• カテゴリ 主日礼拝 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

人の思いを超えた神の最善なる介入(ローマ1:11-15)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる方法と、聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。今回、パウロがローマ書を記すきっかけとなった出来事と、背後で働く神のわざ、そして、私達は神が示される道にいかにに応じて行くべきかを見ていきたい。

『わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、「今まで妨げられてきた(εκωλυθενエコルセン)」。』(ローマ1:13)
パウロはずっとローマに行きたかったのに、妨げられていた。彼はなぜローマに行きたかったのか?
それは彼の宣教戦略が「都市宣教」だったからである。彼が宣教した都市(アテネ、コリント、エペソ、ピリピ等)は、その時代その地域の中心都市だった。そこが福音化されるなら、周辺に多大な影響を及ぼす。
ローマは当時の世界の中心であり、彼はそこを福音化し、彼自身の手で宣教センターを立てたかったのだが、どういうわけかパウロは、何度チャレンジしても、どうしても行く事が出来なかった。
「今なお妨げられている」のギリシア語「εκωλυθην(エコルセン)は、直接法アオリスト受動態が用いられており、幾度もチャレンジしたのに、鉄板のように妨げられ続け、今に至っている、という事を意味する。このように、自分がどうしてもある方向に行こうとしたのに、鉄板のように妨げられ続ける、という経験を私達もするが、神が敢えてそのようにしているからだ。ここで驚くかもしれない。パウロが世界の中心・ローマに福音を伝えに行くのは、御心でないのか?彼の戦略は理に適っているし、彼ほどの人がローマに行ったなら、どれほど多くの働きが出来るだろう?どう考えても「良い事」づくしなのに、どうして神はそれを阻むのか?
このような場合、今自分は神の意図に反した方向に動こうとしているのだと気づき、軌道修正すべきである。
このように、あからさまに神によって道を閉ざされる「神的受動態」により、神の御手の下で私達の人生は練られ、形造られて来たのであり、歴史が形造られて来たのだ。一つはっきりしている事は、もし神があの時、パウロをローマに簡単に行かせていたなら、ローマ人への手紙は存在せず、私達の聖書からは、ロマ書は抜けていた事だ。
そしてもう一つ、パウロが「行かなかった」事によって成った事がある。ローマ16章には、約50名ほどの人物の名前が記されており、そのメンバー一人一人に対してパウロは「よろしく」と挨拶を送っているが、このような素晴らしい働き人達が次々とローマ入りして教会を開拓し、彼らが教会を開拓する段階において、あるいは、教会を成長させる段階において、大きな労苦と共に犠牲を捧げ、素晴らしい信仰を、神と人との前に示し、そうして50人が、パウロ抜きでそれぞれが成長し、御業を為し、神に栄光を捧げていったのだ。

まずは16章1節、フィベという女性執事はパウロのみならず多くの人を援助し、そして彼女が多くの危険を冒してもパウロが書いたこの手紙をローマに、そして私達にも送り届けてくれた。その次に登場するのは、プリスキラとアクラ夫婦である。「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである・・・。また、彼らの家の教会にも、よろしく。」(16:4-5) この夫婦の「家」の教会は、彼らの天幕づくりの工場であり、当時ローマ軍団に年間1000の天幕を献上する工場であったため、かなり大きかったという。
その彼らは、神の働きのためにその工場を神の国のために捧げ、さらにはパウロに「自分の首をさえ差し出した」とまで評されている。彼らは教職者ではなく「平信徒」であるが、へたな教職者よりも遥かに大きな働きをしたため、2000年ほどの歴史があるコリントの教会には、今なおパピアス、アクラ、プリスキラ、フィベのイコンがあり、現代も、彼らの働きを覚えて掲げられているという。
この富んだ夫婦が、神によってパウロと「出会わせられた(神的受動態)」事により、彼らが神の働きに参加するようになり、パウロも多くの宣教の助けを得て、そうして世界に福音が広められている。

人の目には、今自分がしている働きも出会いも「たまたまそうなった」と映るかもしれない。ルツとボアズは「たまたま」会ったが、その出会いがダビデを生み、後のイスラエルと世界の歴史を動かした。クレネ人シモンも、たまたまイエス様の十字架の場面に会ったが、その出会いが後にローマ教会牧会者を生み、そしてコンスタンティヌス大帝を生み、ローマ帝国がキリスト教国家に変わる基礎をつくった。人の人生と人の歴史の一つ一つに神は「神的受動態」によって介在し、人はそれで御旨を実行し歴史を紡いで行くのである。

父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 ダビデ王は自分に反逆した彼の子アブシャロムが死んだ時、激しく悲しみ、自分が死ねばよかったのに、とまで言った。父は、不器用ながらも子を愛するものである。本日・父の日は、ダビデ王とアブシャロムの、ちぐはくな父子関係と、その悲しい結果から、親子関係の避けるべき事と健全な道を「逆説的に」学びたい。

発端となった事件は、アブシャロムの妹タマルが長兄アムノンによって暴行された事だった。彼女はその後、兄アブシャロムの家で寂しく住んだが、アムノンは責任を取らされたり懲らされたりされないままだった。
彼は王の長男という事で、何かしてしまっても大目に見られて来たようである。それが積み重なると、何をしても許されると思うようになり、妹に対する汚れた情欲さえ、制する事をしなくなってしまう。
ダビデも過去に「性的な罪」を犯した経験があるため、うまく戒められなかったかもしれないが、それならなおさら、経験者として強く戒めるべきだった。こうして問題が扱われないまま、2年の月日が過ぎていく。
アブシャロムは静かに復讐心を蓄え、ある日、事件を起こす。彼は周到な企てをもってアムノンを殺し、祖父の所へ逃げて行った。ダビデはそんなアブシャロムを、気にかけてはいたものの、放置してしまった。
父は確かに不器用な所もあるものだが、その放置した年月がさらに父の首根っこを掴んで行き、子供に対してさらに何も出来なくなり、そうしてさらに、その子と家庭全体を破滅的な方向へと導いて行く。
「放置」は積み重なると、良からぬものが沸々と育ち、やがて取り返しが付かない事になってしまう。『むちと戒めとは知恵を与える、わがまま(シャラーハ:放任する)にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴29:15)
将軍ヨアブは、この「放置状態」は良くないと感じ、一計を案じてダビデとアブシャロムを引き合わせようとしたが、どういうわけか、ダビデもヨアブもさらにアブシャロムを放置してしまう。親が子に明らかに戒めたり諭すべき時に、放置し続けるなら、子はどう出るか。子は親に、火をつける行為に出るのだ。(2サム14:30)
アブシャロムは言う。「今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください。 」(14:32) ここに息子・アブシャロムの本音と叫びがある。「放置」されるよりは罰されるほうがまだ楽なのだ。そうして、ようやく、父子の何年ぶりかの再会が実現するのだが、アブシャロムは父から、親らしい会話を何も引き出せなかった。妹がアムノンに陵辱されて感じて来た悔しさ、自分がしてしまった事の後ろめたさ、放置され続けた事の寂しさ、理解されない事の苦しさ・・・。
それを父に打ち明ける機会が無いまま再会は終わり、再び断絶されてしまった。アブシャロムはこれ以降、父ダビデに会う努力を一切しなくなり、その代わり、父ダビデに反逆しクーデターを起こす計画を入念に立て始める。子は、親への親密な交わりが絶望的だと分かると、ひたすら憎むべき相手として親を見るのだ。

ダビデは息子アブシャロムを愛していなかったのか?子を愛さない父はいない。ただ不器用だった故に息子を放置し、放置してしまった故に罪を犯させ、ついには、裁きが子に追いつき、失ってしまう事となる。
アブシャロムが父に反旗を翻した時、ダビデは何の抵抗もせず、逃げた。ダビデは圧倒的に不利でありながらも、息子アブシャロムには自分に免じて手心を加えてほしい、と、部下に願う。(2サムエル記18:5)
しかし戦いは、アブシャロムの呪われたような死、という形で決着がつく。ダビデは息子アブシャロムが無事かを案じ、無事であるという「吉報」が来るのは今か今か、と切望していた。あたかも放蕩息子の父が、息子が出て行った道を見ながら、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
しかし、ダビデの「放蕩息子」は、二度と帰らなかった。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(2サム18:33)
この悲痛な叫びは、悔い改めないまま「裁き」に追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神の嘆きでもある。アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、放置され続けた故、名前とは全くそぐわない子となってしまい、ついに、父に反逆する罪への裁きが、追いついてしまった。
親子関係で最もしてはならないのが、「放置」である。親も子も一家総出で次の御言葉を守り行うべきだ。
『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3:18-21)
家族が固い愛の絆で結ばれ、主にある喜びと笑いがいつも絶えない皆さんの家庭でありますように!

「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 ヘブライ言語はヨーロッパ言語のように、名詞や動詞に「性」の概念がある。創世記1:1-2の名詞や動詞を「性」という面から見ると、神と被造物との間が、男女の人格的なやりとりであるかのように見えてくる。
『はじめ(女)に神(男)は天(男)と地(女)とを創造(男)された。地(女)は形なく(男)、虚しく(男)なってしまい、闇(男)が淵(女)の面(男)にあり、神(男)の霊が水の面(男)を覆って(男)いた。』(創世記1:1-2)
このように「性」という面にスポットライトを当てると、この箇所は、ある男女が織りなすストーリーに見えてくる。
すなわち、ある男性が、ある女性を見初め、一つの家庭を構築しようとした。けれども女性は、別の男に破壊され、虚しくされ、闇の淵に落とされてしまった。それでもかの男性は、女性を覆っていた…というような。

聖書はまさに、そういう内容だ。人は本来、神と共に歩み、神の愛の交わりの中で、幸せに永遠に生きていくはずだったが、人はサタンにそそのかされ、神を裏切って虚しくなり、死の淵に落ち込んで、「呪い」と「滅び」という借金地獄に陥ってしまった。聖書の一つ一つの出来事の裏に、多くのうめきと悲しみがある。
裏切られてしまった「神(男性)」の側のうめき悲しみと、裏切ってしまった「人(女性)」の側のうめきが。
全被造物(女性)は、うめいている。全能の神(男性)によって、贖われる事を求めて。(ロマ8:19-23)
それで神は全ての人に「贖い(買い戻し)」の衣を広げ、今なお一人一人を贖い出そうとし続けておられる。
買い戻されて覆われる事こそ、全被造物の切実な願いである。ちょうどルツが、自分を買い戻す責任のある男性、ボアズに願い出たように。『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ガアル:家を絶やさない責任のある者)」です。』(ルツ3:9)

主はホセア書を通しても、裏切った女(イスラエル)に対するうめきを表現し、同時に「贖い」を宣言しておられる。主は預言者ホセアに、「姦淫の女をめとれ」と命じ、ホセアはその通りに実行するのだが、その女は、姦淫するために出て行ってしまった。夫に愛され、夫の子を産んでいるというのに。そこで主は言われる。
『「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこで私は銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。私は彼女に言った、「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。私もまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
律法に照らすなら死刑のはずの、姦淫で裏切った女に、やさしく声をかけ、買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。これはまさに、イエス様と私達の関係と全く同じだ。
ホセアとイエス様の名前は共に「救い」という意味であり、ホセアは全人類を買い戻すイエス様の雛形だ。
私達の主イエス様は、罪に裏切ってしまった私達人間にやさしく声をかけ、本来私達が受けるべき罪の刑罰を、十字架の上で、身代わりに受け、「神の子の命」という大きな代価をもって買い戻して下さった。
虚しくなってしまった全被造物を買い戻される、唯一のキーパーソンは、まことの光なるイエス様である。

創世記1:2において、虚しくなってしまった地(女)を、神は覆っておられたが、ある時、神は宣言される。
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を「見て」、「良し(トブ)」とされた。神はその光とやみとを分けられた。』(創世記1:3) 神はそれまで闇だった世界に光を宣言し、光を見て「よし」とされた。
神は創造のわざを進めて行かれる度に、それを見て「よし」と言われる。主の目に「よしとされる」事こそ、私達の目標だ。神が「ことば」によって創造された全ての御業は、全て「よし」である。いかに滅びの運命を背負ってしまっている人間でも、神と共に歩み、御言葉の通りに行って行くなら「よし」になって行くのだ。
神のご性質は光であって、闇ではない。神の御業は秩序であって、混沌ではない。神は人間と全被造物の秩序を回復させ、人が健全に住めるよう、丁寧に再構築して行く、というのが、全聖書の内容である。
そして聖書の最後・黙示録は、まことの花婿であるキリストと、その花嫁・教会との結婚で締めくくられ、神と人とが永遠に共に生きる事で終わっている。永遠のいのちは存在するし、永遠のさばきも存在する。
私達は、永遠のいのちに入るために、そして今生きているこの人生を、秩序と神の「よし」で満たすために、私達を命がけで愛して下さったイエス・キリストを愛し、彼の御言葉どおりに生きて行くべきだ。それこそ真に理に適った、永遠に至る充実した人生なのだから。その人生を歩んでいく皆さんでありますように!

召し出された人達を建て上げ成長させていく聖霊(使徒2:37-47)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、教会すなわち召し出された人達に、聖霊が降り、力を得た日である。
この日以前の弟子達は、大した働きが出来なかったが、この日以降、強力な力に満たされ、福音が全世界へ爆発的に広がって行った。聖霊を受ける事は、私達主の弟子達にとって決して欠かせない条件である。
教会は聖霊の働きによって始められ、そして聖霊は今日も働いておられる。今回、私達・教会が何によって建て上げられ、いかに聖霊に満たされ、福音を爆発的に広められるのかを、初代教会から学びたい。

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
ここに、初代教会が健全であった根拠が記されている。健全に建て上げられていくための第一条件は、まず、使徒たちの教えを堅く守る事である。使徒たちの教えとは、よく考え出された人間由来の考えや教えではなく「御言葉」であり、使徒達は御言葉を主から取り次いでいたのだ。教会とは、神の御言葉が宣言されるべき所であり、御言葉と聖霊によって生まれ変わった、聖なる共同体である。
聖徒は、働き人によって宣言される御言葉によって建て上げられていくものだ。人が普段の食べ物によって成長して行くように、キリスト者も、普段摂り入れる御言葉によって養われ、変えられ、成長していく。
御言葉を蓄え、固く立っているなら、どんな困難が来ても決して壊れず揺れ動かない。真理の御言葉は、ダイヤモンドよりも硬く、宇宙よりも永遠だからだ。また、御言葉は種のようなもので、生きており、それを人という土壌に植えるなら、必ずいのちが生え、正しく育てるなら、豊かに実を結ぶものである。(マルコ4:14)
聖霊の働きの中で最も重要な働きは、人を御言葉によって新しく造り替え、成熟させて行く事だ。そして御言葉と共に働く聖霊の力は、あらゆる暗闇の力を打ち破る唯一の攻撃の武器であるとエペソ6:17に記されている。御言葉と共に働く聖霊の力が強くなればなるほどに、いのちはどんどん増えて行くのだ。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(使徒6:7) この「非常にふえて行った(πληθύνω)」とは、魚の腹にぎっしり詰まった卵のように増殖する意味で、そのように聖徒の数は数多く増えて行くのだ。
正しく御言葉が入り、その信仰が成長するなら、いのちが莫大に増えていくのだ。

次に「共に交わり、パンを裂き」とある。教会とは、キリストを救い主として生まれ変わった、新しい命達である。赤ちゃんは産まれた時、自動的に家族の構成員となって、父母や祖父母、兄弟姉妹がこぞって彼の面倒を見るように、キリスト者も、イエス様を信じた瞬間、キリストにある御国の家族の構成員の一人となる。
御国の家族となったキリスト者は、共に御言葉のパンと、同じいのちを味わって行くものである。私達はそれを味わってこそ健全な歩みができるのだ。その為には、教会の集まりに「集まっている」事が必要である。
そのきよい交わりの中にいるなら、自然に健全な御言葉に親しみを覚えるようになり、成長して行くのだ。

次に、「祈りをしていた」と書いてある。初代教会の聖徒たちは、祈りの力を体験していた。祈りは神との会話であり、私達が神の御言葉によって祈るなら、神はそれに答えて下さる。『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』(使徒4:29)
彼らは祈り求めると、聖霊に満たされ、大胆に御言葉を伝え出した。初代教会の聖徒たちは、自分自身の必要を満たして下さいとか、人生が有意義になるために力をください、と祈ったのではない、神の御言葉を伝え、福音を伝えるために、力をください、と祈ったのだ。祈りは働きの難題に打ち勝つ神の武器である。
私達は御旨の成る事を祈り、そして御言葉の交わりをするなら、主から力を頂き、それは武器となっていく。

そうして初代教会は、神が与えて下さった伝道の使命を忠実に果たして行く。世の中では、人を集めるために労力やお金を払うものだが、御国は、こちらが労したり媚びたりして人を集めるのではない。こちらが真理によって養われ、魅力ある者になるなら、人々のほうから自然と集まってくる。そうするなら、厳格に律法を重んじていた祭司さえ、キリスト者になったのだ。
どうか皆さんという教会が、御言葉と祈りによって聖とされ、成熟したものとなって成長して行きますように!
 

主エホバの栄光を全地に満たすために(エゼキエル40:1-5)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 この日本という国は、世界的には富んだ国、力ある国として認知されているかもしれないが、福音という面では、全く貧しい弱小国である。1549年、フランシスコ・ザビエルによって初めてこの地に福音が入り、当時は多くの人々が福音を受け入れたが、時の指導者達は、主キリストにある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの血を流し、その後も、多くの罪を国の内外に対して犯し続けて来た。
そして未だに、この国が大規模に福音を受け入れたという歴史は無い。ちょうど、エゼキエル書37章のように、はるか昔に殺された人達の枯れ果てた骨々が、谷を埋め尽くしていたような状況である。果たして、はるか昔に殺されて干からびてしまった骨々は、生き返る事が出来るだろうか?主こそ、ご存知である!
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言った。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(37:4)
彼が干からびた骨に対し、主から命じられたとおりの御言葉を宣言すると、大きな変化が起きたように、私達も、御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。たとえ相手が、干からびた骨のような人でも。
散り散りになってしまっていた骨と骨が組み合わされ、筋が通り、肉が生じ、主の息吹にいぶかれて、大軍団となったように(37:10)、主はそれと同じ事をなさるお方であり、私達はそるなるよう宣言する事が出来る。
神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた。だから、それをするのは、私達である。
どのようにしてそれを行うべきか。続くエゼキエル書に、そのヒントがある。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
その時代はすなわち、ソロモンが建てたあの豪華絢爛な神殿が、バビロンによって破壊され尽くした後である。神殿が破壊されてしまったのは、イスラエルが代々犯して来た罪の故であり、そしてその罪のはびこりの原因は、御言葉の伝授が、すなわち、子供たちへのテフィリン教育が為されていなかったためだった。
しかし、バビロンによって神殿が破壊されてしまって14年の後、エゼキエルは主にとらえられ、非常に高い山の上に、人の手によらない神殿と都が建っている幻を見せられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い古した測りに、一手幅、加えられたものだ。
つまり、まことの神殿であるキリストを測る際は、人が使い古して来た基準や常識という測りで測ってはならない。まことの神殿をは、十字架のキリストの手が加えられた神の御言葉によってこそ、測るべきなのだ。

エゼキエルは、この手幅が加えられたはかりを用いて、神殿を測って行くと、さらに次々と示しや預言が与えられて行く。そしてその後、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた。
その水によってできた川は、測れば測るほど大きくなり、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行く。
この水が流れこむなら、死海でさえいのちが群がる所となり、そこの魚をとるために、漁師達が住んで、網を引く場所となる、と書いてある(47章)。
そしてその水はさらに流れて行って、やがては、水が海を覆うように全地に満ちる事になるだろう。
「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。」(ハバクク2:14)

エホバの栄光を知る「知識」によって、全地は満たされる。地の果てに至るまで。それをするのは、人の教えに教えられた者ではない。十字架のキリストの手が加えられた御言葉によって養われた人こそ、神殿を正しく測ることができる。彼らこそ、正しい「はかり」を得た人であり、彼らによって、それが可能なのだ。
イエス様は言った。全世界に出ていきなさい、と。イエス様は既に、天においても地においても、いっさいの権威が既に与えられた。もし流し出さないで留まっているなら、水は良くならず、塩のまま残ってしまう、とも書いてある(エゼキエル47:11)。だから、イエス様の権威を身に帯びて、全世界に出ていき福音を伝えるべきだ。多くのいのちを、死から救い出すために。
どんどん、まことの神殿であるキリストを計って、どんどん流し出し、海が水で覆うように、主エホバの栄光を地の隅々にまで至らせる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

母の日礼拝 - 「あなたの父母を敬え」(エペソ6:1-4)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は母の日である。母は子供を身ごもると、10月と10日、その子と命を共有し、そして命を世へと送り出す。産んだ後もその子を徹底的に愛し、守り慈しむ。そのように日毎働いている母に感謝する日である。
母からの影響は絶大である。ユダヤの法では、母がユダヤ人であるなら、父が異邦人であっても、子はユダヤ人とみなされる。箴言に書いてある。
『わが子よ。あなたの父の「訓戒(מוּסָר ムーサー)」に聞き従え。あなたの母の「教え(תּוֹרָה トーラー)」を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。』(箴言1:8-9)
ここに父と母の、子に対しての役割が示されている。父が子与える訓戒「ムーサー」は、英語ではインストラクション、規律正しくなるよう教え、補正し、叱責したり、懲罰する事も意味する。それに対し、母が子に与える「トーラー」は英語でLaw、すなわち法規であり、律法であり、特にモーセ五書を言う。
ユダヤでは父からも母からも御言葉を暗記するテフィリン教育が為されるが、特に母からの影響は大きい。
以前学んだように、ユダヤ人のトーラー教育は、子が母の胎に宿った時から、既に始まっている。胎教という概念が最近もてはやされ、一定の効果がある事は分かっているが、ユダヤでは昔から既に存在している。
母は胎に宿った子に、午前・午後・夜の合計3時間以上、トーラーを胎の子に聞かせる。こうして胎児は、トーラーを宣言する穏やかな母胎で育まれ、生まれる前から、御言葉に対する耳が開かれているのだ。

聖書には、親子関係についての教えが色々な箇所にあるが、どこも一貫して、子は、父母を敬い従うようにと教えている。それを守るなら、祝福がある。この、聖書が教える親子関係の在り方をおさらいしたい。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。』(エペソ6:1)
ここで大事な事は「主にあって」両親に従う事だ(マタイ10:37)。権威には順序がある。親子関係で忘れてはならない事は、権威の第一は私達の主である事だ。もし両親が、主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心を持ちつつ、御言葉から諭すのだ。もし父母が、神を敬う、御言葉で教育する幸いな親なら、服従すべきである。そうするなら約束通り幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
律法においては、両親に逆らう事への罰は大きい。父母をのろう者は、死ななければならない、とまで言われている。(レビ記20:9、申命記21:18-21) なぜならイスラエルでは、父母は御言葉を子々孫々に伝える立場にあるため、子にとって、父母は神の預言者であり、神の権威を代理で行使する立場だからである。

『あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。この、最も身近な権威である父母に従うなら、目に見えない神との正しい関係も、容易に構築しやすい。しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が難しいなら、ましてや、この世の社会や、国家、そして目に見えない神に服す事は、どんなに難しいだろう。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」という祝福の約束が伴ったものである。
『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。』(申命記5:16)
『イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。』(同6:3) このように、父母に従い、御言葉に従う者には、素晴らしい土地で幸せに栄え、長寿を全う出来るという祝福が約束されている。
それに引き換え、父母のおしえに反した者達はどうだったか。サムソンは父母の忠告に聞かず、美しい異邦の女に夢中になり、異邦の神殿で異邦の民と共に下敷きになって死んだ。アブシャロムははどうだったか。彼は長年の周到な計画をもって父ダビデ王に反逆し、父の寝床に上って気勢を上げたが、その栄えはわずかだった。彼は父の部隊と戦っている時、髪が木に引っかかり、乗っている騾馬に置いて行かれて宙吊りになっている所を、寄ってたかって槍で刺し貫かれ、神と人との前に呪われた者とされてしまった。
今日は母の日、親を敬う事を行いで示す、祝福のチャンスの日である。父母を敬い、この地で素晴らしい土地を得、幸せに栄え、長寿を全うする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ジェホバ・ニシ:主はわが旗 (詩篇23:4)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇には代表的な主の8つの御名のご性質が練り込められている。今回は詩篇23:4に込められた御名「ジェホバ・ニシ」について見たい。なお、主の御名「ジェホバ」を「アドナイ」「ヤーウェ」と訳す事もあるが、いずれも同じ意味である。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4)
この言葉は、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。ジェホバ・ニシという主の御名が登場するのは、出エジプト記17:15である。そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時である。
アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。
わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄でできたものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。モーセは、祈りの重要性をよく認識していたのだ。
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11) 背後で祝福の手を上げて祈るその手が、戦いを左右した。祝福の手を挙げる事は、どれほど重要だろう。
アロンとフルはその重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えたので、彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
ヨシュアは丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来ただろう。後にヨシュアが指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、ずっと槍をその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュ8:26)。また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めてしまった。(10:12)
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。
ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8) 『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)
主こそ、羊飼いである。私達が死の陰の谷を歩く事があっても、主のむちとつえが導くなら、恐れる事は無い。あの方は私達を宴の席へと伴われ、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛だから。(雅歌2:4)
モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。このように、それぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く皆さんでありますように!

羊飼いキリストに養われ、羊飼いになって行く私達(ヨハネ21:15-25)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 イエス様の弟子達は、イエス様の復活後も、何度も不信仰な言動を繰り返した。復活の主と出会った女達の言葉を信じなかったし、トマスも、自分は絶対に信じない、イエス様が刺し貫かれた釘のところに指を入れてみなければ、とまで言った。そんな頑なな彼らに、イエス様は直接現れ、「平安あれ(シャローム)」と言って聖霊の息をふきかけて下さった。トマスにも「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それでもなお、今まで通りして来た自分へと後退してしまうペテロやトマス達だった。主のしもべは、御旨でない事を続けるなら、ただ「虚しい奇跡」しか起きない。イエス様から召し出された働きとは逆方向に行き続けるなら、何も獲れず、ただ虚しく、飢え渇き、疲れ果てるだけだ、という事を徹底的に思い知る他ない。
しかし御言葉に素直に従う時、豊かな、実りある奇跡が起きる。彼らが主の言葉通り行うと大漁を得た。
イエス様は、彼らが少しでも従順を示した「ごほうび」として、炭火焼きのパンと魚を用意し、待っておられた。
『彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。』 イエス様は、バックスライドしようとしたペテロに、「わたしを愛する(アガパオー)か?」と聞かれたが、ペテロは、アガパオー(完全に愛し尽くす愛)では答えられなかった。
私達には完全な愛は、元々、無かったのだ。そこでペテロは答える。『主よ、そうです。わたしがあなたを「愛する:フィレオー(好きである、慕っている)」ことは、あなたがご存じです。』ペテロは、自分には完全に愛し尽くす愛は無い、相応しい者ではない、それでもあなたを慕っています、好きです、と答えたのだ。
イエス様は言われる。『わたしの小羊を養いなさい。』 イエス様の羊を養う上で、強靭な意志や失敗しなかった事の積み重ねよりも、遥かに重要なp事がある。それは、イエス様を慕う心、イエス様が好きだ、という心であり、その心を持ち続けて行くなら、知らず知らずのうちに、そうしたものが身について行くのだ。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(フィレオー)か』 ペテロはイエス様が3度目、アガパオーではなくフィレオーで聞いて来られた事で、心が刺された。イエス様に従い切れなかった自分。そんな自分に、イエス様の側から降りてきて下さった。大人が子供の目線に降りて来るように。

イエス様の羊を養う事を「牧会」という。ダビデは牧会の極意を詩篇23篇3節に凝縮した。『主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。』牧会とは、たましいを生き返らせる事だ。
世において挫折し、涙し、問題の渦中にあり、重い荷を負っている人々を、イエス様のように、同じ目線に降って来て、忍耐深く何度も面倒を見(care)、癒やす(cure)働きだ。牧会はラテン語で、CURAと言う。
CURAは、CURE + CARE、C=C+C である。これが牧会の極意であると、カン・シンゴン博士は言っていた。
牧会とは、まず魂を生き返らせる事。しかし、癒やしたらそこで終わりではない。最後まで面倒を見るのだ。イエス様は弟子達に徹底して「牧会」を示された。頑として信じる事のできないトマス、何度も後退してしまうペテロ、彼らに傷んだ葦を折る事なく、くすぶる灯芯を消す事のない柔和さをもって、何度も、何度も現れ、そしてイエス様を慕う心が起こされた時、「わたしの羊を養いなさい」と、牧会者の召命を与えられた。
いつまでも「羊」であってはならない。イエス様に癒され、養われたなら、今度は自分が同じ事をする番だ。
『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
イエス様の羊が、どんなに小さくても、たとえ1匹であっても、羊を養う人は、自分の帯は脱ぎ捨て、聖霊の帯に縛られ、聖霊が促される所へと導かれて行くものである。パウロは聖霊に縛られて進んで行った。
ペテロも最後、ローマで迫害されている聖徒達を励ますために自らローマへ進み出て、捕らえられて怯えている聖徒達を励ましながら、逆十字架刑で殉教した。ペテロは最初から大使徒だったのではない。どうしてそこまでの大使徒になれたのか。それは、彼がイエス様を慕っていたから。ただそれだけだ。
彼は失敗する度に、イエス様に探しだされ、肩に背負われ、戻され、ケアされ、癒されて来た。私達もイエス様に従って行き、養われ続けるなら、やがて彼の羊を飼う者となり、その毎日を繰り返して行く内に、使徒ペテロのようになって行く。イエス様こそ、まことの羊飼い。ジェホバ・ロフェ、彼は癒やし主。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。主のこの言葉に従って、イエス様の道に歩んでいく皆さんでありますように!

愛の帯で捕らえて下さるイエス様(ヨハネ21:1-14)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 私達の主イエス様は、死に勝利し復活された。弟子達は、主が3日目によみがえる事を信じる事ができなかったし、忘れていてしまった。復活した後も、復活の主と出会った女達の言葉を信じなかった。そんな彼らにイエス様は直接現れ、「平安あれ(ヘ:シャローム)」と言って、聖霊の息をふきかけて下さった。
その上でもなお、後退してしまう弟子達の様子が本日の箇所に記されている。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。』
ペテロは漁に「行く」と言ったが、その原語は「フパゴー」、戻る、離脱する、retire、depart,等の意味もある。
彼はせっかくイエス様から聖霊を受け、働き人としての任命を受けたのに、そこから離れ、以前の仕事である「漁」に戻る、と、他の弟子達に告げ、そして他の弟子達も彼に追随したのだ。しかし、何も獲れない。
ペテロは漁師としての経験から「夜」に行ったのに、一匹も獲れなかった。プロが自分の経験と技量を駆使して、何も出来ないのもまた、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願う方向性で起きるとは限らない。自分が願った事の真逆方向に続く奇跡もある。
このような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは逆方向を願って進んで行く場合に、よく起きてしまうものだ。
それでもギブアップせず、なおも主の御旨でない方向に突き進んで行くなら、もっと何も獲れず、空腹で疲れて果てて行く泥沼にはまり込んでしまう。イエス様は、そんな泥沼の中で奮闘している者に、優しく現れて下さった。夜が明けた頃、イエス様は岸辺に立たれた。しかし弟子達はそれがイエス様だとわからない。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(5節)
原文では、ここのイエス様の問いかけは「**が無いのだろう?」と、「無い」事前提の問いをしている。
弟子達は「無い」と答えるしか無かった。それはそうだ。なにしろ、魚も湖も全主権をもって支配しておられるのはイエス様であり、彼の御旨でない「網投げ」に対しては100%何も獲れないという奇跡で答えられる。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(6節)
彼らは、お言葉どおり従ったら、逆転の奇跡が起きた。それもそうなのだ。主のしもべという者は、御旨でない事を続けるならただ「虚しい奇跡」しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きるのだ。
ヨハネは、そのイエス様のご性質を思い出し、『ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ(直訳:自らを海に投げた)。』(7節)
ペテロは、裸だった。せっかくイエス様が、人間をとる漁師という「使命の衣」を着させ、「聖霊の帯」で結びつけて下さったのに(20章)、それを脱ぎ捨て、「魚をとる漁師」という以前の自分に戻り、他の弟子達をも世の仕事に導き、世の苦労をさせ、裸で自分の意見に従わせ、ただ疲れ果てるだけで、何も取れない。
もし私達も、イエス様から与えられた聖霊の帯を自ら解いて裸で立ち振る舞っていたと気づいたなら、ペテロのように再び纏って、古い自分を水の中へと投げ込んで、イエス様のほうへと泳いで行くのみである。

『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」』(9-10) これがイエス様の麗しい性質である。
彼は、くすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、強制力によって人を支配するのでなく、愛、憐れみ、赦しによって、優雅に、美しく、柔和に、頑なな人の心を溶かし、群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、ペテロを変えて行く。ペテロは生涯の最後、迫害されている聖徒達を励ますために、ローマの牢獄へと進み出て、捕らえられている聖徒達を励ましつつ、逆十字架刑で殉教したと言われている。
その殉教の直前に書かれたのが、ペテロの手紙である。彼は書いている。
『あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』(1ペテロ5:2-4) 以前は全く御言葉を信ぜず、従えず、幾度も失敗したペテロが、徹底的なキリストの愛によって造り変えられ、群れの模範となり、大使徒となった。
ペテロのようにイエス様の愛のご性質に浸し込まれ、ますます造り変えられて行く皆さんでありますように!

死を打ち破り、永遠に生きる、われらの主(マタイ28:1-15)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を喜び記念する日である。私達には死というものがあり、それに縛られているが、それは私達の主イエス様によって打ち破られる。イエス様が再び来られる時、最後の敵である死も滅ぼされる(1コリ15:26)。本日は死に勝利しよみがえられたイエス様の喜びを分かちたい。

「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」
彼女達が墓に行った理由は、イエス様のよみがえりを真っ先に見たいからではなく、イエス様の遺体に防腐措置を施すためだった。祭司長達はイエス様が「よみがえる」と言っていた事を思い出し、番兵を遣わしたが、それは、生き返ったイエス様を再び殺すためではなく、遺体が盗まれないようにするためだった。
イエス様自身はあらかじめ、死とよみがえりを伝えていたけれど、誰一人、信じ続けた人はいなかった。イエス様は十字架上で息をひきとり、槍で突かれても何の反応もなく、完全に死体となって葬られたからだ。
しかし、である。安息日が終わった日曜日の明け方、大きな地震が起こり、主の使いが下って来て、墓を塞いでいた石をわきへころがし、その上に座った。『その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。』
この番兵達は、弟子達が「復活した」という”嘘”を広めないようにするために配置されたはずが、彼らは逆に、イエス様の”復活の真実”の目撃者となった。全て、逆効果になるのだ。イエス様に、いのちに、真理に敵対する全てのたくらみは。イエス様にあって、死はいのちに飲まれ、偽りは真理へ塗り替えられるのだ。
『この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。』 この「恐れるな」という言葉は、主を信じる私達にもかけてもらえる、希望の言葉である。番兵達は倒れて死人のようになったのに、彼女達はそうならなかったのは、彼女達が番兵より屈強だという事ではない。どんな屈強な者も、権威ある者も、栄光の主の前に立てる者はいない。ただ、主を愛し、慕い求める者達をこそ、主は愛し、好意を注ぎ、守られるのだ。
「もうここにはおられない。かねて言われた通りに、よみがえられたのである。」 イエス様は「死」に納まっているお方ではなく、死を打ち破り、永遠に生きるお方である。イエス様を信じる人も皆、死んでも生きるのだ。
御使いは彼女達に、弟子達にこの事を伝えなさい、と言った。弟子達はイエス様を見捨てて逃げてしまったが、主はそんな弱い彼らをも、全世界に、主の復活を証する証人として、召し出して下さるのだ。
彼女達は恐ろしくはあったけど喜んで行った。主の働き人は、恐ろしくはあっても喜ばしい大いなる体験をするものだ。信じられない程偉大なお方から、目を留められ、気にかけているためだ。
「すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われた」 今度はイエス様が直接、彼女達に現れて下さった。彼女達は、主が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行く道も泣きながらついて来たし、イエス様が死んで、葬られて、もう希望が無いと思っても、それでも夜が明ける前からイエス様の所に来た。
そういう人こそ、主が直接会って下さり、声をかけて下さるのだ。主の好意を得られる人とは、主の言葉を100%信じ切れなくても、弱くても、それでも「主を慕う人」である。しかし、主が王である事を頑固に拒否し、自分が王であろうとし続ける者は、やがて、主が栄光の内に来られる時、山や岩に向かって「私たちの上に倒れて、かくまってくれ」と言うようになる。(ルカ23:30、黙6:16)

さて、番兵達は一切の出来事を祭司長達に話した。すると彼らは集まって協議をこらし、彼らに沢山の金を与え、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。」と言った。
祭司長達は番兵達の言葉を、信じたのだ。そうでないなら、弟子達が女達の言葉を「戯れ言」と思って取り合わなかったように、兵士達の言葉を取り合わなかっただろう。しかし彼らは大金を積んで口を封じたのだ。
イエス様の十字架と復活が目の前の置かれる時、二通りの道が分かれる。イエス様の復活を、権威や金で揉み消そうとする側と、イエス様の復活を喜んで受け入れ、イエス様と共に永遠のいのちを受ける側と。
人がいかにイエス様の復活をもみ消そうとしても、また、いのちを抹殺しようとしても、いのちが勝利する。
私達は、主イエス様にあって、死は問題ではなくなる。なぜなら、私達の主イエス様が死に勝利したから。
そしてやがて、最後の敵である「死」は滅ぼされ、死とハデスとは永遠の火へ投げ込まれる。しかし、嘘や不正という「死」と同盟を結んで(イザヤ28:14-19)、王の王である主イエスを拒否する者は、やがて、その死もろとも永遠の火へと投げ込まれる。私達は復活の主を期待し待ち望みつつ、この世を歩む者でありたい。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest