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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
最高の歌とは(雅歌1:1-4)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要

 雅歌(シール・ハ・シーリーム)の原意は、「歌たちの中の歌」。その、数ある歌たちの中でも最高の歌・雅歌の内容は、花婿と花嫁が呼び交わす愛の掛け合いだ。真理が示す最高の歌の内容とは、花婿と花嫁の愛の呼び交わし…。それ故、聖書を知らない人々が創る歌も、無意識的に、大半が男女の愛の歌となる。
 高音・低音の強弱の組み合わせの一連の流れである「メロディ」は、ある種の感情を呼び覚ます。
動物や昆虫は、鳴く事で、すなわち、メロディを発する事で、求愛や警告などの表現をするが、彼らは実は、主に向かってメロディをあげているのだ。『烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのは誰か。』(ヨブ記38:41) 詩篇148篇をみると、海の巨獣も、淵も、火も、雹も、雪も、煙も、御言葉を行なう嵐も、御使いも、日も、月も、天の天も、主を褒め称えよ(הָלַלハラル)、と命じている。ハラルは「ほめたたえる、自慢する」意味、すなわち「ハレルヤ」は「主をほめたたえる、主を自慢する」事である。
 
 全地は、主に向かって、喜びの声をあげる(詩篇100:1)。私達が住んでいる地の基が据えられた当初、宇宙は歌で満ちていた。『わたしが地の基を定めたとき、…そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子達はみな喜び叫んだ。』(ヨブ記38:4-7) この「明けの星々」の中に、反逆前のサタンもいた。『暁の子、明けの明星(הֵילֵלヘイレル)よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。』(イザヤ14:12) ヘイレルは、ハラルのように「賛美する者」の意味がある。サタンは、元々、神を賛美する天使の長で、全き者の典型、美の極みだったが(エゼキエル28:12)、「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。」(同17節)
 「歌」は本来、主をハラルするものなのに、サタンは歌を、自分をハラルする道具とした故に、投げ落とされた。自分をハラルするために歌手になりたがる人が多いが、それはヘイレル(サタン)の道である。
 
 人が歌う歌の中で、最も優れている歌は、まことの花婿であられるキリストへ花嫁として捧げる愛の歌、すなわち賛美である。被造物はメロディを発して主をほめたたえるが、意思と言葉をもって、主をほめたたえる事が出来る、唯一の存在は、人間だけだ。だから主は、私達が愛の歌を主に歌う事を求めておられる。
 『どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり』(雅歌1:2) この「口づけ(ナーカシュ)」は、結びつける、(武器などを)装着する意味である。私たちはキリストの花嫁として、キリストを装着して一体化したい、と思うのは、自然である。彼の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地良さだ。彼を愛する心をもって、「イエス様」と呼ぶたびに、彼の麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさを伴って、心に満ち満ちていく。全てキリストにある者は、その感覚を共有できるはずだ。
 『あなたのあとについて、行かせ8てください。わたしたちは急いでまいりましょう。』(雅歌1:4a) ここに、私達とキリストとの正しい位置関係が記されている。私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。うるわしい主が行くなら、私達は離れず、急いでついていく。そして、彼が願われる事を私達は行い、彼が望まない事を、私達はしない。それが花嫁たる私達の正しい歩みであり、その歩みをするなら、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。
 
 『王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。』(1:4b) ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、つまり嬉しさのあまりに、踊り回る事で、また「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔がぱーっと輝く様をあらわしている。ちょうど子犬が、大好きな主人に会った時にぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫ぶような感じである。私達キリスト者が、キリストにエスコートされ、奥の間の交わりへと導かれて行く時、そのような感覚である。
 私達にとって奥の間は、どこか。そこは神を礼拝する神聖な所だ。神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」があり、そこは絶対的に聖なる場所で、罪ある人は決して入れない。しかしイエス様は、十字架の上でご自身のからだを裂いて、奥の間へ、すなわち天国への道を開いて下さって、私達をエスコートして下さった。私達はイエス様の愛の十字架により、主との親密な交わりをする奥の間へと導かれて行くゆえ、喜び(サマハ)、楽しみ(ギール)つつ、永遠に彼に愛の歌を捧げるのである。

主日礼拝
変わらぬ愛をもって戸の外に立つ花婿(雅歌5:2-8)
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週報/メッセージ(説教)概要

 雅歌書は、男性と女性が互いに呼び交わす形で記されている愛の歌で、男女が恋愛関係から結婚へと至り、初々しい新婚生活から成熟した夫婦へと至るまでの道のりが生き生きと描かれている。これを単なる恋愛本として見るのではなく、キリストの花嫁である私達と、キリストというまことの花婿との関係として見る時、私達に豊かな示唆を示してくれる。今回、この書から、キリストの愛と、私達が陥りやすい罠とを見てみたい。
 
 『私は眠っていましたが、心はさめて(ウゥル)いました。』(2節) ウゥルは、目覚める、掻き立てる、立ち上がる等の意味がある。彼女は夜、何かに心掻き立てられた状態だった。そこに夫が帰って来て戸を叩いた。
 『わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。』ところが彼女の返事は、つれない。『わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。』(3節)
 夫は前章までのところで、彼女の上から下までを事細やかに褒めそやしてくれたが、彼女はつけあがったのだろうか。夫はわたしいつも褒めて、優しく何でもしてくれる、だから、床に入ったわたしの足を汚すのなら、いつまでもドアの外にいて、と。しかし夫としては、衣服を再び着るとか、足を洗う以上の手間をかけ、夜露に濡れて仕事から帰って来たわけである。彼女は何と薄情な、面倒くさがり屋だろう、と思うだろうか。 
 私達は、ここから戒めをいただくべきである。キリストの花嫁である私達は、主人であるイエス様に対し、このような態度を取っていないだろうか?イエス様が扉を叩いておられるのに、面倒くさい、あるいは彼は優しいから、赦して下さるのは当然だから、いつまでも開けない、と言うような態度を取っていないだろうか。
 
 彼女は、夫の手だけが戸の穴に差し入れられ、かんぬきを外そうと、手をこまねいているのを見た。その時、ようやく彼女の心が騒ぎ、戸を開けに行った。彼が触れたそのかんぬきには、没薬が滴っていた。
 花婿はせっかく彼女に、腐らせない愛を保とうと、没薬の山に上ってから(4:6)彼女の元に来たのに、彼女は実につまらない理由で彼を締め出し、ようやく身を起こして、開けた時には、彼は何かの言葉を妻に言って去って行ってしまった。その言葉で彼女は気を失った、とあるが、彼はどんな言葉をかけたのだろう。
 怒り、罵倒の言葉だろうか?それとも逆に、愛に満ちた言葉だろうか?イエス様は、愛の言葉をかけてくださる故に、私達は自分の罪深さ、至らなさを悲しみ、悔い改めるのである。そのかんぬきは、ついさっきまで、彼がなんとか入ろうとして触れた、愛の没薬が香っている。彼女は思っただろう。自分はなんとつまらない理由で、彼の愛を踏みにじっただろう、と。
 没薬は、腐らせない作用があり、黄金、乳香に続く、キリストの性質である。キリストの受難はpassionと言うが、彼は十字架の場面で、ありとあらゆる痛み、悲しみ、苦しみを経験し、そうして愛を示された。実に情熱的に、感情的に、そして実際的に、十字架という決して腐らない、究極の愛を私達に示して下さった。
イエス様は、罪に閉じこもっている私達を救い、愛の関係へと導くため、十字架という没薬をまとい、戸の外側から「あけておくれ」と戸を叩いて下さる。もし締め出したままにするなら、とんでもない事になってしまう。
 
 雅歌書では、彼は去ってしまい、今度は彼女が夜露に濡れ、足を汚して、彼を求めに行かなくてはならなくなった。さらには夜回りから打たれ、傷つけられ、はぎ取られてしまった(6-7節)。こうして彼女は悟った。
自分はとんでもないことをしてしまったのだ、と。私達も、主人であられるイエス様の庇護がないと、ただ、剥ぎ取られるだけの存在なのだ。放蕩息子のように。彼女は傷を受けたが、それによって自分は「愛に病んでいる」事に気づき、一層、愛が深まった。私達も、愛する夫であられるイエス様が、とても優しい、大切にしてくれる、という事に甘んじ、高慢になってしまうと、このように、痛い思いをさせられてしまう。しかし、それによって、私達もキリストの愛を一層知るようになるのだ。
 私達がつまらない事でイエス様を締め出してしまうような時、イエス様は戸の外に立って、扉をたたく。
彼の変わらぬ愛の没薬に濡れた手で、堅く閉ざした心のかんぬきを、開けようと。もし戸を開けるなら、彼は入ってきて、共に食事をし、宴が始まる(啓示録3:20)。しかし、あまりにイエス様を戸の外に締め出し続けるなら、やがて、間に合わなくなってしまう時が来る。イエス様との関係も、また世における夫婦の関係も、さらに麗しく、成熟したものになっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
祝福の実体を得るために必要なもの:信仰(ヘブル11:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 クリスチャン生活をする上で最も欠かせないものが、信仰である。今回は信仰について学びたい。
 ヘブル書11:1に「信仰とは」何であるかが書いてある。『信仰(ピスティス)とは、望んでいる事がら(エルピゾー)を確信し(フポスタシス)、まだ見ていない事実を確認すること(エレグコス)である。』
 ここの「望んでいる事がら」と訳された語は、エルピゾーの受動態分詞、フポスタシスとは「実質」「実体」「裏付けのあるもの」の事である。だから、ここを字義通り訳と、「信仰とは、(信仰者たちから)望まれている事がら(例:癒やし、必要の満たし、解放など)の、実体である」。すなわち、癒やしや、必要の満たし、解放など、人から「あってほしいな」と願われる事柄(エルピゾーの受動態)の実体化は、信仰によって、である。
 裏を返せば、信仰が無い人は、いくら望んでも手に入らない、という事だ。聖書は「信仰をもって、こうすれば、こうなった」という事例の集大成であり、私達も聖書の記述を信じ、期待して行動するなら、そうなるのだ! 世の人は、目に見える証拠や実証を求めるが、聖書は「信じるなら得る」という法則である。『昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。』(2節) 『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない』(6節)
 
 イスラエル12部族中、最も多く土地を勝ち得たのは、ユダ族だった。ヨシュア記15章には、ユダ族が勝ち得た町々・村々のリストが、延々、63節に至るまで記されており、読むのも一苦労だが、それだけユダ族は、「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与える」「あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもない」という、主の約束の御言葉を信じ、積極的に戦って行った結果、分捕ったリストを読み上げるのが大変な程に勝ち得て来たわけである。
私達も、聖書に記されている約束の言葉を信じて行動し、ユダ族のように実体として勝ち取って行くべきだ。
 
 これと真逆を行ったのが、ダン族である。彼らもくじによって相続地を割り当てられたのに(ヨシュア記19:40-46)、彼らはヨシュアが生きている間に得た相続地を、原住民によって追い出されてしまった。相続地を原住民によって追い出された部族は、イスラエル部族の中で彼らだけである。(士師記1章)
 それは、他人の信仰によって地を得ても、追い出すべきものをいつまでも追い出さず、信仰に立って動こうとしない「霊的怠慢」の結果だった。彼らはライシという所を偵察し、そこに攻め上ろう、と言ったが、その理由は、その地の人々は弱そうで、孤立しており、たやすく攻め落せそうだったからだ。(士師記18:8-10) 
 彼らはその時、取って付けたように「神はそれをあなたがたの手に賜わる」とも言ったが、そこは主がくじによって割り当てた地ではなかった。かつてヨシュアとカレブは、敵が巨体であろうと、城壁を持っていようと、「主が共におられるのだから、必ず攻め落とせる」と、信仰によって攻撃を仕掛け、実際に攻め落とした。
 しかしダン族の考えは、全く逆だった。その地は、御言葉の約束外の、相続地としては示されていない地だったのに、相手が弱かったので楽勝し、そこに自分たちの部族名「ダン」という名をつけて、定住した。
 しかし彼らは、そこに行く途中にあった家から、偶像やテラフィムと、その家の雇われ祭司(実は祭司ではなくレビ人)を強奪し、自分たちの祭司に仕立て上げ、偶像礼拝の体制を整えて、定住する事にした。
 『ダンの人々は刻んだ像を自分達のために安置し、、、国が捕囚となる日にまで及んだ。』(士師記18:30)
 彼らは、士師の時代が終わった後、他の部族が正当な信仰に戻っても、ダン族だけはシロやエルサレムに礼拝に行かず、イスラエル最北端の地で不当な礼拝をし続けていたのだろう。啓示録には、神の印が押されるイスラエル十二部族が出てくるが、そこからは、ダン族は、外されてしまっている。(黙示録7:4-8)
 結局、「主が与えてくださった」という約束の御言葉を信じず、主から「しなさい」と言われた事をいつまでもせず、目で見て勝てる相手と戦って、御旨でない地を手に入れ、神の方法にかなわない自己流の礼拝を続けて行くなら、神が忌み嫌われる偶像礼拝へと落ち込み、ついには、祝福から外されてしまうのだ。
 
 天の御国は、積極的に襲う者達によって、奪われていくものである。『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
目で見て勝てる相手と戦って、勝てない相手とは戦わないような不信仰は捨てて、御言葉の祝福を信じ、積極的に求め、信仰によって多くを勝ち取り、勝ち取った良き地のリストは読み上げるだけでも一苦労であったユダ族のように栄えて行くみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
今も啓示録を通して生きて語られる主(啓示録2:1-7)第一礼拝 Youtube動画
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週報/メッセージ(説教)概要

 黙示録の原語はアポカルプシス、啓示、公示の意味で、啓示録と言うのが正しい。この書の言葉を宣言する人・聞いて守り行う人は幸いであると書いてある。主の時が近い今、私達はこの書から恵みを受けたい。

 原初の教会は、主イエスを信じる人々が主日、一つ所に集い、メッセンジャーはこの書をそのまま宣言し、聖徒達はそれに耳を傾けてアーメンするという、非常にシンプルな礼拝で、いわゆる「説教」は無かった。

 聖書をそのまま宣言し、聖霊から直接養いを受けるという「聖霊牧会」が生き生きと息吹いていたが、現代の私達は、日本語に翻訳された聖書をそのまま読んでも、当時のような恵みを受けるのは難しい。

日本語はギリシヤ語と違って冠詞が無く、時制や単数・複数の指定もあいまいで、また「アルファとオメガ」「ニコライ派」などの当時特有のキーワードも説明無しにはわからない。だから現代のメッセンジャーは、ヘブライ思考に基づき、原語から本来的な意味や時代的ニュアンスを掘り起こし、メッセージする必要がある。

 

 ヨハネは主日、御霊の内に7つの金の燭台を見せられ、その真ん中を歩まれるお方が7つの星を握っておられた。主は、7つの星は7つの教会の御使(アンゲロス)、7つの燭台は7つの教会である、と直接解き明かして下さった(1:20)。「アンゲロス」は元々、便りを届ける者、メッセンジャーなので、啓示録という手紙の最初の受信者は「各教会のメッセンジャー」、二次受信者は「各教会の聖徒たち」である。

 そして最後の受信者は「耳のあるもの」全員である。2-3章で「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と、7度も繰り返されているからだ。そうであるからには、私達もこの啓示録から、それぞれ置かれた環境や信仰、状況に応じた賞賛や叱責、勧めや、報いの約束を、御霊から直接いただくものである。

 

 『エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「右の手に七つの星を「持つ(ホ・クラトーン)」者、七つの金の燭台の間を歩く(ペリパテオー)者が、次のように言われる。』(啓示録2:1) この「ホ・クラトーン」の「ホ」は冠詞で、「クラトーン」は、ぎゅっと握りしめる意味の動詞である。通常、動詞に冠詞はつけないが、ヨハネはわざわざ「ぎゅっと握りしめている」という動詞に冠詞を付けた。それは、強く強調したかったからだ。

 「星」とは、教会のメッセンジャーや牧会者達の事、燭台は、エクレシア達(教会)の事である、と、主は既に解き明かして下さった。つまり主は、どの時代のメッセンジャーも、主の働き人達も、牧者達も、世の終わりまで、情熱をもって、ぎゅっと握って離さない!と、ヨハネは強調したのだ。また、「歩く(ペリパテオー)」は、ゆっくりじっくり歩き回る、生きる、過ごす、といった意味がある。つまり主は、牧会者を握りしめ、7つの金の燭台の只中、すなわち主にあるエクレシア達の”ただ中”で、聖徒達と共に歩み、共に生きて下さるお方だ。 その御方は、『あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている(エイドー:感覚的・主観的・感情的な面において「知っている」)』(2:2-3) と言われる。主はエクレシアの間を行きめぐり、働き人達の心の奥底、内に隠れた心の動機の機微も知っており、また、働き人が労苦し忍耐した時に流した涙も、全て知っておられる。

 『使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。』(2節) 

しかしエペソ教会への叱責として、初めの愛から離れてしまった、という事が語られた。そしてもし、悔い改めて初めの愛に立ち返らなければ、燭台(教会)を取りのけてしまう、とも警告された(4-5節)。

 エペソ教会は当初、テモテの指導の元で成長し、やがては、建物が200m×500mの、馬が内部を通れる程となり、中央には、水のバプテスマに使っていたと思われる約5mもの洗礼槽もあった。しかしギリシア思考によって御言葉を変質してしまい、AD431年、エフェソス公会議において、マリヤ神聖宣言がなされ、マリヤを聖母とし、神の妻として、マリヤ祈祷が始まってしまった。彼らは、御言葉中心の「はじめの愛」には帰らず、その100年後、教会は地震によって破壊されて以来、再建される事は無かった。主はまさに、「初めの愛を捨ててしまった」主の働き人達に、「悔い改めて、初めのわざを行いなさい」と警告しておられる。

 『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(2:7b)

ここで主は、楽園にあるいのちの木への回復を、約束しておられる。私達は勝利者となるために、はじめの愛に即した行いを続け、もし主からの叱責を受けたとしたなら、速やかに主の言葉に従順するべきだ。

 『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:7a) 私達は、初代教会のように、ヘブライ思考に基づき、御言葉から直接的に御霊の養いを受け、最初の愛・最初の行いをキープし、その幸いにあずかるべきである。そのような皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 主日礼拝

「黙示録」から「啓示録」へ(啓示録1:1-3)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 先週のコーエンジャパンでは啓示録(黙示録)を学んだ。啓示録というと、よく分からない、怖い、恐れ多い、といったイメージがあったかもしれない。なぜ啓示録が怖い、難しい書物のようになってしまったか。
 「啓示録」のギリシア語Αποκαλυψις(アポカルプシス)は元々、啓示、開示、公示の意味で、イエス・キリストより、ヨハネに示された啓示によって、天国が、終わりの時代が、教会への指示が開示された、というのに、これを「黙示」と訳し、意味が秘められたもの、隠されたもの、と解釈してしまったのだ。
 それでこの内容を読む時、何かぼんやりした影のように思い、ある人はああ解釈し、別の人はこう解釈して、異端がいいように利用し、人を惑わして来た。しかし啓示録はヘブライ思考(神中心・御言葉中心)に立つなら決して怖い・難しい書ではない。むしろ幸いに満ちた書である事を講義に参加した人は体験した。
 書いてある。『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて(ヘ:シェマー)、その中に書かれていることを守る(ヘ:シャマール)者達とは、幸い(ヘ:バラク)である。時が近づいているからである。』(啓示録1:3)
 啓示録を秘められた書として開かなかった人達は、啓示録がもたらす「幸い(バラク)」の外にいた。しかし私達は今こそ、この預言の言葉を宣言し、聞き、行い、暗唱(食べる)して祝福にあずかるべきである。
 
 3節の状況、すなわち、預言の言葉を朗読する人と、それを聞いて守り行うべき人々がいる状況とは、教会での礼拝の場面である。啓示録の内容は、まずイエス・キリストから使徒ヨハネへ示され、それを手紙の形式で、七つの教会の「使い達(アンゲロス:牧会者)」へ送り、それを受けた牧会者は、教会の会衆の前でその一章から二十二章まで全部を宣言し、それを聞いた聖徒たちは、その内容にアーメンして、それぞれの生活の現場に帰って行った。聖徒たちは再び主日に集う日までの6日間、書かれていた内容をずっと心に留め、それを行い続けていた。そうしている内に、聖徒たちは啓示録の内容を覚え、やがては「交読」の形となって行った。啓示録の中には「アーメン」という応答が何度かあるが、それがその痕跡である。
 御言葉を宣言し、それにアーメンで応答する時、一人一人に聖霊ご自身が働き、それぞれに必要な養いをして下さる。そのような「聖霊牧会」があったから、激しい迫害の時代でも福音は莫大に広がり続けた。
 
 御言葉を宣言し、それにアーメンで応答し、それを守り行い続ける。それが本来の信仰生活である。このようにする人が「幸い(バラク)」と1:3に書かれてある。これは、申命記28章の祝福の法則と同じである。
 『もしあなたが、あなたの神、主の声に「よく聞き従い」、わたしが、きょう命じるすべての戒めを「守り」「行う」ならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
 祝福のための3つの動詞が、「聞く(シャマー)」「守る(シャマール)」「行う(アサ)」である。シャマールは、茨など棘のついた生け垣で囲う、という意味が転じて「守る」という意味になった。御言葉を聞き、それをシャマール(巡らす)すると、御言葉が世とサタンから守る。その防護壁が無い人は、世の有毒な情報や心を傷つける人間の言葉、サタンの誘惑や攻撃が、そのまま「ぐさっと」刺さってしまう。しかし思いと心を御言葉の垣根を巡らしているなら安全である。「行う」のアシャーは「する」の他、「つくる」、「(実を)結ぶ」の意味があり、天地創造の創世記1章では7回も使われている。御言葉は、「行う」事によって実が結ばれるのだ。
 
 啓示録10章に、御使いがヨハネに巻物を「食べなさい」と渡してヨハネが食べる場面がある。御言葉を食べるとは、暗唱(テフィリン)する事である。御言葉を一日三百回、声に出して宣言して「食べる」なら、御言葉の城壁がめぐらされ、世のどのような否定的な言葉からも守られる。そして啓示録をテフィリンするなら、多くの民族、国民、国語、王たちについて預言する、と書かれてある(10:10-11)。だからキム先生は、啓示録をテフィリンするように言っているのだ。テフィリン無しで世やサタンと戦おうとしても、銃の撃ち方を知らない人にいきなり銃を持たされるようなものである。宣言し、守り行う者こそ幸いなのだ。
 啓示録の最後は、主の「すぐ来る」という言葉と、聖徒たちの応答で終わっている。『これらのことをあかしする方が仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。(原文は最後に「アーメン」がある)』(22:20-21) 宗教改革以来、御言葉暗唱と、御言葉宣言と、応答とが軽んじられてしまっているが、今こそ、初代教会に息吹いていた暗唱と宣言に立ち返り、聖霊牧会の力ある養いを受ける皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「負ける思考パターンからの脱出方法(民数記13:25-14:11)」
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 今年新たに頂いた約束、すなわち、自分が建てなかった大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、自分が植えたのでない畑を得る約束(申命記6:10-11)を得るための条件と、注意すべき事を学んでいる。今回も、それを得られる人・得られない人の思考パターンを、民数記から学びたい。

 

 主が用意して下さった祝福の地を逃してしまう人の思考パターンが、民数記13:3114:4に幾つかある。

祝福を逃してしまう思考パターン・その1は、先週も学んだ通り、目の前の敵や状況を見る時、共におられる主を度外視して、ただ自分と相手を比較する事である(13:31)思考パターン・その2は、主が備えて下さった莫大な良い祝福に目を向けず、できない言い訳を考え、それを誇張し、悪くいいふらす事である(32)思考パターンその3は、目の前の問題を巨大化し、自分を「いなご」などと縮小化する事である(33)

 民衆は今まで、主がして下さった素晴らしいわざの数々を見ておきながら、一切学ぶ所が無かった。今までモーセが全部、信仰の指導をして、いざ、一人一人が信仰の行いを実践しなくてはならない段になった時、それを実践しなかった。パターンその4は、信仰の行いの報酬も、奇跡も、ただ受けっぱなしで、自分が実践するべき段になると、尻込みして、「それはわたしの仕事じゃありません」などと拒否する事である。

 パロのレンガ造りに明け暮れる日々から脱却して、主のための価値ある仕事へとシフトする時が来ている

これらの負けの思考パターン」から脱却する方法は、一体何か? 2コリント10:3-6に具体的な答えがある。

 

 それはまず、「逮捕」する事から始まる。逮捕する相手は、目の前の問題や敵を頭の中でぐるぐる巡らす「さまざまの思弁(ロギスモス:議論、理屈、自分の計算)だ。「この問題はイエス様も対処できないのでは」などと神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり(エパイロー:高慢、障害物)など、全ての「はかりごと(ナイマ:思い、所存)「とりこにして(アイクマロティゾー:捕らえて連行する)」キリストの言葉に服従するのだ。

 その服従が完成した時、敵が構築したあらゆる「城壁」は、打破される。事実、ヨシュア達がエリコの城壁を崩したのは、武力ではなく、主の御言葉への服従が「7」という完全数に満ちた時だった(ヨシュア記6)

 勝利者の行動パターンは、いつも、主と主の御言葉を思い巡らし、口ずさむ事である。(申命記6:4-9)

思いの中を、御言葉の柵をめぐらしてガードする時、世的な強さや栄光は色あせ、ただ主の力強さが現実を上回る、と確信できるようになるのだ。ヨシュアとカレブは、神がなして下さった素晴らしい御業の数々をいつも思い巡らしていた。先週学んだ「能動態のビーン(悟り)を持っていたのである。つまり彼らは、自分から積極的に主を知ろうと、主のわざを注視し、観察し、考慮し、より主を理解しようと、務めていたのだ。

 

 ヨシュアとカレブは、エジプトへ逆戻りしようと言い出した群衆に、叫んだ。これから入ろうとしている、主の約束の地は、素晴らしく良い地だった。私達が主の御心にかなうなら、主はあの地へと導き入れて下さる

ただ、主に背いてはならない。彼らを恐れてはならない。彼らの守りは取り去られており、私達には万軍の主がおられ、彼らは私達の「えじき」となるのだ、と。そんな彼らに民衆は、石を投げようとした。しかし主はヨシュア達に軍配を上げ、彼らを守り、逆に主は、約束の地を悪くいいふらした者達を打たれた。(14:7-38)

 ヨシュアとカレブは、主の約束の地を仰ぎみる信仰を、40年もキープし続けた。40年後、カレブは85歳になったが、40年前と変わらない信仰を宣言し、ヨシュアの祝福を受けると、たちまちにして巨人がはびこる山地を平定した。85歳が、巨人が守る城壁の町々を、いとも簡単に打破したのだ!(ヨシュア記14)

 

 そういうわけで、目の前にある問題や敵、城壁を見て、頭の中が「もうだめだ」という「議論」でぐるぐるし出した時、まずすべきは、主イエスの御名によってその「議論」を逮捕し、次に「能動態のビーン」をするのだ。

すなわち、主が為して下さった力あるわざを一つ一つ思い返し御言葉によって主を観察し、考慮し、今までの経験と御言葉とから、主を理解しようと務めるのだ。そして、主へのビーンと御言葉への従順が完全になった時、頭の中の要塞は打ち砕かれ、そして、目の前の現実の問題・敵の城壁も、実際に崩れ去るのだ。

 もし私達が、日頃から主と主の御言葉を口ずさみ、思い巡らす事(申命記6:4-9)をしているなら、祝福の法則に乗っかっている。今、私達は祝福の法則に乗り、たとえ目の前に敵や城壁が立ちはだかっても、主の言葉への服従と信仰によって打ち破る皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「主を知れば、百戦危うからず(詩篇49篇)」
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 今年新たに頂いた約束、すなわち、自分が建てなかった大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、自分が植えたのでない畑を得る約束(申命記6:10-11)について、その祝福を得るための条件と注意すべき事を学んでいる。今回、それを得るために必要なマインドセットを、詩篇49篇から学びたい。

 

 5-6節をみると、なぜ富んで豊かな人を恐れなければならないのか、と書いてあり、16節でも、人が富んだり栄誉が加わっても、恐れるな、と書いてある。お金持ちを前にすると、あるいは栄誉が増し加わった人を前にすると、なぜ「恐れ」という感覚が沸き起こってくるのか。それは、その人は「自分より強いのでは」という思いがあって、そして、彼らと対抗して生きなくてはならないと想定をする時、恐れが起きるのだ。

もし私達が富む事を目指し、栄誉が増し加わる事を目指しているなら、その恐れを対処しなくてはならない。

 7-8節には、彼らを恐れる必要はない、という理由が記されている。その理由とは、彼らは自分で自分を贖えないからだ。どんなに富んでいても、力を持っていても、それによって自分を救い出す事は出来ない。

それに引き換え、イエス様を救い主としている私達には、力強い「贖い主」がおられる(15節)。

 私達は既に、イエス様の血により買い戻されており、天国に受け入れられるだけでなく、この地上においても、悪しき者達から守られ、必要が満たされる、という保証を得ている。しかし、主の方法でない勝ち方、力に任せて分捕る仕方で世を渡り歩いている者達は、義人が叫んだ時、主によって倒され、朝には「直ぐな者(ヤーシャル:まっすぐな人)」が、その者達が建てた家を取り、その者の労苦の実を得るのだ(14)

 詩篇49篇の結論は、20にある。すなわち、人がどんな栄えていても、「悟り(ビーン)」がなければ、滅びうせる獣に等しい。この「悟り(ビーン)」の意味は「知覚する、認識する、理解する、観察する、注意を促す、区別する、考慮する」で、詩篇のこの箇所ではQal態(能動態)」が用いられている。つまり、神についてもっとよく知ろう、注意してよく見よう、理解しよう、という積極さがない人は、滅びうせる獣に等しい、のだ。

 積極的に主というお方を知ろう、理解しよう、と追求した人は、他人が建てた素晴らしい町々や他人が植えた素晴らしい畑を得て行ったが、主を理解しようという積極性を持たず、目の前の現実を見てつぶやき、荒野で滅んで行った人達の事例が、民数記13-14章にある。主が約束して下さった素晴らしい地に入る直前、そこを探ってきた斥候達が、次の報告をもたらした。そこは素晴らしく潤っていて、まことに乳と蜜が流れる地であるが、そこにはアナク人という巨人や、アマレクという弱い者いじめに長けた者達、エブス人、エモリ人、カナン人という弱肉強食の世でのし上がって行った者達が、城壁を建てて住み着いている、と。

 『そのとき、カレブはモーセの前で、民を鎮めて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼と共にのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼる事はできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。(民数記13:30-32)

 攻めのぼって行けない、と判断した人達の理由は、「彼らはわたしたちよりも強い」だった。つまり、自他を比較して、不可能だと思ったのだ。ではカレブは一体どうして「必ず勝つ」と言えたのか? それは相手と自分達の神とを比較したからだ。私達も、我らの主イエス様と、目の前に立ちはだかる相手とを比較すべきだ。

そうすれば、彼らが建てた城壁の町々も、豊かな畑も、獲得できる。しかし、自分と他人を比較し、我らの主を全く度外視して、主を計算に入れない人は、何も手に入らないどころか、荒野で滅んでいくのである。

 私達が行って占領すべき所に、富んだ者・強い者が蔓延していて恐れがよぎる時、神をじっと見、観察し「ビーン」するのだ。その上で、相手と神とを比較する時、恐れはなくなり、カレブのように勝利を確信できる

 

 天の御国は、積極的に攻め取る者のものである。ヨシュアとカレブは、今まで主がして下さったその素晴らしい数々を、つぶさに観察し、学習し、熟知して、より頼んだ。このような主への積極的なビーンがあったため、素晴らしい町々を得たが、荒野で滅んで行った民にはそれが無かった。今まで主から多くの恵みを得てきたにもかかわらず、学ぶ所がなく、それどころか、目の前の敵をつぶさに見、観察してしまったのだ。

私達は詩篇49篇から学んだ。主に聞き従わない者達、富と権力で弱者を虐げる人達は、滅びうせる獣のごとくなり、彼らの富は、朝には神に対してまっすぐな人が受け継ぐ、と。カレブもそのように宣言した。

 今年、ますます神を調べ、その主が共に導いて下さる事の素晴らしさを確信し、積極的に攻めて行き、自分で労さなかった富と権威を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「得る人・持って行かれてしまう人の法則(申命記6:10-11)」
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 前回、自分が建てたものでない大きく美しい町々や家々、自分が掘ったのでない井戸、植えたのでない畑を得るという神の民への約束(申命記6:10-11)について、それを実際に得るための条件、および、実際にそれらを得た場合に気をつけるべき事を学んだ。得るための条件とは、直前の4-9節のシェマー本文、すなわち、自分の中に御言葉を溢れるまでに存在させ、昼も夜も御言葉について語り、子供によく教え込み、自分の手(行い)に結びつけ、家の柱に刻みつける事だった。そして、それらの祝福を得た時に気をつけるべき事が、12節以降の警告、すなわち、主を忘れたり、裏切ったり試みたりしてはならない事だった。

 これらの条件をクリアする人こそ、自分で労さなかった実を得るに値する人となるのだが、そのような人がいる一方で、自分が労して得た実や自分が投資した利益を、他人に持っていかれてしまう人もまた、同時にいるわけである。それは運ではなく、御言葉による一定の法則性がある。その法則性とは一体何か。

 

 「あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ」この申命記6:10-11で言う「あなた」とは、イスラエル人(神の民)であり、その町々を建てた人々とは、カナン人である。カナン人は何百年も前からずっとその地で実り豊かさを得ていたのだが、その特別な祝福を悪辣な事に用いて来たため、ついに主は、その国々をアブラハムの子孫達によって滅ぼさせ、そこを彼らに受け継がせるに至ったのだ。(創世記15:16)

 大きな富や力が委ねられた人には、それだけ大きな責任が伴う事を前回学んだが、それに値しない事を続けているなら、主はその者から取り上げ、別の、もっと主に忠実な人に、それを受け継がせてしまう

 

 サムエル記には、このような例がいくつもある。大祭司エリの息子のホフニとピネハスは、祭司としての務めをないがしろにし、祭司職の特権を乱用して、聖徒の捧げものを横取りし、神に仕える女性に手を出し、神を軽んじた結果、この一族は祭司職から絶たれてしまった。神と人との間に立つ、栄えある職務であるにもかかわらず、そこに安住し、肉欲のために特権を乱用したからだ。そこで主は、彼らに代わってイスラエルを霊的に指導する者として、サムエルという優れた指導者を立てられた。(1サムエル記2-7)

 サムエルは一生の間イスラエルをさばき、イスラエルが主への感謝と従順をやめさせないために、年ごとに各所を巡回し、霊的指導を続けた(7:15-17)。この働きは、派手さはないかもしれないが、このように人々の信仰を守るために巡回するという忠実な働きは、どんな戦いに勝利するより、はるかに偉大である。

 サウル王は、イスラエルの最初の王として任命されたのに、主の御言葉に二度も背き、神ではなく人を重んじたため(13-15)、主は彼から王権を除外された。彼は「王座」に固執し、新たに王として油を注いだダビデを殺そうと長年追い回した結果、とても悲惨な最後を遂げてしまい、それで王座は、ダビデという、より優れた人へと譲られて行ってしまった。『神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、乳を与える雌羊の番をする所からつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。(詩篇78:70-71)

 ナバルは裕福であったが、頑迷で行状が悪く、多くの部下達は、言っても聞かない彼から離れて行った。

 ある時、彼はダビデ達からの恩を、仇で返した事が決定打となり、彼は主に打たれる事となってしまう。ダビデは、彼の悪辣さに怒り、一族全員を討とうとしたが、主は、ナバルの妻・アビガイルという、信仰の優れた、聡明で美しい女性をダビデに送ってその思いを留め、ダビデが王になる前の汚点となる事をしてしまうのを防いだ。ナバルは主に打たれ、彼の美しく聡明な妻アビガイルも、彼の富も、全部ダビデのものとなった

  ダビデに王としての任職の油が注がれたのは、まだ誰もかえりみない少年の時だったが、彼はいつも主を賛美し、弱い者を顧み、どんな背景を持っている人でも受け入れては、羊飼いとしてよく面倒をみた

 主は天からあまねく人々を見回し、主の働き人として相応しい人を探し求めておられ、見つけたなら、その人を特別に扱い、その人をあらゆる災いから守り、また敵でも味方でも「人」を送ってその人を鍛え、整える。

 もし、主から特別扱いを受ける者になりたい、と願うなら、シェマー本文にある通り、御言葉を溢れるまでに存在させる者になり、昼も夜も御言葉を語り、子供によく教え込み、御言葉を手に行いに結びつけ、自分の家を御言葉を土台に据える者、となるべきである。主は、主から与えられた役割に対し忠実な人には、さらに大きな事へとその人を委ね、導いて行く。神の国の忠実な経営者として、託されたタラントをさらに何倍にも増やしていく、良き忠実な主のしもべでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

横浜天声キリスト教会主日礼拝「大きな祝福を得る時に伴う大きな責任(申命記6:10-19)」
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  今年も昨年同様、「ベエル・シェバ」という安心して産んで増えて行ける広い地、敵が入ってこない地を獲得するようにとの御言葉をいただいたが、さらに進んだ祝福の御言葉が与えられたので、お分かちしたい。

 「あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かってあなたに与えると誓われた地にあなたを入らせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでない諸々の良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。(6:10-11)

 

 この約束は、ユダヤ人が最も大切にしている申命記6章の「シェマー本文」の命令に従った人に与えられる祝福の約束である。その命令の中身は、既にコーエンや天声で何度も取り上げられていて、イエス様も「最も大切な戒め」とまで言った、大切な命令である。すなわち、主の御言葉を心に留め(ハヤー:存在させ溢れさせる)、これを子供達によく教え(シャナン:研ぎ石などで鋭くする、コツコツ刺激を与える)、家にいる時も道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これについて語らなければならない(ダバル:論じ合う)(6-7)

 また、これを手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)、目の間にいつも置き(ハヤー)、家の入口の柱(メズーザー)と門とに書き記す事によって、我とわが家は、御言葉が土台の家であり、御言葉によって出入りする家、御言葉によって守られた家である、と、内外に表明するのだ。(8-9)

 以上の命令をクリヤした人が、自分が建てなかった大きな美しい町々を得、自分が建てなかった、良い物で満ちた家を得、自分が掘らなかった井戸を得、自分が植えたものでない畑と、その実りを得られる

 

 しかし、この誰もがうらやむ祝福は、抱き合わせで「警告」がついている事を、よく心に留めるべきだ。

 あなたは元々、エジプト(世)の奴隷状態だった。そこから、小羊の血の代価をもって買い戻され、救われた事を、忘れてはならない(12-13)。そして偶像礼拝に気をつけるべきである。すなわち、世の何者も、神以上に神としてはならない。そうでないと、主のねたみが燃え上がって滅ぼし尽くされてしまう(14-15)

 また「主を試みる事」をしてはならない(16)。イスラエルはマサで水が無かった時、主を試みたが、主はモーセに命じて、岩から水を出させた。主の御力と素晴らしさを見て、体験し、実際飲んで食べておきながら、それでも主に対して感謝する事も、何ら学ぶ所も無く、次は肉をくれ、と、さらに図に乗って主を試みた。

だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った(ヘブル3:7-11)のである。

 神が私達に富や力を祝福として与えられるのは、私達の物欲・贅沢欲を満たすためではない

私達が気をつけて世の罪や悪に染まらず、王として、祭司として地上の人々を主へ導き、神の子として地上を正しく統治し神の国(神の支配)をもたらし全被造物に慰めを与えるという「大目的」のためである。

 

 『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたは幸いを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。(申命記6:18-19)

 ここにあるように、私達が行うべきは、私達が考案した私達の「良かれ」ではない。主の「良かれ」である。

私達が自ら積極的に主に喜ばれる事が何か考え、先取りして行動するなら、さらに多く与えられるのだ。

 会社の経営者は、どうすれば事業が拡大し、顧客が喜び、社会のためになるかを主体的に考え行動するが、私達も、御国の事業に参加している意識を持ち、どうすれば御国が広がるかを主体的に考え、御言葉を調べ、その通り行動するなら、主はさらに多くをその人に任せるために、富や権威、職分を、御前で相応しくない用い方をしている人から取り上げて、その人へ与え、神の王国の経営を任せるようになって行く。

 大きな富を得たい、大きな力を得たい、と願う人は多いが、大きな富や力が委ねられた人には、それだけ大きな責任が伴う事を、忘れてはならない。単に贅沢欲を満足させたいという理由で、それらを求めたりはしていないだろうか。もし、自分が建てなかった町々を得、自分が建てなかった良い家を得、自分が掘らなかった井戸を得、自分が植えたものでない畑を得たなら、それを用いて、さらに神の国の拡大のために用いて行く準備は、整っているだろうか。神の国の忠実な経営者として、託されたタラントをさらに何倍にも増やしていく、良き忠実な主のしもべでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 ※ この日は、林/川合牧師がカンボジアへ出張する関係で、横浜天声キリスト教会では小林伝道師が、成田エクレシアでは林パスターが礼拝の担当をしました。そこで今回は、横浜の礼拝をYoutube動画で、成田エクレシア礼拝は文書でメッセージをお分かちします。

横浜天声キリスト教会主日礼拝「主の器をになう者の品性−あなたの隣人を愛しなさい(ルカ10:25-37)」
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成田エクレシア主日礼拝「思い巡らすことばを管理せよ(2コリント10:4-6)」

前回、サタンがダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまって、イスラエルに災いをもたらした所を見た(1歴21:1)。もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは、キリスト者の中に生じた欲につけこんで「偽り」を信じこませる事によって、である。だから、私達の戦いの領域は「思い」の中にこそある。サタンは人の思いに偽りを吹き込んで、人を操るため、今回は特に、思い巡らす内容を管理する事の重要性と、思いの領域に投げかけて来るサタンの攻撃に対処する術を学びたい。
 
  私達の思いの中には常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れているが、その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など、サタン好みの言葉をいつも思いの中に流し続け、それに浸し込まれていたため、どんどんサタンの性質を帯びるようになり、滅びの性質をどんどん身につけ、やがて、自分の身を滅ぼしてしまった。
 『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(2サム22:6)
 ここではサウルの人格の崩れ度合いが、かなり進行している。槍は人を殺める武器で、サタンなど敵に用いるべきなのに、部下を威圧するため、あるいは気に食わない者に投げつけるため、いつも手にしていた。
 『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8節) 彼はすごい被害妄想に憑かれている。誰も心配してくれない、みんな自分に敵対している、と。信仰の逆・「疑い」をいつも抱き続ける人は、こうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ると「自分が嘲られた」と思ってしまうものだ。
 サウルは既に、主から王位を退けられたのに、ずっと王座にしがみつき、主に油注がれたダビデを殺そうと付け狙って、いつも主に敵対していた。王座は、自分が座るものではなく、唯一イエス様が座るべき所だ。
もし人が「王座」を主に明け渡さないなら、「王座」に支配され、振り回され、ついに王座に滅ぼされてしまう。
 
 そういうわけで私達は、思いの中に常時流れている「ことば」を支配・管理すべきだ。人は罪の「とげ」がささっているため、どうしても、不品行や好色、魔術、憤り、党派心、妬みなどを燃え立たせる系の話に弱い。
しかしサウルのように、気分に任せるまま、それらを頭の電光掲示板に流し続けるなら、サタンに似た者、滅びの体質を身につけた者になってしまう。こうした思いが、思いの思考パターン化してしまった「要塞」は、肉に従って戦うとするなら、太刀打ちできない。しかし、その要塞を打ち破る効果てきめんな方法がある。
 『私達の戦いの武器は肉のものではなく、神の為には要塞をも破壊するほどの力あるものである。私達は様々な「議論(ロギスモス:理屈、自分の計算)」を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(エパイロー:高慢)」を打ち壊し、全ての「思い(ナイマ:謀、所存)」をとりこにしてキリストに服従させ、そしてあなた方が完全に服従した時、全て不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:3-6)
 すなわち、自分の中で握りしめようとする自分の理屈、計算、御言葉に逆らって立つあらゆる高慢、謀、所存を、全て「逮捕」し、キリストへと連行するのだ。そして私達自身は、キリスト(御言葉)に服従するのだ。
ダビデもよく、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と、自分に言い聞かせた。私達もたましいに言い聞かせ、その服従が完全になる時、全ての不従順を処罰する用意が整い、私達の中の要塞は破壊されるのだ。
 
 結局、全て人生をややこしくし、世界を不幸に陥れている原因は、エデンで食べてしまった「善悪判断」である。自分が王座に座っていたい、自分はこういう所存です、自分の立てた計算に従いなさい、などなど、自分が神のようになりたい欲求は、全て、死へとつながる。私達は御言葉といういのちの木をこそ捕えるべきだ。『知恵は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
 自分のたましいに言い聞かせる事は、確かに大事だが、いちいちそれをしていると、骨が折れる。
結局一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し、自動思考パターン化・行動パターン化させる「テフィリン」である。日本の部活や会社などでは、自分の理屈や所存を持っている人は「できない人」で、昇進しない。いち早くそれを捨て、場の空気に従う人が、ぐんぐん成長する。私達は人の奴隷ではなく天国民である故に、いち早く自分の所存を捨て、御言葉に従う者となり、神の子としてぐんぐん成長する者でありたい。

 

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