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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

審判の問題 - エレミヤ書の7つのGolden Key 2/9(エレミヤ7:12)
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エレミヤはバビロン捕囚の直前から主から預言者として召され、その激動の時代の最っただ中を見聞きし、活躍した預言者である。
エレミヤ書はこの週末の時代を読み解く上で非常に重要な書であるが、このエレミヤ書を読み解く上で重要な節が、9つある。
今回はその2つ目を見ていきたい。

エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
この箇所が、2つ目の鍵である。

主はここで、シロにおいて行われた事を見よ、と言っている。
シロはかつて主の箱が置かれ、礼拝が行われていた所だ。
しかしそこは、祭司の堕落によって、主の箱は取り上げられ、その場所は荒廃してしまった。(1サムエル記2-4章)
その審判を覚えよ、と主は言っている。
二番目の鍵は、すなわち「審判」である。

主が神の民に望んでいた事は、直前の節に書いてある。
7:5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、
7:6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、
7:7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。

しかし、神の民がして来た事といえば、その全く逆、主の怒りを引き起こす事だった。
7:8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
7:9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
7:10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。
7:11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。

主は、主の宮を、強盗の巣とまで言った。
主に向かっての、心からの礼拝が行われるはずの主の宮を、人々は、表向きはきよい有様を取り繕っていて、そこに集う人々から搾取し、奪い、利益をむさぼる所と勘違いして、公然と、羊の毛をかぶった狼が集う所にしてしまっている。
それを主が咎めて、言ったのだ。
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。

悪しき事を行っている人が、いかに栄えているように見えても、神は必ず彼らを裁かれる。
人は必ず、神の御前に出て、さばきを受けなくてはならない事が、聖書には記されている。

黙示録20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

神は、それぞれを、地上において行った、行いに応じて裁く、と言われた。

2コリント5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

ここで「裁きの座」と訳された語は、原語では「ベマ」、裁判席の意味もあり、また、表彰台の意味もある。
確かに地上において主に対し悪を行った者は、死後の「さばき」において永遠の苦しみが定められるが、キリストにある者は、そのさばきにおいて、永遠の報いが与えられる。
そしてキリストにある者たちは、表彰台に立たせられ、そこで、地上において為した「行い」に応じて、賞が与えられるのだ。
死んだ後どうなるのかが怖い、と言う人がいるが、キリストと共に歩む生活をしていく内に、いつしかその恐れは消えて平安が与えられていくし、何より、キリストにある者達は、さばきの日、どうなるかは、以下の御言葉で語られている。

1テサロニケ4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
4:14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

主が再臨する時、最初に、キリストにあって眠った者が起こされる。
次に、キリストにあって生きている人は、生きたまま瞬時に変化され、雲の上に引き上げられる。
土に還った人、あるいは大地に、あるいは海に、と、様々な形で死んだ人がいるが、キリストにあって眠らされた人は全て起こされ、復活する。

どのような体で、復活するのだろうか。
死んだ時の姿のままで、ではない。生きている間に、手足が欠けていた人は、その状態で、ではないし、メガネをかけていた人はメガネをかけたままで、でもない。
第一コリント15章を見れば明白であり、すなわち完全な体、聖なる体、変化された体で、である。
主が再臨される時、土に還った体は、一瞬にして、聖なる、完全な、変化された体へと変えられるのだ。

主は確かに来られる。
今、いかに悪がはびこって彼らが栄えて何のむくいを受けていないように見えても、神は必ず報いを携えて来られる。
私達は、悪にならって霊的に眠ってしまう者ではなく、いつも目を覚まして主の来られる事を祈り求め、いつでも「アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録22:20)と告白する「賢い花嫁」でありたい。
 

全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日、主の導きにより、洗礼を受ける恵みにあずかった聖徒達がいる。当教会は、洗礼準備会の学びを比較的入念に行うが、それは、花嫁は嫁ぐ前に相手を知る必要があるように、私達もバプテスマ(洗礼:浸しこむ意味)によって、「ひとつ」となっていく相手であるイエス・キリストを、よく知る必要があるからだ。
学びの中で、神について、罪について、人を罪と死に陥れた敵・サタンについて、そして罪と死とサタンから救って下さるイエス・キリストについて学び、さらには復活について、永遠について学び、そして、信じた人はいかに神を中心とした生活をして行くべきかなど、キリスト者としての歩みの基本をしっかりと学ぶ。
これはとても有益なひと時で、既に洗礼を受けられた方も多く参加して来られた。それは、私達とひとつとなられるお方イエス様を知れば知る程喜びが増し加わり、真理を知れば知る程自由にされていくからだ。

キリスト者の原則は、神が「おられる」事を信じ、救い主イエス様を主とし、彼と共に歩み続ける事である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
神の「有る」(「ハヤー」の一人称単数未完了)は、過去・今・未来を超越した、永遠の「有る」である。
その、神の圧倒的な「存在させる力」が、全ての存在を存続せしめ、全て命ある者を生かし、そして私達が「神の似姿」として考え、判断し、行動する者として、存続させている。イエス様は、ご自身について「わたしは有る(エゴ・エイミー)」と何度も言って、彼こそ、人を生かし、いのちを有らせる者である事を証された。 
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
この、キリストを信じた人達の群れが教会であり、教会の土台の岩は、イエス様を生ける神の御子と告白する所にある。陰府が戦いを挑んで来てもそれを打ち負かすのが教会であり、また教会には天の鍵が与えられており、二人でも三人でもイエス・キリストの名の元に集って、共に心合わせて祈るなら、その祈りは天において繋がれ、あるいは天において解かれるほどの権威があるのだ。(マタイ16:15-19, 18:18-20)
神を礼拝する事と、教会につながり続ける事は、信仰者にとって、パンを食べるごとく必要不可欠である。

洗礼によって肉体の汚れが取り除かれる訳ではない。洗礼を受ける事はゴールではなくスタートである。
洗礼を受けても、なおも苦々しい不義の絆に留まり続けたのが、魔術師シモンである。(使徒8:9-24)
また、イエス様の弟子となって、人々に洗礼をさずける立場にあったはずのイスカリオテのユダは、イエス様と3年半も一緒にいながら、心はずっと「世」に結ばれ続けた挙句、十字架の場面ではサタンへと心を結び付け、イエス様を売り渡してしまった。私達は洗礼を受けたからと言って、彼らのようになってはならない。
『この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い(エペロテーマ:問、訴え、誓い)求めることです。』(1ペテロ3:21新共同訳) つまり洗礼は、神に繋がり続けて行く事を決心し、良い心をもって神に向かって生き続けて行くと神と人との前で表明する事であり、その決心にあって生きる事の出発点である。
パウロも言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
だから、義人とは、洗礼を受けた者ではなく、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者だ。コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのまま固まって行くように、人も、日々摂り入れる言葉・心に巡らす言葉と行動によって、その方面へと固まって行く。
それ故、私達キリスト者は、神の言葉によって固められていくべきだ。それまで、いかに悪意ある言葉によって傷つけられ、自分の思考パターンや考え方がどうしようもなく暗くマイナスな方面へと固まってしまったとしても、人をいのちある存在とさせた、力ある神の言葉に浸され続けるなら、改善しないはずは無い。

バプテスマは、今まで造り上げられて固まってしまった古く罪深い人生を一旦終わらせ、イエス・キリスへの全く新しい「いのちの歩み」始めて行く事の決心である。この度、洗礼を受けられた皆さんも、既に受けられた皆さんも、共に集い、キリストにあって日々新しくされ、いのちに溢れて行く皆さんでありますように!

エリフの登場(ヨブ記32章)
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31:40b ヨブの言葉は終った。
32:1 このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。

ヨブも、友人たちも、言葉を終えた所で、一人の若者が声を上げる事になる。エリフという若者である。
4章から31章までの間、長きに渡って、ヨブと3人の友人たちの弁論で埋め尽くされいたが、32章から37章までは彼の弁論に入る。

エリフの名前はヘブル語で「彼は私の神」という意味であり、彼はこの以前も、また以後も、彼の存在を伺わせる記述が一切なく唐突に現れるため、このエリフの弁論は、後代に追加されたのではないかと言う学者も多くいる程であるが、それはギリシア思考的な解釈である。
なぜエリフが突然現れ言葉を語りだしたのか。記されているからには、神の意図がある。私達はそれを探って行きたい。

32:2 その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。
32:3 またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。
32:4 エリフは彼らが皆、自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていたが、
32:5 ここにエリフは三人の口に答える言葉のないのを見て怒りを起した。

エリフが声を上げた動機は、怒りであった。
彼はまずヨブに向かって怒りを燃やし、3人の友人たちにも怒りを燃やすのだが、ヨブに対して怒った理由は、ヨブが神よりも自分を正しいとしたから、また、友人たちに対して怒りを燃やした理由は、彼らがヨブを罪ありとしながら答える言葉が無くなり、ヨブを「罪あり」として論破できなかったからだ。
ヨブ記全体は、崇高な言葉に満ちているようでも「怒り」と「罪さだめ」に溢れているような、荒んだ雰囲気であるが、エリフの言葉はそれにさらに拍車をかけている。

32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。

エリフがそれまでずっと鳴りを潜めていたのは、年長者を敬い、彼らが言葉を発するべきだと思っていたからだ。
歳を経た人は確かに知恵がある。生きた分だけ、経験があるからだ。
しかし集団の中の最年長者が、必ずしも最も知恵深い、とは限らない。
経験によって身につく知恵は、過ぎ去っていく世の知恵であり、完全なものではないからだ。

32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。

確かに、人に知恵を与えるお方は、神である。
神から知恵が与えられ、歳を経た人にまさる者になる人は、どのような人か。

ダニエル1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。

神はダニエルとその友人たちに知識を与え、全ての文学を悟る力と知恵を与えてくださったが、彼らは世の食物、汚れた食物によって自分自身を汚すまいと心に定め、いのちの危険を顧みずに、神に喜ばれる者として自らを清めようとした。(ダニエル1:8、3:16-18)
それだから神は彼らを知恵深い者とされ、バビロンという当時の罪深い世代の中でも栄、神は彼らを通して神の栄光をあらわされたのだ。

ダニエル2:27 ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。
 2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。

知恵が与えられ、神に用いられる器とは、自らをきよくする器である。
ヤコブの子ヨセフもまた、エジプトという罪深い時世の中でも、自らをきよく、正直に保った故に、後にはエジプトの総理大臣になり、イスラエルの全家族を救う事に用いられた。

32:11 見よ、わたしはあなたがたの言葉に期待し、/その知恵ある言葉に耳を傾け、/あなたがたが言うべき言葉を捜し出すのを/待っていた。
32:12 わたしはあなたがたに心をとめたが、/あなたがたのうちにヨブを言いふせる者は/ひとりもなく、/また彼の言葉に答える者はひとりもなかった。
32:13 おそらくあなたがたは言うだろう、/『われわれは知恵を見いだした、/彼に勝つことのできるのは神だけで、/人にはできない』と。
32:14 彼はその言葉をわたしに向けて言わなかった。わたしはあなたがたの言葉をもって/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは驚いて、もはや答えることをせず、/彼らには、もはや言うべき言葉がない。
32:16 彼らは物言わず、/立ちとどまって、もはや答えるところがないので、/わたしはこれ以上待つ必要があろうか。
32:17 わたしもまたわたしの分を答え、/わたしの意見を述べよう。
32:18 わたしには言葉が満ち、/わたしのうちの霊がわたしに迫るからだ。

主の霊に導かれる者は、心の傷ついた者を癒やすもの(イザヤ書)である。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。

主なる神の霊に導かれるなら、このような実があるものだが、しかしエリフもまた「怒り」に導かれて言葉を発し、ヨブ記全体が「怒り」に溢れているような雰囲気に、さらに拍車をかけている。

32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
32:20 わたしは語って、気を晴らし、/くちびるを開いて答えよう。
32:21 わたしはだれをもかたより見ることなく、/また何人にもへつらうことをしない。
32:22 わたしはへつらうことを知らないからだ。もしへつらうならば、わたしの造り主は直ちに/わたしを滅ぼされるであろう。

主が言葉を与えて下さる時、与えられた人は、その言葉を伝えずにはいられないものである。
預言者エレミヤもまたそうだった。
エレミヤ20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。

ただ、エリフの言葉の全部が、神の霊から来たものであるかどうかもまた、怪しい。
彼の弁論の内容には、ヨブの言葉を果たして本当に理解しているのかどうか怪しい面もあるし、また、3人の友人達のように、彼の言葉の始終に主エホバの御名が無いからだ。

いずれにしても彼は、ヨブが神に出会うための橋渡しの役割を果たしている。
エリフの言葉から、私達も養いを得たい。

ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
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ヨブ記31章は、ヨブの最後の弁論であるが、彼は、自分がいかに潔白であるのかという主張を、40節にわたって並べ立てる事によって、その弁論を終える。
この章において、彼は”十数の罪を挙げ,その一つ一つについて,自分がもしそんなことをしたことがあるのなら,しかるべき罰を受けてもよいと言う.これは一種の誓いである.その罪は,姦淫から,偽り,不正,盗み,弱い者の軽視,偶像礼拝やのろいに及び,行った罪ばかりでなく,慈善を怠ったことや,心の中の情欲や敵意まで問題としている.山上の垂訓にも通じる最高の道徳水準である.そして,もし自分を訴える者があれば,その告訴状を掲げて堂々と神の前に出たいと言う.神が無実を証明して下さると確信するからである.”(実用聖書注解より)

31:1 わたしは、わたしの目と/契約を結んだ、/どうして、おとめを慕うことができようか。

彼は目と契約を結び、目においても心においても罪を犯さないよう細心の注意を払ってきたようだ。
そして確かに、彼は他の人達よりも段違いに罪を犯さないようにして来た事だろう。
しかし彼の主張には「?」が残るものもある。

 31:16 わたしがもし貧しい者の願いを退け、/やもめの目を衰えさせ、
 31:17 あるいはわたしひとりで食物を食べて、/みなしごに食べさせなかったことがあるなら、
 31:18 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、/またその母の胎を出たときから(ウミベテン・イミ・アンケナー:母の胎から)彼を導いた。)

ヨブは、母の胎にいた時から、やもめを養った、というのだ。
それはありえない事だ。
ヘブライ詩は、よくそのような誇張表現がなされるものだが、いずれにせよ、この章での彼の主張は、自分の義を過大に誇張する所がある事は明らかである。

万が一、たとえ、彼が本当に母の胎にいた時から善行を行っていた、と譲ったとして、果たして彼はそれで義を主張できるのだろうか?
その答えは残念ながら、NOである。
ローマ書に「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)と書いてあるが、さらに、次のようにも書いてある。

ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

つまり、全律法613の決まりごとのうち、365の「してはならない」と、248の「しなさい」のチェックリストを、全部クリアしたところで、人は、義と認められない。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」と書いてある通りだ。

なぜなら、完全であり、聖であり、義であられる神の前に、人が罪を犯さなかった所で、それは当然であり、また義を行ったからと言って、それもまた神の前に当然だからだ。
では、人は何によって義とされるのか。
それは、続く節に書いてある。

ローマ3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

人はただ、神の恵みにより、購って下さるお方にの購いのわざを通してのみ、義とされるのだ。
だから、ヨブのように自分が義を行って来た事・悪を行わなかった事を主張して、自分を正しいとする事には、何の意味も無いどころか、むしろ神の義から遠ざかる行為である。
次のように書いてある。

ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

ヨブは、自分が他の人のような罪人でないと主張し、また、あの罪この罪を犯してきた人間のようでない事も主張しているが、まさに、このパリサイ人の罠に陥っているわけだ。
イエス様は「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われたが、まさにヨブは高ぶったゆえに、38章以降で神から徹底的に低くされる事になる。

このたとえの中の取税人は、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と求めた。
ヒラスコマイ。この派生語にヒラステリオンがある。ヒラステリオンは「贖罪蓋」、すなわち、契約の箱を覆う蓋である。
もし、契約の箱が蓋が無く開いたままであるなら、罪ある人間は、神の圧倒的な聖に打たれ、死んでしまう。
しかし、贖いの蓋がある故に、人は、罪はあれど打たれずに済んでいた。
かの取税人が、義とされて帰れたのは、彼がヒラスコマイ、すなわち、神の憐れみと神の贖いを求めたから、そして神が彼の願いを聞き届け、彼を購ってくださったからである。
人はただ、神に対し、愛と憐れみ、贖いを求める以外に無いのだ。

ダビデは詩篇51篇で、自分こそ罪人である事を告白し、ただ神の憐れみを求めているが、それは全くヨブと逆である。

詩篇51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

ヨブは、自分には罪がない、神の前に出てぜひ討論したいものだ、とまで主張した。
それに対しダビデは、自分には罪がありありと存在するどうしようもない存在だと告白し、どうか、あなたのいつくしみによってあわれみ、豊かなあわれみによって諸々のとがを拭い去って下さい、と懇願した。
まことにダビデは、義とされた取税人の祈りを細かく祈っているわけである。

詩篇51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

ヨブは、母の胎にいた時から自分は義の行いをしていた、と主張した。
それに対しダビデは真逆で、自分は、母の胎にいた時から、既に蠢く罪を宿していた、と告白した。
そうである。母の胎にいた時から義人だった人間など、イエス・キリスト以外には存在しない。
ダビデは正直に告白した故に、彼が犯した罪ゆえに苦々しい刈り取りをする事となったものの、主のあわれみを受けたのだ。

詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。

ヨブは散々な災いにあっても、なお心砕かれず頑として自分の義を主張した。
結局、神に受け入れられるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。
 

イエス・キリストをあかしする4つのもの(ヨハネ5:30-47)
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5:30 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
5:31 もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。
5:32 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。

イエス・キリストを証するものが4つ出てくる。


5:33 あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。

まず一つ目はヨハネ、すなわち、人間である。
私達もヨハネのように、イエス・キリストをあかしするのである。

5:34 わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。

イエス様は人のあかしを本来受ける必要は無い。
しかし「あなた方が救われるため」に、イエス様は敢えてこの事を示された。

5:35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。

ヨハネはイエス・キリストを証言した。それはあたかも燃えて輝くあかりであったが、人々は肝心のヨハネが証言したお方をまことの光として認めなかった。
イエス・キリストの証人、すなわち、私達にとっての成功とは、自分が有名になったり栄誉を受ける事ではなく、イエス様が栄光をお受けになる事である。
そして、イエス様は人のあかしよりもさらに優れたあかしをするものがある。

5:36 しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。

イエス様をあかしす第二のもの、それは、わざである。
それは、イエス様を信じた人の手を通して行われたわざ、あるいは、一切人手によらず、ただ、主が為したとしか言えないようなわざによって、イエス様を信じる人もある。
次のように書いてある。

15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

イエス様をあかしする第三のお方は、父なる神様ご自身である。

5:37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。

5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

イエス様をあかしする第四のものは、聖書全体である。
ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

以上、4つのチャンネルを通して、イエス様があかしされる。
しかし、これらを通して語られても、それでも信じない人達がいる。

5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

4つのチャンネルを通してもイエス様を信じない人達は、互いの栄誉ばかりを求めており、イエス様の言葉が留まっていない事が原因だと、イエス様は指摘する。

5:45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
5:46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
5:47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。

モーセもイエス様を証している。
モーセと預言者は「聖書」に含まれており、全て聖書は、イエス様を証するからだ。

15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
 

神の子に与えられている特権(ヨハネ5:19-29)
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ヨハネ5:19 さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。
5:20 なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。
5:21 すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。
5:22 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。
5:23 それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。
5:24 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

世の終わりに望む私達が目を向けるべき所:シオン - エレミヤ書の7つのGolden Key 1/9(エレミヤ25:8-14)
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エレミヤはバビロン捕囚の直前から主から預言者として召され、その激動の時代の最っただ中を見聞きし、活躍した預言者である。
エレミヤ書はこの週末の時代を読み解く上で非常に重要な書であるが、このエレミヤ書を読み解く上で重要な節が、9つある。
今回はその1つ目を見ていきたい。

25:8 それゆえ万軍の主はこう仰せられる、あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、
25:9 見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。
25:10 またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。
25:11 この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。
25:12 主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。
25:13 わたしはあの地について、わたしが語ったすべての言葉をその上に臨ませる。これはエレミヤが、万国のことについて預言したものであって、みなこの書にしるされている。
25:14 多くの国々と偉大な王たちとは、彼らをさえ奴隷として仕えさせる。わたしは彼らの行いと、その手のわざに従って報いる」。

エレミヤの時代、イスラエルは不信仰ゆえにバビロンの王ネブカデネザルに攻め滅ぼされ、その地は荒廃したが、主は70年という時を定められた。
70年の終わった後、主はイスラエルを攻め滅ぼした国をさばき、イスラエルを顧みてその土地に帰してくださった。
今年、イスラエル建国70年周年の今、終わりの時代に直面している私達が指針とすべき所を、エレミヤ書から学びたい。

エレミヤ書は、預言者エレミヤの召命から始まるが、はじめに彼に見せられた幻は、アーモンドשָׁקֵ֖דシャケードの枝だった。

1:11 主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどう(アーモンド:シャケード)の枝を見ます」。
1:12 主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。

イスラエルにあるアーモンドは、全ての木々が寝静まっている真冬に、真っ先に花咲いて新芽が出てくる。
伝道書にも出てくるし、民数記においてはアロンの杖、すなわち、木としては死んだはずの杖から、芽が出て、花が咲き、実を結んだ木であり、イスラエル民族のヒストリーを象徴する木である。
主は、主の言葉が実行される事を、あのエレミヤの時代のみならず、現代もずっと見張って(シャケァド)おられるのだ。

次に見せられた幻は、煮えたぎるなべだった。

1:13 主の言葉がふたたびわたしに臨んで言う、「あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。
1:14 主はわたしに言われた、「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。

この御言葉の通り、預言者の警告を聞いても耳を貸さなかったイスラエルには、北からバビロンが攻めて来た。
そして、終わりの時代にも、ゴグという北の大国が、メシェクとトバルと連合してイスラエルを攻めてくる事がエゼキエル書38-39章、黙示録20章に記されている。

世の終わりが近づくと、確かに戦争のうわさや地震やききんが起きる事がマタイ24章に記されているが、それはまだ終わりではない。
シオン、すなわちエルサレムがそれら3国に包囲されない間は。
それまで、世界的な大国どうしの戦争や、大小の戦争のうわさを耳にするであろうが、しかし、まだ終わりではない。
私達はこの時、何に目を向けるべきか。

エレミヤ4:6 シオンの方を示す旗を立てよ。避難せよ、とどまってはならない、わたしが北から災と/大いなる破滅をこさせるからだ。

コーエン大学副総長のカン・シンゴン博士は、エレミヤ書を読み解き時代を読み解く9つの鍵の一つ目として、このエレミヤ書4章6節を掲げた。(第44回韓国コーエン講義)
シオンを示す旗を立てよ、と言われている。
シオンの元々の意味は「保護される」「日差しが良い」で、旧約においてはエルサレムの、特に神殿の丘をあらわすが、新約においては啓示を含めた象徴的な単語である。(1ペテロ2:6、啓示録14:1)

終わりの時は、シオンの問題を無視しては通れない。
シオンの方を示す旗を立てよ。
私達はシオンへと心を向けるべきだが、その指針が第一ペテロに記されている。

1ペテロ2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、

シオンに置かれた尊い礎石、私達が目を向け旗を掲げるべきは、イエス・キリストである。
私達は彼により頼み、のぞみを置くなら、決して失望させられる事は無い。
どんな時代になっても、である。

終わりの時代には、確かにシオンが鍵となる。しかし、成すべき事は、シオニズム運動に加わる事ではなく、イエス・キリストに望みを置く事だ。

1ペテロ2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
2:3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

私達は終わりの時代、動かされる事なく、しっかり御言葉にとどまり、混じりけのない御言葉の乳によって養われ、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となり、イエス・キリストにより神によろこばれるいけにえを捧げる者でありたい。

書かれている御言葉を超えない(第一コリント4:6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回の父の日礼拝では、多くの教会・多くの兄弟姉妹の霊的な父となったパウロをコリント書から見た。
今回コーエンで研究した聖書箇所もコリント書で、奇しくも前回メッセージした所がそのまま取り上げれた。
今、特に主が示しておられるコリント書から、本日も学びたい。

『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。』(1コリント4:6) すなわちパウロは、「書かれている事を越えない」という事を学ばせるため、また、一方にくみし他方に反対して高慢にさせないために、コリント書を書いたのだ。
「しるされている定め」とはすなわち「御言葉」である。言葉には、境界線を引く作用があるが、御言葉の境界の内側、すなわち、御言葉の防護壁の内側は、いのちの領域であり、外側は、死の領域である。
世では色々な戦いが繰り広げられているが、キリスト者の「霊的戦い」は、複雑怪奇なものではなくシンプルである。すなわち霊的戦いとは、自分がいかに御言葉の領域内に入るか、いかに人を御言葉の領域へ引き込むか、あるいは私達の家庭や仕事の「領域」を、いかに御言葉の中に入れて行くか、という点にある。
御言葉の領域内に入っているなら、シンプルに「勝ち」であり、御言葉の境界線を超えた「あちら側」にいるなら、シンプルに「負け」である。私達は人生の決定において、現在の生活や、仕事において、御言葉のこちら側にいるだろうか。あちら側にいるだろうか。その視点で見るなら、将来の勝ち負けが見えてくる。

本日箇所の、記されている定めを「越える」という語は、ヘブライ語ではפָּסַח(発音は”パサァハ(カ)”、日本語で”ペサハ”と表記される事が多い)である。これは特に、出エジプトにおける「過ぎ越し」で用いられる語であるが、原意は「跳ねる」で、スキップする、踊る、また”どっちつかず”の意味もある。過越祭が制定された出エジプト記12章に3回登場する語だが、面白い事に、1列王記18章にも2回出てくる。
『「あなたがたはいつまで二つのものの間に「迷っている(ペサハ)」のですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
これは預言者エリヤが、850人の偽りの神々の預言者と対決する時に放った言葉である。当時、エリヤは唯一、主の忠実なしもべとして立っていたが、全イスラエルがバアルという偽りの神につくか、それともまことの神につくかを迷って(ペサハ)いた。それはちょうど、御言葉という境界線を跨いで、ある時は御言葉を引用し、しかし結局は、世の価値観に媚びて動くような、「どっちつかず」の状態だ。
そのような人はいるだろうか。その人は、かの時代のような経験をする事になってしまう。すなわち、ずっと雨が降らず潤いが無いまま、アハブのような悪い指導者や、イゼベルのような悪い女の尻に敷かれ、その食卓からこぼれるパンくずをもらうために、へつらい、預言者を自称し、都合の良い言葉だけを言うような。
出エジプトのペサハ(過ぎ越し)の時、小羊の血が塗られた戸の内側にいた人達には、災いは及ばず守られた。しかし、外側にいた人達は、死の恐怖に脅かされた。同様に、御言葉の境界内にいるならいつも安全であるが、そこから外れれば、外れる程、いのちの保証から外れ、死の恐怖にいつも脅かされる。

イゼベルの食卓からこぼれるパンくずにあずかっていたバアルの預言者達は、バアルを呼んでも何も答えられなかったので、「ペサハした(踊った:26節)」。それでも何の答えもなく、エリヤにあざけられたので、今度は互いに刀で傷つけ合ってペサハした。850人が血を流して踊り狂う。中々の壮観だが、結局何も起きない。最後には、彼らの仕えてきた神が偽物で、主こそ神である事が明らかになり、彼らは殺されてしまう。
これが、主の過越(ペサハ)の血から勝手に出て、勝手なペサハをしている者の末路だ。彼らは互いに血を流し合って踊り狂うような虚しいペサハを演じても、何も起きず、最後には、偽物として滅ぼされてしまう。
「記録された御言葉」なるお方がおられる。彼は最高権威をもち、いのちの法則がある。しかし、記録された御言葉の枠組みから外れる者には、いのちの保証が無い。イエス・キリストの過越(ペサハ)の血から、のこのこ出て、世でパンくずを得るために、不当な者に媚びて、ペサハ(踊り狂う)するのは、遠回りの、疲れる道であり、行き着く先は死である。主イエス様のペサハ(過越)の血にしっかり留まり、いのちと祝福の保証を得ながら生きる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

私達エクレシアの霊の父となった使徒パウロ(第二コリント11章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。今回は、実の子がいないながらも、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの霊的な父となった使徒パウロから、父親像を見たい。

パウロはコリント教会を開拓し、彼らを救いへ導いた。しかしコリントの人達は、他から来た偽兄弟・偽教師に欺かれ、パウロはだめだとか、彼は教師として失格だとか噂を立てられ、彼は軽んじられたり、疎んじられたりして来た。それでも彼は父親として、コリントの兄弟姉妹を、息子や娘のようにいつも気遣っていた。
特に2-3節に、婚期を迎える娘を持つ父親のごとき彼の心情が、滲み出ている。彼は、コリントの聖徒達を、イエス様へ嫁がせる花嫁として捧げた、と言った。そんな彼にとって一番の心配事は、エバが蛇の悪巧みに誘惑されたように、彼らの思いが汚され、キリストへの純情と貞操とを失いはしまいか、という事だった。
親の、息子や娘への気苦労は絶えないものだ。そしてその子育てのわざは、とても尊い。子が母の胎から出て、産声を上げたその日から、20歳で成人するまでの日数は7300日である。その一日一日、父は子を養うために働きに出て行く。時に仕事が成功して喜んだり、あるいは失敗して、子の将来を不安がったり。
そのように、妻と共同で子を育てて行く。母もまた、律儀に朝、昼、夜と、子供が食べられるようにし、ちょっと顔色が悪いとすぐに気づいて、面倒をみる。そのうよな7300日を通して、子供は一人の成人へと育つ。

パウロはコリントの教会のみならず、彼が立てた他の教会達の霊的な息子・娘達を、毎日気遣って来た。
中には、悪魔に欺かれて去ってしまったり、パウロに牙を剥いて反抗されたりする苦しみ・悲しみもあった。
コリントの教会はパウロが開拓し、彼が建て、彼に養われた、というのに、偽教師に欺かれ、高慢になる聖徒達もいた。そのように誇り高ぶる彼らに、パウロは言う。『言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。』(11:21)
パウロは、何を誇ったのだろう。彼は最高の先生から師事を受け、パリサイ人として最高教育を受けた。
彼は多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救った。しかしパウロは、そうした実績も学歴も微塵も出さず、彼が誇りにしたのは、彼自身が受けてきた数々の迫害や困難、そして、コリントを含め、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ、祈ってきた事だった。
そして、パウロが断固として主張し、決して譲らなかった事は、自分はキリストのしもべである、という事だ。

彼は何度も鞭打たれた。石打に遭って死んだようになった事もあった。難船し、盗賊にあい、自然の驚異に晒されながらも、キリストを伝える事を止めなかった。永遠の命へ至らせる尊い福音を伝えない事が災いだからだ。そういう思いでようやく獲得した、コリントの兄弟姉妹達であり、そして、他の教会の聖徒達である。
素晴らしい親とは、出来る親というより、子のために多くの犠牲を払い、多くの労苦を払ってきた親である。
パウロは、福音を拒否され嘲られても、全然平気な、鉄の心を持っていたという訳ではない(28-29節)。
せっかくの福音を伝えても、救いが実らなかったり、あるいはせっかく救われたのに、悪霊や偽預言者に惑わされ、虚しい物事に心奪われ、永遠のいのちが実らなかったりする様を見る度、心が痛んだのである。
結局パウロが誇りとしたのは、自分の弱さだった。(30節) キリストの力は、人の弱さの内に、完全に働く。
自分の腕力や知力、鉄のような心を持っていれば、キリストが働く、というのではない。弱さの内に、だ。
それはこのミニストリーが、人の力によらず、キリストの力によって働いているのだという事を知らせるためだ。

親は今日も、働く。ごはんを作って、子供に食べさせる。子供が独り立ちするまで、一日も欠かさず。
それが親であり、パウロも、このような日々を走り抜いて来た。そして親は、いつまでもいるわけではない。
パウロは、福音ゆえに殉教し、天にのぼるその日、自分は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えたと堂々と宣言し、そして霊的な子に命じた。時が良くても悪くても御言葉を伝えなさい、と。(2テモテ4:1-8)
福音を届けるためにいつも旅をし、時に難船し、鞭に打たれたり、多くの兄弟姉妹のために心砕き、兄弟姉妹が悪魔サタンにとらわれないよう心遣い、眠れぬ夜を過ごし、そうした1日1日の積み重ねを立派にして来たのだ。親の1日1日の働きは、尊い。パウロには及ばないにしても、キリストの御前に誇り高く、御言葉によって子を気高く育て、信仰の競争を立派に走り抜き、かの日には、栄光の冠を立派に頂く。
そのような、素晴らしい父母となって行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

理解できない苦しみ、悩みを負わされる時(ヨブ記30章)
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前章とは対象的に、30章で、ヨブは現在の悲惨な状況を嘆いている。

30:1 しかし今はわたしよりも年若い者が、/かえってわたしをあざ笑う。彼らの父はわたしが卑しめて、/群れの犬と一緒にさえしなかった者だ。
30:2 彼らの手の力からわたしは何を得るであろうか、/彼らはその気力がすでに衰えた人々だ。
30:3 彼らは乏しさと激しい飢えとによって、/かわいた荒れ地をかむ。
30:4 彼らは、ぜにあおいおよび灌木の葉を摘み、/れだまの根をもって身を暖める。
30:5 彼らは人々の中から追いだされ、/盗びとを追うように、人々は彼らを追い呼ばわる。
30:6 彼らは急流の谷間に住み、/土の穴または岩の穴におり、
30:7 灌木の中にいななき、いらくさの下に押し合う。
30:8 彼らは愚かな者の子、また卑しい者の子であって、/国から追いだされた者だ。

この時、ヨブには、彼にひっきりなしにまとわりついて、いじめている”悪童ども”がいたようである。
その彼らは元々、人々から賤しめられ、軽んじられ、貧しい者達、国から追い出された者たちであるが、なぜ彼らがそうなったのか、それは、彼らの低劣な性質ゆえである事が、ヨブの言葉から伺い知れる。

30:9 それなのに、わたしは今彼らの歌となり、/彼らの笑い草となった。
30:10 彼らはわたしをいとい、遠くわたしをはなれ、/わたしの顔につばきすることも、ためらわない。
30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
30:12 このともがらはわたしの右に立ち上がり、/わたしを追いのけ、/わたしにむかって滅びの道を築く。
30:13 彼らはわたしの道をこわし、わたしの災を促す。これをさし止める者はない。
30:14 彼らは広い破れ口からはいるように進みきたり、/破壊の中をおし寄せる。
30:15 恐ろしい事はわたしに臨み、/わたしの誉は風のように吹き払われ、/わたしの繁栄は雲のように消えうせた。

彼らは、神から低められているヨブを笑いぐさとし、ヨブの顔につばきをし、ヨブにつきまとっていじわるをした、とヨブは告白している。
かつては町の長老達さえヨブに起立して敬意を払い、彼の言葉に聞き入ったものだった。
しかし今や、彼はこのような低劣な者たちから、落ちぶれてしまった事を「ねた」にされ、からかわられてしまっている。
それのみならず、瞬間瞬間悩まされている全身にできた腫物の問題もある。

30:16 今は、わたしの魂はわたしの内にとけて流れ、/悩みの日はわたしを捕えた。
30:17 夜はわたしの骨を激しく悩まし、/わたしをかむ苦しみは、やむことがない。
30:18 それは暴力をもって、わたしの着物を捕え、/はだ着のえりのように、わたしをしめつける。
30:19 神がわたしを泥の中に投げ入れられたので、/わたしはちり灰のようになった。

ヨブは、悪性の腫物によって、ひっきりなしに痒みに悩まされ、その様はもはや着物のようにまとわりついてしまっているほどの有様だ。
そこで彼は、再び、神に向かってつぶやく。

30:20 わたしがあなたにむかって呼ばわっても、/あなたは答えられない。わたしが立っていても、あなたは顧みられない。
30:21 あなたは変って、わたしに無情な者となり、/み手の力をもってわたしを攻め悩まされる。
30:22 あなたはわたしを揚げて風の上に乗せ、/大風のうなり声の中に、もませられる。
30:23 わたしは知っている、あなたはわたしを死に帰らせ、/すべての生き物の集まる家に帰らせられることを。

ヨブは災難が降された時、神に向かって不平不満をぶちまけた。それを私達は責められない。
なぜなら私達はヨブほどの災難に遭ったことは無いし、私達も、ヨブほどの災難は経験していないにしろ、神に向かって不平不満をぶちまけた事が無きにしもあらず、だからだ。
ただ、心と思いが神に向かっているのは、まだ良い。一番良くないのは、本人の神との関係を自ら断つ事だ。イスカリオテのユダが、自らの命を断ったように。

30:24 さりながら荒塚の中にある者は、/手を伸べないであろうか、/災の中にある者は助けを呼び求めないであろうか。
30:25 わたしは苦しい日を送る者のために/泣かなかったか。わたしの魂は貧しい人のために/悲しまなかったか。

ヨブは神を責めている。
人でさえ、貧しい人や災難に遭っている人に助けの手を差し伸べるのに、そしてヨブ自身、貧しく苦しい人たちに今まで助けの手を差し伸べて来たのに、それなのに神様、あなたときたら、憐れみの手を差し伸べなどころか、あなたに向かって叫び求めても、全くもって沈黙しておられるではないか、と。

30:28 わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、/公会の中に立って助けを呼び求める。
30:29 わたしは山犬の兄弟となり、/だちょうの友となった。
30:30 わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、/わたしの骨は熱さによって燃え、
30:31 わたしの琴は悲しみの音となり、/わたしの笛は泣く者の声となった。

ヨブは受けている賤しめと苦しみについて、不平不満をぶちまけた。
こんなになっても、神に対して全くしおれてしまわない。本当に強いと思う。
しかし、その「強さ」が実は、仇になっているのだ。
次章でヨブは、怒涛のごとく自分の正しさを主張するが、結局その自己義が、神の知識を暗くし、神との関係を貧しいままにしてしまっている。

それにひきかえ、ダビデはすぐに自分の側に非がある事を告白して赦しを求めた。
ヨブはなかなか、それをしない。それだから神は彼を取り扱っておられるのだ。

私達も、私達の中の高慢や、あるいは硬く強い思い込みが、主との関係を邪魔する時、主から厳しい扱いを受け、賤しめられる時もある。
そのように賤しめられた場合、どういう態度でいるべきか。
エレミヤが、哀歌の中で示唆を与えている。

哀歌は、神の民・イスラエルが自身の罪ゆえに酷い災難に遭って悲惨になっている様を嘆いている歌である。
哀歌の3章1節から19節を読んでいくと、全くヨブと同じような状況で悩んでいる事が分かる。
しかしエレミヤは、そのどん底の苦しみの中でも、なお主に望みを置いている。

哀歌3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

絶望のどん底に陥った時こそ、主を呼び求めるべき時である。
その時、たとえ言葉がきれいでないとしても、主に正直に申し上げる叫びを主は聞いていてくださり、その心が真実であればあるほど、主はとても近く親しく臨んで下さるからだ。

3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。

理解のできない苦しみ、悩み。それを負わされる時、主は無意味にその事をしておられるのではない。
その理由を、人は、知らないかも知れない。
しかし、主からきびしく扱われている、と思えるような時、いかに振る舞えば良いかが、次に続く節に記されている。

3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。

ちり、それは人間の組成である。
ヨブは賤しめられた時、卑しい人たちから、理不尽な仕打ちを受けた。
ヨブは、自分は正しいと主張したが、結局、その人達も、ヨブも、組成はちりである。
人からの理不尽な仕打ちを受ける時、ちりの味を味わうのだ。
そしてその時、自分の中にも同じ卑しい性質がある事を学ぶのであり、そして、そんな人間を憐れんでくださる神の恵み深さを知るのだ。

主は、愛する者がいつまでも卑しいまま捨て置かれる事を、お許しにならないお方である。

3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。

ヨブは、自己義が強すぎた。自分は、あくまで、悪くない、と、友人が黙ってしまう程に強く主張した。
それ故、そのプライドを砕くためのハンマーも、また強かった。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵は、自分の罪の告白する事と、悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。

ダビデはすぐにしおれて自分の罪をゆるして下さいと求めたので、救いもすぐだった。
「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件は、速やかに捨てて、主の赦しと憐れみと慰めを速やかに得る者でいたい。

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