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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:肉の子と約束の子(創世記21:1-13):右クリックで保存

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創世記21:1-2)

いよいよ、約束の子イサクが生まれた。
この時、アブラハムは百歳、サラは九十歳。
まことに主は、いのちの君である。
主がいのちを与えると言うのであれば、たとい百歳からでもいのちは生まれ、たとえ九十歳であっても、子に乳を飲ませる事が出来るのである。

「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)
サラのこの言葉から、彼女の穏やかな満足を見る事ができる。
彼女は長年、子を産まない女として、もはや手遅れの女として、人々から見向きもされなかったのだから、彼女の子が生まれた事はどれほどの喜びであったろう。
約束を待ち続け、それが与えられた者には、決して揺るがされることのない平安が与えられるのである。

イサクが乳離れした日、ハガルが生んだ子イシュマエルが、イサクをからかっているのをサラは見た。
からかった動機は、おそらくねたみ、嫉妬である。
イシュマエルからすれば、それまで自分がアブラハムの子として育てられ、中心人物かのように見られていたのに、本妻であるサラからイサクが生まれた途端、注目の中心が彼に移ってしまったからである。

サラはそれを見て、怒りが爆発してアブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創世記21:10)
アブラハムからすれば、イシュマエルも、自分のかわいい子である。相当悩んだ。

アブラハムが神に聞かず、妻に聞きしたがって、ハガルを通してイシュマエルを産んでしまった結果、ハガルにも、イシュマエルにも、アブラハムの家全員にとっても、悲しい結果になってしまった。
ここから私達も、よくよく学ぶべきである。

御心を退けて、自分のよかれ、自分の浅はかな知恵によって生んだものは、冷酷な程に、苦々しさしかもたらさないのだ。
主によらない人間のがんばりによるものは、長くは続かず、それがどんなに栄えようとも、やがて主によるものによって、置き換えられてしまうのである。

サラとハガルの二人は、肉の力に頼って生きる人間と、神の約束に頼って生きる人間をあらわしている。(ガラテヤ4:21-27)
神の約束にではなく、肉の力に頼って生きる人間は、自分の力、頑張り、手練手管で生きるが、所詮、奴隷の子であり、やがて追い出されていく。
しかし、神の約束に頼って生きる人たちは、主から着せられる圧倒的ないのちの力によって、生きるのである。

イサクが乳離れした時、肉によって生まれたイシュマエルが、“霊”によって生まれたイサクを迫害したように、今でも同じようなことが行われている。
『しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。』(ガラテヤ4:30-31)

皆さんは、肉のがんばりによって生きて奴隷として生き、やがて追い出されたいだろうか。
それとも、神の約束に頼って行き、主から圧倒的ないのちの力を着せられて自由の者として歩み、相続を受けたいだろうか。
その判断は、皆さん自身に委ねられている。

礼拝説教メッセージ音声:ゲラルでの失敗 - イサクを生む前の最後の整え(創世記20章):右クリックで保存

「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
創世記の学びをしている皆さんは、以前にも似たような事があったのを、思い出した事だろう。
彼は、20数年前も、エジプトでも同じ事を言ったために、妻はファラオに召しいれられてられてしまい、神の直接介入によって、妻は助けられた。

彼らはあれから色々な経験をし、信仰的にも成長しているはずである。
エジプトでの時は、愛する妻サライ一人さえ守れなかったのに、その後、甥のロトが強力な王達の略奪隊にさらわれた時、信仰によって、わずか318人で立ち向かい、王たちを滅ぼして身内ロトを救ったばかりか、多くの分捕りを得た程の事もあった。
そんな彼が、こんな初歩的なあやまちを犯すなどとは、逆に信じられないかもしれない。

いかに信仰が立派な人でも、あやまちは、犯すものである。
あの人が、こんなあやまちを犯すなんて信じられない、というような事例は、聖書に限らず日常世界でも幾らでも見いだせる。
ひと度、高みに達したら、それでもう生涯、過ちを犯さなくなる、というものではない。
日々、主の御前に信仰を緩めず、忠実に歩み続ける事こそ、大事である。

アブラハムには、確かに、アビメレクに対する恐れがあっただろう。(11節)
しかし今回の失敗の原因は、もっと、無意識的・習慣的な事に起因したミスであったと思われる。

彼は当初、ある約束を、妻と交わしていた。
すなわち、彼は妻に、どこへ行っても「兄です」と言うようにと、父の家を出た時、頼んでいたのだ。(創世記20:13)

「妻」ではなく「妹」だと名乗るようにして欲しい、という、信仰の未熟な時期に交わした約束。
それは、はるか昔に取り交わしたもので、初対面の人と合う時は、もはや無意識的に、習慣的に「兄妹です」と言うようになってしまっていたかもしれない。
その無意識的、習慣的に言う「偽り」を、この地方に来た時、いつものように言ってしまったため、またも、妻がアビメレクの元に連れて行かれてしまったのであろう。

次の21章では、いよいよ待望の子、イサクが生まれる。
いよいよ彼らは、大いなる民族の父母となる、その直前、神はアビメレクを通じ、この習慣を取り扱われたのではなかろうか。

アブラハムとサラは異母兄妹で、確かに「兄妹」である事に変わりはない。
しかし、周りに「兄妹」と公言しているのであれば、二人の間に子供が生まれた時、周りは、あれ?二人は兄妹ではなかったの?という事になってしまう。
それがどうして神の栄光となりえるだろうか。
つまりこの約束は、自分たちには「子が生まれない」という不信仰が前提の約束であり、神はこれを徹底として扱われた。

今まで、彼らが「兄妹」と公言した事によって、それが彼らに様々な利益をもたらしたかもしれない。
しかし、兄妹から子が生まれてはならない。子供が生まれるのは、夫婦からである。
神の栄光のためには、アブラハムとサラは「兄妹」ではなく「夫婦」であるべきであったのだ。

世の慣習では、当たり前のように許されている事でも、神の国で許されない事がある。
私達も、もはや無意識的に言ってしまう嘘や、昔取り交わした不信仰な約束にもとづいて、不信仰な行いを、無意識的に行ってしまう事があるかもしれない。
神は、私達をさらなる祝福を継ぐに相応しくしようとする時、そのような習慣を気づかせ、強制的に改めさせられる。
それはたとい、今までは咎められなかったような事や、世から見れば何ら問題無く見えるような事であっても、神の民としての祝福を受け継ぐ者にとって、それは改めなくてはならないものであれば、神は介入される。

アブラハム達は、その「習慣」が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に公言するようになった。
こうして彼らは、子を生む準備が整い、子を生んだ時、周りに堂々と証できる準備が、整ったわけである。

ますます神の国民らしく整えられ、祝福を継ぐに相応しく整えられる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦の原因(創世記19:30-38):右クリックで保存

「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。」(創世記19:30)

彼らは最初、主に、「あの町(ツォアル)を滅ぼさないで下さい」と言って、その願いは聞き届けられた。
それなのに、彼らはやすやすとその町を出て行ってしまった。
主の言葉に信頼するのではなく、目に見える所に従って、そこに住む事を、恐れたからである。

ロトは、今度は人々から隔離して生活する事が良しと思い、またも彼の目に見える「良かれ」に従って行動したのだが、その結果、何が起こったか。
『姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」』(創世記19:31-32)

ロトの娘達は、なんと、父親に酒を飲ませ、父親と寝る事によって、子をもうける事をしてしまった。
ソドムでは、性的不品行が、かなりはびこっていたが、彼女たちは、そこで育つにつれて、ソドムの基準で行動する事に何のためらいも無く、成長してしまったのだろう。

信仰者が、御言葉にではなく「自分の良かれ」で判断し、安易に世と隔絶して生きようとすると、信仰が成熟していない子供たちは、どうなるか。
ロトの娘たちは、性の対象としてはならない父親さえ、性の対象としてしまった。

性の営みは、父母を離れて成熟した夫婦だけに許された、生んで増えて地に満ちるいのちの祝福であるが、信仰の歩みではなく、自分よかれの歩みを続けていると、その営みは、愛も、同意も、喜びも無い、機能的な行為へと成り下がってしまうのだ。
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、それは神の民が聞いても、世の人が聞いても、恥であり、蔑みの対象でしかない。

この娘達は、年齢的に、幼い頃からアブラハムと交わりがあったであろうし、アブラハムは、ロトや娘達がまさかそこまで成り下がるとは、思ってもみなかったろう。
アブラハムと交わりが出来るチャンスの時に、しっかりと交わりの内に主を信頼する事を学んでいれば、このような事は無かったはずである。
アブラハムは、御言葉の約束を信じて歩み、ロトは、御言葉よりも目に見える所で判断して歩んでいた。
ロトは、アブラハムと一緒にいた時、しっかりと信仰を学ぶべきだったが、それを軽んじてしまった。
聖徒の交わりを軽んじてはならない。
目に見える所を頼りとする歩みは、右往左往して多くの困難に遭った挙句、アブラハムと一緒にいた時に築き上げた財産を失い、家族も失い、ひもじい思いをするようになってしまうのだ。

『やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。 妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。』(創世記19:37-38)

「モアブ人」をそのまま訳せば「父親より(生まれた)人たち」、「アモン人」は「肉親から生まれた人たち」、そんな呼ばれ方は、かなり恥ずかしい。
モアブ人・アモン人は、ロトの子孫であるがゆえに、また、ロトを執り成したアブラハムの故に、主は、イスラエルは彼らと敵対してはならない、と申命記2章で命じられた。
しかし彼らは、イスラエルに不品行をもたらしたり(民数記22-25章)、攻撃を仕掛けたりして来たりした。

しかし、いかに近親相姦の子であろうと、どんな血筋の者であろうと、主に信頼し、全能者の翼の影に身を寄せようとする人に、主は、恵みを施される。

事実、全能者の翼に助けを求めて来たルツは、モアブの娘である。
彼女の信仰の故に、彼女の家は絶えずに済んだばかりでなく、キリストを生む家系へと連なり、全世界にも恩恵をもたらした。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれ「た」のである。」(ヨハネ1:12-13)

キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」。
いかに自分が、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、先祖がどんな呪いの契約を霊的に結んでいようと、キリストを信じる者は、以前の自分は死に、神によって新しく生まれた者である。

ロトのように見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのようにしっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:滅びの火は真価を試す(創世記19:23-30):右クリックで保存

ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(創世記19:26)
ここの「振り向いた」の言葉の構成は「振り向いて+見る」で、「見る」はヘブル語でnawbat、すなわち「注意して見る」「没頭して見る」という意味である。
つまり、ロトの妻は、振り向いてはならないと言われていたのに振り向いて、しかも滅んで行く様をじっくりと見入ったのだ。
それでソドムへの裁きが彼女にも追いついてしまったのである。

彼女がいたのは、ロトのうしろである。
つまり彼女は、滅ぼされるべき町ソドムに、また、滅ぼされるべきソドムにある家財、栄華、暮らし向き、娘や婿たちに未練があったため、振り返ってしまったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:16-17)

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(創世記19:29)
脱出前のロトの信仰と、神様に対する従順は、かなり弱っていたが、それでも憐れみが注がれたのは、アブラハムの執り成しの祈りお陰だったのだ。
ように執り成しの祈りは、信仰の弱い者が立ち得なくなってしまった時でも、執り成す者の祈りによって、助けられるのである。

ロトはアブラハムと別れた時、ロトのほうが有利であるかのように見えたかもしれないが、結局彼は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に引き寄せられた結果、全てを失って、身一つで逃げるはめになってしまった。
私達もやがて、日々の信仰の真価が試される日が来る。

私達の信仰の土台、それは、キリストである。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出され、かの日にそれは明らかにされる。
かの日は火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味し、ある者の建てたものは残り、報いを受け、ある者の建てたものは、燃え尽き、損害を受け、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる。(1コリント3:10-15)

永遠に残るもの、それは、真き心からキリストに捧げる捧げ物、キリストを信じる信仰によって行う、行いの全てである。
永遠に残らないもの、それは、キリスト抜きに行った行いの全て、自分由来のもの全てである。
ベタニヤのマリヤは、イエス様に300デナリの香油を注ぎ、永遠に残る記念の礼拝を捧げた。
しかし、彼女の礼拝を見積もったイスカリオテのユダは、彼女の捧げ物が永遠の恥の材料となってしまった。

アブラハムのように、滅びの火が届かない、神の示された所に住み、世のものではなく、自分由来のものにでもなく、御言葉に従って生きる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:なりふり構わず逃げるべき時(創世記19:12-22):右クリックで保存

御使い達はロトに打ち明けた。
「実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」(創世記19:13)
ロトはそれを聞くと、嫁いだ娘たちの所に行き、婿たちに、逃げるようにと呼びかけたが、彼らはそれを冗談のように思って耳を貸さなかった。

ある日突然、主の裁きが降る、と、突拍子もない事を言われたのだから、冗談のように思うのは当然かもしれない。
しかし、ロトが普段から義について説いて来て、それを普段から聞き流しているようであるなら、いざ本当に裁きの時が来た時、いかに真剣な表情で最後の警告をしても、決して動かないものである。
そのような場合はあきらめて、その不信仰な者と共に滅ぼされないために、その者から離れて、逃げなくてはならない。
人は誰しも、主の御前には一人で立たなくてはならず、自分の救いは、自分でしか達成できないのだ。

ソドムの男と結婚してしまったロトの娘たちは、結局ソドムに残り、その日、滅ぼされてしまった。
滅ぼされるべき者と、一度結婚してしまったら、そこから手を切るのは余程の覚悟が必要になってしまう。
滅ぼされるべき者達とは、最初から結婚しないに限る。

ソドムの滅びの時は、刻、一刻と近づき、夜明け近くになった。
御使いたちは、ためらっているロトに「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」と通告したが、それでもロトは、ぐずぐずとためらっていた。
そこで主は、ロト、妻、二人の娘の手を取り、町の外へ避難させた。
それは主のあわれみである。

彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)
その段においても、ロトは主に願い出た。 「主よ、できません。」(創世記19:18)

恐らくその時の彼の精神状態では、そのまま山に逃げ切れた可能性は、極めて薄い。
彼はソドムに未練があり、この段においてもぐずぐずしているようでは、山地まで走り続ける事は、無理であったろう。
ロトは続けて、 「あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。」と告白し、主は命を救おうとされるお方であると、告白した結果、主は憐れんで下さり、山までは逃げなくても良いように、計らって下さった。

主は実に憐れみ深いお方である。
それはもはや、彼の信仰だけでなく、彼を執り成したアブラハムの祈りを、主が覚えておられた故である。(創世記19:19)
このように、信仰の弱い者が、立ち得なくなってしまった時でも、誰かの執り成しの祈りがあれば、主は支えて下さるのである。

主は確かに憐れみ深いお方であるが、指をくわえているだけで自動的に誰でも助けるのではなく、私達の側にも、従順し、服従すべき「分」がある。
聞いた警告を信じ、服従し、それぞれが足を使い、不従順から走って逃げるのは、人の側の責任である。
服従しなかったロトの一部の家族は、ソドムで滅んでしまった。

私たちも、自分の生来の邪悪な性質をいつまでも改めず、兄弟姉妹を平気で踏みつけたり、いつも赦してくれる親切にあぐらをかき続けたりしていると、やがてリミットが近づいて来る。
もしリミットが近づいた事を悟ったなら、なりふり構わず、生来の邪悪な性質から、逃げなくてはならない。
だらだらと、生来の自分に、未練を残してはならないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ソドムと日本とダブルスタンダード・クリスチャン(創世記19:1-11):右クリックで保存

二人の御使い達がソドムに着いた時、ロトは門のところに座っていた。
町の門は、裁判や商取引が行われる所で、門の所に座っていた、という事は、ロトはソドムの町で役人のような地位にいた、という事である。

ロトもアブラハム同様、彼らを客人として丁重にもてなそうと、自分の家に泊まるように、しきりに勧めた。
もし、この二人が門の所に泊まったとするならば、町の住人は、彼らに大変な事をしてしまうからだ。

ソドムは、カナンの父・ハムの末裔であるが、ハムの性質が、さらに悪い方向へとバージョンアップしている。
ハムは、父ノアの天幕にずかずかと入り、父が酔って裸で寝ている様を見入り、そのような性的な秘密を楽しみ、出ていって皆を連れ戻って来て、みんなでそれを楽しもうとした。
そうして祝福の権威者である父ノアから、のろいを授けられてしまった。(創世記9:20-29)
ソドムの住人も同じように、ロトの家に暴力的に入り込もうとして、客となった御使い達を性的にいたぶろうとして、呪いを受ける事になる。

ロトは義人としてソドムの町の放縦な行いを悩みつつ生活していた(2ペテロ2:7)。
しかし同時に、その邪悪な町から抜けださず、町の有力者にまで上りつめていた事も、また事実である。
有力者にまで登りつめた、という事は、ソドムでの習わしにある程度従って歩み、それなりの評価を得るまでの実績をその町で上げていた、という事である。

ここに、神の基準を知りつつも、世の栄えにも目が眩み、世の基準からも抜け出せないでいる「ダブルスタンダードのクリスチャン」の葛藤を見る。
そのような歩みをしているクリスチャンの歩みと報いは、ロトの歩みと報いから知る事が出来る。

ロト達がソドムの地を選んだのは、そこが主の園のように、エジプトのように潤っていたのを「見た」からである。
しかし、その潤いの恩恵に与りたいと思う為に、妥協に妥協を重ね、最終的には全てを失ってしまい、いのちだけしか助からない事になる。

ロトは二人をもてなしていたが、彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(創世記19:4-5)

ロトは出て行って町の男たちをなだめるのだが、信じがたい提案をする。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(創世記19:8)
なんと、客を守るために、大切に育てた二人の未婚の娘を差し出し、好きなようにして下さい、というのである。

とんでもない、ひどい、と思うかもしれないが、人間、居着いている所の風習に染まるもので、狂気の時代、狂気の場所に住んでいると、普通人としては狂気に見えるような事さえ、普通にしてしまうのである。

実際、今日の日本では、このソドムと似たような状況が、社会通念としてまかり通ってい事に気づかないだろうか。
日本は、世間の面目を保つために、あるいは会社での地位を保つために、妻を、夫を、息子・娘を犠牲とする事が、むしろ社会通念に近くなってしまっているのではないだろうか。
会社から、あるいは世間から、つまはじきされない為に、自分の大切な家族が蹂躙されても仕方無し、という価値観に、どっぷりと浸かり込んでいる者が、多くなって来ている。

『男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。』(創世記19:9)
しかし主は、この、僅かながらでも義を振り絞った義人を、守って下さった。
いかにロトが、ソドムの価値観に染まって誤った選択をしていても、主は憐れみ深い方である。彼らを守って下さった。

今、アメリカなどでは、同性愛者がプラカードを掲げて、町の役人に殺到しているが、キリスト者は断固、御言葉の基準から離れてはならない。
「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」(レビ20:13)
「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(ローマ1:26-27)

世の価値観が迫ってきた時は、妥協する事なく御言葉を示し、拒否し、戦うべきである。
そうでないと、塩気のない塩のように外に投げ出され、踏みつけられてしまうだけである。
ダブルスタンダードは捨て、世に妥協する事無く、御言葉にしっかりと留まり、キリストにあって戦い、キリストにあって勝利する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主と交渉する際には(創世記18:23-33):右クリックで保存

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて、アブラハムは意を決して主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

相手が言った言葉を盾に取るのは、交渉において強力な手段である。
主は正義と公道とを行わせるお方である事が19節で言われているが、アブラハムはその言葉を盾に取った。
「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記18:25)

私達が主と交渉する際、最も有効な手段は、御言葉を盾に取って祈る事である。

ツロの女がイエス様から娘の癒しを頂けた決定的な勝因は、彼女のしつこさではない。
子犬呼ばわりされても「その通りです、しかし、子犬でも食卓からこぼれるパンに与ります」と、イエス様の言葉を逆手に取った故である。(マルコ7:24-30)
御言葉にそぐわない自分の願いを千回万回述べて、祈り倒そうとしても無駄である。しかし、御言葉を盾にとった祈りは、非常に有効である。

主は雲の上に高く座して、私達の言葉なんか聞かれない、と思ったら、大間違いである。
主は人の姿を取って来られ、その足で歩き、目で見、耳で聞き、ソドムの町に泊まられた。
主はアブラハムに人の姿を取って現れ、面と向かって交渉に応じられ、また、主はヤコブにも人の姿を取って現れ、取っ組み合いの相撲を取られた。

相撲は、抱きつくように組み合い、汗が一つになり、顔と顔は間近になって、各々の力を賭けて戦う。
神は、はるか彼方から見下ろすお方ではなく、生々しいほどに人と近くなって、関わるお方である。
主イエス様は、貧しい家庭に人として生まれ、人として貧しさを体験され、誘惑も、人からのあざけりも、暴力も、痛みも、十字架刑も、そして死さえも、体験された。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、自らを不正な裁判官にまでたとえて、絶えず祈り求めるように話された(ルカ18章)し、また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とも言われた。(マタイ7:7)
主は、関わりを求めておられる。
私達は「主は御心を変えられない」と絶望して求める事を止めてはならないし、虚無に走ってはならない。

アブラハムのように、御言葉を盾に食い下がり、皆さんの使わされた場を執り成し、災い多きこの国を執り成す皆さんでありますように。
ヤコブのように取っ組み合いをしてでも主と関わり、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:執り成す為に立て(創世記18:16-22):右クリックで保存

ソドムとゴモラは、不品行がはびこり、性的な錯乱がまかり通り、不当に抑圧されている者が多く、神の御前に悪を積み上げている町であった。
『主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」』(創世記18:20-21)

不当に流された血は、主に対して叫び(創世記4:10)、労働者へ支払うべき未払いの賃金も、また叫ぶ(ヤコブ5:4)。
ソドムとゴモラは潤って栄えていたものの、彼らを訴える叫びが非常に大きかった、という事は、この町では不当な血が多く流され、支払うべきものが支払われず膨れ上がっていたのだろう。

神は全能なるお方なのだから、わざわざ人の姿を取って、その通りかどうかを見に行く必要は無いはずである。
しかし、主がわざわざ人の姿を取り、主みずから足で行って目で見、耳で聞き、そこの住人が実際に乱暴した様を実体験したのであるなら、その報いとして滅ぼされても、誰も何の文句も言えないはずである。

なぜ主は、これから為そうとしておられる事を、アブラハムに打ち明けたのか。
それは、彼が主の命じられた事を守り行い、主の「友」となったからである。
『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの「友」である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』(ヨハネ15:14-15)

また創世記18章19節、「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
神は正義と公正を行うお方であり、アブラハムとその子孫が、これから主の目が注がれた祝福の民として御心を行い、子孫達が主の道を守って生きるよう、実体験として学ばせるためであったろう。

そして主は、いかに罪人であっても、滅ぼす事は望んでおられず、彼らが悪の道から離れて生きることを望まれるお方である(エゼキエル18:23)。
それ故、主は、人を滅ぼさないようにとご自身に執り成してくれる人を、望んでおられる。

『国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によって彼らを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す」と主なる神は言われる。』(エゼキエル22:29-31)

エゼキエルの時代のイスラエルには、主の御前に出て執り成す者がおらず、滅ぼされてしまった。
しかしアブラハムは、ソドムさえも執り成すために、主の前に立っていた。(創世記18:22)

主は、絶対なるお方である。
はたして自分ごときが口出しして良いものか、という恐れも、アブラハムにはあっただろう。
しかしそれでも彼は執り成すために、主の前に立った。
主は、悪人を滅ぼす事を望まれないお方。だから、アブラハムが執り成すために御前に立った事は、主にとって嬉しかったに違いない。

今、この時代は、不品行がはびこり、性的な乱れや錯乱がまかり通り、不法に抑圧されている者が多い、ソドムのような時代である。
その中において、アブラハムのように主の御前に立って執り成す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:むなしい年寄り女を王女へと変える主(創世記18:1-15):右クリックで保存

前回主がアブラハムに現れてから、まださほと経っていない時、主は、三人の旅人に身をやつして現れた。
『目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。』(18:2-3)
アブラハムは彼らの所に走って行ってひれ伏し、彼らの足を洗い、ひとりにつき7.6リットルの上等の小麦粉でパンを作るようサラに指示し、また、柔らかくておいしそうな子牛でもてなし、彼自身は給仕した。
見ず知らずの旅人にかなりの接待をするものだと思うかもしれない。

パレスチナ地方では、この時代から既に、旅人をもてなす事が当然為すべき美徳として行われており、それをしない事は、その人の、その家の品格を疑われる事であった。
アブラハムは最初、彼らを「主(アドナイ)」ではなく「お客様(アドン)」と呼んだ事から、また、彼らは疲れた様子だった(5節)事から、アブラハムは彼らが主であったと最初から悟っていたのではなく、単に、世の美徳に習って旅人をもてなすつもりで歓待したのであろう。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブル13:2)
私達も、日常を侮ってはならず、世の中で通っている徳と言われるものを、ないがしろにしてはならない。(ピリピ4:8)
主は、夢や幻、しるしや奇跡といった「非日常」にしか現れない、と思ったら間違いである。
むしろ主は「日常」の内に、ある時は盗人のように思いがけず現れる。

アブラハムが給仕していた時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
主は、主が名付けられた名前「サラ」を呼ばれ、アブラハムは「はい、天幕の中におります」と答えると、彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。

前章で、サラには来年の今頃、男の子が生まれる、という約束がアブラハムに与えられ、サラはそれを既にアブラハムから聞いていたであろうが、信じきれていなかったため、この、客のただならぬ言葉を聞いても、笑ってしまったのである。

『主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」』(創世記18:13-15)

主が旅人の姿で現れ、同じことを言われたのは、恐らくサラに、主が名付けて下さった新しい名に相応しく、王女として、信仰者として、整えるためだったのではなかろうか。
この時点、サラは、彼女の子ではないイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いてしまったため、子を産む事についてはもはやあきらめ、王女とは言えないような、卑屈な信仰になっていた事だろう。
しかし主は、アブラハムに現れ彼の信仰を再び奮い立たせて下さったように、サラにも直接現れて、彼女の弱っていた弱い信仰を奮い立たせて下さった。
こうして彼女は信じ、もはや年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力を得、神の約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになったのである。(ヘブル11:11-12)

12-15節の間に「笑い」という言葉が4回出てくる。この、笑いという言葉がキーワードである。
将来、彼女が産む子は「イサク(意味:彼は笑う)」という名前であり、彼女がイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こしたことだろう。
あの時、弱々しく笑うしか無かった自分に、主は現れてくださり、心底、いのちの喜びの笑いを提供して下さった、と。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。と主は仰せられる。」(イザヤ54:1)
「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。とあなたの神は仰せられる。」(同6節)
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(同11-13節)

サラのように、弱っている信仰が主によって強められ、卑屈な信仰から、王女のような信仰へと変えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:有り得な過ぎて笑ってしまう事も、為さる神(創世記17:15-27):右クリックで保存

サライにも新しい名、サラという名が与えられた。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)

サライもサラも共に「王女」という意味で、父親テラは、おそらく彼女に、王女のような、お姫様のような子になって欲しいと、ある種の願いを込めてつけたであろう。
しかし、人の呼び名、人が決めつけたアイデンティティは捨てて、まことの天の父がつけた名、造り主によって定められたアイデンティティを、新しくい生きる事が大切である。

アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。
奴隷女ハガルからイシュマエルが生まれ、もう13年もの間、神は沈黙されていたのだから、イシュマエルがこれから祝福されていくのだろう、と、彼は暗黙的に思っていたであろうが、なんと、不妊の女で89歳の、生理も止まってしまったサライが、これから子供を産み、国々の母となり、諸族の王たちが出る、というのだ。
神は明確に言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)

不妊で子を産まないまま89歳になってしまった女に、もはや産む望みは持てない、と、人は思う。
しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう。それ程、全能なるお方である。

アブラハムは最初聞いて信じきれず、笑ってしまったが、神が明確にサラを通して子が生まれる事を信じた。

『彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。』(ローマ4:18-21)

アブラハムは信じた証拠として、信仰に裏打ちされた行いを実行した。
「アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。」(創世記17:23)
アブラハムの家には、奴隷や使用人も含め、少なくとも300人以上の男性がいたが、約束が与えられたその日の内に、自分も含めた男性全員の包皮を切り取ったのである。
神様の約束は確かであるという確信が無くて、どうしてそんな突拍子もない事を、実行できただろう。

『だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。』(ローマ4:22)

アブラハムの導かれ方は、75歳で呼び出されて以来、主から道が示され、示された通りに実行して、さらに具体的に次の道が示されて、という事の繰り返しであった。
呼び出された当初、おぼろげだった祝福も、今やかなり具体的になった。
私達の信仰のあゆみも、それと全く同じである。

神様から示された道を、信仰の行いをもって応え、さらにステップアップした祝福を勝ち取りつつ、信仰のあゆみを続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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