• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ラケル - 出産競争の果ての祈り(創世記30:1-24):右クリックで保存

ラケルはヤコブに「子どもをください!さもないと死ぬ!」と迫るのだが、ヤコブに「そこは神の領域だ」と一蹴されてしまい、「それなら私の女奴隷に代理で産んでもらって」と言って、ヤコブは言われるまま、彼女の女奴隷・ビルハを妻に迎え、彼女によってラケルの代理子を産む事になった。
覚えているだろうか。アブラハムの妻サラは、かつて同じ事を行い、一家に災いをもたらしてしまった事を。
ここに、ラケルの短絡的な思考パタンと、彼女の頭の中から神様がすっぽり抜けてしまっている事が分かる。

彼女たちの霊的状態は、子が生まれた時、その口から「神」という言葉が出たか、出ないかによって、よくわかるので、これ以降、その視点に立って見ていきたい。

『そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。』(創世記30:6)
ダンという名前の意味は「さばく」あるいは「かばう」である。
この時、ラケルはかろうじて「神」を意識していたが、2番目の子が生まれると、すぐに彼女の意識から「神」が吹き飛んでしまう。

「そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。」(創世記30:8)
ナフタリの名は、「争う」という意味だが、この時彼女は、神そっちのけで、姉に勝った勝った、と、喜んでいる。
レアもそれを見て闘争心が燃やされたのか、同じ土俵に乗ってしまい、彼女の女奴隷・ジルパをヤコブに妻として与え、子産み競争のバトルを受けて立つ事になる。

『レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。』(創世記30:10)
ガドの名は「幸運」という意味で、この時、彼女も主の御名をすっぽり抜かしてしまっており、その次に生まれてくる子の時も同じだった。
『レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。』(創世記30:12-13)
アシェルの名は「しあわせと思う」の意味がある。
彼女は、いずれの子が生まれた時も、その幸いを喜んでおり、ラケルほどに、競争相手を意識した攻撃的な名はつけていないものの、主の存在を忘れてしまっている。
ここで、一つの出来事が起こる。

『小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。』(創世記30:14-16)

恋なすび(マンドレイク)には、精力増進、媚薬効果、受胎効果があるとされるが、彼女たちの言葉のやりとりからは、ラケルはヤコブと日常的に夫婦の営みが行われているのに、レアとは久しく行われていない事が、伺える。
「もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。」(出エジプト21:10)と、主が定められた程、夫婦の務めは本来重要なものである。
ラケルにはあたかもヤコブと寝る既得権があって、今夜だけ恋なすびと引換に、ヤコブと寝る権利を売ってあげましょう的な、そういう傲慢さを、レアは怒ったのだろう。

「神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもってヤコブとの間に五人目の男の子を産んだ。」(創世記30:17)
「レアの願いを聞き入れられた」という事は、彼女はくやしくて、神に祈ったのだろう。
聖書には、祈る動機がくやしさであったり、憤りであったりするケースは幾つかあるが、動機はどうあれ、神を意識して祈るようになる事は、良い事である。
神はレアの祈りを、聞いて下さった。

『そのときレアは、「わたしが召し使いを夫に与えたので、神はその報酬(サカル)をくださった」と言って、その子をイサカルと名付けた。レアはまた身ごもって、ヤコブとの間に六人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった。今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」と言って、その子をゼブルンと名付けた。』(創世記30:18-20)

イサカルの名は「報酬を与える」という意味がある。
一時期は頭に血が登ってしまい、神を忘れた土俵で戦いを交えた彼女だが、いのちは主のものであり、胎の実は主から与えられる報酬であると、レアは再び思い出した。
また、ゼブルンの名は「尊ぶ」「共に住む」という意味があり、この子を生んだ時にも「神が」贈り物を授けて下さったと認め、神に祈る事を身につけた彼女は、さらに娘ディナを生んだ。

そしてラケルも、やっと主に願い祈った結果、彼女にも念願の男の子が与えられた。
『神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った。彼女は、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。』(創世記30:22-24)
ここに来て初めて、彼女の口から「主」の御名がやっと出てきた。
主の御名を呼ぶことが、私達に出来る最も良き事であり、争いなどせずとも、望むものが与えられる近道である。

以上が、イスラエル12部族の族長の、11人が誕生した次第である。
それはまさに姉妹の熾烈な出産競争であったが、そのような、人の目からは醜く見える争いさえ、主は益として用い、アブラハム以来の子孫が、産んで増えて地に満ちるようにと、用いて下さったのだ。

結局のところ、主の御名を呼び求め、祈る事。これに限る。

礼拝説教メッセージ音声:レア - 嫌われ女が得た後の栄光(創世記29:1-14):右クリックで保存

レアの名は「疲れた」「飽きた」という意味で、ラケルの名には「雌羊」という意味がある。
ひどい話だが、彼女は生まれながら「疲れた」「飽きた」という意味で、呼ばれていたのだ。
レアはラケルに名前で負け、美貌でも負け、夫に愛される度合いにおいても負け、しかも「きらわれていた」(創世記29:31,33)。
主は、レアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。
しかしラケルは、不妊の女であった。

「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。
夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。」(イザヤ54:1)

この御言葉は、前半はラケルに当てはまり、後半はレアに当てはまると言える。
どちらの立場であろうとも、大切なのは、決して見放さず、決して見捨てる事のないお方・主イエスを、夫としているかどうか、である。

「あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。
捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。」(同54:5-6)

世の中の夫、あるいは妻は、捨てる事もあるかもしれない。
しかし、主は決してあなたをみはなさず、見捨てない。
この主を、あなたの主とする事。
それこそ、どのような境遇にも勝る、幸いの秘訣である。
しかし、世の中の何者か −例えば、夫や妻、お金や権威など− を、主と取って代わらせてしまうと、真の慰め、真の満足は、決して得られない。

『レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。』(創世記29:32)
このヤコブに生まれた最初の子、レアが名付けた「ルベン」の名前の意味は「息子を見よ」である。
レアは、夫やラケルに声高に叫びたかったに違いない。あなたの息子を見て!男の子よ!と。
しかしレアは、長男を産んでも、きらわれている事に変化は無かった。

『レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。』(創世記29:33)
二人目の子が生まれた時、主が私の叫び声を耳にして下さった、と、声高に主張したかったのだろう。
しかしそれでも、夫の心は彼女に結びつかなかった。

主は明らかにヤコブにサインを示しておられた。一方の妻を尊んで、他方を軽んじてはならない、と。
それが、主の御心である。(出エジプト21:10、申命記21:15-17)
しかしヤコブは、それをしなかった。

『レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。』(創世記29:34)
ここまで来ると、彼女の痛々しい程の願いがにじみ出ているのに、それはむなしく虚空に響いているのが、見て取れる。

彼女は、頑張っても何をしても、決して幸いにはなれない無限ループに陥っていた。
なぜなら彼女は、夫の心が自分に結び付けられる事を願っているのに、夫の心は別の女性に結び付けられているからだ。

「あの人がこうなってくれれば私は幸せになれる」「環境がこうなれば自分は幸せになれる」といった、他人や環境に左右される願望は、叶えられる確率は低い。
なぜなら、世界はあなたの思惑通りになるとは限らないし、あなたは何年も連れ添っている親しい人ひとりの心さえ支配出来ないのだし、たとい、自分の望み通りにその人が動いてくれたとしても、あなたはすぐに別方面で渇きが出て来てしまうからである。

このように、周りの人がこうなれば、状況がこうなれば幸せになれる、といった、自分の支配の届かない事に願望を置いてしまうと、その願望を固く握り締めている限りでは、決して幸せにはなれない。

イエス様は、ヤコブが掘った井戸へ、水を汲みに来た女に、言われた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

この女は、夫を替えても替えても心の渇きは決して癒される事が無く、5度も結婚と離婚を繰り返していた。
彼女は、喉だけでなく、心もカラカラに渇いていており、どの男に潤いを求めても、世の何者に潤いを求めても、すぐにまた渇いてしまい、どうしようもなかった。

世の与える水(慰め)は、やがて渇く。
しかし、主イエス様といういのちの水は、飲めば決して渇くことのない、いのちの水の泉であり、永遠の命に至る水が湧き出るのだ。

『レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。』(創世記29:35)
ついにレアは、夫に満足を求める事を止め、全能なる主に満足を見出し、主をほめたたえる喜びに至った。

夫から愛される事、夫に嫌われたりせず、慰めを受ける事、それは、当然受けるべき権利である。
その、レアが受けて当然であるはずの夫の義務を夫が行使してくれない、という、不条理な現状の中で、彼女は、自分の受けるべき権利を手放し、主に目を向けたのである。

横にいる人間関係のしがらみから目を離し、天におられるお方を見上げて賛美する時、決して変わることの無い、すばらしい栄光の主を知り、喜び、褒め称えるのだ。
アサフも、堂々巡りの思い煩いに囚われ、思い悩みの無限ループに陥っていたが、主の聖所に至った時、その悩みのループから開放された。(詩篇73篇)

私達も、近くにいる人間関係のしがらみから目を離し、決して変わらぬ愛で愛して下さる主に目を向け、ほめたたえる時、その喜びは、決して何者かに奪われるものではなくなり、決して渇くことのない、いのちの水の源となるのである。

さて、レアは最終的にどうなっただろうか。

ヤコブが息を引き取る時、彼はラケルと共に葬って欲しい、とは言わず、レアと一緒に葬って欲しい、と言った。(創世記49:29-32)
レアは目が弱々しく(欽定訳:tender eyed:優しい目)、あまり魅力的な外見でなかったかもしれないが、最終的にヤコブが選んだのは、彼女の方だった。

そして、レアが賛美と共に生んだユダの子孫に、後にはダビデが生まれ、後には、イエスキリストが生まれたのだ。
レアの骨は今でも、ヤコブの骨と一緒にいる。世が改まるまで、ずっと。

生まれながらにどんな名がつけられ、どんな境遇で育てられたとしても、どんな醜い外見であっても、どんなに鈍臭く人々からきらわれても、どんなに、頑張ったことが認められなかったとしても、主を見上げ、主を喜ぶ者には、決して朽ちることのない祝福と栄誉が与えられるのだ。

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)

礼拝説教メッセージ音声:相手が理想とかけ離れていた時は(創世記29:15-30):右クリックで保存

イサク〜ヤコブ家族の騒動を読み解く重要なキーワードの一つとして、一方を溺愛し他方を軽んじる「偏愛」がある。

ヤコブは、ラケルと彼女の子を偏愛し、それによって一家に不和を招き入れてしまった。
イサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを偏愛してしまったため、そのような環境で育ったヤコブにも、偏愛する特性が身についてしまったのかもしれない。
しかし、後のラケルとレアの歩みを見れば分かるが、偏愛されれば幸せになれるものではないし、偏愛からこぼれた位置についてしまえば不幸になる、というものでもない。
私達が幸いになるのは、決して変わらぬ愛によって、主から愛されている事に気付く時である。

教会の兄弟姉妹たちも、大所帯になればなる程、そのような事は起こりがちになる。
ヤコブは、ラケルの姿や顔立ちが美しいので彼女を特に愛したが、そのように、外見的・肉的な特性によって兄弟姉妹を偏り見るのは当然、良くない事で、災いを招く事である。

世的な理由で偏愛や差別する事はもちろん良くないが、高慢な者や霊的に俗悪な者などにも、聖徒として同等に扱いなさい、という事ではない。(マタイ18:15-17)
神にはえこひいきなどは無いが、「区別」されるお方である。
自分を降ろさずに自分中心を貫き通す者には祝福は与えず、身勝手な祈りには徹底として沈黙を守られるが、悔い改めて自分を下ろし、へりくだる者には恵みをお授けになる。(1ペテロ5:5)

「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。」(創世記29:25-26)

ラバンのこの行動は、明らかな詐欺である。
妹を姉より先に嫁がせることはしない、という風習があるにしても、前もってヤコブに言わず、夜闇に紛れてヤコブが伴侶として望む女性とは違う女性を送ったからには、明らかにヤコブを欺いたのである。
ヤコブは当然、大いに憤った。
そして、自分が当てがわれた事によって、大いに憤ってしまったヤコブを見たレアの心境には、察して余りある。

「とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(創世記29:27)
ヤコブはさすがに神の民らしく、自分の正当性を主張してレアを突き返したりする事はせず、レアと一晩、同じ夜具で過ごしたけじめをつけて、ラバンの要求を飲んだ。
彼にとっては青天の霹靂だったかもしれないが、ヤコブは神の民として正しいけじめをつけた結果、歴史的な観点で見れば、ヤコブにとってもレアにとっても大きな祝福となった。

私たちも、結婚を迎えた時、相手は自分が切実に望んでいた理想の人とは違っていた、と、気付く事があるかもしれない。
その失望感から、新婚早々、相手を疎んじる夫婦も、世の中には沢山ある。

しかし、ヤコブにとって婚礼の期間、相手はどうあがいても、レアであってラケルではない。
それと同じように、私達も、相手が自分が切実に欲していた理想の相手とは違っていたと分かったとしても、神と人との間で交わした婚姻のけじめをつけるべく、きっちりとそれを受け入れ無くてはならない。

もしあくまで、相手に自分が切実に欲していた理想の人である事を押し付け、願い、神に「この人をレアではなくラケルにしてください」のような祈りをしたとしても、それは無駄であり、夫婦間の苦しみを増し加えるだけである。
そのような時は、相手が変わる努力をするのでなく、自分を変える努力が必要である。

ヤコブは自分の主張を下ろした事によって、最終的には多くの子達が生まれ、後にはメシヤなるキリストが生まれるという栄光の祝福にあずかれた
同じように、自分が主の御前に降りるなら、実はそれが祝福であったと、分かる時が、必ず来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:物事がとんとん拍子に進む先は(創世記29:1-14):右クリックで保存

「ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。」(創世記29:1)
ヤコブの旅の目的地は、東方のカランにいる伯父・ラバンの所で、そこを目指す理由は、伯父ラバンの娘の中から結婚相手を見つけるようにと、父イサクに命じられたからであった。(創世記28:2)
この東方の地、メソポタミア地方はかなり広大な土地で、初めて行くヤコブにとっては土地勘が無く、そこを探し出すのは、結構大変な事である。

彼はその地へ足を踏み入れた時、ふと見ると、井戸の傍らに羊の群れがいた。
そこの人々に聞いてみると、彼らはカランの羊飼いで、しかも、ラバンを知っていると言う。
さらには、ラバンの娘・ラケルが羊の群れを連れて来ている、というのだ。

恐ろしいまでにとんとん拍子、あまりに出来過ぎた導かれ方である。
かつて、アブラハムの老僕は、主人から不可能とも思われる条件で嫁探しを仰せ付けられた時、心配したり祈ったりした。
しかしヤコブは、心配した様子も祈った様子もなく、実にあっさりと、伯父の娘ラケルの所へと導かれたのだ。

ヤコブは、ラバンの娘ラケルがいる、と聞くと、彼らに言った。
「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」(7節)
その羊飼いたちには、どこかに行っていてもらっていて、自分はラケルと二人きりになりたかったのかもしれない。
そうこうしている内に、ラケル自身が、群れを伴ってヤコブの前に姿をあらわした。

ヤコブは彼女を見ると立ち上がり、大きな石を転がしてラバンの羊に水を飲ませ、ラケルに口づけし、そして大声で泣いた。
70歳を超えているというのに、実に大した腕力、大したプロモーションであるが、彼はその歳までずっと独身を貫いて来たのだ。
主がその旅を成功させ、確実に彼女の所へと導き、いよいよ出会えた彼女が、姿も顔立ちも美しい女性だったので、彼は感慨深さに大声で泣いたのだろう。

私達も、主に拠り頼んでいるなら、しっかり確実に、御心の所へと導かれて行くのである。
ただし、ヤコブの場合、そこまでとんとん拍子に主が導かれたのは、長年の寂しさが慰められる為ではないし、単なるハッピーな生活を彼がこれからずっと続けるためではない。
彼のずる賢さが取り扱われ、過剰な力が剥ぎ取られ、主の前に練られるためであり、その精錬のための期間が、この時、始まったのである。

私達も、主が導かれる先は、私達にとって必ずしも心地良い事ばかりが待っているとは、限らない。
主の御前に、もっと砕かれもっと練られるが為に、とんとん拍子に導かれる、という事だって有りうる。
そのような時は、じたばたせず、全能者の御手の下にへりくだり、主のなされるがままにするのが一番楽な過ごし方であるが、あくまで自己主張を続けるなら、苦しみの期間を増し加えるだけである。

ヤコブは自分の身の上をラケルに明かし、ラバンは、彼が訪ねて来た事を喜んだ。
このカランの地は、神の約束の地からは遠く離れた、サタンが支配するような地であり、ラバンはその中でも、ずる賢い事にかなり長けた人物である。
ヤコブはやがて、そのサタンが支配するような地から妻子を得、多くの富を増し加え、やがてそれらを携えて故郷に戻る。

私達の中にも、主の前に余計な「ずる賢さ」や「過剰な力」などがあるのであれば、主は、私達よりも2倍も3倍も上手なラバンを送り込み、私達を練るのだ。
そうして取り扱われ、練り聖められて行く内に、妻子や多くの富を自分のものとし、サタンの王国から多くを分捕って、天の故郷へと凱旋するのである。

その時ヤコブは何歳だった?(テキストのみ)

前々回のメッセージで、イサクがヤコブを祝福してラバンの所へ送り出した時、ヤコブは70歳を超えていたはずだ、という事に、驚かれた方も多いかもしれない。
今回、その検証をしたいと思う。

後の時代、ヤコブが息子ヨセフの勧めでエジプト入りし、パロの前に進み出た時、彼はパロにこう言った。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)

ヨセフがエジプトの宰相となったのは、30歳の時である。(創世記41:46)
ちょうどその時に7年の豊作が始まり、その後に7年の凶作が続くのだが、この凶作の第2年目に、ヨセフは兄たちに自分がヨセフ本人である事を打ち明け、父ヤコブをエジプトへ呼び寄せた。(創世記45章)
その時、ヨセフは30+7+2=39で、39-40歳程という事になる。

その時、ヤコブが130歳だったという事は、ヤコブが90歳くらいの時にヨセフを生んだという事で、かなりの年寄り子(創世記37:3)だったわけである。
ヤコブがヨセフを生んだ時といえば、ヤコブはパダン・アラムでラバンの下、20年間働いている期間中だった。(創世記31:38)
ヨセフは当時、一番末の弟なので、20年という期間のかなり後半に生まれたであろうが、と言うことは、イサクがヤコブをパダン・アラムのラバンの元へ送り出した時、ヤコブは既に70歳は超えていた事になる。

つまり、ヤコブが70歳程の時、母のバックアップの元、策略を用いて長子の祝福を奪い、杖一つでパダン・アラムへと逃げ、美しい処女ラケルの歓心を買おうと、井戸の石を取り除けてキスし、ラケルを迎えるために7年、ラバンの元で働いたのである。

80歳くらいのヤコブが、新婚の朝目覚めると、なんとそれはレアであったり、この80歳以上のヤコブを巡って、2人の妻と2人の妾が骨肉の争いをし、結果、12人もの子供が生まれ、そしてヤコブが90歳くらいの時、彼は神の使いと相撲を取って、祝福を勝ち取ったのだ。

イサクが180歳で死んだ時、彼と60歳年の差のヤコブとエサウは、それぞれ120歳だった。(35章)
それは二人が平和な再会をして暫く経った後であり、ヤコブ達がエジプトに移住する10年前の事である。

それを考えると、ヤコブはとても強く、精力溢れる人だった事が分かる。
だからこそ、ただ主のみに信頼を置くようになるまで、その「強さ」が徹底的に砕かれたのだろう。

彼はパロに年齢を聞かれた時、しみじみ答えた。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)
たとい130年という年月を生きても、自分の手練手管や狡猾さ、肉体的な強さを頼みにバタバタしてきた人生は、「短く」「苦しみ多い」のである。

彼は147歳まで生き、最後は12人の子を祝福し、自分の骨は神の約束された地へ埋めるよう指示し、杖に寄りかかって神を礼拝しつつ、息を引き取った。
足腰の力を奪われ、杖に頼ってしか生きられなくなったからこそ、主にのみ寄りかかり、頼りつつ生きるようになった。
だからこそ、このように威厳ある美しい最後を迎え、先祖の列に加えられたのだ。

狡猾さや、肉体的な強さを頼みにバタバタする人生は、「短く」「苦しみ多い」。
主に頼りつつ、天の故郷を仰ぎ見ながら、地上で与えられているいのちを生きる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:地に向けられたはしご(創世記28:10-22):右クリックで保存

ヤコブは住み慣れたベエル・シェバを立ち、たった一人、ハランへと旅をしていた。
兄にいのちを狙われている身であり、いつ母リベカのいる父の家に戻れるとも分からない。
心細く、寂しく、きっと家族からだけでなく、主からも遠く離れてしまったかのような心境であったろう。
そんな彼の所に、主は、圧倒的な臨在をもって現れて下さる。

「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段(はしご)が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)
普通、はしごは低い方から高い方へ架けるものだが、面白い事に、このはしごは天から地に向かって伸ばされている。

天と地は絶望的に離れており、人は決して神の座に登りつめる事は出来ないし、また、そのような試みをした者たちが建てたバベル塔は、崩されてしまった。
しかし、このはしごは、天から地の方へ、ヤコブが横たわっている傍まで差し伸べられ、神の御使いたちが、それを上ったり下ったりしていた。
この不思議なはしごは、一体何だろうか。

主イエスはナタナエルに言われた。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

この天から地へと架けられたはしごは、イエス・キリストを表している。
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスであり(1テモテ2:5)、この御方を通してでなければ、誰も父なる神様の御元に行く事は出来ず(ヨハネ14:6)、高き天から降り人となられたお方は、唯一キリストである。

『見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの”子孫”に与える。あなたの”子孫”は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの”子孫”によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」』(創世記28:13-15)

全世界は、この「子孫」であるキリストによって祝福に入ると、主は預言されている。
主は、アダムとエバが堕落した時、一人の「女の子孫」によってサタンの頭が砕かれる事を預言していたが、この「女の子孫」こそ、アダム以来ずっと人類が待ち望んで来たメシヤであり、アブラハム、イサク、ヤコブにも示された、神と人との架け橋であり、天と地とを結ぶはしごとなって人類を救って下さるイエス・キリストである。

ヤコブは、主が共におられたことに恐れおののき、自分が枕にした石に油を注いで記念の石とし、その場所をベテルと呼んだ。
彼はその後、色々な困難が遭った時でも、このベテルでの出来事を思い出した事だろう。

ヤコブが単身、遠国に身を潜めるなくてはならなくなったのは、彼自身の身から出た錆であったにもかかわらず、主は憐れみ深く、そんな彼に直接現れて下さり「わたしはあなたと共にいる」「どこへ行ってもあなたを守り、必ず連れ帰る」「わたしは決して見捨てない」と言って下さった事は、なんと深い慰めであろう。

それと同じ慰めは、私達にも与えられている。
私達も、ヤコブのように罪深く、自分の身から出た錆によって苦しむような事もあるのに、イエスは苦しんでいる私達に向けてはしごを渡し、神と人との仲保者となって、救いへと導こうとしておられる。
インマヌエルなる主は、いつも私達と共におられ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言って下さった。(マタイ28:20)

ヤコブはそれまで、主のご性質をあまり知らなかったが、今回の事で、さらに一歩深く知ることが出来るようになった。
私達も日々、主の良きご性質をさらに知って行き、そして、知って行く程に豊かな人生へと造り替えられて行くのである。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)

礼拝説教メッセージ音声:御心を求める祝福と、求めない事の呪い(創世記28:1-9):右クリックで保存

『リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。』(創世記27:46-28:2)

リベカの言葉をきっかけに、イサクはやっと、本来祝福を受けるべきヤコブに祝福を与える。
彼もようやく目が覚め、主の御心を押しのけ自分の望むことを貫く事の災いに、懲りたのだろう。

この時、ヤコブは70歳を超えていたはずで、彼はそれ程高齢になるまで独身のままだった。
アブラハムもイサクも、主の側から「どこどこへ行きなさい」「ここに留まりなさい」という導きは結構与えられて来たのに、こと、子供の結婚相手に関しては、なぜか主の側から具体的な示しが来た事は無い。
アブラハムもイサクも、彼らの側が嫁探しの為に動いた時、主ははじめて導きを与え、嫁となるべき女性のところへと無事に導かれた。

結婚をいつ誰とするべきか、といった、人生の重要な決断をする場面で、御心が中々示されないような時がある。
そのような時、主は、私達の側が信仰による決断をして行動する事を、待っておられるのかもしれない。
私達が、自由意思と決断によって行動する時、御言葉に従う信仰を持っているなら、主はその道を祝福して下さると信じるのだ。

エサウは、父が結婚した年齢に自分も達した時、御心を求めるという事を一切せず、好き勝手に、手近にいるカナン人の娘を二人もめとり、その事が一家の悩みの種となった。
そしてエサウはさらに、アブラハムの子であるイシュマエルの娘から第3番目の妻を迎えるのだが、それは神に御心を求めたからではなく、親に気に入られるためであった。

『エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。』(創世記28:6-9)

アブラハムの子孫から妻をめとる、という行動は、一見「信仰的行動」のように見えるかもしれない。
しかし、御心という的を外した「信仰的行動」は、事態をさらに悪化させるだけだ。

イシュマエルはアブラハムの子とはいえ、神の系列から除外された者である。
肉の子が祝福を受け継ぐのではなく、約束の子が受け継ぐのだ。

彼のその行動によって、カナンの娘達との過ちがキャンセルされる訳では無いし、それどころが、一家の悩みの種を一つ加えたに過ぎず、さらに家族から嫌悪されるその度合いを、増し加えたに過ぎなかった。

このように、御心を求めない手前勝手な礼拝や奉仕は、邪魔以外の何者ではなく、兄弟姉妹達からの嫌悪を、さらに増し加えるものである。

エサウはヤコブへ殺意を持ったまま残り、ヤコブは遠国に難を逃れ、この一家はかなり険悪な様相を呈して来てしまった。
しかし、主の祝福のご計画は、人間の罪によって損ねられるものではない。
人間が廃墟にしてしまった所さえも、主は御業を働かせ、そこを立て直し、最善へと導いて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福をロスしてしまう人(創世記27:30-46):右クリックで保存

祝福を受けたヤコブが出ていくと同時に、エサウは料理した獲物を持って意気揚々と入ってきた。
そしてイサクは、自分が祝福を与えた相手がエサウではなかった事が分かると、激しく震えた。
その祝福は、一度切りの大切な祝福で、エサウもその重要性を理解していたため、彼は大声で泣き叫び「祝福をください」と幾度も言った。

イサクとしても本心は、エサウの願い通り、祝福を授けたかっただろう。
しかし、彼の口から出た言葉は、呪いと言えるような内容だった。
このように、祝福される事が御心ではない人には、いかに力ある者や親しい人の願いがあったとしても、祝福される事は決してない。
しかし、主の祝福が御心である者たちには、どんな力ある人達の思惑があろうとも、祝福されてしまうのである。

『エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。』(創世記27:41-42)

エサウは、ヤコブを殺してやろう、と「心の中で」言ったはずなのに、その思惑はなぜか周囲に知られる所となった。
思わず口が滑ってしまったのか、それとも表情が明らかにそうであったのか分からないが、いずれにせよ、彼の憎しみと殺意は相当のものであった事が伺える。

彼には長男の権利を軽んじた事への後悔はなく、自分はどこで主の御心を損じてしまったのか、主はなぜ御顔を自分からそむけてしまったのか、そうした事を内省する心が、すっぽりと抜けてしまっている。
彼が欲しかったのは、あくまで物質的な祝福であり、それを手に入れる望みが無くなってしまった事を、涙を流して泣き叫んだものの、その涙には悔い改めの心は一切無く、憎しみに変換され、ヤコブへの殺意という方向性へと走ってしまった。
もし彼がヤコブを殺してしまったなら、一体、主の御心はどうなってしまうのか。といった、主を思う気持ちが、すっかり抜けているのだ。
エサウは結局、アブラハム以来の祝福の家系を継ぐに相応しく無い器であり、祝福の家系図から追い出されるべくして追い出された事が、はっきりしたのだ。

「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12:16)

ここで「彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」と書かれてある事に注目したい。
欽定訳聖書では「he was rejected: for he found no place of repentance」とあり、つまり、彼の心の中には一切「悔い改め」という余地が見つからなかった、そのため、涙を流して求めても拒否されたという事だ。

彼は悔い改めるべきだったのにそれをせず、ロスしてしまった祝福を泣きながら惜しみ、逆切れし、神の御心はどこかに吹っ飛び、ヤコブに殺意を抱いた。
結局彼は、祝福が与えられる余地を、自らのかたくなな心の故に、失ってしまったわけである。

「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(ローマ11:22-24)

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:6-7)

礼拝説教メッセージ音声:祝福を得るためのキーアイテム(創世記27:18-29):右クリックで保存

自分は兄エサウであると偽って父の前に出たイサクは、ついに、一家の長子が継ぐべき祝福を奪ってしまった。
父親を騙す事は罪であり、それによってヤコブは罪の刈り取りをしてしまった事を、前回見た。
今回は視点を変えて、本来祝福を受けるべきでない者は、いかにして祝福を勝ち取る事ができるのか、という視点で、見て行きたい。

本来祝福を受け継ぐべき者が祝福を受けられず、本来祝福を受継ぐべきでない者が祝福を受け継いでしまう。
人は、それを「不当だ」「ずるい」と言う。
それなら、最も「不当」な扱いを受けたのはキリストであり、祝福を受け継いだキリスト者は、皆「ずるい」。
なぜなら私達は、本来祝福を受けるべきではない罪人であったのに、祝福を受け継ぐ者とされてしまい、キリストが呪われた者とされてしまったのだから。

祝福を受ける為の重要なキーアイテムは、「動物の毛皮」と「晴れ着」、用意された「ごちそう」と「ぶどう酒」、そして、着物の「香り」である。(創世記27:18-29)

まず、ヤコブに必要だったものは、「動物の毛皮」だった。
毛皮を得るには、その動物の犠牲が必要である。
アダムとエバはエデンを追い出される時、裸のままでは追い出されず、動物の毛皮を着せられ、裸が覆われ、恥ずべき部分が覆われた。
また、アベルの捧げ物が受け入れられたのは、犠牲があったからである。
私達も、屠られた子羊キリストの犠牲によって「キリストという衣」が得られ、それを着る事によって、御父の実前に出ることができるのである。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、”キリストを着ている”からです。
・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ 3:26-29)

ヤコブは動物の毛皮を着た事によって、父の疑惑を避けられ、それ故に、アブラハムの祝福を受けるべき子と認定された。
同様に私達も、キリストを着る事によって、アブラハムの子孫としての祝福を受ける者となれるのである。

もう一つの重要アイテムは、「晴れ着」である。
マタイ22章1-14節には、王子の結婚の披露宴のたとえが記されており、そこにも礼服(晴れ着)が登場する。
たとえの中で、あらかじめ招待されていた客たちは、この宴会をあなどってしまい、ある者は畑に、ある者は商売に出かけてしまい、結局彼らはその宴会にあずかる事は出来なくなってしまった。
彼らは、長子の権利をあなどったエサウに、実に良く似ている。
そして、本来招かれざる者たちが招かれ、招きに応じた者達は、たとえ良い人でも悪い人であっても、宴席に連なる事が出来た。
ただし、「礼服(晴れ着)」を着ていない者は追い出されてしまう。

当時、王が宴会に招く時は、客人に礼服(晴れ着)を支給し、「これを身に着けて宴会に来て下さい」と言ったようである。
王から「礼服」が支給されているのに、それを一蹴し、自前の好きなファッションで参加してしまうなら、追い出されてしまうのだ。
きっとヤコブも、兄の晴れ着を着ずに父の前に出ていたら、呪われて外の暗闇に追い出されていたであろう。
私達もまた、天の王の宴会に参加する時、天の王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着けて行かないなら、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。

ヤコブはまた、父の好みを良く知っている母リベカに父の好きな「ごちそう」を用意され、それを父に差し出し、また、「ぶどう酒」を飲ませた。
私達も、御父の思いを良く知っておられる聖霊によって用意された捧げ物、すなわち、キリストが十字架で裂かれた肉という「まことの食物」を差し出し、また、キリストの血という、「まことの飲み物」を差し出すなら、それによって御父は満足されるのだ。

そしてイサクは着物の「香り」をかぎ、それが祝福を与える決定打となった。
雅歌4章10-16節にも、香りの重要さが示されている。
雅歌に登場する花嫁は、王である花婿から支給された飾りと香油を身につけ、そうして王の前に出た時、王は花嫁のとりことなり、最高の賛辞を送った。

わたしたちは、自分のがんばりや努力という汗くささを帯びて主の御前に出てはならない。
人間的ながんばりや努力は捨て去り、王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着け、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出るべきである。
そうするならば、御父はキリストのなだめの香りによってなだめられ、祝福を与えて下さるのである。

『ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」』(創世記27:27-29)

キリストの裂かれた体という贖いの衣を身に着け、キリストの体というまことの食物、キリストの血というまことの飲み物を携え、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出る事によって、ヤコブが父イサクから祝福を与えられたように、天の父から祝福をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:撒いた種は必ず刈り取る(創世記27:11-17):右クリックで保存

イサク自身の歩みは、平和の人として申し分無かったものの、子育てや後継者選びの面において、諸々の間違いを犯してしまった。

長男エサウは、アブラハムの家系に入れてはならないヘテ人の女二人を妻としてしまい、また、主からは「兄は弟に仕える」と言われていたにも関わらず、イサクは自分の好むエサウの方に祝福を与えようとした。
そして、リベカとヤコブは共謀して父をだまし、兄エサウを出し抜いて長男の祝福を奪おうと計画したのだ。

一体、この平和に満ちていたはずの一家は、どうしてしまったのだろう。
いつのまに、そんなドロドロとした権謀術数の渦巻く一家になってしまったのだろう。

この時、一家全員に共通していた事は、本来なら主の御心を求め主が物事を為されるのを待つべき所を、それをせず、自分の感覚のままに身勝手に行動してしまっている事である。
いかにアブラハムの子と言えど、自分を主体とし、主を差し置いて行動するならば、すぐにこのようになってしまうのである。

「リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。」(創世記27:15-18)
ヤコブはリベカの指示の下、エサウの「晴れ着」と「山羊」の毛皮を用いて兄エサウになりすまし、「父親騙し」をして、祝福を横取りしようとしていた。

弟ヤコブが栄え、祝福を受け継ぐ事は、確かに御心であった。
しかし、親を騙して偽る事は紛れもない罪であり、後に彼は、その行いの実をそのまま刈り取る事になってしまう。

ずっと後に、ヤコブの最愛の子・ヨセフは兄達に憎まれ、結果的にエジプトへ売られてしまうのだが、その際、兄たちはヨセフの「長服(晴れ着)」と「山羊」の血を用いて「父親騙し」を実行したのである。(創世記37章)
この時、騙されたヤコブは、最愛の子ヨセフが野獣に噛み殺されたと思い込み、ヨセフと再び会える日までの膨大な日々を、涙と悲嘆の内に過ごす事となってしまった。
こうして彼は、自分が実行した「父親騙し」という報いを、そのまま自分の身に負う事となってしまったのだ。

「嘘も方便」「良い嘘もある」といった人間の感覚や言い伝え等によって、御言葉を上塗りしてはならない。
偽りはどんな些細なものでも、また、いかに「神のご計画を実行するため」だとしても、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽りは罪である事には変わらず、悔い改めて、主に赦しを乞うべきなのである。

イサクもエサウもヤコブもリベカも、感覚による目視飛行を行なっていたために、この時一家は迷走してしまった。
私達は感覚に頼るべきではなく、御言葉に頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。

御言葉は御言葉として尊く受け取り、災いを招くような歩みをせず、主に喜ばれる歩みをいつもしている皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest