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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

エリファズによる最初の弁論 - 因果応報の押し売り(ヨブ記4章)
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ヨブの独白、すなわち、彼自身のあまりにも耐え難い苦難ゆえに自分の生まれた日を呪い、早く死んでいればよかったのにという願いに対し、真っ先に口を開いたのは、テマン人エリファズであった。
彼はヨブの3人の友人の中でも長老格であったと思われる。

4:1 その時、テマンびとエリパズが答えて言った、
4:2 「もし人があなたにむかって意見を述べるならば、/あなたは腹を立てるでしょうか。しかしだれが黙っておれましょう。

エリファズ達がヨブの所に来たのは、ヨブを慰めるためであった。そしてヨブに良くなって欲しいという心があったのだが、しかしヨブの言葉に黙っておれなくなった。
それは、ヨブの言葉に、何か真理が阻害されているような感じがして、それに耐え切れなくなって、言葉がほとばしり出たのだ。

4:3 見よ、あなたは多くの人を教えさとし、/衰えた手を強くした。
4:4 あなたの言葉はつまずく者をたすけ起し、/かよわいひざを強くした。
4:5 ところが今、この事があなたに臨むと、/あなたは耐え得ない。この事があなたに触れると、あなたはおじ惑う。
4:6 あなたが神を恐れていることは、/あなたのよりどころではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。

ヨブは健全な時、彼の言葉をもって、多くの人をさとし、正した。というのに、今、自分が災いに臨むと、耐え切れないのか。
ヨブが人を正す事が出来たのは、ヨブが神を恐れ、また、正しかったからではないか、と言っている。
エリファズ達は確かに7日7晩、言葉も発さずにヨブと一緒にいてあげたが、しかし心の中に、思っていたのだろう。
今、ヨブは神への恐れと正しさが揺らいでいるから、この事が起きたのではないか、と。

4:7 考えてみよ、だれが罪のないのに、/滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。
4:8 わたしの見た所によれば、不義を耕し、/害悪をまく者は、それを刈り取っている。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、/その怒りの息によって消えうせる。
4:10 ししのほえる声、たけきししの声はともにやみ、/若きししのきばは折られ、
4:11 雄じしは獲物を得ずに滅び、/雌じしの子は散らされる。

エリファズの最初の言葉に込められている思想は、世の哲学や宗教では通念的な「因果応報」である。
ヨブに何か罪が有り、正しくない所があって、それで「不義を耕し、/害悪をまく者」として、それを刈り取ったのではないか、という決め付けがある。
確かに悪を蒔けば悪を刈り取るのは通念的な法則であるが、しかしヨブの場合は事情が違う。

主はヨブに対して次のを評価している。
ヨブ2:3  主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

主がサタンに「ゆえなく彼を滅ぼそうとした」と言っているからには、ヨブは、エリファズが指摘するような、災いを刈り取るべき「ゆえ」は無かったのだ。
この、ヨブの友人達の側で最初の応答であるエリファズの言葉は、ヨブ3人の友人のいわば代表的な反論であるが、しかし、ヨブに何かの非がある、だから災いに遭っているのだ、という前提条件が、そもそも違っている。
その間違った前提条件で議論を仕掛け続けるから、ヨブはさらに苦しみ、ついには主に対して挑戦的なまでになってしまった。
正しい。のに、災いを得る。という、一筋縄ではいかない事が世の中にはあり、それは決して、因果応報という4文字で片付けられる単純な問題ではないのだ。

エリファズはさらに、もう一つの思想をヨブに展開するのだが、その前に彼は、彼が体験した神秘体験を披露する。

4:12 さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、/わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13 すなわち人の熟睡するころ、/夜の幻によって思い乱れている時、
4:14 恐れがわたしに臨んだので、おののき、/わたしの骨はことごとく震えた。
4:15 時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、/わたしの身の毛はよだった。
4:16 そのものは立ちどまったが、/わたしはその姿を見わけることができなかった。一つのかたちが、わたしの目の前にあった。わたしは静かな声を聞いた、

この事について、聖書注解には次のように書いてある。
『〈夜の幻〉(13)は夢ではなく,特別な神秘的体験.旧約聖書で〈幻〉〈ヘ〉ヒッザーヨーンと「夢」〈ヘ〉ハロームは明確に区別されている.幻を見た人々の様子から,幻を見る時には仮死状態に近い特別な精神状態にあることが推測出来る(創15:12,ダニ8:27).幻は必ずしも神の啓示とは限らない.〈思い乱れ〉るとは,悪夢にうなされること.〈霊〉(15)〈ヘ〉ルーアハは,普通は目に見えない存在だが,ここでは姿を持っている.だから聖書的な意味での霊というよりは幽霊のような存在を指している.女性名詞だが,ここでは例外的に男性形動詞で受けているのも,そのためだろう』

ヨブ記の中で、エリファズの言葉には主エホバの御名がひとつも無い事もあり、どうも彼のその神秘体験は、主から来たものではないようだ。
その「霊」は次のように言っている。

4:17 『人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18 見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、/その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19 まして、泥の家に住む者、/ちりをその基とする者、/しみのようにつぶされる者。
4:20 彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、/顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21 もしその天幕の綱が/彼らのうちに取り去られるなら、/ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。

人は、神の前に正しい者ではない。
この思想もまた、世の哲学や宗教では通念的な概念ではある。
しかし、先も言ったように、ヨブの場合はそんな一筋縄ではいかない問題を抱えているのだ。

2コリント3:5 もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

「この人の問題はこれこれである」という決め付けを元にした正論は、たとえ御言葉の引用であっても、人を殺す。
サタンさえ御言葉を引用して人を滅ぼそうとする。
だから私達は、生かす御霊によって導かれ、災いに遭っている人を正しく慰め、主へと導く必要がある。

エリファズは神秘体験を真っ先に披露したが、パウロは真っ先に披露する事はしないまま過ごし、コリントの人達は、そんなパウロを軽んじた。

2コリント12:1 わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。
12:2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
12:3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
12:4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
12:5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
12:6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。

パウロは、自分がその体験をしたのに、「私が」ではなく「キリストにあるひとりの人」としている。
あまりにも素晴らしい体験をしたのに、しかしそれを誇って買いかぶられるといけないから、敢えてそれをおおっぴらにはしなかった。
それは、彼が高慢にならないようにと、彼もヨブのように、サタンに打たれたからだ。

12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

パウロもヨブと同様に、義人なのに、打たれている。そしてそれは、エリファズが風呂敷を広げているように、悪いことをしたから打たれたのではない。
主から次のように教えられるためだ。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と。
パウロもヨブと同様に、悪いことをしたゆえではない苦難を受けて苦しんだが、しかしそれによって、さらに主の深さを知り、さらなる幸いを得た。

世の中は、一筋縄ではいかない物事あるが、世の哲学や宗教は一筋縄の格言で解決しようとして、逆にそれによって人々を苦しめている。
私達は主の御霊に導かれ、彼らを正しく慰め、主の道へと導く者になれるよう、祈るべきだ。

沈黙に対する表明により露わにされたヨブの内面(ヨブ記3章)
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ヨブ記3章からはヨブと彼の友人達との議論に入り、文体は詩文体となる。

3:1 この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。
3:2 すなわちヨブは言った、

ここの「言った」はヘブライ語でアナー、直訳すると「答えて言った」である。
彼の友人達は、7日間ずっと沈黙し、ただ、彼と一緒にすわっていただけであるが、ヨブは一体、何に「答えて」言ったのか。
それは、彼の友人達の「沈黙という言葉」に対して、すなわち、耳に聞こえない、意図を伝えない、ただそこに居て、本人を見、存在している人格に対し「答えて言った」のである。

「沈黙という言葉」は、本人自身の心をあらわにする鏡のようである。聞こえず、意図を伝えないだけに。
沈黙という言葉に「答える」とするなら、その本人の答えという表明により本人自身の心を表しており、それまで知られなかった本人の心の中が、それによって露わにされる。
「沈黙という言葉」は、そのような力を持っているのだ。

ヨブの、友人達の沈黙という言葉にたいする返答内容は、自分の生まれた日を呪う内容だった。

3:3 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜も/そのようになれ。
3:4 その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。
3:5 やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。
3:6 その夜は、暗やみが、これを捕えるように。年の日のうちに加わらないように。月の数にもはいらないように。
3:7 また、その夜は、はらむことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれないように。
3:8 日をのろう者が、これをのろうように。レビヤタンを奮い起すに巧みな者が、/これをのろうように。
3:9 その明けの星は暗くなるように。光を望んでも、得られないように。また、あけぼののまぶたを見ることのないように。
3:10 これは、わたしの母の胎の戸を閉じず、/また悩みをわたしの目に隠さなかったからである。

ヨブは徹底的に、自分が生まれた日を呪っている。
その誕生した日および自身のいのちが宿った夜そのものが無くなって、カレンダーから抹消される事を願っているのだ。

主は創世のはじめに光よあれと言葉を発せられ、無秩序から秩序へと世界を整えて行き、そして、いのちを創った。
ヨブは、あまりの苦しみゆえに、神の創造の一連の働きが、全く逆行して、自分の生まれた日は無くなってしまうように、と呪っている。

そのような言葉を聞く時、「ちょっと待った」と言いたくなるかもしれないが、ヨブのこの時の状況は、その身体にひっきりなしのかゆみという、もう一瞬たりとも耐え難い苦しみの中にあるのみならず、持ち物を失い、子供達を全部失ってしまったのだ。
主にある兄弟姉妹が、その苦しみの中から絞り出されて来た言葉を聞いた時、額面通り受け取って一言一言に対して、論理的に正論で答えるのは、赤ん坊が泣いているのを論理的な正論で黙らせようとするような事である。

エリシャに良くしてあげたシュネムの女は、その働きの報いとして、子が与えられたが、しかしその子は死んでしまった。
その時彼女も、ヨブのように自暴自棄な言葉を発したが、エリシャは、彼女の言葉を額面通り受け取って返すのではなく、すぐに執り成し祈る体制に入った。(2列王記4:8-37)
イエス様も、38年もの間病で誰も助ける者がいなかった人に対し、つぶやきの言葉を額面通り返すのでなく、ただ、癒やしの言葉をかけられた。(ヨハネ5:1-9)
しかしヨブの友人達は、ヨブの言葉を額面通り受け止め、それを延々と正論で返す愚を演じてしまう事になる。

3:11 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
3:12 なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。なにゆえ、乳ぶさがあって、/わたしはそれを吸ったのか。
3:13 そうしなかったならば、/わたしは伏して休み、眠ったであろう。そうすればわたしは安んじており、

彼はあまりの苦しみゆえに、生まれてからすぐに死んでしまっていればよかったのに、と吐露している。
死ぬ事をあこがれるのだが、死は彼から遠ざかり、ただ、一瞬一瞬苦しみの中を行きなくてはならない状態である。
がんの末期症状に入って、ただひっきりなしの痛みに襲われている人のように。
そのような時、人は、ヨブの以下の言葉のように考える。

3:20 なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。
3:21 このような人は死を望んでも来ない、/これを求めることは隠れた宝を/掘るよりも、はなはだしい。
3:22 彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。
3:23 なにゆえ、その道の隠された人に、/神が、まがきをめぐらされた人に、光を賜わるのか。
3:24 わたしの嘆きはわが食物に代って来り、/わたしのうめきは水のように流れ出る。

なぜ自分はいのちがあるのか。
なぜ、こんなにも耐え難い苦しみに悩まされながらも、生きなくてはならないのか。

このように、片時足りとも耐え難い苦しみに悩まされる時、人は、今まで考えた事もなかった事、すなわち、いのちの存在理由と、そのいのちを与えて下さったお方の存在を考えるようになる。
その時、神に心を向け、立ち返る人は、救われる。
実際、末期がんのさ中、主に心を向け、主を知り、そして奇跡的に助かって、神の栄光のために用いられるようになった人は多い。

3:25 わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。
3:26 わたしは安らかでなく、またおだやかでない。わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」。

ヨブは結局、「わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及」んだのだ。
彼は羽振りがよかった時から、常に、その恐れがあり、その恐れのゆえに、義人としての行いを保っていたのだ。
そして、心の中で恐れていたとおりに、すなわち、信じたとおりに、なってしまったのだ。
その心があったから、サタンは、彼に触れる許可を得られたのであろう。

このように、地獄を恐れるから、今持っているものを失いたく無いから、義人のように良い行いを無理矢理にでもして、罪の楽しみを(本当は楽しみたいのだけれど嫌々ながら)我慢する、とするなら、それは実に、「貧しい義人」である。
神はヨブを、このような状態で一生を終わらせる所から、救い出される。災いによって、サタンを用いてでも。

しかし最終的に、彼は、この一連の出来事により、以前はおぼろげであった神観が、一層はっきりし、財産も以前の二倍祝福され、以前よりも優れた子供が生まれ、以前よりもより一層、親密な神との交わりを得るという結論が、ヨブ記の結論である。
神は、全ての事を益として変えて下さるお方であり、最善以下の事はなさらないお方である。
私達が「なぜ」と思えるような事でも、それを結局は、想像すらしていなかったトーブ(良し)へと導いて下さるのだ。

セメイオンとテラス - しるしと奇跡(ヨハネ4:43-54)
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4:43 ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。

イエス様は自分の故郷に行かれた時、実際、イエス様はあまりわざを行わなかった。
それは、故郷では、イエス様をあまりに一緒に育った同僚とか、子供時代も見ていた若造とか、そのように「見知った人間」として見て、神の子として信じる事ができない人達ばかりだったからである。
「信仰」これこそ、イエス様が働かれるきっかけをこの世に導入する力である。

4:46 イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。
4:47 この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。

この、病気をしている息子を持つ王室の役人は、イエス様がガリラヤに来られた事を聞いた時、すぐにイエス様の元に行った。
息子が死にそうな状態である。父親としては、できるだけ息子の近くにいて自分で何とかしたいであろうが、それよりも、イエス様のほうがなんとかして下さるだろう、と信じて、2日はかかるような道のりを押してまで、イエス様を探しにカペナウムまで来たのである。
この父親には、それだけの信仰があったのだ。

「あなた方は、しるし(セメイオン)と奇跡(テラス)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)

不思議な出来事は単に不思議として意味付けがされないが、しるし(セメイオン)は、神に関する”意味”が付与される。
カナの婚礼では、水という”無意味”が、ぶどう酒になるという、イエス様が必要を満たし、栄光を受けられるという意味がもたらされた。
長血の女は、無味な12年の日々に対し、イエス様を信じる信仰によって癒された、という意味が付与された。
見えない人が、見えるようになるのも、イエス様こ神の御子である事を彼らが意味の付与をせず、イエス様が栄光をお受けにならないとしたら、全く意味がない、単なる奇跡でしかない。

しかし人は、信仰によって成長する事が出来る。
『信仰によって、モーセは、成人(メガス)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語メガスは「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。

モーセは、信仰があったからこそ、100万倍まで成長した。イエス様は、ツロ・フェニキヤの女の信仰を「メガス」の信仰だと褒められた。(マルコ15:28)
しかしモーセが導いた出エジプトした民は、信仰が無く、また主が為されたしるしに対し、信じて神を栄光化する”意味付与”をしなかったため、40年もの間、幾つもの奇跡を見て、体験し、食べて、飲んで来たにもかかわらず、それらは無駄となり、荒野で屍を晒して行ってしまった。

そして、奇跡(テラス)は、人にはどうにも説明がつかない出来事である。
最近、メガやテラというギリシア語数字単位をよく耳にするが、いずれも聖書に登場するギリシア語で、メガス(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(一兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。

なお、テラスは4福音書には合計3回しか出てこないが、使徒行伝に9回登場する。
それは、信じた人は、イエス様のわざを行うのみならず、さらに大きなわざをも行う、とイエス様が言われた通りである。(ヨハネ14:12)

4:49 この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。

この役人は、既に信仰はあった。
そして、信仰をもってイエス様に「求め続けた」ゆえに、彼のメガス(百万)は、テラス(一兆)へと変わり、彼の信仰が、奇跡を引き出した。

4:50 イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。

なんと、この役人の信仰が、すでにその瞬間、息子から病を追い出したのだ。
それでイエス様は、あなたと一緒に行くまでもないですよ、帰りなさい、と言われた。
そして彼は信じて、帰って行ったが、はたしてその通りだった。

4:51 その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。
4:52 そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。
4:53 それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。
4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。

しるしが起きるのは、主が栄光をお受けになられるためである。それでこそ、しるしには意味が付与される。
しかし、信仰に結び付けない者はたんに「驚いた」だけで終わり、意味が無い。
ある者は、しるしを見て、逆にイエス様に殺意を燃やす者となる。

マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
 16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

私達は信じる者に与えられるしるしを携え行き、イエス様の栄光を伝える者でありたい。

サタンによって徹底的に苦しめられるヨブ(ヨブ記2章)
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2章でも、サタンが同じように登場する。

2:1 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

サタンは1章では神の子達に混じって主の会議に来たが、ここで再びサタンが主の前に来て、御前に立った。
地を行き巡り、ヘブライ語でシュートという言葉は、徘徊する、行ったり来たりする意味で、イスラエルの民がマナを拾い集める際に(民数記11:8)、また、ダビデがサタンにそそのかされてヨアブに命じ、ヨアブが地を行き巡ってイスラエルの人数を数えた時に用いられた語である。
サタンが地を行き巡るのは、食い物にする「ちり」に過ぎない人間を見つけるため、また、ヨブのような聖徒を訴える口実を探すためである。
サタンの性質について、黙示録に記されている。

黙示録12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

サタンは兄弟姉妹を訴える者、彼らを惑わし、主を呪わせ、主から離れさせる者である。それで天から投げ落とされた。
そして私達がサタンに勝利するすべは、12節に書いてある通り、小羊の血と、あかしの言葉によって、である。
ヨブは、素晴らしいあかしの言葉によって主に栄光を帰し、サタンの面目を失わせたが、サタンはそれでも引き下がらなかった。
ヨブは確かに素晴らしい信仰の持ち主で、なおも主の前に唇で罪を犯さなかったが、小羊の血なき人間は、いかにヨブのような「義人力」が強い人でも、最終的には籠絡してしまうものである。
私達は、ほふられた小羊キリストの血をもって、あかしの言葉で悪魔サタンに対抗しなくては、勝利できないのだ。

2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

主はサタンに対し、なおもヨブへの賛辞の言葉をかけている。
しかしサタンはなおも、ヨブを訴えたいのだ。

2:4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
2:5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

主はなんと、こんなにも誠実を尽くしたヨブに対し、サタンに、彼の身体に手を加える事を許可する。
人はこれを、わからない、と言う。
しかし私達は、途中だけの議論をし出すと、延々と出口の無い迷路に迷い込んでしまう。それがヨブ記の不毛な大部分を占めるものだ。
人は何かと「神はなぜ」と言いがちであるが、忘れてはならない。願い出たのはサタンであり、ヨブをここまで徹底的に傷めつける事の首謀者も、実際に手を下したのも、サタンである、という事を。

私達はただ、主の為された「結果」を、結んだ「実」を見るべきである。
主は最終的に、ヨブにさらに深い主との交わりへと導き、さらに物質的に祝福され、さらに優れた子達を得たのだ。

ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

主が事を為す事は「最善」以下の事は無く、まさに上の御言葉の通りであり、それ以上を私達は議論する必要は無いのだ。

2:7 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。

絶え間ないかゆみは、痛み以上に辛いものだ、と言われている。
サタンはここまでひどい目に、好きこのんでヨブに遭わせた。主は元々、ヨブがそうなる事をしなかった。しかしサタンは、ヨブがここまでひどい、つらい目に遭わせる事を切望していたのだ。
人が何も悪いことせず、平和に暮らしているのを、めちゃくちゃにしたい。それが、サタンの望みであり、そしてそのような性質に同意し、好きこのんで無実の人・弱い人をつまづかせるような者は、足を大きな石臼に結わえ付けられて海に沈められたほうがましだ、と主は言われた。
なぜならそのような事をする者は、サタンがやがてそうなるように、ゲヘナで永遠に焼かれ苦しみ続けるからだ。

2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

ヨブの妻の、信仰破棄である。彼女はサタンに用いられ、神を呪う事と、死ぬ事とを、夫に勧めた。
今まで人生を共にし、多くの子供を産み、事業の成功や資産の管理を手助けして来たであろう妻からのこの一言が、一番効いたのではなかろうか。
しかしヨブは、絶え間ないかゆみの中にあって絶叫したいはずなのに、そのような彼女に対して思いやりのある言葉をかけている。

2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

彼は妻を「愚か者」と呼ばず「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。」と、やんわり諭している。
最も辛い中にあっても、それでも妻の弱さをカヴァーするとは、なんと素晴らしい信仰の持ち主だろう。

2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。

ここに、ヨブの3人の友人達の紹介が記されている。
テマン人エリファズは、エサウの子孫だと思われ(創世記36:10-12)、「シュアハ」はアブラハムの後妻ケトラの子の名として出て来る。(創世記25:2)
「ナアマ」は,ヘブル語で「楽しみ」という意味で,聖書では,ユダに属する町の名(ヨシ15:41),あるいはカレブの子の名「ナアム」として出て来る(砧4:15)が,関係付けることは難しい。(聖書注解)
この3人が、これから長く続くヨブとの議論をするのだが、その長い議論の中で、彼らは神という言葉は多発しても「主(エホバ)」の御名は一切、用いていない。
主エホバの御名は1章・2章には多く出てきたが、実は、3章から37章の議論の中で、主エホバの御名が出てくるのは、12:9のヨブの言葉のみなのだ。

12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/「主(エホバ)」の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

獣も、鳥も、大地も、木々種々も、主エホバの御手が為した事を知っている、とヨブはその時言うのだが、ほんとうに、人間だけである。主エホバの御名を用いずに、人間的な知恵だけで人を罪定めしたり、哲学者ぶって知恵をこねくり回しているのは。

2:12 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
2:13 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。

心身ともに酷い傷だらけヨブを訪ねた、七日七夜一緒に、声もかけず、ただただ一緒にいてくれる3人の友人達。
これをみると、なんと素晴らしい友人達か、と思う。
しかし、彼らと一緒にいた七日七夜、ヨブに何の変化があったのか分からないが、それまで、断じて口で罪を犯さず、つぶやかなかった彼が、3章以降、自分の人生を呪いはじめ、つぶやき始める。
そして3人の友人達は、主エホバの御名ぬきの、人間的な知恵や格言に基づいた議論でヨブをもっと苦しめ、失望させ、ついにはヨブをして、声を荒げて自己正当化し、3人を沈黙させるに至らせてしまう。
言ってみれば、彼らがサタンに最も用いられた、と言っても過言ではない。しかし彼らにはその自覚は無く、ヨブのためになっている、と思い込んでいるのだ。
彼らが来た動機は、ヨブを慰めるためだったが、結局その逆に、見事、ヨブをもっと苦しめたのだ。
主の御名が無く人間の格言だけの知恵は、ただ人を苦しめるだけなのだ。
それは、ヨブほどの”義人力”が飛び抜けた人をも、腐らせてしまう。
私達はヨブ記から、ますます人の弱さ愚かさを知り、ただ主により頼む事と、そして、小羊の血とあかしの言葉によって勝利する術を身につけて行きたい。

主のために働く働き人が持っている徹底した保障(2列王記4章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日の箇所、第二列王記4章は、神の人エリシャを通して、主の奇跡が多く行われる。その一つ一つに共通している事は、主の働き人に対して、主は、徹底的に保証して下さるという事だ。労も多く、枕する所もなく働いている主のしもべ達に、主は、どのように報いて下さるかを本日見て行きたい。

1-7節では、預言者エリシャの元で学び、借金を負ってでも神の国に仕えていた働き人の家族に対する保障が記されている。この働き人は「主を敬う人」で、主の働きにいそしんでいたが、死んでしまった。残された妻と子供達は、借金を負った状態で、全財産は油のつぼ一つのみ。子供達は奴隷に売られようとしていた。果たして彼らは、主に捧げて、そのまま報いられず終わるのか?主はそんな事は、絶対にしない。
エリシャは彼女に言う。出来るだけ多くの人に声をかけ、器を借りて来なさい、そして戸を閉じて全ての器に油をついで行きなさい、と。彼女はとやかく言わず、預言者の言葉に望みをもって多くの器を借りてきた。
『油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。』(6-7節)
こうして主の働き人の家族は、負債を見事返したのみならず、妻も子供も生活の保証が全て与えられた。
主に仕える事は、どんな年金や保険に勝る保障があり、本人のみならず、その家族も守られるのだ。

8-37節では、エリシャを神の人として敬い、色々と便宜を計ってくれた女に対する報いが記されている。
彼女の夫は歳を取っており、子がなかったのに、子が与えられた。しかし18節以降を見ると、どうして?と思えるような事が起きる。せっかく生まれた子が、死んでしまったのだ。前回のケースのように、このような事が起きる時は、より一層、主の栄光が表れ、より一層、幸せになるための祝福が隠されているのだ。
彼女は子供の死について、信仰の良くない人には一切口を開かず、説明もせず、ただ神の人へと直接持って行った。彼女はそういう人だから、報いを受ける。子は、彼の祈りによって生き返らせてもらった。
この一件を通し、彼女はより一層主の恵みを知り、後にはボーナスも得る事が出来た。(2列王記8:1-6)
38-44節には、ききんの中でも、また致命的なミスからも、主の働き人達は守られる様が記されている。
一人の働き人が貴重な食事を作る時、無知ゆえに毒のうりを入れてしまい、あわや主の働き人達の群れを全滅させる所だった。しかし主は、エリシャを通し、その重大なミスを、毒もろとも帳消しにしてくださった。
主は、働き人がききんの時でも飢えないように、また、無知ゆえのミスをもカヴァーして下さるのだ。
さらに42-44節では、 初穂のパンと大麦のパン二十個と、新穀一袋をもって、百人の働き人を満腹させ、有り余らせる奇跡が行われた。イエス様がわずかなパンで数千人を養った奇跡を与えられたのは、群衆は、イエス様を慕って集まったからだ。「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。」(マタイ15:32) 主は、食料も持たずに無計画に彼らが集まったとしても、彼らが主を慕って来たのであるなら、彼らを空腹のまま返す事をせず、「かわいそう」と心配してくださり、しっかりと彼らを満腹にし、さらには、主の働き人の分も、満杯にした。
もう一つ、6章も見たい。6章に来ると、働き人がさらに増加し、さらに広い所に移らなくてはならなかった。
そのために新しい地に行って、新しい建物を建てようとするのだが、そこで事件が起きる。『ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。』(5節) 斧を借りてでも主の働きを懸命にしたのに、斧の頭を落としてしまった。しかしエリシャは、水に浮くはずがない斧の頭を、枝を切り落として水に投げ込んで浮かせる奇跡を起こした。
主は、借り物を使ってでも主の働に仕える働き人に、恥ずかしい思いをさせないお方である。

以上のように主は、主のために働く人に保証を与えて下さる。私達は足りてない所が多々ある。主に従って行く点においても、御言葉について行こうとする点においても。しかし、天地に満ち満ちており、有りて余らせて下さる主は、御力をもって、私達・主のしもべ達を満ち足らせて下さる。無から有を生じさせる主が、無いいのちを生き返らせて下さり、無い富を得させて下さり、無い諸々を得る力が与えられ、栄光に満ち満ちた祝福を、主に従いつつ得て行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

災いの中でも最高に神を高め、サタンの面目を失わせたヨブ(ヨブ記1:13-22)
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ヨブ記1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

ヨブ記と言えばこの言葉、と言える程に有名な言葉だが、この言葉がどのような状況で発せられたか。
それは、ヨブが今まで与えられていたものが全て、一度に、なし崩し的にその手から奪われていった時にである。

1:13 ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、
1:14 使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、
1:15 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

まず奪われたのは、牛やろば、また、その耕していた畑である。
シバ人が来て、彼らはヨブのしもべ達を剣で打ち、奪っていった。

1:16 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

神の火が天から降ってきた、と日本語聖書で書いてあるが、ここの神はヘブライ語ではエローヒムが使われている。
エローヒムは天使の事を指す事もあるし、サタンのような堕天使を現す事もある。
ちなみに6節の「神の子ら」はベニ・ハ・エローヒムで、その会合に、サタンも集ってきたのだ。
だからこの火は、サタン由来の火である。サタンの勢力も、天から火を降してしるしを行い、人々を惑わす事をするのだ。(黙示録13:13)

1:17 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

15節ではシバ人すなわち南から来た略奪隊だが、ここではカルデヤ人すなわちメソポタミア地方からの略奪隊が、らくだを奪って行き、しもべ達を剣で殺していった。
こうして、ヨブからはあらゆる持ち物を一度に失ってしまったが、何よりも心痛いのは、息子娘達を一度に失ってしまった事だろう。

1:18 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、
1:19 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

ヨブの子供達が何か悪いことをしたのかどうかは特記されていない。
彼らに関しては、ただ、一年に何度か祝宴を開いて「食事をし、酒を飲んだ」事しか書かれていない。
ただ、ヨブに関しては、彼ら一人一人のために全焼のいけにえを捧げた事は書いてあある。しかし、子供達自身が主を敬い礼拝を捧げた事は記されていない。
ヨブは、彼らが「心の中で神を呪ったかもしれない」という心配はいつもあり、そして結果的には、この息子・娘達は一人残らず、サタンが手をつける際に神のスーク(囲い)が取り去られてしまっていたのだ。

人は思う。どうして、彼らは死ななくてはならなかったのか、と。
ヨブ記には、人間の「どうして」が満ちており、その議論で満ちているが、しかし神は一切、答えておらず、ただ神の力強い主権が際立ってしるされており、そしてヨブは、以前に勝る息子・娘達を得て、財産も、以前の2倍も祝福され、そして何より、ヨブは以前はおぼろげにしか神を知らなかったのだが、この事があって後には、彼は神を見、ますますはっきりと神を知るようになったという結論が書かれてある。
それが、神の答えである。
私達は「なぜ」を連発して議論に留まる者ではなく、神は良きお方であり、最善以外の事はしないお方であり、いかに理解できないような災いを被ろうとも、後には幸いへと祝福へと導いて下さるお方である、と信じて進む事こそ、私達の分なのだ。

これらの災いは、サタンがヨブを妬んだ故、神に許可をもらうと、待ってましたとばかりにヨブに徹底的に災いをもたらした。
元々神は、ヨブを誇りに思い、彼が苦しむ事は御心に無かったが、サタンのほうはヨブが災いに遭って神を呪って欲しいと願いに願っていた。
しかし、そのサタンの申し出さえも用いて、神は栄光を受け取られ、そしてヨブにも後にはさらに優れた息子・娘達を得させ、さらに優れた祝福を得させる事に用いられた。
サタンの、人を嫌がらせる手法はまことにあざやかで、時には芸術的なほどに、人が最も神経に障る所を突く事が見事であるが、しかし、この時のヨブの反応は、サタンの面目を大いに失わせ、神様はますますヨブによって栄光を受け取られるものだった。

1:20 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

ここでヨブが言っている「主のみ名はほむべきかな(イェヒー・シェム・ヤーウェ・メヴォラク)」には、強調されたバラク(誉め称える、祝福する)が込められている。
つまり、これは無気力な口先の賛美ことばではなく、褒・む・べ・き・か・な!と、絶叫的に強調して主の名を褒め称えているのだ。
こんな目に遭っておりながら叫ぶヨブの賛美に、主はどんなに栄光を受け取られ、鼻高々だっただろう。
そして、ヨブが神を呪う事を期待していたサタンは、どんなに面目を失っただろう。

なお、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」の「母」は、ヘブライ語でエィーム、出発点の意味も含まれている。
つまり彼は、神は自分を祝福の出発点に立たせて下さったように、自分を再び出発点へと返して下さる、という意味が込められている。
ニコデモ(ヨハネ3章)が勘違いしたような、ヨブが再び母の胎に帰る、という事ではないのだ。

ヨブはこの後、人との議論の中で、主につぶやくような事も言うようになってしまう。
人は、弱いのであるが、しかし主は人の弱さを知っておられ、それをつつみ、さらに強くし、さらに幸いを返し、さらなる栄光を与えて下さるお方だ。

私達もヨブのように、何が起ころうとも、くちびるで罪を犯す事なく、いかなる事があっても主を誉め称え、そうして主が私達を通して鼻高々になっていただき、そしてサタンの面目をいつでも大いに失わせる者でありたい。

ヨブと神とサタンと(ヨブ記1:1-12)
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ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

最初にヨブの人となりが紹介されている。
彼は「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ」た。ここで用いられているヘブライ語ハヤーはBE動詞で、状態を現すが「なった」と訳す事もできる。
すなわち、「そのひととなりは全くなり、かつ正しくなり、神を恐れるようになり、悪に遠ざかるようになった」と。
ヨブはその生涯の過程で、御前で全くなるよう努力し、正しくなるよう努力し、悪から遠ざかるよう努力し続けた結果、神が、神の子達の会議においてヨブを自慢するようになった。
神に喜ばれるなら、当然、物質的にも祝福される。

1:2 彼に男の子七人と女の子三人があり、
1:3 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。

彼の子達は、この物質的祝福の故に、豪勢な毎日を送っていた。
しかし、この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。

1:4 そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
1:5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

ヨブは年ごとに、その日々が一巡するたびに、彼ら一人一人のために捧げ物を捧げたが、それは、罪を犯さないように、という祈りではなく、罪を犯したかもしれないから、万一のために、という、後手に回る祈りだった。
本人自身の罪は、本人自身の主を恐れ敬う心からの悔い改めによってこそ、拭われるものである。
だから子供達には、しっかり主を畏れ敬う心と、罪を犯したなら本人自身が悔い改めるたしなみをこそ教えるべきである。

1:6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。

ここに神の会議が行われるが、そこにはサタンも来ている。
神はその会議に、サタンが入る事も許可されるのだ。
世の中ではあたかも、神とサタンの勢力図は互角であるかのような勘違いがあるが、神とサタンの勢力は月とスッポンにも及ばない程、圧倒的に、神が上である。
何しろ神は、サタンを呪った時、その手足をことば一つでもぎ取った程だ。

創世記3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

神はへびを、すなわち、サタンを呪ったが、その時、ちりをそのエサとした。
人間の組成はちりであり、神の息なき人間は単なるちりであり、へびの食い物にさえなってしまう。
しかし、ちりであっても、神の子になるなら、神の許可なければサタンは一切、触れる事が出来ない。
むしろ、主に対する従順により、神の子となって、サタンを踏み砕く事が出来るようになるのだ。

ローマ16:19 あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
16:20 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。


ヨブ記1:7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

サタンは万能ではない。足で(腹で?)稼ぐしか無いのだ。
そして、人を激しく妬み、神から引き離し、単なるちりにして、食い尽くそうと付け狙っている。
サタンはヨブに目を留めた。

1:8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

主はヨブを自慢し「わたしのしもべ」と言って「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」と賞賛した。
彼のように自ら好んで主を恐れる人を、たとえそれが未熟であったとしても、主は喜ばれる。
そして、そのような人にはさらに召し、聖化し、栄光化するために、トレーニングされる。

1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

サタンは、主は「彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられた」と言ったが、「まがき」は、ヘブライ語でスーク(スーフ)と言う。
私達はこのスークによって守られているが、もしこの囲いが取り除かれてしまったら、私達はひとたまりもない。

私達はどのようにして、このスークを自分の周りに巡らす事ができるだろうか。それは、信仰によってである。
1ペテロ1:5「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」

ヨブ記1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
1:12 主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。

サタンはヨブについて、神に挑発した。
神はそれに乗った形ようなで、サタンに許可を与えるが、神は決してサタンのそそのかしに支配されたのではなく、逆に、サタンさえ用いてヨブをさらに純化し、聖化し、栄化するようにしたのだ。
すなわち、彼がより神を知るようになり、永遠に変わらない栄誉に与かるようにと。

この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。
列王記・歴代誌において、神を敬う良い王様が時々起こり、その代は例外なく物質的にも祝福されたが、しかし同時に、例外なく物質的祝福が元となって高慢になって罪を犯してしまった。
神はもしかすると、ヨブが、物質的祝福によって腐り切ってしまう前に、試練を与えられたのかもしれない。
そして、この信仰の試練によって人を練り、きよめ、決して朽ちる事の無い永遠の栄光に与らせるために、その事をされるのである。

1ペテロ1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

ヨブの、試練の前と後とは、物質においても信仰においても、格段に違った。
彼はこの試練を通して、さらに上のステップヘ進む事が出来た。

この世においては諸々の患難がある。しかし、主キリストは、世に勝ったのである。
だから私達は勇敢にこの世を渡り合って行く事が出来るのだ。

御国の宴会に入れる人、入れない人(ルカ14:1-24)
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主の働き人に貧しい思いをさせず豊かに養って下さる主(2列王記4章)
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主は、主の働き人を決して貧しい思いのままにされないお方である。
第二列王記4章は、まことに主の働き人に対する保障がどのようなものであるのかという事例に満ちている。

4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

彼女の夫は、負債を負ってでも主の預言者につかえていたが、そんな彼が死んでしまった。
残された彼女と子供達は、奴隷に売られる他は無いような状況であるが、しかし彼女は預言者の所にその問題を持って行った。
主は、主を恐れる人を、その家族をも養って下さる。
エリシャの言葉どおりにしたら、唯一の財産であった油が、多く満たされた。

4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。

8節から17節には、主の預言者に良くしてあげた不妊の女性に、子供が与えられる奇跡が記されているが、しかしその子が死んでしまった。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
彼女は一切の事を秘め、ただ直接、エリシャの所に行って、この事を解決してもらおうと思っていた。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

エリシャ、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。
それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は無知であった。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、毒を受けても害を受けないという保証が与えられている。(マルコ16:17)

彼は、無知であったかもしれない。主の働き人一同をあわや全滅させて下さるという、大きなミスを犯したかもしれないが、しかし主はききんの時代でも、働き人のミスを覆ってあまりある事をして下さるお方である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

これもイエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを追って集まった群衆である。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして、彼らの”無計画”ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

そして、主の保証の仕方は同じである。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
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5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

このヤコブ書5章には旧約の偉人、ヨブとエリヤが出てくる。
いずれも、忍耐を通して偉大な業績を残した人達だ。
耐え忍ぶ事はとても有用な事だが、それは単なる我慢大会ではない。
聖書的な「忍耐」は、未来を現代へと引っ張る力がある。

信仰者が登っていくべき、信仰の成長の「階段」が、ローマ5章に記されている。

ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

イエス様を信じて義とされた私達には、まず、神との間の平和を得る事が出来る。
そして、その恵みへと信仰によって導き入れられ、さらに、神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来るのだ。

ローマ5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

義とされた者は神との平和を得、平和を得た者は患難さえ喜ぶ。
「患難(スリフィス)」は、オリーブの実が圧搾機の中で絞られ、有用な油が絞り出されるような意味があり、患難によって、私達の中にある尊い信仰が絞り出され、それが主に喜ばれ有用に用いられるために、まず圧搾されるのである。それを思うなら、患難を喜びに変換できる。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏す、という意味がある。それは、農夫が種を蒔いて、下に平伏しつつも、あたかも、喜びの刈り取りを目の前現実で刈り取っているかのような喜びをもって、喜ぶものだ。
私達はそのようにして忍耐しているだろうか。信仰者の忍耐とは、単なる我慢大会ではなく、未来の喜びを目の前に引っ張ってきて喜ぶ力があるのだ。
そしてそれが錬達(ドキメーン)を生み出す。それは研磨する、あるいは溶鉱炉で不純物を除いて純化して行く意味がある。
私達はどんどん純化されて行き、そしてやがて、決して奪われる事の無い希望を生み出すのである。
ローマ5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

主は近い。だからむしろ私達も、聖書に記されている人々にならい、今している忍耐には大きな希望と喜びが必ず待っている事を当然のごとくに、信仰をもって自分のものとしていく事こそ、むしろラクで楽しい道なのだ。

5:12 さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。

将来をのぞむ事は有用だが、同時に、取らぬ狸の皮算用に陥らないよう、気をつけなさい、という事だ。
私達は将来起きる事が分からない。だから御旨から外れた先走った皮算用をして、誓いを破ったというそしりを受けないよう、ただ、はいははい、いいえはいいえだけ言えば良いのだ。

5:13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

地上を歩む日々は荒野を進む日々かのようで、忍耐が必要だが、いくら忍耐を喜びなさいと言われても、そうできない弱さが私達にはある。
だからこそ、聖徒の交わりの中で、特に信仰の先輩たちの助けを得つつ、また互いに祈り合いつつ、この荒野を乗り切って行く必要があるのだ。
そして私達も成長したなら、信仰の先輩となって、罪の道、滅びの道を歩んでいる人達を救うべきである。

5:19 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
5:20 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

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