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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

ゲツセマネは油絞りという意味があり、イエスは文字通り圧搾され、涙と血の滴りのような汗を絞られた。

彼は十字架と死を恐れて祈っていたのではなく、死ぬほど悲しみながら(マルコ14:34)である。
彼は世は始まる以前から御父と片時も離れる事無く、愛の内に親しく交わっておられたが、その御父から、十字架上で完全に見捨てられるのである。(マルコ15:34)
だから死ぬほど「悲しく」、3回も祈ったのだ。
死ぬほどの苦しみの時、最も近くに居て欲しい時に、完全に断絶されるのだ。私達にそのような絶望的な痛みと断絶が提示されるとしたら、耐えられるであろうか。
本来、私達が罪を犯したため、その罰を受け、断絶され、十字架で磔にされるべきなのであるが、しかし、彼が私達の身代わりとなって下さった。

神様は全能だから、イエス様にこんな苦しい悲しい目に遭わせず人類を救う事ができたであろう。
人は思う。なぜラクな方法を取らず、こんなに回りくどく、究極的に割りに合わない方法を取られたのだろうか。
そのような痛みと苦しみを通して、それほど人を愛しておられる事を、私達に示すためである。

しかし人は御心を知らず、弟子達は3回も眠ってしまった。
イエス様は神様なのに、なぜ女々しく命乞いをしたのだろうか、という議論があるが、もし、肉親が自分を助けるために、命がけで身を挺して傷を負ったとしたら、私達は「親なのだから助けて当然」と思って良いだろうか?
命がけで守ってくれた親に対して「大人だから傷の痛みに涙を流すのはおかしいのではないか?」などと、第3者のように思うだろうか?
神なのだから命がけで痛みを負うのはおかしい、あるいは、神は痛まないし悲しまない、と、人は思う程、神について知らないのだ。
神も痛むし、悲しむ。
女は苦しんで子を産んで、その子を見て満足するように、イエス様は、自分の苦しみの跡を見て満足する。(イザヤ53:11)
母親が子を見るように「私の痛みを通じて産まれてきた愛する子、私の血といのちを分けた、尊い私の子」、そのように、私達を見て満足されるのである。

イエスの愛の広さ、高さ、深さをさらに知る皆さんでありますように、イエス様の名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:裏切る者を取り成す大祭司(マルコ14:26-31):韓国語通訳あり

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主は皆が彼を見捨てて出て行く事を予告した。
ペテロはひどく力んで「たとえご一緒に死ななければならないとしてもあなたを見捨てたりはしません」と言ったし他の弟子達も、少なくともその時はそのつもりであっただろうが、彼らはその日の内にイエス様を見捨ててしまった。
この時、サタンが弟子達をふるいにかけ、神の前に聞き届けられた。(ルカ22:31)
人が力を込めて言う言葉は人の弱さの前には役に立たず、死の覚悟もサタンの前には無力である。
ここで分かる事は、サタンは全能者の許しを得なければ何も成しえず、たといそうであっても、イエス様は私達のために信仰が失せないよう取り成して下さる。
また、私達の見えない世界・天においてはこのような駆け引きが行われており、人はそれに支配され逆らう事はできないが、しかし、大祭司なるイエス様が天において取り成しておられる、という事が分かる。
サタンは私達のふがいなさを攻め立てるが、大祭司なる主は取り成し、汚れた服を脱がせ、きよいターバンを被せてくださる。(ゼカリヤ3章)
私達が信仰において立っているのは、私達の力でも、まして意地でもなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方のお陰である。
主は、私達の弱さを共に苦しむ事ができないお方ではない。(ヘブル4:14-16、岩波訳)
私達は弱いので苦しむが、大祭司なる主はその時、私達と一緒に苦しんで下さるのだ。
嘆くが、共に嘆いて下さるのだ。
だから、彼は私達の全てを委ね切るる事ができる大祭司なのであり、私達は大胆に恵みの座へと進み出て、時に適った恵みをいただく事ができるのである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

 

礼拝音声:預言者と家族を養うには(1列王記17:8-16)
週報/メッセージ(説教)概要

世の中は不況の嵐が吹き荒れており、経済的・社会的状況はますます厳しくなるであろう。
天においても地においても人の間においても、終末のしるしが現れ、明らかに艱難の時代に突入している。
にもかかわらず、私達は行き詰まる事無く守られており、とうの昔に倒れてもおかしくない者が不思議な導きによって守られ、ある者は事業が祝福され、当教会の活動も昨年に比べ遥かに活発に祝福されている。
鄭先生が滞在最後の早天礼拝で、不況の時代に打ち勝つ信仰と題して、エリヤとやもめの話をされたが、この1年、私達はエリヤとやもめのように、粉も油も尽きず、養われてきた。
2010年締めくくりの主日として、この個所からメッセージしたい。

困難な時代になったのは、国の指導者たちの誤った舵取りのせいだと100%言い切れるものではなく、一人一人の選択と行動の集大成であり、それぞれの罪の結果である。
政治が悪くなるのは、選挙権を軽んじて政治に参加しない者達によるのであり、日本人の全体的な品性が欠落して来たのも「これだから日本人は」と日本人自身を貶めている者達の意識の集大成による。
エリヤの時代のイスラエルも同じ状況で、アハブ王はシドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、異教の神バアルに仕えた事によって、イスラエルの進むべき道から外れ、誤った判断と行動をし、そのため「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう。」という御言葉が成った。

王の過ちによって、イスラエルだけではなく周辺の国シドンまでも雨が降らず旱魃となり、アハブ王一人のためにあおりを食らっているかのように見えるが、必ずしも彼一人のせいとは言い切れない。
イスラエルの民はどっちつかずによろめいており、エリヤにどちらの神につくかはっきりするように言われても何も答えられない状況だった(1列王記18:21)。
また、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされず、イゼベルを生み出したシドンの国サレプタのやもめの元にだけ遣わされた(ルカ4:25)。
それは、実に、イスラエルの中には預言者を敬う者もその素養がある者も、一人もいなかったからである。
サレプタのやもめはエリヤに声をかけられた時「あなたの神、主は生きておられます。」と言ったのは、イスラエルの神を認め、敬い、預言者を敬う素養があったからであり、その素養に神が目を留めたのである。

神は「一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言ったが、果たして彼女はそのような自覚はあっただろうか? 彼女がエリヤに神が言われた通りの事を成したのは、主から与えられた信仰によるのであり、神は私達の内に働いて御心のままに望ませ、行わせておられる。(ピリピ2:13)

最後の食料を「まず私に与えなさい」と言うのは、非常識で過酷な要求であるが、御言葉という根拠がある。
「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」(17:14)という御言葉に彼女は信仰によって応じたため、彼女だけでなく、預言者も、家族の者も、それによって養われた。
非常識で過酷な要求をする預言者には要注意だが、非常識で過酷な御言葉に従うのは大いにトクである。

働き人は、赤貧の者よりも金持ちに、人数の少ない所よりも多い所に、カッコ悪い所よりもカッコイイ所に遣わされたいと思うかもしれないが、主の選びは、主を知らない物持ちでは決して無く、信仰を持つ者である。
例え、持ち物が一握りの粉とわずかな油であっても、自分自身と預言者、家族を養うことができるのである。
この一年、この教会が守られたのは、一人一人が御言葉を聞いて、信じてその通り行ったからであり、預言者など誰か一人特別な者のおかげではない。
家族や預言者を長きに渡って養うコツは、信じて行う事であり、召し出された者達一人一人がその召しに応じて働く事である。
自身と働き人を末永く養う、油も粉も尽きない皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(マルコ14:22-26):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主はまずパンを祝福して弟子達に渡され、弟子達はパンを裂いては回した。
パンは裂かれるイエス様の体の記念であり、パンを裂く度に、裂かれるイエス様の体を覚えるものである。(1コリ11:23,24)
杯はイエス様の流される血であり、新しい契約のしるしである。
過ぎ越しの羊の血はそれを囲む人達のために身代わりとなって流されるが、イエスの流される血は、多くの人の罪の為に流される血である。
新しい契約とは、エレミヤ31:31-34に記されており、石の板にではなく胸の中に刻まれる掟であり、その掟と人とはひとつとなる。
文字によって知識を悟るものではなく、主の霊が息吹かれて霊によって悟るものであるため、互いに「主を知れ」と言って教えあう必要は無い。
イエスは律法を破棄するために来られたのではなく律法を成就するために来られた。
人間には守ることの出来なかった古い契約を、イエスキリストを信じる私達の内に、成就して下さった彼が生きて下さる事によって、私達も律法を成就する者とされるのである。

イエスの裂かれた肉、流された血を覚える事は、イエスのうめきや痛みを思い起こす事である。
ただ「救われてよかったね」「ラッキーだね」と言った喜びだけで終わるのでは、片手落ちであり、喜びだけではなく苦しみも共にする事によって、さらに主と深いつながりを得ることができる。
救いは痛みも伴うものであり、私達も時には痛みを伴いつつ、主を告げ知らせる者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:裏切る自由(マルコ14:17-21):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主が弟子の一人の裏切りを予告した時、弟子達はそれぞれ「まさかこの私では」と言って確認した。
ユダ以外はその時まで裏切りなど心にも無かったはずであったが、自分の弱さも知っていたので、確認したと思われる。
ユダが「この私では」と問うた時、主は「それはあなたの言った事だ」(新共同訳、岩波訳 マタイ26:25)と言って直接回答を避け、ユダ自身に判断を委ねた。

ヨハネ13章においては更に詳しくやり取りが書かれている。
主は最後の晩餐の食事の時、ご自分を引き渡そうとする者がいる叫ばずにはおれないほど霊の激情にとらわれた。
主はパン切れを浸して与える者がそれだ、と言われたが、パン切れを浸すというのは、特別な好意の表現であり(ルツ2:14)、イエスは実際パン切れをユダに渡すのだが、弟子達はまさかユダが裏切ろうとしているとは気付かいほど、主のその好意を示す振る舞いは愛情深く、自然であった。
主の示しによって、主に立ち返るか、そのままサタンに行くかの選択を示したが、ユダはサタンが入る事を許してしまった。

主は人の自由を尊重され、どれほど尊重されるかというと、サタンが入ってしまったユダのしようとしている事を、するようにと促すほどである。
神は人に善悪知識の木といのちの木を選ばせ、いのちを取って欲しかった。
祝福とのろいを選ばせ、祝福を取って欲しかった。
しかし人は善悪知識を選び、のろいを選び、ユダはサタンを選んでしまった結果、主を十字架につける事になってしまった。
主としては立ち返って欲しい、その機会を何度も示したのに立ち返らず裏切ってしまったユダに、主はどれほど悲しまれた事だろう。

全宇宙を管理している全能の神が、あえて手をつけない領域は人間の自由意思であり、それは裏切られ裂かれ刺し貫かれるリスクさえ負うものであった。
それほどまでにして与えられている自由を、肉の働く機会として用いず、主の喜ばれることを選ぶ私達でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:闇を照らす光であるイエス(ヨハネ1:9-14,イザヤ9:1-8)국어예배 (右クリックで保存)

イエスは世を照らす真理の光である。
太陽は人間だけでなく全ての生物に必要不可欠なものであるが、まことの太陽であるイエス様はどんなにか人に良きものを提供しているだろうか。
世はこのお方によって創造されたのに、人はこのお方を受け入れなかった。
この世界を少しでもじっくり観察する時、あるいは真剣に生きようと思う時、神を意識し、神に思いを馳せずにはおれない。
自分が神でいたい者はキリストを否定するが、このお方を信じた者には、全く新しい神の子としてのいのちが生まれ、その特権が与えられる。
この世が苦しみに満ちているのは、神を認めない者達によって支配されているからである。

イザヤ9章において、暗闇、苦しみ、はずかしめの内に歩んでいる者達に、イエス様の大いなる光が来る事が預言されている。
ゼブルンとナフタリの地とはイエス様が御言葉を語り始めた地域だが、私達という領域の中にイエス様が御言葉を語り始めると、暗く闇に沈んでいた私達の中に暖かい光が灯るのである。
イエス様はある時ベツレヘムという場所に、みどりごとしてこの地上に来られたが、私達が御言葉を受け入れその名を信じる時、いつであってもどこであっても、私達の内にイエス様が誕生するのである。
このお方は、不思議な助言者(ワンダフルカウンセラー)、力ある神(全能の神)、永遠の乳(いつまでも生きておられ私達を養い育て守る真の父親)、平和の君(争いや恐怖ではなく平和をもたらす)と呼ばれる。
イエス様はいずれ永遠の王座に着かれるが、今、まさに私達の内に生きておられ、支配し、私達を通して神の聖なるご性質を表されるのである。
それは私達の力ではなく、万軍の主の熱心が成し遂げる。

主の熱心な統治が為され、神様のご性質を豊かに表す皆さんでありますように!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:過越しの子羊(マルコ14:12-17)국어예배 (右クリックで保存)

過越し祭の子羊を屠る日にイエスは十字架につけられた。
過越し祭はユダヤの中では最も重要な祭りで、その起源は神がユダヤ民族発端の初期、奴隷の国エジプトから脱出させたその大いなる日を記念するために定められた。(出12章)
この祭りにはさらに大きな意味があり、屠られる傷無き子羊はイエスキリストを予め表している。
屠った時に流された血は家の柱に塗られ、滅ぼす者が過ぎこす印となる。
印の外では災いの叫びが起こっている中、屠った肉を家の者達は子羊を食べながら自分達が救われている事をかみ締めた。
イエス様はまことの子羊として来られ、イエスの血は救いの印となり、救われている事を噛み締めつつその肉に与るのである。
またその日は、エジプトから大いなる脱出の日でもあり、キリストが身代わりとなって死なれた私達にとっても罪や死の奴隷からの開放、神の裁きからの開放を意味する。
イスラエル民族は何百年もの間、キリストを表現してきたわけである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:聖徒の中に潜むイスカリオテ・ユダ(ヨハネ12:1-8)국어예배 (右クリックで保存)

前回は私達の心のユダについてであったが、今回は、聖徒達の内にいるユダについて。
ユダがイエス様のそばにいつもいたが、私達は聖徒達の中に巧妙に入り込むユダに気をつけるべきである。
ベタニヤの交わりにおいて、マルタは健全に奉仕をし、ラザロは喜びの内に主と食事し、マリアは持てる中で最上の油をイエスに一滴残らず捧げ尽した。
イスカリオテ・ユダは、香ばしい香り漂う麗しい調和を破ってしゃしゃり出た。

彼の特徴は、他の聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする。
そのような者は要注意である。

マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟ったので彼女自身にできる事をしただけであるのに、ユダは「私だったら300デナリをこうする」と言ったり、自分の定める形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。

彼は尤もらしい事を口出しするが、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を横取りしたいのであり、捧げられた300デナリを見て歯軋りしケチをつける。
また、麗しい調和をぶち壊して人々の目を自分の方に向けさせ「ワタシは貧しい人に心をかけているのだ」とアピールし、栄光も横取りしたかったりするのである。

御霊の実には分裂も妬みも嫉妬も無い。結ぶ実によってユダを見分ける事ができる。
彼らはイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍しているワタシが好きなのであり、主であるべきイエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえするのである。

イエス様は、ユダの下心も浅ましい動機も当然知っていた。しかしその事は一切触れず、その平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭しただけ。
それが、私達が習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)私達もいつまでも地上で平和に生きていて自由に礼拝できるという保障は無い。今しか出来ない礼拝は先延ばしするのではなく、今、為すべきである。

イエス様は、聖徒の持ち物を食い物にしたり、貧しい人々を道具にするようなユダにさえ愛と憐れみを示し、彼が武装した兵士達をイエス様の所に導いた時さえ、イエス様は「友よ」と語りかけて、悔い改めを促した。
「もう死ぬ他に無い」と後悔して絶望する前に、イエス様に立ち返って悔い改めるべきである。

ベタニヤの兄弟達のように与えられている賜物を生かして、今しかできない礼拝を捧げる皆さんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:イスカリオテのユダ(マルコ14:10,11)국어예배 (右クリックで保存)

イスカリオテのユダはイエス様を裏切った。
お金が欲しかったというよりイエス様が自分の思い通りに動かなかったから見限った、と思われる。
ベタニヤのマリヤがイエス様にナルド油を注いだ時、ユダは真っ先に口出しし、その香油を300デナリで売って貧しい人に施さなかった事を咎めた。
彼は一行の金入れを管理する役割を任されており、香油が300デナリであった事を一瞬で見積もり、「なぜ貧しい人に施さなかった」と、いかにも正当に見える咎めの理由をサッと考えついた事を見るに、相当頭の回転が速く、デキる人であった事が分かる。
しかし頭の回転が速くデキる人は、うまく立ち回って自分の望むままにやりくりできる事が、仇となって、イエス様の助けを必要としなかったり、救いの邪魔になったりしやすい。
マタイの平行箇所を見ると、ユダはイエスを「引き渡せば、幾らくれますか」と自分から申し出ているため、ある程度お金に対する弱さがあったであろう。
イエス様は銀貨30枚で見積もられた。
その値段がユダヤの指導者がメシヤに対して見積もった値段であり、ユダが売ることに同意した値段である。
私達も日々、ユダのように、欲望や一時の感情という「これこれの値段」と引き換えにイエス様を見積もって売ってしまったり、裏切ったりする事がある。
イエス様は立ち返ればいつでも赦して下さる。
ユダは最後の最後までイエス様に「友よ」と声をかけられ悔い改めのチャンスがあったにもかかわらず、自分の頑ななプライドや絶望からのあきらめによって自ら命を絶ってしまった。
私達人間は弱いため、100%主を裏切らないでいれるものではない。
しかし私達には、いつでも主から悔い改めの機会が与えられ、いつでも手が差し伸べられている。
例え誘惑に負けたり、実際に裏切ってしまって、ユダのようにあきらめる事無く、一時でも早く悔い改める者でありたい。
皆さんは生ける限り、イエス様に繫がった生き方ができますように。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝音声:終わりの時代に勝ち取る栄光(ルカ21:7-19)
週報/メッセージ(説教)概要

「私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)


「博士達」(口語訳)は原文は「マゴス」、ペルシャ系祭司で占星術を行っていたと考えられており、イスラエルの神が忌み嫌うはずの者達である。


彼らは、新しく生まれたイスラエルの王を求めて来たが、本来、ユダヤ人こそそれを知っていなければならないはずであるのに、誰も知らなかったばかりか、それを聞いた者達は不安を抱き、王ヘロデにいたっては、拝んで行くかのように見せかけつつ、殺そうとさえ企んだ。


色々と不思議に見えるが、これは当時の時代背景と、ヘロデ大王がどういう人物かを見れば納得が行く。



ヘロデ大王はユダヤ人ではなくエドム人で、巧みな政治手腕によってローマ元老院に取り入り、エルサレム神殿の大改修を行う事でユダヤ人の歓心を買ったが、冷徹で残虐な面もあり、彼の王座を脅かす者は自分の妻であろうと子であろうと処刑し、反対する祭司やレビ人達も多く処刑された。


王の宮殿は、彼に追従し取り入ろうとする者達によって満ち、王にとって利益を出す者が重んじられ、役に立たない者や反対する者は阻害され、権謀術数が渦巻き、誰が敵で誰が味方か分からない疑心暗鬼に満ちた場であった。


王で居たい者にも、それにぶら下がる者達にとっても、新しい王など居てもらっては困るのである。



主が来られる時、人々の心は冷たくなり、非常に生きづらい世の中となり、本来こぞって迎えなくてはならないはずの者達は、生き残るための策略に忙しく、中にはメシヤさえも殺そうと計る者さえ出てくる。


そんな中であっても、導かれる者は確実におり、それは神から最も遠いと思われる人かも分からない。


忌み嫌われるはずの占星術師達は、メシヤを拝むために、はるばる遠い東の国から来た。


イスラエルの嫌う邪悪なニネベの住民はヨナの説教によって悔い改め、南の女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た。


裁きの時、ニネベの住民や南の女王が、そして、東方の占星術師達も、イエスを受け入れない者やイエスを排斥した者達を罪に定めるのである。(マタイ12:42)



エルサレムを出た彼らはベツレヘム(パンの家)へ向かったが、頼りとなるのは再び星だけになってしまった。


しかしなんと、星が先立って進み、幼子のいる場所の上に止まった。


この星が何であったのか、彗星説、変光星説、惑星会合説、超新星説など色々あるが、いずれにせよ、星が少数の人々のために動くというのは、地球が逆回転するよりもスケールの大きな不思議である。


神はそのスケールの大きい不思議を、博士達を幼子のおられる家へと導くために、やってのけたのである。


彼らが、はなはだしく大きな喜びを喜んだ(直訳)のは、彼らが日頃見て研究していた星々さえも支配する偉大な方が、彼ら自身に直接関わり、スケールの大きな助けを彼ら自身に向かって為して下さったから。


主の目から見れば嫌われるかのように見えても、またどんなに邪悪な世代の中にあったとしても、そして、どんな策略が計られたとしても、主を求める者達には、宇宙規模の助けによって導いて下さる。


そのしるしは王宮にいる者たちには見られなかったし、知られもしなかったが、神は、御心に留められた者達に、人知れず大いなる助けを、導きを、示して下さるのである。



「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)


彼らは時間と労力、大切な宝物を捧げるだけで、物としては何も得なかったが、宇宙規模の素晴らしい体験をした。礼拝とは良き物をいただく事ではなく、自分の良きものを捧げる事である。


メシヤを求める一人一人が、策略と疑いに満ちた世から脱出し、大いなる不思議によってメシヤの元へと導き出され、まことの礼拝を捧げる事ができますように。

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