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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主よ、来てください(イザヤ8:17-9:7)
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 アドベントの元々の意味は、主の「ご到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事である。『主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。』(イザヤ8:17) 
この世はなぜ、闇に満ちていて、あたかも主が御顔を隠しておられるような状態なのか。
主は元々、人を愛し、救いたくて仕方ないのだけれど、人の悔い改めない心が「隔ての壁」となり、神様に救えなくしているのだ。19節に、人々が死人に伺いを立てている有様が記されているが、神を度外視したこの世の知恵は、全て、死にゆく人々の知恵であり「死人伺い」と変わりが無い。主こそ唯一救って下さるお方なのに、その主に呼び求めない所に、救いが無い状態からいつまでも脱却できない原因がある。だから続く20節で、「ただ教えとあかしとに求めよ。」と促しているのだ。「教え(トラー)」は御言葉である。
御言葉は、書かれてあるだけでは単なる文字列に過ぎないが、それを信仰をもって私達の内に入れる時、それは命となり、力となり、神が実際的にこの世で働くきっかけとなり、そうして私達が、主が働かれる中で生きている時、それを見る人々にとっては、主が生きておられるという「あかし」になる。
この「教えとあかし」に尋ねないなら、「夜明けがな」く、闇から抜け出せない。その闇は、どれほどの闇であったのか、21節以降にある。すなわち、飢えて放浪し、飢えて怒りに身を委ね、上を仰いでは王と神を呪い、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者しか見えない。それでも希望を掴もうとしてもがき、でも、掴んだと思っては、それは希望ではなかったと知って悲しむ。あのサマリヤの女のように、異性や結婚、あるいはお金や地位など、世のものに潤いを求めるが、それを飲めば飲むほど、渇いて行く。(ヨハネ4章)

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(9:1)
人には絶望しか無くても、主には「希望の”しかし”」がある。ゼブルンの地とナフタリの地は、イザヤの時代、アッシリアに占領され、「はずかしめ」を受けた。アッシリアは栄えたが、衰退し、その後にはバビロン帝国が支配した。その後もなお、辱められっぱなしであった。バビロンが栄え、衰退し、後にはメディア・ペルシャが興ったが、その時もそうだった。その後、ギリシア帝国が起きた時も、ずっとそうだった。相変わらず悔い改めず、主に立ち返らず、「死人伺い」と変わらないものに求めていたからだ。
しかしローマ帝国の時代になり、皇帝アウグストゥスが住民登録せよという勅令を出した時、「異邦人のガリラヤ」から、ある貧しい夫婦が、ダビデの町ベツレヘムへと上って来た。彼らがベツレヘムで男の子を産んだその時、長年かなえられていなかった、その慰めの預言が、ようやく成就した。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(9:6)

かのサマリヤの女は、かつて5人の夫があったが、今一緒にいる男は夫ではない、とイエス様に指摘された。同様に、この地も、かつて5つの帝国に辱められ、支配を受けてきたが、真の王は、なかった。しかしローマ帝国の時代、イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになった時、イスラエルは真の王を得たのだ。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イエス様が宣教を開始された地である。当時のイスラエルはイエス様を迫害し、排除した。しかし、彼を主とし、王として受け入れる人には、素晴らしい特権が与えられる。
『主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(6-7節)

イエス様こそ、人となって来られた「御言葉」なるお方であり(ヨハネ1章)、それも、人が抱っこできる赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは小さくて、壊れやすくて、大切に扱わなくてはならない。しかし、このイエス様を胸の中に抱いて迎え入れ、内に宿らせるなら、私達の中に光が宿る。このイエス様に聞くなら、イエス様は私達の内でどんどん大きくなり、ダビデの王座につき、平和の花咲く永遠の国を建てて下さる。
苦しみのあった所に闇がなくなり、辱められていた者は慰めを受け、やがては永遠の国において、流して来た涙は拭われ、慰められ、死もなく、悲しみもそしりも無い、永遠の天国へ、イエス様は導いて下さる。
このアドベントの時、御言葉とあかしを束ね、闇に沈んでいる人々に、イエス様を届ける者でありたい。

主の言葉を「ハヤー」した人の幸い(ルカ1:39-56)
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 先週はコーエンの学びの週だったが、神様は本当に私達が想定していない領域へと導いておられる事を知った週だった。主が備えられた新しい領域へと入って行くためには、アブラハムのように生来の生き方や考え方の「捨て上手」となり、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者となっていく必要がある。
本日よりアドベントが始まったが、今回、今までの生き方・考え方に関しては「捨て上手」であり、主の言われる事には躊躇なく飛び込んで行った「女の中で最も祝福された人」、乙女マリヤの場面を見ていきたい。

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。』(ルカ1:41) 祝福された人の声は、胎の子さえ喜びおどる。胎の子は、分かるのだ。声の主の、霊的性質が。祝福された人とはどういう人かをエリザベツが言っている。『主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。』(45節) つまり、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人が、祝福された人である。
マリヤの親類・エリザベツは「アロン家の娘のひとり」(5節)なので、当然、「ハトラー教育(御言葉を、胎の子に向かって語りかける胎教)」を施していた。乙女マリヤも、同様である。
胎の子は、10週くらいすると、聞く機能が形成され、外界の音を聞くようになる。母の口から出てくる言葉や夫との会話、あるいはテレビやインターネットから流れて来る世の歌やニュース、ゲームやパチンコ等から来る機械音など。胎の子は、意味は分からずともそれらの音の源の霊的性質を察知し、取り入れて行く。
敬虔なユダヤ人女性は、身ごもると、5mほどの特別な布を用意し、この子が生まれたらこのようになって欲しいという御言葉を、刺繍し始める。胎の子に向かってトラー(モーセ五書)の朗読を聞かせながら。
そのように、信仰と愛情に溢れた御言葉によって、胎教された子は、御言葉に関する事、神の国の事柄に関する事に対して喜びを覚え、神から離れた世的な事に気持ち悪さを覚えるようになっていく。

御言葉を口ずさむ時に大事な事がある。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、アロンの大祭司家の末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは「その言葉を存在させ、溢れさせる」という意味だと言った。
つまり「ハヤー」は、神様の言葉が好きで好きで、心に刻まれ、暗記し、その内容が、喜びや感動、時には熱心や激情と共に「溢れ」る事なのだ。ハヤーなきメッセージは無力であり、ただのお説教となってしまう。
あの時のマリヤのあいさつが「シャローム」であったなら、マリヤの人生の中で得たシャロームという意味に込められた、あらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、さらに祭司の娘であるエリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、声高く叫ばせたのである。「わたしの主の母」、と。
クォン・チャンギュ先生は、ハヤーの意味に衝撃を受け、単なる御言葉暗記をするのではなく、神を愛し、御言葉を愛する心をもって口ずさむ「ハヤー」こそすべきだと、提唱している。「ハヤー」は、単なる暗記ではない。私達は、ユダヤ人の真似をして、彼らのように頭脳が明晰になる事や、英語を上達させる事を第一目的としてテフィリンさせてはならない、むしろ、主を恐れ、主を愛し御言葉を愛するように導く事こそ教育のはじめであり、知恵のはじめ(箴言1:7)なのだ。「主を愛する」事を除いて暗唱させるのは、危険だ。
主を恐れ敬う事なしの知能の鋭利化となってしてしまうからだ。御言葉によって「徳」を積んだ上での知識を用いなければ、世界がおかしくなってしまうのは、洪水前の世の中を見れば明らかである。
パリサイ人はよくテフィリンされている。しかし彼らには、神を愛する愛が無かった(ヨハネ5:42)。彼らは神から遣わされたお方を信じなかった、すなわち、御言葉がハヤーされていなかった事を主に指摘されている(同37-38)。彼らは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はイエス様をあかししているのに、イエス様の元に来ようとせず、かえって、人からの栄誉だけを受けようとしている。(同34-44)
私達はパリサイ人のようでなく、マリヤのように神とその言葉を愛し、そして御言葉の「大好き」が溢れ流れるようにしたい。ハヤーに溢れたマリヤは、喜びに溢れて賛美を歌った。その最後を「わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(55節) という言葉で閉じている。
アブラハムの子孫とは、御言葉を信じイエス様を信じる私達の事であり、生来の生き方や考え方については「捨て上手」、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者達である。このハヤーの祝福に共にあずかっていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エデンの外側でいのちの木の実を得る方法(創世記1:9-13)
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 本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
神は、創造の第3日目、大海の中からかわいた地を出させ、同じ日に大地から草や木を生えさせ、様々な種類の果物や種が出るようにと定められた。それは、私達人間や、あらゆる生き物が「食べる」ためであり、それもなんと、太陽や月、星が創られるより前に、植物は創られた。神は太陽よりも先に果物や種が実る植物を生えさせた程、また、この世が終わった後にも存在する程、実りを実らせる木は重要だ。
今回、人類にとって最も重要な木である「いのちの木」に至る道を学びたい。

私達は普通に、木や草は、太陽光によって育つものと思っているが、どうやら聖書によると、太陽光なしで育つ、私達の知らない木が存在するようである。太陽なしで育つ木、それは、黙示録22章にも登場する。
『川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』(黙示録22:1-2) この聖書最終章においては、もはや太陽も月もないが(同21:23)、いのちの木は、太陽なしで育つ。エデンの園の中にあったいのちの木には、ケルビムの剣に阻まれて行けなくなってしまったが、実は、エデンの外側で「いのちの木」に至る方法が、箴言の中に4箇所しるされているのだ。

 愧侶辰蓮△海譴鯤瓩┐觴圓砲鰐燭量擇任△襦△海譴鬚靴辰り捕える人はさいわいである。』(箴言3:18)
いのちの木を得る人の第一の特徴は、知恵を捉えようと努力し、掴んだらそれを離さない人、すなわち、真の知恵である御言葉をテフィリンする人である。テフィリンとは、いつでも御言葉を口ずさみ、暗唱し、心と思いを御言葉で満たして行くものであるが、実際これをする人は健やかになり、頭脳明晰になり、自ずと必要が満たされ、神の性質を身につけて行くという、エデンの園の住人であるかのような性質を帯びてくる。
◆慇気靴ぜ圈淵張.妊ク:法に則った)の結ぶ実は命の木である、不法な者(カハーム)は人の命(ネフェシュ)をとる。』(箴言11:30) すなわち御言葉という真の「法」に則った人は、命の木の実を結ぶ。次のようにも書いてある。『全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。』(ヘブル12:11)
つまり忍耐して正しい行いをし続ける人は、平安な義の実、いのちの木を得るのである。
それに反し、「不法な者」と訳された語「カハーム」は、呪術的な邪悪な知恵であり、それは人のたましい(ネフェシュ)を魅了し、奪ってしまう。ちょうど善悪知識の木が、人を魅了し、いのちを奪ってしまったように。
『望みを得る事が長びく時は、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。』(箴言13:12-13) ここにおいても御言葉を重んじて忍耐して御言葉の成就を願い待ち望む人は、やがていのちの木を得るような喜びを得る事が記されている。
ぁ慷イ靴ぁ淵泪襯據次ЪL的な)舌は命の木である、乱暴な言葉は魂(ルアハ)を傷つける。』(箴言15:4) 
いつもテフィリンによって口を御言葉で満たしているなら、そのような人の舌は「治癒的」となり、その人がそこで言葉を発する時、周囲の人は、あたかも、いのちの木がそこにあるかのように癒されて行くのだ。
それに反し、乱暴な言葉は、霊(ルアハ)を破滅させる。霊を救う言葉があり、霊を破滅へと導く言葉がある。御言葉によって洗練された人の宣教の言葉は、人を癒やし、生かし、永遠のいのちへと導くが、しかし乱暴な言葉で人をつまづかせるなら、永遠の滅びへと至らせてしまう。だからイエス様は言われたのだ。
小さな人につまずきを与えるような者は、石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と。

以上のように、テフィリンこそ、エデンの外側で生きる私達にとって唯一の、いのちの木に至る道である。
テフィリンの逆、いのちの逆は、御言葉に逆らう事と、御言葉から独立した善悪知識である。
アダムは「御言葉」に逆らって善悪知識の木を食べてしまい、エデンから追い出されてしまった。それこそ楽園から追いやられてしまう性質、死をもたらす性質である。アダムとエバは、善悪の木から取って食べたその瞬間に心臓が止まって死んだわけではなかったが、徐々に「死」が体をむしばんで行った。その、徐々に進行して行く「死」と「呪い」に、唯一対抗する手段が、テフィリンなのだ。
天国は、神の栄光が満ち溢れ、神の支配が行き届いており、いのちの木に満ちている。今、この地上において私達は御言葉を口ずさみ、テフィリンし、神の国をもたらし、いのちの木の実を結ぶ者として歩みたい。

戦い方を身につけよ(ネヘミヤ4章)
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 神の民イスラエルは、主への数々の無礼を改めず、預言者の警告を聞かず、好き放題し続けたため、バビロン捕囚の憂き目に遭い、敵が好き放題荒らし、土地も財産も奪われ、どん底の生活へと投げ込まれた。
それでも主は、悔い改めて主に立ち返る人々を回復させて下さる。回復のためには、ネヘミヤのように罪の惨状を悲しみ、「なまけぐせ」を取り除き、荒れた現状を立て直すために立ち上がって行動するべき事を、前回学んだ。その時、必ず敵の攻撃が来るが、今回はさらに、敵の攻撃をどう対処すべきかを学びたい。

再建しようと行動を起こす時、今まで搾取し踏みにじって来た者達はそれを良しとせず、攻撃して来る。
2章では、敵は神の民の再建のわざを、「王に反逆している」と、あたかも悪い事のように思わせて来たが、ネヘミヤは真理の御言葉を唇から発して「境界線」を引き、「真理という防護壁」を築いた故、人々は奮い立って再建を進め、仕事はどんどnはかどって行った(3章)。敵はそれを、なお歯ぎしりして、攻撃して来る。
『サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。』(ネヘ4:1)
その「あざけり」の内容を分析すると、今の惨状や山積の問題へと目を向けさせ、絶望させ、無気力にさせる特徴がある事に気付く。実際、敵の脅しに同意して、再建が無駄であるかのように思わされてしまった人々もおり、脅しに「同意」してしまった人には、敵はさらに調子に乗って脅しにかかって来る。(11-12節)
そんな心萎えてしまった人々に対し、ネヘミヤは、具体的な行動で答える。彼は人々に武器を持たせ、城壁の建て上げが進んでいない所に立たせた(13節)。また言った。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、息子、娘、妻および家のために戦いなさい。」(14節)
ネヘミヤは、もし敵が入り込んで来たら返り討ちにしよう、という意気込みを見せた。敵は、私達の意気込みを、最も恐れる。なぜなら私達が主にあって立つ時、敵である悪魔は「負け」以外に有り得ないからだ。
実際、敵はこれを聞いて自分達の企みは「神が」破った事を聞いて、すごすごとあきらめた。(15節)
『その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。そしてつかさたちは城壁を築いているユダの全家の後に立った。荷を負い運ぶ者はおのおの片手で工事をなし、片手に武器を執った。』(16-17節) 片手でしか仕事ができない、それでは全くはかどらないのでは、と思われるだろうか?いや、これが最もはかどる仕方だ。むしろ武器を持たず恐れながら仕事する方が、敵に付け入る隙を与えてしまう。御言葉の武器だけ持って仕事をしないのも、仕事道具だけ持って御言葉を持たないのも、どちらも再建は進まない。しっかり両方を握り締め、仕事に取り掛かるのが、最も効果的だ。
18節以降では、互いが共に助け合う体制を、さらに強化している事が記されている。もしどこかが攻撃されそうになっても、すぐ一斉に集まれるよう、ラッパを持たせた。結果、仕事は非常にスピーディーに終わる。

『こうして城壁は五十二日を経て、エルルの月の二十五日に完成した。』(6:15) わずか52日で、何十年も手付かずにいた瓦礫の城壁は立て直されたのだ!そんなものである。目の前の瓦礫の山に絶望し、あきらめ、何もしないままでは、92年も瓦礫のままだったが、「片手に御言葉・片手に仕事」、さらに兄弟姉妹が助け合う体制を整え、再建に取り掛かるなら、長年出来なかった事は、実にあっけなく完成したのだ。
『われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである。』(6:16)
私達が御言葉に固く立つ時、敵は恥を見る。「偽りの父」であるサタンは、さも自分達は強いかのように、何でも出来るかのように、あらぬ恐れ・あらぬ恐怖を吹き込み、「再建」という良きわざをやめさせようと脅しをかけて来るが、あの者共は、主にある聖徒達が団結し、御言葉に立つ事をこそ、恐れおののいている。
それで、礼拝や賛美、御言葉宣言、聖徒の交わりを、あの者達は最も嫌い、そこを集中して邪魔して来る。
私達は敵の企みを知り、敵の嫌がる礼拝や賛美や御言葉宣言、聖徒の交わりを積極的にして行くべきだ。
人生において、再建をしようとする時、敵からの心くじけさせる色々な言葉が、あるだろう。あるいは自ら弱気が沸き起こって、やる気を失うかもしれない。その時、そのような敵に対して御言葉の剣を、信仰の大盾を奮って、主の御名によって祈り戦いつつ、片方で仕事をして行くなら、再建は速やかに成されて行く。
いつまでも片手に剣、片手に仕事道具、という、労苦の日々が続くわけではない。御言葉と信仰で武装し、兄弟姉妹同士で共に助けあいつつ仕事をする事で速やかに再建されて行く皆さんでありますように!

邪悪で汚れた事に「いいね」をする者達の中で(ローマ1:21-32)
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 神を神としてあがめず感謝もしない者達は、ますます邪悪で汚れた性質を帯びて行くが、そのような者達から被害を受けつつ、本当は清く生きたいのに、汚れた習慣・価値観で育ってしまった故、それが分からず、邪悪な汚れた自分を苦しんでいる人達の叫びを、神は聞いておられる。神はそんな彼らに、使者を遣わし、神に立ち返る人々は、栄光の御国へ引き入れて下さる事を、前回、遊女ラハブから学んだ。
彼女以外のその町の者達は、あくまで真の神に敵対し、城門を閉ざし、徹底抗戦の構えを見せたが、今回、そのように頑固に神を受け入れない者達に対し神はどうするか、そして彼らはどうなるのかを学びたい。

エリコの住人のように、唯一なる神を神とせず感謝しない者、神の栄光を、滅ぶべき被造物へと取り替えるような者達へ、神が定められたのは、三つの「パラディドミー:引き渡す、放置する」(24,26,28節)だった。
パラディドミー。それは福音書の中で、特にイエス様が十字架へ「引き渡」される場面において頻繁に登場する。パリサイ人やピラト、そしてイスカリオテのユダは、イエス様を十字架へと「引き渡した」が、彼らのように、不朽の神の御子・キリストを、十字架へとパラディドミーする者に、神は、三つのパラディドミーをする。
24節で、神はそのような者達を、その心の欲望のまま汚れへと「引き渡され」、そのため彼らは互いにその体をはずかしめるようになった事が記されている。神を神と認めない、キリストを救い主として受け入れない、それならどうぞ心の情欲の通りに生きなさい、と、獣以下の汚れへところげ回り落ちるよう放置したのだ。
26節で、神は彼らを恥ずべき情欲に「引き渡され」、女は女同士・男は男同士で恥ずべき欲望に従って生きるようにし、それを恥ずかしいと思わないようになった。「そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(27節) 当然の報い。それは古来から常にあり、ノアの時代には洪水が、ソドムとゴモラには火の刑罰が、それ以降も、諸々の性病の恐ろしい症状という形で、神は明白な「当然の報い」を報復された。
28節では、彼らが神を知ろうとしたがらないため、良くない思いへと「引き渡され」、してはならない事をするようになった、と記されてある。その結果、彼らは22項目の「死に値する」罪を犯すようになる。(多くの訳では21項目だが、原典は31節に「アスポンドス:執念深く和解不能な者」を含めた22項目である)
『彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、「執念深く和解不能な者(多くの訳で省略)」、無慈悲な者となっている。こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを「行う(パラッソゥシン)」者どもを「是認(スンニュドクシン)」さえしている。』(29-32節)
この「パラッソゥシン」は現在形能動態複数形、すなわち、そのような事を積極的に行っている人が、複数で声を大に「いいね」と互いに持ち上げ合い、組織化・勢力化し、社会現象化する状態である。
「スニュドクシン」とは、「スン(一緒に) + ユードケオ(いいね、魅力的だね、素晴らしいね)」が合わさった言葉で、あの22項目の邪悪で不潔な価値観に対し、「すごくいいね」「素晴らしいね」「ロマンスだね」などと組織的に言い合って、勢力化し、社会現象化させている状態だ。
まさに現在、暴力的で、不潔で、非自然な事が「いいね」ともてはやされる時代で、その汚れた価値観が勢いを持ち、時の権力者がその価値観で世を上塗りさせようとする勢いだが、それはギリシア・ローマ時代や、ノア以前の時代にも蔓延っていたのであり、古来から、神はそのような者達に明確な裁きを降して来た。

何がきっかけで、そうなってしまうのか。それは、頑なに神の御言葉を拒否し続ける事によって、である。
かつてエジプトは、イスラエル民族からの恩を、仇で返し続ける事を何百年も続けた故、神はパロの心を頑なにし、エジプトに災いが降される事によって、神の栄光を現す道具として用いられたのである。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを再び十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
今、邪悪な事・汚れた事が「いいね」と持ち上げられる時代の中、きよい者・聖なる者として燦然と輝き、ラハブのように、この時代の中で苦しんでいる人を、一人でも多く救い出す皆さんでありますように!

汚れた世界の只中の小さな叫びを聞いて下さる主(ヨシュア記2章)
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 邪悪な事・汚れた事・人を虐げる事を、自ら好き好んで為し、何の良心の咎めが無い者達に、神の裁きが降る事がローマ人への手紙1章に啓示されていた。そのような者達は、不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に取り替え(ロマ1:23)、欲情に駆られて自分の体を互いに辱め、汚すままに任せられ(同24)、男女の自然な関係を不自然なものに取り換え、その乱行の当然の報いを受けた。(同26-27)
ローマ1章29-31節には、主が「死罪に値する」としている21項目が出てくるが、それらの事を自ら、好んで行い、また、それを行う者に心から同意する者達に対し、神の裁きが降ると記されている。(32節)
では、幼い時からそのような者達から被害を受けながら、自分も汚れた価値観・邪悪な習慣の中で育ってしまい、自分を変えられず、神に喜ばれるきよい価値観を知らないまま苦しんでいる人達はどうなるのか。
神は、そのような人達の叫び声も、もれなく聞いておられ(創世記4:10、19:13、ヤコブ5:4)、正しく扱われる。
今回、その一例として、そのような中から神によって見出され、救い出された遊女ラハブを見てみたい。

彼女は、弱肉強食のカナンの中、エリコという堅固な都市の、城壁の中に立て込まれた家に住んでいた。
その町の城壁に住んでる、という点では、セキュリティは保たれていたかもしれないが、彼女は遊女だった。
来る日も来る日も身売りをし、いくばくかの報酬を得ては家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
遊女になるのを夢みてなる女の子はいないし、自分の娘や姉、妹が遊女になって欲しいと思う者もいない。
なぜそうなってしまったか。それは、自分も家族も生きて行かなくてはならなかったからであり、身勝手な者達が効率よく欲望を発散させるシステムで、そのような事が汚れた事と思わさないで育ってしまったからだ。
ラハブは、変わりたくても変わらぬ日々の中、ある噂を聞いていた。力ある唯一の神と、その民について。
その民は、力ある神に守られ、神から与えられた律法は、道徳的に優れ、弱者に優しく、それを守り行って祝福された彼らは、川向こうの強力な二人の王を滅ぼし、さらに勢いと力を増しているという。
過酷な要求ばかりして来る者達から、また、まもなく滅ぼされてしまうこの世界から、できれば救われたい。
しかし、そんな自分の思いを誰かに伝える術はなく、ただ周りは過酷な要求をしてくるばかりだった。
しかし、全能なる神は、彼女の思いを知っていた。主は御目をもってあまねく全地を見渡し、その心が、ご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(2歴代誌16:9)

そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。彼らは今まで出会ったどんな男達とも違って、分別と秩序があり、何か任務についているようだったので、彼女は、彼らこそあの民の斥候だ、と直感した。そしてその二人の者達が来た事はすぐにエリコの王に知られる所となり、捕り手が彼女の家に来て、その扉を叩いた。
その時、彼女は意外な行動に出る。命の危険を冒して、その二人を、かくまったのだ。なぜリスクを犯してかくまったのか。それは、彼女の普段からの願いと信仰が、咄嗟に現れたからである。(ヘブル11:31)
彼女は、命の危険に晒されていた彼らに、逆に、命乞いをする。『あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられる・・・。どうか、私があなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、私の父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い・・・私達の命を救って、死を免れさせてください。』(2:11-13)
彼女は、普段から信仰があったからこそ、この二人が来た時、咄嗟にこの告白が出て、そして実際に、救われたのだ。彼女は彼らの指示通り、窓に赤い印をつけた。エリコが裁かれる日、7人の祭司が7つの角笛を吹き鳴らした時、代々築き上げて来た城壁は崩れ去ったが、その印の内側にいた者は、全員助かった。
そして彼女は、サルモンという素晴らしい夫を得、ボアズを産み、ダビデへと続く家で生きる幸いに入った。

ヨシュアの時代、7人の祭司が7つの角笛を吹き鳴らした時、代々築き上げて来た城壁が崩れ去ったように、この世も、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての英知は崩れ去り、全ては、主キリストのものとなる。(黙示11:15) 世界の滅びが近づいているとぼんやり認知し、その滅びから救われたい、今の過酷な状況から救われたい、と思う者は多いが、主は全地をあまねく探しておられる。
救いに入ろうとする志のある人を。救われるためには、ラハブのように、イエス様こそ救い主であると信仰告白をし、イエスの血という赤い印をつけ、神の民として見合った行動が必要である。その行いによって栄光の家系に加えられ、永遠に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

神に栄光と感謝を捧げない人の行き着く先(ローマ1:16-21)
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 パウロはロマ書の最初で、クリスチャンが持つべき信仰の重要な定義づけをした。すなわち信仰(ピスティス)は「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
そういうわけで「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事で、信仰の目的地である天国に向かって歩み続けて行く状態にある人が「義人」であった。
パウロはその定義を宣言した直後、「神の怒り」がどのような人に降されるかを、細かく説明し始める。
どんな人に神の怒りが降されるか。21節に記されている。『神を知りながら神としてあがめず、感謝もしない人』で、彼らは「,えって」その「∋廚ぁ廚蓮岫むなしくなり」、その「ぬ誼里福弯瓦蓮岫グ鼎なった」。

 屬えって」のギリシア語はアッラ、「反して」の意味もある。神を知れば知る程、神をあがめ感謝する以外に無いはずなのに、それが全く沸き起こらず、逆にその人からは、主に対して失礼な態度しか出てこない。
◆峪廚ぁ廚魯妊アロギスモス、ロギスモスは計算する(ロギア)または言葉(ロゴス)の意味があり、ディアは前置詞で「行ったり来たり」、すなわち「どっちつかず」で、彼らは、御言葉も、計算も、どっちつかずなのだ。
「むなしくなり」はマタイオーすなわち「愚かになる」「悪辣になる」の意味の動詞の不定過去(アオリスト)受動態である。それはすなわち、その状態が化石化され、改善の余地が無くなってしまった状態である。
つまり、神を知りつつも神をあがめないでい続けるなら、また、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、悪い方へ向かうもので、改善の余地が無いまでになってしまうのだ。
また、ぁ嵬誼里福廚魯▲好優肇后△海譴蓮屮好優肇后文い、聡明な、理解力のある)の真逆」の性質である。
ァ岼鼎なった」はスコティゾー、闇にする、見えなくするという意味もある動詞で、ここも不定過去受動態が用いられているので、目が暗い状態・闇の状態が、化石化され、改善の余地が無くなってしまったのだ。
神に栄光を返さずにいる人は、自分で賢いと思ってはいても良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。

「栄光を返す」のヘブライ語は「カバド」で、良い意味で用いられる場合は「栄光を捧げる、あがめる、尊ぶ」の意味があり、悪い方で用いられる場合は「頑な・強情になる、(罪や災いが)重くなる」の意味になる。
サムエル記に登場する祭司エリは、主よりも自分の息子達のほうを重んじ(カバド)、主に捧げる捧げ物を軽んじた。彼の息子・ホフニとピネハスは、神の民が主に捧げるものを横取りし、自分の私腹を肥やしていた。
それで主は言われた。「わたしはわたしを尊ぶ(カバド)者を尊び(カバド)、蔑む者は軽んじる」と。(1サムエル記2:29-30) 後にエリは、神の箱が敵に奪われた事を聞いた時、あおむけに倒れ首を折って死んだ。
からだが重かった(カバァド)からである。(1サムエル記4:18) 神を神としてあがめず(カバドせず)、感謝もせず、自分の私腹を肥やす事にカバドを置くなら、やがて自分の罪の重さ(カバド)によって滅んでしまう。
彼の嫁はその時、子を産んだが、その子をイ・カボテ(栄光がない)と名付け、栄光は去った、と言った。

コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのままで固まるように、人も、日々摂り入れる言葉や口ずさむ言葉、心に巡らす考えや行動によって、その方面で固まって行く。
そうであるからには、私達は、神の言葉によって固められていくべきだ。いかにそれまでの習慣や悪意ある言葉などによって固くなってしまった心や考え方であっても、御言葉に浸され続けるなら、それは改善する。
神の言葉のほうが、人間の言葉よりも遥かに強く、この世も私達も、神の言葉によって創造されたからだ。
『わたしは福音(エウアンゲリオン:敵に勝利した良き知らせ)を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(ローマ1:16)
福音(エウアンゲリオン)は昔、戦争に勝利した際に伝令が伝える「勝利の良き知らせ」である。我らの王・イエス様は、悪魔サタンに勝利した!もう悪魔サタンの圧政に苦しむ事は無い!このイエス様を信じて勝利者の側に入りなさい!それが福音であり、どんな悪い状態になってしまっても、癒やされない人はない。
神の愛に浸され、御言葉に浸され、そうしてますます造り変えられ、癒され、ますます神に感謝し、栄光を捧げる「義人」の生き方で固められて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

信仰の歩みをし続けよう(ローマ1:17-21)
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 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる術、さらに聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。そこに至るまでの重要な鍵が、信仰である。
信仰の元々の意義は「連合する」「バンドする」事を以前学んだ。クリスチャンは御言葉なるキリストと連合し、結合する人達である。パウロは義人の定義を、次のものとした。『神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
「信仰に始まり信仰に至らせ(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
そういうわけで「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事だ。だから、イエス様を信じた瞬間がゴールなのではない。それはスタートであり、その時から信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国に向かって歩み続けて行く。その状態にある人が、義人なのだ。

パウロが義人の定義を宣言した直後、「神の怒り」について宣言した事は、注目に値する。『神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。』(18節)
義の反対・「不義」とは、神の言葉に逆らう事である。世界は神の言葉(御言葉)によって創造され、万物は、この神の御言葉によって維持・保全されている。崖から飛び出すなら、老若男女を問わず、重力の法則に従って落ちるように、「御言葉」の法則から飛び出すなら、老若男女を問わず、誰でも滅びてしまう。
重力の法則には人格も感情も無いが、全法則を創造された神は人格があり、感情も憐みもあるお方だ。
御言葉に対する信仰を所有しない・信仰の歩みをし続けない人は、自動的に「不義をもって真理をはばもうとする人」になってしまっている。神は、憐れみをもって御自身をその人にあらわされるが、それでも悔い改めないなら神の怒りが降され、それでも悔い改めない事を続けるなら、永遠のさばきが確定してしまう。
ちょうどエジプトを出たイスラエルの民が、神様の大いなる御業を沢山見たというのに、信仰の「所有」と「歩み」をせず、逆につぶやいて文句ばかり言い続け、ついに信じなかった人達が皆、荒野で倒れたように。

この世にあるものは全て、人格と感性のある神によって創られた。故に、宇宙の秩序正しさ、自然の美しさ、人体の不思議、細微な世界の巧妙さを、人は美しく感じるもので、神の栄光を見ている。(19-20節)
それでも『彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは空しくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。』(21-23節) これが神の裁きが近い人の特徴だ。
「感謝」と「知る」には、密接な関係がある。ヘブライ語の「感謝」はトダー、「知る」はヤーダーで、トダー(感謝)は、ヤーダーが元になっている。感謝とは、相手を知ってこそ出来るもので、神様を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。神への感謝が沸かない人は、まず、神を知る必要がある。
御言葉を聞き、主の栄光を目にしておきながらなお神をあがめず、感謝せず、神を差し置いて好き勝手な事をし続ける人には、神の怒りが示され、それでも悔い改めないなら、さばきがどんどん近づいてしまう。
ちょうどヨシュアの時代、罪を暴く「くじ」の当選範囲が、罪を告白しないアカンに対しどんどん狭まって行き、ついには当選してしまったように。 『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんび(トダー)し、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。』(ヨシュア7:19)
アカンは神のすばらしい栄光と御業を見ながら、心を神に結びつけず、信じず、むしろ世の富のほうに心を結びつけた結果、イスラエル全体に災いをもたらしてしまった。アカンはヨシュアが指摘しているように、主に栄光を帰す事をせず、また主をさんび(トダー)する事をせず、世の富に心を結びつけていたからだ。
彼は神に感謝(トダー)せず、知り(ヤダー)もせずにいたから、神の怒り・神の裁きが追いついてしまった。

人は皆、等しく御前に犯した罪の刈り取りをしなくてはならない。その前に、神に心を向け、神を知ろうとし、神が為して下さった素晴らしい御業をほめたたえ、感謝を捧げるべきである。神に感謝し、褒め称える事こそ、人の本分である。事実、天国では、永遠に神を褒め称える賛美が、恵みによって天国に入った人々の口から永遠に流れ続ける。信仰の歩みをし続け、ますます神を知り、神を賛美する皆さんでありますように!

イエス様の名前によって父なる神に祈る(ヨハネ16:23-27)
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 人は「願う」「求める」という事をする。人にはそれぞれ欲しいものがあり、必要なものがあるからだ。しかし、その動機と相手は必ずしも正しいとは限らず、たとえ願っている事が叶えられたからと言って、本人や周囲が必ずしも祝福されるわけでもない。間違えた動機・間違えた相手に祈り求めるなら、かえって、呪われた結果になってしまう。私達は誰に対し、どのような事を願い求めるのが良いのかを、本日探って行きたい。

人はよく「神様」に願い祈る。ではその「神様」とは、一体誰だろう。この世に「神々」と言われるものはあるにしても、私達には、唯一なる天の神がおられるのみである。(1コリント8:5-6) 多くの人々は偶像に願い求め、供え物を捧げているが、偶像は、何か崇高な神ではなく、何か意味のあるのでもない。
実は、偶像に祈り、願い求め、犠牲を供えるのは、悪霊達に願い求め、供えているのだ。(同10:19-20)
悪霊に願って、何かが叶えられたとするなら、それは所詮、闇からのものであり、必ず呪われた結果となる。
私達が祈るべき相手、それは全てを創造された、父なるまことの神である。その神は元々、私達を創造する前から、御前できよく、傷のない者にしようと、キリストにあってあらかじめ定めておられた。すなわち神の似姿として、キリストの花嫁として、神と「父子関係」となるように創造された。(創世記1章、エペソ1:3-5)
ところが人は、父なる神から離れ、自分勝手に歩んで行った。神から離れた人の願う事は、身勝手で破壊的で、自堕落なものである。それで世界は、誰か力ある者達の、欲しいままの欲望の圧政下にあるのだ。

人の本来あるべき姿は、まことの神と「父と子」の関係を保ち続ける事である。父子関係は愛の関係であり、子は、父の言葉に服するものである。父に服している子が「お父さん」と呼ぶなら、父は答えざるを得ない。
しかし一体、罪のある欠けだらけの人間が、どうしてこの聖なる神と、父子関係を結ぶ事が出来るのだろう。
人が神の子になる・・・そのような途方も無いように思える手続きと認可は、万物を創造し、かつ成り立たせておられるお方の権威によって、すなわち、神のひとり子、イエス・キリストの御名によってこそ、実現する。
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた…』(ヨハネ1:12)
彼、それは、神のひとり子・イエスキリストである。天地万物の源であられる彼の名、それこそ全てに勝る権威ある名である。神のひとり子・イエス様が御父に祈った祈りは、必ず聞き届けられた。(ヨハネ11:41-15)
私達も、このイエス様の御名を信じる事によって、神様と親密な「父子の関係」に入り、そうしてイエス様の名前によって祈るなら、その祈りは何でも聞き届けられる。(ヨハネ14:14、16: 23-26)
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(ヨハネ15:7-8) 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(同15:16) 

聖書では、神様が「父」なるお方であると、何度も何度も繰り返されている。だから、私達が何かを願い、祈り求める相手は、全てを所有し支配しておられる神様であり、この神様と「イエス様の御名によって」父子関係を結んだ上で、求めるのが、祈り求める事の正しい手順である。イエス様が「こう祈りなさい」と言って示された「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」という呼びかけから始まる。求める相手は、父なのだ。
確かに子供は親に何でも求めるものであるが、全てが全て、願った通りにかなえられるものではない。
イエス様もゲツセマネで、「父よ、この杯を過ぎ去らせて下さい」と願ったが、それでも「あなたの御心の通りになさって下さい」と祈った。父子関係は「愛の関係」であると同時に、子は、父の言葉に服すものである。
確かに私達は、イエス様にあって何でも祈り願う事は出来るが、最終決定権は父なる神にあり、彼のなさる事は全て最善である事を認める時、全能の神と親密な関係にある事の、絶大な平安の中に憩うのである。
だから主の祈りでは、「御国(神の支配)を来たらせたまえ」と、神の統治が全てに及ぶ事を求めるのであり、「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈る事で、自分の願いより、御父の御心が優先的に成就するように、と祈るのだ。天地を創造し、全てを見通し、私達の全てを知っておられる神様の御心が成る。それこそ私達も計り知れない最善が、自分の人生に、家庭に、仕事に、そして世界に成就する秘訣である。
イエス様の御名によって、神様と親密な父子関係に入り、全てにおいて平安となる皆さんでありますように!

全ての闇を払拭する「有りて有られるお方」の御言葉(ヨハネ1:1-14)
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 神は、永遠の昔から永遠の未来で「存在」されるお方、そして私達を存在させ、存続させるお方である。
それ故、信じる私達は「自分は愛なる神に存在させられている」と自信を持ち、そう主張する事ができる。
だから、永遠の御言葉であられるお方イエス様を、私達の内に住まわせるための御言葉を暗唱する事(テフィリン)こそ、人格において、精神において、あらゆる面において安定する秘訣である事を、先週学んだ。
ヨハネ1章からも、御言葉であられるキリストがいかに素晴らしいお方であるかを、見る事が出来る。御言葉なるお方は、永遠のはじめから神とともにおられた(1-2節)。それがキリストのアイデンティティ宣言である。

全てのものは、彼によって創造された(3節)。私達が100年ほどの一生の間に目にするもの、触れる全てのもので、彼によらずして出来たものは一つもない。このお方こそ、有りて有られるお方であり、私達が目で見、手でさわれるお方、そして、死に陥った私達を、命をかけて救う、愛なるお方として、私達に現れた。
彼が、愛の意図をもって計られたタイミングにより、今、こうして私達は愛され、生かされている。息を引き取る時さえ彼の愛のタイミングの中で計られており、その息(霊)は、全能なるイエス様のところに帰って行く。
このお方を信じる人は、自分は神の子であるという、盤石の、安定した生き方が出来るが、彼を認めない人は、自分は偶然に進化した者、脳の電気信号で動く偶然の産物として、自力で生きなくてはならない。
太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人の共感を得たが、全存在の源・「有る」お方を持たない人がサタンの言葉に惑わされるなら、そのように考えてしまう。神の敵・サタンが人を破壊させる言葉の、最たるものは、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならないである。
それを打ち消すのは唯一、全存在の根拠なるお方・キリストの言葉である。 『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』(4-5節)
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無いのだ。
イエス様は、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が、ご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる、という事までして人を救おうという愛の意図を、なんと、永遠の昔から持ちながらにして、人を創造されたのだ。(エペソ1:3-6)

『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) つまり、イエス様を信じている人は、血筋や外見、能力や社会ステータスに左右されなくなる。世の人は血筋を重んじるだろう。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、彼らは、そうした「血筋」の束縛から開放される。
また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、彼らが望まぬ命が「できてしまった」、と言う事は多々あるが、自分はそういった人の欲望の産物だという空しさもなくなる。また「人の意欲にもよらず」とある通り、親や誰か人の政略的な操作によって自分は存在する、という空しさもなくなる。
信じた人は、ただ神によって、神の子として完全なる愛に愛される存在として生まれた、と確信するのだ。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(14節) 書かれてある通り、肉体となって来られた「言」であられるお方は、神のひとり子であり、御父の栄光に満ちておられ、恵と真理に満ちておられるのだ。
御言葉なるお方を、私達という肉に住まわせる事がここで命じられている。『キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい…キリストの言葉をあなた方の内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。』(コロ3:15)
結局、今、わたしがここに存在している理由は、わたしを存在させて下さっているお方、「有る」というお方に由来し、ここに有る。その御方は、天地創造され、わたしが知り得ない全てを、知っておられる。
この御方を豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。このお方は「言」であられ、私達が目で見、耳で聞き、手で触れる「聖書の御言葉」として、今、ここに現れておられる。御言葉暗唱(テフィリン)によってこのお方を豊かに住まわせ、あらゆる自分のあやふやさ、自分の中にある闇を払拭し、神の子として大胆に、豊かに歩んでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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