• カテゴリ 主日礼拝 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

言葉の振動によって世界をつくる神と私達(詩篇19篇)」
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
第二礼拝 Youtube動画
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 前回、天を揺り動かして祝福をふるい落とそう、という事が語られた。良い木を揺り動かしたら良い果物が落ちて来るように、今年は私達も、天を揺り動かし、良いものを振るい落として拾い集めよう、という事が語られた。ではどうやって天を揺り動かす事ができるのか。それは、御言葉を声で発する事によって、である。

言葉は、振動である。喉を触りながら言葉を発すると声帯が震えているのが分かるが、その震えが空気を伝わって相手の耳に届き、耳の鼓膜を振動させ、言葉が伝達する。この「振動」はとても興味深い。ある周波数の音は人を癒し、ある音は不快にする。ある内容の言葉は人を生かし、ある言葉は人を死へと導く。
音叉を水面に立ててその音叉を鳴らせる時、固有の波紋が生じるのだが、音叉が出す周波数によって、波紋の形が、花の形そのものになったり、ある周波数では巻き貝の模様そのものになったり、あるいは台風の渦や、銀河の渦そのものの形になったりする。
全被造物は、神のことばによって創造された。周波数と振動があることばのとどろきによって。ことばによらずに出来たものは、宇宙に一つも無い。(ヨハネ1:1-3) 宇宙が創造された時、宇宙は歌で満ちていた。
『かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。』(ヨブ記38:7) この宇宙はその歌が今なお残って広がっている。そしてやがて、神の言葉のとどろきによって滅ぼされる。『主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。』(2ペテロ3:10 ) 全宇宙は、今なお「神の言葉の振動」で満ちており、「ことば(ロゴス:”理”)」をもって定めた諸々の法則をもって、万物を保たたせているのだ。
『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。』(詩篇19:1-6)

神は唯一、人を、神の似姿として創られた。人が他の被造物と違う点は、ことばを話す、という点である。
だから、私達が言葉を発して空気を震え動かし、天をゆり動かす事によって、世界の諸々の事象に変化を加える事が出来るのである。アダムとエバは、神の言葉に逆らい、神から離れた自分勝手な善悪判断を、くちびるから発するようになり、自分自身は呪われ、そして全被造物は呪われてしまった。(ローマ8:22)
彼らは「目が開け」、言葉によってでなく見えるものによって一喜一憂するようになった。(申命記28:34) 
この呪いを、唯一打ち消すのは、世界を創造された神のことばを信じ、口から発する事によって、である。
 『悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。』(箴言12:13-14)  悪人がこうむる災いは、くちびるから発した悪い言葉が、空気を振動させ、霊の世界に伝達し、悪霊たちを惹きつけさせ、災いが振りかかる。ちょうどやまびこのように、言葉は遠くまで伝達して行った後、自分自身に跳ね返って来るのだ。
「霊」はギリシア語でπνεῦμα(ニューマ)、風、息、動く空気の事である。(ヨハネ3:5-8) 言葉は空気を震えさせるだけだと思ってはならない。霊の世界に伝達し、そしてかつ、全て記録されているのだ。『審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。』(マタイ12:36)
だから、私達はこの口から出る言葉を、よく注意し管理するべきだ。良い言葉すなわち神の御言葉を信仰じて発するなら、良き主人が良い実を落として下さる。しかし悪い事を言ったら、空中の悪い主人が悪い実を振り落とさせてくる。 『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)

以上のように、言葉を声として発する事には、霊を揺り動かし宇宙をも動かす力がある。
この教会は奇しくも「天声教会」という名である。この新しい年、信仰を混ぜた御言葉宣言により、天の声をもって世界を揺り動かし、自分の家に、人生に、家族に、職場に、たくさん祝福を振るい落としていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

御言葉の宣言によって天から祝福を振るい落とせ(申命記6:4-19)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は、年が改まってから最初の主日礼拝である。本日は、イスラエルでは最も大切とされている言葉は「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4) であり、ユダヤ人の聖書では、一日のはじまりと終わりに宣言する。そして、赤ちゃんが人生で一番最初に覚えさせられる言葉でもある。
本日は、このユダヤ人にとって「はじまりの言葉」から続く、イスラエルで最も重要な命令を見ていきたい。
この一文は、声を出して宣言しなさいという事で、ユダヤ人は一日の最初と最後にこれを宣言する。声に出すとは、心の中に閉じこもっている「ことば」を、声帯を振動させ、世界を揺り動かして具現化し、自分は御言葉を信じており、神は確かに生きておられるという事を内外に示し、霊的世界を振動させる行為だ。

『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』(5節)
これはイエス様も命じた、最も大切な命令である。そして、御言葉を口ずさむ際に、大事な事がある。
『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(6節) ハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、このハヤーは単に「存在させる」のみならず、「溢れさせる」ところまでの意味がある。
『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツ刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバル:論じ合う)。』(7節) 御言葉を声に出し、脳と心を震わせ、世界をも震わせ、打ち込むのだ。
『またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(8節) 手は諸々の行いやわざをする部位である。つまり御言葉を本人の手と結託させ行いへ連動させよ、という事であり、また、いつも御言葉を目の間に存在させよ、という事である。
『またあなたの家の入口の柱(メズーザー)と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(9節)
すなわち、御言葉を家の門と出入り口のしるしとする事によって、この家は、御言葉が土台の家であり、御言葉によって出入りする一家であり、御言葉によって守られた家である、と、内外に示すのだ。
家の入り口の柱(メズーザー)は、過越祭ではほふられた小羊の血を塗る場所である。(出エジプト12:7)
傷の無い小羊の血を門に塗るのは、この家は血の代価によって買い戻された家である事を示すためである。キリスト者は、小羊イエス様の血によっていのちが買い戻され、滅びの災いは過ぎ去った者達なのだ。

神の民がこれらの御言葉を信仰を混ぜつつ宣言し、その通りに行っていく時、主は必ず祝福して下さる。
主は10-11節で『あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。』と約束しておられる。
なぜ主は、あなたが「**しなかった」と強調しておられるか。それは、あなたが将来得るあらゆる良きものは、あなたが努力したり働いたりした結実ではない、だから驕り高ぶってはならない、と強調するためだ。
だから12節以降で警告が為されている。あなたは元々、悪しき者の奴隷状態だった。それを主は、小羊の血潮の代価をもって救って下さった事を、忘れてはならない、と(12-13節)。また、世の何者をも、神以上に神としてはならない事を。そうでないと、主のねたみが燃え上がって滅ぼし尽くされてしまう(14-15節)。
また「主を試みる事」もしてはならない(16節)。イスラエルはマサで水が無かった時、主を試みたが、主はモーセに命じ、岩から水を出させた。それを見、実際に飲んでおきながら、主に対して何の感謝もなく学ばない人々は、さらに図に乗って、次には肉を出せと言って主を試みた。だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」のである。(ヘブル3:7-11)
『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。』(18節) すなわち私達は、言われた事だけ嫌々ながら行い、それ以上の事をしない「霊的アルバイト」であってはならないという事だ。
自分から率先して、何が主に喜ばれる事なのか、御言葉をひもといて調べてみよう、とする人に、主は豊かに幸いを得させ、敵を追い払って下さるという祝福を、約束しておられる。(19節)
ユダヤ人は一日のはじめと終わりを、御言葉を宣言して、空気を振るい動かし、世界を揺り動かして、祝福を振るい落としている。神は御言葉を宣言する人々に御国を受け継がせるために、「ことば」で世界を揺り動かされる(ヘブル12:26-29)。この新しい年、御言葉宣言によって世界を揺り動かし、自身の家に、人生に、祝福をたくさん振るい落としていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

新しくされ続けていくために(コロサイ3:1-17)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
2017−2018年 ニューイヤーズ・イブ礼拝
Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

 古い年は過ぎ、新しい年へ移って行く。2017年はイザヤ65:17-18の御言葉によって始まった。すなわち、主は新しい創造をする、それを楽しみ喜べ、と。皆様の2017年は、その新創造を楽しみ喜べただろうか。
今回は、いかにすればこの新しい創造が私達の生活へと適用されて行くのか、コロサイ3章から学びたい。
『このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。』(コロサイ3:1) 「よみがえり」を経験するには、まず「死ぬ」というステップが必要だ。すなわち、御言葉でない、古い生来の生き方や考え方を、死へと投げ込むのだ。
そして、キリストが座を占めている「上」を求め続ける事が命じられている。地上のものを見ても、箸にも棒にもかからないような、むしろ、誘惑されてしまうようなもので溢れている。だからキリストを見続けていくべきだ。

キリストと共に死んだ人は、どのような立場か。『あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。』(3節) 私達の心臓は相変わらず動いている。
それなのに「既に死んだ」と書いてあるのは、どういう事か。私達がキリストと共によみがえらされたなら、世の事柄、肉の事柄、罪の事柄に対しては真理上は既に「死んで」おり、そうであると見做さなくてはならない。
『このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、「認む:ロギゾマイ」べきである。』(ローマ6:11) この「認むべき(ロギゾマイ)」は、会計用語の「仕分け」をせよ、という意味である。会計上、罪と死の借金は、キリストが立て替えて「支払い済み」なのだ。
会計の仕分けは、素人が間違った書き方をして申告すると、業務差し止めを命じられる事もある。たとえ健全な経営であっても。しかし優れた会計士に仕分けてもらうなら、たとえ破産寸前でも持ち直す事がある。
私達自身も、「自分は相変わらず罪まみれ」、「サタンに支配されたままだ」と「仕分け」するなら、人生必ず破産する。しかし、いかに人生破産寸前であったとしても、「罪に対しては死んだもの」、「神に対してはキリストにあって生かされたもの」と仕分ける時、私達の中に、どんどん新しい人が創り上げられていく。

『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ2:6)
これが私達の立ち位置である。キリストにあって新しく創られた私達のいのちは、もはや心臓や脳にあるのではなく、キリストと共に神に隠されている。そこはもはや、サタンも人も、病も貧しさも触れる事は出来ない。
キリストにあって生き始めた瞬間に、ホームレスから王子様へと変わった以上の「立場替え」が起きたのだ。
私達はもはや、王子・王女らしからぬ事は、してはならない。『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。…今は、これら一切の事を捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。』(コロサイ3:5-8節) 
人はどう英知を結集しても、科学を発達させても、自分で自分を変革できなかった。しかし私達はキリストにあって、本質が、いのちそのものが変革した。だから、以前の罪深い古い生き方は、変えられるのだ。

『互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て』(9節)
ここでの「うそ」とは、何か。それは5-8節でリストアップされている「捨て去るべき事柄」を、捨てられません、と言う事。それが「うそ」である。「わたしはお酒を止められません」「わたしは同性愛を止められません」など、全て、御言葉で「止めなさい」と言われている事を、「やめられない」と言う事は、偽りである。
確かに世の方法では、無理だったろう。しかしキリストは、私達のいのちを転換させて下さった!
ホームレスは、そのままではダンボールの家を捨てる事はできないが、王子様に立場替えしたのなら、王子として生き続ける事で捨てるのは可能である。同じように、永遠に生きる神の子へといのちが転換したのだから、以前の捨て去るべき罪の事柄は、キリストにあって歩み続ける事で、捨て去るのは、たやすい事だ。
ご存知だろうか、主イエスを信じ、御言葉に従順し続けている人は、日々、新しく創り変えられている事を。
『そして新しい人を着なさい。上から新しくされ続けている人は、自分を創造したお方のかたちに従い、真の知識へ至ります。』(コロサイ3:10 白畑司 逐語訳) 世に属する全てのものは古びて行き、造り変える事は不可能だが、私達はキリストにあって、上から新しくされ続けている。新しい年は、ますます古いものを捨て去り、そして年を重ねる毎に、ますます新しくされて行くみなさんでありますように!

大いなる喜びの日(ルカ2:8-20)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
クリスマス・イブ礼拝 Youtube動画 / 音声

週報/メッセージ(説教)概要

 世間ではクリスマスを祝っているが、このクリスマス、すなわちイエス様が乙女マリヤを通し赤ちゃんとしてお生まれになった日は、BC(BeforeChrist)からAD(アンノドミニ:主の恵みの日々)へと変わった歴史的転換点であり、聖書も、旧約から新約へと転換した、天においても、地においても、大転換した日である。
この大いなる出来事は、バプテスマのヨハネが誕生した時のように、大勢の人々に驚きと共に伝達されたのではなく、人知れず静かに起きた。しかし、この事を知り、信じた人々は、天的な大きな喜びを体験する。
そしてその喜びのおとずれは大いに広がり、今や、この東の果てまで届き、さらに全人類へと広がっている。

『すると、主の使いが彼らの所に来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。』(ルカ2:9)
イエス様がお生まれになった日、それを告げ知らせるために御使いが使わされた先は、人が好んで行かないベツレヘム近辺の野原であり、告げ知らされた人々は、人々に軽んじられて来た羊飼い達であった。
御使いは、屈強な男も恐れ倒れる程、恐ろしい存在である。たった一人の御使いによってアッシリアの軍隊十八万五千人は倒されてしまった。その御使いが軍勢をなし、羊飼いと羊達の前に現れたのはなぜか。
『御使は言った、「恐れるな。見よ、全ての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。』(10節)
天の大軍勢は「恐れるな」と声をかけてくれた。御言葉を愛し、弱く愚かな羊達を忠実に夜通し守っている羊飼いのような人々に、御使いは、恐ろしい有様ではなく、美しく大きな喜びを知らせる者として現れる。
彼らはただの羊飼いではない。「救い主がお生まれになるダビデの町」と言えばベツレヘムだと分かる程、聖書に精通した羊飼いだった。御使いは主に敵対する者には恐ろしい存在だが、主を恐れる人々に仕えるために遣わされる霊であり(ヘブル1:14)、主を恐れる者の周りに陣を張って守ってくれる。(詩篇34:7)
『きょうダビデの町にあなたがたのために救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。』(11節)
私達のためにお生まれになった救い主は、なんと、動物の餌箱の中に見つけられる、と言う。
キリストは神の身分でありながら、神の身分に固執しようとせず、かえって自分を無にし、僕の立場を取って人間となられ、十字架の死に至るまで従順だった(ピリピ2:6-11)。世の始まる前からおられ、人が近づく事のできない聖なる光の内に住まわれる神の御子であられるイエス様が、動物の餌箱のような汚い器である私達の内に、事実、宿って下さったのだ!これは大いなる驚きであり、大いなる喜びでもある。
この、天地がひっくり返るような、歴史がひっくり返るような驚きのおとずれと、大きな天の喜びは誰のものか。それは、羊飼いのように、聖書の言葉を握りしめ、誠実に弱い存在を守っている人々のものである。
あるいは、東方の博士達のように、救い主のしるしを見たなら、遠くから、高価な贈り物を携え、旅して来るような人々のものである。実際に宇宙が彼らのために動き、彼らの礼拝のために、星が都合をつけてくれた。
この大きな喜びは、聞いて、信じて、礼拝に来る人々に与えられる特権であるが、聞いても信じず、相変わらず自分の生きたいように生きる人々には、全く何にもならない。当時、ユダヤの王宮にいた人達や、ヘロデ王は、預言書の内容を知らされ、そこで語られていたユダヤの王が生まれた、という言葉を聞き、実際そのしるしがあらわれているのに、王座を降りようとせず、かえってその王を邪魔者扱いし、異邦の博士たちに調査を全部丸投げして密かに殺そうとさえした。しかし主は、そのような者達には決して見出されない。
主は、誠実な礼拝者には、あらゆる都合をつけ、宇宙を動かしてまでして、赤ちゃんとなられたイエス様と出会わせて下さるが、逆の者達には、あらゆる都合をつけてそのたくらみが頓挫するようにして下さるのだ。

クリスマスはキリストの来られた事を祝う日であると、誰もが一度は聞いているはずだ。しかし大勢の人々は、そっちのけにし、各々、キリストを抜きにした好き勝手な祝いをしている。昔も今もそうであるが、彼らにはこの喜びが分からない。しかし、知ってあらゆる都合をつけて世に現れた救い主を礼拝しに来る人々には、赤ちゃんとなられたイエス様を抱き、胸の内へとお入れできる特権が与えられる。
現代、マタイ24章に示されている預言の諸々が実現し、主が戸口まで近づいている事は明らかである。
『この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた・・・羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。』(17節)
この羊飼い達のように、主から任された羊達を誠実に養い、主から聞かされた事を忠実に行い、人々に伝え、そして自身は主を礼拝し、天的な大いなる喜びに溢れつつ生きて行くみなさんでありますように!

万軍の主の熱心が凝縮された「ひとりのみどりご」(イザヤ9:1-7)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 処女がみごもってインマヌエル(主が共におられる)という男の子を生む預言は、アハズ王の時代に与えられた。彼は預言者イザヤから「静かに主を信頼しなさい」と言われていたのに、余計な右往左往して、アッシリアに助けを求め、しかもその出先から偶像の設計図を取り寄せ、イスラエルで偶像を建ててしまった。
主に頼る道を捨て、アッシリアという暴力的な力強さに頼る者は、暴力に悩まされ、頑固になまでに御言葉に聞き従わない姿勢を貫き通す者には、頑固なまでに災いが離れない事が、前回のイザヤ8章あった。
人に災いがつきまとう場合、必ず最初に人の側の罪があり、罪が彼を責め立てる口実を得たのである。
しかし主は人がいつまでも災いに苦しんでいる様を黙っておられない。それが今回の箇所で示されている。

『しかし、苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(イザヤ9:1)
ゼブルンとナフタリは、主を礼拝する所から離れていた故、真っ先に異邦人と和合し、罪に染まり、罪由来の災いを真っ先に受けてしまった。私達も御言葉から遠く離れているなら、真っ先に異邦の拝むものや異邦の価値観に感染し染まってしまう。だから、礼拝と聖徒の交わりから離れないように気をつけるべきだ。
『あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。』(3節) 「獲物」とは、勝利した側が敵から分捕るものだが、サタンという敵が不当占拠していたあらゆる良きもの、囚われていた人々を分捕り返し喜び楽しむ様が、ここにある。
『これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。』(4節) 御言葉に背く先には必ず汗と労苦があり、罪由来のむちと杖による刑罰が必ずともなう。しかし、悔い改めて主に立ち返るなら、彼らを打っていたむちと杖は粉々に砕かれる。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。』(5節)
罪の飲み食いをし、罪の取引をする内、人の血を流して返り血を浴びたり、あるいは罪に強い者から血を流されたりする。そうして血に汚れた服や靴は、ひとりのみどりごが来る時、火のえじきとなって清められる。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(6節)
長らく全世界を覆っていた、分厚くしつこい闇と死。その漆黒の世の海に、唯一の光、ひとりのみどりごであられるイエス様が投じられた時、前章までの全ての頑固な闇は、解消される。このお方は、どういう方か。

『まつりごと(government)はその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士(Wonderful Counsellor )、大能の神( The mighty God )、とこしえの父(Everlasting Father)、平和の君(The Prince of Peace)ととなえられる。』
「まつりごと」とは、政治である。日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の政治はイエス様の肩に置かれている。大祭司はイスラエル十二部族の名を肩に負って主の御前でつとめを果たすように(出エジプト記28:9-12)、イエス様は私達の名を負って神の御前で執り成しのつとめを為される。
主は、どんなにしつこい悩みや問題も、解決不能な事さえも解決へと導いてくださるワンダフル・カウンセラーであり、力ある神である。日本の政治のように、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、何々の書類を整えなければ受理しない事も無く、ただ「イエス・キリストの名によって」いつでも、どこでも「永遠の父」に申請する事が出来、それをするなら、素晴らしい助言が与えられ、力ある神の権力が行使され、平和の君であられる、それらのあらゆる善き性質を、いつでも求める事ができるのだ。
『万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。』(7節) 聖書の中で「主の熱心」が現れる時はいつも、人が悔い改め、自分の罪を離れる時、主がその人を助け、救おうとする場面だ。(イザヤ9:7、37:32、59:17)
熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって人を愛し、人を救おうとされる。万軍の主の熱心が、究極的に形を取ったのが、ひとりのみどりごである。イエス様は、命を捨てる「passion」(使徒1:3)をもって、私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。
私達には、2つの道がある。ゼブルンやナフタリのように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続け、ひたすら強い者から奪われ、搾取され、奴隷とされ続けるか、それとも、イエス様の愛の情熱を受け入れ、永遠にイエス様の政治とカウンセルと力の主権の中で歩んでいくか。イエス様の道を選び、そのとこしえの祝福の内に生きる皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

主よ、来てください(イザヤ8:17-9:7)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 アドベントの元々の意味は、主の「ご到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事である。『主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。』(イザヤ8:17) 
この世はなぜ、闇に満ちていて、あたかも主が御顔を隠しておられるような状態なのか。
主は元々、人を愛し、救いたくて仕方ないのだけれど、人の悔い改めない心が「隔ての壁」となり、神様に救えなくしているのだ。19節に、人々が死人に伺いを立てている有様が記されているが、神を度外視したこの世の知恵は、全て、死にゆく人々の知恵であり「死人伺い」と変わりが無い。主こそ唯一救って下さるお方なのに、その主に呼び求めない所に、救いが無い状態からいつまでも脱却できない原因がある。だから続く20節で、「ただ教えとあかしとに求めよ。」と促しているのだ。「教え(トラー)」は御言葉である。
御言葉は、書かれてあるだけでは単なる文字列に過ぎないが、それを信仰をもって私達の内に入れる時、それは命となり、力となり、神が実際的にこの世で働くきっかけとなり、そうして私達が、主が働かれる中で生きている時、それを見る人々にとっては、主が生きておられるという「あかし」になる。
この「教えとあかし」に尋ねないなら、「夜明けがな」く、闇から抜け出せない。その闇は、どれほどの闇であったのか、21節以降にある。すなわち、飢えて放浪し、飢えて怒りに身を委ね、上を仰いでは王と神を呪い、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者しか見えない。それでも希望を掴もうとしてもがき、でも、掴んだと思っては、それは希望ではなかったと知って悲しむ。あのサマリヤの女のように、異性や結婚、あるいはお金や地位など、世のものに潤いを求めるが、それを飲めば飲むほど、渇いて行く。(ヨハネ4章)

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(9:1)
人には絶望しか無くても、主には「希望の”しかし”」がある。ゼブルンの地とナフタリの地は、イザヤの時代、アッシリアに占領され、「はずかしめ」を受けた。アッシリアは栄えたが、衰退し、その後にはバビロン帝国が支配した。その後もなお、辱められっぱなしであった。バビロンが栄え、衰退し、後にはメディア・ペルシャが興ったが、その時もそうだった。その後、ギリシア帝国が起きた時も、ずっとそうだった。相変わらず悔い改めず、主に立ち返らず、「死人伺い」と変わらないものに求めていたからだ。
しかしローマ帝国の時代になり、皇帝アウグストゥスが住民登録せよという勅令を出した時、「異邦人のガリラヤ」から、ある貧しい夫婦が、ダビデの町ベツレヘムへと上って来た。彼らがベツレヘムで男の子を産んだその時、長年かなえられていなかった、その慰めの預言が、ようやく成就した。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(9:6)

かのサマリヤの女は、かつて5人の夫があったが、今一緒にいる男は夫ではない、とイエス様に指摘された。同様に、この地も、かつて5つの帝国に辱められ、支配を受けてきたが、真の王は、なかった。しかしローマ帝国の時代、イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになった時、イスラエルは真の王を得たのだ。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イエス様が宣教を開始された地である。当時のイスラエルはイエス様を迫害し、排除した。しかし、彼を主とし、王として受け入れる人には、素晴らしい特権が与えられる。
『主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(6-7節)

イエス様こそ、人となって来られた「御言葉」なるお方であり(ヨハネ1章)、それも、人が抱っこできる赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは小さくて、壊れやすくて、大切に扱わなくてはならない。しかし、このイエス様を胸の中に抱いて迎え入れ、内に宿らせるなら、私達の中に光が宿る。このイエス様に聞くなら、イエス様は私達の内でどんどん大きくなり、ダビデの王座につき、平和の花咲く永遠の国を建てて下さる。
苦しみのあった所に闇がなくなり、辱められていた者は慰めを受け、やがては永遠の国において、流して来た涙は拭われ、慰められ、死もなく、悲しみもそしりも無い、永遠の天国へ、イエス様は導いて下さる。
このアドベントの時、御言葉とあかしを束ね、闇に沈んでいる人々に、イエス様を届ける者でありたい。

主の言葉を「ハヤー」した人の幸い(ルカ1:39-56)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 先週はコーエンの学びの週だったが、神様は本当に私達が想定していない領域へと導いておられる事を知った週だった。主が備えられた新しい領域へと入って行くためには、アブラハムのように生来の生き方や考え方の「捨て上手」となり、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者となっていく必要がある。
本日よりアドベントが始まったが、今回、今までの生き方・考え方に関しては「捨て上手」であり、主の言われる事には躊躇なく飛び込んで行った「女の中で最も祝福された人」、乙女マリヤの場面を見ていきたい。

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。』(ルカ1:41) 祝福された人の声は、胎の子さえ喜びおどる。胎の子は、分かるのだ。声の主の、霊的性質が。祝福された人とはどういう人かをエリザベツが言っている。『主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。』(45節) つまり、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人が、祝福された人である。
マリヤの親類・エリザベツは「アロン家の娘のひとり」(5節)なので、当然、「ハトラー教育(御言葉を、胎の子に向かって語りかける胎教)」を施していた。乙女マリヤも、同様である。
胎の子は、10週くらいすると、聞く機能が形成され、外界の音を聞くようになる。母の口から出てくる言葉や夫との会話、あるいはテレビやインターネットから流れて来る世の歌やニュース、ゲームやパチンコ等から来る機械音など。胎の子は、意味は分からずともそれらの音の源の霊的性質を察知し、取り入れて行く。
敬虔なユダヤ人女性は、身ごもると、5mほどの特別な布を用意し、この子が生まれたらこのようになって欲しいという御言葉を、刺繍し始める。胎の子に向かってトラー(モーセ五書)の朗読を聞かせながら。
そのように、信仰と愛情に溢れた御言葉によって、胎教された子は、御言葉に関する事、神の国の事柄に関する事に対して喜びを覚え、神から離れた世的な事に気持ち悪さを覚えるようになっていく。

御言葉を口ずさむ時に大事な事がある。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、アロンの大祭司家の末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは「その言葉を存在させ、溢れさせる」という意味だと言った。
つまり「ハヤー」は、神様の言葉が好きで好きで、心に刻まれ、暗記し、その内容が、喜びや感動、時には熱心や激情と共に「溢れ」る事なのだ。ハヤーなきメッセージは無力であり、ただのお説教となってしまう。
あの時のマリヤのあいさつが「シャローム」であったなら、マリヤの人生の中で得たシャロームという意味に込められた、あらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、さらに祭司の娘であるエリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、声高く叫ばせたのである。「わたしの主の母」、と。
クォン・チャンギュ先生は、ハヤーの意味に衝撃を受け、単なる御言葉暗記をするのではなく、神を愛し、御言葉を愛する心をもって口ずさむ「ハヤー」こそすべきだと、提唱している。「ハヤー」は、単なる暗記ではない。私達は、ユダヤ人の真似をして、彼らのように頭脳が明晰になる事や、英語を上達させる事を第一目的としてテフィリンさせてはならない、むしろ、主を恐れ、主を愛し御言葉を愛するように導く事こそ教育のはじめであり、知恵のはじめ(箴言1:7)なのだ。「主を愛する」事を除いて暗唱させるのは、危険だ。
主を恐れ敬う事なしの知能の鋭利化となってしてしまうからだ。御言葉によって「徳」を積んだ上での知識を用いなければ、世界がおかしくなってしまうのは、洪水前の世の中を見れば明らかである。
パリサイ人はよくテフィリンされている。しかし彼らには、神を愛する愛が無かった(ヨハネ5:42)。彼らは神から遣わされたお方を信じなかった、すなわち、御言葉がハヤーされていなかった事を主に指摘されている(同37-38)。彼らは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はイエス様をあかししているのに、イエス様の元に来ようとせず、かえって、人からの栄誉だけを受けようとしている。(同34-44)
私達はパリサイ人のようでなく、マリヤのように神とその言葉を愛し、そして御言葉の「大好き」が溢れ流れるようにしたい。ハヤーに溢れたマリヤは、喜びに溢れて賛美を歌った。その最後を「わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(55節) という言葉で閉じている。
アブラハムの子孫とは、御言葉を信じイエス様を信じる私達の事であり、生来の生き方や考え方については「捨て上手」、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者達である。このハヤーの祝福に共にあずかっていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 今週は、いよいよコーエンの学びの週である。主は今、東の地アジアにおいて、事を起こそうとしておられる。コーエンのキム博士がテフィリン(御言葉暗唱)運動を始め、現代、韓国や特に中国(シニム:12節=シナ)においてテフィリン教育を受ける子供達が莫大に広がっている。「海沿いの国々(島々)よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。」という呼びかけで始まるイザヤ49章は、東の果てから主の民が集まって来るという、素晴らしい約束が記されている。主は「しもべ」を用い、イスラエルの残りの民を帰らせるのみならず、彼のしもべを光とし、救いを地の果てへ届けるために用いて下さるのだ。(6節)
しかし彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うが(14節)、それに対し主は、『見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ』(16節) と言って下さった。そう、主は十字架のあの時、私達を、イエス様の手の中へと、刻・ま・れ・たのだ。イエス様のほふられた傷は、永遠に残っている。(黙5:6)
「主はわたしを忘れている」と思う時、イエス様の十字架の釘跡へと永遠に刻まれた私達を、思うべきだ。

なぜ彼らは頑として「主はわたしを忘れた」と言うのか。それは、やられっぱなし・奪われっぱなしだったからだ。何故にそうなってしまったのか。それは自身の罪の故だ。主はずっと、方向を正して御言葉の導きに従いなさい、と言っておられたのに、正さず、あくまで頑なに我が道を進み、してはならない事をしてばかりいたので、彼らの子供達は奪われ、住んでいる家は廃墟と化し、敵に好き放題奪われっ放しだった。
けれども主は、彼らを慰められる。「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。・・・あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」(18節)
花嫁の帯は、当時、決して忘れてはならない花嫁の必需品で(エレミヤ2:32)、尊い石で飾られていた。
主は、彼らの子達を集めて、花嫁の帯のように飾りとして身につけさせて下さる、と言うのだが、この子達は不思議である。彼らは言っている。『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。』(21節) 一体この子供達は、どういう子達だろう。
鍵となるのは、54章である。子を産まない不妊の女に主は「喜びなさい!あなたから出る子供達は、普通に生まれた子達よりもっと尊い、宝石のような輝いた子達だ」と言われる。 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)
ここで大事なのは「主の教えを受け」という言葉である。人を御言葉で養うなら、ちょうどパウロとテモテのような霊的な親子関係となり、たとえ実の子でなくても、尊い宝石のような子供の、産みの親となれるのだ。

聖書は逆転劇に満ちている。ハンナやエリザベツ、そして、多くの国々の母・王たちの母となったサラは、不妊の女だった。なぜ彼女達は、普通に子供ができなかったのか。それは彼女達に子供ができない期間、主に心を向けさせ、熱心に祈らせるためであり、その子を、主に捧げるようにするためである。
親が「自分が育てたから素晴らしい子になった」という願望を子に投影し過ぎてしまうと、子は息を切らしてしまいがちだが、この宝石のような子達は、なんと、育てた記憶が無い(49:21)。鍵は「主の教え」である。
御言葉暗唱(テフィリン)教育は、子の心と思いに刻まれた御言葉が、子を育てるのだ。それは、親流儀の「あれしちゃだめ、これしなさい」ではないので、親も疲れないし、子も疲れない。テフィリン教育で子供を育てるなら、一体いつの間にこんなに素晴らしい子に変わったのだろう、という感想を持つ経験者が多い。
女性はエデンで、神の言葉を乗り越えた罪の故、子を産む時の苦しみをペナルティとして受けた。でも、むしろ、産んだ後、子を世へと「送り出す」ための、子育てという苦しみのほうが大きいのではなかろうか。
人は、御言葉を越えてしまう価値観においては、子育ての苦しみは多く、神の子のような子は育たない。
しかし、主に明け渡した人が、御言葉にその子を委ね、御言葉がその子を育てるなら、子育ての苦しみは少なく、こんなに素晴らしく育った子は一体誰がいつ育てたのだろう、と、不思議がるようになるのだ。
この遠い東の果ての島々の国、シニムの地域において、主の教育を授け、自分が産んだのではなく「主の御言葉」が産んだ子供達が、所せましと多くされ、キラキラ輝く宝石でちりばめられた花嫁の帯のように飾られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エデンの外側でいのちの木の実を得る方法(創世記1:9-13)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
神は、創造の第3日目、大海の中からかわいた地を出させ、同じ日に大地から草や木を生えさせ、様々な種類の果物や種が出るようにと定められた。それは、私達人間や、あらゆる生き物が「食べる」ためであり、それもなんと、太陽や月、星が創られるより前に、植物は創られた。神は太陽よりも先に果物や種が実る植物を生えさせた程、また、この世が終わった後にも存在する程、実りを実らせる木は重要だ。
今回、人類にとって最も重要な木である「いのちの木」に至る道を学びたい。

私達は普通に、木や草は、太陽光によって育つものと思っているが、どうやら聖書によると、太陽光なしで育つ、私達の知らない木が存在するようである。太陽なしで育つ木、それは、黙示録22章にも登場する。
『川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』(黙示録22:1-2) この聖書最終章においては、もはや太陽も月もないが(同21:23)、いのちの木は、太陽なしで育つ。エデンの園の中にあったいのちの木には、ケルビムの剣に阻まれて行けなくなってしまったが、実は、エデンの外側で「いのちの木」に至る方法が、箴言の中に4箇所しるされているのだ。

 愧侶辰蓮△海譴鯤瓩┐觴圓砲鰐燭量擇任△襦△海譴鬚靴辰り捕える人はさいわいである。』(箴言3:18)
いのちの木を得る人の第一の特徴は、知恵を捉えようと努力し、掴んだらそれを離さない人、すなわち、真の知恵である御言葉をテフィリンする人である。テフィリンとは、いつでも御言葉を口ずさみ、暗唱し、心と思いを御言葉で満たして行くものであるが、実際これをする人は健やかになり、頭脳明晰になり、自ずと必要が満たされ、神の性質を身につけて行くという、エデンの園の住人であるかのような性質を帯びてくる。
◆慇気靴ぜ圈淵張.妊ク:法に則った)の結ぶ実は命の木である、不法な者(カハーム)は人の命(ネフェシュ)をとる。』(箴言11:30) すなわち御言葉という真の「法」に則った人は、命の木の実を結ぶ。次のようにも書いてある。『全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。』(ヘブル12:11)
つまり忍耐して正しい行いをし続ける人は、平安な義の実、いのちの木を得るのである。
それに反し、「不法な者」と訳された語「カハーム」は、呪術的な邪悪な知恵であり、それは人のたましい(ネフェシュ)を魅了し、奪ってしまう。ちょうど善悪知識の木が、人を魅了し、いのちを奪ってしまったように。
『望みを得る事が長びく時は、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。』(箴言13:12-13) ここにおいても御言葉を重んじて忍耐して御言葉の成就を願い待ち望む人は、やがていのちの木を得るような喜びを得る事が記されている。
ぁ慷イ靴ぁ淵泪襯據次ЪL的な)舌は命の木である、乱暴な言葉は魂(ルアハ)を傷つける。』(箴言15:4) 
いつもテフィリンによって口を御言葉で満たしているなら、そのような人の舌は「治癒的」となり、その人がそこで言葉を発する時、周囲の人は、あたかも、いのちの木がそこにあるかのように癒されて行くのだ。
それに反し、乱暴な言葉は、霊(ルアハ)を破滅させる。霊を救う言葉があり、霊を破滅へと導く言葉がある。御言葉によって洗練された人の宣教の言葉は、人を癒やし、生かし、永遠のいのちへと導くが、しかし乱暴な言葉で人をつまづかせるなら、永遠の滅びへと至らせてしまう。だからイエス様は言われたのだ。
小さな人につまずきを与えるような者は、石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と。

以上のように、テフィリンこそ、エデンの外側で生きる私達にとって唯一の、いのちの木に至る道である。
テフィリンの逆、いのちの逆は、御言葉に逆らう事と、御言葉から独立した善悪知識である。
アダムは「御言葉」に逆らって善悪知識の木を食べてしまい、エデンから追い出されてしまった。それこそ楽園から追いやられてしまう性質、死をもたらす性質である。アダムとエバは、善悪の木から取って食べたその瞬間に心臓が止まって死んだわけではなかったが、徐々に「死」が体をむしばんで行った。その、徐々に進行して行く「死」と「呪い」に、唯一対抗する手段が、テフィリンなのだ。
天国は、神の栄光が満ち溢れ、神の支配が行き届いており、いのちの木に満ちている。今、この地上において私達は御言葉を口ずさみ、テフィリンし、神の国をもたらし、いのちの木の実を結ぶ者として歩みたい。

主が行けと言われる所に(使徒1:3-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 今回の訪韓は、前半は韓国コーエンにて研究員として学び、後半はテフィリン教育で素晴らしい成果を上げている学校や、また、中毒患者を御言葉によって見事に回復させ有用な働き人へと育て上げている団体を訪問したりと、多くの実りを得た訪問だった。彼らに共通している事は、ただ「いのち」を建て上げ、神の国を立てあげよう、という点で必死であり、一切、自分の何かを大きくしたいという所がなかった。
今回、韓国コーエンで学んだ「使徒行伝」から、私達神の国の働き人は何を第一にすべきかを学びたい。

使徒行伝、それはイエス・キリストによって召し出された人達が働いた記録である。弟子達をはじめ信じた人達が聖霊に満たされ、力強く大胆にキリストを証して行くこの書の中心は、実は、以下、1章3節である。
『イエスは苦難を受けた後、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日に渡ってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』 イエス様は復活後の40日間、十数回に渡って弟子達に現れ、彼らと一緒に居られる時間が残りわずかな時、最も伝えたかった事は、「神の国のこと」だった。
教会では使徒行伝からは、聖霊充満の事や教会の働きの事が強調されがちだが、私達は主が最後を惜しんで弟子達に示された「神の国のこと」にこそ、思いを向けるべきである。イエス様がいよいよ挙げられる直前、主は「エルサレムから離れないで約束されていた聖霊を待ちなさい」と言われたが、それに対して弟子達が言ったのは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」だった。(6節)
弟子たちはイスラエルの復興、すなわち、自分の願望成就を、握りしめたままだった。イエス様は、どれほど失望されただろう。しかしイエス様は言われた。『ただ、聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』(7-8節)
イエス様は、伝える範囲は「全世界」だと明確に 宣言された。聖霊の力を受けたなら、それは何のために用いるか。それは、主が生きておられる事を地の果てまであかしするためであるが、12弟子はしなかった。

聖霊降臨後、エルサレムで信徒の数が莫大に増えて行ったが(2-6章)、それでも福音が伝えられたのは、いわゆる「ユダヤ教徒」のみで、全くの異邦人には全然伝えられていなかった。しかしステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、エルサレムの教会は強制的に散らされていった。『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。』(8:1)
これを機に、福音を持っている人々はようやくユダヤとサマリヤの地方へ散って行った。それでも使徒達は、なお留まっていた。 ペテロをはじめ12使徒は、主が取り払われた「ユダヤ人」という枠組みを、結局、割る事ができず、自分にとって居心地が良い所を出られずにいたままだった。
それにひきかえ、使徒パウロは、主が命じられるなら、どこにでもすぐに行った。その結果、使徒行伝では12使徒は徐々に影が薄くなり、パウロは大いに用いられ、新約聖書後半の主人公的存在となった。
私達は、自分が「こう」と願った事をずっと握りしめ続けたり、思い通りになるまでそこに留まり続けたりするのではなく、イエス様が時を惜しんで語られた「神の国のこと」に思いを馳せるべきである。今、神の国は、どこにあるのか。自分が今、何をするのが「神の国の成就」であるのかを。

使徒行伝は最後、唐突に終わっているように見えるかもしれないが、使徒行伝の最後の節を良くみると、私達への重要なメッセージがある事を見出す事ができる。『(パウロは)はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。』(使徒28:31) はばからずに、妨げなく、神の国のこと、主イエス・キリストの事を伝え、教え続ける。これこそまさに、私達の本分である。
ここの「伝え」「教え」は、二つとも現在形分詞、すなわち、今なおずっと継続している動詞であり、つまり神の国と、主イエス・キリストのことは、今なおずっと語られ続けているのだ。今も、私達を通して、継続して。
私達は、ある程度満足な「今」の状態にとどまっていたい、という思いを、割らなくてはならない。心地よかった所を出ていく事や、慣れていない働きへ踏み出して行く事には、恐れがあるかもしれないが、主の「働き場」があちらへ移った、という事であるなら、私達もそちらへと移って行かなくてはならない。
そうでないと、12弟子のように、置いてけぼりにされてしまう。心地よい井戸の中を脱却し、主が行けと言われる方へと大胆に進み行くみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest