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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

出所不明でありながらも祝福された人達の系図(1歴代誌4:1-23)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

4章前半は、ユダ族の補足的系譜が記されている。

3章は、ダビデ王家という非常に立派な血筋であるにもかかわらず、呪われてしまった暗い歴史を連想させる系図であったが、4章のユダ族の系図は、それとは全く対照的である。
4章の系図に名を連ねる人達は、系譜的つながりが不明な人達が大部分を占める。
しかし、信仰によって進み出て、祝福された人達が、名を連ねている。
この3章につづいて4章のタイミングに、この出所不明な人達の名が載せてある事には、いかに血筋がしっかりした人であっても、主を軽んじ御言葉を疎かにするなら呪われるが、いかに出所が不明であろうとも、神である主に信頼する者には、主は豊かに報いて下さるのだ、という、歴代誌記者の意図を垣間見るかのようである。

4:1 ユダの子らはペレヅ、ヘヅロン、カルミ、ホル、ショバルである。
4:2 ショバルの子レアヤはヤハテを生み、ヤハテはアホマイとラハデを生んだ。これらはザレアびとの一族である。
4:3 エタムの子らはエズレル、イシマおよびイデバシ、彼らの姉妹の名はハゼレルポニである。
4:4 ゲドルの父はペヌエル、ホシャの父はエゼルである。これらはベツレヘムの父エフラタの長子ホルの子らである。

ペレツ、ヘツロンまでが系図的には主流であるが、ヘツロンの子カルミ以降は傍流である。

4:5 テコアの父アシュルにはふたりの妻ヘラとナアラとがあった。
4:6 ナアラはアシュルによってアホザム、ヘペル、テメニおよびアハシタリを産んだ。これらはナアラの子である。
4:7 ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。
4:8 コヅはアヌブとゾベバを生んだ。またハルムの子アハルヘルの氏族も彼から出た。

これらの節の系図の父祖であるアシュルは、ユダ族のどの家から出たのかは、見出だされてはいない。
ただユダ族から出たという事以外、分からないのである。
なぜ彼らが記されたかは不明であるが、続く節の、そのような出所不明であっても敢えて系図に記された人達を見るなら、大体予想が出来る。
すなわち、現代は記録は残っていないものの、信仰において優れた人達であったか、当時のユダヤ人たちにとって重要な部族の父祖であったか。

4:9 ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんで(オーツェブ)この子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。
4:10 ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみ(オーツェブ)をうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。

ヤベツも、出所の説明なく唐突にこの箇所に現れたが、彼が祈った内容と、そして、神が彼の求めるところをゆるされた事が記されているのは、歴代誌の系図の中でも異例である。
彼の母は、彼を苦しみ(オーツェブ)の中で産んだゆえに、ヤベツという名をつけた。ダビデ(愛された者)の名からすればかなり名前負けしているが、しかしヤベツはその名前、その家系、その出生にかかわらず、彼は神に祝福された。
なぜなら、彼が神に祈り求めたからだ。

いかなる出生であっても、主は信頼する者には報いてくださる、と信じて呼び求めるなら、主はその人に目を留めて祝福して下さるのだ。
彼の祈りの内容は、「わたし」が栄えるように、という内容の「幼い信仰者」の祈りではあるが、少なくとも、彼の主と交わりを持とうとする信仰が、からしだねほどでもあるから、主はその信仰を受け取って下さったのだろう。
しかし、いつまでも幼い祈りばかりしていてはならない。信仰において練達し、生活も安定して来たなら、祈りの主人公は「わたし」から「主キリスト」にシフトし、求める事も、自分の事よりも御国の拡大する事を願い求めて行くべきなのだ。次のように記されている。

ピリピ2:21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
2:22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。

4:13 ケナズの子らはオテニエルとセラヤ。オテニエルの子らはハタテとメオノタイ。
4:14 メオノタイはオフラを生み、セラヤはゲハラシムの父ヨアブを生んだ。彼らは工人であったのでゲハラシムと呼ばれたのである。

ケナズの子オテニエルはヨシュア記15章や士師記1章で、信仰によって進み出て祝福を勝ち取った事が記されているが、彼もまた、系図的に出所不明なのである。
彼は信仰によって巨人の住む土地を真っ先に攻め取り、カレブの娘アクサを勝ち取ったのみならず、アクサをそそのかして、泉をも得る事が出来た。(ヨシュア記15章)
ヤベツと同じで、求める者には主は豊かに与えて下さり、探す者は見つけ出し、叩く者には開いて下さるものなのである。

4:15 エフンネの子カレブの子らはイル、エラおよびナアム。エラの子はケナズ。

あの有名なエフネの子カレブも、系図的に出所不明なのである。しかもカレブの名は、犬という意味である。
それでも彼は、信仰によって祝福を勝ち取った。
イスラエル60万もの男子が、すべて不信仰に陥って「エジプトに帰ろう」と言った時も、ヨシュアとカレブの二人は、断固主を信頼してあの約束の地に行こう、と言って信仰を貫き通した。
それで彼には、ヘブロンという信仰の父祖達が住んだ土地を得る事ができた。

4:21 ユダの子シラの子らはレカの父エル、マレシャの父ラダおよびベテアシベアの亜麻布織の家の一族、
4:22 ならびにモアブを治めてレヘムに帰ったヨキム、コゼバの人々、ヨアシおよびサラフである。その記録は古い。
4:23 これらの者は陶器を造る人で、ネタイムおよびゲデラに住み、王の用をするため、王とともに、そこに住んだ。

ここは出処元ははっきりしている。この子孫たちは、ユダの3人息子、エル、オナン、シラのうち、長男エルと次男オナンは主に忌み嫌われる事を行ったゆえに主に打たれたが、三男のシェラはこうして生き延びた、その彼の系図である。
おそらく、兄たちが主に打たれるのを次々と見て、主を恐れ、そうして子孫が残され祝福され、その子孫は亜麻布織や陶器を造る職人として、また、王の用をする者として栄えたのだ。

今回の系図が物語る事は何か。
それは、いかに出処元が不明であろうとも、あるいは、卑しい出であろうとも、主を敬い主に呼び求める者には、主は祝福の扉を開いて下さる事、そして、いかに高貴な出であろうとも、主を軽んじ御言葉に従わない者は、呪われてしまう、という事を語ってはいないだろうか。
ちょうど、異邦の遊女ラハブやルツが信仰によって栄光の家系へと入ってきたように、また、ちょうどダビデの血を引く王家であっても不信仰によって災いに遭ったように。

私達は、主を敬い、御言葉どおり行い、主に祝福された子孫を残していくものでありたい。

栄光のダビデ王家、その没落して行ってしまった理由(1歴代誌3:1-24)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

第一歴代誌3章は、特に、ダビデ王家の家系が記されており、1−4節はダビデがヘブロンで王であった期間に生まれた子達、5-8節はエルサレムで王であった期間に生まれた子達が記されている。
10節以降、16節まではダビデの子ソロモン以降、歴代の王達が記されており、17節以降は、バビロン捕囚以降の王家の家系が記されている。

3:1 ヘブロンで生れたダビデの子らは次のとおりである。長子はアムノンでエズレルびとアヒノアムから生れ、次はダニエルでカルメルびとアビガイルから生れ、
3:2 第三はアブサロムでゲシュルの王タルマイの娘マアカの産んだ子、第四はアドニヤでハギテの産んだ子、
3:3 第五はシパテヤでアビタルから生れ、第六はイテレアムで、彼の妻エグラから生れた。
3:4 この六人はヘブロンで彼に生れた。ダビデがそこで王となっていたのは七年六か月、エルサレムで王となっていたのは三十三年であった。
・・・
3:9 これらはみなダビデの子である。このほかに、そばめどもの産んだ子らがあり、タマルは彼らの姉妹であった。

この、ヘブロンで生まれた子達で、サムエル記などに特筆されている子達は長子アムノン、三男アブシャロム、四男アドニヤであるが、いずれも災いの物事を起こし、剣で殺された者達であった。
アムノンは三男アブシャロムの妹であるタマルを力づくで犯し、その日、ダビデは一度に、強姦の罪を犯した息子の父親・強姦被害者の娘の父親になってしまった。
しかしその後、アムノンは何のお咎め無しのまま過ごし、ついにはアブシャロムによって殺されてしまった。
アブシャロムは父に歩み寄ろうと多くの努力をするも、父はのらりくらりとかわし続け、ついにはアブシャロムは父王に反逆してクーデターを起こした。
父ダビデ王はそんなアブシャロムに対しても憐れみをもって対応するが、しかし父に反逆して王権ご強奪し、また性的な面で父を嘲ったアブシャロムは、主に呪われた形で殺されてしまった。
四男アドニヤは、ソロモンが次の王になると知らされていたにも関わらず、自分で勝手に王になろうとした。
しかしダビデははっきりとソロモンが王であると宣言し、彼は謹慎処分を受けたにもかかわらず、バテ・シェバをそそのかしてなおも王になろうとしたゆえに、殺されてしまった。

このように見ると、あの偉大な王ダビデの子どもたちは、災い続きであるように見える。
その理由は、ひとえに、ダビデ王自身の罪の刈り取りであるといえる。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。
ダビデ自身は、彼が犯した姦淫と殺人の報いをその身に受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまい、ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなったのだ。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレミヤ31:18-22)

3:5 エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。

この4人は、バテ・シュアから生まれた。サムエル記ではバテ・シェバであるが、なぜ歴代誌ではバテシュアと記されているのか。
たまに、歴代誌の名前の記述と、列王記など他の書の記述が違う事があるのには、それぞれの理由があるであろうが、その理由の一つに、「読み替え」がある。
読み替えとは、似た発音であるけれども、言葉の中の意味付けを違える、言葉遊び的な行為である。
たとえば、サムエル記における「バテ・シェバ」の名前の意味は「誓いの娘」、歴代誌における「バテ・シュア」の名前の意味は「豊かさの娘」である。
もしかすると、歴代誌記者は、ダビデが不当な形であるにせよ妻にしたこの女性が、かえって豊かな子孫の源となった事を示すために、そのような読み替えを行ったのかもしれない。

3:10 ソロモンの子はレハベアム、その子はアビヤ、その子はアサ、その子はヨシャパテ、
3:11 その子はヨラム、その子はアハジヤ、その子はヨアシ、
3:12 その子はアマジヤ、その子はアザリヤ、その子はヨタム、
3:13 その子はアハズ、その子はヒゼキヤ、その子はマナセ、
3:14 その子はアモン、その子はヨシヤ、
3:15 ヨシヤの子らは長子ヨハナン、次はエホヤキム、第三はゼデキヤ、第四はシャルムである。
3:16 エホヤキムの子孫はその子はエコニア、その子はゼデキヤである。

以上の名前は、列王記でも学んだ、南ユダ王国の歴代の王達である。
敬虔なユダヤ人であれば、それぞれの王達のそれぞれのドラマをよく知っているため、この「人名の羅列」を読む時も、一人一人に込められたドラマ、すなわち主に従って祝福されたドラマ、あるいは、主を軽んじて呪われたドラマを、この僅か7節の中に、走馬灯のように見えるのである。

3:17 捕虜となったエコニヤの子らはその子シャルテル、
3:18 マルキラム、ペダヤ、セナザル、エカミア、ホシャマ、ネダビヤである。

バビロン捕囚以降のダビデの血筋の者が、17節以降に記されている。
22節に登場するハトッシは、エズラと共にバビロン捕囚から帰還した、ダビデ王家のものであることが、エズラ8:2に記されている。
歴代誌は、エズラの時代に記されたものと思われるが、3章後半において、いよいよ、リアルタイムに生きる人々の名前が記述されるに至ったわけである。

ダビデの代は姦淫によっていのちが汚され、そして、子どもたちに御言葉伝授をしっかりして来なかった事によって、災い多くしてしまい、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。
エズラは、自分たちは御言葉がなかったから、御言葉を子どもたちに教える事をして来なかったから滅びた、と分かり、テフィリン教育、すなわち、御言葉暗唱教育を始めた。
それが現代に至り、ユダヤ人は13歳までにモーセ五書を暗唱できるようになり、今日、ユダヤ人は金銭的に、権力的に祝福されているのである。
私達クリスチャンも、御言葉教育にこそ力を入れるべきである。

ペレツの子ヘツロンの系図から読む、御国の祝福を強奪した子孫の祝福(1歴代誌2:18-55)
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歴代誌の系図の主人公は、ダビデ王家や祭司の家系であり、前回、それの直系の系図をダビデまで見た。
今回の箇所は、ダビデ王家の父祖・族長ユダが、嫁のタマルとの間に生まれたペレツの子、ヘツロンのいわば傍系の系図である。

ヘツロンの父ペレツは、彼の母タマルの胎にいた時、先に手首だけ出したのに、再び母の胎に入ってしまったゼラフを出し抜いて、先に生まれ出てきた故に、ペレツ(割り込むの意味)という名がつけられた。
母の胎の中のほうが肉的には心地よいかもしれないが、肉の心地よさに浸り込んで、長子の権利を割り込まれてしまったゼラフの系図は、わずかしか記されなかった。
このように、御国は積極的に攻めて勝ち取るものの手によって、奪われるものである。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。(マタイ11:12)
私達も、御国の事については、貪欲に勝ち取って奪いとって行くべきだ。

歴代誌の系図は、現代の私達の目から見れば、よくわからない名前の羅列で、読んでいるだけでも飽々して来る人もおられるかもしれない。
しかし今回の箇所には、イスラエルにおける重要な地名が幾つか登場し、その地を建て上げた父祖たちが記されているゆえに、当時のユダヤ人にとっては「ああ、あの地は、このような人達が建設したのか」という示唆を与えるものであり、またここは現代を生きる私達に対しても、主を敬う人の子孫はこんなにも数多くなって、読んでいるだけで飽々して来るほどになる、という事が、少なくとも実感できるだろう。

2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。
2:19 カレブはアズバが死んだのでエフラタをめとった。エフラタはカレブによってホルを産んだ。
2:20 ホルはウリを生み、ウリはベザレルを生んだ。

ヘツロンの子・ラムが、その後につづくダビデ王家に至る直系であるが、ラムの兄弟・エラフメエルとラムの子々孫々が、18節から55節に至るまで、多数記されている。
 2:25 ヘヅロンの長子エラメルの子らは長子ラム、次はブナ、オレン、オゼム、アヒヤである。
エラフメエルの子孫の中には、子がないままで死んだ人もいたり(30,32節)、娘しかいなくてエジプト人の奴隷に娘をめとらせて子孫を産んでいった人もいるが(34節)、それでも多くの子達がエラフメエルから生まれた。

 2:42 エラメルの兄弟であるカレブの子らは長子をマレシャといってジフの父である。マレシャの子はヘブロン。
ここに登場するヘツロンの子カレブは、ヨシュア記に登場する有名な信仰者、約束の地をヨシュアと共に信仰によって勝ち取ったあのカレブとは別であると考えられる。
なぜならヨシュア記のカレブは、「エフネの子カレブ」であり、その系図が4:15に記されているからである。
このカレブは、正妻・妾あわせて、多くの子達が生まれ出た。
しかも、その子達には、有力者が多数生まれた。

2:50 これらはカレブの子孫であった。エフラタの長子ホルの子らはキリアテ・ヤリムの父ショバル、
2:51 ベツレヘムの父サルマおよびベテガデルの父ハレフである。
2:52 キリアテ・ヤリムの父ショバル子らはハロエとメヌコテびとの半ばである。
2:53 キリアテ・ヤリムの氏族はイテルびと、プテびと、シュマびと、ミシラびとであって、これらからザレアびとおよびエシタオルびとが出た。
2:54 サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。
2:55 またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。

このカレブの子孫からは、ベツレヘムやベテガデル、キルヤテ・ヤリムなど、諸地方の「父」が出、また、氏族の元となる人が出た。

母の胎にいる時から争ってでも御国の祝福を勝ち得たいと行動したペレツの子孫は、とても祝福されている事が、系図からも分かる。
彼らの父祖ヤコブもそうだった。
主は、兄のかかとを掴んで生まれてきたヤコブ、長子の祝福を騙しとってでもつかみとりたいと願ったヤコブが、長子エサウから命を狙われた時、ひとりぼっちで旅しているヤコブに現れて下さった。

 28:13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
 28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
 
この時のヤコブは、杖一本の他は何も持たず、着の身着のまま逃げてきた状態だったが、後に、主は彼を大いに祝福し、二つの陣営を引き連れて帰って来る恵みに与らせてくださった。

まことに、天の御国は行動して奪うものであり、決して口をあけて待っていれば落ちてくるものではない。
むしろ、御国の祝福を得るためにもがかない人は、もがく人によって奪い取られてしまうのだ。

イスラエル-ユダ-ダビデに至る系図のドラマ(1歴代誌2:1-18)
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2:1 イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2:2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル。

以上はイスラエル12部族の父祖たちであり、黙示録に至るまでも残る系図の本流中の本流である。
そして歴代誌では、この中から特にユダ族、レビ族について多くの紙面が割かれ、ユダ族の本流・傍流の系図が、2:3から4:23に至るまで記されている。

2:3 ユダの子らはエル、オナン、シラである。この三人はカナンの女バテシュアがユダによって産んだ者である。ユダの長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺された。
2:4 ユダの嫁タマルはユダによってペレヅとゼラを産んだ。ユダの子らは合わせて五人である。

ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。

『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。
そのカナンの女・バテシュアは「シュアの娘:叫びの娘」という意味で、ようするに、女の名前は分からない。名前すら記される程のものではなかったのだ。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。

長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺されたのみならず、創世記を見ると、次男オナンもまた主の目に悪を行ったので、彼も主に打たれて死んでしまった。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
主は、ユダの家系を神の民へと整えるために、まず、家の清めから始める。すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。

『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
「叫びの娘」という妻が死ぬ事によって、夫であるユダは、慰めを受けた。。。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。

嫁のタマルは、バテ・シュアと違って出生元は記されていない代わりに、名前は記されている。
彼女は、この神の民の家系の恐ろしさ、そして、素晴らしさを思い知っただろう。それで彼女は、いのちを賭けて、子を得るための行動に出る。
ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、二人は交渉し、そしてペレツとゼラフを産む。
ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。

2:5 ペレヅの子らはヘヅロンとハムル。

このペレツが、正統なダビデ王家の本流となる。
ペレツは、元々、弟になるはずで、ゼラフが兄となるはずだった。しかし、この双子が母のタマルから生まれる時、ゼラフは手首だけ先に出たので、赤い印を手首につけられたのに、再び母の胎に戻ってしまい、ペレツが先に出てきたので、ペレツが長男となった。
母の胎から出てくる、その数時間の「競争」が、永遠の栄光の家系に入れたか、入れなかったかを切り分けた。
そう、私達も、この世という、永遠の目から見たら「わずか数時間の競争」が、永遠を決定するのだ。

栄光を手にするために努力するか、それとも、肉の心地よさに戻ってそれを逃してしまうか。
まことに系図をみる時、その連続ドラマを、またたく間に見せてくれる。

傍流であるゼラフの系図は、6-8節の3節にしるされている。しかも、悪い意味の教訓のために、である。

2:6 ゼラの子らはジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、合わせて五人である。
2:7 カルミの子はアカル。アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。
2:8 エタンの子はアザリヤである。

このアカルは、ヨシュア記で言う所のアカンである。
彼は、滅ぼしつくすべきものを自分の手元に保持したため、彼のみならず、イスラエル全体が戦いに勝てなくなってしまい、結局、彼のみならず、彼の子達もすべて滅ぼし尽くされてしまった。
神の民の系図の枝から、子々孫々とも、切って捨てられてしまったのだ。
私達も、まことのぶどうの木であるイエス様につながり、神の民の枝とされた。
その私達は、実を結ばないで切って捨てられるものではなく、キリストに繋がり続け、豊かな実を結ぶものとなるべきだ。

2:9 ヘヅロンに生れた子らはエラメル、ラム、ケルバイである。
2:10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダの子孫のつかさナションを生んだ。
2:11 ナションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
2:12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。

9-12節は、ダビデ王家の本流が、ヘツロンからエッサイまで直接記されている。
マタイの系図には遊女ラハブやモアブ人ルツの名も記されているが、ここにはそれは無い。

2:13 エッサイは長子エリアブ、次にアビナダブ、第三にシメア、
2:14 第四にネタンエル、第五にラダイ、
2:15 第六にオゼム、第七にダビデを生んだ。
2:16 彼らの姉妹はゼルヤとアビガイルである。ゼルヤの産んだ子はアビシャイ、ヨアブ、アサヘルの三人である。
2:17 アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシマエルびとエテルである。
2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。

エッサイの子たち、すなわちダビデの兄弟姉妹たちが記されている。
特にツェルヤの子ヨアブは、有能な将軍であったが、王であるダビデの言葉に何度もそむき、むしろダビデに意見するような傲慢と、罪のない人の血を流し続けたゆえに、殺されてしまった。

以上のように、主を敬い、その御言葉を大切にする人は、主から大切にされ、祝福の子々孫々を得ていくが、主を軽んじ、その御言葉をないがしろにするものは、せっかく栄光の家系に生まれても、その系図という木からは切り離され、火に投げ込まれてしまうのだ。

イシュマエルの子孫とエサウの子孫(1歴代誌1:28-54)
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1:28 アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。

アブラハムの子、イサクの子孫が、神の民の直系子孫であるが、今回の箇所は傍系の系図、すなわち、イシュマエルやエサウの子孫の系図が挿入されている。

1:29 彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、
1:30 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、
1:31 エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。

イシュマエルの子孫がここに記されている事は、将来のイスラエルにとって重要である。
なぜなら今、まさに現代、イスラエルはこのイシュマエルの子孫であるアラブ人によって苦しめられているからだ。
イシュマエルの子孫はどのような性質になって行くのかは、母の胎にいる時に決まっていた。
創世記16:11 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。
16:12 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。

イシュマエルにしても、エサウとヤコブにしても、母の胎にいる時から主はその子がどのようになるかを予告しているが、母がどのように胎教するか、それはとても重要である。

多くの国々では義務教育はだいたい5-6歳から始まるが、イスラエルの律法では、いのちが母の胎に宿った時から既に始まっており、母は、胎児に向かってトーラーを毎日聞かせる。
それで、彼らは生まれた時から既に御言葉の耳が開かれており、13歳の少年になる頃には、モーセ五書全部を暗記しており、大人になる頃には天才となっているのである。
結婚と子育て過ちや、性的な過ちは、後々の子々孫々に、致命的な災の根を残す事となってしまう事を、おそらくエズラは警告し、傍系子孫の系図も記しているのだろう。

1:34 アブラハムはイサクを生んだ。イサクの子らはエサウとイスラエル。

イサクの子、イスラエルの子孫が神の民の直系だが、エサウという「傍系」の系図を、詳細に載せている。

1:35 エサウの子らはエリパズ、リウエル、エウシ、ヤラム、コラ。
1:36 エリパズの子らはテマン、オマル、ゼピ、ガタム、ケナズ、テムナ、アマレク。

テマン人は知恵深い人々として他の箇所に記されている(ヨブ2:11、オバデヤ9)が、アマレクは暴虐な民として神が徹底的に絶ち滅ぼすように命じている。
エサウは俗悪な者としてヘブル12:16に記されており、俗悪な子々孫々を産んでいった。

1:43 イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。

1歴代誌1:37-54には、エサウの子孫の系図と、その中から出た王達、首長たちが、大勢記されている。
それは、イスラエルにはまだ王がいなかった時、であると書いてあるので、イスラエル(ヤコブ)はエサウの祝福をだまし取ったものの、栄えたのはエサウのほうだったようである。
エサウの子孫が王をつくり、増えていったその時期に、イスラエルはエジプトで奴隷生活を430年も送っていたからだ。

しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)
 

永遠の系図に残る礼拝する民と、消えていく礼拝しない民(1歴代誌1:1-27)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

バビロン捕囚の後、イスラエルの信仰を復興したエズラが編纂したと言われるこの歴代誌は、系図で始まる。
系図は、イスラエル人にとって、どこに自分のアイデンティティがあるのかの拠り所であり、また系図には、主に依り頼んで栄えた人も、主を軽んじて呪われた人も記されている。

系図はツリー構造であるが、そのツリー(木)の幹にあたる部分と、枝葉にあたる部分があり、歴代誌における「幹」すなわち主人公は、主を礼拝する民、主につながり続けた人達である。それが結果的にユダ族であり、レビ族である。
主を敬い、礼拝を重んじる人々は祝福を受けて栄え、主を軽んじ礼拝を疎かにする民は衰退し、最終的には滅びる。
それこそ、歴代誌が教える重要な教訓である。
おそらく記者であるエズラは、その事を伝えるために、全人類の祖先であるアダムの系図から記し始めた。

1:1 アダム、セツ、エノス、
1:2 ケナン、マハラレル、ヤレド、
1:3 エノク、メトセラ、ラメク、
1:4 ノア、セム、ハム、ヤペテ。

1節から4節のヤペテまでは、接続詞も一切なく、名前だけがそのまま一気に記されている。
この、1−4節は最も根幹的な「幹」にあたり、また5節以降23節までの系図には、名前と次の名前の間に接続詞ワウが挿入され、また、その時代に何が起きたかという説明も所々に挿入されている。
聖書注解を見ると、おそらく「幹」と「枝葉」を区別するためだろう、と言われているが、この、接続詞ワウ無しの名前だけの列挙は、ヘブライ語がわかるユダヤ人には、名前を繋げた事によって浮かび上がって来る意味を読む事が出来る。

ヘブライ語の人名には、それぞれ意味があるのだが、このアダムからノアに至る系図の名前をそのまま列挙して行くと、一つの意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味であり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、マハラルエルは「祝福の神」という意味である。
エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。

以上、これらの名前の意味をつなげると、次のようになる。

「人は、約束された(授けられた)。脆さ、致命的な悲惨が。祝福の神は、降りて来て、教え、捧げた。彼が死ぬ時、何かが起きる。嘆き悲しみは、慰められ、新しい希望となる。」

この浮かび上がった意味は、まさしく、イエス・キリストによる人類の救いを表しているではないか。
実は、ユダヤ人が、歴代誌のこのワウ無しの系図を朗読するたびに、そのような意味をも覚えつつ、暗唱しているのだが、イエスキリストを受け入れるユダヤ人がいないのが本当に歯がゆい所である。

続いて系図は、ノアの子ヤペテの子孫になる。

1:5 ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。
1:6 ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。
1:7 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。

ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、以下の預言はまさに実現した。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(創世記9:27)
しかし旧約においては、ヤペテの子孫は全く登場しないため、歴代誌の系図では、わずか3節で終わりとなっている。
たとえ旧約の系図から外されてしまっても、イエスキリストを信じるなら、再び接ぎ木されるのだ。

続いて系図は、ノアの子ハムの子孫となる。

1:8 ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。
1:9 クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。
1:10 クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。
1:11 エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、
1:12 パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ。カフトルびとからペリシテびとが出た。
1:13 カナンは長子シドンとヘテを生んだ。
1:14 またエブスびと、アモリびと、ギルガシびと、
1:15 ヒビびと、アルキびと、セニびと、
1:16 アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとを生んだ。

このハムの子孫たちは、主を敬わない者達、礼拝を阻害する者達として聖書には記されている。
特にニムロデは、歴代誌において重要な悪役の人物である。このニムロデの子孫によって神の民は散らされ、神殿は破壊され、バビロン捕囚に遭い、そうして歴代誌は閉じられるからだ。
主を敬う民に対し、主を蔑む民もいる。カナン人やペリシテ人もそうである。
主の民が、主を敬わない事を続けてしまうと、神は彼らを用いて主の民を懲らしめ、なおも主に従わない事を続けていると、最終的には約束の地から吐き出されてしまうのだ。

続いて、セムの子孫について記されている。歴代誌の系図の本流は、神の民・セムの子孫である。

1:17 セムの子らはエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラム、ウズ、ホル、ゲテル、メセクである。
1:18 アルパクサデはシラを生み、シラはエベルを生んだ。
1:19 エベルにふたりの子が生れた。ひとりの名はペレグ――彼の代に地の民が散り分れたからである――その弟の名はヨクタンといった。
1:20 ヨクタンはアルモダデ、シャレフ、ハザル・マウテ、エラ、
1:21 ハドラム、ウザル、デクラ、
1:22 エバル、アビマエル、シバ、
1:23 オフル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみなヨクタンの子である。

ここではエベルから枝分かれしたヨクタンの子孫が記されたが、24節以降27節までは、再び、接続詞ワウなしの名前の列挙となる。
すなわち、系図の本流である。

1:24 セム、アルパクサデ、シラ、
1:25 エベル、ペレグ、リウ、
1:26 セルグ、ナホル、テラ、
1:27 アブラムすなわちアブラハムである。

こうして、信仰の先祖、アブラハムまでの系図がつながった。
主を敬う信仰の人、礼拝する人こそ、人間のファミリーツリーの中で幹となって、栄えて行く者、永遠に残る者である。
私達は、主を敬い、礼拝する民、永遠に残る民として、歩むべきだ。

サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

イザヤ書59章は主語が明確に分かれている。
1−4節の主語は「あなたがた」、5-8節は「彼ら」9-15節は「私たち」、16-21節は「主」である。

なぜ、人には悲惨な事が起きるのか。そして、どうして祈っても主に聞かれないのか。
なぜ祈っても、癒やされず、必要は満たされず、悪霊は離れて行かないのか。
それは次のように書いてある通りである。
 59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
 59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

5-8節の「彼ら」はまさにサタンの申し子のような、邪悪な行いをしてなんの呵責も無いような者達であるが、そんな彼らによって被害に遭い、苦しみ、災いばかりを被っている人は、いかにして、主の救いを受けられるのか。
それはずばり、自分の罪を認める事である。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。

この、12節の言葉が、57章から続く主の叱責が、60章以降の主の憐れみと祝福へと転換点するターニングポイントとなる。
主の叱責から、主の憐れみと祝福になるターニングポイントとなる鍵は、自分の罪を認める事である。

日本語の聖書に「ごめんなさい」という言葉が一切出てこない事をご存知だろうか。
こんなにも日本語としてはメジャーな言葉は、どうして、存在しないのか。

聖書で「ごめんなさい」に相当する言葉は、「わたしは**の罪を犯しました」である。
ごめんなさいの漢字は「御免なさい」、すなわち、非礼をしてしまった自分を「免じ」る事を求める言葉である。
つまり、ごめんなさい、という言葉には、自分が犯した非を言い表す所がないし、また、非を改める意思表示も、この言葉の中に含まれていない。
「申し訳ございません」も、「言い訳のしようがない」や「弁解の余地もない」という意味で、あり、「すみません」、も、相手に非礼をしてしまった自分の気持ちが、このままでは「済まない」の意味で、自分が罪を犯したというニュアンスが抜けている。
もしかすると、「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」という言葉が、日本に救いが中々もたらされない事に、大いに役立っているかもしれない。

 59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
 59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
 59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。

この、9節から11節は、日本の文学では多々見られる。自己憐憫、悲しい悲しいの演歌の世界である。ここにとどまっている人は多く、そして12節に至る人は少ない。
それに対し、12節から15節は、自分の罪の告白であり、これこそが、主の助けが開かれるコツである。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
 59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
 59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
 59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

ここでは、かなり具体的に、自分の罪を告白している。これこそ、16節以降の主の助けを得る手段であり、ひいては60章以降の祝福を得るコツである。
実に、悪霊や呪いが留まり続けてもらうためのコツは、自分の罪を言い表さない事である。

 59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

主が義の胸当てをまとい、救いのかぶとをかぶって、戦って下さる。
この武具はエペソ6章にも登場するが、エペソ6章は信仰において成熟し、悪しきものと戦う事の出来る人が、身につけて戦うものであるのに対し、ここでは、そのような「人」がいない故に、主みずからが、「自分の罪を告白した人」のために立ち上がり、戦ってくださる事がしるされている。
エペソ6章には登場しない「報復の衣」「熱心の(ねたみの)外套」は、ただ主が身に付けるものであって、人が主を差し置いてまとったりしてはならないものである。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。

主は彼らに報復をされるが、ここの「彼ら」とは、5-8節の「彼ら」である。
 59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
 59:6 その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
 59:8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。

主は、このような事を好き好んでする「彼ら」に、報復をされる。
それも、自分の罪を、告白した人達を救うためにである。自分の罪を告白しない人に対しては、いつまでも「彼ら」から好き放題に蹂躙されたままである。

 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。

まことに、日出る国に主の栄光があらわれるためには、「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ない」の領域を出て、自分の罪を言い表す必要がある。
その時、主のいぶきが吹き荒れて、たちまし主の栄光がこの東の国、日出る国を覆うだろう。

 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

ここで、重要な事が示されている。
主が「あがなう者」として現れてくださるのは、「とがを離れる者に」対してである。

つまり、罪を言い表したなら、次に、自分の「とが」を「離れる(シュブ:返る、リターン、離れる)」事である。
それをするなら、主が暁のように現れてくださり、悪魔の申し子のような「彼ら」に報復し、60章以降のすばらしい祝福へと入って行けるのである。

自分の罪を言い表す事。そして、それを改める事。
これこそ、神と人との間の隔てとなっている壁を取り除く、唯一の方法である。

自分の中に住み着いている悪霊を追いだそうとする人が「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何度言っても出て行かない場合は、自分が習慣的に抱え持っている罪を主の御前に告白しているか、そしてそこから1ミリでも離れようという努力をしているかを今一度チェックする必要がある。
いつまでも自分の罪を手放さず、罪の自分と仲良くし、そこから離れないままでいるなら、悪魔サタンに握られてしまう「とっかかり」を与えてしまっているようなものである。
しかし、罪を言い表し、それを改めようと努力するなら、悪魔サタンがその人をつかむ「とっかかり」を失う。
ちょうど、サルスベリの木は猿がつかめるようなとっかかりが無くてすべり落ちてしまうのと同じように。
だから、「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何百回言うよりも、むしろ、自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をして、「悪魔サタンすべり」になるべきである。
自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をするなら、主が働いて、主が悪魔サタンに報復する機会を得るからだ。
 

歴代誌概要(1歴代誌1:1-4)
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講解説教は本日より歴代誌に入る。

歴代誌は、預言者の言行録や、王たちの書、また、諸々の注解など、多くの資料を基にしているが、誰がこれをまとめ、記したかを示す箇所は無い。
ユダヤ人の伝承では、著者をエズラとしている。
歴代誌の内容は、そのままエズラ記に続けるなら内容的に非常にマッチするし、そして、歴代誌の内容は、バビロン捕囚後の諸々の危機に際し、エズラがイスラエルの民を鼓舞した精神と、非常によく一致している。

バビロン捕囚後のイスラエルには、周辺諸国の圧迫という危機があったため、イスラエルのアイデンティティを鼓舞する必要があったし、長らくバビロンにいたために神殿礼拝が軽んじられてしまっている現状に対し、礼拝の復興を鼓舞する必要があったし、また、異邦人との結婚・血筋の混濁がはびこりつつあり、せっかく主がバビロンから開放して新しい歩みだしをして行こうとしていたというのに、またしても捕囚前の堕落した時代に逆戻りしようとしていたため、捕囚前の堕落した王達がいかなる道を辿ったかを示す必要があった。

歴代誌は、まさに捕囚後のイスラエルの民が生きるべきエッセンスが詰まっている。

第一歴代誌1章から9章までは、アダム以来の系図が記されており、イスラエルのアイデンティティはどこにあるのかをまさに示している。
10章から第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿こそがイスラエルのアイデンティティである事を強調している。
また、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。

系図はファミリーツリーであるが、歴代誌において幹となっている部族は、レビ族とユダ族である。
それは、バビロン捕囚から帰還しイスラエルに定住しに来た部族がそれだからだ。

10章から第二歴代誌に至るまでは、特にダビデとソロモンの、神殿建設に関わった事が記されている。
サムエル記におけるダビデは、サウルとの葛藤や苦悩、またバテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌におけるダビデはむしろ神殿建設のために努力したダビデが記されている。
彼がいかに神殿建設の準備をし、いかに礼拝組織や聖歌隊を編成したか、また、彼の子ソロモンがいかに神殿建設をしたか、列王記には無い詳細な内容が記されている。
そして第二歴代誌は、ソロモン以降の王達の歩みが記されているが、ここで繰り返し強調されている事は、神を畏れ神殿を重んじた王たちは祝福され、それを軽んじた王達は呪われている事である。
まさに、バビロン捕囚後の人々に必要な警告と養いが、歴代誌の中にある。

歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」の意味である。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
列王記はネビイーム(預言者)の中に入っており、ヨシュア記や士師記などの歴史と、イザヤやエレミヤなどの預言書と同じカテゴリにある。
それに対し、歴代誌は、ケトゥビーム(諸書)、すなわち詩篇や箴言、伝道書など、神様との関係の中で生まれた文学類と同じカテゴリの中にある。

歴代誌、それはユダヤ人の「日々の出来事」であり、私達にとっても「日々の出来事」である。

内容としては、ユダヤ人の系図や神殿、王達の歴史と、私達異邦人には全く関係のないものであるかのように見えがちだが、決してそんな事はない。
なぜなら系図は私達の先祖アダムに始まり、また信仰者の先祖・アブラハム以降の系図は、まさに私達の系図であるからだ。
そして私達が、現代のまことの神殿であるキリストを、いかなる態度で礼拝するべきか、彼を敬うものはいかに祝福され、また軽んじるものはいかに呪われるか、それはそのまま私達に当てはまる事だからである。

歴代誌は、私達と、神様との関係を根底に置きながら、読み進めて行くべきである。
読み進めるにつれて、私達が歩むべき日々の姿を学んでいきたい。

頑なで悔いない心がもたらしてしまう災いと滅び(2列王記25:22-30)
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いよいよ第二列王記の最後である。
第二列王記は、主に従う良い王の時代もあったが、大部分は、主に従わない悪い王の時代だった。
主は何度も預言者を遣わし、主に立ち返るよう警告して来たのもかかわらず、それを軽んじ、主に聞き従わない事を続けた結果、バビロンが攻めてきて、なお改めなかった結果、エルサレムは城壁も神殿も徹底的に破壊され、ほとんどの主だった人々は足かせに繋がれてバビロンへ引かれて行ってしまった。

25:22 さてバビロンの王ネブカデネザルはユダの地に残してとどまらせた民の上に、シャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを立てて総督とした。
25:23 時に軍勢の長たちおよびその部下の人々は、バビロンの王がゲダリヤを総督としたことを聞いて、ミヅパにいるゲダリヤのもとにきた。すなわちネタニヤの子イシマエル、カレヤの子ヨハナン、ネトパびとタンホメテの子セラヤ、マアカびとの子ヤザニヤおよびその部下の人々がゲダリヤのもとにきた。
25:24 ゲダリヤは彼らとその部下の人々に誓って言った、「あなたがたはカルデヤびとのしもべとなることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすればあなたがたは幸福を得るでしょう」。

エルサレムには、取るに足りないと見られている貧しい人達が残ったが、バビロンの王が総督として立てたケダルヤの元、その残されたわずかな人々の間に、ささやかな平安な時が訪れた事が、エレミヤ40章から伺える。
ところが、それでもなお身勝手な夢を見る者達の手によって、その弱く力のない人達は蹂躙されてしまう。

25:25 ところが七月になって、王の血統のエリシャマの子であるネタニヤの子イシマエルは十人の者と共にきて、ゲダリヤを撃ち殺し、また彼と共にミヅパにいたユダヤ人と、カルデヤびとを殺した。
25:26 そのため、大小の民および軍勢の長たちは、みな立ってエジプトへ行った。彼らはカルデヤびとを恐れたからである。

この、王の血統であるイシュマエルは、身勝手な夢を見てバビロンが立てたケダルヤを撃ち殺した。
カレアハの子ヨハナンはイシュマエルと戦おうとして出てきて、イシュマエルはアモン人のところに逃れたが、ヨハナンは、このままではバビロンの怒りを買って滅ぼされてしまうと恐れ、イスラエルの民を連れてエジプトへ行く心づもりをもて預言者エレミヤに伺いに行く。(エレミヤ41-42章)

エレミヤ42:1 そのとき軍勢の長たち、およびカレヤの子ヨハナンと、ホシャヤの子アザリヤ、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者にいたるまで、
42:2 みな預言者エレミヤの所に来て言った、「どうかあなたの前にわれわれの求めが受けいれられますように。われわれのため、この残っている者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください、(今ごらんのとおり、われわれは多くのうち、わずかに残っている者です)
42:3 そうすれば、あなたの神、主は、われわれの行くべき道と、なすべき事をお示しになるでしょう」。
42:4 預言者エレミヤは彼らに言った、「よくわかりました。あなたがたの求めにしたがって、あなたがたの神、主に祈りましょう。主があなたがたに答えられることを、何事も隠さないであなたがたに言いましょう」。
42:5 彼らはエレミヤに言った、「もし、あなたの神、主があなたをつかわしてお告げになるすべての言葉を、われわれが行わないときは、どうか主がわれわれに対してまことの真実な証人となられるように。
42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。

このやり取りだけを聞くと、一見、主の預言者に伺い従順を見せる良き信仰者のように見える。
しかし、主は、この者達が主の御言葉に従うように見せかけて、実は自分のエジプトに行く心の決心を固く握りしめ、手放すつもりがない事をご存知であった。

42:7 十日の後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
42:8 エレミヤはカレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たち、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者までことごとく招いて、
42:9 彼らに言った、「あなたがたがわたしをつかわして、あなたの祈願をその前にのべさせたイスラエルの神、主はこう言われます、
42:10 もしあなたがたがこの地にとどまるならば、わたしはあなたがたを建てて倒すことなく、あなたがたを植えて抜くことはしない。わたしはあなたがたに災を下したことを悔いているからである。
42:11 主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。
42:12 わたしはあなたがたをあわれみ、また彼にあなたがたをあわれませ、あなたがたを自分の地にとどまらせる。

主は既に、バビロン捕囚という災いに遭ったイスラエルを、すでにあわれみ、バビロンを恐れてはならない、主ご自身が共にいて、あなたがたを救い彼の手から助け出す、と言われた。
そして同時に主は彼らの心の中をご存知であり、警告を与えられる。

42:13 しかし、もしあなたがたが、『われわれはこの地にとどまらない』といって、あなたがたの神、主の声にしたがわず、
42:14 また、『いいえ、われわれはあの戦争を見ず、ラッパの声を聞かず、食物も乏しくないエジプトの地へ行って、あそこに住まおう』と言うならば、
42:15 あなたがた、ユダの残っている者たちよ、主の言葉を聞きなさい。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、もしあなたがたがむりにエジプトへ行ってそこに住むならば、
42:16 あなたがたの恐れているつるぎはエジプトの地であなたがたに追いつき、あなたがたの恐れているききんは、すぐあとを追ってエジプトまで行き、その所であなたがたは死ぬ。
42:17 すべてむりにエジプトへ行ってそこに住む者は、つるぎと、ききんと、疫病で死ぬ。わたしが彼らに下そうとしている災をのがれて残る者はそのうちにない。

エレミヤは、彼らがエジプトに行く心づもりである事を聞いていなかったはずなのに、主はエレミヤに教えられ、そうして、明確にエジプトに行ってはならない事を警告された。

43:2 ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみなエレミヤに言った、「あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。

彼らは自分の口で「sh油の御言葉に聞き従います」と言っておりながら、エレミヤを通して心が見透かされてしまうと、とたんに態度を翻し、エレミヤに「偽りを言っている」と言った。
結局、「高慢」が彼らの心を支配していたのだ。

43:5 そしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちは、ユダに残っている者すなわち追いやられた国々からユダの地に住むために帰ってきた者、――
43:6 男、女、子供、王の娘たち、およびすべて侍衛の長ネブザラダンがシャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤに渡しておいた者、ならびに預言者エレミヤとネリヤの子バルクをつれて、
43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。

なんと、エレミヤまでも無理矢理にエジプトへ連れて行かれてしまった。
列王記の記述は、私達に何を語って来たか。それは、主に従おうとしない「高慢」な者には災いが追いつき、主の御言葉を前にへりくだって自分の思い込みを捨て、主に従うなら豊かに祝福される、という事だった。
結局、主に従わずに、バビロンに徹底的に痛めつけられても、なお自分の考えを手放さない者達は、捕囚後も、多くの人々を災いの道へと道連れにしてしまった。


 44:15 その時、自分の妻がほかの神々に香をたいたことを知っている人々、およびその所に立っている女たちの大いなる群衆、ならびにエジプトの地のパテロスに住んでいる民はエレミヤに答えて言った、
 44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
 44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
 44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。

頑なな人とは、結局、自分の望みが叶うのであれば、主であろうと、天后(天の女王)であろうと、かまわないのだ。

この「頑なさ」、それが2列王記を災いで満たしてしまった大元であった。
主の御前に自分を降ろさない事、御言葉に対し、預言者に対し、自分を降ろさず、自分の好むこと、自分の計画、自分の意志を、神よりも優先させ、それによって、災いをもたらし、ついには、国を滅ぼしてしまった。

2列王記25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。

列王記は、主が慰めを与えてくださる所で終わる。
確かに主は、悔い改めて自分を降ろし、主に立ち返る人に、憐れみ深い。
しかし、主に聞き従わない、頑なな、悔い改めない心を持ち続けるなら、そうする限りでは、災いがつきまとう。

この列王記を私達は、単に歴史書としてでなく、私達に実際に関わりのある真理であるとして戒めを受け、主に従う良い王が歩んだように、祝福の道を歩むものでありたい。

はるか昔からされていた警告を破り、はるか昔から定められていた捕囚に遭ったイスラエル(2列王記25:8-21)
Youtube動画
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

25:8 バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、
25:9 主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。

王宮のみならず、主の神殿さえ、異邦人の手に渡され、火で焼かれてしまった。
こうなってしまったのは、主が為されたからである。イスラエルの民が主に対し不遜な態度をとり続け、主を捨てたからであり、それで主がバビロンという器を立てて、エルサレムを徹底的に滅ぼされたのだ。
それは、神殿が建設され完成した当初から、既にソロモンに対して主は語られていた。

1列王記9:1 ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、
9:2 主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れて、
9:3 彼に言われた、
・・・
9:6 しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、
9:7 わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。

神殿が完成したての時、まだ新材の香りで満ちていた時、まさかこの、未だかつて無かった規模の贅沢な神殿が、異邦の民に破壊されるなど、思えなかったかもしれない。
ソロモン以降、代々の王もそう思っていたかもしれないが、しかし主は、このはじめから言われていた事を、ついに実行した。
それは、イスラエルの王が主からの恩を忘れ、主に逆らい続ける事が何代も続き、もはや、癒やしようがないまでになってしまったからだ。
それで主は、徹底的にひどい破壊を、バビロンにさせた。

1列王記9:8 かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。
9:9 その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。

その破壊のされる様が、あまりにひどく、また徹底的なため、人々はそれをみて驚く、と、主はあらかじめソロモンに警告しておられた。
しかし、ソロモンが早速主に逆らい、さらに逆らい続ける事が何代にもつづき、そして最後に、主は、予め警告しておられた事を実行された。

25:10 また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。
25:11 そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。
25:12 ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。

ここまで徹底してエルサレムを破壊し、しかもエルサレムの住人を大量にバビロンという何百キロも離れた地に捕らえ移すなどと、多くの労力と経費を伴う「破壊の事業」は、尋常ではない。
なぜバビロンはそこまでしたか。
それは、イスラエルの王が代々、バビロンに反逆を繰り返してきたからであり(エズラ記4:15)、このイスラエルという国は、徹底的に破壊し尽くさないとだめだ、と判断したからである。

預言者エレミヤは、最初から、バビロンに降るようにと主の言葉を伝えてきた。
それにもかかわらず、王達はそれをさげすみ、偽預言者や占い師の耳障りのよい言葉に従ってバビロンに逆らい続けた。
それで主も、バビロンも、徹底的にエルサレムを破壊し、さらには人々を散り散りばらばらにしてまでして、徹底的に破壊されたのだ。

2歴代誌36:11 ゼデキヤは王となった時二十一歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。
36:12 彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。
36:13 彼はまた、彼に神をさして誓わせたネブカデネザル王にもそむいた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

主のことばを聞かず、バビロンに逆らったゼデキヤは、バビロンに3年包囲され、深刻な食糧難を経て、捕らえられ、目の前で彼の子達が虐殺された後、目がえぐり取られ、足かせをかけられてバビロンに引かれて行った。
主を軽んじ、預言者を軽んじ、身勝手な道に歩もうとしたからである。

25:18 侍衛の長は祭司長セラヤと次席の祭司ゼパニヤと三人の門を守る者を捕え、
25:19 また兵士をつかさどるひとりの役人と、王の前にはべる者のうち、町で見つかった者五人と、その地の民を募った軍勢の長の書記官と、町で見つかったその地の民六十人を町から捕え去った。
25:20 侍衛の長ネブザラダンは彼らを捕えて、リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行ったので、
25:21 バビロンの王はハマテの地のリブラで彼らを撃ち殺した。このようにしてユダはその地から捕え移された。

エルサレムで主だった人達は、このようにして、虐殺された。
それは、彼らもまた主を敬わず、主を敬うべき神殿で主を敬わないばかりか、主の怒りを引き起こす事をし、また、特権的な権力を悪用して弱い人達から絞り取り、人々を苦しめて来たからである。

2歴代誌36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。
36:15 その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、
36:16 彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。
36:17 そこで主はカルデヤびとの王を彼らに攻めこさせられたので、彼はその聖所の家でつるぎをもって若者たちを殺し、若者をも、処女をも、老人をも、しらがの者をもあわれまなかった。主は彼らをことごとく彼の手に渡された。
36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。
36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。

その土地は、彼らがいなくなって、安息を得た、と記されている。
ある人がそこからいなくなって、その場所が安息を得る、という事がある。
それは、その人が邪悪な人である場合だ。

主は、主が御心を示して注目しておられる場を守るために、そのような人が、最後まで改める余地が無いなら、その者を取り除く。
心頑なにして主から取り除かれて、周囲が安息を得るような者ではなく、私たちはむしろ、主の御言葉を守り行う、祝福の子、安息の子として歩むべきだ。

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