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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

門衛となって聖なる所を守れ(1歴代誌26:1-32)
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26:1 門を守る者の組は次のとおりである。すなわちコラびとのうちでは、アサフの子孫のうちのコレの子メシレミヤ。

26章は、主の宮の門や宝物庫を守る門衛の組み分けが記されている。
門衛というと今で言う所の警備員である。コンサート会場では、皆の前で歌う人に比べれば警備員は全く見向きもされないかもしれないが、ことに、主の宮において門衛は、歌う人、奉仕をする人に負けず劣らず大切である。
実際、門衛についての記述は、前章の聖歌隊の記述よりも文面が多く割かれている。

門衛は、出入り口に立ち、汚れた者、不法な者が出入りしないように守る。

黙示録21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

黙示録におけるまことのエルサレムには、不法者は一切入れないように、今、私達という生ける神の宮については、私達自身が、私達の門、すなわち、目や耳、口という出入り口をガードする役割が、私達に与えられている。

2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
 6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
 6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。

この、私達という生ける神の宮をしっかりガードするなら、その人は豊かに祝福される。

26:4 オベデ・エドムの子たちは、長子はシマヤ、次はヨザバデ、第三はヨア、第四はサカル、第五はネタネル、
26:5 第六はアンミエル、第七はイッサカル、第八はピウレタイである。神が彼を祝福されたからである。

主は、門衛をするオベデ・エドムを祝福された、と書いてある。
彼の子孫には、有力者が出て、子孫の数も増えて行った事が続く節にあるが、23章以降に登場する神殿奉仕者の中に、「彼を祝福した」とわざわざ記述された事はなかった。
聖なる門の出入りを守る者は、確かに祝福を受けるのだ。

26:13 彼らはそれぞれ門のために小なる者も、大なる者も等しく、その氏族にしたがってくじを引いた。
26:14 東の門のくじはシレミヤに当った。また彼の子で思慮深い議士ゼカリヤのためにくじを引いたが、北の門のくじがこれに当った。

門衛の奉仕もまた、くじによってその分担が割り当てられ、人の意図は一切排除された。
続いて、聖なるものを保管する宝物倉の奉仕者についてである。

26:20 レビびとのうちアヒヤは神の宮の倉および聖なる物の倉をつかさどった。
26:21 ラダンの子孫すなわちラダンから出たゲルションびとの子孫で、ゲルションびとの氏族の長はエヒエリである。
26:22 エヒエリ、ゼタムおよびその兄弟ヨエルの子たちは主の宮の倉をつかさどった。

私達は、倉である。
善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。(ルカ6:45)
だから、私達自身という倉に、良い物をたくわえ、悪いものは排除する管理責任は、私達にある。
ネヘミヤは、邪悪な者が神の宮の部屋を私物化して占有している事を許さず、それを外に投げ出したように(ネヘミヤ13:4-9)、私達も自分の中に邪悪な者と結託しているものを外へ投げやるべきである。

預言的賛美(1歴代誌25:1-31)
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25章は、賛美の歌声や色々な楽器をもって主を褒め称える聖歌隊の編成である。

25:1 ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。その勤めをなした人々の数は次のとおりである。

奉仕はアサフ、ヘマン、エドトンの指揮下にあり、三者はそれぞれレビ族のゲルション、ケハテ、メラリの子孫である。(6:33,39,44)

ここで特筆すべき事は、彼らは神殿において、琴と、立琴と、シンバルをもって「預言」した事だ。
「演奏した」ではなく、楽器をもって預言をしたのだ。

預言と訳された言葉「ナーバー」には預言する事の意味の他、恍惚状態になって霊に導かれた事を語る事の意味もある。
サウルは、悪霊にはげしく臨まれて家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」事が書いてあるように(1サムエル記18:10-11)、霊によくよく気をつけ、吟味するべきである。

預言的な賛美というものがある。
預言は神から言葉を預かって、それを人に届けるものだが、ある人は、この楽器のメロディが伴われた御言葉の宣言 - それは賛美集会とも預言集会とも言える集会 - の中において、心刺され、癒され、解放される。
アサフやヘマン、エトドン、共々、詩篇の作者であるが、彼らが霊に促されて記した預言の詩篇は、現代の私達にはどのようなメロディに載せられて宣言したのかは分からないが、しかし、彼らが霊に促されて記した詩篇は、確かに読むだけで心刺され、癒やされ、解放される力がある。

旧約・ダビデの時代にそれがなされたように、新約でも、預言の集会は教会で為され、その際の注意事項が、パウロにより、第一コリント14章に記されている。

1コリント14:1 愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。
14:3 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。
14:4 異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。
14:5 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。

預言は、ダビデの時代は神殿に集う人達全体の徳を高め、教会時代は教会の徳を高めた。

その預言的賛美をするにおいて、ダビデが重視したのは、秩序である。

25:2 アサフの子たちはザックル、ヨセフ、ネタニヤ、アサレラであって、アサフの指揮のもとに王の命によって預言した者である。
・・・
25:6 これらの者は皆その父の指揮の下にあって、主の宮で歌をうたい、シンバルと立琴と琴をもって神の宮の務をした。アサフ、エドトンおよびヘマンは王の命の下にあった。
25:7 彼らおよび主に歌をうたうことのために訓練され、すべて熟練した兄弟たちの数は二百八十八人であった。

その奉仕者は「訓練され」「熟練した」者達であった。
歌において、あるいは楽器の巧みさにおいて熟練され、それのみならず、霊性において熟練していなければ、その奉仕者として立てられない。
1節では、この奉仕はダビデの一存のみならず、長達からも認められた者でなければならなかった。

教会の礼拝における奉仕も、単にテクニックに優れたというだけではなく、霊性において「訓練され」「熟練した」者達でなければ、奉仕はしてはならない。
パウロもまた、異言や預言において重視したのは、秩序であった。

14:23 もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう。
14:24 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、
14:25 その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。
14:26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。
14:27 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。
14:28 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。
14:29 預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。
14:30 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。
14:31 あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。
14:32 かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。
14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

教会においては、一人の人に預言が与えられたなら、それまで語っていた人は黙るように、パウロは指示した。秩序正しく行われるためである。
コロサイ3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

現代、教会においては、御言葉のメッセージや預言の言葉に心刺されたり、癒やされたりするが、パウロの時代の教会やダビデの時代の神殿では、預言の言葉や御言葉に、さらに霊に促された奏者によって導かれるメロディが加わり、明るい音色や暗い音色、早いテンポやゆったりしたテンポが御霊により巧みに奏でられ、今の私達には想像できないような、霊において濃厚な礼拝が為されていたのだろう。

ダビデの時代、その奉仕者は血筋においても練達においても申し分の無い奉仕者が立てられたが、いつ、どのような奉仕をするかは、前章の祭司のように、くじ引きにより神から示され、人の意図によってではなかった。

25:8 彼らは小なる者も、大なる者も、教師も生徒も皆ひとしくその務のためにくじを引いた。
25:9 第一のくじはアサフのためにヨセフに当り、第二はゲダリヤに当った。彼とその兄弟たちおよびその子たち、合わせて十二人。
・・・
25:30 第二十三はマハジオテに当った。その子たちおよびその兄弟たち、合わせて十二人。
25:31 第二十四はロマムテ・エゼルに当った。その子たちおよびその兄弟たち、合わせて十二人であった。

現代、当時のような預言的賛美が回復されるよう、私達は、祈りに覚えるべきである。

祭司の奉仕(1歴代誌24:1-31)
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23章に続き、24章は祭司の奉仕分担である。

24:1 アロンの子孫の組は次のとおりである。すなわちアロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
24:2 ナダブとアビウはその父に先だって死に、子がなかったので、エレアザルとイタマルが祭司となった。

祭司はアロンの血筋であると、主は指定された。
次のように書いてある。
ヘブル 5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
5:4 かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。
ゆえに、祭司たるものは、血において相応しくない者がなるのでなく、主が指定された血筋によって成るものであり、主に呼びだされたものがなるのである。
私達はキリストを信じる信仰によって、もはや人の血によってではなく、ただ神によって生まれたのであり(ヨハネ1:13)、祭司としての勤めが与えられた。

さらにその子孫の中から、それぞれ部族ごとに分け、その中から勤めのグループを細分化した。

24:3 ダビデはエレアザルの子孫ザドクとイタマルの子孫アヒメレクの助けによって彼らを分けて、それぞれの勤めにつけた。
24:4 エレアザルの子孫のうちにはイタマルの子孫のうちよりも長たる人々が多かった。それでエレアザルの子孫で氏族の長である十六人と、イタマルの子孫で氏族の長である者八人にこれを分けた。
24:5 このように彼らは皆ひとしく、くじによって分けられた。聖所のつかさ、および神のつかさは、ともにエレアザルの子孫とイタマルの子孫から出たからである。

祭司はただ神によって召された者がその勤めをなすが、その、神の家での「つとめ」もまた、人の考えに依らず、ただ神によって「くじ」で選ばれる。

24:7 第一のくじはヨアリブに当り、第二はエダヤに当り、
24:8 第三はハリムに、第四はセオリムに、
・・・
24:19 これは、彼らの先祖アロンによって設けられた定めにしたがい、主の家にはいって務をなす順序であって、イスラエルの神、主の彼に命じられたとおりである。

以上のように、人の知恵によらず、人の選びによらず、ただ主に選ばれた人々が祭司の勤めを果たした。
ルカ1章の、バブテスマのヨハネの父ザカリヤも、アビヤの組の祭司で、くじによって主に奉仕が選ばれ、そして、彼が神殿で奉仕する時に、主のお告げを受けたのだ。

24:20 このほかのレビの子孫は次のとおりである。すなわちアムラムの子らのうちではシュバエル。シュバエルの子らのうちではエデヤ。
・・・
24:31 これらの者もまた氏族の兄もその弟も同様に、ダビデ王と、ザドクと、アヒメレクと、祭司およびレビびとの氏族の長たちの前で、アロンの子孫であるその兄弟たちのようにくじを引いた。

レビ人も、同様に主から選ばれた血筋の者であり、奉仕も、くじによる主の選びによる。
私達は、イエス様にあって、王族の祭司、聖なる国民として選ばれた者である。
神と人との間に立ち、自分の思いではなく主の御心を選び、祭司とされた者としてのつとめを果たしていくみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

秩序正しく行うべき礼拝の奉仕(1歴代誌23:1-32)
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ダビデは、神殿建設の準備を周到に行ったが、晩年は、神の国イスラエルにおける要職の役割分担を細かく定めた。
特に心を注いだのは、神殿奉仕である。

23:1 ダビデは老い、その日が満ちたので、その子ソロモンをイスラエルの王とした。

ダビデは、まず、ソロモンに王位を継がせる。
そして真っ先に定めたのは、神殿奉仕をする者達であり、この23章は、レビ人の組み分けを細かく行った事が記されている。

23:2 ダビデはイスラエルのすべてのつかさおよび祭司とレビびとを集めた。
23:3 レビびとの三十歳以上のものを数えると、その男の数が三万八千人あった。

レビ人として登録されるのは30歳以上の男子である。

23:4 ダビデは言った、「そのうち二万四千人は主の家の仕事をつかさどり、六千人はつかさびと、およびさばきびととなり、
23:5 四千人は門を守る者となり、また四千人はさんびのためにわたしの造った楽器で主をたたえよ」。

正式に奉仕に当る事が出来るのは、30歳以上の男子である。(民数記4:2-3)
彼らは主の家の仕事を「司った」。何を司ったのか。
24節と27節に、「20歳以上」のレビ人達が奉仕の仕事をする事が記されているが、すなわち、30歳以上は20-29歳の若いレビ人達を統率し、教育しつつ、組織的に神殿の奉仕に当たったのだろう。

23:6 そしてダビデは彼らをレビの子らにしたがってゲルション、コハテ、メラリの組に分けた。
23:7 ゲルションの子らはラダンとシメイ。

ダビデはレビ人の奉仕者を、部族ごとに分けて、奉仕分担の組織をたてた。
それぞれの仕事に、それに相応しい奉仕者をたてて、相応しくない者はそこに置かない。
なぜなら主の宮の奉仕は聖なるつとめであり、正しく行うべきものだからだ。

新約・第一コリントにも、礼拝では秩序正しく行うべき事を、パウロは指示している。
14:33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。

新約においては、教会が主の宮であり、そして、私達キリスト者が主の住まわれる神殿である。

3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

そうであるからには、私達が誠実・自制をもって自らの体を正しく保ち、コントロールし、メンテナンスするべきである。

23:25 ダビデは言った、「イスラエルの神、主はその民に平安を与え、ながくエルサレムに住まわれる。
23:26 レビびとは重ねて幕屋およびその勤めの器物をかつぐことはない。
23:27 ――ダビデの最後の言葉によって、レビびとは二十歳以上の者が数えられた――

ダビデは、レビ人の奉仕を宣言した。
神殿が無かった時代、主の宮は移動式の幕屋であり、レビ人が各々の部族に従って、幕屋を運搬する奉仕分担を神によって指示されたが、神殿が建てられるなら、運ぶ奉仕はなくなる。
しかしその代わり、主の宮において仕事をする奉仕がある。それに当たらなくてはならない。

現代、私達・神の神殿は、組織的に、ひとつとなって、まことの大祭司キリストに熱心に仕える者であり、そして、私達一人ひとりが祭司であり、王である。
誠実に、自制をもって、主への奉仕を秩序正しくしていくべきである。

神の国を建て上げる事が出来るのは、平和な者(1歴代誌22:1-19)
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22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。

ダビデは主のために家を建てたいと願って来たが、主が言われたのは、あなたは家を建ててはならない、むしろ、わたしがあなたのために永遠の家を建てるのだ、と、17章で主が仰せられている。
前回の所では、自らの罪ゆえの災いを被ってしまったが、しかしそれがきっかけで、エブス人オルナンの打ち場こそ、その、主の宮となるべき所だと悟り、ダビデは「これこそ、その場所だ」と言った。
それで早速、ダビデは準備のための行動を起こす。

22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。
22:3 ダビデはまた門のとびらのくぎ、およびかすがいに用いる鉄をおびただしく備えた。また青銅を量ることもできないほどおびただしく備えた。
22:4 また香柏を数えきれぬほど備えた。これはシドンびととツロの人々がおびただしく香柏をダビデの所に持って来たからである。

ダビデ自身は主の宮を建てる事はできなかったものの、準備は出来た。
彼の生涯の前半は、イスラエル周辺を戦いによって平定する事に心血を注ぎ、後半は、神殿建設のための準備に心血を注いだ。

22:5 ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。こうしてダビデは死ぬ前に多くの物資を準備した。

ダビデは「主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。」と言ったように、それは全世界の人々を前に、スケールにおいても細微さにおいても美しさにおいても全ての面において抜きん出たものでなくてはならない。
それは、「きよい事」「聖である事」においても、同様である。
この神殿が、きよく、聖なるものとしなくてはならないという点において、ダビデは、神殿を建てる事が出来なかった。

22:7 すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。
22:8 ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。

ダビデは主の前に(原意:主の顔の前に)、多くの血を流して来た。
もっとも彼は、いつも周囲から戦いを挑まれて仕方なくであったものの、聖なる宮は、血で汚れた者の手で建設される事は、ふさわしくない。
それは神の前でもそうであるが、同時に、人の前でもそうである。

もしダビデが神殿を建設したとしたら、ダビデが戦った戦争において負けた国々、肉親がダビデによって殺された人が、果たして、彼が建てた神殿を心よく思うだろうか。
神の国の建て上げは、そのような、後ろ指を指されるようなものであってはならない。
神の宮は、平和の人が建てなくてはならず、主のミニストリーは、戦いや血を流す事によって建て上げられてはならない。

22:9 見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。
22:10 彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。

ソロモン(シェロモ)は、シャローム(平安)という言葉が元である。
エルサレムの名は、平和の礎、平和の町という意味もある。神の宮は、平安な人によってこそ建て上げられる。

7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
7:2 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。
7:3 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。

メルキゼデク、すなわち義の王であられると同時に、平和の王であられるイエス様は「平和の君」として現れて下さった。
それゆえに、罪の中を歩んでいる私達を、罪を犯したからといってすぐに裁くのではなく、立ち返るための憐れみの期間を設けてくださり、それ故、私達は主に立ち返って救われた。
それだから、イエス様こそまことの神殿として、まことの大祭司として、そしてまことの王として相応しいお方である。
神殿は、平和の君によってこそ建て上げられるからである。
イエス様はやがて、戦いに長けた君として来られ、あらゆる死を、あらゆる悪を滅ぼし、悪魔サタンを永遠の火に投げ込み、真の平和をもたらして下さる。

22:11 それでわが子よ、どうか主があなたと共にいまし、あなたを栄えさせて、主があなたについて言われたように、あなたの神、主の家を建てさせてくださるように。
22:12 ただ、どうか主があなたに分別と知恵を賜い、あなたをイスラエルの上に立たせられるとき、あなたの神、主の律法を、あなたに守らせてくださるように。
22:13 あなたがもし、主がイスラエルについてモーセに命じられた定めとおきてとを慎んで守るならば、あなたは栄えるであろう。心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない。

ダビデは、ソロモンが力強く神殿を建てられるよう祝福し、そして主の道を正しく歩むように諭した。
ソロモンは確かに神殿を立派に建て上げたが、しかしその栄華が極まった時、残念ながら、彼は驕り高ぶり、人生の後半は、主の道から外れてしまった。

22:14 見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。
22:15 あなたにはまた多数の職人、すなわち石や木を切り刻む者、工作に巧みな各種の者がある。
22:16 金、銀、青銅、鉄もおびただしくある。たって行いなさい。どうか主があなたと共におられるように」。

ダビデはこのように、自分は神殿を建てる事は出来なかったものの、力の限り、そのための準備を行った。
私達は、自分自身をきよく、平和の内に保ち、神の国の建て上げにいそしんでいく者でありたい。

悔い改めて捧げる人の捧げものを喜んで受け取り、義とし、災いを遠ざけて下さる主(1歴代誌21:16-30)
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21:16 ダビデが目をあげて見ると、主の使が地と天の間に立って、手に抜いたつるぎをもち、エルサレムの上にさし伸べていたので、ダビデと長老たちは荒布を着て、ひれ伏した。
21:17 そしてダビデは神に言った、「民を数えよと命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪い事をしたのはわたしです。しかしこれらの羊は何をしましたか。わが神、主よ、どうぞあなたの手をわたしと、わたしの父の家にむけてください。しかし災をあなたの民に下さないでください」。

この災いは、元々イスラエル全体に問題があり、ダビデがそれに代表して罪を犯した事が引き金となって起こってしまった。(1歴代誌21:1、2サムエル記24:1)
そしてダビデは、全イスラエルを代表して執り成し、罪を犯した自分がその報いである災いを受ける事を引き換えに、全イスラエルから災いを取り除いて下さるようにと願い求める。

このように、人々を代表して自分が罪を負う性質は、モーセの性質であり(出エジプト記32:32)、パウロの性質であり(ローマ9:3)、キリストの性質である。
ヨハネ10:11  わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12  羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。

主はダビデの身を挺した祈りに答えられる。

21:18 時に主の使はガデに命じ、ダビデが上って行って、エブスびとオルナンの打ち場で主のために一つの祭壇を築くように告げさせた。
21:19 そこでダビデはガデが主の名をもって告げた言葉に従って上って行った。

ダビデは祈った所、預言者を通し、エブスびとオルナンの打ち場という場所を指定された。
そこは特別な場所である。

21:20 そのときオルナンは麦を打っていたが、ふりかえってみ使を見たので、ともにいた彼の四人の子は身をかくした。

災いの爆心地であるにもかかわらず、オルナンとその子達は身に害が無かった。
オルナンは「エブス人」、元々、ヨシュアの時代に滅ぼされるべき対象の者であったが、彼はなぜこのエルサレムで生き残り、なおも土地を得ていたのか。
それは、オルナンが主に忠実であり、御前に喜ばれる性質の持ち主だったからである。(後述)

21:21 ダビデがオルナンに近づくと、オルナンは目を上げてダビデを見、打ち場から出て来て地にひれ伏してダビデを拝した。

オルナンは、災いを下す御使いを前にしても、なお自分の仕事である麦打ちを続けていた。
そして自分の主君であり王であるダビデが来た時は、すぐに出てきてひれ伏した。
彼は、仕事に忠実であり権威に忠実であった事が分かるが、そればかりではない。

21:22 ダビデはオルナンに言った、「この打ち場の所をわたしに与えなさい。わたしは災が民に下るのをとどめるため、そこに主のために一つの祭壇を築きます。あなたは、そのじゅうぶんな価をとってこれをわたしに与えなさい」。
21:23 オルナンはダビデに言った、「どうぞこれをお取りなさい。そして王わが主の良しと見られるところを行いなさい。わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のためにささげます。わたしは皆これをささげます」。

オルナンは、自分の持ち物を、いつでも、全部、「主に」捧げる準備が整えられていたのだ。
「わたしは牛を燔祭のために、打穀機をたきぎのために、麦を素祭のためにささげます。わたしは皆これをささげます」
燔祭も、たきぎも、素祭も、全部、王に献上するものではなく、主への捧げ物である。
彼は、家畜も財産も、仕事道具も、仕事で得た産物も、全部、主に捧げるつもりだったのだ。
しかし、それではダビデではなくオルナンが捧げた事になってしまう。

21:24 ダビデ王はオルナンに言った、「いいえ、わたしはじゅうぶんな代価を払ってこれを買います。わたしは主のためにあなたのものを取ることをしません。また、費えなしに燔祭をささげることをいたしません」。
21:25 それでダビデはその所のために金六百シケルをはかって、オルナンに払った。

捧げものは、自分からすすんで為すものである。
申命記  あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。
16:17  あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。
そういうわけで、自分の手足を使わない礼拝、自分の財布を痛めず自分の何かを犠牲にしない捧げものは有り得ず、老若男女問わず、富んでいる・貧しいも問わず、人は一人、主の前に立たなくてはならないのだ。

21:26 こうしてダビデは主のために、その所に一つの祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげて、主を呼んだ。主は燔祭の祭壇の上に天から火を下して答えられた。

こちらが火をつける間もなく、天から火が降って、その捧げ物を焼きつくす。
それは明確に主が祈りを聞いて下さったしるしである。
大祭司アロンがそうだったし(レビ9:24)ギデオンがそうだったし(士師記6:21)、エリヤがそうだった。(1列王記18:24)

21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。

こうして、義人の執り成しによって、災いが止んだ。
罪を告白し、悔い改めの犠牲を払うなら、その人は義とされるのだ。

ヤコブ5:15  信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16  だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17  エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18  それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
21:29 モーセが荒野で造った主の幕屋と燔祭の祭壇とは、その時ギベオンの高き所にあったからである。
21:30 しかしダビデはその前へ行って神に求めることができなかった。彼が主の使のつるぎを恐れたからである。

こうしてダビデは、その場所が特別な場所である事を知った。
その場所は、かつて先祖アブラハムがイサクを捧げた場所であり、そして後に、神殿が建つ場所である。

裁きの中でも憐れみを注ぎ、人の罪をも最善へと造り変えられる主(1歴代誌21:7-15)
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ダビデはヨアブの忠言をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出、有限なるその数字を聞いた時、ダビデの心が彼(ダビデ)を打った(2サムエル記24:10)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。
信仰生活は、無限なる神に信頼を置いて、無限の安心を抱きながら生活するものだが、その逆の生活は、いつも自分の資力に頼みをおきながら生活するものであり、そういう人は、たとえ何億円の資産を持っていてもいつも不安におののきながら、ひたすらなお集めるしか無い。

21:7 この事が神の目に悪かったので、神はイスラエルを撃たれた。
21:8 そこでダビデは神に言った、「わたしはこの事を行って大いに罪を犯しました。しかし今どうか、しもべの罪を除いてください。わたしは非常に愚かなことをいたしました」。

ダビデがさすがな所は、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白したからだ。
呪いにいつまでもつきまとわれるコツ、いつまでもその状態から脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。
聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉である。
ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。

21:9 主はダビデの先見者ガデに告げて言われた、
21:10 「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、わたしは三つの事を示す。あなたはその一つを選びなさい。わたしはそれをあなたに行おう』と」。
21:11 ガデはダビデのもとに来て言った、「主はこう仰せられます、『あなたは選びなさい。
21:12 すなわち三年のききんか、あるいは三月の間、あなたのあだの前に敗れて、敵のつるぎに追いつかれるか、あるいは三日の間、主のつるぎすなわち疫病がこの国にあって、主の使がイスラエルの全領域にわたって滅ぼすことをするか』。いま、わたしがどういう答をわたしをつかわしたものになすべきか決めなさい」。

主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。

私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。


21:13 ダビデはガデに言った、「わたしは非常に悩んでいるが、主のあわれみは大きいゆえ、わたしを主の手に陥らせてください。しかしわたしを人の手に陥らせないでください」。

ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ねた。
三つの選択の中で、唯一、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、唯一主の御名がつけられている事を選んだ。
主のあわれみは、大きいからである。

21:14 そこで主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルびとのうち七万人が倒れた。
21:15 神はまたみ使をエルサレムにつかわして、これを滅ぼそうとされたが、み使がまさに滅ぼそうとしたとき、主は見られて、この災を悔い、その滅ぼすみ使に言われた、「もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ」。そのとき主の使はエブスびとオルナンの打ち場のかたわらに立っていた。

ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。

この事件の最初は、次のように始まっている。
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(2サムエル記24:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。

主は果たして、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
実際、その災いの中心地であるエブス人オルナンの打ち場にいたオルナンは、その剣が差し向けられていた最中でも、何の身に害が及ばず、平気で麦打ちしていた。
しかし、災いはダンからベエル・シェバに至るまでの中、7万人が倒れた。
主の災いは、核爆弾のように、爆心地周辺は善人悪人誰彼かまわず災いで滅ぼすものではなく、災いが及ぶべき者・そうでない者を正確に選り分け、義人が悪人の受ける報いを受ける事が無いようにされて来た。

主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。

さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブスびとオルナンの打ち場だった。
実は、この場所は、とても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。

モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。

主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。

私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデが主の前に罪とされたイスラエルの人口調査(1歴代誌21:1-6)
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ダビデの人生の間で、二つの大きな罪を主に犯した事が聖書には記されている。
一つはバテ・シェバとの姦淫および彼女の主人ウリヤ殺害、そしてもう一つが、今回の箇所、イスラエル人口調査である。
前者は、明らかに罪であると分かるが、今回の箇所、イスラエルの人口調査は、一体、どこがどう罪なのだろうか。
一国の王が、自国の戦力がどのくらいであるのかを調査するのは、当たり前のような気もするが、聖書を良く読むと、何が御前において罪であるのかが見えてくる。

21:1 時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
21:2 ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエルシバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。

人口調査そのものに、良しも悪しもない。
民数記など、まさに人口調査の書であり、それは、主がしなさいと言われたからである。
ここで、なぜ人口調査が罪とされたのか。それは、それがサタンに由来する動機だからである。

21:3 ヨアブは言った、「それがどのくらいあっても、どうか主がその民を百倍に増されるように。しかし王わが主よ、彼らは皆あなたのしもべではありませんか。どうしてわが主はこの事を求められるのですか。どうしてイスラエルに罪を得させられるのですか」。
21:4 しかし王の言葉がヨアブに勝ったので、ヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。

ヨアブは、この事が主の御前に罪である事を知っていた。そして、ダビデも、何となく知っていた。
そしてヨアブの「これは罪である」という忠告を聞きながら、ダビデはそれを押しのけ、敢えて、数えさせた。

物事の動機が、サタンに由来する時、人口調査も、飲み食いも、献金さえも、罪とされてしまう。
エバはサタンに由来する言葉ゆえに、主が取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまった。(創世記3章)
アナニヤとサッピラは、夫婦共謀して代金の一部をごまかし、献金した。

使徒5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。

サタンに由来し、御言葉に逆らい、敢えて心してあざむくなら、それがいかに良い事に見えるような事であっても、罪なのである。

ローマ14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
・・・
ローマ14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
 14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

ダビデはそれまでイスラエルの兵士の数を知らなかったが、その数が調査され、明らかにされた。

21:5 そしてヨアブは民の総数をダビデに告げた。すなわちイスラエルにはつるぎを抜く者が百十万人、ユダにはつるぎを抜く者が四十七万人あった。
21:6 しかしヨアブは王の命令を快しとしなかったので、レビとベニヤミンとはその中に数えなかった。

百十万、それに加えて四十七万。少なくはないが、有限の数字である。
ダビデはその有限の数字を聞いて、悟った事だろう。自分は、無限なる主を差し置いて、数によりどころを置いてしまった、主の預けてくださったものを私有化しているかのような思いにあった、と。

今までダビデが数多の戦争に勝利して来たのは、兵力によっただろうか。彼の力によっただろうか。
ダビデがゴリヤテを打ち倒した時、果たして彼我を数えてから戦いに臨んだだろうか。
全て、勝利は、自分の能力や数によるのではなく、主によったのではなかっただろうか。

人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。

主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。

有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまうのだ。

勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
兵士を百倍も増し加えて下さるのは、主である。

私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。

「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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第二サムエル記では、ダビデによる、バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤ謀殺の事件と、その姦淫と殺人の罪による悩ましい呪いがつきまとう事件が、第二サムエル記11章から19章まで延々と記されているが、歴代誌では次の数節で済ませてしまっている。

20:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。
20:2 そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
20:3 また彼はそのうちの民を引き出して、これをのこぎりと、鉄のつるはしと、おのを使う仕事につかせた。ダビデはアンモンびとのすべての町々にこのように行った。そしてダビデと民とは皆エルサレムに帰った。

サムエル記でのダビデは、サウルからの苦悩や、バテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌でのダビデは、むしろ神殿建設のためにいかに努力したか、という点が強調されている。
それだから、神殿建設とは関係の無い「バテシェバとの罪」の事件は略されているが、神殿建設の発端となった「人口調査の罪」については次章で詳細に記されている。
ダビデは、バテ・シェバとの罪やウリヤ殺害の罪を預言者ナタンによって示された時、すぐに自分の罪を認め、泣き叫んで自分の罪を悲しみ赦しを乞うた。(詩篇51篇)
彼は後に、その姦淫と殺人の罪という「いのちへの冒涜」の罪ゆえに、彼自身から生まれ出る子供達によって大いに苦しめられる事となるのだが、主は彼の罪を見逃してくださった故、異邦人との戦争においては、その呪いは一切及ぶことは無かった。

20:4 この後ゲゼルでペリシテびとと戦いが起った。その時ホシャびとシベカイが巨人の子孫のひとりシパイを殺した。かれらはついに征服された。
20:5 ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。
20:6 またガテに戦いがあったが、そこにひとりの背の高い人がいた。その手の指と足の指は六本ずつで、合わせて二十四本あった。彼もまた巨人から生れた者であった。
20:7 彼はイスラエルをののしったので、ダビデの兄弟シメアの子ヨナタンがこれを殺した。
20:8 これらはガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。

この箇所は、第二サムエル記では21章15-22節に相当する。時間的にも多く流れ、ダビデも年老いた時であった。

2サムエル記21:15 ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

21:16 時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。
21:17 しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。

ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。

詩篇127:3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
127:5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

勝利の秘訣 - 祝福の法則に立つ(1歴代誌18:1-17)
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19:1 この後アンモンの人々の王ナハシが死んで、その子がこれに代って王となった。
19:2 そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、彼の父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼をその父のゆえに慰めようとして使者をつかわした。ダビデのしもべたちはハヌンを慰めるためアンモンの人々の地に来たが、

アンモン人ナハシは、1サムエル記11章に登場する。
サウルがまだ王になったばかりの時、ナハシはイスラエルを痛めつける者としてヤベシュ・ギルアデに陣を張り、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞ったが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後、ナハシはダビデに対して真実を尽くすようになった。
ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。

19:3 アンモンの人々のつかさたちはハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたことによって、あなたは彼があなたの父を尊ぶのだと思われますか。彼のしもべたちが来たのは、この国をうかがい、探って滅ぼすためではありませんか」。

このアンモン人達は、相手の良心に対し、何か裏があるのではないか、と、疑いの目を向けた。
裏のある人間は、いつも裏をかいて生き抜いてきたので、善良な人の善良さが理解できず、こういう時に、実に失礼な対応を取ってしまうものである。

19:4 そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕えて、そのひげをそり落し、その着物を中ほどから断ち切って腰の所までにして彼らを帰してやった。
19:5 ある人々が来て、この人たちのされたことをダビデに告げたので、彼は人をつかわして、彼らを迎えさせた。その人々が非常に恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後帰りなさい」。

当時、「ひげ」は男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取って、尻の部分をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやったが、すぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。
すると、いつも裏をかいて来た人間は、自分のした事でさらに疑心暗鬼に駆られ、自分から敵対的な行動を取るようになる。

19:6 アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれることをしたとわかったので、ハヌンおよびアンモンの人々は銀千タラントを送ってメソポタミヤとアラム・マアカ、およびゾバから戦車と騎兵を雇い入れた。
19:7 すなわち戦車三万二千およびマアカの王とその軍隊を雇い入れたので、彼らは来てメデバの前に陣を張った。そこでアンモンの人々は町々から寄り集まって、戦いに出動した。

戦車が3万以上、ものすごい装備と兵力である。
しかし、こちらが祝福の法則に乗り、怖じけずに主のために兄弟姉妹のために戦うなら、相手の兵力がいかであれ、主はこちらに軍配を挙げて下さる。

19:8 ダビデはこれを聞いてヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、
19:9 アンモンの人々は出て来て町の入口に戦いの備えをした。また助けに来た王たちは別に野にいた。
19:10 時にヨアブは戦いが前後から自分に向かっているのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、
19:11 そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、
19:12 そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、あなたを助けましょう。
19:13 勇ましくしてください。われわれの民のためと、われわれの神の町々のために、勇ましくしましょう。どうか、主が良いと思われることをされるように」。

相手が大勢なので、イスラエルの軍が挟み撃ち状態であったが、しかしヨアブは怖じけず、主エホバの御名によって戦士達を奮い立たせた。
結果はどうであったか。

19:14 こうしてヨアブが自分と一緒にいる民と共にスリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。
19:15 アンモンの人々はスリヤびとの逃げるのを見て、彼らもまたヨアブの兄弟アビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはエルサレムに帰った。

敵は、自分達が有利であるのに、逃げた。
それは、イスラエルの側が祝福の法則に立っていたからに他ならない。
祝福の法則に立つとは、以下の事である。

申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
28:4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。
28:5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。
28:6 あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
28:7 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。

以上のように、「主の御言葉に聞き従い、それを守り行う」という祝福法則に立つなら、主は勝利をもたらして下さる。
敵が大勢であっても、一人が千を、二人が万を打つ。
サウルの子ヨナタンは、主エホバを信じる信仰によって進み出て、たった二人で幾万を怖じけさせ、絶望的な状況のイスラエルに救いをもたらした。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。

世においては諸々の戦いがある。
しかし、御言葉に聞き従って、その通り守り行う道を進み行く限りでは、私達はたとえ辱めを受けても後には栄誉が与えられ勝利がもたらされるのだ。

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