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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

国々を正当にさばかれる主と、「言いつけ上手」「訴え上手」なダビデ(詩篇9篇)
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9編の表題は「聖歌隊の指揮者によってムツラベンのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」である。
ムツラベンのしらべは、どのようなメロディだったのだろう。
ムトは「死」、ラ・ベンは「息子の」の意味であり、また16節には「ヒガヨン・セラ」という、聖書中ここにしかない「セラ」があるが、ヒガヨンの意味は「荘厳な」「瞑想」の意味である。
以上を考えると、ムツラベンのしらべは、荘厳で重々しいメロディだったのだろう。
その荘厳な雰囲気の中でダビデが歌わせた詩篇9編のテーマは、主は正当に裁かれるお方である、という内容である。

9:1 わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざを/ことごとく宣べ伝えます。
9:2 いと高き者よ、あなたによって/わたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。

ダビデはまず最初に、主への感謝と賛美で始める。
彼を憎んで滅ぼそうとする者達や国々があるのだが、それを訴える前に、主の素晴らしい御業と正当なさばきをほめたたえている。

9:3 わたしの敵は退くとき、つまずき倒れてあなたの前に滅びました。

わたしの敵、イコール神の敵である。
ダビデはいつも、主の御言葉が成る事、御胸の成る事を求めていたからだ。

9:4 あなたがわたしの正しい訴えを/助け守られたからです。あなたはみくらに座して、正しいさばきをされました。

ダビデはここでも自分の訴えを「正しい」としているが、その根拠はどこにあるのか。それは、彼が主に寄り頼んでいる事である。
主に尋ね求める者こそ、正しいとされる。

子供が人の家のガラスを割ってしまった場合、子供は親に泣きついて訴える時、親は代理で謝罪し、償いをし、そして子供のガラスを割ってしまった事は、相手の前で赦される。
同様に神は、罪を犯してしまった人類のためにイエス・キリストを遣わし、彼が代理で罰を受け、償いをし、父なる神をなだめた。
だから、イエス様に泣きついてくる人々、すなわち、イエス様を主とする人を、神は赦し、義として下さるのだ。

親の助けをよく呼び起こす子供とは「言いつけ上手」「訴え上手」の子であるが、ダビデはまったく主に対して「言いつけ上手」「訴え上手」である。
悩んだ時も、喜んだ時も、家庭の問題も、国家の問題も、なんでもかんでも主に持って行った。

9:5 あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。
9:6 敵は絶えはてて、とこしえに滅び、あなたが滅ぼされたもろもろの町は/その記憶さえ消えうせました。

歴史の闇へと葬り去られた国や民族、人々は、多々ある。
特に、主に従わない者、御民をいじわるする者は、そのようにされる。アッシリヤやバビロン、ペリシテ人、イドマヤ人などはまさにそうだった。
主は正当なさばきをされる事が、7-9節に記されている。

9:7 しかし主はとこしえに、み位に座し、さばきのために、みくらを設けられました。
9:8 主は正義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9 主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです。

さばきは恐ろしげに聞こえるかもしれないが、正しい人にとっては、神の正しいさばきは、実は慰めである。
ナホム書という書が聖書にある。
ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。
一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。
それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。
誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。

9:10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。

ここが9扁の中で重要な節である。
ダビデは、主に寄り頼み、主に尋ね求める事によって、正しいとされた。
主をより頼む者の幸いについて、詩篇34編に記されている。

34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

ダビデは、主に求めた。
すると主は答え、彼を全ての恐れから助け出された。

34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

主を尋ね求める者は、ますます主の恵み深きことを味わい、乏しい事はなくなり、良いものにかける事は無い。
主を仰ぎ見るなら、光を得、恥じる事はなくなる。
苦しむ時、主を仰ぎ見て呼ばわるなら、主は聞いて、悩みから救い出して下さり、主は御使いに命じて、その人の周りに陣営を巡らし、助け出される。
このように、主を尋ね求める人、仰ぎ見る人は幸いを得るのだ。

それでダビデは、御前に大胆に進み出て、賛美し、礼拝できたのだ。
ダビデは11節以降、賛美している。

9:11 シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。
9:12 血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。

ダビデは連戦連勝の王、強く富んだ王の中の王、というイメージがあるかもしれない。
しかし詩篇を見ていると、どうも彼は貧しくて弱くて、悩み苦しみが多い人なのではないか、と思えるような記述がたくさんある。
ダビデについて何の前知識もない人が、はじめて詩篇を読んだとするなら、彼は貧しくて弱い者ではないか、と思われるかもしれない。
しかし、それ程彼はいつも「心の貧しさ」を覚えていた、という事の証左であり、それこそ、ダビデが偉大でありつづけた所以である。

以下のように書いてある。
マタイ5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

「こころの貧しい人」とは、直訳的には「霊がこじきである者」「霊がからっぽな者」である。
彼は、主なくしては何も出来ない「霊の貧しさ」を、いつも覚えていた。
他の王達は、神から祝福され、富や力を持ち始めると、それを誇って神から遠ざかって行ったが、ダビデは違った。
彼も確かに王として栄えたその頂点で罪を犯したが、しかしその罪を指摘された時、すぐに悔い改め、しばらくは涙の日々を送って行った。
彼は生涯、霊における貧しさをいつも覚えており、いつも神に求めていたからこそ、彼は主から愛され、主によっていつも高められていたのだ。

9:13 主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのを/みそなわしてください。
9:14 そうすれば、わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。

シオンとはエルサレムの神殿の丘、すなわち神を礼拝する場所である。
彼の心はいつも、そこにあった。だから彼は、いつでも主との交わりを持っていた。

9:15 もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕えられる。
9:16 主はみずからを知らせ、さばきを行われた。悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる。〔ヒガヨン、セラ

16節には「ヒガヨン、セラ」という、聖書中ここにだけ出現する言葉が記されているが、ヒガヨンは「荘厳な、瞑想」である。
セラはモードチェンジのサインだが、「荘厳にムードチェンジせよ」という意味であろうか。
だから17節以降は、厳かな心持ちで読むべきである。
17節以降は、神と人との、そして神と国々との、恒久的な法則が記されている。

9:17 悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。
9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。

現代に至るまで、数多の国々・民族が栄えては衰え、ある国や民族は、歴史の闇へと葬り去られて行ってしまった。
どんなに大国と呼ばれる国であっても、弱く貧しい者や苦しむ者を顧みず、神の御胸に反する事を続ける国は、必ず長続きせず、歴史の闇に葬り去られてしまうのだ。

アッシリヤのように、暴力や残虐さを売りにして他を恐れさせ君臨する国は、一時期栄えても、必ず滅んでいった。多くの人々の叫びが沸き起こるから、神が栄えさせないのである。
そして主は、神の御胸どおり歩もうとする国を祝福し、栄えさせて下さる。
ローマ帝国は、聖書の教えに忠実に歩んでいる内はどんどん祝福され栄えて行ったが、欺瞞がはびこり、聖書では明らかに悪と見える事が蔓延しだした時から暗黒時代に突入した。
アメリカも建国当初、聖書を中心として国家運営を成そうとして行ったため、建国以降の短期間にキリスト教国として大いに栄えたが、しかし1960年代以降、色々な宗教を取り入れて当初のスピリットを忘れてしまったため、その栄えに黒雲が立ち込めてしまっている。

9:19 主よ、立ちあがってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせてください。
9:20 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に/自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ

19,20節の「人」はエノーシュ、「死ぬべき人間」という意味である。
人は、覚えるべきである。自分がはかない存在である事を。
主こそ王であり、正しくさばきをし、この主により頼む者こそが、幸いである事を覚えるべきだ。

ダビデは歴史を支配しておられ、正当にジャッジされる主を覚えよ、と、国々に警告した。
キリストにあって王とされ、祭司とされた者として、王のため、国々のために執り成し、祈るべきだ。
世の中のあらゆる事を、ダビデのように、何でも主に言いつけ、主との交わりを深めつつ、身の回りを正当に治めつつ歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

王国や王達の上に立ってとりなし、御言葉を伝え、支配するべき私達(エレミヤ1:4-10)
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エレミヤ1:4 主の言葉がわたしに臨んで言う、
1:5 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。

エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エレミヤ1:6 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。
1:7 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
1:8 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。

1コリント6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
6:3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

ヘブル2:6 聖書はある箇所で、こうあかししている、/「人間が何者だから、/これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、/これをかえりみられるのだろうか。
2:7 あなたは、しばらくの間、/彼を御使たちよりも低い者となし、/栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。
2:9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
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2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。

ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。

人とは一体何者なのでしょうか(詩篇8篇)
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詩篇8編もまたダビデの作で、新約聖書の各所で引用されている。
彼はこの詩篇で、神の創造の素晴らしさを見るに、自分たち人間にこれらのものを委ねられたとは、いかに驚くべき事だろう、と、驚嘆を記している。

聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌
8:1 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

イエス様は宮清めをした時、この箇所を引用した。

マタイ21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

祭司長や律法学者達が憤慨したのは、彼らはイエス様をメシヤだと認めていないから、というのもあるが、彼らは、賛美は信仰が熟練した者にこそふさわしい、未熟な者がおいそれと口にするべきものではない、と思っていたからだ。
もし彼らが考えるように、お金持ちや力ある者にしか主を讃えられない、とするなら、どんなに空しいだろう。
しかし書いてある。主は、幼子の口を通して栄光をお受けになるのだ。

8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。

私達が、今こうして目で見、触れるられるすべてのものは、神の指のわざである。
天にある月や星も、また、地上において触れられるものも。すべて生きているものも、生きていない物質も。
これらはよく見て調べ、分析する程に、なんとうまく出来ていて、精巧につくられているのかに驚嘆し、創造主の素晴らしさを讃えずにはおられない。
もしこれらを目の当たりにしておきながら、「偶然の産物」だと言う者は、よほど、神には居てほしくない者、創造主を認めたくない者である。

8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
8:6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
8:7 すべての羊と牛、また野の獣、
8:8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。

ダビデは、創世記の記述を思い起こしていただろう。
そこには書いてある。全被造物は、全て、人間に委ねた、と。
創世記1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

太陽や月、星が創られた目的は、「季節(モエド:約束、祭り、しるし)のため、日のため、年のため」である。(創世記1:14)
すなわち、天にあるあの巨大なスケールの全ての光明体は、人が神との約束された年、日、時間に、「祭り(モエド)」という交わりを行うのに役立てるために、わざわざ創られたのだ。
まさにダビデが告白している通りである。

8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。

これら何億光年というスケールの品々は、なんと、神の「指のわざ」である。神はそれを創るのに、指一つで出来てしまう。
しかしそれに引き換え、人の贖いのためには、イエス様は神の座を降りて、人となられ、人のために手足を釘付けにされ、自らのいのちを差し出してまで、救おうとされた。
まことに人とは、一体、何者だろうか。このような者に、そこまで顧みられるとは。

私達は、自分で自分の評価を降して、勝手に自分の通信簿をつけるべきでない。
必要なのは、神様が、キリストにある私達を、どのように評価をしてくださっているのか、すなわち、まことの通信簿である聖書を通して、自己評価すべきだ。
通信簿はギリシア語で「エレグコス」、この言葉はヘブル11:1で次のように記されている。
ヘブル11:1  さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を「確認(エレグコス)」することである。

聖書に記されている内容は、私達がまだ見たことも聞いたことも、経験した事も無いことばかりかもしれない。しかし私達が聖書の内容を確信し、確認する時、それら真理のことばが、目の前の現実を揺り動がし、信じた通りに成り、救われるのである。
それは、目の前で起きている現実よりも、書かれてある真実のほうが強いからであり、世の中の目に見えるものは、見えないことばの実体化だからである。

言われている。
1コリント3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

私達は、キリストにあるなら、神を宿している「歩く神殿」である。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられた(ヨハネ1:12)、と書かれてある通りである。

目の前に起きている現実は、必ずしも御言葉の通りではない。

ヘブル2:6 聖書はある箇所で、こうあかししている、/「人間が何者だから、/これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、/これをかえりみられるのだろうか。
2:7 あなたは、しばらくの間、/彼を御使たちよりも低い者となし、/栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。

確かに私達は、「万物が人間の支配下で服している状況」は、見てはいない。
実際のところ、被造物は人間に牙をむき、地震や津波、台風など、諸々の自然災害に対して、人は無力である。
それはなぜか。それは、人が神の言葉に反した故、地は呪われてしまい、地は人間に対抗して「いばら」を生じさせるからだ。
救いは、ただ、イエスによるのみである。だから続いて次のように書いてある。

2:9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
2:10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。

人が創世本来の支配権を回復できるのは、ひとえに、イエス様が人の罪を負って身代わりに死んで、よみがえられたゆえである。
万物を服従させるお方が、贖って下さったゆえである。

2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。

神が助けて下さるのは「アブラハムの子孫」である、と書いてある。
アブラハムの子孫とは誰か。

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

アブラハムの子孫とは、イエス様を信じて義とされた私達である。
それで私達は、正当な支配権を得たものとして、この地を正当に支配して行くべきだ。
キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人だけが、この「正しい支配」が出来る。
神の子とされたキリスト者は、どんどん悪い者達の支配権を奪回してゆくべきであり、そうして多くの人と全被造物に慰めをもたらすべきだ。

被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事、すなわち、アダム以来の呪いから解放される事を、切望している。(ローマ8:19)

ダビデは、神の素晴らしい御業を、ほめたたえずにはおれなかった。
8:9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

いつもキリストに留まり、正しく支配権を行使し、地上に慰めと平和を届ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ネヘミヤの性質から見る聖霊の性質(ネヘミヤ記)
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心が直ぐな人の幸い(詩篇7篇)
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ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌
7:1 わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、わたしをお助けください。
7:2 さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。

クシ(クシュ:黒、エチオピア人)と言われている人について、聖書の他の箇所には記述が無い。
彼はベニヤミン人とあるので、おそらくサウルに属する者で、主に油注がれて王となったダビデを妬んで彼を攻撃しているのかもしれないが、ダビデのほうは、彼から攻撃されるような思い当たるふしは、全く無い。
それでダビデは、殺意を持って彼が追い迫っているこの状況から救って下さい、と祈る。

7:3 わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4 もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5 敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ

ダビデは、攻撃され追い回されたりされるいわれは全く無いにしても、このように宣言できるのはすごい、と思われるかもしれない。
人間は誰しも、叩けばホコリが出る存在である。この肉に、罪の棘が刺さっているからだ。
ダビデはなぜこんなに自信たっぷりに告白できたのだろう。

7:6 主よ、怒りをもって立ち、わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、わたしのために目をさましてください。あなたはさばきを命じられました。
7:7 もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、その上なる高みくらにおすわりください。
7:8 主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。
7:9 どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。

ダビデは「わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください」と言ったが、それは、根拠なしの「自分は義だ」という誇大妄想ではない。
確かに世の中には、罪を犯しても平然として、心に何の良心のとがめを感じず、やたら「わたしは悪くない」という根拠なき自信が強い人もいるが、そのように良心が麻痺した人は、真の義に至っていない。なぜならその人は、主の御言葉を前に自分を降ろしていないし、心を主に向けてもいないからだ。

しかしダビデは、主に対して「誠実」であった。
主に対して誠実な人とは、主の言葉を前に自分を降ろし、もし自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人である。
その時、その人は主に対して心に責められる所が無いし、思い出してもいない罪をわざわざほじくり返す必要も無い。

自分を低くし、御言葉を信じて、信じた御言葉に誠実である人は、主の義がその人を覆う。(ルカ18:14、ロマ3:28)
ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

つまり、ダビデが言った「わたしの義」は、ダビデのがんばりや行い由来の義ではなく、ダビデの、神に対する信仰と誠実から来る義、すなわち、神に由来する義なのだ。
以下のように告白している。

7:10 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。

私達は、大いに、神様に盾になってもらいたいと願う。
しかしそれには条件がある。それは、「心が、直ぐ」である事だ。

マタイ5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

ここの「清い(カサリオス)」とは直ぐな、単一な、ピュアな、純粋な、という意味である。
心が直ぐな人は、誤ちを指摘されたら、すぐに謝る。外面と内面が一致していて、裏表が無いから、何をするにもシンプルで、疲れない。
それとは逆に、心が複雑な人は、誤ちを指摘されると2,3秒の間、頭をフル回転させ、言い訳を考え出す。そういう人はいつも内面と外面が一致せず、複雑で疲れやすい。

ダビデは心が実にシンプルだったので、感謝にしても怒りにしても、全部そのまま主に持って行った。
主もまたそんな彼を、親が子に接するように、親密に接して下さった。
彼は、別の詩篇でも告白している。

35:23 わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
35:24 わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、わたしの事について彼らを喜ばせないでください。

彼はここで「主の義」に従って、わたしをさばいてください、と願い求めている。
ダビデの義の主張ではないから、シンプルに、大胆に、いつでも主に求める事ができるのだ。

35:25 彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と/言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と/言わせないでください。
35:26 わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください。わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
35:27 わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。

ダビデはここでも、敵を恥じ入らせて下さるようにと、実に正直にシンプルに求めている。
さらに「わたしの義」を共に喜ぶ者と共に、主をほめたたえさせて下さい、と祈っている。

35:28 わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

ここをヘブライ語で見ると、
ウ・レショニ: そして私の舌は
テ・ハガー: 思い巡らす、互いに語る、つぶやく
チズケカー: あなたの義を
コール・ハ・ヨム: 一日中
テヒラーテハ :(ほめたたえる、賛美)します

ここの「ハガー」と「テヒラー」は詩篇の中でも重要なキーワードである。
ダビデは日夜、彼の舌から「主の義」を思いめぐらし(あるいは口ずさみ:ハガー)、一日中、主を思い、主をほめたたえて(テヒラー)いるのだ。

日夜主の言葉を口ずさんでテフィリンしている人は、主の言葉が宿り、それはすなわち主の義が宿り、それ故、御前に何の呵責なく進み出る事が出来、主と交わりができる。
テフィリンしている人は、その内に宿った御言葉が両刃の防護壁となり、誘惑や罪が潜入して来ようものなら、陣を組んでそれを追い出す。
そのような人は、主から「義」が与えられ、それがすなわち「わたしの義」となる。
だからダビデは、あれだけ大胆な事を言う事ができたのだ。

7:11 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。
7:12 もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、
7:13 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。

主が災いをくだされるのは、「悔い改めない」人にである。
悔い改めるべき事を先延ばしにすればするほど、その人を刺し貫く剣はどんどん研ぎ澄まされ、彼を射抜く弓矢は、ますますしぼられる。
いつ、彼を死に至らしめる火矢が放たれるのか、分からない状態であるが、悔い改めるなら、その張られた弓は、ゆるくなる。

7:14 見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む。
7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。
7:16 その害毒は自分のかしらに帰り、その強暴は自分のこうべに下る。

悪人は、策略をめぐらしながら、うまく生きているかのように見え、そのうまさが巧みであるならあるほど、人生うまく渡り歩いているかのように見えるかもしれない。
しかし御言葉に照らし出すと、実はその者は、そうする毎に自分の頭に害毒を蓄えている事だと分かる。(詩篇137編)
だました事によって受けなくてはならないさばきは、正確に、だました側のほうへと行くのだ。

7:17 わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。

主は、義なるお方である。
その主から与えられた義によって、感謝のほめ歌を主に捧げるのが、私達キリスト者の姿なのだ。

慰め主である聖霊の働き(ヨハネ14:16-17)
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週報/メッセージ(説教)概要

 『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(パラクレートス)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さる』(ヨハネ14:16) 聖霊の別の名は「助け主」と言う。これは「パラクレーシス(懇願、励まし、激励、慰め)」が元となった言葉である。今回、慰めて下さるお方としての聖霊のご性質を学びたい。
パラクレートスを辞書でひくと「力強い味方,肩を持ってくれる者,同情をもって弁明してくれる人,取り成す者」の意味である。このお方が私達の内に住み、共に働いて下さる(17節)。聖霊は、深いうめきの感情と同情心をもって、私達を弁護し、私達の人生や人格の中で、破壊されてしまった所を建て直して下さる。
この御方すなわち「真理の御霊」は、御父から遣わされる。世はそれを見もせず、知りもせず、受ける事が出来ないが、私達キリスト者と共にいつまでもおられ、神の真理へと私達を導く。(16−17節)

ネヘミヤは、まさにその働きをしている。彼の名前の意味は、「慰める主」)で、聖霊のわざそのものを行う。
エルサレムの城壁が崩され門が火で焼かれたままの状態で、捕囚から戻って来た民も大きな悩みとはずかしめの中あるのを聞いた時、彼は座って嘆き悲しみ、断食して主に祈った(ネヘミヤ1:2-4)。
また、エルサレムの民に代わって罪を告白し(6-7)、御言葉の約束を宣言し(9-10)、憐れみを求めた(11)。
これはまさに、御霊の御思いである。『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。』(ローマ8:26) 御霊は切なる心をもって、人を建て直す働きをされる。
ネヘミヤが来る前、エルサレムは長い間、荒れ果てた状態のまま放置されていた。そもそも、エルサレムが荒れ果ててしまったのも、彼ら自身が主をないがしろにし、警告を無視し、罪の暴走を邁進し続けたから、いわば、自業自得の故であるが、ネヘミヤはそんな彼らを、心裂かれる思いをもって建て直しの働きに入る。
聖霊も全く同じである。主を無視し、罪の暴走に邁進して、人生へし折られてしまった私達の荒廃した様を同情し、うめきの心をもって回復のわざを為し、私達の人生が慰められるようにと、働かれる。
ネヘミヤは民を励まし、回復の工事を正しく、そして最善の形で導き、敵の計略を見抜いて、その甘言や讒言に勝利し、また、人々の主に喜ばれない罪の性質を取り除き、そうしてわずか52日で城壁を復旧した。
聖霊もまた、私達を同様にされる。聖霊は、壊れ果てて自力では立ち直れない私達を回復させるために、最善の正しい道で建て直して下さる。聖霊の導きによって、私達に敵の策略を見破らせ、戦う術を身に着けさせ、罪の性質を取り除き、自分では到底不可能だと思えていたような建て直しを速やかに為して下さる。
この御方にあって導かれるなら、私達の城壁は堅固になり、もはや悪しき者に好き放題される事はなくなる。

「慰め」についてのもう一つの面を、ナホム書から学びたい。ナホムの名前の元は「ナハム(慰め)」、そのまま「慰め」という意味であるが、ナホム書の内容は名前とは裏腹に、アッシリヤに対する手厳しい災いの預言で満ちている。実際、彼の預言どおりにアッシリヤは滅んだ。一体、何が「慰め」なのだろう?
アッシリヤは、残虐さを売り物に、各国を脅し、イスラエル以外の多くの国々にも「意地悪」をして来た(イザヤ20章)。一時は預言者ヨナの警告でへりくだるも、すぐその心を忘れ、神に挑戦する程になった(イザヤ36-37章)。それで神はアッシリヤを処罰する。アッシリヤが破壊される時、それを聞く者は手を叩いて喜んだ。誰も彼もアッシリヤによって絶えずいじめられていたから、とナホム書は締めくくられる。(ナホム3:19)
主の民の敵が、正当な裁きを受ける事も、実は「慰め(ナホム)」なのだ。もちろん私達は、アッシリヤのように好き好んで邪悪に走るようなよほどの相手でない限り、誰かが主の裁きによって滅ぶ事を、求めるべきではない。私達の戦いは対人戦ではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいる諸々の悪霊達に対してのものである。人を裁くのは主の領分であり、私達は、サタンの勢力に対抗する者達である。
ナホムがアッシリヤが裁かれる言葉を宣言したように、私達も『御霊の剣、すなわち神の言』(エペソ6:17)を取って、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対してさばきを宣言し、この者共によって惑わされている人々や、虐げられている人々に「慰め」をもたらすべきなのだ。

この助け主である御霊にあって歩んで行く内にますます回復し、ますます城壁が堅固にされ、ネヘミヤのように、破綻してしまっている人を慰め回復する働きをし、ナホムのように、聖霊の与える御言葉の剣をもって暗闇の勢力と戦って慰めをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

罪を悔い改めの涙で寝床を漂わせたダビデ(詩篇6篇)
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ダビデが、ウリヤの妻・バテシェバと性的な罪を犯し、夫であり忠実なしもべであるウリヤを謀殺した後、預言者ナタンからその罪が指摘された時に祈った祈りが、詩篇51篇だった。
詩篇51篇は、彼の罪を悔い、悲しみ、罪に対してどうしようもない自分に恵みを施し、造り変えてくださるよう祈った祈りであるが、この詩篇6篇は、その続編とも言える。
彼はあのただ一度の祈りによって救いの喜びが返って来たのではなく、相変わらず、夜ごと、良心を責めさいなまされたのだ。

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌
6:1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。
6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。

ダビデは正しい良心を持っていた。それで、自分が犯した罪の重さ、大きさをずっと感じ続けていた。
ダビデは、人に対してのみならず、主に対して罪を犯したのだ。
預言者ナタンが来た時、彼は「主の言葉を軽んじ、主の目の前に悪事を行った」事を責めた。
2サムエル記12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。

そしてダビデ自身も告白している。
詩篇51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
 51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

まず、正しい良心が無ければならない。良心が無いなら、罪に対する悔いて悲しむ心は芽生えないからだ。
そして、一体誰に対して、どんな罪を犯したのかを告白しなくてはならない。
聖書には「ごめんなさい」という対象不明・宛先不明の謝罪は登場しない。聖書的謝罪とは、罪を犯して損害を与えた相手と、どんな罪を自分が犯したのか、明確にしているものなのだ。

51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

私達も知っている。自分は、母の胎にいた時から既に罪を持っていたことを。
そしてその罪が、私達の内であばれてどうしようもない時、私達は自分の力では何も為す術が無い。
それでダビデは、ただ、主から与えられる一方的な恵みを求めている。
すなわち、ヒソプをもって清められる事、洗われる事、御顔を自分の罪から隠し、不義をぬぐい去って下さる事。自分にきよい心をつくり、新しい正しい霊を与えて下さる事。御前から捨てず、聖なる霊を取り去らない事、救いの霊を返し、自由の霊をもって、支えて下さる事。(詩篇51:7-13)
罪にどうしようもない自分のために、これらを与えて下さいと、ダビデは祈り、そして心責められる所一切なく再び御前で感謝が捧げられるようにして下さい、と祈った。(同14−19節)

6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか。

彼は死を意識するほど、重い罪責感に押し潰されそうになっていた。
悔い改めるべきリミットがある。それを超えても悔い改めず、リミットを超えてしまうなら、もはや何も通じない死の時に入ってしまう。
ダビデはそこに、底知れぬ恐ろしさを覚えたのかもしれない。
ダビデは、滝のように涙を流して祈る。

6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。
6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。

ダビデは、彼の流した涙によって寝床がただようほどだった、と言っている。
いったい幾晩、その涙の夜々を過ごして来たのだろう。それは分からない。
私達も主から「祈りが聞かれた」という確信と平安が与えられるまで、祈るべきである。その時は、いずれ、必ず来るのだから。

6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

ダビデは、祈りが聞かれた、という確信を得た。
それで彼は、悪を行う者達に離れていけ、と言う。
彼が自分の罪にしおれていた時、彼をよってたかってののしり、悪を行う者達もいたのだ。
罪責感に悩まされている間は、サタンの「罪定め攻撃」に対し、何の為す術も無い。
しかし悔い改めの祈りをし、主に聞き届けられた、という平安が与えられたなら、再び敵に立つ事ができるようになる。

主は詩篇を通して、私達に示している。
ダビデの罪を犯した様、悔いた様、そこから立ち直った様を。
これを通して、私達にも悔い改めによって立ち直る事ができる事を、教えている。

あんな事してしまって取り返しがつかない、という牧師や聖徒がいるとしても、その人が悔いて改めた様がはっきりしているなら、彼らを抱きしめ、交わりへと戻してやるべきである。
もちろんそれは、仲がいいからといって罪を見なかった事にするのではない。
聖書と照らし、悔い改める方法へと導き、その人がその方法に歩めるように、それを教える必要がある。
さばきは、神のみの権限であって、私達がする事ではない。
私達には、互いに勧め合い、教え合い、励まし合い、養い合い、助け合う事こそ、命じられているのだ。

朝明けの祈り(詩篇5篇)
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聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌
5:1 主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2 わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。
5:3 主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。

詩篇5篇は、朝明けの祈り(Dawn Prayer)と言われている。
夜番をする羊飼いにとって、夜明けの時は、待ち遠しいものである。
元々羊飼いだったダビデはは、その時から夜明け前に御前で祈る習慣を持っていたのだろう。

3節の「いけにえを備えて(アーラフ)」は、「準備する」の意味、「待ち望みます(ツァーファー)」は「前方に向く」「じっと見つめる」の意味である。
すなわちダビデは、一日の一番最初の時を主に捧げるために自分を整え、主をじっと待ち望んだのだ。
彼はこの時、彼を憎み、悪をたくらむ者によって、脅かされていた。

5:4 あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5 高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。

悪を行う者は、聖徒の集いに、そして神の御前に、立つ事ができない。
しかし主の民は、いつも御前を歩むようにと主から命じられている。

創世記17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

「主と共に歩む」事、これこそ、御前において全き者である。それは何も、罪を犯さない状態を続ける事ではない。
たとえ肉の情欲に飲まれ、まさに罪を犯しそうな瞬間でも、あるいは、犯してしまっている真っ最中であったとしても、心を主へと向け、神に喜ばれない罪を犯さざるを得ない自分を悲しみ、御前に憐れみを請い求める人こそ「主と共に歩む人」である。詩篇51篇は、ダビデがまさに罪を犯した時でも主と共に歩んだ結果生まれた詩篇と言える。
神と共なる歩みを積み上げれば積み上げるほどに、主はその人をますますきよい霊によってきよめ、喜んで仕える霊を送って、その人を支えて下さる。

逆に、いかに悪い事を「していない」状態が続いたとしても、あるいは、どんなに素晴らしい善行をしているとしても、心を主に向けない人は「主と共に歩まない人」、すなわち、義とはされない人である。

5:6 あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7 しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみ(ヘセド)によって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。

ダビデが宮に出て礼拝を捧げられるのは、まさに、神の豊かなヘセド(恵み、憐れみ、慈悲)によってである。
なぜなら、ダビデ自身も、人間である事には変わりなく、すなわち、罪人である事には変わりはないからだ。

5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。
5:10 神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。彼らはあなたにそむいたからです。

ダビデはこの時、彼に悪をたくらむ人によって脅かされている状態で、その彼らに「その罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください」と祈っている。
それは決して高潔な祈りとは言えないかもしれないが、ダビデはいつもこのように、心の内を御前に正直に注ぎだしたからこそ、ダビデは敵を前に、実際的には高潔に振る舞う事が出来たのだ。

ダビデのいのちを追い回してきたサウルに対しても、善を悪で返したナバルに対しても、また、ダビデがアブシャロムの前から逃げていた時、盛んに呪いの言葉を吐きながら石を投げてきたシムイに対しても、ダビデは彼らを殺そうとする部下達を制し、彼らのいのちを助けてやった。

ダビデは、怒りをそのまま人にぶつけるのではなく、その気持ちをそのまま神へと持って行き、全てを神の正しいさばきを委ねたのだ。
もし相手が、ダビデがかけた「憐れみ」にふさわしいなら、主が憐れんで下さるが、しかし最終的には、サウルも、ナバルも、アブシャロムも、主ご自身が正しく裁かれた。

5:11 しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって/喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12 主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。

主の喜びに預かれる者は、主と共に歩む者、主により頼む者、主の御名を愛する者である。
ダビデは最後、全て主に寄り頼む者を喜ばせて下さい、正しい者を祝福して下さい、と祈っている。

しかし元来、正しい者も、義人も、ひとりもいない。

ローマ3:10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
 3:11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
 3:12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
 3:13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
 3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
 3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、
 3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
 3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。
 3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

人間の中には、義人はひとりもいない。
ダビデは、彼に災いをもたらす者を「そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言う」と言ったが、実は、ダビデ自身もそうだったのだ。
それでは、ダビデはどうして自分を「正しい」と言うことができるのか。ロマ書には、次のようにも書いてある。

ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
 10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
 10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

いかに人の口が「開いた墓」のようであったとしても、御言葉を口にして、信仰告白を口から出すなら、その口の告白によって救われるのだ。
信仰を混ぜ込んだ御言葉のテフィリンによって、人はどんどん清められていく。

ダビデは主により頼むと告白し、朝の明ける前から主と交わっているので、彼はあらゆる願いを祈る事ができたのだ。
私達も、イエス・キリストにあって常に神と交わりを持っているなら、いつでも大胆に御前に進み出て、時期を得た助けを願い出る事ができるのだ。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

私達が結びつけるべき赤い印(ヨシュア記2:17-21)
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ラハブが不従順な者達と一緒に滅びる事を免れた理由は、信仰の故だった。
彼女は、イスラエルの神・主の救いを得る事の素晴らしさを、そのうわさを聞いていた時からあこがれ、いざ、その神の民が二人、彼女の前に現れた時、死を賭すリスクを犯す事さえものともせず二人をかくまい、イスラエルの神こそ天において地において絶対なる神であられる事を告白し、自分と自分の家族を救ってくれるよう、憐れみを求めた。
普通なら、憐れみを乞い求めるべきは、周囲は敵だけのこの二人の斥候の側に見える。
しかし彼女は、真理の面から見て、自分こそが、神に対し、そして神の民に対して憐れみを求めるべき者だ、という認識があったのだ。
それは、信仰によってである。

ヨシュア記2:17 ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。
2:18 われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。
2:19 ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。
2:20 またあなたが、われわれのこのことを他に漏らすならば、あなたがわれわれに誓わせた誓いについては、われわれに罪はありません」。
2:21 ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。

彼女は、赤い印を早速結びつけた。
これは古今東西、現代の私達にも、等しく、救いのしるしである。

出エジプト記12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
・・・
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。

大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件である。
赤い印を結びつけるか、それをしないか。それは昔も今も、救われるか、滅ぼされるかの分かれ道なのだ。

今や、キリストの血が、私達にとって救いのしるしである。

ヘブル9:14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

イエス様の血は、私達の邪悪な良心をきよめ、死んだ行いを取り除き、生ける神に仕える者としてくださる。
イスラエルの民は小羊の血潮を扉のかもいと門柱に塗り、ラハブは窓に赤いひもを結びつけたが、私達はどうやったら、この赤い印を結びつける事ができるのか。

ヘブル11:30 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

私達が、イエス様が十字架で流された血潮を、自分に結びつけるコツ、それは、信仰である。
信仰(ビヒド)の元来の意味は、to band(結びつける)、to unite(連合する、ユニットを組む)。

4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、「信仰によって結びつけ」られなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。

あの時イエス様が流された血潮こそ、自分を清め、救いへと導くものだ、という言葉と意味を自分自身へと混ぜ合わせ(結びつけ)、自分はイエス様の血潮とユニットを組んだ者だとみなしつつ、日々歩んでいくのである。
それこそ、ラハブが赤いひもを窓に結んだのと同じ行動である。
ラハブは、すぐにした。同じように私達も、すぐにでも、いつでも、結び続けるべきである。
信じたなら、安息に入るのだ。

ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。

一度、十字架の血潮を自分自身へと結びつけたなら、それをほどいてはならない。
救いの条件は、大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事だった。
そこから迷い出る事なく、しっかり毎日結んだ状態をキープし、安息をキープし続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「キリスト」の役割と、血潮の効力(ヘブル9:11-28)
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