、最初はアビメレクは食ってかかって来たが、彼が柔和に、平和に主と共に歩み、それで何をしても栄えるので、彼は「あなたには神がいる」と言って恐れ、自ら契約を結びに来た。
ヤコブも、当時世界最強の王・パロを、祝福した。霊的に上の立場だからだ。このように、神の子としてロードシップに、キングシップに歩むなら、世の王たちが恐れをなし、宝物や贈り物を携えて平伏しに来るのだ。

この命令に背を向けるなら、世の者たちも自然界も、食ってかかるようになる。私たちは、神の子として歩み続けるべきである。イエス様の「名」を「自ら信じ続けている」だろうか。自らをきよく保っているだろうか。
汚れから出て分離する努力を止めていないだろうか。御霊に歩んでいるだろうか。
それらを怠って神を軽んじ続けるなら、世の側が調子に乗り、リードされ、従わせられてしまう。アブラハムの子孫達さえ、主を軽んじ続けたために敵が調子づいて「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。」と言われ、背中を地面のように、歩道のようにして、敵が踏んで乗り越えて行くのにまかせた。(イザヤ51:23)

神の言葉に服従し、地を踏み、地を支配するのが、神の子の本分である。主は御言葉に従ったアブラハムに、またヨシュアに、命じられた。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与える、と。
私達もイエス様にあって神の子とされたからには、踏んで、支配するべきである。キリストを信じ、神と親子関係を保ち続ける「神の子達」は、地の全てのものも、サタンとそれに属する者達を足の下で支配するべきであって、支配されるべきではない。神の子としての座をキープし続け、支配する皆さんでありますように!

いこいの水のほとりに伴われる主 - ジェホバ・シャローム(詩篇23:2)
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 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデの作った詩篇23篇の中には、それらの代表的な8つのご性質が、練り込められている。今回は2節「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」の中に込められた「ジェホバ・シャローム」の主の名を掘り起こしたい。なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」あるいは「ヤーウェ」になったりしているが、いずれも意味は同じである。

この詩篇23篇2節に練り込められた御名「ジェホバ・シャローム」が登場する場面は、主がギデオンを召し出された場面である。どういう時に主は彼に現れたか。それは、彼がミデヤン人という敵に見つからないように、酒ぶねの中に隠れながら麦を打っている場面である(士師記6章)。そんな臆病な、部族の中で最も小さく、最も弱い者に、主は現れて言われた。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:24)
この時点、ギデオンは未来が見えていない。彼自身も、彼の父も、部族の人々も、まさかギデオンが大勇士になるとは思ってなかったが、主の目には、将来の彼の大勇士である様が、見えていた。なぜなら彼には、主に従順する性質があったからだ。彼は、主から言われた事を、そのまま実行する人だった。
普通、常識ある人間は、10万以上の敵にたった300人で立ち向かう事はしないが、ギデオンは、主がしなさいと言われたので、した。主が「人が多いから減らしなさい」と言われたら、相応しくない1万や2万をばっさり切ったし、たった300人になっても、10万以上の敵に立ち向かって行った。そのような性質だから、彼は用いられたのであり、この、主に言われたとおりに実行する性質こそ「大勇士」の性質である。

ギデオンは、どういう場面でジェホバ・シャロームを宣言したのだろう。彼が酒ぶねの中で、恐れながら麦を打っている時、主の使いが彼に現れたが、彼は、主の使いと面と面を向かって話していたというのに、実感せずにいた。しかし彼が、相手が本当に主の使いであったと分かった時、死ぬのではないかと恐れた。
しかし『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安(ジェホバ・シャローム)」と名づけた。』(士師記6:23−24)
私達も、主の力強く全く聖であられる有様を知った時、ひるがえって、自分が昨日犯したあの罪、今日犯したこの罪も全部、主がその目でじっと見つめておられた、と知るなら、ギデオンのように絶望するしかない。
ダビデも、主の目の前で他人の妻を奪い、その夫を謀殺するような罪を犯した、にもかかわらず、「あなたは死なない」と言われた。なぜか?それは彼が自分の罪を認め、告白し、罪の報復を受け入れたからだ。
「主は言われた、「悪い者には平安(シャローム)がない」と。」(イザヤ48:22) しかしもし私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての悪から、私達をきよめて下さる。

ユダヤ人は「シャローム」を、挨拶の言葉として使っている。このシャロームの中に込められている最たる願いは「トーブ(良し)」である。主がこの世界を6日に分けて創造された時、一日一日に「良し」(トーブ)と宣言された。そして、人間を創られた第6日目には「はなはだ良し」と評価され、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、人間を祝福された。(創世記1章)
この「トーブ」の中には「1,パーフェクト(完全)」「2,ビューティーフル(美しい)」「3,グッド(良い)」の意味が込められており、これら3つを束ねて「シャローム」という。つまり、ユダヤ人がシャロームの挨拶を交わす時、完全でありますように、美しい者であるように、良い者でありますように、という願いを込めているのだ。
ユダヤ人であるパウロも、その書簡の中で頻繁に「平安があなた方にあるように」という挨拶をしている。
イエス様も、恐れて隠れている弟子達の中に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。『弟子達は、主を見て喜んだ。イエス様はもう一度、「平安があなたがたにあるように。」と言われ、彼らに息を吹きかけて、言われた。「聖霊を受けなさい。」』(ヨハネ20:19−22)
弟子達が主を見て喜んだのは、イエス様がその手とわきを示されたからだ。イエス様が私たちの代わりに十字架上で打たれ、罰を受け、死なれた。そして、よみがえられた。これぞ完全なシャロームの根源である。
イエス様こそ、まことの羊飼いであり、備え主であり、そして平和の主である。このシャロームの主であるイエス様が、緑の牧場といこいの水へ導き、生活において、仕事において、いのちの営みにおいてトーブを宣言され、その御言葉どおりに、皆さんの上に成りますように。イエス様のお名前によって祝福します!

わたしはとぼしい事がありません - ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇の中には、その中でも代表的な8つのご性質が練り込められている。前回は1節の「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)」を見たが、今回は「わたしは乏しい事がありません」という言葉に込められた2つ目の御名「ジェホバ・イルエ」の意味を探って行きたい。なお国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等になっているが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。

この詩篇23篇1節に練り込められた御名「ジェホバ・イルエ」が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。彼がイサクを捧げようとしたその時、主が制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。そこでアブラハムは、そこをジェホバ・イルエと名付けた。
この「ジェホバ・イルエ」は「主の山には備えあり」という意味として有名だが、正しい意味は、別にある。
この言葉を分解すると「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、「ラアー」は未完成形であるので、ここの原意は「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。(KJV: In the mount of the LORD it shall be seen.)
主は、今なお見続けておられる。アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建って、バビロン捕囚の時に破壊されたが、主は今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけたまことの小羊キリストを身代わりの犠牲として捧げるのを。

主は見続けておられ、備えて下さる。だから、わたしには乏しい事が無い、と、ダビデは信仰告白した。
主は確かに、全て必要なものを備えて下さるが、それは、人の欲するものを何でも、という意味ではない。
主が備えてくださるものは「主の最善」である。だからもし、人が欲するものの方向が、主の最善と真逆の方向なら、主は、その人のやる事なす事何もかもうまくいかなくさせる事もある。ペテロがそうだった。
ペテロはイエス様が復活された後、聖霊の息吹を吹きかけられ、「わたしもあなたがたを遣わします」と召命されたのに、漁師に戻って生活して行こうとした。しかも他の弟子達をも伴って。しかし、そうは問屋が卸さない。彼は湖に出かけて行くのだが、その夜は何もとれなかった(ヨハネ21章)。その内、仲間も疲れと苛立ちが沸き起こって来る。なんで何も獲れないのか、なんで貧しいままで、疲れてばかりいるのだ、と。
例えば株で、上がると思って買っても下がり、下がると思って売っても上がり、損失ばかりのような時は、「ジェホバ・イルエ」なる主が見つめておられる、その眼差しに気づくべきだ、というサインなのだ。
良くない事をするとすぐにバレてしまう人は、主に愛されている人であり、バレないで成功する人は、サタンから愛されている人である。どうして他の皆は成功しているのに自分だけこんなに思った通りに行かないのか、果たして呪われているのだろうか、と思うのはお門違いで、むしろ、祝福されているのだ。なぜならその人は、主から片時も離れず見つめられ、守られ、愛され、主の最善へ導かれているのだから。
主は、備えて下さるお方だ。自分の願った通り何もかもうまく行くという「備え」をされる事も、確かにあるが、やる事なす事全部うまく行かず、ことごとく失敗する、という「備え」をされる事もあるのを、忘れてはならない。
それはその人を、全能であられる主に目を向けさせ、「主の最善」だけを求めるようにさせるためである。

イエス様は言われた。子たちよ、食べるものは、無いだろう?と。イエス様は、無い事を前提に聞かれた。
それはそうだ。御旨でない所に網を投げても、主がその道に歩ませないように、主が散らすのだから。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(ヨハネ21:6)
結局人は、自分で稼ぐ事も、また、稼いだものを自分で引き揚げる事さえ、主の主権なしに出来ないのだ。
主はペテロに教えられた。あなたは湖の魚に向かって網を投げるのではなく、人を捕らえる「福音」という網を、人の耳に投じるべきだ、と。主はペテロを、じっと見つめておられたように、私達をもじっと見つめておられる。私達に必要な「最善」を、主は備えて下さる。私達はただ、主が備えて下さる道に歩み、備えて下さるものをいただく以外には何もなく、それで「わたしは乏しい事がありません」と宣言できるのだ。
主が備えて下さる最善に頼って生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主はわたしの羊飼い - ジェホバ・ロイ(詩篇23:1)
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 ある人達は、聖書を歴史の資料として見、ある人は架空の神話として見ている。私達は、聖書をどのように見なすだろう。もし、歴史の資料や架空の神話として見るなら、聖書は現代の私達と何の関係も無い。
今、神は生きておられ、実際的に今の私達と交わり、そして私達は、この神によって永遠の御国へと伴われる。それは、科学的な裏付けによって納得するものではなく、自身の信仰によって獲得するものである。
聖書を読む時、その時の時代背景やその状況(Then and there)を調べる事は、確かに重要である。しかしそのままでは、聖書を客観的に、自分とのつながり無しに見ているに過ぎない。私達はさらに、御言葉は今、ここで(Now and here)、自分に、何を語っておられるのか。今の私たちに適用させる事こそ必要である。
ユダヤ人達は賛美や祈りを通して、神と密接な交わりを持っており、その賛美や祈りを5巻150篇にまとめたものが「詩篇」(テヒリーム)である。詩篇は五巻に分かれており、それぞれがモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に対応している。すなわち、第一巻1−41篇は「創造と人間」の事柄が記されており、第二巻42−72篇には「解放と贖い」が、第三巻73−89篇には「聖所と礼拝」が、第四巻には「さまよいと苦難」が、そして第五巻107−150篇には「律法と祝福」について記されている。
詩篇は無意味に集められた詩集ではない。世界中に散らばった詩を、千年の年月をかけて集め、モーセ五書と合うように編纂し、これを用いて、礼拝でも日常でも賛美と祈りを通して神と交わっているのだ。
私達も、イエス・キリストを信じる信仰によって神の民とされたからには、彼らのように、御言葉は真実であるという信仰をもって宣言し、祈りと賛美によって神と交わるのだ。

詩篇は、様々な時代・様々な人の詩が集められているが、その多くは、ダビデの作である。ダビデは偉大な信仰者であったが、諸々の罪も犯した。それでも彼が神に愛されたのは、彼自身いつも主と交わり、罪を指摘されたらすぐに悔い改め、喜びの時には大いに主を賛美する、その「信仰告白」の故である。
口で自分の信仰を告白する事、それは、救いを引き出すために必須の手続きである。(ローマ10:10)
神は全部をご存知で、全知全能ならば、わたしに必要なものを全部、そのままくれればいいのに、と考える人はいるが、その考えでは、神から何も引き出す事は出来ない。預金口座から引き出すにはハンコが必要なように、私達の側の信仰告白こそ、主から全能の救いを引き出すために必要な私達のハンコなのだ。
ダビデの作った詩篇23篇の中には、「主はどのようなお方であるのか」という、彼自身の信仰告白が、詰まりに詰まっている。聖書全体には、主の呼び名が81種類も登場する(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)が、その81を集約して代表する「8種類の呼び名」が、詩篇23篇の1−5節の中に隠されている。
詩篇23篇でダビデが真っ先に告白した内容は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(詩篇23篇1節) である。ジェホバ・ロイ。「ロイ」には、導いて下さる、保護して下さる、祝福して下さる、一緒に伴われる(インマヌエル)の意味が含まれている。
ダビデは、彼自身が歩んできた道のりを振り返り、その歩みの中で、ずっと一緒に歩んで下さった主の足跡を見て、主はどんなお方であったのか、その思い想いを練り込めて、この詩篇23篇に凝縮し収めたのだ。
繰り返すが、聖書は私達と関わりのない書物ではなく、今、日常の一瞬一瞬において密接に関わりのある、神のことばである。神は遠い神ではなく近い神であり、私達を永遠の救いへと導くために、いつも共に歩き、守り導いて下さる、愛なる神、憐れみ深い神、恵み深く、赦しに富みたもう神である。

主は、私達の羊飼い。羊は、羊飼いが先頭に立つまで動かない。羊に力あるかないかも、個性があるか無いかも関係なく、ただ、羊飼いが先頭になった時に羊はその後をついていき、羊飼いは、羊たちを緑の牧場へと導いて憩わせ、水のほとりへと導いて潤してくれる。ダビデはこの神との密接な関わりを宣言するために、主を「羊飼い」という名で呼び、自分を、その羊とした。
主の御名(ベッシェム・ヤウェ)を呼ぶ時、力が発生する。主は、ご自分の「名」を呼ぶ人に関わりを持ってくださる。ダビデは主を「羊飼い」と宣言し、主の「導いて下さる」というご性質を、いつも引き出していたのだ。
羊飼いなる主。私達がどんな状況にあろうとも、私達もジェホバ・ロイの名を信仰をもって宣言する時、主が「私の」羊飼いとして、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いて下さる。信仰をもって主の御名を呼び、主の力をいつでも引き出す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

「ですから」あなたがたの労苦が無駄になることはない(1コリント15:58)
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 先週のコーエン大学日本公開セミナーは沢山の恵みの内に終った。今回は、コーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も忙しい間を縫って来られ、水曜夜の集会ではメッセージもされた。カン先生は今まで多大な労苦と責任を負って来られたが、彼が今に至るまで支えとなって来た言葉が、本日の御言葉である。
『だから(ὥστε(ホステー)、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦(κόπος:コポス)がむだになることはない…。』(1コリント15:58)

この御言葉は、接続詞「ὥστε(ホステー:ですから、そういうわけで、therefore)」で始まる。これは、直前までの物事を束ね、「そういうわけで」こうなる、と、後に続ける言葉である。物事には原因と結果があり、その両者を「ホステー」が繋げる。今の私達は、良しにつけ悪しきにつけ過去に成した一つ一つの「原因」を積み上げた結果がある。そして、今私達が為す一つ一つの行いは、将来生み出される結果の「原因」となる。
だから、1コリント15章の最後の節の「ですから」は、1節から57節までを包括し、58節に繋げているのだ。
第一コリント15章といえば、復活と希望の章である。人は死んだら終わりではない。死んだ後、必ずよみがえらされ、そしてそれぞれのの行いに応じて審判を受ける。天国も、地獄も、確実に存在する。
パウロは、次の事を「最もたいせつな事」としている(3節)。すなわち、キリストは私達の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ、ケパに現れ、それから12弟子にもあらわれ、そして最後に、最も小さなこの自分にも現れて下さり、そして、神の恵みによって今のわたしになった(3-11)。これは私達にも同じである。
「ですから」、固く立って主のわざに励む必要がある。そして、その労は一つも無駄に落ちる事は無い。
主にあって労苦した事(コポス)は、決して無駄になる事は無い。キリストに敵対する世の諸々の事柄が、群れをなして、自分へと襲いかかって来た時。あの時流した汗や涙も、主にあって忍耐し続けた一瞬一瞬も、決して無駄に落ちる事は、無い。「ですから」今、目の前に置かれた善を行う事に、疲れてはならない。
たゆまないで働いているなら、時が来れば、必ず刈り取るようになるからだ(ガラテヤ6:7−9)。
「ですから」、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、とパウロは続ける。海がどんな暗くても、灯台の光を目指し、進み続けるなら、必ず目的の港に入る事が出来るように、キリスト者にはそれぞれ、暗闇に輝く灯台のような、目指して行くべき御言葉が必要である。もし、そのキリスト者に、それを「見続ける力」があり、それに向かって「進んで行く事を止めない」なら、必ず主の栄光の領域へと到達して報われる。

「ここに、聖徒たちの忍耐(ヒュポモネー)と信仰とがある。」(黙示録13:10) この忍耐(ヒュポモネー)は、農夫が、「下に(ヒュポ)」+「ひざまづいて(モネー)」、蒔いた種の実りを待つものであり、「嫌々ながら」のような消極的な色合いは無く、むしろ希望をもって楽しみに待つような、積極的な色合いのある言葉である。
忍耐と希望は、必ずセットである。ヘブライ思考的には、「希望」には、未来を目の前の今へと引っ張る力のあるものとしている。だから、種を蒔いたら「5年後には、もしかしたら実がなるかなあ?」ではない。
蒔いたら、5年後には実がなって、喜んで刈り入れをし、おいしく味わって食べている事を、「今日のように見て待つ」のだ。時間を先取りし、引っ張てきて、今ここにあるかのように見えるから、期待して待てるのだ。
信仰とは、見えないことの「保証」である。未来に起きるか起きないか定かでないような、おぼろげな事柄ではなく、未来に確実にある事柄を、まだ見てはいないけれども今、手元に引っ張って来る事なのだ。
それは、預金通帳に何千億円も入っていると記帳されている事に似ている。もしそうなら、日々食べる事について心配する必要は無いし、ビルを購入する事にさえも、何の躊躇もいらない。同じように「御言葉」の明細を見るなら、私達は何を食べようか何を着ようかと心配する必要は一切ないはずであり、その富を引き出すために、「信仰」という印鑑を持って、「行い」という銀行へ足を運んで行くのみである。
世の銀行、世のマネーは、何百年後には破綻しているとしても、神の言葉は、永遠に破綻しないからだ。
原因には、必ず結果がつきまとう。それは、良しにつけ、悪しきにつけ。労苦(コポス)には必ず良い報酬が返って来るのと同じように、労苦の逆である「なまける事」にも、必ず悪い報酬が返って来る。
「ですから」主が与えて下さる莫大な報いが将来に待っている事を、あたかも今、それを受けているかのように望み見、喜んで、今日与えられている一つ一つの事を、気落ちする事なく、希望をもって成していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
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 明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。

ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。

以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!

神から来たのか、悪魔から来たのかの見極め方(ヤコブ3:13-18)
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 主にあって正しく歩みたいと願う人は、時に分からなくなる事がある。今の自分は果たして主の前に正しいのか正しくないのか、目の前に置かれたこの道は主から来たものなのか、それ以外から来たのか、また、この起きている出来事は拒絶すべき事なのか受け入れるべき事なのか。今回、その見極め方を学びたい。

今目の前に置かれたこの道、この思いは、果たして主から、上から来たものなのか。それとも自分の肉あるいは悪魔から来たものなのか、その見極めをしたい時は、次の御言葉を基準にすると良い。
『上からの知恵は、第一に清く(ハギノス:純粋さ、聖さ)、次に平和(エレニコス:平安・平和溢れる)、寛容(エピアケィス:優しい、親切な)、温順(ユパイセイス:温順な、従順な)であり、憐れみと良い実とに満ち、かたより見ず(アディアクリトス:えこひいきが無い)、偽りがない。』(ヤコブ3:17)
神から来るもの、上から来るものはまず、純粋である。すなわち表裏が無く、シンプルで、清いものだ。
また、平安が溢れるものである。その道に行くなら困難が待ち受けていると容易に想像できるとしても、主の平安があるなら、大丈夫だ。また、上から来る思いは、寛容であり、優しく親切であり、憐れみであり、そのような良い実を豊かに結ばせるものだ。そして、えこひいきが無く、偽りの無いものだ。
もし、行こうとしている道筋の動機に妬みや党派心があるなら、すなわち、神ではなく人を見たり、人と比べたり、人に媚びる要素があるなら、そのような知恵は上からのものでなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり、その先には、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある。(ヤコブ3:14-16)

主の御前に正しく歩む道は、「肉」の支配に導かれて歩むのではなく、御霊の支配下に導かれて歩む道であり、その道筋には、御霊の良い実(ガラテヤ5:22-23)が豊かに結んで行くものである。すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を。御霊によって歩む人は、どんな過酷な状況下でも、これらの良い実を着実に実らせる。それも、意識的にでなく、無理してでもなく、自然に。
御霊の対極にある「肉」とは、神を除外し霊を除外した人間生来の肉体的・魂的な力や欲望、考え方などで、肉に従って歩む人はどんなに頑張っても、「愛もどき」「喜びもどき」などを作る事しかできない。

次のリストは、私達の中から拒絶し、排除すべき「肉の行い」のリストである。『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである。・・・このようなことを行う(プラッソ)者は、神の国をつぐ事がない。』(ガラテヤ5:19-21)
ここの「行う」と訳されたギリシア語プラッソには、実行する、強要する、やって行く等の意味があり、ここでは現在形能動態が使われている。すなわち、これら肉の行いを「意図的に、自主的に、好きこのんで、行い続ける」ような者は、神の国をつぐ事がないのだ。しかしもし、本当はこれら肉の行いを止めたいのに止められないという場合は、どうしたらいいか。それは、自分の「肉の」力でやめようと努力しても、無理である。
髪の毛を上方に引っ張っても宙に浮く事はできない。それは法則だからだ。同じように、肉に従って歩んでしまうという「法則」に対抗するためには、「いのちの御霊の法則」に乗る事である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り、人は地上から離れる事はできない。しかしライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになったのと同じように、キリストがいのちの御霊の法則を開放した故、私達はキリストに乗って(信じて)、罪から離れる事が出来るのだ。
主は、私達が肉によって無力になって神の基準を全うできなくなっている所から救って下さるために、ご自分の御子を肉体を持った人としてお遣わしになり、肉において、罪を処罰された。(ローマ8:1-3)
この御子なるイエス様に、助けを求めるのだ。「イエス様、私は肉の行いを止められません。でも、御子なるイエス様が十字架上で肉を処罰された事を感謝します。あなたが十字架上で為された事を、私はイエス様を信じる信仰によって私にも成ったと信じ、感謝します」と宣言し、キリストの十字架上での「肉の処罰」を、自分自身にも適用するなら、助け主・聖霊様が与えられ、聖霊の支配下で肉の行いを抹殺して下さるのだ。
今の自分、これからの自分を御言葉によって見極め、御前できよく、正しい道に歩み、豊かな実りを結ばせて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

偶像(アイドル)に夢中になってはならない(レビ記26章)
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 先週、主が発せられる動詞には宣言型と命令形がある事を学んだ。主の宣言型動詞は100%成就し、生きていて、今も全宇宙の秩序が成り立っているが、唯一、人間には特別に「命令形動詞」が与えられた。
人が主の命令型動詞に服従するなら、宣言された通りの祝福が与えられ、逆らうなら、呪いが待っている。
祝福と呪いの分岐点はシンプルで、主の御言葉に聞き従い守り行うなら祝福が、聞き従わず守り行わないなら呪いが待っている(申命記28章)。今回、この祝福と呪いの大本を、レビ記26章から学びたい。
レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる事だ。祝福と呪いの大本は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像を造ってはならない」である。
これはとても大切であり、十戒の第一・第二にもある程だ。もし自分と主との間に何かを置き、主よりもそちらを優先するなら、それが偶像だ。それはお金であったり、異性であったり、自分自身であったりする。
偶像は元々、無益・無駄なイメージ、英語ではアイドルである。現代、スマホから来る無益な映像やゲームも、まさにそれではなかろうか。それは魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」のだ。
夢中になるアイドル、それは最初は甘くても後には苦くなり、人から、社会から、主から見捨てられてしまう。
偶像によってまず壊れるのは、主との関係で、安息日を守る事、聖所を敬う事が、おろそかになって行く。
命令の順序は、第一に偶像の禁止、次に礼拝の尊守、その後に、主の命令を守り行う事だった。つまり順番として、もし偶像を作るなら、主との関係が壊れ、礼拝がおろそかになり、主の「しなさい、してはならない」が守れなくなって行く。だから偶像礼拝者に真っ先に現れる兆候は、約束を守れなくなる事である。

祝福の前提条件は「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば」で、その人には主が豊かに雨を降らせ、豊かに実らせ、麦打ちは春から秋まで、秋の収穫は、種まきのシーズンまで続く程におびただしく穫れる。なぜなら、産まれて来る子もおびただしく増えるからだ。(4-13)
しかしもし御声に聞き従わず、守り行わず、主との契約を破るなら、来る呪いは段階的に厳しくなって行く。
まずは恐怖と病が降され、命がやせ細り、自分の労苦は他人に奪われる(14-16)。それでも立ち返らないなら、その罰は七倍重くなり、天は鉄のように雨を降らせず、地は青銅のように作物が出なくなり、力は無駄に費やされてしまう(19-20)。それでも聞かないなら、さらに七倍罰が重くなり、野獣がはびこって子供や家畜が奪われ、国が荒れ廃らされてしまう(21-22)。それでも聞かないならさらに罰は七倍重くなり、剣や疫病が国内に臨み、敵の手に渡されてしまう。また、食料が主に打たれ、ひもじくなってしまう(23-26)。
それでも聞かないなら、さらに罰は七倍重くなり、自分の子供を食べる程の深刻な食糧難となり、さらには、その地から追い出されて国々に散らされ、敵国にいるようになる。実際、そのような呪いを、イスラエルは全て味わい尽くしてしまった。なぜなら「主に聞き従わない事」を、し続けたからだ。主は代々預言者を通し、多くの不思議な事や奇跡を通して、警告して来たのを全部無視し、自分のアイドルを捨てなかったからだ。
イスラエル2500年の離散の根本と、ノアの洪水の根本は同じで、それは「異性」というアイドルだ。
イスラエルに偶像礼拝の元をつくってしまったのはソロモンであったが、彼は元々、主の御声に聞き従う人だった。しかし異性が彼の信仰を台無しにしてしまい、イスラエルに立派な神殿を建てたのに、多くの妻達に惑わされ、偶像の宮も建ててしまった。ダビデは罪を指摘されたら一度で悔い改めたが、ソロモンは二度戒めを受けたのに二度も蹴り、もはや戒めは与えられなくなった。彼は自分の好む女やアイドルを存分に耽り楽めたであろうが、その人生の最後は、全てが虚しいものとなってしまった。(伝道者の書)
彼がもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。
私達は盲目で、好き勝手な道を歩もうとしていても、主は災いという囲いで無理矢理祝福の道へと導いて下さる。主の道に歩む幸いは、押入れゆすり入れの祝福、災いもまた、踏んだり蹴ったりの「祝福」なのだ。

主の「創造(バラ)」の目的(創世記1:1)
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年のはじめより、主の新創造を喜び楽しむようにと、イザヤ65章から示されていた。今回はその「創造」の意味を探って行きたい。「創造」のヘブライ語は「バラ(ברא)」、聖書で最も最初に宣言される動詞である。
『はじめに(ベレシート)神は天と地とを「創造された(バラ)」。 』(創世記1:1) この「バラ」は「創造する」と訳されているが、「切り取る」という意味もある。つまり神は、時の概念の無い「永遠」から有限の「時」を切り出し、無限世界から、「宇宙」という有限世界を切り出して、人が住める秩序のある世界を創られたのだ。
創世記1:1のバラは、宣言型動詞である。神の宣言型動詞は必ず「そうなる」もので、「在り続ける」。
聖書にはもうひとつ、「命令型動詞」というものがあり、それは、人に対して発せられる命令で、人はそれに対しては従う事が要求される。それは、人の自由意志によって破られる事もあるが、もし破るなら、記されている通りの災いが起きてしまう。もし従順するなら、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)

天地創造以来、神のバラの宣言型動詞は生き続けており、維持され続けている。神が「光よあれ」と宣言されて出来た光は、今も存在している。また、神が海の水に対し「ここまでは来てもよい、しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」(ヨブ38:11)と宣言された事は、ずっと保たれて来た。
それは、主が人を生かすための恵みの故であったが、人が主の命令に背くなら、秩序は破壊されてしまう。
主のバラ(創造)は、ことごとく良いものだが、人が主の命令を破ってしまった故に、主の良き創造は破壊され、破った人間自身に、死と呪いがもたらされてしまった。しかし神は、憐れみ深い。聖書の大部分、すなわち創世記3章から黙示録までは、人が壊してしまった創造秩序の、神による回復の努力である。
現存している有限の宇宙は、やがて巻き去られなくなり、永遠・無限の新世界が主によって新創造される。すなわち、創世記では、はじめに(ベレシート)神は無限から有限な世界を切り出して「無」から「有」を創造し、しかし、人がその良き創造を台無しにしてしまったが、黙示録では、主がその世界を回復させ、不完全になった「有」を、一旦「無」へと帰し、永遠・無限・完全を新創造するという、壮大なキアズムなのだ。
神ははじめに、全宇宙や天体を創造し、空と海、大地を創り、動植物を創り、それら全ては神の宣言型動詞によって今も生き続け、動き、持続し続けている。しかし人は、自由意志によって神の命令に逆らい、死と呪いを招いてしまった。そこから救われるためには、神の御言葉に従順する事である。
『あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。』(レビ記18:5) 神の命令型動詞に従順する時、その人の中で再び神の「バラ」が起きる。
主は、罪と背きを重ねて、主に打たれ、砕かれ、悲しむ人に、唇の実を「バラ」される。(イザヤ57:15-19)
重大な罪を犯したダビデも、詩篇51篇で祈っている。『わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり(バラ)、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。・・・主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。・・・神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 』(詩篇51:8-10,15,17)
つまり、人が自分の身勝手によって、主の良き創造を破壊し、その喜び(エデン)から追放され、苦しみ悲しんでいる人は、砕かれた心従う心をもって主の前に出て悔い改める事によって、その人の中に主の新創造が働き、新しい清い心が、揺るがない新しい霊が、そして喜びの賛美が、主によって創造されるのだ。

祝福の新創造が与えられる条件は、主の命令型動詞への服従である。主は言われた。わたしが聖であるから、あなたがたも聖であれ、と。人は普通に生きているなら、徐々に、堕落へと落ちて行ってしまう。
ちょうど水の中では泳いでいないと、沈んで行ってしまうように。だから、聖となるために、もがくべきだ。
ダビデは、せっかく正しく歩んでいたのに、気を抜いて、忠実な部下の血を流し、その妻を奪うという罪を犯してしまった。しかし彼は、それを主から指摘された時、悔い改め、祈り、正しく在ろうと、もがいた。
もちろん彼は、犯した罪の支払いとして、多くの苦しみを経なくてはならなかったが、主は、彼から恵みを取り上げる事なく、彼の栄光の家系は、保たれた。主の命令形動詞は、私達の従順する行動と関係があり、その実である「新創造」は、御言葉に労苦して従い続ける事によって、結ばれる。主の命令に従い、ますます新創造が形造られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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