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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
義の枝の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 5/9(エレミヤ23:1-8)
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この終わりの時代を読み解く上で非常に重要なエレミヤ書の9つの鍵、その第5番目は、「義の枝」の問題である。

エレミヤ23:5 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝「ツェマフ・ツェデク(聖なる枝、義なる枝)」を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

エレミヤ書22章において、ダビデ-ソロモンから続いた王たちは、代が降るにつれ、主の御言葉に聞き従わず、主の警告を無視し、人々を虐げ搾取した。
それで主は言われた。

23:1 主は言われる、「わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざわいである」。
23:2 それゆえイスラエルの神、主はわが民を養う牧者についてこう言われる、「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いによってあなたがたに報いると、主は言われる。

ソロモンから続く歴代の王たちは、牧者として失格な事ばかりして来て、あまりにも警告に従わないことを続けたため、ついに主は、バビロン捕囚直前の王、エコヌヤに宣言した。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降、ダビデ-ソロモンの家系に、王は出ていない。
主は、ダビデ-ソロモン以降続いた王位を、エコニヤの代で終わらせたのだ。

さて、ここで疑問が起きる。
エコヌヤ以降は「王は出ない」と宣言されたなら、王の王・主の主であられるイエス・キリストは、どうなるのか。
マタイ1章の系図には、ダビデ以降エコニヤに至るまでの14代が、歴代の王として記されているが、実際、エレミヤの預言どおり、エコニヤからは王は出ておらず、一般人の系図となっており、そしてイエスの父ヨセフへと系図が続いている。
イエス・キリストは、王の王であるが、エコニヤ以降、王は出ないのではなかったのか?

そもそもである。イエス・キリストは、聖霊によって処女マリヤから生まれたため、マリヤの夫ヨセフの血は継いでいない。
それでは、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?
いいや、ダビデの子であり、王族である。

ルカの福音書三章に、もう一つの系図があるが、この系図は、ダビデ-ソロモン,,,エコヌヤ,,,ヨセフへと続くマタイ系図とは全く別の系図、すなわち、マリヤの家系の系図である。
実際、マタイ一章の”ヨセフ系図”では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカの”マリヤ系図”では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。

つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして悪に染まった王族の血を継いでもいない。つまりイエス様は、法的なヨセフの子、すなわち法的には歴代の王族の子であり、血筋としては、悪しき王達の血を継がない、純粋なダビデの子孫なのだ。

ルカの系図は、マタイの系図とは逆で、新しい時代から古い時代へとさかのぼって行き、しかもマタイ系図の一番最初・アブラハムよりもさらにさかのぼって、人類最初の人アダムへと行きつき、最後は、神へと行き着く。(ルカ3:38)
マタイの系図は、最初がアブラハムで始まる、イスラエル人の父・イスラエルの王族の家系図であるが、ルカの系図は、神の子、人の子、ダビデの子の系図である。

そういうわけで神は、エレミヤの預言どおり、エコヌヤという「決して王は出ない家系」とは、全く別の、「ダビデの若枝・ツェマフ・ツェデク(聖なる枝、義なる枝)」を興し、すなわち、ダビデの子・ナタンからの系図から、決して廃れる事の無い、永遠に王となって公平と正義を行う王・イエス・キリストを起こされたのだ。

この枝、すなわち、義なるイエス・キリストこそ、私達・異邦人の望みである。
ダビデの系図の中には、異邦人ルツが、またラハブが、信仰告白によってこの栄光の家系へと嫁入りし、ダビデ王朝の先祖になった事が記されている。
この「義の枝」であるキリストに、信仰告白によって接ぎ木されて来る異邦人は、皆、救われるのである。(ローマ11:13-27)

23:3 わたしの群れの残った者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのおりに帰らせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。
23:4 わたしはこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。
23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝(ツェマフ・ツェデク)を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義(ジェホバ・チヅケヌ)』ととなえられる。

この、主が起こされたダビデの若枝(ツェマフ・ツェデク)、すなわちキリストに接ぎ木された者は、「義」とされるのである。
それ故、その名は『主はわれわれの正義(ジェホバ・チヅケヌ)』ととなえられる。


イザヤ60:21 あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現わす、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。
60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

どんな罪人であっても、このツェマフ・ツェデクへと、信仰告白によって接ぎ木されるなら、「義」とされるのである。
たとえ、十字架刑の真っ最中の強盗であっても。
それは何という驚くべき恵み、驚くべき救いであろうか。

23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。
23:7 主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、
23:8 『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」。

これはまさに、現代のイスラエルにおいてそれが起きている。
バビロン捕囚からおよそ2500年後、1948年5月14日にユダヤは見事、あの土地に独立し、国を再興した。
その日、まさに『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日が来たのだ。

主は、まことに真実なお方である。

詩篇23篇に隠された主の御名 - ジェホバ・シャローム(詩篇23:2)
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『主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。』(2節)
この詩篇23篇2節に練り込められた御名は、「ジェホバ・シャローム」(主は平和、平和の主)である。

士師記6:24 この御名「ジェホバ・シャローム」が登場する場面は、主がギデオンを召し出された場面である。
どういう時に主は彼に現れたか。それは、彼がミデヤン人という敵から隠れて、酒ぶねの中に隠れながら麦を打っている場面である(士師記6章)。
そんな臆病な、部族の中で最も小さく、最も弱い者に、主は現れて言われた。
「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:24)

ギデオンも、人も、当然、未来は見えない。彼自身も、彼の父も、部族の人々も、まさかギデオンが大勇士になるとは思ってなかったが、主の目には、将来の彼の「大勇士」の様が、見えていた。
なぜなら彼には、主に従順する性質があったからだ。
彼は、主から言われた事を、そのまま実行する人だった。

普通、常識ある人間は、10万以上の敵にたった300人で立ち向かう事はしないが、ギデオンは、主がしなさいと言われたので、した。
主が「人が多いから減らしなさい」と言われたら、躊躇なく1万や2万をばっさり切ったし、たった300人になっても、10万以上の敵に立ち向かって行った。
そのような性質だから、彼は用いられたのだ。
この、主に言われたとおりに実行する性質こそ「大勇士」の性質である。

2. ギデオンは、どういう場面でジェホバ・シャロームを宣言したのか。
彼が酒ぶねの中で、恐れながら麦を打っている時、主の使いが彼に現れたが、彼は、主の使いと面と面を向かって話していたというのに、実感せずにいた。
しかし彼が、相手が本当に主の使いであったと分かった時、死ぬのではないかと恐れた。しかし、
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安(ジェホバ・シャローム)」と名づけた。』(士師記6:23−24) 

私達も、主の力強く全く聖であられる有様を知った時、ひるがえって、自分が昨日犯したあの罪、今日犯したこの罪も全部、主がその目でじっと見つめておられた、と知るなら、ギデオンのように絶望するしかない。
ダビデも、そうだった。主の目の前で他人の妻を奪い、その夫を謀殺するような罪を犯した。にもかかわらず、「あなたは死なない」と言われた。なぜか?それは彼が自分の罪を告白し、主のなさる事を受け入れたからだ。
「主は言われた、「悪い者には平安(シャローム)がない」と。」(イザヤ48:22)
しかし人が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はその人の内にない。(1ヨハネ1:9-10)

3. シャロームに込められた意味
ユダヤ人は「シャローム」を、挨拶の言葉として使っている。このシャロームの中に込められている最たる願いは「トーブ(良し)」である。主がこの世界を6日に分けて創造された時、一日一日に「良し」(トーブ)と宣言された。
そして、人間を創られた第6日目には「はなはだ良し(トーブ・メオド)」と評価され、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、人を祝福された。(創世記1章)

この「トーブ」の中には「1,パーフェクト(完全)」「2,ビューティーフル(美しい)」「3,グッド(良い)」の意味が込められており、これら3つを束ねて「シャローム」という。つまり、ユダヤ人がシャロームの挨拶を交わす時、完全でありますように、美しい者であるように、良い者でありますように、という願いを込めているのだ。
ユダヤ人であるパウロも、その書簡の中で頻繁に「平安があなた方にあるように」という挨拶をしている。
イエス様も、恐れて隠れている弟子達の中に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。
『弟子達は、主を見て喜んだ。イエス様はもう一度、「平安があなたがたにあるように。」と言われ、彼らに息を吹きかけて、言われた。「聖霊を受けなさい。」』(ヨハネ20:19−22)

弟子達が主を見て喜んだのは、イエス様がその手とわきを示されたからだ。
イエス様が私たちの代わりに十字架上で打たれ、罰を受け、死なれた。
そして、よみがえられた。これぞ完全なシャロームの根源である。
イエス様こそ、まことの羊飼いであり、備え主であり、そして平和の主である。

羊は、羊飼いなしでは良くない。砂漠でとぼとぼ途方に暮れているのは、良くない。
羊は、羊飼いに導かれ、緑の牧場に、いこいのみぎわに伏してこそ、トーブである。まことの羊飼いに導かれ、いこわされる、トーブな皆さんでありますように!

詩篇23篇に隠された主の御名 - ジェホバ・ロイ、ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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詩篇23篇は、ダビデが創った詩篇の中でも、珠玉のような詩篇として、キリスト教・ユダヤ教両者から愛されている。
一般の映画や文学でも多く引用され、教会に行った事が無い人でも詩篇23篇のフレーズを聞いた事がある人は多いだろう。
この詩篇23篇は、ダビデ自身の「主はどのようなお方であるのか」という信仰告白が詰まっていて、彼はこの23篇の中に、8種類の「主の呼び名」を秘めた。

聖書の中には多くの主の呼び名が出てくる。ジェホバ・イルエや、ジェホバ・シャンマ、ジェホバ・ニシなど。
それぞれ、主の呼び名はそれぞれの主のご性質をあらわしているが、詩篇23篇にダビデが秘めた主の御名の宝を、これから何度かに渡って掘り起こして行きたい。
なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、また、たとえば「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等と発音するが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。

ダビデが真っ先に告白した主のご性質は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(1節)であった。
詩篇23篇に真っ先に登場する主の呼び名は、ジェホバ・ロイ、すなわち「主はわたしの牧者」である。
「ロイ」には、羊を飼う、食べさせる、牧草地へ導く、保護する、一緒に伴う、などの意味が含まれている。

ダビデは少年の頃、父の羊を飼っていたので、羊の性質をよく知っている。
彼の人生で、彼自身が歩んできた道を振り返ってみると、主がいつも共におられた。
そしてその主について、彼が真っ先に表現したそのご性質は「羊飼い」である。

羊は愚かで弱く、羊飼いがいなければ、何もできない。
しかしながら、羊はいつでも羊飼いが守っている故に、全て、必要なものが備えられる。
豚には羊飼いは必要ないが、いつも自分の身を怪我し、無作為に汚れたものを食べている。
それに引き換え、羊はいつも羊飼いに導かれる故、新鮮な、良い牧草へと導かれ、良い水の所に導かれ、いつも良いものを得ている。

羊が安全に暮らすためには、力あるかないか、個性があるか無いかは関係ない。
ただ、羊飼いの声を聞き、その後について行くだけである。それでこそ、彼らは生きながらえる事ができる。
羊飼いがいないなら、いかに能力がある羊であっても、所詮は羊である。彼らは弱り果てる以外には無い。

ダビデは、主こそ、自分の「羊飼い」だと呼んだ。
彼は人生の中、色々な敵が立ちふさがった。色々な困難があった。
強大な敵が何度も立ちふさがったし、親しい人からの裏切りもあったが、ダビデは、その都度、主に避け、主を拠り所とした
自分自身の中から湧き出て来る罪という最大の敵に打ち負かされてしまった時も、躊躇なく主に帰り、自分の罪を告白した。
主に全てをうちあける事こそ、救いを引き出すために必須の手続きである。主は、そんなダビデの羊飼いとなってくださった。

「わたしには乏しいことがない。」(1節b)
この節後半には、さらに、「ジェホバ・イルエ」、すなわち「備え主」の御名が練り込められている。
この「ジェホバ・イルエ」の御名が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。

彼が主の命令によりイサクを捧げようとした、まさにその時、主は制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。
それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。
それでアブラハムは、主が備えて下さった故に、そこをジェホバ・イルエと名付けた。

さて、ジェホバ・イルエの言葉は「主の山には備えあり」の言葉と共に「備え主」という意味として定着しているが、実は、ジェホバ・イルエの正しい意味は、別にある。
この言葉は、分解すると、「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、そして「ラアー」は未完成形なので、原意は「主はずっと見つめ続けておられる」であり、英語のKJVが正しい訳出をしている( In the mount of the LORD it shall be seen.)

アブラハムは、イサクを捧げた時、気づいたのだ。
主はずっと、自分の信仰が、このイサクを捧げるという「行い」によって「完成」されるのを、今か、今かとずっと見続けておられたのだ、と。
そういうわけで、ヤコブは次のように書いている。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建ち、バビロン捕囚の時に破壊された。
しかし主は、今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけた「まことの小羊キリスト」を身代わりの犠牲として捧げるのを。

主はアブラハムが信仰の完成をするために必要な、イサクの身代わりとなる羊を備えて下さったように、私達が信仰の完成を成就するために、私達の身代わりとなってくださった、まことの小羊キリストを備えて下さった。
主はずっと私達を見続けておられ、そして私達の信仰が行いを通して完成するのを、待っておられるのだ。

低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
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詩篇22篇の前半は、受難の叫びで満ちていたのに対し、22節以降の後半は、賛美で溢れている。
それは、この詩篇の作者であるダビデが、苦難の中で低くされた後に栄光が与えられた事をあらわしていると同時に、イエス様の受難と死、そして復活と栄光化を正確にあらわす預言である。

ダビデは最初、主は祈りに答えてくださらない、という思いに満たされていた(2節)。
それで主にずっと叫び続け、祈り続けて行く内に、主が答えて下さったという感覚を得られ、ついには、主は彼の声に聞いて下さった、という確信を得られた。(24節)

22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえる(ハラル)でしょう。

ダビデの、それまでの苦悩に満ちた祈りは、聞かれた事の確信ゆえに、主への賛美(ハラル)へと切り替わった。
ハラルはハレルヤの元であり、それには、(主を)誇りに思う、高める、重きを置く事の意味がある。
ダビデは、祈って得た確信と喜びゆえに、今度は人々に、主をハラルする事を勧めて行く。

22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ(ハラル)。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ(カバド)。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ(グル)。

カバドは「重んじる」「栄光を帰す」意味があり、その意味においてハラルと重なる。
主を喜び、ほめ讃える事は良い事だが、それは、主へのおそれ(グル)を伴っていなければならない。
主へのおそれが無ければ、主の言葉を軽んじ、主の約束を平気で破ってしまうからであり、主をおそれ敬う心が無い賛美は、ただの「盛り上がり」を求める世の歌と変わりがないからだ。

22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

主は聞かれた…ダビデはその確信を得た。それで彼は、心からの喜び、嬉しさが湧き上がり、主をハラルしたい、と心底願ったのである。

主をハラルするに至るまでには、幾つかのステップが必要である。
まずは、主の御言葉を、よく思い巡らし、咀嚼し、黙想する事(ハガー)が最初である。
その御言葉の土台の上に、祈り(テフィラー)を積み重ねるのだ。御言葉をハガーするという「土台」が無い祈りは、単なる、身勝手な願望の並べ立てに過ぎなくなってしまう。
御言葉に基づいた祈りを口ずさむ事(シイハー)を続けて行く内、諸々の感情が段々と湧いてくる。愛情や喜びや平安、あるいは、うめきや悲しみなど。
この「口ずさみ」に、それらの感情を乗せたメロディや、あるいは体を使った表現が加わると、それがすなわち「賛美(テヒラー)」である。
テヒラー(תְּהִלָּה)は賛美、賛美歌、賞賛、名声などの意味で、テフィラー(תְּפִלָּה)は祈り、あるいは祈りの賛美の意味である。いずれにも、hymn(賛美歌)の意味が含まれている。

ダビデは3節で「イスラエルの「さんび(テヒラー)」の上に「座して(ヤーシャブ:住む)」おられる/あなたは聖なるおかたです。」と言っていた。
そうである。私達の主を賛美する時、喜び踊るような嬉しい感情、あるいは、誰かを執り成しうめく感情など、それらを乗せた賛美(テヒラー)の内に、主は、住まわれるのである。

そうして、遂には、主をほめ讃える(バラク)段階、あるいは主を誇りに思って高める「ハラル」の段階になって行く。
こそ段階に至るまで、ダビデは、苦しみうめき祈ったのが、詩篇22篇前半である。
ダビデはその段階の時、主は「お答えにならない」ような気もしていたが(2節)、それでも御言葉を黙想し、祈り続けた結果、「主は聞いて下さった」という確信を得て(21節)、主を喜び歌う段階に入る事が出来た。

22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。

ダビデは「わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです」と言った。
そう、心から主を喜ぶテヒラーは、主が下さる。
そして私達の分は、主に向かって祈る事である。
ダビデは主を喜ぶあまり、喜び踊った。妻のミカルから蔑まれるほど。彼はそれだけ主を求め続けたからだ。

22:26 「貧しい者(アーナブ)」は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえる(ハラル)でしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

アーナブは「へりくだった者」「低くされた者」の意味であり、KJVでは「meek」と訳されている。
へりくだった心こそ、食べ飽く事が出来る人の性質なのだ。

22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。

ダビデは仰ぎ見ていた。地の果ての人々さえも、主に帰り、主に伏し拝む事を。
まさに、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえり、天に昇られて以降、全世界の人々がイエス・キリストに帰り、彼を伏し拝んでいる。

続く節では、十字架につけられ低くされたイエス様が、今度は高められる事が記されている。

22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
22:31 主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

30節の「子孫(ゼラ)」は、原文は単数形であり、その単数形の「子孫」はすなわちイエス・キリストをあらわす。

イザヤ書53章も詩篇22篇同様、前半はキリストの受難が、すなわち、彼が低くされる事が記されており、そしてその後、彼は高くされ、その支配は永遠に続く事が記されている。

イザヤ53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫(ゼラの単数形)を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

父なる神様が、彼の子であるイエス様を砕く事は、御心だった。
それは、彼が砕かれて後、栄光を受け、その「命をながく」、すなわち、彼に永遠の王権が与えられ、永遠に栄えるためにである。

53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

イザヤ53章でも、詩篇22篇でも、油注がれた神の御子キリストは、受難を受け、低くされ、あざけられ、ののしられ、罰せられ、死ぬ事が示され、そしてその後に復活し、高くされ、栄光が与えられる事が示されている。
イエス様はまさに、旧約聖書の随所にある預言の通りに歩まれ、そして今、世界中の、彼によって救われた人々から、あがめられ、栄光を受けているのである。

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御声に聞き従わず、民を圧制で苦しめる王の末路(エレミヤ22:13-30)
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主イエス様の受難を的確にあらわした詩(詩篇22:1-21)
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詩篇22篇 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌

この詩は、ダビデの受難の時の詩であるが、まさしく新約のイエス・キリストの受難をあらわしている。

22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

これはまさしく、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉だ。

マタイ27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
詩篇22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

夜、イエス様はゲツセマネの園で、血の滴りのような汗を注ぎだして父なる神に祈ったが、祈りは聞かれなかった。
昼、十字架の上でイエス様は父なる神に呼ばわったが、何の助けもこなかった、どころか、闇が全地を覆った。
まことに彼は、十字架の上で、神に、捨てられ尽くしたのだ。

詩篇22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。

主は、賛美を住まいとしておられる。
イエス様は、十字架の上では父なる神から答えられなかったが、私達は、苦しみの中で賛美する時、主はそこに住んでおられ、私達の声を聞いておられるのだ。

詩篇22:4 われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
22:5 彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。

ダビデも、主に見捨てられたような気がして、昼も夜も主に叫び求め、それでも答えが無いという所を通らされた。
信仰にあって生きる私達も、そのような所を通らされるときがある。
主に救いを求めても、求めた直後にすぐ来ない事のほうが多い。しかし、主の助けは、遅くなる事は無い。
ダビデは結局、助けが遅れる事なく、あらゆる敵から、困難から、彼の人生で何度も助け出された。彼の人生の終わり方は、敵に囲まれてみじめに死んでいくものではなく、大勢の臣下の前で、偉大な王として人生を全うし、葬られた。

それなのに、イエス様は。
彼は助けを呼び求めても、答えはないまま、十字架の上で、敵に囲まれてみじめに死んで行った。
本来、私達こそ、それに値するのに、イエス様が、代わりを引き受けて下さったからだ。

詩篇22:6 しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。

ここで使われている「虫」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす語で、あるいは、ミミズの色である「紅」をあらわす。

イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
なぜなら、イエス様が、私達の身代わりとして人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。

イザヤ41:14 主は言われる、「「虫(トラー)」にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

なぜ虫にも等しいイスラエルの人々、すなわち、私達(ガラテヤ6:16)は、恐れなくても良いのか。
それは、イエス様が私達の身代わりに、虫に等しくなって、助けてくださったからだ。

詩篇22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
22:8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

これと同じののしりを、イエス様は十字架の上で受けた。

マタイ27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

詩篇22:11 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
22:12 多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
22:13 かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。

ダビデは度々、敵意の人々に取り囲まれた。力強い牛のような、あるいは、吠えたけるししのような強き者達から。
イエス様も、悪意の者達から取り囲まれた。それもイエス様は、取り囲む彼らよりも圧倒的に強いにもかかわらず。
イエス様があえて、その者達に対しては無抵抗で「わざと」取り囲まれたのは、まさに、イエス様に悪をたくらむ彼らの罪の身代わりに、十字架にかかるためだった。

詩篇22:14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

イエス様は、ゲツセマネで血の滴りのような汗を注ぎだした。
そして十字架の上で、イエス様の骨ははずされた。
十字架上では、釘打たれた手と足に全体重がかかり、体の重みで両肩の関節がはずれ、それによって、胸が広がらなくなり肺が圧迫され、呼吸が苦しくなるという。

詩篇22:15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

イエス様は十字架上で言われた。

ヨハネ19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。

しかし、渇いた彼に人が飲ませたのは、酸いぶどう酒だった。
主は、イスラエルを乳と蜜の流れる地に「甘いぶどう」として植え、よく育つための必要な全てを整え、よく手入れし、甘く良い実を結ばせる事を期待した。しかし、彼らが神に対して結んだ実は、酸いぶどうだった。(イザヤ5:1-2)

ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

イエス様は、酸いぶどうとなってしまった人間性を、全部飲み干し尽くされ、「完了した(テテレスタイ:完成した、支払い尽くした)」と言われた。
人が本来受けるべき処罰を、一身に受け、全人類の罪の借金を、支払い尽くして下さったのだ。

詩篇22:16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
22:17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

イエス様の十字架の場面で、まさにこの事も成就した。

ルカ23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35 民衆は立って見ていた。

イエス様の、この偉大な執り成し故に、全人類は救われた。
しかし、この偉大な執り成しの最中、人々がした事といえば、イエス様の着物を、くじで分けた事だった。

詩篇22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
22:20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
22:21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

ダビデは、この祈りによって助け出され、救い出された。
しかしイエス様は、十字架の上で助け出されなかった。

私達全て、この、十字架に身代わりにつけられて下さった主イエス様の御名によって呼び求めるなら、助けを得るのである。
私達はただイエス様の前に感謝し賛美を捧げる以外には無い。

主の敵に勝利させ、栄えさせて下さった事への感謝の詩(詩篇21篇)
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詩篇21 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

この詩もダビデが創り、聖歌隊に歌わせた歌である。
20篇は、ダビデが臣下の人達にダビデのために執り成しをさせた内容であったが、この21篇は、主がその祈りに答えて下さり、ダビデ王に祝福を与え、彼の敵に勝利させ、高めて下さった事への感謝の賛美である。

21:1 主よ、王はあなたの力によって喜び、あなたの助けによって、いかに大きな喜びをもつことでしょう。
21:2 あなたは彼の心の願いをゆるし、そのくちびるの求めをいなまれなかった。〔セラ

主がダビデの心の願いをゆるし、くちびるの求める事を否まれなかったのは、1節で宣言したとおり、彼が主の力を喜び、主の助けに大きな喜びを持つ心をいつも持っていたからだ。
主は全て主を喜びとする者の、心の願いも、また口で求めた事も共にかなえて下さるのだ。

主を喜ぶ事こそ、まさに私達の力である。(ネヘミヤ8:10)
主は全て彼を拠り所とする者、主に助けを求める者達の願いを聞いて下さり、大いに喜ばせて下さるのみならず、その人達に、冠をかぶらせてくださる。

21:3 あなたは大いなる恵みをもって彼を迎え、そのかしらに純金の冠をいただかせられる。

主はダビデに純金の冠をいただかせて下さったが、私達・主の現れを心から待ち望む全ての人には、義の冠をいただかせて下さる。

2テモテ4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

21:4 彼がいのちを求めると、あなたはそれを彼にさずけ、世々限りなくそのよわいを長くされた。

ダビデは主にいのちを求めた。すると主は、ダビデに、世々限り無く続く家を建てる約束を与えて下さり、「世々限りなくそのよわいを長くされた」と彼が宣言したとおり、永遠のいのちの望みをも与えて下さった。

神は人類すべてに、永遠のいのちを与えるために、独り子イエス・キリストを世に贈られた。
それは、御子を信じる者が一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。

21:5 あなたの助けによって彼の栄光は大きい。あなたは誉と威厳とを彼に与えられる。
21:6 まことに、あなたは彼をとこしえに恵まれた者とし、み前に喜びをもって楽しませられる。

クリスチャンとして正しい心を持った聖徒なら、主に礼拝を捧げる時、大きな喜びがある。
ダビデが宣言しているとおり、主の御前においては、喜び楽しみがあるからであり、また、御前に歩む聖徒たちには誉と威厳を与えて下さるからだ。
やがて私達・信仰者が受け継ぐ天国において、そこで永遠に主を喜ぶ事ができるのは、何という幸いだろう。

21:7 王は主に信頼するゆえ、いと高き者のいつくしみ(ヘセド)をこうむって、動かされることはない。

結局、主がダビデにこれら諸々の幸いを与えて下さったのは、彼が主に信頼したからだ。
信仰は、主に向かって登って行く。主はそれに対し、いつくしみ(ヘセド:恵み)を天から降らせ、信仰と恵みが合致する時、主の奇跡のわざが起きる。
主に信頼する者は、永遠に動かされる事は無いのだ。

続く箇所においては、主の敵に対して注がれる御怒りについて、ダビデの宣言が記されている。

21:8 あなたの手はもろもろの敵を尋ね出し、あなたの右の手はあなたを憎む者を/尋ね出すであろう。

ここで取り上げているのは、ダビデの敵ではなく「あなたの敵」「あなたを憎む者」、すなわち、主の敵であるサタンと、その勢力全般である。
それにしても、敵を探り出すのは「主の目」ではなく、「主の手」「右手」である、というのは興味深い。

全地は、主の御手のわざであり、まさに「主の御手の中」にある。
その主の御手は、私達・主を恐れ敬う者達には「救いの御手」、「身を寄せる陰」である。
しかし、主の敵どもは、いかに闇の中で粋がって悪を企もうとも、所詮、主の大きな御手の中で駆け回る小猿に過ぎないのだ。

21:9 あなたが怒る時、彼らを燃える炉のようにするであろう。主はみ怒りによって彼らをのみつくされる。火は彼らを食いつくすであろう。
21:10 あなたは彼らのすえを地から断ち、彼らの種を人の子らの中から滅ぼすであろう。

主は、全ての主の敵に対して、燃える火のさばきを降し、それに類する者達を絶ち滅ぼされる。

黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
 20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
 20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

サタンは1000年も獄に閉じ込められていたのに、その間、一切反省する事なく、解放されたとたん、人々を惑わし、聖徒たちとその陣営、神に愛された都を包囲する。
そうであるからには、もはや彼らの罪は明らかとなり、永遠の炎によるさばきについて何の申し開きもできない。
そして、この悪魔サタンに同調する者達やそれに類する者達も、皆、同様である。

21:11 たとい彼らがあなたにむかって悪い事を企て、悪いはかりごとを思いめぐらしても、なし遂げることはできない。
21:12 あなたは彼らを逃げ走らせ、あなたの弓弦を張って、彼らの顔をねらうであろう。

主の敵は悪を企てても、それは成功せず、かえって背を見せて逃げる事になる。
そして面白い事に、主が張った弓は、彼らの背中にではなく、顔面に命中するという。
それは、主の御手は前にも後ろにもあるからだ。

詩篇139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
139:6 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。

主は、主を敬う人を前から後ろから取り囲み、御手を置いて祝福の道へと導いて下さる。

しかし主の敵に対しては、主は前から後ろから取り囲んで、背を見せて逃げたとしても、顔面にヒットするよう矢を放たれる。
主は、どうしても悔い改めず、主の民に悪を行う事を止めなかったアハブ王に、そのようにされた。
彼は変装して戦争に出て行き、よろいも身に着けていたが、ある兵士が何気なく放った矢が、見事、彼のよろいの間を射抜き、致命傷を与えた。
主の陣営をなぶったゴリヤテも、ダビデが放った一発の石が、ゴリヤテの兜の細い間を縫って、見事急所にヒットさせた。

主は、主を敬う者が放った石や投資を、見事ヒットさせてくださるお方だ。
それ故ダビデは、賛美によってこの詩を閉じている。

21:13 主よ、力をあらわして、みずからを高くしてください。われらはあなたの大能をうたい、かつほめたたえるでしょう。

この素晴らしい主を助けとし、より頼み、その御手の内に守られ、祝福され、ダビデのように大いに主をほめたたえる皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデが臣下の人々に、王のための執りを教えた詩篇(詩篇20篇)
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詩篇20 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

この詩はダビデが創って聖歌隊に歌わせた歌であるが、その内容は、臣下の人達に王であるダビデのための執り成しをさせる内容である。
すなわち、ダビデが主に助けられ、祝福されるように。主が、ダビデの願いと祈りを、聞き入れて下さいますように、と。

臣民が王のために祈るのは、まことに理に適った事である。
なぜなら、王が祝福される事はすなわちその国が祝福され、ひいては、臣民が祝福される事につながるからだ。

1節から5節まで「あなた」という言葉が何度も出て来るが、その「あなた」とは、臣民の目線で見たダビデ王である。

20:1 主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。
20:2 主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ、
20:3 あなたのもろもろの供え物をみ心にとめ、あなたの燔祭をうけられるように。〔セラ

ここは、民の口からダビデを執り成す祈りであるが、現代の私達は、この箇所の「あなた」に、自分の教会の名前や指導者の名前を入れて祈る時、素晴らしい執り成しの祈りとなる。

20:4 主があなたの心の願いをゆるし、あなたのはかりごとを/ことごとく遂げさせられるように。
20:5 われらがあなたの勝利を喜びうたい、われらの神のみ名によって旗を揚げるように。主があなたの求めをすべて遂げさせられるように。

イエス様も言われた。
マタイ6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

天の「御国(バシレイア)」とは、主の心のままの統治が行われる領域の事である。
御国を求める事は、すなわち、主の統治が成就することを求める事なのだ。
私達は自分の生活に、人生に、夫婦関係や親子関係に、主の統治が来るよう、祈るべきだ。

20:6 今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。

「油注がれた者」は、ヘブライ語でマシアハ(メシア)、それはギリシア語で「クリストス(キリスト)」に相当する語である。

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。

これは、新約においてイエス様が会堂で教えられ(ルカ4:18-19)、そして「この日、この御言葉があなたの耳の中で成就した」(ルカ4:21原意)と言われた箇所である。
キリストの言葉が私達の耳の中に入るなら、この御言葉は私達の中でも成就し、キリストと同じわざを為していく事ができる。
なぜなら、キリストは私達教会のかしらであり、そのかしらにそそがれた油が、私達にも流れ滴って来るからである。

詩篇133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。
133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

ここに出てくるアロンは大祭司であるが、私達の大祭司はキリストであり、そして私達もキリストに繋がるなら祭司であり、かしらなるキリストに注がれた油を私達も得る時、私達も油注がれた者としての働きをする。
すなわち、貧しい者に福音を宣べ伝える事を委ねられ、心痛む人を癒やし、捕われ人に放免を、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と神の報復の日とを告げさせ、全ての悲しむ人を慰め、主の民の中の悲しむ人に喜びを与え、灰に代えて冠を、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心に代えて賛美の衣を与えさせるのである。
「こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。」
まさにイザヤ61章で告げられている通りだ。

20:7 ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を「誇る(ザカール:覚える、記念とする)」。
20:8 彼らはかがみ、また倒れる。しかしわれらは起きて、まっすぐに立つ。
20:9 主よ、王に勝利をおさずけください。われらが呼ばわる時、われらにお答えください。

世の人は、戦車などの武力を誇り、それをもって支配しようとする。
しかし、あらゆる武器を造るのも、そしてそれを壊すのも、われらの神、主である。
ただ神の民がザカールする(覚え、記念とする)べきは、主の御名なのだ。
同じ言葉が、詩篇33篇にも記されている。

33:13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、
33:14 そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。
33:15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。
33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。
33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。

ここに書いてあるとおり、主は、全地をあまねく見渡し、一人一人を、その心までもご覧になられ、心が主に一つとなっている人を、探し求められる。
主は、多くの人々の中から、少年ダビデを見出した。彼がまだ羊飼いの少年で、誰にも見向きされない時から。
それは彼が、羊飼いの時から、彼の心が全く主と一つとなっていたからだ。

サウルと彼の配下の兵士たちは、ゴリヤテの装備や兵器、力強さに震えおののいたが、ダビデは主を恐れ、主を頼みとした故に、主に見出され、そして事実、彼が信じ、また口で宣言した通りに、主の陣営をなぶったゴリヤテの頭と胴体を切り離し、ペリシテ人の死体を野の獣のものとした。

主は全地を見渡し、このような者を探し求めておられる。
馬の力や戦車など世的な力を頼みとするのではなく、われらの神である主を頼みとし、不信仰の世において、ひときわ輝く神のわざを為す皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
主に従わない者が、こっぴどい災いを受ける事で、主が栄光をお受けになる場合(エレミヤ22:1-12)
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御言葉によって神の「良し」へと再創造される私達(詩篇19:1-6)
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詩篇19篇の中盤、7節から9節には、主(エホバ)の御名が1節に2つづつ、合計6回登場し、主エホバの御言葉と交わる事の素晴らしい効用がリストアップされている。

19:7a 主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」

ユダヤ人は「テフィリン教育」すなわち御言葉の暗唱教育をしており、そのため、世界的な天才を多く排出し、富においても支配権においても大きな力を持っている。
この、御言葉暗唱の効用の第一が、「たましいを生き返らせる」事である。
暗唱の過程で、御言葉を1節1節繰り返して宣言して行くごとに、罪と肉に埋もれた人間の魂は、息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、蘇生して行くのだ。

主エホバの「おきて(トーラー)」は完全である。
トーラーは主の御言葉であり、そして主の御言葉は、世界を創造した。
主が「光よあれ」と言えば、光が出来、主の言葉によって全宇宙も全被造物も、全生物も、そして私達人間も創造され、そして存続している。
主は、創造したそれら全てを見て「はなはだ良し」と宣言された。(創世記1:31)

その、完全なる主の御言葉が、テフィリンによって私達の中に刻み込められて行く時、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった私達の人生の中に、主のトーブ(良し)が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
シューブとは「帰る」という意味であるが、つまり、主の最初の創造のトーブから離れてしまった私達の中に、主の御言葉が浸透して行く事によって、当初のトーブへと、どんどん「帰る」のである。

19:7b 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

私達がテフィリンをするべきもう一つの理由は、賢くなるからである。
主の御言葉が入っていけば行くほど、知恵が高められて行く。
ユダヤ人が頭脳が優れているのは、テフィリン教育によって育てられたからだ。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

主のさとし(ピクド:定められた法令、戒め、教訓)は、正しく、それを聞けば、心は喜びを覚える。
御言葉をテフィリンする人は、どんどん喜びが増し加わっていき、表情が良くなって行き、目に輝きが増していく。
ユダヤ人女性は美女が多い、と言われているが、それは、まさにテフィリン教育のためであり、御言葉を取り入れる事こそ、最高のエステであると言って良い。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

きよくなる事を目指す人は多いが、「主を恐れる事」なしには、あり得ない。
御言葉が入ると、正しく恐れるべきお方が分かるようになる。
そして、正しい真理に立つ事によって、キリストにある私達は、悪魔サタンを少しも恐れる必要が無い、という事も分かるようになって行く。

詩篇19篇の後半では、これら、主エホバの御言葉の素晴らしさが、結論として示されている。

19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

「慕わしく(カゥマド)」するべきは、御言葉である。
カゥマドしてはならないもの、すなわち、手出ししてはならないものが、十戒で定められている。それはすなわち、隣人の妻や家、隣人の持ち物である。(申命記5:21)
また、主の忌み嫌われる、滅ぼし尽くすべきものもカゥマドしてはならない。
アカンは、聖絶すべきものを「欲しがって(カゥマド)」、自分のみならず、家族をも滅ぼしてしまった。(ヨシュア記7:21)
御言葉こそカゥマドすべきものであり、これは知れば知るほど、また味わえば味わうほどに甘く、麗しく、望ましいものになってゆく。

19:12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなたの前に喜ばれますように。

人は意外と、自分のあやまちを知らない・気づきにくいものであるが、御言葉は、自分が気づかなかった「とが」を知る事が出来、そして、そこから離れる事が出来る手助けをしてくれる。
あるテフィリンを続けた人の体験談として、それまで、Aの物事に対しては無意識的にBで対応して来ていた人が、テフィリンをするようになると、Aで来た事に今までBで返そうとする直前、テフィリンで蓄えてきた御言葉が、その人の心にストップをかけ、さらに、今までBで返してきた事によって人を傷つけ、人から嫌われ、今まで見えていなかったBの行い故に自分が災いを被ってきた数々が思い出され、結果、Bはもはや止めて、御言葉に適ったCの方法で返すようになった、という。
テフィリンした人は、このような御言葉による無意識的・自動的な「矯正体験」を幾つも持っていて、人生つまづく要素がどんどん減って行った、という。

御言葉が入ると、その人の中の罪の性質は拭い去られ、それまで見えなかった、きよい道が見えるようになる。
そして、今まで見えていなかった自分の汚れた所も見えるようになり、恥じ入り、悲しみ、それを心底、投げ捨てる事が出来るようになっていくのだ。
偉大なわざをなすのは、主の御言葉である。

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