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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

思い巡らすことばを管理しなかったサウル(1サムエル記22:6-23)
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週報/メッセージ(説教)概要

  私達の思いの中には、常時、何かの「言葉」が流れているものであるが、その思い巡らす言葉の内容はいつも管理すべきだ。なぜなら私達は内外に流れる「ことば」に浸し込まれ、その内容に影響を受け、「人となり」が構築されて行くからである。サウルは、健全な主の言葉から耳を背け、その代わり、内からこみ上げて来る「妬み」「怒り」「殺意」などのサタンの好む言葉をいつも思い巡らしていたため、彼はどんどんサタンの性質を帯びるようになり、ついには取り返しのつかない、してはならない事をするようになってしまう。今回は、言葉の管理をしなかったサウルが何をしてしまったかを見て、私達も戒めを受けたい。

『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(6節)
サウルの人格の崩れ度合いは、さらに進行している。槍は人を殺める武器であり、敵に対して用いるべきなのに彼はいつも手にしている。部下を威圧するためか、気に食わない者に槍を投げつけるためであろう。
聖書を「サウル」「槍」で検索すると、彼が敵に槍を投げた記述は一切無く、ただダビデ、ヨナタンに投げ、あとは部下達を前にいつも持っているだけだ。そして最後は、彼に敵が追い迫って死ぬ間際、彼は槍にもたれていた。(2サムエル記1:6) イエス様が「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と言われた通りである。
自分の敵サタンには槍を投げず、自分を助け養ってくれた人には槍を投げるような者であってはならない。
『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8) 彼はすごい被害妄想に憑かれており、誰も心配しない、みんな自分に敵対している、と思っている。信仰の逆、「疑い」をいつも抱き続ける人はそうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ただけでも、自分が嘲られたと思ってしまうものだ。
主に敵対しているのは、むしろサウルの方である。彼は既に主から王位を退けられたのに、ずっと王位にしがみつき、むしろ、油注がれた王・ダビデを殺そうと付け狙っている。もし人がおとなしく自分の「王座」から降りて、主に明け渡さないなら、逆に「王座」に支配され、振り回され、やがて「王座」に滅ぼされてしまう。
そこに、例外は無い。王座は人が座るものではなく、唯一、主イエス様が座すべき所であるからだ。

ベニヤミン人の部下達は何も言えなかったが、ただ一人、エドム人ドエグがサウルに応える。
『わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわし…みな王の所にきた。』(9-11) ドエグは、一杯の食物で尊いものを売り渡した、エサウの子孫である。
彼は、地位や名誉という一杯の食物ほしさに、神の祭司を告げ口する。
『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンと剣を与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(13)
アヒメレクは唐突こんな事を言われ、暫く訳が分からなかっただろう。サウルのようにいつも被害妄想を巡らせている者は唐突に意味不明な事で人を責め、凍りつかせるものだが、それが絶対権力を持つ王であるならその国は悲惨である。サタンは歴史上、何度も王を被害妄想にさせ、多くの国々を悲惨に陥れて来た。
そもそも本来、イスラエルの王は祭司に物申す事はできないはずで、逆に王が祭司の御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23) それなのにサウルは祭司も御言葉も、完全に自分の下に敷いてしまっている。彼は御言葉を退けた故に、王座から退けられた、とサムエルは言った。
祭司アヒメレクは、王の言葉には、事実を答え、極めてもっともな事を言ったが、『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(16) こうしてサウルは祭司を抹殺し、自ら主に伺う道を断ってしまった。それでダビデは、逆に、主に伺う祭司を得る事になる。

人は、思い巡らす内容によって人格が形成される。サウルのように猜疑心・妬み・怒りを思い巡らしているなら、サタンに似た者となって行き、断絶してはならない人を断絶し、主への道をも自ら断ってしまう。
いつも健全な主の言葉を思い巡らし、昼も夜も口ずさみ、水のほとりに植えられた木のように、時が来れば豊かに実らせ、何をしても栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主の特別な訓練で養われるダビデ、と私達(1サムエル記22:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ダビデはサウル王に追われ、妻の所にも預言者サムエルの所にも、親友ヨナタンの所にも居場所が無くなり、そして前回、主の宮の祭司にも、そして、汚れた者達さえも、頼りどころを見出す事は出来なかった。
主は、その愛する人を、敢えてそのように導き、ただ主とだけ向き合い、主をのみ頼るようにされる事がある。
アドラムのほら穴に逃げ込んで独りになったダビデは、人の間から頼りどころを探す事を100%止め、ただ100%、主こそ助けであると求めるに至った。彼はその時の祈りを、詩篇142篇に綴っている。彼は洞穴の中で声を出して主に呼ばわり、願い求め、彼の嘆きを注ぎ出し、悩みを露わにした。(詩篇142:1-2) 
「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。」(詩篇142:4-5)
イスラエルを導く王となるダビデの「右」には、誰も人がのし上がってはならない。ただ万軍の主以外には。
人の間から頼りをことごとく失ってしまった彼は、ついに、主だけが避け所だと悟った。「わたしを獄から出し、御名に感謝させて下さい。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしの周りに集まるでしょう。」(詩篇142:7) ダビデがこの告白をした時、今度は、人々がダビデの所に集まって来る。
それまでダビデは、頼りとなる人を追いかけていたが、誰もいなくなり、ただ一人、主と向き合い、主のみを頼りとした時点が転換となって、今度は逆に、人々がダビデの傘下に入ろうと、彼を追いかけて来たのだ。
まずはダビデの家族が、そして、『しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは実に、キリストのご性質をよくあらわしている。キリストも当時の王や権威達からは迫害され、そして彼を慕い求めて来た人達も、当時、虐げられている人々や負債のある人々、苦い魂を持つ人達だった。

ダビデは今まで自分を救う事で手一杯だったのに、彼の所に虐げられている人、破産者、苦い魂を持った、一癖も二癖もありそうな人達が四百人も来て、面倒を見なくてはならなくなった。自分が誰かから助けられたいのに、なぜか、自分の所に助けを求めて人が集まって来るのか。実は、これが主の助けの方法なのだ。
人は、守るべき人、養うべき人を持つと、強く健全になる。そして、一癖も二癖もあるような人々を養い、彼らを正しく統率して行く経験は、一国の王となって行く上で、とても重要な訓練となって行く。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、真実ではない行動をして来たが、400人の長となった今、彼らの面前で、偽りの、恥ずかしい行動は、する訳には行かなくなり、真理に立つようになった。
『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデの家ゆかりの地であり、彼らの大おばあさん・ルツの故郷であるものの、ペリシテと同じく、異教の神を拝する異邦の国だった。しかしダビデは、もはや媚びる事も偽る事もせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、居させて下さい、と頼んで、それが許された。ペリシテの時と比べて、なんと堂々となった事だろう。主は正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。

こうしてダビデ達は、しばし、ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、命の安全が確保され、400人の長としてある程度の人生を送る事が出来るようになった、と思われたかもしれないが、それは御旨ではない。
『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5) 彼はすぐ預言者の主の言葉に従順し、危険ではあっても、主の御心の地、イスラエルの地へと帰った。彼は主からの特別な任職の油を受けたからには、普通の人として漫然と生きるべきではないのだ。私達キリスト者にも、主からの聖霊の油を注がれたからには、漫然と生きるものではなく、御言葉に聞き従い、神の国の働きに参加し、働かなくてはならない。
ダビデは任された400人を養う内に、彼自身、イスラエルの王としての特別な素養が養われて行く。女王蜂はロイヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデには、誰にも与えられない苦難と、養うべき400人という、主の特別なロイヤルゼリーが与えられた。私達キリスト者も、「王族の祭司」(1ペテロ2:9)として相応しくなるために、他には与えられない、主の特別な御言葉のロイヤルゼリーによって養われるのだ。

恥のどん底で御言葉を誉めたたえたダビデ(1サムエル記21章)
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 人は、あまりに理不尽で過酷な状況が続くと、どんな信仰の強い人でも、つい、世的・肉的な手段に頼って、もっと悪い状況に陥ってしまう事もあるが、その中でも主に叫び求めるなら、主は必ず聞いて下さる。
主が敢えて過酷な状況へ導かれるのは、彼の奥深くにひそむ世的・肉的な事に頼る要素をいぶり出し、断ち切り、ただ主こそ真に頼れるお方である事を体験させるためである。今回も、ダビデから学びたい。

ダビデはサウルから追われ、家にも、サムエルの所にも、ヨナタンの所にも居場所が無くなってしまった。
頼り所がことごとく指の間から落ちてゆく彼の行った先は、主を礼拝する所、祭司アヒメレクの仕えている主の幕屋だった。彼は普段は、喜んで礼拝者達と共に礼拝しに来ていたものだが、今や彼は着の身着のまま追われ、疲れ、やつれた出で立ちで来た。祭司アヒメレクは彼に、恐る恐る、なぜ一人なのかを聞いた。
『王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。』(2)
ダビデは、うそを言った。それは自分の身を守るためであるが、結果的には、状況を悪くしてしまう。
ダビデは祭司に、創作した事情を説明して食料と武器を求め、それで彼は、主の前に捧げられていた聖なるパンと、ゴリヤテの剣とを得た。聖なる主の食物と、汚れた者の力の象徴。実に対照的な二つである。
ダビデはかつて、ゴリヤテからその剣を奪って首を切り離した。当時の彼は、ただ、信仰だけが武器だった。
当時彼は、剣や槍で立ち向かわず、ゴリヤテの剣よりも強い「御言葉の剣」で勝負し、勝利した。それなのに今回、彼は、ゴリヤテの剣を「それに勝るものはありません」と言って、受け取った。
彼は今、何のために主の宮に来たのだったのだろう。主に頼るはずが、武器と嘘に頼ってしまった。

彼は理不尽な状況続きで、主への信頼は弱っていた。彼の状況は、同情して余りあるが、聖なるパンを食べる人が聖なるお方に頼らず、汚れた者の力に頼りを置いてしまう時、正常な判断を失い、狂った算段をしてしまう。『ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。』(10)
彼はサウルから隠れるために、あるいは、もしやサウルに敵対する者からの保護を得られるかもしれないと、敵国ペリシテに行ったのだろうが、自分が討ち取ったゴリヤテの剣を持って、ゴリヤテの故郷・ガテに行くのは、狂気の沙汰である事さえ理解できない程、彼の思いの中は、恐れ・不安・心配で、眩まされていた。
ダビデはペリシテ人の地で「捕らえられ」てしまい(詩篇56編表題)、王アキシュの前に引き出された。
ペリシテ人達は王に言う。「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』と言ったのは、この人の事ではありませんか」(11)
彼らはダビデを「王」と呼び、また彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っており、そして彼は、ゴリヤテの剣を身に帯びていた。ダビデが恐れるに十分だった。この絶望的状況の時、彼は心を主に向けた。
ダビデは、アキシュに捕らえられた時の心境を、詩篇56編で詠んでいる。この詩篇で、彼はただ主の憐れみを求め、自分の状況を告白し、御言葉を誉めたたえ、最後は、感謝で終わっている。この一連の祈りの中で、彼は救われる確信を得たのだ。彼は『人々の前でわざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門の扉を打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。』(13)
当時、男性のひげは権威の象徴であり、そこに対する侮辱は耐え難いものだった。ダビデのこの行動は功を奏し、王アキシュは、ダビデが「万を打った者」「イスラエルの王」の様子ではないのを見、彼を放した。
あの栄光あるダビデが屈辱的な、本当に気が違ってしまったかのような方法でかろうじて救われた。私達も、恐れと心配のあまり、世の方法に頼ろうとするなら、恥と、気違い沙汰と、屈辱の底を通らなくてはならない。
しかしダビデは、その中から救い出された時の大きな喜びを、詩篇34編で記している。「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。わが魂は主によって誇る・・・。」(1-2) ダビデは、彼の誤った判断によって生み出された命の危機から、主の憐れみで救い出された事を、非常に喜んでいる。
彼は、詩篇56編で3度も「みことば」をほめたたえた。(4,10) 彼は、この一連の事によって、信仰が回復し、悟ったのだ。ゴリヤテの剣より、御言葉の剣のほうが遥かに頼りになり、そして信仰の道こそ正しいと。
私達も、恐れや不安によって命の危機に陥り、狂気の沙汰と恥のどん底をくぐる事はある。それでも主に立ち返るなら、主は救って下さり、以前に増して、主に用いられるに相応しい器へと造り変えられるのだ。

イエス様というサインを互いに出し合うように(1サムエル記20:24-42)
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 ダビデとヨナタンは、互いに連絡が取れていなかった事で、誤解し合ったまま喧嘩別れしてしまう危険があったが、互いに自分の「思い込み」を主張せず、柔和で穏やかな言葉によって「分裂」という悪魔の策略に勝利した。私達もそのような心を持つべき事を、前回のサムエル記から学んだ。ダビデとヨナタンは、全て問題の元凶となったサウルの本心をあばくため、新月祭にダビデが「参加しない」事で、探りを入れる。

『ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(26) この言葉から伺える事は、サウルにはあたかも、ダビデを何度も殺そうと槍を投げたり、待ち伏せたり、遠くまで追手を遣わしたり追いかけて来た事が、一切無かったかのようだ。
このように、周囲の調和をひどく破壊し、人の心や体を傷つけ、さんざん迷惑を撒き散らしたというのに、それら一切を全く覚えていないかのように、何事も無かったかのように平然と振舞う人は、確かにいる。
そのような人は、悪霊が住みついている場合が多い。悪霊に動かされ発作的に破壊活動したとしても「自分がした」という意識や記憶が全く無いのだ。もちろん全部が全部悪霊のせいと言う訳ではないが、少なくともサウルのように御言葉に背き続け、頑なに罪を握りしめ続けているなら、明らかに「霊的な問題」である。
なぜなら悪霊の好むエサは、ガラテヤ5:19に記されている「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、その類」だからだ。これらを野放しにしておくと、悪霊に支配されるようになり、極端な”発作的行動”を無意識的にしてしまうようになる。

新月祭の二日目もダビデは不在だったので、サウルはヨナタンに尋ねる。どうしてダビデは今日もいないのか、と。ヨナタンはダビデの家の都合であると答えたが、その何気ない、わずかな言葉と共にサウルは豹変し、すごい剣幕でヨナタンを、そしてヨナタンの母さえ冒涜する「汚し言葉」を発した。(27-31)
「お前は心の曲った背く女が産んだ子だ、お前は自分の身を辱め、母の裸を露わにしている(原意)」と。
ヨナタンはただ、ダビデには都合あってこの食事の席に参加できない、と言っただけなのに、どうして突然そんな返答が来るのか、さっぱり理解出来なかっただろう。そのような人は、汚れた悪しき思いをいつも頭にぐるぐる巡らし、常人には到底連想できない考えに導かれ、些細なきっかけで爆発し、ぶちまけるのだ。
『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、槍を彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと心に決めているのを知った。』(32-33) 今度はなんと、自分の跡継ぎ息子である彼にさえ槍を投げた。
悪魔や悪霊に秩序を求めてはならない。彼らはただ破壊し殺す事が衝動であり、目的なのだ。

ヨナタンは彼自身のみならず、彼の母まで辱められたのに、ダビデが辱められた事をこそ憂いた。(34)
主にある兄弟姉妹とは、自分や自分の家族より、危機の中にある愛する兄弟姉妹を心配し、案じるのだ。
翌日、ヨナタンは野に出て、ダビデと打ち合わせたサインを送る。すなわち、矢を放ち、それを取りに行く子供に「矢はあなたのこちら側だ」と言うなら安全で、「向こう側だ」と言うなら危険である、というサインを。
『ヨナタンは子供の後ろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供の後ろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。』(38-39) ヨナタンはダビデに、事態は最悪だ、早く遠くに逃げよ、と切に伝えたのだ。それは子供には分からない、有志にのみ分かるサインである。
迫害下の初代教会も、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合い、また危険を伝えた。
私達も信仰者が持つサイン、すなわち、イエス様というサインを互いに言い表し、真実を尽くし合うべきだ。
『彼(キリスト)についてこの望みを「積極的に抱き続ける者(原意)」は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。すべて罪を「意図的に犯し続ける(原意)」者は、不法を行う者である。罪は不法である。あなたがたが知っているとおり、彼(キリスト)は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼に「意図して在り続ける者(原意)」は、罪を「積極的に犯そうとしない(原意)」。すべて罪を「積極的に犯そうとし続ける(原意)」者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。』(1ヨハネ3:3-6)
ダビデとヨナタンのようにイエス様という信仰者のサインを出し合い、悪に悪で返さず、善によって悪に勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

愛の故に肉を裂き血潮を流して下さったイエス様(黙示録21:1-4)
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 普段の主日は聖書人物から、最近はダビデからメッセージを頂いているが、本日聖餐礼拝は、特に、主イエス様がなぜ天から降りて来られ、十字架で死に、復活して下さったのか、その基本を今一度学びたい。
イエス様は何故、十字架でいのちを投げ出されたか。それは私達が犯してしまった罪の結実である「死」の負債を、私達に代わって支払うため、そして私達人間が、キリストに代わって永遠のいのちを得るためだ。
それは一方的な恵みであり、ただ私達を愛する愛の故である。主はなぜこれ程、私達を愛されるのか。
それは、神が男と女とを創造され、結婚を制定された所の聖書の箇所から、垣間見る事が出来る。

神は人を、ご自身のかたちに創造され、男と女とに創造された。この世界の全ての物事は、天にある実体の写しであるが(ヘブル8:5)、男と女、夫と妻の有様も、「キリストと教会」という実体の写しである。
男はなぜ、女を愛するものなのか。それは、男と女とは元々、「一つ肉」だったからである。
『「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体(一つ肉)となるのである。』(創世記2:23-24)
この奥義は偉大である。主はご自分を愛し従う人達、すなわち教会を、キリストの花嫁として定められた。
教会はキリストの花嫁である。神が定められた結婚は、一夫多妻制ではなく「ふたりは一体となる」(エペソ5:31)であるが、では、多数いる私達と、キリストとの関係は、どういう関係なのか。
キリストの元の「一つ体」は、十字架上で裂かれた。その裂かれたキリストのからだに与るように、聖餐が制定された。『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだに与ることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント10:16-17)
私達一人一人はおのおの、キリストのからだの各器官である、と書いてある。(1コリント12:27)
つまり、キリストを受け入れた人々が、キリストの裂かれた肉である聖餐のパンに共にあずかる事によって、各々がキリストの一つからだである教会に組み入れられ、キリストと一つとなるのだ。

私達がキリストと「一つからだ」になるからには、キリストは、自分のからだを愛するように私達を愛して下さる。
誰も自分のからだを憎んだ者はいない。かえって、これを養い育てる。キリストは教会をそうされたのだ。
この事が記されているエペソ5章には、妻と夫に対する命令が書いてあるが、その実体は「キリストと教会」である。 『キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられた・・・キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
花婿は花嫁を愛し、きれいにし、飾るように、キリストもまた、罪で汚れた私達を洗い清めるために、ご自身のいのちを投げ出され、ご自身の血をもって私達を洗い清め、あらゆる良きもので飾って下さる。

結婚の本質は、「花婿なるキリスト」と、「花嫁である教会」の結婚である。それ故、聖書の最初に結婚が定められ(創世記)、そして聖書は、キリストと教会(新エルサレム)の結婚で終わる。(黙示録)
人は元々、万物の源なる御子キリストの結婚する相手として創られていたにもかかわらず、人は御言葉に逆らい、神に反逆し、罪と死が導入されてしまった。本当なら、花嫁から除外され、捨てられても仕方ない存在となってしまったにもかかわらず、神は人を捨てる事なく、いのちを投げ出してでも救おうとされた。
主は、罪に陥って死ぬ以外に無いような私達を血潮で洗い、贖いの衣で包み、「生きよ」と言って下さった。
『わたしは着物のすそであなたをおおい、あなたの裸をかくし、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたはわたしのものとなったと、主なる神は言われる。そこでわたしは水であなたを洗い、あなたの血を洗い落して油を塗り、縫い取りした着物を着せ、皮のくつをはかせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。』(エゼキエル16:8-10) 主は私たちを愛する故、生かすために、ご自身の血潮をもって私達の罪を洗い清め、贖いの衣の中に入れられた。私達は御腕の中に包まれ、愛される者となった。
主は、買い戻しの権利者であり、聖なる衣のすそを広げ、この卑しい者を覆って下さった。私達はその主の一方的な愛に、ただただひれ伏して感謝するのみである。

ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
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 苦難の内にある聖徒を主が助けられる時、主ご自身が奇跡でもって直接助けられる事はあるが、主にある兄弟姉妹の手を通して助けられる事が多い。それは助ける側も、助けられる側も、共に主のものであり、互いが愛し合う事によって、全ての人が、彼らが主の弟子である事を知るためである。(ヨハネ13:34-35)
前回、聖霊の直接介入によってサウル王から助けられたダビデは、信仰の友でありサウルの子でもあるヨナタンの所に行って訴える。自分にはどんな罪があって、あなたの父は私を追いかけるのか、と。(1)
この状況で知っておくべき前提知識は、この時ダビデは、ヨナタンさえも信頼していいのか分からない状態だった事だ。ヨナタンから聞いていた所では、自分はサウルを執り成し、もう安全だから戻って来なさい、だったのに、全然安全ではなく、ヨナタンに会う間もなく逃げた状態だった。情報交換する間も無いまま時間が経ち、もしや彼は父と共謀していたのでは、という疑心暗鬼が生まれ育っても仕方ない状況である。
サウルがなおダビデの命を狙う事について、ヨナタンはどういう立場にあるのか、探りを入れるためにそう言ったのであろうが、ヨナタンは答える。そんな事は絶対無い、父は必ず自分の耳に入れる筈だ、と。(2)
ヨナタンはどうしてこう、ちぐはぐな、脳天気な返事を返すのか。信仰の兄弟姉妹が、ちぐはぐな返事を返した時、相手を「人でなし」と決めつけて怒ったり責めたりするべきでない。ヨナタンの言葉を冷静に見ると、彼は、父サウルがダビデに槍を投げた事さえも知らなかった様子である。命の危険に晒され続けたダビデからすれば「なんでそんな事も知らないのか」と激昂しても無理はない状況だが、ヨナタンからすれば、父はずっとダビデに手をかけないという誓いを今まで守り続けてくれていた、と信じていたのではなかろうか。
もし二人のうち、どちらかが怒りをぶちまけ、「自分はこうだと言っているだろう」「いや私は和解させた、けちをつけるあなたが違う」と、自分の義を主張し、怒りの感情に心を注ぐなら、誤解したまま喧嘩別れしていただろう。それではせっかくの信仰の麗しい交わりが破壊されサタンの思う壺である。どれ程多くの信仰の交わりが、冷静になる事を怠り、サタンの罠にかかり、友情関係、夫婦関係、信頼関係が破壊されただろう。
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(箴言14:29 -30) 幸い二人には、怒りを遅くする「たしなみ」があった。
ダビデはヨナタンの父サウルを悪く言わず、むしろ擁護しつつ事実を伝え(3)、ヨナタンも短絡的なアドバイスはせず「あなたの言われる事は、何でもあなたのためにしましょう。」(4)と、ダビデに今必要な助けとなるよう申し出た。柔和な心と穏やかな言葉は、悪魔サタンの罠を砕く最善の武器である。神経を逆撫でするような、感情を害する状況や言葉に、穏やかに応対できる程の心のゆとりが与えられるよう、祈るべきだ。

サウルの王宮では月毎の例祭(民数記28:11-15)が守られていたが、ダビデはそれに出席しない事で、サウルに殺意があるかどうかを計ろうと提案し(5)、ヨナタンもまた、ダビデをかくまう事を主の前で誓った。
サウルが心配している通り、ダビデの存在は、ヨナタンが王になる事を脅かしているかもしれないが、ヨナタンはそんな事より、ダビデをかくまう事と、主の御旨が成る事とを選んだ。主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも神の国のことを、兄弟姉妹を守る事を優先させるものであるが、ヨナタンの、主の御旨に従順する思いは、とても偉大なものであった事がこれら一連の事を通して明らかにされる。
『もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。』(14-16)
なんとヨナタンは、この時、ダビデに命乞いをしているような言葉をかけている。国家から追われ、命の危険が迫っているのは、ダビデのほうで、王子ヨナタンのほうが圧倒的に強い立場であるはずなのに。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。今のままでは必ずサウル家は没落し、ダビデが王になる、と。
今、ダビデはどんなに立場が弱く、風前の灯のように見えても主の御旨を行っており、サウルはいかに栄えているようでも主の御旨を損ねているからだ。実際、ダビデは王となり、ヨナタンの家に慈しみが施される。
ダビデとヨナタンの穏やかな受け答えは、破壊を締め出し、麗しい友情と、将来と、いのちを生み出した。
今、まことのダビデであるイエス様は、今の世でどんな風に見えたとしても、やがては世を裁く永遠の王として来られる。今、私達はヨナタンのように、信仰によって知るべきである。来るべきイエス様の王国に備え、信仰の兄弟姉妹を助け合うのだ。それによって私達が主に属する者達であると、明らかにされるためだ。

聖霊によって軍事力から守られる聖徒達(1サムエル記19:18-24)
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週報/メッセージ(説教)概要

 私たちのこの地上での日々には、苦難があるが、それら全ては全能なる主のコントロールの下にある。
主がそれらを許されるのは、それらを通して私達を練り、鍛え、ちょうど良い時に高めて下さるためだ。
今日もダビデが歩んだ苦難の日々から、主はいかに主を頼る人達を守って下さるかを、見ていきたい。

サウルに追われ、自分の家さえ安全でなくなってしまったダビデが最初に逃げた先は、彼に油を注いだ預言者・サムエルの所だった。ダビデはサウルが自分にした全ての事を彼に告げると、彼らはナヨテに行って住んだ。「ナヨテ」はヘブル語で「住居」、アラム語訳では「教えの家」を意味し、預言者学校という語も、ここから出たらしい。そこには、預言者としての訓練を、サムエルから受けている人々の群れがあった。
預言者学校ではどんな訓練が為されていたのだろう。そこでは日々、主に心を向け、色々な楽器を用いて主をほめ讃えつつ、御言葉を宣言する集会が開かれていたと思われる。なぜなら「預言」は、その漢字の通り、神の言葉を預かって宣言する事であり、また、賛美と預言とは、密接な関係があるからだ。(10:5)
ダビデは暫くそこで養いを受けていたが、サウルはそれを聞きつけ、そこにも追手が迫る。(19-20)
サウルは、思ったかも知れない。ダビデの周りには、預言を学ぶ生徒達がいるだけで、鍛えた体と武器を持った追手を邪魔する者はいない、簡単に捕らえられるだろう、と。しかし、知るべきだ。聖徒達に賛美されるお方は、天地万物を創られた万軍の主。ダビデを囲んでいるのは、軍隊よりも遥かに強力な聖霊だ。
後のエリシャの時代、預言者学校の一人の生徒が、朝早く起きてみると、シリヤの軍隊に囲まれていた。
シリヤがイスラエルに戦いを仕掛けようと策略を巡らしても、預言者エリシャによってことごとく見破られ、先手を打たれる事が続いたので、怒ったシリヤの王は軍隊を差し向け、エリシャ達を滅ぼうそうとしたのだ。
『その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。』(2列王記6:15-17)
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とは、ダビデが後に詠んだ詩であるが(詩篇34:7)、ダビデは、この預言者学校で守られている時、それを知ったのだろう。

ダビデを捕える使者達が来た時、ちょうどサムエルがリードする預言の集会の最中で、聖徒達はそれぞれ主をほめたたえ、祈り、御言葉を宣言し、あるいは語られる御言葉に耳を傾けていた。「その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。」(20-21)
実にユニークな守られ方である。サウルから遣わされた捕り手達は主の霊に臨まれ、預言し、そしてダビデを捕らえる事を止めたのだ。実際にそのような事は、ある。コロンビアのある教会で、悪霊に憑かれた人が入ってきて刃物を出し、牧師を刺そうとするのだが、人々が祈ると彼は何も出来なくなり、その場で倒れた。
主の霊が満ち溢れる聖なる所では、悪しき者は活動する事が出来なくなるのだ。
この事は、サウルに対する主の明らかな警告である。主はダビデの側についている、サウルのダビデを殺そうとする企みは、完全に御心に反する事だ、サウルはそれを知ってそれをやめ、悔い改めよ、と。
サウルはそれをも心に留めず、再三、捕り手を遣わした挙句、最後にはサウル自らダビデを捕らえに行く。
しかしなんと、サウルにさえも神の霊が臨み、サムエルの前で預言し、王服を脱いで裸で倒れ伏していた。
イスラエルの間では「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というい言葉が、ことわざのように言い交された(23-24)。人々は本当に驚いただろう。聖霊充満から程遠いような人が、聖霊に満たされるのだから。
しかし、やがて来る。しもべにもはしためにも主の霊が注がれ、預言する時代が。今が、その時代である。
どんなにつまらない者でも、悪どい事をしていた者でも、主イエスが語られるなら、聖霊によって主を知り、悔い改めるなら、聖霊に導かれる新しい永遠の人生が始まる。
しかしそれでも罪の道を選び、聖霊様を悲しませ続けるなら、やがて救いの道は閉ざされてしまうのだ。
こうして、またしても、サウルの企みは退けられ、ダビデは軍事力によらず、神の霊によって守られた。
私たちを守られる方は、世のあの者よりも強く、賛美は私たちの防護壁となる。いつも主を賛美し、万軍の主に守られつつ安全に歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

どんな時にも主に向かい賛美するダビデ(1サムエル記19:1-17)
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先々週のダビデの話のつづきに戻り、私達はいかに主に喜ばれる者として整えられるべきかを学びたい。
 サウルは、自分の娘を道具にしてまでダビデを殺そうと色々企んだが、それらは全て虚しく失敗し、ダビデはことごとく守られた。サウルは、主がダビデと共におられ主が守っておられる事を、そこまで見せられても考えを改める事をせず、ダビデを殺す思いを捨てる事を選ばず、さらに殺意を燃やす方へ進んでしまう。
今までは秘かに殺意を抱いていたのに、今度は、おおっぴらに「ダビデを殺せ」と家来達に言った。(1節)
ダビデは、全ての部下達から愛されていたので、衝撃が走っただろうが、ヨナタンは和解の行動に出る。

『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。』(4節) ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺す「罪」を犯さないで下さい、と、聖書の真理に従った嘆願をした。聖書には「殺してはならない」とあるし、また本来、罪なき人を殺そうと謀ったなら、「目には目、いのちにはいのち」として、彼がはかった通り、はかり返されるはずである。(申命記19章)
さらにヨナタンは、ダビデがイスラエルに対して為した良き実績と、サウルは実際にそれを喜んだ事実を思い出させた。少しでも霊的良心が残っている人には、切って捨てるような御言葉引用や、感情的な嘆願、責めなじる言葉よりも、愛と憐れみ、真理に基づいた執り成しの言葉のほうが、はるかに効果的だ。
サウルは、この素晴らしい「執り成し」の言葉を聞きいれて、主エホバにかけて誓った。「わたしは決して彼を殺さない」と。こうしてヨナタンはダビデをサウルの元に連れ戻し、元の平和な状態に戻った。(6-7節)
私達も、色々な権威の下にあって服さねばならないものだが、もし、上に立つ人が、御言葉に反する事をするなら、その罪に関わる事なく、ヨナタンのように知恵深く、愛と真理に基づいて対応したいものである。
ヨナタンによる和解は大成功に終わったように見えたが、サウルはいともあっさりと、主の御名によって立てた自分の誓いを破ってしまう。サウルはまたしても、ダビデに槍を投げ、突き刺そうとしたのだ!(8-10節)

サウルは、いつ悪霊が入ってしまったか。それはサウルとダビデが家にいた時、サウルは槍を手にし、ダビデは主を賛美する竪琴を手にしていた時だった。サウルは賛美よりも槍を選び、その槍のたった一投によって、自分が立てた誓いも、ヨナタンの尊い和解のわざも、全て台無しにしてしまった。
サウルに悪い霊が入るきっかけとなったのは何か。それは、ダビデがペリシテとの戦いで大活躍した事が、大いに関係ある。つまりサウルは、ダビデの活躍への「嫉妬」「恐れ」「怒り」という、悪霊が好む「エサ」を放置したままだったために、再び悪霊をおびき寄せ、その侵入をゆるしてしまったのだ。
私達も悪しき者が自分の中から出て行った時、そのまま放置し、悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっと性質の悪いものに入り込まれてしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)
私達もサウルのように、言葉のたった一投・行動のたった一投によって、神と人の前に積み上げた尊いわざを、積み上げて来た尊厳を、一瞬にして台無しにしてしまう事がある。それをしてしまう原因は、槍をいつも手元に置いて手放さない事、人を傷つける言葉を思いの中にいつも置いて手放さない事だ。
 私達には、理不尽で不可避な誘惑が「いわれ」もなくいきなり襲って来るという事は、無い。襲って来るとするなら「いわれ」があるから、すなわち日々、簡単な誘惑に対抗する心の準備を自分でしていないからだ。

 ダビデは、新妻でありサウルの娘であるミカルのいる自分の新居へと逃げたが、そこもサウルからの追っ手が迫って来る。しかし、ミカルの機転によってダビデは逃げる事が出来、命は守られた。(11-17節)
その時の心の状態と祈りを、ダビデは詩篇59篇に記し、彼はそこで切々と主に訴えている。
その時の恐怖、主から守られる願い、また、敵に対する訴えを(1-7節)。しかしやがて主に対する信頼の告白に変わり(8-15節)、そして主への賛美に終わる。(16-17節) どんな状況でも主に向かって心の内を全部主に言い、信仰の告白をし、そうして、主の平安が与えられ賛美をする。これが、ダビデの性質である。
こうしてダビデは10数年の逃亡生活が、これから始まる。この時点のダビデの状況を見るに、あまりにもアンフェアに思われる。神はなぜそんな事を許されるのか、と。しかし後に分かるが、ダビデのこの10数年の逃亡生活こそ、彼が偉大な王となるための人格形成で重要なイベントが目白押しなのだ。全ての事を益として造り変えて下さる主にあって歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

まことの食物、まことの飲みものの頂き方(ヨハネ6:47-71)
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 普段の主日は、聖書人物から、特に最近はダビデからメッセージを頂いているが、本日・聖餐礼拝の日、イエス様という「まことの食物」、「まことの飲み物」に目を向けて、その頂き方を学びたい。
食べ物も飲み物も、毎日自分から摂り入れるもので、誰も、嫌々ながら無理やりする人はいない。
食欲が自然と湧いて来るのは、命を保つため、成長するためで、そこに疑いの余地は無いが、私達が毎日食べる食物、飲み物は、実は「影」で、それとは他に、まことの食物、まことの飲み物がある。
イエス様は言われた。『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ(続け)、わたしの血を飲む(事を続ける)者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハ6:55-56)
ここのイエス様のからだを「食べる」、血を「飲む」の動詞は、現在形能動態で、「し続ける」べき事だ。
有限であるこの「肉体」には、継続的に食物が必要であるのと同じように、永遠なる「霊」にも必要な食物があり、それはイエス様の肉、また血である。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(同63節) 霊の食物である御言葉も、肉体における食物と同じで、日々摂り続けるべきものであり、それをしない人の霊はどんどん干物になって行く。
霊は、神を意識し、神と交わりをする器官で、永遠のものである。人には霊の名残りがあるが(マラキ2:15)
生まれながらの人は霊が死んだ状態である。それで人は、生まれながらにして正常な神との交わりはできないものの、名残りがあるため、永遠なる神をなんとなく意識し、求め、霊的な飢え渇きを満たそうとする。
イエス様こそ真の食物、真の飲みものであり、彼に会うなら、それまで何をしても満たされなかった本質的な渇きは癒され、今まで体験した事のない潤いを得るのである。それ故、霊にあって生きる人は、好んでイエス様と交わり、祈り、御言葉を摂り入れるが、それをしない人は、霊の死んだ、肉に生きる人である。

どのようにして、イエス様の肉を食べ、その血を飲むのか。食べ物は口で摂取し、口で咀嚼し、胃で消化し、腸で吸収して、血肉となって行くが、霊の食物である御言葉は、耳で聞いて摂取し、口で宣言し、あるいは心で思い巡らして「消化」し、信仰によって自分と混ぜあわせる事によって、自分の霊となって行く。
主は最後の晩餐の時、パンを裂いて、言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」また、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。(1コリント11:24-26)
聖餐のパンは、イエス様の裂かれた肉を覚えるものであり、杯は、イエス様が十字架で流された血を覚えるものである。私達の身代わりとなって流されたイエス様の血、彼の苦難と死の、そして、死とサタンに対する勝利のしるしである「血」を思い巡らし、口で宣言する事で、イエス様の血を「飲み」、一体化するのだ。
人は、肉体を養う食物だけによって生きる存在ではない。『主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖達も知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる事をあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
主は、その事を教えるために、荒野で40年間、イスラエルの民を天から降るパン、「マナ」によって養った。
このマナの性質は、まことの食物・御言葉なるキリストをどのようにいただくべきか、その作法を教えてくれる。
マナは朝、霜のように降る。日が熱くなると、拾わないマナは溶けて無くなった。週の六日間は降り、安息日には降らなかった。人手で拾われたマナは溶けないが、拾っても食べずに翌日まで持ち越したマナは溶けないものの臭くなって虫が湧いた。しかし主の定めにより、安息日は前日拾ったマナは腐らなかった。
これを40年、毎日律儀に続ける事によって、イスラエルの民は主の御言葉によって生きる術を学んだのだ。
まことの食物、御言葉なるキリストも、主が定められた時に私達の所に降りて来る。その時、私達がその時拾わないなら、やがて無くなってしまい、後で「あの時欲しかったのに」と思っても、後の祭りである。
御言葉が天から降って目の前に来た時、それを自ら拾い、拾ったなら、それを食べる。翌日まで持ち越してはならない。自分の好きな時間、好きなやり方は捨て、働くべき時に働き、礼拝すべき時に礼拝する。
それを日ごと続けて行く事で、霊はどんどん養われ、そして、キリストの血を日々覚える事によって、日々清められ、サタンに勝利するものであり、それらを止めてしまうなら、どんどん霊は衰弱し、汚れ、サタンに好き放題されてしまう。食事を毎日食べるように御言葉を毎日食べ、イエスの血潮を毎日覚え、ますます霊が清められ成長し、キリストの姿に変えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
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週報/メッセージ(説教)概要

 どういう性質が主の目に価値があり喜ばれるのか、ダビデという人物から学んでいると同時に、どういう性質が主に嫌われ退けられてしまうのか、サウルからも学んでいる。サウルは神の民の敵・ペリシテが打たれた事も、イスラエルが救われた事も喜ばず、ダビデが勝利し、愛され、主が共におられるのを妬み、恐れた。
このサウルの性質は、サタンの性質そのものである。サタンは元々は、音楽で主を褒め称える、極めて美しい天使だったが、分を超えて驕り高ぶり、神の王座に登ろうとして神に反逆し、天から落とされ、そして神の似姿として創られて愛されている人間を、妬み、滅ぼそうとしている。(イザヤ14章、エゼキエル28章)

サウルは、主のために、そしてイスラエルのために、自分が王座から退く考えは無く、自分がそれまで主の御声に反して来た事を悔いる事もなく、主に用いられているダビデをさらに妬み、殺意を募らせ、密かに彼の命を狙う行動に出る。サウルは、自分の娘・メラブを妻として与える代わりに、主(エホバ)の戦いを勇ましく戦いなさい、と命じる。その裏は、彼をペリシテ人の手で殺させよう、と思ったからだ。(17節)
サウルは確かに、部下に勇ましく「主の戦い」を戦って欲しかったろう。イスラエルに平和が来る事や、主の敵が打たれる事を望んではいたであろうが、彼がそれ以上に望んでいたのは、ダビデを抹殺する事だった。
それで彼は、主エホバの御名を用いて、策を弄するのだが、そのような策を、主が成功させるはずがない。
イエス様の名前を用いて、主の聖徒達を騙そうとする企みは、人の心を全てご存知である主が、覆えす。
ダビデはサウルの申し出を断った。自分は身分の低い者だ、どうして王の婿になれるだろう、と。そもそもダビデは、ゴリヤテを倒した時点で、メラブと結婚する事は出来ていた筈だが(17:25)、サウルはその約束を反故にしていた。ダビデは、その事を全く主張せず、ただ命じられるまま、部下を率いて戦って来た。彼は自分の身をわきまえていた。王族の身分は人の賞賛や推薦によるのではなく、主が与えて下さるものだと。
サウルやサタンは「高慢」という性質だが、その逆、謙遜こそ、主に喜ばれる性質である。『互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さる。』(1ペテロ5:5-6)
ペテロは、この箇所で勧めている。自ら進んで、委ねられた羊達を牧しなさい、それも、利得を求める卑しい心ではなく、権威をふるって大上段にではなく、むしろ群れの模範となりなさい、と。(1ペテロ5:2-11)
ダビデは元々、サウルの娘との結婚や、人々の名声などは眼中になく、ただ、「良き羊飼い」をずっと続けて来たのだ。ダビデに委ねられた兵士達を牧し、育て、権威を振るわずにむしろ群れの模範となって、誰よりも先に敵陣へ切り込んで行った結果、兵士達から絶大な信頼と人気を得たのだ。
羊のために命をかけて守り、養う羊飼いの性質こそ、イエス様の性質であり、主に喜ばれるものだ。

サウルは自分が言った事を土壇場で覆し、メラブを別の男に嫁がせる。メラブという褒美をちらつかせても、ダビデは中々死なない、むしろ勝利して、このままではサウル王権が危うくなる、と思ったのかもしれない。
しかし、もう一人の娘・ミカルがダビデを愛している事を知らされた事をサウルは喜んだ。彼女もダビデを死なせる事に利得できる、と思ったからだ。彼は元々、娘達の幸せは全く考えておらず、ダビデが死んでくれるなら、娘が未亡人になってもかまわなかったのだ。自分の保身・願望・欲望に心縛られてしまうと、永遠なる神の事も、家族の幸せも、見えなくなってしまう。速やかにその握りしめているものは手放すべきである。
サウルは兵を通してダビデに伝える。『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる。』(25節) サウルはこれで、ダビデが屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、と思ったが、主にあって、またダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は当然過ぎる事だった。ダビデは百どころか二百を獲て帰ってきて、そしてついにサウルは、娘ミカルをダビデに与える。
一国の王がいかに権威や金銀、人脈を背景に、少年を騙し陥れようとしても、主が守るなら守られ、その企みは決して届かない。たとえ本人を騙したと思っても、主は騙せず、主がその罠から助けだして下さる。
人は、身につけようとする。力を、地位を、お金を、謀の能力を。しかしそれら以上に求めるべきは、主に愛される性質である。なぜなら主は、主を敬わない王を退け、主を愛する羊飼い少年を守られるから。
主を愛し、主を敬う人は、敵が多いかもしれない。悩みも多いかもしれない。しかし主は、主を愛し敬う人の、その全ての敵や災いから守り、ちょうど良い時に、その人を引き上げて下さるのだ。

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