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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

私達エクレシアの霊の父となった使徒パウロ(第二コリント11章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。今回は、実の子がいないながらも、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの霊的な父となった使徒パウロから、父親像を見たい。

パウロはコリント教会を開拓し、彼らを救いへ導いた。しかしコリントの人達は、他から来た偽兄弟・偽教師に欺かれ、パウロはだめだとか、彼は教師として失格だとか噂を立てられ、彼は軽んじられたり、疎んじられたりして来た。それでも彼は父親として、コリントの兄弟姉妹を、息子や娘のようにいつも気遣っていた。
特に2-3節に、婚期を迎える娘を持つ父親のごとき彼の心情が、滲み出ている。彼は、コリントの聖徒達を、イエス様へ嫁がせる花嫁として捧げた、と言った。そんな彼にとって一番の心配事は、エバが蛇の悪巧みに誘惑されたように、彼らの思いが汚され、キリストへの純情と貞操とを失いはしまいか、という事だった。
親の、息子や娘への気苦労は絶えないものだ。そしてその子育てのわざは、とても尊い。子が母の胎から出て、産声を上げたその日から、20歳で成人するまでの日数は7300日である。その一日一日、父は子を養うために働きに出て行く。時に仕事が成功して喜んだり、あるいは失敗して、子の将来を不安がったり。
そのように、妻と共同で子を育てて行く。母もまた、律儀に朝、昼、夜と、子供が食べられるようにし、ちょっと顔色が悪いとすぐに気づいて、面倒をみる。そのうよな7300日を通して、子供は一人の成人へと育つ。

パウロはコリントの教会のみならず、彼が立てた他の教会達の霊的な息子・娘達を、毎日気遣って来た。
中には、悪魔に欺かれて去ってしまったり、パウロに牙を剥いて反抗されたりする苦しみ・悲しみもあった。
コリントの教会はパウロが開拓し、彼が建て、彼に養われた、というのに、偽教師に欺かれ、高慢になる聖徒達もいた。そのように誇り高ぶる彼らに、パウロは言う。『言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。』(11:21)
パウロは、何を誇ったのだろう。彼は最高の先生から師事を受け、パリサイ人として最高教育を受けた。
彼は多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救った。しかしパウロは、そうした実績も学歴も微塵も出さず、彼が誇りにしたのは、彼自身が受けてきた数々の迫害や困難、そして、コリントを含め、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ、祈ってきた事だった。
そして、パウロが断固として主張し、決して譲らなかった事は、自分はキリストのしもべである、という事だ。

彼は何度も鞭打たれた。石打に遭って死んだようになった事もあった。難船し、盗賊にあい、自然の驚異に晒されながらも、キリストを伝える事を止めなかった。永遠の命へ至らせる尊い福音を伝えない事が災いだからだ。そういう思いでようやく獲得した、コリントの兄弟姉妹達であり、そして、他の教会の聖徒達である。
素晴らしい親とは、出来る親というより、子のために多くの犠牲を払い、多くの労苦を払ってきた親である。
パウロは、福音を拒否され嘲られても、全然平気な、鉄の心を持っていたという訳ではない(28-29節)。
せっかくの福音を伝えても、救いが実らなかったり、あるいはせっかく救われたのに、悪霊や偽預言者に惑わされ、虚しい物事に心奪われ、永遠のいのちが実らなかったりする様を見る度、心が痛んだのである。
結局パウロが誇りとしたのは、自分の弱さだった。(30節) キリストの力は、人の弱さの内に、完全に働く。
自分の腕力や知力、鉄のような心を持っていれば、キリストが働く、というのではない。弱さの内に、だ。
それはこのミニストリーが、人の力によらず、キリストの力によって働いているのだという事を知らせるためだ。

親は今日も、働く。ごはんを作って、子供に食べさせる。子供が独り立ちするまで、一日も欠かさず。
それが親であり、パウロも、このような日々を走り抜いて来た。そして親は、いつまでもいるわけではない。
パウロは、福音ゆえに殉教し、天にのぼるその日、自分は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えたと堂々と宣言し、そして霊的な子に命じた。時が良くても悪くても御言葉を伝えなさい、と。(2テモテ4:1-8)
福音を届けるためにいつも旅をし、時に難船し、鞭に打たれたり、多くの兄弟姉妹のために心砕き、兄弟姉妹が悪魔サタンにとらわれないよう心遣い、眠れぬ夜を過ごし、そうした1日1日の積み重ねを立派にして来たのだ。親の1日1日の働きは、尊い。パウロには及ばないにしても、キリストの御前に誇り高く、御言葉によって子を気高く育て、信仰の競争を立派に走り抜き、かの日には、栄光の冠を立派に頂く。
そのような、素晴らしい父母となって行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

いつまでも残る愛された思い出(1コリント13:8-13)
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  前回は、聖霊の賜物の中で最もすぐれた「愛」について学ばされた。今回も、「愛」について学びたい。
もし私達が昔の事を思い返し、小学、中学、高校時代と、それぞれの時期の思い出をたどる時、心が暖まる時期とは、誰かが一緒にいてくれて、関わってくれていた時期、愛されていた時期ではないだろうか。
愛とは「関係」であり、そして「時」に制約されたものである。もし親や、友人との関係を断って、ゲームやインターネットなどで一人自己完結して時を過ごすなら、その年月はなんと暗く冷たい時期だっただろうと、後で悔やむものだ。しかし「あの人があの時愛してくれていた」「関係を持ってくれた」という思い出は、たとえその時期が、病や貧困でしんどかったとしても、闇の中に暖かく灯るともし火のようなものではなかろうか。
誰かから「愛された」という記憶は強烈に自分の中に残るが、自分から誰かを愛した、という記憶は、あまり残らない(マタイ25:31-46)。それは、愛は「与えるもの」で、本人に意識が無いからだ。しかし、人の「あの時は誰々から愛された」という思い出は、時が経てば経つ程、感謝と喜びに美しく輝いて行くものである。

『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(1コリント13:13) この地上で生きた信仰の思い出、希望の思い出、愛の思い出は、地上のみならず、天においても、いつまでも残るものであり、永遠に感謝が絶えない。しかし最も価値ある愛の関わりは、究極の愛なるお方、永遠の救いをもたらして下さるイエス様へと導く事だ。
およそ二千年前、ベツレヘムにて、究極の愛は、見える形になってこの地に降りて来た。それも、赤ちゃんとなって。神の御子イエス様は、私達に愛を示すために人として降りて来られ、ご自身のからだを犠牲として捧げられた。パウロはその愛に触れられた故に、迫害を恐れず、時を惜しんで、このキリストを伝道した。
人生の中、親から当然受けるべき愛を受けて来なかった、と、不全感に陥っている人もいるかもしれない。しかしたとえ愛を受けるべき人から捨てられていたとしても、その間、いのちを投げ出す程の完全な、無償の愛で、愛され続けていたのだ。この御方・イエス様から。死をいのちで飲み込んで下さるイエス様の愛を知る時、真っ暗な過去の思い出は、オセロゲームのように全て白く塗りつぶされて行くのだ。
過去は、変えられない。しかし、過去も現在も未来も決して変わらぬ愛でずっと私達を愛しておられたイエス様が、その間もずっと愛しておられた事を知る時、思い出の色は、暗色から明るい色へと変わって行く。
イエス様から愛されていた、あるいは誰かから愛されていた、という思い出は、いつまでも残る。天国では世の知識はすたれ、預言も止む。なぜなら、世において知る事は一部分であり、預言するところも一部分に過ぎないからであり、天において全てが完成した時、部分的なものは廃れるからだ(1コリント13:8-10)。

愛の人になるにはどうすれば良いか。まずは私達の側が、愛を追い求めるべきである。「愛を追い求め(追求し)なさい」(1コリント14:1)と書いてあるからだ。そして、愛には犠牲がつきものであるが、その犠牲を面倒くさいと思ってはならない。愛の犠牲や、愛ゆえの苦しみは、この地上にいる間にしかできないからだ。
天国には、もはや労苦も寿命も無く、そして、イエス様を伝える事もまた、地上でしかできないし、天国という所は、地上でイエス様を伝えられ、イエス様を信じ、イエス様を愛する人しか存在しないからだ。
だから、キリストにある愛の労苦は、人の心に永遠に記録される思い出づくりであり、今しか出来ない尊い事であり、しかも、愛のわざを「しなかった事」は、死んだ後、永遠に後悔し続けるのだ。(ルカ16:19-31)
天国は、愛がいっぱい詰まった場所である。それ故、イエス様との愛の思い出が無い人は、天国に居場所が無く、主の御心を行わなかった人は、主から「あなたを全然知らない」と言われてしまう。

今、目の前に妻が、夫が、子供が、親が、友人がいる事は、永遠の視点で見るなら、とても尊い事であり、永遠に残る愛のわざを成すチャンスである。日々、世の中に出て家族のために働き、子供を食べさせ育む事は、とても尊い事である。愛のわざは時間に制限され、その人はやがて目の前からいなくなってしまう時が来るからだ。そして何より、イエス様を伝え、御言葉を伝授して行く事は、永遠に栄誉ある事である。
妻に、夫に、子供に、親に、友人に、あるいはまだ見ぬ人々に、「あなたが一緒にいてくれた」「あなたが愛してくれていた」「だからあんな時期でも、心は暖かかった」という思い出を作ってあげて、天において永遠に朽ちることの無い冠を、今日も備える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
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 ここ数週間、聖霊について学ばされている。聖霊に満たされた人は、力を受け、イエス・キリストの強力な証人となり、働くべき場が、自分の生活ステージ周辺から、外へと大きく広がり、地の果てにまで至っていく。
今回、どのような人が、主から用いられやすく、働きの場が速やかに広がって行くのかを学びたい。

『また舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の「他国の言葉(ヘテロス・グロッサ:異なる舌)」で語り出した。』(使徒2:3-4) 
聖霊に満たされた人の最たる特徴は、「舌」が変わる事である。それまで人間同士で、肉欲に属する言葉で話していた舌が変わり、「神の国の大いなる事」を語りだすようになる(11節)。聖霊はイエス・キリストを栄光化する霊であり、聖霊に満たされた人の特徴は、神の国を拡大して行く事である。それとは反対の人、肉欲の中を生きる人や、悪魔サタンの特徴は、高慢、自己栄光化である。(イザヤ14:12-15)
そもそも、なぜ世界にはこんなにも多くの言語が存在するのか。元を辿って行けば、バベルの塔の事件に行き着く。バベルの王・ニムロデは、主の「前に(パニーム:敵対する)」「狩猟する者(ツァイード:追跡者)」であった(創世記10:9)。彼は人のいのちを追跡し、力で制圧してのし上がった最初の王である。彼がバベルの塔を建てた動機は、人を一つに束ね、名を上げ、神のように高くなる事だった(創世記11章)。
そこで神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」(11:7)と、三位一体の神が彼らに敵対し、言語はバラバラになった。高慢・自己栄光化の実は、分裂・分散である。
対して、主に有用に用いられる「御霊の人」が結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(ガラテヤ5:22-23)。これらの実を結んでいるかどうかで、有用な働き人かどうか分かる。
その中で最も優れた道は、愛である(第一コリント13章)。それは御霊のどんな賜物より遥かに優れている。
クリスチャンの中には、確かに「すごい」と思える人は、いる。霊的な、超自然的な力を持っている人が。
しかし、その「すごさ」を持っている事と、主に大いに用いられる器かどうかは、別の話である。賜物は無償で頂いた贈り物であって、本人自身が自慢できる事ではない。むしろ重要なのは、愛があるかどうかだ。
もし愛が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルである。(1コリント13:1)
アララゾーとは元々、「アララー!」と大声で叫ぶ鬨の声の擬音で、やかましく喚きちらす事の意味だ。
愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、それらはむしろやかましい、すぐにでも止めて欲しい騒音へと堕してしまう。

自分の言動に気をつけている人こそ、有名人になったら長続きする。同様に、寛容であろう、謙虚であろう、礼儀正しくあろう、と、努力し続ける人こそ、速やかに主に用いられる。言動に無頓着であるとするなら、すぐ人に、サタンに、責められてしまう口実を得させてしまい、活躍のステージから引き降ろされてしまう。
言動に気を配り続ける人こそ、主に用いられる事が長続きする。だから、よくよく気をつけるべきである。
ペテロはペンテコステ以前、くちびるが回りすぎて過ちを犯す人だった。変貌山においても、あの鶏が啼いた晩においても(マルコ9:6、14:29-72)。しかし聖霊の炎が留まった時、彼のくちびるは変えられた。
預言者イザヤも、そうだった。彼は主の栄光を見せられた時、特に「くちびるが汚れている」事で絶望した。
しかし彼のくちびるは祭壇の炭火によって清められ、そうして預言するに値する者となった。(イザヤ6章)

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着て、はじめて任職の油が注がれる(出エジプト記28章)。ペテロもかつてはくちびるが回り過ぎて過ちを犯してしまっていたが、聖なる炎によって清められたその日、彼の説教で3000人が救われた。
主はこの時代、くちびるがきよい人、用いられるべき器が、少ない、と、嘆いておられるのではなかろうか。
私達は「用いられますように」と祈る前に、人を傷つけたり、言ってはならない言葉を滑らせたりする口が、聖なる火によって清められるように、祈り求めるべきだ。そしてくちびるにおいても、行いにおいても、よく気をつけ、御霊の実である愛がしたたるような者となって、主から大いに用いられる皆さんでありますように!

霊の風の吹くままに(ヨハネ3:1-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のペンテコステ礼拝につづき、今週もまた聖霊について学びたい。今回は、イエス様がニコデモと対話した場面から、御霊の私達に対する現れ方、および、私達が御霊によって生きる術を学びたい。

ニコデモは夜、イエス様の所に来た。彼はイエス様が神の元から来た教師である事を知っていたが、彼がイエス様を訪問した目的と理由をまだ言わない内に、イエス様はニコデモに言う。『よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を「見る(エイドー:知る)ことはできない」。』(ヨハネ3:3)
イエス様は、なぜニコデモが訪ねて来たのかをご存知だった。3節と5節のイエス様の言葉に共通しているキーワードは、「神の国」である。ニコデモは、神の国について知りたくて来たのだ。彼はユダヤ人の教師でありながら、どうすれば神の国を見る事が出来るのか。どうすれば永遠のいのちを得られるのか、それを知らなかったが、イエス様は彼に言われた。神の国を見る(知る)ためには、新しく生まれなくてはならい、と。
新しく生まれる。ニコデモは母の胎に再び入って生まれ直す事かと思ったが、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(5節)
水と御霊によって生まれる。一体どういう事だろう、と人は思う。しかしイエス様の答えは、次の通りである。
『あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。「風(ニューマ:霊)」は思いのままに吹く。あなたはその「音(フォーネ:声)」を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。』(7-8節)

風は、存在するとは分かっていても見えず、ただ音が聞こえ、肌で感じ、そこにあるのだとわかる。「風の音」は「霊の声」とも訳せるが、それは耳で聞こえなくても、霊という受信体を持っている人には、理解できる。
人は、その仕組み・原理を知らないが、霊によって生まれた人は霊の声を理解し、そちらを優先して生きる。
つまりクリスチャンは、世の人には理解できない行動原理を持っており、それは霊から来るものである。
人はその行動原理を理解できないが、どういうわけだか成功するので、人々は驚く。
聖霊の風は、生来の生き方で行きていた人を造り変え、それも、色々な形で働く。ある人は見方が変わり、ある人は聞き方が変わり、ある人は心が、ある人は手足の行いが、ある人は言葉が変わる。あるいは、以前無かった従順さが現れたり、敬いが現れたり、喜べなかった事を喜べたり、感動しなかった事に感動する。
聖霊の風は、人を良い方向へと造り変えるが、「思いのままに吹く」ので、何にあらわれるのか分からない。
ただ、聖霊が流れ込んで来やすい傾向の人がいる。聖霊は、きよい霊であるので、自らをきよくする人すなわちよく悔い改める人・よくごめんなさいをする人に、よく働いて下さる。また、知恵と啓示の霊は、用いる気の無い人・流し出そうとしない人には、与えられない。聖霊は川のごとく流れ出していくもの(ヨハネ7:37-39)なので、流しだそうとしないでそのまま自分にとどめているなら、それは、死海のように腐ってしまう。
また、御霊に導かれる人は、御霊から聞くままを話す。事前に準備して話そうとしていた事は、いざその時、本人が全く準備していなかった言葉や行動が出てくるので、本人がびっくりすることがしきりにある。
『真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネ16:13)
聖霊が伝えようとする時、そのことばは、私達のものではない。その時、私達が主人になってはいけない。
私達はその時スポークスマンであり、もしスポークスマンが自分で勝手に語り出したら、クビになってしまう。

ニコデモが求めていた「神の国(バシレイア・トゥ・セウ)」とは「神の支配領域」であり、神の統治が行き届く所である。それは、水と御霊によって生まれなければ、神の国を知る事も、入る事も出来ない。
永遠のいのちに入るためには、イエス様を信じる事が必要であり(15節)、御霊を受けるためには、悔い改め(メタノイア:方向転換)と、イエスの御名の中へのバプテスマ(浸し込まれ)が必要である。(使徒2:38)
イエス様は「不思議に思ってはならない」と言われた。いくら論理的に説明した所で、人の頭では理解できないからだ。パラグライダーはなぜ飛ぶのか、サーフィンはなぜ波の上を進むのか、それを楽しむ人は頭で理解しなくても、感覚で風をとらえるように、聖霊の風に乗る人も、理解から始めるのではなく、感じて体験し、体得するものだ。聖霊の風に吹かれ、御旨のままに造り変えられて行く皆さんでありますように!

約束の時、約束の場所で、約束された主との出会い(使徒1:4-8)
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 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、イエス・キリストの弟子達が聖霊を受けた事を覚え、祝う日である。
この出来事の前、弟子達は弱く、よく失敗し、十字架の時に至っては、イエス様を見捨てて逃げてしまった。
私達も、人間的な頑張りと忠誠心だけでイエス様について行こうとするなら、この、聖霊降臨前の弟子達の域を超えられない。しかし弟子達は、聖霊降誕を境に全く変わってしまった。イエス様こそ神の御子・救い主であると大胆に宣言し、殉教をも恐れず、地の果てまで御言葉を届ける程、強力な働き人に変身した。
主の働き人の、力の根源は、聖霊である。『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力(デュナミス)を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる』(使徒1:8)
聖霊が降った時に受ける「力(デュナミス)」は、ダイナマイトの元となった言葉である。聖霊を受けた時、各々は爆弾を抱えたような者となり、消極的な人の「消極」は爆破され、積極的になり、破綻してしまった人の「破綻」は爆破され、創造的な人に変わる。それはひとえに、その人がイエス・キリストの証人となるためであり、その人が全くいのちの方向へ変わってしまう様を見て、人々がイエス様を信じるようになるためだ。

聖霊はどんな人に与えられるか。それは主が約束された言葉を信じ、その成る事を求める人に、である。
弟子達は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(1:4)と言われた通り、都に留まり、そして皆一つ所に集まって「心を合わせ、祈りに専念していた。」(14節) そうして五旬節の日そこに集まっていた人にこそ、聖霊が与えられたのである。主の約束どおりする時、約束の成就があるのだ。
約束した日時に、約束の駅で待っていないなら、約束の地へ一緒に行く機会を逃してしまうように、主が約束された御言葉通りにしないで、その時、そこに居合わせないなら、主と一緒となる事を逃してしまう。
この「約束の日、約束の時間、約束の場所での、約束された主との出会い」を、ヘブライ語では「モエド」と言い、それをすなわち「祭り」と言う。ユダヤ人は日毎・週毎・月毎・年ごとに「祭り」があり、彼らはそれごとに、主との出会いをしている。もし、その祭りを逃すなら、その時限定の受けるべき祝福を、逃してしまう。

この聖霊降臨日(ギリシア語:ペンテコステ)は、旧約における七週の祭り(ヘブライ語:シャブオット)である。
七週祭とは、イスラエルの民がエジプトを出た49日(七週)後にシナイ山で律法を与えた事を記念する祭りであるが、旧約の「祭り」は、新約の出来事に対応しており、いずれも神のご計画のうちに成就されて行く。
旧約の「過越祭」は、新約におけるイエス・キリストが十字架でほふられる事に対応している。仮庵祭は、イエス様の受肉に対応しており、そして七週祭(シャブオット)は、聖霊降臨(ペンテコステ)に対応している。
シャブオットのその日、主はシナイ山に降りて来て(A)火の中に現れ、(B)雷鳴と角笛が吹かれる響きの中、全山は震え動いた(出エジプト記 19:18)。それに対応し、新約のペンテコステの日、天から(B')激しい風が吹いて来るような響きが起こり、(A')炎の分かれた舌が現れ、一人ひとりの上に留まった。(使徒2:2-3)
シャブオットの日、主の著しい顕現の中「わたしは主である(アニ・ヤーウェ 出20:2)」と、主ご自身が直接的に現れ語った(C)が、ペンテコステの日、一同は聖霊に満たされ(プレソー)、御霊が語らせるまま他国の言葉で、神の大いなるみわざを語り出した(C')。このように、旧約の祭りは、新約へと対応しており、主の約束とご計画が成就し、最終的には、黙示録にある終末へ、そして永遠へと対応する。

旧約のシャブオットの時、神がシナイ山に降りて来られ、神の御言葉(トーラー)がイスラエル民族に与えられるという、歴史をひっくり返す重大イベントだったが、新約における同じ日・ペンテコステは、聖霊なる神がキリストを信じる私達に降りて来て、私達に宿って下さるという、さらに歴史をひっくり返す重大イベントだ。
  この重大イベントに立ち会う事が出来たのは、主が約束された言葉を信じ、祈りつつ待ち望んだ人である。
ダビデは、天から降った御言葉が宿る契約の箱が、自分の町に入った日、大いに喜び踊ったが、私達は、人を爆発的に造り変え、力強き働き人として下さる永遠なる神の霊が、私達に入居し、内住して下さる事を、喜び期待しつつ祈り求めるべきだ。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル10:25)
かの日、主にある兄弟姉妹達が、約束を信じ、共に集まり、心を合わせ祈り求めていたように、私達は主の「祭り」である礼拝に、共に集い、共に祈り求め、共に聖霊の充満を体験する皆さんでありますように!

母が子供に対して出来る最高の事(出エジプト記2:1-9)
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 今日は母の日である。母はうめきつつ、いのちを産み、はぐくみ育て、日々労を負っている。現代は、子を健全に育てるのに困難な時代と言える。子供を誘惑するものが多い中、いかに子を健全に守り育てて行くべきか。本日、男の赤ちゃんが生まれたらナイル川に投げ込まなくてはならないという過酷な時代の中、子を守り、立派な指導者モーセの母となったヨケベデから学び、私達もこの時代、いかにゲームやインターネットなど子を飲み込もうとする危険な「ナイル川」から守り、健全に育てあげるべきか、その術を得たい。

『さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。』(2:1) 時代が悪く絶望的だと、人は結婚や子を産む事を躊躇し、少子化が進むものだが、ユダヤ人達はそれでも新たな家庭を築いて、増えて行く。
『女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。』(2節) 赤ちゃんは、神様から預けられたいのちである。母はそのいのちの輝きを見て、身勝手な世の王の要求を飲んだりして奪ってはならない、と、かくまった。母とは、子のため、いのちのため、うめきつつ守るものである。
ちょうど箴言31章の、マサの王レムエルの母が、子供に「何を言おうか」と、悩みに悩んだように。
この母の有様は、聖霊の私達に対する有様に良く似ている。創世記1章2節において、創造後の地球が闇の混沌状態にあった時、神の「霊(女性名詞)」は、水の上を「舞いかけて(女性動詞)」いた。それはちょうど、めんどりがひなを翼でかばっているのと同じ状態である。聖霊は母のようにうめきつつ執り成すのだ。
イスラエルでは赤ちゃんが生まれたら、ハトラーという、御言葉が刺繍された布でくるむ。女性は子供を宿したと知った瞬間から、ハトラーの刺繍を始める。お腹の子に向かい、トラー(御言葉)をテフィリンしながら。
彼女達は子が胎内で形作られる時から御言葉で覆い、生まれた後も御言葉の包みの中で守ってあげようとする。まさに創世記1:2の状態だ。母が子供に対してできる最高の事は、御言葉によって守る事なのだ。

ヨケベデは子をなんとかして守ろうとしたが、『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかご(英: ark)を取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(3節) この「かご(ark)」は、ノアの「方舟(ark)」と同じ言葉であり、「契約の箱」も、arkである。
彼女がこの小さな方舟に、瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れたのは、ちょうどノアが方舟をつくって瀝青を塗り、その中にいのち達を入れ、新しい時代へといのちを継がせたのと同じである。
契約の箱という”アーク”の中には、契約の石の板と、アロンの杖と、マナの壺が入っている(ヘブル9:4)。
律法の石版は、神の指で記された御言葉であり、アロンの杖は、植物としては死んだ杖が生き返ってアーモンドの花と実がふいた復活の象徴であり、祭司の証拠である。マナは、神が直接的に命をやしなって下さった証拠物である。私達も、残酷な時代では、子を御言葉に委ね、復活を信じ、いのちの養いの望みをかけるため、子をアークに入れるのだ。現代、私達が入れるべきアークとは何か。それは、ユダヤ人がしているように、自分自身の口の御言葉宣言により、あるいは子供自身の口から御言葉を宣言させる事によって、子を御言葉で囲う事である。母親が子供にしてあげられる最上の事は、御言葉で囲ってあげる事だ。

彼女は子供をアークにかくまって、あとは全てを神様に委ねた。親がいのちのために出来る限りの事をし、自分の力ではどうにもならない所まで来たなら、子供をアークに入れ、あとは全部、神様に委ねる時である。
神はその子をパロの娘の所へ導き、彼女の心にその子を憐れむ心を与え、そうして、合法的に、しかも報酬つきで、母は自分の乳でその子を養えるようになった。
主は、神様から託されたいのちを守ろうと努力する人には、限りなくフォローして下さるのだ。
当時、多くの赤ちゃん達が、時代がそうだからといって、ナイルへ沈められて行った。どのような時代でも、いのちは主のものであり、主は御心のままに、男女の所へ新しいいのちを送り、そのいのちを養うために必要な物も、力も、全て備えて下さる。そして、いのちを大切にする人をさらに祝福し、徹底して守られる。
私達は子供を、時代がそうだからと言って、ナイルに沈めてはいけない。子供にゲームやスマホを与えていれば大人しくなる、ラクだと、と思って放置していたら、子供はどんどん仮想世界へと沈んでしまう。
私達はむしろ子供を真理の御言葉で囲い、神様と私達とのいのちの交わりをし、そうして主ご自身から全て必要な養いをいただき、家庭が喜びと笑いで、そしていのちで満ち溢れて行く皆さんでありますように!

主を敬う人を守り、安全に導いて下さる主(創世記31:1-18)
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週報/メッセージ(説教)概要 

世の中には、過酷な要求をしたり騙し取ったり、契約をころころと自分の有利に変える雇い主も多い。前回登場したラバンはまさにそういう雇用主だったが、主はその下で働かされているヤコブを顧みて下さった。
主は、悪者の道に歩まず、誠実に生きる人にこそ目を留め、祝福し、そのような悪環境から救い出し、さらに優れた所へと導いて下さる。前回の続きからの箇所を見るとそれがよく分かるので、今回も見ていきたい。

『さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。』(創世記31:1) 実際は逆で、ヤコブに報酬として約束したぶち毛やまだら毛の羊ややぎを、ラバンは息子達に渡して3日の道のりの向こうへ移送してしまい、ヤコブはそれを、文句も言わず、少ない残りを飼った。
ヤコブには不利だったが、ラバンは騙しでのし上がる者、ヤコブは全てを支配しておられる神に依り頼む者。軍配は当然、ヤコブに上がる。神はヤコブのものを増やし、ラバン達のものは減って行った。しかし彼らは不都合な事は自動的に人のせいにし、自分達がした悪事を悔い改めず、ヤコブの神を恐れる事もせず、嘘を思い込んで言いふらし、敵対心を露わにして行く。
その時、主はヤコブに現れた。「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいる」と(3節)。そこでヤコブは、ラバンの娘である妻達に伝える。あなたの父の、自分に対する顔つきは変わってしまった。それでも「わたしの父の神はわたしと共におられる。」と(5節)。主は弁護して下さるのだ。
7-9節を読むと、ラバンは何度も報酬を変えていた事が分かる。元々の約束はぶち毛とまだら毛のものが報酬だったが、勝手にそれをぶち毛のもの限定に変更し、自分は儲かってヤコブを貧しくさせようと企んだが、ラバンの口から「ぶち毛のものが報酬だ」と言ったとたん、いのちを支配しておられる主は、ぶち毛をどんどん生まれさせ、それを見たラバンが、やっぱり、まだら毛が報酬だ、と言ったら、今度は主は、まだら毛のものばかりを生まれさせた。
以上のように、いのちも、物も支配しておられる主は、主に忠実に従う神の民が、いかなる領域でビジネスをするにしても、その手のわざを祝福し、悪人の手に陥る事はさせない。
ラバン達は彼が祝福されているのを見てなおヤコブの神に立ち返らず、妬んで罵るが、主は保護される。

『すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。』(12節) 主は、主の民の悩みをつぶさに見、また追い使う者ゆえに叫ぶ叫びを聞き、その苦しみを知っておられる。(出3:7)
ヤコブは14年間、結婚するために猛烈に働いて何も持っていなかったが、わずか6年で、雇用主であるラバンを追い抜いた。不利な条件で始まり、しかも報酬を何度も変えられたにもかかわらず、である。
主はさらに言われる。『わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』(13節) 
ベテル。そこはヤコブにとっての信仰の原点である。その時ヤコブは、兄エサウに命を狙われていたため、杖一本だけで家を飛び出し、その途上、ベテルで石の枕をして一晩寝た。そこで、夢を見た。天から地に架けられたはしごを御使い達が登り降りしており、主は彼に現れて言われた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15) それ以降、ヤコブは確かに守られ、祝福されて来た。

こうしてヤコブは帰る決心をし、ラバンの娘である妻達も賛成だった。彼女達は父から「よそ者(ノクリィ:異邦者、姦通の女)」と見なされ、しかも、花嫁のために蓄えるべきお金も、父に使い果たされてしまったのだ。
こうしてヤコブと妻達は一大決心し、大勢となった子供達や家畜たちを連れて、ラバンの家から脱出する。
その大移動は、危険が伴うであろう事は明らかであり、ヤコブも、自分を殺そうとしていた兄エサウとの確執がどうなっているかを知らない。しかし、確かな主の言葉があり、御旨である事が明らかなのだから、いかにその旅の先が危険なように見えても、進みゆくべきである。これは私達の場合も一緒だ。
ただ主の言葉だけを頼りに出て行く。ヤコブにベテルで現れた主は、その20年間、主が約束して下さった通り、ずっと真実に導き続けて来られた。そして、これからもそうだと信じて、彼らは出て行く。この主は、今も変わらず、信じる私達を、導き続けて下さる。恐れる事なく主と共に歩み行く皆さんでありますように!

ベエル・シェバを獲得するために メッセンジャー:小林師
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※ 本日、成田礼拝からの移動中の道路混雑により、一部礼拝のメッセージは急遽、小林師によるメッセージに変更させて頂きました。

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搾取がはびこる世界でも栄えさせて下さる主(創世記30:25-43) メッセンジャー:林師
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要


世の人々は、いかに富を我が物として囲い込もうかという、「あれも、これも、わたしのもの」という欲求で動いている所がある。このような「わたしのものメンタリティ」は、サタン由来である。ヤコブがイスラエルに名前が変わる前、彼は兄エサウを逃れ、一時期メソポタミヤのラバンの所に身を寄せていたが、ラバンはまさにそういう人だ。『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘達はわたしの娘、子ども達はわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものは皆わたしのものです』(創世記31:43) イエス様を信じて神の子となった私達は、いかに、このメンタリティに満ちている世から守られ、栄えて行くか。ヤコブから学びたい。

ヤコブは、ラバンの娘・ラケルとレアと結婚するために14年、タダ働きをさせられて来たが、その14年という契約期間は満了する時、ヤコブはもう妻子を連れて出ていっても良いはずなのに、ラバンはヤコブ達が出ていくのを渋った。『ラバンは彼に言った、「もし、あなたの心にかなうなら、とどまってください。わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました(ナハシュ)。』(27節) ラバンはナハシュ(まじない)によって、ヤコブが主エホバから祝福されているのを見たが、ナハシュは、発音が転じて「蛇(ナハァシュ:創世記3:1)」となる。蛇、すなわちサタンは、神と共に歩む神の子を利用し搾取しようとする。
ラバンがヤコブを引き止めたいのは、ヤコブの神・主を知りたいからでも、聖なる交わりに加わりたいからでもない。ヤコブが受ける主の祝福と富が欲しいからに他ならない。主に忠実なキリスト者は、その手の技は祝福されるし、謙虚で誠実で文句を言わない事が多いので、世の雇用者は、彼らを手放したくないのだ。
『「何をあなたにあげようか」。ヤコブは言った、「なにもわたしにくださるに及びません。』(創世記30:31)
ヤコブは、ラバンから何かを受け取ってしまったら、後で恩着せがましく執着され、逆に剥ぎ取られてしまう事を経験的に知っていた。私達も、ラバンのように貪欲で悪企みをするような人からは、何か報酬を望んではならない。ヤコブは彼に、非常に明確な条件の報酬を申し出る。すなわち、羊ややぎの中で、ぶち毛やまだら毛のものをわたしの報酬として下さい、もし自分の群れの中にそうでないものが混じっていたら、それは私が盗んだものとなるでしょう(31-33節)、と。ラバンはきっと日常的に難癖をつけていたのだろう。
ところがラバンはその日、ヤコブの報酬となる特徴を持った羊ややぎを、ラバンの子達に渡し、ヤコブとの間に三日の隔たりを設けた。ヤコブは、それでも平和に、文句も言わず、残りの群れを飼った。(35-36節)
このように、騙し上手な者が栄え、正直者が馬鹿を見る世界がメソポタミアであり、ラバンはその世界でうまく渡り合って富を築いたずる賢い者だった。そのようなサタンの流儀がはびこるのが、この世の有様でもある。果たしてヤコブは、そんな世界で生きて栄えて行けるのだろうか?実際生きて栄えたのである!
果たしてキリスト者は、このような世界で生きて栄え、富を増し加えて行けるのだろうか?行けるのである!
神の民に、搾取されっぱなし、やられっぱなしは無く、必ず全部ぶんどり返す時が来る。(出3:21-22)
その条件は、世に勝利した主イエスキリストを助けとし、彼と共に歩んでいる事、である。ヤコブは自分に残された家畜の飲む水槽に木を入れた。すると家畜達は産んで増えて行き、ラバンのものとは分離した。
『こうして弱いものはラバンのものとなり、強いものはヤコブのものとなったので、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。』(42-43節) 私達も仕事をする時、いのちをつなぐその水溜めに、キリストの十字架の木を入れ、世の者達と分離し、主と共に復活した者として生きるなら、世の者達の中にあって、ますます栄え、悪者達は、もみがらのようにますます衰えて行くのである。

ヤコブは当初、僅かな元手しか無く、不利な条件でのスタートであったが、わずか6年で資産はますます祝福され、ラバンの資産は先細りになっていった。ずる賢い世の権力者の、不当な圧迫の中でも勝利し祝福されるコツは十字架、すなわち、今までの自分に死ぬ事と、キリストのいのちにあって復活し、その新しい価値観、すなわち御言葉によって生きる、神と共に歩む事である。最初は搾取されているように見えても、十字架に望みを置いている限り、その人はやがて世から、サタンから多くを分捕り、持ち物も命もますます増えていくのである。 私達にとっていのちをつないでいる水溜とは何だろう。そこはいのちを生み出さないままだろうか。苦々しさを放っているだろうか(出エジプト記15:22-26)。あるいはそこに、大切なものを落としてしまっただろうか(2列王記6:1-7)。主は私達に一本の木、すなわち十字架の木を示され、そこに投げ込むなら、いのちを生み出すようになり、苦さは甘さへと変えられ、無くしていたものを得るのである。

主のために働く働き人が持っている徹底した保障(2列王記4章)
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 本日の箇所、第二列王記4章は、神の人エリシャを通して、主の奇跡が多く行われる。その一つ一つに共通している事は、主の働き人に対して、主は、徹底的に保証して下さるという事だ。労も多く、枕する所もなく働いている主のしもべ達に、主は、どのように報いて下さるかを本日見て行きたい。

1-7節では、預言者エリシャの元で学び、借金を負ってでも神の国に仕えていた働き人の家族に対する保障が記されている。この働き人は「主を敬う人」で、主の働きにいそしんでいたが、死んでしまった。残された妻と子供達は、借金を負った状態で、全財産は油のつぼ一つのみ。子供達は奴隷に売られようとしていた。果たして彼らは、主に捧げて、そのまま報いられず終わるのか?主はそんな事は、絶対にしない。
エリシャは彼女に言う。出来るだけ多くの人に声をかけ、器を借りて来なさい、そして戸を閉じて全ての器に油をついで行きなさい、と。彼女はとやかく言わず、預言者の言葉に望みをもって多くの器を借りてきた。
『油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。』(6-7節)
こうして主の働き人の家族は、負債を見事返したのみならず、妻も子供も生活の保証が全て与えられた。
主に仕える事は、どんな年金や保険に勝る保障があり、本人のみならず、その家族も守られるのだ。

8-37節では、エリシャを神の人として敬い、色々と便宜を計ってくれた女に対する報いが記されている。
彼女の夫は歳を取っており、子がなかったのに、子が与えられた。しかし18節以降を見ると、どうして?と思えるような事が起きる。せっかく生まれた子が、死んでしまったのだ。前回のケースのように、このような事が起きる時は、より一層、主の栄光が表れ、より一層、幸せになるための祝福が隠されているのだ。
彼女は子供の死について、信仰の良くない人には一切口を開かず、説明もせず、ただ神の人へと直接持って行った。彼女はそういう人だから、報いを受ける。子は、彼の祈りによって生き返らせてもらった。
この一件を通し、彼女はより一層主の恵みを知り、後にはボーナスも得る事が出来た。(2列王記8:1-6)
38-44節には、ききんの中でも、また致命的なミスからも、主の働き人達は守られる様が記されている。
一人の働き人が貴重な食事を作る時、無知ゆえに毒のうりを入れてしまい、あわや主の働き人達の群れを全滅させる所だった。しかし主は、エリシャを通し、その重大なミスを、毒もろとも帳消しにしてくださった。
主は、働き人がききんの時でも飢えないように、また、無知ゆえのミスをもカヴァーして下さるのだ。
さらに42-44節では、 初穂のパンと大麦のパン二十個と、新穀一袋をもって、百人の働き人を満腹させ、有り余らせる奇跡が行われた。イエス様がわずかなパンで数千人を養った奇跡を与えられたのは、群衆は、イエス様を慕って集まったからだ。「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。」(マタイ15:32) 主は、食料も持たずに無計画に彼らが集まったとしても、彼らが主を慕って来たのであるなら、彼らを空腹のまま返す事をせず、「かわいそう」と心配してくださり、しっかりと彼らを満腹にし、さらには、主の働き人の分も、満杯にした。
もう一つ、6章も見たい。6章に来ると、働き人がさらに増加し、さらに広い所に移らなくてはならなかった。
そのために新しい地に行って、新しい建物を建てようとするのだが、そこで事件が起きる。『ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。』(5節) 斧を借りてでも主の働きを懸命にしたのに、斧の頭を落としてしまった。しかしエリシャは、水に浮くはずがない斧の頭を、枝を切り落として水に投げ込んで浮かせる奇跡を起こした。
主は、借り物を使ってでも主の働に仕える働き人に、恥ずかしい思いをさせないお方である。

以上のように主は、主のために働く人に保証を与えて下さる。私達は足りてない所が多々ある。主に従って行く点においても、御言葉について行こうとする点においても。しかし、天地に満ち満ちており、有りて余らせて下さる主は、御力をもって、私達・主のしもべ達を満ち足らせて下さる。無から有を生じさせる主が、無いいのちを生き返らせて下さり、無い富を得させて下さり、無い諸々を得る力が与えられ、栄光に満ち満ちた祝福を、主に従いつつ得て行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ハデスに勝利したサレプタの小さなコイノニア(1列王記17:17-24)
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 前回、神の国を第一とする(リションする)人には干ばつの時でも主が直接養って下さり、生活も保障される事を、サレプタのやもめから学んだ。彼女は預言者からの主の言葉通り、かめに残った最後の粉・最後の油を捧げた事で、干ばつの間、粉も油も尽きる事なく、本人自身も、息子も、そして預言者も、養われた。
確かに主を第一とする人は主から養われるが、かといって災いが全く起こらないかというと、そうではない。
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えた』(1列王記17:17) エリヤを養っていたやもめの子が、死んだ。なぜ?と思う。いのちを生かすための奇跡が続いていたのに。私達にもこのような、分からない事が起きる。祝福されるはずの信仰生活を落ち度なく続けていた、と思っていたのに。どうしてこういう事が起きるのだろう。本日、その事を学びたい。

イエス様の時代にも、似た事が起きた。イエス様が愛しておられたラザロが病気であるとイエス様が聞いた時、主はすぐに行かず、敢えてその所に2日留まり、彼が死んでから、そこへ行かれた。(ヨハネ11章)
この行動は、弟子達やラザロの姉妹に、そして私達にも、不可解に思える。しかしイエス様は言われる。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11:4) つまり、愛する人が死ぬ事を敢えて許し、そして蘇らせるという、この一連の過程を通して、人々は神の栄光を見、神の子が栄光を受け、主の言葉こそ真実である、と信じた。
これらの事が起きるのは、神が栄光を受け、そして、人々が信じるためである(ヨハネ11:15,26-27,45)。
彼女は聞く。『あなたは私の罪を思い出させるため…においでになったのですか。』(18節) 彼女が真っ先に思い当たったのは自分の罪だった。人はなぜ死ぬのか?書いてある。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23) 彼女は子の死を自分の罪の問題ととらえ、神の人に来た。このような人は救いから遠くない。
干ばつの中、尽きない粉と油に満足し、無意識に飲み食いしている恵みのさ中、生かされるのは結局、「肉」だけであり、そのまま満足して主に求めないようでは、霊は死んで行くという事を、彼女達は分かっていなかった。結局、最も大切なのは、神様への日ごとの感謝と信頼だ、という事を忘れてしまうなら、最も大切な子が死ぬ事により、死を孕んだ罪の問題へ心を向け、永遠の救いへ至る信仰に至らせて下さるのだ。
私達も、死を孕んだ罪の問題を解決して下さるイエス様に、日毎、助けて下さいと祈り続ける必要がある。

サレプタでは、霊の養いと肉の養いを互いに共有し助け合う、ちいさな「交わり(コイノニア)」があった。
エリヤは彼女に「子を私によこしなさい」と言って彼女のふところから子供を取った(19節)。彼女はずっと子をふところに握りしめていたが、問題をずっと握りしめたまま状況を悪くし、最悪になって、ようやく信仰者に渡す、という事はせず、すぐに信仰者に渡す事もまた、交わりの中で大事である。信仰による祈りは、病む人を回復させ、義人の祈りは働くと大きな力がある。また、罪の問題についても互いに祈り合いなさい、と書いてある(ヤコブ5:13-18)。私達も、いかに小さな交わりでも、罪について、死についての問題を、交わりの中で互いに告白し合い、祈り続けて行くなら、そこはハデスの門さえ勝つ事は出来ないのだ。

エリヤは三度祈って、ようやく祈りが聞かれ、子供の命が戻った。雨が降るように祈った時も、7度祈って、ようやく小さな雲が現れた。あのエリヤが、なぜ一度の祈りで答えられないのか。もし私達がたった一度の宣言や、たった一度の祈りで何でも聞かれるなら、主にしがみついて行こうとする心がどんどん薄くなり、傲慢になってしまうだろう。だから、主が与えて下さる時まで求め続け、探し続け、叩き続ける必要がある。
このように、「なぜ」と思える問題が起きる事も、あるいは、必要が備えられるにしても「日々」「僅か」である事も、それで主への感謝をすぐ忘れやすい私達が、生涯、日ごと、主に祈り頼み続けて生きて行けるのだ。
彼女は息子が生き返らされて、知った事が二つある。エリヤが神の人である事と、彼の口にある主の言葉は真実である事だ(24節)。こうしてエリヤの言葉はますます権威を帯び、彼が仕える神は、栄光を受けた。
私達もエリヤのように、神の言葉を伝える時、神の子としての栄光が与えられ、私達が神の言葉を語る時、人々は心して耳を傾けるのだ。こうして、預言者と彼を支える信仰者のやもめという、サレプタの小さなコイノニアで、彼らは干ばつの時代を乗り切って行った。私達も今、ここにコイノニアがある。この交わりを尊く保ち、互いに祈り合い、励まし合い、罪と死の問題を解決して行く皆さんでありますように!

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