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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

主の敵に勝利させ、栄えさせて下さった事への感謝の詩(詩篇21篇)
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詩篇21 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

この詩もダビデが創り、聖歌隊に歌わせた歌である。
20篇は、ダビデが臣下の人達にダビデのために執り成しをさせた内容であったが、この21篇は、主がその祈りに答えて下さり、ダビデ王に祝福を与え、彼の敵に勝利させ、高めて下さった事への感謝の賛美である。

21:1 主よ、王はあなたの力によって喜び、あなたの助けによって、いかに大きな喜びをもつことでしょう。
21:2 あなたは彼の心の願いをゆるし、そのくちびるの求めをいなまれなかった。〔セラ

主がダビデの心の願いをゆるし、くちびるの求める事を否まれなかったのは、1節で宣言したとおり、彼が主の力を喜び、主の助けに大きな喜びを持つ心をいつも持っていたからだ。
主は全て主を喜びとする者の、心の願いも、また口で求めた事も共にかなえて下さるのだ。

主を喜ぶ事こそ、まさに私達の力である。(ネヘミヤ8:10)
主は全て彼を拠り所とする者、主に助けを求める者達の願いを聞いて下さり、大いに喜ばせて下さるのみならず、その人達に、冠をかぶらせてくださる。

21:3 あなたは大いなる恵みをもって彼を迎え、そのかしらに純金の冠をいただかせられる。

主はダビデに純金の冠をいただかせて下さったが、私達・主の現れを心から待ち望む全ての人には、義の冠をいただかせて下さる。

2テモテ4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

21:4 彼がいのちを求めると、あなたはそれを彼にさずけ、世々限りなくそのよわいを長くされた。

ダビデは主にいのちを求めた。すると主は、ダビデに、世々限り無く続く家を建てる約束を与えて下さり、「世々限りなくそのよわいを長くされた」と彼が宣言したとおり、永遠のいのちの望みをも与えて下さった。

神は人類すべてに、永遠のいのちを与えるために、独り子イエス・キリストを世に贈られた。
それは、御子を信じる者が一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。

21:5 あなたの助けによって彼の栄光は大きい。あなたは誉と威厳とを彼に与えられる。
21:6 まことに、あなたは彼をとこしえに恵まれた者とし、み前に喜びをもって楽しませられる。

クリスチャンとして正しい心を持った聖徒なら、主に礼拝を捧げる時、大きな喜びがある。
ダビデが宣言しているとおり、主の御前においては、喜び楽しみがあるからであり、また、御前に歩む聖徒たちには誉と威厳を与えて下さるからだ。
やがて私達・信仰者が受け継ぐ天国において、そこで永遠に主を喜ぶ事ができるのは、何という幸いだろう。

21:7 王は主に信頼するゆえ、いと高き者のいつくしみ(ヘセド)をこうむって、動かされることはない。

結局、主がダビデにこれら諸々の幸いを与えて下さったのは、彼が主に信頼したからだ。
信仰は、主に向かって登って行く。主はそれに対し、いつくしみ(ヘセド:恵み)を天から降らせ、信仰と恵みが合致する時、主の奇跡のわざが起きる。
主に信頼する者は、永遠に動かされる事は無いのだ。

続く箇所においては、主の敵に対して注がれる御怒りについて、ダビデの宣言が記されている。

21:8 あなたの手はもろもろの敵を尋ね出し、あなたの右の手はあなたを憎む者を/尋ね出すであろう。

ここで取り上げているのは、ダビデの敵ではなく「あなたの敵」「あなたを憎む者」、すなわち、主の敵であるサタンと、その勢力全般である。
それにしても、敵を探り出すのは「主の目」ではなく、「主の手」「右手」である、というのは興味深い。

全地は、主の御手のわざであり、まさに「主の御手の中」にある。
その主の御手は、私達・主を恐れ敬う者達には「救いの御手」、「身を寄せる陰」である。
しかし、主の敵どもは、いかに闇の中で粋がって悪を企もうとも、所詮、主の大きな御手の中で駆け回る小猿に過ぎないのだ。

21:9 あなたが怒る時、彼らを燃える炉のようにするであろう。主はみ怒りによって彼らをのみつくされる。火は彼らを食いつくすであろう。
21:10 あなたは彼らのすえを地から断ち、彼らの種を人の子らの中から滅ぼすであろう。

主は、全ての主の敵に対して、燃える火のさばきを降し、それに類する者達を絶ち滅ぼされる。

黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
 20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
 20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

サタンは1000年も獄に閉じ込められていたのに、その間、一切反省する事なく、解放されたとたん、人々を惑わし、聖徒たちとその陣営、神に愛された都を包囲する。
そうであるからには、もはや彼らの罪は明らかとなり、永遠の炎によるさばきについて何の申し開きもできない。
そして、この悪魔サタンに同調する者達やそれに類する者達も、皆、同様である。

21:11 たとい彼らがあなたにむかって悪い事を企て、悪いはかりごとを思いめぐらしても、なし遂げることはできない。
21:12 あなたは彼らを逃げ走らせ、あなたの弓弦を張って、彼らの顔をねらうであろう。

主の敵は悪を企てても、それは成功せず、かえって背を見せて逃げる事になる。
そして面白い事に、主が張った弓は、彼らの背中にではなく、顔面に命中するという。
それは、主の御手は前にも後ろにもあるからだ。

詩篇139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
139:6 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。

主は、主を敬う人を前から後ろから取り囲み、御手を置いて祝福の道へと導いて下さる。

しかし主の敵に対しては、主は前から後ろから取り囲んで、背を見せて逃げたとしても、顔面にヒットするよう矢を放たれる。
主は、どうしても悔い改めず、主の民に悪を行う事を止めなかったアハブ王に、そのようにされた。
彼は変装して戦争に出て行き、よろいも身に着けていたが、ある兵士が何気なく放った矢が、見事、彼のよろいの間を射抜き、致命傷を与えた。
主の陣営をなぶったゴリヤテも、ダビデが放った一発の石が、ゴリヤテの兜の細い間を縫って、見事急所にヒットさせた。

主は、主を敬う者が放った石や投資を、見事ヒットさせてくださるお方だ。
それ故ダビデは、賛美によってこの詩を閉じている。

21:13 主よ、力をあらわして、みずからを高くしてください。われらはあなたの大能をうたい、かつほめたたえるでしょう。

この素晴らしい主を助けとし、より頼み、その御手の内に守られ、祝福され、ダビデのように大いに主をほめたたえる皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデが臣下の人々に、王のための執りを教えた詩篇(詩篇20篇)
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詩篇20 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

この詩はダビデが創って聖歌隊に歌わせた歌であるが、その内容は、臣下の人達に王であるダビデのための執り成しをさせる内容である。
すなわち、ダビデが主に助けられ、祝福されるように。主が、ダビデの願いと祈りを、聞き入れて下さいますように、と。

臣民が王のために祈るのは、まことに理に適った事である。
なぜなら、王が祝福される事はすなわちその国が祝福され、ひいては、臣民が祝福される事につながるからだ。

1節から5節まで「あなた」という言葉が何度も出て来るが、その「あなた」とは、臣民の目線で見たダビデ王である。

20:1 主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。
20:2 主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ、
20:3 あなたのもろもろの供え物をみ心にとめ、あなたの燔祭をうけられるように。〔セラ

ここは、民の口からダビデを執り成す祈りであるが、現代の私達は、この箇所の「あなた」に、自分の教会の名前や指導者の名前を入れて祈る時、素晴らしい執り成しの祈りとなる。

20:4 主があなたの心の願いをゆるし、あなたのはかりごとを/ことごとく遂げさせられるように。
20:5 われらがあなたの勝利を喜びうたい、われらの神のみ名によって旗を揚げるように。主があなたの求めをすべて遂げさせられるように。

イエス様も言われた。
マタイ6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

天の「御国(バシレイア)」とは、主の心のままの統治が行われる領域の事である。
御国を求める事は、すなわち、主の統治が成就することを求める事なのだ。
私達は自分の生活に、人生に、夫婦関係や親子関係に、主の統治が来るよう、祈るべきだ。

20:6 今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。

「油注がれた者」は、ヘブライ語でマシアハ(メシア)、それはギリシア語で「クリストス(キリスト)」に相当する語である。

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。

これは、新約においてイエス様が会堂で教えられ(ルカ4:18-19)、そして「この日、この御言葉があなたの耳の中で成就した」(ルカ4:21原意)と言われた箇所である。
キリストの言葉が私達の耳の中に入るなら、この御言葉は私達の中でも成就し、キリストと同じわざを為していく事ができる。
なぜなら、キリストは私達教会のかしらであり、そのかしらにそそがれた油が、私達にも流れ滴って来るからである。

詩篇133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。
133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

ここに出てくるアロンは大祭司であるが、私達の大祭司はキリストであり、そして私達もキリストに繋がるなら祭司であり、かしらなるキリストに注がれた油を私達も得る時、私達も油注がれた者としての働きをする。
すなわち、貧しい者に福音を宣べ伝える事を委ねられ、心痛む人を癒やし、捕われ人に放免を、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と神の報復の日とを告げさせ、全ての悲しむ人を慰め、主の民の中の悲しむ人に喜びを与え、灰に代えて冠を、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心に代えて賛美の衣を与えさせるのである。
「こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。」
まさにイザヤ61章で告げられている通りだ。

20:7 ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を「誇る(ザカール:覚える、記念とする)」。
20:8 彼らはかがみ、また倒れる。しかしわれらは起きて、まっすぐに立つ。
20:9 主よ、王に勝利をおさずけください。われらが呼ばわる時、われらにお答えください。

世の人は、戦車などの武力を誇り、それをもって支配しようとする。
しかし、あらゆる武器を造るのも、そしてそれを壊すのも、われらの神、主である。
ただ神の民がザカールする(覚え、記念とする)べきは、主の御名なのだ。
同じ言葉が、詩篇33篇にも記されている。

33:13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、
33:14 そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。
33:15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。
33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。
33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。

ここに書いてあるとおり、主は、全地をあまねく見渡し、一人一人を、その心までもご覧になられ、心が主に一つとなっている人を、探し求められる。
主は、多くの人々の中から、少年ダビデを見出した。彼がまだ羊飼いの少年で、誰にも見向きされない時から。
それは彼が、羊飼いの時から、彼の心が全く主と一つとなっていたからだ。

サウルと彼の配下の兵士たちは、ゴリヤテの装備や兵器、力強さに震えおののいたが、ダビデは主を恐れ、主を頼みとした故に、主に見出され、そして事実、彼が信じ、また口で宣言した通りに、主の陣営をなぶったゴリヤテの頭と胴体を切り離し、ペリシテ人の死体を野の獣のものとした。

主は全地を見渡し、このような者を探し求めておられる。
馬の力や戦車など世的な力を頼みとするのではなく、われらの神である主を頼みとし、不信仰の世において、ひときわ輝く神のわざを為す皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
主に従わない者が、こっぴどい災いを受ける事で、主が栄光をお受けになる場合(エレミヤ22:1-12)
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御言葉によって神の「良し」へと再創造される私達(詩篇19:1-6)
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詩篇19篇の中盤、7節から9節には、主(エホバ)の御名が1節に2つづつ、合計6回登場し、主エホバの御言葉と交わる事の素晴らしい効用がリストアップされている。

19:7a 主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」

ユダヤ人は「テフィリン教育」すなわち御言葉の暗唱教育をしており、そのため、世界的な天才を多く排出し、富においても支配権においても大きな力を持っている。
この、御言葉暗唱の効用の第一が、「たましいを生き返らせる」事である。
暗唱の過程で、御言葉を1節1節繰り返して宣言して行くごとに、罪と肉に埋もれた人間の魂は、息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、蘇生して行くのだ。

主エホバの「おきて(トーラー)」は完全である。
トーラーは主の御言葉であり、そして主の御言葉は、世界を創造した。
主が「光よあれ」と言えば、光が出来、主の言葉によって全宇宙も全被造物も、全生物も、そして私達人間も創造され、そして存続している。
主は、創造したそれら全てを見て「はなはだ良し」と宣言された。(創世記1:31)

その、完全なる主の御言葉が、テフィリンによって私達の中に刻み込められて行く時、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった私達の人生の中に、主のトーブ(良し)が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
シューブとは「帰る」という意味であるが、つまり、主の最初の創造のトーブから離れてしまった私達の中に、主の御言葉が浸透して行く事によって、当初のトーブへと、どんどん「帰る」のである。

19:7b 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

私達がテフィリンをするべきもう一つの理由は、賢くなるからである。
主の御言葉が入っていけば行くほど、知恵が高められて行く。
ユダヤ人が頭脳が優れているのは、テフィリン教育によって育てられたからだ。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

主のさとし(ピクド:定められた法令、戒め、教訓)は、正しく、それを聞けば、心は喜びを覚える。
御言葉をテフィリンする人は、どんどん喜びが増し加わっていき、表情が良くなって行き、目に輝きが増していく。
ユダヤ人女性は美女が多い、と言われているが、それは、まさにテフィリン教育のためであり、御言葉を取り入れる事こそ、最高のエステであると言って良い。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

きよくなる事を目指す人は多いが、「主を恐れる事」なしには、あり得ない。
御言葉が入ると、正しく恐れるべきお方が分かるようになる。
そして、正しい真理に立つ事によって、キリストにある私達は、悪魔サタンを少しも恐れる必要が無い、という事も分かるようになって行く。

詩篇19篇の後半では、これら、主エホバの御言葉の素晴らしさが、結論として示されている。

19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

「慕わしく(カゥマド)」するべきは、御言葉である。
カゥマドしてはならないもの、すなわち、手出ししてはならないものが、十戒で定められている。それはすなわち、隣人の妻や家、隣人の持ち物である。(申命記5:21)
また、主の忌み嫌われる、滅ぼし尽くすべきものもカゥマドしてはならない。
アカンは、聖絶すべきものを「欲しがって(カゥマド)」、自分のみならず、家族をも滅ぼしてしまった。(ヨシュア記7:21)
御言葉こそカゥマドすべきものであり、これは知れば知るほど、また味わえば味わうほどに甘く、麗しく、望ましいものになってゆく。

19:12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなたの前に喜ばれますように。

人は意外と、自分のあやまちを知らない・気づきにくいものであるが、御言葉は、自分が気づかなかった「とが」を知る事が出来、そして、そこから離れる事が出来る手助けをしてくれる。
あるテフィリンを続けた人の体験談として、それまで、Aの物事に対しては無意識的にBで対応して来ていた人が、テフィリンをするようになると、Aで来た事に今までBで返そうとする直前、テフィリンで蓄えてきた御言葉が、その人の心にストップをかけ、さらに、今までBで返してきた事によって人を傷つけ、人から嫌われ、今まで見えていなかったBの行い故に自分が災いを被ってきた数々が思い出され、結果、Bはもはや止めて、御言葉に適ったCの方法で返すようになった、という。
テフィリンした人は、このような御言葉による無意識的・自動的な「矯正体験」を幾つも持っていて、人生つまづく要素がどんどん減って行った、という。

御言葉が入ると、その人の中の罪の性質は拭い去られ、それまで見えなかった、きよい道が見えるようになる。
そして、今まで見えていなかった自分の汚れた所も見えるようになり、恥じ入り、悲しみ、それを心底、投げ捨てる事が出来るようになっていくのだ。
偉大なわざをなすのは、主の御言葉である。

賛美する地球、太陽、星々と、全宇宙の石たち(詩篇19:1-6)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
19:1a もろもろの天(ハ・シャマイム)は神の栄光をあらわし(サファール)、

この詩は、単なる詩的表現の羅列ではなく全宇宙的な真理の実体が記されている。

もろもろの天(ハ・シャマイム)とは、私達が空を見上げて見える青い空、白い雲のあの空のみならず、その向こう側の宇宙も、さらにその向こう側の天国も含めた「天たち」である。
それらは、神の栄光をあらわす。
この「あらわす」のヘブライ語はサファール、刻みつけ、あるいは刻印して語り告げる意味で、宇宙は、地球は、太陽は、そして天体の全星々は、神様が創世記1章で創造(バラ:創造する、秩序を立てる、秩序や存在を維持させ続ける)以来、ずっと神の栄光を刻みつけつつ回転し、軌道を巡り続けているのだ。

宇宙の星々は、実際、歌っている。
物体は歌う口はないし、宇宙空間は空気が無いので空気振動である声や歌は聞こえない、と思われがちだが、近年NASAによって、そうではない事が分かったのだ。
地球は回転しながら、電磁振動によって音を発しているし、宇宙空間は電磁バーストや電磁パルス、太陽風、荷電粒子などの振動があちこちに満ちている。
それらの振動は、人の耳では聞こえないが、それらを耳で聞こえる音に変換した所、なんと、美しい歌のように、あるいはどんな音楽にも合うようなメロディのように、どんな音楽にも合う伴奏のように聞こえるのだ。

「もろもろの天は神の栄光をあらわし」ている、というのは、詩的表現ではなく、実際にそうなのである。
イエス様も「石が叫ぶ」と言われた。
弟子達も、幼子たちも、「天には平和、いと高きところには栄光あれ」と、御使い達も賛美する賛美をもって喜びほめたたえた。
パリサイ人たちはそれを不服とし、叱るようにイエス様に求めたが、しかしイエス様は、もし彼らが賛美を止めるなら、石が賛美する、と言った。
事実、地球という大きな石は、詩篇にあるとおりに主を賛美しており、そして、地球にある、いや、全宇宙にある小さな石さえ、主を賛美しているのである。

宇宙広しといえども、神が、神の似姿に創られた主の栄光を称える存在とされたのは、この、地球に住んでいる人間だけである。
もし、私達人間が神を賛美しないなら、賛美する権利は、石に、星に、奪われてしまい、その人は、石もに劣る人間なのである。

19:1b 大空(ラキア)はみ手のわざをしめす(ナガド)。

大空(ラキア)は私達が空を見上げて見える、あの空である。1節の前半が、大気圏の外側の宇宙を言うなら、後半は、大気圏の内側を言う。
そこにおいては、御手のわざが示されている(ナガド)。
このナガドとは、明確に表明するという意味である。
この大気圏の内側においては、緑の自然の中を諸々の動植物が生き、海においても多くの生物が生きかい、空には鳥が飛んでおり、それらの全ては、神の栄光をあらわしている。

ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

人は、この自然世界を見る時に、神の永遠の力と神性を明らかに認めており、これを見ておきながら「神はいない」と言うなら、それは不義をもって真理をはばもうとする人間であり、その、あらゆる不信心と不義とに対して、神の怒りが天から啓示される。(ローマ1:18)

19:2a この日は言葉をかの日につたえ、

ここでは、日(昼)は、また次の日に伝えるものがある。太陽がのぼると、地上の植物や動物はその光に輝き照らしだされ、伸びてゆき、育っていく。

日本や韓国などは、日ごとに太陽が登って沈むが、アラスカはアラスカなりに白夜と極夜による月単位の「昼と夜」がある。
それぞれの土地土地に適した太陽の登り方と沈み方をしているが、一年トータルで、日本もアラスカも太陽の時間は一緒である。
そしてそれぞれの地に群生している動物植物は、それぞれが適した所で育つ。
そして、そのトータルで、それぞれの神の栄光を褒め称えている。

19:2b この夜は知識をかの夜につげる。

ここでは、夜は知識を伝えるものだ、と書いてある。
人や動植物は、昼の間に動いて崩れてしまったバランスを、神が元々創造したプログラム(知識)を伝えて、修復する。
全被造物は、形状記憶合金のように、本来ある姿を記憶しており、その記憶を、夜が伝えて、本来ある姿から離れた所から、元の姿へと戻すのである。
だから、夜は休むべきなのだ。このように、神がプログラムして下さった昼の働きと夜の休みの営みを、逆転させてしまっている人は、体調や心に変調を来しやすいのはそのためである。

19:3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、

神の栄光と神の法則を、昼から昼へ、夜から夜へと伝える声や音も、宇宙が賛美する声同様、我々には聞こえないけれども、しかし確かにそれは存在し、全ての地へ伝えている。
この、神の栄光の伝令は、信仰の耳が与えられているクリスチャンには分かり、聞こえないけれどもその旋律を理解する。
それが全地にあまねく響き渡っている事を。

19:4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。

全地は神の栄光の音楽を、オーケストラのハーモニーをもって奏でているのだ。
地球も、太陽も、そして全宇宙にある星々も、その中にある一つ一つのちいさな石も。

19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
19:6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
 

あらゆるコンテストでトップになる人の性質(詩篇18:37-50)
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ダビデの人生を象徴的に表す詩の最終部分において、彼はそれまでして来た戦いについて、そして敵に対し、主がどのようにされて来たかを記している。

18:37 わたしは敵を追って、これに追いつき、これを滅ぼしつくすまでは帰らなかったのです。
18:38 わたしが彼らを突き通したので、彼らは立ちあがることができず、わたしの足もとに倒れました。
18:39 あなたは戦いのためにわたしに力を帯びさせ、わたしに立ち向かう者らをわたしのもとに、かがませられました。
18:40 あなたは敵にその後をわたしに向けさせられたので、わたしは自分を憎む者を滅ぼしました。

ダビデは敵を追いかけて、追いつき、滅ぼしつくした。
私達が戦う敵とは、血の通った人間ではなく、私達の家族や人生を、そして、信仰生活を脅かす、あらゆる主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊である。(エペソ6:12)
だからもし、家族や人生を、そして、信仰生活を脅かす人がいるとするなら、その「人」をそそのかしている主権や闇を攻撃するのであり、その人に対しては、その主権や闇から解放されるように執り成すべきである。

もし、「敵」が私達の内に潜む、罪、愚かさ、あるいは自堕落なくせや性質であるとするなら、ダビデのようにそれを攻撃し、追いかけ、徹底的に打ち砕き、二度と立つことができないまでに、滅ぼし尽くすべきである。
そうしないと、敵はすぐにまた体制を建て直して戻ってきて、悩まされるからだ。
戦いも、追いかける事もある種のしんどさがあるが、それを面倒臭がっていると、やがてはその敵は居座って、出て行かなくなってしまう。
しかし、しっかり敵を追いかけて滅ぼし尽くすならば、生涯安泰である。

ギデオンは、三百人で十万以上の敵に勝利する快挙を成し遂げた直後、それで安住せずに、そのまま休まず追撃しに行った。
彼らは同国民から気落ちさせるような事を言われても、追撃の手を休ませず、川を超え、敵が一息ついている所を急襲し、滅ぼし尽くした故に、敵は二度と立ち上がれなくなり、ギデオンの生きている間、ずっと安泰だった。(士師記6-8章)

ヨシュアも、邪悪な先住民たちを滅ぼし尽くすために戦った時、主は太陽や月の動きを止めてまでして、ヨシュア達を助けられた。(ヨシュア記10章)
私達も、自分の肢体に住みついている罪の性質を滅ぼし尽くす努力をし、追撃するなら、主は、太陽や月さえ動かす程の力で助けて下さるのだ!

18:41 彼らは助けを叫び求めたが、救う者はなく、主にむかって叫んだけれども、彼らに答えられなかったのです。
18:42 わたしは彼らを風の前のちりのように細かに砕き、ちまたの泥のように打ち捨てました。

ダビデは、主に叫び求めたら、主が答えて下さり、主は、天を押し曲げて降りてまでダビデを助けられた。
しかし、ダビデを攻めてきた敵は、主にむ向かって叫んでも答えがなかった。
この差は一体、何だろう。
これは、主と主の言葉に対する態度の差である。

詩篇18篇は、ダビデが特にサウルの手から救われた時に記したが、サウルはまさに、主に向かって叫んでも、答えはなかった。
彼は最大の危機に瀕した時、主に伺おうとしたが、祭司にも、預言者にも、夢によっても何の導きも得られなかった。
それはサウルは、祭司を虐殺し、預言者を軽んじ、常々主に対して不誠実だったからだ。
彼は、主からの答えがないと、一晩中悔い改めの祈りをする事もせず、その夜のうちにさっさと口寄せ女に導きを求に行ってしまった。
このような、主に対して不誠実な者は、いくら主を呼んでも答えは無い。
しかし、ダビデのように普段から主を恐れ敬う人は、この詩の通りに、主が盾となり、救いの岩となって下さり、彼が主に助けを呼び求める時、主は天を押し曲げて降りてこられ、速やかに救い出して下さるのだ。

18:43 あなたは民の「争い(リーブ)」からわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。
18:44 彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。
18:45 異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。

「争い(リーブ)」は競争、コンテストの意味がある。
スポーツや、あらゆるコンテストなどで、クリスチャンが優勝し、主に栄光を捧げている場面はよく聞くし、よく目にする。
主が彼らを勝利させて下さるのは、彼らが勝利した時に、彼らは主に栄光を捧げるという事を、主が知っておられるからであり、もし、自分の欲や名誉のために「優勝させて下さい」と願うなら、それは虫が良すぎる願いである。

18:46 主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
18:47 神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、
18:48 わたしの敵からわたしを救い出されました。まことに、あなたはわたしに逆らって/起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
18:49 このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。
18:50 主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう。


ダビデは主に信頼し、主に守られるたびに主に感謝を捧げ、詩と賛美をつくって主を褒め称えた。
ダビデは、勝利すれば勝利する程、彼は主に栄光をささげ、主の栄光が増し加わって行った。それだから主も、ダビデをもっともっと勝利させて行ったのだ。
そうして、あらゆる外国人はダビデを恐れるようになり、そして、ダビデが仕える主を恐れ敬う心が、国々へと広がって行った。
私達も、主に信頼して歩むなら、相手がいかに強者であったとしても主は勝利させて下さり、まだ見ぬ敵さえ恐れさせ、ますます主の栄光のために用いられて行くのだ。

勉強というコンテストで、ビジネスというコンテストで、主から上を行かせてくださる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

従順という要塞を打ち破る武器(詩篇18:30-36)
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18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は「真実:ツァラフ」です。主はすべて寄り頼む者の盾です。

「真実」と訳された語ツァラフは、元々「金属等を溶かす、ためす、純粋にする」の意味である。
神の御言葉は、人がどれほど試したとしても、一切不純なものが出てこない、完全に純粋なものである。

銀が、土の炉で何度もためす内に、どんどん純化され、美しさと価値を増して行くように、私達も、私達という「土の炉」で御言葉をよく咀嚼し吟味して行くなら、御言葉は私達の内でどんどん光を放ちって行く。
そして神の目の前に、純粋さ、高価さを増して行く。

そのような人が宣言する御言葉には、剣のような鋭さと恐ろしさがあり、力と権威があり、そして、愛と憐れみがある。
御言葉を信じ、その通り行う時には、癒やしが起こり、物事の解決や必要の満たしが起こり、奇跡も起きる。
主の言葉こそが、たとえ世が滅んだとしても決して滅びることのない、永遠を耐えるものであり、その素晴らしさと尊さを知ったダビデは、以下のように続ける。

18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。

まさにそうである。ひと度、良いものを味わってしまったなら、不純なものには戻れなくなってしまう。
この御方の完全な力と愛、憐れみに、ひと度ひたされてしまったなら、もはや、他に何かを頼りにする必要性を覚えることがなくなり、ただ主だけを求めるようになって行くのだ。

18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。

これらの優れた力と武器は、御言葉に服従した人のものである。

2コリント10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
 10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
 10:6 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。

この箇所に「服従」という言葉が繰り返し出てきたように、服従こそ、要塞をも破壊する力ある武器だ。
それは、神の知恵に逆らう者、すなわちサタンに対抗し、敵から来るあらゆる災いや呪いを打ち砕く。

この「服従」が完成した時、ダビデが言ったように、主が、その彼の足を雌鹿のようにし、彼の腕を青銅の弓を引くようにされる。
雌鹿は、岩山を難なく飛び跳ね登って、あっという間に高い所へ上って行くが、同じように、主は、主の御言葉に服従する人の人生を、いかなる岩場をもたやすく乗り越える力を与えて下さり、決して揺るがされない土台に立たせ、高い所へと導いて下さる。
青銅の弓を絞るには、かなりの力が要るばかりでなく、ターゲットに当てるコントロール力も必要である。
「罪」(ハマルティア)の元々の意味は「的外し」であるが、主に信頼するなら、青銅の弓を引けるほど力強くして下さるばかりでなく、的を外して来た罪の歩みを卒業させ、きれいに的を射抜くような、真実な道を歩ませて下さるのだ。

18:35 あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。

主を頼りとしている人の人生は、救いの盾を得ている状態であり、その盾はたとえ目で見えなくても、確実に主のささえがその人を守っているのだ。
主を頼りとしない人は、盾なしの、丸腰で人生を戦っているようなもので、ただ自分由来の資源だけで戦わなくてはならない。

18:36 あなたがわたしの歩む所を広くされたので、わたしの足はすべらなかったのです。

御言葉に従順して行くなら、その人生は、広い所へと導かれていく。
強い敵が跳梁跋扈している所では、堂々と歩けず、狭いところで縮こまっていなければならないが、日々、御言葉に服従し、その人が構築してしまった小さな要塞を日々、打ち破って行くなら、敵はどんどん制圧され、どんどん自由な領域が拡大して行くのだ。

御言葉を蓄え、従順という武器をもって、あらゆる敵に立ち向かい、勝利し、力も知恵も富も増し加わって行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデはその時代、神の御胸に従って仕え、先祖達の列に加えられた(詩篇18:20-29)
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18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。

ある人は思うかもしれない。
よくもダビデは、「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と。
ダビデは、この詩篇を書いた時期は、まだサウル王から救われたばかりで、ウリヤとその妻に対しての罪を犯した時ではなかっただろうにしても、事の大小に関わらず、それなりに罪を犯して来たはずだ。

しかしそれは、人間主体の視点である。よく読むと、ダビデは言っている。
『「主は」わたしの義にしたがい、「その(主の)目の前に」わたしの手の清きにしたがって、わたしに報いられました』、と。(24節)
ダビデは、「主の目における義」「主の目にうつる清さ」にしたがって、報いて下さった、と言っているのだ。
大事なのは、人の目にどう写るかではなく、「主」の目にどう写り、どう主から評価されるかである。

永遠の書物である聖書が、ダビデに対して下した評価が、使徒13:36である。

『事実、ダビデは、「,修了代」の人々に「⊃世里濟櫃砲靴燭って仕えた」が、やがて眠りにつき、「先祖たちの中に加えられた。」』(使徒13:36)

この箇所を、コーエン大学総長のカン・シンゴン博士は「ダビデの碑文」と言っている。

まず「,修了代(his own generation)」、すなわち、ダビデの生きた世代には、現代の私達には分からない、その時代独自の文化があった。
その時代を背景に、ダビデだけが見聞きした経験があり、ダビデ以外には誰も代われない葛藤があり、そしてダビデ本人以外には誰も主に対して説明できない事情があり、主との関係があった。

人には、時代由来の事情がある。
藁の靴を履いていた時代には、時代特有の困難や罪があったであろうし、それは現代には無い。
同様に、インターネット時代の現代に特有の困難や罪があるが、それは昔には無い。

主は、全人類の分の、人生のはじまりから終わりまでの全ての痕跡も、時代の事情もご存知であるが、決して変わらない主の評価基準がある。
それは、いかなる時代や事情の下に置かれたのであれ、「⊃世慮羔擦暴召辰道鼎─廚茲Δ箸靴得犬る事である。

どんな時代、どんな誘惑、どんな困難にあったとしても、その人が神の目的、計画、御胸、意図に従って生きる事こそ、主の目に高貴な事であり、それによって評価して下さるのだ。
この価値観に従って生きる人が、「信仰者の先祖へと加えられる」のである。

ダビデは確かに、ウリヤの妻を寝取り、夫ウリヤを策略にかけて殺すという、赦し難い事をした。(2サムエル記11章)
しかし聖書は、「“犲身の時代(his own generation)」という言葉をもって、ダビデが犯した全ての罪を覆い、「⊃世慮羔擦暴召辰道鼎─廚茲Δ箸發きつつ生きたと評価し、そして「信仰者の先祖へと加えられた」と結論づけた。
アブラハムも、サラも、旧約を見ると、色々と不信仰な事をして来たが、新約においては一切触れられておらず、ただ信仰によって行った偉大な事のみを取り上げ、諸々の過ちは覆われた。

主は私達をも、一人一人の諸々の罪を、「その時代に」という言葉の中へ、そっと埋めてくださり、主の御胸に従って仕えようとしてもがく一人一人を評価し、そして先祖の列に加えて下さるのだ。
あの時代、あの文化、一人の人生が歩んできた、あの人生・・・時代特有のぬかるんだ道、時代特有の間違いを犯してきた人生だっとしても、それでも主は「神のみ旨にしたがって仕えた」事こそ永遠に残して下さるのだ。

18:25 あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、
18:26 清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。

主に対してねじ曲がった考え方をしている者を、主はどうされるか。
イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。

『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)

このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、真実ではない邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と逆に責め、働かなかった事の言い訳をした。
それに対する主人の評価は次のものだった。

『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)

このしもべは、こんな主人に対してはわずかな「利息」さえ儲けさせるまい、という心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。
それ故、ダビデは言う。

18:27 あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。

これは、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
主は、主の前にへりくだって自分の罪を言い表し、それを悔い、御前できよく歩もうとする心をこそ、ご覧になられる。

『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)

18:28 あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。
18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。

結局、主に良しも悪しきも全部打ち明け、そのまま等身大で主に飛び込んで行く事こそ、主に愛され、主から助けをいただける性質なのだ。
色々な罪あやまちを犯して来た彼であった。
にも関わらず、彼が主に愛され、守られて来た秘訣は、そこにある。

主は、人の弱さを全部ご存知であり、全人類の弱さを思いやって執り成す大祭司である。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
 4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
 
それだからダビデは言うことが出来たのだ。
「このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。」(24節)

私達もイエス・キリストゆえに大胆に御前に進み出て、おりにかなった助けをいただくものでありたい。

主が天を押し曲げて助けに来て下さる人の性質とは(詩篇18:9-19)
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主はこの宇宙さえも主が創られた偉大なお方であり、宇宙も、この御方をお入れする事が出来ない。
この主と交わりを持てる事は、とてつもない幸いである。
前回の所で、ダビデは、苦しみの中からこの主に助けを叫び求めた所、主は答えて下さる。

18:9 主は「天(シャマイム、複数形)」をたれて下られ、暗やみがその足の下にありました。

宇宙を創られた偉大な主は、諸天を押し曲げて降りてこられた。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力や悪霊どもが棲む「空中」(エペソ2:2)と、そして、パウロが見てきた「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。

主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、この諸天を押し曲げて、降りてこられる。それも、主の敵である暗闇を、足の下に踏みにじって。
闇に囚われ、死に飲み込まれそうな時、助けを呼び求める私達のために主は降りてこられ、闇を踏みにじって下さるのだ。

ダビデはそれまで、色々な敵が現れた。
その敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
あるいは、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし天地を支配しておられる万軍の主は、それら全てからダビデを助け出された。
それはダビデの専売特許ではなく、全て、主を呼び求める者に対し、その助けを遂行されるのである。
こんなに素晴らしい主が、こんなにちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。

18:10 主はケルブに乗って飛び、風の翼をもってかけり、
18:11 やみをおおいとして、自分のまわりに置き、水を含んだ暗い濃き雲をその幕屋とされました。

ケルブの複数形はケルビムで、この生き物はいつも主のすぐそばに侍り、聖と俗とを区切る者として、あるいは、聖なる領域を、炎をもって守る者としての役割があり(創世記3:24)、また、主を運ぶ役割がある。
『生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。・・・彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。・・・そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。』(Eze1:22-28)

このケルビムの凄まじい性質がエゼキエル書にある。
1:22 生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。、
1:23 大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。
1:24 その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。
1:25 また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。
1:26 彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。
1:27 そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。
1:28 そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。
2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。

ケルビムの有様は、ただでさえ恐ろしいのに、それを乗り物とし、エゼキエルが見ることも出来ない程、遠大な上方から語られる主のあり様は、なんと恐ろしい事だろう。
そしてこの主が、天を押し曲げて、呼び求める主の聖徒達のために降りてこられるとは、なんと驚くべき事、なんと凄まじい恵みだろうか。

18:12 そのみ前の輝きから濃き雲を破って、ひょうと燃える炭とが降ってきました。
18:13 主はまた天に雷をとどろかせ、いと高き者がみ声を出されると、ひょうと燃える炭とが降ってきました。
18:14 主は矢を放って彼らを散らし、いなずまをひらめかして彼らを打ち敗られました。

主は、主の敵に、ひょうと燃える炭を降らせ、いなずまを落とし、数えきれないような海の砂のような数の敵に対しても、いなずまでかき乱された。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けてて下さった。
このように主は、ダビデのみならず、私達を含めた、全ての主を畏れ敬う人達、主に助けを呼び求める人達を、自然界のあらゆる事象を動かし、助け出して下さるのだ。

18:15 主よ、そのとき、あなたのとがめと、あなたの鼻のいぶきとによって、海の底はあらわれ、地の基があらわになったのです。

主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
主のいぶき、これは人にいのちを与え(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
悪者は、まさに主の息吹が吹き飛ばすもみがら、しかし、実がある人を、主はその御蔵に納めて下さる。

18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。

主はなぜ、ダビデを特別扱いし、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
一体主は、どのような人を喜び、ダビデのように「ひいき」にされるのだろうか。

詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
147:11 主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。

主が喜びとされるのは、主を恐れる者と、そのいつくしみを望む者である事が書いてある。ダビデはまさにその性質だった。
主は、呼び求める者に、喜んで答えて下さる。
小がらすが、食物を下さい、と主に向かって鳴くなら、主は与えて下さる。
そうであるなら、ましてや主を呼び求める民に、どうして主は答えてくださらない事があるだろうか。

18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

主はダビデを、広い所へ、連れ出して下さった。
広い所、それは、全て主と共に歩む人に与えて下さる土地である。

創世記26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。
26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

主はイサクにも広い所を与えられ、安心して産んで増えて地に満ちていける場所を備えて下さった。

主は、呼び求める者を、喜んで下さる。
私達も、イエス・キリストを信じる信仰によって、栄光の神の子とされたのだから、おりにかなった助けを得るために、はばかる事なく大胆に進み出て、必要な全ての助けを頂く事ができるのだ。

主を「わが主」とするダビデと私達(詩篇18:1-8)
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詩篇18篇表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。

この詩篇18篇は、第二サムエル記22章とほぼ内容が同じである。
この第二サムエル記22章の前後には、ダビデの人生の総まとめ的な記述が記されており、すぐ後の23章には、ダビデの最後の言葉も記されている。
ダビデ記と言っても良いサムエル記が終わろうとしているこの箇所の、ダビデの人生の総まとめ的な場面で、数多あるダビデ作の詩篇の中から、唯一抜擢されたこの詩篇18篇は、まさに、ダビデの人生全体を表す象徴的な詩と言って良いだろう。

ダビデは、サウルの他、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
彼の人生の諸々の場面場面で助けて下さった主が、どのようなお方であるか、ダビデは次のように多用に表現している。

18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。

ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だった。しかしそれ以降、彼の王としての四十年間も、「もろもろの敵」が彼の前に立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、親しい友や肉親からの突然の敵対もあったし、そして悪魔からの誘惑もあった。
それら、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求めた。そして主は、その都度、助けて下さった。

ダビデの人生の中で、様々な敵が立ちはだかる都度、彼は主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行った。
そして彼は、これら一つ一つの主のご性質に、「わが・・・」「わたしの・・・」と、彼自身の主とのプライベートな関係を宣言している。

しかしこの、主が「わが岩」「わが救い」である事は、何も、ダビデだけの専売特許ではない。
「わたしのもの」という宣言を私達もするなら、主のそれらのご性質は私達のものとなり、そして主は、「わたしの主」「わたしの神」となって下さる。

トマスは、自分の頑なさや不信仰の深みにあった時、イエス様は天を押し曲げて降りて来てくださり、彼に直接関わって下さった。
信じないトマスに現れ、あの痛々しい十字架の釘跡が空いた御手を差し伸べ、「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それで彼は「わたしの主、わたしの神」とイエス様に答えた。(ヨハネ20:28)
一体主は、幾千、幾万、幾億の、救いを求める人々に、個人的に現れてくださり、彼らを救ってくださり、なんと多くの人々が、イエス様を「わたしの主、わたしの神」と呼んだだろうか。
やがて後に、彼らは、ダビデやトマスの他、あらゆる「わたしの主」と告白した者達と共に、天において現れ、共に主を礼拝する日が来る。

黙示録7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

それ故、ダビデは主を、ほめまつるべき主と呼んで、ほめたたえている。

18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

数多の苦しみと死の危険を通って来て、その都度主を呼び求め救われたダビデは、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせたのだ。

18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死の「わな(モケシュ)」は、わたしに立ちむかいました。

「わな」と訳された語モケシュは、動物を捕らえるための餌、あるいは疑似餌である。
ダビデの敵には、ペリシテ人のように彼を物理攻撃しようとしたものもあれば、彼を甘い誘惑へと誘った、霊的な敵であるサタンもいる。
死が、陰府が、またそこへと誘う罠が、縄のようにダビデにぐるぐる巻きに巻き付いて捕えた時、ダビデはその都度何をしたか。

18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。

ダビデは、その全ての悩みの内、から、主を呼び求めた。呼び求めると、主はその聖なる宮から、彼の叫び聞いて下さった。
主は、どんな状況の中からでも、主に叫び求める主の民の声を聞いて下さる。
ヨナはなんと、魚の腹の中から、大海原の底から主に助けを呼び求めた所、主は聞いて下さった。

『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)

ヨナの場合、彼の苦しみは、彼の不従順に由来して来たが、そんな自分の身から出た錆の苦しみの中からでも、主の宮を思い焦がれ祈った祈りを、主は聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再びミニストリーの場に戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自身の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りを漏らさず聞いて下さるのだ。

18:7 そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。
18:8 煙はその鼻から立ちのぼり、火はその口から出て焼きつくし、炭はそれによって燃えあがりました。

ダビデが主を呼び求めた時、主は偉大な力を発揮された。
大地は震え動き、主の大いなる顕現をもって、現れてくださった。

主はダビデの祈りに聞いてくださった。
しかし、ダビデの敵が主を呼び求めても、主は聞かれなかった。(41節)
なぜなら主は、普段から主に真実な者に対して真実にあしらい、普段から主を軽んじている者は、軽んじられるお方だからだ。
サウル王は普段から主を軽んじた故に、預言者を軽んじ、祭司を虐殺し、主に油注がれたダビデを殺そうと追い回した。
それ故、いまわのきわに主を呼び求めても何も答えられず、夜が空けぬ内に霊媒や口寄せのところに行ってしまった。

普段から主を敬い、主を呼び求めつつ歩むなら、主は答えて下さるのである。
ダビデは生涯、主を呼び求めつつ歩んだ。私達も彼に習い、生涯、主を「わたしの主」と呼びつつ歩み、主から必要な助けを都度頂き、地上の人生を終える時には、信仰者の列へと加えられる者でありたい。

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