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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

聖書を燃やした王 vs 決して廃れない御言葉(エレミヤ36章)

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 エデンの園から追い出されてしまう性質:高慢(雅歌5:1-8)

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雅歌5:1 わが妹、わが花嫁よ、わたしはわが園にはいって、わが没薬と香料とを集め、わが蜜蜂の巣と、蜜とを食べ、わがぶどう酒と乳とを飲む。友らよ、食らえ、飲め、愛する人々よ、大いに飲め。
 
5章の1節は、前回の続きである。
前回学んだように、妻が夫の贈った飾りを身に付け、その眼差しで夫をじっと見つめる時、夫は彼女に心奪われる。
さらに、唇の裏に、御言葉という乳と蜜を秘めて、それを流し出すなら、夫にとって妻はエデンの園のように、豊かな良い実を実らせるものとして、安息の存在となる。
また、4:16のように、花嫁自身が、自分自身が夫にとって良い香りを漂わせる者になる事を願い、愛する方が私という庭に入って、彼が最上の味を食べることが出来るように、と祈っている様がある。
 
夫婦の関係がこのようになっている時、家庭はエデンの園のように麗しいのであるが、本日の箇所で、危機が訪れる。
その内容は、夫婦関係では、ありがちではあるが、イエス様と私たちとの関係においても、このような事が起こるものである。
 
雅歌5:2 わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。
 
2節には、私は眠っていましたが、心が覚めていましたとある。
「心(レィブ)」は、心、感じ方、物事の中心、といった意味があり、「覚めていた(ウゥル)」は、目覚めるの他に「掻き立てる、立ち上がる」などの意味がある。
夫に対して、何かの理由で、心掻き立てられた状態だった所に、夫が帰ってきた。
 
夫は、戸を開けておくれ、と懇願している。長らく夜空の下で働いたためだろうか、頭はつゆに濡れ、髪の毛も夜の雫で濡れた状態である。
ところが彼女の返事がつれない。
 
雅歌5:3 わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。
 
彼女としては、もう寝る準備を整えた、衣服をもう一度着脱したり、足をもう一度洗ったり、という手間をかけたくない。
夫は、前章では、上から下まで美しいと言ってくれた、彼の目には、わたしはとても大切だから、わたしに手間をかけさせないで、と思ったのだろうか。
あるいは、夫に対して何かイライラして心が掻き立てられていて、意地悪したかったのだろうか。
 
ところが夫としては、衣服を着脱するとか、足を洗うとか、以上の手間をかけて、彼女の元に夜、来たわけである。
夫の労と、彼女の労を天秤にかければ、当然、夫の方が重い。
 
私達・キリストの花嫁は、イエス様に対して、このような態度を取っていないだろうか。
イエス様はいつも、わたしをやさしくしてくれて、赦してくれて、労を負ってくれて当然、であるかのような。
イエス様が、私たちの心の扉を叩いて下さるのに、イエス様が優しい、赦して下さるからと、いつまでも開けない、と言うような状況になっていないだろうか。
私たち・教会が、イエス様に対してこのようになっているとするなら、正すべきである。
 
雅歌書の彼女は、理由は書いていないが、心が掻き立っていて、夫が夜露に濡れて遅く帰ってきたのに、夫のためにちょっとした労をすることを躊躇し、夫が外で濡れているのを、放置するような事をした。
このような状態の新婦は、これからどのようになってしまうのか。
 
雅歌5:4 わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。
 
彼女から見れば、夫の手だけが、戸の穴から差し入れられ、かんぬきを外そうとして手をこまねいているのだが、うまく行かない。
それを見た時になって、初めて、妻は心が騒ぎ、戸を開けに行く。
 
Son 5:5 わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき、わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた。
 
夫が手をかけたその場所には、没薬が滴っていた。
夫は、妻に、腐らない愛をもって来ようとしていたのに、妻はドアの外でシャットアウトしたままだったのだ。
それで、ようやく妻が身を起こして、開けた頃には、時すでに遅しで、彼は何かの言葉を妻に投げかけ、そして去っていってしまった。
彼女は呼んだが、答えはなかった。
 
ついさっきまで夫が触っていたそのかんぬきには、没薬の香りが漂っている。
もし彼女が「開けておくれ」と言っている時に開けていれば、没薬のかおる夫の腕に包まれ、安らぎのひとときを過ごしたことであろう。
 
雅歌5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
 
彼はもう去っていってしまい、今度は彼女自身が夜露に濡れ、足を汚して、探して行かなくてはならなくなった。
 
雅歌5:7 町をまわり歩く夜回りらはわたしを見ると、撃って傷つけ、城壁を守る者らは、わたしの上着をはぎ取った。
 
3章では、夜、愛する方を探し求めて歩いてるに見つけられた夜回りは、どこにいますか、と聞いたら、すぐに愛する方を見つけることができた。
しかし今回、この夜回りは、彼女を打ち叩き、傷つけ、そして彼女の被り物をはぎ取った。
王の妻である印が付いているはずが、それははぎとられてしまった。
こうして彼女は気づく。自分はとんでもないことをしてしまったのだ、と。
主人であるお方の庇護がないと、私達はただ、剥ぎ取られるだけの存在なのだ。放蕩息子のように。
 
雅歌5:8 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓って、お願いする。もしわが愛する者を見たなら、わたしが愛のために病みわずらっていると、彼に告げてください。
 
愛する夫であられるイエス様が優しい、大切にしてくれている、という状況に甘んじて、自分がちょっと高慢になってしまうと、このように、痛い思いをさせられてしまう。
愛の中で育まれた美しい関係は、一方の高慢によって、簡単に壊れてしまう。
エステルの前の王妃ワシュティは、高慢が本で、王妃を退かれてしまった。王の呼びかけを拒否したためだ。
 
キリストの花嫁である私たちも、高慢にならないように、よくよく気をつけなくてはならない。
 
この女性は、懲らしめを受け、身を低くしたから、この雅歌書はさらに6章7章と続いていく。
しかしもし、夫婦関係が、妻の側、あるいは夫の側のどちらかが一方的に我慢し、どちらかが一方的に高慢になっているなら、危険である。
ある時突然、破局が来てしまう。
破局の第一歩は、高ぶりである。
高ぶり慣れして、相手を敬い尊敬する事、愛の言葉や感謝の言葉をかける事を忘れていくと、破局を一歩一歩進んでいる事になる。
 
雅歌書の女性は、城壁を守るものに打ち叩かれて、はぎとられて知った。
自分は高慢になってしまい、愛する方にひどいことをしたと、そして実は、自分は、愛に病んでいたのだ、と。
 
社会の人間の関係で、最も基本的な関係は、家族であり、その家族の中で最も柱となるのは、夫婦関係である。
この夫婦関係をまず修復させることを優先させるべきである。
 
優しい旦那さんだと、妻に厳しいことを言ったら去っていってしまうのではないかと思うかもしれないが、この雅歌書の女性は戒めを受けて、9節以降、夫の事を本当に素晴らしいのだと褒めそやしていく。
こうして1つの問題を乗り越えたことによって、夫婦の関係はさらに麗しく、成熟したものになっていく。
 
私たちとキリストとの関係も一緒である。
 
黙示録3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
 3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
 
この、ラオデキヤの教会は、イエス様を戸の外に締め出している状態だった。
教会が、なんと、主人であるイエス様を、扉の外に締め出してしまっていると言うことがある。
 
私は足を汚したくありませんから、と言うように、ちょっとした苦労もしたくないから、扉を開けにすらいきません、と言ってイエス様を締め出してしまうような時、イエス様は戸の外に立って、扉をたたく。
彼の、変わらぬ愛の没薬に濡れた手で、堅く閉ざした扉のかんぬきを、開けようとする。
しかし、あまりにイエス様を戸の外に締め出してい続けるなら、やがて、間に合わなくなってしまう時が来る。
 
戸を開けるなら、イエス様は入ってきて、共に食事をし、宴が始まる。
 
イエス様もそうであるが、世の妻を、夫を、戸の外側に締め出すことは元々しないで、妻に対し、夫に対し、そしてイエス様に対し、いつでも開かれた扉でありますように。
そしていつまでも、妻と夫、イエス様の関係を、この雅歌書のように、麗しい、新婚夫婦のような関係をいつまでも保つ皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!

花婿の心を射止め、とりこにする花嫁の秘訣(雅歌4:9-16)

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ここはソロモンが結婚する場面において、いよいよ花嫁は花婿に迎えられ、2人が1つになる、奥の間おける麗しい交わりがこの4章にある。
 
男女の愛は甘く麗しいものであり、世では男女の歌が盛んに歌われ、またドラマの中では、男女の愛のテーマは必要不可欠なものである。
確かに男女の愛は、麗しいものであり、歌にもなりドラマにもなるが、その反面、壊れやすく、苦々しい物に変質しやすいものでもある。
現実はそんなに甘いものではないよと思う方も大勢いるのではないか。
 
現実的な事を言えば、この雅歌書の花嫁は、やがて、ソロモンの1000人の妻や妾のうちの1人となり、甘く麗しい愛の歌は、やがて苦々しいものに変質してしまう。
この雅歌書を、単なる男女の愛の歌として読み解くなら、思うだろう。
ああ、私達も昔はそんな時期があったかもしれないね、いや、現実はもっと違うよ、など言って、現実ばなれしたおとぎ話の書としてしまう男女が多いだろう。
 
人にはある程度、自己中心的なところがあり、そして罪があり、「老い」があるゆえに、このような関係は長続きしない、と思われているのだ。
 
しかし、真理においては、確かに存在する。まことの花婿キリストと、花嫁である教会の、永遠の、決して老いず朽ちない愛の関係が。
私達がこの雅歌をみる時、永遠の乙女である教会と、永遠の王の王であられる花婿キリストとの、真の愛の関係としてみる時、私たちは限りない希望が湧いてくるのだ。
 
そればかりでない。
地上における男女の関係も、結婚も、罪のなかったエデンにおいては、もともと麗しいもので苦々しさは一切なかったものである。
その麗しいみずみずしい関係が、何年経っても腐らせない秘訣が、聖書に記されている。
 
まず1節から8節においては、女性の何もかもが美しいと表現され、いよいよ2人が奥の間でひとつになる事の喜びが記されているが、9節において、この男性の心を奪ってしまったものが2つある。
 
雅歌4:9 わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。
 
男性の心を奪ったもののうちの1つ目が、ただの一目のまなざし、もう一つが、首飾りのただひとつの宝石だ。
 
女性の美しい眼差しは、確かに男性の心を射止めるものであるが、眼差しだけでは足りない。首飾りである。
この首飾りを、女性はどのようにして得たのか。
 
一章の11節を見ると、これは男性が女性のために特別に造った贈り物であることがわかる。
女性が男性の送った贈り物、男性の好む飾りを、女性が身に付け、女性はこの男性の愛のこもった贈り物を身に帯びている状態を、男性は嬉しく思うものである。
美しい女性は世の中にいっぱいいても、自分が贈り物送って、それを身に帯びる女性は、ただ1人であるべきである。
男性が女性のために、色々模索して手に入れ送った贈り物を、女性が身につける時、男性にとってその女性は、愛らしい、いとおしいと思うものである。
 
エステルも、王の好む服、王の好む飾りを身に帯びたからこそ、王の心を射止めたわけである。
女性が、愛する男性に向かって、あなたの好む通りに、私は自分を飾ります、と言う時、男性は言うのだ。
あなたの愛はなんと麗しいことよ、と。
 
私たちもキリストの好まれる飾りを身に付けるとき、キリストは私たちを特別に愛し特別に私は扱ってくださる。
 
4:11 わが花嫁よ、あなたのくちびるは甘露をしたたらせ、あなたの舌の下には、蜜と乳とがある。あなたの衣のかおりはレバノンのかおりのようだ。
 
花嫁の唇は蜂蜜を滴らせ、舌の下には、乳と蜜がある、と書いてある。
乳と蜜と言えば、神の約束の地を思い起こす。そこは、乳と蜜が流れていると書いてある。
また別の箇所では、御言葉の乳をしたい求めなさいと書いてある。また、御言葉は蜜のように甘い。
もし愛する女性が、御言葉の乳、御言葉の蜜を、唇から滴らせるなら、信仰者の男性にとって、なんと慕わしい女性だろう。
 
「あなたの衣のかおりはレバノンのかおりのようだ。」とあるが、元々彼女は、実家では兄弟たちから無理矢理、ぶどう畑の見張りを仰せつけられて、きれいな着物とは縁が遠い女性だった。
だから彼女の着物も、香油も、全部、夫からの贈り物である。
 
4:12 わが妹、わが花嫁は閉じた園、閉じた園、封じた泉のようだ。
 
男性にとって花嫁は、園だと言っている。エデンの園のような。
園からは、あらゆる良いものが産出されて出てくる。
 
4:13 あなたの産み出す物は、もろもろの良き実をもつざくろの園、ヘンナおよびナルド、
4:14 ナルド、さふらん、しょうぶ、肉桂、さまざまの乳香の木、没薬、ろかい、およびすべての尊い香料である。
 
これらは全て、香りが良いもの、また、味わいが良いものである。
女性が、御言葉の乳と蜜を唇から滴らせるなら、その女性は、あらゆる良き実を豊かに実らせる、エデンの園のように、男性から見えるのだ。
 
エデンの園から全てが始まり、エデンの園の中において汚れがはびこり、そしてそこを追い出されてしまった。
もしも女性が、唇から、人を養う御言葉ではなく、なじる言葉、突き刺す言葉、いやみな言葉を発するとするなら、そこはエデンの園ではなくイバラの園、荒野よりもひどい所である。
 
箴言21:19 争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。
 
この女性が男性を虜にしたもう一つのものが、12節にある。
「私の花嫁は、閉じられた園、封じられた泉」とある。
 
つまり、外に対しては閉じられていて、ただ自分の夫ひとりにだけ開かれた泉、閉じた園である、という所である。
家の中で、ただ夫にだけ、妻に対してだけ開かれているもの、そして、それ以外には決して開いてはならない言葉や態度や姿というものがある。
夫と妻、ただ互いに対してだけ、分かち合うべきもの、そして外に対しては決して味わわせてはならず、流し出してはならないものがある。
夫婦間にしか開かせない秘密があり、夫婦同士でしか慰め得ない慰めがある。それを唯一得られるのは、伴侶である相手から、だけである。それは決して、他のものに流してはいけない。
そうしたものを、もし外に漏らしてしまっては、その家は壊れてしまう。
 
しかし女性が男性の好む飾りを身に付け、唇から御言葉を滴らせるならば、その女性は男性にとってエデンの園のような慰めとなり、その家庭は、すべての必要が備わっているエデンのようになっていく。
エデンの園には、害をなるものは、1つもなく、ただ素晴らしいものだけがあった。
 
この雅歌書の彼女は、もともと、親兄弟から邪険にされながら働く女だった。
何一つ自分が身に付けるものも、香り高いものも使ったことがない人だった。だからまさにシンデレラである。
彼女が夫である男性に会った時、初めて良き香りを放つ事ができた。
彼女がその魅力を初めて放ったのは、男性によって、シンデレラになったような思いをした時であった。
私たちはイエス様からシンデレラにされた。それゆえに人を愛することができ、イエス様のようになることができる。
 
4:16 北風よ、起れ、南風よ、きたれ。わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ。わが愛する者がその園にはいってきて、その良い実を食べるように。
 
これは本日の箇所では、花嫁の側の唯一の言葉であるが、風はヘブライ語でルアッハ、霊である。
だから、聖霊の風よ、北から南から私に吹いておくれ、私が愛する方にとって、本当に最上の香り、最上の味を漂わせることできるように、そして、私自身が愛する方にとってエデンの園のような慰めとなり、身も心も体も全て愛する方にとって、最上の果物、最高の実となれるように、聖霊の風よ、吹いておくれ、という願いが込められている。
 
最上のものが実るためには、北風も、南風も恐れず、聖霊の風が自分に吹いてくれるように願うのだ。
香り高いものとなり、いらないものは取り除かれ、いるものはもっともっと豊かにされ、それによって実った香り、それが風によって夫へと運ばれ、夫を豊かにしてほしい、と祈るのだ。夫に対して、これはやっていけない、今までこれをやっていなかった、と、分かるようになり、また取り除かれるものが取り除かれ、実るべきものが実って、初めて良き園となって行く事ができる。
 
祈るべきである。
夫婦の関係が麗しいエデンの園のような中において、麗しい交わり、愛の交わりがあるように。
キリスト者の男女が、本当に麗しい園の中における交わりのようであり、豊かな命の実を結び、唇から御言葉が流出し、命が溢れ、命が溢れ、その中に何も害するものがないように。
そして、たとえその中に、蛇が混じり込んでも、惑わされる事なく、いさかいの罠に陥る事なく、御言葉で踏み付け、撃退する男女でありますように。
 
どうか、若い男女のうちに、御言葉によって伴侶となる相手への導きを与え、成熟した花嫁・花婿となることができますように。
また結婚した男女に、甘い御言葉の乳が、蜜が、家庭の中で豊かに溢れ、生み出すものが最上の香りを放つ者たちでありますように。
そして、きたるべきまことの結婚、真の夫であるキリストの結婚に備え、私たち一人一人が、教会が、花嫁として整えられ、まず私たちがキリストの与えてくださった飾りを見に帯び、キリストの言葉を口から出し衣を身に付け、備える日々でありますように。
イエス様のお名前によって祝福します。

 

 レカブ人 - 約束を守り行う人の受ける幸い(エレミヤ35章)

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エレミヤ35:1 ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの時、主からエレミヤに臨んだ言葉。
35:2 「レカブびとの家に行って、彼らと語り、彼らを主の宮の一室に連れてきて、酒を飲ませなさい」。
 
1歴代誌2:55 ヤベツに住んでいた書記の諸氏族は、ティルア人、シムア人、スカ人。彼らはレカブ家の父祖ハマテから出たケニ人である。
 
士師記1:16 モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。
 
35:3 そこでわたしはハバジニヤの子エレミヤの子であるヤザニヤと、その兄弟と、そのむすこたち、およびレカブびとの全家を連れ、
35:4 これを主の宮にあるハナンの子たちの室に連れてきた。ハナンはイグダリヤの子であって神の人であった。その室は、つかさたちの室の次にあって、門を守るシャルムの子マアセヤの室の上にあった。
35:5 わたしはレカブびとの前に酒を満たしたつぼと杯を置き、彼らに、「酒を飲みなさい」と言ったが、
35:6 彼らは答えた、「われわれは酒を飲みません。それは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じて、『あなたがたとあなたがたの子孫はいつまでも酒を飲んではならない。
35:7 また家を建てず、種をまかず、またぶどう畑を植えてはならない。またこれを所有してはならない。あなたがたは生きながらえる間は幕屋に住んでいなさい。そうするならば、あなたがたはその宿っている地に長く生きることができると言ったからです』。
35:8 こうしてわれわれは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがすべて命じた言葉に従って、われわれも、妻も、むすこ娘も生きながらえる間、酒を飲まず、
35:9 住む家を建てず、ぶどう畑も畑も種も持たないで、
35:10 幕屋に住み、すべてわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じたところに従い、そのように行いました。
35:11 しかしバビロンの王ネブカデレザルがこの地に上ってきた時、われわれは言いました、『さあ、われわれはエルサレムへ行こう。カルデヤびとの軍勢とスリヤびとの軍勢が恐ろしい』と。こうしてわれわれはエルサレムに住んでいるのです」。
 
2列王記10:15 エヒウはそこを立って行ったが、自分を迎えにきたレカブの子ヨナダブに会ったので、彼にあいさつして、「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」と言うと、ヨナダブは「真実です」と答えた。するとエヒウは「それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい」と言ったので、その手を伸べると、彼を引いて自分の車に上らせ、
10:16 「わたしと一緒にきて、わたしが主に熱心なのを見なさい」と言った。そして彼を自分の車に乗せ、
10:17 サマリヤに行った。エフーはアハブに属する者で、サマリヤに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。
 
35:12 その時、主の言葉がエレミヤに臨んだ、
35:13 「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、行って、ユダの人々とエルサレムに住む者とに告げよ。主は仰せられる、あなたがたはわたしの言葉を聞いて教を受けないのか。
35:14 レカブの子ヨナダブがその子孫に酒を飲むなと命じた言葉は守られてきた。彼らは今日に至るまで酒を飲まず、その先祖の命に従ってきた。ところがあなたがたはわたしがしきりに語ったけれども、わたしに聞き従わなかった。
35:15 わたしはまた、わたしのしもべである預言者たちを、しきりにあなたがたにつかわして言わせた、『あなたがたは今おのおのその悪い道を離れ、その行いを改めなさい。ほかの神々に従い仕えてはならない。そうすれば、あなたがたはわたしがあなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの地に住むことができる』と。しかしあなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。
35:16 レカブの子ヨナダブの子孫は、その先祖が彼らに命じた命令を守っているのである。しかしこの民はわたしに従わなかった。
35:17 それゆえ万軍の神、主、イスラエルの神はこう仰せられる、見よ、わたしはユダとエルサレムに住む者とに、わたしが彼らの上に宣告した災を下す。わたしが彼らに語っても聞かず、彼らを呼んでも答えなかったからである」。
 
エレミヤ34:15 しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。
34:16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』
34:17 それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに――主の御告げ。――剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。
 
申命記28:15 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
 
エレミヤ35:18 ところでエレミヤはレカブびとの家の人々に言った、「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、あなたがたは先祖ヨナダブの命に従い、そのすべての戒めを守り、彼があなたがたに命じた事を行った。
35:19 それゆえ、万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない」。
 
ネヘミヤ3:14 糞の門はベテ・ハケレムの区域の知事レカブの子マルキヤがこれを修理し、これを建て直して、そのとびらと横木と貫の木とを設けた。
 
ユダヤ教の口伝承『ミシュナ』は「ヨナダブの子孫が神殿の祭壇で燃やす薪を持ってくる人」として言及している(実用聖書注解)
 
申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。

しみやしわやそういった類の一切無い花嫁となるために(雅歌書4:1-8)
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前回は、いよいよ花嫁は花婿の豪華な車に迎えられ、花婿の家へと嫁いでいく様子が記されていた。
 
4:1 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい。あなたの目は、顔おおいのうしろにあって、はとのようだ。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。
4:2 あなたの歯は洗い場から上ってきた/毛を切られた雌羊の群れのようだ。みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。
4:3 あなたのくちびるは紅の糸のようで、その口は愛らしい。あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。
 
ここでは花嫁は顔おおい(ベール)をつけていた。
ベールは、自分と世とを隔てる壁であり、未婚の女性は、世のあらゆる男性に対してかけられ、そして自分の花婿となる男性に対しても、かけられた状態であった。
しかしいよいよ結婚において花婿と花嫁の誓約が成立したとき、そのベールは花婿によって取り除かれる。
そして新婚初夜の時、二人は奥の間へと入って行き、夫によってさらなるベールが取り除かれ、もはや二人には何の隔てもなくなり、一体となる。
 
このように本来、二人が一つになるまで、世と自分自身に対して、隔ての壁なすべきであり、そ してそれが、やがてきたるべき花婿のために、花婿によって取り除けられ、そしてやがては、顔と顔とを合わせて花婿と花嫁とは、奥の間において対面することになる。
 
これは、キリストと教会を表している。
私たちは今、花嫁修行中で、キリストと顔と顔と合わせて会いたいしている状態ではまだない。
しかしやがて、すべての覆いが取り除けられ、キリストご自身と、顔と顔と合わせて対面する時がやってくる。第一コリント13:12
 
その時に至るまで、花嫁が世と自分自身とを隔て、他のどんな男に対しても覆い隠すように、私たちもキリスト以外に自分を晒したり、頼りするものがあってはならない。
私たちも自分自身を覆うべきであり、私たち自身が、キリストに対して純潔を守り、時至って花婿であるイエス様に覆いを取り除けていただくのを待たなくてはならない。
 
今日本においては、結婚前までに、未来の旦那さん以外に純潔を守ると言う事は軽んじられてはいるが、結婚前に他の男に全てをさらし、大切なものを開いてしまうと言うことがあるから、今まさに結婚関係が破壊されている状態である。
夫以外に、妻以外に純潔を守ろうと言うことを軽んじる人は、必ず恋愛結婚関係で問題が起き、特に子供たちに被害が及ぶ。
 
今日の箇所では、花婿は花嫁と相対して、あらゆるところを褒めそやしている。
 
4:4 あなたの首は武器倉のために建てた/ダビデのやぐらのようだ。その上には一千の盾を掛けつらね、みな勇士の大盾である。
4:5 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。
 
彼女は確かに美しいかもしれないが、しかし結婚においては、相手の女性が必ず下若くて美しいものでなければならない、と言うわけでは無いし、夫も、若々しくカモシカのように力強くなくてはならないと言うわけではならない。外見や年齢や、シミやしわのあるいかんにかかわらず、素晴らしい花嫁になる方法がある。
 
 
エペソ五章に、どうしたらこの花嫁のように、シミやシワやそういった類が一切ないものになれるかが記されている。
皆さんは、傷やシミやシワのない清いものになりた いだろうか。
私たちの体は、歳をとればしみやシワが出てくる。この体のシミやシワは、どんなエステでも対処しようがないが、しかし霊的なシミやシワはキリストによって対処可能である。
キリストの御前に置いて、シミやシワのないものとなるためには、26節と27節に、その秘密が書いてある。
 
すなわち、御言葉と言う水でいつも洗い決まっているならば、どんなに歳をとっても、外見にシミがあっても、その女性は愛らしく美しい。
雅歌書のこの男性が花嫁を褒めそやしているのは、花嫁がまさに、自分自身からシミやシワを取り除くたしなみがあったからである。
 
エペソ五章22節から、花嫁が一体何を身に付けるべきかが記されている。
 
それはすなわち、妻たるもの、教会がキリストに対する立場、夫であるキリ ストに従うこと。
夫は、世の中に出て、戦って、働いて、そして家に帰ってくるが、もし家の中でも、妻との戦いや争いがあるとしたら、いったい男性はいつ、羽を休めることができるだろう。
そのような男性はますます疲れ果て、弱くなって、その弱い様を見た女はますます諍いを吹きかけて、夫は外部の何かに慰めを求めると言う、悪循環に陥っていく。
そして夫は、持ち上げてくれるプロの女性に、お金を払ってでも行くようになってしまう。それ程男性は、敬われる事に飢えているのだ。
だから、妻が夫に対してなすべきは、夫を敬うことと、従うことである。
 
ここで忘れてならないのは、キリストにあってということである。
例えば酒を買って来いとか、礼拝に行くなということにも従うのではなく、キリストにあってと従うということが大事。

主との約束を反故にする者の災い(エレミヤ34章)
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神を尋ね求める者を救われる主(詩篇53篇)
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詩篇53篇表題「聖歌隊の指揮者によってマハラテのしらべにあ わせてうたわせたダビデのマスキールの歌」
53:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。

愚かなもの(ナバール)は、不純なこと、悪辣な事をあえてする人で、そんな彼らの根底に流れている人生観が「神はいない」である。
神を敬う人であるなら、たとえ一人でいる時でも、悪と見られる事に躊躇を覚える。
どこでも見ておられ、全てを知っておられるお方を敬っているからだが、愚かな者たちは何の呵責もなく悪を為し、利得をむさぼり、破滅の海原へと躊躇なく飛び込んでいくが、それは勇気や強さではなく、愚かさと無知の故だ。

「腐りはて」と記されている語「シャカァス」は自己破滅の状態で、まさに洪水前の世界の状態である。

創世記6:11  時に世は神の前に乱れて(シャカァス)、暴虐が地に満ちた。
6:12  神が地を見られると、それは乱れていた(シャカァス)。すべての人が地の上でその道を乱した(シャカァス)からである。
6:13  そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう(シャカァス)。

上記合計3節で4回も「シャカァス」が登場する。
すなわち人が破滅の行いをし、神の目に破滅状態で、そして世は、破滅した人によって破滅されてしまった状態であった。
これが「神はいない」の価値観を持った人間が増殖してしまった世界の、成れの果てである。

53:2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。

神は、天から、じっくりと、見ておられる。賢い者、神を尋ね求める者がいないかを。
ここで「賢いもの」と訳された語「サハール」のヒフィル(使役)態は、じっくり見る、注意を払って観察する、洞察力を持っている等の意味である。
神が私達にもとめておられることは、自らすすんでじっくりと神を尋ね求め、神を観察する事である。

ノアの時代の以前、ノアとその家族以外の全ての人々が腐れはて、憎むべき不義をおこなった。

53:3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。

神は当時、目を皿のようにして地をご覧になられ、ノアを見出し、そして彼らを救って新しい世代を起こされた。

53:4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(レヘム:パン)食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。

彼らは神の民を喰らい尽くす事において、パンを食べるがごとく、躊躇もなく、良心のとがめもない。
しかしあいにく、彼らが食う「神の民」は、パンとは違い、祈る民、神に言いつける民である。
神の民が神にむかって叫ぶ時、神が働かれる。
そこで神が彼らのために動き出し、彼らを救い、悪人にはさばきをもたらされる。

53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。

この出来事の典型例が、ヒゼキヤ王の時代に起きた事だろう。
かの時代、アッシリアが台頭し、セナケリブ王がイスラエルへと攻めてきて、神の民と、そしてイスラエルの神である主をなじった。

2歴代誌32:10 「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
・・・
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」

このように豪語した者はどうなったか。

2歴代誌32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
32:22 こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。

まさに詩篇に記されていたとおり、彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れ、このよこしまな者たちの骨を散らされ、彼らは神をなじった故に大いに恥をこうむった。
神は確かに生きておられる。
たかだか100年ほどしか生きられない人間が、どんなに神はいないと吠えようとも、永遠に生きておられる神は、その高ぶる者たちを倒し、そして悩む民が主に呼ばわったとき、その声を聞かれ、実際に働かれたお方。

53:6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

私達ダビデのように救いを求め、回復と繁栄を求め、全て主の民が喜び楽しむことを、イエス・キリストの御名によって求めることができる。
なぜなら私達にはイエス・キリストがおられ、おりにかなった助けを得るために大胆に恵みの御座へと近づく事ができるからだ。

悪の力でのし上がって行こうとする者、対、主により頼む者(詩篇52篇)
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詩篇52篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはエドムびとドエグがサウルにきて、「ダビデはアヒメレクの家にきた」と告げたときにダビデがよんだもの」

この表題の出来事は、1サムエル記21-22章にある。
ダビデがサウルから逃れて祭司アヒメレクのところに行った場面である。
命を狙われたダビデが、主を慕い求めるために礼拝の場に行ったのだが、そこに表題のドエグという者がいた。

『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

エドム人とは、エサウの子孫、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った者の子孫である。
彼は主を慕うために主の前にいたではない。何かの訳あって、そこに置かされていたのだが、彼は主を敬う心は全く無かった。

サウルは、主の御胸でないことを次々にして行く内に、どんどん悪霊に満たされ、どんどん人格が崩壊して行くが、ドエグはサウル王という権力者に気に入られるためには、通常の神の民には到底できないような物事も平気で行う。
『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても全く動じず、むしろそこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向いて、祭司の妻や女子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺し尽くしたのだ。

このようなことをしたのが、ドエグである。
ダビデは、ドエグがした事を聞いて、この詩篇52篇を記した。

なお、この詩篇52篇もV字キアズム構造を為しており、表題(A)が9節(A')に、1節(B)は8節(B')に、2−4節(C)が6-7節(C')に、そしてV字構造の真ん中が、5節(D)である。

詩篇52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇る(ハラル)のか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
KJV: Why boastest thou thyself in mischief, O mighty man? the goodness(ヘセド) of God endureth continually.

この者は、神を敬う人に与えた災について「誇った(ハラル)」。
ヘブライ語のハラルは、有名な語「ハレルヤ」の元で「ほめたたえる」、あるいは「明確にする」「高く上げる」意味がある。
彼は、悪である事を高くあげ、狂気の王サウルにおもねる事によって、力や富を得て行った。

その者は、主を礼拝する場にいながらにして、主を求めず、むしろ暴虐を求めた。
ダビデはドエグを「力ある者」と言ったが、残虐な事や冒涜的な事を躊躇なく行う意味での「力ある者」であるが、しかし、神のgoodness(ヘセド)は、いつでも注がれ続けている。

詩篇52:2 虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ。
52:3 あなたは善(トーブ)よりも悪を好み、まことを語るよりも偽りを語ることを好む。〔セラ
52:4 欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。

2節と4節に「舌」のキーワードが出て来る。
彼らは舌によって善人を切り刻もうとし、神のみわざの「善(トーブ)」よりも、サタンの悪というわざを好み、神に属する真理よりも、サタンに属する偽りを好んだ。
その時点で、主の御まえにおいて勝負ありである。
なぜなら神は悪魔サタンを圧倒的力で永遠の災いを降し、偽りは真理の光の前に消え去る以外にはないからだ。
そういうわけでダビデは、そのような者を呪う。

詩篇52:5 しかし神はとこしえにあなたを砕き、あなたを捕えて、その天幕から引き離し、生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ

私達も真理に立って、「呪うべきもの」を見た時は、真理の御言葉を盾に取って、呪うべきだ。
「呪うべきもの」とは、ドエグのように自分の強さにより頼み、卑しい利得を得るためには、正しい者を訴え、罪なき者を虐げるような、嘘・偽り・破壊活動・卑怯な事を行う悪魔サタンのわざである。
それらは、主イエスの御名によって廃れて行き、むしろ真理が、いのちのわざが、健やかさが、また弱いものが助けられる事が広がっていくよう祈り求めるのだ。

5節まではドエグのような劣悪な者に対しての宣言だったが、6節以降は、正しい者についての宣言である。

詩篇52:6 正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7 「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、その宝に寄り頼む人を見よ」と。

2-4節では悪しき者が舌を用いて正しい者を陥れる者達について語られた。対して6-7節では、正しい者達はむしろそのような者達を笑う。
神を避け所とせず、富をたのみにしている者こそ、まことに滅びが近い事を知っているからだ。
そのような卑怯なものが富や権力を得ても、恐れてはならない。

詩篇49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

そしてダビデは宣言する。

詩篇52:8 しかし、わたしは神の家にある/緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。

ダビデはこの時、サウル王に追われる国家的な指名手配をされているような状況だったのに、「わたしは神の家にあるオリーブの木のように茂っていく」と宣言できた根拠は、彼は「世々かぎりなく神のいつくしみを頼」んでいる事だ。
次のように書いてある。

詩篇147:7 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。
詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
詩篇147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
詩篇147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
詩篇147:11 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみ(ヘセド)を望む者とをよみせられる。


人は、馬や力を得て、強制力を得て自分の欲望を満たそうとするが、そもそも、その馬に草を与えるのは主である。
主は、自分の強制力で欲望を満たそうとする者を喜ばれない。
むしろ主が喜ばれるのは、主のいつくしみ(ヘセド)を待ち望む人である。

主は、山に草を生えさせ、動物や鳥たちに食べ物を豊かに備えてくださる方。
それに引き換え、悪人は、悪辣な王に取り入ってでも、卑怯な事をしてでも富や力を得ようとし、腕力や悪賢さを鍛え、嘘偽りの力でそれを保持して行かなくてはならない。
主により頼む人達と、悪人。勝敗はどちらにつくか、明白である。

詩篇52:9 あなたがこの事をなされたので、わたしはとこしえに、あなたに感謝し、聖徒の前であなたのみ名をふれ示そう。これはよいことだからである。

ドエグはダビデをサウル王に告げ口したが、ダビデは主を褒め称え、主に感謝をささげ、ドエグを主に告げ口した。
私達は、世の強者や権力者におもねる者ではなく、全てを豊かに与えて下さる主から豊かに与えられる者として、主に賛美と感謝をささげ、主のヘセドを求め栄えていく者達である。

正義の若枝による王族と祭司の回復(エレミヤ33章)
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人の栄光化は不幸をもたらし、主の栄光化は喜びをもたらす(雅歌3:6-11)
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今回の箇所は、ソロモン王の贅沢で華やかな有様が記してある。
最近も、セレブの豪奢な日々をつづったドラマは視聴率を得ているが、しかし世においては、そのような贅沢に暮らしている人の裏には、多くの悲しむ人達がいるものである。
ソロモンはこの時、王妃は既に六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。(雅歌6:8)
さらに後には、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。(1列王記11:3)

このソロモンという男性の背景をみるに、気分が悪くなるような、また、彼に嫁いでいく女性たちを思うに、ある種の切なさを覚えるかもしれない。
しかし私達は、この書を、単に昔の豪華な人達の愛の歌、として読むべきではない。
聖書は、旧約も、新約も、イエスキリストを中心に記されている。
もし聖書を、人間にフォーカスを当てて読むとするなら、人の罪の有様に気分が悪くなっていくが、イエスキリストを中心に見据えてこの書を読んで行くなら、これは私達の喜びと期待、そして私達にとって希望に溢れるものとなる。


ソロモン王が花嫁を迎える有様は、とても豪勢な成り立ちであった。

3:6 没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。
3:7 見よ、あれはソロモンの乗物で、六十人の勇士がそのまわりにいる。イスラエルの勇士で、
3:8 皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びて、夜の危険に備えている。

7節で「乗り物」と訳されているのは、KJVではベッド、NKJVではカウチと訳されている。
つまり屈強な人々に担がれながら、ソロモンはで女性と一緒にその移動式ベッドにねそべって移動していたのだ。
ソロモンは屈強の勇士60人をかかえて来る。ダビデの時代は戦争がたくさんあったが、彼についていたのは30勇士だった。しかしソロモンは、平和の時代なのに、60人もの勇士を抱えている。
ソロモンの時代は平和であるので、夜襲に備えての屈強な勇士達は元々いらないはずだが、それでも60人も武装したボディーガードがいつもついている、という事は、ソロモン自身、後ろ暗い所があったのかもしれない。
3:9 ソロモン王はレバノンの木をもって、自分のために輿をつくった。
3:10 その柱は銀、そのうしろは金、その座は紫の布でつくった。その内部にはエルサレムの娘たちが、愛情をこめてつくった物を張りつけた。
9節にも輿と言う言葉が出てくるが、これは7節とは違う輿であり、KJVではチャリオット、すなわち戦車である。

ソロモンは、自分のために豪華な戦車をつくり、そこを飾る織物は、エルサレムの娘たちが愛情をこめてつくったものである。

3:11 シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ。彼は婚姻の日、心の喜びの日に、その母の彼にかぶらせた冠をいただいている。

多くの娘たちの愛がこめられている戦車や、屈強な男たちに担がれた移動式カウチに乗って移動する。このような、豪華絢爛な有様で女性を迎えに来る光景は、華やかさがあり、人々の羨望の眼差しがあるかもしれないが、果たしてソロモンの周囲の人々は全員が全員、喜びにあふれていただろうか。
ソロモンは、若い頃は純粋な信仰持っていたが、周りから担がれている内に、そして女も金もふんだんに手に入って行く中、彼は、多くの女たち、エジプトの女や、いろいろな国々の女たちを抱え、彼女たちの声を聞いていくうちに、どんどん彼は霊性が汚されて行く。
列王記や歴代誌は語る。彼がイスラエルの神に背く行いをしていった結果、祝福は離れ、人々は重税に苦しみ、敵対する者が現れていった。

私たちがは、ただ御言葉に聞くべきである。異邦の女を囲うのではなく、御言葉に基づいた叱責をしてくれる人をこそ囲い込み、御言葉に基づいた歩みをしていないならば、ソロモンのようになってしまう。
この記述は、表向きはきらびやかで豪華絢爛であっても、その背後を見ると、多くの女性たちの、また多くの子供たちの悲しい思いが秘められている。

この地上では、1人の男に、複数の女性が嫁ぐなら、必ず不公平と怒り、悲しみがつきものである。聖書を見ると、その事に例外はなかった。
しかしキリストにおいては、それはない。

キリストはやがて、私達を迎えに来る。
ソロモンより遥かに多くの天の軍勢を従え、はるかに光り輝く栄光に包まれて。

1テサロニケ4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
私たちは、その日その時、一挙に引き上げられる。空中に引き上げられ、雲の中で、キリストと対面する。そして、まことの婚礼と導かれていく。

ソロモンの車は、エルサレムの多くの娘たちの愛情が込められた飾りで飾られていたが、私たちは今、イエス様を愛する心をもって、良い行いという飾りを作っているようなものである。
私達が御霊にあって良い行いをする時、そして愛、喜び、平安など、御霊の良い実を結んで行く時に、イエス様を美しい飾りで飾らせていくのだ。

雅歌書は、キリストを除いて読むなら、セレブの祭りに参加してる恋愛小説のようになってしまうが、その裏では、多くの涙や悲しみがあった。
ソロモンの周りでは、ドロドロの恋愛愛憎劇や、性的に汚れた有り様が展開されているかもしれない。
しかしキリストにあっては、ただ栄光に満ちた喜びしかない。

ソロモンは、多くの女性を抱えていたが、多くの女性や子供たちが涙を流し、悲しみ、叫んだ。
しかし、キリストの花嫁である教会には、世界中の多くの人々がいるが、彼ら全ての涙はすっかり拭われ、誰も悲しんだり叫んだり苦しんだりする事は無い。永遠の天国において、永遠の慰めを得るのである。

私たちの花婿キリストは、完全なるお方である。
ソロモンは女性を捨てたりする事があるかもしれないが、私たちの花婿キリストは決して見放すさず、見捨てない。

それ故、私達はキリストと言うまことの夫を意識し、まことの結婚式に向けて、自分自身を整えなくてはならない。
イエス様はよく、天の王国を、結婚にたとえた。

花婿を待ち望む10人の花嫁のたとえの中では、5人は愚かで、5人は賢かった。
花婿が迎えに来る時のために、彼女たちはともしびを整えていたが、5人は愚かで、油を用意しておかなかった。
賢い花嫁たちは、花婿がいつ来ても良いように、油も用意していた。

キリストはきっとまだ来ないだろう、と思って、ぼんやり過ごしていたりする人は多いが、ぼんやりしていてはならない。平和な時は、ぼんやりしている時ではなく、備えをすべき時である。
花婿が来られた時、どうしたら花婿が喜ぶだろうか、花婿がいつ来ても良いように備えをしよう、と、いつも考えているべきである。それをしていないなら、いざ花婿が来るときに、慌てふためくことになる。

賢い乙女と愚かな乙女の違いは、何だったか。
愚かな乙女たちは、自分の時間で動き、自分の考えで動いていた。
それに対し賢い花嫁は、花婿の時間、花婿のために動いていた。

私も、花婿を中心に考えるなら、今なすべきことがわかるはずである。どうすれば花婿が喜ぶか。花婿がいつ来るか、その間何を整えるべきか。

私達は、まことの花婿キリストを迎えるまで、しっかり御言葉に親しみ、花婿の喜ばれる飾りを身につけて、みことばの灯を掲げておくべき。
御言葉には、聖霊の油と言う燃料が必要である。聖霊によってみことばを語るのでなければ、ただの剣である。
その油は、自分をおろし主を第一にする事によって、どんどん溜まって行く。ゲッセマネは、油絞りと言う意味だが、イエス様はそこにおいて自分の心ではなく父の御心が成りますように、と祈った。
私達も、この「油絞り」の祈りによって、日々、油は貯蓄されていく。

かの日は、必ず来る。その日が来た時、慌てないように、日々しっかりと自分をおろし、祈りを捧げ、賛美を捧げ、花婿は今日にでも来るかもしれないと言う意識を持ち、そうして油を貯金して歩むべきだ。
御言葉を蓄えましょう。真心込めて口から告白する時、キリストは、ああ、また一歩花嫁として整えられた、と喜んでくださる。
イエス様の喜びは何か、どうしたら花婿を喜ばせられるか、という思いを持ちつつ、キリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

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