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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要

神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!

「量」の信仰から「質」の信仰へ転換するために(ヘブル11:24-29)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週はコーエン大学日本ラーニングセンターの学びの週であった。「大学の講義」であるのに、参加された方々は皆、喜びに溢れ、癒され、解放された。諸々の攻撃もあったが講義には何の影響も無く、むしろ私達はサタンが嫌がる事をしているのだ、しかしサタンは、キリストにある私達には何ら手出しが出来ず、むしろ、このコーエンの学びはますます日本に必要であり、それがもたらす祝福は大きいと再認識させられた。
イエス様を信じ、救われた事には、大きな喜びがある。そして救われた時以降、信仰生活が始まるのだが、この地上で信仰生活をして行く時、喜びだけとは限らず、イエス様を信じている故の様々な困難や迫害など忍耐や苦しみもあるが、その向こうには、計り知れない報いと栄光があるのだという事を今日学びたい。

ヘブル11章には信仰の偉人達が名を連ねている箇所であるが、モーセは少し特別である。
モーセは、80歳の時に主からの召命を受け、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放し、神が約束された土地に至るまで荒野の中を導き、荒野の中では神と人との間で契約を結び、神が人の側に要求された基準・「律法」が授けられた。彼はユダヤ人として生まれたが、40歳まで、エジプトの王子として育てられた。
しかし『信仰によって、モーセは、成人(μέγας)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語「μέγας(メガス)」は「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。
最近、スマホやパソコンの普及でメガやテラというギリシア語数字単位もよく耳にするが、いずれも聖書に登場する言葉で、メガ(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(τέρας 1兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。「あなた方は、しるしと奇跡(τέρας)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)

モーセは「信仰によって」100万倍の成長をした故、彼は神に用いられる器として、神に目を留められた。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
人の信仰は、神の元へと登って行く。その時、恵みが天から降りてきて、二つが出会う時、奇跡が起きる。
ツロの女は、イエス様から小犬と呼ばれても「その通りです(アーメン)、しかし小犬でもパン屑には与ります」と言った故、イエス様から「メガス」の信仰だと褒められ、娘の癒しという「奇跡(テラス)」を引き出した。
イエス様を信じる信仰は、最初は「ご利益信仰」かもしれない。神様は**してくれるから、信じます、と。
しかしそのままでは、信仰ゆえの困難や迫害が起きると、手のひらを返したように信仰を捨てかねない。そこで、信仰の「質」が変わる必要がある。たとえ困難や迫害があったとしても忍耐し、信仰を捨てないように。
モーセは、『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と「考えた(ἡγέομαι:ヘゲノマイ: 支配する、導く、判断する)」。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』(ヘブル11:25-26) まさに質が変えられた信仰である。
そのような信仰を主は喜び、用いられる。どうすれば私達も、そのような質の変えられた信仰を持てるだろう。
それは第一に、モーセのように、罪のはかない歓楽よりも、キリストの故に受けるそしりのほうが、世の宝にまさる富であると判断(ヘゲノマイ)し、自ら支配し、導くのである。第二に、「報いを望み見る」事である。
信仰の行いには、必ず主が報いて下さる、と信じているだろうか。信仰でも、世の仕事でも、報われるという望みを持たない人は、本当は嫌だけど怒られるのも嫌だから仕方なしにする、という、非常に「楽しくない」生き方をしている。永遠にしぼまない、世の宝にまさる富が手に入る事を望みつつ、歩むべきである。
主は、種まきのたとえの中で言っている。『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) すなわち、御言葉を受けたなら、それを正しい良い心で、しっかり守り、耐え忍ぶ事である。100倍の実りに預かれる人は、聞いて、すぐに従順する人である。忍耐とは悲痛な顔をして我慢する事ではなく、目の前にその希望を楽しく望み見て、それを目指して歩むものである。この喜びに満ちた信仰生活を送って行く皆さんでありますように!

祝福の法則を体得しているユダヤ人の秘訣(ネヘミヤ8:5-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はコーエン日本ラーニングセンターの学びが行われる。それに先立ち、本日はヘブライ思考はいかに確立して行ったのか、またユダヤ人は主に対し、御言葉に対し、いかに本気で取り組むようになったのか、そして、ユダヤ民族はなぜニ千年の離散を経ても一つになる事が出来たのか。その秘訣をを学びたい。

『エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6) この節に秘訣が隠されている。
エズラ(עזרה :エホバが助ける)は、大祭司アロンの16代子孫の大祭司で、『モーセの律法に「精通した学者(「ソヘルマヘル סופר מהיר:巧みな書記(詩45:1)」』(エズラ7:6)であった。マヘル(書記官)は、聖書を全部丸暗記している。彼は頭に聖書を全部入れていたため、それを起こし、神学校をつくった。
バビロン捕囚から帰還した民は、神の言葉の書をエズラが開いた時、第一に「起立」した。起立という行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立は少々の体力を使う行動だが、御言葉を「聞く」においても「朗読する」においても、「反応する」においても、「身体を使う」のが、ユダヤ式である。
御言葉は主イエス様ご自身であり、その御方に敬意を表すなら、相応の祝福と恵みを頂く事が出来る。
身体を使う2つ目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「手を挙げ」「アーメンする」事である。アーメンאמן とは「それは真実です、真理です」「信じます」「そのようになりますように!」という同意の表明である。
キリスト教では口でアーメンを唱えるが、ユダヤでは起立し、両手を上げ「アーメン、アーメン」と同意する。
それによって口と耳が開き、心が開き、そして天が開いて、同席している人にも聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。
こうして彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、そして「地に平伏して主を誉めたたえた」。ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対し、身体全体を用いて敬意を表す事によって、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に刻み込まれ、霊魂体の全てが活性化されるのだ。

彼らがエズラの御言葉を学んで分かったのは、自分達は御言葉教育を受けておらず、御言葉を知らない、御言葉を守り行わなかった、それでこうなったのだ、と。そこで彼らは、神の言語・ヘブライ語の御言葉を子々孫々へ伝授し、体質化しようとして始めたのが、ヘブライ語の御言葉暗唱(テフィリン)教育である。
人は何か事が起きた時、それに対する考えや解釈、とっさに出る反応や対処は、幼児体験や記憶、刻まれて来た言葉に基づく。もしその人の記憶が、否定的・消極的な「ことば」で満たされていたなら、事が起きた時、消極的・否定的な考えや反応しか出ない。しかしもし、その人の中が、超・積極的な、いのちに溢れた神の言葉で満たされていたら、どうだろう。ユダヤ人は、母の胎にいる時からその教育を受けて来たのだ。
私達異邦人は、元々御言葉がない環境に生まれ、何が神に喜ばれ、創造者の御胸にかなった生き方は何か、成功法則も失敗法則も何も知らずに育った。ほしいままに御言葉に反した生き方をしようとしては呪われ、傷つき、わけも分からず、ぶつかりながら生きて来たが、そんな私達でも、御言葉暗唱して、心と記憶と唇を「御言葉」で満たすなら、主に喜ばれる、いのちの溢れた生き方が体質化されて行くわけである。
私達は意思をもって自分なりに考え、判断し、評価する。しかし世界は御言葉によって創造され、万物は御言葉法則によって成り立っている。ヘレニズム思考(ギリシア思考)に毒された私達異邦人は、その御言葉さえ評価・判断・批判の対象にしてしまうが、ユダヤ人は、その万物の法則たる御言葉が思考の根幹にあり、御言葉を通して、物事を判断し、対処し、行動するのだから、異邦人は彼らにかなうはずがないのだ。
ユダヤ人は御言葉暗唱と、子供への徹底した伝授ゆえに、世界のどこに散らされても成功し、そして2千年もの離散を経ても信仰と民族は根強く存続した。それに対しキリスト教は、伝道は熱心にしても、子供への御言葉伝授をしてこなかった故に、全世界各地で信仰復興が起きては消え、起きては消えを繰り返した。 世界5大宗教は、キリスト教以外、暗唱している。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、これらには、いのちは無いが、暗唱する故に存続している。しかし、キリスト教だけは暗唱しない故に、ただ栄枯盛衰を繰り返すだけだった。今、私達も、使徒時代に生きていたヘブライ思考に戻り、御言葉暗唱をすべき時だ。

聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
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 病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれないような、何か天が塞がれてしまっているような、あるいは、ただ主から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合の解決の示唆として、イザヤ59章を開きたい。
イザヤ書は、57章から59章の中盤までの内容は、主の側からの、人の側にある罪の指摘と叱責が記されているが、59章の後半以降、62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。この59章に、呪いが祝福へと変わるターニングポイントの「鍵」があるのだ。

59章は、1-3節の主語は「あなたがた」であり、あなたがたの罪や不正が、神との隔ての壁を構築し、祈りを主に聞けなくさせている事が指摘されている。続く4-8節の主語は「彼ら」であり、その「彼ら」は悪魔の申し子のような性質で、その意図する所はただただ悪であり、好んで人々を虐げ、血を流すような者達である。
「彼ら」が好き放題に神の民を虐げるのだが、祈っても主が全く聞いて下さらない理由は既に1-3節にある。
そして、9-15節の主語は、「私たち」に変わり、9-11節では自分達の悲惨を嘆く呻きがある。自分の悲惨を嘆く「演歌」を幾ら並べ立てたり申し立てても、何も変わらない。肝心なのは次に続く節である。
12-15節に、「我々」の中に罪があって主に背いて来た事の告白がある。『我々のとがは、あなたの前に多く、罪は、我々を訴えて、あかしをなし、とがは、我々と共にあり、不義は、我々がこれを知る。』(12節)
イザヤ書の後半は、この「我々に罪がある事を認め、告白した事」で、大きなターニングポイントを迎える。
16節以降、主語は「主」に変わり、悲しみ嘆く主の民を救おうと、主ご自身が動き出し、主の民を苦しめる「彼ら」に報復し、戦われるために、主みずからが武装される様が記されている。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵が、自分自分の罪の告白と悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。なぜ、「ごめんなさい」という、良き日本人として生きていく上で欠かせない重要な言葉が聖書の中に無いのか。それは聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉だからである。ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。またネヘミヤやダニエルも、自分達が主の前で、何と何と何の罪を犯して来たか、かなり詳細かつ具体的に告白している。
ある悪霊に憑かれた息子を持つ父親は、今まで何もかも人任せにしていたが、イエス様から不信仰を指摘され、悔い改めた時、イエス様は「言うことも聞くこともさせない悪霊」を追い出した。(マルコ9:23-25)
だから、自分が主に何をしたのかを明確に告白する事、そして、そこから1ミリでも離れる決心と努力をし続ける事が聖書的な正しい謝罪であり、それをしないと、罪の追求と呪いがひたすら憑き纏ってしまうのだ。
もし私達が罪を言い表さず、罪の「楽しみ」を手放す事を惜しんでそこから離れないなら、いかに病や悪霊、貧乏に「出て行け」と言っても、全然効き目は無い。なにしろ、本人自身が、その取っ掛かりとする「ネタ」を握りしめ続けている訳だから。しかし、自分の罪を主に言い表す時、病や悪霊は、取っ掛かりを失う。
サルスベリという木がある。その木はツルツルして、サルに取っ掛かりとなるものが無いので登れない、という木であるが、自分の罪を主に言い表し、悔い改めるなら、「病スベリ」「悪霊スベリ」「貧乏スベリ」となるのだ。「主イエスの名によってサタンよ去れ」という祈りより遥かに効果的なのが、告白と悔い改めである。

『主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。』(20)
主が「贖い主」として現れてくださるのは、とがを離れる者、悔い改める者のところに、と書いてある。
結局、罪を告白した時、主みずから助けるために動いて下さり、その結果、イザヤ60章以降の祝福がある。
しかし、自分の罪を口で言い表さず、改めようとしない人にはいつまでも、罪から、サタンから、そして主から追求され責められる事がつきまとう。日々、罪から一ミリでも離れる努力をし、罪や病、貧乏、悪霊に掴まれる所なく、祝福と幸いの日々を歩み、ますます働き人として整えられていく皆様でありますように!

私達が目指すべき目標の地(申命記34:1-7)
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 一昨日の未明、私の祖母の林アイコが100歳と5ヶ月で天に召された。昨日、親類一同と天声の十数名の少数で、ささやかな葬儀を行ったが、それは、私が体験したどの葬儀よりも美しく荘厳で、清らかで、そして静かな喜びに満ちていた。祖母の顔は明らかに、真の故郷に迎え入れられ、満ち足りている表情だった。
私達が目指すべき故郷は一体どこにあるのか。今回、モーセが主にとり上げられる場面から見ていきたい。

モーセが生涯を終える直前、イスラエルがいよいよ約束の地カナンを目前にした時、彼は全イスラエルに向けて最後の説教をし、それぞれに相応しい祝福をした。それが終わると彼は、主があらかじめ「そこで死ぬ」と告げられていたピスガの山を登りはじめる。彼は120歳ではあるものの、目はかすまず、気力は衰えていなかった。皆に見つめられながら登っていく彼の足取りは、しっかりしていただろう。
山頂からは、イスラエルが継ぐべき土地が、北から南に至るまで、ヨルダン川から地中海に至るまでが全部見えるが、主は言われる。あなたはそこへは、入れない、と。そしてモーセは、そこで死んだ。(4−5節)
ここで疑問が起こる。皆はあそこに入れるのに、どうして一番の功労者のモーセだけ入れないのだろうか。
私達も、思う時があるかもしれない。あの人この人は、あの幸せの中に入っている、どうして私だけが入れないのか。そして、主から「あなたはそこに入って行くことはできない」と言われる時、本当に切なさを覚える。
モーセが最後、ピスガ山を登る時、どんな心境だったのだろうか。ああ、これで人生が終わってしまう、あれができないまま、これをしないままなのに、と思っただろうか?そうではないと思われる。その根拠は・・・。

モーセが死んだ後、イスラエルの民は確かにヨルダン川を渡り、乳と蜜の流れる地を受け継いだ。しかしその2世代後、そこは呪いの地となってしまった。なぜなら彼らは、主の御言葉を軽んじ、背いたからだ。
さて、約束の地とは一体、どこにあるのだろう?神の国は一体どこにあるのだろう?
思っていないだろうか。自分はあの領域に入ったら、あの人のようになったら、神の国が成就するのだ、と。
しかし主は言われる。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
だからもし、結婚したら幸せになれる、と思って結婚しても、その人の中に神の国が構築されていないなら、結婚生活は苦々しい生活となるのだ。たとえあこがれの会社に入っても、あるいはあの地位を得ても、そのに神の国が構築されていないなら、すなわち、その人が神の支配を嫌がり、自分勝手なままなら、そこは乳と蜜が流れる地ではなく、呪いの地となってしまう。ちょうどイスラエルの民が、そうだったように。
だからまず、神の国を構築する事、すなわち、神の統治をそのまま受け入れる事こそ、必要である。

ヘブル書に記されている。モーセはキリストの故に受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考え、見えない方を見ているようにして、忍び通した事が。信仰の先輩たちは皆、地上では寄留者であると言い表し、天にあるふるさとを求め、神はそんな彼らのために、都を用意しておられたのだ、と。(ヘブル11:13-27)
モーセの時代に、キリストは人として来ていなかったが、モーセははっきりと、信仰の目で仰ぎ見ていた。
この真の指導者がやがて来られる、彼に聞け、と彼はイスラエルの民に指示したのだ。そう、キリストこそ本題である。カナンの地ではない、地上のあの地でも、あるいは富でも地位でも状態でもない、ただ望むべきは、私達の只中におられるキリストによって支配される事。それこそ、まことの神の国である。

モーセは主に言われた。「おまえはもはや足りている(rab)。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26) ここの「足りている(rab)」は、十分に満ちている、という意味である。
主は言われた。あなたは地上で為すべき事を十分に満たした、もう地上のカナンの地を求める必要はない、むしろ、天の故郷に帰りなさい、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と。
そして最後、彼は主の「言葉(peh:口づけ)」(申命記34:5)によって、ピスガの山で死んだ。
主は、御口から出る息によって人を生かし、御口によって息をとられる。だから、生きるにしても、死ぬにしても、何の恐れもないのだ。私たちが目指べきは、モーセも、信仰の先祖達もいる、あの天の御国である。
私達は生きる限り、そこへ心を結びつけ、やがてあの信仰の先輩たちが待つ天に上げられる者でありたい。

信仰とは(ローマ1:17)
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 信仰義認(人は信仰によってのみ救われる)という言葉は有名である。この言葉はちょうど500年前、カトリックの腐敗は、「行為義認(善行によって神は人を義とする)」に由来する、とルターは考え、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる、と、パウロ書簡から説いた事によって生まれた。しかし、この言葉ゆえに、救われた事に満足し、安住して、世の人と何ら変わらない罪深い生活を送っているクリスチャンが多くなってしまった。そもそも信仰とは何か。また、救われた私達はいかに歩むべきか。それを今日学びたい。

「信仰」という言葉は、新約では多く登場するが、旧約にはほとんど登場しない。この「信仰」という概念は、新約聖書が記される前、サンスクリット語の「Behid(ビヒド)」が元になった。ビヒドはBeとHidから構成され、Beには「to unite(連合する)」、Hidは「to band (結合する)」の意味がある。
すなわち信仰とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。
信仰の歩みは、常に、連合し結合する相手、すなわち「主人との関係」を意識し保ちながらの歩みである。
例えば、悔い改めとは、必ず信仰の「主人」を意識し、相手にふさわしくなかった自分・悪かった自分に気付いたなら、悔いて悲しみ、主人に帰る事で成立する。信仰なしの悔い改めは、有り得ないのだ。

イエス様を売り渡したイスカリオテのユダには、悔いる心はあった。銀貨を投げ返したからだ。しかしイエス様に帰る事をせず、首をつって死んだ。それは、イエス様を「主人」として結びつけていなかったからだ。
彼の場合、3年半の間も、心は「世」にバンドされ、イエス様とバンドするには至らなかった。そしてイエス様の十字架が近づくと、彼はサタンにバンドされ、イエス様を売り渡した。後に悔いた時も、その絆を断ち切る事をせず、どこにも居場所がなくなった時、自殺してまでイエス様にバンドする事を拒否したのだ。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行く。
ユダのケースで分かるように、何年もキリスト者の交わりに居ながら・御言葉を聞きながらにして、イエス様と連合せず、世に、サタンに心を結びつけながらキリスト者の交わりに一緒にいる者も事実存在する。
そのような人は、早々にキリストを主人として連合するべきだ。なぜなら「自分の行くべきところへ行く」日がいつになるのかは、誰にも分からないし、いざ、二者択一が迫られた時、人は、心が結びつけられていた方を選びとる事になるからだ。私達はいつでも、天国という杭に自分をバンドし続けて行くべきである。

パウロは言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは、「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者である。
イエス様を信じた時、すなわち、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、スタート地点である。
宗教改革以来、信じた時点で救いが成就したかのような誤解が多くなってしまったが、それは単にスタート地点に立ったのみであり、この時点から、信仰を所有して歩む、長い歩みが始まる。それはエイス・ピスティン、信仰の目的地、すなわち、天国に至るまで、ずっと所有し握りしめ続けながら歩んで行くのである。
信じればすぐに聖化・栄化されるのではない。聖なる者になるための「もがき続け」が必要である。
エジプトを脱出すれば、すぐに約束の地に入ったのではない。荒野という過程を経なければならなかった。
自分は神の民だ、エジプトという奴隷の国から開放された、というだけで、聖化のもがきをしなかった多くの民は、荒野で死に絶えてしまった。「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2) しかしヨシュアとカレブは、ずっと約束の地に心を縛りつけていたため、彼らだけが約束の地に入り、そこを所有できた。私達もヨシュア達にならい、世とサタンという縛りから、自らほどき、天国という約束の地に心を縛りつけ、かの地に入るその時まで信仰の歩みをし続ける者でありたい。

人の思いを超えた神の最善なる介入(ローマ1:11-15)
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 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる方法と、聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。今回、パウロがローマ書を記すきっかけとなった出来事と、背後で働く神のわざ、そして、私達は神が示される道にいかにに応じて行くべきかを見ていきたい。

『わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、「今まで妨げられてきた(εκωλυθενエコルセン)」。』(ローマ1:13)
パウロはずっとローマに行きたかったのに、妨げられていた。彼はなぜローマに行きたかったのか?
それは彼の宣教戦略が「都市宣教」だったからである。彼が宣教した都市(アテネ、コリント、エペソ、ピリピ等)は、その時代その地域の中心都市だった。そこが福音化されるなら、周辺に多大な影響を及ぼす。
ローマは当時の世界の中心であり、彼はそこを福音化し、彼自身の手で宣教センターを立てたかったのだが、どういうわけかパウロは、何度チャレンジしても、どうしても行く事が出来なかった。
「今なお妨げられている」のギリシア語「εκωλυθην(エコルセン)は、直接法アオリスト受動態が用いられており、幾度もチャレンジしたのに、鉄板のように妨げられ続け、今に至っている、という事を意味する。このように、自分がどうしてもある方向に行こうとしたのに、鉄板のように妨げられ続ける、という経験を私達もするが、神が敢えてそのようにしているからだ。ここで驚くかもしれない。パウロが世界の中心・ローマに福音を伝えに行くのは、御心でないのか?彼の戦略は理に適っているし、彼ほどの人がローマに行ったなら、どれほど多くの働きが出来るだろう?どう考えても「良い事」づくしなのに、どうして神はそれを阻むのか?
このような場合、今自分は神の意図に反した方向に動こうとしているのだと気づき、軌道修正すべきである。
このように、あからさまに神によって道を閉ざされる「神的受動態」により、神の御手の下で私達の人生は練られ、形造られて来たのであり、歴史が形造られて来たのだ。一つはっきりしている事は、もし神があの時、パウロをローマに簡単に行かせていたなら、ローマ人への手紙は存在せず、私達の聖書からは、ロマ書は抜けていた事だ。
そしてもう一つ、パウロが「行かなかった」事によって成った事がある。ローマ16章には、約50名ほどの人物の名前が記されており、そのメンバー一人一人に対してパウロは「よろしく」と挨拶を送っているが、このような素晴らしい働き人達が次々とローマ入りして教会を開拓し、彼らが教会を開拓する段階において、あるいは、教会を成長させる段階において、大きな労苦と共に犠牲を捧げ、素晴らしい信仰を、神と人との前に示し、そうして50人が、パウロ抜きでそれぞれが成長し、御業を為し、神に栄光を捧げていったのだ。

まずは16章1節、フィベという女性執事はパウロのみならず多くの人を援助し、そして彼女が多くの危険を冒してもパウロが書いたこの手紙をローマに、そして私達にも送り届けてくれた。その次に登場するのは、プリスキラとアクラ夫婦である。「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである・・・。また、彼らの家の教会にも、よろしく。」(16:4-5) この夫婦の「家」の教会は、彼らの天幕づくりの工場であり、当時ローマ軍団に年間1000の天幕を献上する工場であったため、かなり大きかったという。
その彼らは、神の働きのためにその工場を神の国のために捧げ、さらにはパウロに「自分の首をさえ差し出した」とまで評されている。彼らは教職者ではなく「平信徒」であるが、へたな教職者よりも遥かに大きな働きをしたため、2000年ほどの歴史があるコリントの教会には、今なおパピアス、アクラ、プリスキラ、フィベのイコンがあり、現代も、彼らの働きを覚えて掲げられているという。
この富んだ夫婦が、神によってパウロと「出会わせられた(神的受動態)」事により、彼らが神の働きに参加するようになり、パウロも多くの宣教の助けを得て、そうして世界に福音が広められている。

人の目には、今自分がしている働きも出会いも「たまたまそうなった」と映るかもしれない。ルツとボアズは「たまたま」会ったが、その出会いがダビデを生み、後のイスラエルと世界の歴史を動かした。クレネ人シモンも、たまたまイエス様の十字架の場面に会ったが、その出会いが後にローマ教会牧会者を生み、そしてコンスタンティヌス大帝を生み、ローマ帝国がキリスト教国家に変わる基礎をつくった。人の人生と人の歴史の一つ一つに神は「神的受動態」によって介在し、人はそれで御旨を実行し歴史を紡いで行くのである。

父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
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 ダビデ王は自分に反逆した彼の子アブシャロムが死んだ時、激しく悲しみ、自分が死ねばよかったのに、とまで言った。父は、不器用ながらも子を愛するものである。本日・父の日は、ダビデ王とアブシャロムの、ちぐはくな父子関係と、その悲しい結果から、親子関係の避けるべき事と健全な道を「逆説的に」学びたい。

発端となった事件は、アブシャロムの妹タマルが長兄アムノンによって暴行された事だった。彼女はその後、兄アブシャロムの家で寂しく住んだが、アムノンは責任を取らされたり懲らされたりされないままだった。
彼は王の長男という事で、何かしてしまっても大目に見られて来たようである。それが積み重なると、何をしても許されると思うようになり、妹に対する汚れた情欲さえ、制する事をしなくなってしまう。
ダビデも過去に「性的な罪」を犯した経験があるため、うまく戒められなかったかもしれないが、それならなおさら、経験者として強く戒めるべきだった。こうして問題が扱われないまま、2年の月日が過ぎていく。
アブシャロムは静かに復讐心を蓄え、ある日、事件を起こす。彼は周到な企てをもってアムノンを殺し、祖父の所へ逃げて行った。ダビデはそんなアブシャロムを、気にかけてはいたものの、放置してしまった。
父は確かに不器用な所もあるものだが、その放置した年月がさらに父の首根っこを掴んで行き、子供に対してさらに何も出来なくなり、そうしてさらに、その子と家庭全体を破滅的な方向へと導いて行く。
「放置」は積み重なると、良からぬものが沸々と育ち、やがて取り返しが付かない事になってしまう。『むちと戒めとは知恵を与える、わがまま(シャラーハ:放任する)にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴29:15)
将軍ヨアブは、この「放置状態」は良くないと感じ、一計を案じてダビデとアブシャロムを引き合わせようとしたが、どういうわけか、ダビデもヨアブもさらにアブシャロムを放置してしまう。親が子に明らかに戒めたり諭すべき時に、放置し続けるなら、子はどう出るか。子は親に、火をつける行為に出るのだ。(2サム14:30)
アブシャロムは言う。「今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください。 」(14:32) ここに息子・アブシャロムの本音と叫びがある。「放置」されるよりは罰されるほうがまだ楽なのだ。そうして、ようやく、父子の何年ぶりかの再会が実現するのだが、アブシャロムは父から、親らしい会話を何も引き出せなかった。妹がアムノンに陵辱されて感じて来た悔しさ、自分がしてしまった事の後ろめたさ、放置され続けた事の寂しさ、理解されない事の苦しさ・・・。
それを父に打ち明ける機会が無いまま再会は終わり、再び断絶されてしまった。アブシャロムはこれ以降、父ダビデに会う努力を一切しなくなり、その代わり、父ダビデに反逆しクーデターを起こす計画を入念に立て始める。子は、親への親密な交わりが絶望的だと分かると、ひたすら憎むべき相手として親を見るのだ。

ダビデは息子アブシャロムを愛していなかったのか?子を愛さない父はいない。ただ不器用だった故に息子を放置し、放置してしまった故に罪を犯させ、ついには、裁きが子に追いつき、失ってしまう事となる。
アブシャロムが父に反旗を翻した時、ダビデは何の抵抗もせず、逃げた。ダビデは圧倒的に不利でありながらも、息子アブシャロムには自分に免じて手心を加えてほしい、と、部下に願う。(2サムエル記18:5)
しかし戦いは、アブシャロムの呪われたような死、という形で決着がつく。ダビデは息子アブシャロムが無事かを案じ、無事であるという「吉報」が来るのは今か今か、と切望していた。あたかも放蕩息子の父が、息子が出て行った道を見ながら、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
しかし、ダビデの「放蕩息子」は、二度と帰らなかった。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(2サム18:33)
この悲痛な叫びは、悔い改めないまま「裁き」に追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神の嘆きでもある。アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、放置され続けた故、名前とは全くそぐわない子となってしまい、ついに、父に反逆する罪への裁きが、追いついてしまった。
親子関係で最もしてはならないのが、「放置」である。親も子も一家総出で次の御言葉を守り行うべきだ。
『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3:18-21)
家族が固い愛の絆で結ばれ、主にある喜びと笑いがいつも絶えない皆さんの家庭でありますように!

「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
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 ヘブライ言語はヨーロッパ言語のように、名詞や動詞に「性」の概念がある。創世記1:1-2の名詞や動詞を「性」という面から見ると、神と被造物との間が、男女の人格的なやりとりであるかのように見えてくる。
『はじめ(女)に神(男)は天(男)と地(女)とを創造(男)された。地(女)は形なく(男)、虚しく(男)なってしまい、闇(男)が淵(女)の面(男)にあり、神(男)の霊が水の面(男)を覆って(男)いた。』(創世記1:1-2)
このように「性」という面にスポットライトを当てると、この箇所は、ある男女が織りなすストーリーに見えてくる。
すなわち、ある男性が、ある女性を見初め、一つの家庭を構築しようとした。けれども女性は、別の男に破壊され、虚しくされ、闇の淵に落とされてしまった。それでもかの男性は、女性を覆っていた…というような。

聖書はまさに、そういう内容だ。人は本来、神と共に歩み、神の愛の交わりの中で、幸せに永遠に生きていくはずだったが、人はサタンにそそのかされ、神を裏切って虚しくなり、死の淵に落ち込んで、「呪い」と「滅び」という借金地獄に陥ってしまった。聖書の一つ一つの出来事の裏に、多くのうめきと悲しみがある。
裏切られてしまった「神(男性)」の側のうめき悲しみと、裏切ってしまった「人(女性)」の側のうめきが。
全被造物(女性)は、うめいている。全能の神(男性)によって、贖われる事を求めて。(ロマ8:19-23)
それで神は全ての人に「贖い(買い戻し)」の衣を広げ、今なお一人一人を贖い出そうとし続けておられる。
買い戻されて覆われる事こそ、全被造物の切実な願いである。ちょうどルツが、自分を買い戻す責任のある男性、ボアズに願い出たように。『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ガアル:家を絶やさない責任のある者)」です。』(ルツ3:9)

主はホセア書を通しても、裏切った女(イスラエル)に対するうめきを表現し、同時に「贖い」を宣言しておられる。主は預言者ホセアに、「姦淫の女をめとれ」と命じ、ホセアはその通りに実行するのだが、その女は、姦淫するために出て行ってしまった。夫に愛され、夫の子を産んでいるというのに。そこで主は言われる。
『「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこで私は銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。私は彼女に言った、「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。私もまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
律法に照らすなら死刑のはずの、姦淫で裏切った女に、やさしく声をかけ、買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。これはまさに、イエス様と私達の関係と全く同じだ。
ホセアとイエス様の名前は共に「救い」という意味であり、ホセアは全人類を買い戻すイエス様の雛形だ。
私達の主イエス様は、罪に裏切ってしまった私達人間にやさしく声をかけ、本来私達が受けるべき罪の刑罰を、十字架の上で、身代わりに受け、「神の子の命」という大きな代価をもって買い戻して下さった。
虚しくなってしまった全被造物を買い戻される、唯一のキーパーソンは、まことの光なるイエス様である。

創世記1:2において、虚しくなってしまった地(女)を、神は覆っておられたが、ある時、神は宣言される。
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を「見て」、「良し(トブ)」とされた。神はその光とやみとを分けられた。』(創世記1:3) 神はそれまで闇だった世界に光を宣言し、光を見て「よし」とされた。
神は創造のわざを進めて行かれる度に、それを見て「よし」と言われる。主の目に「よしとされる」事こそ、私達の目標だ。神が「ことば」によって創造された全ての御業は、全て「よし」である。いかに滅びの運命を背負ってしまっている人間でも、神と共に歩み、御言葉の通りに行って行くなら「よし」になって行くのだ。
神のご性質は光であって、闇ではない。神の御業は秩序であって、混沌ではない。神は人間と全被造物の秩序を回復させ、人が健全に住めるよう、丁寧に再構築して行く、というのが、全聖書の内容である。
そして聖書の最後・黙示録は、まことの花婿であるキリストと、その花嫁・教会との結婚で締めくくられ、神と人とが永遠に共に生きる事で終わっている。永遠のいのちは存在するし、永遠のさばきも存在する。
私達は、永遠のいのちに入るために、そして今生きているこの人生を、秩序と神の「よし」で満たすために、私達を命がけで愛して下さったイエス・キリストを愛し、彼の御言葉どおりに生きて行くべきだ。それこそ真に理に適った、永遠に至る充実した人生なのだから。その人生を歩んでいく皆さんでありますように!

召し出された人達を建て上げ成長させていく聖霊(使徒2:37-47)
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 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、教会すなわち召し出された人達に、聖霊が降り、力を得た日である。
この日以前の弟子達は、大した働きが出来なかったが、この日以降、強力な力に満たされ、福音が全世界へ爆発的に広がって行った。聖霊を受ける事は、私達主の弟子達にとって決して欠かせない条件である。
教会は聖霊の働きによって始められ、そして聖霊は今日も働いておられる。今回、私達・教会が何によって建て上げられ、いかに聖霊に満たされ、福音を爆発的に広められるのかを、初代教会から学びたい。

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
ここに、初代教会が健全であった根拠が記されている。健全に建て上げられていくための第一条件は、まず、使徒たちの教えを堅く守る事である。使徒たちの教えとは、よく考え出された人間由来の考えや教えではなく「御言葉」であり、使徒達は御言葉を主から取り次いでいたのだ。教会とは、神の御言葉が宣言されるべき所であり、御言葉と聖霊によって生まれ変わった、聖なる共同体である。
聖徒は、働き人によって宣言される御言葉によって建て上げられていくものだ。人が普段の食べ物によって成長して行くように、キリスト者も、普段摂り入れる御言葉によって養われ、変えられ、成長していく。
御言葉を蓄え、固く立っているなら、どんな困難が来ても決して壊れず揺れ動かない。真理の御言葉は、ダイヤモンドよりも硬く、宇宙よりも永遠だからだ。また、御言葉は種のようなもので、生きており、それを人という土壌に植えるなら、必ずいのちが生え、正しく育てるなら、豊かに実を結ぶものである。(マルコ4:14)
聖霊の働きの中で最も重要な働きは、人を御言葉によって新しく造り替え、成熟させて行く事だ。そして御言葉と共に働く聖霊の力は、あらゆる暗闇の力を打ち破る唯一の攻撃の武器であるとエペソ6:17に記されている。御言葉と共に働く聖霊の力が強くなればなるほどに、いのちはどんどん増えて行くのだ。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(使徒6:7) この「非常にふえて行った(πληθύνω)」とは、魚の腹にぎっしり詰まった卵のように増殖する意味で、そのように聖徒の数は数多く増えて行くのだ。
正しく御言葉が入り、その信仰が成長するなら、いのちが莫大に増えていくのだ。

次に「共に交わり、パンを裂き」とある。教会とは、キリストを救い主として生まれ変わった、新しい命達である。赤ちゃんは産まれた時、自動的に家族の構成員となって、父母や祖父母、兄弟姉妹がこぞって彼の面倒を見るように、キリスト者も、イエス様を信じた瞬間、キリストにある御国の家族の構成員の一人となる。
御国の家族となったキリスト者は、共に御言葉のパンと、同じいのちを味わって行くものである。私達はそれを味わってこそ健全な歩みができるのだ。その為には、教会の集まりに「集まっている」事が必要である。
そのきよい交わりの中にいるなら、自然に健全な御言葉に親しみを覚えるようになり、成長して行くのだ。

次に、「祈りをしていた」と書いてある。初代教会の聖徒たちは、祈りの力を体験していた。祈りは神との会話であり、私達が神の御言葉によって祈るなら、神はそれに答えて下さる。『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』(使徒4:29)
彼らは祈り求めると、聖霊に満たされ、大胆に御言葉を伝え出した。初代教会の聖徒たちは、自分自身の必要を満たして下さいとか、人生が有意義になるために力をください、と祈ったのではない、神の御言葉を伝え、福音を伝えるために、力をください、と祈ったのだ。祈りは働きの難題に打ち勝つ神の武器である。
私達は御旨の成る事を祈り、そして御言葉の交わりをするなら、主から力を頂き、それは武器となっていく。

そうして初代教会は、神が与えて下さった伝道の使命を忠実に果たして行く。世の中では、人を集めるために労力やお金を払うものだが、御国は、こちらが労したり媚びたりして人を集めるのではない。こちらが真理によって養われ、魅力ある者になるなら、人々のほうから自然と集まってくる。そうするなら、厳格に律法を重んじていた祭司さえ、キリスト者になったのだ。
どうか皆さんという教会が、御言葉と祈りによって聖とされ、成熟したものとなって成長して行きますように!
 

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