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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

主の目が絶えず注がれる礼拝者の地・モリヤ(1歴代誌21:1-22:1)

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前回はベエル・シェバの箇所をキアズム構造解析し、サンドイッチ・キアズムの中心部分、すなわち、アブラハムがイサクを捧げる場面こそが重要である事を見た。その場面が私達に教える事は、主が奇跡的に与えて下さった人、モノ、事は、我が物として握りしめず、さらに主へと捧げて行くなら、主はそれを足がかりにこの世へどんどん介入できるようになり、その捧げものを主が用いて、この曲がった世を正す、だけでなく、その捧げた人には何倍もの祝福(それも、海の砂粒の数倍・空の星数倍!)を返して下さる事を学んだ。

アブラハムがイサクを捧げるように主が指定された地は、モリヤの地であったが、今回、このモリヤとベエル・シェバの2つが交錯する第一歴代誌21章から、主に捧げる事がいかに素晴らしい結果をもたらすか、逆に、与えられたものを我が物とする事がいかに損であるかを、今一度学んでいきたい。

『時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエル・シェバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。』(1歴代誌21:1-2) サタンがイスラエルに災いを降す「とっかかり」となったのは、イスラエルの中に芽生えて来た罪であり、ダビデに芽生えてきた傲慢だった。

ヨアブはダビデを諌めたのに、ダビデは聞かず、イスラエルを数えさせた。果たして、合計157万という数字が出た。ダビデは、その具体的な数値を聞いて、罪を犯した事を悟った。なぜなら、数えていない内は「万軍の主」(イザヤ54:5)が彼の力だったのに、数えた瞬間から、彼の力は「157万の人間」に成り下がってしまったからだ。彼がこの事を犯したゆえに、エルサレムは3日間、主のつるぎに打たれる事になる。

彼は、自分が罪を犯したのだから、災いを彼らに向けないで、自分と自分の家に降して下さい、と執り成し祈った所、主は、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くようダビデに命じた。実はその場所は、過去と未来の礼拝者達をつなぐ、とても重要な場所である。そこはモリヤ山と言われる地、すなわち過去、彼らの先祖アブラハムがイサクを捧げた所であり、後にソロモンの手で神殿が建てられる所である。(2歴代誌3:1)

『その時オルナンは麦を打っていたが、ふり振り返って御使いを見たので、共にいた彼の四人の子は身を隠した。』(1歴代誌21:20)

御使いはオルナンの打ち場で災いをもたらしていたのに、オルナンは何の害も受けず、麦を打っていた。災いのまさに中心地にいたのに、なぜ全然無事だったのだろう。  災いの日に、真っ先に害を受ける人もいれば、逆に、災いの中心地にいても害が素通りして行く人もいる。 それは、全能の主を拠り所とする人(詩篇91篇)、また、忍耐して主の言葉を守る人である。(黙示録3:10) オルナンの性質は、まさにそうだった。彼はエブス人でありながら、(1)素晴らしい信仰者であり、(2)権威に忠実で、そして(3)躊躇なく自分のものを主に捧げる性質の持ち主だった。彼はダビデが来るのを見ると、すぐ地にひれ伏した。ダビデが彼に、この土地を十分な金額で買いたい、と申し出ると、オルナンは言った。

「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のために捧げます。わたしは皆これを捧げます」(21-23節)

オルナンは何から何まで捧げる、と、ダビデに申し出た。その言葉が発せられた瞬間、確かにその地はオルナンの手を離れ、主のものとなった。しかしダビデは、自分が費用をかけずに主に捧げるなどとんでもないと、50シェケルで打ち場と牛を買い(2サム 24:24)、後には600シェケルでモリヤ山全体を買い取った。

モリヤ(ラアー(見る)+主(ヤハ))は、主が絶えず目を留めておられる地、人が主に捧げるかどうかを見ておられ、捧げたなら、その人に豊かに加えて備えられる地である。主は「礼拝の地」に目を留めておられる。 主はそこで、イサクを捧げたアブラハムに対して備えられ、全財産を捧げたオルナンに対して備えられた。

こうしてダビデはその所で捧げ物を捧げると、主は天から火を下して答えられ、御使いは剣を鞘に収めた。

ダビデは、主から驚く程の祝福を受けたが、自分のステータスを数え、自分を誇ろうとした結果、災いが起きて、減らされてしまった。しかしオルナンは、躊躇なく自分のものを捧げたら、増し加えて与えられた。

私達は、主が祝福して下さってからは、自分のステータスはどれほどかを心配したりせず、誇ったりせず、はじめから「万軍の主」により頼んでいれば良いのだ。そして、与えられたものを自分のものと主張せず、いつでも主に捧げる心を持っているなら、どんなに困難な時代でも守られ、増し加えられ祝福されるのだ。 そのようにこの時代、大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

ベエル・シェバを得る人に欠かせない大事な事(創世記22:1-19)

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週報/メッセージ(説教)概要

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成田エクレシア礼拝 音声


 この新年が、信仰者にとって大いに祝福の年となりますよう、主イエスキリストの御名によって祝福します!

昨年に続き、今年も「ベエル・シェバ」を得て、そこで豊かな祝福を得る事が示されていた。ベエル・シェバとは、信仰の父アブラハムが井戸を掘り、ぎょうりゅうの木を植えて開拓した地で、敵が入り込んで来る事なく安心して産んで増て行ける地であるが、金曜の礼拝でさらに大事な事を発見したので、分かち合いたい。



年末の主日は創世記21:33から、アブラハムがぎょりゅうの木を植え、そこに礼拝の場を構築した箇所より、ベエル・シェバを得る方法・そこを管理する方法を学んだ。ベエル・シェバのキーワードが次に登場する所は22:19であるが、この、ベエル・シェバのキーワードでサンドイッチされた箇所に、全ての信仰者にとって最重要とも言える場面が挿入されている。すなわち、アブラハムが最愛の子イサクを捧げる場面である。

主は、アブラハムが100歳にしてようやく生まれた子、神が約束しておられた子を、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と言われた。神は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのに、なぜ、そのイサクを殺すような事を、アブラハムに言われたのか。矛盾している、と思われがちだが、彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:17-19)

このテストを彼がクリヤした結果、神は「誓って」、アブラハムとその子孫の祝福を約束する(17-18節)。

神が誓われた祝福の内訳は、4つあり、まずは 崑腓い暴吠,垢襦淵丱薀の反復による強調)」事。

バラクの原意は「ひざをかがめる」で、神ご自身が、あたかも親が子にひざをついてあらゆる便宜を図るように、あらゆる便宜を図ってくださる事である。次に◆崑腓い忙丗垢鯀やす」事で、それも、天の星のよう、海辺の砂のように増し加えるのである。信仰の子達は、天の星のように輝き(ピリピ2:15)、肉の子も、海の砂のように大いに増えていくのだ。さらに、子孫(単数形)は、敵の門を打ち取り、っ呂里發蹐發蹐旅駝韻蓮▲▲屮薀魯爐了丗后蔽運堯砲砲茲辰董⊇吠,鯑世襪箸いΔ里澄これが、最愛の子イサクを捧げた事による祝福であり、こうして彼はその後、あらゆる面で祝福された(創世記24:1)。

神は、ケチなお方ではない。一度捧げたら、本人の手元には何も残らないまま、というような事は、決してなさらない。天地の全てのものは、神のもので、神は太っ腹にじゃんじゃん与える事の出来るお方である。



聖書全体は、神の全人類・全被造物を救うための計画書でもある。全人類は元来、神の似姿として、神に祝福(バラク)され、生んで増えて地に満ち、地を支配しつつ、神と共に永遠を生きるものだった。しかし、敵であるサタンがそれを台無しにしてしまった。そこで神は、一人の人アブラハムを召し出し、彼が信仰によって、その子を捧げるようにし、そして、捧げられた子よって、この世に救いをもたらす土台を得たのだ。

人が神に何かを捧げるなら、神は、その捧げものを通して、この世界に介入し、御業を働かせる「取っ掛かり」を得られる。その実例として、少年がわずかなお弁当をイエス様に捧げた結果、イエス様はそのお弁当を通して5千人以上を満腹させたし、ハンナは、自分に生まれてくる子を捧げた結果、その子は偉大な預言者・キングメーカーである、サムエルとなった。さらにハンナは祝福され、多くの子達も与えられた。

アブラハムの場合も、彼がイサクを捧げた事により、神はイサクから生まれる子孫を通して、全人類・全被造物を贖う「とっかかり」を得たのだ。それでアブラハムの子孫(単数形)を通し、全人類は贖われ救われる。

この単数形の子孫が、イエス・キリストである。彼こそ、アブラハム対する約束の通り、全人類の敵・サタンの門を打ち破り()、囚われている人々を開放させ、全民族・全国民は彼によって祝福される()。信仰者は夜空の星々のように輝き()、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者は、大いに祝福されるのだ。()

「ベエル・シェバ」は、サンドイッチ型キアズム構造の「パン」にあたり、イサクを捧げる出来事が「中身」として挟まっている。この構造で大事なのは「中身」であり、すなわち、ベエル・シェバを得る人にとって決して欠かせない事は「主に捧げる事」である。いかに自分にとって最愛のものであっても、また、たとえ神様がようやく与えて下さった、最も大事なものであっても、それは、主に捧げられたものとすべきだ、という事である。

それをするなら、主はその「捧げもの」に機会を得、世に介入し、御業を為し、暗闇の世界をひっくり返して祝福に輝く世界へ造り変える事が出来る、のみならず、その捧げた本人自身も、大いに祝福されるのだ。

この新年、ベエル・シェバをわがものとし、与えられた全ては、主に捧げ、そうして、主の御業をこの世に運び込み、自身も大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝


ベエル・シェバは私達・神の民のもの(創世記21:33)

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 天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、礼拝によって新たな年を初める。
2018年が明けた最初の礼拝ではベエル・シェバの言葉が与えられ、天声のカレンダーにその言葉が記された。
 
 ベエル・シェバとは、私達の信仰の父・アブラハムが開墾してしばらく定住した地で(創世記21章)、
水を豊かに汲み上げられる地、敵が入り込んで来ない安心して生んで増えて行ける広い土地である。
 
 今年、まさにベエル・シェバのような安心できるような広く良い所有が与えられた聖徒が横浜に、成田に、静岡に出た。今年を納めるにあたり、ベエル・シェバを得る方法を今一度おさらいし、いかにそこへ入り、いかにそこを保って行くべきかを復習したい。
 
 ベエル・シェバは最初、アブラハムが開墾して井戸を掘ったが、アビメレクのしもべ達が奪ってしまった。
しかし、アブラハムにイサクが生まれた後、何をしても栄える彼を、アビメレクは恐れ、不可侵条約を結びに来た。その時アブラハムはベエル・シェバを返すよう抗議し、見事、奪い返した。(創世記21章)
 アブラハムがもしこの時抗議していなかったなら、黙認的に奪われたままだった。今年まだベエル・シェバを得ていない、奪われっぱなしのままだ、と心当たりあるなら、その相手に抗議を発するべきである。
 
 奪い返した時、『アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木(אֵשֶׁל:エシェル)を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。』(創21:33) このぎょうりゅうの木・エシェルは、水が無い所でも深くから水を汲み上げる。イスラエルが再建国された時、砂漠地帯だったベエル・シェバを、先祖アブラハムにならってこの木を植えた所、緑化に成功し、今や、ネゲヴ沙漠最大の都市となって『ネゲヴの首都』とも呼ばれている。
 
 このエシェルの木は、詩篇1:1にある「幸い(エシェルאֶשֶׁר)」から派生した語で、イスラエル12部族のアシェル族はこのエシェルの木を旗とし、アシェル部族も、エシェルの木も、共に「祝福」の意味を持っている。
アシェル部族は、兄弟の中で愛され、守られ、妬まれないという最高の祝福を得た。(申命記33:24-25)
 
 このように、ベエル・シェバは、信仰の父アブラハムが正統な手続きを経て入手し、潤いある地へと開墾し、永遠の神・主の御名を呼んだ地である。そのような所を得るよう求め、そして得たなら、主の御名を呼び求め、手放してはならず、豊かに祝福を流し続けるよう、管理し続ける必要がある。神がエデンに人を置いた時、そこを管理させ、そうしてエデンから川が流れて全地を潤していったように。(創世記2:4-17)

 アブラハムの子・イサクは、ききんを理由にそこを離れ、アビメレクの所へ「下って」行ってしまった(26章)。
「下」は世であり、そこは一見、食料に事欠かず、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
 イサクは困難を「下」の方法で解決するために、世に「下った」結果、散々な目に遭う。妻を「妹です」と偽ったり、百倍の収穫を得ても妬まれ、井戸を埋められた挙句、追い出されたり、行った先で井戸を掘っても奪われ、さらに行った先で井戸を掘っても、奪われてしまった。それは彼は、主が定めた地ではない所に行ったからであり、御言葉によってではなく、目に見て良さそうな「世の方法」で解決を求めたからだ。
 
 主は人や状況を鞭として用いて、ベエル・シェバへと追い立てて行く事がある。たとえ成功してもすぐ奪われてしまったり、狭い所で敵だらけで、やられっぱなしで、いつも気を張っていなくてはならないなら、どこが本来居るべき「ベエル・シェバ」なのか、広く安心して産んで増えて行ける地を主に求めるべきである。

 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、そこには争いが無かったので、その名をレホボテ( 「広場」という意味)と名づけて言う。『いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。』(23節) 彼はようやく争いの無い井戸を掘る事が出来たが、すぐベエル・シェバへ「上る」。
 彼は「上」を見上げ、結局、信仰の父が井戸を掘った地、神の約束がある地こそ、自分が産んで増えて地に満ちていくべき所だと悟ったのだ。するとその夜、主がイサクに現れ、「恐れてはならない」「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、あなたの子孫を増す」と言われた。それで彼は、その所に礼拝場所を築き、天幕を張って井戸を掘り、住み込む準備を整えた。(24-25節)
 
 私達も主が「ここだ」と示される地、仕事、礼拝を求め、そして「ベエル・シェバ」を得たなら、そこで産んで増えて地に満ちていく準備を整えるのだ。ベエル・シェバは、私達・神の民のものである。ベエル・シェバをわがものとし、産んで増えていく皆さんでありますように! 
 
 イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
十字架にかかるために赤ちゃんとなって来られたイエス(ルカ2:1-14)
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成田エクレシア礼拝 音声
 

 あと数日でクリスマス、イエス様の誕生を祝う日となる。イエス様は万物を創られる前より、神の御子として存在しておられたが、なぜわざわざ人の赤ちゃんとして来られたのか。その「基本」を改めて思い返したい。

イエス様がお生まれになった時、ちょうど皇帝が住民登録をせよという勅令を出した時で、普段は人がいない田舎のベツレヘムも、この時は混雑状態となり、ヨセフとマリヤが泊まれる部屋は、無かった。マリヤ達は祈ったかもしれない。あなたが約束された尊い子がもう生まれそうです、宿をあけて下さい、と。しかしそのようにはならなかった。『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
父なる神様は当然、快適な所で御子を産まれさせる事は出来た。しかし敢えてそうはされなかった。
神の御子が、あたかも人の間から締め出されるかのようにして、飼葉おけ(餌箱)の中に布にくるまれ、宿られたのは、しるし(セメイオン)のためと書いてある。『あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるし(セメイオン)である」。』(12節)
セメイオンとは、神的な意味が付与された奇跡を意味する。ただの「奇跡」は、単に人がびっくりするだけで信仰には繋がらない。しかし「しるし(セメイオン)」は、人が神へと繋がる信仰を起こすものである。
では、この「布にくるまれた赤ちゃん」というしるしには、どのような神の意図があるのか。

当時のユダヤの野では、家畜は、岩山の洞窟などで飼っていた。だからイエス様がお生まれになったのは、岩の洞窟の中であった可能性が高い。「飼い葉桶」と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする木箱の飼葉桶ではなく、岩に穿った凹みに、家畜などの獣の餌を入れるものである。想像して欲しい。洞窟の中に、布でくるまれ、岩の床に寝かされている・・・その姿はまさに、埋葬されたイエス様の姿と重なる。
御使いは、羊飼い達に「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子が、あなた方のためのしるし」と言ったが、その有様は、まさに死んで葬られるキリストのしるしであり、それは全ての人々・・・博士達のような異邦人でも、羊飼いのような卑しい人であったとしても、全ての人々の身代わりに死んで下さる「救いのしるし」であり、どんな獣のような人であっても、彼のいのちにあずかれるように、飼い葉桶へ宿られたのだ。

万物は御子キリストにあって創られ、彼にあって万物が成っているのに、彼は何故、この人間世界に、貧しい夫婦の赤ちゃんとして降りて来られ、岩窟に寝かされたのか。それはこの上ない愛が全うされるためだ。
『神はそのひとり子を賜わった程に、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16) 父なる神が御子を世に遣わされた理由、それは圧倒的な愛と憐れみ故である。神は人を愛し、一人も滅びる事を望んでおられないため、全人類(わたし)の罪を、独り子である彼に負わせ、処罰し、彼を信じる人が罪に定められる事がなく、永遠の天国で生きるためだ。
『神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私達を生きるようにして下さった。それによって、私達に対する神の愛が明らかにされたのである。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。』(1ヨハネ4:9-10)
私達・人間を救いたい、というその激情の愛がイエス様を動かし、栄光の神の御座を降りてあの貧しい所の赤ちゃんとなり、ご自身のいのちを投げ出させたのである。それで彼を信じる人は、アダム以来の死と呪いから開放され、神の子としての特権をいただき、永遠のいのちを得、永遠の天国に入る特権を得るのだ。

イエス様が赤ちゃんとなってこの世に来られたのは、愛のゆえ・・・そして十字架で死ぬため。その大きな愛が、見える形となって、赤ちゃんとしてこの世に結実した故に、御使い達は、大いに喜び、ほめ讃えた。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(14節)
彼の身代わりの死は、私達が代わりに生きるため。その救いにあずかった私達もほめ讃え、賛美するのだ。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい。」(黙5:12)
赤ちゃんとなって生まれたイエス様は、十字架への道を歩み出される。その小さな手の中に、全ての人の罪と呪いを、一手に握りしめて。この御方を喜び讃えつつ、クリスマスを迎える皆さんでありますように!

主日礼拝
エッサイの根から流れ出て来る聖霊の油(イザヤ11:1-5)
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成田エクレシア礼拝 音声

週報/メッセージ(説教)概要

 私達も乙女マリヤのように、聖霊によってイエス様を内に宿し、そして彼が私達の内で素晴らしい働きをして下さる事を、この待降節の時、学んでいる。エッサイの根から出た新芽・イエス様に接ぎ木された私達へと流れてくる聖霊の油は、どのような作用を及ぼし、広がって行くのかを、今回もイザヤ書から学びたい。

イエス様はナザレ人と呼ばれているが、エッサイの「根株」と訳されたヘブライ語「ネツァル」は、切り倒された切株から出てきた新芽を意味する。それは太い根が吸い上げる養分を一身に受け、元を上回る大木へ成長して行く力を内在している。ダビデ王家は、代を下るごとに悪くなって行ったが、エッサイの根株から出たネツァル・イエス様の王国はそれとは違い、純粋で清い枝が、前を遥かに凌ぐ勢いで広がって行く。
現代の私達もそこに接ぎ木され、その豊かな恩恵にあずかって、愛、喜び、平安に溢れる、新しいいのちがみなぎって行く。大祭司キリストに注がれた聖霊の油が、その頭から肢体へと流れていくごとくに、彼に接ぎ木されてその交わりへと入った私達にも、流れ滴って来るのだ。(詩篇133篇)
キリスト者が悪霊や病を追い出すのも祝福するのも、「イエスの名によって」だが、それはイエス様の御名を信じる私達に、彼に注がれた聖霊の油が流れ滴って来るからで、決してキリスト抜きにできる事ではない。
イエス様に接ぎ木された人は、知恵と悟りの霊、思慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が流れて来る(2節)。そして、主を恐れる事を喜びとし、目や耳で判断せず主の霊によって物事を見抜くため、人間関係や、ビジネスにおいて、正しい判断が出来るようになり、人生の道で誤る事が無くなって行く。(3節)
そして「口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(4節)とある通り、主を軽んじる者、好んで悪辣な事をする者、いのちと秩序を阻害するような「悪魔のわざ」に対しては、私達も主イエス・キリストの御名によってむちを打ち、御霊による御言葉の剣でそのわざを抹殺できる。また、主イエスの名による祈りによって、国や世界情勢を動かし、荒れる天候や大地に平安をもたらす事が出来るのだ。

もしこの恩恵に預かりたいのなら、エッサイの根株から出た新芽・イエス様に繋がらなくてはならない。
世の中では、超能力的なパワーが与えられて好き放題に出来る事を夢見させる映画やアニメが流行っているが、聖霊由来のパワーを、それと同じに勘違いしてはならない。私達の生き方は、それらと真逆である。
主の霊が授けられるのは「主のしもべ」に対してである(イザヤ42:1)。イエス様は、本質的には王の王、圧倒的な支配者であるが、生き方は御父の言葉に100%従順する「しもべ」だった。私達も同様に、本質は王であり、祭司であるが、生き方は、主の御言葉に100%従う「しもべ」として生きるべきなのだ。
主の霊と主のことばは、「そむきの罪を悔い改める者」の所に来る(イザヤ59:20-21)。もし悔い改めずに罪を犯し続けるなら、前回学んだ通り、バッサリ刈り取られ、火に投げ込まれてしまう。しかし御言葉に背く事をやめ、悔い改めて、主の霊と主の言葉に生きる人には、イザヤ60章以降の幸いが与えられる。
イザヤ60:1-3には、主に照らされ、主の光を国々に届ける者の役割と性質が書いてある。私達が主に接ぎ木されて「世の光」となったら、国々が、王たちが、光となった私達に照らされ歩むようになる。
もはや私達が世や王達を追いかける必要はなくなり、逆に、彼らの方が、私達を追いかけて来るようになる。
イザヤ61章には、イエス様が会堂で引用した通り、イエス様のご性質が記されている。(ルカ4:18-19)
それはイエス様に接ぎ木された私達にも、聖霊の油が流れ込んで来る故、ここに記されている権威が与えられ、その働きをするようになって行く。私達もイエス様のように、貧しい者に福音を宣べ伝え、心痛む人々を癒し、捕われ人に釈放を告げ、主の恵みの年と、主の報復の日とを告げ、全て悲しむ者を慰め、主の民の中の悲しむ者に喜びを与え、灰に代えて冠を与え、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、賛美の衣を与えさせる働きをするようになる。(イザヤ61:1-3)
荒れた所を再建する者となり、私達の羊や畑の面倒は他国人が見るようになり、「主の祭司」ととなえられ、神に仕える者と呼ばれ、国々の力を食い尽くし、その富を誇る者とされる。また、以前の恥に代えて二倍のもの所有し、とこしえの喜びが私達のものとなる(同4-7節)。人々が私達の祝福された様を見るに、「まことに主に祝福された子孫だ」と誰もが認め、そうして主に栄光が捧げられるのである。(同8-9節)
私達は主を信じた時、エッサイの根株へと接ぎ木され、そこから流れ来る豊かないのちに満たされた。
このエッサイの根株がさらに広がっていくために、大いに用いられて行く皆さんでありますように!

主日礼拝
エッサイの根株から出た新芽(イザヤ11章)
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成田エクレシア礼拝 音声

 待降節第二週の今日は、預言者イザヤによるメシヤ到来の預言を見たい。イザヤは、救い主がこの世に来られる時の有様と、彼がもたらす物事の素晴らしさについて、イエス様が来る700年も前に預言していた。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデの父で、彼から出た新芽は、やがてダビデ王家という「大木」となった。しかしダビデの子ソロモンから続く王家は、高慢になり、罪を重ねて悔い改めなかったため、バビロンを通して伐採された。
しかしダビデの子・ナタンから出た「新芽」の子孫に処女マリヤが出て、彼女から救い主キリストが生まれた。
このエッサイの根株から出た若枝、すなわちイエス・キリストの上に、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が留まり、それはイエス様に接ぎ木された聖徒達へと流れて行く。(2節)
彼の統治は、失敗が一切無く、さばきも、間違いが無い。このイエス様に繋がり、神の霊が留まった人には、主を恐れる事が楽しみとなり、見える所や聞く所によって判断せず、正しく判断するようになる(3節)。
世の王には欠けがあり、失敗がある。それは人の中には、自分の目でよしとした所に従って動く「善悪判断」の性質があるからで、気に入った人をえこひいきしたり、気に食わない人を勝手に罪定めしたりする所があるが、主はそのようなお方ではない。「主を恐れる事」こそ、失敗の無い判断と統治の始まりなのだ。

そしてこのお方・イエス様は『正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息(ルアッハ)をもって悪しき者を殺す。』(4節)
正しくさばくものが4つあり、それは、主の正義と、主の公平と、主の口のむちと、そのくちびるの息である。
イエス様の御口からは御言葉という”むち”が出、また息(ルアッハ:霊、聖霊)によって全世界の人々を裁く。
私達も、主の御言葉によって「鞭打たれる」時があり、その時、自分が犯してしまった罪を悲しむが、それで悔い改めるなら、救いと安息を得る。しかし、もし主の御口の鞭を受けても悔い改る事がなく、罪を犯し続けるなら、やがてアッシリアやバビロンのような厳しい鞭が来て、その高慢は、強制的に切り倒されてしまう。

主の御口から流れ出る御言葉と、主を知る事の霊が行き巡る所は、どんな世界へと変わって行くか。そこは、どんな猛獣も動物も、互いが互いを害さず、皆、同じ食物を食べ、平和に共存するようになる。(6-9節)
生き物の「食」が変わるのは、尋常な事ではない。ライオンがどんなに頑張った所で、他を襲って食い物にする本能は、変えられない。しかし、主の御口から流れて来る御言葉と、主の霊によって支配されるなら、いかにライオンのような、熊のような、ヘビのような者であったとしても、そうした獣的な「食い方」は出来なくなり、互いに敵対できなくなって、平和に共存し、同じ食物すなわち「御言葉」を共に食べるようになるのだ。
夫婦や家族などの人間関係で、相手の気に食わない性質や言動を見つけたなら、攻め、追求し、引き裂き、食らいついていた性質も、主を知る知識が覆って主の霊に満たされ支配されるなら、無くなるのだ。
『彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。』(9節) 
エッサイの根株から出た若枝・キリストの統治が広がっていくと、主は、その御手を翼のように広げ、各地に散っている残りの民を覆って買い戻される。そしてエッサイの根は、旗印となって高く掲げられ、全世界に散らされた神の民イスラエルは、エッサイの根を求め、集まって来るようになる(10-12節)。イスラエルの中の敵対関係は解消され(13節)、彼らを長らく虐げていた国々はかすめ奪われるようになる(14-15節)。

イエス・キリストというエッサイの根が伸びていく所には、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされ、正しく物事を判断できるようになり、どんなに獣のような人であっても、平和な人へと造り変えられる。エッサイの根が伸びて行くと、散り散りにされている主の民は集められて来る。
主を恐れ敬うなら、主の霊が、私達に留まる。しかし主の言葉を受けても全く変わらず、ただ自分の望みを為し得たいと主張し続けるなら、切り倒す斧が待っている。私達はこの所を、主の民が集う「聖なる山」とし、海が水で満ちているかのように、この日本という地を、御言葉教育によって主を知る知識で覆い、主の民を集めて行く働きの一端を担って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
マリヤのようにキリストを宿らせる人とは(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
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成田エクレシア礼拝 音声

 本日より、待降節(アドベント)に入る。クリスマスというと、イエス様の誕生日というイメージがあるが、イエス様は、乙女マリヤから生まれた時が存在の最初ではない。御言葉なるキリストは、初めからおられ(ヨハネ1:1)、父なる神のふところにおられ(18節)、その彼が、乙女マリヤの胎を通して赤ちゃんとしてこの世に降りて来られたのである。待降節とは漢字の通り、イエス様が私達へ降りて来られるのを待ち望む期間なのだ。
待降節で良く語られる乙女マリヤは、イエス様を懐妊した事で特別視されているが、ご存知だろうか、私達もキリストを宿す事ができるのである。キリストが喜んで宿る人とはどういう人か。本日はそれを学びたい。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体(サルクス)となり、わたしたちのうちに宿った。』(ヨハネ1:12-14) 
イエス様の言葉が私達に宿る時、私達もマリヤのように、キリストを宿しているのである。肉(サルクス)とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行う部位で、そこには、罪の棘が刺さっていて罪に傾く性質があるが、御言葉であられるイエス様を信じ、受け入れた人は、彼がその人の中に幕屋を張って、宿られる。
だから、御言葉を内に存在させればさせる程、肉の中の罪に傾く性質は、イエス様が除去して下さるのだ。
主は私達に、御言葉を心に存在させるよう命じられた。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞で、大祭司アロンの末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは、その言葉を「存在させ、溢れさせる」意味だ、と言った。
神様の言葉が人の内に「存在」している時、通常はおとなしくしているが、イエス様が「取り扱いたい」と願っておられる人が目の前に来た時や、その状況に接した時、内に存在しておられる御言葉が、激情と力と共に溢れ出て、そこを治める。だから御言葉を豊かにハヤーしている人のメッセージは、力があるのだ。

聖霊によってキリストを身ごもったマリヤは、私達の型である。彼女は聖霊によってキリストを宿したように、私達も聖霊によってイエス様を主と呼び(1コリント12:3)、そうしてイエス様が私達の内に宿られた。(14:20)
マリヤは、イエス様を身ごもった直後、エリサベツに会いに行ってあいさつしたが、エリサベツは、そのあいさつを聞くと、胎の子が喜びおどり、彼女も聖霊に満たされて、言った。 『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。…主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いな事でしょう。』(ルカ1:42-45)
御言葉であられるイエス様を信じ、イエス様を宿した人を「キリスト者」と呼ぶが、キリスト者の交わりは、このマリヤとエリサベツのような交わりである。私の内に主が宿り、相手にも主が宿っているなら、あいさつの一つで、共に主の存在の喜びで溢れるのだ。御言葉をハヤーしている人が発する言葉には、力がある。
現代のユダヤ人の挨拶は「シャローム」であるが、当時のユダヤは、ルツ記の挨拶を取り交わしていた。
『ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4) この、「主があなたがたと共におられますように」(インマヌエル)と、「主があなたを祝福されますように」(バラク)の挨拶を、呼び交わす事が、元々のユダヤ人の挨拶であったが、戦争や迫害を経ていく内に、短くなって、現代の「シャローム」になったという。
御言葉であられるイエス様を宿したマリヤが、エリサベツの家に入って、「主があなたがたと共におられますように」という言葉を発した時、その御言葉の込められた彼女のあらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、エリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、本来は「主があなたを祝福されますように」と返すのだが、彼女は声高く叫んだ。「あなたは女の中で祝福されたかた」「私の主の母が来た」、と。
主の言葉をハヤーさせた人、すなわちキリストを宿らせている人は、このようにいのちを喜ばせ、そして、そのような、御言葉をハヤーさせた集団の中には、生き生きとした喜びが満ちているのだ。
御言葉は、ただ暗記すれば良いというものではない。マリヤのように、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人こそ、祝福された人である。キリストの言葉を豊かに住まわせ、知恵をつくして互に教え、また訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、心から神をほめたたえ、感謝するこの一同でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝 

たましいを刈り入れる時が来た(ヨハネ 4:31-38)

English Service

 
 今日は収穫感謝祭である。主は、私達が食べるようにと、大地の良き実りを与えて下さった。本日はそれを主に感謝する日である。土地が実らせる実りは、私達にとって喜びであるが、主が喜ばれる”実り”がある。
また、大地の実りを刈り入れる収穫があるように、天におけるまことの刈り入れと収穫がある。主が喜ばれる実りとは、私達人間が結ばせるものであり、そして天における収穫とは、人のたましいの収穫である。
 
 主の喜ばれる実り、主の食べる食物とは何か。
 
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34) 
 
 主が喜ばれる実りは、私達が御心を行い、そのわざを成す事である。主はさらに続けて、刈り入れの事を仰せられる。
 
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(35-36節)
 
 この時、イエス様は前もって、サマリヤの井戸で一人の女性と会い、彼女にイエス様の言葉という”種”を蒔いておいた。種付けられた彼女は、居ても立ってもいられなくなり、町へ出て行って人々にイエス様の事を伝え始めていた。彼女の口から出た御言葉の種は、その地方へと広まって行き、御言葉が種付けられた人々もまた居ても立っても居られなくなり、彼女の導きで、団体でイエス様の所に押し寄せて来る事になる。
 この事を指して、イエス様は、畑は色づき、刈り入れを待っている、と言われた。
古くから不信仰の町と言われていたサマリヤ、しかしメシヤを待ち望み、先祖ヤコブ由来の伝統を守っていたこの町に、イエス様が来られ、御言葉という種が蒔かれた事により、大いなる刈り入れが近づいている、と。
 
 人が思う刈り入れ時と、主の刈り入れ時とは違う。人は収穫までまだだろう、と思い込んでいても、私達は思い込みに従ってはならない。霊の目を開けて、見るべきである。刈り入れを待ち望んでいるたましい達に目を向けるべきだ。天の刈り入れで刈り取られるのは、人であり、人がイエス様を救い主として信じる時、たましいは収穫され、天国という倉に納められる。つまり、人それぞれが、主に捧げられるべき供え物なのだ。
 
 『そこで、『一人がまき、一人が刈る』ということわざが、ほんとうの事となる。わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。』(37-38節) 
 
 人々が救いを求めて飢え渇き、押し寄せて来る時こそ私達・主の弟子達の出番である。彼らにイエス様を伝えて、彼らが受け入れるなら、天の「刈り入れ」が成就する。
 
 天的な刈り取りシーズンが来ようとしている。いや、もう来ている。中国では一日に万単位の人々が救われ、それを脅威に感じた共産党が迫害にかかっている。アフリカは既に四方八方に教会が建っている。
 アマゾンも奥地に教会が既に1万箇所はあり、キム先生の弟子が、1000人の牧師を集めますので来て下さい、と言われても、1万人を1週間集めて寝起きさせる場所や経済がないから、今は行けない、という。
アメリカではユダヤ人600万人中、250万人が既にイエス様を信じている。ムスリムも、ユダヤ人も、イエス様に直接出会って救われる人が続々起こされており、先週も茨城の働きでイラン人2人が洗礼を受けた。
 
 私達は、働かなくてはならない。人々のたましいに救いへの飢え渇きが起こり、私達の元に来る時、彼らを、唯一満たして下さるイエス様のほうへと、一歩、背中を後押しして進ませるのだ。恐れてはならない。
 私達はそのためにこそ、遣わされたのだ。私達が労苦して種まいて育てたものを刈り取るのではない。主は、「わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」とまで言われた。私達はどうして、この救いのわざの「上げ膳据え膳」に、乗らないでおられようか。私達自身が、主の倉に納められるにふさわしい者となり、そして主の倉を、救いに飢え渇くたましい達でいっぱい満たして行くべきなのだ。
 
 今、日本だけが、不思議な現象が起きている。統計的に、殉教者が出た所は、必ず福音が栄えるはず、なのに、日本だけがその恩恵には「まだ」あずかっていない。日本は沢山の殉教者を出しているので、必ずこの国に、天的な刈り取りの時が来るはずだ。
 
 畑は色づき、刈り入れを待つばかりになっている。準備は出来ているだろうか? 刈り入れの時が来た時、その大いなる働きに、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝


主が愛する者に与える信仰の訓練 (1サムエル記23:1-13)


English Service

 
 
 先週の日本コーエンは、朝から夜までみっちりと学んだ1週間だった。1サムエル記から、またエリヤとエリシャの時代について1列王記から、そして、夜は聖書に基づいた東洋医学を学んだ。多岐に渡る恵みを頂いたが、今日特に分かち合いたいのは、主がダビデを偉大な王とならせた「主の訓練」についてである。
 サウルは王になるまで訓練を受けていなかったため、シェオル(地獄)になってしまったが、ダビデは油を注がれてから王になるまで10年以上の訓練を受け、偉大な王となった。私達も、訓練は受けるべきなのだ。
 
 彼はサウル王から命を狙われるようになってから、人が続々と集まって来た。といっても、集まって来たのは、問題を抱えている人(マツォク)、借金を負って逃げてきた人(ナシャ)、心傷ついて苦々しい人(ネフェシュ・マラ)だった。ただでさえ王に追い回されて、助けが必要なのに、問題を抱えた人ばかり集まって来た。
そんな彼らの面倒をみるために、日々、食料を調達し、また諸々のいざこざを解決しなくてはならない。
 
 私達は思うかもしれない。今すぐ目の前の困難が取り除かれてほしい、少しでも多くのお金が必要だ、少しでも能力ある人が来て、助けてほしい、と。しかし主の助けは、優れた物資や人を送る事ばかりではない。
 実は、この困難な状況で彼らの面倒を見る事が、主から送られた「助け」であり、同時に「訓練」だったのだ。
 
 そんなダビデの元に、さらに一報が届く。ケイラというイスラエルの町が、ペリシテに攻められている、と。
本来国を守るのはサウル王の仕事のはずだが、サウルはそっちのけで、無実のダビデを追い回している。
 ダビデは毎日、危険と窮乏にさらされ、やっとその日を生きているので、誰かを助けている場合ではない。
けれども、ほうっておけないのが、ダビデの王であるゆえんだ。彼は主に伺った。助けるべきでしょうか、と。
 主の答えは、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」であった(2節)。しかしダビデの部下は非常に常識的な意見をする。今は人の助けをしている場合ではない、むしろ自分達の身を案じるべきだ、と。
 
 私達は信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。主の御心は「行け」なのに、自分の状況を、常識的に判断したり、人から「行くな」と言われたりし、その狭間で揺れる事が。
 主の助けの方法は、世の方法とは全く違う。世は、親も学校も、神なしの生き方・思考パターンを教育し、自分の英知と力で問題を解決するよう教えるが、その思考からは、全能なる神が、全く除外されている。
この思考(ギリシア思考)で塗られた世は、神に伺おう、とか、祈りで解決しよう、とかが、全く理解できない。
 聖書は、神中心の生き方(ヘブライ思考)で歩む信仰者が、神の方法によって生きる術が記されている。
その方法は、世の考え方ではあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかし、神を信じ、従順して行く時、実体として勝利が、祝福がもたらされる。ここに、世を取るか、神の言葉を取るかが試される戦いがある。
 
 ダビデは、神の言葉と人間の声との狭間で揺れ動いた時、もう一度主に伺った。『主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(4-5節) 
 人の思いとしては「止めたほうがいい」と見える事でも、主の言葉どおりにした所、圧倒的に勝利し、敵の家畜や食料も分捕り、戦わない場合よりも、遥かに良い結果となった。
 こうして一気に物持ちになったダビデ達。ところがサウル王は、ダビデがケイラを救ったと聞いて、ダビデもろともケイラを滅ぼそうと、大軍を率いて向かって来た。それを聞いたダビデは、再び主に伺う。
 ダビデはこれ以降、「主に伺う」事が、彼の人生の基本路線となり、そして主に伺わず行動したら、必ず失敗した。
 主の答えは、サウルは来る、そしてケイラの住民は、無情にも、ダビデをサウルに渡す、というものだった。
 本来ケイラが襲われた時、救うべきは、サウルだったはずなのに、国王から追われているダビデが救った。
それなのにサウルは、国敵ペリシテは放置し、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町ケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしている。
 ダビデとしては、どうして自分は良い事をしているのに、報われず、サウルも、ケイラも、善を悪で返すのだろう、と思えた事だろう。しかし主は見ておられ、人も見ている。
 人はことごとくダビデがした良い事に、悪で返したが、主は常にダビデの味方であり盾であった。ダビデはこのような訓練をしっかり受けたからこそ、今も偉大な王と尊敬されているのだ。
 
 私達も、訓練を受けている時は悲しく思えるが、これによって訓練された人は、後には決して揺るがされない平安な義の実を結ばせるようになる(ヘブル12:1-11)。
 
 いつも失望せず耐え忍び、大いに用いられる皆さんでありますように!

 

主日礼拝
テフィリン - 神の民とは(出エジプト記13:1-10)
English Service

 神の民は、エジプトで430年もの間、奴隷状態だったが、神がエジプトに10の災いを降して彼らを解放したのが、出エジプト記12章までの箇所だった。その次の13章で、神は重要な命令をされた。それが、テフィリンの命令である。ユダヤ人は今も、御言葉の入った箱を手に結びつけ、目の間に記念として置いている。その「紐付きの箱」が「テフィリン」と言われるものである。本日、この「テフィリン」について学びたい。
テフィリンの箱の中は、4つの部屋に区切られていて、それぞれの部屋には、御言葉が記された小さな羊皮紙が入っている。その内の最初の箇所が、この出エジプト記13:1-10の箇所である。『その日、あなたの子に告げて言いなさい、「これはわたしがエジプトから出る時に、主がわたしになされた事のためである」。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(13:8-9)
テフィリンの4つの御言葉に共通している命令が、「これを手につけてしるしとし、目の間に置いて記念とする」「子ども達によく教え込む」事である。敬虔なユダヤ人は、朝明けの祈りと共にテフィリンを手と額に結びつけ、日没までそれを身につけている。このように、御言葉を自分自身に縛り付け、昼も夜もそれを口ずさみ、思い巡らし、行い、子供を教育する。この「御言葉を体質化」する一連の教育がテフィリン教育である。
彼らがテフィリンの箱に入れた4つの箇所は、何について記されているのか?それは、神の民とはいかなる者であるかを示す重要な箇所であり、私達神の民のアイデンティティでもある。一つ一つを見ていきたい。

1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここは、神の民とは「贖われた者達」である事を示している。
ユダヤ人は、自分達は神によって特別に救われた者である、という意識を強く持っている。事実「ヘブル人(エブリー)」の元々の意味は、「川を渡って来た者達」「境を超えて来た者達」の意味である。私達も、キリストにあって贖われた者達、水のバプテスマを通って、世を乗り超えて来た者達、買い戻された者達である。
2番目の箇所は、出エジプト記13:11-16であり、ここは、神の民は「捧げる者達」あるいは「捧げられた者達」である事を示している。神によって贖われた。だから、自分達・神の民は主に礼拝を「捧げ」、与えられたものの初物や十分の一を捧げる事を子供に教えている(14-15節)。ユダヤ人達は、赤ちゃんの時から徹底して捧げる「くせ」がついている故に、神が彼らに押入れ揺すり入れして与えられるのだ。(ルカ6:38)
3番目の箇所は、申命記6:4-9で、神の民は「神に従順し、服従して歩む民」である事を示している。
『イスラエルよ聞け(シェマー イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』(6:4) これはユダヤ人にとって最も大事な戒めで、イエス様も「最も大切な命令」だと言った。そして6-8節の中には「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛する」(5節)ための、具体的方法が4つ伝授されている。
1つ目は心に「刻みなさい(ハヤー:存在を表すBE動詞)」(6節)で、すなわち神の言葉を心に存在させ、その御言葉の存在が、溢れ出るようにせよ、という事である。2つ目は「子どもたちによく教え込み(シャナン:刻む)なさい」、3番目の言葉は『これについて「語らなければならない(ダバル:話す)」』である。ユダヤ人は、互いに議論して分かち合う「ハブルタ(友達という意味)」の教育法で、御言葉について互いに議論し合うくせがついている。4番目が「手に結びつけ」「額に結びつけなさい」という「テフィリン」の命令である。
4番目の箇所は、申命記11:13-21で、ここは、上記3つを守り行った神の民が、その結果受けるべき大きな祝福の約束が記されている。『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(13-15節)
主は創世当初、人を、そのように祝福された存在として創造した。生んで増えて、地を支配するように、何不足なく満ち足りて生きるように、と。創世当初、人には罪がなく、神の御言葉に100%従順する存在だったので、エデンにおいて当然のごとく祝福を享受していたが、人が善悪を知り、各自の善悪判断で動いて神の御胸に逆らい始めたため、その祝福は途絶え、エデンの外で労苦して生きねばならなくなってしまった。
神の創造の本分から外れた、本来的でない歩みをする人で満ちてしまったのが「世」である。私達はキリストの贖いによって神の民とされ、神に捧げられた者となり、神の言葉に従順し、そして本来受けるべき祝福を受け、世の人々とは格段に違う、世と罪とは分離した「神の民」として生きる皆さんでありますように!

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