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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:全てを持つ者(創世記33:1-11):右クリックで保存

いよいよ兄エサウとの対面の時が来た。
エサウと供の者四百人が遠くに見える内に、ヤコブは妻子達を後に、自分は先頭に立って、相対した。
彼は腿の関節を外され、びっこを引いている。逃げも隠れもできない。

ヤコブは兄に近づくまでに、七回、地におじぎをした。
七回おじぎをする行為は王を迎える時の礼儀であるが、彼は、エサウにしてきた事の手前、七度礼をしたのかもしれない。

『するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。』(創世記33:4)

エサウは、ヤコブが心配していた「殺意に満ちたエサウ」ではなく、「善意と親しさに満ちたエサウ」だった。
エサウのような生殺与奪の権を持つ者の心を、主は、柔らかにもすれば、かたくなにもする事も出来る。
祈りによって圧政者の心を変えた例は、ダニエルの時代にも、エステルの時代にもあったし、出エジプトの時代は逆に、さらに頑なにする事によって、主の栄光を表した。
神の民は、そうして祈りによって守られて来たのだ。

エサウの心から、いつ、殺意が無くなったのだろうか?
エサウの住むエドムからヤボクまでは160km以上はあり、その距離を400人も引き連れてスピーディに移動したからには軍事力で滅ぼす意図を持っていた事を思わせるが、もしかしたら単純に、善意から歓迎したい気持ちで、大勢で急いで来ただけなのかもしれない。
真相はどうあれ、たといエサウが直前まで殺意に燃えていたとしても、主は一瞬にして善意に満ちたエサウへと導く事も出来るお方であり、私達の時代においても、主はそのような事がおできになる方である。

ヤコブの心配は、無駄だったのだろうか?
決してそうではない。
ヤコブが恐れたお蔭で彼は真剣に神と相対するようになり、結果的に、ますます神と親密になり、新しい名前も与えられ、もはや自分の力に頼らず神に頼るようになった。

いずれにせよ主は、ヤコブを御心に沿った形へと導き、全てを最善へと導かれたわけである。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:28-29)

エサウはヤコブの贈り物に「私はたくさん持っている」と辞退する。
『ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。』(10節)
彼がエサウに「神の顔のようだ」と言ったのは、決しておだてた訳ではない。
ヤコブにとって、エサウの善意と親しさに満ちた様そのものが、まさに、神の御業そのものだったのである。

『どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。』(11節)
ヤコブは元々、それらの品を「祝いの品」として持ってきたのではなく、何とかエサウをなだめるためにであった。
しかし主の御業によって、それらはいつのまにか、祝いの品となっていた。
神は、恐れに満ちた品を、祝いの品へと変え、涙の谷も、泉の沸くところとされる。(詩篇84:6)

また日本語の訳では「私はたくさん持っていますから」と訳されているが、この「たくさん(kol)」は、「全て」とも訳せる。
エサウが9節で言った「わたしはじゅうぶんもっている」は、単なる物を持っている事の意味だが、ヤコブが言った言葉はそれとは違い「全て」を持っている、という意味だ。

全能なるお方のものとされたという事、それはすなわち、全てを持った、という事である。
「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(1コリント3:21-23)
私達もキリストにあって、全てを持っている。
私達は一体、その事の意味を、どれほど理解しているだろうか。

「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32):右クリックで保存

ヤコブは、殺意を持つ兄・エサウとの再会に備え、持ち物を二手に分けてリスク分散し、主に祈り、至れり尽くせりの贈り物の手はずも整えて備えたが、なお、心配と思い煩いで頭がいっぱいだった。
『彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。』(創世記32:22-23)

ヤコブは20年前、故郷を出てラバンの所へ逃げる時は、杖一本しか持っていなかったのに、今や彼は、二人の妻に二人の女奴隷、11人の息子、多くの家畜や奴隷を所有している。
しかし、これから会おうとする兄の機嫌いかんでは、愛する妻も、大切な子も、財産も、自分のいのちも、全て失ってしまいかねない。
ヤコブは、変える事の出来ない過去や、消しようのない兄の憎悪、逃れようのない未来に、そして、どうしようもない自分に憂い、ついに、たった一人で主の御前に出たのだ。

私達も、罪ある人間である以上、変えたくても変えられない過去のあの事この事、自分の愚かさの故に誰かから受けてしまう憎悪の一つや二つは、あるかもしれない。
そして、自分がしてきた事・しなかった事の刈り取りが待ち受ける逃れようのない未来におののき、そのようにしてしまった、どうしようもない自分を苛む事もある。
そのような時は、ヤコブのように、ただ一人、主の御前に出るべきである。

『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と「組打ち(アバック:レスリング、相撲)」した。』(創世記32:24)

彼はひとりの人と、すなわち、主ご自身と、実際に、相撲を取ったのである。
抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘である。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ヤボクの川のせせらぎと共に、二人の男たちが組打つ音、格闘の叫び声や息づかいが、夜明けまで響きわたっていたのだ。
その格闘は、ヤコブの命運を賭けた、力を尽くした祈りでもあった。

「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(25節)
ももの関節が外れるのは、かなりの激痛であろう。
観客がいたとすれば、もはや勝負あった、と見る所だろうが、それでもなおヤコブは、彼をつかんで離さなかった。
もはや取っ組み合いと言えるようなものではなく、ただ、その人に全てを委ね、おぶさっているだけのような格好であったろう。

夜は明けようとしており、ただ、川のせせらぎだけが響いている。
『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。』(26-27節)

彼は名を尋ねられた時、兄エサウのかかとを掴んだ事、また兄だけでなく、色々なものを掴んで来た事を思い出したろう。
そして今、祝福をして下さるべきお方をつかみ、握り締めている。

ヤコブは、母の胎から出る時は兄のかかとを掴んで離さず、ヤコブという名が与えられた。
そして、人生を終える時は、杖の先を掴んで、礼拝しつつ息を引き取った。(ヘブル11:21)
つかむ事こそ彼の生き様であったが、そんなヤコブの名に、彼は終わりを告げさせ、新しい名を与える。

『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節)
イスラエルという名、聖書でここに初登場である。
この名前には「神と戦う」「神が支配する」という意味がある。

ヤコブは格闘の果てに、ただ、祝福して下さるお方のみを掴み、もはや祝福して下さるお方に寄りかかるしか無いこの状況で、新しい名前「イスラエル」が与えられた。
もはや、長兄のかかとを、すなわち、人間的な祝福を追いかけ、掴みとるような、以前の人生には、終わりを告げられた。
祝福そのものなるお方と取っ組み合い、勝利し、神の支配の内を歩む人生へと、造り変えられたのだ。

ヤコブはももを打たれ、力を奪われ、もはや自分の力では立行けず、ただ神の憐れみによりすがって生きるしか無い。
これから兄と会うのに、大丈夫なのだろうか?
大丈夫なのである!
なぜなら、人が弱い時にこそ、主が強いのだから。

『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

自分の力に頼らず、ただ主の力に頼って生きる。
それこそ「イスラエル」の由来であり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティなのだ。

神にどうしてもしていただきたい事はあるだろうか。理不尽な世の中に憤りを覚えているだろうか。神に対して納得できない思いがあるだろうか。
もしそうなら、ヤコブのように、ヨブのように、ハンナのように、エリヤのように、スロ・フェニキヤの女のように、主の御前にただ一人で出て、なりふり構わず、格闘の祈りをする時である。
思う存分組み合い、そして、ただその御方を掴み、全てを委ねておぶさるまでに力を出し切る時、その御方から答えと、祝福と、新しい名前、新しい生き方が、示されるのである。

主は、天高くふんぞり返って、人間からかけ離れたお方ではなく、人と「関係する事」を求めておられる。
主は全宇宙を造られた偉大なお方であるのに、人として降りて来られ、私達と格闘できる程にまで小さくなられ、相撲を取る程にまで生々しく関わて下さった。

祝福は、ただ口を開けて祝福が落ちてくるのを待つ者に降ってくるものではなく、激しく責め立てる者によって、奪い取られている。(マタイ11:12)
私達も、ヤコブのように、祈りにおいて相撲を取る程の気概も持つなら、新しい名前が与えられ、祝福が与えられ、新しい人生が与えられる時が近い。

礼拝説教メッセージ音声:聞かれる祈り(創世記32:6-21):右クリックで保存

ヤコブは御使い達が現れた事に力を得、エサウの所に使者を遣わしてみた。
エサウの自分への殺意は時間が薄めてくれていた事を願っていたが、エサウはなんと、四百人を率いて迎えに来るという。(創世記32:6)
ヤコブは元々、穏やかな人で天幕に住んでいたのに対し、エサウは野の人で巧みな狩猟者である。
そのエサウが鍛え上げた四百人に襲われてしまっては、ひとたまりもない。

私達も人生で、強大なエサウが立ちはだかる時があり、そのような時は非常に恐れ、あの手この手を尽くしてもがく。
ヤコブはその時、どうしたか。

彼が真っ先にした事は、持ち物の群れを二つに分散した事だった。
たとえ一方の群れが襲われても、その間に他方の群れが逃げ延びるためである。
しかしそれは「もしも襲われたら」という、消極的な対処方法である。

どこにリスクがあるか分からない現代では、資産を債権や株、不動産などに分散投資してリスク分散するのは常套手段だが、ヤコブはその先駆けをしたわけである。
しかし所詮、人間の考え出すリスク管理には、限界があるのだ。
事実、資産を債権や株、不動産などに分散投資したほうが良い、という世の風潮に流されて、その通りにした者の多くは、2008年に痛い目に遭ってしまった。
この世の風潮を支配しているのは、サタンであり、サタンは人を駆り立て、心を縛り、絶望へと導いて行く。

ヤコブは、ただ自分の思いついた方法に頼るだけでは、心細かった。
そこで彼が次に行ったのは「主に祈る」事だった。
私達キリスト者にとって最大のセキュリティ確保は、主の御翼の陰に飛び込む事であり、あらゆる災いから最も確実に守りを得る方法は、全能者に祈る事に尽きる。
9節からヤコブの祈りが始まるが、彼の祈りの順番や内容から、私達は多くの事を学ぶ事ができる。

彼は真っ先に、主はどういうお方であるのか、という告白をし、主が与えて下さった御言葉の約束を、主に思い起こさせている。(9節)
人が祈る時は、何かと、真っ先に自分の願いで始まり、自分の願いで終わる事が多いが、彼が真っ先に持ってきたのは、自分がどういう願いを持っているかではなく、主がどういうお方であるか、という告白だった。

あやふやな自分の主張など、何時間並べても、あやふやそのものだ。
しかし、決して変わることのない主が約束して下さった御言葉を、祈りの中に持ち込むなら、その祈りはもはや、あやふやなものはなくなり、確かな保証を伴うものとなる。

続いて彼は、自分は主の御前には足りない物である事、今与えられている全ては主が与え祝福して下さったものである事を、告白し(10節)、そうしてから初めて、彼は自分の願いを申し述べ、自分が恐れている事を、正直に告白した。(11節)

祈りは全て、正直なものこそ聞かれる。
取り繕いなど一切、必要ない。
なぜなら主は、全てをご存知であり「こんな願いを申し立てたら怒られるだろう、だからそれは出さずに、こっちの願いを祈ろう」などといった、取り繕いの些細な機微さえ全部、主はご存知なのだから。

ヤコブは祈りの最後もまた、御言葉で閉じている。「あなたは・・・と言われました」と。(12節)
主は真実なお方であるが故に、約束を破る事は出来ない。
それだから、祈りにおいて御言葉を盾に取るなら、その祈りは、決して揺るがぬものとなるのだ。

ヤコブの祈りは、ヨシャパテ王が祈った祈りにも、非常に良く似ている。(2歴代誌20:5-12)
ヨシャパテ王も、敵が攻めてくる報告を受けた時は非常に恐れ、真っ先に主に頼り、全国に断食を布告して祈った。

彼も、祈りの最初に、主がどういうお方であるか、どれほど力強いお方かを真っ先に宣言し(同6節)、次に、主がアブラハムの時代からソロモンの時代まで、どのような約束をされたか、御言葉を盾に取った祈りをした。(同7-9節)
続いて彼は、主に命じられた通りにイスラエルが行った結果どうなり、そして現状はどうなってしまったのかを訴え(同10-11節)、最後に、自分の願いを申し述べている。(12節)
その祈りの結果、ヨシャパテ王とイスラエルの軍勢は、剣や弓を一切用いる事無く、大勝利し、分捕りに3日かかるほど多くを得た。

私達の身勝手な願いを、何時間もだらだら繰り返すような、法則を外した「祈りもどき」を、主は聞かれない。
御言葉を盾に取った、へりくだる者の祈りをこそ、聞かれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:マハナイム - 二つの陣営(創世記32:1-5):右クリックで保存

ラバンと無事決別できたヤコブだが、彼には乗り越えるべきもう一つの関門があった。
それは、彼に殺意を抱いていた、兄エサウである。
道々彼は、エサウはまだ殺意を抱いているだろうか、どのようにして父の家へ帰って平和に過ごせるだろうか、と、心配していた。

そんな彼の前に、御使い達が現れた。
『ヤコブは彼らを見て、「これは神の陣営です」と言って、その所の名をマハナイムと名づけた。』(創世記32:2)

マハナイムという名は、マハネ(陣営)の双数形で「二つの陣営」をあらわす。
ヤコブが導いてきた「自分の陣営」の前に、「御使い達の陣営」も現れ、主が、天の軍勢によって自分達の行く道を守って下さる事を示され、ヤコブは喜んだ。
雅歌書6:13に出てくる「マハナイムの舞」は、ヤコブが天の陣営にも守られている事を喜んだように、自分達も主に守られている事を喜び、御使い達のように美しく優雅に舞う踊りであると言われている。

私達キリスト者は、救いを受け継ぐ事が約束された者達で、御使いたちが仕えている。
「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル1:14)
主イエスの名にあって礼拝し、賛美する一陣の集まりには、御使い達も共に集まり、地においてと天においての、二つの陣営があるのである。

イエス様が生まれた時にも、夜番をしていた羊飼い達に、天の軍勢が現れ、彼らに喜びの良き知らせが告げられた。

『御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(ルカ2:8-14)

羊飼い達は当時、住民登録にも呼ばれない程、卑しく、貧しい、どうでも良い人達だったが、御使い達が軍勢を従えて現れたのは、そんな彼らの所にであった。
主は、不安と恐れの暗闇の下で震えている私達に、天の軍勢をもって現れ、救いの良き知らせを、もたらして下さるのだ。

ダビデもまた、アビメレクの前で狂った様を装って追い出されてしまった、恥ずかしさと屈辱の極みの時に、詩篇34篇を書いた。
『主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。 』(詩篇34:7-9)

これはとても、気違いを装って追い出された者が、その時書いたとは思えない程の、素晴らしい信仰告白である。
主は確かに、弱く惨めでありながらも、主を呼び求める者に御使いを遣わし、陣を張り、守って下さるのだ。
事実、ダビデの信仰どおり、彼は確かにあらゆる災いから守られ、やがてダビデの敵は滅ぼされ、彼はイスラエル歴史上で最も偉大な王となった。

御使いの陣営が現れたヤコブ、ダビデ、羊飼い達、この三者に共通している事がある。
それは、三者とも羊飼いであり、しかも、弱く頼りない羊飼いであった事。

私達も、イエスの愛された羊である兄弟姉妹の面倒を見、養うのであれば、私達も羊飼いである。
羊飼いは何も、10匹や100匹面倒見なくてはならない訳ではない。面倒を見るのが、たとえ一匹であっても、立派な羊飼いである。
皆さんの周りに、イエス様の愛された羊が一匹でもおり、その羊がが迷い出たり、弱っていたりした時、探し出してイエス様の下に連れてきたり、助けてあげたりしたのなら、あなたは立派な羊飼いである。

そして、羊飼いたる資格は「イエス様を愛します」という告白である。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。』(ヨハネ 21:17)

主イエス様は、ご自身を愛していると告白する者に、飼うべき羊を任せられ、そして、羊飼い自信が弱く惨めな心になってしまった時には、天の軍勢を送って下さり、救いのおとずれを知らせに来て下さるのである。
しっかりイエス様を愛し、イエス様の羊を飼っているのであれば、恐れることは無い。
たとい地上の軍勢は弱くとも、第二の陣営、天の軍勢が共におり、味方して下さるからである。

礼拝説教メッセージ音声:「言ったもん勝ち」への対処方法(創世記31:43-55):右クリックで保存

ラバンの顔を見るのもいよいよ今回で最後だが、ラバンは最後に、身勝手な所有権を主張する。
『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、きょうわたしは何をすることができましょうか。』(創世記31:43)

彼が主張した所有権は、根拠の無い偽りであるが、そのような主張は看過して良いものではない。
例えば、ある人が自分のものではない土地に勝手に居座り続け、それに対して、本来の所有者が何の文句もつけずに、何年か経ってしまうと、既成事実化してしまって、その土地の所有権は、勝手に居座った者へと、移ってしまう。

サタンが奪うやり口も全く一緒で、身勝手に偽りの所有権を主張し、その勢い飲まれたり、無抵抗だったりしていると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
偽りの所有権に対しては、「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
少しでも侵入を許すと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのはより困難になって来るからだ。

サタンが仕掛ける、偽りの所有権への対処方法は、力や議論で勝つ事ではない。
御言葉の真理を突きつける事である。
その実践方法は、イエス様から見習うことができる。

『それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。』(ルカ4:5-7)

悪魔はイエス様にさえ、世界の権威も栄華も自分のものだと主張し、ひざまずくならあなたにあげよう、と、持ちかけた。
確かにこの世は、悪しき者の支配下にあり(1ヨハネ5:19)、悪魔は自分にひざまずく者達に、権威や栄華を与える「分」はある。
それに対し、主は、どう対処されただろうか。

『イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」』(同4:8)
ただ、御言葉には○○と書いてある、とだけ口から発し、たったそれだけでサタンは、もはやその議論ができなくなってしまった。

人は何かと、議論や力技で対抗しようとする。
「サタンよ、それは違う、嘘だ。人も地球もお前が創ったのか?違うだろう。元々父なる神様が創ったもので、お前のではない。」などと、議論で返したくなるが、私達はむしろ、サタンと同じ論壇に乗ってはならない。
エバはまんまとサタンとの話し合いの場に乗ってしまい、まんまと罠にはまってしまった。

サタンと対抗できる唯一の手段。
それはただ、「御言葉の剣を差し出す事」に尽きる。

ヤコブも、ラバンの横柄ともいえる「自分のものだ」という主張に、議論で返さず、真理に基づいて対処している。
彼はラバンに対し、まず、石の柱によって境界線を引いた。

『ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼らは石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をした。ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。』(創世記31:46)

エガル・サハドタはカルデア語、ガルエドはヘブライ語で、共に「証拠の塚」という意味である。
ラバンは、ヤコブが立てた石の塚にさえ、身勝手に自分の国の言葉で名前をつけたが、ヤコブはすかさず、自分の言葉で名付けた。

サタンも、私達に身勝手なサタン王国の名前をつけるかもしれない。「おまえは、みじめだ。」と。
そのような時、私達神の国の者は、すかさず、自国語すなわち神の国の言葉で、正しいアイデンティティを上塗りするべきである。
「私はキリストによって、神の子とされた」と。

『そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。』(創世記31:49)

ヤコブはまた、ミツパという名前もつけた。
ミツパは後のサムエルの時代、ペリシテの圧政のためにイスラエルが集まって主の御前に心を注ぎ、断食して祈った所である。
ペリシテは攻めて来たが、主ご自身がさばいてくださり、ペリシテは打ち負かされ、その記念に「エベンエゼル(守りの岩)」が建った所である。
私達にとって守りの岩は、イエス・キリストである。
私達が、サタンとの間にこの守りの岩であるイエス・キリストを置くなら、サタンは打ち負かされ、そこを乗り超えてくることはできない。

ラバンは51節でも、しつこく「私が立てた石塚」と主張する。
ヤコブはそれは言わせておくが、53節のラバンの言葉は、看過していない。
『どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った。』(創世記31:53)

ラバンが誓ったのは、アブラハムの神、ナホルの神、先祖達の神によって、である。
それに同意しても問題無い、と思われた方は、罠にかかっている。
アブラハムが74歳以下の時に拝んでいた神は、偶像の神であり、ナホルやその先祖たちが拝んでいた神も、もろ、偶像の神である。
ヤコブはすかさず、「父イサクのかしこむ者」と言って、明瞭に全能なる神を指定し、この御方によって誓った。

私達が祈るべきは、イエス・キリストの名前によってのみであり、この方以外に、救いの名は無い。
もしクリスチャンの中で、訳の分からない神に祈っているようであるなら、明確に、イエス・キリストの名前によって祈らせるべきである。

「あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。」(創世記31:55)
こうしてヤコブは平和に、圧制者ラバンと別れる事が出来た。
それはヤコブがラバンの議論に乗らず、力に頼らず、ただ真理を告白して対処したからである。

『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(1ヨハネ5:18)

礼拝説教メッセージ音声:さばかれた過酷な支配者(創世記31:36-42):右クリックで保存

ヤコブは、自分や妻たちの天幕に次から次へと入り、持ち物を物色しているラバン達に、ついに怒りが爆発した。
怒りのきっかけは、我が物顔で物色したからだったが(36-37節)、そのうち、ラバンから20年間受けてきた不当な扱いに対する責めへと変わって行く。(38-42節)

「この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。」(38節)
20年間、ヤコブが面倒見た家畜に流産が無かったのは奇跡的だが、それは主に祝福されていたからである。
なお、主人に雇われている羊飼いであるなら、遠方まで羊を導いて食料が無くなってしまった場合、特権として、羊の群れの中から食べても良い事になっていたが、ヤコブは、その特権を用いなかった。

パウロはコリントで伝道していた時、御言葉の奉仕者として当然受けるべき報酬を受け取らず、自らの手で働いて収入を得ていた(2コリント12:13)が、同じように、ヤコブもまた、ラバンの所有から羊を食べる事はしなかった。
それは、少しでも主人ラバンに躓きとならないように、という心遣からであろうが、ところがラバンはその尊い思い遣りを踏みにじり、もっとヤコブからふんだくろう、という方向性になって、その良心を利用した。

「野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。」(39節)

そこ、メソポタミアの法律・ハンムラビ法典では、野獣や病気、天災など、羊飼いの過失でない理由で羊が失われた場合、それは羊飼いの責ではなく、所有者の損失であるとされていた。
それなのにラバンは、それらも全て、自分の損失ではなくヤコブの損失とし、弁償するようにさせていたのだ。

「しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。」(40節)
砂漠気候のこの地方は、一日の温度差が非常に大きいため、羊の夜番をする時はかなり辛かっただろう。
そのような所で、眠ることもままならない程の過酷な労働条件を、ラバンは20年もヤコブに強要し続けて来たわけである。
しかも、ヤコブにとって不利になるように、報酬を十度も変えたのである。

「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。」(42節)
まさしく、その通りだったろう。
神が守って下っていなければ、過労死やうつ病になってもおかしくない。

しかし主は、不当な労働条件で働かされている者の叫び声を聞かれる。
「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコブ5:4)
そして、そのような人々の祈りに主は耳を傾け、その劣悪な状態から開放し、乳と蜜の流れる所へと導いて下さる。(出エジプト3:7-12)

「神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」(42節)

過酷な支配者・ラバンは、さばかれたのだ。
同じように、イスラエルを奴隷にし過酷に支配したエジプトもさばかれ、そして、この世の支配者・サタンも、裁かれる。
たとい自分の力や権威、知恵がその者よりも劣っていても、主に拠り頼むのであれば、主が、その者を裁いて下さり、その者に自分の罪深さを認めさせるのである。

『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(ヨハネ16:8-11)

礼拝説教メッセージ音声:ラバンの家からのエクソダス(創世記31:25-35):右クリックで保存

『ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。』(創世記31:26)
ラバンの娘達は、ヤコブに無理やり駆り立てられたのではない。
父ラバンに7年の奉仕でヤコブへ売られ、父からは「よそ者」(姦通の女とも訳せる)と見なされ、売った事で得た富を父は食いつぶしたので、娘達のほうが父に愛想を尽かした、と言うのが、実情である。(15節)

『ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。』(27節)
彼の30章25節から36節までに記されたラバンの前歴を見ると、とてもそうは思えない。

『孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。」』(創世記31:28-29)
武装した身内を大勢連れて来ておいて、別れの口づけ、などと言えるような立場では無い気もするが、主は、ラバンがヤコブにしてきた仕打ちを残らず見ておられた。
だから主は、ヤコブを弁護して下さったのだ。(12節)

ラバンの言動へのヤコブの応えは、「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。」この一言に尽きる。
ラバンの発言の端々から、ヤコブが娘達や家畜のために20年働いてきた事は全く度外視し、娘達や家畜たちは自分のものだと言うような、非常に自己本意な勘違いをしている節がある。
そのようなごうつくばりで、それでいて権威的に上で、強くて対抗できないような者には、主が指揮者となり、盾となって、相対して下さる。

「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」
ラケルが守り神(テラフィム)を盗んでいたなど、つゆ知らなかったヤコブは、言った。
「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」
そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜してみたが、見つからなかった。

ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。
ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも捜したが、守り神の像を見つけることはできなかった。

神はなぜこの時、ラケルの所からテラフィムが見つかるようにされず、敢えて、ラケルの良くない行動が明るみにされないまま、放っておかれたのか。
元々ヤコブは、ラケルが勝手にそんな事をしていたとは知らなかったのだし、もしこの時、ラケルの所からテラフィムが見つけ出されていたら、ラバンの心に大いに嘲る心を興させ、ヤコブにとって大きな災いとなっていただろう。
主はそれを防がれたのだが、しかし、ラケルのこの行動は明らかに主の御心を損なう行動である。

ラケルは、先祖崇拝・子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、彼女は、先祖崇拝・子孫繁栄がらみの災いを、その身に刈り取ってしまう。
彼女に次回子供が生まれた時、彼女自身はそれでいのちを落としてしまい、さらにその後、ラケルの女奴隷ビルハは、レアの長男ルベンによって辱められてしまった。(創世記35章)

キリスト者たるもの、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時は、生来頼りとしていた偶像の神は、捨て去らなくてはならない。

『ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。』(ルツ1:15-16)

ルツは生来住んできた国、生来仕えてきた神を捨て、あくまで、イスラエルの神を自分の神とし、ナオミについて行きイスラエルに入ったからこそ、後にボアズと出会うようにされ、祝福された。

『ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」』(ルツ2:11-12)

ヤコブはラバンから真剣にエクソダスしようとし、それは大成功するが、ラケルはラバンの家からエクソダスし切れていなかったため、途中で葬られてしまった。
以前の国、以前の神を捨て去り、真の神、真の花婿であるキリストに嫁ぐのであれば、復活のいのちが芽生え、新しいいのちを生き、栄光の家系に加えられるのである。
しかし、真の神を知ってその民に加えられたのに、なお、以前の神に仕え偶像を拝むなら、災が下ってしまうのである。

礼拝説教メッセージ音声:主のバックアップの下で(創世記31:17-24):右クリックで保存

ヤコブは意を決し、与えられていた御言葉をいよいよ行動に移した。
「ヤコブは直ちに、子供たちと妻たちをらくだに乗せ、パダン・アラムで得たすべての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方へ向かって出発した。」(創世記31:17-18)

2人の妻と2人の妾、11人の息子たち、また、膨大に増えた家畜たちと使用人たち、奴隷たちも含めた、大移動である。
そのリスクや労力を考えるとかなり大変だったであろうが、何より、ラバンに対する恐れ、エサウに対する恐れなど、この脱出は、彼にとっておそれるべき要素は色々あった。
しかし、彼は御言葉の約束を信じ、実行した。

「そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」(創世記31:19)
この守り神の像「テラフィム」は、厄除けや先祖崇拝のために用いる偶像としての役割の他、家督権を主張できる置物だったのではないかと言われている。
彼女がこの時、これを盗み出した動機は分からないが、この事は後に、彼女自身に災いを招いた。

サウルの娘・ミカルの家にもテラフィムがあった。(1サムエル19章)
ミカルとラケルに共通している事といえば、子を産まない事である。
テラフィムは、異教徒にとって先祖供養や子孫繁栄などにご利益があるかもしれないが、神の民が偶像に望みを置く場合、ご利益どころか、災いが振りかかる。

ミカルは生涯子を産まなかったし、ラケルは後に新しい命を生み出す段に当たり、自分の命を落としてしまう。
まことの神を知る者が、神以外のものに心の拠り所を置く時、災いがもたらされてしまうのだ。

「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。」(創世記31:20)
確かにラバンは俗悪な雇用主だったかもしれないが、曲がりなりにも、20年もお世話になった義理の父親に、何も言わずに出ていってしまうのは、道理に反する事である。
そのようにしてしまったのは、ヤコブの弱さからだったかもしれないが、神は、そうせざるを得なかった彼を憐れみ、物事を根回しして下さる。

ラバンは、ヤコブが逃げた事を三日目に知り、すぐに追いかけ、7日の道のりを追って行った。
すぐに武器を持った手勢を連れて出て、たった7日で追いついたのだから、相当の行動力である。
怒りに燃え、あわよくばヤコブを殺してしまおう、という勢だったのかもしれない。

しかし主は、直接ラバンの夢に現れて、言われた。
「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」(創世記31:24)
アブラハムの妻サラが、ペリシテの王アビメレクに召しいれられてしまった時、夢に現れ、この王を震え上がらせてしまった主である。
ラバンも、相当恐れた事だろう。

こうしてヤコブとラバンとの対話が始まるのだが、それは全て、主の守りの下に行われるのである。

私達は弱さの故、非常識な、道理に反する事も、してしまうかもしれない。
しかし主は、ご自身に拠り頼む者の弱さを憐れみ、徹底して守って下さる。
そして、私達の中に道理に叶っていない性質があるなら、時にはラバンのような者をも用いて、義の道へと修正させ、導いて下さるお方である。

礼拝説教メッセージ音声:決して見捨てない主(創世記31:1-16):右クリックで保存

『ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。』(創世記31:1)
果たして、そうだっただろうか??
30章35節を見ると、むしろ逆で、ヤコブの受け取るべき報酬は、ラバンの息子たちが受け取って遠くに行ってしまっていた事が、記されている。

世の中には、誠実に働いて富を増やした人を妬み、有ること無い事を言いふらして陥れようとする者も多い。
また、過酷な要求をしたり、騙し取ったり、契約をころころ自分の有利なように変える雇い主も多い。
しかし主は、悪者の道に歩まず誠実に働く人をこそ祝福し、そのような所から出して、さらに優れた地へと導いて下さるが、悪者は、風に吹き飛ばされるもみがらのように散らされる。(詩篇1篇)

『主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」』(創世記31:3)

彼は、そのパダン・アラムの地から出て行くにあたり、2つの心配事があった。
ひとつは、自分が仕えている、ずる賢いラバンから、どうやってうまく出て行けるのか。
もう一つは、故郷にいる兄エサウが、今だ殺意を抱いているかどうか。
しかし主は、「わたしはあなたと共にいる。」と勇気づけ、明確に「帰りなさい」と導きを与えられたのだ。

『お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。』(創世記31:8-9)
これは奇跡的な事であるが、主は、いのちを支配する主であり、全てを益として最善へと導いて下さる主である。

たとえ意地悪な雇用主が、過酷で納得行かない事を命令しても、それに従った結果、いのちや財産や地位がそれによって助かったり、以前を上回る報酬が与えられるようになったり、という証は、キリスト者の間でよく聞かれる。
主は、主に信頼し御翼の陰に助けを求めて来る人を守り、祝福して富を増し加えて下さるのだ。

「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。」(創世記31:12)
状況が中々変わらない時、主は見ておられないのでは、自分の事を忘れられているのでは、と、思う時があるかもしれない。
しかし、主は確かに見ておられ、主への叫びをしっかり聞き、時が来ればそこから導き出して下さるのである。

出エジプトの時も、主はエジプトにいるご自分の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の怒号も、労苦している彼らの叫び声も聞き、その痛みを知られたゆえ、主は降ってエジプト人の手から彼らを救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へと、彼らを導き上った。(出エジプト3:7-9)

『わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」』(創世記31:13
ヤコブが故郷を出てきた時は、たった一人で、持ち物といえば杖一本で出て来た。
そのような心細さの極みの時、主はベテルで現れ、天から地に向けてはしご架け、約束して下さった。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)
この御言葉が、ヤコブの信仰の原点である。
そんな彼も、今や、妻たちを得、息子も11人生まれ、多くの家畜の群れや奴隷、らくだ等を持つまでに至り、主はそれに至るまでも約束をずっと果たして来て下さった。

『ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。ラバンは、二人の娘達にも冷たくあしらい、言ってみれば売り渡し、見捨ててしまったようなものだ。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。』(創世記31:14)

彼女たちは、肉親である父親に、売られ、捨てられてしまったようなあしらいを受け、悲しかったであろう。
しかし彼女たちは、決して捨てる事のない、真の父なる神に望みを置くようになり、ヤコブに、神様の言うとおりにして下さい、と勧めた。(16節)

「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩篇27:10)

世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わ た し は あ な た を / わ た し の 手 の ひ ら に 刻 み つ け る。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)

礼拝説教メッセージ音声:水溜に十字架の木を入れよ(創世記30:35-43):右クリックで保存

「ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。」(創世記30:35-36)

この時、ラバンが取り出した家畜たちは、本来、ヤコブに与えるべき報酬であったはずである。(創世記30:32)
それなのにラバンは、ヤコブの手に少しでも自分の資産を「渡すまい」と、息子たちに持って行かせてしまい、ヤコブは仕方なく、その残りの群れを飼っていた。

このように、正直者が馬鹿を見る弱肉強食の世界がパダン・アラムであり、サタンの流儀がはびこるこの世の有様でもある。
ラバンは、このような神の国からはかけ離れた世でうまく渡り合い、それなりの富を築いた、ずる賢い者であった。
果たしてヤコブは、そんな世界で栄え、富を増し加えて行けたのだろうか? 行けたのである!
果たしてキリスト者は、こんな世界で栄え、富を増し加えて行けるのだろうか? 行けるのである!
その条件は、全てを超えておられる主・イエスキリストを助けとし、より頼んでいるなら、である。

ヤコブは不利な状況の中で、実に不思議な方法で、家畜を増し加えて行った。
「ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにした」(創世記30:37-38)

この行動で家畜にさかりがつくような科学的根拠は無いし、彼の取った行動には、果たしてどのような意味があるのか、についても、色々な異論が別れる。
しかし結論から言える事は、彼がそのようにしたら家畜にはさかりがついて、彼の持ち物は祝福され、増えて行った、という事である。

論理や科学で証明されない事を、人は疑うものだが、主がなさる事と、主の祝福は、人間の論理や科学を超えている。
もしあなたが、論理や科学を超えた祝福を求めるのなら、まず、論理や科学の裏付け無しには納得しない自分、納得しないと動かない自分を、主に取り扱ってもらわなくてはならない。

モーセの時代、エジプトを出た民は、三日間荒野を歩いても水を得ることができず、ようやく見つけた泉の水は、苦かった。
そのままでは大勢の人達が渇いて死んでしまう。そのような時、神はモーセに一本の木を示され、その木を水に投げ入れると、その水は甘くなった。(出エジプト記15:22-25)
その一本の木とは、イエス・キリストの十字架の型である。

ヤコブもモーセも、いのちをつなぐために必要な水溜、水の源に、木を入れた結果、その水は、いのちがあふれるようになり、苦かった水は甘くされた。
ヤコブは当初、僅かな元手しか無く、実に不利な条件でのスタートであったが、後には、ヤコブの資産はますます祝福され、ラバンの資産は先細りになっていった。
ずる賢い世の権力者の、不当な圧迫に対抗し、勝利するコツは、十字架である。
私達キリスト者も、最初はぶんどられているようでも、十字架に望みを置いている限り、世から、サタンから多くを分捕り、持ちもいのちも、ますます増えていくのである。

私達にとって、いのちをつないでいる水溜とは何だろうか?
そこは、いのちを生み出さないままだろうか。苦々しさを放っているだろうか。
主は、行き詰まってどうしようもなく渇きを覚える私達に、一本の木、すなわち、十字架を示される。
十字架をそこに投げ込むなら、いのちを生み出すようになり、苦さは甘さへと変えられるのである。

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