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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

真のシンデレラストーリーを目指して(ルカ14:15-24)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、イエス様に水をぶどう酒に変えていただいて主の栄光を現す方法をヨハネ2章から学んだ。イエス様に何かをして頂きたいなら、まずイエス様と自分を「主人としもべ」の関係にし、また自分に出来る限りの「きよめ」の水くみを果たすのだ。そうして水は極上のぶどう酒へと変わり、極上の喜びに与る事ができる。
ところが多くのクリスチャンはその喜びを味わえていない。今回その原因を「大宴会のたとえ」から学びたい。

イエス様はルカ14章の「大宴会のたとえ」で、神の国の宴会に入れない人はどういう人か話された。宴会には大勢の人が招かれていたが、彼らはその時間になると、主人の僕たちの招きを一様に断ってしまう。
最初に断った人の口実は、「畑を買ったので見に行くから、宴会には参加出来ない」、というものだった。
畑。それは生活に必要なものを産出する「仕事場」である。しかし、神様から離れて自分の手で土を耕しても、いばらやあざみがその人に向かって生え出て、一生、額に汗しながら食物を得なくてはならない。
そしてついには塵に還らなくてはならない。(創世記3:17-19) 主の宴会を祝うべき時に、世の仕事を優先させる人は、実入りは少なく、神の国の素晴らしい食卓にあずかることは出来ないのだ。
二番目に宴会を断った人の口実は、「牛を五くびき買ったので、それを調べに行くから」だった。
牛は、トラクターのように畑仕事を楽にできるし、乳も出るし、肉を食べる事もできる。牛は「生活」に潤いや便宜をもたらしてくれるが、神の宴会を後回しにして生活を潤そうとするなら、結局は労多くして益少ない。
『あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。』(ハガイ1:9)
三番目に断った人の口実は「妻をめとったから」というものだった。礼拝や神の国の事よりも、夫や妻を第一にする。一見すると、あまり悪い事のように見えないかもしれないが、その夫婦はどうなってしまうか。
人類最初の夫婦・アダムとエバを見れば分かる。アダムは、神の声より、妻の声のほうに聞き従った結果、呪われ、妻のせいにし、汗水を流して土を耕さなくてはならなくなってしまい、ついには死ぬ存在となった。
結局、仕事も生活も結婚でも、神様が招いて下さる宴会を退けて、自分の目と判断に頼って「上等な畑」「上等な牛」「上等な結婚」と思って得ても、主を優先順位的に低く見積もるなら、それらは一転して、上等な「苦労」をもたらす畑や、牛、結婚となってしまうのだ。主が「よし」としていないものは、みなそうである。
私達はそのようにして、主の宴会を、極上のぶどう酒を、ロスしてしまわないよう、気をつけるべきである。

主は最初の奇跡を結婚という場で行い、僕(ディアコノス)が汲んだ水を、極上のぶどう酒に変える事によって、ご自身の栄光を現された。聖書はアダムとエバの結婚で始まり、聖書の終わりは、まことの花婿キリストと、花嫁である教会との結婚によって終わる。それ程、主は、結婚を尊ばれた。私達は、天におけるまことの結婚に入るまで、地上では「僕(ディアコノス)」として、イエス様の言われる事を何でも行うべきだ。
この「僕」と訳されるディアコノスは、ディア(くぐる)+コニス(塵、灰)、すなわち、灰をかぶるように仕える者だが、実は、世界中の女性が憧れるシンデレラは「cinder(灰)」が元であり、和名は「灰かぶり姫」である。
シンデレラは過酷な継母の元で、灰をかぶる程に強制的に働かされていたが、王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る、という物語であるが、地上で神のために働く全ての「僕」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。
やがて教会は、キリストにめとられる日が来る。それに向かい、花嫁として、御言葉のともしびをともし、聖霊の油を蓄え、めとられる時を待つ者である(マタイ25:1-13)。その日至るまで、主人はイエス様であると告白し、灰かぶり娘となってただ主に仕えて行く日々を紡いで行くのであれば、灰まみれであった衣は、主が光り輝くきよい麻布へと変えて下さる(黙示録19:8)。その時、主によって目の涙を全く拭い取られ、嘆き悲しむ日々は終わり、もはや苦しみや叫びの無い、永遠の御国の宴会へと入るのである。
だからこの地上において、畑を買ったから、牛を買ったから、結婚したから、王の宴会に行けない、と言っては決してならない。私達はただ、最上なるお方に天で迎え入れるその日を期待を持って目指し、神の国とその義を第一に求め続け、この地上においても、主が備えて下さる最高のぶどう酒をいただきつつ、歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

極上のものを主から備えていただくために(ヨハネ2:1-11)
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 ヨハネによる福音書は、当教会では1日1節づつ反復宣言し暗唱 (テフィリン)している箇所であるが、御言葉は1節をじっくり掘れば掘る程、次々と宝が掘り起こされる。今日また新たに掘り出された宝を見たい。

イエス様が最初に奇跡を行われたのはガリラヤ・カナの結婚式においてだった。人は日常生活の色々なイベントで諸々の準備をするが、この度、結婚式という重要なイベントにおいて、非常に重要なミスが発覚する。ぶどう酒が尽きてしまったのだ。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」と言ったが、イエス様は言う。
『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません。』(4節)
母に向かって「婦人よ」「何の係わりがありますか」と、ずいぶん不思議な言い方をしたものだが、なぜこの言い方をしたのだろう。母マリヤとしては、イエス様を親子関係の「子」として見、何かの手伝いをイエス様にさせたいと思ったのであろうが、イエス様はこう言う事によって、彼我の立場表明をしているのだ。
婦人よ、もしあなたが、メシヤであるわたしに何か必要を満たして欲しいなら、親子としてでなく、わたしを「主」という立ち位置に置き、あなたは主従関係における「しもべ」の立場に立たなくてはならないですよ、と。
多くの人々が「神」という存在を、勘違いしている。神を敬っているかのように見えて、実は、困った時だけ助けてくれる便利な「僕」のような位置に神を置いている。そういう人は困った事から救われたとたん、神を忘れてしまう。「敬い」が無いからだ。主を敬う人は、困っていない時でも、いつでも主を礼拝し敬うものだ。
『母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。』(5節)
彼女は、母という立ち位置を降り、イエス様を「上」とし、指示をするお方という正当な立ち位置に戻った。
『そこには、ユダヤ人の”きよめのならわし(カサリスモス)”に従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。』(6節) このカサリスモスは、ユダヤにおける清め礼であり、もし律法上で「汚れた」状態になってしまったら、夕方までに水を浴びて、主の御前に自分をきよくするための器である。
イエス様が満たされるのは、人が飲み干したワインボトルなどではない。人が欲望を飲み食いして空っぽになった汚らわしい器をイエス様は満たさない。金銭欲を満たそうとしてイエス様を利用しに来た者には、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」と言われた。(ルカ12:14)
主が私達の必要を満たすための奇跡を起こして下さるための土台作りは、私達は主従関係の「従」となる事であり、自らを「きよめる」事である。清められていない金銭感覚の人の財布に、新しい金銭を増し加える奇跡は、主は、絶対にしない。その人は新しく増し加わったお金で、さらに罪を増し加えるだけだからだ。
だから言われている、『だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。』(マタイ9:17)。 私達が新しい皮袋になる必要がある。
そのためにはまず私達が自分をきよめるための水を、全部使い果たす必要がある。すなわち、悔い改めて、「改まった行い」を、私達の側が「し尽くした時」、主は「やっと満たせる」と安堵し、満たして下さるのだ。

『そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。』(8節) 主が「今しなさい」と声をかけて下さる時がある。今、舟の右に網を降ろしなさい、今、鬨の声を上げなさい、と。その「今」という御声に聞き従う時、主の奇跡が起きる。料理がしらは、良いぶどう酒に変わった水を味わうと、言った。『どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。』(10節)
この料理頭、すなわち、宴会の世話役は、世の中の宴会ごとについては経験も知識も豊富な人だ。
そんな彼が、このぶどう酒は良いぶどう酒だと認定した。きよめを実行した人に対して主が満たされるのは、世の事に熟知した人さえ、極上のものだと認めるものである! 世で経験豊富な人は、よりオトクな方法を熟知しており、時には”せこい”、”ちまちました”方法もアドバイスして来るが、自らを清めたしもべに主が与えて下さるのは、せこい、ちまちましたものではなく、上等な、混ざり気の無い、極上の喜びである!
イエス様の言葉には、条件があった。縁まで満たしなさい、と。だから主の僕がしなくてはならない事は、祝福の器が、縁まで満たされるまで、ずっと水くみをし続ける事である。祈りの水くみ、従順の水くみを。そうして上等の喜び・上等の祝福に与かる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

祝福の地を見えなくさせるもの(創世記21:9-21)
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 ベエル・シェバとはどういう所かを前回学んだ。そこは、よく潤った広くて良い地、私達が目指すべき地であるが、その素晴らしい良き地がせっかく示されても、入れない人・入れても祝福を得られない人がいる。
今回、そのようなベエル・シェバの祝福を受けられない人の特徴と、その対処法を学びたい。

ベエル・シェバが聖書で最初に登場するのは創世記21章だが、その箇所には只ならぬ事が起きている。
『翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。』(創世記21:14) この母子がパンと水だけを持たされて送り出されてしまったのは、自分の立場をわきまえずに、高慢になったからだ。
イシュマエルは歳の差のある弟のイサクを軽んじ、ばかにし、母ハガルも彼を止めなかった。神の国に弱者をばかにして戯れる性質は、無い。争いを好み、弱い人をばかにして笑う人は、切り離されてしまう。
アブラハムはイシュマエルも自分の子なので、非常に悩んだが、主は言われた。この少年も一つの大きな国民としよう、と。それはハガルにも与えられていた約束であるので、アブラハムは安心して「送り出した」。
ところがハガルはわざわざベエル・シェバの「荒野」へ向かって行く。道沿いに行けば町や井戸がある土地なのに。しかも目の前に井戸があるのに、彼女は気づかなかった。自暴自棄になったのかもしれない。
せっかくベエル・シェバに送り出されても、神様の約束の言葉ではなく、自分の負の感情をじっと見つめ、沸き立たせ、不平不満や争いの心を高じさせる人は、祝福の井戸には、ありつけないのだ。
「イシュマエル」の名は「神は聞かれる」という意味で、主がつけて下さった名前だ。彼女は「神は聞かれる」という子を手放して感情に任せて泣いていた所、神は「少年の声を」聞かれた。それでハガルに声をかけ、約束を思い起こさせ、『神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。』(19節)

肝心のものがそこにあるのに気づかず、神様が目を開いて下さる場面は、聖書には幾つかある。
バラムはモーセの時代の有力な預言者であったが、彼が大金で雇われ、ろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えているのが、見えなかった。彼は「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。(民数記22章) 彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムは「進め、進め、なんで自分の思い通りに行かないのだ」、と、ろばを打った。
その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32) 御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。
もう一つ、見えなかった目が開かれる事で有名な場面が、使徒9章にある。『するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。』(使徒9:18) ここは迫害者サウロが使徒パウロになった場面である。
彼が見えていなかった理由は、「自分は正しい」という思い込みに満たされていたからだ。自分がしていることは正しい、相手が間違っている、だから何しても良いのだ、という思いにくらまされ、神の御心に反する事を逆にしてしまっていた所を、主はアナニヤという人を通して彼の目を開いて下さった。

このように、ハガルは鬱憤に、バラムは金銭欲に、サウロは自己義によって見えなくなっていたが、私達もそれらによって目がくらまされ、神様が用意して下さった祝福が見えなくなってしまう事がある。もし祝福があるはずなのに見えない、と自覚をしたなら、それらから目を逸らし、思いと心を主に向け、御霊に歩むよう軌道修正すべきだ。そうすれば、見えなくしている覆いは取り除かれ、自由になる。(2コリント3:12-16)
主は、ハガルにはイシュマエルを、バラムにはろばを、サウロにはアナニヤを遣わして目を開いて下さったが、私達も霊的盲目に陥って突き進んでいる兄弟姉妹に気づいたなら、助けてあげるべきだ。
進んではならない滅びの道がよく見えるようになり、さらみ祝福の地ベエル・シェバもよく見えるようになって、何をしても栄える幸いを勝ち得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ベエル・シェバに入れ(創世記26章)
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 去年、2018年の天声のカレンダーを作る時、2018年の標語となるべき御言葉を祈り求めていた所、ベエル・シェバという言葉が与えられた。このベエル・シェバとは何か。年明け最初の礼拝では語られたが、主日礼拝で語られた事がなかったので、今回、あらためてベエル・シェバとはいかなる所であるのかを見てみたい。

ベエル・シェバは「七つの井戸」「誓いの井戸」という意味の地で、信仰の父アブラハムが井戸を掘ったが、アビメレクのしもべが来て奪ってしまった。イサクが生まれて後、何をしても栄えるアブラハムをアビメレクは恐れ、不可侵条約を結びに来るのだが、その時、アブラハムはベエル・シェバを返すように抗議し、アビメレクは七頭の雌の子羊を受ける事で、そこは確かにアブラハムの地所であるという誓いを立てた。
『これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。…アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。』(創21:31-33)
アブラハムが植えたとされるぎょりゅう(御柳)は今でもベエル・シェバにある。この木はヘブライ語でアシェル(「幸い」の意味:詩篇1:1)で、水が無い所でも深くから水を汲み上げる性質があり、イスラエル民族が1900年ぶりに入植した時、砂漠地帯だった所を、アブラハムに習ってこの木を植えた所、緑化に成功した。

以上のように、ベエル・シェバは信仰の父アブラハムが正統な手続きを経て入手し、潤いある地へと開墾したのだが、息子イサクは飢饉が理由でそこを離れ、再びアビメレクの元に身を寄せに行く。その時、主は彼に現れて言われた。『エジプトへ「下って」はならない。わたしがあなたに示す地に留まりなさい。』(26:2)
道や電車は、都に近づく方を「上り」、遠ざかる方を「下り」と言うが、霊的にも「上る」「下る」の概念がある。
「下」は世であり、そこは一見食料に満ち、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産を、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
私達は、上にあるものを求め続けるべきだ。そこはキリストが神の右に座しておられるからだ。(コロ3:1)
イサクは食糧難を「下」の方法で解決するため、異邦のアビメレクの元に「下った」結果、散々な目に遭う。
彼は異邦の地で無事に生きるために妻リベカを「妹です」と偽ったり、せっかく百倍の収穫を得ても、それを妬まれ、父アブラハムが掘った井戸を埋められた挙句、アビメレクから出て行くように言われてしまった。
追い立てられた先で井戸を掘っても、そこを奪われ、さらに出て行った先で井戸を掘っても、またしても井戸を奪われ、さらに次の場所へ行かざるを得なかった。どうしてそのような事が起きるのだろう。
それは、そこは主が定めた定住すべき地ではないからであり、「下」の見方で心が曇ってしまったイサクを、主が、「人」という鞭を用い、そこに住めないように導いておられたからだ。私達も「下」を見過ぎて目が曇ってしまい、主が示しておられる地が分からなくなってしまう時、主は「人」や「状況」を鞭として用い、主が示される地へと追い立てて行く事がある。その場所においてなす事がやる事がうまく行かない、やられっぱなし・奪われっぱなしである時、どこが本来いるべき「ベエル・シェバ」であるのかを求める必要がある。
イサクは、井戸をせっかく掘り当てた、と思ったのに、結局そこは狭い場所で、敵だらけで、いつも気を張っていなくてはならなかった。私達も、今の仕事や状況でそのように感じているとするなら、主に御心を求めて行くべきである。主が導いて下さる地、広くて、安心して産んで増えて行ける所を求めて。

『イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。彼はそこからベエルシバに上った。』(22-23節) 三度目にようやく争いの無い井戸を掘る事が出来たが、彼はすぐベエル・シェバへと「上る」。彼は「上」を見上げたのだ。彼は結局、信仰の父が掘った井戸の地、神の約束が示されていた地こそ、自分が産んで増えて地に満ちていくべき場所だとようやく悟ったのだ。
するとその夜、早速主がイサクに現れて言われ、「恐れてはならない」「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、あなたの子孫を増す」と言われた。それで彼は、その所に礼拝場所を築き、天幕を張って井戸を掘り、住み込む準備を整えた。(24-25節) 私達も主が「ここだ」と示される地、示される仕事、示される礼拝を求めるべきである。そしてその「ベエル・シェバ」を得たなら、そこで産んで増えて地に満ちていく準備を整えるのだ。ベエル・シェバをわがものとし、産んで増えていく今年でありますように!

第一礼拝 本来あるべき礼拝の回復(ハガイ2:1-9)
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第二礼拝 「言葉の振動が起こす奇跡(詩篇19篇)」 賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

 最近、講解説教や出張先などでハガイ書の御言葉が再び頻繁に示されるようになって来た。ハガイ書は天声教会開拓の根拠となった御言葉である。ハガイ書の主要テーマは「神殿を再建せよ」という命令であるので、与えられた当初は、新しい会堂を建てる事だと思っていたが、御心を求めて行く内に、「本来あるべき礼拝を回復せよ」という事だと分かってきた。本来あるべき礼拝とは、何だろう。今回詳しく学びたい。

キリストの福音はユダヤ人から始まった故に、初代教会は、ヘブライ思考に基づいた礼拝をしていた。
ヘブライ思考は徹底した「御言葉中心」で、礼拝では御言葉をそのまま朗読し御言葉そのままを暗唱した。
それで初代教会は、主日ごとに会合を開いて礼拝をする時、旧約聖書や使徒の書簡を「そのまま」朗読し、説教とした。ユダヤでは今でもそうだが、教会の「説教」に相当するものは、全部「御言葉の朗読」で、人間による解釈は一切混ぜ込まず、また、彼らの祈りも、詩篇など「御言葉そのまま」を祈りの言葉としていた。
「御言葉そのまま」を聞いた会衆一同は、各自が御言葉そのものから働く聖霊に心動かされ、各々に必要な慰めや指導や訓戒など、各々に違った特有の養いを、聖霊から受けていた。これを「聖霊牧会」という。
神が求められる礼拝は、聖霊と御言葉による礼拝である。『まことの礼拝をする者達が、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。』(ヨハネ4:23-24)
これは、あるサマリヤの女に対してイエス様が語られた言葉である。彼女は結婚に5回も失敗し、現在6人目の男性と同棲し、人目を避けて暮らしてたが、それでも真理を求めていた。彼女は自分の先祖はヤコブであると主張し、ヤコブの井戸から先祖代々飲んできた事を誇りにしていた。彼女が話している人が預言者だと感じた時、真っ先に尋ねたのは、礼拝についてだった。どの場所で、どのように礼拝するべきか。
イエス様は言われた。父なる神が求めておられるのは、霊とまこと(真理)によって礼拝する礼拝者だ、と。
すなわち、御言葉そのものから聖霊に導かれる礼拝者である。聖霊牧会こそ、本来あるべき礼拝の姿だ。
彼女は、メシヤが来られる時には全てを教えて下さると言った。彼女は日頃、メシヤを待望していたのだ。
彼女がこのような志を、日頃から持っていたから、主は彼女に会うためにわざわざサマリヤに来て、あの井戸で待っておられたのである。私達も、いかに罪と弱さを持っていたとしても、日頃から彼女のように真理を求める心を持ち、メシヤなるキリストの待望を待ち望んでいるなら、主がわざわざ会いに来て下さるのだ。

ハガイの時代は、バビロン捕囚の後、イスラエルの民がエルサレムへ戻って来た時だ。彼らは自分の家・生活・経済を良くしようと走り回ったが、神殿は廃墟のままだった。結果、働けど働けど、暮らしはなお楽にならなかった。多く蒔いても取入れは少なく、飲んで食べても満たされず、穴のあいた財布にかきこみ入れているように、生活は慌ただしく、実り少なく、貧しいままだった。(ハガイ1:4-11) 礼拝が荒れ果てた状態で生活や外面を立派にしようと頑張っても、虚しく終わる事は、法則である。私達が本来の礼拝を回復し、神の国とその義をまず第一に求めるなら、必要なモノ、事、人のほうが、私達を追いかけて来るのだ。
『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3)
捕囚前の神殿を知っていた老人達は、新しく建てられた神殿を見た時、無いにも等しく見えて、泣いた。
彼らは、外面的に豪華だった神殿が破壊され、今の神殿にはその外面的な栄光が無い事で泣いたが、神殿の栄光とは、教会の栄光とは何か。神殿や教会は、主を礼拝をする所であって、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であり、その栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所が教会なのだ。初代教会は迫害の時代にあり、家々の中で密かに、小さく礼拝を行っていたが、主の栄光は豊かに現れ、速やかに多くの人々が救われて行った。
主は、礼拝者の心を見られ、その心が主に対して真実でまっすぐであるなら、主はその集い(エクレシア:教会)を「以前の栄光にも勝る」ようにされるのだ。結局、主の栄光は、外面的にきらびやかに飾った所よりも、主に対する愛と純粋さ、主に対する従順や服従を持っている群れにこそ、現れるのだ。
御言葉なるキリストを純粋に求め、聖霊に牧会され、主の栄光に満ち満ちた集いとなりますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

心の覆いを取り除いていただくために(エペソ1:17-23)
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 もし心に「覆い」がかかっているなら、御言葉を理解できないばかりか人の話も理解できず、真理を外した、あさってな事をしてしまう。一体どうすればこの心の覆いを取り除くことができるのか。今日学びたい。
覆いがかかって真理が見えなくなってしまっている状態と、その覆いを取り除く方法は、2コリント3:12-18に記されている。心の覆いを取り除くお方はキリストであり、働かれるお方は御霊だ。そして私達の責任は、心を主に向ける事である。心の覆いが取りのけられる時、雲は去って晴れやかとなり、主の栄光を反射させ、人々に主の栄光を届ける事ができるようになる。だから私達は心を主に向け、祈り求める必要がある。
パウロは祈っている。神の認識をもたらす知恵と啓示の御霊が与えられ、心の目がはっきり見えるようになり 、神の絶大な力を知るようになりますように、と(エペソ1:17-19)。知恵と啓示の霊が与えられると、仕事も人間関係もうまく進む。ただ、真っ先に求めるべきは、「神に対する認識がはっきり見えるようになる事」だ。
人を癒すためには、まず、自分が改善される必要がある。『まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。』(マタイ7:3-5)
「梁」とは家を支える頑丈な横木で、とても目の中に入るような代物ではないが、つまり、それまで神様を抜きに自分を支えるために鍛え上げ、頑丈になってしまった「罪的なものの見方、生き方」とも言えるだろう。
自分を支えて来た「梁」が入ったままだと、頭ごなしに叱ったり、根拠無い言葉で塗りつぶしたりして、人のちりを取る所か、逆に深い傷を与えてしてしまう。だからまず自分の目から梁を取り除く必要があるのだ。
それはキリストによって取り除かれるものである、とコリントに書いてあった。だからこそエペソ1章の祈りが必要である。知恵と啓示の霊が与えられるなら、イエス様がどれほど素晴らしいお方か、自分がキリストにあってどれほど素晴らしい立ち位置にいるかを知り、感動し、健全になって行き、自分自身も癒やされる。

私達の内におられるキリストは、すべての支配、権威、権力、権勢の上におられ、この世ばかりでなく、来るべき世においても、あらゆる名の上に置かれたお方である(21節)。総理大臣が印を押した文書は、どんな省庁でも通るが、私達はなんと、その遥か上に置かれた権威のハンコを、代理で用いるような事ができる。イエス様の御名によって祈る事によって! ただ私達はこの権威をみだりに乱用できない。
私達は「御国の公務員」「キリストの使節」として、天国の公務に則った動機により、イエス様の御名によって宣言するならば、その宣言は天において受理され、地において莫大な「神の力」が働くのだ。
信仰の先人達は、この「神の認識」を持っていたため、それぞれ与えられた賜物と立場を駆使し、キリストの体の建て上げをして行った。ある人は、神の認識に沿って、お金持ちになって教会の経済を助け、ある人は偉大な政治家となって奴隷解放をした。それぞれが同じ神の認識に沿って行動する時、それぞれがキリストの事業、すなわちこの世を神の国へと変えていく事業に参加するのだ。結局、知恵と啓示の霊は、神の認識を持つために必要であり、それをもって動くなら、全てのものを、全てのものの内に満たしている方が全ての事を満たして下さるのだ!その特権は、教会(エクレシア)である私達に与えられているのだ!

人は、まだ罪を犯す前、エデン(喜びの園)を維持管理するという事業が与えられ、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられる方の中で健全に生きていた。しかし、人が善悪を知る知識を取り込んでしまって以来、御国の事業から脱退し、神から独立した「小さな神」のようになっておのおの身勝手な事をし初めた。それで被造物はめちゃくちゃになってしまったのだ。
だから私達は、再び本来の立ち位置に戻るために、自分の善悪判断によって生きる「小さな神」を自分の中から捨て去り、まことの神にあって教会へ参加し、おのおの与えられた賜物に従って神の国の仕事をする時、一切のものを、一切のものによって満たす方の満ちておられるパワーを行使できるのである。
まだ罪を犯していない人類に対して与えられた祝福は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)であった。この「従わせよ」「治めよ」には、「足の下で踏む」という意味もある。もしサタン(ヘビ)が、ニョロニョロと来たなら、足の下で踏まなければならない。それをせず、サタンの汚れた言葉に聞き入るなら、喜びの園がめちゃくちゃにされ、追い出されてしまう。キリストは今も、踏み続けておられる(エペソ1:22)。もし踏まないなら、キリストの認識に無い事になってしまう。私達は神に逆らう者を踏み続け、キリストの体で有り続けるべきなのだ。

悦び笑わせてくださる主(創世記18:9-15)
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 今年は「ベエル・シェバは私達のもの」という言葉で始まった。主が導かれる広々とした地・安心して産んで増えて行ける地、ベエル・シェバを受け継いだのは、イサクだった。今回は、彼の出生の秘話を見たい。
イツァク( יִצְחָק )の意味は「彼は笑う」、その元の言葉ツァハァク(צָחַק )は「笑う、戯れる、からかう」などの意味がある。本日の箇所で何度も「笑う」というキーワードが出てくるが、今回の場面はイサクが産まれる一年前、母サラは89歳、アブラハムは99歳、ちょうど神様から新しい名が与えられ、「来年の今頃男の子が与えられる」という約束を受けた直後だった。神は「エル・シャダイ(全能の神)」として現れて下さったが、アブラハムは、100歳の自分と90歳のサラの間に、どうして子供を産まれようか、と、心の中で笑った。
遡る事13年前、サラは自分を決定的に貶める事を、自らしてしまっていた。自分に中々子供が産まれず、神様の約束が果たされないのを待ちきれず、世の流儀に従い、奴隷女ハガルをアブラハムにあてがって代理で子を生ませたのだが、彼女に待っていたのは、途方も無い惨めさだった。ハガルはすぐに子ができてしまったからだ。それ以降、アブラハムと彼の集団の注目は、ハガルの子供に集中し、サラは軽んじられ、どんどん立場を失って行った。サラはハガルに、「女性としての力」のあらゆる面で負けていた。
若さや産む力、人を惹き付ける力など。サラは子供ができないまま閉経し、この体、この人生ではもう手遅れだ、自分だけ喜びの外に出されてしまった、と、「あきらめ」が分厚い層を成して彼女の心を覆っていた。
そこで主は、サラの心に手を加えるために現れて下さる。『彼らはアブラハムに言った「あなたの妻サラはどこにおられますか」。』(9節) ここはサラは驚いて良い場面である。初対面の旅人のはずの彼らが、神様に与えられた新しい名を知っており、しかも神様の約束をそのまま言っているのだから。しかしサラは現実感が無い。長い間、蔑まれ、軽んじられていると、防衛本能が働いて、喜びや笑い、怒りや悲しみなどの感覚が、すっぽり無くなってしまうのだ。主はそんな彼女を、母として整えるため、急激に取り扱って行かれる。
主は彼女の卑屈なあきらめ心に手を加えられる。『サラは心の中で”笑って(ツァハァク)”言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに”楽しみ(エデン)”などありえようか」。主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って”笑った”のか。
主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは”笑い”ません」。主は言われた、「いや、あなたは”笑いました”」。』(12-15節)
サラはようやく目が覚めた。空想から現実に引き戻されたのではなく、現実から真実へと引き戻されたのだ。
真実とは、何か。神の言葉、それが、真実である。世の人は言うかもしれない。そんな歳で一体何が出来るの、現実を見なさい、と。しかしキリスト者は言うべきだ。現実ではなく、真理である御言葉を信じなさい、と。
主がサラの心に手を加えられ、サラが真理の御言葉の約束を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、「女としての力」がよみがえって来た。サラは生理が途絶えて久しくなっていたが、それが復活した。
さらにその後、サラは、ペリシテの王アビメレクに略奪結婚されてしまう(20章)。その理由はなんと、サラがあまりに美しいために、夫アブラハムは「自分は殺されて妻サラが奪われてしまわないか」と恐れたからだ。
90歳の女性が、美貌ゆえに略奪されてしまう程、女としての力が戻る。私達は、エル・シャダイ(全能なる神)に、もっと希望を持つべきだ!18章では諦め切っていたサラの心に手が加えられたが、20章は、子供が生まれる事を「神の栄光」とするために、それまでの「兄妹」とい偽りの立場を正さなくてはならなかった。
100歳と90歳の「夫婦」の間に子供が生まれるのは、神の栄光である。しかし100歳と90歳の「兄と妹」の間に子供が生まれるとするなら、ケダモノである。だからまず彼らの偽りの口癖を取り扱う必要があったのだ。
そうして整えられ、いよいよ21章、サラに待望の子供が与えられる。『そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。』(21:6) サラはかつて、老いぼれてしまった私に何の喜び(エデン)があるだろうか、と言った。しかし神の御旨は、人を喜ばせる事(エデン)だ。
主は、人を創られると同時にエデンへ置き、喜びの夫婦関係、喜びの自然世界との関係を築かせようと、あらかじめエデンを設けておられたのだ。いつも喜んでいる事こそ、主が私達に望んでおられる事である。
90歳の女性が美くなって略奪される程になり、赤ちゃんを産んで乳を飲ませる。まさに笑いがこみ上げて来るものだ。主は気落ちしている人を笑うようにさせて下さり、聞いた人も、一緒に笑うようにさせて下さる。
真理の御言葉により、女としての力・男としての力が戻され、喜びの笑いに溢れる皆様でありますように!

言葉の振動によって世界をつくる神と私達(詩篇19篇)」
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 前回、天を揺り動かして祝福をふるい落とそう、という事が語られた。良い木を揺り動かしたら良い果物が落ちて来るように、今年は私達も、天を揺り動かし、良いものを振るい落として拾い集めよう、という事が語られた。ではどうやって天を揺り動かす事ができるのか。それは、御言葉を声で発する事によって、である。

言葉は、振動である。喉を触りながら言葉を発すると声帯が震えているのが分かるが、その震えが空気を伝わって相手の耳に届き、耳の鼓膜を振動させ、言葉が伝達する。この「振動」はとても興味深い。ある周波数の音は人を癒し、ある音は不快にする。ある内容の言葉は人を生かし、ある言葉は人を死へと導く。
音叉を水面に立ててその音叉を鳴らせる時、固有の波紋が生じるのだが、音叉が出す周波数によって、波紋の形が、花の形そのものになったり、ある周波数では巻き貝の模様そのものになったり、あるいは台風の渦や、銀河の渦そのものの形になったりする。
全被造物は、神のことばによって創造された。周波数と振動があることばのとどろきによって。ことばによらずに出来たものは、宇宙に一つも無い。(ヨハネ1:1-3) 宇宙が創造された時、宇宙は歌で満ちていた。
『かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。』(ヨブ記38:7) この宇宙はその歌が今なお残って広がっている。そしてやがて、神の言葉のとどろきによって滅ぼされる。『主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。』(2ペテロ3:10 ) 全宇宙は、今なお「神の言葉の振動」で満ちており、「ことば(ロゴス:”理”)」をもって定めた諸々の法則をもって、万物を保たたせているのだ。
『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。』(詩篇19:1-6)

神は唯一、人を、神の似姿として創られた。人が他の被造物と違う点は、ことばを話す、という点である。
だから、私達が言葉を発して空気を震え動かし、天をゆり動かす事によって、世界の諸々の事象に変化を加える事が出来るのである。アダムとエバは、神の言葉に逆らい、神から離れた自分勝手な善悪判断を、くちびるから発するようになり、自分自身は呪われ、そして全被造物は呪われてしまった。(ローマ8:22)
彼らは「目が開け」、言葉によってでなく見えるものによって一喜一憂するようになった。(申命記28:34) 
この呪いを、唯一打ち消すのは、世界を創造された神のことばを信じ、口から発する事によって、である。
 『悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。』(箴言12:13-14)  悪人がこうむる災いは、くちびるから発した悪い言葉が、空気を振動させ、霊の世界に伝達し、悪霊たちを惹きつけさせ、災いが振りかかる。ちょうどやまびこのように、言葉は遠くまで伝達して行った後、自分自身に跳ね返って来るのだ。
「霊」はギリシア語でπνεῦμα(ニューマ)、風、息、動く空気の事である。(ヨハネ3:5-8) 言葉は空気を震えさせるだけだと思ってはならない。霊の世界に伝達し、そしてかつ、全て記録されているのだ。『審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。』(マタイ12:36)
だから、私達はこの口から出る言葉を、よく注意し管理するべきだ。良い言葉すなわち神の御言葉を信仰じて発するなら、良き主人が良い実を落として下さる。しかし悪い事を言ったら、空中の悪い主人が悪い実を振り落とさせてくる。 『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)

以上のように、言葉を声として発する事には、霊を揺り動かし宇宙をも動かす力がある。
この教会は奇しくも「天声教会」という名である。この新しい年、信仰を混ぜた御言葉宣言により、天の声をもって世界を揺り動かし、自分の家に、人生に、家族に、職場に、たくさん祝福を振るい落としていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

御言葉の宣言によって天から祝福を振るい落とせ(申命記6:4-19)
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 本日は、年が改まってから最初の主日礼拝である。本日は、イスラエルでは最も大切とされている言葉は「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4) であり、ユダヤ人の聖書では、一日のはじまりと終わりに宣言する。そして、赤ちゃんが人生で一番最初に覚えさせられる言葉でもある。
本日は、このユダヤ人にとって「はじまりの言葉」から続く、イスラエルで最も重要な命令を見ていきたい。
この一文は、声を出して宣言しなさいという事で、ユダヤ人は一日の最初と最後にこれを宣言する。声に出すとは、心の中に閉じこもっている「ことば」を、声帯を振動させ、世界を揺り動かして具現化し、自分は御言葉を信じており、神は確かに生きておられるという事を内外に示し、霊的世界を振動させる行為だ。

『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』(5節)
これはイエス様も命じた、最も大切な命令である。そして、御言葉を口ずさむ際に、大事な事がある。
『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(6節) ハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、このハヤーは単に「存在させる」のみならず、「溢れさせる」ところまでの意味がある。
『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツ刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバル:論じ合う)。』(7節) 御言葉を声に出し、脳と心を震わせ、世界をも震わせ、打ち込むのだ。
『またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(8節) 手は諸々の行いやわざをする部位である。つまり御言葉を本人の手と結託させ行いへ連動させよ、という事であり、また、いつも御言葉を目の間に存在させよ、という事である。
『またあなたの家の入口の柱(メズーザー)と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(9節)
すなわち、御言葉を家の門と出入り口のしるしとする事によって、この家は、御言葉が土台の家であり、御言葉によって出入りする一家であり、御言葉によって守られた家である、と、内外に示すのだ。
家の入り口の柱(メズーザー)は、過越祭ではほふられた小羊の血を塗る場所である。(出エジプト12:7)
傷の無い小羊の血を門に塗るのは、この家は血の代価によって買い戻された家である事を示すためである。キリスト者は、小羊イエス様の血によっていのちが買い戻され、滅びの災いは過ぎ去った者達なのだ。

神の民がこれらの御言葉を信仰を混ぜつつ宣言し、その通りに行っていく時、主は必ず祝福して下さる。
主は10-11節で『あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。』と約束しておられる。
なぜ主は、あなたが「**しなかった」と強調しておられるか。それは、あなたが将来得るあらゆる良きものは、あなたが努力したり働いたりした結実ではない、だから驕り高ぶってはならない、と強調するためだ。
だから12節以降で警告が為されている。あなたは元々、悪しき者の奴隷状態だった。それを主は、小羊の血潮の代価をもって救って下さった事を、忘れてはならない、と(12-13節)。また、世の何者をも、神以上に神としてはならない事を。そうでないと、主のねたみが燃え上がって滅ぼし尽くされてしまう(14-15節)。
また「主を試みる事」もしてはならない(16節)。イスラエルはマサで水が無かった時、主を試みたが、主はモーセに命じ、岩から水を出させた。それを見、実際に飲んでおきながら、主に対して何の感謝もなく学ばない人々は、さらに図に乗って、次には肉を出せと言って主を試みた。だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」のである。(ヘブル3:7-11)
『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。』(18節) すなわち私達は、言われた事だけ嫌々ながら行い、それ以上の事をしない「霊的アルバイト」であってはならないという事だ。
自分から率先して、何が主に喜ばれる事なのか、御言葉をひもといて調べてみよう、とする人に、主は豊かに幸いを得させ、敵を追い払って下さるという祝福を、約束しておられる。(19節)
ユダヤ人は一日のはじめと終わりを、御言葉を宣言して、空気を振るい動かし、世界を揺り動かして、祝福を振るい落としている。神は御言葉を宣言する人々に御国を受け継がせるために、「ことば」で世界を揺り動かされる(ヘブル12:26-29)。この新しい年、御言葉宣言によって世界を揺り動かし、自身の家に、人生に、祝福をたくさん振るい落としていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

新しくされ続けていくために(コロサイ3:1-17)
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2017−2018年 ニューイヤーズ・イブ礼拝
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 古い年は過ぎ、新しい年へ移って行く。2017年はイザヤ65:17-18の御言葉によって始まった。すなわち、主は新しい創造をする、それを楽しみ喜べ、と。皆様の2017年は、その新創造を楽しみ喜べただろうか。
今回は、いかにすればこの新しい創造が私達の生活へと適用されて行くのか、コロサイ3章から学びたい。
『このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。』(コロサイ3:1) 「よみがえり」を経験するには、まず「死ぬ」というステップが必要だ。すなわち、御言葉でない、古い生来の生き方や考え方を、死へと投げ込むのだ。
そして、キリストが座を占めている「上」を求め続ける事が命じられている。地上のものを見ても、箸にも棒にもかからないような、むしろ、誘惑されてしまうようなもので溢れている。だからキリストを見続けていくべきだ。

キリストと共に死んだ人は、どのような立場か。『あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。』(3節) 私達の心臓は相変わらず動いている。
それなのに「既に死んだ」と書いてあるのは、どういう事か。私達がキリストと共によみがえらされたなら、世の事柄、肉の事柄、罪の事柄に対しては真理上は既に「死んで」おり、そうであると見做さなくてはならない。
『このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、「認む:ロギゾマイ」べきである。』(ローマ6:11) この「認むべき(ロギゾマイ)」は、会計用語の「仕分け」をせよ、という意味である。会計上、罪と死の借金は、キリストが立て替えて「支払い済み」なのだ。
会計の仕分けは、素人が間違った書き方をして申告すると、業務差し止めを命じられる事もある。たとえ健全な経営であっても。しかし優れた会計士に仕分けてもらうなら、たとえ破産寸前でも持ち直す事がある。
私達自身も、「自分は相変わらず罪まみれ」、「サタンに支配されたままだ」と「仕分け」するなら、人生必ず破産する。しかし、いかに人生破産寸前であったとしても、「罪に対しては死んだもの」、「神に対してはキリストにあって生かされたもの」と仕分ける時、私達の中に、どんどん新しい人が創り上げられていく。

『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ2:6)
これが私達の立ち位置である。キリストにあって新しく創られた私達のいのちは、もはや心臓や脳にあるのではなく、キリストと共に神に隠されている。そこはもはや、サタンも人も、病も貧しさも触れる事は出来ない。
キリストにあって生き始めた瞬間に、ホームレスから王子様へと変わった以上の「立場替え」が起きたのだ。
私達はもはや、王子・王女らしからぬ事は、してはならない。『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。…今は、これら一切の事を捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。』(コロサイ3:5-8節) 
人はどう英知を結集しても、科学を発達させても、自分で自分を変革できなかった。しかし私達はキリストにあって、本質が、いのちそのものが変革した。だから、以前の罪深い古い生き方は、変えられるのだ。

『互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て』(9節)
ここでの「うそ」とは、何か。それは5-8節でリストアップされている「捨て去るべき事柄」を、捨てられません、と言う事。それが「うそ」である。「わたしはお酒を止められません」「わたしは同性愛を止められません」など、全て、御言葉で「止めなさい」と言われている事を、「やめられない」と言う事は、偽りである。
確かに世の方法では、無理だったろう。しかしキリストは、私達のいのちを転換させて下さった!
ホームレスは、そのままではダンボールの家を捨てる事はできないが、王子様に立場替えしたのなら、王子として生き続ける事で捨てるのは可能である。同じように、永遠に生きる神の子へといのちが転換したのだから、以前の捨て去るべき罪の事柄は、キリストにあって歩み続ける事で、捨て去るのは、たやすい事だ。
ご存知だろうか、主イエスを信じ、御言葉に従順し続けている人は、日々、新しく創り変えられている事を。
『そして新しい人を着なさい。上から新しくされ続けている人は、自分を創造したお方のかたちに従い、真の知識へ至ります。』(コロサイ3:10 白畑司 逐語訳) 世に属する全てのものは古びて行き、造り変える事は不可能だが、私達はキリストにあって、上から新しくされ続けている。新しい年は、ますます古いものを捨て去り、そして年を重ねる毎に、ますます新しくされて行くみなさんでありますように!

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