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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

ついに滅亡に追いつかれてしまった北イスラエル王国(2列王記17:1-23)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

今回の箇所でいよいよ北イスラエル王国は滅亡し、人々はアッシリヤへ連行されて行く。
17:1 ユダの王アハズの第十二年にエラの子ホセアが王となり、サマリヤで九年の間、イスラエルを治めた。
17:2 彼は主の目の前に悪を行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。
17:3 アッスリヤの王シャルマネセルが攻め上ったので、ホセアは彼に隷属して、みつぎを納めたが、
17:4 アッスリヤの王はホセアがついに自分にそむいたのを知った。それはホセアが使者をエジプトの王ソにつかわし、また年々納めていたみつぎを、アッスリヤの王に納めなかったからである。そこでアッスリヤの王は彼を監禁し、獄屋につないだ。
17:5 そしてアッスリヤの王は攻め上って国中を侵し、サマリヤに上ってきて三年の間、これを攻め囲んだ。
17:6 ホセアの第九年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々においた。

ホセアは北イスラエル王国最後の王となった。
彼は大国アッシリヤが攻めてきた時、表向きは従うそぶりを見せても、心の内はそうではなかった。
それに気づかれて、彼は逮捕され、彼らが本拠地としていたサマリヤは包囲され、占領され、そしてイスラエル民族はアッシリヤに連行され、今なお彼らがどこへ行ってしまったのか、その捜索がユダヤ人によって続けられている。
どうしてこのような事が起きてしまったのか。その理由が続く節に書いてある。

17:7 この事が起ったのは、イスラエルの人々が、自分たちをエジプトの地から導き上って、エジプトの王パロの手をのがれさせられたその神、主にむかって罪を犯し、他の神々を敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人のならわしに従って歩み、またイスラエルの王たちが定めたならわしに従って歩んだからである。

まず真っ先に記された理由は、イスラエルの神である主、すなわたエジプトという奴隷を強要させ続けてきた国から導きのぼり自由にして下さった主を捨て、軽んじるという「恩知らず」という罪に始まり、他の神々を敬い、異邦人のならわしに従って歩んだからである。

私達も主に、悪魔サタンから、罪と死という奴隷状態を強要する者から救っていただいた。それも、御子キリストが私達に代わって、あのむごい十字架につけられる事によって。
そこまでして私達を救って下さった主を軽んじるという事を続けるなら、どれ程恐ろしい災いを招く事だろうか。
また、主から示された御言葉に従う神の子としての歩みを捨てて、世のならわしに従う事も、主に忌み嫌われる事である。

17:9 イスラエルの人々はその神、主にむかって正しからぬ事をひそかに行い、見張台から堅固な町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
17:10 またすべての高い丘の上、すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から捕え移された異邦人がしたように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って、主を怒らせた。
17:12 また主が彼らに「あなたがたはこの事をしてはならない」と言われたのに偶像に仕えた。

偶像礼拝、それは十戒の第二戒にある程に重要な禁止事項である。
偶像、それは何も神社仏閣に限るものではない。偶像礼拝とは、神でないものを、神以上に、神とする事だ。つまり神よりもお金や特定の人、特定のイデオロギーなどを優先するとするなら、それが偶像礼拝である。
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

2列王記17:13 主はすべての預言者、すべての先見者によってイスラエルとユダを戒め、「翻って、あなたがたの悪い道を離れ、わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、またわたしのしもべである預言者たちによってあなたがたに伝えたすべての律法のとおりに、わたしの戒めと定めとを守れ」と仰せられたが、
17:14 彼らは聞きいれず、彼らの先祖たちがその神、主を信じないで、強情であったように、彼らは強情であった。
この「強情である」は直訳するなら「うなじのこわい(KJV: hardened their necks)」、首がまがらない、すなわち、自分の思いや願い、自分の道を頑として変えない性質である。
すなわち、主から「道を変えなさい」「悔い改めなさい」という言葉を、預言者を通して語っておられるのに、それを無視し、あくまでわが道を変えない性質である。
預言者、すなわち御言葉を通して主の御旨を教え、戒めてくれる人を軽んじる者は、主を軽んじる事である。

17:15 そして彼らは主の定めを捨て、主が彼らの先祖たちと結ばれた契約を破り、また彼らに与えられた警告を軽んじ、かつむなしい偶像に従ってむなしくなり、また周囲の異邦人に従った。これは主が、彼らのようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
主の御言葉は、むなしいものの真逆、真理なるものであり、尊い、聖なる、永遠のものである。だから、御言葉に親しく歩むなら、聖なる、尊い、永遠のものへと造り変えられて行く。
しかしもし、むなしいものを求め、それに親しく歩むとするなら、その者本人がむなしい者へとなってしまい、やがては消えてなくなる者になってしまう。

17:16 彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、
17:17 またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。

17:18 それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった。
彼らは神に捧げるという名目で、自分の息子や娘を火に焼く事さえした。なんのためか。それは結局、自分の欲望のためである。
自分の願望を叶えたいから、あるいは欲望を満たしたいから、自分の子を犠牲にし、占いをし、まじないをし、悪に身を委ねる。それは現代でも文明国と言われている日本でも行われているのではなかろうか。
そのような事は、主の怒りを引き起こしてしまう。

17:19 ところがユダもまたその神、主の戒めを守らず、イスラエルが定めたならわしに歩んだので、
17:20 主はイスラエルの子孫をことごとく捨て、彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた。
17:21 主はイスラエルをダビデの家から裂き離されたので、イスラエルはネバテの子ヤラベアムを王としたが、ヤラベアムはイスラエルに、主に従うことをやめさせ、大きな罪を犯させた。
17:22 イスラエルの人々がヤラベアムのおこなったすべての罪をおこない続けて、それを離れなかったので、
17:23 ついに主はそのしもべである預言者たちによって言われたように、イスラエルをみ前から除き去られた。こうしてイスラエルは自分の国からアッスリヤに移されて今日に至っている。

主は、すぐに滅ぼされたのではない。何百年も忍耐して待たれたのだ。
ヤロブアムが即位したのがBC931年、サマリヤ陥落したのがBC721年、実に200年以上も、北イスラエル王国に対して忍耐し、何度も預言者を送って立ち返らせようとしたが、結局北イスラエル王国からは一人も主に従う良い王が出たためしはなく、ついに憐れみの期間を使い果たし、滅ぼされ、ばらばらにされ、彼らがどこに行ってしまったのかわからないまま、21世紀の今日に至っているのだ。

主は、誰一人滅びる事を願ってはおられない。だから救いの手を差し伸ばしてくださった。
しかしもしその救いの手を跳ね除けるとするなら、救いようがない。
人は、自由意志によって滅びへの道を行ってしまった。だから、救いも、自由意志によるからだ。

エゼキエル18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
18:31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
ここに、新しい心と、新しい霊を得るコツが書かれてある。
それは順番に見ていくなら、まず悔い改める事、とがを離れ、主に対して行った全てのとがを捨て去る事。
それでこそ、新しい心、新しい霊が与えられる。
人の心は倉のようなもので、キャパシティがある。だからまず、心の倉からむなしいものを投げ捨てなければ、新しい心が入りようがない。

18:32 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。

主は、誰も滅びる事を望んでおられない。それで200年以上も待たれた。
今は恵みの時、主に立ち返るべき時である。この時を軽んじる事なく、御言葉に聞き従い、それを守り行う事によって、何をしても栄える道、祝福の道を右にも左にもそれずに歩んでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

主から離れるなら祝福からも離れてしまう(2列王記16:10-20)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
 

アハズ王は、神である主を捨てて、異邦の神々を拝み、しかも自分の子を火にくぐらせる事までした故に、懲らしめの杖として、主はアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカの連合軍を備え、南ユダ王国に手ひどく損害を与えられた。
しかしその中でも主は憐れみ、エルサレムは占領される事なく、また、北イスラエル王国に連れ去られてしまった20万の捕虜は、奴隷にされる事を免れ、返してもらう事が出来た。それは、北イスラエル王国が主の預言者の言葉に従ったからだ。
このように主に良くしていただいたにもかかわらず、アハズ王は主に立ち返るという事をしなかった。

16:10 アハズ王はアッスリヤの王テグラテピレセルに会おうとダマスコへ行ったが、ダマスコにある祭壇を見たので、アハズ王はその祭壇の作りにしたがって、その詳しい図面と、ひな型とを作って、祭司ウリヤに送った。
16:11 そこで祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ったものにしたがって祭壇を建てた。すなわち祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから帰るまでにそのとおりに作った。

彼はアッシリヤに助けを求めた。アッシリヤが強国だったからである。しかし、アッシリヤの暴力的な強制力により頼むなら、暴力的な強制力によって悩まされる事になる。
2歴代誌28:20 アッスリヤの王テルガデ・ピルネセルは彼の所に来たが、彼に力を添えないで、かえって彼を悩ました。
28:21 アハズは主の宮と王の家、およびつかさたちの家の物を取ってアッスリヤの王に与えたが、それはアハズの助けにはならなかった。

アハズ王はなぜ、ダマスコにある祭壇をイスラエルにも建てるような事をしたのか。
第二歴代誌のほうに、その動機が記されている。
2歴代誌28:22 このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した。
28:23 すなわち、彼は自分を撃ったダマスコの神々に、犠牲をささげて言った、「スリヤの王たちの神々はその王たちを助けるから、わたしもそれに犠牲をささげよう。そうすれば彼らはわたしを助けるであろう」と。しかし、彼らはかえってアハズとイスラエル全国とを倒す者となった。

つまりアハズは、彼を助けて下さった主に対する忠誠は一切なく、ただ、自分を救ってくれるなら神は誰でも良く、また、神は幾つでも良かったのだ。

2列王記16:12 王はダマスコから帰ってきて、その祭壇を見、祭壇に近づいてその上に登り、
16:13 燔祭と素祭を焼き、灌祭を注ぎ、酬恩祭の血を祭壇にそそぎかけた。

行いだけを見る、一見、律法で定められた礼拝を守っているかのように見えるが、捧げる相手が違う。
形式がどんなに立派であっても、肝心の「礼拝の対象」が違っていたら、それは主へ怒りを積み上げる反逆行為でしかない。

彼はさらに、元々主によって定められていた神殿の庭の配置を、また代々行われてきた礼拝形式を、変えてしまう。
16:14 彼はまた主の前にあった青銅の祭壇を宮の前から移した。すなわちそれを新しい祭壇と主の宮の間から移して、新しい祭壇の北の方にすえた。
16:15 そしてアハズ王は祭司ウリヤに命じて言った、「朝の燔祭と夕の素祭および王の燔祭とその素祭、ならびに国中の民の燔祭とその素祭および灌祭は、この大きな祭壇の上で焼きなさい。また燔祭の血と犠牲の血はすべてこれにそそぎかけなさい。あの青銅の祭壇をわたしは伺いを立てるのに用いよう」。
アハズは自分でこしらえさせた祭壇を「この大きな祭壇(KJV: great alter)」と呼び、元々、主に捧げ物を捧げるべき祭壇を、脇へ押しのけてしまった。
こうして、人々から礼拝を取り上げてしまった。

16:16 祭司ウリヤはアハズ王がすべて命じたとおりにおこなった。
祭司ウリヤは王の主に対する背信の罪を指摘するのでなく、かえってそれを助けた。王から祭司から腐敗していた時代である。

16:17 またアハズ王は台の鏡板を切り取って、洗盤をその上から移し、また海をその下にある青銅の牛の上からおろして、石の座の上にすえ、
16:18 また宮のうちに造られていた安息日用のおおいのある道、および王の用いる外の入口をアッスリヤの王のために主の宮から除いた。
これは、アッシリヤに媚びるためであった。しかしアッシリヤはイスラエルに何もしなかったどころか、かえってイスラエルを悩ました。
イスラエルが神殿の尊い金属を取ってアッシリヤに貢いだら、アッシリヤは「こいつは絞ればもっと絞れる」と見做して、もっと締め付けを強くしたのだ。
それが、主に頼まずに、世の力、強力な者にたよろうとする者の道である。
しかし主により頼む人は、そのような暴力とは無縁であり、恵みと祝福に満ち溢れる。

愛の帯で捕らえて下さるイエス様(ヨハネ21:1-14)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 私達の主イエス様は、死に勝利し復活された。弟子達は、主が3日目によみがえる事を信じる事ができなかったし、忘れていてしまった。復活した後も、復活の主と出会った女達の言葉を信じなかった。そんな彼らにイエス様は直接現れ、「平安あれ(ヘ:シャローム)」と言って、聖霊の息をふきかけて下さった。
その上でもなお、後退してしまう弟子達の様子が本日の箇所に記されている。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。』
ペテロは漁に「行く」と言ったが、その原語は「フパゴー」、戻る、離脱する、retire、depart,等の意味もある。
彼はせっかくイエス様から聖霊を受け、働き人としての任命を受けたのに、そこから離れ、以前の仕事である「漁」に戻る、と、他の弟子達に告げ、そして他の弟子達も彼に追随したのだ。しかし、何も獲れない。
ペテロは漁師としての経験から「夜」に行ったのに、一匹も獲れなかった。プロが自分の経験と技量を駆使して、何も出来ないのもまた、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願う方向性で起きるとは限らない。自分が願った事の真逆方向に続く奇跡もある。
このような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは逆方向を願って進んで行く場合に、よく起きてしまうものだ。
それでもギブアップせず、なおも主の御旨でない方向に突き進んで行くなら、もっと何も獲れず、空腹で疲れて果てて行く泥沼にはまり込んでしまう。イエス様は、そんな泥沼の中で奮闘している者に、優しく現れて下さった。夜が明けた頃、イエス様は岸辺に立たれた。しかし弟子達はそれがイエス様だとわからない。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(5節)
原文では、ここのイエス様の問いかけは「**が無いのだろう?」と、「無い」事前提の問いをしている。
弟子達は「無い」と答えるしか無かった。それはそうだ。なにしろ、魚も湖も全主権をもって支配しておられるのはイエス様であり、彼の御旨でない「網投げ」に対しては100%何も獲れないという奇跡で答えられる。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(6節)
彼らは、お言葉どおり従ったら、逆転の奇跡が起きた。それもそうなのだ。主のしもべという者は、御旨でない事を続けるならただ「虚しい奇跡」しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きるのだ。
ヨハネは、そのイエス様のご性質を思い出し、『ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ(直訳:自らを海に投げた)。』(7節)
ペテロは、裸だった。せっかくイエス様が、人間をとる漁師という「使命の衣」を着させ、「聖霊の帯」で結びつけて下さったのに(20章)、それを脱ぎ捨て、「魚をとる漁師」という以前の自分に戻り、他の弟子達をも世の仕事に導き、世の苦労をさせ、裸で自分の意見に従わせ、ただ疲れ果てるだけで、何も取れない。
もし私達も、イエス様から与えられた聖霊の帯を自ら解いて裸で立ち振る舞っていたと気づいたなら、ペテロのように再び纏って、古い自分を水の中へと投げ込んで、イエス様のほうへと泳いで行くのみである。

『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」』(9-10) これがイエス様の麗しい性質である。
彼は、くすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、強制力によって人を支配するのでなく、愛、憐れみ、赦しによって、優雅に、美しく、柔和に、頑なな人の心を溶かし、群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、ペテロを変えて行く。ペテロは生涯の最後、迫害されている聖徒達を励ますために、ローマの牢獄へと進み出て、捕らえられている聖徒達を励ましつつ、逆十字架刑で殉教したと言われている。
その殉教の直前に書かれたのが、ペテロの手紙である。彼は書いている。
『あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』(1ペテロ5:2-4) 以前は全く御言葉を信ぜず、従えず、幾度も失敗したペテロが、徹底的なキリストの愛によって造り変えられ、群れの模範となり、大使徒となった。
ペテロのようにイエス様の愛のご性質に浸し込まれ、ますます造り変えられて行く皆さんでありますように!

宇宙よりも広い主イエス様の愛と憐れみ(ヨハネ21:1-25)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

イエス様はあらかじめ復活すると言っていたのにそれを信じ切れない弟子達に、聖霊の息を吹きかけ「わたしもあたながたを遣わします」と言って任命して下さり、信じ切れないトマスに、傷んだ葦を折る事をしない、優しく麗しい対応で信仰を建て直して下さった。
イエス様はなおも、御言葉どおりに出来ない弟子達に現れて、彼らを愛憐れみに満ちたあらわれによって、建て直して下さる。

21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

ペテロは漁に「行く」と言ったが、その「行く」はフパゴー、戻るとか離脱する事の意味である。
ペテロはせっかくイエス様から主の働き人の任命を受けたのに、そこから離れて、以前プロフェッショナルとして仕事していた「漁」に戻る、と他の弟子達に言ったところ、他の弟子達も「いっしょに行く」と言った。
しかし、何も獲れない。

ペテロは漁のプロフェッショナルだったので、魚が穫れる時間、わざわざ夜に魚を捕りに行ったのに、一匹も獲れなかった。
それは、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願った通りの事とは限らない。自分が願った事が100%閉ざされるという奇跡もある。
そのような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは100%逆方向を願って進む時に起きてしまうのだ。

それでもあきらめないで、主の御旨でない事を続けて行くなら、ますます「何も獲れない」「居心地が悪くなる」「気まずくなっていく」事の泥沼へと、どんどんはまり込んでいってしまう。
イエス様は、そんな泥沼に沈んていく者達に、優しく現れて下さる。

21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
自分の思い通りに行く事に物事をもって行こうとしがみつき、奮闘してしまう時、イエス様が見えなくなってしまう。


21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
ここのイエス様の言葉は、英語の「Don't you」のような、「**が無いのだろう?」という、「無い」事が前提の問いかけである。
弟子達は、無い、と答えるしか無かった。
それはそうである。なぜなら、魚も湖も全てを主権をもって支配しておられるのはイエス様だから。
イエス様は、主の御旨でない主のしもべの「編み投げ」に対しては、100%、何も獲れない、という奇跡で答えられる。

21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
彼らは、そのお言葉どおり従ったら、これまた逆転奇跡が起きた。
主のしもべは、御旨でない事を行うなら、ただただ虚しい奇跡しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きる。
弟子ヨハネは、イエス様のそのご性質を思い出した。

21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
ペテロは、裸だった。
イエス様がせっかく救いの衣を着せ、聖霊の「縄」によって縛って、人間を捕る漁師としての働きに召したというのに、それを脱ぎ捨てて、以前の自分の「漁師」としての帯びを再び締めて、はだかで立ち振る舞っていた。それをペテロは気づき、上着をまとって海に飛び込んだ。
この「飛び込んだ」と訳されている言葉は、直訳するなら「自らを水の中に投げた」である。
イエス様に着せられた衣を脱いで、裸で立ち振る舞っている事に気づいた時は、この、ペテロのような対応を私達もするべきである。
再び主に着せられた衣をまとい、自らは水の中へと投げ込んで、そしてイエス様のほうへ泳いで行くのみである。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
これが、イエス様の麗しい性質である。彼はくすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、ただ、バックスライドしてしまった弟子達を、温かい炭火焼きのパンと魚で迎えて下さる。

21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
3つめの奇跡である。それは、あんなにも立派な魚が大漁に捕れたのに、網が破けなかった。
魚たちも、弟子達に捕らえられるように、網が破けないように、配慮するのだ。それもまた、イエス様の主権である。

21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
イエス様は、自ら来て、弟子達のために食べ物を与えて下さった。
しかも、私達主の働き人が、主の御言葉どおりに行って得たものさえも用いて。

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
ここではイエス様は「愛するか」と2度、聞いてきたが、その愛は、ギリシア語ではアガパオー、すなわち、自らを捧げ尽くす完全な愛で愛せるか、と聞いて来たのである。
しかしペテロは、完全に愛し尽くす愛の「アガパオー」では答えられず、「フィレオー(好きである、慕っている)」という愛で答えた。
そのやり取りが、二度繰り返された。

21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
イエス様は三度目の質問では「アガパオー」で質問して来てはいない。三度目は、あなたはわたしを「フィレオー」するのか?と問いかけてきたのだ。
イエス様の側から、完全な愛で愛し尽くす事の出来ない人間の側にレベルを合わせて、降りてきて下さったのだ。
あたかも大人が、自分の弱さに泣いている子供の目線に降りて来てなだめるかのように。
ペテロは、3度目にイエス様が「フィレオーするのか?」と降りて来てくださったので、悲しくなったのだ。

ペテロのように、自分の弱さに悲しみ、イエス様がそんな弱い自分に降りてきて下さった事に心触れられる事が、肝心である。
この、悲しむ心を忘れて、ただただイエス様に炭火を焼かせてばかりいるとしたら、それは恩知らずの性質である。

21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
未熟な働き人は、自分でビジョンを思い描き、自分の好きな帯びを締めて、自分の好きな所へ行くものだ。ペテロはまさに、そうだった。
しかし、熟練した働き人は、自分の思い描く事や、自分の好きな帯を捨てて、聖霊の帯に縛られて、主が示される所へと行くものである。
使徒パウロが、聖霊に縛られて、殉教を覚悟してエルサレムへ行ったように。
主の働き人とは、みな、そのようである。

21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
主から、あなたのミニストリーはこれだ、と示されても、どうしても「あの人はどうなのですか」「どうして自分ばかりこうなのですか」と、他人を指差して比較しがちである。
しかし主の答えは、「あなたは、わたしに従ってきなさい」である。
私達は、あの人がどう、この人がどう、ではなく、ただ主だけを見、主の言葉に従って行けば良いのである。

21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
他の弟子達は、主の言葉に自分勝手な解釈を混ぜ込んで、この弟子(ヨハネ)は死なない、と、うわさ話を広めたが、しかしヨハネは、100%主が言った言葉を違えず、「主が言われたのはこうだ」と言った。
私達も、主の言葉に自分の思い込みを混ぜ込む人に対しては、主の言葉を100%そのまま語れば良いのだ。

21:24 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
確かにイエス様がなさった驚くべき事、素晴らしい事を書き記して行くなら、世界さえもその書を入れる事は出来ないが、しかし何よりイエス様のなさった事は、愛に満ちている。
ヨハネ福音書は「愛の書」と良く言われている。
イエス様の愛、それこそ、語れば語る程に、世界さえも入れる事が出来ないのだ。
イエス様の愛は、宇宙よりも大きく広い。それをこそ私達は御言葉から読み解き、主の愛と憐れみに満たされ、主の働き人として成長して行くべきである。

マグダラのマリヤから学ぶイエス様に真っ先に出会える人の性質(ヨハネ20:1-18)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
マグダラのマリヤ、彼女はイエス様に真っ先に出会う特権にあずかった。
それは、彼女が誰よりもイエス様を慕い求めていたからである。
「マグダラ」はガリラヤ湖の南西の町で、その出身であったためにマグダラのマリヤと呼ばれているが、「マグダラ」はヘブライ語ではミグドール、「見張り台」という意味である。
彼女はまさにその名の通り、イエス様にずっとついて行って、ガリラヤ伝道中にもいつもついて行った。(ルカ8:1-8)。
イエス様が十字架につけられた場面でもすぐそばにおり(ヨハネ19:25)、イエス様が息を引き取った時も、墓から降ろされて墓に葬られる場面も、ずっとその場を去らずに見守り(マルコ15:47、ルカ23:55)、安息日が明けた明け方の時に早速またイエス様の墓に行った彼女である。

なぜ彼女は誰よりもイエス様の近くにいて、イエス様を見守る人になったか。
彼女は七つの悪霊をもっていたがイエス様に追い出していただいて(ルカ8:2)、以前の罪深い生活から救っていただいた。
多くを赦され、多くを救っていただいた人は、イエス様を多く愛するものである。

ルカ7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

マグダラのマリヤは、多くを救っていただいた故に、より多くイエス様を愛した。
それだから彼女は、イエスが十字架にかけられた時も、イエスが息を引き取る場面も、イエス様が墓に葬られる場面もそこにいて、そして、イエス様が墓からよみがえってから一番最初に出会う事も出来たのである。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11a しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。

ペテロとヨハネの二人の弟子は、イエス様の遺体が墓からなくなっているのを確認したら家に帰っていったが、マリヤはなおもそこに留まって、泣いていた。
イエス様を慕い求めていたからだ。

20:11b そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

墓の中に、二人の白い衣を着た御使いがすわっている。ペテロとヨハネが墓の中に入ったさっきまで、いなかったはずなのに。
尋常な場面ではないのに、彼女は普通に対応している。
親しい人が死んで、その遺体が無くなってしまうような大きな悲しみの中では、ちょっとやそっとの尋常でない場面に出くわしても、その悲しみのほうが大きくて、それどころではなくなってしまうものである。
彼女は大きな悲しみによって、心が塞がれていた。しかし、そんなイエス様を慕い求める彼女、心が悲しみで塞がれている彼女に、イエス様ご自身が直接あらわれてくださる。

20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女はイエス様に名指しで声をかけていただく事が出来た。
彼女は、二人の御使いに「わたしの主」と言ったし、またラッブーニというヘブライ語は「わたしの先生」という意味である。
彼女はイエス様を「わたしの主」「わたしの先生」と、イエス様を「わたしの」と呼んでいた。

イエス様に真っ先に出会う特権にあずかったマグダラのマリヤ。
彼女の性質から、イエス様にすぐ出会える人の性質が分かる。
イエス様に速やかに出会える人とは、彼女のように、多くを赦していただいたなら、多くを愛する人。
いつもイエス様に目を向け、何があってもイエス様について行き、イエス様が死んで、もう絶望的だと思っても、なおイエス様を探し求め、イエス様を「わたしの主」と呼ぶ性質こそ、イエス様から真っ先に声をかけていただき、真っ先にイエス様に出会える性質である。

復活された主の栄光を見るために(ルカ24:36-49)
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イエス様の話をしている弟子達に、堂々と、イエス様ご自身が現れた。
24:36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
イエス様は「やすかれ」(アイレーネー:ヘブライ語のシャロームに相当)と言われた。
復活の主は、真っ先に言われる。シャローム、と。
シャローム。すなわち、主がその御顔をあなた向け、あなたを応援し、あなたが平安で、健やかで、安全であり、知恵と力と栄光と富に満ち、あらゆる悪や敵から守られ、それらに勝利し、そして、あらゆる面で満ち足り、繁栄し、産んで増えて地に満ちて、満足するように、と。

しかし弟子達は、シャロームとは真逆の反応をする。
24:37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
車は急には曲がれないように、人も、人智を超えた事を突然なさった主に、そのまま感情や納得がついて行く事は出来ず、ある程度の消化期間が必要である。
イエス様は、そんな彼らをご存知であり、彼らが納得できるように助けて下さる。

24:38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
24:40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕
24:41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
24:42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
24:43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

イエス様が死者の中からよみがえられた、という事に、人はなかなか理解できない。それで人は、イエス様の復活について、弟子達は死人の幽霊を見たのだ、とか、彼らの思い込みが引き起こした集団ヒステリーによる幻を見たのだとか、色々と頭に収まるように解釈を試みる者がいるが、彼らはこのルカの箇所をどう説明するのだろうか。
イエス様は、理解できない彼らのために、わざわざ、十字架で釘打たれた手足を示し、さわるように促し、また、わざわざ食べ物を取って皆の前で食べられた。
死霊や幻には、肉や骨は無い。死んだ人や幻は、何か物を食べるという事は無い。
疑う彼らに、堂々と、ご自身は肉体を持った者として生きているのだと示された。
それは、弟子達のみならず、私達も、栄光ある復活のからだによみがえらされる望みを持つようになるために、イエス様はそうされたのである。
1コリント15:41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

前回の箇所に続き、ここでもイエス様は聖書の言葉を引用された。
現代の私達が霊の引導を得るべき源は、聖書である。それは、しるしや不思議、幻や霊現象ではない。

24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

イエス様は、弟子達が聖書を悟らせるために彼らの心を開いた(ディアノイゴー:切り開く)。
私達も、御言葉を悟るには、閉塞されてしまっている心を、思いを、知性を、開いてもらう必要がある。
開いて下さるのは、主である。

2コリント4:3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4:4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
福音に覆いがかけられてしまっている人は、「この世の神が」その思いをくらませて、キリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのだ。
この世には、福音の輝きを覆うもので満ちている。インターネット、ゲーム、諸々の肉の享楽など、それらは全て、真理を覆うためにサタンによって用いられてしまっている。

4:5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
ここに記されているように、私達に神の栄光の知識を輝かせて下さるお方は、主である。
イエス様は、弟子達の心を切り開いて、御言葉が悟られるようにして下さった。
私達は、御言葉を理解したいのなら、心を切り開いて下さるよう、主に祈るべきである。

2コリント3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ユダヤ人達は今なお心に覆いがかかって、福音の光が見えなくされている。彼らはテフィリンによって知性が強力になってしまい、知性によって伝道する事はほぼ不可能である。しかし、彼らが主に向くなら、そのおおいは取り除かれる。
主は、御霊(το πνευμα)である、と記されている。
そして、御霊なる主の働きにより、私達も、主の栄光を反映する鏡として、人々に主の栄光を届ける事ができるようになる。

イエス様はさらに、弟子達が聖霊に満たされて使徒として任命を受けるために命じられた。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

私達も、知性や心、思いが主に対して開かれるよう、日毎、主に心を向けつつ聖霊に満たされる事を求め続けるべきである。

頑なに握りしめられた心を燃え立たせ開かせる言葉(ルカ24:13-35)
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24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。

イエス様の十字架からの復活以降、イエス様の現れは、現代の私達と全く同じ現れ方をしている事が、福音書の後半部分から知ることが出来る。
すなわちイエス様は、四六時中肉体をとって肉体に縛られているのではなく、時間空間に縛られず、ただ、二人また三人でイエス様の名の元に集まってイエス様の話をしている所に、あるいは、心からイエス様を慕い求める魂のところに現れて下さる。
イエス様は、この二人の弟子がイエス様の話をしている所に現れて下さった。
しかし、イエス様が目の前に現れたからといって、必ずしもそれがイエス様だと分かる訳ではないようである。

24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

目がさえぎられて、と訳されている原語ギリシア語はクラテオー、握りしめるとか、力づくで思いのままにするという意味である。
彼らは自分の目を、自分の思い込みや、心の欲するまま、肉の欲するままの状態で、固く握りしめられていたのだ。
イエス様が目の前に現れても、それがイエス様だと気づかない理由、それは、心が握りしめられたままの状態である事だ。

24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19a 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。

きっと、この場面を映像にしたら、とても滑稽ではなかろうか。
イエス様を目の前にして、イエス様に話しかけられて、悲しそうな顔つきになっており、何の話かと聞かれると、目の前にイエス様ご自身を見て話しているというのに、「ナザレのイエスのことです」と言うのだから。
彼らは、暗い顔つき、悲しい顔つきであった。その理由は、イエス様を目の前にしても、人間の言葉や噂話をし、そして、イエス様があらかじめおっしゃっておられた事がそのとおりになったというのに、また証人もいるのに、なお、自分で自分の心を固く握りしめつづけていたからだ。

ヨハネ6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
人間の言葉は何の益ももたらさず、また、心を固くし思い込みを握りしめる者達の議論は、顔つきを暗く、悲しげにする以外に無い。
そして、いかにイエス様が目の前に現れていようとも、それに気づかないままなのだ。

結局、人を生かすのは、人間の言葉(ダバル)ではない。ただ、神の言葉(ダバル)である。
人間のダバルは、こねくり回せばこねくり回す程、顔つきは暗く、悲しげになって行く。
ただ、神の言葉のみが、人にいのちを息吹く。

24:19b あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

これらの出来事は事実で、確かに心暗くする事であっただろう。
しかし、次に続く言葉は、暗い心に光をもたらす事であるはずである。

24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

イエス様が三日目によみがえる事は、あらかじめイエス様が何度も語っていた事だったし、実際、イエス様が生きておられるという証言を聞き、そして墓もからっぽだった事を聞いても、彼らは嬉しがるのではなく、なお、心暗く頑なな状態である。
そんな者、心をあくまで頑なにしている者を対処する事が出来るものは、霊とたましいの間を貫く御言葉の剣のみである。

24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

イエス様は、「ほら、目の前にわたしがいるではないか」と言えば一発で済むと思えるような場面で、それをしなかった。
かえってイエス様が話された言葉は、モーセや全ての預言者、すなわち、聖書全体であった。
これは現代の私達も、頑なで恐れる暗い心を開放する唯一の方法である。
私達も、イエス様が目の前にいる、見なさい、と言う必要は無い。御言葉、それを示す事が、イエス様を示す事である。

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達に、イエス様だと分かったタイミングは、イエス様がパンを裂いて、それをお渡しになった時だった。
聖餐において、裂かれたパンは、十字架上で裂かれたイエス様の肉体を意味する。
見えない目が開かれるために、また、聞けない耳が開かれるためには、十字架のイエス様を渡す事である。

弟子達の心は、道道、御言葉を聞いている内に燃え立たされていた。
皆さんも、頑なに握りしめられ聞く耳を持たない人の心を燃え立たせたいだろうか。それには、御言葉を語る事である。
相手の心が開くまで、時間がかかるかもしれない。弟子達でさえ、時間がかかった。
しかし、それまでイエス様についての御言葉を語り続けるなら、やがて心燃え立たせられ、開かれていなかった心が開かれて行くのである。

24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
24:34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
24:35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

弟子達は、せっかく11キロの道のりを歩いて目的地に到着したのに、また、日も既に暮れたのに、なお戻って、イエス様が生きておられる事、現れて下さった事を証した。
御言葉によって心開かれ、心燃やされ、イエス様に出会ったなら、どんな労苦おも惜しまずに、イエス様を伝えずにはいられなくなるのだ。

死を打ち破り、永遠に生きる、われらの主(マタイ28:1-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を喜び記念する日である。私達には死というものがあり、それに縛られているが、それは私達の主イエス様によって打ち破られる。イエス様が再び来られる時、最後の敵である死も滅ぼされる(1コリ15:26)。本日は死に勝利しよみがえられたイエス様の喜びを分かちたい。

「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」
彼女達が墓に行った理由は、イエス様のよみがえりを真っ先に見たいからではなく、イエス様の遺体に防腐措置を施すためだった。祭司長達はイエス様が「よみがえる」と言っていた事を思い出し、番兵を遣わしたが、それは、生き返ったイエス様を再び殺すためではなく、遺体が盗まれないようにするためだった。
イエス様自身はあらかじめ、死とよみがえりを伝えていたけれど、誰一人、信じ続けた人はいなかった。イエス様は十字架上で息をひきとり、槍で突かれても何の反応もなく、完全に死体となって葬られたからだ。
しかし、である。安息日が終わった日曜日の明け方、大きな地震が起こり、主の使いが下って来て、墓を塞いでいた石をわきへころがし、その上に座った。『その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。』
この番兵達は、弟子達が「復活した」という”嘘”を広めないようにするために配置されたはずが、彼らは逆に、イエス様の”復活の真実”の目撃者となった。全て、逆効果になるのだ。イエス様に、いのちに、真理に敵対する全てのたくらみは。イエス様にあって、死はいのちに飲まれ、偽りは真理へ塗り替えられるのだ。
『この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。』 この「恐れるな」という言葉は、主を信じる私達にもかけてもらえる、希望の言葉である。番兵達は倒れて死人のようになったのに、彼女達はそうならなかったのは、彼女達が番兵より屈強だという事ではない。どんな屈強な者も、権威ある者も、栄光の主の前に立てる者はいない。ただ、主を愛し、慕い求める者達をこそ、主は愛し、好意を注ぎ、守られるのだ。
「もうここにはおられない。かねて言われた通りに、よみがえられたのである。」 イエス様は「死」に納まっているお方ではなく、死を打ち破り、永遠に生きるお方である。イエス様を信じる人も皆、死んでも生きるのだ。
御使いは彼女達に、弟子達にこの事を伝えなさい、と言った。弟子達はイエス様を見捨てて逃げてしまったが、主はそんな弱い彼らをも、全世界に、主の復活を証する証人として、召し出して下さるのだ。
彼女達は恐ろしくはあったけど喜んで行った。主の働き人は、恐ろしくはあっても喜ばしい大いなる体験をするものだ。信じられない程偉大なお方から、目を留められ、気にかけているためだ。
「すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われた」 今度はイエス様が直接、彼女達に現れて下さった。彼女達は、主が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行く道も泣きながらついて来たし、イエス様が死んで、葬られて、もう希望が無いと思っても、それでも夜が明ける前からイエス様の所に来た。
そういう人こそ、主が直接会って下さり、声をかけて下さるのだ。主の好意を得られる人とは、主の言葉を100%信じ切れなくても、弱くても、それでも「主を慕う人」である。しかし、主が王である事を頑固に拒否し、自分が王であろうとし続ける者は、やがて、主が栄光の内に来られる時、山や岩に向かって「私たちの上に倒れて、かくまってくれ」と言うようになる。(ルカ23:30、黙6:16)

さて、番兵達は一切の出来事を祭司長達に話した。すると彼らは集まって協議をこらし、彼らに沢山の金を与え、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。」と言った。
祭司長達は番兵達の言葉を、信じたのだ。そうでないなら、弟子達が女達の言葉を「戯れ言」と思って取り合わなかったように、兵士達の言葉を取り合わなかっただろう。しかし彼らは大金を積んで口を封じたのだ。
イエス様の十字架と復活が目の前の置かれる時、二通りの道が分かれる。イエス様の復活を、権威や金で揉み消そうとする側と、イエス様の復活を喜んで受け入れ、イエス様と共に永遠のいのちを受ける側と。
人がいかにイエス様の復活をもみ消そうとしても、また、いのちを抹殺しようとしても、いのちが勝利する。
私達は、主イエス様にあって、死は問題ではなくなる。なぜなら、私達の主イエス様が死に勝利したから。
そしてやがて、最後の敵である「死」は滅ぼされ、死とハデスとは永遠の火へ投げ込まれる。しかし、嘘や不正という「死」と同盟を結んで(イザヤ28:14-19)、王の王である主イエスを拒否する者は、やがて、その死もろとも永遠の火へと投げ込まれる。私達は復活の主を期待し待ち望みつつ、この世を歩む者でありたい。

ゲッセマネの園でイエス様を十字架へと渡した全ての人々(マタイ26:36-56)
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26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
26:37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

イエス様は悲しみという感情を起こされた。
もし子供が親に見捨てられるとするなら、子は大きな悲しみを覚えるが、イエス様は御父から、それも、世の始まる以前から御父と親しい愛の交わりをしておられた、その御父から捨てられ、呪われ、悪しき者達の罪を負い、神と人から見捨てられるのだ。
それは、血の汗を滴らせる、私達には計り知れない大きな大きな悲しみである。

26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

ゲッセマネ、それは「油絞り」という意味である。
この、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りこそ、聖霊の油がしたたる祈りである。
いつも油の用意をしている5人の賢いおとめは、花婿が来た時、すぐに花婿と共に婚宴へと行く事が出来たが、愚かな5人の花嫁は油の用意が無かったため、油を買いに行っている間に婚宴の席は閉じられてしまい、花婿へと嫁いで行く機会を永遠にロスしてしまった。(マタイ25:1-13)

油したたる祈りとは、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りである。
いかに多くの人が、「みこころのままにではなく、わたしの思いどおりになさって下さい」という、逆の祈りをし、油の蓄えをするべき機会をロスしてしまっているだろう。

26:40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。「心(プネウマ:霊)」は熱しているが、肉体が弱いのである」。

イエス様は血の汗をしたたらせて悲しみ苦しみもだえて祈っている傍ら、弟子達は、居眠りしていた。
「誘惑」するものがあったからだ。居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑が。
イエス様の願いは、一緒に目を覚まして祈っている事だったのに、イエス様一人に祈らせて、自分は眠ってしまう。

26:42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
26:43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。

祈るべき時に、目が重い、それを「よくある、仕方ないよね」で済ますべきではない。
イエス様はパッションをもって、この時代のために、国々のために、執り成しておられる。
居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑に陥らないように、目をさまして、イエス様と共に祈るべきなのだ。

26:44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
26:45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

イエス様は、弟子達が眠っているのを見て、再びただ一人、血の汗したたる悲しみもだえる祈りへと戻り、そして戻って来たら、弟子達はまた居眠りをしている。
そして、時間が来てしまった。
居眠りをしているならやがて、イエス様が連れて行かれ、目の前からいなくなってしまう時間が来てしまうのだ。

何事にも、時期がある。
祈るべき時期、油を蓄えるべき時期、しかしその時期を無駄に、眠りをして費やしてしまうなら、その時期を無駄遣いしてしまった将来を刈り取る事になってしまう。
しかしその時期を、しっかり為すべき事を為して過ごすなら、豊かな報いがある。

26:46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

イエス様は、弟子達を行かせた。そして弟子達は結果的に、イエス様を置いて、行ってしまう。
イエス様は弟子達の誰一人として失われる者がいないように、行かせたのだ。

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
26:48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
26:49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

ユダは金を受け取り、意図的に、イエス様を売り渡した。
そして、その志とは裏腹に、イエス様に対し「いかがですか(カリオー:お元気で)」という挨拶言葉と、接吻という親しい挨拶した。
普通そこまでされたなら、怒りに燃えて罪定めして裁いてしまっても仕方無いものであるが、イエス様はそうしなかった。

26:50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。
原意は、「友(仲間、同労者)よ、このためにあなたはここにいるのですか?(来たのですか?)」である。
イエス様は一切、断罪の言葉を発しなかった。ただ、その後の成り行きはユダに任せた。
ユダはその後、悔い改めて立ち返る自由意志の余地をイエス様は残された。しかしユダはその後、その自由意志を用いて、自分で首をくくってしまった。

26:51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
26:53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
26:54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

イエス様は確かに、12軍団(1軍団(レギオン)は6000人、12軍団は72000人)以上の天の軍勢を従えて、裏切るものも、捕らえに来た者も、全部滅ぼす事が出来た。
しかしそんな事はしなかった。
聖書の言葉が、成就するために、すなわち、人の救いが成就するように。

26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

こうして、弟子達は全員、イエス様を捨ててしまった。
ある弟子は、金銀をもらって心定めてイエス様を裏切り、ある弟子は、祈るべき時に祈らず、眠る事によって。
そして人は、皆、イエス様を十字架へと運んでしまった。
イザヤ53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

しかしイエス様は、誰をも罪定めせず、また、天の軍団を従えて滅ぼす事もせず、御心を行うように、人を救うようにと心さだめ、わざと捕らえられ、十字架への道を歩まれた。

十字架、復活、聖霊抜きには何も出来ない主の弟子(ルカ22:14-34)
Youtube動画
※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

いわゆる「最後の晩餐」は、単なる最後の食事ではない。
それは「過越の食事」であり、小羊の犠牲がともなったものである。
主が、神の民を、奴隷状態から脱出させて下さった事、死の災いを免れさせてくださった事を覚えて、それを行うようにと、「代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない」として、イスラエルの民が奴隷の国エジプトから脱出する前夜に制定された。(出エジプト記12章)
イエス様こそ、まことの犠牲の小羊である。イエス様の血によって滅びの災いを免れた。

22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

有名な、聖餐制定の場面である。ここで重要な事は「わたしを記念して」である。
教会は、イエス様中心の交わりである。
それゆえ、教会という交わりの中で、イエス様を覚えない飲み食い、すなわち、イエス様抜きの消費目的で教会のものを消費するなら、自分自身にさばきを招いていしまう。
1コリント11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
11:31 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。

主のみからだをわきまえない飲み食いが、弱い者になってしまったり、病人になってしまったり、あるいは死んでしまう事の元となる。
私達はこの事をよく気をつけるべきである。

22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

この晩餐の時、誰が一番えらいか、という議論も弟子達の間で沸き起こった。
それに対してイエス様は、「指導する人は仕える者のようになるべきである」と言われた。
事実、イエス様のほうの側から、それをして下さったし、さらに、そのようにする人には、大きな報いがある事をもしっかりと宣言された。

22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

さらにイエス様は、弟子達の高ぶる心を砕く事実を宣言される。

22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

イエス様はご存知だった。サタンは神に「願って」、弟子達をふるいにかける事を許可した事を。
サタンは神に「許可」得なくては、人には何も出来ない。
しかし許可されてしまったので、後に弟子達はイエス様を見捨て、散り散りに逃げてしまう。
それを見越して、イエス様は、信仰がなくならないように、あらかじめ祈って下さった。

22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

ペテロも弟子達も、いきがって、強い事、いさましい事を主張した。
マタイ26:35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
しかし、人の声の張り上げや主張は、実に、もろいものである。
イエス様はシモン、シモン、と言われた。
シモンは、彼の父ヨナがつけた名前であり(バルヨナシモン:ヨナの子シモン)、ペテロ(岩)はイエス様がつけた名前である。
主の十字架と復活ぬきには、何も出来ない。主の執り成し抜きには、何も出来ないのだ。

ルカ22:60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
22:62 そして外へ出て、激しく泣いた。

十字架の主、復活の主、聖霊を与えて下さる主が無いままでは、主の働き人にはなれない。
自分のイエス様抜きの弱さを徹底的に知り、泣いて、ただ主を求める事こそ、主の働き人としての歩みの始まりである。

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