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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
キリストの十字架と、死と、復活に参加せよ(1コリント15章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス・キリストの復活を祝う日である。キリスト者にとって「復活」は、重要な救いの根拠であり、パウロも第一コリント15章にて福音の根幹である「復活」について詳説しているので、詳しく見たい。
 
 あの日、イエス様は十字架上で、確かに死なれた。大勢が見ている中、息を引き取り、槍で突かれると血と水が流れた。遺体となったイエス様は十字架から降ろされ、布で巻かれ、葬られた。墓は封印され番兵が守った。祭司長や律法学者達は勝ち誇り、弟子達は逃げ隠れした。イエス様は明らかに、死んだのだ。
 もしイエス様がよみがえられなかったとしたら…。イエス様を見殺しにした弟子たちは、イエス様が葬られて三日目、勇気を振り絞って番兵達を気絶させ、封印を解いて、重い石をころがし、イエス様の遺体を盗み出し、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。果たして、みすみす見殺しにしたような弟子達が、見殺しにした彼らの師匠を、命がけで「よみがえった」と吹聴するメリットは、どこにあるというのか。
 ところが、あらゆる敵にとって残念な事に、イエス様は確かに復活された!封印は破られ、入口を塞いでいた大岩は転がされ、番兵達は、御使いを見るなり死人のようになった。イエス様の遺体に香油を塗ろうと女達が来てみると、遺体は無く、御使いがいて、「ここにはおられません。よみがえられました」と言われた。
 
 イエス様は、私たちを愛するその愛の激しさのゆえに、激しい苦しみ・悲しみをものともせず、十字架の上で死んで、陰府に降られた。それは、私達を愛して、愛し抜いた故、私達の罪を一身に負い、私達の身代わりとなるためであった。そして彼が死人の中からよみがえって下さったのは、彼が眠った者の初穂となり、イエス様に続く私たちも、彼とともに全く新しく生まれ変わって、共に永遠に生きるためである。(20節)
死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来るのであり、また、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるのである。(21-22節)
 最初の人アダムが罪を犯した時、アダムの腰にいた何億何千万という全人類も、共にその罪に参加した。
故に、人から生まれ出る人は全て、罪の責め苦を負わなくてはならない。しかし、イエス様が十字架で全人類の身代わりに罪を負って下さった事を信じ、この御方を「わたしの主」とするなら、その人は救われる。
信仰をあらわすヘブライ語エムナーの動詞「アーメン」には、「サポートする」「確認する」「忠実である」の意味がある。信仰とは、共に参加する事。相手と連合し、結束する事なのだ。
 だからキリストを信じた人は、キリストの、あの十字架刑に共に参加した者となり、共に陰府に降った者、共によみがえった者となるのだ! 「私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私達がもはや、罪の奴隷となる事がないためである。」(ローマ6:6)
 私達は時間に縛られ、過去に犯してしまった事はどうする事もできないが、信仰は時間を超越する。
アダムの腰にいた時に参加してしまった罪を、帳消しにするには、イエス様が十字架で成して下さった事を信仰じ、「参加する」事により、アダム系列とは全く別次元の、キリスト系列の者となるのだ。『もし私達が、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
 
 「赦し」は、信じ、告白し、参加した人だけのものであって、イエス様が十字架にかかった時点で人類の誰も彼もが赦された訳ではない。イエス様が十字架にかかった時、わたしもそこに参加した!と、信仰告白し、そして信じて告白した事に見合った、「行い」という実体が、継続して実を結んでいるかが大事である。
 パウロも言う。『兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です…思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。』(31-34節) 
 だから、キリストに連合しキリストの死と復活に参加した信仰者は、信仰者らしく、昔の友だちや、昔の生き方、すなわち世と連合し、罪の交わりに参加した生き方から、離れ続けなくてはならない。『肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない…なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』(50・53節)
 この4月、新しい学期が始まり、新しい年度が始まった。ますます、世の罪に参加するかのような行いや友人からは離れ、キリストの十字架の死と復活に参加した者として、ますます日々、朽ちない者、神の国を受け継ぐ者として創り変えられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
キリストのパッション(雅歌8:6-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、本日から受難週(パッション・ウィーク)が始まる。
イエス様の十字架の経験は、ありとあらゆるパッションが込められている。あまりに激しい苦しみ、あまりに深い悲しみ、そして断絶と死の向こうに待ち構えている、決して薄れない喜び。彼が十字架の道を進んだ最たる動機は、彼の、捧げ尽くした愛だった。罪と死の奴隷状態で苦しんでいる人々を、神の子の本来あるべき姿へと戻したい、救いたい。そして、主と共なる永遠の愛の交わりへと、導き入れたい。そのような動機によってイエス様は、十字架への道を進んで下さった。この受難週、主のパッションを味わって行きたい。
 
 イエス様が十字架につく前の晩、ゲツセマネで体験された感情は、「恐れ」ではなく、死ぬほどの「悲しみ」だった(マルコ15:34)。イエス様は、世が始まる前から御父と親密な愛の交わりをしておられた。しかし彼は、本来私達が受けるべき裁きを、身代わりになって受けるため、私達の代わりに御父から捨てられ、断絶され、呪われた。それは、血の汗を滴らせる程、計り知れない大きな悲しみだった。
 イエス様が十字架上で脇腹を槍で刺された時、すぐにそこから血と水がほとばしり出た事から、彼は、極度のストレスから心臓破裂で息を引き取り、その時に心臓に溜まった血液と水が流れ出た、と思われる。
 全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられた事、また、十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろう。『キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救う事のできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』(ヘブル5:7)
  これ程のパッション、情熱をもって、主は十字架にかかられたのだ。父なる神は、愛するひとり子を全人類の身代わりとし、十字架につけて死なせ、そうして、全人類を救う。全能の神はなぜこんなにも痛みが伴う「割りに合わない」方法を取られたのだろう。それは計り知れないが、ともかく、それほどの痛みや苦しみを支払ってでもかまわない程の大きな愛で、私たちを愛し、救いたいと願っておられた事は、真実である。
  神は無感覚・無感動の神ではない。情熱の神である。神も痛むし、悲しむし、涙を流す。しかし、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こして喜ぶお方である。神は私達のところに降りて来て、面と面を向かって相撲を取って、生々しく関わって下さる。神は私達を熱烈に愛し、もし、私達が別の神に「浮気」するなら、激情に駆られて妬むお方である。
 キリストは私達を救うため、天を押し曲げて降りて来られ、人となり、十字架の上で苦しみを受けた。彼を愛する人には、雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を慕い求めるような、甘い愛で迫ってくださる。
 
 ユダヤ人は過越祭の度に雅歌書を朗読するが、そこに書いてある。『わたしを刻みつけて下さい。あなたの心に、印章として。あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。』(雅歌8:6) ここに、花嫁の花婿に対する愛慕が記されているが、イエス様は十字架上で、その手・その足に、脇腹に、刻みつけて下さった。私達の身代わりとなって下さった、愛のしるしを。
 『私の愛する方は私に語られた、「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう。』(雅歌2:10 林直訳) ここの「語られた」は完了形だが、ヘブライ語の動詞は生きていて、過去から現在へ、未来へ飛び越えて来る。過去、幸せだったあの時、愛するあの方が言ってくれたあの言葉、その時の彼の姿、その言葉を聞いた瞬間に感じたしあわせな感覚が、今へとオーバーラップし、あの時の幸せな気持ちに浸る事が出来るように、聖書に書いてある言葉は、その幸せな気持ちが過去から今へとオーバーラップし、新約のイエス・キリストへと会う事が出来る。彼の言葉は、昔も、今も、未来も、ずっと生きているからだ。
 私達も、聖書を開く時、花婿であられるキリストが、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のように、時代と空間を飛び越え、十字架の激しい苦しみと悲しみを乗り越え、私達の所に希望をもたらす素晴らしい花婿として、すぐに飛んで来て下さる。あの時代も今も、昨日も今日も、そして未来も、変わらずに。
 主は今も変わらず語られる。「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう」と。
  私達は、このパッションの主に対し、無感動・無感謝であってはならない。生ぬるくあっては、ならない。
雅歌書の花嫁のように、私達も答えるべきである。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(韓国語:わたしはあなたに属し、あなたはわたしに属している)」(雅歌6:3) 十字架で死ぬ程の情熱をもって愛して下さったイエス様の愛に、情熱的に答え、愛し、愛されて行く皆さんでありますように!
 

 

主日礼拝
全てを癒やし、いのちの水で満たして下さるキリスト(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は、エデンの園で善悪を知る知識の木から食べて以来、神から離れた「善悪判断」という破綻した”ものさし”で物事を判断し、狂わせ、破綻するしか無かった。昨今人類を脅かしているコロナウイルスも、また生活の中のあらゆる労苦や痛み、死は、全てこれが原因である。しかしその全てを治すお方がおられる。
 
 初めに、「ことば」がおられた。「ことば」は、神と共におられた。「ことば」は、神であられた。(ヨハネ1:1)
この人格あることばは、ギリシア語でロゴス、ロジック(論理)の語源で決して変わらない客観的真実である。
 この、決して変わらない真実なる「ことば」。彼が宇宙の全存在を創造された。この御方によらずにできたものは何一つ存在しない。この、全世界を創造されたロゴスであられるお方、それはイエス・キリストである。
 このお方こそ、全て存在するものを存続させ、全てのいのちの源なるお方、死んでしまったいのちを再びいのちで息吹くお方、一切の闇を圧倒的な光によって塗り替えるお方である。『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。』(4-5節)
 この、ロゴスであられるイエス・キリスト、すなわち、全存在の源であり、全て生命あるものの生命の根源であり、人の光であられるお方の、不変のいのちのことば(ロジック)によって測り直されるなら、全て、本質から外れたゆがみは解消され、あらゆる傷は癒やされ、死はいのちへと飲み込まれて行く。。。
 
 『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) このように、イエス様を信じ続けている人は、「血筋」の束縛、「肉の欲」の束縛、「人の(意)欲」の束縛から解放されて行く。それらは全て、人間の善悪判断による、本質を外した”ものさし”によるもので、もはや、それらに左右されなくなって来るのだ。
 世の人は「血筋」を重んじる。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、そうした「血筋」の束縛から開放される。また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、望まない命が「できてしまった」という事は多々あるが、自分はそういった「人の欲望の産物だ」という空しさもなくなる。また「人の意欲」の束縛、すなわち、親や誰か他人の政略的な操作によって今の自分は存在するのだ、といった空しさからも解放される。信じた人は、ただ、神の完全な愛によって、神の子として愛される存在として、今もこれからも永遠に存在するのだ、と確信し、解放され、全く自由を味わうのだ。
 
 太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人から共感を得た。全存在の源である「有る」お方を持たない人が、サタンの言葉に惑わされるなら、そんな言葉に同意してしまう。神の敵・サタンが、人を破壊させる最たる言葉は、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならない、である。それを全くもって打ち消す、超・積極的なことばが、全存在の根拠であられるキリストの言葉である。
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無い。
 イエス様は、人が存在する前から、人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人がご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる覚悟で人を救おうと、なんと、永遠の昔から愛をもって定めておられたのだ。その意図の中で、人は創造されたのだ。(エペソ1:3-6)
 この御方のことばを豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。
 
 イエス・キリストというが加えられた測りで測り直して行くなら、狂っていた全ては直って行き、いのちの水が湧き出て、死に満ちていた所は、いのちに満ちた所となり、そのいのちにおびきよせられて来る。
 その完成形が、天国の、水晶のように光るいのちの川である。この川は神と小羊との御座から出て、その両岸にはいのちの木があり、毎月、十二種の実を結び、その葉は諸国民をいやす。(啓示録22章)
 今、世界は死がはびこり、エデン以来受けてきた労苦や痛みにあえいでいる。そんな中、私たちは全く積極的なことば、いのちの源であり、人の光であられるイエス・キリスト、すなわち御言葉を、豊かに住まわせ、死をいのちへと、闇を光へと飲み込んで行き、いのちの水の川を豊かに流しだして、周りをいのちで満たして行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
 

主日礼拝
エリヤのように次世代を起こす働き人となるために(1列王記19章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 預言者エリヤは、不法と偶像崇拝に満ちたイスラエルの信仰復興のために大いに働き、時代を変える王や預言者を任命した。今の時代、エリヤの働きが必要である。今回は列王記より、エリヤの恵みを得たい。
 
 エリヤは、国と時代が不信仰に傾く中、熱心に主に仕え、アハブ王お抱えのバアルの預言者450人と対決し、祈りによって天から火を降し、3年半も閉ざされていた天から、再び雨が降るようになった。人々はこぞって「主こそ神です」と叫び、その時代の信仰が、一気に回復したかのように見えた。しかし、たった一人の女、アハブの妻、イゼベルの一言によって、彼が長年して来た労苦は、一瞬でひっくり返されてしまう。
 『イゼベルは使者をエリヤに遣わして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々の一人の命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰して下さるように」。』(2節)
 イゼベルは非常に効果的に、偉大な預言者の心を挫く事に成功した。エリヤはそれを聞くと、逃げ、大いに意気消沈し、「主よ、もはや充分です。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(4節) と願うまでになってしまった。主はイゼベルや、彼女の勢いに押されて信仰をさっさと捨ててしまった者達はすぐに取り扱う事はせず、ただ気落ちした主のしもべに速やかに助けの手を延べられる。
 
 エリヤは全てを放り出し、木の下で眠っていた。そんな彼に主が送られたのは、彼が願った「死」ではなく、焼いたパンと水だった(5-6節)。イエス様も弟子達に、同じようにされた。弱さ故にあやまちを犯した傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて調理して下さった魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)
 主はそのようなお方である。そのような直接の特別な養いは、主のために労して働く働き人の特権である。
 『主の使は再びきて彼に触って言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(7-8節) エリヤには、まだまだ多くの成すべき「主の使命」があった。
 たとえ傷つき、疲れ、倒れてしまっても、主はその人に焼いたパンを下さり、それをいただく人は、どんな険しく長い道のりも進み行く事が出来、人にはとうて出来ない「主のわざ」をするようになって行く。
 私たちも疲れ果ててしまった時、祈るべきである。主よ、エリヤに下さった焼いたパンを下さい。不法な者を沈黙させなければなりません。救わなければならない人が多くあります。私が空腹で貧しいまま、どうして働けるでしょう。この時代この国で戦っておられる勇士たちを力づけ、栄光の働き人を力づけてください、と。
 
 そしてエリヤは神の山ホレブに到着し、主の御前にひとり立つ。主に激しく訴えるために。彼は主の前に出て、自分の思いを全て投げ出し、一対一で交わった。激しく。そして親密に。
彼は主と激しく交わって行く内に、徐々に癒やされ、ついに彼は働きに戻る事が出来るようになる。
それ以降、彼は、もはや独りで戦うのではなく、主のために戦う次世代を建て上げる働きに入っていく。
 彼はその後、彼の後継者であるエリシャを得る。主は、ダマスコのハザエルに油を注いで王とせよ、と命じられたが、ハザエルを王としたのはエリヤではなく、後継者のエリシャだった。さらにその後、エリシャの「預言者のともがらの一人」が、ニムシの子エフーに油を注いだ(2列王記9章)。「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは「預言者学校の生徒」と訳されている(2列王記2:3-5)。エリヤはかつて、預言者は全員殺され、自分しかいなくなった、と思ったが、彼は後に預言者学校を立ち上げ、多くの若手預言者たちを育成して行った。これが、主から直接の養いをいただき、主と一対一で親密に交わった者の力である。
 
 この時代、あまりに不法がはびこっており、主の働き人は、心が折られてしまいそうな事柄は沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように、主から直接のパンをいただき、また、主と一対一で親密に交わるなら、主は必要な人と、モノと、ミニストリーを与えて下さる。 先月、天声メンバーは、テフィリン・インターナショナル・アカデミー(TIA)を立ち上げた。テフィリンによって御言葉の子を育てて行く、現代版預言者学校である。この時代、エリヤの霊の二倍三倍が与えられ、新たな次世代にテフィリンという油を注いで王とし、預言者とし、勇士する働きをし、バアルに膝をかがめていない七千人共々、不法と偶像礼拝に満ちた日本を、主の福音で塗り変えて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
乳と蜜の流れる地に入るための査定:ダバル(民数記13:27-14:38)
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週報/メッセージ(説教)概要

 『彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。』(民数記13:27) イスラエルに行ってみると、そこはまさに乳と蜜の流れる地だと感じた。その地のくだものは、太陽と水にふんだんに育まれ、刺すようなみずみずしさで溢れていた。南のベエル・シェバやエルサレムは砂漠の気候なのに、水が湧き上がり、北のガリラヤ湖周辺は非常に潤って緑豊かで、さらに北端のダンの地、ヘルモン山周辺では豊かな水の流れが出ていた。
四国ほどの面積の中に春夏秋冬があり、砂漠も潤った地もあった。まさに山と谷の地、天の雨で潤っている地、主の目がいつも注がれている地であった。そしてそこは、同時に、人をテストする地でもあった。
主は、乳と蜜の流れる地に入る人を、テストされる。果たしてそこの良きものを享受するに値するかどうかを。
  本日の書、「民数記」の原語はベミッドバルבמדבר、「荒野にて」という意味である。「ダバルדבר(ことば)」に場所を表す前置詞「メムמ」がつくと「ミットバルמדבר(荒野)」、さらに前置詞ベイトב(〜にて)がつくと、「荒野にて」の意味となる。民数記の内容は、エジプト(世)から約束の地(神の国)へ行く途上の中間地帯、荒野(ミットバル)にて、神がテストし、約束の地に入るに値する人と、そうでない人とを振り分けた記録でもある。神はまず、御言葉という「大正解」を教えられる。そして、目の前に起きる事象や出来事に対し、人がどのダバル(ことば)を選択し、発したかによって、採点された。私達も同じように、この「世」という荒野にて、目の前に起きる諸々の事象に対し、どのダバルを選択して行くかによって、採点される。
 そこは乳と蜜が流れる地であったが、『その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。』(13:28-29) 主は、強靭な原住民をテスト材料に用いられた。ついこの間までエジプトで隷属して生きてきたイスラエルの民には、到底勝ち目の無い相手である。
 『その時、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼と共にのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。』(民数記13:30-31)
 カレブとヨシュアは「必ず勝つ」と、他の10人は「攻めのぼる事は出来ない」と、ダバル(言葉)を発した。
自分達の力では到底勝ち目の無い相手なのに、ヨシュアとカレブは、なぜ「必ず勝てる」と判断したのか。
それは神の命令は元々「行け」であり、そして自分達と共に行かれる神は、その者達より遥かに強いからだ。
 他の十人は、主の命令と主の力をキレイさっぱり忘れたかのように、自分と彼らとを比較し、主が示された地を「悪く」言いふらした。そこは自分たちを滅ぼす地だ、そこに住む者達は強大で、それに対し、自分達はいなごのように思われた、と(13:32-33)。人々は、そのダバルに感染され、次々に不平・不満を言い出す。
『何故、主は私達をこの地に連れてきて、剣に倒れさせ、また私達の妻子をえじきとされるのであろうか。』(14:3) 主の言葉を捨て、人由来の弱音や不平、文句を言った人達は、そのダバルどおりにその身に災いが起き、荒野にて滅びた。ただ神のダバルを握りしめ、御言葉を発した人達だけが約束の地を受け継いだ。
  言葉(ダバル)。それは感染力を持つ。ダバルの母音が変わってデーベルという発音になると、ペストのように広まる「疫病」の意味になる。詩篇91篇に書いてある。主に対し「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と宣言する人を、主は狩人のわなから、恐ろしい「疫病(デーベル)」から、救い出される、と。
民数記にて、多くの人を滅びに導いてしまった人間の言葉(ダバル)には感染力があり、それがデーベル(疫病)へと実体化し、彼らを滅ぼした。それを消毒し、いのちへと導く特効薬は、神のダバルである。
 今回、私たちも試された。2/22以降、イスラエルでは日本人・韓国人はコロナを持っているかのような”ダバル”が蔓延し、私達はホテルの隅に隔離され、以降の行程が断念された。軍に拘束される危険性もあったため空港に逃れたが、あちらこちらに追い返された。しかし私達は誰も、絶望の言葉や、「どうして私達をここに連れて来たのか」と文句を言わなかった。私達の一人が38度の熱があると診断され、全身防護服の検疫官に連れて行かれ、一緒にいた私達も隔離を言い渡された時も、また、用意された航空券が購入できない程の高値であった時も、ただ神のダバルを宣言し、祈り続けた結果、主は、とても素晴らしい待遇で手配して下さり、私達は全員揃って、無事、日本に帰る事が出来た。主は、試される。私達が、この世という「荒野にて」、どのダバルに場所取りするかを。それによって、約束の地に入れるか入れないかが決まる。
デーベルに侵される事なく、神のダバルを宣言し、いのちに溢れた地を受け継ぐ皆さんでありますように!
 

主日礼拝
災いの日を喜びの日に変えるために(エステル9-10章)
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 年明け以降、エステル記から恵みを頂いている。本日、その最後である。ユダヤ人の敵ハマンは、ユダヤ人を滅ぼす日を12月13日と定め、さらにモルテガイも木にかけて殺害しようと企んだ。
 しかし、時間と空間の主権を支配しておられる主は、主に助けを求める神の民を、敵の思いのままにさせる事をしない。主は紙一重の差で、モルテガイに大きな栄誉を与え、またハマンの全ての悪行を暴き、彼がモルテガイを吊るそうとして立てた木に、彼自身がそのまま架けられた。こうしてモルテガイは、彼が建てていなかったハマンの家を譲り受け、また、ハマンが得ていた地位と権威も、ごっそりそのまま受け継いだ。
 ハマンは死んだが、彼が制定した「ユダヤ人を滅ぼせ」というメド・ペルシヤの法令は、一度発布されたら、取り消す事はできない。そこでモルデカイは、その法令に勝利する法令を、すなわち、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらむ者は、逆に滅ぼしても良い、という法令を、王から与えられた権限を行使して制定した。
 こうして、その法令に則って行動する人には、いのちの救いと、敵の財産を没収する特権が与えられた。
しかしもし、この王の権限を行使せず、敵が勝手に制定した「死の法令」を放置したままなら、滅んでいた。
 
 天の法令も、メド・ペルシヤの法令と同様、一度発布されたら取り消せない。敵であるサタンは、人をそそのかし、人を罪に陥れ、罪と死の法則を招いた。罪を犯した人は、必ず死ななければならないが、天の王であられる神は、それに勝利する法令を発布された。すなわち神は、御子イエス・キリストを、全人類の身代わりに十字架に架け、そして彼を信じる信仰によって、罪は帳消しにされ、滅びを免れ、神の子としての特権が与えられ、サタンから大いにぶんどって良いという「いのちの御霊の法則」(ローマ8:1)が制定された。
 この、王から与えられた特権を行使するなら、人は救われるだけでなく、サタンから良いように分捕られ続けて来たものを、逆に、大いに分捕り返して良いのだ。しかし、この特権を行使しないなら、その人は死の法則によって滅ぼされてしまう。サタンが人を陥れた「罪と死の法則」は、取り消されていないからだ。
 
 さて運命の12月13日、ユダヤ人達は、モルテガイが定めた新たな法令に、固く立ったゆえに、ユダヤ人の敵は、逆にユダヤ人によって滅ぼされた。その報告がもたらされた王は、エステルに言った。
 『「さてあなたの求める事は何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞き届けられる。」エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。』(エステル記9:12-13)
 あの優美なエステルが、そんな事を願い出たのか、と、驚かれるかもしれない。しかし、神に敵対し、人のいのちを踏みにじるようなサタンの仕業は、私たちは躊躇せず、徹底的に滅ぼし、見せしめにするべきだ。
 そもそも、エステルが願ったこの願い、すなわち、神の民に敵対する者の根絶は、はるか昔、サウル王の時代に、成されるべきだった。サウル王はアマレク人を根絶するよう、主から命じられていたが、彼はアマレクの王アガクを根絶する事を惜しみ、それで災いの根を残す事になってしまった。(1サムエル15章)
 アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」で、弱い者を狙い撃ちするのは、サタンの性質である。
アマレクは、エジプトから出てきた会衆の、後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにし、また、ダビデと部下達が戦争で留守中、天幕に留まっていた女子供と財産を狙い、奪って行った。
 アガグ人ハマンは、このアマレクのアガグの子孫であると言われている。ハマンは、権力を握ったとたん、イスラエル民族を皆殺しにしようと企んだ。もしサウルの時代、サウルが主から仰せられた通り根絶していれば、アマレク人の末裔・アガク人・ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。
 私たちも、私たち自身の中にある、自分を滅ぼしかねない性質は、徹底して滅ぼし尽くすべきである。
そして、弱い者いじめをして圧政しようとする性質には、断固、立ち向かうべきである。王はエステルに、「何をしてほしいのか、求めなさい」と言った。天の王である主も、私達に「求める」事を願っておられる。
 私達は、救うべき人を救うべきであり、滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くすべきである。それをしないなら、災いの根っこが育って手がつけられなくなってしまう。私たちは見分ける知恵を求め、遂行するべきだ。
 エステル記10章は、アハシュエロス王の勢力がモルテガイの力にあずかっている事を暗示している。
エステルやモルテガイのように、聖なるプライドを持ち、王の王・イエス・キリストの喜びとなる事を行い、その時代に大いに用いられ、栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
闇の中で病が忍び寄る時の過ごし方(詩篇91篇)
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週報/メッセージ(説教)概要

今、中国武漢に端を発するコロナウイルスで全世界が恐怖に包まれている。ウイルスは目に見えないし、今回のウイルスは潜伏期間が長いので、一体誰が感染しているのか、もしかしたら自分も?と、死の恐怖が闇の中から忍び寄っているような恐ろしさがある。店からも、マスクや消毒液は売り切れている状況だ。
 この時期、私達キリスト者は、いかに過ごして行くべきか。今日、あらゆる災いから守られるコツを得たい。
 
 結論から言うと、最も有効な防護方法は、詩篇91篇を、各自、信仰を混ぜて宣言し、いと高き神に身を避ける事である。マスクは売り切れるし、ウイルスはマスクの隙間からも入って来るが、信仰の大盾は売り切れる事が無く、迫りくるウイルスも、悪霊が放つ火の矢も、無効化させられる。毒を受けても害を受けず、むしろ病人に手を置けば、病人は癒やされるのが、信じる者に与えられるしるしである。(マルコ16:18)
 詩篇91篇には、とても強力な保証が書いてある。いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は、闇の中を歩き回る疫病も、真昼に襲う滅びをも、千人の人が右手に、万人の人が傍らに倒れる時さえ、災いが襲うことはない。 第2次世界大戦下、イギリスのウイットルゼイ大佐は、この詩篇91篇を部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせた結果、銃弾が飛び交う戦場で5年間、一人の死者も出さなかった。
 主は、その御翼の陰を避け所とし助けを求めに来る人には、御翼を広げ、その人を覆ってくださる。神の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も恐れることはない、と書いてある。
 
 人は、蔓延する疫病は、無差別に誰も彼もに襲いかかる、と思いがちだが、主は無差別なお方ではない。出エジプト記や民数記などを見ると、災いや病が起きる時、必ず人の側に、主に対する罪があり、また、病や災いで真っ先にやられた人は、主が立てられた指導者モーセに逆らったり、文句を言ったり、主の御言葉に逆らった人達だった。病がはびこる時、そこに込められた主のメッセージに、耳を傾けるべきである。
 コーエンの中国宣教をした方からの報告によると、武漢は2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させた地域で、中国宗教規制政策の模範地指定までされた。年末には、ほぼ全てのキリスト教宣教師が追放されており、中国全体のどの地域より、キリスト教弾圧がひどかったという。
 しかしこの度のウイルス騒ぎでは、宗教規制を実行する部門の最高位だったその人が、真っ先にウイルスで死んだという。「あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。」(詩篇91:8)
 主は、好きこのんで人々に災いを下されるお方ではないし、災いは誰にも彼にも降されるわけではない。
主に忠実な人は、災禍のたとえ中心地にいても、無事である。
 イスラエルが罪を犯し、サタンがダビデをそそのかして民の数を数えさせた時、イスラエル全土で、7万人もの人々が疫病で倒れた時、御使いがエブス人・オルナンの打ち場に立ち、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。その災いの中心地である打ち場にいたオルナンは、何の害も受けず、その傍らで麦打ちしていた。そこに主君・ダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
 オルナンは、普段から仕事に、また主が立てられた権威に忠実であったばかりではない。彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えががあった(22節)。 このように忠実で、主を愛する人を、主は助けて下さる。
 『彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。』(詩篇91:14)
 また、人々を救うために働き、執り成し祈る人にも、主は守りの保証を与えて下さる。モーセの時代、人々が主に逆らった故に疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは祭壇から火を取り、死んだ人達と生きている人達の間に走って行って祈りの香を焚いた時、疫病が止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは生きている人と死んだ人の間に立ったのに、彼は病とは無縁だった。
 
 私達は、まことのほふられた小羊であるキリストの十字架の血潮の元に、避けどころを求めるべきである。
オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実で、いつも主を愛し、主に捧げる心を持ち、そしてアロンのように、苦しんでいる人達のために祭司としてとりなし祈り、この事によって主への悔い改めが沸き起こり、主への栄光が捧げられる形で、収束に向かう事を祈りつつ、この時期を過ごす皆さんでありますように!

主日礼拝
滅びの法則は、キリストのいのちの法則で対抗せよ(エステル記8章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 主から大きな恵みを頂いて、大きく用いられる性質とは何か。エステル記から引き続き恵みを得たい。
 モルテガイを木にかけようとしていたハマンは、逆にその木に彼が架けられ、ハマンの家は王妃エステルに与えられ、ハマンが握っていた王の指輪(実印)は、そのままモルデカイに渡された。(エステル記8:1-2) 
 まさに、私達が満たしていない良い物が満ちた家を得させ、私達が掘ったものでない井戸を得させ、私達が植えたものでないぶどう畑とオリーブ畑を得させて下さる、という御言葉の通りである。(申命記6:11)
 主は、時間と空間を支配し、主を求める人々には、素晴らしいタイミングで助けを送り、主に敵対する者には、その報いをされ、こうして主は、主の民を特別扱いして下さる事を世界に示し、栄光をあらわされる。
 
 ハマンは死に、モルデカイは支配の実印が渡され、ハマンの家も与えられたが、まだ一件落着ではない。
このままでは、ハマンが定めた神の民を滅ぼす日・12月13日に、モルデカイもユダヤ人も殺されてしまう。
そこでエステルは、この今だ有効な「滅びの法令」を取り消してもらうため、再び王に直訴した。しかし王が言うには、メド・ペルシヤの法令は、一度発布してしまったら消す事は出来ない。だから、ハマンが定めた「滅びの法令を打ち滅ぼす法令」を新たに定め、王の名で実印を押し、有効化させなさい、と言った。
 天の法令も、メド・ペルシヤの法令と同じように、一度発布されたら、取り消せない。人は罪を持っているなら、必ず死ななければならない、という天の法令は、決して取り消す事ができない。
 ハマンは最初、ユダヤ人を殺害し、その富を分捕ろうとしたが、サタンも同じ目論見をした。サタンは人を妬んでそそのかして、罪へと陥れ、死と呪いを招いた。罪を犯した人は必ず死ななければならないが、憐れみ深い神は、それに対抗する法令を発布された。すなわち、私達の罪の身代わりとなって、木に架けられ、死なれたイエスキリストを信じる者は、その信仰によってサタンに勝利し、罪は帳消しにされ、滅びを免れ、神の子としての特権と栄誉が与えられる。主は、この素晴らしい「いのちの御霊の法則」を制定された。
 ローマ8:1を、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩み続けている(現在形分詞)キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」である。
サタンが定めた罪と死の法令に対し、何も対策を実行しないままでは、そのまま死の法則が遂行されてしまう。だから私達は、勝利者であるキリストに留まり続ける事、いのちの御霊の法則に乗り続ける必要がある。
すなわち、自分の思い・意思・感情は脇に置き、御言葉であるキリストご自身である御言葉を優先させる。
そうすると、自分の資質や能力、努力などによるのではない、キリスト由来の、力ある「法則」が動き出す。
 飛行機に乗るなら、重力の法則を打ち負かして飛行して行くように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則を打ち負かし、死をいのちへと飲み込んで行くのである。主は、滅びの法則に束縛された私達に、人の資力によらぬ、キリストのいのちの法則による解放を与えて下さったのだ。
 
 モルデカイは次の法令を発布した。すなわち、ユダヤ人の敵は残らず根絶やしにし、その家財を分捕って良い、という法令を。(9-11節) その良き知らせが、早馬によって世界中に告げ知らせられた。
 同じように今、イエス・キリストが定めた勝利の良き知らせ、すなわち福音(エウァンジェリオン)が、世界中に届けられつつある。キリストはサタンを打ち破り、圧倒的に勝利し、サタンの家財を、大いに分捕って良い、という、勝利の良き知らせ(福音)は、今、全世界に告げ知らされ、私達はその使者となっている。
 しかし法則は、ただ単に知っているだけでは、効力は発動されない。ハマンが定めた法令に対抗手段を講じず、そのまま置いていたなら、やがて滅ぼされてしまっていたように、日々迫り来る罪や死、病や困難に対し、何の対抗手段を講じなければ、やがて滅ぼされてしまう。私達は日々迫り来る罪や死は、イエス・キリストの名によって拒否し、イエスにつく者として、勝利を宣言し、そして、信じた通りに行動するのだ。
 モルデカイは栄誉が与えられ、青白の王服と金の冠を身に帯びて、王の前から出てきた。(15節)
同じように私達も、王族の祭司の特権と栄冠が与えられ、王として統べ治めるのだ。(1ペテロ2:9)
だから今、私達は主イエス・キリストが定めて下さった、いのちの御霊の法則に、しっかり根ざすべきだ。
サタンは一度、罪と死を人類に導入し、人類はそれに何ら対抗できなかったが、しかし今や主イエス・キリストが勝利し、彼にあって堂々と対抗できるようになった。私達は彼にあって必ず勝利し分捕る事が出来る。
この法則に従って、勝利の内に歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
未体験の莫大な恵みをいよいよ得るにあたって(エステル記5:1-5)
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 自分で努力して建てなかった素晴らしい町々や家々、自分で努力して植えなかった、素晴らしくて良い畑を与えるために、主の側は、いつでも準備が整っている。ただ私達の側が、それを受ける体制を整えなくてはならない。果たして私達は、今まで見た事も聞いた事も、手にした事も経験した事も無いような、素晴らしくて大きな栄誉を、また富を、力を、いよいよ得る準備は整っているだろうか? 今回、このような莫大な恵みを頂く性質とは何かを、エステル記を開いて、共に恵みを頂きたい。エステルは見事、王の心を射止め、王妃の座を獲得し、王から三度も「望むなら、王国の半分でも願いをかなえてあげよう」と言われた。
 
A,エステルの一番際立った性質は、「従順さ」である。彼女は霊的な育ての親・モルデカイに従順であったし、また、王の嗜好を熟知している宦官・ヘガイの言う事に従順であった。王妃の候補であった女性には、願うものはみな与えられ、それを持って王宮に行く事が出来たが、彼女は、ヘガイが勧めたもの以外は、何も求めなかった。それでエステルは、全て彼女を見る者に喜ばれた。(エステル記2:15)
 願うものはみな与えられる、という場面であっても、自分の好むものは何も求めない。ただ、従うべき人の助言に従って、それを身に着け、王の喜びとなるものだけを求めた。私達も、自分の願望ではなく、霊的な助言に従って求め、王の王であるキリストの喜びとなる事だけを求めるなら、やがて莫大な恵みを頂ける。
B,『わたしがもし死なねばならないのなら、死にます』(4:16) この言葉は、王の次の権力者・ハマンが、ユダヤ人を絶滅させるための法律を、王に成り代わって発令した時、モルデカイが「王に直訴するように」とエステルへ求めた時の、彼女の言葉である。王からは呼び出されていない状態で、王の元へ行く事は、死ななければならないが、王の好意を得、王が笏を差し伸べるなら、その時は助かる。彼女は、それでも行った。彼女は、自分が王妃だという身分である事に安んじる事なく、神の民のために死ぬ覚悟を示したのだ。
C,『三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。』(5:1)
 エステルは死の覚悟の断食をし、三日目になった時、王妃としての権威を着て、王の居る方へと立った。
 夫は、妻が従順を示し、夫の喜びとなる事をつとめ、「わたしはあなたのものです」と、その瞳でじっと見つめられると、夫は彼女を、ティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしく、そして、旗を掲げた軍勢のように「恐ろしい」と感じるようになる(雅歌6:1-10)。
 エステルは、死を覚悟して、王妃の衣装を着、王の前に出て行った。その時のエステルは、どれほど王の目に美しく、愛らしく、そして、恐ろしく見えただろう。ここまでされると、王は、行動せざるを得ない。
D,王はエステルに好意を示し、金の笏を彼女へ差し伸べ、彼女は笏の頭に触れた。そして王は言った。
E,「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。
 
 以上が、エステル流の、手にした事も、経験した事も無いような、素晴らしく大きな栄光を頂く性質である。
王の王であられる主イエスと、聖霊のアドバイスに「A'.従順」であり、自分自身の欲求は、十字架の「B'.死へと明け渡し」、「C'.三日目に、王なるキリストから与えられている衣を着て、王の前に進み出る」のだ。
 本来、聖なる聖なる王、主イエスの前にそのまま進み出るなら、死ぬ以外には何も無い。しかし、私達がA'-C'を保って進み出るなら、「D'.主は私達に好意を示し、その支配の象徴である、鉄の杖を差し伸べて下さる。」私達もその杖の頭に触れ、そうして、私達にも諸国を支配する権威が与えられる。(黙示録2:26-27)
 そうすると、王は言われる。「E'.あなたが望むなら、王国の半分でも、願いをかなえてあげよう」、と。
 しかし、国の半分でも与える、という言葉を頂いた時、有頂天になって、さっさと調子に乗ってはならない!
エステルはさらに奥ゆかしく、「もしも王様がよろしければ、宴会に、ハマンと一緒に起こし下さい」と言った。
彼女の中では、心底、王の喜びとなる事が、優先なのだ。いかに、自分の民族を滅ぼし尽くそうと企んだ、あの汚らわしいハマンを一緒に招かなくてはならない、としても。それほど、エステルの心は、王を喜ばせたい、という一心だった。全く見せかけではない、その「美しい性質」こそ、真に自分のものとすべきだ。
そのためには、日頃から、この王として、また王妃としての、優雅な美しい素養を培っていなくてはならない。
 見た目にも、心の中も、立ち居振る舞いにも、言葉遣いも、タイミングも、気品においても、全てにおいて美しいエステルのように、柔和な、穏やかな、心の中の隠れた人柄を飾りにする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝
キリストにあって新しくされた人の特権(マルコ1:9-11)
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週報/メッセージ(説教)概要

 新しい年が始まった。この記念すべき2020年最初の主日、かねてから天声の養いを受けていたMajid兄弟が、洗礼を受ける事になった。天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間は、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、主への礼拝によって年を初める。洗礼も全く同様で、過去の自分を、水の中に沈めて死へと渡し、一切を精算し、キリストにある新しいいのちで生き始める新たな出発である。
 洗礼を受けて主に繋がった人には何が起きるのか。それを学ぶ事は、この新たな始まりの日に相応しい。
本日、主イエス様が洗礼を受けられた場面から、洗礼を受けた私達はどんな恵みを受けるのかを知りたい。
 
 『その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのをご覧になった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(マルコ1:9-11)
 イエス様が洗礼を受けられた時、3つの経験をした。すなわち「1,天が裂ける」、「2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る」、「3,天からの声があった。その内容は、あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」 これら3つは、洗礼を受けて主に繋がった私達も、経験する事である。
 洗礼は、罪に対して死に、神に対して新たに生きる誓いである。罪が元々無いイエス様は、洗礼を受ける必要は無かったのに、敢えて受けられた理由は、私達全ての代理として、また長子として、模範を示されたのだ。私達も彼に倣うように、と。全く同じ理由で、イエス様は十字架で処罰を受けられ、また死なれた。
 だから、イエス様が洗礼を受けられた時、彼が経験された全ての事は、私達・キリストに繋がった全ての兄弟姉妹も経験する「特権」である。だから、私達も洗礼を受けた時、次の事が起きる。
 
 1,天が裂ける(スキゾー): この非常に特殊な出来事は、イエス様が十字架にかかって息を引き取られた時にも起きた。神殿の幕が真っ二つに「裂け(スキゾー)」、神殿の最も聖なる領域である「至聖所」を隔てる幕が、破かれたのだ。キリストを通して、聖なる天国への道が、開通したのだ。だから十字架以降、誰でもキリストの御名を呼ぶなら、天国が裂けて、私達に向かって開かれるのである。イエス様は「わたしの名によって祈れ」と言った。なぜなら、イエス様の御名によって、天が開かれるからだ。これは全て、洗礼を受けてキリストに繋がった人々に与えられる特権の第一号である。
 2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る: イエス様は言われた。『よくよくあなたに言っておく。誰でも、水と霊とから生れなければ、神の国には入る事はできない。』(ヨハネ3:5) すなわち、水のバプテスマを受けると、今までの、古い、罪に従って歩んできた自分は死に、霊によって新しく生まれ、キリストと共に永遠の神の国へと入って行く生き方になってゆく。聖霊は、人には見えないが、霊によって生まれた人は、聖霊の声がわかり、それを感じ、それに導かれ、神の支配領域(神の国)へと入っていく。しかし、生まれながらの肉に従って生きる人には、聖霊は決して分からない。このように、バプテスマを受けた人は、賜物として聖霊をいただくので、霊に導かれ、最善の道を歩んで行くようになる。
 3,天からの声を聞く: 洗礼を受けて霊が開かれて来ると、聖書を読む時、 あたかも天国が開け、神の言葉が自分に目がけて降りてくるような心地がする。そして、その、天からの言葉の最たる内容は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」というものである。世は私達を拒絶しようとも、またたとえ親に見捨てられたような経験を持っていたとしても、天の父なる神から受け入れられ、喜ばれている実感を持つ。
この、絶対的な平安の土台に立って、新しい人生をやり直して行くのだ。そして洗礼を受けた人は、神に愛される「神の子」として、また、神に似た者・神にならう者となって行く。
 
 この新しい年、私達も初心に帰り、天国に繋がった者として、新しい出発をするべきである。神の子が世から従わされたり、世からリードされたりする事は、本質ではない。私達は神に愛され、神に受け入れられた「神の子」として、与えられている祝福の命令、すなわち、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)という、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令に従って歩む者達だ。世を統治する者として、また、悪しき者に対しては勝利者として進んで行く今年でありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
 
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