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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主と交渉する際には(創世記18:23-33):右クリックで保存

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて、アブラハムは意を決して主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

相手が言った言葉を盾に取るのは、交渉において強力な手段である。
主は正義と公道とを行わせるお方である事が19節で言われているが、アブラハムはその言葉を盾に取った。
「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記18:25)

私達が主と交渉する際、最も有効な手段は、御言葉を盾に取って祈る事である。

ツロの女がイエス様から娘の癒しを頂けた決定的な勝因は、彼女のしつこさではない。
子犬呼ばわりされても「その通りです、しかし、子犬でも食卓からこぼれるパンに与ります」と、イエス様の言葉を逆手に取った故である。(マルコ7:24-30)
御言葉にそぐわない自分の願いを千回万回述べて、祈り倒そうとしても無駄である。しかし、御言葉を盾にとった祈りは、非常に有効である。

主は雲の上に高く座して、私達の言葉なんか聞かれない、と思ったら、大間違いである。
主は人の姿を取って来られ、その足で歩き、目で見、耳で聞き、ソドムの町に泊まられた。
主はアブラハムに人の姿を取って現れ、面と向かって交渉に応じられ、また、主はヤコブにも人の姿を取って現れ、取っ組み合いの相撲を取られた。

相撲は、抱きつくように組み合い、汗が一つになり、顔と顔は間近になって、各々の力を賭けて戦う。
神は、はるか彼方から見下ろすお方ではなく、生々しいほどに人と近くなって、関わるお方である。
主イエス様は、貧しい家庭に人として生まれ、人として貧しさを体験され、誘惑も、人からのあざけりも、暴力も、痛みも、十字架刑も、そして死さえも、体験された。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、自らを不正な裁判官にまでたとえて、絶えず祈り求めるように話された(ルカ18章)し、また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とも言われた。(マタイ7:7)
主は、関わりを求めておられる。
私達は「主は御心を変えられない」と絶望して求める事を止めてはならないし、虚無に走ってはならない。

アブラハムのように、御言葉を盾に食い下がり、皆さんの使わされた場を執り成し、災い多きこの国を執り成す皆さんでありますように。
ヤコブのように取っ組み合いをしてでも主と関わり、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:執り成す為に立て(創世記18:16-22):右クリックで保存

ソドムとゴモラは、不品行がはびこり、性的な錯乱がまかり通り、不当に抑圧されている者が多く、神の御前に悪を積み上げている町であった。
『主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」』(創世記18:20-21)

不当に流された血は、主に対して叫び(創世記4:10)、労働者へ支払うべき未払いの賃金も、また叫ぶ(ヤコブ5:4)。
ソドムとゴモラは潤って栄えていたものの、彼らを訴える叫びが非常に大きかった、という事は、この町では不当な血が多く流され、支払うべきものが支払われず膨れ上がっていたのだろう。

神は全能なるお方なのだから、わざわざ人の姿を取って、その通りかどうかを見に行く必要は無いはずである。
しかし、主がわざわざ人の姿を取り、主みずから足で行って目で見、耳で聞き、そこの住人が実際に乱暴した様を実体験したのであるなら、その報いとして滅ぼされても、誰も何の文句も言えないはずである。

なぜ主は、これから為そうとしておられる事を、アブラハムに打ち明けたのか。
それは、彼が主の命じられた事を守り行い、主の「友」となったからである。
『わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの「友」である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』(ヨハネ15:14-15)

また創世記18章19節、「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
神は正義と公正を行うお方であり、アブラハムとその子孫が、これから主の目が注がれた祝福の民として御心を行い、子孫達が主の道を守って生きるよう、実体験として学ばせるためであったろう。

そして主は、いかに罪人であっても、滅ぼす事は望んでおられず、彼らが悪の道から離れて生きることを望まれるお方である(エゼキエル18:23)。
それ故、主は、人を滅ぼさないようにとご自身に執り成してくれる人を、望んでおられる。

『国の民は抑圧を行い、強奪をした。彼らは貧しい者、乏しい者を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧した。この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によって彼らを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す」と主なる神は言われる。』(エゼキエル22:29-31)

エゼキエルの時代のイスラエルには、主の御前に出て執り成す者がおらず、滅ぼされてしまった。
しかしアブラハムは、ソドムさえも執り成すために、主の前に立っていた。(創世記18:22)

主は、絶対なるお方である。
はたして自分ごときが口出しして良いものか、という恐れも、アブラハムにはあっただろう。
しかしそれでも彼は執り成すために、主の前に立った。
主は、悪人を滅ぼす事を望まれないお方。だから、アブラハムが執り成すために御前に立った事は、主にとって嬉しかったに違いない。

今、この時代は、不品行がはびこり、性的な乱れや錯乱がまかり通り、不法に抑圧されている者が多い、ソドムのような時代である。
その中において、アブラハムのように主の御前に立って執り成す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:むなしい年寄り女を王女へと変える主(創世記18:1-15):右クリックで保存

前回主がアブラハムに現れてから、まださほと経っていない時、主は、三人の旅人に身をやつして現れた。
『目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。』(18:2-3)
アブラハムは彼らの所に走って行ってひれ伏し、彼らの足を洗い、ひとりにつき7.6リットルの上等の小麦粉でパンを作るようサラに指示し、また、柔らかくておいしそうな子牛でもてなし、彼自身は給仕した。
見ず知らずの旅人にかなりの接待をするものだと思うかもしれない。

パレスチナ地方では、この時代から既に、旅人をもてなす事が当然為すべき美徳として行われており、それをしない事は、その人の、その家の品格を疑われる事であった。
アブラハムは最初、彼らを「主(アドナイ)」ではなく「お客様(アドン)」と呼んだ事から、また、彼らは疲れた様子だった(5節)事から、アブラハムは彼らが主であったと最初から悟っていたのではなく、単に、世の美徳に習って旅人をもてなすつもりで歓待したのであろう。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブル13:2)
私達も、日常を侮ってはならず、世の中で通っている徳と言われるものを、ないがしろにしてはならない。(ピリピ4:8)
主は、夢や幻、しるしや奇跡といった「非日常」にしか現れない、と思ったら間違いである。
むしろ主は「日常」の内に、ある時は盗人のように思いがけず現れる。

アブラハムが給仕していた時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
主は、主が名付けられた名前「サラ」を呼ばれ、アブラハムは「はい、天幕の中におります」と答えると、彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。

前章で、サラには来年の今頃、男の子が生まれる、という約束がアブラハムに与えられ、サラはそれを既にアブラハムから聞いていたであろうが、信じきれていなかったため、この、客のただならぬ言葉を聞いても、笑ってしまったのである。

『主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」』(創世記18:13-15)

主が旅人の姿で現れ、同じことを言われたのは、恐らくサラに、主が名付けて下さった新しい名に相応しく、王女として、信仰者として、整えるためだったのではなかろうか。
この時点、サラは、彼女の子ではないイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いてしまったため、子を産む事についてはもはやあきらめ、王女とは言えないような、卑屈な信仰になっていた事だろう。
しかし主は、アブラハムに現れ彼の信仰を再び奮い立たせて下さったように、サラにも直接現れて、彼女の弱っていた弱い信仰を奮い立たせて下さった。
こうして彼女は信じ、もはや年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力を得、神の約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになったのである。(ヘブル11:11-12)

12-15節の間に「笑い」という言葉が4回出てくる。この、笑いという言葉がキーワードである。
将来、彼女が産む子は「イサク(意味:彼は笑う)」という名前であり、彼女がイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こしたことだろう。
あの時、弱々しく笑うしか無かった自分に、主は現れてくださり、心底、いのちの喜びの笑いを提供して下さった、と。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。と主は仰せられる。」(イザヤ54:1)
「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。とあなたの神は仰せられる。」(同6節)
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(同11-13節)

サラのように、弱っている信仰が主によって強められ、卑屈な信仰から、王女のような信仰へと変えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:有り得な過ぎて笑ってしまう事も、為さる神(創世記17:15-27):右クリックで保存

サライにも新しい名、サラという名が与えられた。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)

サライもサラも共に「王女」という意味で、父親テラは、おそらく彼女に、王女のような、お姫様のような子になって欲しいと、ある種の願いを込めてつけたであろう。
しかし、人の呼び名、人が決めつけたアイデンティティは捨てて、まことの天の父がつけた名、造り主によって定められたアイデンティティを、新しくい生きる事が大切である。

アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。
奴隷女ハガルからイシュマエルが生まれ、もう13年もの間、神は沈黙されていたのだから、イシュマエルがこれから祝福されていくのだろう、と、彼は暗黙的に思っていたであろうが、なんと、不妊の女で89歳の、生理も止まってしまったサライが、これから子供を産み、国々の母となり、諸族の王たちが出る、というのだ。
神は明確に言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)

不妊で子を産まないまま89歳になってしまった女に、もはや産む望みは持てない、と、人は思う。
しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう。それ程、全能なるお方である。

アブラハムは最初聞いて信じきれず、笑ってしまったが、神が明確にサラを通して子が生まれる事を信じた。

『彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。』(ローマ4:18-21)

アブラハムは信じた証拠として、信仰に裏打ちされた行いを実行した。
「アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。」(創世記17:23)
アブラハムの家には、奴隷や使用人も含め、少なくとも300人以上の男性がいたが、約束が与えられたその日の内に、自分も含めた男性全員の包皮を切り取ったのである。
神様の約束は確かであるという確信が無くて、どうしてそんな突拍子もない事を、実行できただろう。

『だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。』(ローマ4:22)

アブラハムの導かれ方は、75歳で呼び出されて以来、主から道が示され、示された通りに実行して、さらに具体的に次の道が示されて、という事の繰り返しであった。
呼び出された当初、おぼろげだった祝福も、今やかなり具体的になった。
私達の信仰のあゆみも、それと全く同じである。

神様から示された道を、信仰の行いをもって応え、さらにステップアップした祝福を勝ち取りつつ、信仰のあゆみを続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:割礼のしるし(創世記17:9-14):右クリックで保存

契約を取り交わす際、契約書にサインを記してから初めて契約は有効化されるように、アブラハムも、契約に同意したというしるしを残さなくてはならなかった。
この、契約のサインに相当するものが割礼であり、そのしるしは自らの体に記すものである。
「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。・・・それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。」(創世記17:10-13)
それ故、割礼無しには、神の祝福の約束は、有効化されないのだ。

割礼とは、男性器の包皮を切り取る行為である。
男は支配し治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事が、神の民なって世から分離した事のしるしとなる。
それは実に、私達を含めた神の民にとって、象徴的である。

私達も信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣による心の割礼である。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)
ここの「心」とはカルディア、すなわち、心、感覚、思いである。

割礼は、感覚の敏感な所を切り取るからには、痛みを伴う。
私達も、肉的な心、感覚、思いが切り取られる際には、覚悟と痛みを伴うが、聖霊がその痛みを和らげて下さる。
それを通り越した先には、祝福が待っており、私達を責め立てていた債務証書は全て無効化され、真にアブラハムの子孫としての祝福にあずかるようになるのである。

私達にとって、目に見える割礼のしるしに相当するものが、洗礼(バプテスマ)であり、それは、これからは肉に頼らず、御霊に従って歩む事を約束する事のしるしである。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:11-12)
そのように、肉に対して死に、キリストと共に復活させられたからには、色々な定めを通して責め立てている債務証書は無効にされ、神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされたのである。(コロサイ2:14)

「主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。」(出エジプト12:43-44)

ここにある通り、外国人は単に奴隷として買われただけでは過越の子羊を食べることはできない。
割礼を施されて、はじめて過ぎ越の子羊を食べる事が出来るようになる。
私達も異邦人であったが、キリストの流された血潮の代価によって買い戻され、キリストの奴隷とされた。(1コリント7:22)

あとは、私達自身が、支配欲という男性的な心の包皮を御言葉の剣の前に差し出し、肉の思いをキリストの故に切り落とす「心の割礼」を施す事によって、祝福の約束を有効化するのみである。
そうして子羊の血潮の守りに預かり、いのちを産んで増えて地に満たすアブラハムの祝福を、自分のものとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:全能の神 エル・シャダイ(創世記17:1-8):右クリックで保存

前回の時点から13年が過ぎ、アブラムは99歳になった。
アブラムが75歳で召されて10年、神と共に歩み、実に様々な体験をして来た記録が、創世記12章から16章の間に記されているが、この16章の最後から17章1節まで間、一切の記録が無い空白の13年がある。

『アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」』(創世記17:1)
アブラムは前回、肉の力でイシュマエルを産んでしまい、それ以来、神は13年も沈黙されたが、いよいよアブラムの肉体が死んだも同然の99歳になった時、神は「全能の神(エル・シャダイ)」という名で現れた。

「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われたが、人間はアブラムのように間違いを犯すし、罪を犯す。
人はとうてい完全になる事は出来ず、その事は神も当然ご存知であるが、ここで重要な事は、「あなたはわたしに従って歩み」なさい、という事である。
人は神に従って歩んでこそ、神の目に全き者となって行くのである。

ダビデは言っている。
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、”私は全き者となり”、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」(詩篇19:13)

私達が気をつけるべきは、傲慢の罪に陥らぬよう神に依り頼みつつ生きる事である。
アブラムはかつて、神の言葉を超える傲慢の罪を犯し、失敗をした。アダムやエバの失敗もまた同じである。
神の御前に全き者になるとは、罪も間違いも無い完全な者となる事ではない。それは不可能である。むしろ、神の御前にへりくだり、神に従って歩む事によって、全き者へと、造り替えられていくのである。

アブラム99歳、サライ89歳。もはや人間的に子を生むことは絶望的になった時、神は新しい事を命じられ、約束された。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」(創世記17:5-6)
アブラムという名は単に「父」という意味だが、もはやその名は捨て今度はアブラハムすなわち「多くの父」という名を名乗るように、という事である。

これから子を産み「多くの父」となる、という約束は、99歳の者に対しては余りに手遅れ、絶望的な約束かもしれないが、神は「全能の神」である。
単に多くの子が生まれるばかりでなく、子達の中からは王たちが生まれる、というのである。
そして事実、後の歴史を見ると、その通りになった事がわかる。

神の言われる事は、その時には人の目に絶望的、不可能に見えるかもしれないが、神に不可能は無い。
むしろ、人の目には絶望的に見え、もはやあきらめるしか無いような時にこそ、神は「全能の神」として現れて下さり、全てを成して下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16):右クリックで保存

アブラムの子を宿しているハガルは、サライにいじめられ、逃げた。
もはやサライにとって、ハガルは憎むべき相手、いなくなって欲しい相手となってしまったが、アブラムはまさかここまで発展するとは思っていなかっただろう。

ハガルは、シュルへの道にある泉のほとりで、主の使いに声をかけられた。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いはハガルに、彼女の本来の立場である「サライの女奴隷ハガル」と呼んだのに対し、彼女は「”女主人サライ”のもとから逃げているところです」と答えた。

彼女は「自分はアブラムの子を宿した」「アブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張せず、”女主人サライ”と言って、自分の正しい立ち位置を答えた。
もし彼女が、自分のよかれを主張していたら、どうなっていたか? それは創世記3章、4章でアダム、エバ、カインが主張した結果を見れば、大体想像できる。

そこで主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言い、本来あるべき姿、あるべき所へと帰るよう諭し、そればかりでなく、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束さえ与えられた。

仕えるべき方は誰か、立つべき立ち位置はどこか、為すべきことは何かを正しく見極め、受け入れ、それを告白するなら、祝福をいただく事ができる。
私達も、自分のよかれを主張せず、自分が主イエスの下僕であり、妻である立ち位置を告白するなら、主は、主人として保護して下さり、養って下さる。

主は、生まれて来るる子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう、命じられ、ハガルは主を「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼び、そこにある井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ(生きて、見ておられるお方の井戸)」と呼んだ。
主は生きて、見ておられ聞いて下さるお方であると信仰告白したのだ。

ハガルが一人、身重の身で荒野の道を逃げている時、とてつもなく心細く、やるせなかったろう。
しかし主は憐れみ深く、彼女の元に現れ、彼女は、主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方であると、信仰によって知ったのだ。

彼女が戻るのには勇気が要ったであろうが、荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
その時、この荒野での出来事を、アブラムとサライに報告しただろう。
そして夫婦ともども「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞いて、自分の身勝手さに恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きているお方、見ておられ、聞いておられるお方だと、ハガルを通して教えられたのだ。

イシュマエルは野生のろばのようになる、と主は言われた。
この時生まれたイシュマエルは、アラブ民族の父祖だと言われており、アラブ民族とイスラエル民族がたどってきた歴史を見るに、その通りになっている。
しかし、歴史とは、神の側の提示に人がどう受け答えたかによって織りなされているものであり、今日あるまでに争いが激化してしまったのは、人の側が神の御言葉に不従順を積み重ねて来たからである。
イシュマエルの子孫の中にも、命の危険を賭してまでキリストを信じる信仰を守り通している立派な兄弟姉妹がいるように、私達自身も、野生のロバのような暴れる罪の性質をとりこにしてキリストに服従させるなら、聖霊により、要塞をも打ち破るいのちの力が発揮され、ますます神の子とされて行くのである。(2コリント10:4-6)

礼拝説教メッセージ音声:苦々しさがはびこる原因(創世記16:1-6):右クリックで保存

アブラムは再び失敗する。
前回の失敗は、ききんで食料が無い事に焦って神に頼る事無く独断でエジプトへ行ってしまったことだったが、今回は、サライが子が中々与えられない事に焦り、独断で解決方法を考案し、それをアブラムに勧め、アブラムは神に聞かず、妻の声にそのまま聞きしたがってしまった事だ。

彼女の考案した解決法とは、自分の女奴隷が代わりとなって、自分の子の代わりを得よう、というものである。
当時、そのように女奴隷を通して代理で子を産んでもらう風習があり、サライは、神の約束で未だ成就されていない分を、世で行われている風習に則って果たそうと考えたわけである。

頼るべき主に頼らず、信頼すべき御言葉に自分なりの解釈を施して身勝手に行動してしまうと、必ず、苦々しい結果がつきまとう。

サライは「たぶん」それで自分は子を得られるだろう、と軽く考えていただけで、もし実際にハガルが身ごもったら、どんな自分がみじめになるかまでは考えていなかったのだろう。
サライは、世の解決法によって行動してしまった結果、世の価値基準から、世そのものから嘲られ、見下げられてしまった。
彼女は、女として子を宿す力においても、若さ、美しさにおいても、多くの点でハガルに劣っている自分が浮き彫りにされ、惨めになった。

自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)を見事に結んでしまったわけである。

ハガルは自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。(4節)
御言葉を身勝手に解釈し、肉にの方法に頼るなら、やがて、それによって見下げられ、嘲られるのである。

例えば、たばこを吸ってはならないとは聖書には無いが、だからと言ってイライラする都度それに頼っていたら、後には、そのたばこによって嘲られ、たばこによって支配されるようになってしまう。
たばこに限らず、身勝手な御言葉解釈や自分で考案した方法によって、自分の必要を満たそうとするなら、必ず苦い結果がついて回る。

『サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。。。』(5節)
自分で考案し勧めておきながらその言葉は無い、と思うかもしれないが、確かに、アブラムにも責任がある。

妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきた場合、夫たるアブラムが、御言葉を根拠に、妻をたしなめなくてはならない。
エバの時も、御言葉に反した事を薦めてきたのであれば、御言葉に基づいてたしなめるべきであったが、アダムはそうせず、妻の声に聞きしたがって、自分の一家だけでなく人類全体に呪いを招いてしまった。
世のならわしや妻の考案した方法に安易に飛びつくのではなく、祈りつつ忍耐して待つべきであった。

『アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。』

アブラムにとって、せっかく自分の子を身篭ったハガルにそのように決断を下すのは辛かっただろう。
アブラムが受胎を聞いた時は喜びだったかもしれないが、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間である。
結局、3人ともども、苦々しい思いをする事になってしまった。

私達が学ぶべきは、身勝手に御言葉を解釈して行動するべきでない事、もしそのように肉にしたがって行動するなら、束の間の幸いは得ても、苦々しさがはびこり、その行動の生成物によって、嘲られてしまう、という事である。

忍耐して御言葉に信頼し、いつでも主に祈って求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:闇を通り過ぎる炉と松明(創世記15:7-21):右クリックで保存

『その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』(18節)
イスラエル民族が、エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの広大な土地を所有した歴史は、今に至るまで、無い。
この約束は今もまだ、成就へと向かっている真っ最中という事である。

アブラムは、出生の地・ユーフラテスの地から、エジプトに至るまで足で踏み歩いた。
神はかつて「その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(13:17)と言われた通り、彼が踏み入った土地すべてを、彼と彼の子孫のものとするわけである。

アブラムは主に、この土地を継げるという事を、何によって知ることができましょうか、と尋ねた所、主は「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」と言われた。
アブラムは言われたとおりの動物を用意し、神が何かをなされるのを待ったが、待っていてまず来たのは、禿鷹だった。(創世記15:8-11)

神が「用意せよ」と言われたものを用意すれば、すぐに何かが示されるわけではない。
主に示された捧げものを用意して主を待ち望む時、汚れた者がその尊いものを狙って来る事は、大いにありうる事で、その時、私達もそれを追い払わなくてはならない。

『日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。』(12-14節)

神の民であれば何の苦労もなくそのまま自動的に約束の地へと入れる訳ではなく、必ず試練の時、暗黒の時を通らされる。
「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(16節)
約束の地は、悪しき者の支配下にあり、その悪しき者達の悪が、神の秤の目分を満たすまで、裁きは執行されないからである。

ノアの時代やアブラハムの時代と同じように、この世の悪も、極みに満ちるまでは裁きは為されない。
神は義なるお方で、人が何も悪い事をしない内に「お前は悪しき者だ」と言って裁くことはせず、中々裁きが実行されない事がある人の目には遅いと感じるかもしれないが、その者達の邪悪さが誰の目にも明らかとされるその時まで、神は裁きはなされない。(黙示6:9-11)

「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(17節)

主は、煙を吐く炉と燃える松明という形で現れ、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎる事によって、アブラムとの契約に調印をされた。
詩篇18編によると、立ち上る煙と燃える火による顕現は、神の怒り、さばきのしるしである。
事実、後の時代に、主はエジプトで苦しんでいるアブラハムの子孫達のさけび声を聞き、火と雲を従えて降りてこられ、エジプトをさばき、アブラハムの子孫達を助けられた。

現在、この世は邪悪な者達が好き放題しているが、やがて主イエスは雲に乗って来られ、火によって裁かれ、そうして世は改まり、永遠なる主の支配が来るのである。

礼拝説教メッセージ音声:闇に輝く星々のように(創世記15:1-6):右クリックで保存

主の御言葉は、足のともしびのように近くを照らすだけで、遠い先は見えない。
神の導き方は、次に為すべき事だけが告げられ、人がそれを信じて服従したなら、さらに次の行き先が示され、それを繰り返して行く内に、主が用意されている祝福の全容がより明確に、具体的になっていく。
それ故、御言葉が与えられたら、人の側が応答し服従しないと、いつまで経っても、沈黙の暗闇に閉ざされたままである。

14章にて、アブラムは信仰の試練を見事に克服し、メルキゼデクからの祝福を頂き、ソドムの王の汚れた富を辞退した。
そのため、本日の箇所で神は、アブラムへの祝福の約束を、より具体的に告げられた。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
神はまず、自らを「盾」であると言われた。
神が盾であるからには、神はすぐ前におられ、敵の放つ火矢を全て防ぎ、罵声からも悪意からも、全て守って下さる。

続く日本語は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」だが、原文のニュアンスとは、かなり違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「私があなたの盾、飛び抜けて素晴らしいあなたの報酬である。」と言っておられる。
詩篇15:5でもダビデが言っているように、主ご自身こそ、私達の報いであり、報酬であり、身を守る盾である。

私達が主を信頼したら、その報酬として莫大な富や地所が手に入る、という事ではなく、主ご自身こそが、莫大な富や地所よりはるかに勝る、私達の報酬なのである。

アブラムは答えた。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」

このエリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼は後に、その名前の通りの事をする。
しかし、アブラムの跡取りは、彼のような「助け主」ではなく、彼自身から生まれる「子」である。
神はそのことを示すために、彼を外に連れ出して言われた。

『「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」』(5節)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

ここで使われている「子孫(ゼラ:子、子孫、種)」は単数形であり、そ単数形の「子孫」が、すなわちキリストの事である。(ガラテヤ3:16)
アダムとエバも、ノアの父レメクも、神が預言された人類を救う「子孫」に望みを託した。
アブラムも同じように約束を信じ、彼の子孫・キリストに望みを託したのである。
旧約の偉人たちは、まだキリストは生まれていなくとも、将来生まれて来る人類すべての救い主に望みを託し、義と認められたのだ。

アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、見たことだろう。
都会にいると分からないが、人の作った灯の無い大自然の夜空は、実に暗く、幾万と輝く星々のその輝きは、実に美しい。
暗闇の中に輝くきれいな星、、、大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星がある。

キリストにあって皆さんも、この暗闇の世代の中にあって、キリストのいのちを灯す星として輝いている。
アブラムが空を見上げた時、その星の中に、皆さんも見えたのではないだろうか。

この真っ暗な闇の世界にあって、光の子としてますます輝く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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