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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

罪あるちっぽけな人間が、主の前にできる事とは(ヨブ記36章)
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エリフは、一通りヨブが発した言葉の間違いを指摘したが、なお、語るべき事があった。

36:1 エリフは重ねて言った、
36:2 「しばらく待て、わたしはあなたに示すことがある。なお神のために言うべき事がある。
36:3 わたしは遠くからわが知識を取り、/わが造り主に正義を帰する。
36:4 まことにわたしの言葉は偽らない。知識の全き者があなたと共にいる。

エリフがさらに言いたかった内容は、「神のために言うべき事」、すなわち「わが造り主に正義を帰する」事だった。
ヨブがあくまで自分を義とし、神のほうを間違っている、とした事が、耐え難かったのだ。(32:2)

36:5 見よ、神は力ある者であるが、/何をも卑しめられない、/その悟りの力は大きい。
36:6 彼は悪しき者を生かしておかれない、/苦しむ者のためにさばきを行われる。

神は力強い。しかし神は人とは違う。
人は、権力や力を持つと、とたんにその力を試みに乱用し、他人を軽んじたり、貶めたりと、他人を軽んじ卑しめるような心無い行動をはじめる傾向があるが、神は決してそうしない。
神のさばきは正しく、彼が行う統治の根底には、人を生かそうという愛がある。

36:7 彼は正しい者から目を離さず、/位にある王たちと共に、とこしえに、/彼らをすわらせて、尊くされる。
36:8 もし彼らが足かせにつながれ、/悩みのなわに捕えられる時は、
36:9 彼らの行いと、とがと、/その高ぶったふるまいを彼らに示し、
36:10 彼らの耳を開いて、教を聞かせ、/悪を離れて帰ることを命じられる。

ヨブは以前のままでは、相変わらず自己義や高ぶりの「根っこ」を抱えたまま、神との関係を「貧しく」過ごさざるを得なかったが、この度のサタンの試みをきっかけに、神はそれをも益として用い、ヨブを、より良い(トーブな)状態へと導こうとしておられる。
それでエリフは、ヨブに、心を低くして神に仕えるよう勧める。

36:11 もし彼らが聞いて彼に仕えるならば、/彼らはその日を幸福に過ごし、その年を楽しく送るであろう。
36:12 しかし彼らが聞かないならば、つるぎによって滅び、/知識を得ないで死ぬであろう。

ヨブは最終的に、神を知る事となり、その後の日々は、幸福で楽しいものとなっていった。
それは、彼は最終的に神の前に低くなり、悔い改めたからだ。

13節はまさに、サタンとそれに類する者達の性質を、一言で表している。

36:13 心に神を信じない者どもは怒りをたくわえ、/神に縛られる時も、助けを呼び求めることをしない。
36:14 彼らは年若くして死に、/その命は恥のうちに終る。

恥のうちに終る、と訳された箇所は、直訳すると「神殿男娼の中にある」である。
彼らの性質は、自分の意図する通りに、物事が起きない、あるいは、意図に反する事が起きると、怒り、神に対して顔向けしない。
ちょうど、カインがそうだったように。

創世記4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

このような者は、神殿男娼のように、その生涯は短く、その終わりは恥に満ちたものである。

自分の思い通り行かないで怒りが満たされるような時、が私達にもあるかもしれない。
そのような時、私達は、自分が果たして神の前に正しかったかどうかを反省し、低くなって悔い改めるべきだ。
ヨブは怒りに満たされ、自己義を貫いて、自分を高くしていた故に、ちょうどその災いの道を通っていた。
エリフはそれを指摘する。

36:15 神は苦しむ者をその苦しみによって救い、/彼らの耳を逆境によって開かれる。
36:16 神はまたあなたを悩みから、/束縛のない広い所に誘い出された。そしてあなたの食卓に置かれた物は/すべて肥えた物であった。

エリフが他の3人の友人達と違う所は、他の3人は、災いが起きるのは因果応報の故だという機械的な押し付けばかりしていたが、エリフは、神は人をより「良い(トーブ)」状態へと導くために、そのとっかかりとして、災いと見える事も起こし、さらに良い状態へと導くために、その事を起こす事もあるのだ、という所だ。

エリフがここで言っているように、主は、御言葉に聞き従おうとして努力する人を、束縛のない広い所に誘い出される。
ダビデも言っている。

詩篇18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

主はなぜダビデを喜びとされたか。
それは、彼が主を「わたしの助け」としたからであり、苦しむ時に主に向かって助けを求めたからである。

詩篇18:1
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。
18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。

ヨブは苦しみの時、主に助けを求めるのではなく、自分のみじめな状態を吐露し、自己義を叫び、頑として主張したが、ダビデは主に助けを求めた。
それで主は、ダビデを「喜び」とし、助け出されたのだ。

ヨブ記36:17 しかしあなたは悪人のうくべき/さばきをおのれに満たし、/さばきと公義はあなたを捕えている。
36:18 あなたは怒りに誘われて、/あざけりに陥らぬように心せよ。あがないしろの大いなるがために、おのれを誤るな。
36:19 あなたの叫びはあなたを守って、/悩みを免れさせるであろうか、/いかに力をつくしても役に立たない。
36:20 人々がその所から断たれる/その夜を慕ってはならない。
36:21 慎んで悪に傾いてはならない。あなたは悩みよりもむしろこれを選んだからだ。

エリフは続く節で、主がいかに力強く、栄光に富んでおられるかを示している。
38章以降、主は圧倒的臨在をもって、ご自身の栄光をあらわしているが、その導入として、この主を褒め称えるように、ヨブに促している。

36:22 見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。
36:23 だれか彼のためにその道を定めた者があるか。だれか『あなたは悪い事をした』と/言いうる者があるか。
36:24 神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない。これは人々の歌いあがめるところである。
36:25 すべての人はこれを仰ぎ見る。人は遠くからこれを見るにすぎない。

エリフが「神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない」と言っているように、私達ができる事は、ただ主の素晴らしさを仰ぎ見て、主に栄光を捧げる以外にない。
ヨブのように、自分のわずかばかりの義を掲げ、それを盾にして主の素晴らしさを曲げようとするなど、愚の骨頂なのだ。

36:26 見よ、神は大いなる者にいまして、/われわれは彼を知らない。その年の数も計り知ることができない。
36:27 彼は水のしたたりを引きあげ、/その霧をしたたらせて雨とされる。
36:28 空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。
36:29 だれか雲の広がるわけと、/その幕屋のとどろくわけとを/悟ることができようか。
36:30 見よ、彼はその光をおのれのまわりにひろげ、/また海の底をおおわれる。
36:31 彼はこれらをもって民をさばき、/食物を豊かに賜い、
36:32 いなずまをもってもろ手を包み、/これに命じて敵を打たせられる。
36:33 そのとどろきは、/悪にむかって怒りに燃える彼を現す。

結局、人は、どんなに徳を積んでも、どんなに善行を行っても、主の義に届くものではないし、主の栄光を前にしては全く無に等しい。
圧倒的に大いなる主。
その主は、ちっぽけで罪を内在させている人間をまたたく間に消し去るのではなく、人を愛し、憐れみ、主に立ち返らせ、主と関係を持ちつつ生きるようにと、招いておられる。
そのために必要な態度は、ヨブのようにそそりたつ自己義という高慢を捨て、へりくだって主に栄光を帰す事なのだ。

人の心をご覧になられる神(ヨブ記35章)
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エリフはさらにヨブに指摘する。

35:1 エリフはまた答えて言った、
35:2 「あなたはこれを正しいと思うのか、/あなたは『神の前に自分は正しい』と言うのか。

『神の前に』は、ヘブライ語では「メ・エル」、エルは神で、メは「**から、**以上」の意味があり、KJVでは「Thinkest thou this to be right, that thou saidst, My righteousness is more than God's?」と訳している。
つまりエリフは、ヨブ、あなたの義は神から来たもの、あるいは、神以上だとでも思っているのか、といった訳され方がされている。

35:3 あなたは言う、『これはわたしになんの益があるか、/罪を犯したのとくらべて/なんのまさるところがあるか』と。
35:4 わたしはあなたおよび、/あなたと共にいるあなたの友人たちに答えよう。

今回エリフは、ヨブのみならず、友人たちにもその間違いを指摘する。
友人たちも神に対する貧しい神観を持っていたからだ。

35:5 天を仰ぎ見よ、/あなたの上なる高き空を望み見よ。
35:6 あなたが罪を犯しても、/彼になんのさしさわりがあるか。あなたのとがが多くても、彼に何をなし得ようか。
35:7 またあなたは正しくても、彼に何を与え得ようか。彼はあなたの手から何を受けられるであろうか。
35:8 あなたの悪はただあなたのような人にかかわり、/あなたの義はただ人の子にかかわるのみだ。

エリフはまず、神が人よりもはるかに高い方であることを強調し、その神を前に、人がいかに正しさを主張しても、どんなに無意味か、また、人が自分の義を主張しても、いかにむなしいかを語る。
どんなに人が正しくても、それが神に何か益をもたらすものではないし、人がどんなに悪をした所で、神に何か損失が与えられるものではない。
ただ神は、人の、ご自身に向かう「心」こそ目を留められるのだ、という事を、エリフは続く節で指摘する。

35:9 しえたげの多いために叫び、/力ある者の腕のゆえに呼ばわる人々がある。
35:10 しかし、ひとりとして言う者はない、/『わが造り主なる神はどこにおられるか、/彼は夜の間に歌を与え、
35:11 地の獣よりも多く、われわれを教え、/空の鳥よりも、われわれを賢くされる方である』と。
35:12 彼らが叫んでも答えられないのは、/悪しき者の高ぶりによる。
35:13 まことに神はむなしい叫びを聞かれない。また全能者はこれを顧みられない。

人が神に叫び求めても、神が何も答えず聞かれない。
ヨブはそれをもって「神が不当だ」と叫び、友人たちは、神は高い所に座すお方だからいちいち人の言う事を聞く必要が無い、というレベルに留めてしまっているが、エリフはさらに進んだ説明をしている。

もし人が神に叫び求めても聞かれないするなら、それは、神の耳が遠いからではなく、また無情なマシンのような神だからでもなく、その人の叫びが、低俗な欲望に由来するものであったり、あるいは「高ぶり」に由来する「むなしい叫び」だからだ。
ヤコブも指摘する。

ヤコブ4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

神に「自分の願う事をして欲しい」「自分に嫌な目を見させないで欲しい」という自分主体の願いも、自分を神以上のものとする高慢なつぶやきも、「むなしい叫び」である。
それは、神にいくら叫んでも聞かれない。

神はむしろ、神を敬う人にこそ目を留められる。
ダビデはそれをよく知っていた。

1歴代誌29:14 しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。

これは、ダビデが神のために神殿を建てたいと願った時、ダビデ自身そのために多くの捧げ物をし、また、人々にも勧めた所、おびただしい量の捧げ物が集まった時に、主をほめたたえて言った言葉である。

人が神に何か為し得ると思うのは、傲慢だ、とエリフは指摘したが、ダビデは、神は人の造った建物に住まわれるお方ではない事を良く知っていたし、そして、このようなおびただしい捧げ物を捧げられたのは、神様、あなたのお陰です、と感謝した。
神は、人の心をご覧になられるお方である事をダビデはよく知っていたのだ。

1歴代誌29:16 われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。
29:17 わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。
29:18 われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。

ダビデが告白している通り、主は心をためされるお方であり、そしてシンプルな、正直な心を喜んで下さる。
ダビデ王の感謝の祈りの中心は、全てのものは「あなたのものです」という点であり、その根底には、神は、神を愛する人の心をこそ喜ばれるお方である、という大前提がある。

世のいわゆる「神々」は、人間が捧げる「モノ」を喜ぶかもしれない。
10円よりも100000円のほうを喜ぶかもしれない。
しかし主は、元々富んでおられるお方であり、人が神に捧げる10円も、10万円も、その与える・与えないを司っておられるお方である。
だから主は、むしろ、人の心をこそ計られるのだ。

エリフは続けて言う。

35:14 あなたが彼を見ないと言う時はなおさらだ。さばきは神の前にある。あなたは彼を待つべきである。
35:15 今彼が怒りをもって罰せず、/罪とがを深く心にとめられないゆえに

エリフは、ヨブが「神のほうが間違っている」「自分のほうに分がある」という高慢な心でもって神に向かって叫んでいる限り、神は聞きはしないし、むしろ怒りをもって答えかねない事だ、と指摘する。

35:16 ヨブは口を開いてむなしい事を述べ、/無知の言葉をしげくする」。

この16節のエリフの言葉は、そのまま神ご自身がヨブに対して評価した言葉だ。(38:2)
結局、神を敬う事なしに、神にあれをしろこれをしろ、という叫びは、虚しいものなのだ。
イエス様も言っている。

ヨハネ6:26 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
6:28 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

群衆は、イエス様がパンを増やして満腹させてくださったから、このお方を王に立てればパンに事欠くことはない、と踏んで、イエス様をむりやりに王にしようとしたのだが、、イエス様はそこから退かれた。(15節)
彼らは、イエス様との人格的な交わりを持つためではなく、また神が認証されたメシヤとして救いを求めるためでもなく、ただ、肉欲を満足させてくださるお方だと思ったから来たのだ。
それで彼らがイエス様を訪ねて探して来た時、イエス様は「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」と指摘したのだ。

神は、人の好き勝手な欲望に、答えるお方ではない。
神はむしろ、人格的な交わりをこそ、人に求めておられる。
イエス様は彼らに答えられた。
「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と。

結局、人に出来る最高の事は、イエス・キリストを知る事。
すなわち、神から遣わされた神の御子であり、私達のために十字架にかかられ、死なれ、よみがえられ、そして天においても地においても一切の権威が与えられたイエス様を主として受け入れ、彼との関わりを持ち、彼と共に歩んでいく事だ。

「災い」を積み立て貯金する方法 - 「わたしは悪くない」と主張する事(ヨブ記34:16-37)
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エリフは、神は完全で過ち無く統治されるお方である事を示した。
以下続く節で、ヨブの、「私は正しい、神が不当だ」と言った事の過ちを示して行く。

34:16 もし、あなたに悟りがあるならば、これを聞け、/わたしの言うところに耳を傾けよ。
34:17 公義を憎む者は世を治めることができようか。正しく力ある者を、あなたは非難するであろうか。

ヨブは神を不当だと非難するが、万一にも神が「公義を憎む者」であったとするなら、とうの昔に宇宙も銀河系も太陽系も崩れていたはずであり、今もなお宇宙が秩序を保っているからには、神は公義を行う方であるからに他ならないと先に言った。

34:18 王たる者に向かって『よこしまな者』と言い、/つかさたる者に向かって、『悪しき者』と/言うことができるであろうか。
34:19 神は君たる者をもかたより見られることなく、/富める者を貧しき者にまさって/顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである。

神はいつも、見ておられる。
王や、つかさたる者に、人は陰口は叩くことはできたとしても、その王やつかさに面と向かって「よこしまな者」「悪しき者」と言う事は、めったには出来ない。
それならなおさら、常に私達を御目で見て、御聞いて、知っておられ神に向かって悪口を言うとするなら、それは、よほど身の程をわきまえない事だ。
ヨブはそのような事をしたのだ。

34:20 彼らはまたたく間に死に、/民は夜の間に振われて、消えうせ、/力ある者も人手によらずに除かれる。
34:21 神の目が人の道の上にあって、/そのすべての歩みを見られるからだ。
34:22 悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、/暗黒もない。
34:23 人がさばきのために神の前に出るとき、/神は人のために時を定めておかれない。
34:24 彼は力ある者をも調べることなく打ち滅ぼし、/他の人々を立てて、これに替えられる。

神は、人の営みを全て見ておられ、そして、人のそれぞれのいのちを計っておられる。
悪を行う者もまた、いかに闇の中に身を隠そうとも、また、心の中で密かに謀ろうとも、全て見ておられ、それぞれに応じたさばきを定められる。
警察はどこにでもいるわけではなく、全部を見聞きしているわけではないため、「取り調べ」という事をしなくてはならないが、神には全くその必要は無いのだ。

34:25 このように、神は彼らのわざを知り、/夜の間に彼らをくつがえされるので、/彼らはやがて滅びる。

悪を行う者のわざを、神は、何も「夜」という時間帯にしか覆さない、というわけではない。
夜は、人が寝る時間帯であり、また、闇夜は人が目で見えない時である。
そのような、人が計り知る事が出来ない思いがけない時に、神はそれを行う、という意味だろう。

34:28 こうして彼らは貧しき者の叫びを/彼のもとにいたらせ、/悩める者の叫びを彼に聞かせる。
34:29 彼が黙っておられるとき、/だれが非難することができようか。彼が顔を隠されるとき、/だれが彼を見ることができようか。一国の上にも、一人の上にも同様だ。
34:30 これは神を信じない者が世を治めることがなく、/民をわなにかける事のないようにするためである。

神は、人の営みを人類史が始まって以来ずっと秩序をもって保っておられる。
もし、上に立つ権力者が、絶対的な権力を奮って民草を虐げるなら、天災が起こったり、その者が不慮の死によって取り去られる。
そのような「前は必ず勝ち、悪は必ず滅びる」といった法則性を人はなんとなく知っているからこそ、神を知らない人でも、なんとなく、全ての人を超えた「天」という人格ある存在を意識している。
それは、神が、弱く貧しい人達がいつまでも虐げられ続ける事がないように、また人の悪が増大して人間みずから自滅してしまう事が無いように、神はいつも歴史に介入し、人類全滅の危機から、いつも人類を守ってきたのだ。
こんな邪悪さを備えた人間が、何千年も自滅せず生きながらえている。それこそ、憐れみ深い神が存在するという事の証明ではなかろうか。

そういうわけでエリフは、続く節で、自分が犯した罪を認め、神に告白するようヨブに促す。

34:31 だれが神に向かって言ったか、/『わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた。
34:32 わたしの見ないものをわたしに教えられたい。もしわたしが悪い事をしたなら、/重ねてこれをしない』と。

口語訳で34節は「わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた。」と訳されているが、しかし他の多数の訳(新改訳、新共同訳、NKJVなど)は、「わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。」というように訳される。(新共同訳)
つまりエリフは、こういう風に悔い改めの告白をしなさい、と勧めているのだ。

34:33 あなたが拒むゆえに、/彼はあなたの好むように報いをされるであろうか。あなたみずから選ぶがよい、わたしはしない。あなたの知るところを言いなさい。

エリフは促す。
あなたは、悔い改めの言葉を発するのか、それとも、相変わらず全能者を不当だと訴え続けるのか、どちらかあなたが選びなさい、それはわたしの分ではないですよ、と。

34:34 悟りある人々はわたしに言うだろう、/わたしに聞くところの知恵ある人は言うだろう、
ここは新共同訳では「理解ある人はわたしに言うだろう。知恵ある人はわたしに同意するだろう。」と訳されている。こちらのほうがわかりやすいだろう。

34:35 『ヨブの言うところは知識がなく、/その言葉は悟りがない』と。
34:36 どうかヨブが終りまで試みられるように、/彼は悪人のように答えるからである。
34:37 彼は自分の罪に、とがを加え、/われわれの中にあって手をうち、/神に逆らって、その言葉をしげくする」。

ヨブは自分が罪がないと頑として主張し、語気を強めて、主張に主張を重ね、3人の友人たちさえ黙らせたが、しかしエリフは指摘する。
そうやって、「自分は悪くない」と、主張すればする程、実は神の前に、自分の「悪人」である事を積み立てているのだ、と。

私達も同じである。
妻が悪い、夫が悪い、親が、育ってきた環境が、社会が悪い、自分は悪くない。
そう主張すればするほど、実は自分の品性を損ね、貶め、自分で自分をさらに癒やし難くしているのだ。
人類最初の夫婦が、まさにそうだったではないか。

エリフは7-8節で
34:7 だれかヨブのような人があろう。彼はあざけりを水のように飲み、
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
と言った。

ヨブとすれば、自分は、あざけりを水のように飲むなどとんでもない、悪をなす者どもと交わったり、悪人と共に歩んだ事などない、と主張する所であろう。
しかし、実は、ヨブが自分を正しいとすればする程、彼は、悪をなす者共の交わりへとどんどん入り込んで行っていたのだ。

彼が自分は悪くない、と主張すればするほど、悪人と共なる歩みを進んでおり、全能なるお方を「不当だ」と叫べば叫ぶ程、彼は、全能者へのあざけりを飲み干していた。
その点、エリフの指摘は、ただ因果応報を繰り返すだけの3人の友人たちより、はるかに進んでいると言える。

結局ヨブは、イエス様が話されたパリサイ人と取税人のたとえの中の、パリサイ人を演じていたのだ。(ルカ18:10-14)
主は言われた。
ルカ18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

結局、自分を高くし、自分を正しいとし、神を正しくない、とする者を、神は裁かれる。
神が義と認めて下さるのは、自分を罪ある者として悔い改め、自分を低くする者である。

ヤコブ4:6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
4:7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
4:9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

ヨブは最後、自分を誤ちある者とし、低くへりくだって、灰の中に伏した。
神がヨブを高めて下さるのは、その後である。

ヨブほどに神を偽り者とする者が他にいるだろうか、と論証するエリフ(ヨブ記34:1-15)
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34:1 エリフはまた答えて言った、

ヨブ記のパターンからすれば、次は、ヨブが弁論を広げる番であるはずが、エリフがさらに語り続けて行く。

34:2 「あなたがた知恵ある人々よ、わたしの言葉を聞け、/あなたがた知識ある人々よ、わたしに耳を傾けよ。
34:3 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえるからだ。
34:4 われわれは正しい事を選び、/われわれの間に良い事の/何であるかを明らかにしよう。

エリフは彼らに「知恵ある人々」「知識ある人々」と言っている。
舌が食べ物の味を、それが甘いか酸っぱいか、おいしいかまずいか仕分けるように、知恵ある人、知識ある人なら、正しい事・良い事の何であるかを仕分け、そして彼がこれから語り出す言葉の良し悪しを仕分けるだろう、と。かなり自信たっぷりな言い方だ。

34:5 ヨブは言った、『わたしは正しい、/神はわたしの公義を奪われた。
34:6 わたしは正しいにもかかわらず、偽る者とされた。わたしにはとががないけれども、/わたしの矢傷はいえない』と。

ヨブは、自分を「正しい」「とががない」と主張していた。
エリフは、ヨブが言った事を短くまとめて引用している。

34:7 だれかヨブのような人があろう。彼はあざけりを水のように飲み、
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
34:9 彼は言った、『人は神と親しんでも、/なんの益もない』と。

エリフは「だれかヨブのような人があろう」と言って、ヨブを擁護するかと思いきや、続く言葉では「彼はあざけりを水のように飲み、悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。」と、ヨブを落とし込めている。
エリフの言葉は、戸惑う所が多い。
「彼」や「彼ら」の対象が、突如切り替わっていたり、今回にしても、ヨブが過去に言った事を引用している、と思いきや、実は別の意図があったり。
今回の所では、エリフはヨブを持ち上げようとしているのか、それとも引きずり下ろそうとしているか、ここだけを見ると一体どっちなのか分からない所であるが、続く節をみると、ようするに彼は、神こそ完全で正しく真実なるお方であり、この神を前にヨブが言った事・取っている態度は、神をあざける事であり、悪人の集いに集う事だ、と言いたいのだという事が分かってくる。
以下に続く節で、エリフは、神が完全で、正しく、真実なるお方である事を論証している。

34:10 それであなたがた理解ある人々よ、わたしに聞け、/神は断じて悪を行うことなく、/全能者は断じて不義を行うことはない。
34:11 神は人のわざにしたがってその身に報い、/おのおのの道にしたがって、/その身に振りかからせられる。
34:12 まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。
34:13 だれかこの地を彼にゆだねた者があるか。だれか全世界を彼に負わせた者があるか。

理解ある人々であるなら、分かるはずだ。
神は、悪を行わず不義を行わない、全能なる神は、欠点もなく、誤ちも無いお方だ。
もし万一、神に「欠点」や「誤ち」があるとすれば、この天体宇宙は、とうの昔に崩壊し、あるいは存在させられるはずも無かったはずだ。

人がつくった建造物は、だいたい1000年も経てば崩壊し、万年も経てば跡形もなくなってしまうだろう。
人には欠点や誤ちがあるからだ。
しかし神は、千年万年どころか、何億年も全被造物を存続させ続ける事が可能である。完全なるお方である故だ。

34:14 神がもしその霊をご自分に取りもどし、/その息をご自分に取りあつめられるならば、
34:15 すべての肉は共に滅び、/人はちりに帰るであろう。

そうである。全て息ある者の息は、全能者から来た。
そしてもしも、完全なるはずの神が気まぐれを起こして、全ての息を御自分に取り集めるとするなら、すべての肉は滅び、全ての人はちりに帰ってしまう。

あいにく神は、そんな気まぐれによって人を無情に消し去ったり、きまぐれに滅ぼし尽くしたりする事の無いお方だ。
主は、ノアの時も、ノアの家族8人以外の全人類が邪悪化してしまった時さえ、全ての人を滅ぼし尽くす事はしなかったし、ソドムという邪悪な町さえも、もし10人でも義人がいればその町全体を許そうと言われた。
主は人を尊い存在として大切に扱い、罪に沈む人をなんとかして救おうと、見守っておられるお方であり、義人が罪人と同じ滅びの酬いを降すことを決してしないお方だ。

イザヤ57:15 いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。
 57:16 わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。

主は、人のなりたちをご存知である。人の弱さ、罪深さ、はかなさをご存知であり、あわれまれるからこそ、主はいつまでも争わず、絶えず怒ってはおられない。
それは「霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。」と書いてある通りだ。

イザヤ57:17 彼のむさぼりの罪のゆえに、わたしは怒って彼を打ち、わが顔をかくして怒った。しかし彼はなおそむいて、おのが心の道へ行った。
 57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 57:19 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう」と主は言われる。

主は、神の民が、たとえ不実に不実を重ね、神に打たれ、弱り果ててしまっても、その上でなお、不実を重ねたとしても、彼らを憐れみ、いやし、慰めてくださった。
イスラエルの民がそうである。
神は愛であり、そのご性質は、憐れみ、赦し、恵みに富んでおられるお方だ。

主は、心くだかれてへりくだる者とともに住み、へりくだる者の霊を生かし、砕ける者の心を活かすお方。
ダビデも言った。
詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
主は、みずからを義として頑としてそれを曲げない者は、それを砕かれる。
だからこそエリフは、ヨブがあくまで自己義を頑として曲げない事に対し、次のように言ったのだろう。

34:7 だれかヨブのような人があろう。彼はあざけりを水のように飲み、
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
34:9 彼は言った、『人は神と親しんでも、/なんの益もない』と。

「だれかヨブのような人があろう」とは、ヨブほどの義人があろうか、と、ヨブを擁護しようとするのではなく、実は真逆で、ヨブほどに自己義という「悪」を貫いた人があろうか、という皮肉だったのではなかろうか。

1ヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

このヨハネの言葉によるなら、ヨブは「自分は罪を犯していない」と叫べば叫ぶ程に、「神は偽り者だ、偽り者だ」と叫んでいる事になる。
自分は正しくて、神が間違っている、とするのは「あざけり」であり、頑として自己義を主張し続けるのは「悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む」事だ、という意味で、エリフはそのように言ったのではなかろうか。

いずれにせよ、神は、へりくだった者の祈りを聞かれる。
たとえその人が、ダビデのように、大きな罪を犯したとしても。
そして、あくまで自分を義として高慢になる者の祈りは退けられる。
いかにその人がヨブのように、パリサイ人のように、正しい事をしていたとしても。

因果応報という壊れたシンバルからの脱出(ヨブ記33章)
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33章からエリフの本格的な弁論が始まる。

ヨブ記33:1 だから、ヨブよ、今わたしの言うことを聞け、/わたしのすべての言葉に耳を傾けよ。
33:2 見よ、わたしは口を開き、口の中の舌は物言う。
33:3 わたしの言葉はわが心の正しきを語り、/わたしのくちびるは真実をもってその知識を語る。
33:4 神の霊はわたしを造り、/全能者の息はわたしを生かす。
33:5 あなたがもしできるなら、わたしに答えよ、/わたしの前に言葉を整えて、立て。
33:6 見よ、神に対しては、わたしもあなたと同様であり、/わたしもまた土から取って造られた者だ。
33:7 見よ、わたしの威厳はあなたを恐れさせない、/わたしの勢いはあなたを圧しない。

エリフは、自分の口方出てくる言葉は、神の霊によって造られた者、全能者の息によって生かされた者の言葉であり、なおかつ自分は、ヨブと同様、同じ土の器である事を、はじめに宣言する。
しかしながら自分は、ヨブを圧倒させるようなものではないという事もまた添える。
神と人との仲保者であるイエス様もまた、人を威圧せず、恐れさせないお方であるが、エリフは、ヨブが神と出会うための橋渡し的な役割を果たしている。。

33:8 確かに、あなたはわたしの聞くところで言った、/わたしはあなたの言葉の声を聞いた。
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、/わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、/わたしのすべての行いに目をとめられる』と。

エリフは8-11節で、ヨブが言った事を取り上げ、続く節でその中の間違いを示すのだが、彼は3人の友人たちとは違った点からヨブの誤ちを指摘する。

33:12 見よ、わたしはあなたに答える、/あなたはこの事において正しくない。神は人よりも大いなる者だ。
33:13 あなたが『彼はわたしの言葉に/少しも答えられない』といって、/彼に向かって言い争うのは、どういうわけであるか。

神は、人よりも大いなる者であり、その神が、自分の思い通りに動いてくれない、という事を文句を言うのは不当である。
それは友人たちも同じような指摘をした事だが、エリフはさらに進んだ論述をする。

33:14 神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。
33:15 人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、/夢あるいは夜の幻のうちで、
33:16 彼は人々の耳を開き、/警告をもって彼らを恐れさせ、

このように神は、色々な方法を通して語られるお方であるが、人は思う。神が自分の目に見える形で現れて、自分の耳に聞こえる形で語ってくださったら、と。
実は神は、そのような形ではないが、すでに語っておられる。
私達の周囲の自然環境を通し、また私達の周りに神が遣わして下さる人の言葉を通し、あるいは神が起こされる諸々の状況を通して。

ヨブの場合、どうしてこんなに災いが続くのか、そう主に申し上げたのに、神は何も答えてくださらない、と言う。
しかし実は、その、諸々の災いそのものが、ヨブのそれまでの生き様と、心に思い描いた事の「答え」だったのだ。
えっ、と思われるかもしれない。
ヨブはそれまで正しく生きて来たのではないか、神はなぜ、今まで正しく生きてきたはずのヨブを、そのような災いに陥らせたか。
その理由が17-22節で述べられている。

33:19 人はまたその床の上で痛みによって懲らされ、/その骨に戦いが絶えることなく、
33:20 その命は、食物をいとい、/その食欲は、おいしい食物をきらう。
33:21 その肉はやせ落ちて見えず、/その骨は見えなかったものまでもあらわになり、
33:22 その魂は墓に近づき、その命は滅ぼす者に近づく。

これはまさにヨブの状況だが、これらを受けた全ての理由は、17-18節である。

33:17 こうして人にその悪しきわざを離れさせ、/高ぶりを人から除き、
33:18 その魂を守って、墓に至らせず、/その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。

人が災いとみえる事を、神が敢えてその人に加えられる理由、それは、その人を悪から離れさせ、高ぶりを除き、それによってその人を滅びないように守って下さるためだ。
神が人をあえて人を苦しめ、痛ませる事がある理由は、その人の魂を守り、命を守って、滅びる事がないようにするため、なのだ。

以前、ヨブは確かに気をつけて罪を犯さないように気をつけ、善い行いをするように努めて来た。
しかしその心には、高慢があり、自己義があった事が、この3人の友人たちとの議論を通して、明らかにされた。
また、ヨブを含めた彼ら全体の神観が貧弱であった事も明らかになった。

神はまさに、ヨブが知らずして持っていた高慢や自己義を取り除くために、滅びる事が無いよう彼の命を守るために、そしてヨブに、より素晴らしい神様との交わりへと入れさせるために、諸々の事を起こさたのだ。

確かに3人の友人たちも、今までさんざんヨブの正しくない所を指摘しようと努めて来た。
しかし彼らは、壊れたシンバルのよう、ただ因果応報論を繰り返すだけで、何の進展も無かった。
しかしエリフは、神が敢えて災いとみられる事を起こされる理由の一つが、人から滅びの性質を取りのぞくため、さらには人を救うためだ、という、因果応報を超越した「神の憐れみ」を示したのだ。

さらにエリフは、神と人との仲保者へと導く。

ヨブ記33:23 もしそこに彼のためにひとりの天使があり、/千のうちのひとりであって、仲保となり、/人にその正しい道を示すならば、
33:24 神は彼をあわれんで言われる、/『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、/わたしはすでにあがないしろを得た。

罪と災いに苦しむ人のために、中保して下さるお方が、正しい道を示して下さるなら、神は憐れんで下さる。
このような優れた中保者は、聖書全体が語っている。
すなわち、神の御前でとりなしをして下さるイエス・キリストの事を。

イザヤ53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

イエス様は、どのようにして神をなだめたか。
それは彼自身が、人の身代わりに罰を受ける事によって、である。
彼の懲らしめによって私達は平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私達は癒やされた。(イザヤ53:4-5)

さらにエリフは、この、中保して下さるお方のとりなしによって、神にとりなされた人が、いかに立ち直って行くのか、という事も示す。

ヨブ記33:25 彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、/彼を若い時の元気に帰らせよ』と。
33:26 その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、/喜びをもって、み前にいたらせ、/その救を人に告げ知らせられる。

ヨブの後の状態は、まさにそうである。
彼は以前に増して健やかになり、優れた子達を産んで、長寿を全うした。

これは、神がヨブに一度、理不尽な思いをさせた事の賠償などではない。
ヨブが今回の事で神のレッスンを受け、その後の彼の長い人生、彼はへりくだって、正しい神観を持ち、健全に神と交わりつつ歩んだからだ。
もしそうでなく、後の人生の途中で再び高慢になっていたとしたら、神は彼を再び退けていただろう。(エゼキエル3:20)

33:27 彼は人々の前に歌って言う、/『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。
33:28 彼はわたしの魂をあがなって、/墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。

ヨブもまた、後に、自ら罪を犯した事を告白し、恥じ入って灰の中に座る。(42:3-6)
そして神もまた、ヨブが犯した高慢をそのまま処罰する事をしないで、悔い改めた彼に、以前の二倍の祝福を与えてくださった。
神はまことに憐れみと赦しに富まれたお方であるが、それも、その恵みを与えて下さるのは、一度や二度の事ではない。

33:29 見よ、神はこれらすべての事を/ふたたび、みたび人に行い、
33:30 その魂を墓から引き返し、/彼に命の光を見させられる。

神は、何度もその憐れみを人にほどこし、滅びの穴に落ち込んでしまわないようにして下さるお方だ。
イエス様もまた、悪を為した相手が悔い改めるなら、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われた。
神はまさに、赦しに富んだお方である。
それで私達は、この人生の中、いつでも悔い改めのチャンスが与えられているのである。
私達は、与えられているこの恵みの時、救いの時を、無駄に過ごす事なく、一切、罪の災いに打ち叩かれるような事が無く、平和の内に一生を全うする者でありたい。

エリフの登場(ヨブ記32章)
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31:40b ヨブの言葉は終った。
32:1 このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。

ヨブも、友人たちも、言葉を終えた所で、一人の若者が声を上げる事になる。エリフという若者である。
4章から31章までの間、長きに渡って、ヨブと3人の友人たちの弁論で埋め尽くされいたが、32章から37章までは彼の弁論に入る。

エリフの名前はヘブル語で「彼は私の神」という意味であり、彼はこの以前も、また以後も、彼の存在を伺わせる記述が一切なく唐突に現れるため、このエリフの弁論は、後代に追加されたのではないかと言う学者も多くいる程であるが、それはギリシア思考的な解釈である。
なぜエリフが突然現れ言葉を語りだしたのか。記されているからには、神の意図がある。私達はそれを探って行きたい。

32:2 その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。
32:3 またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。
32:4 エリフは彼らが皆、自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていたが、
32:5 ここにエリフは三人の口に答える言葉のないのを見て怒りを起した。

エリフが声を上げた動機は、怒りであった。
彼はまずヨブに向かって怒りを燃やし、3人の友人たちにも怒りを燃やすのだが、ヨブに対して怒った理由は、ヨブが神よりも自分を正しいとしたから、また、友人たちに対して怒りを燃やした理由は、彼らがヨブを罪ありとしながら答える言葉が無くなり、ヨブを「罪あり」として論破できなかったからだ。
ヨブ記全体は、崇高な言葉に満ちているようでも「怒り」と「罪さだめ」に溢れているような、荒んだ雰囲気であるが、エリフの言葉はそれにさらに拍車をかけている。

32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。

エリフがそれまでずっと鳴りを潜めていたのは、年長者を敬い、彼らが言葉を発するべきだと思っていたからだ。
歳を経た人は確かに知恵がある。生きた分だけ、経験があるからだ。
しかし集団の中の最年長者が、必ずしも最も知恵深い、とは限らない。
経験によって身につく知恵は、過ぎ去っていく世の知恵であり、完全なものではないからだ。

32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。

確かに、人に知恵を与えるお方は、神である。
神から知恵が与えられ、歳を経た人にまさる者になる人は、どのような人か。

ダニエル1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。

神はダニエルとその友人たちに知識を与え、全ての文学を悟る力と知恵を与えてくださったが、彼らは世の食物、汚れた食物によって自分自身を汚すまいと心に定め、いのちの危険を顧みずに、神に喜ばれる者として自らを清めようとした。(ダニエル1:8、3:16-18)
それだから神は彼らを知恵深い者とされ、バビロンという当時の罪深い世代の中でも栄、神は彼らを通して神の栄光をあらわされたのだ。

ダニエル2:27 ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。
 2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。

知恵が与えられ、神に用いられる器とは、自らをきよくする器である。
ヤコブの子ヨセフもまた、エジプトという罪深い時世の中でも、自らをきよく、正直に保った故に、後にはエジプトの総理大臣になり、イスラエルの全家族を救う事に用いられた。

32:11 見よ、わたしはあなたがたの言葉に期待し、/その知恵ある言葉に耳を傾け、/あなたがたが言うべき言葉を捜し出すのを/待っていた。
32:12 わたしはあなたがたに心をとめたが、/あなたがたのうちにヨブを言いふせる者は/ひとりもなく、/また彼の言葉に答える者はひとりもなかった。
32:13 おそらくあなたがたは言うだろう、/『われわれは知恵を見いだした、/彼に勝つことのできるのは神だけで、/人にはできない』と。
32:14 彼はその言葉をわたしに向けて言わなかった。わたしはあなたがたの言葉をもって/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは驚いて、もはや答えることをせず、/彼らには、もはや言うべき言葉がない。
32:16 彼らは物言わず、/立ちとどまって、もはや答えるところがないので、/わたしはこれ以上待つ必要があろうか。
32:17 わたしもまたわたしの分を答え、/わたしの意見を述べよう。
32:18 わたしには言葉が満ち、/わたしのうちの霊がわたしに迫るからだ。

主の霊に導かれる者は、心の傷ついた者を癒やすもの(イザヤ書)である。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。

主なる神の霊に導かれるなら、このような実があるものだが、しかしエリフもまた「怒り」に導かれて言葉を発し、ヨブ記全体が「怒り」に溢れているような雰囲気に、さらに拍車をかけている。

32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
32:20 わたしは語って、気を晴らし、/くちびるを開いて答えよう。
32:21 わたしはだれをもかたより見ることなく、/また何人にもへつらうことをしない。
32:22 わたしはへつらうことを知らないからだ。もしへつらうならば、わたしの造り主は直ちに/わたしを滅ぼされるであろう。

主が言葉を与えて下さる時、与えられた人は、その言葉を伝えずにはいられないものである。
預言者エレミヤもまたそうだった。
エレミヤ20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。

ただ、エリフの言葉の全部が、神の霊から来たものであるかどうかもまた、怪しい。
彼の弁論の内容には、ヨブの言葉を果たして本当に理解しているのかどうか怪しい面もあるし、また、3人の友人達のように、彼の言葉の始終に主エホバの御名が無いからだ。

いずれにしても彼は、ヨブが神に出会うための橋渡しの役割を果たしている。
エリフの言葉から、私達も養いを得たい。

ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
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ヨブ記31章は、ヨブの最後の弁論であるが、彼は、自分がいかに潔白であるのかという主張を、40節にわたって並べ立てる事によって、その弁論を終える。
この章において、彼は”十数の罪を挙げ,その一つ一つについて,自分がもしそんなことをしたことがあるのなら,しかるべき罰を受けてもよいと言う.これは一種の誓いである.その罪は,姦淫から,偽り,不正,盗み,弱い者の軽視,偶像礼拝やのろいに及び,行った罪ばかりでなく,慈善を怠ったことや,心の中の情欲や敵意まで問題としている.山上の垂訓にも通じる最高の道徳水準である.そして,もし自分を訴える者があれば,その告訴状を掲げて堂々と神の前に出たいと言う.神が無実を証明して下さると確信するからである.”(実用聖書注解より)

31:1 わたしは、わたしの目と/契約を結んだ、/どうして、おとめを慕うことができようか。

彼は目と契約を結び、目においても心においても罪を犯さないよう細心の注意を払ってきたようだ。
そして確かに、彼は他の人達よりも段違いに罪を犯さないようにして来た事だろう。
しかし彼の主張には「?」が残るものもある。

 31:16 わたしがもし貧しい者の願いを退け、/やもめの目を衰えさせ、
 31:17 あるいはわたしひとりで食物を食べて、/みなしごに食べさせなかったことがあるなら、
 31:18 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、/またその母の胎を出たときから(ウミベテン・イミ・アンケナー:母の胎から)彼を導いた。)

ヨブは、母の胎にいた時から、やもめを養った、というのだ。
それはありえない事だ。
ヘブライ詩は、よくそのような誇張表現がなされるものだが、いずれにせよ、この章での彼の主張は、自分の義を過大に誇張する所がある事は明らかである。

万が一、たとえ、彼が本当に母の胎にいた時から善行を行っていた、と譲ったとして、果たして彼はそれで義を主張できるのだろうか?
その答えは残念ながら、NOである。
ローマ書に「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)と書いてあるが、さらに、次のようにも書いてある。

ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

つまり、全律法613の決まりごとのうち、365の「してはならない」と、248の「しなさい」のチェックリストを、全部クリアしたところで、人は、義と認められない。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」と書いてある通りだ。

なぜなら、完全であり、聖であり、義であられる神の前に、人が罪を犯さなかった所で、それは当然であり、また義を行ったからと言って、それもまた神の前に当然だからだ。
では、人は何によって義とされるのか。
それは、続く節に書いてある。

ローマ3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

人はただ、神の恵みにより、購って下さるお方にの購いのわざを通してのみ、義とされるのだ。
だから、ヨブのように自分が義を行って来た事・悪を行わなかった事を主張して、自分を正しいとする事には、何の意味も無いどころか、むしろ神の義から遠ざかる行為である。
次のように書いてある。

ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

ヨブは、自分が他の人のような罪人でないと主張し、また、あの罪この罪を犯してきた人間のようでない事も主張しているが、まさに、このパリサイ人の罠に陥っているわけだ。
イエス様は「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われたが、まさにヨブは高ぶったゆえに、38章以降で神から徹底的に低くされる事になる。

このたとえの中の取税人は、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と求めた。
ヒラスコマイ。この派生語にヒラステリオンがある。ヒラステリオンは「贖罪蓋」、すなわち、契約の箱を覆う蓋である。
もし、契約の箱が蓋が無く開いたままであるなら、罪ある人間は、神の圧倒的な聖に打たれ、死んでしまう。
しかし、贖いの蓋がある故に、人は、罪はあれど打たれずに済んでいた。
かの取税人が、義とされて帰れたのは、彼がヒラスコマイ、すなわち、神の憐れみと神の贖いを求めたから、そして神が彼の願いを聞き届け、彼を購ってくださったからである。
人はただ、神に対し、愛と憐れみ、贖いを求める以外に無いのだ。

ダビデは詩篇51篇で、自分こそ罪人である事を告白し、ただ神の憐れみを求めているが、それは全くヨブと逆である。

詩篇51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

ヨブは、自分には罪がない、神の前に出てぜひ討論したいものだ、とまで主張した。
それに対しダビデは、自分には罪がありありと存在するどうしようもない存在だと告白し、どうか、あなたのいつくしみによってあわれみ、豊かなあわれみによって諸々のとがを拭い去って下さい、と懇願した。
まことにダビデは、義とされた取税人の祈りを細かく祈っているわけである。

詩篇51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

ヨブは、母の胎にいた時から自分は義の行いをしていた、と主張した。
それに対しダビデは真逆で、自分は、母の胎にいた時から、既に蠢く罪を宿していた、と告白した。
そうである。母の胎にいた時から義人だった人間など、イエス・キリスト以外には存在しない。
ダビデは正直に告白した故に、彼が犯した罪ゆえに苦々しい刈り取りをする事となったものの、主のあわれみを受けたのだ。

詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。

ヨブは散々な災いにあっても、なお心砕かれず頑として自分の義を主張した。
結局、神に受け入れられるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。
 

理解できない苦しみ、悩みを負わされる時(ヨブ記30章)
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前章とは対象的に、30章で、ヨブは現在の悲惨な状況を嘆いている。

30:1 しかし今はわたしよりも年若い者が、/かえってわたしをあざ笑う。彼らの父はわたしが卑しめて、/群れの犬と一緒にさえしなかった者だ。
30:2 彼らの手の力からわたしは何を得るであろうか、/彼らはその気力がすでに衰えた人々だ。
30:3 彼らは乏しさと激しい飢えとによって、/かわいた荒れ地をかむ。
30:4 彼らは、ぜにあおいおよび灌木の葉を摘み、/れだまの根をもって身を暖める。
30:5 彼らは人々の中から追いだされ、/盗びとを追うように、人々は彼らを追い呼ばわる。
30:6 彼らは急流の谷間に住み、/土の穴または岩の穴におり、
30:7 灌木の中にいななき、いらくさの下に押し合う。
30:8 彼らは愚かな者の子、また卑しい者の子であって、/国から追いだされた者だ。

この時、ヨブには、彼にひっきりなしにまとわりついて、いじめている”悪童ども”がいたようである。
その彼らは元々、人々から賤しめられ、軽んじられ、貧しい者達、国から追い出された者たちであるが、なぜ彼らがそうなったのか、それは、彼らの低劣な性質ゆえである事が、ヨブの言葉から伺い知れる。

30:9 それなのに、わたしは今彼らの歌となり、/彼らの笑い草となった。
30:10 彼らはわたしをいとい、遠くわたしをはなれ、/わたしの顔につばきすることも、ためらわない。
30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
30:12 このともがらはわたしの右に立ち上がり、/わたしを追いのけ、/わたしにむかって滅びの道を築く。
30:13 彼らはわたしの道をこわし、わたしの災を促す。これをさし止める者はない。
30:14 彼らは広い破れ口からはいるように進みきたり、/破壊の中をおし寄せる。
30:15 恐ろしい事はわたしに臨み、/わたしの誉は風のように吹き払われ、/わたしの繁栄は雲のように消えうせた。

彼らは、神から低められているヨブを笑いぐさとし、ヨブの顔につばきをし、ヨブにつきまとっていじわるをした、とヨブは告白している。
かつては町の長老達さえヨブに起立して敬意を払い、彼の言葉に聞き入ったものだった。
しかし今や、彼はこのような低劣な者たちから、落ちぶれてしまった事を「ねた」にされ、からかわられてしまっている。
それのみならず、瞬間瞬間悩まされている全身にできた腫物の問題もある。

30:16 今は、わたしの魂はわたしの内にとけて流れ、/悩みの日はわたしを捕えた。
30:17 夜はわたしの骨を激しく悩まし、/わたしをかむ苦しみは、やむことがない。
30:18 それは暴力をもって、わたしの着物を捕え、/はだ着のえりのように、わたしをしめつける。
30:19 神がわたしを泥の中に投げ入れられたので、/わたしはちり灰のようになった。

ヨブは、悪性の腫物によって、ひっきりなしに痒みに悩まされ、その様はもはや着物のようにまとわりついてしまっているほどの有様だ。
そこで彼は、再び、神に向かってつぶやく。

30:20 わたしがあなたにむかって呼ばわっても、/あなたは答えられない。わたしが立っていても、あなたは顧みられない。
30:21 あなたは変って、わたしに無情な者となり、/み手の力をもってわたしを攻め悩まされる。
30:22 あなたはわたしを揚げて風の上に乗せ、/大風のうなり声の中に、もませられる。
30:23 わたしは知っている、あなたはわたしを死に帰らせ、/すべての生き物の集まる家に帰らせられることを。

ヨブは災難が降された時、神に向かって不平不満をぶちまけた。それを私達は責められない。
なぜなら私達はヨブほどの災難に遭ったことは無いし、私達も、ヨブほどの災難は経験していないにしろ、神に向かって不平不満をぶちまけた事が無きにしもあらず、だからだ。
ただ、心と思いが神に向かっているのは、まだ良い。一番良くないのは、本人の神との関係を自ら断つ事だ。イスカリオテのユダが、自らの命を断ったように。

30:24 さりながら荒塚の中にある者は、/手を伸べないであろうか、/災の中にある者は助けを呼び求めないであろうか。
30:25 わたしは苦しい日を送る者のために/泣かなかったか。わたしの魂は貧しい人のために/悲しまなかったか。

ヨブは神を責めている。
人でさえ、貧しい人や災難に遭っている人に助けの手を差し伸べるのに、そしてヨブ自身、貧しく苦しい人たちに今まで助けの手を差し伸べて来たのに、それなのに神様、あなたときたら、憐れみの手を差し伸べなどころか、あなたに向かって叫び求めても、全くもって沈黙しておられるではないか、と。

30:28 わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、/公会の中に立って助けを呼び求める。
30:29 わたしは山犬の兄弟となり、/だちょうの友となった。
30:30 わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、/わたしの骨は熱さによって燃え、
30:31 わたしの琴は悲しみの音となり、/わたしの笛は泣く者の声となった。

ヨブは受けている賤しめと苦しみについて、不平不満をぶちまけた。
こんなになっても、神に対して全くしおれてしまわない。本当に強いと思う。
しかし、その「強さ」が実は、仇になっているのだ。
次章でヨブは、怒涛のごとく自分の正しさを主張するが、結局その自己義が、神の知識を暗くし、神との関係を貧しいままにしてしまっている。

それにひきかえ、ダビデはすぐに自分の側に非がある事を告白して赦しを求めた。
ヨブはなかなか、それをしない。それだから神は彼を取り扱っておられるのだ。

私達も、私達の中の高慢や、あるいは硬く強い思い込みが、主との関係を邪魔する時、主から厳しい扱いを受け、賤しめられる時もある。
そのように賤しめられた場合、どういう態度でいるべきか。
エレミヤが、哀歌の中で示唆を与えている。

哀歌は、神の民・イスラエルが自身の罪ゆえに酷い災難に遭って悲惨になっている様を嘆いている歌である。
哀歌の3章1節から19節を読んでいくと、全くヨブと同じような状況で悩んでいる事が分かる。
しかしエレミヤは、そのどん底の苦しみの中でも、なお主に望みを置いている。

哀歌3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

絶望のどん底に陥った時こそ、主を呼び求めるべき時である。
その時、たとえ言葉がきれいでないとしても、主に正直に申し上げる叫びを主は聞いていてくださり、その心が真実であればあるほど、主はとても近く親しく臨んで下さるからだ。

3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。

理解のできない苦しみ、悩み。それを負わされる時、主は無意味にその事をしておられるのではない。
その理由を、人は、知らないかも知れない。
しかし、主からきびしく扱われている、と思えるような時、いかに振る舞えば良いかが、次に続く節に記されている。

3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。

ちり、それは人間の組成である。
ヨブは賤しめられた時、卑しい人たちから、理不尽な仕打ちを受けた。
ヨブは、自分は正しいと主張したが、結局、その人達も、ヨブも、組成はちりである。
人からの理不尽な仕打ちを受ける時、ちりの味を味わうのだ。
そしてその時、自分の中にも同じ卑しい性質がある事を学ぶのであり、そして、そんな人間を憐れんでくださる神の恵み深さを知るのだ。

主は、愛する者がいつまでも卑しいまま捨て置かれる事を、お許しにならないお方である。

3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。

ヨブは、自己義が強すぎた。自分は、あくまで、悪くない、と、友人が黙ってしまう程に強く主張した。
それ故、そのプライドを砕くためのハンマーも、また強かった。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵は、自分の罪の告白する事と、悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。

ダビデはすぐにしおれて自分の罪をゆるして下さいと求めたので、救いもすぐだった。
「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件は、速やかに捨てて、主の赦しと憐れみと慰めを速やかに得る者でいたい。

ヨブが神から特別扱いされた理由(ヨブ記29章)
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ヨブはこの28章では、祝福されていた昔の日々を思い返している。

29:1 ヨブはまた言葉をついで言った、
29:2 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、/神がわたしを守ってくださった日のようで/あったらよいのだが。
29:3 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、/彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。
29:4 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみが/わたしの天幕の上にあった。
29:5 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、/わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。
29:6 あの時、わたしの足跡は乳で洗われ、/岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。

彼は、昔の日々が祝福されていた事の根拠を、神に置いている。
「神がわたしを守ってくださった」「彼(神)のともしびがわたしの頭の上に輝き」「彼(神)の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」「神の親しみが/わたしの天幕の上にあった」「全能者がなおわたしと共にいまし」、と。

もしヨブが、昔の繁栄の原因を、神に見出しておらず、自分の力がそうしたのだと思って、過ぎし日々を懐かしんでいただけなら、ただの落ちぶれた元お金持ちに過ぎない。
しかし、ヨブがそうでないのは、彼は過ぎた日々の繁栄の中に、いつも神を見ていた事であり、彼のように、神に祝福の根拠を置く者が、神から特別扱いを受ける者のたしなみである。

続いてヨブは、かつて人々から尊敬されていた事を述懐する。

29:7 あの時には、わたしは町の門に出て行き、/わたしの座を広場に設けた。
29:8 若い者はわたしを見てしりぞき、/老いた者は身をおこして立ち、
29:9 君たる者も物言うことをやめて、/その口に手を当て、
29:10 尊い者も声をおさめて、/その舌を上あごにつけた。
29:11 耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、/目に見た者はこれをあかしした。

ヨブはかつて、町の長老たちからも若者たちからも尊敬され、ヨブが語ると皆だまり、ヨブの口から出て来た言葉を、皆、尊敬の念を込めて見た。
このようにヨブが受けた繁栄の理由は、続く節にある。

29:12 これは助けを求める貧しい者を救い、/また、みなしごおよび助ける人のない者を/救ったからである。
29:13 今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。
29:14 わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、/また冠のようであった。
29:15 わたしは目しいの目となり、/足なえの足となり、
29:16 貧しい者の父となり、/知らない人の訴えの理由を調べてやった。
29:17 わたしはまた悪しき者のきばを折り、/その歯の間から獲物を引き出した。

寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことである。(箴言19:17)
ヨブには沢山の主への「貸し」をつくったから、それだけ祝福されたのであり、もしヨブがそういう人でなければ、あの祝福はあり得なかった。

29:18 その時、わたしは言った、/『わたしは自分の巣の中で死に、/わたしの日は砂のように多くなるであろう。
29:19 わたしの根は水のほとりにはびこり、/露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。
29:20 わたしの栄えはわたしと共に新しく、/わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。

ヨブは、彼が死んだ後も、彼の日は多くなる、と言った。
ヨブは、死んだ後の報いも見据えていたのだ。
それは新約的な思想に見えるかもしれないが、旧約にも書いてある。

詩篇112:1 主をほめたたえよ。主をおそれて、そのもろもろの戒めを/大いに喜ぶ人はさいわいである。
112:2 その子孫は地において強くなり、正しい者のやからは祝福を得る。
112:3 繁栄と富とはその家にあり、その義はとこしえに、うせることはない。
112:4 光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。
112:5 恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行う人はさいわいである。
112:6 正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。
112:7 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。
112:8 その心は落ち着いて恐れることなく、ついにそのあだについての願いを見る。
112:9 彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。その角は誉を得てあげられる。
112:10 悪しき者はこれを見て怒り、歯をかみならして溶け去る。悪しき者の願いは滅びる。

ヨブはまさに、この詩篇にある通り、恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行った。彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。
その義はとこしえにうせることはなく、その角は、誉を得てあげられる、と書いてある通りである。
ただヨブは、喜びによって主に仕えていたのではなく、恐れによって仕えていた(1:5)のであり、心は常に祝福が奪われる事を恐れていた(3:25)。

29:21 人々はわたしに聞いて待ち、/黙して、わたしの教に従った。
29:22 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に/雨のように降りそそいだ。
29:23 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、/春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。
29:24 彼らが希望を失った時にも、/わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。
29:25 わたしは彼らのために道を選び、/そのかしらとして座し、/軍中の王のようにしており、/嘆く者を慰める人のようであった。

以上のように、かつてのヨブは大いに祝福されていた理由は、主への愛や喜びによってというより、むしろ彼の行いによるものだった。
主はそんなヨブを、さらに深い神との関係へと、導いて下さる。

現代のキリスト者は、ヨブとは逆に、主との愛と喜びの関係は重視しても、主への恐れと御言葉の実行にうとい所がある。
御言葉を実行する所には、祝福がある。
事実、現代のユダヤ人は、イエス様を救い主として受け入れていないにもかかわらず、律法の行いがある故に、頭脳においても支配権においても大いに祝福されているではないか。
私達は、イエス様を信じて、それで満足する所にとどまらず、御言葉の実行をもって大いに祝福されるものでありたい。

イザヤ58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。

知恵の性質(ヨブ記28章)
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ヨブはこの章で、知恵の性質について語っている。
いささか唐突に見えるが、ヨブの目に友人たちがあまりにも知恵も品性もなくひたすら因果応報ばかりを説くので、知恵とはこういうものだ、と示したかったからかもしれない。

この章の結論は、28節の言葉である。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。

この結論へと導くために、ヨブは長い説明の回り道をしなくてはならず、まず、人が金銀や銅、鉄を得るために多大な努力をしている様からはじめる。

28:1 しろがねには掘り出す穴があり、/精錬するこがねには出どころがある。
28:2 くろがねは土から取り、/あかがねは石から溶かして取る。

しろがねは銀、こがねは黄金、くろがねは鉄あかがねは銅である。
それらを得るために、人は多くの労を費やす。

28:3 人は暗やみを破り、/いやはてまでも尋ねきわめて、/暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る。
28:4 彼らは人の住む所を離れて縦穴をうがち、/道行く人に忘れられ、/人を離れて身をつりさげ、揺れ動く。
28:5 地はそこから食物を出す。その下は火でくつがえされるようにくつがえる。
28:6 その石はサファイヤのある所、/そこにはまた金塊がある。

人はこれら鉱物を得るために、人里離れた鉱山に穴を掘り、暗闇の中、苦労して得る。
現代のように、重機が発達した現代でさえ多くの危険と労力が必要だが、ヨブの時代であれば、なお多くの危険と労が必要だったろう。

28:7 その道は猛禽も知らず、たかの目もこれを見ず、
28:8 猛獣もこれを踏まず、ししもこれを通らなかった。
28:9 人は堅い岩に手をくだして、/山を根元からくつがえす。
28:10 彼は岩に坑道を掘り、/その目はもろもろの尊い物を見る。
28:11 彼は水路をふさいで、漏れないようにし、/隠れた物を光に取り出す。

金属類を得るために地下を掘って行く事には、地下水の危険があり、地の下の火、すなわちマグマの危険もある。
それは、動物にはできないし、得ようとした事も無い。
ただ人間だけが、この労を負って見出そうとする。
しかし、それらのあらゆる労をもってしても、得られないのが、知恵である。

28:12 しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。
28:13 人はそこに至る道を知らない、/また生ける者の地でそれを獲ることができない。
28:14 淵は言う、『それはわたしのうちにない』と。また海は言う、『わたしのもとにない』と。

金属類は、多くの努力を払えば、なんとか見出す事ができるものである。
しかし、知恵は、どう探しても、どう努力をしても、人みずからが見いだせるものではない。

28:15 精金もこれと換えることはできない。銀も量ってその価とすることはできない。
28:16 オフルの金をもってしても、/その価を量ることはできない。尊い縞めのうも、サファイヤも同様である。
28:17 こがねも、玻璃もこれに並ぶことができない。また精金の器物もこれと換えることができない。
28:18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
28:19 エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。純金をもってしても、その価を量ることはできない。

知恵は、人が多くの努力をして得た金銀をもってしても、購入できるようなものではない。

28:20 それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。
28:21 これはすべての生き物の目に隠され、/空の鳥にも隠されている。
28:22 滅びも死も言う、/『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。

この章では幾つかの擬人化された表現がある。14節では淵や海が、また22節では滅びや死が、人間のように言葉を発する。「(知恵は)我々の中には無い」と。
知恵は、人からも、動物からも、あるいは死や滅びの中からさえも、隠されている。
そこでヨブは結論づける。

28:23 神はこれに至る道を悟っておられる、/彼はそのある所を知っておられる。
28:24 彼は地の果までもみそなわし、/天が下を見きわめられるからだ。
28:25 彼が風に重さを与え、/水をますで量られたとき、
28:26 彼が雨のために規定を設け、/雷のひらめきのために道を設けられたとき、
28:27 彼は知恵を見て、これをあらわし、/これを確かめ、これをきわめられた。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。

神こそが、知恵をもって天地を組み立てられた。
箴言に記されている。
箴言9:10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。

そして特に、箴言8章に、知恵が天地を建てた様が、記してある。

箴言8:22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
8:23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
8:24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
8:25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
8:26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
8:27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。
8:28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、
8:29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、
8:30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、
8:31 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。

知恵によって天地は立てられ、そしてそれは、現代に至るまでずっと維持し続けている。
知恵は物理法則であり、人の歩むべき道であるが、イエス・キリストこそ、世の始まる前から御父と共に世界をつくり、維持しておられるお方、あらゆる知恵と恵みが充満されたお方であり、この方を得る事こそ、その全ての知恵を得たと同じである。

ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ここの、「言」と訳された言葉はギリシア語でロゴス、それはあらゆる知恵、知識に通じる法則である。
これは物理法則でもあり、人との間の法則であり、宇宙万物の理(ことわり)である。

理(ことわり)は人となってこの地上に降りて来られ、わたしたちの中に仮宿を取って、住まわれた。
その御方は、すなわち、父のひとり子キリストである。
その理は、感情の無い冷酷な法則ではなく、恵みと真理とに充満しておられるお方である。
次のように書いてある。

ヨハネ1:14 そして言(ロゴス:理)は肉体となり、わたしたちのうち(エン:中に、間に)に宿った(スケノー:仮宿を取って住む)。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

この、究極の知恵なるお方、イエス・キリスト、すなわち御言葉を私達の内に宿らせ、住まわせる時、私達は、世界を創造したお方の知恵、知識、富、力を得るのである。
すなわち、御言葉を守り行う事、それがすなわち、知恵に満たされる源であり、金や銀に遥かにまさる栄光の富を得るコツである。

申命記4:5 わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。
4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。

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