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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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第二サムエル記では、ダビデによる、バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤ謀殺の事件と、その姦淫と殺人の罪による悩ましい呪いがつきまとう事件が、第二サムエル記11章から19章まで延々と記されているが、歴代誌では次の数節で済ませてしまっている。

20:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。
20:2 そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
20:3 また彼はそのうちの民を引き出して、これをのこぎりと、鉄のつるはしと、おのを使う仕事につかせた。ダビデはアンモンびとのすべての町々にこのように行った。そしてダビデと民とは皆エルサレムに帰った。

サムエル記でのダビデは、サウルからの苦悩や、バテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌でのダビデは、むしろ神殿建設のためにいかに努力したか、という点が強調されている。
それだから、神殿建設とは関係の無い「バテシェバとの罪」の事件は略されているが、神殿建設の発端となった「人口調査の罪」については次章で詳細に記されている。
ダビデは、バテ・シェバとの罪やウリヤ殺害の罪を預言者ナタンによって示された時、すぐに自分の罪を認め、泣き叫んで自分の罪を悲しみ赦しを乞うた。(詩篇51篇)
彼は後に、その姦淫と殺人の罪という「いのちへの冒涜」の罪ゆえに、彼自身から生まれ出る子供達によって大いに苦しめられる事となるのだが、主は彼の罪を見逃してくださった故、異邦人との戦争においては、その呪いは一切及ぶことは無かった。

20:4 この後ゲゼルでペリシテびとと戦いが起った。その時ホシャびとシベカイが巨人の子孫のひとりシパイを殺した。かれらはついに征服された。
20:5 ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。
20:6 またガテに戦いがあったが、そこにひとりの背の高い人がいた。その手の指と足の指は六本ずつで、合わせて二十四本あった。彼もまた巨人から生れた者であった。
20:7 彼はイスラエルをののしったので、ダビデの兄弟シメアの子ヨナタンがこれを殺した。
20:8 これらはガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。

この箇所は、第二サムエル記では21章15-22節に相当する。時間的にも多く流れ、ダビデも年老いた時であった。

2サムエル記21:15 ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

21:16 時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。
21:17 しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。

ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。

詩篇127:3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
127:5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

勝利の秘訣 - 祝福の法則に立つ(1歴代誌18:1-17)
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19:1 この後アンモンの人々の王ナハシが死んで、その子がこれに代って王となった。
19:2 そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、彼の父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼をその父のゆえに慰めようとして使者をつかわした。ダビデのしもべたちはハヌンを慰めるためアンモンの人々の地に来たが、

アンモン人ナハシは、1サムエル記11章に登場する。
サウルがまだ王になったばかりの時、ナハシはイスラエルを痛めつける者としてヤベシュ・ギルアデに陣を張り、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞ったが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後、ナハシはダビデに対して真実を尽くすようになった。
ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。

19:3 アンモンの人々のつかさたちはハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたことによって、あなたは彼があなたの父を尊ぶのだと思われますか。彼のしもべたちが来たのは、この国をうかがい、探って滅ぼすためではありませんか」。

このアンモン人達は、相手の良心に対し、何か裏があるのではないか、と、疑いの目を向けた。
裏のある人間は、いつも裏をかいて生き抜いてきたので、善良な人の善良さが理解できず、こういう時に、実に失礼な対応を取ってしまうものである。

19:4 そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕えて、そのひげをそり落し、その着物を中ほどから断ち切って腰の所までにして彼らを帰してやった。
19:5 ある人々が来て、この人たちのされたことをダビデに告げたので、彼は人をつかわして、彼らを迎えさせた。その人々が非常に恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後帰りなさい」。

当時、「ひげ」は男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取って、尻の部分をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやったが、すぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。
すると、いつも裏をかいて来た人間は、自分のした事でさらに疑心暗鬼に駆られ、自分から敵対的な行動を取るようになる。

19:6 アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれることをしたとわかったので、ハヌンおよびアンモンの人々は銀千タラントを送ってメソポタミヤとアラム・マアカ、およびゾバから戦車と騎兵を雇い入れた。
19:7 すなわち戦車三万二千およびマアカの王とその軍隊を雇い入れたので、彼らは来てメデバの前に陣を張った。そこでアンモンの人々は町々から寄り集まって、戦いに出動した。

戦車が3万以上、ものすごい装備と兵力である。
しかし、こちらが祝福の法則に乗り、怖じけずに主のために兄弟姉妹のために戦うなら、相手の兵力がいかであれ、主はこちらに軍配を挙げて下さる。

19:8 ダビデはこれを聞いてヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、
19:9 アンモンの人々は出て来て町の入口に戦いの備えをした。また助けに来た王たちは別に野にいた。
19:10 時にヨアブは戦いが前後から自分に向かっているのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、
19:11 そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、
19:12 そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、あなたを助けましょう。
19:13 勇ましくしてください。われわれの民のためと、われわれの神の町々のために、勇ましくしましょう。どうか、主が良いと思われることをされるように」。

相手が大勢なので、イスラエルの軍が挟み撃ち状態であったが、しかしヨアブは怖じけず、主エホバの御名によって戦士達を奮い立たせた。
結果はどうであったか。

19:14 こうしてヨアブが自分と一緒にいる民と共にスリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。
19:15 アンモンの人々はスリヤびとの逃げるのを見て、彼らもまたヨアブの兄弟アビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはエルサレムに帰った。

敵は、自分達が有利であるのに、逃げた。
それは、イスラエルの側が祝福の法則に立っていたからに他ならない。
祝福の法則に立つとは、以下の事である。

申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
28:4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。
28:5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。
28:6 あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
28:7 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。

以上のように、「主の御言葉に聞き従い、それを守り行う」という祝福法則に立つなら、主は勝利をもたらして下さる。
敵が大勢であっても、一人が千を、二人が万を打つ。
サウルの子ヨナタンは、主エホバを信じる信仰によって進み出て、たった二人で幾万を怖じけさせ、絶望的な状況のイスラエルに救いをもたらした。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。

世においては諸々の戦いがある。
しかし、御言葉に聞き従って、その通り守り行う道を進み行く限りでは、私達はたとえ辱めを受けても後には栄誉が与えられ勝利がもたらされるのだ。

勝利に勝利を重ねるダビデ、とクリスチャン(1歴代誌18:1-17)
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18:1 この後ダビデはペリシテびとを撃ってこれを征服し、ペリシテびとの手からガテとその村々を取った。
18:2 彼はまたモアブを撃った。モアブびとはダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。

ダビデは、それまでのイスラエルがかつて制圧する事の出来なかったあらゆる敵に対する勝利を主から与えられた。
その敵とはエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマクレなどの諸国、さらにはユーフラテス川沿いの王、ダマスコのアラムなど、多くの王達を打ち破った。
さらには、ダビデの知らなかった王達がダビデを恐れ、仕えるようになった。
それはダビデに戦闘力があったからではない。6節と13節に記されている通りである。
「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」

勝利は、主のものである。
箴言21:30 主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
 21:31 戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。

ダビデは、多くの分捕りをし、また、多くの貢物が納められたが、それらは全て、主に捧げた。(8節、1節)
ソロモンは集めた富を、自分のために豪勢に用いたが、ダビデは富を主に捧げた。
それで主はダビデに大いなる名を与えられたのだ。

ダビデは戦いにおいて勝利したのみならず、正しく統べ治めた事が14節以降に記されている。
彼は後に、正しい王の雛形として語り継がれた。「**は、ダビデの道を歩んだ」など。
そして、そのダビデの子孫から、真の王の中の王、キリストが現れるのである。

エレミヤ23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
 23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。

何故に神は、ダビデに、こんなにも栄誉を与えられたのか。
それは、ダビデが真心をもって主に使えたからである。
詩篇18篇は、主が彼の全ての敵の手から救い出された日に歌った詩であるが、その書き出しを見ると、いかにダビデが主をどのような心で見ていたかが書かれてある。

聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

ダビデはいつも、主を「わが」助けにしていた。
数多の戦いをして来たが、その戦いの都度、いつも主が助けであると宣言していたのである。
敬虔なクリスチャンが車を運転する前にいつも守りを祈るように。私達も、日常の仕事や家庭のわざ、諸々の「戦い」の都度、祈るなら、ダビデのように連戦連勝するのだ。

18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。

宮本武蔵はなぜ連戦連勝だったのかを聞かれた時、自分よりも弱い相手としか戦わなかったからだ、と言ったそうだが、ダビデはそうではなかった。彼は、自分よりも強い相手と戦って、連戦連勝だったのだ。
ゆえに、彼が勝つことができたのは、ダビデが強かったからではなく、主が彼のささえとなったからだ、と、ダビデは結論づけている。

18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。
18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。

ダビデは、自分には義がある、手は清い、主の前にかけた所が無い、罪をおかさなかった、と言っているが、果たして主の厳しい基準に照らしても、全く罪を犯していなかったのだろうか。当然、そうではない。
彼は、主に喜ばれていた。(19節)
それは、彼が罪をおかさなかったからでなく、誠実に主に歩もうという志をもって、日々歩んでいたからである。
親が、子供がちょっとやそっとの罪や不完全さを持っていても、親を愛して親に誠実に歩もうとする子を喜ぶように、主は、主に誠実に歩もうとする私達をこそ喜んで下さる。

だから、示されていない罪について詮索する必要は無い。
特に良心のとがめが無いのに「自分はあの罪、この罪を犯していなかっただろうか」と詮索したり心配したりするのは、訴える者・悪魔から来るものであり、それによって、「自分はだめだ、罪人だ、神と共に歩むなど、おこがましい」と言って主から離れてしまうなら、サタンの企みが成功してしまった事になる。

18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。
18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。

まさしくダビデは、この詩篇の通り、あらゆる強者を破り、連戦連勝したのは、主に依り頼んでいたからだ。
ここを読むとそれが明らかであると分かる。
私達も、主を頼みとし、主を拠り所とするなら、私達の足も雌鹿のようにして高いところに安全に立たせ、青銅の弓をも引けるようにされるのだ。

18:43 あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。
18:44 彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。
18:45 異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。

歴代誌にもある通り、ダビデを恐れた王達がダビデの前にひれ伏した。
クリスチャンは、清貧の中を生きる弱々しい人生ではないはずである。
世に、悪魔サタンに対し、勝利につぐ勝利をし、多くを分捕り、そしてダビデのように、それを主に捧げる。
それが、正しいクリスチャンの生き様である。
そして、次のダビデの賛美のように、主をあがめるのである。

18:46 主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
18:47 神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、
18:48 わたしの敵からわたしを救い出されました。まことに、あなたはわたしに逆らって/起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
18:49 このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。
18:50 主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう。

イザヤ書 講解説教メッセージ
神と私達ががいかなる関係であるのかを主張する祈り(イザヤ63:11-19)
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語られた御言葉に100%アーメンしたダビデとマリヤ(1歴代誌17:15-27)
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ダビデは、主のために家を建てようとしたのに、逆に主から、遠大な祝福の約束を頂いた。
そこで咄嗟に出た行動は、自分の身を低くする事だった。

17:16 そこで、ダビデ王は、はいって主の前に座して言った、「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家がなんであるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。
17:17 神よ、これはあなたの目には小さな事です。主なる神よ、あなたはしもべの家について、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。

私達も、そうである。本当に主の御胸を理解し、その偉大さ、遠大さを目の当たりにするなら、ただただ驚き感嘆する以外に無い。
どうして、こんなにも取るに足りない自分、こんなつまらない自分を、主は王として選んでくださり、ここに至るまで導いて下さり、さらには、遥か後の来るべき永遠までも示して下さるのですか、と。

ダビデは詩篇8篇で言っている。
詩篇8:1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

主は、小さな子、幼子の口によって、栄光をお受けになる。
イエス様に対して「ダビデの子にホザナ」と叫んだ幼子たちを見て、パリサイ人達は怒ったが、イエス様はまさに詩篇の御言葉を引用して、それは正しいことだと言った。
私達のような、小さな者の口が、その偉大な主を褒め讃えて良い、というのは、なんという喜びだろう。

『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。』(詩篇8:3-4)
主の偉大さ、遠大さに引き換え、自分を見ると、ただただ小ささ、足りなさしか見いだせないのだ。

17:18 しもべの名誉については、ダビデはこの上あなたに何を申しあげることができましょう。あなたはしもべを知っておられるからです。

ダビデは、主の御言葉に対し、「この上あなたに何を申しあげることができましょう」と言った。
御言葉に対しては、「何も付け加えない」「何も取り除かない」、が、正しい態度である。
次のように書かれてあるからだ。
黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
 22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

17:19 主よ、あなたはしもべのために、またあなたの心にしたがって、このもろもろの大いなる事をなし、すべての大いなる事を知らされました。
17:20 主よ、われわれがすべて耳に聞いた所によれば、あなたのようなものはなく、またあなたのほかに神はありません。
17:21 また地上のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、エジプトからあなたがあがない出されたあなたの民の前から国々の民を追い払い、大いなる恐るべき事を行って、名を得られたものではありませんか。
17:22 あなたはあなたの民イスラエルを長くあなたの民とされました。主よ、あなたは彼らの神となられたのです。

主は、国々の間で、神の民を特別扱いし、偉大なる事を、内外に示された。
ダビデがこのように、両手放しで主を賛美できたのは、主の偉大さ、素晴らしさ、寛大さ、憐れみ深さ、その他、主が成して下さったあらゆる良きわざ、主のあらゆる良きご性質を、知り、理解し、味わったからである。

主は、私達にも、偉大なわざを為してくださった。
その、主が為してくださったあらゆる良き事を、覚えているだろうか。ダビデは主が語ってくださった事を全て理解し、覚えていたから、それをそのまま賛美で返した。
一体私達は、主が私達に与えて下さった良きわざをどれ程知って、理解しているだろうか。主の御業の大いなる事を、どれ程体験し、感謝し、それを喜び誉めたたえているだろうか。

17:23 それゆえ主よ、あなたがしもべと、しもべの家について語られた言葉を長く堅くして、あなたの言われたとおりにしてください。
17:24 そうすればあなたの名はとこしえに堅くされ、あがめられて、『イスラエルの神、万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、またあなたのしもべダビデの家はあなたの前に堅く立つことができるでしょう。

ダビデは「願いごと」を申し上げているが、そこには、人間的な願いは一切無い。
ただ主の御胸がなりますように、という願いのみである。

17:25 わが神よ、あなたは彼のために家を建てると、しもべに示されました。それゆえ、しもべはあなたの前に祈る勇気を得ました。
17:26 主よ、あなたは神にいまし、この良き事をしもべに約束されました。
17:27 それゆえどうぞいま、しもべの家を祝福し、あなたの前に長く続かせてくださるように。主よ、あなたの祝福されるものは長く祝福を受けるからです」。

ダビデは、主が約束されたお言葉の通りに、なりますように、と、ただ願っている。
ちょうど乙女マリヤが祈ったように。

ルカ1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。
 1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。
 1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

御使いはマリヤに、まさに、ダビデ契約の成就が、マリヤから産まれる子によって実現する事を告げ知らせに来た。
この、途方も無い事に、マリヤは答える。

ルカ1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

マリヤは、処女が身ごもるという、現実には有り得ない事がどうしてなるでしょうか、とこたえたのに対し、御使いは、神に不可能な事は無い、その全能の力が、マリヤの身に起こり、人類の救いが起こる事を告げる。

ルカ1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。
 1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。
 1:37 神には、なんでもできないことはありません」。
 1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

マリヤはまさしくダビデの子孫である。マリヤはダビデと同様、主の言葉に対する100%の従順の姿勢を見せ、そして実際、彼女の身に起きた。
私達は、主の言葉に対して、何も加えてはならないし、何も引いてはならない。
御言葉に対して「でも」「だって」「信じられない」と言ってしまう一言一言ごとに、祝福が羽を生やして富んでいってしまい、呪いがくっついて来てしまう。
私達は御言葉の約束に対し、ただアーメンと従順する応答こそ、何にもまして主に喜ばれるいけにえである。

ダビデ契約:家を建てるのは誰か(1歴代誌17:1-14)
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今回の箇所は、いわゆる「ダビデ契約」と言われる箇所である。

17:1 さてダビデは自分の家に住むようになったとき、預言者ナタンに言った、「見よ、わたしは香柏の家に住んでいるが、主の契約の箱は天幕のうちにある」。
17:2 ナタンはダビデに言った、「神があなたとともにおられるから、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。

周囲の敵が平定され、快適な家に住むようになり、全てに安定したダビデは、自分によくして下さった主を愛する心のゆえに、主のために家を建てたい、という願いが起こされ、預言者ナタンに相談した。
ところが神の答えは、意外なものだった。

17:3 その夜、神の言葉がナタンに臨んで言った、
17:4 「行ってわたしのしもべダビデに告げよ、『主はこう言われる、わたしの住む家を建ててはならない。
17:5 わたしはイスラエルを導き上った日から今日まで、家に住まわず、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移ったのである。
17:6 わたしがすべてのイスラエルと共に歩んだすべての所で、わたしの民を牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも、「どうしてあなたがたは、わたしのために香柏の家を建てないのか」と言ったことがあるだろうか』と。

主の答えは「わたしの住む家を建ててはならない。」だった。
なぜか。それは、ダビデがリッチになって力があるから主の家を建てる、のではなく、主がダビデにそれらの富と力を与えたからだ。

使徒7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
7:49 『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。
7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

ダビデは、自分は快適な杉材の家に住んでいる、主にも、幕屋のような粗末な所ではなく、もっと豪勢な住まいを建てたい、と願った。
それは主を愛する心が高じての事であるが、主は、人間が建てたものにお住みになるお方ではない。
むしろ、それを建てた大工に匠の技を与えたのも、知恵を与えたのも、また、杉を山で育てたのも、そのために必要な太陽や雨を創造したのも、全部、主なのである。

17:7 それゆえ今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる、「わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、
17:8 あなたがどこへ行くにもあなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地の上の大いなる者の名のような名をあなたに得させよう。

ダビデはリッチになった、力を得た、としても、結局ダビデは元々、羊飼いであり、その羊の園から呼び出してイスラエルの王としたのは、主であり、そしてさらに大いなる名を与えるのも、主である。
実際ダビデは、主の恵みにより、この現代においてもその名が大いなるものとされている。

17:10 かつわたしは主があなたのために家(単数形)を建てられることを告げる。

ダビデ契約の根幹は、ここである。
あなたが(人)、主のために家を建てるのではない。
わたしが、あなた(人)のために、決して廃れる事の無い、ひとつの永遠の家を建てるのだ、と。

そうである。主は、人が存在する以前から人を愛し、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられ、ベレシート(はじめ)の前から、全てを見込んでおられたのだ。
そして、それをするのはダビデではなく、ダビデから出る「ひとりの子」であると主は定めている。

17:11 あなたの日が満ち、あなたの先祖たちの所へ行かねばならぬとき、わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。

この「ひとりの子」はソロモンであるという考えはあるが、どうも次に続く節をみると、ソロモンでは役不足であることは明白である。

17:12 彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。

この節の前半を見ると、確かに、神殿を建てたソロモンが、その「ひとりの子」と見れる。
しかし、節の後半以降からの記述は、はたしてソロモンに当てはまるだろうか。
後の歴史を見ると、そうではない、と言わざるをえない。

17:13 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。
17:14 かえって、わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」。

主は、ソロモンの王族から王権を取り去ってしまい、もう王は生まれない、と言われた。
あまりにも主に従わない事を続けてきたゆえだ。

『この人コニヤは/卑しむべき、こわれたつぼであろうか、だれも心に留めない器であろうか。なぜ彼とその子孫は追いやられて、知らない地に投げやられるのか。ああ、地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ。主はこう言われる、「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである」。』(エレミヤ22:28-30)

では、その、ダビデから生まれる「ひとりの子」とは誰か。
それは、イエス・キリスト以外の何者でもない。

イエス様は、ソロモンの血は継いでいない。ソロモンの血を継いだヨセフと結婚する前に、乙女マリヤは身ごもったからだ。
マタイ1章にはダビデ、ソロモン、と続いてヨセフに至る系図が記されているが、ルカ3章には、ダビデ、ナタン、と続くマリヤに至る系図が記されている。
イエス様は、ダビデの子ではあっても、ソロモンの血は継いでおらず、ソロモンの子孫に宣告された「もう王は生まれない」という呪いの外におられる。

結局、永遠の神の家を建てるのは、人ではない。
神に従う人に、神は、家を建ててくださるのだ。

ルツ記3:9 「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」

主こそ、私達の家を建て、家を絶やさぬ責任のあるお方。
黙示録にある通り、主こそ、まことの神殿であり、人々は、その主の栄光を慕い求めて主の元に行くのみである。

黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。

御前に正しく仕える体制を整え、祝福されるダビデ(1歴代誌16:37-43)
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神の契約の箱がエルサレムに運び入れられた日、聖歌隊が編成され、御前に仕える奉仕者が制定された。
ここで定められた奉仕者が、その子孫たちに、そしてずっと後の時代にまでも受け継がれて行った事が、バビロン捕囚後に記されたエズラ記や歴代誌を読むとわかる。

16:37 ダビデはアサフとその兄弟たちを主の契約の箱の前にとめおいて、常に箱の前に仕え、日々のわざを行わせた。

日毎、主の箱の前に仕える奉仕が建てられた。
主の箱とは契約の箱であり、
私達

16:38 オベデ・エドムとその兄弟たちは合わせて六十八人である。またエドトンの子オベデ・エドムおよびホサは門守であった。

門衛の一族となるオベデ・エドムには、特に子孫が多い事が記されている。
26章5節には「神が彼を祝福されたからである」と、わざわざ書かれてある。
コンサート会場においては、警備員よりも、華々しくステージで歌う人に注目されがちだが、主は、門衛の一族を祝福された事は、注目に値する。
私達も、この口という門、目や耳という門を、しっかりと見張り、この口から賛美と共に兄弟姉妹をあげつらう言葉が出てはならない。
私達は、神の聖なる宮である。そうであるからには、汚れた情報の出入りがないように、言葉の出入りが無いように、しっかりと見張るなら、祝福される。

16:39 祭司ザドクとその兄弟である祭司たちはギベオンにある高き所で主の幕屋の前に仕え、
16:40 主がイスラエルに命じられた律法にしるされたすべてのことにしたがって燔祭の壇の上に朝夕たえず燔祭を主にささげた。

祭司ツァドクは、エルサレムの主の箱の前ではなく、代々神を礼拝する場所であったギブオンの高き所で日々主に仕える者として任命された。
彼はピネハスの子孫で、本来、神の宮で仕えるべき正当な血族であったが、ダビデの時代は、ダビデと苦楽をともにしたエブヤタルが祭司であった。
しかしソロモンの時代、神がピネハスに約束された通りに、ツァドクが正当な祭司として任命され、また、あの悪辣な祭司エリの子ホフニとピネハスの血族であるエブヤタルは罷免された。

1列王記2:26 それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたは死に値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ。」
2:27 こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。

16:41 また彼らとともにヘマン、エドトンおよびほかの選ばれて名をしるされた者どもがいて、主のいつくしみの世々限りなきことについて主に感謝した。
16:42 すなわちヘマンおよびエドトンは彼らとともにいて、ラッパ、シンバルおよびその他の聖歌のための楽器をとって音楽を奏し、エドトンの子らは門を守った。

こうして、後の神殿時代を通し、さらにバビロン捕囚の後にも長く続く主の奉仕者の役割と人員が割り当てられた。

16:43 こうして民は皆おのおの家に帰り、ダビデはその家族を祝福するために帰って行った。

ダビデは主にある喜びに勇んで、自分の家を祝福する気持ちで家に入った所を、その、祝福したいという心に、冷水を浴びせるような事を言って迎えた。
彼女には生涯子供がいなかった、と記されている。
夫は妻のかしらであり、父は一家のかしらである。
そのかしらである夫を、父を呪う者は、のろいを受けてしまう。
ノアの息子・セム、ハム、ヤペテのうち、ハムは、恐れ敬うべき父の天幕に入って行き、そこで見つけた父の裸をじっくりと見、兄弟たちに言いふらし、来て一緒に見るよう招いたため、父から呪いを受けてしまった。それに対しセムとヤペテは、父の裸を見ないよう後ろ向きに歩いて裸を覆ったため、祝福を受けた。

祝福を与える立場である「父」を蔑んだり、軽んじたり、その秘密をあげつらって、他に言いふらすような者は、子々孫々呪われる。
しかし、その立場にある人を敬い、祝福したいという気持ちをいつも持たせる人は、子々孫々とも祝福される。
 

全被造物は主をほめたたえよ(1歴代誌16:23-36)
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16:23 全地よ、主に向かって歌え。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
16:24 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、/もろもろの民の中にくすしきみわざをあらわせ。
16:25 主は大いなるかたにいまして、/いとほめたたうべき者、/もろもろの神にまさって、恐るべき者だからである。

前回に続いて、賛美の呼びかけは、人のみならず、全ての被造物に対するものとなる。
ダビデは言った。全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ、と。
イエス様も言われた。全て、造られたものに、福音を宣べ伝えよ、と。
確かに全世界の人々に福音を伝えるべきであるが、人間以外の全被造物もまた主を褒め讃えているのであり、そして、うめきをもって神の子たちの現れを待ち望んでいる。(ローマ8章)
元々、人は統治するようにと創られた。(創世記1章)
しかし罪を犯して以来、人はほしいままにふるまい、被造物を破壊する方向性で支配するようになってしまった。

ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

だから私達は、何も主日、礼拝する時のみが神の子ではない。
日々、瞬間瞬間、イエス・キリストを主とし、彼にあって救われた神の子として歩むならば、行く先々の被造物は私達を喜び迎え、歓迎するのである。

16:28 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、/栄光と力とを主に帰せよ。
16:29 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主のみ前にきたれ。聖なる装いをして主を拝め。

続いて、呼びかけは「もろもろの民のやから」になる。
確かにやがて、全ての王達、国民が御前に礼拝を捧げにやってくる日が来る。

黙示録 21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

主に栄光を捧げ、御前にみずから低くなる人は、主へのささげものを携えて、栄光の神の都に入る事が出来る。
しかし、入れない者のリストが黙示録21:27にある。原語で見るなら「自ら進んで(好き好んで)」汚れた事、憎むべき事、偽りを行う者が、この聖なる都には決して入れないのだ。

16:30 全地よ、そのみ前におののけ。世界は堅く立って、動かされることはない。
16:31 天は喜び、地はたのしみ、/もろもろの国民の中に言え、「主は王であられる」と。
16:32 海とその中に満つるものとは鳴りどよめき、/田畑とその中のすべての物は喜べ。
16:33 そのとき林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌う。主は地をさばくためにこられるからである。

主をほめたたえよ、との呼びかける対象は、さらに、全地に、天に、地に、海とその中に満つるものに、田畑とその中の全ての物に、林のもろもろの木にまで及んでいる。
それら創られたものは、全て、主の栄光をあらわしているのだ。
ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

ローマ1:20や歴代誌とは対照的に、ローマ1:21には、主を神とせず、感謝も捧げない者が、どうなるかが書いてある。
それは、『神を知りながら神としてあがめず、感謝もしない人』で、彼らは「,えって」その「∋廚ぁ廚蓮岫むなしくなり」、その「ぬ誼里福弯瓦蓮岫グ鼎なった」。

 屬えって」のギリシア語はアッラ、「反して」の意味もある。神を知れば知る程、神をあがめ感謝する以外に無いはずなのに、それが全く沸き起こらず、逆にその人からは、主に対して失礼な態度しか出てこない。
◆峪廚ぁ廚魯妊アロギスモス、ロギスモスは計算する(ロギア)または言葉(ロゴス)の意味があり、ディアは前置詞で「行ったり来たり」、すなわち「どっちつかず」で、彼らは、御言葉も、計算も、どっちつかずなのだ。
「むなしくなり」はマタイオーすなわち「愚かになる」「悪辣になる」の意味の動詞の不定過去(アオリスト)受動態である。それはすなわち、その状態が化石化され、改善の余地が無くなってしまった状態である。
つまり、神を知りつつも神をあがめないでい続けるなら、また、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、悪い方へ向かうもので、改善の余地が無いまでになってしまうのだ。
また、ぁ嵬誼里福廚魯▲好優肇后△海譴蓮屮好優肇后文い、聡明な、理解力のある)の真逆」の性質である。
ァ岼鼎なった」はスコティゾー、闇にする、見えなくするという意味もある動詞で、ここも不定過去受動態が用いられているので、目が暗い状態・闇の状態が、化石化され、改善の余地が無くなってしまったのだ。
神に栄光を返さずにいる人は、自分で賢いと思ってはいても良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。

神に感謝を捧げる事、これこそ私達の本分である。だから、ダビデはこの詩篇の始まりを「感謝(ヤーダー)」で始め、「感謝(ヤーダー)」で締めている。(8節、34-35節)

16:34 主に感謝せよ、主は恵みふかく、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
16:35 また言え、「われわれの救の神よ、われわれを救い、/もろもろの国民の中から/われわれを集めてお救いください。そうすればあなたの聖なるみ名に感謝し、/あなたの誉を誇るでしょう。

「感謝(ヤーダー)」のヘブライ語にはさらに賛美する、栄光を捧げる事の意味もあるが、元々、(手を用いて)投げる、放つ、という意味がある。
黙示録において、24人の長老が、冠を主の御座に投げているが、彼らは行いをもって、主に感謝し、賛美を捧げているのだ。

16:36 イスラエルの神、主は、/とこしえからとこしえまでほむべきかな」と。その時すべての民は「アァメン」と言って主をほめたたえた。

賛美はレビ人の奉仕者によって捧げられたが、人々は「アーメン」でこたえた。
アーメンは応答である。もし誰かに言葉をかけたのに、かけられた相手が何も応答せず黙っているとするなら、無視されたと思われてしまう。
同様に、主の御言葉が語られたのにもかかわらず、それに対して何も応答しないとするなら、主はどう思われるだろうか。

私達は主を褒め讃え、感謝するべき存在である。
天国においては永遠に主への賛美が捧げられ、また、天地が創られる前の昔も、同様に、主への賛美が捧げられていたからだ。

主に栄光を捧げ感謝せよ(1歴代誌16:8-22)
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エルサレムに神の契約の箱が入った時、ダビデとイスラエルの民は大いなる喜びにあふれた。
ダビデはその時以降、聖歌隊を編成し、いつも主を褒め称える賛美を捧げるようにさせた。
8節以降36節までは、契約の箱がエルサレムに入った時に捧げられた賛美の詩篇である。

16:8 主に感謝し、そのみ名を呼び、/そのみわざをもろもろの民の中に知らせよ。
16:9 主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。

この詩は、ヘブライ語「ヤダー(感謝する,賛美する,告白する)」の命令で始まる。
誰に対して感謝し賛美するのか。エホバなる主に対して、である。

主に感謝を捧げ、賛美する事こそ、人間の本分であり、それをしない事を続けるなら、本来あるべき創造の意味を果たしていない事になる。
ピアノは音楽を奏でるために造られたものであって、決して踏み台にするためではないように。
せっかく高いお金を払って買ったピアノでも、使わず、何かの踏み台にばかりしているなら、はなはだもったいないように、人間も、主を賛美せず、感謝を捧げないないなら、はなはだもったいないのだ。

もし、神を知りつつも神をあがめないでいる事を続けるなら、あるいは、神に良くしていただいているのに反し、感謝しない事を続けているなら、どうなってしまうかが、ローマ1:21に記されている。
そういう人は、やがて考え方が愚かで悪辣となり、悪い事で匠に、狡猾になって行き、どんなに計算しても、どんなに考えても、ただ悪へと向かうようになり、改善の余地が無いまでになってしまう。
自分では賢いと思ってはいても、良心が退化してしまっており、知性が無く、愚かで、堕落した状態にずっと繋がり続け、闇に惹かれ続けて行き、やがて、大きな事故を起こしてしまう。

16:10 その聖なるみ名を誇れ。どうか主を求める者の心が喜ぶように。

私達が誇るべきは、主の聖なる御名である。なぜなら、私達は元々、無に等しい者であり、主が私達に能力を、知恵を賜物として与えて下さったからだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』(1コリント1:26-31)

16:11 主とそのみ力とを求めよ。つねにそのみ顔をたずねよ。

私達がまず第一に求めるべきは、神の国とその義とを、である。
それを第一に求めるなら、それが与えられるのみならず、世における必要は全て満たされる事もまた付随して与えられるからだ。

16:15 主はとこしえにその契約をみこころにとめられる。これはよろずよに命じられたみ言葉であって、
16:16 アブラハムと結ばれた契約、/イサクに誓われた約束である。

続いて、ザカール(覚えよ)と命じている。
何を覚えるべきか。主の命じられた御言葉であり、その契約を、である。
主はイスラエルの民をその父アブラハムを通して召し出して下さったように、私達をも、キリストを通して召し出して下さり、神の民として下さった。
その事をいつも覚えつつ、この地上を歩んで行くのが、キリストのゆくべき歩みである。

16:19 その時、彼らの数は少なくて、/数えるに足らず、かの国で旅びととなり、
16:20 国から国へ行き、/この国からほかの民へ行った。
16:21 主は人の彼らをしえたげるのをゆるされず、/彼らのために王たちを懲らしめて、
16:22 言われた、「わが油そそがれた者たちに/さわってはならない。わが預言者たちに害を加えてはならない」と。

まさに主は、アブラハムに、イサクに、そうして下さった。
主はアブラハムをかばい、エジプトの王パロや、ペリシテの王アビメレクという王達を懲らしめ、また主はイサクをかばい、アビメレクを懲らした。
その時、アブラハムやイサクの側に落ち度があったにもかかわらず、主は、祝福すると契約を結ばれた民のほうをかばい、特別扱いされるのである。

私達も、イエス様を信じる信仰により、アブラハムの子孫とされ、神の民とされ、そして特別扱いをされるのである。
それ故、私達もまたいつも主をほめたたえ、感謝すべきである。

聖歌隊の初編成(1歴代誌16:4-7)
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今回の箇所は、神殿における聖歌隊が誕生した箇所である。
それは、神の箱がダビデの町に安置されたその日に定められた。

16:4 ダビデはまたレビびとのうちから主の箱の前に仕える者を立てて、イスラエルの神、主をあがめ、感謝し、ほめたたえさせた。
16:5 楽長はアサフ、その次はゼカリヤ、エイエル、セミラモテ、エヒエル、マッタテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエルで、彼らは立琴と琴を弾じ、アサフはシンバルを打ち鳴らし、
16:6 祭司ベナヤとヤハジエルは神の契約の箱の前でつねにラッパを吹いた。
16:7 その日ダビデは初めてアサフと彼の兄弟たちを立てて、主に感謝をささげさせた。

この日以降、主の御前にレビ人奉仕者による賛美が日々捧げられる事が続き、戦いの際には兵士達と共に賛美の部隊が進み行き、第二神殿の時代にも、この賛美奉仕は引き継がれた。

律法にはそのように指示する箇所は無いものの、ダビデは知っていたのだ。
賛美は、霊的世界と、そして永遠世界と密接に関わっているという事を。

賛美は、永遠の昔に存在し、永遠の未来にも存在する。
世界の土台が創られた時、賛美が沸き起こった。「かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。」(ヨブ38:7)
また、黙示録を見ると、天国は、賛美で満ちている所である事が分かる。

ダビデがサウル王に召しだされたのも、賛美奉仕が元だった。

『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。』(1サムエル記16:15-17)

霊の世界と、音楽とは、非常に密接な関係がある。
サウルが最初に主の霊が激しく降った時、預言者達の一団が色々な楽器を奏でつつ預言していたし、エリシャも預言をする時、立琴をひく者を連れてこさせた事があった。(2列王記3:15)

『ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。』(1サムエル記16:21-23)

主を敬う人が奏でるメロディや、賛美は、悪しき霊を退けさせる。
神は、賛美を住まいとされるからだ。(詩篇22:3)

音楽は、霊的な事柄と密接に関わっているゆえに、悪しき事柄にも作用しやすい。
サタンは元々、天使ルシファー、すなわち、音楽を奏でる天使だったが、自分の美しさに酔いしれて高慢になり、堕落してしまった。

エゼキエル28:12 「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。
28:13 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた/守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。
28:15 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日までは/そのおこないが完全であった。
28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によって/あなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前で/あなたを地の上の灰とした。
28:19 もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。

賛美や音楽の奉仕をする人は特に、高慢にならぬよう、また、主の栄光をいつも思うよう、気をつけるべきである。
私達はいつでも主に栄光を帰し、主を褒め称えるべきであって、自分を礼賛すべきでないのだ。

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