• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

早天礼拝

自分の罪の報いを受けている最中でも、何度でも主に泣きついたダビデ(詩篇61-62篇)

Youtube動画

 
詩篇63篇表題『ユダの野にあったときによんだダビデの歌』
 
これは、アブシャロムがダビデにクーデターを起こし、ダビデがユダの荒野へ逃げざるを得なくなった時に詠んだ詩である(2サムエル記16:2)。
 
ダビデは、彼自身が犯した姦淫と殺人の罪の故、彼の子たちもまた、子供たち同士で姦淫や殺人を犯すようになり、父ダビデの煮え切らない態度の結果、息子アブシャロムはクーデターを起こしてしまった。
いわば、自分の身から出た錆である。
 
しかし、ダビデは、「自分はもう罪を犯したので、主に合わせる顔がない」などと、主から離れる事はせず、かえって、熱烈に主に泣きつき、主に助けを求めた。
あたかも、泥だらけになって汚れた子供が、親に泣きつくように。
親を慕っている子は、自分が泥だらけになった時、「自分はもう汚れてしまったから、親に合わせる顔が無い」などとは言わず、逆に、親に泣きついて行くものだ。
まことの父なる神様も、それを願っておられる。
だから私達は、どんな罪を犯し裏切ったとしても、何度でも神に立ち返るべきなのだ。
 
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
 
ダビデは、は、岩砂漠の荒野にて、水に渇く以上に、主に対して渇いており、神に「あなたはわたしの神」と呼んだ。
主は、それほどまでに主を慕い求め、積極的に関って行こうとする人を、ご自身のものとし助けてくださる。
 
詩篇63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
 
彼は、ユダの荒野にいるはずで、そこには聖所は無いはずである。
ではなぜ、彼は「聖所にあって目をあなたに注いだ。」と言ったのか?
もし、主を「わたしの主」とし、砂漠で水を求めるように、主を慕い求めるなら、そこが聖所と化すのである。
ダビデは、この荒野の聖所で、素晴らしい賛美を捧げる。
 
詩篇63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
 
心の底からの賛美は、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる」という実感から出て来る。
そして、その慕い求める心からの賛美を捧げる時、主は、甘く麗しい感覚をもって答えてくださる。
 
賛美や礼拝が「お勤め」になっている人にとっては、永遠に賛美をささげる天国は、つまらない所に思えるかもしれない。
しかし、こんなにも罪深い自分を、こんなにも素晴らしい天国へ入れてくれたという心の底からの感謝と賛美を、永遠に捧げられる天国は、じつに甘く麗しい、喜びに満ちた所なのだ。
天国にて、24人の長老たちが、冠を自分の頭から外して、主の御前に投げ出したのは、自分の頭なんかに冠があるなど、とてももったいない、一刻も早く、主こそが冠を受けるに相応しいお方だ、と表現したいのではないだろうか。(黙示録4:10)
 
天国でも、自分は罪を犯して生きてきた、という記憶がある。
なぜなら、
罪を犯した記憶、そして、そんな自分さえ赦されたという記憶なしには、感謝は生まれないからである。
だから、今私達の罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためではなく、むしろ、こんな自分を赦して下さった事を、主に感謝するためである。
 
詩篇63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
 
ダビデは、息子アブシャロムが起こしたクーデターのゆえに、逃げている最中である。
状況からして、到底眠るどころではないはずなのに、彼は床の上で横にり、しかも魂は豊かにもてなされるかのように満ち足りていて、彼の口は、喜びをもって主をほめたたえている。
 
それは、彼が主を思い、主の御言葉を思い巡らした故に、そこが御翼の陰、平安に満ちた所となり、いかに荒野で敵に追い回されている最中であっても、安らかな眠りが与えられたからだ。
もし私達が、過去や現在、将来起こるであろうあの事この事や、あるいはあの人・この人の言葉を思い巡らすなら、どんなにそこがセキュリティの確保されたホテルであっても、不眠症になってしまう。
 
63:9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は/地の深き所に行き、
63:10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじき(メナート:分前、相続)となる。
 
この時、ダビデの魂を滅ぼそうとする者はアブシャロムであったが、彼はダビデはずかしめるために、公然と父ダビデの側女と寝たり、策略を巡らして父親を殺そうと追い回したり、と、律法では死に値する事を平気で行った。
その結果、彼は木に吊るされた状態、すなわち、呪われた状態のまま、なぶり殺されてしまった。
主に憎まれる事をあえてするような者は、山犬のえじき(相続分)となってしまうのだ。
 
63:11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
 
神からの約束に従って忠実に歩もうとする人は、真理の内に歩み、つまづく事なく、その道は確かである。
しかし、偽りを言う者は、その口が塞がれてしまうのだ。
 
続く詩篇64篇は、口達者な悪者に対抗する詩篇である。
もし自分は言葉巧みではない、けれども相手は悪辣な言葉を朗々と操るのに長けていて、言葉では勝ち目がない、という場合は、この詩篇を宣言すると良い。
 
詩篇64篇表題『指揮者のために。ダビデの賛歌』
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。
 
この詩も、神への訴えで始まる。
 
64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
 
ダビデを攻める者達は、舌が達者で、苦い言葉をダビデにめぐらして、彼を苦しめている。
実際、アブシャロムは口達者な者だった。
彼は長年、ダビデを貶めるうわさ話を周到に巡らす事によって人々をダビデに敵対させ、また、甘い言葉で人心を買い、そうして長年の準備が整った時、彼はクーデターを起こした。
 
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
 
彼らは、悪において長けている。
互いに談合し合意の上で、ひそかに罠を仕掛け、それを「だれに、見破ることができよう。」「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っている、いわば、確信犯である。
意図して悪いたくらみをし、そうして成り上がって行こうとする事において、長けた者達である。
 
そのような者が、悪い力を駆使して攻め寄せて来る時、私達も、詩篇64篇の内容で、主に訴えるのだ。
特に、相手が主に忌み嫌われるような偽りや不正で立ち向かって来るなら、主の軍配は私達の側に上がり、以下のように扱って下さる。
 
64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
 
そう、彼らが不正をする時、その不正が、彼らを攻め立てる口実となる。
偽りを言うなら、その偽りを言った口が、彼らを攻め立てる材料となる。
だから私達は、悪者の道に足を踏み入れるべきではない。
 
箴言1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
 
詩篇64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
 
主は、悪者が報いを受ける事によっても、栄光を受けられる。
その報いを人々が見る時、義なる神が生きておられ、悪人は必ず滅びるのだ、と、世界は知るようになる。
事実、ダビデをあなどったアブシャロムは、誰が見ても呪われた死に方をして、主がダビデに軍配を上げて下さった事を、全国民は知った。
 
確かに私達も、罪を犯した者達で、主から守られるに値しないように見えるかもしれない。
しかしたとえ罪を犯した者であったとしても、悔い改めて何度でも主に立ち返り、主に泣きつき、主により頼む人を、主は弁護し、保護してくださる。

詩篇 講解説教

人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)

Youtube動画

_______________ 
詩篇61-64篇の背景は、アブシャロムがダビデに対してクーデターを起こし、ダビデはユダの荒野に逃げざるを得なくなった時のものと思われる。(63篇表題)
強い敵が追い迫って来た時、人から圧迫され続けている時、私達はどのように乗り切るか。その術を、この一連の詩篇から学びたい。
 
詩篇61篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌』
61:1 神よ、わたしの「叫び(リナー)」を聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。
 
「叫び(リナー)」とは、金切り声、甲高い叫びである。
ダビデは、金切り声を上げざるを得ないほどの圧迫に瀕していたが、その金切り声を単に響かせるのではなく、主に向かって、叫んだ。
何事も、金切り声さえも、主に向かう事。それこそダビデの道である。
 
詩篇61:2 わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて/わたしの及びがたいほどの高い岩に/のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
 
アブシャロムに追われて、ユダの荒野にいる彼は、まさに、地の果てにいる心地だったろう。
私達も、圧迫するようなもの、事、状況を前にした時、ダビデのように主に叫び、全ての重荷を主に委ねるなら、そこがたとえ地の果てであろうと、あるいは、いつもの職場や家庭であろうと、そこは主の幕屋となり、また、主の翼の陰となる。
 
詩篇61:5 神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、み名を恐れる者に賜わる嗣業を/わたしに与えられました。
 
ダビデは宣言した。嗣業は既に与えられました、と。
まだ実体として得ていないのに、主の御言葉を盾にとって、信仰を混ぜて「得た」と宣言する。すると、実際にすぐ与えられた、という証を、信仰者はよくする。
それは確かな事である。次のように書いてある。
『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』(ヘブル11:1)
 
詩篇61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
61:7 彼をとこしえに神の前に王たらしめ、いつくしみとまこととに命じて/彼を守らせてください。
 
ダビデは、王のいのちを伸ばしてくださいと祈ったが、神の国に生きる王は、世の王とは全く違う。
世の王は、人々の上に立って権力をふるい、好き勝手に支配できるため、誰もが王様になりたがる。
しかし、神の国の王たる者は、そうであってはならない。
イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 
私達・主イエスを信じる者は、事実、王である。
王として、民を良い政治を行って幸いにし、神の敵と戦い、悪い者から支配権を奪還し、神の統治をもたらさなくてはならない。
 
ダビデは彼の告白を主に申し上げ、訴えた結果、平安が与えられ、賛美が生まれた。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
彼は告白した。とこしえに神と共に住まい、いつまでも永遠に主をほめたたえる、と。
それだけでなく、地上における残された日々も、いつも主に対しての誓い(ネデル:約束)を果たしていく、と。
これは、うるわしい主に対する私達の告白でもあるべきである。
 
そして、力強い信仰宣言に満ちた62篇へと続く。
 
詩篇62篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌』
62:1 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが救は神から来る。
 
62篇の1,2,4,5,6節は、「アク」というヘブライ語で始まる。
「アク」は肯定の助詞で、日本語では「ただ」「こそ」「まことに」など、強い肯定を表現する。
 
詩篇62:2 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
 
神を「わが岩、わが救、わが高きやぐら」と呼ぶのは、ダビデに特徴的な宣言だが、これを、ダビデだけの宣言で終わらせてはならない。
私達自身の宣言にするべきだ。
詩篇は、全人類が直面するあらゆる問題に対処できる祈りが、記されているからだ。
 
詩篇62:3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
62:4 彼らは人を尊い地位から落そうと「のみ(アク)」はかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
 
ダビデは、このような者によって、苦しめられていた。
人を、尊い地位から落そうとはかり、偽りを喜び、その口では祝福しても心のうちではのろうような者達に。
 
神を恐れぬ者や良心が麻痺している者は、今にも倒れそうな石垣を見ると、倒したい衝動に駆られる。
いじめられっ子がいじめられているのを見たら、嬉しくなって、一緒にいじめに参加するのだ。
それら、破壊したい、殺したい、倒したいという衝動、は、サタンから来る。
 
私達は、忘れてはならない。
主はそのような弱者が虐げられているのを黙って見ておらず、特に、ダビデのように、主に叫び求める者の声を、主は聞いて下さるのだ、と。
ダビデに敵対した者達の末路を見れば、その者達が最後はどうなるかがわかる。
 
詩篇62:5 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが望みは神から来るからである。
62:6 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
62:7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
 
この世の中で、最も敵に回してはならない人とは、力ある人でも、お金持ちでもない。
ダビデのように、何かあったらすぐに主に走って行き、泣きつき、訴え、御言葉を宣言する人だ。
ダビデはその事を、人々に模範として示すために詩篇を書いている。
 
詩篇62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
 
これが、真の王が宣言すべき言葉である。
真の王とは、人々の心を、まことの神である主へと向けるようにと、支配する王である。
 
詩篇62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
 
ダビデは宣言した。
人は、むなしい。身分が低い人も、高い人も、ともどもに。彼らを全部まとめても、息よりも軽い、と。
そうであるからには、「息よりも軽い」人間による「息よりも軽い」いじめ言葉や、「息よりも軽い」者の嫌がらせに、目を留めても仕方ない。
私達は、永遠に土台として残るイエス・キリストの言葉にこそ目を留め、そこに土台を据えるのだ。
その土台に立つ時、私達は、そうした「軽い」物事は一切、問題ではなくなる。
 
詩篇62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
 
しいたげも、かすめ奪う事も、力づくで人を圧迫する事であり、そこに生活基盤を置いてはならない。
圧迫された人が、主に叫ぶ時、主が、その者達に敵対されるからだ。
 
富は、使ってしまえばなくなってしまう。
そのようなものにも、人生の基盤を置いてはならない。
人生の基盤は、永遠のいのちの源である主にこそ置くべきだ。
 
62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
 
話すための口はひとつ、聞くための耳は2つである。
タルムードによれば、神は人を、口を使うよりも神の言葉を耳で二倍聞くように、そのように創造されたという。
私達はただ一つ、神の口から出る言葉をこそ、この二つの耳をよくかたむけて聞くべきである。
最後にダビデは願う。
 
詩篇62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。
 
もし主が、人のおのおののわざに従って報いていたなら、誰一人、生きながらえる者はいない。
しかし、主イエス様の贖いによって、赦しと救いを得た。
だから私達もダビデのように、ほめたたえるのである。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
主のあわれみ、主の素晴らしさを体験し、味わい、実感し、そうして感動した心をもって、人々に主の素晴らしさ伝え、そして王として、人々に憐れみの統治をしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

買い戻された姦淫の妻(ホセア2:16-3:5)

Youtube動画

 

エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

エゼキエルに与えられた使命:見張り人として警告を発する(エゼキエル3:16-27)

Youtube動画

_______________ 
他の引用箇所:
ルカ24:49-53
1テモテ4:13-16
 

詩篇 講解説教

ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)

Youtube動画

________________ 
詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
 
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
 
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
 
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
 
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
 
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
 
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
 
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
 
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
 
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
 
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
 
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
 
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
 
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
 
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
 
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
 
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
 
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
 
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
 
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
 
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
 
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
 
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
 
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
 
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
 
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
 
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
 
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
 
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
 
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
 
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
 
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。

 ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

姦淫をやめさせるための3つの「それゆえ」(ホセア2:1-15)

Youtube動画

 

 エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

鉄面皮を粉々に砕くダイヤモンド・ヘッドが与えられるために(エゼキエル2:1-3:15)

Youtube動画

_______________ 
他の引用箇所:
黙示録4:1-2
黙示録10:8-11
2テモテ4:1-5
 

詩篇 講解説教

好んで悪に加担する者達に殺されそうになった時にダビデが宣言した祈り(詩篇59篇)

Youtube動画

________________ 
詩篇59篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの」
 
この時の状況は、1サムエル記19章11節以降に記されている。
ダビデはサウルの元で仕え、戦争の時は千人隊長として真っ先に敵陣に突入して勝利をもたらし、平時はサウルの元で立琴を弾いていたが、サウルは妬みにかられ、悪霊に憑かれて、ダビデに槍を投げた。
ダビデは槍を逃れて、妻ミカルがいる家に逃げ帰ったが、サウルは使者をその家に遣わし、夜があけたらダビデを殺そうとしていた、まさにその夜の状況を、ダビデは詩篇に編纂し、後にダビデが王になった時、聖歌隊にこれを歌わせ、主を賛美した。
 
詩篇の順番は、時系列ではなく、内容順にまとめられており、特に51篇以降、ダビデが「自分自身の罪」という敵に、あるいはサウルやペリシテ人など、あらゆる外的な敵によって苦しめられた時、それらに対し、いかに主と共に克服して行ったかが記されている。
ダビデが危機に陥る都度、彼は主を叫び求め、祈り、そうして心の平安と、そして実際的な助けを得て行った。
これらの詩篇は、全て私たち主の民に対するメッセージであり、私たちも危機的状況に陥った時、どのような祈りをすればよいか、また、主はどのような危機から解決して下さるかを、知る事が出来る。
 
59:1 わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。
59:2 悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。
 
わが神(エロハイ)の呼びかけによって、この詩が始まる。
いのちを付け狙う者が目の前にせまっていて、今にも殺されそうな時、ダビデは神を「わが」と呼び、神は自分のもの、と宣言した。
 
私たちもこれを習うべきである。
神は、すべてより頼む者を助けて下さる。
神は、私たちと関係無き存在ではなく、私たちと関係される存在、そして、私の拠り所、と宣言するなら、主が本当に直接関わって下さる。
 
59:3 見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、
59:4 わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。
 
ダビデがいのちを付け狙う者達に囲まれているのは、ダビデが悪い事をしたからではなかった。
彼はただ、サウル王の元で、神と、神の民イスラエルに、純粋に仕えていただけだった。
しかしサウルは、ダビデの活躍をねたみ、ダビデは命を狙われる事になってしまった。
 
そこでダビデは、主に、「目」を用いて、この状況を見てください、と願い求めた。
正しい事が行われていない現状です、自分は殺される事などしていないのに、不当にも命が奪われようとしています、と。
私たちも、主に願い求めるのだ。
主よ、どうか今のこの状況をご覧になって下さい!と。
 
59:5 万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。目をさまして、もろもろの国民を罰し、悪をたくらむ者どもに、あわれみを施さないでください。〔セラ
 
「もろもろの国々」と訳された語「ゴイーム」は、群生する獣やいなごが元々の意味で、特に、主を知らない異邦の者達のことをいう。
敢えて好き好んで、悪に加担する者達を罰してください、とダビデは主に願う。
その者達が、以下の意図をもって悪を行っているからだ。
 
59:6 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:7 見よ、彼らはその口をもってほえ叫び、そのくちびるをもってうなり、「だれが聞くものか」と言う。
 
彼らは、口で(言葉で)、多くの罪を犯しているのだ。
「だれが聞くものか」。
これは、「神はいない」という人生観で、誰も見ていない所では、どんな悪い事を犯してもいい、と思い込んでいる人々だ。
そのような者達には、主が生きておられる事、主は決して嘲られるお方ではない、という事を、知るべきだ。
そのために、ダビデは以下のように祈る。
 
59:8 しかし、主よ、あなたは彼らを笑い、もろもろの国民(ゴイーム)をあざけり笑われる。
59:9 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います。神よ、あなたはわたしの高きやぐらです。
59:10 わが神はそのいつくしみをもって/わたしを迎えられる。わが神はわたしに敵の敗北を見させられる。
 
ダビデは宣言した。
自分は、彼らが軽んじた主が「わが」力である、そして主は、主をないとする者達(ゴイーム)をあざける、と。
さらに主は、ダビデを襲う者達の敗北を見させて下さると。
なぜなら彼らは、何も悪い事をしていないダビデを、不当に追い回し、いのちを奪おうとしており、対してダビデは、主が「わが神、わが避けどころ」と宣言した。主の軍配は、確実に、ダビデに上がるのだ。
 
59:11 どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。
59:12 彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために
59:13 憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。〔セラ
 
彼らのように、悪辣な事を平気でする者達が、あまりにも速やかに滅びるとするなら、人々は、すぐに忘れてしまうため、むしろ人々が忘れないように、敢えて彼らが長くさまようようになって、人々がそれを見る時、「確かに悪者はこうなるのだ」「主は確かに生きておられる」と、知るように、とダビデは願った。
義であられる主は、主に逆らって悪を行う者達に、災いを降す事によっても、栄光をお受けになるのだ。
 
59:14 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:15 彼らは食い物のためにあるきまわり、飽くことを得なければ怒りうなる。
 
「うなる」と訳された語の元の意味は「とどまる」「ずっとそこにいる」事をあらわしている。
ダビデを狙っていた者は、その晩、一晩中ずっとダビデの家の外で待ち伏せ、夜が明けたらダビデを捕縛して殺そうとしていた。
しかし、ミカルがダビデを窓から吊り降ろして助けてくれたので、ダビデは主の守りの内に逃げる事が出来た。
 
59:16 しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。
59:17 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。
 
彼は最後、主への喜びの賛美でこの詩を閉じる。
どんなに敵が夕に攻めて来て、一晩中、犬のようにうろつきまわっても、朝には主の守りと平安が来るからだ。
彼は主をやぐらとし、助けとした。
そのような人に対し、主はどのように扱って下さるか。
詩篇91篇に記されている。
 
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

詩篇 講解説教
あえて真理に耳をふさぎ、喜んで悪に同意し偽りを選択する者に対しての祈り方(詩篇58篇)
Youtube動画

________________ 
詩篇58篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌」
 
この詩篇には、敢えて不正を好み悪魔サタンに同意するような者に対して、どう祈るべきかが記されている。
 
詩篇58:1 あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。
 
「あなたがた力ある者」と訳された所の原文は「あなたがた、もの言わぬ者」である。
すなわち、さばきの座で、あえて正しい事や公平な事には口を閉ざす者の事である。
 
箴言31章に書いてある。
箴言31:8 あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
31:9 口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。
 
さばく立場において、私たちの口は、御言葉に基づいて、弱い立場の人が守られるように、ただしいさばきを宣告するために、大いに開くべきである。
それなのに彼らは、敢えて口を閉ざすのだ。
 
正しい事に対し、口を閉ざす彼らは、果たして公平なさばきが出来るのだろうか。「否」である。
 
詩篇58:2 否、あなたがたは心のうちに悪い事をたくらみ、その手は地に暴虐を行う。
58:3 悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。
 
「暴虐を行う」と訳された語・パーラスは、均一化する、平たくする事の意味である。
彼らは、悪やうそを標準化しようと敢えてたくらんでいる。
もし彼らが御言葉を聞き、叱責を聞いて悔い改めるなら、救われるのだが、残念ながら、彼らはそうではなく、母の胎内にいる時から既に「うそ」で塗り固めていた者だという証明が、4節以降で為されている。
 
詩篇58:4 彼らはへびの毒のような毒をもち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない/耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。
 
まむしや蛇には、手足が無い、はずなのに、その無い手足を使ってでも、御言葉や叱責を聞く耳を塞ごうと、敢えてするのだ。
彼らは神の言葉も人からの叱責も、意図して、聞かないのである。
 
このように、意図して真理を受け付けない者のために祈る祈りが、6-9節である。
 
詩篇58:6 神よ、彼らの口の歯を折ってください。主よ、若いししのきばを抜き砕いてください。
58:7 彼らを流れゆく水のように消え去らせ、踏み倒される若草のように衰えさせてください。
58:8 また溶けてどろどろになるかたつむりのように、時ならず生れた日を見ぬ子のようにしてください。
 
歯や牙は、食べ物を食べるためについてるものだが、そのために用いるのではなく、あえて、人を害するために用いる。
そのような歯や牙は、主が折って下さいますように、と、祈るべきなのだ。
人をあえて傷つけるために込める矢、人を傷つける事において長けた舌という矢を、心の中に蓄えているとするなら、それらは全部へし折って下さい、彼らは水のように流れ去らせ、消え去らせて下さい、元々存在しなかった者のようにしてください、と祈るのだ。
 
詩篇58:9 あなたがたの釜がまだいばらの熱を感じない前に/青いのも、燃えているのも共につむじ風に/吹き払われるように彼らを吹き払ってください。
 
当時は、よく燃えるいばらを着火剤にしてたきぎに火をつけ、釜の中の青物や生物を煮ていたが、ここでは、悪人が悪を計画し、準備し、実行し、悪のうまいものを得るという全工程を、料理の工程にたとえている。
悪人が悪のうまいものを料理しようと、準備し、その着火剤に火をつけたその瞬間に、主が釜も、いばらも、中身の具材も、全部一式、つむじ風で吹き飛ばして下さい、と祈るのだ。
まさに箴言1章後半に書いてある。
 
箴言1:22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23 わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
1:29 彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
1:31 自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
1:32 思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」。
 
彼らが災いに遭った理由は、悔い改めを促す言葉をかけられても、敢えて耳をふさぎ、無視し、その言葉をあなどったからだ。
意図して真理を憎み、主のいましめを軽んじる者には、恐怖があらしのように臨み、災がつむじ風のように臨み、悩みと悲しみとに覆われて、いっぱいいっぱいになる。
彼らは、自分自身が蒔いた種の実を食らうのだ。
 
イエス様は、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われた。
しかし、悪い者の悪辣さが祝福されるように祈れ、とは言っていないし、うそつきのうそが成功して不正が成功するように祈りなさい、とも言っていない。
 
もし、私達に害をなしたり迫害する者が、「知らないで」それを行っていて、無知ゆえに、自分に滅びを招くわざをしているとするなら、祈るべきだ。
何が主に喜ばれる事で、何が主に喜ばれない事なのかを知り、また、何が主の前で良い事で何が悪い事であるのかを知って、その呪いを招くわざを止め、祝福の歩みに入るように、と。
しかし、悔い改めの勧めや、叱責の言葉、矯正の知恵を教えても、あえて耳をふさぎ、敢えて悪を選択し、その悪の道を貫くような者に対しては、彼の牙が折られ、その悪のわざがもはや出来ないようにと、祈るべきなのだ。
 
詩篇58:10 正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
58:11 そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。
 
ここの報いの原語ペリーは、「実を結ぶ」ことである。
正しい者は、正しさの故に結ぶ実を食べる事が出来、しかし悪を行う者は、悪の故の実を食らう。
これは一貫して流れている真実である。

早天礼拝
ほら穴の中で信仰をもって宣言した通りになって行ったダビデ(詩篇57篇)
Youtube動画

________________ 
詩篇57篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの」
 
この詩篇57篇が創られたのは、おそらく1サムエル記22章にてダビデがアドラムのほら穴にいた時、あるいは、24章でエン・ゲディのほら穴にいた時であろう。
アドラムもエン・ゲディも、ともに死海の西側、洞窟が多い荒涼とした岩砂漠地帯である。
前回56章は、ダビデがペリシテ人に囲まれて気が違ったふりをして、散々な思いで逃れて来た状況だったが、そのすぐ後、彼はたった一人、アドラムのほら穴にいた。
しかし彼は、一人ではかった。彼の信頼する主がそばにおられ、彼はその主を呼び求める。
 
57:1 神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
57:2 わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。
 
どこにも助けが無い、どこにも居場所が無い、そんな状態で彼にできた事は、ただ主に向かって助けを求めるだけだった。
ちょうど鳩が、敵を逃れて岩の隙間に隠れ、ただうめき鳴いているように。
それは拾は、最も幸いな事である。
主を呼び、主に助けを求める者に、主は平安と確信とを送られる。
 
57:3 神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。〔セラ/すなわち神はそのいつくしみとまこととを/送られるのです。
 
ここにセラが、すなわち、モードチェンジの指示がある。
1-2節では、ダビデはただ主に向かってうめくだけだったが、彼はそれによって主が平安と確信を得て、敵に対する報復を宣言する。
 
57:4 わたしは人の子らをむさぼり食らうししの中に/横たわっています。彼らの歯はほこ、また矢、彼らの舌は鋭いつるぎです。
 
4節で「横たわっています」はヘブライ語でシャーカブ、「休む」「寝る」の意味がある。
彼は、ライオンのような敵に囲まれていても、休みが与えられたのだ。
 
57:5 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
57:6 彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。わたしの魂はうなだれました。彼らはわたしの前に穴を掘りました。しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ
 
ダビデは宣言した。わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
それは真理であり、法則である。箴言にも記されている。
 
箴言1:15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
1:16 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
1:17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
1:18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
1:19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。
 
もし、罠で捕らえようとする者がいるなら、私達も宣言するのである。
わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
なぜならそれは、真理だから。
 
57:7 神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
 
「定まる」のヘブライ語は、クーン。奮い立つ、あるいは揺るがない様を表す。
彼は主にあって、心が定まった。
 
57:8 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。
 
立琴や琴は、元々、ダビデが得意とする賛美の道具であった。
彼はそれまで久しく追われていたため、賛美どころではなかったが、彼は奮い立ったゆえに、賛美を呼び覚まし、あけぼのを呼び覚まそうとした。
なんという復帰力だろうか。
その源泉は、鳩のように主に助けを求める所にある。
 
ダビデは、闇夜の状況に、あけぼのを呼び覚ます。
わが「魂」と訳された原語はカヴォド、元々の意味は肝臓で、肝臓は最も重い臓器である事から「重さ」を表し、また「栄光」を表すため、KJVでは「My glory」と訳されている。
ダビデは、すぐ前はペリシテ人の前で気違いを装い、栄光が地に落ちたかのようであったが、彼は、ほら穴の中で主に呼び求め、主にあって奮い立ち、どん底に落ち込んでしまった彼の栄光に向かって「さめよ」と宣言した。
実際彼は、その後、栄光を回復して行く。
 
57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
 
ダビデは、アドラムのほら穴にいた時、たった一人だった。
にもかかわらず、彼は「もろもろの国」を見据え、国々の間で主をほめたたえる、と宣言している。
 
事実、彼が宣言したとおりに、彼はその後、彼の敵は打ち負かされ、サウルに代わって王となり、聖歌隊を編成し、ダビデ自身が作った詩篇を歌わせ、そして多くの国々を占領し、主の栄光をあまねく告げ知らせて行った。
いかに一人ぼっちで、ほら穴に逃げ隠れしていたとしても、主を拠り所とし、主を信頼して、御言葉を宣言するなら、その宣言したとおりになるのである。
 
57:10 あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。
57:11 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
 
最初は嘆きで始まったが、最後は賛美で終わる。
彼が主にあって確信を得たからだ。
まさに詩篇23篇で彼が記した通りである。
 
詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
ダビデはこの後、彼の元に次々と人々が集まって来るようになり、600人の人々の頭領となった。
その彼らがエン・ゲディのほら穴にいた時、ダビデのいのちをつけ狙って来たサウル王は、ダビデのいたほら穴に、自分から一人で来て、彼の無防備な様を、ダビデ達の前にさらした。
主がダビデの手に、敵であるサウル王を渡して下さったのだ。
 
ダビデはいつでもサウル王に手を下す事はできたが、それをしなかった。
それは、ダビデが大好きな主が、サウルに油を注いで下さったからだ。
そしてダビデは知った。
主により頼むなら、主はいつでも、自分の敵を手に渡して下さる、自分は、主にあって安全に守られるのだ、と。
 
今、コロナが流行っているこの時勢、私達も鳩のように、ただ家の中に閉じこもって主に向かって呼ばわるだけかもしれない。
しかし、そのような時期に、主を呼び求める事は、実は幸いな一時である。
それによって主は、平安と確信を送ってくださり、暁を呼びささます者とし、ゆくゆくは信じて宣言した言葉のとおりに栄光が与えられるからだ。
メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2019 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest