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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

ベエル・シェバを得る人に欠かせない大事な事(創世記22:1-19)

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 この新年が、信仰者にとって大いに祝福の年となりますよう、主イエスキリストの御名によって祝福します!

昨年に続き、今年も「ベエル・シェバ」を得て、そこで豊かな祝福を得る事が示されていた。ベエル・シェバとは、信仰の父アブラハムが井戸を掘り、ぎょうりゅうの木を植えて開拓した地で、敵が入り込んで来る事なく安心して産んで増て行ける地であるが、金曜の礼拝でさらに大事な事を発見したので、分かち合いたい。



年末の主日は創世記21:33から、アブラハムがぎょりゅうの木を植え、そこに礼拝の場を構築した箇所より、ベエル・シェバを得る方法・そこを管理する方法を学んだ。ベエル・シェバのキーワードが次に登場する所は22:19であるが、この、ベエル・シェバのキーワードでサンドイッチされた箇所に、全ての信仰者にとって最重要とも言える場面が挿入されている。すなわち、アブラハムが最愛の子イサクを捧げる場面である。

主は、アブラハムが100歳にしてようやく生まれた子、神が約束しておられた子を、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と言われた。神は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのに、なぜ、そのイサクを殺すような事を、アブラハムに言われたのか。矛盾している、と思われがちだが、彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:17-19)

このテストを彼がクリヤした結果、神は「誓って」、アブラハムとその子孫の祝福を約束する(17-18節)。

神が誓われた祝福の内訳は、4つあり、まずは 崑腓い暴吠,垢襦淵丱薀の反復による強調)」事。

バラクの原意は「ひざをかがめる」で、神ご自身が、あたかも親が子にひざをついてあらゆる便宜を図るように、あらゆる便宜を図ってくださる事である。次に◆崑腓い忙丗垢鯀やす」事で、それも、天の星のよう、海辺の砂のように増し加えるのである。信仰の子達は、天の星のように輝き(ピリピ2:15)、肉の子も、海の砂のように大いに増えていくのだ。さらに、子孫(単数形)は、敵の門を打ち取り、っ呂里發蹐發蹐旅駝韻蓮▲▲屮薀魯爐了丗后蔽運堯砲砲茲辰董⊇吠,鯑世襪箸いΔ里澄これが、最愛の子イサクを捧げた事による祝福であり、こうして彼はその後、あらゆる面で祝福された(創世記24:1)。

神は、ケチなお方ではない。一度捧げたら、本人の手元には何も残らないまま、というような事は、決してなさらない。天地の全てのものは、神のもので、神は太っ腹にじゃんじゃん与える事の出来るお方である。



聖書全体は、神の全人類・全被造物を救うための計画書でもある。全人類は元来、神の似姿として、神に祝福(バラク)され、生んで増えて地に満ち、地を支配しつつ、神と共に永遠を生きるものだった。しかし、敵であるサタンがそれを台無しにしてしまった。そこで神は、一人の人アブラハムを召し出し、彼が信仰によって、その子を捧げるようにし、そして、捧げられた子よって、この世に救いをもたらす土台を得たのだ。

人が神に何かを捧げるなら、神は、その捧げものを通して、この世界に介入し、御業を働かせる「取っ掛かり」を得られる。その実例として、少年がわずかなお弁当をイエス様に捧げた結果、イエス様はそのお弁当を通して5千人以上を満腹させたし、ハンナは、自分に生まれてくる子を捧げた結果、その子は偉大な預言者・キングメーカーである、サムエルとなった。さらにハンナは祝福され、多くの子達も与えられた。

アブラハムの場合も、彼がイサクを捧げた事により、神はイサクから生まれる子孫を通して、全人類・全被造物を贖う「とっかかり」を得たのだ。それでアブラハムの子孫(単数形)を通し、全人類は贖われ救われる。

この単数形の子孫が、イエス・キリストである。彼こそ、アブラハム対する約束の通り、全人類の敵・サタンの門を打ち破り()、囚われている人々を開放させ、全民族・全国民は彼によって祝福される()。信仰者は夜空の星々のように輝き()、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者は、大いに祝福されるのだ。()

「ベエル・シェバ」は、サンドイッチ型キアズム構造の「パン」にあたり、イサクを捧げる出来事が「中身」として挟まっている。この構造で大事なのは「中身」であり、すなわち、ベエル・シェバを得る人にとって決して欠かせない事は「主に捧げる事」である。いかに自分にとって最愛のものであっても、また、たとえ神様がようやく与えて下さった、最も大事なものであっても、それは、主に捧げられたものとすべきだ、という事である。

それをするなら、主はその「捧げもの」に機会を得、世に介入し、御業を為し、暗闇の世界をひっくり返して祝福に輝く世界へ造り変える事が出来る、のみならず、その捧げた本人自身も、大いに祝福されるのだ。

この新年、ベエル・シェバをわがものとし、与えられた全ては、主に捧げ、そうして、主の御業をこの世に運び込み、自身も大いに祝福される皆さんでありますように! イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
十字架にかかるために赤ちゃんとなって来られたイエス(ルカ2:1-14)
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 あと数日でクリスマス、イエス様の誕生を祝う日となる。イエス様は万物を創られる前より、神の御子として存在しておられたが、なぜわざわざ人の赤ちゃんとして来られたのか。その「基本」を改めて思い返したい。

イエス様がお生まれになった時、ちょうど皇帝が住民登録をせよという勅令を出した時で、普段は人がいない田舎のベツレヘムも、この時は混雑状態となり、ヨセフとマリヤが泊まれる部屋は、無かった。マリヤ達は祈ったかもしれない。あなたが約束された尊い子がもう生まれそうです、宿をあけて下さい、と。しかしそのようにはならなかった。『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
父なる神様は当然、快適な所で御子を産まれさせる事は出来た。しかし敢えてそうはされなかった。
神の御子が、あたかも人の間から締め出されるかのようにして、飼葉おけ(餌箱)の中に布にくるまれ、宿られたのは、しるし(セメイオン)のためと書いてある。『あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるし(セメイオン)である」。』(12節)
セメイオンとは、神的な意味が付与された奇跡を意味する。ただの「奇跡」は、単に人がびっくりするだけで信仰には繋がらない。しかし「しるし(セメイオン)」は、人が神へと繋がる信仰を起こすものである。
では、この「布にくるまれた赤ちゃん」というしるしには、どのような神の意図があるのか。

当時のユダヤの野では、家畜は、岩山の洞窟などで飼っていた。だからイエス様がお生まれになったのは、岩の洞窟の中であった可能性が高い。「飼い葉桶」と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする木箱の飼葉桶ではなく、岩に穿った凹みに、家畜などの獣の餌を入れるものである。想像して欲しい。洞窟の中に、布でくるまれ、岩の床に寝かされている・・・その姿はまさに、埋葬されたイエス様の姿と重なる。
御使いは、羊飼い達に「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子が、あなた方のためのしるし」と言ったが、その有様は、まさに死んで葬られるキリストのしるしであり、それは全ての人々・・・博士達のような異邦人でも、羊飼いのような卑しい人であったとしても、全ての人々の身代わりに死んで下さる「救いのしるし」であり、どんな獣のような人であっても、彼のいのちにあずかれるように、飼い葉桶へ宿られたのだ。

万物は御子キリストにあって創られ、彼にあって万物が成っているのに、彼は何故、この人間世界に、貧しい夫婦の赤ちゃんとして降りて来られ、岩窟に寝かされたのか。それはこの上ない愛が全うされるためだ。
『神はそのひとり子を賜わった程に、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16) 父なる神が御子を世に遣わされた理由、それは圧倒的な愛と憐れみ故である。神は人を愛し、一人も滅びる事を望んでおられないため、全人類(わたし)の罪を、独り子である彼に負わせ、処罰し、彼を信じる人が罪に定められる事がなく、永遠の天国で生きるためだ。
『神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私達を生きるようにして下さった。それによって、私達に対する神の愛が明らかにされたのである。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。』(1ヨハネ4:9-10)
私達・人間を救いたい、というその激情の愛がイエス様を動かし、栄光の神の御座を降りてあの貧しい所の赤ちゃんとなり、ご自身のいのちを投げ出させたのである。それで彼を信じる人は、アダム以来の死と呪いから開放され、神の子としての特権をいただき、永遠のいのちを得、永遠の天国に入る特権を得るのだ。

イエス様が赤ちゃんとなってこの世に来られたのは、愛のゆえ・・・そして十字架で死ぬため。その大きな愛が、見える形となって、赤ちゃんとしてこの世に結実した故に、御使い達は、大いに喜び、ほめ讃えた。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(14節)
彼の身代わりの死は、私達が代わりに生きるため。その救いにあずかった私達もほめ讃え、賛美するのだ。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい。」(黙5:12)
赤ちゃんとなって生まれたイエス様は、十字架への道を歩み出される。その小さな手の中に、全ての人の罪と呪いを、一手に握りしめて。この御方を喜び讃えつつ、クリスマスを迎える皆さんでありますように!

主日礼拝
エッサイの根から流れ出て来る聖霊の油(イザヤ11:1-5)
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 私達も乙女マリヤのように、聖霊によってイエス様を内に宿し、そして彼が私達の内で素晴らしい働きをして下さる事を、この待降節の時、学んでいる。エッサイの根から出た新芽・イエス様に接ぎ木された私達へと流れてくる聖霊の油は、どのような作用を及ぼし、広がって行くのかを、今回もイザヤ書から学びたい。

イエス様はナザレ人と呼ばれているが、エッサイの「根株」と訳されたヘブライ語「ネツァル」は、切り倒された切株から出てきた新芽を意味する。それは太い根が吸い上げる養分を一身に受け、元を上回る大木へ成長して行く力を内在している。ダビデ王家は、代を下るごとに悪くなって行ったが、エッサイの根株から出たネツァル・イエス様の王国はそれとは違い、純粋で清い枝が、前を遥かに凌ぐ勢いで広がって行く。
現代の私達もそこに接ぎ木され、その豊かな恩恵にあずかって、愛、喜び、平安に溢れる、新しいいのちがみなぎって行く。大祭司キリストに注がれた聖霊の油が、その頭から肢体へと流れていくごとくに、彼に接ぎ木されてその交わりへと入った私達にも、流れ滴って来るのだ。(詩篇133篇)
キリスト者が悪霊や病を追い出すのも祝福するのも、「イエスの名によって」だが、それはイエス様の御名を信じる私達に、彼に注がれた聖霊の油が流れ滴って来るからで、決してキリスト抜きにできる事ではない。
イエス様に接ぎ木された人は、知恵と悟りの霊、思慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が流れて来る(2節)。そして、主を恐れる事を喜びとし、目や耳で判断せず主の霊によって物事を見抜くため、人間関係や、ビジネスにおいて、正しい判断が出来るようになり、人生の道で誤る事が無くなって行く。(3節)
そして「口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(4節)とある通り、主を軽んじる者、好んで悪辣な事をする者、いのちと秩序を阻害するような「悪魔のわざ」に対しては、私達も主イエス・キリストの御名によってむちを打ち、御霊による御言葉の剣でそのわざを抹殺できる。また、主イエスの名による祈りによって、国や世界情勢を動かし、荒れる天候や大地に平安をもたらす事が出来るのだ。

もしこの恩恵に預かりたいのなら、エッサイの根株から出た新芽・イエス様に繋がらなくてはならない。
世の中では、超能力的なパワーが与えられて好き放題に出来る事を夢見させる映画やアニメが流行っているが、聖霊由来のパワーを、それと同じに勘違いしてはならない。私達の生き方は、それらと真逆である。
主の霊が授けられるのは「主のしもべ」に対してである(イザヤ42:1)。イエス様は、本質的には王の王、圧倒的な支配者であるが、生き方は御父の言葉に100%従順する「しもべ」だった。私達も同様に、本質は王であり、祭司であるが、生き方は、主の御言葉に100%従う「しもべ」として生きるべきなのだ。
主の霊と主のことばは、「そむきの罪を悔い改める者」の所に来る(イザヤ59:20-21)。もし悔い改めずに罪を犯し続けるなら、前回学んだ通り、バッサリ刈り取られ、火に投げ込まれてしまう。しかし御言葉に背く事をやめ、悔い改めて、主の霊と主の言葉に生きる人には、イザヤ60章以降の幸いが与えられる。
イザヤ60:1-3には、主に照らされ、主の光を国々に届ける者の役割と性質が書いてある。私達が主に接ぎ木されて「世の光」となったら、国々が、王たちが、光となった私達に照らされ歩むようになる。
もはや私達が世や王達を追いかける必要はなくなり、逆に、彼らの方が、私達を追いかけて来るようになる。
イザヤ61章には、イエス様が会堂で引用した通り、イエス様のご性質が記されている。(ルカ4:18-19)
それはイエス様に接ぎ木された私達にも、聖霊の油が流れ込んで来る故、ここに記されている権威が与えられ、その働きをするようになって行く。私達もイエス様のように、貧しい者に福音を宣べ伝え、心痛む人々を癒し、捕われ人に釈放を告げ、主の恵みの年と、主の報復の日とを告げ、全て悲しむ者を慰め、主の民の中の悲しむ者に喜びを与え、灰に代えて冠を与え、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、賛美の衣を与えさせる働きをするようになる。(イザヤ61:1-3)
荒れた所を再建する者となり、私達の羊や畑の面倒は他国人が見るようになり、「主の祭司」ととなえられ、神に仕える者と呼ばれ、国々の力を食い尽くし、その富を誇る者とされる。また、以前の恥に代えて二倍のもの所有し、とこしえの喜びが私達のものとなる(同4-7節)。人々が私達の祝福された様を見るに、「まことに主に祝福された子孫だ」と誰もが認め、そうして主に栄光が捧げられるのである。(同8-9節)
私達は主を信じた時、エッサイの根株へと接ぎ木され、そこから流れ来る豊かないのちに満たされた。
このエッサイの根株がさらに広がっていくために、大いに用いられて行く皆さんでありますように!

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エッサイの根株から出た新芽(イザヤ11章)
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 待降節第二週の今日は、預言者イザヤによるメシヤ到来の預言を見たい。イザヤは、救い主がこの世に来られる時の有様と、彼がもたらす物事の素晴らしさについて、イエス様が来る700年も前に預言していた。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデの父で、彼から出た新芽は、やがてダビデ王家という「大木」となった。しかしダビデの子ソロモンから続く王家は、高慢になり、罪を重ねて悔い改めなかったため、バビロンを通して伐採された。
しかしダビデの子・ナタンから出た「新芽」の子孫に処女マリヤが出て、彼女から救い主キリストが生まれた。
このエッサイの根株から出た若枝、すなわちイエス・キリストの上に、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が留まり、それはイエス様に接ぎ木された聖徒達へと流れて行く。(2節)
彼の統治は、失敗が一切無く、さばきも、間違いが無い。このイエス様に繋がり、神の霊が留まった人には、主を恐れる事が楽しみとなり、見える所や聞く所によって判断せず、正しく判断するようになる(3節)。
世の王には欠けがあり、失敗がある。それは人の中には、自分の目でよしとした所に従って動く「善悪判断」の性質があるからで、気に入った人をえこひいきしたり、気に食わない人を勝手に罪定めしたりする所があるが、主はそのようなお方ではない。「主を恐れる事」こそ、失敗の無い判断と統治の始まりなのだ。

そしてこのお方・イエス様は『正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息(ルアッハ)をもって悪しき者を殺す。』(4節)
正しくさばくものが4つあり、それは、主の正義と、主の公平と、主の口のむちと、そのくちびるの息である。
イエス様の御口からは御言葉という”むち”が出、また息(ルアッハ:霊、聖霊)によって全世界の人々を裁く。
私達も、主の御言葉によって「鞭打たれる」時があり、その時、自分が犯してしまった罪を悲しむが、それで悔い改めるなら、救いと安息を得る。しかし、もし主の御口の鞭を受けても悔い改る事がなく、罪を犯し続けるなら、やがてアッシリアやバビロンのような厳しい鞭が来て、その高慢は、強制的に切り倒されてしまう。

主の御口から流れ出る御言葉と、主を知る事の霊が行き巡る所は、どんな世界へと変わって行くか。そこは、どんな猛獣も動物も、互いが互いを害さず、皆、同じ食物を食べ、平和に共存するようになる。(6-9節)
生き物の「食」が変わるのは、尋常な事ではない。ライオンがどんなに頑張った所で、他を襲って食い物にする本能は、変えられない。しかし、主の御口から流れて来る御言葉と、主の霊によって支配されるなら、いかにライオンのような、熊のような、ヘビのような者であったとしても、そうした獣的な「食い方」は出来なくなり、互いに敵対できなくなって、平和に共存し、同じ食物すなわち「御言葉」を共に食べるようになるのだ。
夫婦や家族などの人間関係で、相手の気に食わない性質や言動を見つけたなら、攻め、追求し、引き裂き、食らいついていた性質も、主を知る知識が覆って主の霊に満たされ支配されるなら、無くなるのだ。
『彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。』(9節) 
エッサイの根株から出た若枝・キリストの統治が広がっていくと、主は、その御手を翼のように広げ、各地に散っている残りの民を覆って買い戻される。そしてエッサイの根は、旗印となって高く掲げられ、全世界に散らされた神の民イスラエルは、エッサイの根を求め、集まって来るようになる(10-12節)。イスラエルの中の敵対関係は解消され(13節)、彼らを長らく虐げていた国々はかすめ奪われるようになる(14-15節)。

イエス・キリストというエッサイの根が伸びていく所には、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされ、正しく物事を判断できるようになり、どんなに獣のような人であっても、平和な人へと造り変えられる。エッサイの根が伸びて行くと、散り散りにされている主の民は集められて来る。
主を恐れ敬うなら、主の霊が、私達に留まる。しかし主の言葉を受けても全く変わらず、ただ自分の望みを為し得たいと主張し続けるなら、切り倒す斧が待っている。私達はこの所を、主の民が集う「聖なる山」とし、海が水で満ちているかのように、この日本という地を、御言葉教育によって主を知る知識で覆い、主の民を集めて行く働きの一端を担って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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マリヤのようにキリストを宿らせる人とは(ヨハネ1:1-14)
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 本日より、待降節(アドベント)に入る。クリスマスというと、イエス様の誕生日というイメージがあるが、イエス様は、乙女マリヤから生まれた時が存在の最初ではない。御言葉なるキリストは、初めからおられ(ヨハネ1:1)、父なる神のふところにおられ(18節)、その彼が、乙女マリヤの胎を通して赤ちゃんとしてこの世に降りて来られたのである。待降節とは漢字の通り、イエス様が私達へ降りて来られるのを待ち望む期間なのだ。
待降節で良く語られる乙女マリヤは、イエス様を懐妊した事で特別視されているが、ご存知だろうか、私達もキリストを宿す事ができるのである。キリストが喜んで宿る人とはどういう人か。本日はそれを学びたい。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体(サルクス)となり、わたしたちのうちに宿った。』(ヨハネ1:12-14) 
イエス様の言葉が私達に宿る時、私達もマリヤのように、キリストを宿しているのである。肉(サルクス)とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行う部位で、そこには、罪の棘が刺さっていて罪に傾く性質があるが、御言葉であられるイエス様を信じ、受け入れた人は、彼がその人の中に幕屋を張って、宿られる。
だから、御言葉を内に存在させればさせる程、肉の中の罪に傾く性質は、イエス様が除去して下さるのだ。
主は私達に、御言葉を心に存在させるよう命じられた。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞で、大祭司アロンの末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは、その言葉を「存在させ、溢れさせる」意味だ、と言った。
神様の言葉が人の内に「存在」している時、通常はおとなしくしているが、イエス様が「取り扱いたい」と願っておられる人が目の前に来た時や、その状況に接した時、内に存在しておられる御言葉が、激情と力と共に溢れ出て、そこを治める。だから御言葉を豊かにハヤーしている人のメッセージは、力があるのだ。

聖霊によってキリストを身ごもったマリヤは、私達の型である。彼女は聖霊によってキリストを宿したように、私達も聖霊によってイエス様を主と呼び(1コリント12:3)、そうしてイエス様が私達の内に宿られた。(14:20)
マリヤは、イエス様を身ごもった直後、エリサベツに会いに行ってあいさつしたが、エリサベツは、そのあいさつを聞くと、胎の子が喜びおどり、彼女も聖霊に満たされて、言った。 『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。…主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いな事でしょう。』(ルカ1:42-45)
御言葉であられるイエス様を信じ、イエス様を宿した人を「キリスト者」と呼ぶが、キリスト者の交わりは、このマリヤとエリサベツのような交わりである。私の内に主が宿り、相手にも主が宿っているなら、あいさつの一つで、共に主の存在の喜びで溢れるのだ。御言葉をハヤーしている人が発する言葉には、力がある。
現代のユダヤ人の挨拶は「シャローム」であるが、当時のユダヤは、ルツ記の挨拶を取り交わしていた。
『ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4) この、「主があなたがたと共におられますように」(インマヌエル)と、「主があなたを祝福されますように」(バラク)の挨拶を、呼び交わす事が、元々のユダヤ人の挨拶であったが、戦争や迫害を経ていく内に、短くなって、現代の「シャローム」になったという。
御言葉であられるイエス様を宿したマリヤが、エリサベツの家に入って、「主があなたがたと共におられますように」という言葉を発した時、その御言葉の込められた彼女のあらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、エリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、本来は「主があなたを祝福されますように」と返すのだが、彼女は声高く叫んだ。「あなたは女の中で祝福されたかた」「私の主の母が来た」、と。
主の言葉をハヤーさせた人、すなわちキリストを宿らせている人は、このようにいのちを喜ばせ、そして、そのような、御言葉をハヤーさせた集団の中には、生き生きとした喜びが満ちているのだ。
御言葉は、ただ暗記すれば良いというものではない。マリヤのように、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人こそ、祝福された人である。キリストの言葉を豊かに住まわせ、知恵をつくして互に教え、また訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、心から神をほめたたえ、感謝するこの一同でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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祝福に入るための3つの動詞(申命記28:1)
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 出エジプト記は、神の民が、神の敵である不当な者達の下で奴隷状態となっている所を、主が救い出して下さる記述であった。主は圧倒的な力でエジプトを打ち、神の民を脱出させて下さった内容を、先週見たが、脱出したらそれでハッピーエンドかというと、そうではない。むしろ、もっと長い旅路のスタートなのだ。
私達は、エジプトやパロなど、「目に見える敵」に対する勝利や解放が達成したら、これでもう大丈夫、あとは好きにやって良い、と思ってはならない。エジプトを脱出しても、神が約束した地に入れたのは、わずかだった。むしろ私達の中に身についている、滅びに至らせる奴隷根性や、貧乏ぐせ、縮こまった考え方、恐怖してしまう思考パターンから「脱出(エクソダス)」してこそ真の解放であり、祝福のパターンに入るのだ。
神の国から離れた所(エジプト、世)で身につけてしまった奴隷根性といった「滅びぐせ」を拭い去るために、主が用意された所が「荒野」である。荒野はヘブライ語で「מדבר(ミッドバル)」、「דבר(ダバル:言葉)」に場所を表す前置詞「מ(メム)」がついて、この言葉となった。だからヘブライ語的には、荒野は「言葉」が場所取りをする所で、この荒野での40年の行程を記したのが、民数記(ベミッドバル:「荒野にて」)である。
民数記は、まことにダバル(言葉)と密接に関わる書である。民数記10章までは、人間ダバルは一切無く、ただ神のダバルのみで、何の事件も起きていないのに対し、11章以降、神のダバルを人間ダバルで押しのける人々が打たれたり死んだりする事件が起こり始める。災いに遭う人は、例外なく、神の言葉を退けて人間言葉を主張した人々だ。結局人は、どの言葉を場所取りさせるかによって、生か死かを決定する。
主が約束して下さった地に至る途上、私達が身につけてしまった奴隷根性などの「滅びぐせ」を抜き取るために、主が用意された場所がミッドバル(荒野)で、そこは、御言葉を聞いて従う場所である。そこは、御言葉を「聞いて」「従う」なら、生きる。しかし、神の言葉ではなく「人間言葉」を聞いて従うなら、死ぬ。
今回の韓国コーエンでは、カン先生からは申命記を、キム先生からはマタイ福音書を学んだが、マタイ福音書全体をあらわすのは、申命記28章で、特に、以下の1節が重要な箇所である、という事だった。
『もしあなたが、あなたの神、主の声に「よく聞き従い」、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを「守り」「行う」ならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
申命記28章は、祝福と呪いの宣言章であるが、祝福の最たる条件が、以下の三つのとても重要な動詞、「聞く(שָׁמַע シャマー)」「守る(שָׁמַר シャマール)」「行う( עָשָׂהアサ)」から成り立っている。

1.「よく聞き」: この原文はシャマー(聞く)の2回繰り返しの強調「シャモア・ティ・シャマ」である。ヘブライ語は反復する事で強調の意を表す。神の民が祝福を受けるためには、真っ先に、神の言葉を「聞く」事だ。『信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。』(ローマ10:17)
2,「守る」: このヘブライ語シャマールは、茨など棘のついた生け垣で囲う、という意味が転じて「守る」という意味になった。御言葉を聞いたなら、その御言葉を巡らし囲う事によって、世とサタンから守るのである。
御言葉という防御が無い人は、世の有毒な情報や、心を傷つける悪意ある闇の言葉、そして、サタンの誘惑や攻撃が、そのまま入って来てしまう。しかし思いと心を御言葉で垣根を巡らしているなら安全である。
3,「行う」; アシャーは「する」の意味の他、「つくる」、「(実を)結ぶ」の意味があり、天地創造の創世記1章では、7回も使われている。私達に蒔かれた御言葉という種は、「行う」事によって、実が結ばれるのだ。
種まきのたとえにおいては、私達人間は土地であり、御言葉を聞いてそれを守り行う(アシャーする)人は100倍、最低でも30倍の実を結ぶが、聞いても守り行わない人は、道端、岩地、茨の地のような人である。
4つの土地の人は全員、神のことばを「聞いた」のであるが、それを行ったのは「良い地」の人だけであった。
『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) この御言葉で示されている通り、種まきのたとえで、唯一実を結ぶ人には、この祝福される三つの動詞「シャマー(聞く)、シャマール(守る)、アシャー(行う、結ぶ)」がある。
どんな岩地のような、茨のような人でも、聞いて、守り行うなら、最低30倍の実を結ばせる事ができる。私達は、約束の安息の地に入るまでの途上、荒野(ミッドバル)を通って行かなくてはならない。そこでは、ただ神のダバルを聞いて守り行っていくなら、速やかに入る事ができるが、もし人間言葉にまみれ、御言葉を守り行わないなら、入れない。御言葉のテフィリンで囲い、良い地に入っていくみなさんでありますように!

主日礼拝
否定される事への恐れを取り扱われる主(出エジプト記7章-12章)
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成田エクレシア礼拝 音声

 主の民が、主の敵である不当な者達の下で奴隷となっているのを、主が救い出して下さる箇所が出エジプト記である。主は今の私達も「世」というエジプトから、「サタン」というパロから救い出して下さる。今回も、私達に奴隷を強いる者から、そして、私達自身が身につけてしまった奴隷根性や貧乏ぐせ、縮こまった考え方や、特に今回は、否定される事への恐怖からエクソダス(出エジプト)させて下さる主の導きを学びたい。

主は、恐れて弱気であったモーセを徐々に鍛えられた。彼がパロと対面し、主の言葉を伝える度に、主のわざは誠実に成され、しかしパロはなおも頑固になり、主の民を奴隷として虐げる事を止めず、主を認めない。それで次々と災いに遭って行く。反対に、モーセと神の民は、ますます主にあって自信を得て行く。
結局モーセは、パロとの交渉において9回もパロに断られる。普通、9回も拒否されれば、凹むところだが、この箇所を読んでいると、拒否された所で心のダメージはあまり無く、むしろ「ああ、また拒否した。本当に学習しない人だなあ、今度は主はどんな事を起こされるのだろう」と期待するようになって来る。
私達もそうである。奴隷状態だった時に身に着けてしまった、すぐ凹む心、「どうせ言っても無駄だ」「拒否されたくない」「だから、やらない」「勇気出してやってみた、けどやっぱり拒否された」「また傷が一つ増えた」「もう引き籠もろう」といった心のパターンも、主はその傷を癒やし、回復し、自信をつけさせ、大胆にさせて下さり、ついには、積極的に主の言葉を伝え、主のわざを積極的に為す者へと造り変えてくださる。
主に造り変えられるなら、相手がどんなに断ったとしても、心が傷つけられる事なく、むしろ、主はこの状況をどのように最善へ変えて下さるのだろう、という「期待」を持つようになって行く。モーセがそうだった。
第一の災いの場面においては、主は、モーセが直接対決する形にはせず、兄のアロンに命じる事によって災いを降らせ、怖がり屋のモーセでも、主のわざが出来るようにして下さった。第二の「かえるの災い」では、パロがモーセにかえるを取り除くよう、祈りの要請をするようになり、第三の災いでは、モーセに対抗する呪法師の口から「これは神の指です」と言わせるまでになった。第四・第五の災いは、モーセの言葉によって災いが降るようになり、そして主は、神の民とエジプトとを明確に区別しておられる事を示された。第六の災いでは、呪法師達にも腫物が現れ、彼らはもうモーセと張り合う事を止めた。
第七の「雹の災い」以降、モーセが杖を向ける事によって災いが降るようになって行く。しかも、モーセの警告を聞いて主の言葉を恐れたエジプトの家臣達は、彼らのしもべや家畜たちを避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者達は避難させず、甚大な被害を被った。第八の「いなごの災い」の予告場面では、家臣達のほうからパロに進言し、彼らに主に仕えさせて下さい、とお願いするまでになる。
第九の「闇の災い」の時には、パロは「行け。主に仕えよ。ただお前達の羊と牛は、留めておけ。幼子はお前達と一緒に行ってもよい。」と言ったが、モーセは大胆にも「あなた自身が私達の手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私達の神、主に捧げさせなければなりません。私達は家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。」と交渉をし、それが決裂しても、悠然と退出した。(10:24-29)
そして最後の災いの直前には、主は、エジプトにイスラエルに好意を持つようにされ、モーセもエジプトの民や家臣から非常に尊敬されるようになった。そして最後の災い、エジプトの全ての初子が死ぬ災いを宣言する時、モーセは怒りに燃えてパロの所から出ていき、パロは黙って見送るしか無かった。

このようにモーセは、主の御業を為す事に段々自信を持つようになって行き、最後は、エジプトの民からも尊敬され、そして彼らが出ていく時、ユダヤ人は大胆にエジプト人に金銀財宝をねだり、エジプト人は喜んで彼らに与えた。主はまことに、働き人を段々と力づけ、主の働きをする事に大胆にならせて下さる。
最初、モーセは、「やっても無駄だ」「もっと悪くなった」「もうやりたくない」といった思考パターンだったが、最後には「パロがあんなに拒否してくれたお蔭で、こんなに良くなった」と、むしろ拒否してくれて感謝しているのではないだろうか。それは「主の御業が多くなり、主が真実である事を私達が知るため」だ。(11:9)
私達も、御言葉を行う事ゆえに、夫や妻、子供、友人から拒否されるかもしれない。しかし御言葉を伝えるなら、あとは主が全てを「良し(トーブ)」へと導いて下さるのだ。たとえ拒否されたとしても、むしろ、主はどんな方法の最善へと導いて下さるのだろう、と、希望が湧いてくるのだ。そして私達は、どんどん貧乏根性や縮こまった考えから解放され、勇気づけられ、大胆になって行き、大いに用いられるようになって行く。

主日礼拝
御業を行う為に徐々に勇気を与えて下さる主(出エジプト記7:1-8:19)
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成田エクレシア礼拝 音声

 主の民が、主の敵である不当な者達の下で奴隷状態になっている所を、主が開放させて下さる箇所が、出エジプト記である。主は現代の私達も、「世」というエジプトから、「サタン」というエジプトの王パロから、救い出して下さる。今回も、私達に奴隷を強いる者から、また、私達自身が、身につけてしまった奴隷根性や貧乏ぐせ、縮こまった考え、ケチケチ精神などからエクソダス(出エジプト)させて下さる主の導きを学びたい。

前回、モーセは弱さ故に主の言葉通り伝えられず、しるしも行えなかった。しかし主はパロの口を操作し、「しるしを行って見せよ」と言わせ、それで彼は主から命じられた通り、杖を蛇に変えるしるしをパロの前で行う事が出来た。まさに「主の上げ膳据え膳」によって、私達にも自信をつけさせて下さる主の恵みを見た。
ところで蛇といえばサタンを思い出すが、主のわざを示すしるしが、なぜ「蛇」なのか?主はサタンに活動許可を与える事も、尻尾をつかんで封じる事もできるのだが、それは私達・主に遣わされた働き人にも、与えられた権威である(マルコ16:18)。モーセが持っていたのは、羊飼いの杖であり、それは元来、羊を牧するためのものだが、それを手離して地に投げやると、蛇になる。私達が、羊達を正しく治める権威を行使せず、地に放り投げるなら、それは蛇となり、悪童達の野放し状態となって手がつけられなくなってしまうのだ。
子供達や部下達を、わがままな怠け状態に、罪をし放題の状態で放置し続けるなら、彼らの罪を満足させるための奴隷となって、家も組織も破綻し滅んでしまう。サタンを踏みつける事を躊躇したり、同調したり、見てみぬふりをして野放しにし続けるならは、蛇から良いようにされてしまうが、主は「蛇の尻尾を掴め」と言われる。そうであるからには、私達は主イエス・キリストの御名によって掴み、奴隷根性に勝利すべきだ。
パロはこれらを見たにもかかわらず、ますます心頑なになってしまうが、失敗ではない。さらなる主の御業を起こす引き金となるからだ。私達も主から示された通りに御言葉を発言し、しるしを行うべきである。それをしたなら、主が敵を「攻撃」してくださる。これ以降、主は、しもべモーセを通してエジプト攻撃へと転じる。

主がモーセを通して降される災いの内、最初の3つはモーセがアロンに命じる形で災いを降らせ、続く3つの災いはモーセが宣言すると起こり、その後の3つの災いは、モーセの手の杖で行わせている。
主はモーセに、御業を行う「自信」を徐々につけさせ、トレーニングしておられたのだ。私達にも同様である。
モーセはパロに警告を与える。主の民に礼拝をさせよ、さもないとナイルの川と水を打ち、血に変える、と。
しかしパロは警告を聞き入れない。それで主は、モーセがアロンに伸ばさせた杖を通して、ナイル川の水を血に変え、全エジプトの生活に支障が出る形で、災いが降された。ナイル川は、ヘブル人の男の子が投げ込まれ、殺され、その血が混じっている。主はそれに正しく報復をされたのだ(黙示録16:5-7)。
しかしパロは心を頑なにして、心に留めなかった。それは、第二の災い・かえるの災いが降るきっかけとなる。モーセは同様に警告を与えたが、パロは聞き入れず、それで、エジプト中かえるだらけになる。
かまども、かごもこね鉢も、寝台も。この災いで若干の進展がある。パロはモーセに、かえるを取り除くように、祈りの要請をしたのだ。パロは「あす」を指定し、モーセはその通りにすると約束した。モーセは帰ると、主に叫んで求めた(8:12)。かえるが時間指定で全滅するなど、人には不可能な事なので必死になったが、主に不可能は無い。モーセが約束した通り、主は翌日、かえるを死に絶えさせた。モーセはまた一つ経験し、主のわざを行う事で大胆になって行く。パロは災いの収束を見ると、感謝もせず、約束も守らず、心を頑なにしてイスラエルに礼拝させなかった。パロはこうして、エジプトに、さらなる災いを招いてしまう事となる。
『主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。』(8:16) 第三の災いは、ぶよの災いである。
モーセはアロンに地のちりを打たせると、それは人や動物にまとわりつく虫となってエジプト全土に満ちた。
この災いは、呪法師達にも真似出来ず、彼らは『これは神の指です』と言った。こうしてモーセは、ますます主の御業を為す事に自信を持つようになって行く。主はまことに、そのように働き人を力づけて下さる。
主は真実であり、主が為しなさい、と言われるなら、それは100%為すべきだ。奴隷状態から抜けだせない人とは、主から命じられた御言葉を実行しない人、攻撃すべき敵を攻撃しない人、権威に立たず今まで通り奴隷のままいる事である。私達は主が創世当初に命じられたように、主の御言葉に従って統治するべきなのだ。へびをも掴み、御言葉の剣を振りかざして敵を攻撃し、神の民を救う皆さんでありますように!

主の上げ膳・据え膳(出エジプト記5章)
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成田エクレシア礼拝 音声

 聖書の中で、エジプトは神の民を奴隷にする「奴隷の家」と表現されている。そこから神が解放して下さった記述が出エジプト記であり、主は「わたしはあなた方を奴隷の家から贖い出した、あなたの神、主である」と何度も語られた。主は私達をも、「世」というエジプトから、そして「サタン」というエジプトの王パロから、救い出して下さる。今回も先週に続き、奴隷を強いる者および「奴隷根性」から脱出する術を学びたい。

モーセはかつてエジプトにひどい目に遭わされ、恐れていたが、神の言葉によって奮い立ってエジプトに戻り、パロと対峙する。『パロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト記5:1) 日本では、横暴な支配者からの要求を最優先にさせられ、礼拝がままならない事が多いため、この種の真理を貫く戦いが頻繁に行われるかもしれないが、この種の戦いは、神の言葉を正確に宣言する所から始まる。モーセはまずそれに成功した。
『パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。』(2節) パロの答えは、実に想定内だった。ただし、こう言えばこう返ってくる、と想定して、諦めて何も伝えないのは、100%の敗北である。
兎にも角にも主の言葉を宣言する事が、勝利の第一歩である。モーセはこのパロの迫力に飲まれてしまう。
『彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか(「ナア」:お願いですから)、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」。』(3節) 神は果たして、礼拝が出来ずに悲しむ民を、疫病か剣をもって悩まされるだろうか?真逆である!4:22-23を見ると、神の子である彼らに礼拝させるのを拒むなら、神は「パロの長子を殺す」と言っておられた。モーセの言葉は、優しさでも謙遜でもなく「卑屈」であり、サタンは、卑屈な言葉に対して、もっと調子に乗って無理難題を吹きかけてくる。
御言葉をアタマで覚えていたとしても、いざ偉い人の前で、ここぞという時に宣言しようとすると、頭が真っ白になったり、せっかく蓄えた御言葉が出なかったり、あるいは、間違って言ってしまったりする事がある。
御言葉は本来、心の中に「存在(ハヤー)」させ、その存在があふれるばかりにさせなければいけないのに(申命記6:6)、それをしていない状態だと、このようになってしまうのだ。サタンは、御言葉の存在があやふやな状態の人には、調子に乗って、御言葉とは真逆の事を要求して来る。エバの時もまさにそうだった。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」』(4節) パロはモーセの怖気づいた様に力を得、ますます神の民を虐げる。
パロはさらに調子づいて、そんな事を言うなら、もうレンガ造りの材料は与えないが、徹夜残業してでも元々のノルマは達成せよ、と突きつける。日本はまさにそういう霊が働いている。主日に礼拝に行く人を「なまけもの」と呼び、無私で働く事が美徳であるかのようにして、家庭を、いのちの営みを、貶める。
主にあって王であり、祭司であるキリスト者が、パロの「自分の労役につくがよい」という言葉に「はい」と言ってひれ伏し、王かつ祭司の務めを放棄してパロの労役に勤しむとするなら、何と本末転倒な事だろう。
しかし残念ながら、実に多くのキリスト者が、本来の務めを放棄し、パロが命じる苦役に奔走しているのだ。

モーセは長年、奴隷のような縛りを受けて気弱になり、口下手になってしまっていたため、最初の会合は、いわば「失敗」に終わったかもしれないが、主はそんな人間の弱さをちゃんとご存知で、フォローして下さる。
ちょうど、子供のたった一度の失敗をもって、親が子供を永遠に見放すなどという事は、あり得ないように。
モーセは、この最初のパロとの会合で、主の言葉どおりの「しるし」を行う事が出来なかったが、7章8-10節を見ると、主は、パロの口を通して「しるしを行って見せよ」と言わせ、杖をへびにするしるしを披露できた。
主は、私達の弱さ故に御言葉をその通り宣言できないとしても、しるしを行う機会を逃してしまったとしても、敵の思考や唇をも支配して、お膳立てし、私達に御言葉を語らせ、しるしを行わさせてくださるのだ!
 主が私達の弱さを知り、主の御言葉を伝え、御業を成そうとする者には、敵を支配してでも、私達が成功するまで、そう下さる。そうであるからには、何度でもチャレンジするべきである。最も良くないのは、主の「上げ膳据え膳」に乗らず、あきらめて何もしない事、元の奴隷に戻って、口を開かない事である。自信をもって御言葉を伝え、御業を為していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
私達に出来なかった清めを躊躇なくして下さる聖霊(ローマ8:1-13)

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 暫くネヘミヤから聖霊の性質を学んでいた。ネヘミヤの名は「神の慰め」という意味で、そのまま聖霊のご性質である。彼が来る前のエルサレムは霊的にも物理的にも荒れ放題だった。霊的指導者のはずの大祭司エルヤシブが、トビヤという汚れた者と結託し、礼拝を疎かにし、神殿にトビヤの私物を置き、民も罪と結託するようになって、神殿で働くべきはずのレビ人は、泣く泣く自分の畑へ逃げ帰った。そこにネヘミヤは来て、トビヤの私物を、聖なる場から放逐して清め、主への捧げ物を回復し、怠慢な指導者達を詰問した。
ネヘミヤによってでなければ汚れた者の占拠状態が改善されなかったのと同様、御霊によってでなければ、私達という神殿のきよめは出来ず、罪の性質も、根付いてしまった汚れたクセも追い出せない。『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(2節) 

肉の頑張りによって肉に刺さった罪に勝とうとしても、無駄なのだ。肉にある者は、律法の要求うを決して全うできないからだ。しかし御霊に従って歩む人は、律法の要求が全うされる、と書いてある。(3-4節)
律法は、人を造り変える事も、永遠のいのちの救いへ導く事も、できない。事実、律法を持っていたイスラエルの歴史は、堕落と災いと、悔い改めと祝福と、また堕落、というサイクルの繰り返しだった。しかし私達は、キリストを信じる信仰によって新しく生まれ、罪と死の法則から解放された。ただしその「生まれ変わり」が実体となって、見える形で表れるのは、聖霊による新生と更新との洗いによって、なのだ。(テトス3:4-6)
ネヘミヤの時代、エルヤシブという肉と罪と結託する者に、人々は泣く泣く従うしかなかったが、ネヘミヤは見事、汚れを一発で除き去り、神殿も民の生活も刷新したのと同様、聖霊は、私達が泣く泣く従うしか無かった罪と死の法則に対抗し、私達にはできない「清め」をして下さる。私達は肉の力では太刀打ちできないが、ネヘミヤ、すなわち、慰め主・聖霊なら、対抗して勝利して下さるのだ!
悪しきものを追い出すのは、聖霊である(マタイ12:28)。聖霊はその人の中で働いて良いわざを為し、悪魔に押さえつけられている人々を癒す(使徒10:38)。いくら肉で力を込めても、奇声で叫んでも、術者のように手を動かしてみても、悪霊は出ていかないし、私達の中の汚れたクセも出ていかない。しかしネヘミヤは躊躇なく悪を出て行かせたのと同じように、聖霊が私達を支配するのであれば、私達の中で場所取りしていた罪や、止められなかった汚れたクセは難なく追い出して下さり、解放のわざを為して下さる。

どうしたら聖霊が与えられるのかは、度々メッセージして来たように「求め、探し、叩く事」(ルカ11:9-13)であるが、本日学ぶべき重要な性質は「従う心」である。『肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思うからである。』(5節) 教会はキリストの花嫁であり(エペソ5:22-24)、花婿キリストに従う立場にある。
もし自分は花嫁だと主張し、立派に花嫁の格好をしていても、夫に従わず、ただ下さい下さいと言っているだけなら、夫は何かをするだろうか。何時間祈祷しても聖霊が与えられないとするなら、服従する気が元々あったかどうか疑った方がいい。私達は、主人であるキリストの御言葉に従った上で、聖霊を求めるべきだ。
聖霊との関係は「人格的な交わり」、すなわち由意志のある者同士の交わりであり、聖霊の言われる事に聞き従う心を持って歩む人には、主は喜んで聖霊の賜物を増し加えて与えて下さる。聖霊充満とは、聖霊に自分自身を支配させていただく状態なのだ。サウルは一時的に充満だったが、服従する気がさらさら無かったため、聖霊は続けて留まらず、かえって、逆らうことを好む霊、すなわち、悪霊充満になってしまった。
たとえ私達が、肉に負けてしまう事があるとしても、御霊が私達の内に宿っているなら、それによって死ぬべき体をも生かして下さる。御霊は、肉の行いを殺すからである(11-13節)。神殿の中の、汚れたトビヤの私物は、エルヤシブという悪と結託した祭司の支配下にあった人達には、捨てきれなかったが、ネヘミヤはポイポイ捨てた。それと同様に、私達も聖霊に従うなら、私達が罪と結託して手放せなかった汚れたものをも、聖霊はポイポイ捨ててくださる。肉にはできなかった事が、聖霊には出来るからだ!
この素晴らしい聖霊が与えられたいだろうか。そうであるなら、「従順する心構え」を持ちつつ、聖霊が与えられるように「求め、探し、たたく」事を続けるのであるなら、聖霊は必ず与えられる。
聖霊が与えられるなら、今までどうしようも出来なかった罪の問題は、聖霊が解決して下さり、罪の悲しみからますます開放され、御霊の自由にどんどん入り込んで行く事が出来る。そのようにますます御霊にあって歩み、いのちにあって祝福されて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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