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メッセージ - ガラテヤ人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:イエスの焼き印を帯びて(ガラテヤ6:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

21回に渡って続いたガラテヤ書の講解説教も、いよいよ今回で終わりである。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(6:17)
焼印は、奴隷や将校などに捺され、その人が何に属するか示す事のしるしとなるが、パウロの体には、至る所にキリストの名の故に受けてきた数々の迫害による傷跡があった。
彼は、ガラテヤ人への手紙を、自らの手で大きな字で書いたが、それは恐らく、彼のその目、あるいは利き腕に、迫害の傷跡や疾患があったからかもしれない。

それにひきかえ、ガラテヤ人に割礼を強要して躓きへと導いた者達は、どうだったか。
彼らが自らに割礼を施したり、人に強要したのは、人の目に良くみられたいためであり、また、人々から迫害を受けたくないためであった。(6:12)

私達も、このような者達と同じ過ちに陥っていないだろうか。
近隣や家族との摩擦を恐れて、異教的な儀式を共に行ったり、福音はそのままでは一般人に受け入れ難いとして身勝手に御言葉をねじまげたり、御言葉を正しく伝えている人を、そんな事では受け入れられないと揶揄する事で自己推薦したり。
パウロは、片時もそのような者たちに屈服して譲歩する事はしなかったため(2:5)、キリストにあっていつも自由だった。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(6:14)

世と私達との間には、十字架が隔てとなって立っており、世に対して私達は死んでおり、また、私たちも世に対して死んでいる。
十字架を隔ててキリストの側にいる私達に対して、世のものは、私達のいのち(霊:pneuma)に害を及ぼす事はできず、私達がこの立ち位置にいる限り、世にあっても、置かれている状況に決して左右されない平安によって守られている。(ヨハネ14:27)

私たちが誇りとするべきは、肉に由来する何かではなく、この十字架のみである。
この十字架によって肉に対して死んでいるため、割礼には何の意味も無い。
しかし、ガラテヤ人達を躓かせている人達は、肉にあって誇りたいがために割礼を強要し、キリストの十字架を空文にしてしまい、あたかも肉に属し律法の奴隷であるかのように人々を躓かせているから、パウロは厳しい文面で彼らを責めて来たのだ。

キリストの十字架にあって死に、新しい創造とされた者は、霊の原理に従って生きていく者であり、さらには「神のイスラエル」とされた者達である。(6:15-16)
キリストにある私達のアイデンティティは、黙示録21章に登場する、神の元から下って来た新しい聖なる都、まことの夫・キリストのために着飾った花嫁である。

パウロはその身にイエスの焼印を帯びていたが、主イエス様ご自身も、私達のために傷を負い、その手の平に私達を刻んで下さった。(イザヤ49:16)
それ故、私達も雅歌に登場するおとめのように、主に申し上げる事ができる。
「りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」(雅歌8:4-5)

私達も、主のために、霊的な子達を産んで増えていくために、産みの苦しみをするべきである。
そして主に申し上げるのだ。
「わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」と。

皆さんも、イエスの焼印を帯びているだろうか?
イエスの懐深くにかくまわれ、イエスのしるしを帯び、イエスとの夫婦関係にあって、イエスのいのちを生んで増えて地に満たして行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:分かち合い=交わり=相互援助(ガラテヤ6:6-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」(ガラテヤ6:6)
この「分かち合い」(コイノネオー)とは、交わりを意味し、また、物質的・経済的な相互援助を意味する。

キリストにある共同体の最たる特徴は、「分かち合う事」である。
使徒行伝2:42-47には、初代教会の有様が書かれてあるが、この短い節の中だけでも「共有」「ひとつに」「いっしょに」「共に」という「分かち合い」に関連する言葉が、いくつも出てくる。

全ての良きものは、神から出ており、与えられる祝福は当然、神に由来している。
それらは神の国のために捧げ、主にある兄弟姉妹と分かち合うために、与えられるのであって、自分という囲いの中のみに用いるものではない。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:7-8)
神を抜きにして、自分だけが栄えたり気持ちよくなろうとする全てのわざ(肉のわざ)の行き着く先は、滅びである。
しかし、御霊にあって神のために働く人は、神に喜ばれる実を豊かに結び、永遠に残る実を刈り取ることになる。

結局、自分のいのちを救おうとする者は、それを失い、キリストのために福音のためにいのちを捨てる者は、いのちを救うのである。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(2コリント9:6-12)

与えられている賜物を、与えられているあらゆる良き物を、神のために、聖徒達のために用い、分かち合い、さらに与えられ、祝福されていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:重荷を負いあって(ガラテヤ6:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有

もし私たちが、兄弟姉妹の誰かに対する憎しみや苦々しい思いによって、しつこく付きまとわれているとしたら、御霊によって歩んでいない。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(1節)
もし誰かが過ちに陥っているなら、御霊にあって歩んでいる者らしく、その人の過ちを凝視するのではなく、かえって罪に陥っているその人の弱さを覚え、柔和の霊でその人を正してあげるべきである。
私達は、その兄弟姉妹が遭ったような試練に、たまたま遭わずに守られていたかもしれないし、あるいは以前、同じような過ちに陥っていたかもしれないし、また、いつ陥るとも分からないからである。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)
この2節の「重荷」(baie)は、本来進むべき歩みを邪魔させるような重荷を意味し、5節の重荷(phortion)は手荷物、船荷など、本来的に負うべき荷物を意味する。
もし兄弟姉妹の人生の歩みに、重荷となっているものを見出すなら、兄弟愛をもって互いにそれを担い合い、助け合うべきである。
キリストの律法とは「互いに愛し合いなさい」という、新しくも古からある戒めであり(ヨハネ13:34)、隣人を愛するという一言によって律法はまとめられるからである。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(3-4節)

私たちが自分の行いを思い返す時、人には言えないような恥ずかしい失敗などのひとつやふたつは、必ずあるはずであり、決して自分は誇れるものはない事が分かる。
今、私達が立っていられるとしたら、それはただ恵みによるものであり、私たちが主から召されたのも、私達が格別良いからでも何か優れている所があるからでもなく、主からの一方的な憐れみによるものであって、主から与えられていないものは、何一つ無い。
それ故、「めいめいが、自分の重荷(phortion)を担うべき」である。(6節)

兄弟姉妹を裁く事無く、互いに重荷を負いあい、主の命じられた「互いに愛し合う戒め」を守り行いつつ、愛という御霊の実を豊かに結ぶ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:肉の実と御霊の実(ガラテヤ5:19-26):右クリックで保存
韓国語通訳有

御霊によって歩む者と、肉によって歩む者の、具体的な結ぶ実が、今日の19節から23節に、詳細にリストアップされている。
例えば、ある働き人が来た時、もしその人が来た事によって、敵意や争い、分裂や分派など、19-21節の実が増え広がったら、その人がいかに有名であろうと、肉の人であり、肉の頑張りによって行動していると分かる。
しかし、もしその人が来た事によって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22-23節)などが増え広がったら、その人は、御霊によって働く人だと分かる。

では、どのよにしたら、御霊の人となれるのか。
それは「御霊によって歩む」(16節)事によってであるが、それには都度、御霊に委ねるか、それとも肉に委ねるかを、自らの意志によて選択する必要がある。

例えば、皆さんが実印を持っているとして、それを善い人に渡すか、それとも悪い人に渡すかによって、結ぶ実が違って来るようなものである。
もし実印を善い人に渡せば、その人は知らない内に良いビジネスをして資産を増やし、いつのまにか皆さんの評判も良くなっていく。
しかし、もし悪い人に渡すなら、知らない内に借金だらけになっていて、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっている。
同様に、皆さんの意志という実印を御霊に渡し続けているなら、内におられる御霊は、知らない内に皆さんを造り変え、どんどん良くなって行く。
しかし、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも皆さんを滅びへと導き、どんどん悪くなって行く。

真理の上では、キリストにある者の「罪の肢体」は、無力となっている。(ローマ6:6)
しかし、私達の内にありありと罪が生きているかのように感じるのは、以前の罪の記憶が条件反射的に残っているからである。
例えば、皆さんが梅干を思い出す時、そこに梅干が無いのに、あたかも塩吹いた梅干があるかのように唾が出る。
同じように、罪の肢体はキリストにあって既に無力となっているのに、以前の肉にある罪の経験や記憶が鮮明に残っているから、そのように感じてしまうのである。

それはどう対処すれば良いか。それには、ローマ6章11節の、仕分けをする事である。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考え(原意:仕分け)なさい。」
「仕分け」は会計用語で、客観的事実を、単にそのまま適用する事である。
だから私達は、罪に対しては死んだ事、神に対してはキリストイエスにあって生きた者である、と、しっかり仕分けし続ける必要がある。

キリストにあって生きた者であるといつも仕分けし、いつも御霊に実印を渡し、御霊にあって歩み続け、御霊の良き実を豊かに結び続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:善い方にあって自由とされた(ガラテヤ5:13-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロは、キリストと出会う以前は律法に縛られ、異邦人と食卓を共に出来なかったが、キリストにあって開放されてからは出来るようになり、ある種の食物を食べられなかったのが、食べられるようになった。
しかし、その与えられた自由を、単に自分だけの楽しみのために用いるのではなく、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになり、それによって、一人でも多くの人達をキリストへと導き、いのちを獲得しようとした。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)
私達はキリストにあって、自由が与えられたが、それは、何でも好き放題にできる自由ではなく「好き放題にしたら滅びに至ってしまう肉の性質」からの自由であり、御霊にある自由である。

一人の男がイエスに近寄って「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と訪ねた時、イエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われた。(マタイ19章)
彼は、律法を幼い頃から守ってきた、と思い込んでいた。
しかしイエス様から示された「隣人を愛する」事のレベルは、財産を全て投げ出すまでの程度である事を示された時、悲しみながら去って行った。

主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたが、金持ちであったザアカイはどうだったか。
彼は、善いお方イエス様を受け入れた結果、別に頑張りもせず、むしろ喜んで、貧しい人に財産を投げ打った。
貪欲で頑強な、らくだのようなザアカイであっても、イエス様にあって楽々と「針の穴」を、通れたのである。
神に不可能は無いのだ。

律法を守り通すような力も愛も無く、善い事など元々出来ないのが、人間の実情である。
大切なのは「善いこと」ではなく「善い方」であり、このお方は、何も善いものが無い人間を、善いものへと造り変えてくださるお方である。
かの青年には、律法には従えない、善い事が出来ない、という「不自由さ」があった。
しかし人は、御霊によってそうした「不自由さ」から、自由とされるのだ。

唯一の善いお方であるイエス様によって造り変えられ、御霊によって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:躓きを与える者の災い(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存

救いに至る道を妨げる者、人を福音から遠ざける者は、どれほど災いであるか。

小さな者の一人でも躓かせるなら、むしろ石に結わえられて海に沈められたほうが、その者にとって良い、と主は言っているし、パウロも「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」(ガラテヤ5:12)とまで言っている。
割礼とは、包皮の一部を切り取る儀式だが、それをガラテヤ人に勧め、せっかく受けた救いをかき乱し、躓きへと陥れるような者は、いっそ、不具者になってしまえ、と言う程の強さで、パウロはそのような者を忌み嫌っているのだ。

「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(1コリント5:6-8)

悪意と邪悪を振りまくパン種のような者から、私たちは一切影響を受けない、だからそのような者も同じ集いに留めても問題は無い、と思っていたら、それは傲慢である。
キリストがわたしたちの過越の小羊として十字架上で屠られたからこそ、私たちはパン種の入っていない者とされたのである。
そこに、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を混ぜて、聖なる集い全体を汚してはならない。

過越祭は旧約の祭儀だが、この屠られた子羊とは、十字架につけられたキリストを表している。
その流された血潮によって、私達の内にあった罪や穢れというパン種は、一切消毒されたため、もはや律法を行う必要はなくなった。
そのキリストが命がけで提供して下さった完全な救いを、あたかも不完全であるかのように見做し、人間が律法の頑張りなどによって、キリストの達成できなかった分を補完しようなどと思い込むのは、傲慢の極みである。

キリストの十字架の贖いは完全であり、流された尊い血潮の効力は完璧である。
それに、人が何か付け加えたりしては、決してならない。

十字架の贖いに何も付け加える事無く、迷い出る事無く、尊い救いに留まり続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:だまされて束縛されない方法(ガラテヤ5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(1節)
もし、主イエスを信じる前より、信じた後の方が束縛されている感じが大きいなら、それはガラテヤ人のように罠に陥り、間違った歩み方をしている。
なぜなら、真理は人を自由にするものであるからだ。(ヨハネ8:32)
私達が真理の自由の中を歩み続けるには、無防備のままでいてはならず、堅く立つ必要がある。(2節)
なぜなら敵はいつでも、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来るからである。(ガラテヤ2:4)

私達の戦いは肉弾戦ではなく、思いの中に汚れを吹き込む暗闇の支配者や、天にいる諸霊に対してであり、その戦いの武具は、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして、御言葉の剣である。(エペソ6:11-17)
しっかり立つ事をせず、まんまと敵に偽りを吹き込まれてしまったガラテヤ人は、自由が揺るがされてしまい奴隷のくびきへと繋がれてしまった。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(2-3節)

この御言葉から、簡単な国語問題を出題する。
キリストが、あなたにとって何の役にも立たない存在とならせるには、どうしたら良いだろうか。
答えは「割礼を受ける」である。
割礼などの行いで義と認められようとするなら、律法全体を守り行うという義務もついて来てしまうため、割礼に限らずどんな律法の行いによっても、義とされる事を目指すなら、キリストから離れて恵みから落ちてしまったのである。(4節)

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(6節)

たとい、山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がないなら、天においては何の値打ちも無い。(1コリ13:2)
行いの伴わない信仰は死んだも同然であり、愛の無い信仰も値打ちが無い。
愛と信仰が撚り糸のように紡ぎ合わされて、それに伴う行動が発せられこそ、信仰生活は意味を成すのである。

実体のある生きた信仰生活をしていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:奴隷と自由人の分岐点(ガラテヤ4:21-31):右クリックで保存
韓国語通訳有

律法の下にいる事は、徹底的な奴隷状態である事を、パウロはアブラハムの二人の子の母、すなわち奴隷女ハガルと、正妻であり自由の女であるサラを用いて語っている。
女奴隷ハガル(名の意:離脱、移住)の子は、肉の力によって生まれ、奴隷であり、相続を受ける事は出来ず、やがて離脱し移住して行く。
それに対しサラ(名の意:王女)の子は、肉の力には一切拠らず、約束によって生まれ、自由であり、アブラハムのあらゆるものの相続者である。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(25-26節)
この手紙が書かれた時代のすぐ後、エルサレムは滅ぼされてしまったように、肉の力による者は、やがて滅ぶ。
しかし、約束を信じる信仰によって行きる者達に用意されているのは、天のエルサレムであり、それは永遠に存続する。

約束の子イサクの系統の人たちは、肉の力によって頼らず、主から着せられるいのちの力によって生きる。
事実、アブラハムとサラはそれぞれ100歳と90歳、肉の力が尽き果てた時に、あらかじめ約束されていた子が与えられた。
また、アブラハムの(単数形の)子孫であるイエス様も、十字架の上で一切の自分の力を捨て、三日目に全能者によって着せられたいのちによって高く上げられ、永遠に続く王座が与えられた。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」(4:29)

約束の子達は、肉による子達によって迫害を受けるが、信仰を捨てずに主を信頼し続けるなら、肉に拠らない、全く新しいいのちが与えられ、人の力では到底不可能な圧倒的な救いが与えられる。
そして、神の約束から離れて、肉の力に頼り、自分の好き勝手に行きたい者は、決して祝福を受け継ぐ事は出来ず、追い出され離脱して行くのだ。
『聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。』(30節)

肉によって歩むのではなく、信仰によって、御霊によって歩み、自由の子として、相続者として、天のエルサレムに属する者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストが形造られるまで(ガラテヤ4:12-20):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロがそれまで、ガラテヤ人に語気荒く戒めるような内容を書いてきた理由は、彼らを情熱をもって愛し、良くなって欲しいと本気で思っているからであったが、本日の箇所では幾分、嘆願するような語調へと変化している。
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。」(12節)

パウロが堂々と「わたしのようになってください」と勧める事が出来たのは、彼は元々誇り高き律法を持つユダヤ人であったにもかかわらず、キリストにあって自由な者として模範を示し、少しでもガラテヤ人を救おうとして、ガラテヤ人のようになったからである。

彼がガラテヤに福音を伝えた理由は、パウロが弱かったからと13節に書いている。
恐らく彼は元々、ガラテヤに留まるつもりはなかったのに、たまたま何らかの疾患に罹ってしまって留まる事となり、その病状ある体のまま、そこで福音を伝えた所、いのちの広がりを見せたようである。
主は実に、人の理解を超えた導きをなさる。
パウロの病気は具体的に何であったかは分からないが、14節によると、それは人が見たら試練となるような、また軽蔑の対象となってもおかしくないような症状であったようだ。
にもかかわらず、ガラテヤ人はかえってパウロを御使いのように、キリスト・イエスご自身であるかのように迎えてくれた。

ガラテヤ人に当初あったその愛情は、人間的な博愛や道徳によるのではなく、彼らの内に形造られたキリストの故であり、彼らの中に形作られたキリストご自身 にあって、そのような状況のパウロを喜んで迎え入れ、御使いやキリストそのもののように扱い、目をえぐり出して与えたいとさえ思ったのである。

しかし彼らは、そのはじめの愛、はじめの喜びから離れてしまった。
何によってか。それは「熱心な人々」によって惑わされたからである。
その者達が熱心だった理由は、ガラテヤの人達を自分に対して熱心にしたかったからであって、ガラテヤの人たちをキリストに対して熱心にさせたいからでは決してなかった。(17節)
ガラテヤの人達を自分たちに熱心にさせ、上に立って支配するようになり、そうして、ガラテヤの人たちをキリストにある恵みから締め出してしまったのだ。

かつては、目をえぐり出して与えたい程までパウロを愛してくれたガラテヤ人が、かの者達に惑わされ、そこをパウロが真理を語ったがために、パウロの敵になってしまうとしたら、どれほどパウロにとって辛い事だっただろうか。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)
パウロが心血注いで苦心したのは、ガラテヤの人達の内にキリストを形作る事だった。
私達が歩むべきは、立派な行いの追求ではなく、人道的・博愛的な人間になろうと頑張る事ではなく、キリストが形作られ、そのキリストによって歩む事である。
ますますキリストがはっきりと形造られ、キリストの身丈にまで成長していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:花婿ならぬ花婿の影を慕う花嫁(ガラテヤ4:8-11):右クリックで保存
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ガラテヤ人達は救われる以前、神ではない偶像の神々の奴隷で、その点は日本人と良く似ている。
仏式の葬式を経験された方はご存知の通り、諸々の法要や○周忌など、多くの気遣いやお金、労力がかかり、そうした事が発端となって、兄弟や親類とトラブルが発生し、関係が悪化する事も良くある。
神ではない人間や企業、あるいは誰かの作った搾取システムなどを「神」の座に据え、その仕組みに乗っかってしまうと、束縛の中を生きざるを得ないのだ。

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)
偶像の神々は明らかに無力で頼りにならないが、それまで一度も守っても見なかったくせに、律法の教えを有り難がって新たに守ろうとする事もまた、無力、無価値な支配する諸霊の下に逆戻りする事なのである。

「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。」(ヘブル10:1-5)
パウロにとって、彼がキリストへと導いた人々は皆、キリストへと嫁がせた花嫁である(2コリ11:2)はずなのに、その花嫁たちが、嫁いだ先の本体・キリストを離れて、キリストの影である律法に仕えるようになってしまった事を、彼は嘆いている。
例えば、女性が男性その人を愛するのではなく、男性の「影」を恋い慕うような、あるいは、3次元世界でいのちを持って生きている人間よりも、2次元世界のみに存在する命の無いアニメキャラなどを愛するような事をしているのだ。
キリストという実体ではなく、キリストの影である律法を求める行為は、そのようなものである。

『キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。』(5節)
ここでは、私達のために備えられたのは「体」と書いてあるが、この引用元である詩篇40編は「体」ではなく「耳」であると書いてある。

神様が私達に備える「体」に匹敵する重要な器官は、耳である。
人はうわべを見るもので、目に頼ると惑わされやすく、例えば律法の行いや、目に見える儀式などを見ると、それを自分も行いたくなる。
しかし、目を使うのではなく、耳を使って御言葉が何を言っているか聞いて従えば、大体間違える事はない。

「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。」(1サムエル15:22-23)

見えるものに拠らず、信仰によって歩み、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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