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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:いのちと死の区別(出エジプト記14:19-31):右クリックで保存

主はイスラエルに海の中を進むよう指示し、イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。
その所は、真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いたため、両軍は一晩中、互いに近づくことはなかった。(出エジプト記14:19)
主は敵の前に立ちはだかり、主の民の盾となって保護して下さるお方である。

主は区別をされるお方である事は、天地創造以来、一貫して示されている。(創世記1章)
神はまず、混沌の中から光と闇を区別され、天と水とを区別され、水と陸地とを区別され、昼と夜とを区別された。(第一日〜第四日)
そうして区別し、物事に秩序を立てて行った後に、いのちを創造された。
まず海と空の生き物、陸の生き物を、そして最後に、神に似た者である人を創造された。(第五日〜第六日)

そして主は創造のみわざを終え、第七日に安息し、神と人とは永遠に共に生きていくはずだった。
それなのに人は神に不従順となり、地は呪われ、死が入り、神と人は断絶状態となってしまった。
神はそこから、人を元々の「はなはだ良かった」状態へと戻すために、人の中から聖なるものと俗なるものとを区別して行かれ、その完成した様は、黙示録において記されている。

今回の主の行動はその遠大なご計画の一環であり、主はこの時、アブラハムの子孫(神の民)と、エジプト(世)とを、水とかわいた所によって、いのちと死へと区別された。
『モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。』(出エジプト記14:21-23)

イスラエル民族は、主が海を分けて海の間のかわいた道を得てそこを行ったが、エジプトも同じ事をしようとその道に入り込んで来た。
しかし、肉なる者は、聖なる者と同じ道に入り込む事はかなわないのだ。
『そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。』(イザヤ35:8)

『その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。』(出エジプト記14:25)
主はエジプトに対抗して戦われた。同じように、主はキリストにあって贖われた私達の盾となり、私達の代わりに敵と戦ってくださるのだ。

『そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。』(出エジプト記14:26)
エジプトの軍隊も、パロも、ノアの時代にように、水によって滅ぼされ、ひとりも残らなかった。

水は死を意味し、そこから救い出される事はバプテスマの型である。
『天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。』(2ペテロ3:5-6)
主の御手のわざによって水の中から救い出された民こそ、新しい世界を生きる事が出来るのだ。

主はエジプトを通して栄光をお受けになる、と言われていたが、まさしくその通りになった。
同じように主は、主の敵であるサタンを最終的に滅ぼし、主の民である私達を救う事によって大いなる栄光をお受けになり、主はその民にほめたたえられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:信仰が試される時(出エジプト記14:10-18):右クリックで保存

エジプトは主が力強く大いなるお方である事を忘れ、リベンジをしようと、牙を剥き出して襲って来た。
しかし、敵がそのように必死で襲いかかってくる時は、敵の最後が近い時期である。サタンが自分の最後が近い時に、もっとも怒り狂ったように。(黙示録12章)

『パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った』(出エジプト記14:11)
イスラエルの民はエジプトから出る時、主が共におられ、守られ、導かれている故に、意気揚々としていたはずなのに、いざ、目の前にエジプトの軍隊が追って来るのを見たとたん、泣き言を叫んでしまう。

「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。(出エジプト記14:12-13)
イスラエルの民は一体いつ、モーセにそんなことを言っただろうか?
敢えて言うなら、まだ主がエジプトに一つも災いを下されていなかった時、モーセがパロと一番最初にやり取りして、かえって煉瓦焼きの労働がきつくされてしまった時だろう。(5:21)
だが、主がそれ以降、立て続けにエジプトに災いをくだされて以来、もはや誰もそんな泣き言は言わなかったはずだ。
主が御業を働かせている間は何も言わないのに、目の前の状況が芳しくなくなると、主のして下さった良きことは一切忘れ去り、それでなぜかずっと以前に自分が発言したマイナス思考な内容だけは覚えていて、さも自分の預言が的中したかのように騒ぎ出し、偉ぶり、隣の信仰の同僚さえくじかせる。

私達も信仰が試された時、彼らのように信仰の先輩に向かって「主はどこにいる」とつぶやいていないだろうか。
主が敵を順調に懲らしめている内は、喜んでついて来るのに、いざ、敵の馬や戦車が砂埃を巻き上げながら目の前に迫ってくる現実を見るや、今まで主がいかに守って下さったのか、いかに力強いお方であったかが、一瞬でどこかに吹っ飛んでしまい、いらぬ事をつぶやいてしまう。

約束の地、乳と蜜の流れる安息の地に入るには、試練を経て、信仰という代価を支払う事が必要なのだ。
私達はこのような試練の時、いかなる行動を取れば良いのだろうか。

『モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。』(出エジプト記14:13)
モーセが言った事のポイントは「恐れるな」「しっかり立て」「主の救いを見よ」「黙れ」であった。
信仰の試練の時は、まず恐れない事。しっかりとキリストという土台の上に立ち、心配事を語りたい唇は黙らせ、主の救いを見ている事である。

この時点、主は何らかの方法で救って下さる事は示されていたが、具体的にどのような方法で、というのはまだ知らなかった。
主はどのように指示されたか。

『主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。』(出エジプト記14:15-16)
主はまず、主の御前でざわついている民とモーセに「なぜ叫ぶのか」と言われ、進むように促された。
どこに歩を進めるのか? それはなんと、海にである。道が無いと思っていた所へ、行け、と主は指示される。
主はモーセに杖を差し伸べさせ、海を分け、乾いて道になった所を踏み行かせるよう指示したのだ!

『わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。』(出エジプト記14:17-18)

主は言われる。進め、と。
しかも、パロとすべての軍勢、その戦車と騎兵とによって、栄光をお受けに成る、と言われた。
どのようにしてか?
それはこの時点、モーセも民も、まだ知らない。

主の導きは、足元を照らす灯火のように、先の先まで見ることはできない事が、よくある。
その時、人は、主が具体的に何を起こされるのかは知らなくても、信頼して歩んで行く必要があるのだ。
そうして主と共に歩み続けた道を将来振り返る時、主は確かに生きて働かれ、人の知恵を遥かに越えて素晴らしい導きをなさったのだと、人は知るのである。

礼拝説教メッセージ音声:主の「おびきよせ作戦」(出エジプト記14:1-9):右クリックで保存

「おびきよせ作戦」とはご存知の通り、おびきよせられている時は一見不利に、敵には有利に見えるが、それは意図的にそうするのであり、最終的に味方を有利に導き、敵を根絶させるために使われる。
主もよく、この作戦を使われる。その時人は恐れるが、最終的には主のはかりごとこそ素晴らしかったと人は知るようになる。

『主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。』(出エジプト記14:1-2)

主はイスラエルに、来た道を引き返して海のかたわらに宿営せよと命じられ、道に迷っているかのような行動を取らせる指示を与えられた。
あちらこちらを迷走し、片側は海という逃げられない所で宿営している状況。それは襲う者からすれば絶好のチャンスであり、自分達からすれば絶体絶命な立場に身を置きに行く行動だが、主はその先を見越しておられ、わざとそう命じられたのだ。

『パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。』(出エジプト記14:3)
主はパロがどう思うかも、どのような企みを持っているのかも含め、全てモーセに伝えられた。
しかも、パロの心をかたくなにするのも主がなさる事であり、そうする理由は、イスラエルに主がおられ、主は力強く偉大である事を、エジプト人だけでなく全世界に示すためである。

主の導きに沿って歩む私達も、人の目から見たら愚か極まりない状況、危険極まりない状況へと主が導くことがある。
しかしそれは、私達の側に力強い主がおられ、主が確かに私達を愛し、守り、導いておられたと、世が知るためであり、そして私達に全き安息を与え、思いもよらなかった程の富や名誉を与えられるためである。

『民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、また、えり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。』(出エジプト記14:5-7)
次章を見ると、彼らは以下のように言ったようだ。
『わたしは追い行き、追い着いて、/分捕物を分かち取ろう、/わたしの欲望を彼らによって満たそう、/つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう。』(出エジプト記15:9)

つまり、彼らがイスラエル民族を追いかける動機は、イスラエル民族に労働させて、自分達はラクする事である。
エジプトはつい先日、イスラエルの神からあれだけ散々な目に遭ったのに、この期に及んで、まだイスラエルの民をこき使って、自分達は楽しようと思っている。
ギャンブル依存症のように、労せずに豪勢な暮らしをする味をひとたび占めてしまうと、ひどい目にあってもなお止められず、決定的な滅びへ向かってしまうものだ。

イスラエルのほうは、つい先日まで奴隷として働いていた、戦う術も武器も持たぬ、ただ財宝を多く携えている弱い集団である。
彼らを襲ってくる相手は、当時の超大国の軍隊、戦車などの武器や兵器を持つ精鋭で、こちら側は、つい数日前までその国で奴隷であり、武器も無ければ戦術も知らない。
このまま行けば、自分達はただ殺され、分捕られ、ただエジプトに引きずり戻されるしか無い事は、目に見えている。

ただし、それは彼らに主がいなければ、の話である。

人の力では100%助かる見込みは無く、絶望しか無い時こそ、主は100%の力を発揮される。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

自分の力ではどうしようも無い所へと、主はわざと導かれる事がある。
その時こそ「十字架の経験」である。
その時、人は、ただ全能者の御手委ねるしかない。
主イエスが十字架上で頭をたれたように、私達もただ全能者の御手委ねる時、復活の偉大な力が私達に働くのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の宮をなおざりにしない(ネヘミヤ10章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:荒野で遠回りする経験の必要性(出エジプト記13:17-22):右クリックで保存

イスラエルはエジプトを脱出し、神が約束されたカナンの地への旅を始めた。
エジプトからカナンまでは、直線距離で約300キロ、約2週間で行けるとよく言われているが、なぜ神は、最短ルート・最短時間で、約束の地に行かせる事をしなかったのか。
その理由は、運転の実技も学科も学んだ事の無い子供に、いきなり運転させない理由と一緒である。
『パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て、上った。』(出エジプト記13:17-18)
出エジプトしたイスラエルの民は四百年もの間、奴隷だった。長い期間、奴隷として培ってきてしまったイスラエル民族の有様を主はご存知であり、まずそこを取り扱う必要があったのだ。

人はよく想像する。自分の人生の、あの荒野の40年さえ無ければ、あの無駄な時期さえ無ければ、もっと多くの時を有意義に過ごせたのに、と。
しかし、主のご配剤には、一切の無駄は無い。
もし、あなたの人生で一見無駄とも思えるような、荒野を放浪するかのような時期を通らされていたとすれば、その時期は、将来の安息と祝福を受ける上で必要だったという事だ。

イスラエル民族が荒野の道への迂回が必要だったのは、まず、主がモーセを神の山ホレブで召しだした時、主が「イスラエルの民はこの山(ホレブ)で神に仕えなくてはならない」と、元々言われていたからだ。(3:12)
それはイスラエル人に礼拝させるためであり、イスラエル民族に律法をさずけ、約束の地に入りそこで暮らす際のルールを教えるためであり、また、片時たりとも主の助けが無ければ死んでしまうような荒野 - パレスチナ地方の荒野は水も緑も無い岩砂漠 - において、主からの直接的な養いを受けつつ、主に従順してより頼む事を、実践的に学ぶためであった。
つまり、イスラエル民族にとって、荒野は約束の地で神の民として暮らす為の実技と学科を学ぶ場所であり、そこで整えられた人が、はじめて約束の地に入って暮らす事が出来るのだ。

『主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。』(出エジプト記13:21)
主はまず、雲の柱と火の柱によってイスラエル民族を導かれた。
それは「神の導きに従って歩むこと」「主の臨在と共に歩むこと」を学ぶためである。(民数記9:15-23)
また、雲の柱と火の柱は、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所となり、夜は闇を照らす光となる。(詩篇105:39、イザヤ4:5-6)
そうして主の守りに身を避ける事を、実体験にて学ぶためである。

こうして荒野において、主により頼む事を学び、実体験し、そうして訓練を受けてから約束の地に入ることができるのだ。
しかし、荒野で訓練を受けてきた訓練生であるイスラエル民族の大部分は、惨憺たるテスト結果だった。

『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。
なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記 14:1-4)

わたしは荒野のような状態をあと何年続ければ安息に入れるのか、わたしのこの苦しい状態はあとどのくらい経験しなくてはならないのか、といった質問をする人がいるが、あとどのくらい、という質問は、ナンセンスである。
民数記のイスラエルの民のような不信仰を続けるなら、決して安息の地に入る事は出来ず、荒野で屍を晒すのみである。
安息の地に入りたいなら、唇から不信仰な泣き言を捨て、ヨシュアやカレブのように、信仰告白すれば良いのだ。

「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。(同7-9節)

礼拝説教メッセージ音声:手のしるし、額のしるしとして(出エジプト記13:1-16):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。』(出エジプト13:1)
元来、全てのものは主が創られた故に、主のものであるが、だからと言って、私達に全てを捧げよとは要求されず、最初のもの、すなわち初物を主のものとして(聖別して)捧げるように定められた。

3節から10節の所は、種なしパンの祭りについて、モーセが主から受けた事を、民に伝えている。
『その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:8-9)

一体なぜ、「主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出された」事が、種なしパンへと結びつくのか。
それは、主がエジプトから脱出させて下さった時に、パンに種を入れる暇が無く、パン種を入れないまま焼いて食すしか無かった事を覚える意味もあるが、パン種は元々、聖書では良い意味で用いられていない。
主もパリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけるように、すなわち、御言葉に人間の教えを混ぜ込んで不純にしてしまう「パン種」に気をつけるよう言われた。

『そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、”主の律法をあなたの口に”置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:9)
この、パン種の入っていないパンは、よく口で噛み締めなくてはならない。
イスラエル民族は7日間、種なしパンをよく噛みしめて味わっていたが、同じように、御言葉という純粋なパンも、昼も夜もじっくりかみしめて味わう事によって、主はイスラエル民族に御言葉をじっくり味わう事を、体験的に実施させ、学ばせていたのである。

11節から16節までの所では、モーセは民に、初物は主のものであり、贖う必要がある事を伝えている。
『あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。』(出エジプト記13:12)

ここでは全て初めに胎を開く者、および、家畜の初子についての指示をしているが、特に、ろばという動物についての指示をしている。
色々な動物がいる中で、なぜ、ろばなのだろうか?
ろばは、イエス様をお乗せしてエルサレムへ入城した動物として有名で、イエス様を乗せて運ぶ者、すなわち、神の国の働き人を示す比喩として良く用いられている。
神の国の働き人は、小羊イエス様の血によって贖われている事が必須条件で、そうでなければ、首を折らなければならない、すなわち、働き人たる事は、止めなくてはならないわけだ。

また、種なしパンの時と同じく、初物を捧げる事も「手」と「目の間(ひたい)」のしるしとして、いつも覚えておかなくてはならない、と定めている。(出エジプト記13:14-16)
「目の間(ひたい)」という部位は、その人が誰に属するかという「しるし」が置かれる所であり(黙示録13:16、14:1)、「手」は、思いの内にある事を実際に働く部位である。

私達も、種を入れぬパンを覚え、初物は捧げるべき事を覚え、それを実際に行動する時、私達は「神のものである」という”しるし”があるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存

『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)

ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。

『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。

荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。

『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。

『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。

このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)

しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。

割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。

キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。

礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存

今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。

『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)

主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。

神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。

『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)

パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。

モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)

『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)

これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)

イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。

礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存

モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)

ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。

『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。

『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。

『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)

この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。

しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。

モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。

『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)

『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)

本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存

過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)

除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。

イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)

酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。

パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。

『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。

小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。

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