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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主を尊ぶ者は尊ばれ、軽んじる者は軽んじられる(1サムエル記2:30)
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 いよいよ今週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義が東京にて行われ、天声の働き人はその奉仕と学びに行く。サムエル記を学ぶ上で知っておくべき重要なキーワードが3つある。それらは、キリスト者が正しく人生を送って行く上でも重要な事柄である。今回、その3つのキーワードを学びたい。

1つ目のキーワードは「間(בֵּין:ベイン)に立つ」という言葉である。サムエル記には祭司、預言者、そして王が登場し、それぞれ活躍するが、彼らは皆、神と人の「間に立つ」ために神から任命された者達である。
預言者は神の言葉を人に届け、祭司は人々に代わって神に執り成し、王は神に代わって正当な統治を地上で行うという「役割」があり、それは、私達キリスト者の役割でもある。キリスト者は皆、王族の祭司とされ、闇から光へと招いて下さった方を伝える役割が与えられている事が書いてあるからだ。(1ペテロ2:9)
しかし、王や祭司、預言者という特権的な「地位」だけを求め、「役割」をないがしろにするなら、その者は神から地位を剥奪されてしまう事例もまたサムエル記に記されている。大祭司エリの息子・ホフニとピネハスは、祭司の務めをないがしろにし、その特権を乱用して神への捧げものを人々から横取りし、神に仕える女性に手を出して神を軽んじた。その結果、この一族は祭司職という地位を剥奪されてしまった。(2-4章)
また、サウル王は、イスラエルで最初の王として神から任命されたのに、神の代理として正当な支配をせず、神の言葉を退けたため、神は彼を王座から退けた。それでもまだ王座の「地位」に固執し、新たに王として任職されたダビデを殺そうと何年も追い回した結果、非常に悲惨な最後を遂げてしまった。(15-31章)
世の人は「地位」を求めるが、私達は神と人との間(ベイン)に立つ「役割」を忠実に果たすべきである。そのような人にこそ神はさらに「地位」与える。もし地位に固執し特権を乱用するなら、取り上げられてしまう。

二つ目のキーワードは「כָּבַד:カバド」である。「カバド」は良い意味で用いられる場合は「栄光を捧げる、あがめる、尊ぶ」だが、悪い用いられ方では、「頑な・強情になる、(罪や災いが)重くなる」の意味となる。
祭司エリは自分の息子達を重んじ(カバド)、主を軽んじた為、主から言われる。「わたしはわたしを尊ぶ者を尊び(カバド)、蔑む者は軽んじる(קָלַל:カラル)」(2:30)。これは、サムエル記の重要キーワードである。
エリは後に、神の箱が敵に奪われた事を聞いた時、倒れ、首を折って死んだ。体が重かった(カバァド)からだ(4:18)。その時、彼の嫁は「栄光は去った」と言って、生まれた子にイ・カボテ(栄光なし)と名付けた。
しかし神をカバドする事には大きな報いがある。『あなたの財産と、全ての産物の初なりをもって主をあがめよ(カバド)。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒槽は新しい酒であふれる。』(箴言3:10)
また、もし主の聖日に自分の楽しむ事をせず、この日を尊び(カバド)、口を慎むなら、その人は主の喜びに溢れ、良い地を受け継がせ、高い地位を乗り通らせて下さる事が約束されている。(イザヤ58:13-14)
結局、神をカバドせず、神を軽んじて、自分の欲望にカバドを置くなら、神から捨てられ(マアス)てしまう。

三つ目のキーワードは、その「捨てる(מָאַס:マアス)」である。イスラエルの王政は人々が神を退けて(マアス)、人間の王を欲しがった所から始まった(8:7)。神はそれ故、王の圧制のために苦しんだとしても助けない事を、予め警告したが(11-18)、それでも民は聞かなかった。それで彼らは、後に苦しむ事になる。
王となったサウルは、神から託された王権を正しく行使せず、神の命令を二度もマアスした(退けた)ので、ついに神から言わる。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てた(マアス)ので、主もまたあなたを捨て(マアス)て、王の位から退けられた。」(15:23) 御言葉に聞き従う事こそ、神に喜ばれる最良のいけにえなのだ。

結局、御言葉を捨てる人は、神から捨てられ、御言葉を重んじる(カバド)人は、神からカバドされる。
神に召された私達は、神と人との間(ベイン)に立ち、神から与えられた賜物に従って、その与えられた役割を忠実に行使して行くなら、神からさらにカバドされ、さらに多くの賜物が与えられ、地位が高くなり、さらに神の国の働き人として重要な事に用いられていく。神に召されて栄光の務めができる事を喜び、有益な者として神にますます用いられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!

キリストのいのちの特権にあって歩む道(コロサイ2:6-15)
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 先週、4名の兄弟姉妹が洗礼を受け、新たに神に繋がって生きる決心をした。神に正しい良心を願い求めて洗礼を受ける時、聖霊という全く新しいセンサーが与えられ、そのナビゲーションに従って行くなら、どんどんきよくなり、聖化が進み、いのちが増し加わり、永遠のいのちへ至って行く事を、先週学んだ。
イエス様がバプテスマを受けた時、天が開け、聖霊が鳩のように降り、「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と、天の父からの御声があった。私達もバプテスマを受けると、イエス様が先駆けて体験されたように、天が私達に向かって開け、賜物として聖霊を受け、神に愛される子となる特権にあずかるのである。

『このように、あなた方は主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて溢れるばかり感謝しなさい。』(6-7節) 
主にあって生きる時、彼に在るあらゆる良い性質や、いのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます自身の中に体現化されて行く。キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているからであり、信じる者は、全ての支配と権威のかしらであるキリストに満ち満ちているからだ(9-10節)。
実際、先週洗礼を受けた聖徒から、早速、喜びの報告を頂いた。ガンかもしれない、と医者から言われていたので、MRI検査をしたのだが、結果を見た医者があまりに怪訝に首を傾げていたので、心配して聞いてみた所、あったはずの兆候が、全然無くなっていた、という事だった。待ち時間の間、洗礼時にもらった十字架を握りしめて「(ガンは)ない、ない」と何度も宣言したら、その通りになり、同席していた未信者の方も「神様のお陰だね」と言っていたという。まさに主の栄光である。
そればかりでなく、この1週間で、友人からもらったお守りの腕輪が勝手に壊れたり、以前会った人を意識では忘れていても霊では覚えていたり、また、料理をつくる思いが与えられ、それに従った所、とても喜ばれたり。まさに、新しいナビゲーションが与えられ、新しいいのちが息吹かれた事を早速、体験したのだ。
このように、主キリストにあって歩もうと意識する時、いのちに属する、あらゆる良き特権に与かれるのだ。

『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』(11-12節)
バプテスマによってキリストと共に死んだ、と書いてある。別にバプテスマを受けた瞬間に心臓が停止して死んだ訳ではなく、肉体は継続して生きている。一体何が死んだのか。次のように書いてある。
『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである・・・このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。』(ロマ6:3,11)  ここにある通り、「罪に対して死んだ」のだ。
ただ先週学んだ通り、洗礼は「肉体の汚れ」を除くものではない。罪へ傾く「くせ」も、犯してきた罪々の記憶も、相変わらず脳に残ったままだ。そこで、私達の側の意思決定と、努力しなくてはならない領域がある。
『だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。』(ロマ6:12-14)
「もはや罪に支配される事はない」事を、体現したいだろうか?それなら書いてある通り、それまで「罪」の方向に自分を捧げていた方向性を、神へとささげる方向へと転換し、行動して行くのだ。その期間、その人は聖霊の支配下に入り、もはや罪の支配から抜け出した状態にある。その状態を、継続して行くのだ。

もし私達がキリストに従って歩み、キリストの死と復活の中に入っているなら、彼に在るあらゆる良い性質やいのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます体現化されて行く。その時、もはや世の支配も権威も、強制力も、全て武装解除され、さらしものとされている。なぜならその時、キリストの内にあり、私達を不利に責め立てている一切の債務証書は、十字架上に釘付けにされているからだ。(14-15節)
キリストにある私達の特権は、どんなに素晴らしいものだろう。これをますます実際に体現して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!

全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
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 本日、主の導きにより、洗礼を受ける恵みにあずかった聖徒達がいる。当教会は、洗礼準備会の学びを比較的入念に行うが、それは、花嫁は嫁ぐ前に相手を知る必要があるように、私達もバプテスマ(洗礼:浸しこむ意味)によって、「ひとつ」となっていく相手であるイエス・キリストを、よく知る必要があるからだ。
学びの中で、神について、罪について、人を罪と死に陥れた敵・サタンについて、そして罪と死とサタンから救って下さるイエス・キリストについて学び、さらには復活について、永遠について学び、そして、信じた人はいかに神を中心とした生活をして行くべきかなど、キリスト者としての歩みの基本をしっかりと学ぶ。
これはとても有益なひと時で、既に洗礼を受けられた方も多く参加して来られた。それは、私達とひとつとなられるお方イエス様を知れば知る程喜びが増し加わり、真理を知れば知る程自由にされていくからだ。

キリスト者の原則は、神が「おられる」事を信じ、救い主イエス様を主とし、彼と共に歩み続ける事である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
神の「有る」(「ハヤー」の一人称単数未完了)は、過去・今・未来を超越した、永遠の「有る」である。
その、神の圧倒的な「存在させる力」が、全ての存在を存続せしめ、全て命ある者を生かし、そして私達が「神の似姿」として考え、判断し、行動する者として、存続させている。イエス様は、ご自身について「わたしは有る(エゴ・エイミー)」と何度も言って、彼こそ、人を生かし、いのちを有らせる者である事を証された。 
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
この、キリストを信じた人達の群れが教会であり、教会の土台の岩は、イエス様を生ける神の御子と告白する所にある。陰府が戦いを挑んで来てもそれを打ち負かすのが教会であり、また教会には天の鍵が与えられており、二人でも三人でもイエス・キリストの名の元に集って、共に心合わせて祈るなら、その祈りは天において繋がれ、あるいは天において解かれるほどの権威があるのだ。(マタイ16:15-19, 18:18-20)
神を礼拝する事と、教会につながり続ける事は、信仰者にとって、パンを食べるごとく必要不可欠である。

洗礼によって肉体の汚れが取り除かれる訳ではない。洗礼を受ける事はゴールではなくスタートである。
洗礼を受けても、なおも苦々しい不義の絆に留まり続けたのが、魔術師シモンである。(使徒8:9-24)
また、イエス様の弟子となって、人々に洗礼をさずける立場にあったはずのイスカリオテのユダは、イエス様と3年半も一緒にいながら、心はずっと「世」に結ばれ続けた挙句、十字架の場面ではサタンへと心を結び付け、イエス様を売り渡してしまった。私達は洗礼を受けたからと言って、彼らのようになってはならない。
『この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い(エペロテーマ:問、訴え、誓い)求めることです。』(1ペテロ3:21新共同訳) つまり洗礼は、神に繋がり続けて行く事を決心し、良い心をもって神に向かって生き続けて行くと神と人との前で表明する事であり、その決心にあって生きる事の出発点である。
パウロも言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
だから、義人とは、洗礼を受けた者ではなく、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者だ。コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのまま固まって行くように、人も、日々摂り入れる言葉・心に巡らす言葉と行動によって、その方面へと固まって行く。
それ故、私達キリスト者は、神の言葉によって固められていくべきだ。それまで、いかに悪意ある言葉によって傷つけられ、自分の思考パターンや考え方がどうしようもなく暗くマイナスな方面へと固まってしまったとしても、人をいのちある存在とさせた、力ある神の言葉に浸され続けるなら、改善しないはずは無い。

バプテスマは、今まで造り上げられて固まってしまった古く罪深い人生を一旦終わらせ、イエス・キリスへの全く新しい「いのちの歩み」始めて行く事の決心である。この度、洗礼を受けられた皆さんも、既に受けられた皆さんも、共に集い、キリストにあって日々新しくされ、いのちに溢れて行く皆さんでありますように!

書かれている御言葉を超えない(第一コリント4:6)
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 前回の父の日礼拝では、多くの教会・多くの兄弟姉妹の霊的な父となったパウロをコリント書から見た。
今回コーエンで研究した聖書箇所もコリント書で、奇しくも前回メッセージした所がそのまま取り上げれた。
今、特に主が示しておられるコリント書から、本日も学びたい。

『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。』(1コリント4:6) すなわちパウロは、「書かれている事を越えない」という事を学ばせるため、また、一方にくみし他方に反対して高慢にさせないために、コリント書を書いたのだ。
「しるされている定め」とはすなわち「御言葉」である。言葉には、境界線を引く作用があるが、御言葉の境界の内側、すなわち、御言葉の防護壁の内側は、いのちの領域であり、外側は、死の領域である。
世では色々な戦いが繰り広げられているが、キリスト者の「霊的戦い」は、複雑怪奇なものではなくシンプルである。すなわち霊的戦いとは、自分がいかに御言葉の領域内に入るか、いかに人を御言葉の領域へ引き込むか、あるいは私達の家庭や仕事の「領域」を、いかに御言葉の中に入れて行くか、という点にある。
御言葉の領域内に入っているなら、シンプルに「勝ち」であり、御言葉の境界線を超えた「あちら側」にいるなら、シンプルに「負け」である。私達は人生の決定において、現在の生活や、仕事において、御言葉のこちら側にいるだろうか。あちら側にいるだろうか。その視点で見るなら、将来の勝ち負けが見えてくる。

本日箇所の、記されている定めを「越える」という語は、ヘブライ語ではפָּסַח(発音は”パサァハ(カ)”、日本語で”ペサハ”と表記される事が多い)である。これは特に、出エジプトにおける「過ぎ越し」で用いられる語であるが、原意は「跳ねる」で、スキップする、踊る、また”どっちつかず”の意味もある。過越祭が制定された出エジプト記12章に3回登場する語だが、面白い事に、1列王記18章にも2回出てくる。
『「あなたがたはいつまで二つのものの間に「迷っている(ペサハ)」のですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
これは預言者エリヤが、850人の偽りの神々の預言者と対決する時に放った言葉である。当時、エリヤは唯一、主の忠実なしもべとして立っていたが、全イスラエルがバアルという偽りの神につくか、それともまことの神につくかを迷って(ペサハ)いた。それはちょうど、御言葉という境界線を跨いで、ある時は御言葉を引用し、しかし結局は、世の価値観に媚びて動くような、「どっちつかず」の状態だ。
そのような人はいるだろうか。その人は、かの時代のような経験をする事になってしまう。すなわち、ずっと雨が降らず潤いが無いまま、アハブのような悪い指導者や、イゼベルのような悪い女の尻に敷かれ、その食卓からこぼれるパンくずをもらうために、へつらい、預言者を自称し、都合の良い言葉だけを言うような。
出エジプトのペサハ(過ぎ越し)の時、小羊の血が塗られた戸の内側にいた人達には、災いは及ばず守られた。しかし、外側にいた人達は、死の恐怖に脅かされた。同様に、御言葉の境界内にいるならいつも安全であるが、そこから外れれば、外れる程、いのちの保証から外れ、死の恐怖にいつも脅かされる。

イゼベルの食卓からこぼれるパンくずにあずかっていたバアルの預言者達は、バアルを呼んでも何も答えられなかったので、「ペサハした(踊った:26節)」。それでも何の答えもなく、エリヤにあざけられたので、今度は互いに刀で傷つけ合ってペサハした。850人が血を流して踊り狂う。中々の壮観だが、結局何も起きない。最後には、彼らの仕えてきた神が偽物で、主こそ神である事が明らかになり、彼らは殺されてしまう。
これが、主の過越(ペサハ)の血から勝手に出て、勝手なペサハをしている者の末路だ。彼らは互いに血を流し合って踊り狂うような虚しいペサハを演じても、何も起きず、最後には、偽物として滅ぼされてしまう。
「記録された御言葉」なるお方がおられる。彼は最高権威をもち、いのちの法則がある。しかし、記録された御言葉の枠組みから外れる者には、いのちの保証が無い。イエス・キリストの過越(ペサハ)の血から、のこのこ出て、世でパンくずを得るために、不当な者に媚びて、ペサハ(踊り狂う)するのは、遠回りの、疲れる道であり、行き着く先は死である。主イエス様のペサハ(過越)の血にしっかり留まり、いのちと祝福の保証を得ながら生きる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

私達エクレシアの霊の父となった使徒パウロ(第二コリント11章)
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 本日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。今回は、実の子がいないながらも、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの霊的な父となった使徒パウロから、父親像を見たい。

パウロはコリント教会を開拓し、彼らを救いへ導いた。しかしコリントの人達は、他から来た偽兄弟・偽教師に欺かれ、パウロはだめだとか、彼は教師として失格だとか噂を立てられ、彼は軽んじられたり、疎んじられたりして来た。それでも彼は父親として、コリントの兄弟姉妹を、息子や娘のようにいつも気遣っていた。
特に2-3節に、婚期を迎える娘を持つ父親のごとき彼の心情が、滲み出ている。彼は、コリントの聖徒達を、イエス様へ嫁がせる花嫁として捧げた、と言った。そんな彼にとって一番の心配事は、エバが蛇の悪巧みに誘惑されたように、彼らの思いが汚され、キリストへの純情と貞操とを失いはしまいか、という事だった。
親の、息子や娘への気苦労は絶えないものだ。そしてその子育てのわざは、とても尊い。子が母の胎から出て、産声を上げたその日から、20歳で成人するまでの日数は7300日である。その一日一日、父は子を養うために働きに出て行く。時に仕事が成功して喜んだり、あるいは失敗して、子の将来を不安がったり。
そのように、妻と共同で子を育てて行く。母もまた、律儀に朝、昼、夜と、子供が食べられるようにし、ちょっと顔色が悪いとすぐに気づいて、面倒をみる。そのうよな7300日を通して、子供は一人の成人へと育つ。

パウロはコリントの教会のみならず、彼が立てた他の教会達の霊的な息子・娘達を、毎日気遣って来た。
中には、悪魔に欺かれて去ってしまったり、パウロに牙を剥いて反抗されたりする苦しみ・悲しみもあった。
コリントの教会はパウロが開拓し、彼が建て、彼に養われた、というのに、偽教師に欺かれ、高慢になる聖徒達もいた。そのように誇り高ぶる彼らに、パウロは言う。『言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。』(11:21)
パウロは、何を誇ったのだろう。彼は最高の先生から師事を受け、パリサイ人として最高教育を受けた。
彼は多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救った。しかしパウロは、そうした実績も学歴も微塵も出さず、彼が誇りにしたのは、彼自身が受けてきた数々の迫害や困難、そして、コリントを含め、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ、祈ってきた事だった。
そして、パウロが断固として主張し、決して譲らなかった事は、自分はキリストのしもべである、という事だ。

彼は何度も鞭打たれた。石打に遭って死んだようになった事もあった。難船し、盗賊にあい、自然の驚異に晒されながらも、キリストを伝える事を止めなかった。永遠の命へ至らせる尊い福音を伝えない事が災いだからだ。そういう思いでようやく獲得した、コリントの兄弟姉妹達であり、そして、他の教会の聖徒達である。
素晴らしい親とは、出来る親というより、子のために多くの犠牲を払い、多くの労苦を払ってきた親である。
パウロは、福音を拒否され嘲られても、全然平気な、鉄の心を持っていたという訳ではない(28-29節)。
せっかくの福音を伝えても、救いが実らなかったり、あるいはせっかく救われたのに、悪霊や偽預言者に惑わされ、虚しい物事に心奪われ、永遠のいのちが実らなかったりする様を見る度、心が痛んだのである。
結局パウロが誇りとしたのは、自分の弱さだった。(30節) キリストの力は、人の弱さの内に、完全に働く。
自分の腕力や知力、鉄のような心を持っていれば、キリストが働く、というのではない。弱さの内に、だ。
それはこのミニストリーが、人の力によらず、キリストの力によって働いているのだという事を知らせるためだ。

親は今日も、働く。ごはんを作って、子供に食べさせる。子供が独り立ちするまで、一日も欠かさず。
それが親であり、パウロも、このような日々を走り抜いて来た。そして親は、いつまでもいるわけではない。
パウロは、福音ゆえに殉教し、天にのぼるその日、自分は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えたと堂々と宣言し、そして霊的な子に命じた。時が良くても悪くても御言葉を伝えなさい、と。(2テモテ4:1-8)
福音を届けるためにいつも旅をし、時に難船し、鞭に打たれたり、多くの兄弟姉妹のために心砕き、兄弟姉妹が悪魔サタンにとらわれないよう心遣い、眠れぬ夜を過ごし、そうした1日1日の積み重ねを立派にして来たのだ。親の1日1日の働きは、尊い。パウロには及ばないにしても、キリストの御前に誇り高く、御言葉によって子を気高く育て、信仰の競争を立派に走り抜き、かの日には、栄光の冠を立派に頂く。
そのような、素晴らしい父母となって行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

いつまでも残る愛された思い出(1コリント13:8-13)
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  前回は、聖霊の賜物の中で最もすぐれた「愛」について学ばされた。今回も、「愛」について学びたい。
もし私達が昔の事を思い返し、小学、中学、高校時代と、それぞれの時期の思い出をたどる時、心が暖まる時期とは、誰かが一緒にいてくれて、関わってくれていた時期、愛されていた時期ではないだろうか。
愛とは「関係」であり、そして「時」に制約されたものである。もし親や、友人との関係を断って、ゲームやインターネットなどで一人自己完結して時を過ごすなら、その年月はなんと暗く冷たい時期だっただろうと、後で悔やむものだ。しかし「あの人があの時愛してくれていた」「関係を持ってくれた」という思い出は、たとえその時期が、病や貧困でしんどかったとしても、闇の中に暖かく灯るともし火のようなものではなかろうか。
誰かから「愛された」という記憶は強烈に自分の中に残るが、自分から誰かを愛した、という記憶は、あまり残らない(マタイ25:31-46)。それは、愛は「与えるもの」で、本人に意識が無いからだ。しかし、人の「あの時は誰々から愛された」という思い出は、時が経てば経つ程、感謝と喜びに美しく輝いて行くものである。

『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(1コリント13:13) この地上で生きた信仰の思い出、希望の思い出、愛の思い出は、地上のみならず、天においても、いつまでも残るものであり、永遠に感謝が絶えない。しかし最も価値ある愛の関わりは、究極の愛なるお方、永遠の救いをもたらして下さるイエス様へと導く事だ。
およそ二千年前、ベツレヘムにて、究極の愛は、見える形になってこの地に降りて来た。それも、赤ちゃんとなって。神の御子イエス様は、私達に愛を示すために人として降りて来られ、ご自身のからだを犠牲として捧げられた。パウロはその愛に触れられた故に、迫害を恐れず、時を惜しんで、このキリストを伝道した。
人生の中、親から当然受けるべき愛を受けて来なかった、と、不全感に陥っている人もいるかもしれない。しかしたとえ愛を受けるべき人から捨てられていたとしても、その間、いのちを投げ出す程の完全な、無償の愛で、愛され続けていたのだ。この御方・イエス様から。死をいのちで飲み込んで下さるイエス様の愛を知る時、真っ暗な過去の思い出は、オセロゲームのように全て白く塗りつぶされて行くのだ。
過去は、変えられない。しかし、過去も現在も未来も決して変わらぬ愛でずっと私達を愛しておられたイエス様が、その間もずっと愛しておられた事を知る時、思い出の色は、暗色から明るい色へと変わって行く。
イエス様から愛されていた、あるいは誰かから愛されていた、という思い出は、いつまでも残る。天国では世の知識はすたれ、預言も止む。なぜなら、世において知る事は一部分であり、預言するところも一部分に過ぎないからであり、天において全てが完成した時、部分的なものは廃れるからだ(1コリント13:8-10)。

愛の人になるにはどうすれば良いか。まずは私達の側が、愛を追い求めるべきである。「愛を追い求め(追求し)なさい」(1コリント14:1)と書いてあるからだ。そして、愛には犠牲がつきものであるが、その犠牲を面倒くさいと思ってはならない。愛の犠牲や、愛ゆえの苦しみは、この地上にいる間にしかできないからだ。
天国には、もはや労苦も寿命も無く、そして、イエス様を伝える事もまた、地上でしかできないし、天国という所は、地上でイエス様を伝えられ、イエス様を信じ、イエス様を愛する人しか存在しないからだ。
だから、キリストにある愛の労苦は、人の心に永遠に記録される思い出づくりであり、今しか出来ない尊い事であり、しかも、愛のわざを「しなかった事」は、死んだ後、永遠に後悔し続けるのだ。(ルカ16:19-31)
天国は、愛がいっぱい詰まった場所である。それ故、イエス様との愛の思い出が無い人は、天国に居場所が無く、主の御心を行わなかった人は、主から「あなたを全然知らない」と言われてしまう。

今、目の前に妻が、夫が、子供が、親が、友人がいる事は、永遠の視点で見るなら、とても尊い事であり、永遠に残る愛のわざを成すチャンスである。日々、世の中に出て家族のために働き、子供を食べさせ育む事は、とても尊い事である。愛のわざは時間に制限され、その人はやがて目の前からいなくなってしまう時が来るからだ。そして何より、イエス様を伝え、御言葉を伝授して行く事は、永遠に栄誉ある事である。
妻に、夫に、子供に、親に、友人に、あるいはまだ見ぬ人々に、「あなたが一緒にいてくれた」「あなたが愛してくれていた」「だからあんな時期でも、心は暖かかった」という思い出を作ってあげて、天において永遠に朽ちることの無い冠を、今日も備える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
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 ここ数週間、聖霊について学ばされている。聖霊に満たされた人は、力を受け、イエス・キリストの強力な証人となり、働くべき場が、自分の生活ステージ周辺から、外へと大きく広がり、地の果てにまで至っていく。
今回、どのような人が、主から用いられやすく、働きの場が速やかに広がって行くのかを学びたい。

『また舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の「他国の言葉(ヘテロス・グロッサ:異なる舌)」で語り出した。』(使徒2:3-4) 
聖霊に満たされた人の最たる特徴は、「舌」が変わる事である。それまで人間同士で、肉欲に属する言葉で話していた舌が変わり、「神の国の大いなる事」を語りだすようになる(11節)。聖霊はイエス・キリストを栄光化する霊であり、聖霊に満たされた人の特徴は、神の国を拡大して行く事である。それとは反対の人、肉欲の中を生きる人や、悪魔サタンの特徴は、高慢、自己栄光化である。(イザヤ14:12-15)
そもそも、なぜ世界にはこんなにも多くの言語が存在するのか。元を辿って行けば、バベルの塔の事件に行き着く。バベルの王・ニムロデは、主の「前に(パニーム:敵対する)」「狩猟する者(ツァイード:追跡者)」であった(創世記10:9)。彼は人のいのちを追跡し、力で制圧してのし上がった最初の王である。彼がバベルの塔を建てた動機は、人を一つに束ね、名を上げ、神のように高くなる事だった(創世記11章)。
そこで神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」(11:7)と、三位一体の神が彼らに敵対し、言語はバラバラになった。高慢・自己栄光化の実は、分裂・分散である。
対して、主に有用に用いられる「御霊の人」が結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(ガラテヤ5:22-23)。これらの実を結んでいるかどうかで、有用な働き人かどうか分かる。
その中で最も優れた道は、愛である(第一コリント13章)。それは御霊のどんな賜物より遥かに優れている。
クリスチャンの中には、確かに「すごい」と思える人は、いる。霊的な、超自然的な力を持っている人が。
しかし、その「すごさ」を持っている事と、主に大いに用いられる器かどうかは、別の話である。賜物は無償で頂いた贈り物であって、本人自身が自慢できる事ではない。むしろ重要なのは、愛があるかどうかだ。
もし愛が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルである。(1コリント13:1)
アララゾーとは元々、「アララー!」と大声で叫ぶ鬨の声の擬音で、やかましく喚きちらす事の意味だ。
愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、それらはむしろやかましい、すぐにでも止めて欲しい騒音へと堕してしまう。

自分の言動に気をつけている人こそ、有名人になったら長続きする。同様に、寛容であろう、謙虚であろう、礼儀正しくあろう、と、努力し続ける人こそ、速やかに主に用いられる。言動に無頓着であるとするなら、すぐ人に、サタンに、責められてしまう口実を得させてしまい、活躍のステージから引き降ろされてしまう。
言動に気を配り続ける人こそ、主に用いられる事が長続きする。だから、よくよく気をつけるべきである。
ペテロはペンテコステ以前、くちびるが回りすぎて過ちを犯す人だった。変貌山においても、あの鶏が啼いた晩においても(マルコ9:6、14:29-72)。しかし聖霊の炎が留まった時、彼のくちびるは変えられた。
預言者イザヤも、そうだった。彼は主の栄光を見せられた時、特に「くちびるが汚れている」事で絶望した。
しかし彼のくちびるは祭壇の炭火によって清められ、そうして預言するに値する者となった。(イザヤ6章)

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着て、はじめて任職の油が注がれる(出エジプト記28章)。ペテロもかつてはくちびるが回り過ぎて過ちを犯してしまっていたが、聖なる炎によって清められたその日、彼の説教で3000人が救われた。
主はこの時代、くちびるがきよい人、用いられるべき器が、少ない、と、嘆いておられるのではなかろうか。
私達は「用いられますように」と祈る前に、人を傷つけたり、言ってはならない言葉を滑らせたりする口が、聖なる火によって清められるように、祈り求めるべきだ。そしてくちびるにおいても、行いにおいても、よく気をつけ、御霊の実である愛がしたたるような者となって、主から大いに用いられる皆さんでありますように!

霊の風の吹くままに(ヨハネ3:1-15)
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 先週のペンテコステ礼拝につづき、今週もまた聖霊について学びたい。今回は、イエス様がニコデモと対話した場面から、御霊の私達に対する現れ方、および、私達が御霊によって生きる術を学びたい。

ニコデモは夜、イエス様の所に来た。彼はイエス様が神の元から来た教師である事を知っていたが、彼がイエス様を訪問した目的と理由をまだ言わない内に、イエス様はニコデモに言う。『よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を「見る(エイドー:知る)ことはできない」。』(ヨハネ3:3)
イエス様は、なぜニコデモが訪ねて来たのかをご存知だった。3節と5節のイエス様の言葉に共通しているキーワードは、「神の国」である。ニコデモは、神の国について知りたくて来たのだ。彼はユダヤ人の教師でありながら、どうすれば神の国を見る事が出来るのか。どうすれば永遠のいのちを得られるのか、それを知らなかったが、イエス様は彼に言われた。神の国を見る(知る)ためには、新しく生まれなくてはならい、と。
新しく生まれる。ニコデモは母の胎に再び入って生まれ直す事かと思ったが、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(5節)
水と御霊によって生まれる。一体どういう事だろう、と人は思う。しかしイエス様の答えは、次の通りである。
『あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。「風(ニューマ:霊)」は思いのままに吹く。あなたはその「音(フォーネ:声)」を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。』(7-8節)

風は、存在するとは分かっていても見えず、ただ音が聞こえ、肌で感じ、そこにあるのだとわかる。「風の音」は「霊の声」とも訳せるが、それは耳で聞こえなくても、霊という受信体を持っている人には、理解できる。
人は、その仕組み・原理を知らないが、霊によって生まれた人は霊の声を理解し、そちらを優先して生きる。
つまりクリスチャンは、世の人には理解できない行動原理を持っており、それは霊から来るものである。
人はその行動原理を理解できないが、どういうわけだか成功するので、人々は驚く。
聖霊の風は、生来の生き方で行きていた人を造り変え、それも、色々な形で働く。ある人は見方が変わり、ある人は聞き方が変わり、ある人は心が、ある人は手足の行いが、ある人は言葉が変わる。あるいは、以前無かった従順さが現れたり、敬いが現れたり、喜べなかった事を喜べたり、感動しなかった事に感動する。
聖霊の風は、人を良い方向へと造り変えるが、「思いのままに吹く」ので、何にあらわれるのか分からない。
ただ、聖霊が流れ込んで来やすい傾向の人がいる。聖霊は、きよい霊であるので、自らをきよくする人すなわちよく悔い改める人・よくごめんなさいをする人に、よく働いて下さる。また、知恵と啓示の霊は、用いる気の無い人・流し出そうとしない人には、与えられない。聖霊は川のごとく流れ出していくもの(ヨハネ7:37-39)なので、流しだそうとしないでそのまま自分にとどめているなら、それは、死海のように腐ってしまう。
また、御霊に導かれる人は、御霊から聞くままを話す。事前に準備して話そうとしていた事は、いざその時、本人が全く準備していなかった言葉や行動が出てくるので、本人がびっくりすることがしきりにある。
『真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネ16:13)
聖霊が伝えようとする時、そのことばは、私達のものではない。その時、私達が主人になってはいけない。
私達はその時スポークスマンであり、もしスポークスマンが自分で勝手に語り出したら、クビになってしまう。

ニコデモが求めていた「神の国(バシレイア・トゥ・セウ)」とは「神の支配領域」であり、神の統治が行き届く所である。それは、水と御霊によって生まれなければ、神の国を知る事も、入る事も出来ない。
永遠のいのちに入るためには、イエス様を信じる事が必要であり(15節)、御霊を受けるためには、悔い改め(メタノイア:方向転換)と、イエスの御名の中へのバプテスマ(浸し込まれ)が必要である。(使徒2:38)
イエス様は「不思議に思ってはならない」と言われた。いくら論理的に説明した所で、人の頭では理解できないからだ。パラグライダーはなぜ飛ぶのか、サーフィンはなぜ波の上を進むのか、それを楽しむ人は頭で理解しなくても、感覚で風をとらえるように、聖霊の風に乗る人も、理解から始めるのではなく、感じて体験し、体得するものだ。聖霊の風に吹かれ、御旨のままに造り変えられて行く皆さんでありますように!

約束の時、約束の場所で、約束された主との出会い(使徒1:4-8)
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 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、イエス・キリストの弟子達が聖霊を受けた事を覚え、祝う日である。
この出来事の前、弟子達は弱く、よく失敗し、十字架の時に至っては、イエス様を見捨てて逃げてしまった。
私達も、人間的な頑張りと忠誠心だけでイエス様について行こうとするなら、この、聖霊降臨前の弟子達の域を超えられない。しかし弟子達は、聖霊降誕を境に全く変わってしまった。イエス様こそ神の御子・救い主であると大胆に宣言し、殉教をも恐れず、地の果てまで御言葉を届ける程、強力な働き人に変身した。
主の働き人の、力の根源は、聖霊である。『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力(デュナミス)を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる』(使徒1:8)
聖霊が降った時に受ける「力(デュナミス)」は、ダイナマイトの元となった言葉である。聖霊を受けた時、各々は爆弾を抱えたような者となり、消極的な人の「消極」は爆破され、積極的になり、破綻してしまった人の「破綻」は爆破され、創造的な人に変わる。それはひとえに、その人がイエス・キリストの証人となるためであり、その人が全くいのちの方向へ変わってしまう様を見て、人々がイエス様を信じるようになるためだ。

聖霊はどんな人に与えられるか。それは主が約束された言葉を信じ、その成る事を求める人に、である。
弟子達は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(1:4)と言われた通り、都に留まり、そして皆一つ所に集まって「心を合わせ、祈りに専念していた。」(14節) そうして五旬節の日そこに集まっていた人にこそ、聖霊が与えられたのである。主の約束どおりする時、約束の成就があるのだ。
約束した日時に、約束の駅で待っていないなら、約束の地へ一緒に行く機会を逃してしまうように、主が約束された御言葉通りにしないで、その時、そこに居合わせないなら、主と一緒となる事を逃してしまう。
この「約束の日、約束の時間、約束の場所での、約束された主との出会い」を、ヘブライ語では「モエド」と言い、それをすなわち「祭り」と言う。ユダヤ人は日毎・週毎・月毎・年ごとに「祭り」があり、彼らはそれごとに、主との出会いをしている。もし、その祭りを逃すなら、その時限定の受けるべき祝福を、逃してしまう。

この聖霊降臨日(ギリシア語:ペンテコステ)は、旧約における七週の祭り(ヘブライ語:シャブオット)である。
七週祭とは、イスラエルの民がエジプトを出た49日(七週)後にシナイ山で律法を与えた事を記念する祭りであるが、旧約の「祭り」は、新約の出来事に対応しており、いずれも神のご計画のうちに成就されて行く。
旧約の「過越祭」は、新約におけるイエス・キリストが十字架でほふられる事に対応している。仮庵祭は、イエス様の受肉に対応しており、そして七週祭(シャブオット)は、聖霊降臨(ペンテコステ)に対応している。
シャブオットのその日、主はシナイ山に降りて来て(A)火の中に現れ、(B)雷鳴と角笛が吹かれる響きの中、全山は震え動いた(出エジプト記 19:18)。それに対応し、新約のペンテコステの日、天から(B')激しい風が吹いて来るような響きが起こり、(A')炎の分かれた舌が現れ、一人ひとりの上に留まった。(使徒2:2-3)
シャブオットの日、主の著しい顕現の中「わたしは主である(アニ・ヤーウェ 出20:2)」と、主ご自身が直接的に現れ語った(C)が、ペンテコステの日、一同は聖霊に満たされ(プレソー)、御霊が語らせるまま他国の言葉で、神の大いなるみわざを語り出した(C')。このように、旧約の祭りは、新約へと対応しており、主の約束とご計画が成就し、最終的には、黙示録にある終末へ、そして永遠へと対応する。

旧約のシャブオットの時、神がシナイ山に降りて来られ、神の御言葉(トーラー)がイスラエル民族に与えられるという、歴史をひっくり返す重大イベントだったが、新約における同じ日・ペンテコステは、聖霊なる神がキリストを信じる私達に降りて来て、私達に宿って下さるという、さらに歴史をひっくり返す重大イベントだ。
  この重大イベントに立ち会う事が出来たのは、主が約束された言葉を信じ、祈りつつ待ち望んだ人である。
ダビデは、天から降った御言葉が宿る契約の箱が、自分の町に入った日、大いに喜び踊ったが、私達は、人を爆発的に造り変え、力強き働き人として下さる永遠なる神の霊が、私達に入居し、内住して下さる事を、喜び期待しつつ祈り求めるべきだ。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル10:25)
かの日、主にある兄弟姉妹達が、約束を信じ、共に集まり、心を合わせ祈り求めていたように、私達は主の「祭り」である礼拝に、共に集い、共に祈り求め、共に聖霊の充満を体験する皆さんでありますように!

母が子供に対して出来る最高の事(出エジプト記2:1-9)
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 今日は母の日である。母はうめきつつ、いのちを産み、はぐくみ育て、日々労を負っている。現代は、子を健全に育てるのに困難な時代と言える。子供を誘惑するものが多い中、いかに子を健全に守り育てて行くべきか。本日、男の赤ちゃんが生まれたらナイル川に投げ込まなくてはならないという過酷な時代の中、子を守り、立派な指導者モーセの母となったヨケベデから学び、私達もこの時代、いかにゲームやインターネットなど子を飲み込もうとする危険な「ナイル川」から守り、健全に育てあげるべきか、その術を得たい。

『さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。』(2:1) 時代が悪く絶望的だと、人は結婚や子を産む事を躊躇し、少子化が進むものだが、ユダヤ人達はそれでも新たな家庭を築いて、増えて行く。
『女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。』(2節) 赤ちゃんは、神様から預けられたいのちである。母はそのいのちの輝きを見て、身勝手な世の王の要求を飲んだりして奪ってはならない、と、かくまった。母とは、子のため、いのちのため、うめきつつ守るものである。
ちょうど箴言31章の、マサの王レムエルの母が、子供に「何を言おうか」と、悩みに悩んだように。
この母の有様は、聖霊の私達に対する有様に良く似ている。創世記1章2節において、創造後の地球が闇の混沌状態にあった時、神の「霊(女性名詞)」は、水の上を「舞いかけて(女性動詞)」いた。それはちょうど、めんどりがひなを翼でかばっているのと同じ状態である。聖霊は母のようにうめきつつ執り成すのだ。
イスラエルでは赤ちゃんが生まれたら、ハトラーという、御言葉が刺繍された布でくるむ。女性は子供を宿したと知った瞬間から、ハトラーの刺繍を始める。お腹の子に向かい、トラー(御言葉)をテフィリンしながら。
彼女達は子が胎内で形作られる時から御言葉で覆い、生まれた後も御言葉の包みの中で守ってあげようとする。まさに創世記1:2の状態だ。母が子供に対してできる最高の事は、御言葉によって守る事なのだ。

ヨケベデは子をなんとかして守ろうとしたが、『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかご(英: ark)を取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(3節) この「かご(ark)」は、ノアの「方舟(ark)」と同じ言葉であり、「契約の箱」も、arkである。
彼女がこの小さな方舟に、瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れたのは、ちょうどノアが方舟をつくって瀝青を塗り、その中にいのち達を入れ、新しい時代へといのちを継がせたのと同じである。
契約の箱という”アーク”の中には、契約の石の板と、アロンの杖と、マナの壺が入っている(ヘブル9:4)。
律法の石版は、神の指で記された御言葉であり、アロンの杖は、植物としては死んだ杖が生き返ってアーモンドの花と実がふいた復活の象徴であり、祭司の証拠である。マナは、神が直接的に命をやしなって下さった証拠物である。私達も、残酷な時代では、子を御言葉に委ね、復活を信じ、いのちの養いの望みをかけるため、子をアークに入れるのだ。現代、私達が入れるべきアークとは何か。それは、ユダヤ人がしているように、自分自身の口の御言葉宣言により、あるいは子供自身の口から御言葉を宣言させる事によって、子を御言葉で囲う事である。母親が子供にしてあげられる最上の事は、御言葉で囲ってあげる事だ。

彼女は子供をアークにかくまって、あとは全てを神様に委ねた。親がいのちのために出来る限りの事をし、自分の力ではどうにもならない所まで来たなら、子供をアークに入れ、あとは全部、神様に委ねる時である。
神はその子をパロの娘の所へ導き、彼女の心にその子を憐れむ心を与え、そうして、合法的に、しかも報酬つきで、母は自分の乳でその子を養えるようになった。
主は、神様から託されたいのちを守ろうと努力する人には、限りなくフォローして下さるのだ。
当時、多くの赤ちゃん達が、時代がそうだからといって、ナイルへ沈められて行った。どのような時代でも、いのちは主のものであり、主は御心のままに、男女の所へ新しいいのちを送り、そのいのちを養うために必要な物も、力も、全て備えて下さる。そして、いのちを大切にする人をさらに祝福し、徹底して守られる。
私達は子供を、時代がそうだからと言って、ナイルに沈めてはいけない。子供にゲームやスマホを与えていれば大人しくなる、ラクだと、と思って放置していたら、子供はどんどん仮想世界へと沈んでしまう。
私達はむしろ子供を真理の御言葉で囲い、神様と私達とのいのちの交わりをし、そうして主ご自身から全て必要な養いをいただき、家庭が喜びと笑いで、そしていのちで満ち溢れて行く皆さんでありますように!

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