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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

罪をきよめる御霊の働き(ヘブル10:1-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は、たとえクリスチャンになったとしても、どうにも、罪を犯してしまう。それは、人の生まれつきの体(肉)には、罪のとげが刺さっていて、それはどんな努力や修行でも引っこ抜きようがないからだ。本日、この、人にはどうする事も出来ない罪に唯一対抗できる「聖霊の働き」と、それにあやかる術を身につけたい。

まずは、人の罪が清められる手順を知る必要がある。レビ記16章には大贖罪日の儀式の手順が記されていて、その全手順が成功すれば、その一年間の神との障壁は取り除かれ、神との交わりが保証される。
しかしこれは、根本的に罪を取り除く事は出来ず、むしろ、毎年捧げられる事によって、罪が思い起こされてしまう(ヘブル10:1-4)。結局律法は、来るべき真の事柄の影に過ぎず、人を完全にする事は出来ない。
そこで、書いてある。『キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、「からだ」を備えて下さった。』(5-7節) ここは詩篇40篇からの引用であるが、ヘブル書で「からだ」と書いてある所は、詩篇では「耳」と書いてある。
正常な耳を持っている人は、話を正常に聞き、理解できるが、正常な耳を持っていない人は、聞こえないか、聞こえても理解できない。それであさってな事をしてしまう。耳は人生をつくっていく上で、大事なのだ。
神はいけにえより、むしろ耳で聞いて従う事を、喜ばれる。聞き従う事は、牛や羊のいけにえよりも大事だ。
聖霊がひらいて下さる耳によればこそ、聖書は、今の「わたし」について記されている事を悟る(6-7節)。
聖書は、あの時代の人々に対してのみならず、今、読んでいる「私達」にこそ、語っているのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従って捧げられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。』(8-9節) 人間の大祭司が毎年、同じいけにえを捧げても、罪を除くことはできない(11節)。では現代の私達は、どうすれば良いか。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである・・・彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(10,14節) イエス様は、ただ一度捧げられた事で、完結したのだ!それで私達は、何度もいけにえを捧げる必要は無くなったのだ。

『聖霊もまた、わたしたちに証をして、「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いの内に書きつけよう」』(16-17節) 
ここで聖霊が証している。新契約は、石の板にではなく、私達の心の板に直接、刻みつけられる、と(エレミヤ31章)。今、私達の心に刻みつけられるのは、キリスト・イエスによる「いのちの御霊の法則」である。
『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した』(ロマ8:2) 
この、心に刻まれた御霊の法則に従って歩んでいく時、律法の要求は全て全うされている。こうして、主イエスに罪赦され、御霊によって歩む者は、『「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出す事はしない」と述べている。』(17節) 御霊に従って歩んでいる者は、罪に定められる事は決して無いのだ!(ロマ8:1)

では私達は、悔い改めはもう必要ないのか?否。悔い改めは、聖霊が思い起こさせて下さる都度するべきである。心がそわそわしたり、何かが詰まっている感覚など、聖霊に示された範囲で罪を告白し、悔い改め、あるいは賠償するのだ。『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされた事は長く我々と我々の子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
キリストがただ一度、完全なるいけにえとして捧げられ、もはや罪は思い出さない、と言っておられる以上、出所不明の悔い改めの乱発は、そもそも必要無く、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのだ。
イエス様が彼の肉体を裂いて下さった故、私達は主が開いて下さったその生ける道を通って、大胆にまことの聖所へ入る事が出来るのだ。邪悪な良心が清められ、からだも清い水で洗われた故に。(18-22節)
約束をして下さった方は忠実な方である。
だから私達は、この望みが決して動かされる事なく、しっかりと持ち続け、愛と善行とを励むよう互いに努め、また、互いに集まる事を止めたりせず、互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうして行く皆さんでありますように(23-25節)!イエス様のお名前によって祝福します!

祝福が倍になって流れてくるための二つの鍵(ヨブ記42:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ヨブ記の46回に渡る講解説教が終わった。以前のヨブ記のイメージは、何か知的で崇高な議論が展開されているな、でもあまり読みたくないな、というイメージがあったかもしれない。しかしこの中から多くの真理を発見し、大きな恵みを受けた方もいたと思う。ヨブ記全部のメッセージ概要はホームページに記したが、今回、ヨブ記の最初と最後のキアズムから、ヨブ記の結論と、2倍の祝福を受けるためのコツを探りたい。

ヨブは正しい人で、神を恐れ、悪から遠ざかっている人だった。彼の7人の息子達は、それぞれの誕生日ごとに集まって、飲み食いする事を常としていたが、一巡する毎に、ヨブは彼らを呼び寄せ、彼らの数に従って燔祭を捧げた。もしかしたら彼らが罪を犯し、心で神を呪ったかもしれない、と思ったからである。
それは一見、正しい事のように見られがちだが、罪を犯すかもしれない酒宴の場所で子供達を取り締まる事なく、その日を楽しませ、どんちゃん騒ぎの事後、犯したか犯していないか分からない「あやふや」な罪のいけにえを捧げる事でチャラにしようとしても、サタンの追求は免れられない。
もし「罪を犯したかもしれない」という不安要素があるなら、神が喜ぶ事と忌み嫌う事の何かを事前に教え、それをしないよう指導するべきだった。結局、ターゲット不明の悔い改めの乱発は、罪はこれでチャラになった、自分はもう義だ、という思い込みを助長させただけで、ヨブ自身にも、祈ってもらった息子達も、有害以外のものはもたらさなかった。後に分かるが、ヨブは、「自分は正しい」という思い込みを奥深くに助長し続け、ついには神よりも自分を義とし、3人の友人達を閉口させてしまう程までになってしまっていたのだ。
神はそれを取り扱うために、サタンの申し出を許可し、こうしてヨブは、一切のものを失ってしまう。
こうして、詩文体による長々としたヨブの訴えと、友人達の議論が始まるのだが、主エホバの御名が一切無い人間の議論は、ただ怒りと無秩序をもたらすのみである。しかしヨブが神の直接の取り扱いを受けた結果、ヨブがした「二つの事」の故に、後の人生の祝福が倍になる。膨大な文量に埋もれて見つけ難いが、災いが取り去られ祝福が倍増するコツは、実にシンプルだ。私達は、この「宝」を知らなくてはならない。

その一つは目は、ヨブが神に告白した次の告白だ。すなわち、神はどんな事でも最善を為して下さるのに自分は知りもせず、それを暗くしてしまった、だから自分は自らを捨て、悔い改めます、という告白である。
『それでわたしは「みずから恨み(マアスの未完了単数形:自らを継続して捨て続け)」、ちり灰の中で悔います」』(ヨブ記42:6) ヨブはこの時、それまでずっと握りしめて離さなかった「自分は正しい」「神の仕方は納得できない」という「自ら」を捨て去り、自分を低くした。神の御前における「善悪判断」の放棄である。
それは、無闇に思考停止する事でも、強制力に屈して洗脳を受け入れる事でもない。ヨブが2節で告白した通り、主はその全智の最善をもって全ての事を為すお方だ、それだから、御前に自分を捨てる、という、まことに理に適った、積極的な「捨て」なのだ。これこそ、祝福が流れてくる扉を開ける最初の鍵である。
祝福倍増の二つ目の鍵は、友人達のために、祭司として、神の指示の通りに執り成し祈った事である。
この友人達は、本質を外した格言の押し売りによって、ただでさえ苦しいヨブをさらに苦しめた。神はそんな彼らに、ヨブの所で燔祭を捧げ、彼に祈ってもらうよう指示した。結果、彼らの罪は赦され、同時にヨブにも祝福が帰って来た。以前は息子達のために、無闇な犠牲を捧げたが、今回は神の指示に従い、それも、自分を苦しめた者のため、赦されるよう、主に祈った。義人のとりなしによって、罪を犯した者は罰を免れる。
すなわち神は、義とされた人に、執り成し祈る事を求めておられる。神はアブラハムやモーセの執り成しを聞いて下さり、また執り成す者がいないために神が滅ぼさざるを得なかった事もある。(エゼ22:30-31)
神は、ご自分ひとりで赦しを完結されるのではなく、誰かの執り成しがあってこそ、その人を「赦す」機会を得る。だからこそ人類の贖いには、十字架上のイエス・キリストによる執り成しが必要だったのだ。
執り成し祈る者を、神は豊かな報いを与え、大いなる者として下さる。アブラハムやモーセ、ヨブのように。
ヨブ記の結末は、あっけなく見える。一体あの膨大な問題提起と議論は何だったのだろうか、と思える程。
それ故、祝福の鍵を見落としやすい。祝福の引き金は、ヨブのように、自分を低くし、御前でそそり立つ「自ら」を捨て、悔い改める事。それで義とされたなら、執り成し祈る事である。ヨブ記は人生の縮図と言える。人生の膨大な理不尽への「なぜ」追求や、自己正当化や、神と人とを訴える事を、全てを降ろし、神を高め、人のために執り成し祈る時、大きな祝福に与れる。それが、ヨブ記全体から導き出せる答である。

ほとばしる命の泉の呼び水とは(ヨハネ4:7-15)
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 前回、聖霊のご性質の、流れる川のように人を潤し清める性質を学んだ。今回も続いてそれを学びたい。
『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇く事がないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」』(ヨハネ4:13) 私達がこれを頂くためには、どうしたらよいだろう。
暫く使っていない井戸を、再び水を出すようにするためには「呼び水」が必要であるが、イエス様からこんこんと湧き出るいのちの水を私達も頂くために「呼び水」が必要である。イエス様ははじめに「水を飲ませて下さい」(7節)と女に言われた。イエス様は、罪深いこんな私達にも言われる。「あなたの水を飲ませて下さい」と。では、私達がイエス様に「呼び水」となるべき水を、飲ませて差し上げるためには、どうしたら良いか。
この記事中、女がイエス様に飲ませた記述は、見あたらない。しかし後の記述を見ると、どうやら彼女、イエス様から「生ける水」を頂いて、腹の奥底から水が川となって流れ出たようすである。一体彼女、いつイエス様に「呼び水」を飲ませたのだろう。彼女がイエス様に飲ませた「呼び水」とは、おそらく、次の言葉だ。
「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」(15節)
イエス様への、「その水をわたしに下さい」という、お願い。これこそ、無限に流れ出て来るいのちの水を、イエス様から引き出す「呼び水」である。この言葉をイエス様へ発した瞬間、イエス様は「呼び水」を得て、その人の「渇きの問題」を解決をする支配権がイエス様へ移り、イエス様はその人を潤す働きを開始する。

彼女は、渇きを覚えていた。喉の渇きより、もっと深刻で根本的な「心の渇き」「人生の渇き」を。彼女はその渇きを、結婚や安定、異性という「水」によって癒やそうとしたが、それは、飲めば飲む程渇く水だった。
人は色々な「水」で渇きを癒やそうとする。異性、結婚、金銀、仕事など。それらの「お祭り騒ぎ」(ヨハネ7:37) は、やがて誰もが渇く時が来る事を、前回学んだ。そうした世のものに潤いを求め続けるなら、渇きは癒やされないどころか、もっともっと渇いて行き、そしてそれを手に入れるために奔走した過程で、失敗や恥、破産、人への迷惑、身体の傷などなどの”負の実績”をも積み上げて行く。
それら全ての負の実績を、サマリヤの女のようにイエス様に持って行くなら、神の栄光を現すものへと大転換する。つまり彼女のように、イエス様に向かって、「あなたがくださる水、飲んだら腹の奥底から流れ出るという、その生ける水を、わたしにもください!」と言う事こそ、あらゆる問題解決の呼び水なのだ。
イエス様がこれを「飲む」時、問題が私達の側からイエス様の側へと移り、イエス様が動いてくださる。
彼女がイエス様に、あなたの水を飲ませてください、と言った時、イエス様は働く機会を得、結果的に、彼女は決して今まで満たされなかった霊の空洞が、満たされた。そして、彼女自身の渇きが癒やされただけでなく、その水は川々となって、彼女の住んでいたサマリヤ・スカル地方全体へと流れて行き、その一帯の人々を、根こそぎイエス様へと導いて、この地方一帯が、いのちの水で溢れた。

『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) この、イエス様が下さる水、すなわち「聖霊」が私達に宿る時、流れる川のごとく私達を潤し、私達がいかに、世との摩擦ですり切れ、汚れしまっていても、その聖霊の川の流れに身を置いているなら、どんどん癒やされ、きれいになって行く。その御霊が働くためには、御言葉が必要である。
御言葉という全く純粋なきよめの水に浸され続け、聖霊のきよい流れにひたされ続けるなら、どんどん清らかになって行く。御言葉を習慣的に口ずさみ、自分の中に取り入れる「テフィリン」が、まさにそれである。
いつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に御言葉と一体化し、きよめられ、そして天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて行き、その人の中に、神のかたちが出来上がっていくのだ。
御言葉なるイエス様こそ「在りて在るお方」であり(ヨハネ8:24,58)、全ての存在の源である。(コロサイ1:17)
その御言葉を、テフィリンによって自分の中に豊かに住まわせるほどに、自分の存在根拠、生きる根拠、そしてこのお方を伝える伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行く。それでその人は、心も、人格も、ことばも、人生全ての面において、安定して行く。その取っ掛かりは、全存在の根拠であられるイエス様の所に行って、あなたが下さるという水を、わたしにも下さい!と、お願いする事だ。イエス様は、今生きておられる。このお方に呼び求め、全ての面で潤い、安定した人生を送っていく皆さんでありますように!

流れる川のごとく潤し続ける聖霊(ヨハネ7:37-39)
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 本日は御霊のご性質の一面を、すなわち、その流れる川のごとく人を潤す性質について学びたい。
『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) 時は、祭りの終わりの最も盛大な日。一番盛り上がる日のはずが、イエス様は裏腹にも「渇くなら」と言われる。祭りの「盛り上がり」についていけない人もいるであろうが、結局、人同士の祭り・盛り上がりの行き着く先は必ず「渇き」であり、真に渇きを癒やす事が出来るのは、イエス様だけだ。
5章にも「祭り」の日、イエス様は38年間も病だった人の所に行って癒やして下さった記事がある。彼は38年も病で祭りに参加できず、癒やされる事も、誰かが助けてくれる事も、とうの昔にあきらめ尽くしていた。
そんな「祭り」の最中、イエス様は彼を訪ねて来られ、「よくなりたいか」と言われた。しかし彼は治る事は既にあきらめ切って、ただ自分には「誰もいない」事をイエス様に答えるだけだった。
イエス様は彼に向かい、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。イエス様のそのたった一言を実行した結果、38年も頑固にまとわりついていた病が一瞬で癒やされたのだ。彼は癒やされた後、神殿の中でイエス様に見出された。つまり彼は、無意識的に、よくなったら神に感謝し、礼拝する志があったのだ。
彼は38年、ベテスダから一歩も出ておらず、その間「なにも出来なかった」事で、対人能力が萎え、衰え、自己卑下やマイナス思考などの負の遺産が積りに積もって地層を為していたかもしれないが、そのような人であっても、イエス様は癒す事が可能である。イエス様のお言葉どおり行い、神を敬う志があるのなら。

イエス様は祭りの終わりに、カラカラに渇いていた人々を見るに見かね、大声で言われた。「誰でも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい」と。イエス様は「飲ませてくださるお方だ」と認知すべきである。
どうやって飲むのか?「信じる事によって」である。『わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』(38節) ここの「腹」と訳されたギリシア語はコイリア、他に「子宮」や「知・情・意の座」を意味する。イエス様のお言葉を飲む、すなわち「信じる」なら、何かがすとんと自分の中に入り、その奥底から生ける水が川となって出て来て、自分を潤し、他人を潤す。これは一体何か。
『これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊(プネウマ・ハギオン=聖なる霊)がまだ下っていなかった(be動詞)のである。』(39節) イエス様がまだ栄光を受けていなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、人々にはまだ聖霊が与えられなかった。しかし、イエス様が御父のところに行った事により、助け主・聖霊が与えられるようになる。『しかし助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、またわたしが話しておいた事をことごとく思い起させるであろう。』(14:26)
だから聖霊を受けると受けないとでは、莫大な違いが出てくる。

聖霊を受けない人は、御言葉を聞いても、知的に表面上の事しか理解できない。「手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(詩篇47:1)と書いてあるのを見ても、神学的解釈に走ったり、賛美中に(楽しくないのに)がんばって手を叩くのが関の山だが、聖霊を受けた人が読むなら、腹の奥底から、主を讃えたい気持ちに同調する。主を喜ぶ実感があるからだ。聖霊が来てくださるなら、御言葉を読む都度、神との関係や、神の栄光について教えてくださり、のみならず、人との関わり方も教えてくださる。
聖霊が来る前は、人と会っても挨拶程度で終わっていたのが、聖霊が来ると、その人が今どのような状況で、自分はどう関わらなければならないのか、どう会話を切り出しどう返事をすべきか、細かく教えて下さる。
聖霊は水のように、川のように、流れるもので、渇きを癒やし、人を潤す。それは一時的にではなく、流れ続ける川のごとく、ずっと流れ込んできて、潤し続け、きよめ続けるものである。
御霊の人はその流れに乗り、押し出され、自動的に進んでいく。それは何の無理も無く、楽しい道であり、行けば行くほど潤い、若々しくなり、愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結んでいく。
対して肉の人は、苦心してがんばり続けなければ進んで行かず、良い行いをしようとしても、すぐ疲れ、無理が出て、自動的に不品行や汚れ、怒りなど、肉の実を結んで行ってしまう。『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない。』(ガラテヤ5:16) 常に御霊に歩み続け、豊かに御霊の実を結んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主から重んじられる人と、軽んじられる人(1サムエル記2:17-18)
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 先週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義を行った。前回主日にも学んだ通り、私達キリスト者は預言者として、祭司として、王として神と人々との間の「仲立ち(בֵּין ベイン)」の務めをするために主から任命を受けた者であり、主と主の言葉を重んじ(כָּבַדカバド)、忠実にその務めを果たして行くなら、主からさらに尊ばれ(カバド)、ついには、サムエルのように時代を変える者として大いに用いられる。
しかし、もし主を軽んじるなら、主から軽んじられ、主から警告を受けてもなお主に帰らずに、主から与えられた地位を、ただ自分のために乱用して止めないなら、主はその者を捨ててしまう(マアスמָאַס)。
サムエル記の登場人物達は、そのように明暗がくっきりと分かれて行くが、今回も2章から、主を軽んじ続けた故に務めが剥奪されてしまった大祭司エリの一族と、そして、生まれる前から主に捧げられ、主に見出され、時代を変えるために大いに用いられていくサムエルとの交錯から、私達が進むべき道を見出したい。

サムエルの名の意味はシェマー(聞く)+エロヒーム(神)、彼の母ハンナが、御前で長く祈った祈りに「主は聞いて下さった」という事で付けた名前であり、同時に、神の声を「聞いて」その通り行う者は祝福される事も象徴する。彼は幼い時から主に仕え(2:11,3:1)エリの用事を言いつける言葉にもよく聞いて行動した。
対し、エリの子・ホフニとピネハスは「ベリヤアル(悪魔)の子」で、主を恐れず(12節)、主に聞かない者達だった。ホフニの名は「拳で生きていく人」、ピネハスは「蛇の舌」の意味で、彼らは祭司でありながら、名の通りに「力づく」と「二枚舌」によって生きていく者達で、彼らの罪は主の前に非常に大きかった(2:12-17)。
彼らは、神殿で仕える女達に手を出す程の罪も犯したのに、父は言葉で注意しただけで何もしなかった。
私達は神をカバド(尊重)しなくてはならないのに、エリは息子達のほうをカバドした。それ故、エリの家は最終的に滅ぼされてしまう。重んじてはならない息子達のほうを重んじ、神のほうを軽んじたからだ。
それで主は幼子サムエルに現れ、言われる。『わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神を汚している(מְקַֽלְלִ֤ים メッカーレリーム)のに、彼がそれをとめなかったからである。』(3:13) メッカーレリームとは「カラル(軽んじる)」に、場所を表す前置詞メム(מ)と、複数形のユッド・メム(ים)が語尾についた言葉で、すなわち「神を軽んじる」事が、言葉でも態度でも常態化し、どの場所でも、何度でも習慣化してしまった状態だ。それはまさに、自ら呪いを引き寄せている状態である。
なぜこうなってしまうのか。それは、本人自身が習慣的・日常的にインプット/アウトプットしている事に拠る。

私達の肉は、霊的な喜びよりも、楽しい事・面白い事・興奮する事を求める。ゲームやギャンブル、酒など。
それらは努力無しに簡単に出来、ラクである。その間、現実から離れ、自分のみじめな有様を瞬間的に忘れる事が出来(箴言31:7)、また、酔いしれている感覚が忘れられないので、その瞬間を買うために自分を売り、家族を売り、破滅への一歩一歩をクリアしつつ暴走し、歯止めが効かなくなる。エリ一族はそうだった。
だから、罪が自分の中に場所取りしないよう、そしてそれが習慣化・常態化しないよう気をつけるべきだが、もし既に破滅への道が習慣化されてしまっているなら、そこから逃れる術もまた、習慣化によってである。
サムエルはなぜ、堕落した祭司達の家という、霊的劣悪な環境の中で健全に育ったか。それは彼は「主の前に仕えていた」からだ(2:11,18,3:1)。そして、母の愛情がひと織りひと織り籠もったエポデ(主の御前に仕える祭司の服)をいつも身にまとっていた。私達に歯止めが効かなくなった、習慣化されてしまった罪がある時、サムエルのように主に仕えるエポデを心に思いに身に纏い、そして聖なる交わりの中に身を置き、聖徒達の愛とを「身に纏う」事である。そして御言葉を昼も夜も口ずさみ、テフィリンを習慣化する事である。
罪が自分の中に場所取りする前に、聖なる場所に自分の身を置き、そして自分の中には聖なる御言葉をいっぱいに住まわせる。そうするなら、御言葉が私達の中で陣営を張り、罪が入ってくる事を防ぐのだ。
ユダヤ人の母は、子供が胎に宿った時から、御言葉を口ずさむ事で子供を霊的に守り、赤ちゃんが生まれ出た後も、ハトラーという御言葉の包の中に入れて、世から、サタンから守る。私達も同様に、御言葉で陣営を組んで自分を、子供を、自分の集団を、罪の習慣に染めてしまう世とサタンから守るのだ。御言葉を宣言する事で自分や子を、また仕事場を、御言葉へと浸し込み、世とサタンに勝利する者となり、世を健全な神の言葉へますます浸し込んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主を尊ぶ者は尊ばれ、軽んじる者は軽んじられる(1サムエル記2:30)
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 いよいよ今週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義が東京にて行われ、天声の働き人はその奉仕と学びに行く。サムエル記を学ぶ上で知っておくべき重要なキーワードが3つある。それらは、キリスト者が正しく人生を送って行く上でも重要な事柄である。今回、その3つのキーワードを学びたい。

1つ目のキーワードは「間(בֵּין:ベイン)に立つ」という言葉である。サムエル記には祭司、預言者、そして王が登場し、それぞれ活躍するが、彼らは皆、神と人の「間に立つ」ために神から任命された者達である。
預言者は神の言葉を人に届け、祭司は人々に代わって神に執り成し、王は神に代わって正当な統治を地上で行うという「役割」があり、それは、私達キリスト者の役割でもある。キリスト者は皆、王族の祭司とされ、闇から光へと招いて下さった方を伝える役割が与えられている事が書いてあるからだ。(1ペテロ2:9)
しかし、王や祭司、預言者という特権的な「地位」だけを求め、「役割」をないがしろにするなら、その者は神から地位を剥奪されてしまう事例もまたサムエル記に記されている。大祭司エリの息子・ホフニとピネハスは、祭司の務めをないがしろにし、その特権を乱用して神への捧げものを人々から横取りし、神に仕える女性に手を出して神を軽んじた。その結果、この一族は祭司職という地位を剥奪されてしまった。(2-4章)
また、サウル王は、イスラエルで最初の王として神から任命されたのに、神の代理として正当な支配をせず、神の言葉を退けたため、神は彼を王座から退けた。それでもまだ王座の「地位」に固執し、新たに王として任職されたダビデを殺そうと何年も追い回した結果、非常に悲惨な最後を遂げてしまった。(15-31章)
世の人は「地位」を求めるが、私達は神と人との間(ベイン)に立つ「役割」を忠実に果たすべきである。そのような人にこそ神はさらに「地位」与える。もし地位に固執し特権を乱用するなら、取り上げられてしまう。

二つ目のキーワードは「כָּבַד:カバド」である。「カバド」は良い意味で用いられる場合は「栄光を捧げる、あがめる、尊ぶ」だが、悪い用いられ方では、「頑な・強情になる、(罪や災いが)重くなる」の意味となる。
祭司エリは自分の息子達を重んじ(カバド)、主を軽んじた為、主から言われる。「わたしはわたしを尊ぶ者を尊び(カバド)、蔑む者は軽んじる(קָלַל:カラル)」(2:30)。これは、サムエル記の重要キーワードである。
エリは後に、神の箱が敵に奪われた事を聞いた時、倒れ、首を折って死んだ。体が重かった(カバァド)からだ(4:18)。その時、彼の嫁は「栄光は去った」と言って、生まれた子にイ・カボテ(栄光なし)と名付けた。
しかし神をカバドする事には大きな報いがある。『あなたの財産と、全ての産物の初なりをもって主をあがめよ(カバド)。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒槽は新しい酒であふれる。』(箴言3:10)
また、もし主の聖日に自分の楽しむ事をせず、この日を尊び(カバド)、口を慎むなら、その人は主の喜びに溢れ、良い地を受け継がせ、高い地位を乗り通らせて下さる事が約束されている。(イザヤ58:13-14)
結局、神をカバドせず、神を軽んじて、自分の欲望にカバドを置くなら、神から捨てられ(マアス)てしまう。

三つ目のキーワードは、その「捨てる(מָאַס:マアス)」である。イスラエルの王政は人々が神を退けて(マアス)、人間の王を欲しがった所から始まった(8:7)。神はそれ故、王の圧制のために苦しんだとしても助けない事を、予め警告したが(11-18)、それでも民は聞かなかった。それで彼らは、後に苦しむ事になる。
王となったサウルは、神から託された王権を正しく行使せず、神の命令を二度もマアスした(退けた)ので、ついに神から言わる。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てた(マアス)ので、主もまたあなたを捨て(マアス)て、王の位から退けられた。」(15:23) 御言葉に聞き従う事こそ、神に喜ばれる最良のいけにえなのだ。

結局、御言葉を捨てる人は、神から捨てられ、御言葉を重んじる(カバド)人は、神からカバドされる。
神に召された私達は、神と人との間(ベイン)に立ち、神から与えられた賜物に従って、その与えられた役割を忠実に行使して行くなら、神からさらにカバドされ、さらに多くの賜物が与えられ、地位が高くなり、さらに神の国の働き人として重要な事に用いられていく。神に召されて栄光の務めができる事を喜び、有益な者として神にますます用いられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!

キリストのいのちの特権にあって歩む道(コロサイ2:6-15)
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 先週、4名の兄弟姉妹が洗礼を受け、新たに神に繋がって生きる決心をした。神に正しい良心を願い求めて洗礼を受ける時、聖霊という全く新しいセンサーが与えられ、そのナビゲーションに従って行くなら、どんどんきよくなり、聖化が進み、いのちが増し加わり、永遠のいのちへ至って行く事を、先週学んだ。
イエス様がバプテスマを受けた時、天が開け、聖霊が鳩のように降り、「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と、天の父からの御声があった。私達もバプテスマを受けると、イエス様が先駆けて体験されたように、天が私達に向かって開け、賜物として聖霊を受け、神に愛される子となる特権にあずかるのである。

『このように、あなた方は主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて溢れるばかり感謝しなさい。』(6-7節) 
主にあって生きる時、彼に在るあらゆる良い性質や、いのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます自身の中に体現化されて行く。キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているからであり、信じる者は、全ての支配と権威のかしらであるキリストに満ち満ちているからだ(9-10節)。
実際、先週洗礼を受けた聖徒から、早速、喜びの報告を頂いた。ガンかもしれない、と医者から言われていたので、MRI検査をしたのだが、結果を見た医者があまりに怪訝に首を傾げていたので、心配して聞いてみた所、あったはずの兆候が、全然無くなっていた、という事だった。待ち時間の間、洗礼時にもらった十字架を握りしめて「(ガンは)ない、ない」と何度も宣言したら、その通りになり、同席していた未信者の方も「神様のお陰だね」と言っていたという。まさに主の栄光である。
そればかりでなく、この1週間で、友人からもらったお守りの腕輪が勝手に壊れたり、以前会った人を意識では忘れていても霊では覚えていたり、また、料理をつくる思いが与えられ、それに従った所、とても喜ばれたり。まさに、新しいナビゲーションが与えられ、新しいいのちが息吹かれた事を早速、体験したのだ。
このように、主キリストにあって歩もうと意識する時、いのちに属する、あらゆる良き特権に与かれるのだ。

『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』(11-12節)
バプテスマによってキリストと共に死んだ、と書いてある。別にバプテスマを受けた瞬間に心臓が停止して死んだ訳ではなく、肉体は継続して生きている。一体何が死んだのか。次のように書いてある。
『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである・・・このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。』(ロマ6:3,11)  ここにある通り、「罪に対して死んだ」のだ。
ただ先週学んだ通り、洗礼は「肉体の汚れ」を除くものではない。罪へ傾く「くせ」も、犯してきた罪々の記憶も、相変わらず脳に残ったままだ。そこで、私達の側の意思決定と、努力しなくてはならない領域がある。
『だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。』(ロマ6:12-14)
「もはや罪に支配される事はない」事を、体現したいだろうか?それなら書いてある通り、それまで「罪」の方向に自分を捧げていた方向性を、神へとささげる方向へと転換し、行動して行くのだ。その期間、その人は聖霊の支配下に入り、もはや罪の支配から抜け出した状態にある。その状態を、継続して行くのだ。

もし私達がキリストに従って歩み、キリストの死と復活の中に入っているなら、彼に在るあらゆる良い性質やいのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます体現化されて行く。その時、もはや世の支配も権威も、強制力も、全て武装解除され、さらしものとされている。なぜならその時、キリストの内にあり、私達を不利に責め立てている一切の債務証書は、十字架上に釘付けにされているからだ。(14-15節)
キリストにある私達の特権は、どんなに素晴らしいものだろう。これをますます実際に体現して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!

全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
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 本日、主の導きにより、洗礼を受ける恵みにあずかった聖徒達がいる。当教会は、洗礼準備会の学びを比較的入念に行うが、それは、花嫁は嫁ぐ前に相手を知る必要があるように、私達もバプテスマ(洗礼:浸しこむ意味)によって、「ひとつ」となっていく相手であるイエス・キリストを、よく知る必要があるからだ。
学びの中で、神について、罪について、人を罪と死に陥れた敵・サタンについて、そして罪と死とサタンから救って下さるイエス・キリストについて学び、さらには復活について、永遠について学び、そして、信じた人はいかに神を中心とした生活をして行くべきかなど、キリスト者としての歩みの基本をしっかりと学ぶ。
これはとても有益なひと時で、既に洗礼を受けられた方も多く参加して来られた。それは、私達とひとつとなられるお方イエス様を知れば知る程喜びが増し加わり、真理を知れば知る程自由にされていくからだ。

キリスト者の原則は、神が「おられる」事を信じ、救い主イエス様を主とし、彼と共に歩み続ける事である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
神の「有る」(「ハヤー」の一人称単数未完了)は、過去・今・未来を超越した、永遠の「有る」である。
その、神の圧倒的な「存在させる力」が、全ての存在を存続せしめ、全て命ある者を生かし、そして私達が「神の似姿」として考え、判断し、行動する者として、存続させている。イエス様は、ご自身について「わたしは有る(エゴ・エイミー)」と何度も言って、彼こそ、人を生かし、いのちを有らせる者である事を証された。 
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
この、キリストを信じた人達の群れが教会であり、教会の土台の岩は、イエス様を生ける神の御子と告白する所にある。陰府が戦いを挑んで来てもそれを打ち負かすのが教会であり、また教会には天の鍵が与えられており、二人でも三人でもイエス・キリストの名の元に集って、共に心合わせて祈るなら、その祈りは天において繋がれ、あるいは天において解かれるほどの権威があるのだ。(マタイ16:15-19, 18:18-20)
神を礼拝する事と、教会につながり続ける事は、信仰者にとって、パンを食べるごとく必要不可欠である。

洗礼によって肉体の汚れが取り除かれる訳ではない。洗礼を受ける事はゴールではなくスタートである。
洗礼を受けても、なおも苦々しい不義の絆に留まり続けたのが、魔術師シモンである。(使徒8:9-24)
また、イエス様の弟子となって、人々に洗礼をさずける立場にあったはずのイスカリオテのユダは、イエス様と3年半も一緒にいながら、心はずっと「世」に結ばれ続けた挙句、十字架の場面ではサタンへと心を結び付け、イエス様を売り渡してしまった。私達は洗礼を受けたからと言って、彼らのようになってはならない。
『この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い(エペロテーマ:問、訴え、誓い)求めることです。』(1ペテロ3:21新共同訳) つまり洗礼は、神に繋がり続けて行く事を決心し、良い心をもって神に向かって生き続けて行くと神と人との前で表明する事であり、その決心にあって生きる事の出発点である。
パウロも言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
だから、義人とは、洗礼を受けた者ではなく、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者だ。コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのまま固まって行くように、人も、日々摂り入れる言葉・心に巡らす言葉と行動によって、その方面へと固まって行く。
それ故、私達キリスト者は、神の言葉によって固められていくべきだ。それまで、いかに悪意ある言葉によって傷つけられ、自分の思考パターンや考え方がどうしようもなく暗くマイナスな方面へと固まってしまったとしても、人をいのちある存在とさせた、力ある神の言葉に浸され続けるなら、改善しないはずは無い。

バプテスマは、今まで造り上げられて固まってしまった古く罪深い人生を一旦終わらせ、イエス・キリスへの全く新しい「いのちの歩み」始めて行く事の決心である。この度、洗礼を受けられた皆さんも、既に受けられた皆さんも、共に集い、キリストにあって日々新しくされ、いのちに溢れて行く皆さんでありますように!

書かれている御言葉を超えない(第一コリント4:6)
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 前回の父の日礼拝では、多くの教会・多くの兄弟姉妹の霊的な父となったパウロをコリント書から見た。
今回コーエンで研究した聖書箇所もコリント書で、奇しくも前回メッセージした所がそのまま取り上げれた。
今、特に主が示しておられるコリント書から、本日も学びたい。

『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。』(1コリント4:6) すなわちパウロは、「書かれている事を越えない」という事を学ばせるため、また、一方にくみし他方に反対して高慢にさせないために、コリント書を書いたのだ。
「しるされている定め」とはすなわち「御言葉」である。言葉には、境界線を引く作用があるが、御言葉の境界の内側、すなわち、御言葉の防護壁の内側は、いのちの領域であり、外側は、死の領域である。
世では色々な戦いが繰り広げられているが、キリスト者の「霊的戦い」は、複雑怪奇なものではなくシンプルである。すなわち霊的戦いとは、自分がいかに御言葉の領域内に入るか、いかに人を御言葉の領域へ引き込むか、あるいは私達の家庭や仕事の「領域」を、いかに御言葉の中に入れて行くか、という点にある。
御言葉の領域内に入っているなら、シンプルに「勝ち」であり、御言葉の境界線を超えた「あちら側」にいるなら、シンプルに「負け」である。私達は人生の決定において、現在の生活や、仕事において、御言葉のこちら側にいるだろうか。あちら側にいるだろうか。その視点で見るなら、将来の勝ち負けが見えてくる。

本日箇所の、記されている定めを「越える」という語は、ヘブライ語ではפָּסַח(発音は”パサァハ(カ)”、日本語で”ペサハ”と表記される事が多い)である。これは特に、出エジプトにおける「過ぎ越し」で用いられる語であるが、原意は「跳ねる」で、スキップする、踊る、また”どっちつかず”の意味もある。過越祭が制定された出エジプト記12章に3回登場する語だが、面白い事に、1列王記18章にも2回出てくる。
『「あなたがたはいつまで二つのものの間に「迷っている(ペサハ)」のですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
これは預言者エリヤが、850人の偽りの神々の預言者と対決する時に放った言葉である。当時、エリヤは唯一、主の忠実なしもべとして立っていたが、全イスラエルがバアルという偽りの神につくか、それともまことの神につくかを迷って(ペサハ)いた。それはちょうど、御言葉という境界線を跨いで、ある時は御言葉を引用し、しかし結局は、世の価値観に媚びて動くような、「どっちつかず」の状態だ。
そのような人はいるだろうか。その人は、かの時代のような経験をする事になってしまう。すなわち、ずっと雨が降らず潤いが無いまま、アハブのような悪い指導者や、イゼベルのような悪い女の尻に敷かれ、その食卓からこぼれるパンくずをもらうために、へつらい、預言者を自称し、都合の良い言葉だけを言うような。
出エジプトのペサハ(過ぎ越し)の時、小羊の血が塗られた戸の内側にいた人達には、災いは及ばず守られた。しかし、外側にいた人達は、死の恐怖に脅かされた。同様に、御言葉の境界内にいるならいつも安全であるが、そこから外れれば、外れる程、いのちの保証から外れ、死の恐怖にいつも脅かされる。

イゼベルの食卓からこぼれるパンくずにあずかっていたバアルの預言者達は、バアルを呼んでも何も答えられなかったので、「ペサハした(踊った:26節)」。それでも何の答えもなく、エリヤにあざけられたので、今度は互いに刀で傷つけ合ってペサハした。850人が血を流して踊り狂う。中々の壮観だが、結局何も起きない。最後には、彼らの仕えてきた神が偽物で、主こそ神である事が明らかになり、彼らは殺されてしまう。
これが、主の過越(ペサハ)の血から勝手に出て、勝手なペサハをしている者の末路だ。彼らは互いに血を流し合って踊り狂うような虚しいペサハを演じても、何も起きず、最後には、偽物として滅ぼされてしまう。
「記録された御言葉」なるお方がおられる。彼は最高権威をもち、いのちの法則がある。しかし、記録された御言葉の枠組みから外れる者には、いのちの保証が無い。イエス・キリストの過越(ペサハ)の血から、のこのこ出て、世でパンくずを得るために、不当な者に媚びて、ペサハ(踊り狂う)するのは、遠回りの、疲れる道であり、行き着く先は死である。主イエス様のペサハ(過越)の血にしっかり留まり、いのちと祝福の保証を得ながら生きる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

私達エクレシアの霊の父となった使徒パウロ(第二コリント11章)
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 本日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。今回は、実の子がいないながらも、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの霊的な父となった使徒パウロから、父親像を見たい。

パウロはコリント教会を開拓し、彼らを救いへ導いた。しかしコリントの人達は、他から来た偽兄弟・偽教師に欺かれ、パウロはだめだとか、彼は教師として失格だとか噂を立てられ、彼は軽んじられたり、疎んじられたりして来た。それでも彼は父親として、コリントの兄弟姉妹を、息子や娘のようにいつも気遣っていた。
特に2-3節に、婚期を迎える娘を持つ父親のごとき彼の心情が、滲み出ている。彼は、コリントの聖徒達を、イエス様へ嫁がせる花嫁として捧げた、と言った。そんな彼にとって一番の心配事は、エバが蛇の悪巧みに誘惑されたように、彼らの思いが汚され、キリストへの純情と貞操とを失いはしまいか、という事だった。
親の、息子や娘への気苦労は絶えないものだ。そしてその子育てのわざは、とても尊い。子が母の胎から出て、産声を上げたその日から、20歳で成人するまでの日数は7300日である。その一日一日、父は子を養うために働きに出て行く。時に仕事が成功して喜んだり、あるいは失敗して、子の将来を不安がったり。
そのように、妻と共同で子を育てて行く。母もまた、律儀に朝、昼、夜と、子供が食べられるようにし、ちょっと顔色が悪いとすぐに気づいて、面倒をみる。そのうよな7300日を通して、子供は一人の成人へと育つ。

パウロはコリントの教会のみならず、彼が立てた他の教会達の霊的な息子・娘達を、毎日気遣って来た。
中には、悪魔に欺かれて去ってしまったり、パウロに牙を剥いて反抗されたりする苦しみ・悲しみもあった。
コリントの教会はパウロが開拓し、彼が建て、彼に養われた、というのに、偽教師に欺かれ、高慢になる聖徒達もいた。そのように誇り高ぶる彼らに、パウロは言う。『言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。』(11:21)
パウロは、何を誇ったのだろう。彼は最高の先生から師事を受け、パリサイ人として最高教育を受けた。
彼は多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救った。しかしパウロは、そうした実績も学歴も微塵も出さず、彼が誇りにしたのは、彼自身が受けてきた数々の迫害や困難、そして、コリントを含め、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ、祈ってきた事だった。
そして、パウロが断固として主張し、決して譲らなかった事は、自分はキリストのしもべである、という事だ。

彼は何度も鞭打たれた。石打に遭って死んだようになった事もあった。難船し、盗賊にあい、自然の驚異に晒されながらも、キリストを伝える事を止めなかった。永遠の命へ至らせる尊い福音を伝えない事が災いだからだ。そういう思いでようやく獲得した、コリントの兄弟姉妹達であり、そして、他の教会の聖徒達である。
素晴らしい親とは、出来る親というより、子のために多くの犠牲を払い、多くの労苦を払ってきた親である。
パウロは、福音を拒否され嘲られても、全然平気な、鉄の心を持っていたという訳ではない(28-29節)。
せっかくの福音を伝えても、救いが実らなかったり、あるいはせっかく救われたのに、悪霊や偽預言者に惑わされ、虚しい物事に心奪われ、永遠のいのちが実らなかったりする様を見る度、心が痛んだのである。
結局パウロが誇りとしたのは、自分の弱さだった。(30節) キリストの力は、人の弱さの内に、完全に働く。
自分の腕力や知力、鉄のような心を持っていれば、キリストが働く、というのではない。弱さの内に、だ。
それはこのミニストリーが、人の力によらず、キリストの力によって働いているのだという事を知らせるためだ。

親は今日も、働く。ごはんを作って、子供に食べさせる。子供が独り立ちするまで、一日も欠かさず。
それが親であり、パウロも、このような日々を走り抜いて来た。そして親は、いつまでもいるわけではない。
パウロは、福音ゆえに殉教し、天にのぼるその日、自分は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えたと堂々と宣言し、そして霊的な子に命じた。時が良くても悪くても御言葉を伝えなさい、と。(2テモテ4:1-8)
福音を届けるためにいつも旅をし、時に難船し、鞭に打たれたり、多くの兄弟姉妹のために心砕き、兄弟姉妹が悪魔サタンにとらわれないよう心遣い、眠れぬ夜を過ごし、そうした1日1日の積み重ねを立派にして来たのだ。親の1日1日の働きは、尊い。パウロには及ばないにしても、キリストの御前に誇り高く、御言葉によって子を気高く育て、信仰の競争を立派に走り抜き、かの日には、栄光の冠を立派に頂く。
そのような、素晴らしい父母となって行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

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