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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

世と人の汚れから自由になろう(創世記39章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 主はヨセフを当時の一流国・エジプトの総理大臣とし、世界的な飢饉から多くの命を救い、そして、神の民イスラエルの「一家」を「民族」へと成長させるために、素晴らしく肥えた地・ゴシェンの地を受け継がせた。
私達も彼のように、御言葉で養育した栄光の次世代に、素晴らしい相続財産を受け継がせ、この時代の多くの人々を永遠の救いへと導く、「栄光のリーダー」となる術を、引き続きヨセフの箇所から身につけたい。
 
 『ヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長…ポテパルは、彼を…買い取った。 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプト人の家におった。その主人は主が彼と共におられる事と、主が彼の手のする事を全て栄えさせられるのを見た。』(創世記39:1-3)
 ヨセフは何をしても栄え、仕えた主人を富ませた。そうなるための答えは詩篇1篇に書いてある。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない。そして主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ事である。その人は水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても、栄える。ヨセフはその通りの人だった。
彼は兄達の悪事には一切加担せず、いつもそのまま父に告げていた。彼はエジプトで一人になった時も、彼が見た悪事は、全て「父なる神」へそのまま告げ、むしろいつも主を思い、主が喜ばれる事を選んでいた。
 ヨセフは、奴隷として売られる、という理不尽な目に遭ったのに、不平不満を言った記述が一切無い。
どんな災いに見える状況に陥っても、人の悪を思わず、むしろ、この状況は神が与えたものとして、受け入れ、地に住み、誠実を養っていた(詩篇37:1-6)。そんなヨセフに、若い男子には抵抗し難い誘惑が訪れる。
 
 『これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」…彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。』(7-10節) 罪には「楽しみ」があり、その快楽には抵抗し難い魅力がある。私達の「肉」は、それに強烈に引き寄せられてしまう。
 性的な誘惑に限らず、酒やギャンブル、ドラッグなど、はまってしまうと滅びに至る事は分かっていても、その魅力やその快楽を敢えて断絶せず、ちょっと味わっては、滅びの一線は超えない「ギリギリ」を楽しもう、とする人がいるが、そういう人は100%、それに飲み込まれ、身を滅ぼす事になるだろう。
 最も力強い男・サムソンは、デリラという美女を手放さず、彼女とのギリギリの駆け引きを楽しんでいる内に、ついに致命的な秘密を明かしてしまった。ダビデさえ、性的な罪の最初の誘惑を拒否せず、一線を超えてしまったために、その後、ずるずると殺人の罪さえ犯すはめになってしまった。
  こうした誘惑への、唯一の対処方法は、ヨセフがしたように、「逃げる」事である。誘惑に見入ってはならない。それが服をつかんで来たら、服を脱ぎ捨てて、逃げるべきである。これは性的な罪や、ドラッグなど、明らかに悪いと分かっているものには限らない。スマホやインターネットなど、正しく用いれば有益なものであっても、それがあなたをつかんで、堕落へと誘い込んで来るなら、服を捨ててでも、逃げるべきだ。
 ヨセフはなぜ「逃げる」という賢い選択ができたか。人の悪や、理不尽な状況を見ると、怒りや妬み、破壊的な思いが沸き起こって、それを思い巡らしたり、あれこれ言ったり、何か行動したい、という強力な「粘着力」がある。しかし彼は、そうした汚れを、ぺたぺたと付着させない、思い巡らせない、すぐ忘れる、「すべすべした心」だった。「ストレスフリー」という言葉があるが、ヨセフの性質は「汚れフリー」なのだ。人からの理不尽な対応や、不条理な世の有様に、心を付着させたり、思い巡らしたりせず、いつも自由だった。
 そうなる秘訣は、人が仕掛けてくる理不尽や、世に不条理な事が起きた時、それを思い巡らさず、1秒でも早く、父なる神へ「スルーパス」し、彼自身の中に1秒も長く留め置かなかったのだろう。むしろ、彼がいつも心に留め置いたのは、神が見させて下さった夢だった
 
 私達も彼の性質を目指すべきである。ヨセフのように、人のした悪や、理不尽な状況に一切捕われない、汚れをぺたぺたつけない、すべすべした心を。心が汚れに飲み込まれそうになった時、1秒でも早く、父なる神へ「スルーパス」するのだ。イエス様も言われた。心のきよい者(単一な者)はさいわいだ、その人は神を見るから(マタイ5:8)、と。天にはいつでも、主イエス様がおられる。その、主がおられる天の雰囲気、天の清らかさ、天のすがすがしさを醸し出し、どんな悪の状況でもそれを失わない皆さんでありますように!
 

主日礼拝

真の自由人・天国人となろう(創世記37章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 私達はこの時代、栄光の次世代を御言葉で養い、育て、多くの人々を救いへと導くリーダーとなる事を求めている。ヨセフはエジプトの総理大臣となって多くの人々を救い、イスラエルを「家族」から「国家」へと成長させるシステムを、よく肥えた地・ゴシェンの地においてつくった。まさに私達のお手本と言える人物である。彼の性質はどのようで、どうすれば彼のようになれるか。今回、新たに得た恵みを分かち合いたい。
 
 ヤコブの子・ヨセフは、信仰の優れた父から、特別に愛され、父から直々の信仰教育を受けた。それで彼は、神を第一に考え、悪には一切手を染めず、正直に生きる思考パターンを、幼児期から身につけた。
子供は幼い内から、御言葉教育を、親が直接する事が重要である。幼い時にしっかり御言葉を思考に刻みつけておけば、たとえ、環境が悪い人が集まる所に放り出されても、神中心の思考から離れないからだ。
 ヨセフは、兄達の悪事には一切加担せず、むしろ、その悪事をいつも正直に父に告げていたので、ますます父から愛され、兄達から憎まれるようになった。神はそんなヨセフを、乱れた世を変える救済者、指導者、そして少数だった神の民を国家へと成長させるリーダーとして選び、その将来を、夢によって示された。
 『私達が畑の中で束を結わえていた時、私の束が起きて立つと、あなた方の束が周りにきて、私の束を拝みました…。私はまた夢を見ました。日と月と十一の星とが私を拝みました』(創世記37:6-9) これらの夢は、あまりにリアルで、印象深く、何年も記憶に残った。これは神が見せて下さったと確信したので、兄や父に言わざるを得なかったが、兄達の”ヨセフ嫌い”は決定的なものとなった。ヨセフは確信していた。この夢は必ず成る、と。そしていつも思い巡らしていたので、兄達は彼を「夢見る者」と揶揄するようになった。
 私達もヨセフのように、神を第一にし、世の罪には一切加担せず、むしろ世の指導者の悪事はいつも父なる神に告げているなら、神は、夢をはっきり見させて下さる。世を変える救済者、神の民を養うリーダーとしての夢を。その夢が与えられたなら、それをしっかり握りしめ、いつも思い巡らし、周囲の人に証するのだ。
  ヨセフはそんなある日、父から用事を言いつけられた。兄達が遠く離れ羊を飼っているので、心配だから見に行ってほしい、と。兄達は、いつも悪い事をしては、それをヨセフに告げ口されていたので、彼が近づいて来るのを見ると、「あの夢見る者が来る」「さあ彼を殺して、彼の夢がどうなるか見よう」と言い合った。
しかしヨセフは殺される事を免れ、兄達が知らない間に、別の者にエジプトへ売られてしまっていた。
 ヨセフはこれを機に、何度も理不尽な目に遭ったのに、不平不満を言った記述が一切無い。彼はどんな災いの状況に陥っても、人がした悪を思わず、神から与えられた状況を受け入れ、「誠実」を養っていた。
 どうして彼は、そんな人間離れした考え方なのだろう。それは彼は、人のした悪に心が囚われ縛られるよりも、神が与えて下さった壮大な夢のほうに目を留め、思い巡らすのが好きだったから、ではないだろうか。
 例えば、Aという人が、理不尽で腹立たしい事をした時、Aに腹を立て、Aを思い巡らしている間は、Aの悪に負けている状態、捕縛されている状態である。その「思い巡らし」を止めないなら、その監獄に何年、何十年も、囚われ続けてしまう。神の民である私達は、そんなものに囚われたり支配されるべきではない。
 他人から受けた汚れに囚われ、不満や怒り、そねみ、殺意に燃えている状態では、主は働けない。ヨセフが世界的に用いられたのは、そうした汚れから、自由な人だったからであろう。この粘着性のある腹立たしさや、汚れた情欲を、唯一、打ち破る事が出来る方法は、人のした悪は全部、イエス様の名前によって神に告げ口し、吐き出し、そして神が見せてくださる夢やビジョンにこそ、目を留め続ける事である。
 ヨセフは、人の悪意、仕掛けて来る罪や誘惑、理不尽な仕打ちに、心縛られず、ただ神に心を向け、与えられた役割が、もし奴隷仕事なら奴隷仕事に、監獄の囚人なら監獄の囚人として、最善を尽くし続けた。
 そうして自分の価値を高めて行く事を続けて行った結果、仕えた主人を富ませる者となり、さらには総理大臣とされ、闇にあえぎ旱魃に苦しむ世界を救う者、神の民を大いに養い増え広がらせる者となった。
 ヨセフは、本当に自由だった。これは、怒りや誘惑をむりやり押し込めたりガマンするのではなく、神が与えて下さった夢をいつも握りしめていたから、どんな状況にも、希望を失う事無く、高貴さを失わなかった。
  私達も、世に属する者ではなく、天に属する者だから、この世のどんな状況にもどんな罪にも束縛されない「自由人」になる事を目指すべきである。いつでも主イエス様を思い巡らし、主がおられる天国の雰囲気、天国の美しさ、天国の広大さ、天国の清らかさ、天国のすがすがしさを醸し出し、どんな悪の状況でもそれを失わない皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

パウロとテモテから学ぶ真の親子関係の絆(2テモテ1:1-8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は父の日、普段から一家を守り養うために働いている父に感謝する日である。私達には肉の父がおり、霊の父もいる。たとえ血の繋がりはなくても、キリストにあって、血の繋がりよりも濃い「真実な父子関係」がある。今回、パウロとテモテの霊的父子関係から、キリストにある親子関係のあり方を見直して行きたい。
 
 パウロは結婚はしておらず、子はいない。しかしテモテを「真実のわが子」(1テモテ1:2)と呼んだ。つまり、福音を伝道されて、信じて、霊において新しく生まれた人にとっては、イエス様を伝えてくれた人こそ霊における真の親であり、また、常日頃から御言葉によって霊的に養っている人こそ、真実の父、また母なのだ。
 霊の親は、夜となく昼となく、霊的に面倒を見ている「真の子供」のため、祈るものである。パウロは日頃、夜昼祈る習慣があり、その祈りの内で、いつもテモテの事を思い起こしていた(2テモテ1:3)。
 『わたしは、あなたの涙を「おぼえ(させられ)ており(現在形受動態)」、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。』(4節) パウロはこの時、聖霊によって、テモテの顔が思い浮かばされたが、その顔は、涙を流していた…。それでパウロは、是非ともテモテに会いたいと思った。けれども今、牢に繋がれており、しかももうすぐ処刑される事が何となく分かる。その状況で、このテモテへの手紙を書くに至った。
 現代は、顔を見たくなったり、声を聞きたくなったら、スマートフォンを取りだせば良いし、また何千キロの距離でも、車や飛行機で、すぐに行く事が出来る。しかし当時は、そう簡単には行かない。切に会いたい時は、ただ相手を思い巡らし、祈る以外には無かった。私達も、霊的息子・娘を養う時、日夜、愛を込めて祈り続けるなら、彼らの状況が、霊によって良くわかる。あ、今この子は泣いている。今この子はうまくやっている、と。世の理論やモノ、方法に手軽に手を伸ばす以前に、よく祈るなら、その子は健全に育つのだ。
 
 テモテはその時、なぜ涙を流すような状況だったか。彼はその当時、エペソ教会の担任牧師としてパウロから按手を受け、若きリーダーとして頑張っている最中だった。当時、エペソの教会は、異端がはびこる危険性があり、教会の中でも諸々の問題があった。そんな彼に、パウロは的確にアドバイスをする。
 『こういう訳で、あなたに注意したい。わたしの按手によって内に頂いた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神が私達に下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(6-7節)
 
 今、本当に私達も、涙を流したい時代に生きている。コロナがはびこり、諸々の情勢は悪化し、将来の不安がある。若い世代がこれから生きていく将来のため、自分達は何を彼らに備え、残してやれるだろうか…。
 パウロはアドバイスする。全ての肉の親・霊の親に、全て涙を流しながら任に当たっている働き人に、また、リーダー達に。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」と。
 私達に助け主・聖霊が来るなら、イエス様が成したわざをする事ができ、また、それ以上の事ができる!
その助け主は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊である。聖霊の第一の現れは「力」であるが、ただのイケイケな力ではなく、慎みの霊でもある。その、力と慎みとの中心にあるのが「愛」、これこそ重要である。
 全き愛は、恐れを締め出す。もし恐れているなら、愛が全うされていない状態だ。しかし子供や兄弟姉妹を何とかしてやりたい、という愛が燃え立たされているなら、恐れず、ひるまず、大いなる働きをしていく。
 テモテは思い起こす事が出来た。自分は、パウロから按手を受け、その時にいただいた霊は、力と愛と慎みの霊だ!と。 その後、テモテが素晴らしい牧会をして教会を成長させた事は、エペソ教会の遺跡が物語っている。今は廃墟だが、エペソ教会は、長さ400メートル、馬が内部を通れるほどの建物だった。
 
 肉の親子関係であれ、霊の親子関係であれ、私たちはどれほど、愛をもって父母の役割を果たしているだろう。あるいはどれほど、日頃養いをいただいている父母に感謝しつつ従っているだろう。
 私達もパウロにならい、子のために日夜、祈りに覚えるべきである。また、テモテのように、霊の父母からいただいた御言葉を思い起こし、与えられている御言葉と聖霊によって、力と、愛と、慎みに富んだ働きをしてゆくべきである。私達はますます立派な霊の親となり、また、霊の養いをいただいている霊的な父母を敬い、素晴らしい愛の関係を保っていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
時代の支配者・先駆者となって行くために(ヨシュア記1:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 世界は、新しい時代に突入している。自動化やAI化が進み、今まであった仕事がどんどんコンピュータに奪われつつあるこの時代、今までの固定概念に安住し続けて、それ以上の事をしないなら、どんどん他人やコンピュータに主導権を奪われ、ただ、与えられた仕事しか出来ない奴隷のような人生になってしまう。
このような時代でも主にあって主導権を勝ち取り、支配者となるため、今回はヨシュア記から恵みを得たい。
 
 ヨシュア記は、今までの偉大な指導者モーセが死んで、まさに新しい時代に突入した時点から始まる。
 『今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:2) まず、一番先に超えなくてはならない境界は、ヨルダン川である。
それまでは、ヨシュアも、イスラエルの民も、モーセ抜きで主体的に動いた事はなかった。ヨルダンのこちら側には、既に、ある程度の良い領土を勝ち取っていた。わざわざヨルダン川を超えて、父の代が恐れ尻込みして入って行けかった、あのカナンの地へと入っていくには、未知の恐怖や躊躇はあったかもしれない。
 しかし、主が「行って、獲なさい」と言われた領域は、ヨルダン川のこちら側にとどまらず、ヘテ人の全土や大河ユーフラテス、および、日の入る大海に至るまで、という、遥かに広大で、豊潤な地だった。(4節)
 今、私達も同じチャレンジを受けている。今、私達はそこそこ快適な暮らしが与えられているかもしれない。
そこに満足して「何でわざわざ未知の領域へ踏み出さなくてはならないのか?」と思っていないだろうか?
私達は今、聖書に書かれてある全部の、どれくらいを経験しているだろうか?約束された祝福の、どのくらいを勝ち得ただろうか。約束の聖霊をいただいているだろうか。癒しやしるし、奇跡を体験しているだろうか。
イエス様のわざを、どのくらい行っているだろうか?もし得ていないなら、私達も勝ち取って行くべきである。
 主はヨシュアに保証を与えられた。「あなた方が、足の裏で踏む所は皆、わたしがモーセに約束したように、あなた方に与える」(3節) 足の裏で踏む所が自分のものとなる約束は、自分の目や判断で進もうとする、生来の性質と決別し、ただ主の約束に従って歩む事を示した時に与えられる。信仰の父・アブラハムに「足で踏みゆく所はことごとく与える」と約束が与えられたのは、そのようなロトと決別した直後だった。
ヨシュアにこの約束が与えられたのも、神の約束を退けた不従順な世代が、皆、死に絶えた後だった。
 主から言われた通り、彼らがヨルダン川の前まで来た時、契約の箱をかつぐ祭司達が水を湛えている川に、一歩足を踏み入れた時、川は堰き止められ、祭司達は契約の箱をかつぎながら、川底に留まり続けた。
それを見たイスラエルの民は、安心して、せき止められた川を渡る事ができた(3章)。私達も、私達の子供や、信仰の後続達の牽引役になるために、この祭司達にならい、「現代の契約の箱」を担いで行くのだ。
 現代の契約の箱とは、「旧契約聖書」と、「新契約聖書」、この契約の書に書かれてある内容を信じ、行い、その内容を担いだ人生を歩んで行くのだ。契約の箱の中には、仝羝斥佞記された石の板と、▲泪覆入った金の壷と、2蠅鬚佞い織▲蹈鵑両鵑あった。私達も仝羝斥佞修里發里函↓⊃世いのちを養って下さる約束と、そして、死からいのちへの復活のしるし・永遠の祭司のしるしを握りしめて行くのである。
それらを担いで進み行くなら、たとえ死の川が横たわっていても、それを踏みつけ、進み行く事が出来る。
 
 『あなたはこの民に、わたしが彼らに与えるとその先祖達に誓った地を獲させなければならない』(5-6節) 
私達も、主が約束して下さった地を、子々孫々へと継がせなくてはならない。主が与えると約束して下さった地は、申命記11章に記されている素晴らしい地である。すなわち、そこは自分で種を蒔いたり、自分の力で水をやらなければならない地ではなく、山と谷の地で、天の雨で潤っている。そこは主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えずその上に目を留めておられる(申命記11:11-12)。
 そのような素晴らしい地が与えられるのは、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィリン世代にのみ、である。
なぜなら申命記の続く13節以降にそのように書いてあるし、またヨシュア記も以下のように続くからである。
 『この律法の書をあなたの口から離す事なく、昼も夜もそれを思い、その内に記されている事を、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(8節)
 この困難な時代、勝利者・支配者の側になるため必要な事は、自分の目や判断で進む生来の性質と決別し、御言葉を昼も夜も口ずさみ、神の約束をしっかり握りしめる「テフィリン世代」となる事だ。世の固定概念に縛られず、大胆に御言葉を実行し、大胆に支配権を獲得し、多くを得ていく皆さんでありますように!
 

 

主日礼拝

助け主が来るなら、私達も癒しの奇跡ができる!(マルコ9:23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ペンテコステ前、マルコの部屋に集った聖徒達は、イエス様が約束して下さった助け主・聖霊がすぐ来る事を期待し、来たなら、自分達もイエス様がしたわざをする事ができる、いや、それ以上の事ができる!と、ありありと思い巡らし、待ち望み続けた結果、実際にペンテコステの日に与えられ、実際にわざを行った。
これは今の私達にも起きる事である。むしろ、今の時代の日本こそ、聖霊によるしるしや奇跡が必要である。
なぜなら、そのわざによって、神を知らなかった人が、神を知るようになり、信じなかった人が信じて、救われるようになるためである。だから今、私達も、あの時代の使徒にならい、イエス様の奇跡をありありと自分のものとするため、聖書を開いて、イエス様がなされた奇跡を一つ一つ確認し、助け主が来るならば、これらは2020年を生きる今のわたしにも起きる!と、信仰を混ぜつつ思い巡らし、自分のものとして行きたい。
 
 福音書でイエス様がなされた奇跡の内、最も多かったのが、癒しの奇跡である。イエス様が行かれた所では大勢の病や、悪霊憑きや、てんかんが、癒された。(マタイ4:23、8:14、マルコ1:29、ルカ4:38、6:17)
らい病を患っている人は、それが清められ(マルコ1:40、ルカ17:11)、皮膚の病は癒された。 (ルカ14:1)
また、手や足が萎えた人など、完全でなかった体が、完全にされた。 (マタイ12:9、マルコ3:1、ルカ6:6)。
また、弟子が勝手に切り落としてしまった耳を癒やし、弟子の不始末の責任を取られた(ルカ 22:50)。
 また主は、御言葉の宣言によって遠隔地の人を癒された。主は、「お言葉さえ頂ければ(たとえ面と面を向かっていなくても)癒やされる」、という百人隊長の信仰通り、彼のしもべを癒され(マタイ8:5、ルカ7:1)、また、王室の役人の息子も、遠隔地から癒しを宣言したちょうどその時、息子は癒やされた。(ヨハネ4:43)
 また、第三者の執り成しを聞き入れて癒やされた事も多々あった。(マタイ14:34、9:1、マルコ6:53)
 主は個人個人に、その癒す相手に応じ、それぞれ個別の対応をされた。主は、ベテスダの池で38年、病で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1)、耳が聞こえず舌の回らない人の耳には、指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、「エパタ」と言って耳を開き、舌のもつれを解かれた(マルコ7:32)。また、見えない人の目に唾をつけて癒し、さらに人が木のように見えてしまう目を、はっきり見える目へと癒した (マルコ8:22)
 生まれつきの盲人の目に泥を塗って、シロアムの池で洗うようにと指示し、彼がその通りすると、見えるようになった(ヨハネ9:1)。また、盲人バルティマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びに応じ、癒して下さった(マタイ20:29、マルコ10:46、ルカ18:35)。このケースのように、主は癒やされた時、「あなたの信仰があなたを救った」と、よく言われた(マタイ9:22、マルコ5:34、ルカ7:50、8:48)。
 また、自分自身の信仰一つで、主から癒しを引き出してしまったケースもあった。十二年間長血を患っていた女は後ろから主の衣の房に触れて癒しを引き出し(マタイ9:18、マルコ5:25、ルカ8:40)、また、ツロ・フェニキヤの女は、主の言葉を掴んだ信仰告白によって、娘の癒しを主から引き出した。(マルコ7:26)
 
 私達も助け主が来て、聖霊に満たされるなら、これら全てのわざを行い、またそれ以上の事をするのだ!
悪霊やてんかんによって悩まされているだろうか?助け主が来るなら、それらをイエスの名によって癒す事ができる! 皮膚の病や、人から「汚れている」と言われる病を持っているだろうか?助け主が来るなら、それらを清められる! 手足など肢体の完全さを失ってしまっているだろうか?それらも癒す事ができる!
 目がはっきり見えないだろうか?人が人として見えず、木が歩いているかのように見えてしまうだろうか?助け主が来るなら、そのような人を癒やす事ができる! 助け主が来るなら、12年来でも38年来の病でも、長年治らなかった病が癒せる! 助け主が来るなら、耳や目が塞がれている人に「エパタ!」と言って開く事ができる! 舌がもつれてうまく言えない舌も、解ける! 弟子が犯した不始末の責任を、癒しによって補償できる!そうして癒しのわざを人々が見るなら、主が確かに生きて働かれる事を知り、衣の房を触れるだけで癒しを引き出したり、あるいはパウロのように、前掛け布をかざすだけで、癒やす事も、起こるだろう。
 
 今まで、こう言うのは「おこがましい」、癒しはイエス様の専売特許で、イエス様なら出来ても自分には出来ない、と言って来たのは、私達・信じる者にも与えられていた特権を制限する事だったと反省しなくてはならない。聖書に書いてある内容で、「まさかここまではできないだろう」と思えていた事は、どんどん「聖霊が来るなら自分にもできる!」と塗りつぶして行き、主のわざを実際に行っていく皆さんでありますように!

主日礼拝

期待し望む者に与えられる聖霊(ヨハネ 14:11-21)

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週報/メッセージ(説教)概要 

 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)。主が弟子達に約束しておられた通り、聖霊が与えられ、その日を境に、彼らはイエスを大胆に証する強力な働き人へと変えられた。今の日本ほど、聖霊によるしるしや奇跡が必要な時代はない。世の人々は、教会が世に媚びて発信する知識や哲学めいた事、エンターテインメントなどでは、釣られない。そうしたものは幾らでも世にあって、そちらのほうが魅力的だからだ。しかしもし、有り得ないような奇跡や癒し、しるしが起きるなら、彼らは、そのわざによって信じるようになる。(ヨハネ14:11)
 奇跡やしるしが起きる理由は、それによって人々が驚き怪しみ(5:20)、神が栄光を受け、また神の子が栄光を受けるためであり(11:4)、神を知らなかった人が知るようになり、信じようとしない人が信じて救われるためである。私達は、この聖霊の働きが実際に起こる!と、どれほど具体的に信じ、期待しているだろう。
 聖霊充満にあずかれる人とは、主から言われた事を思い巡らし、そうなる、と期待し続ける人である。
復活の主が昇天される時、500人以上の人々が集まっていたが、五旬節の日に聖霊充満を体験したのは、たった120人だった。残りの380人は、期待し続けられず、去ってしまったのだ。具体的に期待し、望み続ける事こそ、聖霊を受ける条件である。では、私達がその「期待」の度合いを高めるには、どうしたらいいか。
 
 当時、弟子達は共に集い、共に賛美(テヒラー)し、祈り(テフィラー)に専念していた。当時ユダヤ人の賛美は、詩篇にメロディをつけて歌うというもので、当時の祈りは、聖書の言葉をそのまま暗唱する事だった。
 それを反復するのが、我々がしている「テフィリン」である。主の言葉をじっくり思い巡らし、宣言し続けていくと、矢のように飛んで来る言葉や、感動する言葉、心について離れない言葉が現れる。それをさらに思い巡らし続けて行くと、どんどん清められ、内側に聖なる領域がどんどん広まり、また、罪や肉欲の領域がどんどん縮小されて行く。そうしてどんどん、主のわざを為すのに適した器となって行く。そして、ついに主のタイミングが来た時、聖霊が爆発的に働き、もの事、人、状況に対して、圧倒的な主の御業が遂行される。
 だから私達も、弟子達がしたように、主の言葉を喜びつつ期待するのだ。聖霊が来るなら、主がしていたわざが自分達にもできる、今までイエス様に関心が無かったあの人が、俄然聞くようになる、今まで山のように動かなかった状況が動き、癒されなかった病が癒され、出ていかなかった悪いくせが出ていく、と。
 
 異邦人が集団で聖霊充満するきっかけを作った、百人隊長のコルネリオは、元々、ユダヤ人の信仰を見て、自分もそうなりたいと「期待」し、ユダヤ人のように祈り(御言葉を黙想し)、断食し、施しをしていた。
 彼がペテロを招いた時、家族や多くの友人達も、そこに招き寄せていた(使徒10章)。カイザリヤという娯楽や誘惑が多い町で、ローマの百人隊長が、被支配国の一般人から宗教的な指導をいただく集会…。
人数を集めるのはとても難しそうだが、彼はどうして多くのローマ人を集められたのか。それは、彼はいつも「期待」していた故だ。それで、彼の祈りや施しにはいつも祝福がついて回り、彼がいつも良い方向へ変わっているのを、家族や友人達が見て、彼が信じる神は本当にいるかもしれない、と思われていたのだろう。
 果たして私達は、御言葉に期待して良い方向に変わった姿を、家族や友人から評価されているだろうか。
もし自分が変わらないまま、福音を伝えたり、教えても、聞きはしないだろうし、集会に来てもらえないだろう。
だからまず、御言葉に期待し自分が変わる必要がある。祈りや賛美を「ルーチンワーク」にしてはならない。
祈りと賛美に真心を込め、主のうめきを共に感じ、切に祈るのだ。イエス様、この事は一体どうしたらいいですか?このままではわたしは潰れてしまいます。このままではあの人は滅んでしまいます。このままでは国に将来はありません。ああ主よ!と。偉大な王・ダビデがいつもそのようだった事は、詩篇を読めば分かる。
ルーチンワーク的な礼拝を、主は嫌う。ルーチンワーク化されたパリサイ人の礼拝より、胸を叩いて涙を流した取税人の礼拝のほうを、主は選ばれた。主はうめき、痛み、喜びの余韻を持っている人を求める。
 だから、いつも「神の国の余韻」を持っているべきだ。この余韻を習慣的に持っているなら、町を歩いていて、全く知らない人をぱっと見ても、なんであの人はあんな事するんだろう、主よ!といううめきが出てくる。
 普段からのうめきが無いなら、たとえ御言葉を宣言しても、あるいはその人を前に祈っても、上っ面の祈りしか出てこない。いつも人に対し、時代に国に対し、イエス様、なんとかしてください、とうめきを持つべきだ。
 今、私達は期待しつつ、聖霊を求めるべきである。助け主が来るなら、主のわざを行う事ができる。物事が変わっていく。それをありありと望み、実際に得て、多くの人をイエス様へと導く皆さんでありますように!
 

主日礼拝

力を着せられるまで、都にとどまっていなさい(ルカ24:49-53)

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週報/メッセージ(説教)概要

 次週は聖霊降誕日である。聖霊が来ると主の力強い証人となり、罪について、義について、さばきについて、世にその過ちを認めさせるようになる。また、人や物事に対する識別力が与えられ、言葉や人間関係でつまづいたり、失敗したりしなくなっていく。五旬節をもうじき迎える今、私達はいかに備えたら良いか。
 
 『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなた方に贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなた方は「都(ポリス:城壁がある大きな町)」に留まっていなさい。』(ルカ24:49) 主は、「力を着せられるまで留まりなさい」と言われた。だからそれまで、勝手にあれこれするべきではない。しかし聖霊が与えられる時、内から込み上がってくる聖なる衝動に突き動かされ、聖なる行いをし、聖霊が語らせてくださるままを語る。
聖霊が働く時、失敗は無いが、聖霊抜きに、自分で編み出した力で神の国を立てあげようとすると、必ず失敗する。サラは、約束の子が与えられるのを待ちきれず、ハガルを通して苦い根を残し(創世記16章)、サウルは、サムエルが来るのを待ち切れず儀式を行い、王国が立つ事を逃してしまった(1サムエル13章)。
 
 初代教会の聖徒達は、力を着せられるまで待ったが、その間、エルサレムに留まって何をしていたか。
彼らは、非常な喜びをいただき、いつも神を褒め称え(テヒラーתהלה)て(49-53節)、また共に心を合わせて祈り(テフィラーתפלה)に専念していた(使徒1:13)。これは聖霊を待ち望む私達もするべき事である。
 私達も、聖徒の交わりという城壁の町の中に留まり、共に賛美し、祈り続けるのだ。祈り(テフィラー)は本来、主の御言葉を暗唱する事で、それを反復すると「テフィリンתפלין」となる。そうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて、非常な喜びが沸き起こり、それにメロディがついて賛美(テヒラー)となる。
 マリヤのように、主の言葉を繰り返し思い巡らしていると、矢のように飛んで来て刺さるような言葉が現れ、また、感動し涙する言葉、心から離れない言葉が現れ、大いにアーメンし、賛美したくなる。この人知を超えた経験をするのは、神の言葉は霊であり、生きており、その霊が、私達の霊と共鳴するからだ。
 こうして賛美、祈り、テフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが、確信となり、アーメンとなり、それが貯まりに溜まってデュナミス(力)となり、それが見える世界で実体化し、力強く神をあかしするようになる。
 だから、御言葉を昼も夜も口ずさめば口ずさむほど、その言葉の高さ、広さ、深さを理解し、知恵と啓示の霊で満ち溢れる。そして、目の前にある人が来た時、または何かの事象が起きた時、それまで思い巡らして来た、エネルギーを帯びた言葉に、主がエンジンをかけて下さり、主のタイミングにより溜まっていた聖なるエネルギーがほとばしり出て、目の前の人、モノ、状況に対して、主の御業が”ばんっ”と遂行される。
 
 言葉には、3種類ある。思いの中の言葉と、態度という言葉と、口から出て人に聞かせる言葉であるが、思いの中の言葉が、一番大事である。人は、言葉を蓄えた器のようで、その器の中に蓄えて来た言葉を源とした言葉が、思いの中に、電光掲示板のごとく流れ、そうして思い巡らしている言葉が顔の筋肉を動かし、表情に現れ、または態度に現れ、それが定着して、顔立ちや言動パターンが、そして人生が出来上がる。
悪い言葉を蓄えて思い巡らしているなら、人相が悪くなり、健全な言葉を蓄えているなら、顔立ちが良くなる。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄えている言葉が悪いなら、人相の悪さは治りようが無い。
 良くない言葉を内に溜めていると、良くない事を引き寄せ、嫌な思いをするので、内なる言葉を入れ替える必要がある。良くない言葉は、健全で積極的な「主の言葉」によって打ち消す以外には無い。
 もし主の言葉を思い巡らし、豊かに蓄え、その健全な言葉を豊かに自分に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して状況や気分によって左右されないし、一発屋的に終わるのでもない。
御言葉を思い巡らし、反復して宣言し、霊に染み込んだ御言葉には、腹の奥底からの確信があるからだ。
 
 今、コロナの危険がある現代、私達は悪者のはかりごとに歩んだり、罪人の道に立ったり、あざける者の座に着いてはならない。主の守りの保証から外れてはならない。むしろ聖徒の交わりの城壁の内にこもり、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむべきだ。そうすれば、時が来れば実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える保証が得られる(詩篇1篇)。この時代、留まるべき御言葉に留まり、やがて聖霊の力が着せられ、大いに主の働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

「変異型ソロモン」が書いた書の読み解き方(伝道者の書9:9-16)

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週報/メッセージ(説教)概要

 伝道者の書は、世界で最も知恵に恵まれたソロモンが書いた書だが、彼が行きついた境地は「全てがむなしい」だった。ソロモンは、若い時、素晴らしい信仰を保っていたため、神は彼を祝福したが、富と名声が増し加わるにつれ、彼は多くの妻を囲い、異邦の女達にたぶらかされ、偶像の宮を建てるようになり、主から二度も戒めを受けたのに聞かなかった。それで彼の後半人生は、ただ「むなしさ」で満ちるようになった。
 その堕落後のソロモンが書いた伝道者の書は、主を知らない人達には、非常に共感できる書である。
イエス様抜きで知恵を積み上げた人間が行き着く、究極の境地は、「全ては空」であり、これが、世の宗教・哲学の究極思想である。それとは違って、イエス様を信じ、御言葉に従って歩み続け、天国行きが約束されている私達・信仰者は、どう「虚しさ」を打ち破るか。この伝道者の書から、逆説的に恵みを頂きたい。
 
 『全てあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。』(9:10) ソロモンは他人も陰府に行く事前提で書いているが、私達はここにアーメンしてはならない。私達信仰者が行く先は「陰府」ではなく、パラダイスだから。確かに聖書は、伝道者の書も含め、全て真理である。しかし、御言葉を正しく守り行っている信仰者には呪いの言葉は当てはまらないように、御言葉の全てが、私達に当てはまる訳ではない。もし、聖書で伝道者の書が一番共感できる、という人がいるなら、その人は陰府に行く事を前提に生きており、天国が実感できない人だ。その人はむしろ、イエス様が示された十字架の愛と贖い、福音の恵みにこそ心を向け、それを感謝して受け入れるべきである。
 私達は、正しく歩んでいた時の「信仰者ソロモン」が書いた箴言と、神から離れた「変異型ソロモン」が書いた伝道者の書とで、対応の仕方を変える必要がある。だから10節は、次のように読み替えたほうが良い。
 「全て、あなたの手のなしうる事は、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行く天国は、死も、涙も、夜も、呪われるべきものは何一つなく、ただ、神の栄光と感謝と賛美で満ちた永遠の住まいだからである。」
 私達はイエス様にあって、いかなる立場であるか、聖書の他の箇所に即して、自分に当てはめるべきだ。
  11節では、強い者が必ずしも勝つ訳ではなく賢い人が必ず得るというのでもない事を論じているが、ソロモンはそれは「時と機会」、つまり「偶然」による、とした。彼の思考からは、一切、神が抜けてしまっている。
 『人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。』(12節) 神を認めたくない人は、全ての事象を偶然の産物にする。生きものの存在も、自分の存在さえも。彼らは、自分の力を根拠に生きるため、自分が構築した基盤がいつ「偶然に」壊れるか分からず、いつも漠然とした不安を抱えている。しかし聖書は言う。全能なる神、愛なる神は、人を愛し、いつも最善の時に最善のものを与えようと、量っておられる。
  さらに13節以降に、ソロモンが心に留めた出来事を書いている。ある小さい町に、大王が攻めて来て、町が今にも滅ぼされそうな時、一人の貧しい人が知恵を用いて町を救った。しかし誰一人、その貧しい人を記憶する人がなかった。何と報われない事だろう、人が望むもの(お金、才能、美貌など)が乏しい人は、知恵を持っていても無駄なのだ、と。人は結局、豊かか貧しいかによって全て決まってしまうのだろうか?
私達は、「変異型ソロモン」の言葉を、そのまま自分に適用してはならず、イエス様にあって、他の御言葉を自分に適用しなくてはならない。ソロモンは、貧しい人は報われないかのように言ったが、イエス様は、金持ち達が捧げた大金には目を留めず、一人の貧しいやもめが捧げた2レプタに目を留められた。主は全ての人をご覧になり、彼女が全てを捧げるほど主を愛し、主に信頼していた事をご存知だった。
 ソロモンは、知恵があっても、貧しい人がした事は、誰も心に留めてくれない、と判定したが、主は敢えて、誰も心に留めてくれない貧しい道を歩まれた(イザヤ53章)。『主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。』(2コリント8:9)
 人々に称賛されたり、お金持ちになって美味しいものや異性で楽しむ事が全てだという「変異型ソロモン」タイプの人には、決して理解できないが、イエス様は神であられる立ち位置を捨て、貧しくなられ、実に、十字架の身代わりの死を通して、私達を買い戻し、罪と死から解放して下さった。これは偉大な事であって、決して虚しい事ではない。私達は忘れてはならない。たとえどんなに貧しく、世の最高知恵者が「むなしい」「報われない」と評価した所で、全ての人に知恵と権威を授けられるお方・イエス様の十字架の贖いによって、私達は神の子とされ、将来も全ての必要も保証され、そして永遠の天国が保証されているのだ!
 

 

主日礼拝
レムエルの母より、王たるわが子へのメッセージ(箴言31:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 

 本日の箇所には、マサの王の母が、息子レムエルへ贈った言葉が記されている。母は子が正しい道を歩んで欲しいと願い、色々な言葉を残すが、特にここでは、子が「王」として正しく歩むためにどうすべきか、格別な愛情と共にアドバイスをしている。私達もキリストにあって「王なる祭司」とされている。(1ペテロ2:9)
 私たちはどのようにして、王として正しく与えられている場を支配し、治め、また祭司として正しく務めをなし、人々を執り成す事ができるだろう。母の日である今日、レムエルの母からアドバイスを頂きたい。
 
 『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。私が願をかけて得た子よ、何をいおうか』(2節) 
この言葉に、論理的な意味は見いだせないかもしれないが、彼女が主に願をかけて生んだ子・レムエルへの深い愛情と、うめきに溢れている。願いに願って与えられた子よ、王たるあなたが、道を踏み外さぬよう、また、王として正しく治める者となるように、何を言おうか・・・。その、考え抜いて出た言葉が、3節である。
 『与えるな(置くな)、あなたの力(、富、権力)を、女達に。あなたの道を、王たちを摩耗・消滅させる者へ(与えるな)』(3節直訳) 女性は、男性にとって魅力的で、夢中にさせる存在だが、ここの「女」は複数形なので、5章でも示されている通り、神を知らない「異邦の女達」の事だろう。妻に対してはむしろ、「若い時の妻と喜び楽しめ、いつも彼女の愛に夢中になれ」と書いてある。しかし妻といえど、神の言葉より優先してはならない。神の言葉より妻の言葉を優先させた結果、アダムとエバはエデンから追い出されてしまった。
 だから男性に限らず、女性も、夢中になりそうな異性や、溺愛しそうな相手には、気をつけるべきである。
本来、自分が保護者として養い守るべき相手に、力や富や権力をあずけ切って生殺与奪の権を与えてしまうと、神の国の秩序が脅かされてしまう。私達は、主従関係をはっきりさせ、御言葉を第一優先すべきだ。
 
 4-7節はさらに、夢中にさせるものに対する警告が記されている。『レムエルよ、酒を飲むのは、王のする事ではない、王のする事ではない、濃い酒(シェカール)を求めるのは君たる者のする事ではない。』(4節)
 シェカールは元々、うきうきさせるもの、夢中にさせ中毒性をもたらすのの意味である。今、私たちは、神の国とは関係が無い、そして、自分の意思で止める事が難しい、夢中にさせる何かがあるだろうか。レムエルの母は言う。その「シェカール」を求めるのは、王たる者のする事ではない、と。
 5節では、王は勅令を定め(ハカク:文字を彫り込む事)、悩む人を正しくさばくいて幸せへと導くべきものである事が書いてあるが、酒は勅令を忘れさせ、さばきを曲げてしまう。私たちは日々、御言葉を宣言して心に刻み、学ぶべきことを脳に彫り込み、正しくさばくべきである。そういった本来しなくてはならない事から離れさせたり、取り組まなければならない勉強や仕事を、かったるく思わせたりするものが、酒である。
 レムエルの母は、繰り返す。 酒を飲むのは、王のすることではない、王のすることではない、と。
 祭司も、シェカールの類を取るべきではない。レビ記10章には、大祭司の息子達が至聖所にむやみに入って焼き殺された事件があり、そのすぐ直後、祭司たるものは務めに入る時、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、という命令が定められた。酒に酔ったまま、聖なる所に入るなど、もっての他なのだ。
 私たちは、ぼんやりさせ現実を忘れさせるものに、かかずりあってはならない。すべき事は、王なる祭司として、御言葉の勅令を定め、御言葉によって正しく物事をさばき、迷える人々に道を開かせていく事である。
 
 『あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。』(8-9節) 王たるものは、苦しんでいる人々のために積極的に口を開き、悪がはびこらないよう、正しくさばくべきであると命じている。その、正しいさばきが出来るための知恵は、御言葉に養われる事によって、である。
 母はいつも思う。子には良いものをあげたい、と。しかし、子が求めるものは何でも無条件に与えるものではない。おりにかなった御言葉を与え、時宜にかなったものをあげることによって、子は、正しく育っていく。
 レムエルの母は、おりにかなった正しいことばで息子を養った。そして偉大な王になっていくために必要なものが、御言葉である。御言葉によって養われ、また御言葉によって子を正しく育て上げ、立派な王として成長して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

世と時代に対し城壁を築く(ネヘミヤ2:17-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 ネヘミヤはバビロン捕囚後、長い間がれきの山だったエルサレム城壁をたった52日で再建し、また人々に、主は何を喜び、何を嫌われるかを教えて霊的な城壁も再建した。今、世はまさに「城壁再建」が必要だ。
今、コロナゆえにマスクや外出自粛という「城壁」は張っていても、肝心の「霊的城壁」をおろそかにし、世の有害な情報や享楽が入り放題、しかし将来の不安や心配には、何の対策もできないでいる人々も多い。
 神の民イスラエルがあの時代、勝てなかったのは、世に流れる退廃的情報にあけっぴろげで、何の城壁も張らなかったからだ。今回ネヘミヤ記から正しく城壁を張って自分達を守り、世に勝利する術を学びたい。
 
 主の民がバビロン捕囚から帰還した当時、エルサレム城壁の再建は、誰もやらなかった。誰かがやってくれるだろう、と思って誰もやらず、少しやる気を起こしてみても、やる気をくじく敵が来て、再建させなかった。
それで敵から良いようにふんだくられ、そしりを受け続けていた。ネヘミヤはその現状を聞くと、泣いて断食して祈り、王に懇願し、再建を願い求めると、王は快諾し、彼を遣わした。ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」。すなわち、助け主であり慰め主である聖霊と同じである。聖霊は、私達のために深くうめき、執り成す。
 城壁が崩れ、境界線がはっきりしていないと、誰をどこまで受け入れて良いか分からず、大切な財産や時間、エネルギーを奪われ続けたり、そしりを受け続けたりしてしまう。聖霊は教えてくれる。何が罪で、何が義で、何がさばきを招くものか。また何をすべきで何を止めるべきか、どこまで良くて、どこから悪いかを。
 ネヘミヤは到着すると、早速、破壊されている所をくまなく探りまわった(2:9-16)。聖霊も同じように、私達の内側をくまなく探り、傷ついた道のあるかないかを調べ、掃き清めながら、失われている価値を探す。
もし、その人が悔い改めて、価値あるものとなったなら、主は御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
 ネヘミヤは、『さあ、我々は再び世のはずかしめをうける事のないように、エルサレムの城壁を築こう』と言った(17節)。人々はネヘミヤの言葉で、希望を持つ事ができた。なぜならネヘミヤは、再建については王のお墨付きをいただいており、また、神の御手が彼に恵みを下さった事を、皆に知らせたからだ(18節)。
 私達の人生が再建される事は、私達の王の王、主イエス様のお墨付きであり、主の御手の恵みをいただいている。主は言われた。もし御言葉があなた方の中にとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい、と。
 人々は、ネヘミヤの言葉に希望をもって、再建に取り組んで行くが、それを面白がらない人が出てくる。
 
 『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
 なぜ彼らは、再建されて良くなる事を邪魔するのか。それは彼らは今まで、城壁が無かったからこそ自由に出入りし、搾取し、こきつかって、うまい汁を吸っていたからだ。だから彼らは、再建のわざを「王に対する反逆」と、あたかも後ろめたい事、悪い事かのような気をさせるのだ。彼らはさらに、再建をしている人を巧妙に仲違いさせ、悪く印象づけ、もうだめだ、いくら努力しても報われない、と、再建をあきらめさせる。
それは、悪魔サタンの策略である。しかし私達は、主が見捨てていないなら、自分や相手に失望したり、諦めたりしてはならない。諦めさせようとする悪魔の策略に対しては、ネヘミヤのように宣言すべきである。
 『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
 そう、私達は神の民であり、神が私達を成功させて下さるのであり、それだから、神の僕である私達は、再建にとりかかっているのだ。私達の貴重な人生、貴重な時間、貴重なエネルギーを盗んで再建を妨げている者達に対しては、お前たちは何のわけまえも、権利も、記念も無い!と、宣言するのだ。
 今まで、悪い者に、良いように言われ、信じ込まされ、奪われ続けて来たとしても、聖霊が来るなら、聖霊が私達に言うべき言葉を備え、力と勇気と大胆さを備えて下さる。そして、思い出させてくださる。イエス・キリストはどなたであり、何を語られたのかを。私達は、イエス様に救われ、聖霊の息を吹きかけられ、神の子とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされ、地の塩、世の光として召し出された事を。
 世の声は、混沌や絶望を仕掛け、奴隷生活を仕掛けてくる。その者達には、「天の神が私達を成功させて下さる!その神のしもべである私達は、再建にとりかかっているのだ!」と宣言し、城壁をしっかり築き上げ、この時代を治めていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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