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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

イシュマエルの子孫とエサウの子孫(1歴代誌1:28-54)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

1:28 アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。

アブラハムの子、イサクの子孫が、神の民の直系子孫であるが、今回の箇所は傍系の系図、すなわち、イシュマエルやエサウの子孫の系図が挿入されている。

1:29 彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、
1:30 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、
1:31 エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。

イシュマエルの子孫がここに記されている事は、将来のイスラエルにとって重要である。
なぜなら今、まさに現代、イスラエルはこのイシュマエルの子孫であるアラブ人によって苦しめられているからだ。
イシュマエルの子孫はどのような性質になって行くのかは、母の胎にいる時に決まっていた。
創世記16:11 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。
16:12 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。

イシュマエルにしても、エサウとヤコブにしても、母の胎にいる時から主はその子がどのようになるかを予告しているが、母がどのように胎教するか、それはとても重要である。

多くの国々では義務教育はだいたい5-6歳から始まるが、イスラエルの律法では、いのちが母の胎に宿った時から既に始まっており、母は、胎児に向かってトーラーを毎日聞かせる。
それで、彼らは生まれた時から既に御言葉の耳が開かれており、13歳の少年になる頃には、モーセ五書全部を暗記しており、大人になる頃には天才となっているのである。
結婚と子育て過ちや、性的な過ちは、後々の子々孫々に、致命的な災の根を残す事となってしまう事を、おそらくエズラは警告し、傍系子孫の系図も記しているのだろう。

1:34 アブラハムはイサクを生んだ。イサクの子らはエサウとイスラエル。

イサクの子、イスラエルの子孫が神の民の直系だが、エサウという「傍系」の系図を、詳細に載せている。

1:35 エサウの子らはエリパズ、リウエル、エウシ、ヤラム、コラ。
1:36 エリパズの子らはテマン、オマル、ゼピ、ガタム、ケナズ、テムナ、アマレク。

テマン人は知恵深い人々として他の箇所に記されている(ヨブ2:11、オバデヤ9)が、アマレクは暴虐な民として神が徹底的に絶ち滅ぼすように命じている。
エサウは俗悪な者としてヘブル12:16に記されており、俗悪な子々孫々を産んでいった。

1:43 イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。

1歴代誌1:37-54には、エサウの子孫の系図と、その中から出た王達、首長たちが、大勢記されている。
それは、イスラエルにはまだ王がいなかった時、であると書いてあるので、イスラエル(ヤコブ)はエサウの祝福をだまし取ったものの、栄えたのはエサウのほうだったようである。
エサウの子孫が王をつくり、増えていったその時期に、イスラエルはエジプトで奴隷生活を430年も送っていたからだ。

しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)
 

永遠の系図に残る礼拝する民と、消えていく礼拝しない民(1歴代誌1:1-27)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

バビロン捕囚の後、イスラエルの信仰を復興したエズラが編纂したと言われるこの歴代誌は、系図で始まる。
系図は、イスラエル人にとって、どこに自分のアイデンティティがあるのかの拠り所であり、また系図には、主に依り頼んで栄えた人も、主を軽んじて呪われた人も記されている。

系図はツリー構造であるが、そのツリー(木)の幹にあたる部分と、枝葉にあたる部分があり、歴代誌における「幹」すなわち主人公は、主を礼拝する民、主につながり続けた人達である。それが結果的にユダ族であり、レビ族である。
主を敬い、礼拝を重んじる人々は祝福を受けて栄え、主を軽んじ礼拝を疎かにする民は衰退し、最終的には滅びる。
それこそ、歴代誌が教える重要な教訓である。
おそらく記者であるエズラは、その事を伝えるために、全人類の祖先であるアダムの系図から記し始めた。

1:1 アダム、セツ、エノス、
1:2 ケナン、マハラレル、ヤレド、
1:3 エノク、メトセラ、ラメク、
1:4 ノア、セム、ハム、ヤペテ。

1節から4節のヤペテまでは、接続詞も一切なく、名前だけがそのまま一気に記されている。
この、1−4節は最も根幹的な「幹」にあたり、また5節以降23節までの系図には、名前と次の名前の間に接続詞ワウが挿入され、また、その時代に何が起きたかという説明も所々に挿入されている。
聖書注解を見ると、おそらく「幹」と「枝葉」を区別するためだろう、と言われているが、この、接続詞ワウ無しの名前だけの列挙は、ヘブライ語がわかるユダヤ人には、名前を繋げた事によって浮かび上がって来る意味を読む事が出来る。

ヘブライ語の人名には、それぞれ意味があるのだが、このアダムからノアに至る系図の名前をそのまま列挙して行くと、一つの意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味であり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、マハラルエルは「祝福の神」という意味である。
エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。

以上、これらの名前の意味をつなげると、次のようになる。

「人は、約束された(授けられた)。脆さ、致命的な悲惨が。祝福の神は、降りて来て、教え、捧げた。彼が死ぬ時、何かが起きる。嘆き悲しみは、慰められ、新しい希望となる。」

この浮かび上がった意味は、まさしく、イエス・キリストによる人類の救いを表しているではないか。
実は、ユダヤ人が、歴代誌のこのワウ無しの系図を朗読するたびに、そのような意味をも覚えつつ、暗唱しているのだが、イエスキリストを受け入れるユダヤ人がいないのが本当に歯がゆい所である。

続いて系図は、ノアの子ヤペテの子孫になる。

1:5 ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。
1:6 ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。
1:7 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。

ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、以下の預言はまさに実現した。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(創世記9:27)
しかし旧約においては、ヤペテの子孫は全く登場しないため、歴代誌の系図では、わずか3節で終わりとなっている。
たとえ旧約の系図から外されてしまっても、イエスキリストを信じるなら、再び接ぎ木されるのだ。

続いて系図は、ノアの子ハムの子孫となる。

1:8 ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。
1:9 クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。
1:10 クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。
1:11 エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、
1:12 パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ。カフトルびとからペリシテびとが出た。
1:13 カナンは長子シドンとヘテを生んだ。
1:14 またエブスびと、アモリびと、ギルガシびと、
1:15 ヒビびと、アルキびと、セニびと、
1:16 アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとを生んだ。

このハムの子孫たちは、主を敬わない者達、礼拝を阻害する者達として聖書には記されている。
特にニムロデは、歴代誌において重要な悪役の人物である。このニムロデの子孫によって神の民は散らされ、神殿は破壊され、バビロン捕囚に遭い、そうして歴代誌は閉じられるからだ。
主を敬う民に対し、主を蔑む民もいる。カナン人やペリシテ人もそうである。
主の民が、主を敬わない事を続けてしまうと、神は彼らを用いて主の民を懲らしめ、なおも主に従わない事を続けていると、最終的には約束の地から吐き出されてしまうのだ。

続いて、セムの子孫について記されている。歴代誌の系図の本流は、神の民・セムの子孫である。

1:17 セムの子らはエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラム、ウズ、ホル、ゲテル、メセクである。
1:18 アルパクサデはシラを生み、シラはエベルを生んだ。
1:19 エベルにふたりの子が生れた。ひとりの名はペレグ――彼の代に地の民が散り分れたからである――その弟の名はヨクタンといった。
1:20 ヨクタンはアルモダデ、シャレフ、ハザル・マウテ、エラ、
1:21 ハドラム、ウザル、デクラ、
1:22 エバル、アビマエル、シバ、
1:23 オフル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみなヨクタンの子である。

ここではエベルから枝分かれしたヨクタンの子孫が記されたが、24節以降27節までは、再び、接続詞ワウなしの名前の列挙となる。
すなわち、系図の本流である。

1:24 セム、アルパクサデ、シラ、
1:25 エベル、ペレグ、リウ、
1:26 セルグ、ナホル、テラ、
1:27 アブラムすなわちアブラハムである。

こうして、信仰の先祖、アブラハムまでの系図がつながった。
主を敬う信仰の人、礼拝する人こそ、人間のファミリーツリーの中で幹となって、栄えて行く者、永遠に残る者である。
私達は、主を敬い、礼拝する民、永遠に残る民として、歩むべきだ。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
敵に良くしてあげる事の多大なメリット(ルカ6:27-38)
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サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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イザヤ書59章は主語が明確に分かれている。
1−4節の主語は「あなたがた」、5-8節は「彼ら」9-15節は「私たち」、16-21節は「主」である。

なぜ、人には悲惨な事が起きるのか。そして、どうして祈っても主に聞かれないのか。
なぜ祈っても、癒やされず、必要は満たされず、悪霊は離れて行かないのか。
それは次のように書いてある通りである。
 59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
 59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

5-8節の「彼ら」はまさにサタンの申し子のような、邪悪な行いをしてなんの呵責も無いような者達であるが、そんな彼らによって被害に遭い、苦しみ、災いばかりを被っている人は、いかにして、主の救いを受けられるのか。
それはずばり、自分の罪を認める事である。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。

この、12節の言葉が、57章から続く主の叱責が、60章以降の主の憐れみと祝福へと転換点するターニングポイントとなる。
主の叱責から、主の憐れみと祝福になるターニングポイントとなる鍵は、自分の罪を認める事である。

日本語の聖書に「ごめんなさい」という言葉が一切出てこない事をご存知だろうか。
こんなにも日本語としてはメジャーな言葉は、どうして、存在しないのか。

聖書で「ごめんなさい」に相当する言葉は、「わたしは**の罪を犯しました」である。
ごめんなさいの漢字は「御免なさい」、すなわち、非礼をしてしまった自分を「免じ」る事を求める言葉である。
つまり、ごめんなさい、という言葉には、自分が犯した非を言い表す所がないし、また、非を改める意思表示も、この言葉の中に含まれていない。
「申し訳ございません」も、「言い訳のしようがない」や「弁解の余地もない」という意味で、あり、「すみません」、も、相手に非礼をしてしまった自分の気持ちが、このままでは「済まない」の意味で、自分が罪を犯したというニュアンスが抜けている。
もしかすると、「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」という言葉が、日本に救いが中々もたらされない事に、大いに役立っているかもしれない。

 59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
 59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
 59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。

この、9節から11節は、日本の文学では多々見られる。自己憐憫、悲しい悲しいの演歌の世界である。ここにとどまっている人は多く、そして12節に至る人は少ない。
それに対し、12節から15節は、自分の罪の告白であり、これこそが、主の助けが開かれるコツである。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
 59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
 59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
 59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

ここでは、かなり具体的に、自分の罪を告白している。これこそ、16節以降の主の助けを得る手段であり、ひいては60章以降の祝福を得るコツである。
実に、悪霊や呪いが留まり続けてもらうためのコツは、自分の罪を言い表さない事である。

 59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

主が義の胸当てをまとい、救いのかぶとをかぶって、戦って下さる。
この武具はエペソ6章にも登場するが、エペソ6章は信仰において成熟し、悪しきものと戦う事の出来る人が、身につけて戦うものであるのに対し、ここでは、そのような「人」がいない故に、主みずからが、「自分の罪を告白した人」のために立ち上がり、戦ってくださる事がしるされている。
エペソ6章には登場しない「報復の衣」「熱心の(ねたみの)外套」は、ただ主が身に付けるものであって、人が主を差し置いてまとったりしてはならないものである。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。

主は彼らに報復をされるが、ここの「彼ら」とは、5-8節の「彼ら」である。
 59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
 59:6 その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
 59:8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。

主は、このような事を好き好んでする「彼ら」に、報復をされる。
それも、自分の罪を、告白した人達を救うためにである。自分の罪を告白しない人に対しては、いつまでも「彼ら」から好き放題に蹂躙されたままである。

 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。

まことに、日出る国に主の栄光があらわれるためには、「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ない」の領域を出て、自分の罪を言い表す必要がある。
その時、主のいぶきが吹き荒れて、たちまし主の栄光がこの東の国、日出る国を覆うだろう。

 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

ここで、重要な事が示されている。
主が「あがなう者」として現れてくださるのは、「とがを離れる者に」対してである。

つまり、罪を言い表したなら、次に、自分の「とが」を「離れる(シュブ:返る、リターン、離れる)」事である。
それをするなら、主が暁のように現れてくださり、悪魔の申し子のような「彼ら」に報復し、60章以降のすばらしい祝福へと入って行けるのである。

自分の罪を言い表す事。そして、それを改める事。
これこそ、神と人との間の隔てとなっている壁を取り除く、唯一の方法である。

自分の中に住み着いている悪霊を追いだそうとする人が「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何度言っても出て行かない場合は、自分が習慣的に抱え持っている罪を主の御前に告白しているか、そしてそこから1ミリでも離れようという努力をしているかを今一度チェックする必要がある。
いつまでも自分の罪を手放さず、罪の自分と仲良くし、そこから離れないままでいるなら、悪魔サタンに握られてしまう「とっかかり」を与えてしまっているようなものである。
しかし、罪を言い表し、それを改めようと努力するなら、悪魔サタンがその人をつかむ「とっかかり」を失う。
ちょうど、サルスベリの木は猿がつかめるようなとっかかりが無くてすべり落ちてしまうのと同じように。
だから、「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何百回言うよりも、むしろ、自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をして、「悪魔サタンすべり」になるべきである。
自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をするなら、主が働いて、主が悪魔サタンに報復する機会を得るからだ。
 

歴代誌概要(1歴代誌1:1-4)
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講解説教は本日より歴代誌に入る。

歴代誌は、預言者の言行録や、王たちの書、また、諸々の注解など、多くの資料を基にしているが、誰がこれをまとめ、記したかを示す箇所は無い。
ユダヤ人の伝承では、著者をエズラとしている。
歴代誌の内容は、そのままエズラ記に続けるなら内容的に非常にマッチするし、そして、歴代誌の内容は、バビロン捕囚後の諸々の危機に際し、エズラがイスラエルの民を鼓舞した精神と、非常によく一致している。

バビロン捕囚後のイスラエルには、周辺諸国の圧迫という危機があったため、イスラエルのアイデンティティを鼓舞する必要があったし、長らくバビロンにいたために神殿礼拝が軽んじられてしまっている現状に対し、礼拝の復興を鼓舞する必要があったし、また、異邦人との結婚・血筋の混濁がはびこりつつあり、せっかく主がバビロンから開放して新しい歩みだしをして行こうとしていたというのに、またしても捕囚前の堕落した時代に逆戻りしようとしていたため、捕囚前の堕落した王達がいかなる道を辿ったかを示す必要があった。

歴代誌は、まさに捕囚後のイスラエルの民が生きるべきエッセンスが詰まっている。

第一歴代誌1章から9章までは、アダム以来の系図が記されており、イスラエルのアイデンティティはどこにあるのかをまさに示している。
10章から第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿こそがイスラエルのアイデンティティである事を強調している。
また、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。

系図はファミリーツリーであるが、歴代誌において幹となっている部族は、レビ族とユダ族である。
それは、バビロン捕囚から帰還しイスラエルに定住しに来た部族がそれだからだ。

10章から第二歴代誌に至るまでは、特にダビデとソロモンの、神殿建設に関わった事が記されている。
サムエル記におけるダビデは、サウルとの葛藤や苦悩、またバテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌におけるダビデはむしろ神殿建設のために努力したダビデが記されている。
彼がいかに神殿建設の準備をし、いかに礼拝組織や聖歌隊を編成したか、また、彼の子ソロモンがいかに神殿建設をしたか、列王記には無い詳細な内容が記されている。
そして第二歴代誌は、ソロモン以降の王達の歩みが記されているが、ここで繰り返し強調されている事は、神を畏れ神殿を重んじた王たちは祝福され、それを軽んじた王達は呪われている事である。
まさに、バビロン捕囚後の人々に必要な警告と養いが、歴代誌の中にある。

歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」の意味である。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
列王記はネビイーム(預言者)の中に入っており、ヨシュア記や士師記などの歴史と、イザヤやエレミヤなどの預言書と同じカテゴリにある。
それに対し、歴代誌は、ケトゥビーム(諸書)、すなわち詩篇や箴言、伝道書など、神様との関係の中で生まれた文学類と同じカテゴリの中にある。

歴代誌、それはユダヤ人の「日々の出来事」であり、私達にとっても「日々の出来事」である。

内容としては、ユダヤ人の系図や神殿、王達の歴史と、私達異邦人には全く関係のないものであるかのように見えがちだが、決してそんな事はない。
なぜなら系図は私達の先祖アダムに始まり、また信仰者の先祖・アブラハム以降の系図は、まさに私達の系図であるからだ。
そして私達が、現代のまことの神殿であるキリストを、いかなる態度で礼拝するべきか、彼を敬うものはいかに祝福され、また軽んじるものはいかに呪われるか、それはそのまま私達に当てはまる事だからである。

歴代誌は、私達と、神様との関係を根底に置きながら、読み進めて行くべきである。
読み進めるにつれて、私達が歩むべき日々の姿を学んでいきたい。

頑なで悔いない心がもたらしてしまう災いと滅び(2列王記25:22-30)
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いよいよ第二列王記の最後である。
第二列王記は、主に従う良い王の時代もあったが、大部分は、主に従わない悪い王の時代だった。
主は何度も預言者を遣わし、主に立ち返るよう警告して来たのもかかわらず、それを軽んじ、主に聞き従わない事を続けた結果、バビロンが攻めてきて、なお改めなかった結果、エルサレムは城壁も神殿も徹底的に破壊され、ほとんどの主だった人々は足かせに繋がれてバビロンへ引かれて行ってしまった。

25:22 さてバビロンの王ネブカデネザルはユダの地に残してとどまらせた民の上に、シャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを立てて総督とした。
25:23 時に軍勢の長たちおよびその部下の人々は、バビロンの王がゲダリヤを総督としたことを聞いて、ミヅパにいるゲダリヤのもとにきた。すなわちネタニヤの子イシマエル、カレヤの子ヨハナン、ネトパびとタンホメテの子セラヤ、マアカびとの子ヤザニヤおよびその部下の人々がゲダリヤのもとにきた。
25:24 ゲダリヤは彼らとその部下の人々に誓って言った、「あなたがたはカルデヤびとのしもべとなることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすればあなたがたは幸福を得るでしょう」。

エルサレムには、取るに足りないと見られている貧しい人達が残ったが、バビロンの王が総督として立てたケダルヤの元、その残されたわずかな人々の間に、ささやかな平安な時が訪れた事が、エレミヤ40章から伺える。
ところが、それでもなお身勝手な夢を見る者達の手によって、その弱く力のない人達は蹂躙されてしまう。

25:25 ところが七月になって、王の血統のエリシャマの子であるネタニヤの子イシマエルは十人の者と共にきて、ゲダリヤを撃ち殺し、また彼と共にミヅパにいたユダヤ人と、カルデヤびとを殺した。
25:26 そのため、大小の民および軍勢の長たちは、みな立ってエジプトへ行った。彼らはカルデヤびとを恐れたからである。

この、王の血統であるイシュマエルは、身勝手な夢を見てバビロンが立てたケダルヤを撃ち殺した。
カレアハの子ヨハナンはイシュマエルと戦おうとして出てきて、イシュマエルはアモン人のところに逃れたが、ヨハナンは、このままではバビロンの怒りを買って滅ぼされてしまうと恐れ、イスラエルの民を連れてエジプトへ行く心づもりをもて預言者エレミヤに伺いに行く。(エレミヤ41-42章)

エレミヤ42:1 そのとき軍勢の長たち、およびカレヤの子ヨハナンと、ホシャヤの子アザリヤ、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者にいたるまで、
42:2 みな預言者エレミヤの所に来て言った、「どうかあなたの前にわれわれの求めが受けいれられますように。われわれのため、この残っている者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください、(今ごらんのとおり、われわれは多くのうち、わずかに残っている者です)
42:3 そうすれば、あなたの神、主は、われわれの行くべき道と、なすべき事をお示しになるでしょう」。
42:4 預言者エレミヤは彼らに言った、「よくわかりました。あなたがたの求めにしたがって、あなたがたの神、主に祈りましょう。主があなたがたに答えられることを、何事も隠さないであなたがたに言いましょう」。
42:5 彼らはエレミヤに言った、「もし、あなたの神、主があなたをつかわしてお告げになるすべての言葉を、われわれが行わないときは、どうか主がわれわれに対してまことの真実な証人となられるように。
42:6 われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう」。

このやり取りだけを聞くと、一見、主の預言者に伺い従順を見せる良き信仰者のように見える。
しかし、主は、この者達が主の御言葉に従うように見せかけて、実は自分のエジプトに行く心の決心を固く握りしめ、手放すつもりがない事をご存知であった。

42:7 十日の後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
42:8 エレミヤはカレヤの子ヨハナンおよび彼と共にいる軍勢の長たち、ならびに民の最も小さい者から最も大いなる者までことごとく招いて、
42:9 彼らに言った、「あなたがたがわたしをつかわして、あなたの祈願をその前にのべさせたイスラエルの神、主はこう言われます、
42:10 もしあなたがたがこの地にとどまるならば、わたしはあなたがたを建てて倒すことなく、あなたがたを植えて抜くことはしない。わたしはあなたがたに災を下したことを悔いているからである。
42:11 主は言われる、あなたが恐れているバビロンの王を恐れてはならない。彼を恐れてはならない、わたしが共にいて、あなたがたを救い、彼の手から助け出すからである。
42:12 わたしはあなたがたをあわれみ、また彼にあなたがたをあわれませ、あなたがたを自分の地にとどまらせる。

主は既に、バビロン捕囚という災いに遭ったイスラエルを、すでにあわれみ、バビロンを恐れてはならない、主ご自身が共にいて、あなたがたを救い彼の手から助け出す、と言われた。
そして同時に主は彼らの心の中をご存知であり、警告を与えられる。

42:13 しかし、もしあなたがたが、『われわれはこの地にとどまらない』といって、あなたがたの神、主の声にしたがわず、
42:14 また、『いいえ、われわれはあの戦争を見ず、ラッパの声を聞かず、食物も乏しくないエジプトの地へ行って、あそこに住まおう』と言うならば、
42:15 あなたがた、ユダの残っている者たちよ、主の言葉を聞きなさい。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、もしあなたがたがむりにエジプトへ行ってそこに住むならば、
42:16 あなたがたの恐れているつるぎはエジプトの地であなたがたに追いつき、あなたがたの恐れているききんは、すぐあとを追ってエジプトまで行き、その所であなたがたは死ぬ。
42:17 すべてむりにエジプトへ行ってそこに住む者は、つるぎと、ききんと、疫病で死ぬ。わたしが彼らに下そうとしている災をのがれて残る者はそのうちにない。

エレミヤは、彼らがエジプトに行く心づもりである事を聞いていなかったはずなのに、主はエレミヤに教えられ、そうして、明確にエジプトに行ってはならない事を警告された。

43:2 ホシャヤの子アザリヤと、カレヤの子ヨハナンおよび高慢な人々はみなエレミヤに言った、「あなたは偽りを言っている。われわれの神、主が、『エジプトへ行ってそこに住むな』と言わせるためにあなたをつかわされたのではない。

彼らは自分の口で「sh油の御言葉に聞き従います」と言っておりながら、エレミヤを通して心が見透かされてしまうと、とたんに態度を翻し、エレミヤに「偽りを言っている」と言った。
結局、「高慢」が彼らの心を支配していたのだ。

43:5 そしてカレヤの子ヨハナンと軍勢の長たちは、ユダに残っている者すなわち追いやられた国々からユダの地に住むために帰ってきた者、――
43:6 男、女、子供、王の娘たち、およびすべて侍衛の長ネブザラダンがシャパンの子であるアヒカムの子ゲダリヤに渡しておいた者、ならびに預言者エレミヤとネリヤの子バルクをつれて、
43:7 エジプトの地へ行った。彼らは主の声にしたがわなかったのである。そして彼らはついにタパネスに行った。

なんと、エレミヤまでも無理矢理にエジプトへ連れて行かれてしまった。
列王記の記述は、私達に何を語って来たか。それは、主に従おうとしない「高慢」な者には災いが追いつき、主の御言葉を前にへりくだって自分の思い込みを捨て、主に従うなら豊かに祝福される、という事だった。
結局、主に従わずに、バビロンに徹底的に痛めつけられても、なお自分の考えを手放さない者達は、捕囚後も、多くの人々を災いの道へと道連れにしてしまった。


 44:15 その時、自分の妻がほかの神々に香をたいたことを知っている人々、およびその所に立っている女たちの大いなる群衆、ならびにエジプトの地のパテロスに住んでいる民はエレミヤに答えて言った、
 44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
 44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
 44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。

頑なな人とは、結局、自分の望みが叶うのであれば、主であろうと、天后(天の女王)であろうと、かまわないのだ。

この「頑なさ」、それが2列王記を災いで満たしてしまった大元であった。
主の御前に自分を降ろさない事、御言葉に対し、預言者に対し、自分を降ろさず、自分の好むこと、自分の計画、自分の意志を、神よりも優先させ、それによって、災いをもたらし、ついには、国を滅ぼしてしまった。

2列王記25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。

列王記は、主が慰めを与えてくださる所で終わる。
確かに主は、悔い改めて自分を降ろし、主に立ち返る人に、憐れみ深い。
しかし、主に聞き従わない、頑なな、悔い改めない心を持ち続けるなら、そうする限りでは、災いがつきまとう。

この列王記を私達は、単に歴史書としてでなく、私達に実際に関わりのある真理であるとして戒めを受け、主に従う良い王が歩んだように、祝福の道を歩むものでありたい。

天へと嫁入りするために整えるべき花嫁衣装とは(黙示録19:5-10)
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メッセージ音声

私達が目指すべき目標の地(申命記34:1-7)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 一昨日の未明、私の祖母の林アイコが100歳と5ヶ月で天に召された。昨日、親類一同と天声の十数名の少数で、ささやかな葬儀を行ったが、それは、私が体験したどの葬儀よりも美しく荘厳で、清らかで、そして静かな喜びに満ちていた。祖母の顔は明らかに、真の故郷に迎え入れられ、満ち足りている表情だった。
私達が目指すべき故郷は一体どこにあるのか。今回、モーセが主にとり上げられる場面から見ていきたい。

モーセが生涯を終える直前、イスラエルがいよいよ約束の地カナンを目前にした時、彼は全イスラエルに向けて最後の説教をし、それぞれに相応しい祝福をした。それが終わると彼は、主があらかじめ「そこで死ぬ」と告げられていたピスガの山を登りはじめる。彼は120歳ではあるものの、目はかすまず、気力は衰えていなかった。皆に見つめられながら登っていく彼の足取りは、しっかりしていただろう。
山頂からは、イスラエルが継ぐべき土地が、北から南に至るまで、ヨルダン川から地中海に至るまでが全部見えるが、主は言われる。あなたはそこへは、入れない、と。そしてモーセは、そこで死んだ。(4−5節)
ここで疑問が起こる。皆はあそこに入れるのに、どうして一番の功労者のモーセだけ入れないのだろうか。
私達も、思う時があるかもしれない。あの人この人は、あの幸せの中に入っている、どうして私だけが入れないのか。そして、主から「あなたはそこに入って行くことはできない」と言われる時、本当に切なさを覚える。
モーセが最後、ピスガ山を登る時、どんな心境だったのだろうか。ああ、これで人生が終わってしまう、あれができないまま、これをしないままなのに、と思っただろうか?そうではないと思われる。その根拠は・・・。

モーセが死んだ後、イスラエルの民は確かにヨルダン川を渡り、乳と蜜の流れる地を受け継いだ。しかしその2世代後、そこは呪いの地となってしまった。なぜなら彼らは、主の御言葉を軽んじ、背いたからだ。
さて、約束の地とは一体、どこにあるのだろう?神の国は一体どこにあるのだろう?
思っていないだろうか。自分はあの領域に入ったら、あの人のようになったら、神の国が成就するのだ、と。
しかし主は言われる。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)
だからもし、結婚したら幸せになれる、と思って結婚しても、その人の中に神の国が構築されていないなら、結婚生活は苦々しい生活となるのだ。たとえあこがれの会社に入っても、あるいはあの地位を得ても、そのに神の国が構築されていないなら、すなわち、その人が神の支配を嫌がり、自分勝手なままなら、そこは乳と蜜が流れる地ではなく、呪いの地となってしまう。ちょうどイスラエルの民が、そうだったように。
だからまず、神の国を構築する事、すなわち、神の統治をそのまま受け入れる事こそ、必要である。

ヘブル書に記されている。モーセはキリストの故に受けるそしりをエジプトの宝にまさる富と考え、見えない方を見ているようにして、忍び通した事が。信仰の先輩たちは皆、地上では寄留者であると言い表し、天にあるふるさとを求め、神はそんな彼らのために、都を用意しておられたのだ、と。(ヘブル11:13-27)
モーセの時代に、キリストは人として来ていなかったが、モーセははっきりと、信仰の目で仰ぎ見ていた。
この真の指導者がやがて来られる、彼に聞け、と彼はイスラエルの民に指示したのだ。そう、キリストこそ本題である。カナンの地ではない、地上のあの地でも、あるいは富でも地位でも状態でもない、ただ望むべきは、私達の只中におられるキリストによって支配される事。それこそ、まことの神の国である。

モーセは主に言われた。「おまえはもはや足りている(rab)。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。」(申命記3:26) ここの「足りている(rab)」は、十分に満ちている、という意味である。
主は言われた。あなたは地上で為すべき事を十分に満たした、もう地上のカナンの地を求める必要はない、むしろ、天の故郷に帰りなさい、「人の子よ、帰れ」(詩篇90:3)と。
そして最後、彼は主の「言葉(peh:口づけ)」(申命記34:5)によって、ピスガの山で死んだ。
主は、御口から出る息によって人を生かし、御口によって息をとられる。だから、生きるにしても、死ぬにしても、何の恐れもないのだ。私たちが目指べきは、モーセも、信仰の先祖達もいる、あの天の御国である。
私達は生きる限り、そこへ心を結びつけ、やがてあの信仰の先輩たちが待つ天に上げられる者でありたい。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
モーセの生涯の終わりに、ピスガの山を登り行く時(申命記34:1-7)
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先祖の列へと加えられる信仰の先輩たち(創世記49:29-33)
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