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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主よ、来てください(イザヤ8:17-9:7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 アドベントの元々の意味は、主の「ご到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事である。『主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。』(イザヤ8:17) 
この世はなぜ、闇に満ちていて、あたかも主が御顔を隠しておられるような状態なのか。
主は元々、人を愛し、救いたくて仕方ないのだけれど、人の悔い改めない心が「隔ての壁」となり、神様に救えなくしているのだ。19節に、人々が死人に伺いを立てている有様が記されているが、神を度外視したこの世の知恵は、全て、死にゆく人々の知恵であり「死人伺い」と変わりが無い。主こそ唯一救って下さるお方なのに、その主に呼び求めない所に、救いが無い状態からいつまでも脱却できない原因がある。だから続く20節で、「ただ教えとあかしとに求めよ。」と促しているのだ。「教え(トラー)」は御言葉である。
御言葉は、書かれてあるだけでは単なる文字列に過ぎないが、それを信仰をもって私達の内に入れる時、それは命となり、力となり、神が実際的にこの世で働くきっかけとなり、そうして私達が、主が働かれる中で生きている時、それを見る人々にとっては、主が生きておられるという「あかし」になる。
この「教えとあかし」に尋ねないなら、「夜明けがな」く、闇から抜け出せない。その闇は、どれほどの闇であったのか、21節以降にある。すなわち、飢えて放浪し、飢えて怒りに身を委ね、上を仰いでは王と神を呪い、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者しか見えない。それでも希望を掴もうとしてもがき、でも、掴んだと思っては、それは希望ではなかったと知って悲しむ。あのサマリヤの女のように、異性や結婚、あるいはお金や地位など、世のものに潤いを求めるが、それを飲めば飲むほど、渇いて行く。(ヨハネ4章)

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(9:1)
人には絶望しか無くても、主には「希望の”しかし”」がある。ゼブルンの地とナフタリの地は、イザヤの時代、アッシリアに占領され、「はずかしめ」を受けた。アッシリアは栄えたが、衰退し、その後にはバビロン帝国が支配した。その後もなお、辱められっぱなしであった。バビロンが栄え、衰退し、後にはメディア・ペルシャが興ったが、その時もそうだった。その後、ギリシア帝国が起きた時も、ずっとそうだった。相変わらず悔い改めず、主に立ち返らず、「死人伺い」と変わらないものに求めていたからだ。
しかしローマ帝国の時代になり、皇帝アウグストゥスが住民登録せよという勅令を出した時、「異邦人のガリラヤ」から、ある貧しい夫婦が、ダビデの町ベツレヘムへと上って来た。彼らがベツレヘムで男の子を産んだその時、長年かなえられていなかった、その慰めの預言が、ようやく成就した。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(9:6)

かのサマリヤの女は、かつて5人の夫があったが、今一緒にいる男は夫ではない、とイエス様に指摘された。同様に、この地も、かつて5つの帝国に辱められ、支配を受けてきたが、真の王は、なかった。しかしローマ帝国の時代、イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになった時、イスラエルは真の王を得たのだ。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イエス様が宣教を開始された地である。当時のイスラエルはイエス様を迫害し、排除した。しかし、彼を主とし、王として受け入れる人には、素晴らしい特権が与えられる。
『主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(6-7節)

イエス様こそ、人となって来られた「御言葉」なるお方であり(ヨハネ1章)、それも、人が抱っこできる赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは小さくて、壊れやすくて、大切に扱わなくてはならない。しかし、このイエス様を胸の中に抱いて迎え入れ、内に宿らせるなら、私達の中に光が宿る。このイエス様に聞くなら、イエス様は私達の内でどんどん大きくなり、ダビデの王座につき、平和の花咲く永遠の国を建てて下さる。
苦しみのあった所に闇がなくなり、辱められていた者は慰めを受け、やがては永遠の国において、流して来た涙は拭われ、慰められ、死もなく、悲しみもそしりも無い、永遠の天国へ、イエス様は導いて下さる。
このアドベントの時、御言葉とあかしを束ね、闇に沈んでいる人々に、イエス様を届ける者でありたい。

主の言葉を「ハヤー」した人の幸い(ルカ1:39-56)
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 先週はコーエンの学びの週だったが、神様は本当に私達が想定していない領域へと導いておられる事を知った週だった。主が備えられた新しい領域へと入って行くためには、アブラハムのように生来の生き方や考え方の「捨て上手」となり、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者となっていく必要がある。
本日よりアドベントが始まったが、今回、今までの生き方・考え方に関しては「捨て上手」であり、主の言われる事には躊躇なく飛び込んで行った「女の中で最も祝福された人」、乙女マリヤの場面を見ていきたい。

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。』(ルカ1:41) 祝福された人の声は、胎の子さえ喜びおどる。胎の子は、分かるのだ。声の主の、霊的性質が。祝福された人とはどういう人かをエリザベツが言っている。『主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。』(45節) つまり、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人が、祝福された人である。
マリヤの親類・エリザベツは「アロン家の娘のひとり」(5節)なので、当然、「ハトラー教育(御言葉を、胎の子に向かって語りかける胎教)」を施していた。乙女マリヤも、同様である。
胎の子は、10週くらいすると、聞く機能が形成され、外界の音を聞くようになる。母の口から出てくる言葉や夫との会話、あるいはテレビやインターネットから流れて来る世の歌やニュース、ゲームやパチンコ等から来る機械音など。胎の子は、意味は分からずともそれらの音の源の霊的性質を察知し、取り入れて行く。
敬虔なユダヤ人女性は、身ごもると、5mほどの特別な布を用意し、この子が生まれたらこのようになって欲しいという御言葉を、刺繍し始める。胎の子に向かってトラー(モーセ五書)の朗読を聞かせながら。
そのように、信仰と愛情に溢れた御言葉によって、胎教された子は、御言葉に関する事、神の国の事柄に関する事に対して喜びを覚え、神から離れた世的な事に気持ち悪さを覚えるようになっていく。

御言葉を口ずさむ時に大事な事がある。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、アロンの大祭司家の末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは「その言葉を存在させ、溢れさせる」という意味だと言った。
つまり「ハヤー」は、神様の言葉が好きで好きで、心に刻まれ、暗記し、その内容が、喜びや感動、時には熱心や激情と共に「溢れ」る事なのだ。ハヤーなきメッセージは無力であり、ただのお説教となってしまう。
あの時のマリヤのあいさつが「シャローム」であったなら、マリヤの人生の中で得たシャロームという意味に込められた、あらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、さらに祭司の娘であるエリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、声高く叫ばせたのである。「わたしの主の母」、と。
クォン・チャンギュ先生は、ハヤーの意味に衝撃を受け、単なる御言葉暗記をするのではなく、神を愛し、御言葉を愛する心をもって口ずさむ「ハヤー」こそすべきだと、提唱している。「ハヤー」は、単なる暗記ではない。私達は、ユダヤ人の真似をして、彼らのように頭脳が明晰になる事や、英語を上達させる事を第一目的としてテフィリンさせてはならない、むしろ、主を恐れ、主を愛し御言葉を愛するように導く事こそ教育のはじめであり、知恵のはじめ(箴言1:7)なのだ。「主を愛する」事を除いて暗唱させるのは、危険だ。
主を恐れ敬う事なしの知能の鋭利化となってしてしまうからだ。御言葉によって「徳」を積んだ上での知識を用いなければ、世界がおかしくなってしまうのは、洪水前の世の中を見れば明らかである。
パリサイ人はよくテフィリンされている。しかし彼らには、神を愛する愛が無かった(ヨハネ5:42)。彼らは神から遣わされたお方を信じなかった、すなわち、御言葉がハヤーされていなかった事を主に指摘されている(同37-38)。彼らは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はイエス様をあかししているのに、イエス様の元に来ようとせず、かえって、人からの栄誉だけを受けようとしている。(同34-44)
私達はパリサイ人のようでなく、マリヤのように神とその言葉を愛し、そして御言葉の「大好き」が溢れ流れるようにしたい。ハヤーに溢れたマリヤは、喜びに溢れて賛美を歌った。その最後を「わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(55節) という言葉で閉じている。
アブラハムの子孫とは、御言葉を信じイエス様を信じる私達の事であり、生来の生き方や考え方については「捨て上手」、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者達である。このハヤーの祝福に共にあずかっていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今週は、いよいよコーエンの学びの週である。主は今、東の地アジアにおいて、事を起こそうとしておられる。コーエンのキム博士がテフィリン(御言葉暗唱)運動を始め、現代、韓国や特に中国(シニム:12節=シナ)においてテフィリン教育を受ける子供達が莫大に広がっている。「海沿いの国々(島々)よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。」という呼びかけで始まるイザヤ49章は、東の果てから主の民が集まって来るという、素晴らしい約束が記されている。主は「しもべ」を用い、イスラエルの残りの民を帰らせるのみならず、彼のしもべを光とし、救いを地の果てへ届けるために用いて下さるのだ。(6節)
しかし彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うが(14節)、それに対し主は、『見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ』(16節) と言って下さった。そう、主は十字架のあの時、私達を、イエス様の手の中へと、刻・ま・れ・たのだ。イエス様のほふられた傷は、永遠に残っている。(黙5:6)
「主はわたしを忘れている」と思う時、イエス様の十字架の釘跡へと永遠に刻まれた私達を、思うべきだ。

なぜ彼らは頑として「主はわたしを忘れた」と言うのか。それは、やられっぱなし・奪われっぱなしだったからだ。何故にそうなってしまったのか。それは自身の罪の故だ。主はずっと、方向を正して御言葉の導きに従いなさい、と言っておられたのに、正さず、あくまで頑なに我が道を進み、してはならない事をしてばかりいたので、彼らの子供達は奪われ、住んでいる家は廃墟と化し、敵に好き放題奪われっ放しだった。
けれども主は、彼らを慰められる。「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。・・・あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」(18節)
花嫁の帯は、当時、決して忘れてはならない花嫁の必需品で(エレミヤ2:32)、尊い石で飾られていた。
主は、彼らの子達を集めて、花嫁の帯のように飾りとして身につけさせて下さる、と言うのだが、この子達は不思議である。彼らは言っている。『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。』(21節) 一体この子供達は、どういう子達だろう。
鍵となるのは、54章である。子を産まない不妊の女に主は「喜びなさい!あなたから出る子供達は、普通に生まれた子達よりもっと尊い、宝石のような輝いた子達だ」と言われる。 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)
ここで大事なのは「主の教えを受け」という言葉である。人を御言葉で養うなら、ちょうどパウロとテモテのような霊的な親子関係となり、たとえ実の子でなくても、尊い宝石のような子供の、産みの親となれるのだ。

聖書は逆転劇に満ちている。ハンナやエリザベツ、そして、多くの国々の母・王たちの母となったサラは、不妊の女だった。なぜ彼女達は、普通に子供ができなかったのか。それは彼女達に子供ができない期間、主に心を向けさせ、熱心に祈らせるためであり、その子を、主に捧げるようにするためである。
親が「自分が育てたから素晴らしい子になった」という願望を子に投影し過ぎてしまうと、子は息を切らしてしまいがちだが、この宝石のような子達は、なんと、育てた記憶が無い(49:21)。鍵は「主の教え」である。
御言葉暗唱(テフィリン)教育は、子の心と思いに刻まれた御言葉が、子を育てるのだ。それは、親流儀の「あれしちゃだめ、これしなさい」ではないので、親も疲れないし、子も疲れない。テフィリン教育で子供を育てるなら、一体いつの間にこんなに素晴らしい子に変わったのだろう、という感想を持つ経験者が多い。
女性はエデンで、神の言葉を乗り越えた罪の故、子を産む時の苦しみをペナルティとして受けた。でも、むしろ、産んだ後、子を世へと「送り出す」ための、子育てという苦しみのほうが大きいのではなかろうか。
人は、御言葉を越えてしまう価値観においては、子育ての苦しみは多く、神の子のような子は育たない。
しかし、主に明け渡した人が、御言葉にその子を委ね、御言葉がその子を育てるなら、子育ての苦しみは少なく、こんなに素晴らしく育った子は一体誰がいつ育てたのだろう、と、不思議がるようになるのだ。
この遠い東の果ての島々の国、シニムの地域において、主の教育を授け、自分が産んだのではなく「主の御言葉」が産んだ子供達が、所せましと多くされ、キラキラ輝く宝石でちりばめられた花嫁の帯のように飾られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エデンの外側でいのちの木の実を得る方法(創世記1:9-13)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
神は、創造の第3日目、大海の中からかわいた地を出させ、同じ日に大地から草や木を生えさせ、様々な種類の果物や種が出るようにと定められた。それは、私達人間や、あらゆる生き物が「食べる」ためであり、それもなんと、太陽や月、星が創られるより前に、植物は創られた。神は太陽よりも先に果物や種が実る植物を生えさせた程、また、この世が終わった後にも存在する程、実りを実らせる木は重要だ。
今回、人類にとって最も重要な木である「いのちの木」に至る道を学びたい。

私達は普通に、木や草は、太陽光によって育つものと思っているが、どうやら聖書によると、太陽光なしで育つ、私達の知らない木が存在するようである。太陽なしで育つ木、それは、黙示録22章にも登場する。
『川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』(黙示録22:1-2) この聖書最終章においては、もはや太陽も月もないが(同21:23)、いのちの木は、太陽なしで育つ。エデンの園の中にあったいのちの木には、ケルビムの剣に阻まれて行けなくなってしまったが、実は、エデンの外側で「いのちの木」に至る方法が、箴言の中に4箇所しるされているのだ。

 愧侶辰蓮△海譴鯤瓩┐觴圓砲鰐燭量擇任△襦△海譴鬚靴辰り捕える人はさいわいである。』(箴言3:18)
いのちの木を得る人の第一の特徴は、知恵を捉えようと努力し、掴んだらそれを離さない人、すなわち、真の知恵である御言葉をテフィリンする人である。テフィリンとは、いつでも御言葉を口ずさみ、暗唱し、心と思いを御言葉で満たして行くものであるが、実際これをする人は健やかになり、頭脳明晰になり、自ずと必要が満たされ、神の性質を身につけて行くという、エデンの園の住人であるかのような性質を帯びてくる。
◆慇気靴ぜ圈淵張.妊ク:法に則った)の結ぶ実は命の木である、不法な者(カハーム)は人の命(ネフェシュ)をとる。』(箴言11:30) すなわち御言葉という真の「法」に則った人は、命の木の実を結ぶ。次のようにも書いてある。『全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。』(ヘブル12:11)
つまり忍耐して正しい行いをし続ける人は、平安な義の実、いのちの木を得るのである。
それに反し、「不法な者」と訳された語「カハーム」は、呪術的な邪悪な知恵であり、それは人のたましい(ネフェシュ)を魅了し、奪ってしまう。ちょうど善悪知識の木が、人を魅了し、いのちを奪ってしまったように。
『望みを得る事が長びく時は、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。』(箴言13:12-13) ここにおいても御言葉を重んじて忍耐して御言葉の成就を願い待ち望む人は、やがていのちの木を得るような喜びを得る事が記されている。
ぁ慷イ靴ぁ淵泪襯據次ЪL的な)舌は命の木である、乱暴な言葉は魂(ルアハ)を傷つける。』(箴言15:4) 
いつもテフィリンによって口を御言葉で満たしているなら、そのような人の舌は「治癒的」となり、その人がそこで言葉を発する時、周囲の人は、あたかも、いのちの木がそこにあるかのように癒されて行くのだ。
それに反し、乱暴な言葉は、霊(ルアハ)を破滅させる。霊を救う言葉があり、霊を破滅へと導く言葉がある。御言葉によって洗練された人の宣教の言葉は、人を癒やし、生かし、永遠のいのちへと導くが、しかし乱暴な言葉で人をつまづかせるなら、永遠の滅びへと至らせてしまう。だからイエス様は言われたのだ。
小さな人につまずきを与えるような者は、石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と。

以上のように、テフィリンこそ、エデンの外側で生きる私達にとって唯一の、いのちの木に至る道である。
テフィリンの逆、いのちの逆は、御言葉に逆らう事と、御言葉から独立した善悪知識である。
アダムは「御言葉」に逆らって善悪知識の木を食べてしまい、エデンから追い出されてしまった。それこそ楽園から追いやられてしまう性質、死をもたらす性質である。アダムとエバは、善悪の木から取って食べたその瞬間に心臓が止まって死んだわけではなかったが、徐々に「死」が体をむしばんで行った。その、徐々に進行して行く「死」と「呪い」に、唯一対抗する手段が、テフィリンなのだ。
天国は、神の栄光が満ち溢れ、神の支配が行き届いており、いのちの木に満ちている。今、この地上において私達は御言葉を口ずさみ、テフィリンし、神の国をもたらし、いのちの木の実を結ぶ者として歩みたい。

主が行けと言われる所に(使徒1:3-8)
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 今回の訪韓は、前半は韓国コーエンにて研究員として学び、後半はテフィリン教育で素晴らしい成果を上げている学校や、また、中毒患者を御言葉によって見事に回復させ有用な働き人へと育て上げている団体を訪問したりと、多くの実りを得た訪問だった。彼らに共通している事は、ただ「いのち」を建て上げ、神の国を立てあげよう、という点で必死であり、一切、自分の何かを大きくしたいという所がなかった。
今回、韓国コーエンで学んだ「使徒行伝」から、私達神の国の働き人は何を第一にすべきかを学びたい。

使徒行伝、それはイエス・キリストによって召し出された人達が働いた記録である。弟子達をはじめ信じた人達が聖霊に満たされ、力強く大胆にキリストを証して行くこの書の中心は、実は、以下、1章3節である。
『イエスは苦難を受けた後、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日に渡ってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』 イエス様は復活後の40日間、十数回に渡って弟子達に現れ、彼らと一緒に居られる時間が残りわずかな時、最も伝えたかった事は、「神の国のこと」だった。
教会では使徒行伝からは、聖霊充満の事や教会の働きの事が強調されがちだが、私達は主が最後を惜しんで弟子達に示された「神の国のこと」にこそ、思いを向けるべきである。イエス様がいよいよ挙げられる直前、主は「エルサレムから離れないで約束されていた聖霊を待ちなさい」と言われたが、それに対して弟子達が言ったのは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」だった。(6節)
弟子たちはイスラエルの復興、すなわち、自分の願望成就を、握りしめたままだった。イエス様は、どれほど失望されただろう。しかしイエス様は言われた。『ただ、聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』(7-8節)
イエス様は、伝える範囲は「全世界」だと明確に 宣言された。聖霊の力を受けたなら、それは何のために用いるか。それは、主が生きておられる事を地の果てまであかしするためであるが、12弟子はしなかった。

聖霊降臨後、エルサレムで信徒の数が莫大に増えて行ったが(2-6章)、それでも福音が伝えられたのは、いわゆる「ユダヤ教徒」のみで、全くの異邦人には全然伝えられていなかった。しかしステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、エルサレムの教会は強制的に散らされていった。『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。』(8:1)
これを機に、福音を持っている人々はようやくユダヤとサマリヤの地方へ散って行った。それでも使徒達は、なお留まっていた。 ペテロをはじめ12使徒は、主が取り払われた「ユダヤ人」という枠組みを、結局、割る事ができず、自分にとって居心地が良い所を出られずにいたままだった。
それにひきかえ、使徒パウロは、主が命じられるなら、どこにでもすぐに行った。その結果、使徒行伝では12使徒は徐々に影が薄くなり、パウロは大いに用いられ、新約聖書後半の主人公的存在となった。
私達は、自分が「こう」と願った事をずっと握りしめ続けたり、思い通りになるまでそこに留まり続けたりするのではなく、イエス様が時を惜しんで語られた「神の国のこと」に思いを馳せるべきである。今、神の国は、どこにあるのか。自分が今、何をするのが「神の国の成就」であるのかを。

使徒行伝は最後、唐突に終わっているように見えるかもしれないが、使徒行伝の最後の節を良くみると、私達への重要なメッセージがある事を見出す事ができる。『(パウロは)はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。』(使徒28:31) はばからずに、妨げなく、神の国のこと、主イエス・キリストの事を伝え、教え続ける。これこそまさに、私達の本分である。
ここの「伝え」「教え」は、二つとも現在形分詞、すなわち、今なおずっと継続している動詞であり、つまり神の国と、主イエス・キリストのことは、今なおずっと語られ続けているのだ。今も、私達を通して、継続して。
私達は、ある程度満足な「今」の状態にとどまっていたい、という思いを、割らなくてはならない。心地よかった所を出ていく事や、慣れていない働きへ踏み出して行く事には、恐れがあるかもしれないが、主の「働き場」があちらへ移った、という事であるなら、私達もそちらへと移って行かなくてはならない。
そうでないと、12弟子のように、置いてけぼりにされてしまう。心地よい井戸の中を脱却し、主が行けと言われる方へと大胆に進み行くみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

イスラエルとなるためには(創世記32:22-33:4)
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 イスラエル。一つの国家として有名だが、イスラエルは元々は、一人の人で、その名はヤコブだった。
彼から12人の子が生まれ、それが大いに増え、12部族となり、そして現代に至っている。今回、イスラエルとは一体何者か、聖書の中で事実上イスラエルが誕生した場面から、その本質を探りたい。

イスラエルという人は、元々、ヤコブという名だった。名の意味は「かかと」あるいは「押しのける」であり、まさにその名の通りを生きてきた。彼は兄エサウのかかとを掴みながら生まれ出て、長男の権を奪い、父からの祝福を騙し取った。その結果、兄エサウの殺意を買い、母リベカはおじのラバンの所へ彼を送り出した。
時が解決すると思ったのだが(28:44-45)、時は解決しなかった。彼はかつてして来た事のやましさから逃げてきたが、兄と対面しなくてはならなくなった時、大いなる恐れに襲われた事が32章全体にかわ分かる。
彼は群れ全体を二つに分けてリスク分散したり、贈り物を波状的に贈り出す事で兄を宥めようとしたりと、色々な画策を立てたが、それでもなお恐れは消えず、夜、起き出して、妻と子供達を先に川を渡らせた。
32章は「夜」という言葉がよく出てくる。彼が「ヤコブ」として人を掴み、モノを掴み、出し抜いて騙し騙し生きて来た結果、人々を恐れ、彼よりも「騙し・出し抜き」に長けた人から弄ばれる「夜」の生き方で生きてきた。
彼の人生の夜闇が高じて、喉元まで迫ってどうにもならなくなった時、ある人が現れた。『ヤコブは一人あとに残ったが、ひとりの人(イシュ)が、夜明けまで彼と「組打ち(アバク:レスリング、相撲)」した。』(32:24)
彼と相撲したのは、ひとりの「人:イシュ」である。後に分かるのだが、その「人」は、神であった。相撲とは、抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘であるが、この、「神であり人であるお方」と、ヤコブは相撲を取ったのだ。
その格闘は、彼の命運を賭けた祈りでもあった。『どうか、共に「力をつくして」わたしのために神に祈ってほしい。』(ローマ15:30) この「力をつくして(スナゴニゾマイ)」は、奮闘し相撲を取る意味も含まれている。
箇条書きの祈祷課題をダラダラと読み上げるような祈りではいけない。私達もヤコブのように、「神であり人であるお方」、すなわちイエス様に、相撲を取る勢いでぶつかって行くなら、主は答えてくださる。
『ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちする間に外れた。』(32:25) ヤコブは今までその足を使って問題から逃げてきた。
そこを神に触れられ、もはや逃げられなくなった。御前において良くない企みをしながら生きて、それを捨てないまま助かろうとしても、助からない。彼はその格闘の前、自分を一切変えないまま、状況が変わる事によって助かろうとする、都合の良い祈りをしていたが、そんな彼に対する神の答えは、相撲だった。

長い夜は、明けようとしていた。『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた「わたしを祝福して下さらないなら、あなたを去らせません」。』(26節) ヤコブは、自分の「夜」が明けるだけでは飽き足りなかった。さらに突き進んで、「神であり人であるお方」の祝福が欲しかったのだ。
それを表明した時、『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節) こうして彼は新しい名が与えられた。そして、その方から祝福を受け、彼に太陽が照った。今まで問題だと思っていたものは、もう問題ではなかった。
イスラエルの「エル」は「神」の意味、「イスラ」は「サーラー」の派生語で、定義は「粘る」「忍耐強く続ける」、意味は「争う」「苦闘する」であり、イスラエルとは、神に粘り強く時には苦闘する程に関わりを持つ人である。
ヤコブは、主からもものつがいを打たれ、逃げる足をへし折られ、嫌がおうでも逃げられなくなった。
しかし、それが彼の、全く新しい祝福の人生の始まりだった。今まで人を出し抜き、家族やしもべを先に進ませていたが、今や、『みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。』(33:3)
問題から逃げる足はへし折り、ただ粘り強く神と向き合い、神に全てを明け渡して、そうして問題と正面から向き合う時、私達も「イスラエル」となって神に支配され、そして「神のように支配する者」となる。
英語の辞書では、Israel = "God prevails",”he will rule as God”とあり、またガラテヤ6:16によると、「神のイスラエル」とは、割礼を受けた人の事ではなく、十字架によって世と分離し、新しく創造された事の基準に従って進み行く人の事である事が書いてある。神と粘り強く関わりを持ち、神の支配を受け、そうして新しいイスラエルとして世を治めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

敵のそしりを止めさせる「霊的城壁」を築け(ネヘミヤ5章)
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 ネヘミヤ記から城壁を建て直す働きを学んでいる。城壁は外敵を防ぐもので、私達にもそのような城壁は必要だが、どんなに「外」の城壁を堅固にしセキュリティを強化しても、それに関係なく自滅してしまう、という事がある。どんなに経済的・体制的城壁が堅固でも、「霊的城壁」に破れがあるなら、いとも簡単に滅んでしまう。今回、外的な城壁のみならず、霊的城壁を立て直したネヘミヤの働きを、5章から見ていきたい。

5章は、イスラエルの民からの強い訴えで始まる。自分達には養わなくてはならない子供達が大勢で、食料を得るために、働かなくてはならないのに、それが出来ない状態である(2節)、窮乏ゆえに田畑や家を抵当に入れざるを得ず(4節)、それも、重い税金ゆえに窮乏状態となり、田畑は抵当に出ているので収入も得られず、子供を奴隷に売る事を強いられている、しかも、既に娘が奴隷にされてしまった者もいる(5節)。
この訴えは、同胞ユダヤ人に対するもので、同胞の有力者が、同じ同胞から搾取しているのだ。(1,5節)
15節を読むと、ネヘミヤの前任の総督達は負担を重くし、取り立て、若い者達は威張り散らしていたという。
同じ同胞なのに、役職を得たとたん、取り立て搾取する者となり、それで下々の民は貧しくなり、家や畑を抵当に取られ、どうしようもなくなって、息子娘を奴隷として売ってしまう。それを人々はネヘミヤに訴えた。
律法によるなら、同胞の人が貧しくなって生活が成り立たなくなっても、決して奴隷としてはならず、彼らの生活が成り立つようになるまで、雇い人として扶養すべき事が書いてある。(レビ記25:35-43)
3節によると「飢饉(ヘ:ラアブ)」が起きていたようだが、なぜ、ききんが起きるのか。それは、兄弟姉妹が貧しくなったら養うべきを、それをせず、逆に搾取して奴隷にし好き勝手にするという、御言葉違反を延々続けていたから、主の呪いである「ききん」が起こり、貧しい循環から延々と抜け出せないでいたのだ。

ネヘミヤは聞いて怒り、トップ達を集めて言った。「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは我々の敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。」(6節) 
たとえ城壁を立て直しても、もし城壁の内側で、異邦人と同じ流儀で搾取し、虐げ、暴虐で満ちているなら、彼らの叫び声が天に届いて、それによって主からの呪いが送り込まれてしまう。その呪いは、城壁では防ぎようが無いのだ。それでネヘミヤは「敵である異邦人のそしり」を防護する城壁を築くべきだと主張した。
神の民が「敵のそしり」を、すなわち、サタンが嘲り訴える口実を、自らつくってしまい、それが霊的城壁のほつれとなって、呪いが神の民に入り込んでしまった事が、イスラエルの歴史の中で度々あった。
例えばモーセの時代、民は金の子牛を造って主を怒らせたが、それは、民が「たるんで裸を晒す(パラア)」のを、アロンは放置し、敵対する者(クム)が、物笑いするに任せたためだった。(出エジプト記32:35)
アロンは、民が好き勝手にし出すのに対し、霊的城壁を築かず、むしろ、民衆受けする言動をしてしまったため、歯止めが効かなくなり、敵であるサタンの物笑いとなり、付け込む隙をつくってしまった。私達も、養うき子達が乱れているのを放置しておくなら、どんどん敵の物笑いとなり、破れ口が大きくなってしまう。
ダビデもまた、人妻を寝取ってその主人を謀殺した事によって、敵に物笑いの種を与えてしまった。
『あなたはこの行いによって大いに主を侮ったので(直訳:主の敵に冒涜の機会を大いに与えたので)、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル12:14) このように、人が主の前にたるんだ行動をする時、サタンは嘲り訴える口実を得、それでサタンが災いを降す時、主は人を弁護出来ないのだ。

モーセもダビデも、それに気付いた時に、真っ先にしたのは「悔い改め」であり、償うための具体的な行動をすぐに取った。もしサタンに霊的城壁の破れから侵入されてしまっている事に気付いたなら、すぐに悔い改めと償い行動を取るべきであり、それが霊的城壁となるのだ。ネヘミヤも、まさにそうだった。ネヘミヤは自分から率先して人々への借金を免除し、奴隷を解放し、神を畏れる行動を人々にさせた。(7-19節)
貧しい人を助け正しい事をする人こそ、「破れを繕う者」「市街を回復する者」である。(イザヤ58:6-12)
私達がいかに、思いや心や体の城壁、経済の城壁をどんなに堅固にしても、サタンに責められる口実があったなら、どうしようもない。まずは私達の内側から、サタンの攻撃の足がかりを取り除くべきである。
主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しい。
主は、主を愛する者に眠りを与えてくださる。(詩篇127篇) しっかりと霊的城壁を築き、安らかな眠りが与えられ、寝ている間も主に備えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

戦い方を身につけよ(ネヘミヤ4章)
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 神の民イスラエルは、主への数々の無礼を改めず、預言者の警告を聞かず、好き放題し続けたため、バビロン捕囚の憂き目に遭い、敵が好き放題荒らし、土地も財産も奪われ、どん底の生活へと投げ込まれた。
それでも主は、悔い改めて主に立ち返る人々を回復させて下さる。回復のためには、ネヘミヤのように罪の惨状を悲しみ、「なまけぐせ」を取り除き、荒れた現状を立て直すために立ち上がって行動するべき事を、前回学んだ。その時、必ず敵の攻撃が来るが、今回はさらに、敵の攻撃をどう対処すべきかを学びたい。

再建しようと行動を起こす時、今まで搾取し踏みにじって来た者達はそれを良しとせず、攻撃して来る。
2章では、敵は神の民の再建のわざを、「王に反逆している」と、あたかも悪い事のように思わせて来たが、ネヘミヤは真理の御言葉を唇から発して「境界線」を引き、「真理という防護壁」を築いた故、人々は奮い立って再建を進め、仕事はどんどnはかどって行った(3章)。敵はそれを、なお歯ぎしりして、攻撃して来る。
『サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。』(ネヘ4:1)
その「あざけり」の内容を分析すると、今の惨状や山積の問題へと目を向けさせ、絶望させ、無気力にさせる特徴がある事に気付く。実際、敵の脅しに同意して、再建が無駄であるかのように思わされてしまった人々もおり、脅しに「同意」してしまった人には、敵はさらに調子に乗って脅しにかかって来る。(11-12節)
そんな心萎えてしまった人々に対し、ネヘミヤは、具体的な行動で答える。彼は人々に武器を持たせ、城壁の建て上げが進んでいない所に立たせた(13節)。また言った。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、息子、娘、妻および家のために戦いなさい。」(14節)
ネヘミヤは、もし敵が入り込んで来たら返り討ちにしよう、という意気込みを見せた。敵は、私達の意気込みを、最も恐れる。なぜなら私達が主にあって立つ時、敵である悪魔は「負け」以外に有り得ないからだ。
実際、敵はこれを聞いて自分達の企みは「神が」破った事を聞いて、すごすごとあきらめた。(15節)
『その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。そしてつかさたちは城壁を築いているユダの全家の後に立った。荷を負い運ぶ者はおのおの片手で工事をなし、片手に武器を執った。』(16-17節) 片手でしか仕事ができない、それでは全くはかどらないのでは、と思われるだろうか?いや、これが最もはかどる仕方だ。むしろ武器を持たず恐れながら仕事する方が、敵に付け入る隙を与えてしまう。御言葉の武器だけ持って仕事をしないのも、仕事道具だけ持って御言葉を持たないのも、どちらも再建は進まない。しっかり両方を握り締め、仕事に取り掛かるのが、最も効果的だ。
18節以降では、互いが共に助け合う体制を、さらに強化している事が記されている。もしどこかが攻撃されそうになっても、すぐ一斉に集まれるよう、ラッパを持たせた。結果、仕事は非常にスピーディーに終わる。

『こうして城壁は五十二日を経て、エルルの月の二十五日に完成した。』(6:15) わずか52日で、何十年も手付かずにいた瓦礫の城壁は立て直されたのだ!そんなものである。目の前の瓦礫の山に絶望し、あきらめ、何もしないままでは、92年も瓦礫のままだったが、「片手に御言葉・片手に仕事」、さらに兄弟姉妹が助け合う体制を整え、再建に取り掛かるなら、長年出来なかった事は、実にあっけなく完成したのだ。
『われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである。』(6:16)
私達が御言葉に固く立つ時、敵は恥を見る。「偽りの父」であるサタンは、さも自分達は強いかのように、何でも出来るかのように、あらぬ恐れ・あらぬ恐怖を吹き込み、「再建」という良きわざをやめさせようと脅しをかけて来るが、あの者共は、主にある聖徒達が団結し、御言葉に立つ事をこそ、恐れおののいている。
それで、礼拝や賛美、御言葉宣言、聖徒の交わりを、あの者達は最も嫌い、そこを集中して邪魔して来る。
私達は敵の企みを知り、敵の嫌がる礼拝や賛美や御言葉宣言、聖徒の交わりを積極的にして行くべきだ。
人生において、再建をしようとする時、敵からの心くじけさせる色々な言葉が、あるだろう。あるいは自ら弱気が沸き起こって、やる気を失うかもしれない。その時、そのような敵に対して御言葉の剣を、信仰の大盾を奮って、主の御名によって祈り戦いつつ、片方で仕事をして行くなら、再建は速やかに成されて行く。
いつまでも片手に剣、片手に仕事道具、という、労苦の日々が続くわけではない。御言葉と信仰で武装し、兄弟姉妹同士で共に助けあいつつ仕事をする事で速やかに再建されて行く皆さんでありますように!

そしられる原因である「崩された城壁」を再建せよ(ネヘミヤ2:17-20)
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 ネヘミヤといえば、バビロン捕囚後のエルサレムの城壁を再建した人である。神の民であるはずのイスラエルは、なぜバビロン捕囚という恥辱を味わったか。それは彼らは主に対し失礼ばかり働き、預言者の警告にも聞かず、好き放題、罪に罪を重ねたためだ。それで敵が好き放題し、家も財産もめちゃくちゃにされ、奪われ、貧しい底辺生活へ投げ込まれた。それは自業自得とも言えるが、それでも主は立て直して下さる。
私達はいかして、そのように破綻してしまった人生の建て直しが出来るだろう。ネヘミヤ記から学びたい。

ネヘミヤは、エルサレムの城壁が破壊されたままだと聞くと、かつて無いほどの憂いと悲しみに襲われた。
もし「城壁」が崩れたままなら、経済や子育てを立て直そうとしても良いように敵が出入りし、踏みにじり、嘲り、奪って行くままだ。ネヘミヤは、その状態を看過できなかった。『わたしはついに彼らに言った・・・さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう』(ネヘミヤ2:17)
私達も諸々の「世のはずかしめ」がある。病や経済的貧困というはずかしめ、あるいは、悪霊由来の、「自分はダメだ」「無駄だ」などという罵声など。それらに対し、一刻も早く城壁を築いて対抗すべきだ。
そして、真っ先に対処しなくてはならないのは「怠けぐせ」である。ネヘミヤが総督に任命されエルサレム入りしたのはBC445年と言われている。バビロン捕囚の終わりはBC537年なので、実に92年も、皆が、「いつかしよう」「誰かがしてくれるだろう」と思っていて、結局92年間も放ったらかしにしていた、という事だ。
再建すべきなのに、しない。働くべきなのに働かない。成すべき良い事か示されているのに、それをやらない。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。そのような者の畑の有様は、「いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた」(箴言24:31)状態である。
ネヘミヤは情熱をもって再建に取り掛かり、人々もまた共にチームワークを組んで仕事に当たった。

人が、人生の再建にとりかかろうとする時、必ず、それを快く思わない「敵」が邪魔しに出てくる。
『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
敵は、再建の行動を、「良くない事」と思わせて、罵ってくる。人生がこれ以上、大切な時間や経済や健全さが奪われないように城壁を築く頑張りを、何か、悪い事をしているかのように。キリスト者は上着を取られれば下着も差し出すべきではないのか、貧しく清く美しくするべきではないのか、それを何だ、欲を出して反逆しようとしているのか、などと。そのように囁いてくる嘲りの声に対し、ネヘミヤはどうだったか。
『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
そうである。一緒に礼拝せず、一緒に御言葉を守り行ったわけでもない者達には、神の民が受ける分け前に与かる権利は一切なく、そのような主の記念のない者に好き放題言われる筋合いは、一切、無いのだ。
人生の再建のわざを「悪いこと」呼ばわりする者に対し、良心のとがめを受ける必要は、一切無い。
私達が御言葉を守り行うと決心して行動し、主にあって良い実を結んでいるなら、そのような者達に対し、ネヘミヤのように言葉で宣言するのだ。「天の神が私達を恵まれるので、そのしもべである私達は奮い立って築くのである」と。そして行おうとしている事を、明確な主の示しとして自信をもって取り組めば良いのだ。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。』(箴言18:20)
「くちびる(ヘ:サファー)」は、英語のlipのように「縁(ふち)」「境界」の意味もある。だから、心の内にある信仰が、唇という「境界線」を越え、世に音波として出た時、天地万物の支配者なる主との関係が世に対して示され、適用され、世の諸々の呪われた仕組みから救われる。だから、敵に対し(たとえ実感が無くても)「御言葉」を発するなら、それが防護壁となり、もし超えて来ようとするなら、御言葉が、その者と対決する。
逆にもし、心に怒りや憎しみが沸き起こったとしても、唇という境界線を超えさせずに黙っているなら、それは勇士にまさり、城を攻め取る人にまさる人である。(箴言16:32)
人生の城壁の再建は、まず、崩されている現状を悲しみ、なまけから脱却し、立ち上がって、行動する所から始まる。そして、敵が(あるいは心の声が)言いがかりをつけて来た時には、真理の御言葉という両刃の剣を唇から発し、敵のたくらみを打ち砕き、城壁をすみやかに再建していく皆さんでありますように!

邪悪で汚れた事に「いいね」をする者達の中で(ローマ1:21-32)
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 神を神としてあがめず感謝もしない者達は、ますます邪悪で汚れた性質を帯びて行くが、そのような者達から被害を受けつつ、本当は清く生きたいのに、汚れた習慣・価値観で育ってしまった故、それが分からず、邪悪な汚れた自分を苦しんでいる人達の叫びを、神は聞いておられる。神はそんな彼らに、使者を遣わし、神に立ち返る人々は、栄光の御国へ引き入れて下さる事を、前回、遊女ラハブから学んだ。
彼女以外のその町の者達は、あくまで真の神に敵対し、城門を閉ざし、徹底抗戦の構えを見せたが、今回、そのように頑固に神を受け入れない者達に対し神はどうするか、そして彼らはどうなるのかを学びたい。

エリコの住人のように、唯一なる神を神とせず感謝しない者、神の栄光を、滅ぶべき被造物へと取り替えるような者達へ、神が定められたのは、三つの「パラディドミー:引き渡す、放置する」(24,26,28節)だった。
パラディドミー。それは福音書の中で、特にイエス様が十字架へ「引き渡」される場面において頻繁に登場する。パリサイ人やピラト、そしてイスカリオテのユダは、イエス様を十字架へと「引き渡した」が、彼らのように、不朽の神の御子・キリストを、十字架へとパラディドミーする者に、神は、三つのパラディドミーをする。
24節で、神はそのような者達を、その心の欲望のまま汚れへと「引き渡され」、そのため彼らは互いにその体をはずかしめるようになった事が記されている。神を神と認めない、キリストを救い主として受け入れない、それならどうぞ心の情欲の通りに生きなさい、と、獣以下の汚れへところげ回り落ちるよう放置したのだ。
26節で、神は彼らを恥ずべき情欲に「引き渡され」、女は女同士・男は男同士で恥ずべき欲望に従って生きるようにし、それを恥ずかしいと思わないようになった。「そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(27節) 当然の報い。それは古来から常にあり、ノアの時代には洪水が、ソドムとゴモラには火の刑罰が、それ以降も、諸々の性病の恐ろしい症状という形で、神は明白な「当然の報い」を報復された。
28節では、彼らが神を知ろうとしたがらないため、良くない思いへと「引き渡され」、してはならない事をするようになった、と記されてある。その結果、彼らは22項目の「死に値する」罪を犯すようになる。(多くの訳では21項目だが、原典は31節に「アスポンドス:執念深く和解不能な者」を含めた22項目である)
『彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、「執念深く和解不能な者(多くの訳で省略)」、無慈悲な者となっている。こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを「行う(パラッソゥシン)」者どもを「是認(スンニュドクシン)」さえしている。』(29-32節)
この「パラッソゥシン」は現在形能動態複数形、すなわち、そのような事を積極的に行っている人が、複数で声を大に「いいね」と互いに持ち上げ合い、組織化・勢力化し、社会現象化する状態である。
「スニュドクシン」とは、「スン(一緒に) + ユードケオ(いいね、魅力的だね、素晴らしいね)」が合わさった言葉で、あの22項目の邪悪で不潔な価値観に対し、「すごくいいね」「素晴らしいね」「ロマンスだね」などと組織的に言い合って、勢力化し、社会現象化させている状態だ。
まさに現在、暴力的で、不潔で、非自然な事が「いいね」ともてはやされる時代で、その汚れた価値観が勢いを持ち、時の権力者がその価値観で世を上塗りさせようとする勢いだが、それはギリシア・ローマ時代や、ノア以前の時代にも蔓延っていたのであり、古来から、神はそのような者達に明確な裁きを降して来た。

何がきっかけで、そうなってしまうのか。それは、頑なに神の御言葉を拒否し続ける事によって、である。
かつてエジプトは、イスラエル民族からの恩を、仇で返し続ける事を何百年も続けた故、神はパロの心を頑なにし、エジプトに災いが降される事によって、神の栄光を現す道具として用いられたのである。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを再び十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
今、邪悪な事・汚れた事が「いいね」と持ち上げられる時代の中、きよい者・聖なる者として燦然と輝き、ラハブのように、この時代の中で苦しんでいる人を、一人でも多く救い出す皆さんでありますように!

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