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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

きよめのわざを行うネヘミヤと聖霊(ネヘミヤ記13:15-31)
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 ネヘミヤ(名の意味:「慰め主」)による城壁再建の記事より、私達の人生を再建させて下さる聖霊の働きを学んでいる。彼の働きによりエルサレムの住民は悔い改め、御言葉を守り行う決心をしたが、彼が不在の間、その決心は早くも破られてしまっていた。捧げ物がなおざりになり、レビ人が世の仕事へ逃げ帰り、空いた神殿の部屋には異邦の者の私物が置かれていた。それをネヘミヤは憤り、きよめ、回復させた。
ネヘミヤはさらに、エルサレムに蔓延していた霊的怠慢を正し、きよめのわざを為して行く。

その頃、安息日に仕事をしている者や、果物や魚など色々な商品をエルサレムに運び込んで売っている者がいた。『そこで私は、ユダの主だった人たちを「詰問(リーブ:論じ合う、争う)」して言った。「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか。』(17節) 聖霊もまた、主に礼拝を捧げるべき時が軽んじられ、世的な物事の売り買いがさかんにされている事を、黙ってはおられない。
イスラエルはかつて安息日を破り続けた結果、バビロン捕囚の事件が起き、主を軽んじる邪悪な不品行の者達が殺され、捕らえ移された事によって、その地は安息を受けた。(2歴代誌36:11-21) 主の安息を敬わず、聖としない人は、神が取り除き、強制的に安息を取り戻される歴史があったのに、金儲けの事しか考えずに安息日を軽んじた者達。安息日は誰も働かないから、自分が売れば自分の独占市場だ、と考える者達が出てきたのだが、それは、神を侮る事としてネヘミヤは速やかに、断固として、対応をした。
彼は安息日の始まる直前、城門を閉め、安息日が終るまで開いてはならないと命じ、商品が一切持ち込まれないようにした。売る者達は城壁の外で窺っていたので、ネヘミヤは彼らに言う。「なぜあなた方は、城壁の前で夜を過ごすのか。再びそうするなら、私はあなたがたに手を下す。」(21節) それ以降、誰も安息日には来なくなった。礼拝を泥棒するハゲタカは、一度追い出してもまだウロウロするものなので、来なくなるまで徹底して追い払わなくてはならない。聖霊は、神への道を邪魔し礼拝を泥棒する者には、断固として立ち向かう。聖霊に満たされたパウロは、福音を邪魔し礼拝への道を邪魔する者を呪うと、その者はたちまち見えなくなって、それを見た人々はすっかり驚き、信じた。(使徒13:9-12)

『その頃また、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人達のいるのに気がついた。彼らの子どもの半分はアシュドデの言葉を話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤの言葉がわからなかった。』(23-24節) この者達に対するネヘミヤの態度は、かつて無い程に厳しい。『そこで、私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせ』(25節)
ネヘミヤは今まで、同邦人を呪ったり、打ったり、毛を引き抜いて侮辱したような事は無かった。異邦の女との結婚はそこまで深刻な問題である。聖霊が詰問し、のろい、打ち、はずかしめを与え、強制的に決心させるような、最も厳しい取り扱いをするのは、神から引き離し罪を犯させる異邦のものと、結婚する事である。
「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。」(25節) 神はソロモンを誰よりも栄えさせ、誰よりも知恵を与えたのに、異邦の女達が彼に罪を犯させてしまった。ソロモンは思ったかもしれない。自分の知恵と権力をもって女達を改宗させればいい、とにかくこの美しき女達がほしい、と。
しかし知恵や権力で人を改宗できる訳ではない。ソロモンは年老いた時、女達が彼の心を転じさせ、ついに彼は異邦の女達の住居や、異邦の神々の祭壇を、税金を使って造らせるに至った。(1列王記11:1-8)
ネヘミヤがあれ程強行だったのは、ソロモンの二の舞を踏んで欲しくない、という熱心さからだったのだ。

『大祭司エリアシブの子ヨイアダのひとりの子はホロニびとサンバラテの婿であったので、わたしは彼をわたしのところから追い出した。』(28節) なんと大祭司エルヤシブの孫の一人が、城壁再建を妨げた異邦人サヌバラテと婚姻関係を結んで、妥協し共存して行こうとしていたのだ。その結果、多くの罪をエルサレムの中に招き、礼拝が疎かにされ、レビ人が逃げ、呪いを招いていたのだ。『わが神よ、彼らのことを覚えてください。彼らは祭司の職を汚し、また祭司およびレビびとの契約を汚しました。』(29節)
今やキリストにあって、私達が祭司であり、レビ人であり、聖霊は私達の異邦の思考や享楽との結合を徹底して取り扱われる。神に喜ばれないあらゆるものを除き、誘惑が来ないように自ら整え、神との清らかな歩みをして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

聖なる神の宮に俗悪な者の私物を置くなかれ(ネヘミヤ記13:1-14)
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 前回、城壁再建後のエルサレムの霊的再建をさせたネヘミヤの記事から、私達の霊的城壁を再建させて下さる聖霊の働きを学んだ。エズラやネヘミヤの働きによって御言葉へと心向けられた人々は、悔い改めの涙を流し、御言葉を守ってゆく事の決心を新たにした。しかし13章へと読み進めていくと、ネヘミヤが不在の間に、その決心が早くも破られてしまっていた事が分かる。ネヘミヤが戻って早速建て直しの働きに入るのだが、その手法は少々、手厳しい。聖霊も同じである。ひと度救われた人が、聖なる生活をして行く事を決心したにも関わらず、霊的怠慢で再び以前の生活に戻ってしてしまう時、確かに聖霊は取り扱って下さるが、その手法もネヘミヤ同様、少々手厳しい。今回もネヘミヤ記から聖霊の働きを見て行きたい。

時の大祭司エルヤシブは、アモン人トビヤと縁組しており、彼のために、神殿の大きな部屋をあてがっていた(5節)。アモン人は主の民に敵対してきたので神の集会から排除すべき(1-3節)であり、しかもトビヤは、かつて城壁再建の仕事を嘲り、次の言葉を放った者である。「彼らの築いている城壁は、狐一匹が上っても崩れるであろう」(4:3) このような者に、神殿の部屋を提供する。それは相当深い関わりがあっての事だ。
『そのへやはもと、素祭の物、乳香、器物および規定によってレビびと、歌うたう者および門を守る者たちに与える穀物、ぶどう酒、油の十分の一、ならびに祭司のためのささげ物を置いた所である。』(5節) 
この事は、先週の箇所で、主の前に誓った内容であったが(10:39)、早速なおざりにされてしまったのだ。
本来主の働きをする働き人に提供されるべき十分の一の捧げものが置かれる部屋に、トビヤの私物が置かれ、主への捧げ物が閉め出されている。ここに、現在の私達が気をつけるべき点がある。私達キリスト者は、神の御霊が住まわれる神の宮(1コリ3:16)であり、神に捧げられた「生きた供え物」である。(ロマ12:1)
本来、尊い神の言葉で満たすべき私達の心と思いが、汚れた享楽や淫らで異邦的な思案に占拠され、人生再建のわざをあざけり、気落ちさせる者に場所を提供し、聖霊を締め出してしまっていないだろうか。
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(8-9節) ネヘミヤは憤って強制力を発動し、きよめを遂行した。本来、祈りの家を見張るべき指導者が、世と妥協し、宮が汚されるままに任せるなら、主イエス様も憤られ、聖霊も憤られ、宮きよめを行使するために、強制力を発動される。
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物を自分の中にのさばらせているなら、少々手厳しい扱いを受け、ものずごく恥ずかしい思いをするかもしれないし、何か大きな損失を被るかもしれない。

そもそも、主への捧げ物で満たされるべき部屋が空疎になり、トビヤの私物が占拠してしまった根本原因は、主への捧げ物がなおざりになっていた事である。『わたしはまたレビびとがその受くべき分を与えられていなかったことを知った。これがためにその務をなすレビ人および歌うたう者達は、各々自分の畑に逃げ帰った。』(10節) 捧げ物(献金)が、なおざりになると、神の働き(人)が、なくなる。日本は特にそうである。
『それでわたしはつかさたちを「責めて(リーブ)」言った、「なぜ神の宮を捨てさせたのか」。そしてレビびとを招き集めて、その持ち場に復帰させた。』(11節) ここのリーブは法廷用語として「争う」の意味があり、互いの立場から論じ合うことを意味する。ネヘミヤの強行な働きに反対者が立って争いがあったのかもしれないが、ネヘミヤは見事勝利し、レビ人を復帰させ、十分の一を回復させた。私達も、異邦的な快楽に浸っていたいという「肉」があって争う時、私達が御霊の法則に乗るのであるなら、肉は御霊によって殺され、私達は生きる(ローマ8:1-15)。しかし、もし御霊を無視するなら、相変わらず奴隷の恐怖のままである。

ネヘミヤはさらに、神の宮の部屋を「忠実な(アーマン)者と認められていた」人達に守らせた(13節)。
ここのアーマンは「支持する、確認する、信頼する」の再帰態(させられるの意)で、このアーマンが元となってアーメンが派生する。アブラハムは神を信じた(アーマン)故に、それによって彼は義とされた。(創15:6)
聖霊が私達の内側を宮をきよめした後、信仰によって守らせる。もはや以前の汚れが入って来ないように。
強制力によってきよめを受けた場合、少々痛いかもしれないが、しかしそれは幸いである。その後さらに神と親しい、きよく聖なる生活へと入って行けるからだ。一番良いのは、最初の決心から離れず、聖なる生活をキープし続けて行く事だ。聖なる生活を続け、災いから遠い日々を送っていく皆さんでありますように!

霊的城壁を再建するネヘミヤと聖霊(ネヘミヤ記7-10章)
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 前回、ネヘミヤが城壁を再建させた記事から、私達を建て直して下さる聖霊のご性質を学んだ。続く箇所は、霊的に安定した生活を定着させるよう奮闘した記事が記されている。いかに城壁が回復し、生活水準が上がっても、御言葉に従わず霊的に堕落した生活を続けているなら、城壁は再び壊されてしまうからだ。今回、ネヘミヤ記7章以降より、私達の霊的生活を回復させて下さる聖霊のご性質を学びたい。

城壁が再建されて後、ネヘミヤが真っ先にした事は、適切な指導者を任命した事で、その基準は「忠信な(エメス:堅実な、真実な)、神を恐れる者」(7:2)である。ネヘミヤの前任者は、兄弟姉妹から搾取したり奴隷にするような、神を恐れない人だったため (5章)、その者達は外し、神の基準に立った正しい統治をさせたのだ。さらに神は、ネヘミヤの心に、指導者や代表者の「系図」を調べる思いを入れられた。(7:5)
それは、系図によって出所の裏付けが取れた、正しい人が働きをするようにするためである。
自分自身のアイデンティティである系図を失っていた者は、祭司職から外された(7:64)。聖霊が教会において働かれる時も、同じように、霊的に正しい人を奉仕の任に就かせ、そうでない者は降ろす働きをされる。
聖霊は私達の中の異邦的な価値観を取り除き、思いを清め、人生の采配が正しくできるようにして下さる。

8章では、人々が自ら進んでエズラに御言葉を求めた記事が記されている。『彼らはその書、すなわち神の律法を明瞭に読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。』(8:8) 聖霊もまた人の心に、御言葉への飢え渇きを起こし、御言葉が自分に言わんとする所を、理解させる。(エペソ3:16-19)
人々が御言葉を理解した時、彼らが最初に示した反応は「悲しみ」だった(7:9)。エズラがその時宣言したのはモーセ五書であり、そこには祝福と呪いの法則があり、それに照らすなら、今まで自分達が歩んできた道がまさに「呪われる道」に一致していた事を、御言葉から知ったのだ。千年以上前に書かれた御言葉に、まさに今の自分達の事が書かれてあり、今この呪われている理由が、実に的確に記されていたのだ。
聖霊は私達に、自分の罪の現状を思い知らせ、悲しみと悔い改めの心を起こさせる。(ゼカリヤ12:10)
しかし、ネヘミヤ(慰め主)はこの時言う。悲しんではならない、今は喜びなさい、と。『彼らに言った、「あなた方は去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのない者には分けてやりなさい。この日は我々の主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶ事はあなた方の力です」。』(ネヘミヤ8:10)
御言葉を知った当初、罪の悲しみが起きるが、聖霊は畳み掛けるように責める事はなさらず、まず、良いものを食べ飲みなさい、憂うのではなく、主を喜びとしなさい。それこそあなたの力だから、と言われる。
  『こうして民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。』(8:12) この時、御言葉に従って行った仮庵祭は、非常に大きな喜びであった。(8:13‐18) 聖霊は罪を示し、悲しませるが、御言葉を行う事の喜びで、大いに喜ばせて下さる。

こうして大きな喜びの中で仮庵祭を祝ったが、祭りが終わった二日後、彼らは悔い改めの集会を開いた。
これは、エズラやネヘミヤに促されてでなく、自発的に行ったのだ。祭りの間は喜ぶべき時であって、悔い改めの断食をすべきではない。しかし彼らは、祭りの間も、罪に対するけじめをきっちりつけなければ収まりがつかなかったのだろう。9章は、御言葉に基づいた背信の告白と、悔い改めの内容が記されている。
聖霊もまた、良いものを食べさせて元気づいたなら、悔い改めるべき事のけじめをつけるように導かれる。
今までの呪われる性質に、きっちりけじめをつけなければ、またすぐに城壁や生活が破壊されてしまうのだ。
9章は、ただ自分達が主に罪を犯して来た事と、それ故今自分達は苦しみの中にいる告白で終わり、「つきましては救って下さい」という願いは無い。ただ、この事は決して忘れません、と告白する。(10:29-30) 
それで彼らは決心する。今後異邦人と結婚しない事(10:30)、主の安息を守り(31)、礼拝を守る事(32‐39)を。
聖霊もまた、私達に、霊的で清い生活をして行くよう、決心を促す。もはや異邦的な考えに混じり合う事なく、主への安息を守り、礼拝する事を途絶えさせないように、と。
このような「霊的な城壁」の再建なくしては、物理的な城壁は全く意味を為さない。主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しいのだ。しっかりと霊的城壁を築き、安息と主の備えが豊かにされる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ネヘミヤの働きから見る聖霊の働き(ネヘミヤ記1-6章)
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 前回、ネヘミヤ記とナホム書から、聖霊のご性質、すなわち人を慰め、建て直す一面を学んだ。ネヘミヤの名はナハム+ヤ(慰め+主)、名前そのものがまさに「慰め主」であり、彼がした事を学ぶ事は、すなわち聖霊のわざを学ぶ事と同じである。今回もネヘミヤ記から、聖霊の慰め主としての性質を細かく学びたい。

1,うめきと執り成し ネヘミヤ記1章は、エルサレムの城壁が破壊されてしまった状況を聞いたネヘミヤがうめき、執り成し祈った様が記されているが、このうめきと執り成しこそ、聖霊様のご性質である。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、私達のためにとりなして下さるからである。』(ロマ8:26)
2,王から権威を得て派遣された ネヘミヤは、主に祈りつつ王に願い求めた所、王は彼を派遣する事を快諾し、援助してくれた(2:1-8)。同じように聖霊も、天の王であられる父なる神様から遣わされた。それはイエス様が、十字架の死と復活によって栄光をお受けになり、御父に願った故である。(ヨハネ14:16)
3,修復すべきものを隅々まで探る ネヘミヤは到着すると、早速破壊されている所をくまなく調べ、探りまわった(2:9-16)。同様に聖霊も私達の内側をくまなく探り、掃き清めながら、失われている価値を探す。そしてその人が悔い改め、価値あるものを見出したなら、御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
4,回復の励ましをされる ネヘミヤは、エルサレムが長らく瓦礫のような状況の中で生活し、もはや復旧する気持ちが萎え果ててしまっている彼らに言う。『あなたがたの見るとおり、われわれは難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう』(2:17) 聖霊は、罪に汚れた心を、きよい状態へと回復させ(詩篇51:10)、無秩序状態から秩序を回復させる思いを吹き込んで下さる。そして働こうとする人を、励まして下さる。
5,志と力を与え、事を行わせて下さる ネヘミヤ記3章は、ネヘミヤによって心突き動かされた人達が、エルサレム城壁の40工区を、約41のチームで分担し、工事を開始した様が記されている。このように神は一人一人に志を立てさせ(ピリピ2:13)、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊で満たして下さる(出エジプト記31:2-3)。何をして良いのか分からない時、志を立てさせて下さるよう求めるべきである。
6,敵の脅しに心萎えてしまった人達への適切な対処 4章では、再建が進んで行くのを敵が歯ぎしりして脅しかけて来る様があり、また働き人達も、城壁が崩れている現状を見て心萎えてしまった様がある。
ネヘミヤは彼らのために、敵を一手に引き受けて代理戦争はしない。その代わり、各々に武器を持たせる。
「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい。」(4:14) 聖霊も同様である。聖霊は私達に代わって代理戦争するのではなく、私達に御霊の武具を持たせ、そしてすすめる。主の大能の力を得て、全ての聖徒のために忍耐の限りを尽くして、戦いをしなさい、と。(エペソ6:10-18) 敵はそれで、あっさりと引くものなのだ(ネヘミヤ4:15)。
6,悔い改めへの導き 5章では、エルサレムの中で異邦人のごとき搾取がはびこり、兄弟が兄弟を奴隷状態にしていた事が発覚する。その時、飢饉(3節)が起きた理由は、搾取された兄弟姉妹達の叫びが天に届いたからだ(ヤコブ5:4)。ネヘミヤはそのような事をしていた者達を叱責し、全ての借金を免除してやった。
聖霊もまた同じ事をして下さる。聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについてその誤ちを認めさせ(ヨハネ16:8)、不正な事をする性質・祝福を阻む邪悪な性質を指摘し、改めさせ、回復させて下さる。
7,敵のはかりごとを見破る 6章に入り、完成が間近になると、敵のそそのかしが一層頻繁になって来る。
この再建の働きは、王に対する反逆だ、と言いふらされている、だから来て相談しよう、と持ちかけて来たり、また預言者を買収し、律法に違反させようとそそのかして来たりするのを、ネヘミヤは見破り、それを逆に主に訴えた(6:1-9,10-14)。私達も預言の霊が与えられる時、人の隠し持っている罪が示され、心の秘密があらわにされ、示された相手は、神が確かにおられると言って礼拝するようになる。(1コリント14:24-25)

こうして城壁は五十二日を経て完成した。敵がこれを聞いた時、恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、神の助けによって成就したことを悟ったからである(6:15-16)。ネヘミヤが来て以来、驚く程のスピードで工事が完成したように、私達も聖霊の働きに委ねる時、驚くような建て直しが行われる。
その時、敵の面目は失われ、私達には、城壁がそこに存在する事による心の平安が与えられるのだ。

慰め主である聖霊の働き(ヨハネ14:16-17)
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 『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(パラクレートス)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さる』(ヨハネ14:16) 聖霊の別の名は「助け主」と言う。これは「パラクレーシス(懇願、励まし、激励、慰め)」が元となった言葉である。今回、慰めて下さるお方としての聖霊のご性質を学びたい。
パラクレートスを辞書でひくと「力強い味方,肩を持ってくれる者,同情をもって弁明してくれる人,取り成す者」の意味である。このお方が私達の内に住み、共に働いて下さる(17節)。聖霊は、深いうめきの感情と同情心をもって、私達を弁護し、私達の人生や人格の中で、破壊されてしまった所を建て直して下さる。
この御方すなわち「真理の御霊」は、御父から遣わされる。世はそれを見もせず、知りもせず、受ける事が出来ないが、私達キリスト者と共にいつまでもおられ、神の真理へと私達を導く。(16−17節)

ネヘミヤは、まさにその働きをしている。彼の名前の意味は、「慰める主」)で、聖霊のわざそのものを行う。
エルサレムの城壁が崩され門が火で焼かれたままの状態で、捕囚から戻って来た民も大きな悩みとはずかしめの中あるのを聞いた時、彼は座って嘆き悲しみ、断食して主に祈った(ネヘミヤ1:2-4)。
また、エルサレムの民に代わって罪を告白し(6-7)、御言葉の約束を宣言し(9-10)、憐れみを求めた(11)。
これはまさに、御霊の御思いである。『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。』(ローマ8:26) 御霊は切なる心をもって、人を建て直す働きをされる。
ネヘミヤが来る前、エルサレムは長い間、荒れ果てた状態のまま放置されていた。そもそも、エルサレムが荒れ果ててしまったのも、彼ら自身が主をないがしろにし、警告を無視し、罪の暴走を邁進し続けたから、いわば、自業自得の故であるが、ネヘミヤはそんな彼らを、心裂かれる思いをもって建て直しの働きに入る。
聖霊も全く同じである。主を無視し、罪の暴走に邁進して、人生へし折られてしまった私達の荒廃した様を同情し、うめきの心をもって回復のわざを為し、私達の人生が慰められるようにと、働かれる。
ネヘミヤは民を励まし、回復の工事を正しく、そして最善の形で導き、敵の計略を見抜いて、その甘言や讒言に勝利し、また、人々の主に喜ばれない罪の性質を取り除き、そうしてわずか52日で城壁を復旧した。
聖霊もまた、私達を同様にされる。聖霊は、壊れ果てて自力では立ち直れない私達を回復させるために、最善の正しい道で建て直して下さる。聖霊の導きによって、私達に敵の策略を見破らせ、戦う術を身に着けさせ、罪の性質を取り除き、自分では到底不可能だと思えていたような建て直しを速やかに為して下さる。
この御方にあって導かれるなら、私達の城壁は堅固になり、もはや悪しき者に好き放題される事はなくなる。

「慰め」についてのもう一つの面を、ナホム書から学びたい。ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。もちろん私達は、アッシリヤのように好き好んで邪悪に走るようなよほどの相手でない限り、誰かが主の裁きによって滅ぶ事を、求めるべきではない。私達の戦いは対人戦ではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいる諸々の悪霊達に対してのものである。人を裁くのは主の領分であり、私達は、サタンの勢力に対抗する者達である。
ナホムがアッシリヤが裁かれる言葉を宣言したように、私達も『御霊の剣、すなわち神の言』(エペソ6:17)を取って、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対してさばきを宣言し、この者共によって惑わされている人々や、虐げられている人々に「慰め」をもたらすべきなのだ。

この助け主である御霊にあって歩んで行く内にますます回復し、ますます城壁が堅固にされ、ネヘミヤのように、破綻してしまっている人を慰め回復する働きをし、ナホムのように、聖霊の与える御言葉の剣をもって暗闇の勢力と戦って慰めをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

罪をきよめる御霊の働き(ヘブル10:1-25)
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 人は、たとえクリスチャンになったとしても、どうにも、罪を犯してしまう。それは、人の生まれつきの体(肉)には、罪のとげが刺さっていて、それはどんな努力や修行でも引っこ抜きようがないからだ。本日、この、人にはどうする事も出来ない罪に唯一対抗できる「聖霊の働き」と、それにあやかる術を身につけたい。

まずは、人の罪が清められる手順を知る必要がある。レビ記16章には大贖罪日の儀式の手順が記されていて、その全手順が成功すれば、その一年間の神との障壁は取り除かれ、神との交わりが保証される。
しかしこれは、根本的に罪を取り除く事は出来ず、むしろ、毎年捧げられる事によって、罪が思い起こされてしまう(ヘブル10:1-4)。結局律法は、来るべき真の事柄の影に過ぎず、人を完全にする事は出来ない。
そこで、書いてある。『キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、「からだ」を備えて下さった。』(5-7節) ここは詩篇40篇からの引用であるが、ヘブル書で「からだ」と書いてある所は、詩篇では「耳」と書いてある。
正常な耳を持っている人は、話を正常に聞き、理解できるが、正常な耳を持っていない人は、聞こえないか、聞こえても理解できない。それであさってな事をしてしまう。耳は人生をつくっていく上で、大事なのだ。
神はいけにえより、むしろ耳で聞いて従う事を、喜ばれる。聞き従う事は、牛や羊のいけにえよりも大事だ。
聖霊がひらいて下さる耳によればこそ、聖書は、今の「わたし」について記されている事を悟る(6-7節)。
聖書は、あの時代の人々に対してのみならず、今、読んでいる「私達」にこそ、語っているのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従って捧げられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。』(8-9節) 人間の大祭司が毎年、同じいけにえを捧げても、罪を除くことはできない(11節)。では現代の私達は、どうすれば良いか。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである・・・彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(10,14節) イエス様は、ただ一度捧げられた事で、完結したのだ!それで私達は、何度もいけにえを捧げる必要は無くなったのだ。

『聖霊もまた、わたしたちに証をして、「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いの内に書きつけよう」』(16-17節) 
ここで聖霊が証している。新契約は、石の板にではなく、私達の心の板に直接、刻みつけられる、と(エレミヤ31章)。今、私達の心に刻みつけられるのは、キリスト・イエスによる「いのちの御霊の法則」である。
『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した』(ロマ8:2) 
この、心に刻まれた御霊の法則に従って歩んでいく時、律法の要求は全て全うされている。こうして、主イエスに罪赦され、御霊によって歩む者は、『「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出す事はしない」と述べている。』(17節) 御霊に従って歩んでいる者は、罪に定められる事は決して無いのだ!(ロマ8:1)

では私達は、悔い改めはもう必要ないのか?否。悔い改めは、聖霊が思い起こさせて下さる都度するべきである。心がそわそわしたり、何かが詰まっている感覚など、聖霊に示された範囲で罪を告白し、悔い改め、あるいは賠償するのだ。『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされた事は長く我々と我々の子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
キリストがただ一度、完全なるいけにえとして捧げられ、もはや罪は思い出さない、と言っておられる以上、出所不明の悔い改めの乱発は、そもそも必要無く、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのだ。
イエス様が彼の肉体を裂いて下さった故、私達は主が開いて下さったその生ける道を通って、大胆にまことの聖所へ入る事が出来るのだ。邪悪な良心が清められ、からだも清い水で洗われた故に。(18-22節)
約束をして下さった方は忠実な方である。
だから私達は、この望みが決して動かされる事なく、しっかりと持ち続け、愛と善行とを励むよう互いに努め、また、互いに集まる事を止めたりせず、互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうして行く皆さんでありますように(23-25節)!イエス様のお名前によって祝福します!

祝福が倍になって流れてくるための二つの鍵(ヨブ記42:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ヨブ記の46回に渡る講解説教が終わった。以前のヨブ記のイメージは、何か知的で崇高な議論が展開されているな、でもあまり読みたくないな、というイメージがあったかもしれない。しかしこの中から多くの真理を発見し、大きな恵みを受けた方もいたと思う。ヨブ記全部のメッセージ概要はホームページに記したが、今回、ヨブ記の最初と最後のキアズムから、ヨブ記の結論と、2倍の祝福を受けるためのコツを探りたい。

ヨブは正しい人で、神を恐れ、悪から遠ざかっている人だった。彼の7人の息子達は、それぞれの誕生日ごとに集まって、飲み食いする事を常としていたが、一巡する毎に、ヨブは彼らを呼び寄せ、彼らの数に従って燔祭を捧げた。もしかしたら彼らが罪を犯し、心で神を呪ったかもしれない、と思ったからである。
それは一見、正しい事のように見られがちだが、罪を犯すかもしれない酒宴の場所で子供達を取り締まる事なく、その日を楽しませ、どんちゃん騒ぎの事後、犯したか犯していないか分からない「あやふや」な罪のいけにえを捧げる事でチャラにしようとしても、サタンの追求は免れられない。
もし「罪を犯したかもしれない」という不安要素があるなら、神が喜ぶ事と忌み嫌う事の何かを事前に教え、それをしないよう指導するべきだった。結局、ターゲット不明の悔い改めの乱発は、罪はこれでチャラになった、自分はもう義だ、という思い込みを助長させただけで、ヨブ自身にも、祈ってもらった息子達も、有害以外のものはもたらさなかった。後に分かるが、ヨブは、「自分は正しい」という思い込みを奥深くに助長し続け、ついには神よりも自分を義とし、3人の友人達を閉口させてしまう程までになってしまっていたのだ。
神はそれを取り扱うために、サタンの申し出を許可し、こうしてヨブは、一切のものを失ってしまう。
こうして、詩文体による長々としたヨブの訴えと、友人達の議論が始まるのだが、主エホバの御名が一切無い人間の議論は、ただ怒りと無秩序をもたらすのみである。しかしヨブが神の直接の取り扱いを受けた結果、ヨブがした「二つの事」の故に、後の人生の祝福が倍になる。膨大な文量に埋もれて見つけ難いが、災いが取り去られ祝福が倍増するコツは、実にシンプルだ。私達は、この「宝」を知らなくてはならない。

その一つは目は、ヨブが神に告白した次の告白だ。すなわち、神はどんな事でも最善を為して下さるのに自分は知りもせず、それを暗くしてしまった、だから自分は自らを捨て、悔い改めます、という告白である。
『それでわたしは「みずから恨み(マアスの未完了単数形:自らを継続して捨て続け)」、ちり灰の中で悔います」』(ヨブ記42:6) ヨブはこの時、それまでずっと握りしめて離さなかった「自分は正しい」「神の仕方は納得できない」という「自ら」を捨て去り、自分を低くした。神の御前における「善悪判断」の放棄である。
それは、無闇に思考停止する事でも、強制力に屈して洗脳を受け入れる事でもない。ヨブが2節で告白した通り、主はその全智の最善をもって全ての事を為すお方だ、それだから、御前に自分を捨てる、という、まことに理に適った、積極的な「捨て」なのだ。これこそ、祝福が流れてくる扉を開ける最初の鍵である。
祝福倍増の二つ目の鍵は、友人達のために、祭司として、神の指示の通りに執り成し祈った事である。
この友人達は、本質を外した格言の押し売りによって、ただでさえ苦しいヨブをさらに苦しめた。神はそんな彼らに、ヨブの所で燔祭を捧げ、彼に祈ってもらうよう指示した。結果、彼らの罪は赦され、同時にヨブにも祝福が帰って来た。以前は息子達のために、無闇な犠牲を捧げたが、今回は神の指示に従い、それも、自分を苦しめた者のため、赦されるよう、主に祈った。義人のとりなしによって、罪を犯した者は罰を免れる。
すなわち神は、義とされた人に、執り成し祈る事を求めておられる。神はアブラハムやモーセの執り成しを聞いて下さり、また執り成す者がいないために神が滅ぼさざるを得なかった事もある。(エゼ22:30-31)
神は、ご自分ひとりで赦しを完結されるのではなく、誰かの執り成しがあってこそ、その人を「赦す」機会を得る。だからこそ人類の贖いには、十字架上のイエス・キリストによる執り成しが必要だったのだ。
執り成し祈る者を、神は豊かな報いを与え、大いなる者として下さる。アブラハムやモーセ、ヨブのように。
ヨブ記の結末は、あっけなく見える。一体あの膨大な問題提起と議論は何だったのだろうか、と思える程。
それ故、祝福の鍵を見落としやすい。祝福の引き金は、ヨブのように、自分を低くし、御前でそそり立つ「自ら」を捨て、悔い改める事。それで義とされたなら、執り成し祈る事である。ヨブ記は人生の縮図と言える。人生の膨大な理不尽への「なぜ」追求や、自己正当化や、神と人とを訴える事を、全てを降ろし、神を高め、人のために執り成し祈る時、大きな祝福に与れる。それが、ヨブ記全体から導き出せる答である。

ほとばしる命の泉の呼び水とは(ヨハネ4:7-15)
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 前回、聖霊のご性質の、流れる川のように人を潤し清める性質を学んだ。今回も続いてそれを学びたい。
『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇く事がないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」』(ヨハネ4:13) 私達がこれを頂くためには、どうしたらよいだろう。
暫く使っていない井戸を、再び水を出すようにするためには「呼び水」が必要であるが、イエス様からこんこんと湧き出るいのちの水を私達も頂くために「呼び水」が必要である。イエス様ははじめに「水を飲ませて下さい」(7節)と女に言われた。イエス様は、罪深いこんな私達にも言われる。「あなたの水を飲ませて下さい」と。では、私達がイエス様に「呼び水」となるべき水を、飲ませて差し上げるためには、どうしたら良いか。
この記事中、女がイエス様に飲ませた記述は、見あたらない。しかし後の記述を見ると、どうやら彼女、イエス様から「生ける水」を頂いて、腹の奥底から水が川となって流れ出たようすである。一体彼女、いつイエス様に「呼び水」を飲ませたのだろう。彼女がイエス様に飲ませた「呼び水」とは、おそらく、次の言葉だ。
「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」(15節)
イエス様への、「その水をわたしに下さい」という、お願い。これこそ、無限に流れ出て来るいのちの水を、イエス様から引き出す「呼び水」である。この言葉をイエス様へ発した瞬間、イエス様は「呼び水」を得て、その人の「渇きの問題」を解決をする支配権がイエス様へ移り、イエス様はその人を潤す働きを開始する。

彼女は、渇きを覚えていた。喉の渇きより、もっと深刻で根本的な「心の渇き」「人生の渇き」を。彼女はその渇きを、結婚や安定、異性という「水」によって癒やそうとしたが、それは、飲めば飲む程渇く水だった。
人は色々な「水」で渇きを癒やそうとする。異性、結婚、金銀、仕事など。それらの「お祭り騒ぎ」(ヨハネ7:37) は、やがて誰もが渇く時が来る事を、前回学んだ。そうした世のものに潤いを求め続けるなら、渇きは癒やされないどころか、もっともっと渇いて行き、そしてそれを手に入れるために奔走した過程で、失敗や恥、破産、人への迷惑、身体の傷などなどの”負の実績”をも積み上げて行く。
それら全ての負の実績を、サマリヤの女のようにイエス様に持って行くなら、神の栄光を現すものへと大転換する。つまり彼女のように、イエス様に向かって、「あなたがくださる水、飲んだら腹の奥底から流れ出るという、その生ける水を、わたしにもください!」と言う事こそ、あらゆる問題解決の呼び水なのだ。
イエス様がこれを「飲む」時、問題が私達の側からイエス様の側へと移り、イエス様が動いてくださる。
彼女がイエス様に、あなたの水を飲ませてください、と言った時、イエス様は働く機会を得、結果的に、彼女は決して今まで満たされなかった霊の空洞が、満たされた。そして、彼女自身の渇きが癒やされただけでなく、その水は川々となって、彼女の住んでいたサマリヤ・スカル地方全体へと流れて行き、その一帯の人々を、根こそぎイエス様へと導いて、この地方一帯が、いのちの水で溢れた。

『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) この、イエス様が下さる水、すなわち「聖霊」が私達に宿る時、流れる川のごとく私達を潤し、私達がいかに、世との摩擦ですり切れ、汚れしまっていても、その聖霊の川の流れに身を置いているなら、どんどん癒やされ、きれいになって行く。その御霊が働くためには、御言葉が必要である。
御言葉という全く純粋なきよめの水に浸され続け、聖霊のきよい流れにひたされ続けるなら、どんどん清らかになって行く。御言葉を習慣的に口ずさみ、自分の中に取り入れる「テフィリン」が、まさにそれである。
いつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に御言葉と一体化し、きよめられ、そして天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて行き、その人の中に、神のかたちが出来上がっていくのだ。
御言葉なるイエス様こそ「在りて在るお方」であり(ヨハネ8:24,58)、全ての存在の源である。(コロサイ1:17)
その御言葉を、テフィリンによって自分の中に豊かに住まわせるほどに、自分の存在根拠、生きる根拠、そしてこのお方を伝える伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行く。それでその人は、心も、人格も、ことばも、人生全ての面において、安定して行く。その取っ掛かりは、全存在の根拠であられるイエス様の所に行って、あなたが下さるという水を、わたしにも下さい!と、お願いする事だ。イエス様は、今生きておられる。このお方に呼び求め、全ての面で潤い、安定した人生を送っていく皆さんでありますように!

流れる川のごとく潤し続ける聖霊(ヨハネ7:37-39)
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 本日は御霊のご性質の一面を、すなわち、その流れる川のごとく人を潤す性質について学びたい。
『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) 時は、祭りの終わりの最も盛大な日。一番盛り上がる日のはずが、イエス様は裏腹にも「渇くなら」と言われる。祭りの「盛り上がり」についていけない人もいるであろうが、結局、人同士の祭り・盛り上がりの行き着く先は必ず「渇き」であり、真に渇きを癒やす事が出来るのは、イエス様だけだ。
5章にも「祭り」の日、イエス様は38年間も病だった人の所に行って癒やして下さった記事がある。彼は38年も病で祭りに参加できず、癒やされる事も、誰かが助けてくれる事も、とうの昔にあきらめ尽くしていた。
そんな「祭り」の最中、イエス様は彼を訪ねて来られ、「よくなりたいか」と言われた。しかし彼は治る事は既にあきらめ切って、ただ自分には「誰もいない」事をイエス様に答えるだけだった。
イエス様は彼に向かい、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。イエス様のそのたった一言を実行した結果、38年も頑固にまとわりついていた病が一瞬で癒やされたのだ。彼は癒やされた後、神殿の中でイエス様に見出された。つまり彼は、無意識的に、よくなったら神に感謝し、礼拝する志があったのだ。
彼は38年、ベテスダから一歩も出ておらず、その間「なにも出来なかった」事で、対人能力が萎え、衰え、自己卑下やマイナス思考などの負の遺産が積りに積もって地層を為していたかもしれないが、そのような人であっても、イエス様は癒す事が可能である。イエス様のお言葉どおり行い、神を敬う志があるのなら。

イエス様は祭りの終わりに、カラカラに渇いていた人々を見るに見かね、大声で言われた。「誰でも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい」と。イエス様は「飲ませてくださるお方だ」と認知すべきである。
どうやって飲むのか?「信じる事によって」である。『わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』(38節) ここの「腹」と訳されたギリシア語はコイリア、他に「子宮」や「知・情・意の座」を意味する。イエス様のお言葉を飲む、すなわち「信じる」なら、何かがすとんと自分の中に入り、その奥底から生ける水が川となって出て来て、自分を潤し、他人を潤す。これは一体何か。
『これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊(プネウマ・ハギオン=聖なる霊)がまだ下っていなかった(be動詞)のである。』(39節) イエス様がまだ栄光を受けていなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、人々にはまだ聖霊が与えられなかった。しかし、イエス様が御父のところに行った事により、助け主・聖霊が与えられるようになる。『しかし助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、またわたしが話しておいた事をことごとく思い起させるであろう。』(14:26)
だから聖霊を受けると受けないとでは、莫大な違いが出てくる。

聖霊を受けない人は、御言葉を聞いても、知的に表面上の事しか理解できない。「手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(詩篇47:1)と書いてあるのを見ても、神学的解釈に走ったり、賛美中に(楽しくないのに)がんばって手を叩くのが関の山だが、聖霊を受けた人が読むなら、腹の奥底から、主を讃えたい気持ちに同調する。主を喜ぶ実感があるからだ。聖霊が来てくださるなら、御言葉を読む都度、神との関係や、神の栄光について教えてくださり、のみならず、人との関わり方も教えてくださる。
聖霊が来る前は、人と会っても挨拶程度で終わっていたのが、聖霊が来ると、その人が今どのような状況で、自分はどう関わらなければならないのか、どう会話を切り出しどう返事をすべきか、細かく教えて下さる。
聖霊は水のように、川のように、流れるもので、渇きを癒やし、人を潤す。それは一時的にではなく、流れ続ける川のごとく、ずっと流れ込んできて、潤し続け、きよめ続けるものである。
御霊の人はその流れに乗り、押し出され、自動的に進んでいく。それは何の無理も無く、楽しい道であり、行けば行くほど潤い、若々しくなり、愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結んでいく。
対して肉の人は、苦心してがんばり続けなければ進んで行かず、良い行いをしようとしても、すぐ疲れ、無理が出て、自動的に不品行や汚れ、怒りなど、肉の実を結んで行ってしまう。『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない。』(ガラテヤ5:16) 常に御霊に歩み続け、豊かに御霊の実を結んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主から重んじられる人と、軽んじられる人(1サムエル記2:17-18)
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 先週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義を行った。前回主日にも学んだ通り、私達キリスト者は預言者として、祭司として、王として神と人々との間の「仲立ち(בֵּין ベイン)」の務めをするために主から任命を受けた者であり、主と主の言葉を重んじ(כָּבַדカバド)、忠実にその務めを果たして行くなら、主からさらに尊ばれ(カバド)、ついには、サムエルのように時代を変える者として大いに用いられる。
しかし、もし主を軽んじるなら、主から軽んじられ、主から警告を受けてもなお主に帰らずに、主から与えられた地位を、ただ自分のために乱用して止めないなら、主はその者を捨ててしまう(マアスמָאַס)。
サムエル記の登場人物達は、そのように明暗がくっきりと分かれて行くが、今回も2章から、主を軽んじ続けた故に務めが剥奪されてしまった大祭司エリの一族と、そして、生まれる前から主に捧げられ、主に見出され、時代を変えるために大いに用いられていくサムエルとの交錯から、私達が進むべき道を見出したい。

サムエルの名の意味はシェマー(聞く)+エロヒーム(神)、彼の母ハンナが、御前で長く祈った祈りに「主は聞いて下さった」という事で付けた名前であり、同時に、神の声を「聞いて」その通り行う者は祝福される事も象徴する。彼は幼い時から主に仕え(2:11,3:1)エリの用事を言いつける言葉にもよく聞いて行動した。
対し、エリの子・ホフニとピネハスは「ベリヤアル(悪魔)の子」で、主を恐れず(12節)、主に聞かない者達だった。ホフニの名は「拳で生きていく人」、ピネハスは「蛇の舌」の意味で、彼らは祭司でありながら、名の通りに「力づく」と「二枚舌」によって生きていく者達で、彼らの罪は主の前に非常に大きかった(2:12-17)。
彼らは、神殿で仕える女達に手を出す程の罪も犯したのに、父は言葉で注意しただけで何もしなかった。
私達は神をカバド(尊重)しなくてはならないのに、エリは息子達のほうをカバドした。それ故、エリの家は最終的に滅ぼされてしまう。重んじてはならない息子達のほうを重んじ、神のほうを軽んじたからだ。
それで主は幼子サムエルに現れ、言われる。『わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神を汚している(מְקַֽלְלִ֤ים メッカーレリーム)のに、彼がそれをとめなかったからである。』(3:13) メッカーレリームとは「カラル(軽んじる)」に、場所を表す前置詞メム(מ)と、複数形のユッド・メム(ים)が語尾についた言葉で、すなわち「神を軽んじる」事が、言葉でも態度でも常態化し、どの場所でも、何度でも習慣化してしまった状態だ。それはまさに、自ら呪いを引き寄せている状態である。
なぜこうなってしまうのか。それは、本人自身が習慣的・日常的にインプット/アウトプットしている事に拠る。

私達の肉は、霊的な喜びよりも、楽しい事・面白い事・興奮する事を求める。ゲームやギャンブル、酒など。
それらは努力無しに簡単に出来、ラクである。その間、現実から離れ、自分のみじめな有様を瞬間的に忘れる事が出来(箴言31:7)、また、酔いしれている感覚が忘れられないので、その瞬間を買うために自分を売り、家族を売り、破滅への一歩一歩をクリアしつつ暴走し、歯止めが効かなくなる。エリ一族はそうだった。
だから、罪が自分の中に場所取りしないよう、そしてそれが習慣化・常態化しないよう気をつけるべきだが、もし既に破滅への道が習慣化されてしまっているなら、そこから逃れる術もまた、習慣化によってである。
サムエルはなぜ、堕落した祭司達の家という、霊的劣悪な環境の中で健全に育ったか。それは彼は「主の前に仕えていた」からだ(2:11,18,3:1)。そして、母の愛情がひと織りひと織り籠もったエポデ(主の御前に仕える祭司の服)をいつも身にまとっていた。私達に歯止めが効かなくなった、習慣化されてしまった罪がある時、サムエルのように主に仕えるエポデを心に思いに身に纏い、そして聖なる交わりの中に身を置き、聖徒達の愛とを「身に纏う」事である。そして御言葉を昼も夜も口ずさみ、テフィリンを習慣化する事である。
罪が自分の中に場所取りする前に、聖なる場所に自分の身を置き、そして自分の中には聖なる御言葉をいっぱいに住まわせる。そうするなら、御言葉が私達の中で陣営を張り、罪が入ってくる事を防ぐのだ。
ユダヤ人の母は、子供が胎に宿った時から、御言葉を口ずさむ事で子供を霊的に守り、赤ちゃんが生まれ出た後も、ハトラーという御言葉の包の中に入れて、世から、サタンから守る。私達も同様に、御言葉で陣営を組んで自分を、子供を、自分の集団を、罪の習慣に染めてしまう世とサタンから守るのだ。御言葉を宣言する事で自分や子を、また仕事場を、御言葉へと浸し込み、世とサタンに勝利する者となり、世を健全な神の言葉へますます浸し込んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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