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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

人とは一体何者なのでしょうか(詩篇8篇)
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詩篇8編もまたダビデの作で、新約聖書の各所で引用されている。
彼はこの詩篇で、神の創造の素晴らしさを見るに、自分たち人間にこれらのものを委ねられたとは、いかに驚くべき事だろう、と、驚嘆を記している。

聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌
8:1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

イエス様は宮清めをした時、この箇所を引用した。

マタイ21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

祭司長や律法学者達が憤慨したのは、彼らはイエス様をメシヤだと認めていないから、というのもあるが、彼らは、賛美は信仰が熟練した者にこそふさわしい、未熟な者がおいそれと口にするべきものではない、と思っていたからだ。
もし彼らが考えるように、お金持ちや力ある者にしか主を讃えられない、とするなら、どんなに空しいだろう。
しかし書いてある。主は、幼子の口を通して栄光をお受けになるのだ。

8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。

私達が、今こうして目で見、触れるられるすべてのものは、神の指のわざである。
天にある月や星も、また、地上において触れられるものも。すべて生きているものも、生きていない物質も。
これらはよく見て調べ、分析する程に、なんとうまく出来ていて、精巧につくられているのかに驚嘆し、創造主の素晴らしさを讃えずにはおられない。
もしこれらを目の当たりにしておきながら、「偶然の産物」だと言う者は、よほど、神には居てほしくない者、創造主を認めたくない者である。

8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
8:6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
8:7 すべての羊と牛、また野の獣、
8:8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。

ダビデは、創世記の記述を思い起こしていただろう。
そこには書いてある。全被造物は、全て、人間に委ねた、と。
創世記1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

太陽や月、星が創られた目的は、「季節(モエド:約束、祭り、しるし)のため、日のため、年のため」である。(創世記1:14)
すなわち、天にあるあの巨大なスケールの全ての光明体は、人が神との約束された年、日、時間に、「祭り(モエド)」という交わりを行うのに役立てるために、わざわざ創られたのだ。
まさにダビデが告白している通りである。

8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。

これら何億光年というスケールの品々は、なんと、神の「指のわざ」である。神はそれを創るのに、指一つで出来てしまう。
しかしそれに引き換え、人の贖いのためには、イエス様は神の座を降りて、人となられ、人のために手足を釘付けにされ、自らのいのちを差し出してまで、救おうとされた。
まことに人とは、一体、何者だろうか。このような者に、そこまで顧みられるとは。

私達は、自分で自分の評価を降して、勝手に自分の通信簿をつけるべきでない。
必要なのは、神様が、キリストにある私達を、どのように評価をしてくださっているのか、すなわち、まことの通信簿である聖書を通して、自己評価すべきだ。
通信簿はギリシア語で「エレグコス」、この言葉はヘブル11:1で次のように記されている。
ヘブル11:1  さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を「確認(エレグコス)」することである。

聖書に記されている内容は、私達がまだ見たことも聞いたことも、経験した事も無いことばかりかもしれない。しかし私達が聖書の内容を確信し、確認する時、それら真理のことばが、目の前の現実を揺り動がし、信じた通りに成り、救われるのである。
それは、目の前で起きている現実よりも、書かれてある真実のほうが強いからであり、世の中の目に見えるものは、見えないことばの実体化だからである。

言われている。
1コリント3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

私達は、キリストにあるなら、神を宿している「歩く神殿」である。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられた(ヨハネ1:12)、と書かれてある通りである。

目の前に起きている現実は、必ずしも御言葉の通りではない。

ヘブル2:6 聖書はある箇所で、こうあかししている、/「人間が何者だから、/これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、/これをかえりみられるのだろうか。
2:7 あなたは、しばらくの間、/彼を御使たちよりも低い者となし、/栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。

確かに私達は、「万物が人間の支配下で服している状況」は、見てはいない。
実際のところ、被造物は人間に牙をむき、地震や津波、台風など、諸々の自然災害に対して、人は無力である。
それはなぜか。それは、人が神の言葉に反した故、地は呪われてしまい、地は人間に対抗して「いばら」を生じさせるからだ。
救いは、ただ、イエスによるのみである。だから続いて次のように書いてある。

2:9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
2:10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。

人が創世本来の支配権を回復できるのは、ひとえに、イエス様が人の罪を負って身代わりに死んで、よみがえられたゆえである。
万物を服従させるお方が、贖って下さったゆえである。

2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。

神が助けて下さるのは「アブラハムの子孫」である、と書いてある。
アブラハムの子孫とは誰か。

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

アブラハムの子孫とは、イエス様を信じて義とされた私達である。
それで私達は、正当な支配権を得たものとして、この地を正当に支配して行くべきだ。
キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人だけが、この「正しい支配」が出来る。
神の子とされたキリスト者は、どんどん悪い者達の支配権を奪回してゆくべきであり、そうして多くの人と全被造物に慰めをもたらすべきだ。

被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事、すなわち、アダム以来の呪いから解放される事を、切望している。(ローマ8:19)

ダビデは、神の素晴らしい御業を、ほめたたえずにはおれなかった。
8:9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

いつもキリストに留まり、正しく支配権を行使し、地上に慰めと平和を届ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

心が直ぐな人の幸い(詩篇7篇)
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ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌
7:1 わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、わたしをお助けください。
7:2 さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。

クシ(クシュ:黒、エチオピア人)と言われている人について、聖書の他の箇所には記述が無い。
彼はベニヤミン人とあるので、おそらくサウルに属する者で、主に油注がれて王となったダビデを妬んで彼を攻撃しているのかもしれないが、ダビデのほうは、彼から攻撃されるような思い当たるふしは、全く無い。
それでダビデは、殺意を持って彼が追い迫っているこの状況から救って下さい、と祈る。

7:3 わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4 もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5 敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ

ダビデは、攻撃され追い回されたりされるいわれは全く無いにしても、このように宣言できるのはすごい、と思われるかもしれない。
人間は誰しも、叩けばホコリが出る存在である。この肉に、罪の棘が刺さっているからだ。
ダビデはなぜこんなに自信たっぷりに告白できたのだろう。

7:6 主よ、怒りをもって立ち、わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、わたしのために目をさましてください。あなたはさばきを命じられました。
7:7 もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、その上なる高みくらにおすわりください。
7:8 主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。
7:9 どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。

ダビデは「わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください」と言ったが、それは、根拠なしの「自分は義だ」という誇大妄想ではない。
確かに世の中には、罪を犯しても平然として、心に何の良心のとがめを感じず、やたら「わたしは悪くない」という根拠なき自信が強い人もいるが、そのように良心が麻痺した人は、真の義に至っていない。なぜならその人は、主の御言葉を前に自分を降ろしていないし、心を主に向けてもいないからだ。

しかしダビデは、主に対して「誠実」であった。
主に対して誠実な人とは、主の言葉を前に自分を降ろし、もし自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人である。
その時、その人は主に対して心に責められる所が無いし、思い出してもいない罪をわざわざほじくり返す必要も無い。

自分を低くし、御言葉を信じて、信じた御言葉に誠実である人は、主の義がその人を覆う。(ルカ18:14、ロマ3:28)
ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

つまり、ダビデが言った「わたしの義」は、ダビデのがんばりや行い由来の義ではなく、ダビデの、神に対する信仰と誠実から来る義、すなわち、神に由来する義なのだ。
以下のように告白している。

7:10 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。

私達は、大いに、神様に盾になってもらいたいと願う。
しかしそれには条件がある。それは、「心が、直ぐ」である事だ。

マタイ5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

ここの「清い(カサリオス)」とは直ぐな、単一な、ピュアな、純粋な、という意味である。
心が直ぐな人は、誤ちを指摘されたら、すぐに謝る。外面と内面が一致していて、裏表が無いから、何をするにもシンプルで、疲れない。
それとは逆に、心が複雑な人は、誤ちを指摘されると2,3秒の間、頭をフル回転させ、言い訳を考え出す。そういう人はいつも内面と外面が一致せず、複雑で疲れやすい。

ダビデは心が実にシンプルだったので、感謝にしても怒りにしても、全部そのまま主に持って行った。
主もまたそんな彼を、親が子に接するように、親密に接して下さった。
彼は、別の詩篇でも告白している。

35:23 わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
35:24 わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、わたしの事について彼らを喜ばせないでください。

彼はここで「主の義」に従って、わたしをさばいてください、と願い求めている。
ダビデの義の主張ではないから、シンプルに、大胆に、いつでも主に求める事ができるのだ。

35:25 彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と/言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と/言わせないでください。
35:26 わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください。わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
35:27 わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。

ダビデはここでも、敵を恥じ入らせて下さるようにと、実に正直にシンプルに求めている。
さらに「わたしの義」を共に喜ぶ者と共に、主をほめたたえさせて下さい、と祈っている。

35:28 わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

ここをヘブライ語で見ると、
ウ・レショニ: そして私の舌は
テ・ハガー: 思い巡らす、互いに語る、つぶやく
チズケカー: あなたの義を
コール・ハ・ヨム: 一日中
テヒラーテハ :(ほめたたえる、賛美)します

ここの「ハガー」と「テヒラー」は詩篇の中でも重要なキーワードである。
ダビデは日夜、彼の舌から「主の義」を思いめぐらし(あるいは口ずさみ:ハガー)、一日中、主を思い、主をほめたたえて(テヒラー)いるのだ。

日夜主の言葉を口ずさんでテフィリンしている人は、主の言葉が宿り、それはすなわち主の義が宿り、それ故、御前に何の呵責なく進み出る事が出来、主と交わりができる。
テフィリンしている人は、その内に宿った御言葉が両刃の防護壁となり、誘惑や罪が潜入して来ようものなら、陣を組んでそれを追い出す。
そのような人は、主から「義」が与えられ、それがすなわち「わたしの義」となる。
だからダビデは、あれだけ大胆な事を言う事ができたのだ。

7:11 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。
7:12 もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、
7:13 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。

主が災いをくだされるのは、「悔い改めない」人にである。
悔い改めるべき事を先延ばしにすればするほど、その人を刺し貫く剣はどんどん研ぎ澄まされ、彼を射抜く弓矢は、ますますしぼられる。
いつ、彼を死に至らしめる火矢が放たれるのか、分からない状態であるが、悔い改めるなら、その張られた弓は、ゆるくなる。

7:14 見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む。
7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。
7:16 その害毒は自分のかしらに帰り、その強暴は自分のこうべに下る。

悪人は、策略をめぐらしながら、うまく生きているかのように見え、そのうまさが巧みであるならあるほど、人生うまく渡り歩いているかのように見えるかもしれない。
しかし御言葉に照らし出すと、実はその者は、そうする毎に自分の頭に害毒を蓄えている事だと分かる。(詩篇137編)
だました事によって受けなくてはならないさばきは、正確に、だました側のほうへと行くのだ。

7:17 わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。

主は、義なるお方である。
その主から与えられた義によって、感謝のほめ歌を主に捧げるのが、私達キリスト者の姿なのだ。

罪を悔い改めの涙で寝床を漂わせたダビデ(詩篇6篇)
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ダビデが、ウリヤの妻・バテシェバと性的な罪を犯し、夫であり忠実なしもべであるウリヤを謀殺した後、預言者ナタンからその罪が指摘された時に祈った祈りが、詩篇51篇だった。
詩篇51篇は、彼の罪を悔い、悲しみ、罪に対してどうしようもない自分に恵みを施し、造り変えてくださるよう祈った祈りであるが、この詩篇6篇は、その続編とも言える。
彼はあのただ一度の祈りによって救いの喜びが返って来たのではなく、相変わらず、夜ごと、良心を責めさいなまされたのだ。

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌
6:1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。
6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。

ダビデは正しい良心を持っていた。それで、自分が犯した罪の重さ、大きさをずっと感じ続けていた。
ダビデは、人に対してのみならず、主に対して罪を犯したのだ。
預言者ナタンが来た時、彼は「主の言葉を軽んじ、主の目の前に悪事を行った」事を責めた。
2サムエル記12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。

そしてダビデ自身も告白している。
詩篇51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
 51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

まず、正しい良心が無ければならない。良心が無いなら、罪に対する悔いて悲しむ心は芽生えないからだ。
そして、一体誰に対して、どんな罪を犯したのかを告白しなくてはならない。
聖書には「ごめんなさい」という対象不明・宛先不明の謝罪は登場しない。聖書的謝罪とは、罪を犯して損害を与えた相手と、どんな罪を自分が犯したのか、明確にしているものなのだ。

51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

私達も知っている。自分は、母の胎にいた時から既に罪を持っていたことを。
そしてその罪が、私達の内であばれてどうしようもない時、私達は自分の力では何も為す術が無い。
それでダビデは、ただ、主から与えられる一方的な恵みを求めている。
すなわち、ヒソプをもって清められる事、洗われる事、御顔を自分の罪から隠し、不義をぬぐい去って下さる事。自分にきよい心をつくり、新しい正しい霊を与えて下さる事。御前から捨てず、聖なる霊を取り去らない事、救いの霊を返し、自由の霊をもって、支えて下さる事。(詩篇51:7-13)
罪にどうしようもない自分のために、これらを与えて下さいと、ダビデは祈り、そして心責められる所一切なく再び御前で感謝が捧げられるようにして下さい、と祈った。(同14−19節)

6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか。

彼は死を意識するほど、重い罪責感に押し潰されそうになっていた。
悔い改めるべきリミットがある。それを超えても悔い改めず、リミットを超えてしまうなら、もはや何も通じない死の時に入ってしまう。
ダビデはそこに、底知れぬ恐ろしさを覚えたのかもしれない。
ダビデは、滝のように涙を流して祈る。

6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。
6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。

ダビデは、彼の流した涙によって寝床がただようほどだった、と言っている。
いったい幾晩、その涙の夜々を過ごして来たのだろう。それは分からない。
私達も主から「祈りが聞かれた」という確信と平安が与えられるまで、祈るべきである。その時は、いずれ、必ず来るのだから。

6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

ダビデは、祈りが聞かれた、という確信を得た。
それで彼は、悪を行う者達に離れていけ、と言う。
彼が自分の罪にしおれていた時、彼をよってたかってののしり、悪を行う者達もいたのだ。
罪責感に悩まされている間は、サタンの「罪定め攻撃」に対し、何の為す術も無い。
しかし悔い改めの祈りをし、主に聞き届けられた、という平安が与えられたなら、再び敵に立つ事ができるようになる。

主は詩篇を通して、私達に示している。
ダビデの罪を犯した様、悔いた様、そこから立ち直った様を。
これを通して、私達にも悔い改めによって立ち直る事ができる事を、教えている。

あんな事してしまって取り返しがつかない、という牧師や聖徒がいるとしても、その人が悔いて改めた様がはっきりしているなら、彼らを抱きしめ、交わりへと戻してやるべきである。
もちろんそれは、仲がいいからといって罪を見なかった事にするのではない。
聖書と照らし、悔い改める方法へと導き、その人がその方法に歩めるように、それを教える必要がある。
さばきは、神のみの権限であって、私達がする事ではない。
私達には、互いに勧め合い、教え合い、励まし合い、養い合い、助け合う事こそ、命じられているのだ。

朝明けの祈り(詩篇5篇)
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聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌
5:1 主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2 わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。
5:3 主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。

詩篇5篇は、朝明けの祈り(Dawn Prayer)と言われている。
夜番をする羊飼いにとって、夜明けの時は、待ち遠しいものである。
元々羊飼いだったダビデはは、その時から夜明け前に御前で祈る習慣を持っていたのだろう。

3節の「いけにえを備えて(アーラフ)」は、「準備する」の意味、「待ち望みます(ツァーファー)」は「前方に向く」「じっと見つめる」の意味である。
すなわちダビデは、一日の一番最初の時を主に捧げるために自分を整え、主をじっと待ち望んだのだ。
彼はこの時、彼を憎み、悪をたくらむ者によって、脅かされていた。

5:4 あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5 高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。

悪を行う者は、聖徒の集いに、そして神の御前に、立つ事ができない。
しかし主の民は、いつも御前を歩むようにと主から命じられている。

創世記17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

「主と共に歩む」事、これこそ、御前において全き者である。それは何も、罪を犯さない状態を続ける事ではない。
たとえ肉の情欲に飲まれ、まさに罪を犯しそうな瞬間でも、あるいは、犯してしまっている真っ最中であったとしても、心を主へと向け、神に喜ばれない罪を犯さざるを得ない自分を悲しみ、御前に憐れみを請い求める人こそ「主と共に歩む人」である。詩篇51篇は、ダビデがまさに罪を犯した時でも主と共に歩んだ結果生まれた詩篇と言える。
神と共なる歩みを積み上げれば積み上げるほどに、主はその人をますますきよい霊によってきよめ、喜んで仕える霊を送って、その人を支えて下さる。

逆に、いかに悪い事を「していない」状態が続いたとしても、あるいは、どんなに素晴らしい善行をしているとしても、心を主に向けない人は「主と共に歩まない人」、すなわち、義とはされない人である。

5:6 あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7 しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみ(ヘセド)によって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。

ダビデが宮に出て礼拝を捧げられるのは、まさに、神の豊かなヘセド(恵み、憐れみ、慈悲)によってである。
なぜなら、ダビデ自身も、人間である事には変わりなく、すなわち、罪人である事には変わりはないからだ。

5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。
5:10 神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。彼らはあなたにそむいたからです。

ダビデはこの時、彼に悪をたくらむ人によって脅かされている状態で、その彼らに「その罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください」と祈っている。
それは決して高潔な祈りとは言えないかもしれないが、ダビデはいつもこのように、心の内を御前に正直に注ぎだしたからこそ、ダビデは敵を前に、実際的には高潔に振る舞う事が出来たのだ。

ダビデのいのちを追い回してきたサウルに対しても、善を悪で返したナバルに対しても、また、ダビデがアブシャロムの前から逃げていた時、盛んに呪いの言葉を吐きながら石を投げてきたシムイに対しても、ダビデは彼らを殺そうとする部下達を制し、彼らのいのちを助けてやった。

ダビデは、怒りをそのまま人にぶつけるのではなく、その気持ちをそのまま神へと持って行き、全てを神の正しいさばきを委ねたのだ。
もし相手が、ダビデがかけた「憐れみ」にふさわしいなら、主が憐れんで下さるが、しかし最終的には、サウルも、ナバルも、アブシャロムも、主ご自身が正しく裁かれた。

5:11 しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって/喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12 主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。

主の喜びに預かれる者は、主と共に歩む者、主により頼む者、主の御名を愛する者である。
ダビデは最後、全て主に寄り頼む者を喜ばせて下さい、正しい者を祝福して下さい、と祈っている。

しかし元来、正しい者も、義人も、ひとりもいない。

ローマ3:10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
 3:11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
 3:12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
 3:13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
 3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
 3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、
 3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
 3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。
 3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

人間の中には、義人はひとりもいない。
ダビデは、彼に災いをもたらす者を「そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言う」と言ったが、実は、ダビデ自身もそうだったのだ。
それでは、ダビデはどうして自分を「正しい」と言うことができるのか。ロマ書には、次のようにも書いてある。

ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
 10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
 10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

いかに人の口が「開いた墓」のようであったとしても、御言葉を口にして、信仰告白を口から出すなら、その口の告白によって救われるのだ。
信仰を混ぜ込んだ御言葉のテフィリンによって、人はどんどん清められていく。

ダビデは主により頼むと告白し、朝の明ける前から主と交わっているので、彼はあらゆる願いを祈る事ができたのだ。
私達も、イエス・キリストにあって常に神と交わりを持っているなら、いつでも大胆に御前に進み出て、時期を得た助けを願い出る事ができるのだ。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

安らかな眠りにつくために(詩篇4篇)
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詩篇4篇は、ユダヤでは夜、寝る前に捧げるテピラー(תפלה:祈り)である。
これもまたダビデが作者であり、おそらく、3篇の祈りを捧げた後に平安が与えられ、その時に祈った祈りだと思われる。

4:1 聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

ダビデは少年の時も、青年の時も、壮年の時も、今までの人生で何度も主が助けて下さり、ゆとりを与えて下さった事を経験をして来ただろう。
まだ羊を飼っている少年で、王になるとは思ってもみなかった時からも、彼は、獅子や熊から守られた。彼が命の危険も顧みず、自分の羊を守ろうとする性質だったから、主は、彼を王として見出したのだ。

ダビデは、苦しみの時にゆとりが与えられた事を告白している。
きっと、3篇の状況が少し改善したか、あるいは改善しないままでありながらも、主からゆとりが与えられたのだろう。

4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ

人の子達、すなわち人間達は、ダビデの栄誉を辱めている。
なぜわざわざ「人の子達」という呼び方をしたのか。
それは、どんなに勇士でも、強者でも、知恵者であっても、ダビデが救いの根拠を置いている主の前には所詮、何者でもなく「人から生まれた者達」だという事だ。

彼らは、むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めている。
たぬきが人を化かして、枯葉をお金に見せて、化かされた人は、お金持ちになったと喜び沸き立つが、目が覚めてみるとそれはお金ではなく、枯葉だった、という話があるが、サタンのやり口も同じである。
価値あるものに見せかけて、掴ませ、それで滅びへと導くのだ。
むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求める時、その者は実はむなしい道、滅びの道へ向かっているのだ。

そこでダビデは、この1節と2節の状況は、危機的な状況に「セラ」を宣言し、ムードチェンジする。
4節と5節は、2つの「セラ」にサンドイッチされており、キアズム構造上、ここがサンドイッチの中身部分、最も味わうべき中心部分である。

4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

主は、神を敬う人を、ご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」して下さる。
主から特別扱いされる民とは、何と幸いな事だろうか。
しかし、その特別扱いされるためには、それなりの条件がある。そしてそれは、シンプルである。

申命記26:16 きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。
 26:17 きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。
 26:18 そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。
 26:19 主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。

ここに、「主の宝の民」となる事と、また主から誉れと良き名と栄えとが与えられて、全ての国民に勝るものとされる、という素晴らしい約束がある。
まさに主からの特別扱いであるが、そうなるための条件が前後に挟まれている。
すなわち、主の御声に聞き従い、心をつくし、精神をつくして御言葉を守り行う事である。

シンプルに言えば、主は、主の御言葉を特別扱いする人をこそ、特別扱いされるのだ!

4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。

ダビデは、怒り狂ってダビデに反逆する者を諭す。
怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい、と。
むしろ、主に義のいけにえを捧げ、主により頼みなさい、と。

エペソ4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
 4:27 また、悪魔に機会を与えてはいけない。

闇の時間に入る前に、しっかり心を整えておくべきである。
そうでないと、夜、床の上で怒りや憎しみ、恨みを思い巡らせながら悶え過ごす「眠れぬ夜」を過ごす事になってしまう。
平安に安らかな眠りに入れる人とは、7節のこころざしを持って祈る人で、その人が8節の安らかな眠りに入れるのだ。

4:6 多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。
4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。

多くの人々は、求めている。誰が私に良い目を見させてくれるだろうか、と。しかし、私達が求めるべきは、主が、御顔の光を私達へと照らして下さる事。
それは、豊かに穀物やぶどう酒があり、お金がふんだんにある事をはるかに凌ぐ祝福である。

民数記 6:24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
 6:25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
 6:26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
 6:27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

主が大祭司にこの祝福で祈るようにと命じられた祈りには、モノやカネが豊かになるように、などという、異邦人がよく祈るような祈りは、一切無い。
この「主の御顔の光こそ、モノやお金が大量にあるより、はるかに勝る祝福だ」という感性を持っている人こそ、幸いな人である。

私達は日々、その幸いに、ときめいているだろうか。
主のことばによって心に平安が与えられ、その喜びが、穀物とぶどう酒の豊かな時の喜びにまさる、という感性を、失ってはいないだろうか。

ルカ24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

イエス様が御言葉を解き明かして下さる時、あらゆる危機が迫っている中でも決して奪われることのない喜びにときめくのである。
ときめきを忘れた夫婦にならないように、とはよく言われるが、私達は、ときめきを忘れないイエス様との関係、ときめきを忘れない御言葉との関係でありたい。

この、世の何者にもまさる御言葉からくる平安に満たされた人にこそ、安らかな眠りが与えられるのだ。

4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。

この何者にも奪われない平安がいつでも与えられ、安らかな眠りに就いている皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「セラ」の名人ダビデ(詩篇3篇)
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詩篇3篇の表題は「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」である。
聖書で、詩篇の中の「表題」部分は、節として数えられない訳は多い。しかし元々、ユダヤ人の聖書の詩篇には、表題もそのまま記載されている。
章節に分けたり、節にも数えずに表題として分類したりするのは、異邦人的な分類なのだ。ユダヤ人は聖書を全て「そのまま」受け入れる。

3:1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、

詩篇3篇の最初の2節は、内容からして、暗くなる状況である。
何しろ、ダビデは、その子であるアブシャロムにクーデターを起こされ、彼に同調する敵対者が多く起こり、ダビデは王座から降りてエルサレムから逃げている状況だ。
ある者は、落ちぶれて都落ちして行くダビデにつきまとい、呪いの言葉をかけながら石を投げてついて来た。(2サムエル記16:5-14)

しかしダビデは、それを甘じて受け入れている。
なぜなら、アブシャロムの謀反も、ダビデの罪の結果であり、身から出た錆だからだ。
16:11 ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。
16:12 主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。

ダビデがこの時味わっている苦痛の大本は、ダビデ自身の罪だった。
彼がウリヤの妻に手を出し、身ごもらせ、彼女の夫であるウリヤをわざと激戦区に送って剣で死なせたために、彼には性的な呪い、すなわち「いのちの呪い」と、剣の呪いとに、つきまとわれてしまう事になる。(2サムエル記12:7-12)

しかし彼は自分の犯した罪ゆえに日夜涙を流して自分の犯した罪を悲しみ(詩篇6篇)、神に悔い改めの祈りを祈った。(詩篇51篇)
自分が犯した罪を認め、悔い改める人を、主は、赦して下さる。
確かに、主は赦して下さる。しかしながら、その本人が犯した罪の刈り取りは、しなくてはならない。
その刈り取りが、この度の災いなのである。ダビデはそれを、身に甘んじて受けた。

3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ

この時の多くの人々の、ダビデに対する評価は、ダビデはもうだめだ、彼からは神の助けは去った、というものだった。
しかし、悔い改めたダビデは、この告白をした後、「セラ」を宣言する。

セラ(סֶלָה)。
それは、当時のオーケストラにおいて特定の指示をするサインで、詩篇には何度も出てくる言葉であり、以下の3つの意味がある。
1,Stop and Listen。止めて、聞きなさい
2,Change Tone。トーンを上げなさい、転調しなさい
3,Change the Mood。雰囲気を変えなさい

確かにダビデはこの時、絶望的状況で、多くの人々は彼に「救いが無い」と判断している。
しかしダビデはここに、セラを入れる。

心に渦巻く心配事やつぶやきはストップし、神の言葉に聞きなさい!
暗く低い声は、トーンを上げなさい!
ムードチェンジしなさい!
と。

彼はこの最初の「セラ」で、暗澹とした状況告白から、信仰告白へと転調する。

3:3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。

ダビデは雰囲気を変えた。
不利な状況を見つめて思い巡らす事を止め、主に心を向けた。今までダビデを何度も救って下さった、彼の主へと。
ダビデは、若かりし頃から何度でも、主こそわが盾、わがやぐら、と告白した。
その都度、主は彼を守ってくださった。

3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。〔セラ

ダビデは「聖なる山」から、と言っている。
彼はこの時、聖なる山、すなわち、神の箱がある礼拝する場から逃げて離れていく途中だった。
彼は信じていたのである。
自分は今、やむを得ず、聖なる山から離れて行く。
しかし主は、必ず自分をあの山に戻して下さり、そして再び、自分はあそこで礼拝ができるのだ、と。
『アビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。』(2サムエル記15:24-25)

彼はいつでも礼拝を慕い求める人だった。
礼拝の場から、聖なる交わりから遠ざかっている時、私達もダビデのように告白すべきである。
彼は後に、見事エルサレムに戻り、礼拝を捧げ、再び王座についた。
ダビデは、信仰告白により、変わったのだ。

3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
3:6 わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。

4節の二回目のセラ以降、再びダビデの心に変化が起きている。
5節のふす、眠る、目を覚ます、これら3つの動詞は、いずれも完了形である。
完了形とはすなわち、「これはもう成った」という信仰告白であり、そして実際、彼はあの状況下であっても、安息して眠り、快く起きる事ができるようになったのだ。
彼は自分の心配から解放され、その後はむしろ、彼に敵対している彼の息子アブシャロムのほうを心配している。

この詩篇3篇は、ユダヤ人の中では、朝祈る祈りとされている。
こんな状況下でも、安息して眠り、平安の内に起き上がったダビデのようになりたいと、彼らは朝の祈りにしたのだろう。

ダビデはまさにムードチェンジのプロである。
彼のデビュー戦であるゴリヤテとの戦いでも、彼の信仰告白を境に、それまで40日も無割礼の者にいたぶられていたイスラエルの雰囲気を、がらりと変えてしまった。(1サムエル記17章)

ダビデは最後に、自身の願いを祈っている。

3:7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。

私達は何かと、自分の願いを先に祈りたいと思いがちだが、しかし私達もダビデにならい、まずムードチェンジを自分自身に命じるべきである。
暗いムードをそのままめぐらしてチェンジする事なく、ひたすら暗い願い事ばかりつらつら申し述べても、何も変わる事はない。
その「暗い思い巡らし」はストップし、ムードチェンジのために信仰告白をし、安息の実体を得る。それがまず先決なのだ。

3:8 救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ

この8節の言葉は、さすがダビデ、偉大な王だ、と思える言葉である。

この時ダビデは王座を追われ、もう王ではない、王はアブシャロムだ、と人々から思われている時であるが、ダビデはこんな時に、民のため、執り成し祈っているのである。
この執り成しの相手には、当然、敵対して来る息子アブシャロムも入っている。
ダビデは、この圧倒的不利な情勢でも、彼の部下には、息子アブシャロムはやさしく扱うよう命じている。
ダビデは今までの戦いの経験から、主に告白し、平安が与えられたなら、こちらがどんなに不利に見える戦いでも、必ず勝つとわかっていたからだ。

自分を殺そうとする敵のため、そして自分を捨てた民のためにさえ、執り成し祈る。まさに王の中の王の性質である。
クーデターを起こしたアブシャロムのほうは、結局、ダビデの元に帰らぬ人となってしまった。

ダビデは最後、再びセラの言葉で詩篇3篇を閉じている。
祈って信仰告白した後は、世へと出て行って、実際にその働きをしなくてはならないからだ。
私達は祈りだけで一日を過ごすものではない。そんな事をしていたら、仕事が出来ない。
御言葉を宣言し、信仰を告白したなら、立って出て行き、神の国のわざを為して行かなくてはならない。
だからムードチェンジして、行きなさい、という事で、最後にセラを入れたのだろう。

私達も世においては、色々な戦いがある。ダビデほどではないにしても、敵に取り囲まれる事もある。
しかし、今まで諸々の事がお起きる都度、守って来られた主に心を向け、信仰告白する時、心は代わり、状況も変わっていく。
私達もダビデのように、ムードチェンジのプロとなり、信仰告白のプロとなり、そして敵のためにさえ執り成すものとなりたい。

御子であられるメシヤの詩篇(詩篇2篇)
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詩篇1篇は、幸いな人と、そうでない者の両方の道が示されたが、2篇も同じである。
この2篇は、王でありメシヤであられる御子キリストが預言されている。
作者は記されていないが、使徒4:25によるとダビデが作者である事が分かる。
すなわちダビデが、聖霊によってメシヤであられるキリストを見せられ、書いたものである。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
2:2 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、
2:3 「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。

ここに「油そそがれた者」はヘブライ語ではמָשִׁיחַマーシーハ(メシア)、ギリシア語ではキリストである。
すなわち、メシヤ宣言節である。
しかしメシヤはなんと、国々や王達から相共に逆らわれる事が、予め記されている。
事実、ユダヤ人の指導者達やポンテオ・ピラト、ヘロデは、相共に集って油注がれたお方の「かせ」をこわし、「きずな」を解き捨てようと、油注がれたお方イエス・キリストに逆らい、彼を十字架につけた。

2:4 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。
2:5 そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、
2:6 「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と。

父なる神は、人が共に集って油注がれたお方に逆らうのを、あざけられる。
そして彼らに恐れを臨ませ、メシア・イエス・キリストこそ王であると宣言される。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

この7節は、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられた時、父なる神が宣言された言葉である。

マルコ1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
 1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
 1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

この場面は、いわばイエス・キリストの「戴冠式」と言って良い。
この時、父・御子・聖霊が、共に意見一致し、御子キリストこそ、父なる神と聖霊が認証された「御子」であると宣言した。
まさに、次の御言葉のとおりである。

1ヨハネ5:7(永井訳) そは天に於て證をなし給ふ者は、父と言と聖靈と三つなればなり。また此等三つの者は一におはします。
5:8 また地に在りて證をなす者は、靈と水と血との三つなり。されど三つの者は一のためなり。
(ネストレ・アーラントを底本としている多くの聖書は、ここの父子聖霊の一致の記述が、除外されてしまっている。ステファヌス・テキストを底本とする永井訳や、テクストゥス・レセプトゥスを底本とするKJV、NKJVはそうではない。私はNKJV翻訳を監修したゲイリー・コーヘン博士の設立したコーエン・ユニバーシティで学び、また私を導いて下さった聖霊の促しもあるため、テクストゥス・レセプトゥス底本を支持する。)

その時、「天が裂けて(スキゾー)」とある。スキゾーは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時、聖所と至聖所とを仕切る幕に対しても起きた。
至聖所、その立方体の空間は、地上において唯一、神の臨在がある「天国」だ。黙示録において示される天国は、縦横長さが1万2千スタディオンの立方体である。
父なる神が天を裂いて、イエス・キリストを通して、天国への道を開いて下さったのだ。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

御子キリストは今、愛と憐れみ、赦しに富みたもう、優しいお方として現れている。(イザヤ42:1-5)
しかし、あくまで逆らう事を止めなかった者達に対しては、力強い裁き主として来られ、鉄の杖で彼らを粉々に砕かれる。(黙示録2:27、黙示録19:15)

2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。
2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
2:12 その足に(原文に「足に」は無い)口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

幸いな人とは、恐れおののきつつ、御子キリストに「口づけ」する者である。
「口づけ」は、ヘブライ語でナシャク、口づけする他に(武器などを)装着する意味もある。
つまり御子キリストに口づけする人、御子キリストへと装着される人こそ、幸いな人である。

以降、「幸いな人」のスタンスに立つ者が受ける詩篇2篇の恵みを見ていきたい。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事を「たくらむ(הָגָהハガー)」のか。

幸いな人は、この逆を行く。
すなわち、むなしい事を「つぶやく(ハガー)」事を、しない。幸いな人はむしろ、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ(ハガー)。(詩篇1:2)

御子キリストに従う者は、しもべの姿を持つ。
その人は聖霊に導かれて志を立てられ、それに従い、御心のままに事を行って行く。

ピリピ2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。

災いな者、鉄の杖で粉々に砕かれる者とは、主に向かって立ち構え、共に主と油そそがれた者とに逆らって「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と言う。
幸いな人は、その逆である。イエス様は言われた。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

幸いな人とは、喜んでイエス様のくびきを共にする人。
その人は、あらゆる重荷を負う労苦の中でも、安息を得、魂に休みが与えられる。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

御子キリストは、全能の父なる神の御子として来られ、王として就任されたが、地上においての彼の生き様は、「しもべ」の有様であった。
イエス様はポンテオ・ピラトに対して言われた。

ヨハネ18:36 「わたしの国はこの世のものではない・・・事実、わたしの国はこの世のものではない」。

私達は、この地上での王となって好き放題にする事を求めるのではない。
キリストが歩まれたのに習い、本質においては父なる神の子であり、王でながら、しかし地上においては「しもべ」の姿で歩むべきなのだ。
だから使徒たちは祈る時、「しもべ」という言葉を多用したのだ。

使徒4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
 4:25 あなたは、わたしたちの先祖、「あなたの僕ダビデ」の口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
 4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
 4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた「聖なる僕」イエスに逆らい、
 4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
 4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、「僕たち」に、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
 4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、「聖なる僕イエス」の名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
 4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

しもべイエス様の姿にならい、しもべとして聖霊を求め、しるしと奇跡を求める時、聖霊に満たされ、しるしと奇跡をもって、キリストのわざを為す事を得られるのである。
さらに、しもべとして歩む人には、次の特権も与えられる。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

世の中の王や権力者達は、自分の欲するままに支配し、権力を振るうが、私達はそうではない。
自分の欲するままにではなく、キリストのしもべに与えられる聖霊のおもむくままに、与えられる土地において、与えられる権威の座において支配し、悪魔サタンのわざを鉄の杖で粉々に砕き、病や悪霊を追い出すのである。

幸いな人とは、キリストに口づけし、しもべとなって、世にキリストの統治をもたらす者であり、災いな人とは、キリストのくびきを投げ捨て、自分の欲するままに生きようとする者である。

エレミヤ書 講解説教メッセージ
祭壇の角すなわち贖いの十字架さえも傷つける者(エレミヤ17:1-18)
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主の教えを喜びとする者の幸いと、悪しき道に留まり続ける者の災い(詩篇1篇)
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詩篇全体を流れるアシェルの概念について、二回に渡って学んだ。
今回は、詩篇1篇の全体から、幸いな者の道と災いな者の道とを学びたい。

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

詩篇1篇は、幸いな人(アシェルな人)と、その対極にある「悪しき者」の、両極端な双方の道が示されている。

人は何かと、自分はそんなに悪人ではない、と思っている。それは、物事を自分にとって都合よく見る、自己正当化という色眼鏡がかかっているからであり、ほとんどの人は、自分がそのような眼鏡をかけているという事さえわかっていない。
その色眼鏡がある事が分からないために、物事を正しく見る事ができず、なぜこんなに自分だけが災いにばかり遭うのか、なぜ人は自分にだけこんな態度を取るのか、という事が分からない。
この色眼鏡を取るには、どうすれば良いか。それは、絶対的に正しいものさしで、自分を測る必要がある。
その正しいものさしこそ「主のおきて」、すなわち、神の御言葉である。
だから、主のおきてを「喜び」とし、昼も夜もそのおきてを口ずさむ人こそ、真に自分を正しく測り、真に正しい道、すなわちアシェルな道が分かり、そこへと進んで行く事が出来る「幸いな人」なのである。

1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

主の御言葉を「喜びとする」事が肝心である。
たとえ、御言葉を口ずさむ事を強いられて、嫌々ながらやっているとしても、その通りに守り行うなら、その祝福には与れる。
しかしそれでは、心底楽しい道とは言えない。
愛する人からの手紙は喜びをもって読むのと同じように、主を愛する愛をもって為すなら、口ずさむ事も守り行う事も喜びとなり、ますます栄えて行くものである。

人は何かと、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える者になりたいと願うが、そうなるためのコツとして、ヨシュア記にも全く変わらない事が記されている。

ヨシュア記1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。

こちらにも、行く所で勝利を得るコツ、何をしても栄えるためのコツが書かれている。
すなわち、主から命じられた御言葉を、昼も夜も口ずさみ、そこに記されている事を守り行う事。
これは、何をしても栄えるための普遍的な法則なのだ。

御言葉を口ずさむ事、それがすなわち、御言葉を食べる事である。
耳や目から頭に入った言葉を、口で声に出して宣言し、自分の鼓膜を震わせ、骨を震わせ、脳に、心に、たましいに、そして霊に、行き届かせる。
それを反復すると、反復した言葉が心に、脳に、たましいに、霊に定着し、その時、完全に「食べた」という。
ごはんを食べて肉体が体験することと似た事が、御言葉を食べると起きるのだ。

人は食べる行為を、1日3回する。そうしないと元気が出ないからだ。
だから御言葉を口で宣言しないなら、霊的飢餓状態に陥ってしまう。それだから、昼も夜も、と教えられているのだ。

エレミヤも言っている。
15:16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。
15:17 わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。

エレミヤは、御言葉を食べたら、それが喜びとなり、心の楽しみとなった。
その結果、「万軍の神、主の名をもってとなえられている者」(KJV: I am called by thy name, O LORD God of hosts)すなわち、「主の御名がつけられた者」となった。

主の御名がつけられ、主の御名をもって人々から呼ばれる。
それはなんと幸いな事であろう。
申命記28章に、祝福と呪いの極端な二分化が行われる様が記されているが、その分岐点は、御言葉を聞いて守り行うか、それとも、御言葉に聞かず御言葉を守り行わない、という分岐であった。

主の声によく聞き従い、御言葉を守り行うならば、神である主は諸国民の上に立たせ、町の内でも畑でも祝福され、身から生れるものも、地に産する物も、家畜の産むものは祝福され、かごもこねばちも祝福され、はいるにも出るにも祝福され、敵に対しては圧倒的に勝利し、倉にも手のすべてのわざにも祝福が下る。(申命記28:1-7)
御言葉を聞いて守り行う者には、確かにこの誰もがうらやむ祝福が与えられるが、何よりの祝福は、エレミヤが得たとおり「主の御名がつけられる事」である。

申命記28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
28:10 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。

主の名をもって唱えられる事、それはすばらしい幸いである。
女性が男性の家へ嫁いで行く時、姓が嫁ぎ先に変わるが、私達は、イエス様の御前において全て「女」である。
もし私達が、主の御言葉を前にして自分の「やりたい」を降ろし、御言葉に記されている事のほうを選択して、御言葉の通りに「する」なら、主を「主人」としているわけであり、主に嫁いだ者、主の御名がつけられた者、主の御名で唱えられる者となり、そうなるのであれば、すなわち私達を守り養って下さる責任は、全て主へと帰属し、主の富はすべて私達も共同で相続する権利がある。
しかし、もし主の言葉より、自分の「やりたい」のほうを優先させるなら、その人は主を主人としていないわけであるから、その人は主の保護は得られず、自分の腕っぷしひとつでやっていかなければならず、主の栄光の富の相続には与れない。
その人は、水路のそばに植えられる特権に与れず、何をしても栄えず、申命記28:15節以降の全ての呪いを受ける覚悟をしなくてはならない。

1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

「悪しき者」は、KJVではungodly、すなわち、神なき者、神を神としない者である。
神を神としない者は、風が吹き飛ばすもみがらのようである。パレスチナでは今でも、実ともみ殻を振り分けるのに、風を用いているが、もみ殻は見事に吹き飛ばされ、実は蔵へおさめられる。

神を神としない者は、主の会衆の中に居続ける事が出来ない。
主の会衆が、喜んで賛美したり、祈ったり、御言葉に養われるのに、その楽しみが理解できず、むしろ心底ひまな、つまらないものとして見るからだが、もしその者が、主の会衆に害を加えるようなら、主がアカンを吹き飛ばしたように、その者は主の会衆から吹き飛ばされて行く。(ヨシュア記7章)
その様は、箴言5章にも記されている。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

箴言5章は一見すると、「女性には気をつけなさい」と男性に向けて戒めているかのように見えるが、ここは当然男性のものだけでなく、女性も含めた主の民全般に対する警告である。
なぜなら私達・主の民は、主イエス様に対しては、嫁いでいくべき花嫁ではあるが、世に対しては正しく支配し、サタンに対しては打ち負かして行くという、「男」の立ち位置だからである。
サタンは、主の民に対し、遊女のくちびるのように、甘言でたぶらかして来ようとする。

5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。

主は言われる。わたしの口の言葉から離れ去ってはならない、と。
サタンの遊女のくちびるに惑わされたりして、主の御教えの外へと行ってはならない、と。
遊女のくちびるから出る言葉は甘く、楽しそうに、ラクそうに見えても、「その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく」のだ。

5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。

主の民であるべき者が、主の教えから離れて、遊女の言葉に、すなわち世の言葉、サタンの言葉にうつつを抜かしているなら、どんどんと誉れが、資産が、労苦の実は、他人に渡されて行ってしまう。
それでもなお主の教えに帰らないなら、その人に終わりが来る。

5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

このように、主の教え、主の御言葉から離れる人は、会衆のただ中にあって、最悪のままの状態を過ごし、それでもなお立ち返らないなら、最終的にその人は、集会から絶たれてしまう。

そのような道は心して避けて通り、主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ事によって、御言葉を毎日「食べ」、主の御名がつけられたアシェルな者としての幸いを得、そこから逸れる事の一切ない皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

アシェルな人になるために(詩篇1:1-3)
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メッセージ音声

______________
 1:1 幸い(アシェル)なことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

前回、この「幸い(アシェル)な人」、な人が得る幸いとはどのような幸いであるのかを学んだ。
今回は、そのアシェルな人になるには、どうすれば良いかを学びたい。

アシェルの祝福は、「悪者のはかりごとに歩まず」「罪人の道に立たず」「あざける者の座に着かない」という、3つの「ない」の人に与えられる。アシェルな人の辞書には、それら3つは、存在しない。
アシェルな人は、そうした「悪いわざ」から気をつけて身を引いて行く。
彼らは、一体何が悪者のはかりごとで、罪人の道で、あざける者の座であるのか、という「分別」ができる。
どうすればそのセンスが磨かれて行くのか。

 1:2 まことに、その人は主のおしえ(トーラー)を喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ(ハガー)。

ハガー(הָגָה)は元々は「つぶやく」であるが、そこから「思い巡らす」「学ぶ」、すなわち「咀嚼する」という意味になる。
KJVでは、「meditate day and night」と書いてある。
主のトーラー(律法)を、喜びをもって、昼も夜も口ずさむ(ハガー)。
御言葉を口ずさむ事が、すなわち、きよい御言葉を食べる事であり、そのような人はますます、アシェルなセンスが磨かれていく。

そのきよさを身に着けていくためには、神が「きよい」とされた動物がどんな性質であるのかを調べる事が有益である。

レビ記11:1 主はまたモーセとアロンに言われた、
11:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。
11:3 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。

律法上「きよい」とされている牛や羊の胃袋は4つある。
食べた草を、1胃と2胃の反芻胃を使い、胃袋から口に戻して噛み返しを繰り返しつつ、分解吸収している。 (この1胃をミノ、2胃をハチノス、3胃はセンマイ、4胃をギャラと呼ぶ。)
これが、主への良き捧げ物となれる性質である。
私達も、神の言葉を折を見ては取り出して反芻(ハガー)し、御言葉をよく消化・吸収して行くなら、主への良き捧げ物となる事ができる。

レビ記11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。
・・・
 11:9 水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。
 11:10 すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。

ひずめやうろこは、自身と世との間に境界を引き、世の汚れから自身を守るものである。
主はそれを持つ生き物を、きよい性質の一つとされた。
私達も、世の汚れに対して一線を画すこころざしを持つべきである。

11:20 また羽があって四つの足で歩くすべての這うものは、あなたがたに忌むべきものである。
11:21 ただし、羽があって四つの足で歩くすべての這うもののうち、その足のうえに、跳ね足があり、それで地の上をはねるものは食べることができる。

後ろ足や羽で地を跳躍する、あるいは、ひれで泳ぐ生き物は、水底や地にいつまでも留まっていない。
私達も、地上のものにいつまでも留まらず、この世の事を思わずに天を思うなら、それはきよい性質である。
それにひきかえ、サタンは「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」「地を行き巡り、そこを歩き回る」性質だ。(創世記3:14、ヨブ2:2)

地に属し、世に属し、サタンに属するものに対しては一定の境界線を置き、自分自身をそれらから隔てを置く。
そして自分自身は、きよい御言葉を昼も夜も反芻する。
私達がそうして行くなら、私達も神に受け入れられる、きよい生きた供え物として神に捧げる事が出来るのだ。

レビ記11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。

反芻する動物であっても、ひずめが分かれていないものは「汚れている」とされる。地に接地している状態で反芻しても、その反芻は無駄になってしまうのだ。
同様に、いくらテフィリンやハガーをしたとしても、世の事・肉欲を思い巡らしながら、あるいは、不平不満を握りしめながら反芻するとすれば、それは結局、災いで有害なものをよく咀嚼し消化吸収してしまう事になり、きよくなるどころか、ますます汚れてしまう。
もし、テフィリン続けていても、全く人格や状況が変わらない、という人がいるなら、その人は世に接地した状態で反芻していなかったかを、よく思い返すべきだ。
妬みや怒り、罪定めする気持ちなどの汚れたものを握りしめたままであるなら、その人は、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着いたままの状態で、その状態でいくらテフィリンしても、無駄なのだ。

祭司である者は、自らを清め、世俗と分離する。
レビ記10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

キリストにあって祭司とされた私達も、神が「汚れている」としているものは摂らず、御言葉を取り入れ、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そのような人にこそ、以下の幸いが約束されている。

 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

キリスト者の中には、「信仰の先取り」と言ってこの3節を盾に取り、「わたしは水路のそばに植わった木である事を感謝します」「時が来ると実がなり、葉は枯れず、何をしても栄える者である事を感謝します。」と祈る人もいるかもしれない。
もちろん、御言葉を信じて告白するのは良いが、聖書に記されている祝福には、前提条件があり、その前提条件を満たした人のものになるという事を忘れてはならない。
ここの前提条件とは、すなわち、1節と2節である。

1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

自分自身を世とは区別し、聖なる御言葉をいつもハガーし、ますますきよい者とされ、神に捧げられ御国のために有用に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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