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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:全能の神 エル・シャダイ(創世記17:1-8):右クリックで保存

前回の時点から13年が過ぎ、アブラムは99歳になった。
アブラムが75歳で召されて10年、神と共に歩み、実に様々な体験をして来た記録が、創世記12章から16章の間に記されているが、この16章の最後から17章1節まで間、一切の記録が無い空白の13年がある。

『アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」』(創世記17:1)
アブラムは前回、肉の力でイシュマエルを産んでしまい、それ以来、神は13年も沈黙されたが、いよいよアブラムの肉体が死んだも同然の99歳になった時、神は「全能の神(エル・シャダイ)」という名で現れた。

「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われたが、人間はアブラムのように間違いを犯すし、罪を犯す。
人はとうてい完全になる事は出来ず、その事は神も当然ご存知であるが、ここで重要な事は、「あなたはわたしに従って歩み」なさい、という事である。
人は神に従って歩んでこそ、神の目に全き者となって行くのである。

ダビデは言っている。
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、”私は全き者となり”、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」(詩篇19:13)

私達が気をつけるべきは、傲慢の罪に陥らぬよう神に依り頼みつつ生きる事である。
アブラムはかつて、神の言葉を超える傲慢の罪を犯し、失敗をした。アダムやエバの失敗もまた同じである。
神の御前に全き者になるとは、罪も間違いも無い完全な者となる事ではない。それは不可能である。むしろ、神の御前にへりくだり、神に従って歩む事によって、全き者へと、造り替えられていくのである。

アブラム99歳、サライ89歳。もはや人間的に子を生むことは絶望的になった時、神は新しい事を命じられ、約束された。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」(創世記17:5-6)
アブラムという名は単に「父」という意味だが、もはやその名は捨て今度はアブラハムすなわち「多くの父」という名を名乗るように、という事である。

これから子を産み「多くの父」となる、という約束は、99歳の者に対しては余りに手遅れ、絶望的な約束かもしれないが、神は「全能の神」である。
単に多くの子が生まれるばかりでなく、子達の中からは王たちが生まれる、というのである。
そして事実、後の歴史を見ると、その通りになった事がわかる。

神の言われる事は、その時には人の目に絶望的、不可能に見えるかもしれないが、神に不可能は無い。
むしろ、人の目には絶望的に見え、もはやあきらめるしか無いような時にこそ、神は「全能の神」として現れて下さり、全てを成して下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16):右クリックで保存

アブラムの子を宿しているハガルは、サライにいじめられ、逃げた。
もはやサライにとって、ハガルは憎むべき相手、いなくなって欲しい相手となってしまったが、アブラムはまさかここまで発展するとは思っていなかっただろう。

ハガルは、シュルへの道にある泉のほとりで、主の使いに声をかけられた。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いはハガルに、彼女の本来の立場である「サライの女奴隷ハガル」と呼んだのに対し、彼女は「”女主人サライ”のもとから逃げているところです」と答えた。

彼女は「自分はアブラムの子を宿した」「アブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張せず、”女主人サライ”と言って、自分の正しい立ち位置を答えた。
もし彼女が、自分のよかれを主張していたら、どうなっていたか? それは創世記3章、4章でアダム、エバ、カインが主張した結果を見れば、大体想像できる。

そこで主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言い、本来あるべき姿、あるべき所へと帰るよう諭し、そればかりでなく、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束さえ与えられた。

仕えるべき方は誰か、立つべき立ち位置はどこか、為すべきことは何かを正しく見極め、受け入れ、それを告白するなら、祝福をいただく事ができる。
私達も、自分のよかれを主張せず、自分が主イエスの下僕であり、妻である立ち位置を告白するなら、主は、主人として保護して下さり、養って下さる。

主は、生まれて来るる子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう、命じられ、ハガルは主を「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼び、そこにある井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ(生きて、見ておられるお方の井戸)」と呼んだ。
主は生きて、見ておられ聞いて下さるお方であると信仰告白したのだ。

ハガルが一人、身重の身で荒野の道を逃げている時、とてつもなく心細く、やるせなかったろう。
しかし主は憐れみ深く、彼女の元に現れ、彼女は、主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方であると、信仰によって知ったのだ。

彼女が戻るのには勇気が要ったであろうが、荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
その時、この荒野での出来事を、アブラムとサライに報告しただろう。
そして夫婦ともども「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞いて、自分の身勝手さに恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きているお方、見ておられ、聞いておられるお方だと、ハガルを通して教えられたのだ。

イシュマエルは野生のろばのようになる、と主は言われた。
この時生まれたイシュマエルは、アラブ民族の父祖だと言われており、アラブ民族とイスラエル民族がたどってきた歴史を見るに、その通りになっている。
しかし、歴史とは、神の側の提示に人がどう受け答えたかによって織りなされているものであり、今日あるまでに争いが激化してしまったのは、人の側が神の御言葉に不従順を積み重ねて来たからである。
イシュマエルの子孫の中にも、命の危険を賭してまでキリストを信じる信仰を守り通している立派な兄弟姉妹がいるように、私達自身も、野生のロバのような暴れる罪の性質をとりこにしてキリストに服従させるなら、聖霊により、要塞をも打ち破るいのちの力が発揮され、ますます神の子とされて行くのである。(2コリント10:4-6)

礼拝説教メッセージ音声:苦々しさがはびこる原因(創世記16:1-6):右クリックで保存

アブラムは再び失敗する。
前回の失敗は、ききんで食料が無い事に焦って神に頼る事無く独断でエジプトへ行ってしまったことだったが、今回は、サライが子が中々与えられない事に焦り、独断で解決方法を考案し、それをアブラムに勧め、アブラムは神に聞かず、妻の声にそのまま聞きしたがってしまった事だ。

彼女の考案した解決法とは、自分の女奴隷が代わりとなって、自分の子の代わりを得よう、というものである。
当時、そのように女奴隷を通して代理で子を産んでもらう風習があり、サライは、神の約束で未だ成就されていない分を、世で行われている風習に則って果たそうと考えたわけである。

頼るべき主に頼らず、信頼すべき御言葉に自分なりの解釈を施して身勝手に行動してしまうと、必ず、苦々しい結果がつきまとう。

サライは「たぶん」それで自分は子を得られるだろう、と軽く考えていただけで、もし実際にハガルが身ごもったら、どんな自分がみじめになるかまでは考えていなかったのだろう。
サライは、世の解決法によって行動してしまった結果、世の価値基準から、世そのものから嘲られ、見下げられてしまった。
彼女は、女として子を宿す力においても、若さ、美しさにおいても、多くの点でハガルに劣っている自分が浮き彫りにされ、惨めになった。

自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)を見事に結んでしまったわけである。

ハガルは自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。(4節)
御言葉を身勝手に解釈し、肉にの方法に頼るなら、やがて、それによって見下げられ、嘲られるのである。

例えば、たばこを吸ってはならないとは聖書には無いが、だからと言ってイライラする都度それに頼っていたら、後には、そのたばこによって嘲られ、たばこによって支配されるようになってしまう。
たばこに限らず、身勝手な御言葉解釈や自分で考案した方法によって、自分の必要を満たそうとするなら、必ず苦い結果がついて回る。

『サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。。。』(5節)
自分で考案し勧めておきながらその言葉は無い、と思うかもしれないが、確かに、アブラムにも責任がある。

妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきた場合、夫たるアブラムが、御言葉を根拠に、妻をたしなめなくてはならない。
エバの時も、御言葉に反した事を薦めてきたのであれば、御言葉に基づいてたしなめるべきであったが、アダムはそうせず、妻の声に聞きしたがって、自分の一家だけでなく人類全体に呪いを招いてしまった。
世のならわしや妻の考案した方法に安易に飛びつくのではなく、祈りつつ忍耐して待つべきであった。

『アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。』

アブラムにとって、せっかく自分の子を身篭ったハガルにそのように決断を下すのは辛かっただろう。
アブラムが受胎を聞いた時は喜びだったかもしれないが、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間である。
結局、3人ともども、苦々しい思いをする事になってしまった。

私達が学ぶべきは、身勝手に御言葉を解釈して行動するべきでない事、もしそのように肉にしたがって行動するなら、束の間の幸いは得ても、苦々しさがはびこり、その行動の生成物によって、嘲られてしまう、という事である。

忍耐して御言葉に信頼し、いつでも主に祈って求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:闇を通り過ぎる炉と松明(創世記15:7-21):右クリックで保存

『その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』(18節)
イスラエル民族が、エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの広大な土地を所有した歴史は、今に至るまで、無い。
この約束は今もまだ、成就へと向かっている真っ最中という事である。

アブラムは、出生の地・ユーフラテスの地から、エジプトに至るまで足で踏み歩いた。
神はかつて「その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(13:17)と言われた通り、彼が踏み入った土地すべてを、彼と彼の子孫のものとするわけである。

アブラムは主に、この土地を継げるという事を、何によって知ることができましょうか、と尋ねた所、主は「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」と言われた。
アブラムは言われたとおりの動物を用意し、神が何かをなされるのを待ったが、待っていてまず来たのは、禿鷹だった。(創世記15:8-11)

神が「用意せよ」と言われたものを用意すれば、すぐに何かが示されるわけではない。
主に示された捧げものを用意して主を待ち望む時、汚れた者がその尊いものを狙って来る事は、大いにありうる事で、その時、私達もそれを追い払わなくてはならない。

『日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。』(12-14節)

神の民であれば何の苦労もなくそのまま自動的に約束の地へと入れる訳ではなく、必ず試練の時、暗黒の時を通らされる。
「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(16節)
約束の地は、悪しき者の支配下にあり、その悪しき者達の悪が、神の秤の目分を満たすまで、裁きは執行されないからである。

ノアの時代やアブラハムの時代と同じように、この世の悪も、極みに満ちるまでは裁きは為されない。
神は義なるお方で、人が何も悪い事をしない内に「お前は悪しき者だ」と言って裁くことはせず、中々裁きが実行されない事がある人の目には遅いと感じるかもしれないが、その者達の邪悪さが誰の目にも明らかとされるその時まで、神は裁きはなされない。(黙示6:9-11)

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(17節)

主は、煙を吐く炉と燃える松明という形で現れ、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎる事によって、アブラムとの契約に調印をされた。
詩篇18編によると、立ち上る煙と燃える火による顕現は、神の怒り、さばきのしるしである。
事実、後の時代に、主はエジプトで苦しんでいるアブラハムの子孫達のさけび声を聞き、火と雲を従えて降りてこられ、エジプトをさばき、アブラハムの子孫達を助けられた。

現在、この世は邪悪な者達が好き放題しているが、やがて主イエスは雲に乗って来られ、火によって裁かれ、そうして世は改まり、永遠なる主の支配が来るのである。

礼拝説教メッセージ音声:闇に輝く星々のように(創世記15:1-6):右クリックで保存

主の御言葉は、足のともしびのように近くを照らすだけで、遠い先は見えない。
神の導き方は、次に為すべき事だけが告げられ、人がそれを信じて服従したなら、さらに次の行き先が示され、それを繰り返して行く内に、主が用意されている祝福の全容がより明確に、具体的になっていく。
それ故、御言葉が与えられたら、人の側が応答し服従しないと、いつまで経っても、沈黙の暗闇に閉ざされたままである。

14章にて、アブラムは信仰の試練を見事に克服し、メルキゼデクからの祝福を頂き、ソドムの王の汚れた富を辞退した。
そのため、本日の箇所で神は、アブラムへの祝福の約束を、より具体的に告げられた。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
神はまず、自らを「盾」であると言われた。
神が盾であるからには、神はすぐ前におられ、敵の放つ火矢を全て防ぎ、罵声からも悪意からも、全て守って下さる。

続く日本語は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」だが、原文のニュアンスとは、かなり違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「私があなたの盾、飛び抜けて素晴らしいあなたの報酬である。」と言っておられる。
詩篇15:5でもダビデが言っているように、主ご自身こそ、私達の報いであり、報酬であり、身を守る盾である。

私達が主を信頼したら、その報酬として莫大な富や地所が手に入る、という事ではなく、主ご自身こそが、莫大な富や地所よりはるかに勝る、私達の報酬なのである。

アブラムは答えた。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」

このエリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼は後に、その名前の通りの事をする。
しかし、アブラムの跡取りは、彼のような「助け主」ではなく、彼自身から生まれる「子」である。
神はそのことを示すために、彼を外に連れ出して言われた。

『「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」』(5節)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

ここで使われている「子孫(ゼラ:子、子孫、種)」は単数形であり、そ単数形の「子孫」が、すなわちキリストの事である。(ガラテヤ3:16)
アダムとエバも、ノアの父レメクも、神が預言された人類を救う「子孫」に望みを託した。
アブラムも同じように約束を信じ、彼の子孫・キリストに望みを託したのである。
旧約の偉人たちは、まだキリストは生まれていなくとも、将来生まれて来る人類すべての救い主に望みを託し、義と認められたのだ。

アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、見たことだろう。
都会にいると分からないが、人の作った灯の無い大自然の夜空は、実に暗く、幾万と輝く星々のその輝きは、実に美しい。
暗闇の中に輝くきれいな星、、、大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星がある。

キリストにあって皆さんも、この暗闇の世代の中にあって、キリストのいのちを灯す星として輝いている。
アブラムが空を見上げた時、その星の中に、皆さんも見えたのではないだろうか。

この真っ暗な闇の世界にあって、光の子としてますます輝く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:創世記に現れたキリスト(創世記14:18-24):右クリックで保存

王たちを打ち破ったアブラムの元に、シャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を携えて迎え出に来た。

14章には、戦争に参加した王たちの名前や地名が多く出て来るが、メルキゼデクはその中のどこにも無い名前であり、シャレムはどこにも無い地名である。
他の王たちの名は、ほぼこの章でしか登場しないが、メルキゼデクは、詩篇においてダビデが記し、新約においてもヘブル書の記者が詳細に記している。
突如現れ、いと高き神の祭司としてアブラムを祝福し、アブラムでさえ十分の一を捧げた彼は、いったい何者だろうか。

「アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。」(ヘブル7:2-4)

サレムとは、エルサレムの短縮である。
エルサレムの王であり、いと高き神の祭司としてアブラハムを祝福するお方であり、パンとぶどう酒を提供し、アブラハムでさえ十分の一を捧げたお方。
義の王であり、平和の君であり、父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりも無いお方。。。
それは、キリストでなくて一体誰であろうか。

パンとぶどう酒は、単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。
メルキゼデクはこれを持って「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」(19-20)と言って、アブラムを祝福された。

アブラムに勝利をもたらして下さったのは、いと高き神である。
この神が、敵をアブラムの手に渡して下さったからこそ、勝利したのである。

アブラムは続いて、ソドムの王から「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけられた。
しかし彼は、いと高き神にかけて、辞退した。
彼は以前、エジプトの富を手に入れ、財産として罪の誘惑が家の中に入り、ロトと分裂した苦い思いをしている。
世の富、ことさら、ソドムの王のような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。
それは神の名誉ではなく人の名誉をはびこらせる事になり(23節)、誘惑と分裂をもたらし、心配を増し加え、苦々しさを増し加えるものとなる。

アブラムは、祝福の御言葉を信頼して進み出て勝利した所、パンとぶどう酒を携えたメルキゼデクに出迎えられ、祝福され、アブラムは十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉を信頼して進み出て戦うのであれば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身が祝福をもって迎えて下さるのである。
主が勝利を与えて下さり、祝福を与えて下さったら、私達も十分の一を捧げるのである。

真に人を幸いへと導くものは、不相応な富ではなく、御言葉である。
御言葉に従い、主から御体なるパンと、御血なるぶどう酒をいただき、祝福を受ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:第二の試練 〜 王達の戦争(創世記14:1-17):右クリックで保存

今日の個所を簡単にまとめると、現在で言うイラク周辺諸国の4人の王たちが集結して、現在のイスラエル周辺諸国の5人の王たちに戦いを挑み、勝利して勢いづくが、アブラムの奴隷達の出陣によって4人の王たちは打ち破られ、アブラムは多くの分取りを得た。
ユーフラテス川沿いの王たちが集結してイスラエルを襲うものの、神の軍勢によって滅ぼされてしまう有様は、黙示録の16:12-16、20:7-10と類似性がある。

4人の王たちがソドムを襲った時、ソドムの中に移住していたアブラムの甥のロトも捕らえられ、財産も奪い去られた事が、アブラムに報告された。
アブラムに、2度目の試練が訪れたのである。
前回の試練の時、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれるのを、指を咥えて見ているだけだったが、今回、アブラムは信仰によって奮い立った。

「アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。」(14-16節)

メソポタミヤ方面から各国を打ち破りつつ、各部族を略奪しながら下ってきたのだから、王たちは相当の気勢・軍勢であったろう。
それに対し、わずか318人の訓練を受けたアブラムの家で育ったしもべ達が戦って勝利し、それも、かなりの距離を追跡して、多くの分捕りをしたのである。
これは、人間業ではあり得ない。主が、敵をアブラムの手に渡された(20節)からこそ、勝利したのである。

前回彼は、神の力ではなく自分の力のみを見て失敗したが、今回彼は自分を見る事なく、御言葉を信頼したからこそ、勝利を得たのだ。

アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王たちは呪われている、と信じた事だろう。
神は「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」と言われたからには、自分は戦死するのではなく生きて子孫を残す、と信じた事だろう。
御言葉を信じて進み出た結果、大勝利し、甥のロトと家族を救っただけでなく、おびただしい分捕りものを手に入れ、莫大な富と名声を手に入れた。

ロトは、目に見える自分の良かれに従い、神に不従順な世に妥協してしまったため、世の滅びのとばっちりを受け、後には財産を失い、着の身着のまま、命からがら走って逃げる事になった。
しかし、アブラムは御言葉に従順して、信仰によって進んだため、勝利し、さらに富と名声を増し加えた。
アブラムのように、御言葉を盾にとって信頼して進み、勝利を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ヘブロンへ(創世記13:10-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

故郷を出て異郷の地を放浪していたアブラムにとって、最後の血縁であったロトと別れなくてはならないのは、どれほど心細かった事だろう。
彼らのいたパレスチナ地方は水が貴重であるため、水のある所を所有できるかどうかは、死活問題であった。
にもかかわらず、アブラムはロトに優先的に選択権を与えた。
それは少しでも平和に、快く、この別れが出来るか、という餞(はなむけ)の意味もあったのかもしれない。

「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」(13:10)

ロトが選んだ基準は「目に良い場所」であった。
主の園・エデンにおいて、エバが惑わされた原因は、主の御言葉よりも「目に良い」ものを選んだからである。
主の御言葉よりも、目に良いもの、目に良い場所を選択する時、罠がある。
ロトはソドムの近くまで天幕を張りに行ったが、 「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」(13節)
多少邪悪でも、文明が発達して食べ物に困らない方を選んでしまうのが、生来の人間の習性である。

ロトは自分の目と肉に従って進んで行ったのに対し、アブラムは神様の約束に従った。
彼が住んだカナンの地は、神である主がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束された地である。(12:5-7)

最後の肉親であるロトと別れ、父の家とのつながりが完全になくなった後、神である主は再び現れ、以前より具体的に、より詳細に、約束を告げられた。

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(14,15節)
以前は単に「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」だけだったが、今度はより具体的に、より詳細に、目で見れ、手でさわれ、足で踏み歩ける形で、約束して下さった。

「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(16節)
子孫がどの程度与えられるかも明確にされ、しかも、その数は大地の砂粒のよう、というのである。
子もいないまま70歳を超えた者に、そのような約束が与えられるのは、途方も無いかもしれないが、神は、明らかにそう言われた。

「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(17節)
彼は歩きまわったことだろう、ここも自分のもの、あそこも自分と子孫たちのもの、と、喜び胸踊りながら。
神は、ご自身の御言葉に従順した者には次のステップへと導かれ、約束も、祝福も、より具体的に、よりバージョンアップしていくのである。

「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(18節)
ヘブロンといえば、アブラハム達の墓・マクペラの洞穴が近くにあり、ヨシュアの時代にはエフネの子カレブが相続した地である。

エジプトを出た世代では、ただ二人が信仰によって約束の地を受け継ぐ事ができたが、その内の一人が、カレブである。
彼はそこを手に入れる45年も前、40歳であった彼はその地を歩きまわり、見て、ぜひこの土地を得たいと願った。
主が共におられるなら、そこにはいかに強大な民族がいようとも、問題なく自分のものにできる、と信じていたのに、当時の民の不従順により、それはかなわなかった。
それから45年経ち、85歳になった彼はなお強健で、日々の出入りにも、戦闘にも耐えられた。
そこで彼はヨシュアに、その地を下さい、と願い、彼はついに信仰によってヘブロンを占領した。

ヘブロンは、信仰ある者に相続する事が許されている地である。
皆さんにとってヘブロンはどこだろうか?
恐れず、信仰によってヘブロンを勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:柔和な者が地を相続する(創世記13:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有

アブラムは、彼が失敗する前に純粋な思いで主を礼拝していた場所へと戻り、初心に帰って、改めて主を礼拝した。
皆さんにも、信仰の原点というべき所はあるだろうか。
もし、最初の主との良い関係から離れてしまったなと感じたら、初心に返って、自分の歩みを見つめなおす事も大事である。
アブラムは今回の失敗によって謙虚になり、柔和な者となって、ますます富む者とされた。

「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。」(5節)
物質的に祝福されるにつれ、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起き、その地方のカナン人達と同じようになって行くのをアブラムは憂慮し、身内内で争いが起こるくらいなら、むしろ別れたほうが良い、と判断した。

「アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(8-9節)

本来、目上であるアブラムがロトに「わたしがこちらを選ぶから、あなたはあっちに行きなさい」など指示できるはずであるが、彼は争いを好まず、へりくだり、主導権をロトに譲っている。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。・・・平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:5,9)

この時点では、住むべき土地を選べる主導権を握ったロトのほうが有利であるかのように見えるかもしれないが、結果から見ると、ロトは財産と妻を失い、娘達も夫となるべき男がいないので、父によって子をもうけるに至った。
しかしアブラムは、さらに祝福され、約束の子イサクを得、イスラエル国家の父となり、信仰の父となった。

結局、地を相続する者は、柔和な者、平和な者である。
柔和なスタンス、人に譲るスタンスは、最初はメリットが無いかのように見えても、最終的には、地を受け継ぐのである。
アブラムにならって柔和な者となり、平和を造る者となり、主に祝福され、多くを相続していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:試練と失敗と、神のフォロー(創世記12:10-20):右クリックで保存

今日の個所のあらすじは、まず自分たちの住んでいる所に食糧難が起こったため、エジプトへ行く事を判断し、しかしパロの権威の元、家族を奪われ、束縛されてしまった。
そこに主の介在が入り、主はエジプトに災害を下し、パロは彼らを全ての所有物と共に追い出した。
このエジプト滞在のあらすじは、彼の子孫たちの出エジプトの記事と、非常に良く符合している。

アブラムに最初の信仰の試練が訪れた。それは、ききんである。
「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。」(12:10)
ルツ記において、エリメレク一家はききんの時、安易に異邦の地へパンを求めて出て行ったため家族を失ってしまったように、主が定めた地においてききんが起こった時は、そこに留まり、悔い改めが必要なら悔い改め、主に祈って御手が動かされるのを待つべきである。

アブラムはこの時、エジプトに食料があるのを見て、エジプトへと、歩みを進めてしまった。
ひとたび自分の考えに捕らわれてしまうと、主への信頼は、なし崩し的に崩れてしまう。

「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。」(12節)
彼のこの言葉から、彼は主よりも、エジプト人やパロを恐れている事がわかる。
生きて、産んで、いのちに満ちて行く、という主の祝福の約束は、どこへやら、である。

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」(13節)
さらには妻に、自分は妹だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い目を見る事ができるだろう、と、確信犯的な皮算用さえしている。
主の約束は、サライがパロとの子を生む事などではなく、アブラムとの間の子が増えて、地に満ちていく筈だったのに、その約束も、どこへやらである。

アブラムでさえ、主ではなく人を恐れると、このように狂気に走る。

アブラムが心配して言ったことば通りに、エジプト人はサライの美しいのを見てパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を所有するようになった。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通り成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった事で、平安が乱されていたのではないだろうか。

このように、人間の考えるベストは「最善」にはなれず、どこかに虚しさや苦々しさがついて回るものだ。
しかし主は、そのような人間的な失敗さえも、「最善」へと導く事の出来るお方である。

「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17節)
主の直接介入である。
パロはこの災害の原因は、明確に、アブラムの妻・サライをめとった事にあると知っていた。
パロは恐れ、アブラムに手を下す事なく彼にサライを返し、全ての所有物と共に送り出した。

アブラムは、主ではなく物に溢れるエジプトにたより、主ではなくパロやエジプト人たちを恐れたが、そのエジプトもパロも、最終的にはアブラムのほうを恐れ、その背後におられる主を恐れた。
アブラムは自分を弱々しいと思っていたが、彼は、彼と契約を結ばれた主の故に、エジプト人全体に恐れられた。
私達の信じる主は、万軍の主であり、私達も信仰によるアブラハムの子孫であるからには、彼と同じく、世が、主イエスの故に私達を恐れるのである。

アブラムは、後にも同じ失敗・・・嘘をつく事や、肉的な力に頼る事、人間的なやりくりで押し切ろうとする失敗を繰り返すが、それでも主は、恵みと憐れみによって、彼を信仰の父たる者へと、作り変えて行かれる。

この主に信頼し、主に導かれて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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