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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝
キリストにあって新しくされた人の特権(マルコ1:9-11)
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週報/メッセージ(説教)概要

 新しい年が始まった。この記念すべき2020年最初の主日、かねてから天声の養いを受けていたMajid兄弟が、洗礼を受ける事になった。天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間は、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、主への礼拝によって年を初める。洗礼も全く同様で、過去の自分を、水の中に沈めて死へと渡し、一切を精算し、キリストにある新しいいのちで生き始める新たな出発である。
 洗礼を受けて主に繋がった人には何が起きるのか。それを学ぶ事は、この新たな始まりの日に相応しい。
本日、主イエス様が洗礼を受けられた場面から、洗礼を受けた私達はどんな恵みを受けるのかを知りたい。
 
 『その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのをご覧になった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(マルコ1:9-11)
 イエス様が洗礼を受けられた時、3つの経験をした。すなわち「1,天が裂ける」、「2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る」、「3,天からの声があった。その内容は、あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」 これら3つは、洗礼を受けて主に繋がった私達も、経験する事である。
 洗礼は、罪に対して死に、神に対して新たに生きる誓いである。罪が元々無いイエス様は、洗礼を受ける必要は無かったのに、敢えて受けられた理由は、私達全ての代理として、また長子として、模範を示されたのだ。私達も彼に倣うように、と。全く同じ理由で、イエス様は十字架で処罰を受けられ、また死なれた。
 だから、イエス様が洗礼を受けられた時、彼が経験された全ての事は、私達・キリストに繋がった全ての兄弟姉妹も経験する「特権」である。だから、私達も洗礼を受けた時、次の事が起きる。
 
 1,天が裂ける(スキゾー): この非常に特殊な出来事は、イエス様が十字架にかかって息を引き取られた時にも起きた。神殿の幕が真っ二つに「裂け(スキゾー)」、神殿の最も聖なる領域である「至聖所」を隔てる幕が、破かれたのだ。キリストを通して、聖なる天国への道が、開通したのだ。だから十字架以降、誰でもキリストの御名を呼ぶなら、天国が裂けて、私達に向かって開かれるのである。イエス様は「わたしの名によって祈れ」と言った。なぜなら、イエス様の御名によって、天が開かれるからだ。これは全て、洗礼を受けてキリストに繋がった人々に与えられる特権の第一号である。
 2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る: イエス様は言われた。『よくよくあなたに言っておく。誰でも、水と霊とから生れなければ、神の国には入る事はできない。』(ヨハネ3:5) すなわち、水のバプテスマを受けると、今までの、古い、罪に従って歩んできた自分は死に、霊によって新しく生まれ、キリストと共に永遠の神の国へと入って行く生き方になってゆく。聖霊は、人には見えないが、霊によって生まれた人は、聖霊の声がわかり、それを感じ、それに導かれ、神の支配領域(神の国)へと入っていく。しかし、生まれながらの肉に従って生きる人には、聖霊は決して分からない。このように、バプテスマを受けた人は、賜物として聖霊をいただくので、霊に導かれ、最善の道を歩んで行くようになる。
 3,天からの声を聞く: 洗礼を受けて霊が開かれて来ると、聖書を読む時、 あたかも天国が開け、神の言葉が自分に目がけて降りてくるような心地がする。そして、その、天からの言葉の最たる内容は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」というものである。世は私達を拒絶しようとも、またたとえ親に見捨てられたような経験を持っていたとしても、天の父なる神から受け入れられ、喜ばれている実感を持つ。
この、絶対的な平安の土台に立って、新しい人生をやり直して行くのだ。そして洗礼を受けた人は、神に愛される「神の子」として、また、神に似た者・神にならう者となって行く。
 
 この新しい年、私達も初心に帰り、天国に繋がった者として、新しい出発をするべきである。神の子が世から従わされたり、世からリードされたりする事は、本質ではない。私達は神に愛され、神に受け入れられた「神の子」として、与えられている祝福の命令、すなわち、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)という、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令に従って歩む者達だ。世を統治する者として、また、悪しき者に対しては勝利者として進んで行く今年でありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
神と人とで共同で織りなしていく人生という織物(黙示録19:6-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 綾織物という織り物がある。違う種類の縦糸と横糸とを交差させ、色々な模様を浮き出す事ができる織り物だ。私達の人生は綾織物のようなもので、自分自身という糸を、周囲の人や、物、事と、そしてイエス様と交錯しつつ、人生の模様を織りなして行く。私達はこの2019年、何を織りなし、どんな模様が浮かび上がっただろうか。私達はどうすれば、この人生に、永遠の、素晴らしい紋様を織っていく事ができるだろう。
 
 聖書を見ると、信仰の先人たちの、永遠に残る素晴らしい人生の模様が記されているが、同時に、神の言葉に従順せず、あくまで自分勝手な道を貫いて、ついには滅んでしまった人達の模様も、記されている。
 人は不完全で、罪があり、やがて死ぬべき存在だが、主は完全で、聖く、永遠なるお方である。もし人が神の言葉に従い、自身の行いや思考を主の言葉へと織り込んで行くなら、その人は完全で、きよい、神の国へと、織り込まれて行く。神を知らない人は、罪を重ね、世界に悪い影響を及ぼして行くが、主は、人のした悪も、サタンがした全ての破壊のわざさえも、全てを逆転し、益として下さる事が、可能なお方である。
 12月、アドベントからクリスマスに至る時期、色々な人間模様を見て来た。マリヤが御使いの言葉に「おことばどおり、この身になりますように」と言って、自分自身に御言葉を織り込んだ事によって、キリストがこの世に来られるきっかけを、彼女は構築した。ザカリヤは最初、神の言葉を自分自身に織り込まず、自分の理解を求めた結果、彼には口がきけなくなるという「災い」のような体験をしたが、かえって多くの人々が神のわざを恐れ、神が栄光を受けられるという「益」へと変えられ、彼自身も最後には、主の栄光を称えた。
 このように人の人生は、主へと「織り込まれる」事によって、最悪から最善へと変えられて行く。そして後になって、主と共に織りなされた自分の人生を振り返って、その出来上がっている人生の絵柄を見る時、その美しさ、主の完璧さに、ただ圧倒され、感動するのである。 祭司が身につけるあや織りの帯は、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で作られる。(出エジプト記28:8) 私達も主に繋がるなら、人生に尊い糸が織り込まれ、最終的に、永遠の大祭司・キリストのからだへと、織り込まれて行くのだ。
 
 キリストは、天から地上へと向けられた梯子として、私達へ降りて来て、乙女マリヤより生まれ、人となって私達の間に住まわれた。この、天から地へと差し伸べられた”縦糸”と、私達・人間という”横糸”とが交差する究極の点が、十字架である。こうして十字架という木を、私達の苦い人生の中に投げ入れ、私達の人生へと織り込んでいくなら、今までの苦い人生はことごとく甘く造り変えられるのだ。(出エジプト記15:22-27)
 私達キリスト者の人生は、神とのコラボレーションにより、永遠の美しい綾織物を織っていくようなもので、聖徒たちの正しい行いが、永遠の王の中の王・キリストへと嫁ぐ際の花嫁衣装となって行く。(黙示録19:8)
 私達が日毎、主キリストと交わり、あらかじめ用意されていた良い行いを為して行く都度、永遠に残る織物の一縫い一縫いが、織りなされて行く。そして礼拝こそが、神と最も親密に交わる機会である。
 真の礼拝とは何か。パウロは言う。『あなた方の「からだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
 すなわち、全身全霊をもって、自らを神の言葉へと織り込んで行く。それによって神は、その人の人生に働く機会を得るのである。神はどういうわけか、神の国の建てあげは、神ご自身お一人では進めず、人の同意の上で、コラボレーションして建てあげていくようにしておられる。乙女マリヤのように、人が神の言葉にアーメンし、その通り実行すると、そこに神が働く機会を得て、神の国が築き上げられていくのだ。
 しかしもし、神の御言葉と自分を混ぜ合わせないなら、その人は神の国の歴史から抹消されてしまう。
 マタイ1章の系図では、旧約には「いた」はずの王が記録から抹消されていて、また、系図には本来載らないはずの異邦人の女が、なぜか系図に記されている。系図から抹消された王は、神の言葉に服従しなかった王であり、系図に載せられた女は、神の言葉に忠実で従順だったからである。神の国の記録とは、そういうものだ。神と一切関わりがなかった人は、いのちの書に名が記されないまま、永遠の滅びへ至る。
 
 今年一年、どんな紋様の織物を織ってきただろうか。どれほど真に礼拝を捧げて来ただろうか。どれほど、神とのコラボレーションをして来ただろうか。私達は来年も主の言葉に従順し、主から恵みが与えられ、そうして永遠の織物を主と共に織って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
素晴らしい喜びの知らせが直接与えられる人とは(ルカ2:8-20)
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週報/メッセージ(説教)概要

 キリストのご到来は、バプテスマのヨハネの時とは違い、ひそかに、人々にはあまり知られない形で来た。
赤ちゃんとして来られたイエス様のご降誕の現場に居合わせ、そのイエス様に礼拝を捧げるという「幸い」にあずかれた人達が、羊飼いと、羊達であった。しかも彼らは特別に、御使いから直接、その知らせを受けた。そのような栄誉にあずかる事ができる性質とは、一体何だろう。
彼らは夜、人々が眠っている時でも目を覚まし、羊たちを見守っていた(ルカ2:8)。彼らは羊と生活を共にし、野宿を続けているので不潔な出で立ちをしていた。それで人として数えられず、住民登録に呼ばれず、神殿での礼拝にも参加できなかった。なぜそんな彼らに、御使い達が現れたのか。
御使いは、主を恐れる人々に仕えるために遣わされる霊であり(ヘブル1:14)、主を恐れる者の周りに陣を張って守ってくれる存在である(詩篇34:7)。実は、彼らの性質が、御使いを引き寄せる性質だったのだ。

羊飼いの仕事は、羊達を守り養う事である。羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で、迷子になりやすい。
自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは、彼らを牧草地や水のほとりへ導いて行く。彼らはどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。また悪い獣に狙われ易いので、羊を狙って来る悪い獣を、杖や鞭、石投げで追い払う。そんな面倒臭い仕事など、ほとんどの人はしたくないためか、その時代、人々は商売人になったり、王宮で仕えたり、より楽で華やかな職業へと就いて行った。
しかし羊飼いは、聖書ではとても重要な職業である。信仰の父祖達は、人生の大半を羊飼いとしてその生活を費やしていた。アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、彼らは皆、そうして来たのだ。
主もまたペテロに命じられた。わたしを愛するなら、わたしの羊を飼いなさい、と。(ヨハネ21章)
羊は弱く、愚かかもしれない。しかし、主への捧げものになる事の出来る、数少ない動物である。
羊は、ひずめが分かれており、反芻(咀嚼)するので、きよい動物とされている(レビ記11章)。ひずめは、自身と世との間に境界を引いて一線を画するもので、主はその性質を、きよい性質の一つとされた。
また、反芻するとは、食物をよくハムハムと噛む事で、主はそれもきよい性質の一つとされた。私達も、まことの食物である御言葉を、折を見ては取り出しハムハムするなら、きよい者として、主への捧げ物となる。

主のお生まれを告知された羊飼い達は、どういう性質だったか。彼らは「ダビデの町」で救い主がお生まれになったと聞くと、ミカ書の言葉を思い出し、「ベツレヘムに行こう」と判断した程、仝羝斥佞棒債未靴討い拭その点で彼らは、ヘロデ王や博士達より御言葉に精通していた。彼らは、羊飼いとして低く見られてはいても、普段から御言葉を摂り入れ、主に示されたならすぐに行動する性質だったのだ(15-16節)。
彼らは博士達のような捧げ物は所持していなかったが、「御声に聞き従い、すぐに行動する」という、雄羊の脂肪にも勝るいけにえを捧げたのだ。(1サムエル記15:22)
そして彼らは、ぜ腓ら伝えられた事を、そのまま正確に伝える性質だった。『この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた(ディアグノリゾー:正確に報告する、徹底的に知らせる)。』(17節)
赤ちゃんイエス様と出会う事ができた彼らは、見聞きした事が全て、神のことばどおりだったため、大いに喜び、神をあがめ、賛美しながら帰って行った(20節)。彼らはゼ腓魎遒咫∋身する性質だったのだ。

以上のように、主が内密に、そしてきらびやかに、喜びの知らせを与えられる性質とは、夜の時代でも霊的に目を覚まし、弱くて愚かな羊たちを誠実に養っている羊飼いの性質であり、普段から御言葉を摂り入れ、御言葉に精通し、主に示されたらすぐそのまま行動し、主から伝えられた言葉を正確に伝え、そして、主のわざを喜び賛美する性質である。また、羊のように、世と自分とを分離し、御言葉を常にハムハムしているなら、いかに羊のようにドジで、愚かでも、主からは「きよい者」として、主への捧げものとなる。
私達もこの暗闇の時代、彼らのような性質を持って行動しているなら、主は密かに、そして大いなる輝きとともに、御旨を伝えて下さり、滅多に出会えるものではない特別な姿のイエス様へと導いてくださる。それは、王宮のような所で華やかに生活したい人にはあずかり知れない、限られた聖徒達へ密かに与えられる喜びである。誰にも味わう事の出来ない、素晴らしい喜びにあずかるこのクリスマスでありますように!

主日礼拝
預言されていた真の王の性質(イザヤ9:1-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 この待降節第三週は、キリストはどのようなお方として現れるのかを、第五の福音書とも呼ばれているイザヤ書から見たい。イザヤはやがて現れるメシヤがどのようなお方であるのか、700年前に啓示を受けていた。
 
 『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた・・・そのまつりごとと平和とは「増し加わって(לםרבה レマルベー)」限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。』(イザヤ9:6-7) 有名なメシヤ預言であるが、原典の巻物は「増し加わって」の所が法則を破った形で記されている。ここの二番目の語メム(ם)は、通常形の開いたメム(מ)で記されなければならないのに、敢えて語末形の閉じたメム(ם)で代々記されて来た。
 なぜイザヤはそのように記したのか、ラビ達には代々ミステリーだった。ただラビ達は、開いたメムは開かれた胎を、閉じたメムは、閉じられた胎と理解している。イザヤはなぜ「法則破りのメム」を用いつつ、「主権と平和は増し加わる」と書いたのか。それは神は、処女という「閉じた胎」に、聖霊によってみごもらせ、そのみどりごの主権と平和は、法則破りの形で増し加わって行く、という事を啓示しているのではないだろうか。
 
 この来たるべきみどり子、ダビデの王座に座す王は、世の王達とは全く違った法則破りの王となっていく。
この王は、通常の世の王と、どう違うか。世の王は、人々の上に立って権力をふるい支配するが、神の国の王たる者はそうであってはならない、と イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 主が立てたダビデ王も、そうだった。彼がサウル王に追われている時、彼の元には、困窮した人、負債を負っている人、心に苦さを覚えている人達が来た(1サムエル記22:2)。このダビデ王でなければ養えない、この王でなかったら保護されない、この王がなかったら、慰めを受けられない、そういう、一寸先が見えない人達がダビデの元に集まって来た。よりによって、サウルに命を狙われ、優れた人材を欲している時に。
 しかしそれが、ダビデを「真の王」にするための、主のトレーニングだった。たとえ苦しい状況の中にあったとしても、そんな彼らを、嫌がらずに受け入れ、彼らと共に、諸々の歩みを一緒に味わっていく。それはまさに羊飼いの性質である。アブラハムもモーセも、信仰の先人たちは皆、一様に羊飼いを経験したのだ。
羊飼いとして、弱くおろかないのちを養う者の姿勢こそ、主が求める真の王の姿であり、そして真の王・真の羊飼いであるイエス・キリストの性質である。ダビデは、そのように集った600人を受け入れ、共にサウルから逃れつつ、共に訓練を受け、そしてダビデが王になった時、彼らは優れた勇士になっていた。
 対してサウル王は、世の王と同様、自分の元に優れた有能な人々をはべらせ、王権を堅固なものにした。
一見すると、ダビデの群れは、サウルの軍団にたちまちやられてしまうかのように見えるが、実質、ダビデの群れはいつでもサウルの軍団の一歩先を行っていた。主にとっては、ダビデのような羊飼いの群れを、サウルのような者から守るのは、当然の事だった。主は私達にも、まず羊飼いである事を求めておられ、そして羊たちを養うのに十分な力を与えてくださる。私達もこの時代、ダビデのように、御前でへりくだった者となり、そしてゴリヤテのような敵・サタンに対しては凛々しく立ち向かって勝ち得る者となるべきである。
 
 このダビデの王座に座す王・メシヤなるイエスこそ、王の中の王である。イザヤは幻の中で、闇を完璧に吹き飛ばす偉大な光としてメシヤを見、それはガリラヤから輝き上る、と記した(イザヤ9:1-2)。ガリラヤはちょうど、イエス様が福音宣教を始められた所である。そこには、病を負い、悪霊に虐げられ、苦さを覚えている「闇の中を歩んでいた人達」があふれた所であったが、そこにイエス・キリストという大きな光が照った。
 キリストに照らされ、キリストに歩む人達はやがて増えて行き、彼らの喜びを増し加えられ、豊かな刈り入れを喜ぶように、または分捕り物を分けるときに楽しむように、御前で喜ぶ(3節)。そして、彼らの重荷も、肩のむちも、虐げる者の杖も、粉々に砕かれ、互いが互いを傷つけ、血を流し、戦いながら生きて来た今までの歩みも、火のえじきとして終わらせて下さる(5節)。それが、処女から生まれる「ひとりのみどりご」である。
 このアドベントの時、ダビデのように、主の前につつましく、しかし敵に対しては凛々しく立つ羊飼いとして、真の王の性質を身につけて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
神と人とが一つになるための条件:アーメン(ルカ1:26-56)
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週報/メッセージ(説教)

 マリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』と信仰告白した(ルカ1:37-38)。主のご到来を待ち望むこの時、私達はどのような態度で待ち望むべきか。今回はマリヤから学びたい。
 
 前回、ザカリヤは、主の言葉を信じず、「私は何によってそれを知ることができましょうか」と、自分が理解する事を求めたため、口が閉ざされてしまった。それに対しマリヤは、神のことばが「成るように」と言って、主の言葉を100%受け入れた。エリザベツはそんな彼女を評価する。『あなたは女の中で祝福されたかた・・・ 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう』(42-45節)
マリヤも言った。『今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう』(48節) 全世界・全時代で一番幸いな人とは、神のことばを100%受け入れる人、すなわち、神の言葉に「アーメン」する人である。
神の言葉に対するアーメンは、本人自身と神の言葉とを「ひとつ」に結びつける意思表明である。
 マリヤは主を賛美している。『主は、憐れみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けて下さいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえに憐れむと約束なさった通りに。』(54-55節)
 主が助けて下さる相手は、「イスラエル」である、とマリヤは言った。「イスラエル」の名の意味は、神と苦闘する、すなわち、神と粘り強く関わろうとする人である。全て神と必死で関わろうとする人は、イスラエルであり、また、主がとこしえに憐れむ、と約束された相手は、「アブラハムとその子孫」である。私達も、神に粘り強く関わろうとし、また信仰の父・アブラハムの「子孫」となるなら、神は私達に憐れみを注ぎ、助けて下さる。
 
 私達の信仰の父・アブラハムは、なぜ義とされたか。それは、神の約束に対しての「アーメン」によった。
「アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6) ここのアーマンはアーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味もある。
また、この箇所では使役態が用いられているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」と訳せる。
 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自らを主へと信じさせ、自ら、主の言葉をサポートし、建てあげる事による。ダビデが『わがたましいよ、主をほめよ』と、たとえそのような気分でなくとも自分のたましいに言い聞かせ、主をほめたたえたように、自らを信じさせる事が、神に義と認められるのである。
 神の言葉は、にわかには信じ難い事ばかりである。そんな事は有り得ない、と思えるような事でも、自分の納得や理解は投げ捨て、神の言葉への「その通りです」を自分の中に建てあげ、自分自身を神の言葉と結びつけるなら、そのアーメンによって神の力のエンジンがかかり、絶対起こり得ない事が実際に起きる。
 しかし、ザカリヤのような、「わたしが理解できるよう証拠を見せてください、それなら信じます」と言うような心構えなら、前回見た通り、「口を閉ざされてしまうしるし」が与えられ、強制的に黙らされてしまうのだ。
 マリヤは彼女の讃歌の中で、主は、頭が自分の思いで凝り固まった者を追い散らされる、と歌っている。
 『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし・・・富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(51-53節) 主は、神の言葉を押しのけて、自分の思いを優先させ驕り高ぶっている者は、追い散らし、傲慢に富んでいる者は、何も与えないまま帰させる。
 
 期待しない、アーメンしないけど、祝福されている信仰者にはくっついて行って、利益を得ようとする者も、ちゃっかりと祝福を受ける。ロトは主とくっつく事はしないまま、祝福されているアブラムと行動を共にしてお金持ちになったが、結局、自分の目で見て良いと思う方に進んで行った。それで彼は、アブラハムと別れた後は、ただ落ちぶれるだけであったが、逆にアブラハムは、ロトと別れると直ちに祝福が増し加えられた。
 100歳のアブラハムに子が与えられたのは、100%神の力によった。マリヤがイエス様を身ごもったのも、100%神の力によった。いずれも、自身のアーメンの言葉によって神の力が働き、現実世界を動かしたのだ。
 聖書の一番最後は、聖徒による神の約束へのアーメンで締めくくられる(黙示録22:20-21)。創世記から黙示録までの、神の言葉の全てに対して「アーメン」があればこそ、聖書は、人を罪と死から救い、永遠のいのちを生きる神の力が発生するが、信仰者の側にアーメンが無いなら、ただの本に過ぎなくなってしまう。
 マリヤのように、アブラハムのように、神の約束に積極的にアーメンし、自分自身と神の言葉をひとつに結びつけ、神のわざの実体が現れる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

主日礼拝
主のご到来を待ち望む心構え(ルカ1:5-80)
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 アドベント(待降節)が始まった。それは主の「ご到来(アドベントゥス)」を待ち望む期間である。この期間、どのような態度で、主の「ご到来」を待ち望むべきか。バプテスマのヨハネ、すなわち、荒野で叫ぶ者の声として人々をイエス・キリストへ導いた彼を生み出した彼の親、ザカリヤとエリサベツの夫婦から学びたい。
 
 イエス様のご降誕に先がけ、最初にしるしが現れたのが、ザカリヤとエリサベツの老夫婦である。この夫婦は、御前に正しい人であった。しかし彼らには、子がなかった。結婚した当初から、ずっと子が与えられるよう祈っていたが、与えられない。歳を取るにつれ、その祈りはますます切なるものとなって行っただろう。
彼らより、遥かにいいかげんに生きている人達には、どんどん子が生まれ成長して行くのに、彼らだけ与えられない。いよいよ産むのが難しい年齢に達しても、彼らは誰よりも御前にも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行い、祈っていた。そんなある日。聖所で香を捧げる役が、くじで、ザカリヤに当選した。
 皆が祈る中、その役を果たすために、彼が聖所に入った所、なんと、香壇の右に主の使いが立っているではないか。恐怖に襲われている彼に、御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
 長年祈り続けてきた「子が与えられる」。それは老夫婦の悲願であったが、神は、単に願望をかなえる以上の事を、ご計画されていた。その子は、御前に大いなる者となり、イスラエルの多くの子らを主に帰らせ、エリヤの霊と力をもって、御前に先立って行き、整えられた民を主に備える、というのだ。(14-17節)
 人は、子を産む事を願うが、単に産めば良い、というものではない。神から託された命を、いかに神の栄光をあらわす子として育てるかが大事である。主は、敢えてザカリヤ夫婦に、長年子を与えない事によって、彼らを祈らせ、御前に凛々しく立たせ、戒めと定めを落ち度無く行う事によって霊性を培い、長年そうする事によって、この夫婦を、バプテスマのヨハネの親として整えて行ったのだ。
 『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』(18節)
彼は、せっかくの喜ばしい主からの言葉を、そのまま信ぜず、自分が納得する事を求めてしまった。
そのような人に与えられるしるしは、「ものが言えなくなる」しるしである。いかに聖所の中で御使いと出会い、重要なお告げを頂くような奇跡を経験をしたとしても、不信仰な唇を継続するなら、逆に、良くないのだ。
 彼はある日、突然、口がきけなくなった。それ以降、夫婦生活では言葉を発せず、筆談だったが、かえって雑多な言葉を出す口が閉ざされた方が、遥かに良い結果をもたらすのだ。エリサベツは、身ごもった。
 
 「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(57節) ザカリヤにいよいよ念願の子が生まれた。
人々はその子に、父と同じ名をつけようとした(59節)。ザカリヤとしても、ようやく生まれた子に、自分自身の名をつけたかっただろう。しかし、主はあらかじめ「その子をヨハネと名づけなさい」と命じておられた。
 ザカリヤは、自分や他人の望みを手放し、ただ、主が命じられた通り、「その子の名はヨハネ」と公に示したその瞬間、彼の口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
 ザカリヤは、自分の子についての願望や思いを、特に、「自分が納得する事」を降ろし、100%、主の御旨が成るように、と求めた時、主の素晴らしさがハッキリ分かり、その口からは賛美が、また、主の言葉が出て来た。主の思いは、人のちっぽけな思いよりもはるかに高く、素晴らしい。それに引き換え、人が握りしめる願望は、なんと小さく永続しないものだろう。それを知る時、ただ主の御旨が成る事だけを求めるのだ。
 
 『さて幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。』(80節)
ヨハネもまた、主が定めた時に至るまで、自分の唇を閉じた。ヨハネ(イェホハナン)の名には、「主の恵み」「主の好意」という意味がある。悔い改めてバプテスマを受ける者に、主の恵み・主の好意が注がれるのだ。
 なお、ザカリヤ(ヘブライ語:ゼカルヤフ)は「主を覚える」の意味があり、エリサベツ(エリシャブア)は「誓いの神」の意味がある。すなわち、「主の誓い」に対し、「主を覚える」事を結婚させ、御前に誠実に歩み続ける者にこそ、主の好意が生まれるのだ。 主の御業が成されるまで、自分の納得・自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したい思いは手放し、ただ御言葉に従順して誠実に待ち望み、御業が成された時には、真っ先に主をほめたたえる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
いのちの言葉の種を蒔こう(箴言18:20-21)
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 本日は収穫感謝祭、主が大地の実りを私達に与えて下さった事に感謝する日である。農夫は,収穫を得るために地を耕し、肥料をやり、時期にかなった時に種を蒔く。あとは、天が作物を育ててくれる。太陽光と雨が適切に供給され、雨風や虫におかされたりしなければ、時が来れば実がみのり、農夫は収穫にあずかれる。人は種をまき、水をそそぐ事はしても、結局、成長させて下さるのは、神である。(1コリント3:7)
 神の言葉にはいのちがあり、そのいのちは、人の光であり、そしてその言葉はキリストである。(ヨハネ1:4)
霊的には、神の言葉は種であり、その蒔かれる先の土地は、人である。神は、その御口(ペー)から言葉を発せられると、その通りにいのちが動き、物事が動き、実体化した。世界は、神の言葉によって創造された。
 この神の種が宿っている人は、神から生れた者であり、罪を犯し続ける事ができない。(1ヨハネ3:9)
 
 人は元々、ちりにすぎなかったが、神の御口から息吹かれた「神の息」が入ったゆえ、神に似た者、神のかたちとなった(創世記1:26)。人は「神の息」がかかっている故、神に似た者であるが、もし神の言葉に反し、御言葉の秩序から外れてしまうなら、ただの「動くちり、蛇のエサ」に成り下がってしまう(創世記3章)。
 「神の息」に由来しない言葉は、人を徐々に死へ至らしめる。それが、良い言葉であれ、悪い言葉であれ。
「息」はヘブライ語でルアハ、霊とも訳せる。イエス様は言われた。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(ヨハネ6:63)
 だから、イエス様の言葉こそ霊であり、いのちであり、これが人を癒し、人を生かす。神の息(霊)なしの人、すなわち、肉にあって生きている人の息がかかった言葉は、何の役にも立たない。だから私達は、主を信じる信仰を混ぜた言葉を「種まき」すべきであって、それ抜きの言葉を乱発して、秩序を破壊すべきでない。
 サタンはこの時代、メディヤや映像を通し、「サタンの息」のかかった言葉を投げかけて来る。サタンは時に、御言葉さえ、サタンの息を混ぜて投げかける。その言葉は人を誘惑し、死へと至らしめる(マタイ4章)。
だから、言葉の内容に惑わされず、「どの息」がかかった言葉であるかを見分ける必要があり、それを見分けるのは、理屈ではなく、霊である。それをはねのける唯一の方法が、神の息で息吹かれた御言葉を宣言する事によって、である。イエス様は荒野でサタンの試みに遭われた時に、それを示して下さった。
 だから私達も、テフィリンによって御言葉を自分自身によくなじませておく必要がある。自分の思い・意思・感情を、御言葉で満たし、「防護柵」張っておくなら、世が、サタンが吹き込もうとしてくるマイナスの言葉を防ぎ、人の言葉にいちいち傷つけられる事がなくなる。世の言葉も、サタンの息がかかった言葉も、イエス様の息、すなわち、「御霊による御言葉の剣」によって打ち破るからだ。(エペソ6:17)
 
 私達も、イエス様のように御父に従順し、御言葉に信仰を混ぜて「種まき」して行くなら、その言葉は霊となり、いのちとなり、人を生かし、サタンを打ち砕く方向へと、成長して行くのだ。だから私達は、御言葉を信じる信仰を混ぜた言葉を至る所に「種まき」して行くべきであり、また、そのような交わりをするべきである。
 御言葉のある交わりには、いのちと繁栄がある。ダビデ王を出したボアズの家は、なぜ、飢饉の時代でも有力者になって行ったか。それは、彼らは単に穀物の種を蒔いていただけではなく、互いに祝福の言葉を蒔いていたからである。ナオミも、良い時も悪い時にも、祝福の言葉を蒔く人だった(ルツ1:8, 2:19-20)。
 家庭内、あるいは事業所内で、祝福の挨拶を蒔き合う事が、有力者となる重要なコツの一つである。
 逆に、文句や呪いの言葉を蒔き合う事は、廃れてしまう原因となってしまう。「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」(箴言18:20) からだ。 『気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなた方は互に滅ぼされてしまうだろう。わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない。』(ガラテヤ5:15-16)
 
 神は私達を、神の似姿として創られた。それは、人が神のように、この世を、いのちの言葉を蒔いて、いのちを増やし、いのちで支配し、いのちを保つためである。この呪われてしまった被造物の呪いを唯一、打ち消すのは、信仰をもって御言葉を種まきする事によって、である。神の子として、神の言葉を種まきし、呪われ、破壊され、死で覆われてしまったこの世界を、いのちで吹き返し、再創造し、なぐさめをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
宇宙をいのちへと塗り変えて行く神のことば(ヨハネ1:1-5)
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メッセージ概要

 
 先週は、コーエンジャパン講義にて、ヘブライ語に秘められた奥義の一部を学んだ。この世は神の言葉によって成り立っているが、その、神のことばである聖書の構成要素であるヘブライ語の、一つ一つの語に込められた意味と、言葉と言葉によって織りなされる意味の美しい秩序を見るに、またヘブライ語に込められた数字の組み合わせによって、はじき出された、一点一画の狂いも無い正確性を見るに、神は確か生きておられ、神は人に「自分は確かに生きて働いているのだ」「この世を創造したのだ」と、主張しておられるかのように感じる。神は私達に、御言葉を宣言し、神の子として、この世を正しく治めて欲しいのだ、という意図も感じる事ができる。今回もヘブライ語によって記された神のことばの不思議の一端を見ていきたい。
 
 神は、その御口(פהペー)から発せられた「ことば」をもって、全てを創造した。全被造物は、例外なく神のことばによって創造されており、神のことばによらずに出来たものは、宇宙に一つも無い(ヨハネ1:1-3)。
神のことばは今も天地に満ちており、それが、全ていのちあるものも、いのちの無いものも存続させている。
『人はパンだけでは生きず、人は主の口(פהペー)から出るすべてのことばによって生きる』(申命記8:3) 
 人は元々、土のちりであったが、神がその御手で土地のちりで人のかたちをつくり、その鼻に、神の御口(פ)からの「息(ה)」が息吹かれたゆえ、人は生きた者となった(創世記2:7)。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムの5つだけで約98%を占め、成分的にはまさに「ちり」に過ぎず、成分単体では数千円の存在であるが、人がなぜ、尊いのか。それは、神の御口から息吹かれた「神の息」が入ったからである。
 もし、人が神の息を軽んじ、神の言葉に反して生きるとしたら、それはただの「動くちり、蛇のエサ」に過ぎない。『主なる神はへびに言われた…おまえは腹で這い歩き、一生ちりを食べるであろう。』(創世記3:14)
 
 最近のゲームや漫画、ホラー映画などでは、人がいとも簡単に死んだり、邪悪な者によって人が無残な形で殺されるシーンも出てくる。人には神の息、神の尊厳が宿っているため、神は無意味に聖徒を邪悪な者の手に渡される事は無いし、まして、映像でよく見るような、神が創造してもいない存在や、力が、気まぐれに多くの尊厳ある命を奪うような事は有り得ない。しかし現代、サタンが人の尊厳を貶めるために、そのようなイマジネーションをクリエイター達に吹き込んで、人々はそのような映像によって、漠然とした恐怖や、自己無価値感に悩まされ、人の価値や、自分の人生の意義を見いだせなくなっている。
 このような、偽りのビジョンと不安感を吹き飛ばす、打ってつけの方法が、真理の御言葉、いのちの言葉、闇をぬぐい去るいのちの言葉を宣言し、テフィリンする事によってである。御言葉は人のいのちの光であり、闇は光に打ち勝てない、と書いてある。私達の中に入った御言葉は、防護柵となって、世が吹き込もうとしてくるマイナスの言葉が、思いの中に入ってくるのを防ぎ、人の言葉にいちいち傷つけられる事がなくなる。
 私達がキリストに従順で、善にはさとく、悪にうとくなるなら、平和の神は速やかに私達の足でサタンを踏み砕いて下さるのだ。(ローマ16:19-20)
 
 神は唯一、人を、神の似姿として創られた。人が他の被造物と違う点は、自由にことばを操る点である。
私達は、言葉を発して空気を震え動かし、宇宙をゆり動かす事によって、世界の諸々の事象に変化を加える事が出来る。アダムとエバは、神の言葉に逆らい、神から離れた自分勝手な善悪判断を、くちびるから発するようになり、自分自身は呪われ、そして全被造物は呪われてしまった。(ローマ8:22)
 この呪いを、唯一打ち消すのは、世界を創造された神のことばを信じ、口から発する事によって、である。
被造物は、神の子たちのあらわれを待ち望んでいる、と書いてある。神の口のことばを、信仰を混ぜて宣言する事によって、呪われ、破壊され、死で覆われてしまったこの世界を、いのちで吹き返し、再創造し、なぐさめをもたらすのだ。御言葉によらない人の言葉は、力が無く、単なる単語並べにすぎない。しかし神の口から宣言された御言葉には、再創造する奇跡の力がある。私達の口から発した言葉が力となって奇跡を起こす方法は、神の口から発せられた御言葉を、一点一画も変えず、信仰をもって宣言するのだ。
神の口(פה:ペー)を私達の口に再現できるなら、私達も創造の力を持つのだ!神の言葉がその口にあり、この世を統治し、良き再創造をして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
ヘブライ語 - 神のことばを構成するDNA(マタイ5:17-19)
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 今週はジャパンコーエンの学びの週である。いつもは聖書の一つの書をピックアップして、その書をヘブライ思考で学んでいるが、今回は異例にも、ヘブライ語アルファベット22文字に込められた意味を学ぶ。
 ヘブライ語は、一般言語として現実にユダヤ人の間で用いられているが、他の言語と違い、単語の組み合わせにも、そして一点一画にも、霊的意味が込められた「神の言語」である。またヘブライ語は、神が人を創造し、エデンに置いて以来、バベルの塔の時に言語が混乱してしまうまで、全人類が一つの言葉で話していた、原初の言語である。今週の講義に先立ち、その神秘的な性質の一端を、少し見て行きたい。
 
エデン以来使われていた言語はヘブライ語である、という根拠は、アダムがエデンで会話した言葉にある。
『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男(אִישׁイシュ)から取ったものだから、これを女(אִשָּׁהイシャー)と名づけよう』(創世記2:23) 日本語で読むと、「男」から取ったらなぜ「女」と名付けられるのか、根拠が分からないが、この時話されていた言語がヘブライ語であるなら、音声的「語呂合わせ」となる事がなんとなく分かるが、そればかりではない。ヘブライ語に込められた意味も探って行くと、アダムが「女(אִשָּׁהイシャー)」という名を選んで付けた所に、霊的な意味も込められている事が分かって来る。
 男(イシュאישׁ)と、女(אִשָּׁהイシャー)。男(אישׁ)からユッド「י」を取ると、אשׁ(エシュ:火)となり、また女性(אִשָּׁה)からヘー「ה」を取っても、אשׁ(エシュ:火)となる。男と女から「יה」が抜けると、火となってしまう…。その「יה」はヤハと言い、主ジェホバ(יהוה)の略である(イザヤ12:2,26:4)。つまり男と女は、神でる主を抜きにすると、「火」と化してしまうのだ。このような「高度な語呂合わせ」は、ヘブライ語以外では不可能である。
 また、主・ジェホバのヘブライ語יהוהは、それぞれの文字の意味を順に並べると、「手、見よ、釘、見よ」となり、つまり主の御名の中には、イエス・キリストの十字架の福音が込められていた事が分かる。
 
 また、ヘブライ語は、それぞれの文字に「数字」としての意味も含まれている。最初の語アレフאは数字の「1」の意味があるが、母音が変わってエレフになると、「1000」になる。『その最も小さい者は氏族(エレフאֶלֶף:千)となり、その最も弱い者は強い国となる』(イザヤ60:22) つまり、いかに最弱な者であっても、神がタッチしてくださるなら千倍になるのだ。 『あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日(אֶלֶף)にもまさる(טוֹבトーブ: パーフェクト、ビューティフル、グッド)のです』(詩篇84:10) 主の庭の外でどんな千日を過ごしたとしても不完全であるが、主と共に主の庭にいる一日は、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
 主に立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る。しかしそれをしないで、自分の思った方法を採用するなら、いかに神の民と言えど、敵のたった一人の威嚇によって千(エレフאֶלֶף)が散り散りに逃げる事になってしまう(イザヤ30:15-17)。神なしには一、しかし、神が共にいるなら、千なのだ。
 
 書記官が代々、ヘブライ語で手書きで写されて来た聖書は、手書きならではの特徴もそのまま伝授されて来た。ある字がわざと大きく、または小さくされていたり、一見すると写し間違えや文法ミスに見えるような「謎の記載」も、所々にある。しかし主は、そこに大きな意味を隠しておられる。例えば、敢えて逆さまに記された文字と文字の間に、新約のキリストの復活と聖徒達の復活が隠されていたり、あるいは、ヘブライ語の法則を破って記されている箇所に、処女から生まれたひとりのみどり子の繁栄が示されていたり…。
 これはほんの一端で、今週の講義では多くのヘブライ語の神秘を学ぶ事が出来るだろう。まさに『天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる』(マタイ5:18) である。
 ヘブライ大学で22年勉強したキム先生の友人が、言ったそうだ。ヘブライ語は神の言語であり、霊的言語であり、天国の言語だ、と。実際、神の言葉・聖書が記されているヘブライ語は、調べれば調べるほど、いのちのDNAが、宇宙の法則と組成が、そして、神の息遣いが組み込まれている、と、実感して来る。
 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1) 私達は聖書を、世にあまたある本の一つとして扱ってはならない。天地を創造し、いのちを創造し、そして全宇宙の法則以上の根源的な言葉として重んじ、そして、御言葉を「神ご自身」として敬いつつ、私達のうちに摂り入れるべきである。
 

 

主日礼拝
救いの働きの根幹 : 聖霊とまぼろしと福音(使徒16:6-10)
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 先々週、韓国コーエンにて、総長のポール・カン先生から、救いの働きについての重要な概念を学んだ。
 鍵はやはり、聖霊である。カン先生は言う。韓国のキリスト教はなぜ衰退してしまったのか。それは、韓国の教会は最近、繁栄神学にのめりこみ、本質を忘れてしまったからだと。また、日本はなぜ優れた神学者が多いのに、リバイバルが起きないのか。それは、学問はしっかりしているものの、聖霊が無いからだ、と。
 パウロは言った。『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。』(1テサロニケ1:5) パウロはテサロニケでは、わずか3週間しか宣教できなかったのに、そこの聖徒たちは、パウロが不在にもかかわらず、マケドニヤとアカヤの聖徒達の模範と呼ばれるまでに霊的成長を遂げ。それは、パウロの力と聖霊と強い確信に満ちた宣教に他ならない。
 
 礼拝において、また悪しき者との戦いにおいて、御言葉と聖霊のどちらが先であるべきか。それは、聖霊である。イエス様は「霊とまこと(真理)」による礼拝者を父は求めておられる、と言われた(ヨハネ4:23)。パウロも悪魔と戦うための武器は「御霊の与える御言葉の剣」と言った(エペソ6:17)。いずれも御霊が先である。
 宣教とは、国境や言語、文化を超えて、異なった地に福音を伝えに行く事であるが、そのコンセプト(定義)を、パウロは3つの単語であらわした。すなわち、1,聖霊、2,まぼろし、3,福音、である。その根拠となる御言葉が、今回の、使徒16:6-10におけるパウロの宣教の箇所である。
 『それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。』(6-8節) ルステラからトロアスまでの道のりは、千キロ以上。車や飛行機が無い当時の、千キロの伝道旅行は、どれほど労が多かっただろう。
 パウロ達が行く先々で、聖霊は、ことごとく御言葉を語る事を禁じられた。人は思う。御言葉を伝える事は、至上の良い事だ、自分は至上の良い事をしているのに、なぜ結果が得られないのか、と。しかしそのような時こそ、私達は自分の善悪判断を投げ捨て、聖霊が導かれる事に従順すべきである。御霊が禁じられる時、どんなに「良い事」を頑張っても、実りは一切無い。パウロ達は行く先々で、神がかり的なストップをされ続け、主に祈り求めた結果、見せられたのが、うめき懇願しているマケドニア人の「まぼろし」だった。
 『ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願(パラカレオー)するのであった。』(9節)
 どうか、こちらに渡って来てください。海を超え、境界を超え、私達を助けに来て下さい。私達の罪から、訴えて来るサタンから、悲惨に満ちたこの世から、そして、地獄の滅びから、私達を救い出してください…。
 私達は、闇雲に自分が良いと思った事をしてしまいがちだ。しかし一切をご存知であられる主は、世界の片隅にある人のうめき、懇願をご存知であり、それを「まぼろし」として見せて下さる。
 パウロがあんなに伝道に熱心だったのは、何ゆえか。なぜ、鞭打ちされても、石打ちにされても、海の難、盗賊の難に遭っても、なお伝道旅行に出かけて行ったのか。彼は言っている。わたしは全ての人に返さなくてはならない負債を負っている、と(ローマ1:14)。この、イエス様の深い憐れみ、聖霊の深いうめき、そして、救いを届けるという「借金返済」を、何とかして、しなくては、という熱心が、彼を突き動かしていたのだ。
 パウロは、アジア宣教を聖霊によって止められ続け、不毛な働きに疲れた時、自分の思いを全て主に明け渡しただろう。その時、主は、まぼろしを見せて下さった。私達も、自分の「よかれ」や、善悪判断は粉々に割って、そして主の御旨を求めるべきである。その時、その人がきよければ、主はまぼろしを見せてくださり、主はその人に、ご自身のうめき、憐れみ、ご計画を示し、そしてその人は、突き動かされて出て行く。
 
 あの、パウロに懇願したマケドニア人は、その後どうなっただろう。パウロ達がマケドニア入りして、最初に宣教した地・ピリピに、「ルデヤの家」という、ヨーロッパ最初の「教会」が建った。以降、ヨーロッパはキリスト教が最も栄え、そして世界中に宣教師を送り出す地として、霊的にも文明的にも大いに発展して行った。
 聖霊を求め、まぼろしを求めるべきである。「国を超え、ことばを超え、私達を助けに来てください」、というまぼろしを得て、聖霊のうめきを共にし、イエス様のはらわたがちぎれるような憐れみを共に溢れさせつつ、いのちの働きに進み行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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