• カテゴリ 講解説教(旧約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:寄留者として(創世記23章):右クリックで保存

「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(創世記23:2)
アブラハム人生最大の試練、イサクを捧げる場面では、彼の感情表記は一切無かったというのに、ここでは、アブラハムは胸を打ち、嘆き悲しんだと書かれている。
彼がいかにサラを愛し、大切にしていたか、いかにこの時悲しかったかが伺える。

アブラハムは、その地に住んでいるヘテ人たちに言った。
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
主からは、その地を与える、と約束されているのに、彼はあえて、自分は「あなたがたのところに一時滞在する寄留者」だと言っている。

私達も、この世では寄留者である。
世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく私達のものである(1コリント3:22)けれども、あえてそれを主張せず、世においては、持たない者のように、寄留者という立場で歩むのである。
なぜなら、私達は「主のもの」であり、本籍を天に置く者達であるからだ。

アブラハムはこの地において「神に選ばれた方」(英語の聖書では「神の王子」)と言われていた。(創世記23:6)
この事から、彼は、富においても、人格者としても、そして、全能の神が彼を明らかに祝福している点においても、彼は異邦人の中にあって、一目置かれた存在であった事がわかる。
私達も、教会の中でしか通用しないクリスチャンであってはならず、世に出ていき、キリスト者としてしっかり良き評判を得る事が望ましい。
御言葉を守り行う事によって、私達は祝福を受け、それを見た人達が全能なる神に栄光を捧げるようになるからである。

『アブラハムはヘテ人にていねいにおじぎをして言った。「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」』(創世記23:8-9)

実に、へりくだった物腰、謙遜な言い方である。
この地において祝福され、力があるのに、つけこんで傲慢にならず、彼はただ、エフロンの所有である畑地を所望した。
エフロンは彼に「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。」と応え、アブラハムは再び皆の前でおじぎをして答えた。
「私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。」

エフロンの「差し上げます」という言葉は、ずいぶん太っ腹に見えるかもしれない。
これは、当時のヘテ人(ヒッタイト人)の商取引時の慣習で、売る側は最初に「差し上げます」と言い、買う側は「いえ、代価をお支払いします」と辞退し、そこから具体的な値段交渉が始まるのが、当時の通例であった。

エフロンはアブラハムに答えて言った。
「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。」

当時の資料によると、村ひとつの値段は、百から千シェケル程だったので、一つの畑地に対して四百シェケルという値段は、かなり高額である。
四百シェケルは値段交渉の最初の一声であり、本来なら、そこから値下げ交渉が始まるはずだったのに、アブラハムは実に太っ腹で、言い値の最も高い段階で、それを成立させてしまった。
人々は、アブラハムの鷹揚さ加減に驚いたであろう。

事実、アブラハムにとって、四百シェケルは、大した事では無かった。
出費を抑える為に値段交渉は出来たであろうが、金銀など主がいくらでも備えて下さる事を知っていたアブラハムは、むしろ、仮住まいである異邦人の地で、平和に、神に祝福された者として、振る舞ったのだ。

こうしてこの畑地は、正式にアブラハムのものとなった。
彼はこのカナンの地の全体を、得た約束を主から頂いていたが、事実上、彼の人生の中で得た土地は、このわずかな畑地だけだった。
彼の富と武力をもってすれば、さらに多くの土地を得ようと思えば、得る事が出来たであろう。
にもかかわらず、彼が得たのは、墓場のみだった。

信仰の父であり、私達の父であるアブラハムが、そのようにしたからには、私達も、この世においては、いかに生きるかではなく、いかに死ぬか、という用意すべきである。
アブラハムは、自らを一時滞在する寄留者であると告白したように、私達もこの世界での歩みは、一時滞在の寄留者という立場である。

私達には、さらにすぐれた都、天の故郷がある。(ヘブル11:9-16)
そこにはアブラハムやイサクがおり、信仰の先人たちがおり、彼らは、私達が地上での信仰の歩みを全うして、やがてそちらに行くのを、待っている。
この世においては寄留者として生き、この世に煩わせられる事なく、ただ天の故郷を日々目指して歩み、この地上においてさえも、豊かに祝福されて歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:死と復活、そして永遠の祝福(創世記22:15-24):右クリックで保存

「主の山に備えあり」とよく言われている。
私達に与えられた最高の備え、最も感謝すべき備えとは、身代わりの羊である。
イサクは、身代わりの羊が備えられたお陰で、死ぬべきいのちが救われたように、イエス様が自らのいのちを投げ打ち、身代わりの羊として私達の罪を担って下さったからこそ、私達は救われたのだから。

『御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。』(創世記22:16-17)

今まで何度か主は現れ、約束を示されたが、「誓う」という言葉を用いられたのは、今回初めてである。
アブラハムが、自分のいのちよりも大切なイサクを捧げた事によって、彼への祝福の約束はここに極まり、主は誓って、確約へと至ったのだ。

人は普通、自分よりも偉大な者にかけて誓う事によって、あらゆる反論を封じる保証とするが、神は、ご自身よりも偉大な者が無いため、ご自身にかけて誓われた。
神は偽ることの無いお方であるため、元々誓う必要は無いはずだが、それでもわざわざ誓われたのは、人に錨のような安心を与えるためであり、また、励ますためである。(ヘブル6:13-19)

神は、アブラハムを豊かに「祝福」し、大いに「子孫を増やし」、その「子孫は敵の城門を勝ち取る」、という三つを誓われた。
ここに「子孫」という言葉が出てくるが、いずれも英語では「seed」、すなわち、種という意味の単数形である。

『アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。』(ガラテヤ3:16)
つまり、この単数形の子孫は、キリストの事で、天の星、海辺の砂のように増やされるのも、敵の城門を勝ち取るのも、全てキリストである。

「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53:12)

アブラハムの、この最高の従順によって、エバ以降、人類に与えられていた救いの約束が、誓いと共に確約した。

その約束とは、創世記3章15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」で、すなわち、女の子孫(単数形)が与えられ、彼がサタンの頭を砕く、という約束である。
蛇はかかとを砕く、すなわち、ある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この子孫は、サタンの頭を砕き、致命打を与え、勝利し、そして、全人類はこの御方によって祝福に入る。
この、人類を救うメシヤである単数形の子孫が、アブラハムから出てくる事が確約されたのだ。

「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫(単数)によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)
アブラハムがこの祝福の誓いを勝ち取る事ができたのは、彼が主の声に聞き従い、実に、自分のいのちよりも大切な、イサクを捧げたからである。

自分自身を十字架の死に明け渡す事、そして、死から復活する事。これこそ、私達キリスト者の信仰の根幹である。
私達は、主の御前に自らを降ろし、自らを十字架につける事抜きには、復活はあり得ず、祝福はあり得ない。
自らを主の御前に降ろし、自らを十字架につけるなら、3日の死の後に復活の力が働き、その力は、世の何者も、サタンも、死にさえも、打ち破られる事は無く、永遠のいのち、永遠の祝福に入るのである。

礼拝説教メッセージ音声:主の山に備えあり(創世記22:9-14):右クリックで保存

アブラハムがイサクをささげる場面には、キリスト者にとって重要な様々な予表が埋め込められている。

父が、大切な一人子を捧げる。
その事に、御父なる神の、ひとり子イエスキリストを犠牲にする葛藤を見る。

アブラハムは、自分のいのちよりも大切な一人子を、刀を取ってほふろうとしたが、主が備えて下さった雄羊を身代わりとして捧げ、そうしてイサクは生かされた。
私達もまた、本来は自分の罪の故に死に処されて当然であるのに、まことの子羊・キリストが身代わりとなって罰を受けてくださったおかげで、私達はこうして、なお生かされている。

アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていた約束を信じ、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたため、信仰によって、イサクを死者の中から返してもらった。(ヘブル11:17-19)
それ故、イサクから出るアブラハムの子孫は、死をくぐって聖別され、その従順が神の前に義とされ、全人類を救いへと導く祭司のような民族とされたのである。
キリストもまた同様である。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブル5:7-10)

子であるイサクは、父の縄目に自ら縛られ、父によって神に捧げられてしまった。
イエス様はゲツセマネで、悲しみのあまり死ぬほどだったように、イサクも、父に縛られ刀を向けられた時、悲しんだであろう。
イエス様は「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、イサクも、見捨てられたと思ったかもしれない。
しかし、イサクは死から救われ、生かされ、祝福された。同様に、イエス様も、死から解き放たれ、永遠に生きるものとされた。

イサクは、父によって一方的に捧げられる事によって、祝福された者となった。
アブラハム、イサク、ヤコブの中で、最も平和でラクな生涯を送ったのは、イサクであった。
彼が種を蒔くと、百倍の実を結び、彼が土を掘ると井戸が湧き出、それを奪われても尚祝福されるので、恐れをなした異国の王は、彼に同盟を申し入れて来たほどだった。

父によって一方的に捧げられる事によって、大いに祝福される事をイサクは経験したが、イエス様もまた同様である。
「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」(イザヤ53:10-12)

「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:14)
私たちは「主の山に、備えあり」という言葉を、よく、物質的な必要の満たしを主は備えて下さる、というニュアンスで用いる。
しかし、主がアブラハムに備えて下さったものは、かけがえのない一人子の命を救うための身代わりという、尊いものであった。
主が私達に備えて下さった、最も良きもの、それは、私達のいのち身代わりとなる、子羊キリストである。

アブラハムは、主は備えて下さるお方である事を経験し、子孫達に伝えたであろう。
主は、死んだも同然の者からいのちを息吹かせて下さるお方であるという事、主は、死人の中からよみがえらせて下さるお方であるという事、主は、いのちを備えて下さるお方であるという事を。
私達もまた、主が成して下さった最も良きこと、すなわち、御父の贖いを、人類の身代わりとなって下さった御子を、私達を助け取り成して下さる聖霊を、世に伝えるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:愛するイサクをささげなさい(創世記22:1-8):右クリックで保存

『神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」』(創世記22:2)

神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」と言われたからには、アブラハムが、どんなにイサクを愛しているか、どんなに大切かを、神はよくよく知っておられた。
それを知った上で、なお「ささげなさい」と言ったのだ。

神が私達に試練を与えられる時、神は私達を知らないから辛い思いをさせる、のではない。
神は私達を良く知っておられ、その上で、試練が必要だからこそ、私達の弱さや辛さを御心に留めつつも、試練の中をくぐらせるのだ。

この、過酷とも言える命令に、アブラハムは素直に従い、間髪いれずに、翌朝早く準備を整えた。
この時、一緒に行った者は、イサクと若者二人のみ。

若者たちに、モリヤの山で具体的に「イサクをささげに行く」などとは言っていなかったし、恐らく、妻サラにも「イサクを捧げる」とは言わずに出たのであろう。
主から与えられた約束が、信仰の弱い人のつまづきになってしまうような場合、全ては明らかにせず、隠しておいたほうが良い。
そうでないと、信仰のある者をも巻き込んで、御心をくじいてしまう。

イシュマエルを追い出すようにサラから言われた時、彼は非常に悩んだ(創世記21:11)と書いてあるし、サラが死んだ時も、アブラハムは嘆いて泣いた事を、聖書は記述している(創世記23:2)のに、この、アブラハムの人生最大とも言える試練の時、なぜか、彼の心理描写を聖書は一切記述していない。
ただこの時、彼は、二つの言葉を言っている。

まず一つ目、『アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」』(創世記22:5)
つまり彼は、彼と息子は、生きて、また戻ってくる事を、信仰告白していた。

二つ目の言葉は、イサクに答えた言葉「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(創世記22:8)である。
これらの言葉から分かるのは、アブラハムは、神はイサクを必ず生かし、焼き尽くす献げ物の小羊は、神が備えてくださる、と、信じていた事である。

イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい、という命令は、人間の常識からは、矛盾した命令である。
神は元々、イサクの子孫を祝福し、子孫を増やす約束しておられたのに、今回、焼き尽くす献げ物としてささてしまったら、死んでしまうではないか。そして神の命令は、成就しないではないか、と、普通の人なら思う。
ところが、百歳と九十歳の夫婦の間に子を生ませることの出来た神の言葉である。
アブラハムは、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:19)

神のものとされるには、死と復活が条件である。

イエス様は言われた。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:26-28)

ここで使われている「命」は、原語は「psyche」、サイコロジー(心理学)の語源で、すなわち、思い、願望、感情の座である。
すなわち、イエス様の故に、自分の思い、願望、感情を捨てる者は、自分の心理作用を救う。
しかし、あくまで自分の思い、願望、感情を生かそうとする者は、心理は破綻する、という事である。
サイコセラピーやカウンセリングでは、基本的に、クライアントの思い、願望、感情を肯定し、あたかも壊れ物のように大切にするが、それは、問題解決を延々と先延ばしにしているだけである。

問題が起きて行き詰まったら、まず、十字架の元に行き、御言葉の剣のもとに身を置き、主イエスに、たましいと霊を切り分けていただくのみである。
それこそ、十字架の死にあずかる事である。
主の故に「心理」を捨てる者は、三日目の後によみがえり、以前のものとは比べ物にならない程のすばらしい、「永遠のいのち」が息吹かれるのである。

アブラハムは、主からイサクを捧げるよう命じられた時、間髪おかず、すぐに捧げる用意をし、自分の思いや願望、感情を一切抜きにして、ただ御言葉に従った。
アブラハムのように、主の御前に自分の思いや願望、感情は捨て、御言葉に服従し、全ての面において自身を主のものとし、新しいいのちにあずかる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:周りが恐れるほどの祝福(創世記21:22-34):右クリックで保存

「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓って(シャバ)ください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」(創世記21:22-23)
かつてはアブラハムのほうがアビメレクを恐れ、妻を妹だと言ったために妻はアビメレクに召し入れられてしまったが、神様の直接介入によってその時は助けられた。
そして今回、アビメレクのほうがアブラハムを恐れ、将軍であるピコルも連れて、同盟を申し出て来た。
神が共におられて、やる事なす事、祝福しておられるからである。

キリスト者の歩みも、この世においてはアブラハムと同様、遊牧民のような流浪の仮住まいであるが、忠実に歩んでいるのであれば、それは祝福の歩みとなり、こちらが恐れているような世の王が逆にこちらを恐れ、むこうのほうから同盟を申し出て来るのである。

同盟の誓いをした時、アブラハムはかつてアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについて、アビメレクを責めた。
パレスチナ地方では生命線である井戸である。それを奪われたままの状態だったのが、この時、正式な形で取り返す事ができた。

こうしてアブラハムとアビメレクは、同盟を結んだ。
「それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。二人がそこで誓いを交わしたからである。」(創世記21:31)

しかし彼の子イサクの代になると、その同盟は破られることになり、イサクは井戸を掘っても奪われ、掘っても奪われ、という事を繰り返すが、それでも、平和を愛するイサクには祝福が追いかけてまわり、結局、アビメレクのほうが恐れをなして、イサクの代でも、むこうのほうから同盟を申し出て来ることとなる。(創世記26章)

アブラハムのように祝福される条件は、何だろうか?
申命記28章に、何をしたら祝福され、何をしたらのろわれてしまうかが、詳細に書いてある。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。」(申命記28:1)

そうするなら、以下の祝福が待っている。

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。
あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。」(申命記28:2-6)

「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。
あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。籠もこね鉢も呪われ、あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。あなたは入るときも呪われ、出て行くときも呪われる。」(申命記28:15-19)

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。」(申命記30:19-20)

礼拝説教メッセージ音声:覆いを取り除いていただく(創世記21:14-21):右クリックで保存

ハガルとイシュマエルの母子は、パンと、水の革袋だけ背負わされ、家から追い出され、荒野をさまよい歩き、いよいよ水が尽きると、母は子が死ぬのを見ていられないので、少し離れて座り、声を上げて泣いた。(創世記21:14-16)
非常に涙を誘う場面である。
ある情の厚い方は、この場面を読んで、どうしてアブラハムはこの母子にこんなにひどい事をするの、神様はどうしてそういう事を許されるの、と言っておられた。

しかし、感情に支配されてしまうと、多くの重要な事を見逃してしまうものである。

ベエル・シェバには、幾つかの井戸や町があったはずである。
それなのに、彼女らは自暴自棄になっていたのだろうか、よりによって「荒れ野」方面をさまよい歩き、水が無くなっただけで子はまだ死んでいないのに、もうだめだ、子は死んでしまう、と、悲嘆に暮れて子を突き放し、彼女は離れた所で座って泣いて、すぐそばに井戸があるのに、見逃してしまっていた。

また彼女は、最も忘れてはならない事を忘れていた。
『「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」』(創世記16:8-10)
その約束が与えられた時、御使いはわざわざイシュマエル(神は聞かれるという意味)という名前までつけられて、神様が確かにこの子を祝福しておられたのだ。
主から与えられた約束こそ、最も忘れてはならない事である。

アブラハムは、主からの約束「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」(創世記21:13)という約束をいただいたからこそ、彼女らを自分たちの庇護から離し、主の御手に委ねる事が出来た。
しかしハガルは、感情に思いが支配されてしまい、御言葉の約束を忘れ、いらぬ苦労、いらぬ放浪、いらぬ涙を流す事になってしまった。

ハガルの場合、悲しみが彼女の目を見えなくさせていたが、ベオルの子バラムの場合、欲望が彼の目を見えなくさせ、御使いの剣へ両断されるために突進しようとした。(民数記22章)
パウロも、自分の強い思い込みによって、多くの聖徒たちを牢に入れたり殺めたりしてきたが、主の直接介入によって、目の鱗を取り除いていただいた。

主は、思い込みに目が眩んでいる私たちを、憐れんで下さる。
主はハガルの目を開いてくださり、約束を思い出させ、イシュマエルを生きながらえさせて下さった。
そればかりでなく、主がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射るほどの、強い者へと成長させて下さった。(創世記21:20)

主がそこまでして下さったのだから、ハガル達は主に感謝し、主に喜ばれる道を進むべきであったのだが、そうではなかった。
「彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。」(創世記21:21)
ハガルは、信仰のしっかりした人をイシュマエルの嫁にやるのではなく、自分と同じハムの子孫であるエジプトから嫁をもらい、主の御言葉に頼って生きる生き方から離れてしまった。
この母子は、やはり、アブラハムから離れるべくして離れたのであろう。

私達は、感情や欲望、思い込みなどによって作られてしまった覆いを、取り除いていただくべきである。
それは、それはキリストによって取り除かれるものであり、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのだ。(2コリント3:14-16)

礼拝説教メッセージ音声:肉の子と約束の子(創世記21:1-13):右クリックで保存

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創世記21:1-2)

いよいよ、約束の子イサクが生まれた。
この時、アブラハムは百歳、サラは九十歳。
まことに主は、いのちの君である。
主がいのちを与えると言うのであれば、たとい百歳からでもいのちは生まれ、たとえ九十歳であっても、子に乳を飲ませる事が出来るのである。

「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)
サラのこの言葉から、彼女の穏やかな満足を見る事ができる。
彼女は長年、子を産まない女として、もはや手遅れの女として、人々から見向きもされなかったのだから、彼女の子が生まれた事はどれほどの喜びであったろう。
約束を待ち続け、それが与えられた者には、決して揺るがされることのない平安が与えられるのである。

イサクが乳離れした日、ハガルが生んだ子イシュマエルが、イサクをからかっているのをサラは見た。
からかった動機は、おそらくねたみ、嫉妬である。
イシュマエルからすれば、それまで自分がアブラハムの子として育てられ、中心人物かのように見られていたのに、本妻であるサラからイサクが生まれた途端、注目の中心が彼に移ってしまったからである。

サラはそれを見て、怒りが爆発してアブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創世記21:10)
アブラハムからすれば、イシュマエルも、自分のかわいい子である。相当悩んだ。

アブラハムが神に聞かず、妻に聞きしたがって、ハガルを通してイシュマエルを産んでしまった結果、ハガルにも、イシュマエルにも、アブラハムの家全員にとっても、悲しい結果になってしまった。
ここから私達も、よくよく学ぶべきである。

御心を退けて、自分のよかれ、自分の浅はかな知恵によって生んだものは、冷酷な程に、苦々しさしかもたらさないのだ。
主によらない人間のがんばりによるものは、長くは続かず、それがどんなに栄えようとも、やがて主によるものによって、置き換えられてしまうのである。

サラとハガルの二人は、肉の力に頼って生きる人間と、神の約束に頼って生きる人間をあらわしている。(ガラテヤ4:21-27)
神の約束にではなく、肉の力に頼って生きる人間は、自分の力、頑張り、手練手管で生きるが、所詮、奴隷の子であり、やがて追い出されていく。
しかし、神の約束に頼って生きる人たちは、主から着せられる圧倒的ないのちの力によって、生きるのである。

イサクが乳離れした時、肉によって生まれたイシュマエルが、“霊”によって生まれたイサクを迫害したように、今でも同じようなことが行われている。
『しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。』(ガラテヤ4:30-31)

皆さんは、肉のがんばりによって生きて奴隷として生き、やがて追い出されたいだろうか。
それとも、神の約束に頼って行き、主から圧倒的ないのちの力を着せられて自由の者として歩み、相続を受けたいだろうか。
その判断は、皆さん自身に委ねられている。

礼拝説教メッセージ音声:ゲラルでの失敗 - イサクを生む前の最後の整え(創世記20章):右クリックで保存

「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
創世記の学びをしている皆さんは、以前にも似たような事があったのを、思い出した事だろう。
彼は、20数年前も、エジプトでも同じ事を言ったために、妻はファラオに召しいれられてられてしまい、神の直接介入によって、妻は助けられた。

彼らはあれから色々な経験をし、信仰的にも成長しているはずである。
エジプトでの時は、愛する妻サライ一人さえ守れなかったのに、その後、甥のロトが強力な王達の略奪隊にさらわれた時、信仰によって、わずか318人で立ち向かい、王たちを滅ぼして身内ロトを救ったばかりか、多くの分捕りを得た程の事もあった。
そんな彼が、こんな初歩的なあやまちを犯すなどとは、逆に信じられないかもしれない。

いかに信仰が立派な人でも、あやまちは、犯すものである。
あの人が、こんなあやまちを犯すなんて信じられない、というような事例は、聖書に限らず日常世界でも幾らでも見いだせる。
ひと度、高みに達したら、それでもう生涯、過ちを犯さなくなる、というものではない。
日々、主の御前に信仰を緩めず、忠実に歩み続ける事こそ、大事である。

アブラハムには、確かに、アビメレクに対する恐れがあっただろう。(11節)
しかし今回の失敗の原因は、もっと、無意識的・習慣的な事に起因したミスであったと思われる。

彼は当初、ある約束を、妻と交わしていた。
すなわち、彼は妻に、どこへ行っても「兄です」と言うようにと、父の家を出た時、頼んでいたのだ。(創世記20:13)

「妻」ではなく「妹」だと名乗るようにして欲しい、という、信仰の未熟な時期に交わした約束。
それは、はるか昔に取り交わしたもので、初対面の人と合う時は、もはや無意識的に、習慣的に「兄妹です」と言うようになってしまっていたかもしれない。
その無意識的、習慣的に言う「偽り」を、この地方に来た時、いつものように言ってしまったため、またも、妻がアビメレクの元に連れて行かれてしまったのであろう。

次の21章では、いよいよ待望の子、イサクが生まれる。
いよいよ彼らは、大いなる民族の父母となる、その直前、神はアビメレクを通じ、この習慣を取り扱われたのではなかろうか。

アブラハムとサラは異母兄妹で、確かに「兄妹」である事に変わりはない。
しかし、周りに「兄妹」と公言しているのであれば、二人の間に子供が生まれた時、周りは、あれ?二人は兄妹ではなかったの?という事になってしまう。
それがどうして神の栄光となりえるだろうか。
つまりこの約束は、自分たちには「子が生まれない」という不信仰が前提の約束であり、神はこれを徹底として扱われた。

今まで、彼らが「兄妹」と公言した事によって、それが彼らに様々な利益をもたらしたかもしれない。
しかし、兄妹から子が生まれてはならない。子供が生まれるのは、夫婦からである。
神の栄光のためには、アブラハムとサラは「兄妹」ではなく「夫婦」であるべきであったのだ。

世の慣習では、当たり前のように許されている事でも、神の国で許されない事がある。
私達も、もはや無意識的に言ってしまう嘘や、昔取り交わした不信仰な約束にもとづいて、不信仰な行いを、無意識的に行ってしまう事があるかもしれない。
神は、私達をさらなる祝福を継ぐに相応しくしようとする時、そのような習慣を気づかせ、強制的に改めさせられる。
それはたとい、今までは咎められなかったような事や、世から見れば何ら問題無く見えるような事であっても、神の民としての祝福を受け継ぐ者にとって、それは改めなくてはならないものであれば、神は介入される。

アブラハム達は、その「習慣」が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に公言するようになった。
こうして彼らは、子を生む準備が整い、子を生んだ時、周りに堂々と証できる準備が、整ったわけである。

ますます神の国民らしく整えられ、祝福を継ぐに相応しく整えられる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦の原因(創世記19:30-38):右クリックで保存

「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。」(創世記19:30)

彼らは最初、主に、「あの町(ツォアル)を滅ぼさないで下さい」と言って、その願いは聞き届けられた。
それなのに、彼らはやすやすとその町を出て行ってしまった。
主の言葉に信頼するのではなく、目に見える所に従って、そこに住む事を、恐れたからである。

ロトは、今度は人々から隔離して生活する事が良しと思い、またも彼の目に見える「良かれ」に従って行動したのだが、その結果、何が起こったか。
『姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」』(創世記19:31-32)

ロトの娘達は、なんと、父親に酒を飲ませ、父親と寝る事によって、子をもうける事をしてしまった。
ソドムでは、性的不品行が、かなりはびこっていたが、彼女たちは、そこで育つにつれて、ソドムの基準で行動する事に何のためらいも無く、成長してしまったのだろう。

信仰者が、御言葉にではなく「自分の良かれ」で判断し、安易に世と隔絶して生きようとすると、信仰が成熟していない子供たちは、どうなるか。
ロトの娘たちは、性の対象としてはならない父親さえ、性の対象としてしまった。

性の営みは、父母を離れて成熟した夫婦だけに許された、生んで増えて地に満ちるいのちの祝福であるが、信仰の歩みではなく、自分よかれの歩みを続けていると、その営みは、愛も、同意も、喜びも無い、機能的な行為へと成り下がってしまうのだ。
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、それは神の民が聞いても、世の人が聞いても、恥であり、蔑みの対象でしかない。

この娘達は、年齢的に、幼い頃からアブラハムと交わりがあったであろうし、アブラハムは、ロトや娘達がまさかそこまで成り下がるとは、思ってもみなかったろう。
アブラハムと交わりが出来るチャンスの時に、しっかりと交わりの内に主を信頼する事を学んでいれば、このような事は無かったはずである。
アブラハムは、御言葉の約束を信じて歩み、ロトは、御言葉よりも目に見える所で判断して歩んでいた。
ロトは、アブラハムと一緒にいた時、しっかりと信仰を学ぶべきだったが、それを軽んじてしまった。
聖徒の交わりを軽んじてはならない。
目に見える所を頼りとする歩みは、右往左往して多くの困難に遭った挙句、アブラハムと一緒にいた時に築き上げた財産を失い、家族も失い、ひもじい思いをするようになってしまうのだ。

『やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。 妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。』(創世記19:37-38)

「モアブ人」をそのまま訳せば「父親より(生まれた)人たち」、「アモン人」は「肉親から生まれた人たち」、そんな呼ばれ方は、かなり恥ずかしい。
モアブ人・アモン人は、ロトの子孫であるがゆえに、また、ロトを執り成したアブラハムの故に、主は、イスラエルは彼らと敵対してはならない、と申命記2章で命じられた。
しかし彼らは、イスラエルに不品行をもたらしたり(民数記22-25章)、攻撃を仕掛けたりして来たりした。

しかし、いかに近親相姦の子であろうと、どんな血筋の者であろうと、主に信頼し、全能者の翼の影に身を寄せようとする人に、主は、恵みを施される。

事実、全能者の翼に助けを求めて来たルツは、モアブの娘である。
彼女の信仰の故に、彼女の家は絶えずに済んだばかりでなく、キリストを生む家系へと連なり、全世界にも恩恵をもたらした。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれ「た」のである。」(ヨハネ1:12-13)

キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」。
いかに自分が、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、先祖がどんな呪いの契約を霊的に結んでいようと、キリストを信じる者は、以前の自分は死に、神によって新しく生まれた者である。

ロトのように見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのようにしっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:滅びの火は真価を試す(創世記19:23-30):右クリックで保存

ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(創世記19:26)
ここの「振り向いた」の言葉の構成は「振り向いて+見る」で、「見る」はヘブル語でnawbat、すなわち「注意して見る」「没頭して見る」という意味である。
つまり、ロトの妻は、振り向いてはならないと言われていたのに振り向いて、しかも滅んで行く様をじっくりと見入ったのだ。
それでソドムへの裁きが彼女にも追いついてしまったのである。

彼女がいたのは、ロトのうしろである。
つまり彼女は、滅ぼされるべき町ソドムに、また、滅ぼされるべきソドムにある家財、栄華、暮らし向き、娘や婿たちに未練があったため、振り返ってしまったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:16-17)

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(創世記19:29)
脱出前のロトの信仰と、神様に対する従順は、かなり弱っていたが、それでも憐れみが注がれたのは、アブラハムの執り成しの祈りお陰だったのだ。
ように執り成しの祈りは、信仰の弱い者が立ち得なくなってしまった時でも、執り成す者の祈りによって、助けられるのである。

ロトはアブラハムと別れた時、ロトのほうが有利であるかのように見えたかもしれないが、結局彼は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に引き寄せられた結果、全てを失って、身一つで逃げるはめになってしまった。
私達もやがて、日々の信仰の真価が試される日が来る。

私達の信仰の土台、それは、キリストである。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出され、かの日にそれは明らかにされる。
かの日は火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味し、ある者の建てたものは残り、報いを受け、ある者の建てたものは、燃え尽き、損害を受け、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる。(1コリント3:10-15)

永遠に残るもの、それは、真き心からキリストに捧げる捧げ物、キリストを信じる信仰によって行う、行いの全てである。
永遠に残らないもの、それは、キリスト抜きに行った行いの全て、自分由来のもの全てである。
ベタニヤのマリヤは、イエス様に300デナリの香油を注ぎ、永遠に残る記念の礼拝を捧げた。
しかし、彼女の礼拝を見積もったイスカリオテのユダは、彼女の捧げ物が永遠の恥の材料となってしまった。

アブラハムのように、滅びの火が届かない、神の示された所に住み、世のものではなく、自分由来のものにでもなく、御言葉に従って生きる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest