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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:地に向けられたはしご(創世記28:10-22):右クリックで保存

ヤコブは住み慣れたベエル・シェバを立ち、たった一人、ハランへと旅をしていた。
兄にいのちを狙われている身であり、いつ母リベカのいる父の家に戻れるとも分からない。
心細く、寂しく、きっと家族からだけでなく、主からも遠く離れてしまったかのような心境であったろう。
そんな彼の所に、主は、圧倒的な臨在をもって現れて下さる。

「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段(はしご)が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)
普通、はしごは低い方から高い方へ架けるものだが、面白い事に、このはしごは天から地に向かって伸ばされている。

天と地は絶望的に離れており、人は決して神の座に登りつめる事は出来ないし、また、そのような試みをした者たちが建てたバベル塔は、崩されてしまった。
しかし、このはしごは、天から地の方へ、ヤコブが横たわっている傍まで差し伸べられ、神の御使いたちが、それを上ったり下ったりしていた。
この不思議なはしごは、一体何だろうか。

主イエスはナタナエルに言われた。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

この天から地へと架けられたはしごは、イエス・キリストを表している。
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスであり(1テモテ2:5)、この御方を通してでなければ、誰も父なる神様の御元に行く事は出来ず(ヨハネ14:6)、高き天から降り人となられたお方は、唯一キリストである。

『見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの”子孫”に与える。あなたの”子孫”は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの”子孫”によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」』(創世記28:13-15)

全世界は、この「子孫」であるキリストによって祝福に入ると、主は預言されている。
主は、アダムとエバが堕落した時、一人の「女の子孫」によってサタンの頭が砕かれる事を預言していたが、この「女の子孫」こそ、アダム以来ずっと人類が待ち望んで来たメシヤであり、アブラハム、イサク、ヤコブにも示された、神と人との架け橋であり、天と地とを結ぶはしごとなって人類を救って下さるイエス・キリストである。

ヤコブは、主が共におられたことに恐れおののき、自分が枕にした石に油を注いで記念の石とし、その場所をベテルと呼んだ。
彼はその後、色々な困難が遭った時でも、このベテルでの出来事を思い出した事だろう。

ヤコブが単身、遠国に身を潜めるなくてはならなくなったのは、彼自身の身から出た錆であったにもかかわらず、主は憐れみ深く、そんな彼に直接現れて下さり「わたしはあなたと共にいる」「どこへ行ってもあなたを守り、必ず連れ帰る」「わたしは決して見捨てない」と言って下さった事は、なんと深い慰めであろう。

それと同じ慰めは、私達にも与えられている。
私達も、ヤコブのように罪深く、自分の身から出た錆によって苦しむような事もあるのに、イエスは苦しんでいる私達に向けてはしごを渡し、神と人との仲保者となって、救いへと導こうとしておられる。
インマヌエルなる主は、いつも私達と共におられ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言って下さった。(マタイ28:20)

ヤコブはそれまで、主のご性質をあまり知らなかったが、今回の事で、さらに一歩深く知ることが出来るようになった。
私達も日々、主の良きご性質をさらに知って行き、そして、知って行く程に豊かな人生へと造り替えられて行くのである。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)

礼拝説教メッセージ音声:御心を求める祝福と、求めない事の呪い(創世記28:1-9):右クリックで保存

『リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。』(創世記27:46-28:2)

リベカの言葉をきっかけに、イサクはやっと、本来祝福を受けるべきヤコブに祝福を与える。
彼もようやく目が覚め、主の御心を押しのけ自分の望むことを貫く事の災いに、懲りたのだろう。

この時、ヤコブは70歳を超えていたはずで、彼はそれ程高齢になるまで独身のままだった。
アブラハムもイサクも、主の側から「どこどこへ行きなさい」「ここに留まりなさい」という導きは結構与えられて来たのに、こと、子供の結婚相手に関しては、なぜか主の側から具体的な示しが来た事は無い。
アブラハムもイサクも、彼らの側が嫁探しの為に動いた時、主ははじめて導きを与え、嫁となるべき女性のところへと無事に導かれた。

結婚をいつ誰とするべきか、といった、人生の重要な決断をする場面で、御心が中々示されないような時がある。
そのような時、主は、私達の側が信仰による決断をして行動する事を、待っておられるのかもしれない。
私達が、自由意思と決断によって行動する時、御言葉に従う信仰を持っているなら、主はその道を祝福して下さると信じるのだ。

エサウは、父が結婚した年齢に自分も達した時、御心を求めるという事を一切せず、好き勝手に、手近にいるカナン人の娘を二人もめとり、その事が一家の悩みの種となった。
そしてエサウはさらに、アブラハムの子であるイシュマエルの娘から第3番目の妻を迎えるのだが、それは神に御心を求めたからではなく、親に気に入られるためであった。

『エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。』(創世記28:6-9)

アブラハムの子孫から妻をめとる、という行動は、一見「信仰的行動」のように見えるかもしれない。
しかし、御心という的を外した「信仰的行動」は、事態をさらに悪化させるだけだ。

イシュマエルはアブラハムの子とはいえ、神の系列から除外された者である。
肉の子が祝福を受け継ぐのではなく、約束の子が受け継ぐのだ。

彼のその行動によって、カナンの娘達との過ちがキャンセルされる訳では無いし、それどころが、一家の悩みの種を一つ加えたに過ぎず、さらに家族から嫌悪されるその度合いを、増し加えたに過ぎなかった。

このように、御心を求めない手前勝手な礼拝や奉仕は、邪魔以外の何者ではなく、兄弟姉妹達からの嫌悪を、さらに増し加えるものである。

エサウはヤコブへ殺意を持ったまま残り、ヤコブは遠国に難を逃れ、この一家はかなり険悪な様相を呈して来てしまった。
しかし、主の祝福のご計画は、人間の罪によって損ねられるものではない。
人間が廃墟にしてしまった所さえも、主は御業を働かせ、そこを立て直し、最善へと導いて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福をロスしてしまう人(創世記27:30-46):右クリックで保存

祝福を受けたヤコブが出ていくと同時に、エサウは料理した獲物を持って意気揚々と入ってきた。
そしてイサクは、自分が祝福を与えた相手がエサウではなかった事が分かると、激しく震えた。
その祝福は、一度切りの大切な祝福で、エサウもその重要性を理解していたため、彼は大声で泣き叫び「祝福をください」と幾度も言った。

イサクとしても本心は、エサウの願い通り、祝福を授けたかっただろう。
しかし、彼の口から出た言葉は、呪いと言えるような内容だった。
このように、祝福される事が御心ではない人には、いかに力ある者や親しい人の願いがあったとしても、祝福される事は決してない。
しかし、主の祝福が御心である者たちには、どんな力ある人達の思惑があろうとも、祝福されてしまうのである。

『エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。』(創世記27:41-42)

エサウは、ヤコブを殺してやろう、と「心の中で」言ったはずなのに、その思惑はなぜか周囲に知られる所となった。
思わず口が滑ってしまったのか、それとも表情が明らかにそうであったのか分からないが、いずれにせよ、彼の憎しみと殺意は相当のものであった事が伺える。

彼には長男の権利を軽んじた事への後悔はなく、自分はどこで主の御心を損じてしまったのか、主はなぜ御顔を自分からそむけてしまったのか、そうした事を内省する心が、すっぽりと抜けてしまっている。
彼が欲しかったのは、あくまで物質的な祝福であり、それを手に入れる望みが無くなってしまった事を、涙を流して泣き叫んだものの、その涙には悔い改めの心は一切無く、憎しみに変換され、ヤコブへの殺意という方向性へと走ってしまった。
もし彼がヤコブを殺してしまったなら、一体、主の御心はどうなってしまうのか。といった、主を思う気持ちが、すっかり抜けているのだ。
エサウは結局、アブラハム以来の祝福の家系を継ぐに相応しく無い器であり、祝福の家系図から追い出されるべくして追い出された事が、はっきりしたのだ。

「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12:16)

ここで「彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」と書かれてある事に注目したい。
欽定訳聖書では「he was rejected: for he found no place of repentance」とあり、つまり、彼の心の中には一切「悔い改め」という余地が見つからなかった、そのため、涙を流して求めても拒否されたという事だ。

彼は悔い改めるべきだったのにそれをせず、ロスしてしまった祝福を泣きながら惜しみ、逆切れし、神の御心はどこかに吹っ飛び、ヤコブに殺意を抱いた。
結局彼は、祝福が与えられる余地を、自らのかたくなな心の故に、失ってしまったわけである。

「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(ローマ11:22-24)

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:6-7)

礼拝説教メッセージ音声:祝福を得るためのキーアイテム(創世記27:18-29):右クリックで保存

自分は兄エサウであると偽って父の前に出たイサクは、ついに、一家の長子が継ぐべき祝福を奪ってしまった。
父親を騙す事は罪であり、それによってヤコブは罪の刈り取りをしてしまった事を、前回見た。
今回は視点を変えて、本来祝福を受けるべきでない者は、いかにして祝福を勝ち取る事ができるのか、という視点で、見て行きたい。

本来祝福を受け継ぐべき者が祝福を受けられず、本来祝福を受継ぐべきでない者が祝福を受け継いでしまう。
人は、それを「不当だ」「ずるい」と言う。
それなら、最も「不当」な扱いを受けたのはキリストであり、祝福を受け継いだキリスト者は、皆「ずるい」。
なぜなら私達は、本来祝福を受けるべきではない罪人であったのに、祝福を受け継ぐ者とされてしまい、キリストが呪われた者とされてしまったのだから。

祝福を受ける為の重要なキーアイテムは、「動物の毛皮」と「晴れ着」、用意された「ごちそう」と「ぶどう酒」、そして、着物の「香り」である。(創世記27:18-29)

まず、ヤコブに必要だったものは、「動物の毛皮」だった。
毛皮を得るには、その動物の犠牲が必要である。
アダムとエバはエデンを追い出される時、裸のままでは追い出されず、動物の毛皮を着せられ、裸が覆われ、恥ずべき部分が覆われた。
また、アベルの捧げ物が受け入れられたのは、犠牲があったからである。
私達も、屠られた子羊キリストの犠牲によって「キリストという衣」が得られ、それを着る事によって、御父の実前に出ることができるのである。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、”キリストを着ている”からです。
・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ 3:26-29)

ヤコブは動物の毛皮を着た事によって、父の疑惑を避けられ、それ故に、アブラハムの祝福を受けるべき子と認定された。
同様に私達も、キリストを着る事によって、アブラハムの子孫としての祝福を受ける者となれるのである。

もう一つの重要アイテムは、「晴れ着」である。
マタイ22章1-14節には、王子の結婚の披露宴のたとえが記されており、そこにも礼服(晴れ着)が登場する。
たとえの中で、あらかじめ招待されていた客たちは、この宴会をあなどってしまい、ある者は畑に、ある者は商売に出かけてしまい、結局彼らはその宴会にあずかる事は出来なくなってしまった。
彼らは、長子の権利をあなどったエサウに、実に良く似ている。
そして、本来招かれざる者たちが招かれ、招きに応じた者達は、たとえ良い人でも悪い人であっても、宴席に連なる事が出来た。
ただし、「礼服(晴れ着)」を着ていない者は追い出されてしまう。

当時、王が宴会に招く時は、客人に礼服(晴れ着)を支給し、「これを身に着けて宴会に来て下さい」と言ったようである。
王から「礼服」が支給されているのに、それを一蹴し、自前の好きなファッションで参加してしまうなら、追い出されてしまうのだ。
きっとヤコブも、兄の晴れ着を着ずに父の前に出ていたら、呪われて外の暗闇に追い出されていたであろう。
私達もまた、天の王の宴会に参加する時、天の王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着けて行かないなら、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。

ヤコブはまた、父の好みを良く知っている母リベカに父の好きな「ごちそう」を用意され、それを父に差し出し、また、「ぶどう酒」を飲ませた。
私達も、御父の思いを良く知っておられる聖霊によって用意された捧げ物、すなわち、キリストが十字架で裂かれた肉という「まことの食物」を差し出し、また、キリストの血という、「まことの飲み物」を差し出すなら、それによって御父は満足されるのだ。

そしてイサクは着物の「香り」をかぎ、それが祝福を与える決定打となった。
雅歌4章10-16節にも、香りの重要さが示されている。
雅歌に登場する花嫁は、王である花婿から支給された飾りと香油を身につけ、そうして王の前に出た時、王は花嫁のとりことなり、最高の賛辞を送った。

わたしたちは、自分のがんばりや努力という汗くささを帯びて主の御前に出てはならない。
人間的ながんばりや努力は捨て去り、王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着け、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出るべきである。
そうするならば、御父はキリストのなだめの香りによってなだめられ、祝福を与えて下さるのである。

『ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」』(創世記27:27-29)

キリストの裂かれた体という贖いの衣を身に着け、キリストの体というまことの食物、キリストの血というまことの飲み物を携え、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出る事によって、ヤコブが父イサクから祝福を与えられたように、天の父から祝福をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:撒いた種は必ず刈り取る(創世記27:11-17):右クリックで保存

イサク自身の歩みは、平和の人として申し分無かったものの、子育てや後継者選びの面において、諸々の間違いを犯してしまった。

長男エサウは、アブラハムの家系に入れてはならないヘテ人の女二人を妻としてしまい、また、主からは「兄は弟に仕える」と言われていたにも関わらず、イサクは自分の好むエサウの方に祝福を与えようとした。
そして、リベカとヤコブは共謀して父をだまし、兄エサウを出し抜いて長男の祝福を奪おうと計画したのだ。

一体、この平和に満ちていたはずの一家は、どうしてしまったのだろう。
いつのまに、そんなドロドロとした権謀術数の渦巻く一家になってしまったのだろう。

この時、一家全員に共通していた事は、本来なら主の御心を求め主が物事を為されるのを待つべき所を、それをせず、自分の感覚のままに身勝手に行動してしまっている事である。
いかにアブラハムの子と言えど、自分を主体とし、主を差し置いて行動するならば、すぐにこのようになってしまうのである。

「リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。」(創世記27:15-18)
ヤコブはリベカの指示の下、エサウの「晴れ着」と「山羊」の毛皮を用いて兄エサウになりすまし、「父親騙し」をして、祝福を横取りしようとしていた。

弟ヤコブが栄え、祝福を受け継ぐ事は、確かに御心であった。
しかし、親を騙して偽る事は紛れもない罪であり、後に彼は、その行いの実をそのまま刈り取る事になってしまう。

ずっと後に、ヤコブの最愛の子・ヨセフは兄達に憎まれ、結果的にエジプトへ売られてしまうのだが、その際、兄たちはヨセフの「長服(晴れ着)」と「山羊」の血を用いて「父親騙し」を実行したのである。(創世記37章)
この時、騙されたヤコブは、最愛の子ヨセフが野獣に噛み殺されたと思い込み、ヨセフと再び会える日までの膨大な日々を、涙と悲嘆の内に過ごす事となってしまった。
こうして彼は、自分が実行した「父親騙し」という報いを、そのまま自分の身に負う事となってしまったのだ。

「嘘も方便」「良い嘘もある」といった人間の感覚や言い伝え等によって、御言葉を上塗りしてはならない。
偽りはどんな些細なものでも、また、いかに「神のご計画を実行するため」だとしても、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽りは罪である事には変わらず、悔い改めて、主に赦しを乞うべきなのである。

イサクもエサウもヤコブもリベカも、感覚による目視飛行を行なっていたために、この時一家は迷走してしまった。
私達は感覚に頼るべきではなく、御言葉に頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。

御言葉は御言葉として尊く受け取り、災いを招くような歩みをせず、主に喜ばれる歩みをいつもしている皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:見えない方が良い事もある(創世記27:1-10):右クリックで保存

「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。」(創世記27:1)

この時、イサクは100〜131歳くらいであったが、彼が人生を全うする180歳までの長い間、目はかすんで見えない状態が続いた。
イサクには多くの祝福が与えられていたのに、目が見えなくされていたのは、彼は、主の御心よりも、自分の望む事を優先させたいという思いが湧き起こり、彼の視力が、主が御心を執行する邪魔となっていたからであろう。

イサクにとっての、主の御心よりも自分の望む事を優先させたい、という思いとは、アブラハムの家系の正当な家系を、エサウに継がせたい、という願いである。

エサウは自分の望むままに、主を知る事も恐れもしないヘテ人の妻を二人召し入れた。
アブラハムの正当な子孫に、神を恐れぬカナン人は決して入れてはならないはずであり、何より、エサウとヤコブが生まれる前から、主から「兄が弟に仕える」と言われていたからには、ヤコブこそ、正当な家系を受けつぐべきであった。
それなのにイサクはエサウを愛し、自分が死ぬ前にエサウに長男としての祝福を与えようとしてしまうのだ。

リベカは憂いた。
このままではエサウとカナン人の間に生まれる子が、直系の子となってしまう。
そこでリベカは機転を聞かせて動いた。

『リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」』(創世記27:6-10)

リベカは、ヘテ人の女から生まれる子を、断じて栄えあるアブラハムの子孫にしてはならぬ、という主の御心を、彼女の機転によって、成そうとしたのである。
最終的にイサクは、目が見えない事によって、そしてリベカの機転によって、神の御心を損ねる事を免れた。

ここまでの創世記の学びをして来た方は気付かれたかもしれないが、目が良い事が、かえって災いを招く事が多い。
ロトはソドムという町の見た目の麗しさに惹かれて災いを招き、築き上げて来た財産と家族を失ってしまったし、ノアの時代、神の子達も、人の娘の美しさに心奪われ、滅ぼされる事になってしまったし、エバもまた、禁断の木の実をじっくり見入ってしまったから、人類全体に罪と死をもたらしてしまった。

自分の目の赴くまま腕力に頼り、人生を切り開いている内は、主の御心を全うできない。
肉による遣り繰りがことごとく頓挫し、自分の力に頼ることを止め、主の御手に頼ることを始める「十字架の経験」を経てこそ、主に有用な働きをなす事が出来るようになるのである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福の安定飛行(創世記26:23-35):右クリックで保存

ペリシテ人の地ゲラルに長期間滞在していたイサクは、約束の地・カナン地方のベエル・シェバに戻ってきた。
「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」(創世記26:25)
イサクは約束の地のこの場所に腰を落ち着け、定住する準備を始めるが、彼が成した事の順番には、私達も守るべき重要な優先順位が現れている。

彼が居を構えるに当たり、真っ先に建てたのは「祭壇」だった。
祭壇とは主を「礼拝する場」であり、それをまず建て、その後に天幕、すなわち「自分が住む家」を構築し、そして次に、「生活に必要なもの」である井戸を整えた。
この順番を誤ると、ハガイ書にてイスラエルが叱責された時のような出来事が起こる。

「今、お前たちは、この神殿を/廃虚のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。
万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると/主は言われる。」(ハガイ1:4-8)

イサクはゲラルにいた時、祝福されたが故に周囲からねたまれ、追い出され、井戸を奪われたりしたが、それでも、言論で戦ったり武力で報復したりは一切せず、正しく裁いて下さる主にお委ねしていた。
誰かから理不尽な目にあわされた時に、主の御言葉の故に自分を下ろし成り行きを主に委ねる場合、「これで良かったのだろうか」と、一抹の鬱積や不満が残る事もある。
イサクももしかしたら、ゲラルで受けた理不尽な応対を思い返すに当たり、そのような鬱積があったかもしれない。

主はそんな彼に現れ、言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記26:24)
イサクはその言葉に、どんなに励まされた事だろう。
主が与えて下さったは、言葉の約束ばかりではない。
イサクがゲラルで取ってきたスタンス、つまり、あたかも右の頬を打たれたら左の頬も差し出すような、人の目からは愚かに見えるまでに平和を貫き通したそのスタンスは、決して間違っていなかった、という主からの示しが、明確に、目に見える形として、向こうからやって来た。

『アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」』(創世記26:26-27)
アビメレクはイサクを追い出したも同然であった(16節)し、イサクは彼らに奪われた井戸に「争う」「敵意」という名前をつけたほど、ペリシテ人の行状には、明らかにイサクに対する憎しみが込められていた。
ところが彼らは、あたかもそんな事は無かったかのような物言いをしている。

「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。」(28節)
彼らは、主が明らかにイサクと共におられる事を、恐れたわけである。
以前は、自国の中にイサクという強い集団が居着いている事が脅威だったので、追い出す事で衰えさせようと思ったのかもしれない。
ところがイサクはますます祝福され、栄えたため、そんな彼らが敵対的な心情を持ったままでいる方が、もっと脅威だ、と思ったのだろう。

「以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り」(29節)
・・・確かに危害は加えなかったが、祝福を妬んで多くの井戸を埋め、奪ったのではなかっただろうか。
「あなたを無事に送り出しました。」(同)
・・・16節のアビメレクの言葉を見ると、とても無事に送り出したとは言えない。
「そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」(同)
実に、つっこみ所満載な言い分であるが、しかしイサクはそうした事を一切問わず、彼らのために祝宴を催し、互いに誓いを交わして、彼らを安らかに去らせたのだ。

なんともお人好しな、おおらかなイサクである。
しかし、彼のその生き方こそ、安楽な祝福の生涯を全うする生き方である。
彼について記された書面の分量は、アブラハム・イサク・ヤコブの中では最も短く、波瀾万丈さが一番無いため、第三者が彼の生涯を「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれない。
しかし、イサクは最も長生きし(アブラハム175年、イサクは180年、ヤコブは147年)、波瀾万丈な乱気流に巻き込まれる事なく、ずっと祝福の安定飛行をキープしていたため、彼について書き記す分量は当然少なく、そして彼は安泰な生涯を全うしたのである。

「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
イサクのように、祝福の安定飛行をキープするコツは、この御言葉に集約される。

礼拝説教メッセージ音声:柔和な者は地を相続する(創世記26:12-22):右クリックで保存

「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」(創世記26:12)
種まきのたとえによると、百倍の実を結ぶ者とは、「御言葉を聞いて悟る人」であり(マタイ13:23)、実を結ばない人とは、御言葉を聞いて悟らない人、内側が硬い岩ばかりで根が張れない人、世の思い煩いや富の誘惑で御言葉を覆い塞いでしまう人である。(同18-22節)
イサクはこの地方に留まっている間、多くの理不尽な仕打ちを受けるのだが、それでも彼は、御言葉の約束を信じ、平和に対処し続けた。

「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。」(創世記26:3)

彼は、ペリシテ人から祝福を妬まれて父アブラハムが掘った井戸を塞がれ、アビメレクからも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われ、事実上、追い出されてしまった。(16節)

これは、父アブラハムの時に交わした契約の明らかな違反であり、契約内容を盾に争議する事も出来たはずである。
しかし彼は、そういう事は一切せず、大人しくその場所から移ってしまう。

彼はゲラルの谷間へ移住し、そこで新たに井戸を見つけた。
『ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。』(創世記26:20-21)

一度ならず二度も争いを仕掛けられた、となれば、明確な敵意があったと言えるだろう。
力も富もアビメレクを凌いでいるのだし、神に守られているのだから、武力行使に出ても十分勝てたはずだろう。
なのに彼はそのような手荒な事はせず、それらの井戸はくれてやり、黙って立ち去った。

そして、またもや彼は井戸を掘り当て、今度は誰にも文句言われず、正真正銘に彼のものとなった。
『イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。』(創世記26:22)
彼は、やる事なす事全てが成功し、祝福されたのである。

ダビデもまた、主が「広い所」へと導かれた事を、詩篇18篇で詠んでいる。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり、わたしを”広い所”に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-21)

この詩篇18篇は、彼がサウル王から救われた時に詠んだ詩篇であるが、彼は、自分のいのちを付け狙うサウル王を、自らの手で殺せるチャンスが2回も訪れたのに、自分の手でなす事はせず、正しく裁いて下さる主に全てお委ねした。
彼もイサクのように柔和な対処をしたため、主が彼の敵を裁いてくださり、結局枯れは王位を受け継ぎ、祝福され、栄えたのだ。

「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)

イサクは祝福の故に妬まれたが、罵られても罵り返さず、武力をもって報復せず、手練手管も使わず、奪われても奪われたまま、黙って他の所へと移って行った。
それは人の目から見れば、愚かさ、弱さのように見えるかもしれない。
しかし結果的に、彼は祝福につぐ祝福を受け、周囲が逆に恐れをなすようになった程である。

イサクのように柔和な者となり、地を相続し、周りからも恐れられるほど祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:父の信仰の故に守られる(創世記26:1-11):右クリックで保存

アブラハムの時代、彼は飢饉という試練を通して精錬されたが、イサクもまた同じく飢饉という試練が与えられた。
その試練が訪れた時、イサクはエジプト方面へと向かったが、その途中、ガザの南側境界付近の、ゲラル地方にいる時、主が直接イサクに現れた。

『主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。』(創世記26:2-3)

聖書の記述の中では、神がイサクに直接現れたのは、この時が最初である。
アブラハムに主が現れた時、最初に命じられた事は「わたしが示す地へ行きなさい。」であったが、イサクには逆に、「わたしが命じる土地に滞在しなさい。」と命じられた。
イサクはどこにも行くべきではなく、「ここ」が約束の地であり、そこに留まることが御心であったからである。

主は今日の箇所で、2回「父アブラハムの故に」祝福する、とイサクに言われた。
父の祝福が子に及ぶのは、父が主の御声に聞き従い、御言葉を守り行ったからである。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。」(出エジプト20:6)

さて、イサクは父アブラハムと全く同じ地方で、全く同じ試練に遭い、全く同じ理由の故に、同じ過ちを犯してしまった。

彼はゲラル地方で、その土地の人達を恐れて、妻ラケルを「妹です」と言ってしまった。
妻が美しい、と言う理由で、平気で夫を殺し妻を奪ってしまう、という事が行われていた地方だからである。
ただ彼の場合、アブラハムの時とは違い、妻を召し取られてしまうような事は無く済んだ。
それはやはり、父アブラハムの故に、主が守って下さったからである。

ペリシテの王アビメレクは、イサクの父・アブラハムの代の時に、彼の妻サラを召し入れた事で、主から恐ろしい目に遭った。
またアビメレクは、アブラハムが余りに祝福されている事に恐れをなして、不可侵条約を結んでいた。
イサクがそのアブラハムの子であるからには、やはり「あのイサクの美しい妹には、下手に手を出したらひどい目に遭うかもしれない」と、ある程度の恐れがあったのだろう。

そんなある日、イサクとリベカが兄妹では有り得ないような親密な行動をしている所を、アビメレクに見られ、彼らが夫婦である事が公に知られる所となった。
『アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」
「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。
「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」』(創世記26:9-11)

アビメレクのこの命令は、このようなお国柄の所では、まず無いような命令である。
イサクは、自分たちが小さく弱いから、という事で恐れていたかもしれないが、父アブラハムの故に、そして主が共におられる故に、逆にその国から恐れられていたのである。

『彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』(詩篇105:13-15)

私達も、御言葉に聞き従い、守り行うのであれば、子孫までも守られるのである。
私達が、いかに小さな群れであっても、御言葉を正しく届ける「預言者」であるなら、主は周囲の国々に恐れを起こさせ、「危害を加えるな」と言って、叱られるのである。
大切な事は、アブラハムのように、御言葉に聞き、従い、守り、行う事である。

礼拝説教メッセージ音声:狩人型 vs 牧者型(創世記25:27-34):右クリックで保存

「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となった」(創世記25:27)
エサウは、生まれた時から毛深くて赤く、いかにも強そうだったが、成長すると強さを増し加え、思うままに好きな所へ出ていき、腕づくで獲物を勝ち取る者となった。
創世記を今まで学んで来た中で、巧みな猟師に成長した人物は、これで3人目である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは総じて、自分の力強さに頼り、自らの欲するままに腕づくで周囲を支配し、神に喜ばれない歩み方をして来た。

「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(創世記25:27)
ここの「穏やか(タァウム)」という語は、ヨブ記1:1に登場した「正しい」「全き」「無垢」とも訳す事の出来る、義人ヨブの品性を表す語であり、また創世記6:9でも類義語としてノアの「正しさ」を表した語である。
彼は父の天幕の周りで働き、父が所有していた多くの羊や牛の群れをしっかり管理し、牧していた。
ダビデは若かりし頃、羊飼いとして身につけた牧者としてのスキルが後に王になった時に役だったように、ヤコブもここで身につけたスキルが、後にラバンの所で大いに役立ち、さらに富む者とされて行く。

まだ二人が生まれる前、リベカは主から「兄が弟に仕える」と言われていた。
彼女は、主の言葉に心を留め、エサウよりもヤコブを愛し、兄はやがてあなたに仕えるようになる、あなたは神様に祝福される、と言っていたのかもしれない。
それで彼は、主のそのことばに思いを留めていたものの、現状のままでは、あの僅差で先に生まれた兄に、全ての祝福を持っていかれてしまう、この現状を何とかしなくては、と、機会をいつも伺っていたのかもしれない。

そんなある日、彼にとってチャンスが訪れる。
ヤコブがレンズ豆の煮物を作っている所に、エサウは死ぬほど疲れきって、野から帰って来た。

『エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。』
ヤコブからすれば、降って湧いたようなチャンスであった。
『ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」』
エサウからすれば、突拍子もない事を言われ、面食らったかも知れない。
しかし、長子の座に安住していた彼にとって、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が欲しかった。
『「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。』

彼にとっては、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは、思ってもいなかったのかも知れない。
とりあえず口先で言っておけば、その赤いものが早く手に入る、くらいに考えていたかも知れない。
しかし、壁に耳あり障子に目ありである。
その場にエサウとヤコブの二人しかいなかったとしても、主は聞いておられ、後にはその言葉の実をしっかりと刈り取ってしまう事になる。
エサウは結局、自分の好きな獲物を追いかける事に夢中になり、自己管理を怠って死にそうなまでに疲れ果て、たかだか一杯の食物で、長子の権利を売る事になってしまったのだ。

『また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。』(ヘブル12:16-17)

長子の権利とは、父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、独占的な権利である。
私達キリスト者も、永遠の祝福を受け継ぐ権利を、キリストにあって持っているが、エサウのようにそれを軽んじて売ってはならない。
エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものは、一杯の食物だったが、それは様々な形に姿を変え、神の国を受け継ぐ権利と引換に売らせようとして誘惑して来る。
私達は断固、それをキリストの名によって拒否しなくてはならない。

自分の赴くままの所へ出て行き、腕づくで獲物をぶんどる「狩人型」のエサウと、父の天幕に留まって、従順に任された群れを養い管理する「牧者型」のヤコブ。
イサクがエサウを好んだように彼のようなタイプの人は人々から好かれ、そして多くの人は、世の中をうまく渡り合っていけるために、狩人型の人間になりたいと願う。
しかし主は、狩人型の人間を退け、牧者型の人間を栄えさせる。

ヤコブのように、与えられた領分において、与えられた群れをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取ろうとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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