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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

主を「わが主」とするダビデと私達(詩篇18:1-8)
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詩篇18篇表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。

この詩篇18篇は、第二サムエル記22章とほぼ内容が同じである。
この第二サムエル記22章の前後には、ダビデの人生の総まとめ的な記述が記されており、すぐ後の23章には、ダビデの最後の言葉も記されている。
ダビデ記と言っても良いサムエル記が終わろうとしているこの箇所の、ダビデの人生の総まとめ的な場面で、数多あるダビデ作の詩篇の中から、唯一抜擢されたこの詩篇18篇は、まさに、ダビデの人生全体を表す象徴的な詩と言って良いだろう。

ダビデは、サウルの他、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
彼の人生の諸々の場面場面で助けて下さった主が、どのようなお方であるか、ダビデは次のように多用に表現している。

18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。

ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だった。しかしそれ以降、彼の王としての四十年間も、「もろもろの敵」が彼の前に立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、親しい友や肉親からの突然の敵対もあったし、そして悪魔からの誘惑もあった。
それら、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求めた。そして主は、その都度、助けて下さった。

ダビデの人生の中で、様々な敵が立ちはだかる都度、彼は主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行った。
そして彼は、これら一つ一つの主のご性質に、「わが・・・」「わたしの・・・」と、彼自身の主とのプライベートな関係を宣言している。

しかしこの、主が「わが岩」「わが救い」である事は、何も、ダビデだけの専売特許ではない。
「わたしのもの」という宣言を私達もするなら、主のそれらのご性質は私達のものとなり、そして主は、「わたしの主」「わたしの神」となって下さる。

トマスは、自分の頑なさや不信仰の深みにあった時、イエス様は天を押し曲げて降りて来てくださり、彼に直接関わって下さった。
信じないトマスに現れ、あの痛々しい十字架の釘跡が空いた御手を差し伸べ、「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それで彼は「わたしの主、わたしの神」とイエス様に答えた。(ヨハネ20:28)
一体主は、幾千、幾万、幾億の、救いを求める人々に、個人的に現れてくださり、彼らを救ってくださり、なんと多くの人々が、イエス様を「わたしの主、わたしの神」と呼んだだろうか。
やがて後に、彼らは、ダビデやトマスの他、あらゆる「わたしの主」と告白した者達と共に、天において現れ、共に主を礼拝する日が来る。

黙示録7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

それ故、ダビデは主を、ほめまつるべき主と呼んで、ほめたたえている。

18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

数多の苦しみと死の危険を通って来て、その都度主を呼び求め救われたダビデは、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせたのだ。

18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死の「わな(モケシュ)」は、わたしに立ちむかいました。

「わな」と訳された語モケシュは、動物を捕らえるための餌、あるいは疑似餌である。
ダビデの敵には、ペリシテ人のように彼を物理攻撃しようとしたものもあれば、彼を甘い誘惑へと誘った、霊的な敵であるサタンもいる。
死が、陰府が、またそこへと誘う罠が、縄のようにダビデにぐるぐる巻きに巻き付いて捕えた時、ダビデはその都度何をしたか。

18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。

ダビデは、その全ての悩みの内、から、主を呼び求めた。呼び求めると、主はその聖なる宮から、彼の叫び聞いて下さった。
主は、どんな状況の中からでも、主に叫び求める主の民の声を聞いて下さる。
ヨナはなんと、魚の腹の中から、大海原の底から主に助けを呼び求めた所、主は聞いて下さった。

『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)

ヨナの場合、彼の苦しみは、彼の不従順に由来して来たが、そんな自分の身から出た錆の苦しみの中からでも、主の宮を思い焦がれ祈った祈りを、主は聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再びミニストリーの場に戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自身の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りを漏らさず聞いて下さるのだ。

18:7 そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。
18:8 煙はその鼻から立ちのぼり、火はその口から出て焼きつくし、炭はそれによって燃えあがりました。

ダビデが主を呼び求めた時、主は偉大な力を発揮された。
大地は震え動き、主の大いなる顕現をもって、現れてくださった。

主はダビデの祈りに聞いてくださった。
しかし、ダビデの敵が主を呼び求めても、主は聞かれなかった。(41節)
なぜなら主は、普段から主に真実な者に対して真実にあしらい、普段から主を軽んじている者は、軽んじられるお方だからだ。
サウル王は普段から主を軽んじた故に、預言者を軽んじ、祭司を虐殺し、主に油注がれたダビデを殺そうと追い回した。
それ故、いまわのきわに主を呼び求めても何も答えられず、夜が空けぬ内に霊媒や口寄せのところに行ってしまった。

普段から主を敬い、主を呼び求めつつ歩むなら、主は答えて下さるのである。
ダビデは生涯、主を呼び求めつつ歩んだ。私達も彼に習い、生涯、主を「わたしの主」と呼びつつ歩み、主から必要な助けを都度頂き、地上の人生を終える時には、信仰者の列へと加えられる者でありたい。

何のわだかまりなく主の御前に出て何でも訴えられる人とは(詩篇17篇)
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ダビデの祈
17:1 主よ、正しい訴え(ツェデク)を聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に/耳を傾けてください。

ダビデは、彼をつけねらう者達によって悩まされている状況である。
特に、サウル王とその側近の追跡から逃げている時に記した詩篇と言われている。
そんな中にあって、彼は自分の訴えを「正しい訴え」と言い、また最後の15節でも「義(ツェデク)にあって:正しい訴えで」み顔が見れる事を、宣言している。
自分は罪人だ、御前に義と宣言するなどとんでもない、と言うクリスチャンも多い中、一体ダビデ、どこに、自分が正しい訴えをしている、と言える根拠があるのだろう。

新約を生きる私達は、知っている。イエスを信じる者は義とされ、彼を主と告白する者は救われる事を。

ローマ10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
・・・
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

イエス、その御名はヘブライ語でイエシュア、主は救い、という意味である。
「主は救いである」と主に呼び求め、そうして主に来る人をこそ、主は義として下さる。
ひるがえってダビデは、その祈りの最初の最初で、主エホバの御名を呼び求め、主を助けとしている。
だから彼は、堂々と「正しい訴え(ツェデク)」と言って、主に訴える事ができたのだ。

17:2 どうかわたしについての宣告がみ前から出て、あなたの目が公平をみられるように。

ダビデは、自分に対する主の宣告についてここまで自信を持っているが、その自信はどこから来るのだろう。
その秘訣が、3-5節にある。この3-5節の中で、自分の心、口、行い、歩みにおいて、彼は何のやましい所が無いという宣言をする。

17:3 あなたがわたしの心をためし、夜、わたしに臨み、わたしを試みられても、わたしのうちに/なんの悪い思いをも見いだされないでしょう。わたしの口も罪を犯しません。

彼は主に、心を「ためし」「臨み」「試み」をしても、何ら悪い所が見出されない、と、堂々と言う事が出来たのは、それは彼の心に、主に対してのやましさが全く無い状態だったからだ。
彼の心は、実に単純なのだ。イエス様も言われた。心のきよい者(単一な者)はさいわいだ、その人は神を見るから、と。(マタイ5:8)

17:4 人のおこないの事をいえば、あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました。
17:5 わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです。

彼は自分の「おこない」に関しては、主のくちびるの言葉に拠って歩んだ、そして不法な者の道を避けた、と堂々と告白している。
主の御言葉に従って歩む者は、決して揺るがされる事が無い。
このように、心にやましい所が無いなら、大胆に御前に進み出て、御前に申し上げ、なんでも訴える事が出来るはずである。
パウロは言った。

ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

パウロはいつも喜べ、と言った。だから、罪責感に苛まれるのは、御心ではない。
サタンにやられて、良心が崩壊してしまっている人は、常に罪責感に悩まされ、御前に出られず、そして悪に立ち向かう事も出来ない。
私達は大胆に信仰に立って、悪魔に立ち向かい、主のわざを為すべきである。

ピリピ4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

何事も思い煩わず、ただ事あるごとに、神に向かって祈り、感謝し、すべてのことを主に持っていくなら、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安に満たされ、思いと心は、キリストにあって守られる。
これは何という恵みだろうか!

4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
4:9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

これら良きことに心を留めるなら、平和の神から来る平安に満ち溢れ、ダビデのように、何のわだかまりなく、御前に出て、どんな事でも祈り訴える事ができるのだ。

もしそうではなく、何か詰まったような感覚、何か主に対すしてわだかまりがあるのであるなら、聖霊に心を照らしていただくべきである。
示される罪があったら、聖霊に示された範囲で告白し、悔い改め、あるいは人に対して罪を負っていたのなら、その人に償いをするのだ。
『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされた事は長く我々と我々の子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)

御前において、何ら「やましさ」がない状態のダビデは、大胆に主を呼び求めている。

17:6 神よ、わたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられます。どうか耳を傾けて、わたしの述べることをお聞きください。
17:7 寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、
17:8 ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、
17:9 わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。

ダビデは神を呼び求めた。なぜなら、神はその右の手をもって、寄り頼む人を敵から救われるお方だから。
ダビデの敵は、そうではない。主に正統に油そそがれ王となった、何の罪も無いダビデを、いのちを付け狙って追いかけているからだ。その者に、主が軍配を上げるいわれはない。
だからダビデは大胆に宣言できたのだ。

17:10 彼らはその心を閉じて、あわれむことなく、その口をもって高ぶって語るのです。
17:11 彼らはわたしを追いつめ、わたしを囲み、わたしを地に投げ倒さんと、その目をそそぎます。

10-12節に、ダビデを訴え攻め立てる「彼ら」がいかなる者であるのかが記されている。
彼らは「肉の心で塞がれている」ため、罪について、義について、さばきについて理解できず、その鈍い心をもっと閉ざし、高慢な口で語り、不当な妬みをもってダビデを付け回し、倒そうと狙っている。

17:12 彼らはかき裂かんと、いらだつししのごとく、隠れた所にひそみ待つ子じしのようです。

ダビデの目には、彼らは「しし」のように強く見える。
なにしろサウル王に付け回されていたダビデと共にいた600人は、世間からつまはじきにされた一癖も二癖もある人たちで、それに対し、サウル王に従う3000人は、ベニヤミン族の選り抜きの兵士たちである。
それで彼は、ただ主に叫び、助けを求めている。

17:13 主よ、立ちあがって、彼らに立ちむかい、彼らを倒してください。つるぎをもって悪しき者からわたしのいのちをお救いください。
17:14 主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる/世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残すのです。

ダビデは特に「人々(マス:男、人類全般)」から救い出して下さい、と願い求めている。
その「人々」とは、現世的な力や権威、お金を拠り所とする者達、すなわち、神に拠り所を見出さない者達、神から良いものを受け子孫にも祝福されておきながら、その与えられた富や力を、不当な事に用い、罪なきダビデを攻撃する事に努力を惜しまない者達である。

私達も、そのような者達がいるなら、主に祈るべきである。主の正しい御旨がなされるように、と。
不当に弱者から搾取し欺くことを止めない権威者達が、速やかにその座から降ろされるように、と。

17:15 しかしわたしは義(ツェデク)にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。

ダビデは最後にも「義(ツェデク)にあって」という言葉を持ち出し、祈りを閉じた。
彼は満ち足りて安息の内に休み、平安の内に起きる事が出来た。
それに対して、ダビデを追い回すサウルと、その側近たちは、主に逆らう事をしていたにもかかわらずその呪われた道を止めず、その最後は悲惨なものだった。

箴言29:24 盗びとにくみする者は自分の魂を憎む、彼はのろいを聞いても何事をも口外しない。
29:25 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
29:26 治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。

私達はダビデのように、常に御前において何のやましい所なく、何事もただ主に持っていく者でありたい。

主こそわたしの相続である、とした人の幸いの数々(詩篇16篇)
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ダビデのミクタムの歌
16:1 神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。

ミクタムは、意味の説明として,「苦しめられている」「攻撃を受けている」「黄金の」「宝石の」「書き記されている」「隠されている」「重要な意味を持ったもの」等あるが明確ではない(実用聖書注解)
16篇もまたダビデの詩篇であり、どうやら彼は、再び困難な状況にあるようである。

困難な状況の中でこそ黄金のような、宝石のような「賛美たち(テヒリーム=詩篇)」が誕生する事が多々あるが、この詩篇もまさに宝石のような詩篇である。

16:2 わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。

彼は苦しみの状況で、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と宣言した。
主を「わたしの主」と主に対しまた世に対し宣言し、主を自分との個人的で親密な関係へと持ち込む事こそ、あらゆる助けの源となるのだ。
どんなにひとりぼっちでも、どんなに弱くても、どんなに何も無いように見えても、主が自分の親しい主人であり、助けであるなら、どんな人生の荒波も、困難という山の頂も、安全に乗り越える事が出来、そして、素晴らしいゆずりの地へと導かれるのだ。

16:3 地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。

日本ではクリスチャンを見つけるのはまれで、他の神々を選ぶ者のほうが多い。
そんな中で、主を拠り所とすし助けとするクリスチャンを見つけると、大きな喜びが沸き起こってくる。
ダビデもそうである。

16:4 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。

主を拠り所とするクリスチャンは、威厳があるのだが、もしクリスチャンと言われている人に、威厳が無いとするなら、彼は拠り所を主だけにしていないからだ。
例えば、聖書は同性愛を容認していないのに容認したり、イエス・キリストのみが道であり真理であり命であるのに、イエス以外に救いがあると言うなどの、聖書に混ぜものをした思想を持っているとするなら、その人からは威厳も守りも逃げ去ってしまうのだ。

16:5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。

主の働き人であるレビ族は、土地の分与がなかった。なぜなら、主がゆずりの地だからだ。

民数記18:20 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

そしてイエス・キリストを主としてる私達にとって、主イエス様こそ受ける分であり、私達のゆずりの地である。
主はアブラハムにも仰せられた。

15:1 「アブラムよ恐れてはならない、/わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、/はなはだ大きいであろう」。

KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「わたしがあなたの盾、そしてあはたへの飛び抜けて素晴らしい報酬だ。」と言っておられるのだ。
だからここは、主を信じた事の報いとして莫大な富や栄誉を得られる、などとというレベルの話ではない。
「主ご自身が莫大な報い」であり、それは世のいかなる栄光や富を得るよりはるかに優れた報酬である。
主を主とし、主を私達のゆずりの地とするなら、私達もアブラハムの子孫である。

16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。

測りなわは、「この縄の内側は、私の土地ですよ」という事を示す境界線である。
ダビデには、自分にとって好ましく思える相続地を、主が与えて下さった事を喜んでいる。
主ご自身がゆずりの地であるなら、この地上において、主が好ましい所へと導いて下さるのだ。

16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。

主は私達キリスト者に聖霊を授けて下さり、その聖霊が、暗闇の中でも私達を導いて下さる。

16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

ダビデはいつも主を前に置き、主を羊飼いとした。
羊は、羊飼いの前を行くものだろうか。それとも、羊飼いの後を行くものだろうか。
もちろん羊飼いの後を従って行くものだである。
しかし、なんと多くのキリスト者がイエス様を後に従えて「主よ私の為す事をに成功を与えて下さい」と言って本末転倒を演じているだろうか。
私達は主をこそ前に置き、主に従って行くべき者である。
そして、あらゆる考え方や道の選び方において、主を前に置き、主というフィルターを通して物事を見、判断すべきである。

この主を私達の力とし、右に置くなら、私達は決して揺るがされる事は無い。
預言者イザヤも言っている。

イザヤ41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

詩篇16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
16:11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

ここはパウロも宣教の時に引用した。主は十字架において死なれたが、陰府に捨て置かれる事は決してなく、よみがえられた。
イエス様に望みを置いている聖徒たちも同様である。イエス・キリストにある聖徒達は、必ず復活するのだ。
この主にあって、私達は、死を前にしても、陰府を前にしても、決して揺るがされる事は無い。

詩篇103:1 わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
103:2 わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
103:5 あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

神との出会いがいつまでも続き、神の宮に留まり続けられる人の性質(詩篇15篇)
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15篇もダビデが作った詩篇であり、彼の問いかけから始まる。

ダビデの歌
15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。

神の幕屋は、モーセの時代において神と出会う場所、すなわち、礼拝をする場所であり、聖なる山は、ダビデが神殿を建てようとしていた山である。
神の宮にずっと留まり続けられる人、あるいは神との出会いがいつまでも続く人の性質が、以降の箇所に書いてある。

15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、

2節には「歩み「行い」「語る」の3つの動詞が出てくるが、いずれも、現在の状態を継続する形である。
すなわち、過去のある時点でそうだったとしても、現在それを止めてしまっているとしたら、神への正常な礼拝や交わりが出来ないのだ。

直ぐな歩みとは、神とともに歩む歩みである。
旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、「神と共に歩む(ハーラフ)」であった。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや邪悪な思想とは一つにならなかった。
それは、彼らは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。
もし、神との密接な関わり解くとするなら、祝福の源なるお方から遠ざかる事になるので、祝福が遠ざかってしまう。
ましてや、神を捨て去り牙をむくなら、カインやイスカリオテのユダのように呪われた者になってしまう。

義を行い、心の真実を語るためには、当然、心の中に真実が存在しなければならない。
そのためにこそ、日々、御言葉を口ずさむ事(テフィリン)が必要なのである。

15:3a その舌をもってそしらず、隣り人に対するそしりを取りあげず

「そしる」と訳されたヘブライ語はラーガル、これは「歩む」という意味もあるが、それは舌先で歩きまわって人を傷つける意味での「歩き回り」である。
人と人との間を歩き回って、Aの所に行ってはBの悪口を言い、Bの所に行ってはAの悪口を言うような。
この「そしり」の行為は、サタンの性質である。

黙示録12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。

だから、訴えるに早い唇、人をそしる事に心地よさを覚えるような唇こそ、切って捨てるべきだ。
そうでないと、サタンと同じそしりを受け、唇だけでなく体全体がゲヘナに投げ込まれてしまうから。

15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、

「神に捨てられた者」と訳されているこの箇所は、原文には「神に」「者」という単語は無い。
原語通りに言葉を並べるなら「軽蔑させる、目で、捨て去られるべきを」となる。
だからここは「捨てられるべき性質や物、事全般を、自分の目をして軽蔑させ、蔑ませる」と、もっと広い意味に訳せる。

神に軽蔑され捨て去られてしまう性質が、エレミヤ書6章に書いてある。
6:28 彼らはみな、強情な反逆者であって、歩きまわって人をそしる。彼らは青銅や鉄であって、みな卑しいことを行う。
6:29 ふいごは激しく吹き、鉛は火にとけて尽き、精錬はいたずらに進む。悪しき者がまだ除かれないからである。
6:30 主が彼らを捨てられた(マアス)ので、彼らは捨てられた銀と呼ばれる」。

ここにも「歩き回ってそしる人」が出てくる。ここに出てくる者は、御言葉に対しての強情な反逆者であり、また、あらゆる人や事をそしってやめない性質が、鉄板化してしまったような者である。
そのような者は、聖徒の集いや礼拝には長く留まれない。
彼らは汚れた者なので、きよい交わりときよい場には、到底居れないからだ。

神に受け入れられない性質を持っているなら、その人は火の試練を通らされる。
しかし、通らされたとしても、なおその性質が除かれないとするなら、そのような者は、神の宮に住まうことはできない。
その人は、主から捨てられてしまう。

15:4b 主を恐れる者を「尊び(カバド)」

サムエルも同じことを言っている。
1サムエル記2:30 わたしを尊ぶ者(カバド)を、わたしは尊び(カバド)、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。

15:4c 誓った事は自分の損害になっても変えることなく、

一度約束した事は、たとえ後になってからその約束が損のように思えたとしても、それを変えない。
そういう人は、一時的には損をしたとしても、神と人から信頼され、将来必ず栄える。
逆に、約束した事をいとも簡単に変えてしまう人は、信頼されないため、高い地位に行く事は無い。

15:5a 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。

主は、貧しい人、罪のない人を不当に圧迫する者に立ち向かわれる。
出エジプト記22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。
22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。

申命記16:19 あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。
16:20 ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。

15:5b これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。

この詩篇15篇で示されたように正しく立つ人、悪の道を歩まない人こそ、神との出会いがいつまでも続き、神の宮に留まり続けられる人である。
神の幕屋も、神殿も、その至聖所は「立方体」で、これは天国の形でもある。(黙示録21:16)
人となられた神であられるイエス・キリストを信じ、彼と共に歩む人こそ、真の至聖所である天国に入れる人なのだ。

「神はいない」と言う者は「腐れ果てている」(詩篇14篇)
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 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
14:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。

詩篇10:4にも書いてある通り、悪人や愚かな者の人生の根底に流れている価値観は、「神はいない」である。
クリスチャンは神を恐れ敬っているので、極端に悪と見られる事はできないのに対し、悪人や愚か者は、平気で破滅の海原へと飛び込む事ができる。
それは、勇気ではないし強さでもない。愚かさと無知の故だ。

「神はいない」と言う者は「腐れ果てている」と書いてある。これは真理である。
神から離れれば離れるほど、また、御言葉から離れれば離れるほど、霊的な死が進行し、腐敗が進行して悪臭を放ち、悪霊という蝿がたかり、うじが沸き、臭い言動や臭い立ち居振る舞いをばらまいて、神と人とをうんざりさせる。

しかし私達が「神はある」とし、神ご自身であられる御言葉を信じて宣言する間、その進行して行く死は止められ、いのちへと向かっていく。
その人は日々、力を受け、わしのように若々しくなって行く。
だから、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィリンが重要なのだ。

その人は「腐れ」とは逆方向へと進んで行き、生き生きと、新鮮な者となって行き、その人が行く所はどこでも人々を喜ばせ、被造物も喜んでその人に祝福の実りで答える。
それに対し、「神はいない」と言う人が行く所はどこでも人々をうんざりさせ、また被造物は萎えて行く。
その証拠に、「神はいない」という共産主義国、まことの神を無視する偶像礼拝国の土地は、やせ細り、動物や魚もその近辺にあまり寄り付かないため、中々獲れない。
被造物は、神はいないとする者達を毛嫌いするからだ。

14:2 主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者が/あるかないかを見られた。

主は全地を見渡される。
最近都会では監視カメラがいたる所にあるが、それは人の心は見抜けない。
神は全地を見渡し、人の外見のみならず、心をも見ておられ、神をたずね求める者は「賢い者」のあるかないかを見られる。

ダビデがまだ羊飼いの少年だった頃、彼は誰にも認められなかった。父エッサイも、彼の兄たちも彼をさげすみ、羊飼いの用事を言いつけて数にも数えられていなかった。
しかし主は、その時から彼の心を見ておられ、「私はエッサイの子に王を見つけた」とサムエルに言われた。
神は全地を見渡し、そして外見ではなく心を見られるお方である。

この神をたずね求める者こそ、「賢い者」である。
箴言28:5 悪人は正しいことを悟らない、主を求める者はこれをことごとく悟る。

なぜ主を求める者は、ことごとくを悟るのか。
それは、ことごとくを悟っておられるお方に求めるからだ。
主こそ全ていのちを創られ、人を設計されたお方。一人一人の最善を知っておられ、全被造物を創造し、管理しておられるお方である。
この御方に聞く人は、全てを悟ったようなものであるが、この御方を「いない」とする者は、何事にも、あてずっぽうの偶然に頼って生きる者、設計図なしに人生設計する者である。

14:3 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。

ダビデは繰り返し言った。「神はいない」とする者は、ひとしく腐れている、と。
アダム以来、神から離れた者の中で、善を行う者は、ひとりもいないのだ。

14:4 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。

一見すると、悪を行う者が正直に生きている人々を食い物にし、大いに栄えているように見える。
そして、正直な人や悪を避けている人が、とても損な生き方をしているかのように見える時がある。
しかし、それは真理ではない。

14:5 その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。
最終的には、神をなしとする者達は、神を畏れる人を、恐れるのだ。
アブラハム、イサク、ヤコブ、みんな周囲の異教徒たちは恐れた。周囲に比べ、彼らは圧倒的に人数が少ないにもかかわらず、である。

創世記35:1 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。
35:2 ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。
35:3 われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。
35:4 そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。
35:5 そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。

周囲から一目置かれる人とは、主の言葉どおり行い、主を礼拝する者、主を差し置いて拠り所とするような一切のものを捨て去り、汚れたものを捨て去った者である。
そのような人が進み行く時、周りの人々は彼を恐れ、何の手出しもできないのだ。

14:6 あなたがたは貧しい者の計画を/はずかしめようとする。しかし主は彼の避け所である。

主を避け所とする人は、恐れる必要はない。
主は全ての人を知っておられ、いのちを支配しておられるからだ。

マタイ10:26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
10:29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
10:30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
10:31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

私達は自分の事を知らない。髪の毛の数も、自分の具合の良し悪しも。しかし主は知っておられる。

マタイ10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
10:33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

ここにも、「神はおられる」とする人と、「神はいない」とする人との違いが記されている。
主は生きておられ、やがて全ての人は白いさばきの座において、さばかれるのだ。

14:7 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。主がその民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

シオンとは「要害」という意味である。ダビデは主を要害とし、とりでとした。
そしてシオンは神殿が立てられた場所、礼拝をするべき所である。全ての救いは、主を礼拝する所から来るのだ。
そして、イスラエルとは誰か。それは、十字架の死と復活を経て、新しく造られた法則に従って進む私達である。

ガラテヤ6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
 6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
 6:16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。
 

「演歌の祈り」と「下さいの祈り」、そして「ダビデの祈り」(詩篇13篇)
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表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

詩篇13篇もダビデの賛歌で、彼に悩みがある時の祈りである。
短い祈りではあるが、三つの段階があって、段を進んで行くごとに、成熟した祈りへと発展して行く。

13:1 主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
13:2 いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

まず、第一段階目の祈りは、主に対する感情的な訴えで始まる。
そしてこの段階では、「いつまでですか」という訴えが四回出てくる。

最初の訴えは、「とこしえにわたしをお忘れになるのですか」というものだが、主は、主の民を決して忘れたり見捨てたりする事の無いお方であると書いてあるので、それは真理ではない。
ただこの時、ダビデは主から「とこしえに」忘れられているかのような気分になっているのだ。

2つ目の訴えは、「み顔をわたしに隠されるのですか」である。
もし主が御顔を隠される、とするなら、主の恵みと平安が、全く無い状態である。

民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
 6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」』。

ダビデは、主があたかも御顔を隠していて、恵みも平安も一切無いかのように思えている状態なのだ。

以上のように、1つ目と2つ目の訴えは、真実に基づいていない訴えであるが、それらの原因は、以下の3つ目の訴えから見出す事が出来る。

13:2 いつまで、わたしは魂に「痛み(アツァー:アドバイス、カウンセル、プラン)」を負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。
ここは、KJVでは「How long shall I take counsel in my soul」、すなわち言い換えてみるなら、この3つ目の訴えは、私はいつまで、自分で自分の魂にカウンセリングをし続けなければならないのですか、というものである。
つまり彼は、心の中でぐるぐると思い巡らせている状態なのだ。
井の中の蛙大海を知らず、ということわざがあるが、ダビデはこの時、悩みの井戸の中でぐるぐると周り、自分で自分にマイナスのカウンセリングをひたすらし続けていて、主の恵みの大海には全く目を向けていない状態だ。

4つ目の「いつまでですか」の訴えは、敵が彼の上にあがめられている状態を訴えるものである。
自分の思いの中でぐるぐるとマイナス感情を巡らせていると、敵が大きく見えてしまうものである。

クリスチャンの中に、この、2節までの祈りで終わらせてしまう人がいるが、これはただ自己悲哀の「演歌の祈り」である。
捨てられた、どうして、いつまで、という悲哀にどっぷりと浸って酔っていて、信仰を奮い立たせる気色が全く無いとするなら、逆に主のほうから「いつまで」と訴えられてしまう。

しかし3節以降、ダビデの祈りが変わる。

13:3 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
13:4 わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって/喜ぶでしょう。

ダビデはここで、わたしに目を注いで答えて下さい、死の眠りに陥ってしまう前に、わたしの目を明らかにして(輝かせて)ください、と、願い求めている。
私達はどうする時、目が輝くか。

1サムエル記14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。

ヨナタンは、蜜を少しなめただけで、目がはっきり輝いた。
まことの蜜は御言葉であり、もし御言葉に対する完成が曇っているなら、死の眠りへと陥ってしまう。
父サウル王は目が曇っており、本来、力を蓄えて戦うべき時に断食を布告してしまうような、かなりの「死の眠り」に陥ってしまっていた。

1サムエル記14:24 しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。
14:25 ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。
14:26 民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。
14:27 しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。
14:28 その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。
14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。
14:30 まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。

サウル王が、時でない時に無駄な断食布告をしてしまったのは、主に聞かず、人や状況だけを見て右往左往し続けたから、目の輝きを失い、霊的に曇らされて、このような迷走を続けたのだ。
それはやがて、死の眠りへと、陰府(シェオル)へと、落ち込んで行ってしまう。
サウルとシェオルは、ヘブライ語で同じスペルであり、それは、もし私達もサウルの道をたどるなら、シェオル(陰府)へと落ち込んでしまう、という警告である。

私達は御言葉を求めるべきである。
それこそあらゆる物事に対して目が開かれ、為すべき事と為してはならぬ事の見分けがつき、的を射た歩みが出来るのだ。

ダビデは3-4節において、何々して下さい、という「くださいの祈り」をした。
クリスチャンの多くはこの「下さいの祈り」で終わってしまい、信仰告白や感謝、賛美へと至っていない場合が多い。
しかしダビデは5節以降、さらに進んで、信仰告白と賛美と感謝の祈りをする。

13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
13:6 主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。

ダビデは主に信頼し、主の救いを喜び、主に感謝の賛美を捧げた。
いつまでも悲しんでいてはならない。なぜなら、主を喜ぶ事こそ、力の源なのだから。

ネヘミヤ記8:10  そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

ダビデは祈る時、決して演歌節で終る事なく、あるいは「下さい」の祈りで終る事もなく、いつも、感謝と賛美を捧げる所までしている。
たとえ最初はいかに演歌節であったとしても、最後は賛美と信仰告白で終る祈りこそ「ダビデの祈り」であり、「上等の祈り」である。

詩篇を読んでいると、ダビデはいつも弱気で悩んでいるかのように見えるが、サムエル記のダビデはいつも連戦連勝で、勇者としての輝かしい実績が記されている。
ダビデの連戦連勝の影には、彼の心に抱えていた悩みや不安、恐れを、全部神様に持っていき、そして御言葉宣言と信仰告白という、「上等の祈り」があったのだ。
それで彼は、信じたとおりになったのだ。

イザヤ55:10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
55:11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

2節までの演歌の祈りで終わる人は、小さい悩みの井戸の中を、いつもぐるぐる廻る生活をしている。
4節までの「下さい下さい」の祈りで止まっている人は、感謝、賛美へと至らない不完全燃焼の祈りであり、あまり実を結ばせない人生である。
しかし「ダビデの祈り」、感謝、賛美へと至る「上等な祈り」をする人は、多くの実を結び、信じた通りになり、信仰においても実際の生活においても連戦連勝の有意義な人生を送るのだ。

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
頑として自分の計画に従い、悪い頑なな心のままを行う者(エレミヤ書18:11-23)
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主により頼む者に与えられる保証(詩篇11篇)
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 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
11:1 わたしは主に寄り頼む。なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか、「鳥のように山にのがれよ。

詩篇11篇は、ダビデがサウル王から逃れていた時のものとされている。
ダビデにアドバイスする人は言う。「鳥のように山にのがれよ。」と。なぜなら、以下のたくらみがあるからだ。

11:2 見よ、悪しき者は、暗やみで、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。
11:3 基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と。

無垢な人と悪をたくらむ人とが相対する時、どうしても正しい者のほうが弱く見られがちである。
ことさら、闇からひそかに正しい者を狙い撃ちするような、卑怯な手段を取る場面を想定させられてしまうなら、人は結局、何の為す術もないかのように思わされてしまう。
しかし、このアドバイスをする人の根底に流れているのは「恐怖」であり、この言葉を受けた人に恐怖生み出させ、それに従うなら、根本解決無き、ただ悪者に振り回される生き方を送る以外に無い。

ダビデは、既に結論を出している。
「わたしは主に寄り頼む。」と。
暗闇由来の矢を防ぐために、ダビデは、最善の方法をとったのだ。

エペソ6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15 平和の福音の備えを足にはき、
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

暗闇からの火矢を消すのは、信仰の大盾であり、そして矢を放つ者に対する攻撃の武具は、御霊の剣、すなわち神の言葉である。
ダビデは4節以降、神はいかなるお方であるかを告白し、闇に対して御言葉の剣を差し突きつける。

11:4 主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。

ダビデがより頼む主は、聖なるご性質であり、天に御座を据えておられる。全宇宙も、この御方をお入れする事はできない。
神こそ、全宇宙が存在する前から存在し、これらを創造したお方だからだ。
その神が、全地をあまねく見渡し、心が主に向かっている人を探し求められる。

11:5 主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
11:6 主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。

主は確かに悪者の上に災いを降り注がれる。(詩篇105:32; 創世記19:24; 出エジプト記9:23-24; エゼキエル38:22)
ダビデは御言葉を信仰を混ぜて宣言し、敵に剣を差し伸べ、そして信仰の大盾をかかげ、心が刺し貫かれる事が無いよう防御を張った。
すると実際、その通りになり、ゆえなくダビデを追い回したサウル王は倒れ、代わりにダビデが王となった。

11:7 主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。

「直き者」が受け継ぐ分と、悪しき者が受け継ぐ分について、ダビデは37篇でも記している。

37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

一見すると、悪しき者と直き者が相対した時、悪しき者のほうが強いように見えても、実際、残って子孫が増えていくのは直き者で、悪しき者は絶たれて子孫も残らない。
もし世界が、邪悪な者の卑劣と悪辣さが強い者が勝ち残って行く法則であったとするなら、とうの昔に人類はいなくなっている。
ところが今なお人類が生きているのは、悪しき者が必ず滅びるように、そして正しい者が必ず報われるように、世界の均衡を保っておられ法則を定めておられるお方が、正しく力をもって統治をしておられるからだ。
御言葉の法則によるなら、正しい者や柔和な者が地を相続し、彼らは永遠に主と共に統べ治める事になっている。

黙示録2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。

ダビデにアドバイスした人は、悪者の強大な罠から、ただ逃れるようにと言った。
しかしダビデは、全てを支配しておられる主を拠り所とし、御言葉の剣を差し出した。
その結果、ダビデが宣言した通りになった。

全てを見ておられる主の御前で、主により頼み助けを求める者に対し、闇から矢を射掛けようなどと思う者は、牝熊を目の前にしながら子熊をさらって行こうとするような者である。
その者は確かに打たれ、主により頼む者は確かに助けを得るのである。

悪者の人生の前提条件=「神はいない」(詩篇10篇)
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詩篇9編では、国々への正統なさばき、即ち、主の慰めが宣言されていたのに対し、10編は、神の民の間に入り込んでいる悪者を訴える祈りが記されている。
詩篇10編は表題が無く、9編と形式・用語に共通点が見られるためか、70人訳では、9編と10編が1つの詩篇とされている。
そうだとするなら、10編もダビデが記したものである。

この詩篇10篇は、きれいな「起承転結」を形成しており、その「起」の部分、すなわち1-2節は、主に対する訴えによって始まる。
10:1 主よ、なにゆえ遠く離れて/立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
10:2 悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。どうぞ彼らがその企てたはかりごとに/みずから捕えられますように。

悪しき者が、貧しい者を激しく攻め立てていて、何ら裁かれる事なく、のさばっている。
彼らはいかなる者で、どんな事をしているか。
続く「承」にあたる3-11節に記されている。

10:3 悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。
10:4 悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。

「神はない。」
これこそ、悪者の行動規範であると言って、過言ではない。
つまり全能者への恐れや、神の正しいさばきの概念が、欠如しているのだ。

高慢が顔面にそのまま凝り固まってしまったような人がいるが、彼らがいつも自信たっぷりであるのは、恐れを克服するために鍛錬したからではない。
彼らにはそもそも、主を恐れるという感覚が欠如しているのだ。

10:5 彼の道は常に栄え、あなたのさばきは彼を離れて高く、彼はそのすべてのあだを口先で吹く。
10:6 彼は心の内に言う、「わたしは動かされることはなく、世々わざわいにあうことがない」と。

平気で万引きができる人は、「見つからない」「裁かれる事は無い」という、根拠なき思い込みがあるからだが、悪しき者が持っているその「自信たっぷり感」は、正しいさばきをされる神という概念が存在しない事に拠る。
それだから彼らは、躊躇なく、罪の大海へとダイブできてしまうのだ。それは実に愚かな事である。
主を知っている人は、主は全能であり、いつも見ておられ、正しく裁かれる、という前提がその心にあるから、罪の大海へおいそれとダイブなどできない。

10:7 その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち、その舌の下には害毒と不正とがある。

条件反射的に口汚い言葉、下品な言葉、のろいの言葉、人をしいたげる言葉を発する人は、舌の下という隠れた所に害毒と不正を潜ましているのが原因である。

10:8 彼は村里の隠れ場におり、忍びやかな所で罪のない者を殺す。その目は寄るべなき者をうかがい、
10:9 隠れ場にひそむししのように、ひそかに待ち伏せする。彼は貧しい者を捕えようと待ち伏せし、貧しい者を網にひきいれて捕える。

彼らは、神の民の集会の真ん中には決して入って来ない。
いつもはずれの方、ひそかな所に座し、そこで「貧しい者(アニィ:悩む人、落ち込んだ人)」を捕らえようと、うかがっている。
彼らが神の民の中に入り込んでいるのは、一緒に礼拝したり賛美したりするためでなく、弱っている人、悩みに落ち込んだ人を食い物にするため、すなわち、獅子が獲物となるべき弱い獣を待ち伏せするのと同じ動機をもって、じっくり「人」をうかがうのである。

10:10 寄るべなき者は彼の力によって/打ちくじかれ、衰え、倒れる。
10:11 彼は心のうちに言う、「神は忘れた、神はその顔を隠した、神は絶えて見ることはなかろう」と。

このようにサタンに類する人は、悩む人、落ち込んだ人をいつも探し回り、その人を見つけたなら闇の自分の所に引き寄せ、食い物にしてしまう。
だから私達は、不安や悩みを思い巡らして心に場所取りしないように、祈りによって対処すべきだ。

ダビデは心配ごとをよく主に申し立て、彼を追求する敵を主に訴えていた。
12節から15節が、起承転結の「転」の部分で、主に対するの訴えの祈りが綴られている。

10:12 主よ、立ちあがってください。神よ、み手をあげてください。苦しむ者を忘れないでください。
10:13 なにゆえ、悪しき者は神を侮り、心のうちに/「あなたはとがめることをしない」と言うのですか。
10:14 あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、それをみ手に取られます。寄るべなき者はあなたに身をゆだねるのです。あなたはいつもみなしごを助けられました。
10:15 悪しき者と悪を行う者の腕を折り、その悪を一つも残さないまでに探り出してください。

主は、みそなわされるお方、見ておられるお方である。悪者は、主は見ていない、というが、いや、生きておられる神は、全ての物事を見ておられるのだ。
密室で話されたことも、人の心の内のめぐらされた言葉も、全部知っておられる。
そして主は、正しくさばきを行われ、悩み苦しむ人を見て御手を差し伸べられる。
寄るべなき者は主に身をゆだね、いつもみなしごを助けられる。

そして結論部分は、主が正当にさばいて下さる事の確信の祈りである。

10:16 主はとこしえに王でいらせられる。/もろもろの国民は滅びて/主の国から跡を断つでしょう。
10:17 主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、
10:18 みなしごと、しえたげられる者とのために/さばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう。

こうして、祈りによって悪人に対する患いは解消された。
私達も、心配ごとが頭の周りを飛び回っている時、祈りによって対処すべきだ。

ピリピ4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
 4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

思い煩いは、私達の頭と心を、そして体を傷つける。
それを守る、唯一の方法が、祈る事なのだ。

国々を正当にさばかれる主と、「言いつけ上手」「訴え上手」なダビデ(詩篇9篇)
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9編の表題は「聖歌隊の指揮者によってムツラベンのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」である。
ムツラベンのしらべは、どのようなメロディだったのだろう。
ムトは「死」、ラ・ベンは「息子の」の意味であり、また16節には「ヒガヨン・セラ」という、聖書中ここにしかない「セラ」があるが、ヒガヨンの意味は「荘厳な」「瞑想」の意味である。
以上を考えると、ムツラベンのしらべは、荘厳で重々しいメロディだったのだろう。
その荘厳な雰囲気の中でダビデが歌わせた詩篇9編のテーマは、主は正当に裁かれるお方である、という内容である。

9:1 わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざを/ことごとく宣べ伝えます。
9:2 いと高き者よ、あなたによって/わたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。

ダビデはまず最初に、主への感謝と賛美で始める。
彼を憎んで滅ぼそうとする者達や国々があるのだが、それを訴える前に、主の素晴らしい御業と正当なさばきをほめたたえている。

9:3 わたしの敵は退くとき、つまずき倒れてあなたの前に滅びました。

わたしの敵、イコール神の敵である。
ダビデはいつも、主の御言葉が成る事、御胸の成る事を求めていたからだ。

9:4 あなたがわたしの正しい訴えを/助け守られたからです。あなたはみくらに座して、正しいさばきをされました。

ダビデはここでも自分の訴えを「正しい」としているが、その根拠はどこにあるのか。それは、彼が主に寄り頼んでいる事である。
主に尋ね求める者こそ、正しいとされる。

子供が人の家のガラスを割ってしまった場合、子供は親に泣きついて訴える時、親は代理で謝罪し、償いをし、そして子供のガラスを割ってしまった事は、相手の前で赦される。
同様に神は、罪を犯してしまった人類のためにイエス・キリストを遣わし、彼が代理で罰を受け、償いをし、父なる神をなだめた。
だから、イエス様に泣きついてくる人々、すなわち、イエス様を主とする人を、神は赦し、義として下さるのだ。

親の助けをよく呼び起こす子供とは「言いつけ上手」「訴え上手」の子であるが、ダビデはまったく主に対して「言いつけ上手」「訴え上手」である。
悩んだ時も、喜んだ時も、家庭の問題も、国家の問題も、なんでもかんでも主に持って行った。

9:5 あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。
9:6 敵は絶えはてて、とこしえに滅び、あなたが滅ぼされたもろもろの町は/その記憶さえ消えうせました。

歴史の闇へと葬り去られた国や民族、人々は、多々ある。
特に、主に従わない者、御民をいじわるする者は、そのようにされる。アッシリヤやバビロン、ペリシテ人、イドマヤ人などはまさにそうだった。
主は正当なさばきをされる事が、7-9節に記されている。

9:7 しかし主はとこしえに、み位に座し、さばきのために、みくらを設けられました。
9:8 主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9 主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。

さばきは恐ろしげに聞こえるかもしれないが、正しい人にとっては、神の正しいさばきは、実は慰めである。
ナホム書という書が聖書にある。
ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。
誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。

9:10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。

ここが9扁の中で重要な節である。
ダビデは、主に寄り頼み、主に尋ね求める事によって、正しいとされた。
主をより頼む者の幸いについて、詩篇34編に記されている。

34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

ダビデは、主に求めた。
すると主は答え、彼を全ての恐れから助け出された。

34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

主を尋ね求める者は、ますます主の恵み深きことを味わい、乏しい事はなくなり、良いものにかける事は無い。
主を仰ぎ見るなら、光を得、恥じる事はなくなる。
苦しむ時、主を仰ぎ見て呼ばわるなら、主は聞いて、悩みから救い出して下さり、主は御使いに命じて、その人の周りに陣営を巡らし、助け出される。
このように、主を尋ね求める人、仰ぎ見る人は幸いを得るのだ。

それでダビデは、御前に大胆に進み出て、賛美し、礼拝できたのだ。
ダビデは11節以降、賛美している。

9:11 シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。
9:12 血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。

ダビデは連戦連勝の王、強く富んだ王の中の王、というイメージがあるかもしれない。
しかし詩篇を見ていると、どうも彼は貧しくて弱くて、悩み苦しみが多い人なのではないか、と思えるような記述がたくさんある。
ダビデについて何の前知識もない人が、はじめて詩篇を読んだとするなら、彼は貧しくて弱い者ではないか、と思われるかもしれない。
しかし、それ程彼はいつも「心の貧しさ」を覚えていた、という事の証左であり、それこそ、ダビデが偉大でありつづけた所以である。

以下のように書いてある。
マタイ5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

「こころの貧しい人」とは、直訳的には「霊がこじきである者」「霊がからっぽな者」である。
彼は、主なくしては何も出来ない「霊の貧しさ」を、いつも覚えていた。
他の王達は、神から祝福され、富や力を持ち始めると、それを誇って神から遠ざかって行ったが、ダビデは違った。
彼も確かに王として栄えたその頂点で罪を犯したが、しかしその罪を指摘された時、すぐに悔い改め、しばらくは涙の日々を送って行った。
彼は生涯、霊における貧しさをいつも覚えており、いつも神に求めていたからこそ、彼は主から愛され、主によっていつも高められていたのだ。

9:13 主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのを/みそなわしてください。
9:14 そうすれば、わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。

シオンとはエルサレムの神殿の丘、すなわち神を礼拝する場所である。
彼の心はいつも、そこにあった。だから彼は、いつでも主との交わりを持っていた。

9:15 もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕えられる。
9:16 主はみずからを知らせ、さばきを行われた。悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる。〔ヒガヨン、セラ

16節には「ヒガヨン、セラ」という、聖書中ここにだけ出現する言葉が記されているが、ヒガヨンは「荘厳な、瞑想」である。
セラはモードチェンジのサインだが、「荘厳にムードチェンジせよ」という意味であろうか。
だから17節以降は、厳かな心持ちで読むべきである。
17節以降は、神と人との、そして神と国々との、恒久的な法則が記されている。

9:17 悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。
9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。

現代に至るまで、数多の国々・民族が栄えては衰え、ある国や民族は、歴史の闇へと葬り去られて行ってしまった。
どんなに大国と呼ばれる国であっても、弱く貧しい者や苦しむ者を顧みず、神の御胸に反する事を続ける国は、必ず長続きせず、歴史の闇に葬り去られてしまうのだ。

アッシリヤのように、暴力や残虐さを売りにして他を恐れさせ君臨する国は、一時期栄えても、必ず滅んでいった。多くの人々の叫びが沸き起こるから、神が栄えさせないのである。
そして主は、神の御胸どおり歩もうとする国を祝福し、栄えさせて下さる。
ローマ帝国は、聖書の教えに忠実に歩んでいる内はどんどん祝福され栄えて行ったが、欺瞞がはびこり、聖書では明らかに悪と見える事が蔓延しだした時から暗黒時代に突入した。
アメリカも建国当初、聖書を中心として国家運営を成そうとして行ったため、建国以降の短期間にキリスト教国として大いに栄えたが、しかし1960年代以降、色々な宗教を取り入れて当初のスピリットを忘れてしまったため、その栄えに黒雲が立ち込めてしまっている。

9:19 主よ、立ちあがってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせてください。
9:20 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に/自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ

19,20節の「人」はエノーシュ、「死ぬべき人間」という意味である。
人は、覚えるべきである。自分がはかない存在である事を。
主こそ王であり、正しくさばきをし、この主により頼む者こそが、幸いである事を覚えるべきだ。

ダビデは歴史を支配しておられ、正当にジャッジされる主を覚えよ、と、国々に警告した。
キリストにあって王とされ、祭司とされた者として、王のため、国々のために執り成し、祈るべきだ。
世の中のあらゆる事を、ダビデのように、何でも主に言いつけ、主との交わりを深めつつ、身の回りを正当に治めつつ歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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