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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

ソロモンの統治のはじめ(2歴代誌1:1-17)
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ソロモンを王とし、彼を非常に大いなる者にされたのは、神である主である。
彼が王となった時、彼は早速全イスラエルを集め、公な形で礼拝した。

1:2 ソロモンはすべてのイスラエルびと、すなわち千人の長、百人の長、さばきびとおよびイスラエルの全地のすべてのつかさ、氏族のかしらたちに告げた。
1:3 そしてソロモンとイスラエルの全会衆はともにギベオンにある高き所へ行った。主のしもべモーセが荒野で造った神の会見の幕屋がそこにあったからである。
1:4 (しかし神の箱はダビデがすでにキリアテ・ヤリムから、これのために備えた所に運び上らせてあった。ダビデはさきに、エルサレムでこれのために天幕を張って置いたからである。)
1:5 またホルの子であるウリの子ベザレルが造った青銅の祭壇がその所の主の幕屋の前にあり、ソロモンおよび会衆は主に求めた。
1:6 ソロモンはそこに上って行って、会見の幕屋のうちにある主の前の青銅の祭壇に燔祭一千をささげた。

ギブオンの高き所は後の時代、偶像礼拝する場所として、預言者たちの非難の的となった。
ソロモンはまだ就任したばかりの若者で、神殿もまだ建設されておらず、以前の因習に則ってそこで行ったのであろうが、神殿が建った後もなおそこが残り、そこで礼拝が捧げられ続けた事が、後の罠となってしまった。

1:7 その夜、神はソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。

もしも主から「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われたら、私達は何を求めるだろう。
あるいは今、切に求めているとしたら、それは何だろう。
それは神のための願いだろうか。神の民のためのものだろうか。
ソロモンはこの時、切に求めていたものは、自分自身のものは一切なく、ただ、神の民のために切に求めるものがあった。

1:8 ソロモンは神に言った、「あなたはわたしの父ダビデに大いなるいつくしみを示し、またわたしを彼に代って王とされました。
1:9 主なる神よ、どうぞわが父ダビデに約束された事を果してください。あなたは地のちりのような多くの民の上にわたしを立てて王とされたからです。
1:10 この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。だれがこのような大いなるあなたの民をさばくことができましょうか」。

ソロモンは、知恵と知識を求めた。
その動機は、地のちりのような多くの民の前に出入りすることのできるように、であった。私利私欲の一切ない、ただ神の民のためを願って、の事である。
ソロモンのこの時の志が、列王記にはさらに詳細に記されている。

1列王記3:6 ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。
3:7 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。

ソロモンはまず、偉大な王であった父ダビデを「あなたのしもべ」と言い、ソロモン自身も「このしもべ」と、自分自身を言っている。
王といえど、神の前にはしもべであるという正当な立ち位置に、この時、ソロモンは立っていた。

『それゆえ、”聞きわける(シャマー)”心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪を”わきまえる(ビーン)”ことを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。』(1列王記3:9-10)

ソロモンは主に「知恵」が与えられるよう願い、それが主に喜ばれて、多くのものが与えられた、と知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」である。
彼がそれを求めた理由は、主の民を正しく裁き、何が正しく、何が間違っているのかを「わきまえる(ビーン)」事を得るため、である。

聞き分ける「シャマー」の心。
これは、主にどんないけにえを捧げるよりも優れた事である。
サムエルは言っている。
『主はそのみ言葉に”聞き従う事(シャマー)”を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、”従うこと(シャマー)”は犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル記15:22-23)

主がもっとも喜ばれるいけにえ、それはシャマーの心、すなわち、聞く事、従う事である。
それを主は喜ばれた。

1:11 神はソロモンに言われた、「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、
1:12 知恵と知識とはあなたに与えられている。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう」。

まさに、おし入れゆすり入れして、全てが加えて与えられるパターンである。
このように、神の国とその義とを、まず第一に求めるなら、神は、加えて全てを与えてくださるのだ。

1:13 それからソロモンはギベオンの高き所を去り、会見の幕屋の前を去って、エルサレムに帰り、イスラエルを治めた。
1:14 ソロモンは戦車と騎兵とを集めたが、戦車一千四百両、騎兵一万二千人あった。ソロモンはこれを戦車の町々と、エルサレムの王のもととに置いた。
1:15 王は銀と金を石のようにエルサレムに多くし、香柏を平野のいちじく桑のように多くした。
1:16 ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商人がクエから代価を払って受け取って来た。
1:17 彼らはエジプトから戦車一両を銀六百シケルで輸入し、馬一頭を銀百五十で輸入した。同じようにこれらのものが彼らによってヘテびとのすべての王たち、およびスリヤの王たちにも輸出された。

知恵が与えられて後、彼がした事は、軍事力の強化であった事が歴代誌に記されているが、これは律法にかなった事ではない。

申命記17:16 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。
 
力や軍事力、強制力でもって周囲を治めるのは、神の国の方法ではない。
神の戦いの方法は、人間の軍事力によってではなく、ただ、神の不思議な方法によってであった。

ヨシュア6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(I have given into thine hand : ナタティ)。

このナタティの宣言、これが主の御口から宣言される時、その戦いは100%勝利し、そして敵のものは神の民の手に渡る。
しかし軍事力があるなら、好き勝手に、人や国へと攻め入り、殺し、奪ってしまう。

ソロモンは確かに栄えていく。しかしその初期段階から既に御言葉にそぐわない所があった。
私達は全く主に従う志を、いつも備えているべきである。

実体の無い空虚な「偶像(エリィル)」に警戒せよ(エペソ6:10-18)
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6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

パウロは霊的に武装するように命じている。
もしキリスト者が、もはや悪霊から何も攻撃を受けない、とするなら、パウロはわざわざこんな命令はしなかったはずだ。
実際、教会にかよっているクリスチャンであっても、悪霊から影響される事もあるから、だから目をさまして、武装する必要があるのだ。

悪霊はキリスト者に触れる事が出来ない、と言う人の根拠として、次の御言葉がある。

1ヨハネ5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

神から生まれた(受動態なので「生まれさせられた」)、という点が、大事である。
逆に言うなら、神を抜きに御言葉を抜きに人間力だけで生きている人には、悪しき者からは触られ放題という事だ。
ヨハネは次のように続けているからだ。

5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。

ヨハネは認めている。全世界は悪しき者の支配下にある事を。
そしてキリスト者は、体はその悪しき世界の中で生きているものの、その中にあっても守られる根拠を次のように続けている。

5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。

キリスト者は、体は、悪しき世界の中で生きているものの、真理なるお方キリストにあって真理の中に生きており、永遠の命が与えられ、彼によって守られているのだ。
そして最後、ヨハネは警告している。

5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(原意:自分自身を偶像から守りなさい。アーメン。)

なぜヨハネは最後に偶像から守りなさいと警告しているか。それがとても大事だからである。
「偶像」はヘブライ語では色々な言い方があるが、その内の一つに「エリィル」がある。
エリィルは「偶像」の他に、「空しいもの」「意味の無いもの」、特に占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを現す。
無益・無駄なイメージ、英語のアイドルであり、現代の映像やゲーム、ファンタジーは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴えて夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを集中させ、尊い人生の時間を奪っていく。まさにエリィルではなかろうか。

レビ26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。

レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる。
祝福と呪いの大元は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像(エリィル)を造ってはならない」である。
そうした魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」なら、神との関係がおろそかになり、続く2節の安息日や聖所での礼拝を敬わなくなって行く。
だからエリィルという実態のない空虚なもの、生産性の無い、そして夢中になるものに対し、ヨハネが警告し、パウロが警告し、そしてレビでも警戒しているわけだ。
私達は真実な事、有意義な、生産性のある事にこそ目を留めるべきであり、その最たるものは、御言葉である。

2テモテ4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

まさに今、健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれている時代である。
ゲームも映像もより洗練され、依存性を増しており、多くの若者たちから貴重な若い時と才能を奪っている。サタンの思う壺である。
だから今の時代、実態ある御言葉教育こそ緊急に必要だ。

悪霊が追い出されたとしても、もしその人が空虚なものへ明け渡したままでいては、悪霊に入りたい放題入られてしまう。

マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

主はこの、汚れた霊に入りたい放題入られ住み憑かれてしまう話を話されたのは、元々、しるしを要求する者達への警告としてだった。

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

私達も、ヨナのしるし、すなわち、主の死と、三日目の復活と、そして異邦人の救いという「ヨナのしるし」のみを追求するべきであり、メディアやゲームなど、夢中にさせ、実態のないものには警戒すべきだ。
そして若者たちには、真に実りある御言葉教育を施して、彼らに祝福された人生という未来を提供してあげるべきだ。

第二歴代誌概要(2歴代誌1:1)
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歴代誌は、ヘブライ語聖書(タナク)では「ディブレー・ハッヤーミーム(「日々の出来事」の意味)」として、イスラエルの歴史が記されている。
その歴史の範囲は、全人類の祖先アダムから始まり、バビロン捕囚とその帰還で終わる。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。

歴代誌は一見すると、系図や構図や寸法、役割分担や仕事のローテーションなど、何か、客観的なリストで埋め尽くされたように見えるが、この書へと込めたそのリストの性質から、この記者の意図を見る事が出来る。
その意図とは、自分達は神の民である事、礼拝する民すなわち神と関係を持ち、神の教えを守って祝福されて行くべき民である、という事を伝える事にある。

歴代誌のはじめは、アダム以来の系図が記されており、特にアブラハムの子孫を神は選んで増えて行った所に、神は特にイスラエル民族を選んで神の民とし、律法を導入し、その「神の基準」を人々に伝えるという、イスラエルのアイデンティティを示している。
第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿すなわち「礼拝こそがイスラエルのアイデンティティの中心」である事を強調している。
そして、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。

世の歴史書は、誰かの王朝の栄枯盛衰の繰り返し、偶然的・宿命的な出来事の繰り返しにしか見えないが、聖書は、神中心の観点から見るなら、一定の法則を見出すことが出来る。
主は祭司エリに「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。」(1サムエル記2:30)と言ったが、第二歴代誌の歴代の王達はまさにこの基準に漏れる事は100%なく、神殿礼拝を、すなわち主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。
まさに、歴史に学べである。

第二歴代誌は、1章から9章まではソロモンの神殿建設事業が主に記されている。
そして10章から最後までは、ソロモンから続く南ユダ王国の歴代の王達の栄枯盛衰が記されており、その法則は、先に記した通り、主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。

1:1 ダビデの子ソロモンはその国に自分の地位を確立した。その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。

ソロモンというと世界史では偉大な知恵深い王として有名であるが、聖書には「その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。」と書いてある。
すなわち、歴史を支配する天の神がおられ、神が王を立て、王を偉大にし、あるいは王を廃するのだ。
歴史は神中心で見るなら、決して宿命的・偶発的な繰り返しではなく、絶対的な法則性が見えてくる。

天地を創られたまことの神を敬う人は、祝福され、軽んじる人は呪われる。
天地を創られたまことの神を敬う国は、祝福され、軽んじる国は呪われる。
結局、人は、神を敬うかどうか、礼拝によって神と関わりを持つかどうかによって、究極的に、神と関わる永遠の祝福を生きるか、それとも神との関わりを断って永遠に呪われるか、のどちらかなのだ。
それが歴代誌に流れる法則であり、聖書全体の法則、そして人類全体の法則であり、私達の法則なのだ。
 

礼拝の基礎を造り祝福のモデルとなったダビデ王(1歴代誌29:20-30)
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いよいよ第一歴代誌の最後である。元々のヘブライ語聖書には第一・第二の区別は無かったが、後代の人が区切りとした所は、ダビデ王が全ての役割を終えて、ソロモンへと王権を渡した所であった。
第一歴代誌は、人類最初の人アダム以降の系図で始まり、そしてダビデ王が神殿建設の整えをし、後に続く王権の基礎となった礼拝中心の国家の体制を整えた所で終わる。
第二歴代誌はソロモンから続く王達の歴史であるが、その王権が栄えたか衰えたかは、100%、ダビデ王が整えた礼拝中心の路線に沿ったか、沿っていなかったかに由来する。

29:20 そしてダビデが全会衆にむかって、「あなたがたの神、主をほめたたえよ」と言ったので、全会衆は先祖たちの神、主をほめたたえ、伏して主を拝し、王に敬礼した。

ダビデ王は神殿のために多くが捧げられた事への感謝祈祷の後、「あなたがたの神、主をほめたたえよ」と言って、人々に主を礼拝する事を促した。
「ほめたたえる」と訳された語はバラク、祝福する、とよく訳される語であるが、元々の意味は「ひざをつく」である。主の前に低くなす、それこそ、人の側の分である。

「あなたがたの神、主をほめたたえよ」、歴代誌におけるダビデ王の最後の言葉は、まさに、ダビデ王の統治を一言であらわしているような言葉だ。
彼は主を礼拝する所を建築する志を持って整え、人々にそのための体制を整えていった。
結局、人にとっての全ては、主を礼拝する事、すなわち、主と出会い主と交わりをしつつ歩んでいくことである。天国とは、永遠に主と交わりを持つ所である。

この主の前に低くなる礼拝は、エズラの時代の礼拝のスタイルである。

ネヘミヤ8:6 エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。

エズラは大祭司の子孫で律法に精通した学者であり、彼はバビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民を前に、御言葉を朗読し、その意味を解き明かした。(8節)
ユダヤ式の御言葉への作法の第一は、まず、起立から始まる。彼が聖書を開いた時、会衆は起立した。
起立するという行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立するためには、足に力を入れて立つという、少しの体力を使う行動だが、御言葉に対し、「聞く」においても、「朗読する」においても、「反応する」においても、身体を使うのが「ユダヤ式」である。
エズラが主をほめたたえた時、民は皆その手をあげて、「アーメン」を2回、繰り返した。
身体を使う2番目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「アーメン」と応答する時、「手を挙げる」事である。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。

このように、ダビデの時代もエズラの時代も、主を礼拝するときには全身・全霊をもって主を礼拝した。
その結果、主は恵みをその時代にほどこしてくださった。

29:21 そしてその翌日彼らは全イスラエルのために主に犠牲をささげた。すなわち燔祭として雄牛一千、雄羊一千、小羊一千をその灌祭と共に主にささげ、おびただしい犠牲をささげた。

主の前にひざをかがめ、自分を低くする事に続いて、彼らがした事は、主に捧げる事だった。
燔祭とは全焼のいけにえ、すなわち、残らず全部を主に捧げる主への捧げものである。
その結果、与えられるのは、喜びである。

29:22 そしてその日、彼らは大いなる喜びをもって主の前に食い飲みした。彼らはさらに改めてダビデの子ソロモンを王となし、これに油を注いで主の君となし、またザドクを祭司とした。

主に正当に捧げる時、喜びが沸き起こる。
もし、捧げものを、何かの「支払い」のように、自分の財布からの「マイナス」として数えるなら、単なるマイナスでしかない。
しかし、主を愛するゆえにお捧げするなら、それはプラスになる。なぜなら、お捧げする事には喜びが沸き起こり、主は祝福を命じて加えて与えてくださり、結果、収支はプラスとなって、ますます力と富を増し加え、喜びがもっと沸き起こり、ますます主に捧げたいという願いが起こされて行くからだ。

29:23 こうしてソロモンはその父ダビデに代り、王として主の位に座した。彼は栄え、イスラエルは皆彼に従った。
29:24 またすべてのつかさたち、勇士たち、およびダビデ王の王子たちも皆ソロモン王に忠誠を誓った。
29:25 主は全イスラエルの目の前でソロモンを非常に大いならしめ、彼より前のイスラエルのどの王も得たことのない王威を彼に与えられた。

礼拝する人は、栄光が与えられ、栄える事ができる。
その逆に、主を敬わない者、礼拝を軽んじる者は、呪われてしまう。
ダビデ王はまさに祝福のモデルであり、また、続く第二歴代誌の歴代の王達の中で主から離れた王達は、呪いのモデルであった。

29:26 このようにエッサイの子ダビデは全イスラエルを治めた。
29:27 彼がイスラエルを治めた期間は四十年であった。すなわちヘブロンで七年世を治め、エルサレムで三十三年世を治めた。
29:28 彼は高齢に達し、年も富も誉も満ち足りて死んだ。その子ソロモンが彼に代って王となった。
29:29 ダビデ王の始終の行為は、先見者サムエルの書、預言者ナタンの書および先見者ガドの書にしるされている。
29:30 そのうちには彼のすべての政と、その力および彼とイスラエルと他のすべての国々に臨んだ事どもをしるしている。

ダビデ王は死んだが、その名は永遠に記録されている。
実質的には、ダビデよりも、ソロモンのほうが富と知識と栄誉が与えられたであろう。
しかしソロモンは、人生後半、主から離れてしまった。だから現代、ソロモンよりもダビデの栄誉のほうが高いのだ。

私達も、ダビデのように、主に真実を尽くして仕え、たとえ罪を犯しても、その罪を主に正直に告白し、いつでも主に立ち返るなら、主は真実をもって答え、富と知識と栄誉を増し加えてくださるのだ。

種を蒔くべきシーズンと場所(マタイ13:1-23)
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13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。

主はたとえ話の最後に、耳のある者は聞け、と言われた。
信仰は、御言葉を聞く事から始まるが、しかし、聞いたからと言って、実を結ぶとは限らない。
聞いても、分からない・悟る事ができないとするなら、弟子達のように、イエス様の所に言って、追求するべきである。

13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

つまり、御言葉を聞くだけの所にとどまる人は多くても、それを追求し、悟るに至るまでは、少ないのである。

13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

4タイプの土地、すなわち、人、がいる。
彼らに共通している事は、みんな、御言葉を「聞いた」事だった。(19,20,22,23節)
しかし、実を結ばせられたのは、唯一「御言を聞いて悟る人」だけだった。
悟る(スニーエミー)とは、一緒に結合するという意味もある。
だから私達は、御言葉を聞いたなら、その御言葉を結合し、自分自身と一体化させ、御言葉の通りを行う必要がある。
そういう人が、多くの実を結ぶ人である。

パウロは福音伝道という「種まき」の名人だった。
彼には、聞いたなら、すぐに行うたしなみがあった。

使徒16:6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
16:7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。
16:8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。

自分が良い事だ、と思っていても、しかしそれが御霊によって禁じられる事がある。
たとえ、御言葉の種まきという尊い働きであったとしても。
その時、私達が為すべき事は、自分の慣れ親しんだ方法や自分の固定概念を捨てて、御霊の声に従う事である。

16:9 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。

パウロは、聖霊の導く所へすぐに行った。
主の御胸は、この時、アジヤではなく、マケドニアだったのだ。
その時、パウロ自身も、またマケドニアの人達も、将来起こる事、すなわち、マケドニアをはじめ、ヨーロッパが福音化して行く、という事を知らなかった。
しかし、全ての人の心を知っておられる父なる神の御思いは、多くのマケドニアの人達の、救われたいと願う嘆願を、パウロに、ひとりのマケドニア人として、あらわしてくださった。
それでパウロはすぐに行動した。御言葉の種を、マケドニアに蒔いた。その結果、多くの人達が御言葉を聞いて、悟り、救いへと導かれた。

私達は、自分の思い込みで頑なに留まったりしてはならない。
心地よい所、なれた所に留まりたい、見ず知らずの所に行きたくない、という思いを捨てて、主が御霊を通して導かれる所へと行かなくてはならない。
それでこそ、多くの人達の命を救うのだ。

エデンの外側でいのちの木の実を得る方法(創世記1:9-13)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は収穫感謝祭、主があらゆる良き産物を実らせ、私たちに与えて下さった事を感謝する日である。
神は、創造の第3日目、大海の中からかわいた地を出させ、同じ日に大地から草や木を生えさせ、様々な種類の果物や種が出るようにと定められた。それは、私達人間や、あらゆる生き物が「食べる」ためであり、それもなんと、太陽や月、星が創られるより前に、植物は創られた。神は太陽よりも先に果物や種が実る植物を生えさせた程、また、この世が終わった後にも存在する程、実りを実らせる木は重要だ。
今回、人類にとって最も重要な木である「いのちの木」に至る道を学びたい。

私達は普通に、木や草は、太陽光によって育つものと思っているが、どうやら聖書によると、太陽光なしで育つ、私達の知らない木が存在するようである。太陽なしで育つ木、それは、黙示録22章にも登場する。
『川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。』(黙示録22:1-2) この聖書最終章においては、もはや太陽も月もないが(同21:23)、いのちの木は、太陽なしで育つ。エデンの園の中にあったいのちの木には、ケルビムの剣に阻まれて行けなくなってしまったが、実は、エデンの外側で「いのちの木」に至る方法が、箴言の中に4箇所しるされているのだ。

 愧侶辰蓮△海譴鯤瓩┐觴圓砲鰐燭量擇任△襦△海譴鬚靴辰り捕える人はさいわいである。』(箴言3:18)
いのちの木を得る人の第一の特徴は、知恵を捉えようと努力し、掴んだらそれを離さない人、すなわち、真の知恵である御言葉をテフィリンする人である。テフィリンとは、いつでも御言葉を口ずさみ、暗唱し、心と思いを御言葉で満たして行くものであるが、実際これをする人は健やかになり、頭脳明晰になり、自ずと必要が満たされ、神の性質を身につけて行くという、エデンの園の住人であるかのような性質を帯びてくる。
◆慇気靴ぜ圈淵張.妊ク:法に則った)の結ぶ実は命の木である、不法な者(カハーム)は人の命(ネフェシュ)をとる。』(箴言11:30) すなわち御言葉という真の「法」に則った人は、命の木の実を結ぶ。次のようにも書いてある。『全ての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。』(ヘブル12:11)
つまり忍耐して正しい行いをし続ける人は、平安な義の実、いのちの木を得るのである。
それに反し、「不法な者」と訳された語「カハーム」は、呪術的な邪悪な知恵であり、それは人のたましい(ネフェシュ)を魅了し、奪ってしまう。ちょうど善悪知識の木が、人を魅了し、いのちを奪ってしまったように。
『望みを得る事が長びく時は、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。』(箴言13:12-13) ここにおいても御言葉を重んじて忍耐して御言葉の成就を願い待ち望む人は、やがていのちの木を得るような喜びを得る事が記されている。
ぁ慷イ靴ぁ淵泪襯據次ЪL的な)舌は命の木である、乱暴な言葉は魂(ルアハ)を傷つける。』(箴言15:4) 
いつもテフィリンによって口を御言葉で満たしているなら、そのような人の舌は「治癒的」となり、その人がそこで言葉を発する時、周囲の人は、あたかも、いのちの木がそこにあるかのように癒されて行くのだ。
それに反し、乱暴な言葉は、霊(ルアハ)を破滅させる。霊を救う言葉があり、霊を破滅へと導く言葉がある。御言葉によって洗練された人の宣教の言葉は、人を癒やし、生かし、永遠のいのちへと導くが、しかし乱暴な言葉で人をつまづかせるなら、永遠の滅びへと至らせてしまう。だからイエス様は言われたのだ。
小さな人につまずきを与えるような者は、石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましだ、と。

以上のように、テフィリンこそ、エデンの外側で生きる私達にとって唯一の、いのちの木に至る道である。
テフィリンの逆、いのちの逆は、御言葉に逆らう事と、御言葉から独立した善悪知識である。
アダムは「御言葉」に逆らって善悪知識の木を食べてしまい、エデンから追い出されてしまった。それこそ楽園から追いやられてしまう性質、死をもたらす性質である。アダムとエバは、善悪の木から取って食べたその瞬間に心臓が止まって死んだわけではなかったが、徐々に「死」が体をむしばんで行った。その、徐々に進行して行く「死」と「呪い」に、唯一対抗する手段が、テフィリンなのだ。
天国は、神の栄光が満ち溢れ、神の支配が行き届いており、いのちの木に満ちている。今、この地上において私達は御言葉を口ずさみ、テフィリンし、神の国をもたらし、いのちの木の実を結ぶ者として歩みたい。

神殿のため、主のために捧げる事で沸き起こる大きな喜び(1歴代誌29:1-19)
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いよいよ第一歴代誌の最終章である。
と言っても元々のヘブライ語の聖書には第一・第二の区別は無いが、後代の人はこの歴代誌という書の区切りを、ダビデ王がソロモンに王権を引き継ぎ、神殿を建て上げるという所をハイライトとして区切った。
歴代誌はアダムから始まり、神の民の歴史が記されているが、その歴史書のハイライトが、神殿である、という点は、私達に重要な示唆を与えている。
神殿とは礼拝する所であり、すなわち神様と出会う所、神様と交わりを持つ所である。
聖書の結論である黙示録は、永遠の礼拝によって閉じられている。
すなわち、全ての人にとってのハイライトは、神様との出会い、神様との交わりなのだ。
この、神様との交わりを除いてしまったソロモンから続く王達の呪われた有様が、歴代誌の後半に記されている。

29:1 ダビデ王はまた全会衆に言った、「わが子ソロモンは神がただひとりを選ばれた者であるが、まだ若くて経験がなく、この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。
29:2 そこでわたしは力をつくして神の宮のために備えた。すなわち金の物を造るために金、銀の物のために銀、青銅の物のために青銅、鉄の物のために鉄、木の物のために木を備えた。その他縞めのう、はめ石、アンチモニイ、色のついた石、さまざまの宝石、大理石などおびただしい。
29:3 なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる。
29:4 すなわちオフルの金三千タラント、精銀七千タラントをそのもろもろの建物の壁をおおうためにささげる。

ダビデは、神殿建設のために、収入の中から取り分けて財産を取って置いたが、主に捧げる心と、仕える事の喜びのあまり、彼は自分の財産からも、さらに多くを捧げた。
会計的に神殿建設用として仕分けた資金ではなく、彼のプライベートで使う財布からも、さらに多くを喜んで捧げたのである。
神は、喜んで捧げる者には喜んで増し加えさせて下さり、惜しんで捧げる者には、その報いもまた惜しまれた形でしか与えられない。

2コリント9:6 わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。
9:7 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
9:8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
9:9 「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。
9:10 種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
9:11 こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。
9:12 なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。

献金などの捧げものをする、とは、交わり(コイノニア)に参加するという意味もある。

8:3 わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、
8:4 聖徒たちへの「奉仕(コイノニア)」に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
8:5 わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。

主の交わりに奉仕者として加わる、あるいは献金をささげる、とは、神様へ捧げ物を捧げるという意味の他に、その交わりに参加する事であり、その交わりに参加したからには、その交わりの中心であるキリストから豊かな保障を得る権利を得る事なのだ。

ダビデ王は、人々にチャレンジを促す。
29:5 だれかきょう、主にその身をささげる者のように喜んでささげ物をするだろうか」。
29:6 そこで氏族の長たち、イスラエルの部族のつかさたち、千人の長、百人の長および王の工事をつかさどる者たちは喜んでささげ物をした。
29:7 こうして彼らは神の宮の務のために金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。
29:8 宝石を持っている者はそれをゲルションびとエヒエルの手によって神の宮の倉に納めた。
29:9 彼らがこのように真心からみずから進んで主にささげたので、民はそのみずから進んでささげたのを喜んだ。ダビデ王もまた大いに喜んだ。

なんと、多くの人々が、主の奉仕に加わった。
その結果得たのは、大きな喜びである。
私達も、主に大いに捧げるなら、喜びが沸き起こる。
その喜びの内訳の中には、主が共に喜んで下さる主の喜びがあり、主から報いと守りと保障が得られる、という確信が入っている。

29:10 そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。
29:11 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。
29:12 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。

ダビデ王の感謝の祈りの中心は、全てのものは「あなたのものです」という点である。
王に、国に、与えられた富も、力も、栄光も、見えるものも、見えないものも、全て主のものである。

29:13 われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。
29:14 しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。
29:15 われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。
29:16 われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。

今、自分が捧げたものは、主から出たもので、全ては主のものである。

29:17 わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。

ダビデが告白している通り、主は心をためされるお方であり、そしてシンプルな、正直な心を喜んで下さる。
世の神々は、人間が捧げる「モノ」を喜ぶかもしれない。10円よりも10万円のほうを喜ぶかもしれない。
しかし主は元々富んでおられるお方であり、人が神に捧げる10円も、10万円も、その与える・与えないを支配しておられるお方である。
だから主は、人の心をこそ、計られるのである。

29:18 われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。
29:19 またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。

ダビデは祈った。人々の、この捧げる志がいつまでも続き、その祝福のサイクルがいつまでも続くように、と。
ソロモンのためにも祈った。しかしソロモンは、生涯の途中から、その父の祝福に相応しくない行いを続け、祝福から漏れてしまった。

主との対面は、一対一である。
私達は正直な、まっすぐな心をもって主に捧げるものでありたい。

ソロモンを力づけるダビデ(1歴代誌28:9-21)
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続いてダビデは、自分の子であり、この神殿建設の事業をこれから成していくソロモンを力づける。

28:9 わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもしかれを捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。
28:10 それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい」。

ダビデが真っ先に命じた事は「あなたの父の神を知り」なさい、という事だった。
主を知れば知るほどに畏敬の念が生じ、正当な恐れが出て、決して、軽がろしく神の国の奉仕を成すという事がなくなる。
続いて、「全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい」と命じた。

その理由は、「主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。」
主は私達の全てを知っておられる。
ヘブル4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
 4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
だから、主の仕事を真心から進んで成していくべきなのだ。
私達は、主を知れば知るほどに、主のための仕事がいかに誇り高く、永遠の意味を持つものであるのかを知り、その働きが世のどの仕事とも全く違う、喜ばしいものである事がわかってくるのだ。

そしてダビデは言った。
「あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもしかれを捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。」
残念ながらソロモンは、生涯の後半、主を捨ててしまい、そして彼は、父ダビデへの憐れみがあったものの、悔い改めなかった故に、結果的にその子孫は王権を断ち切られてしまった。

28:11 こうしてダビデは神殿の廊およびその家、その倉、その上の室、その内の室、贖罪所の室などの計画をその子ソロモンに授け、
28:12 またその心にあったすべてのもの、すなわち主の宮の庭、周囲のすべての室、神の家の倉、ささげ物の倉などの計画を授け、
28:13 また祭司およびレビびとの組と、主の宮のもろもろの務の仕事と、主の宮のもろもろの勤めの器物について授け、
28:14 またもろもろの勤めに用いるすべての金の器を造る金の目方、およびもろもろの勤めに用いる銀の器の目方を定めた。

ここの12節はKJVでは「And the pattern of all that he had by the spirit」で始まる。
つまり、主はダビデの心に「御霊」で示し、神殿の全ての間取りや寸法、仕様を細かく示し、それのみならず、仕事の内容や用いる器物類のそれぞれの重量、それぞれに用いるべき金銀、仕事をする人員の組み分けやローテーションに至るまで、御霊は細かく示してくださり、ダビデはそれを仕様書に記して、ソロモンへ渡したのだ。その事が18節まで、細かく記してある。

つまり主は、主の働きをする人が、何をどう為すべきか、何を用い、どのように人を配置し、何をどこまで用いるべきか、どこからを用いてはならぬのかに至るまでを、教えて下さるのだ。

28:19 ダビデはすべての工作が計画にしたがってなされるため、これについて主の手によって書かれたものにより、これをことごとく明らかにした。

主は、主のための仕事を、計画から設計に至るまでを、主の霊によって示し、主の手によって建て上げさせてくださる。
そしてダビデは、ソロモンをさらに力づける。

28:20 ダビデはその子ソロモンに言った、「あなたは心を強くし、勇んでこれを行いなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。主なる神、わたしの神があなたとともにおられるからである。主はあなたを離れず、あなたを捨てず、ついに主の宮の務のすべての工事をなし終えさせられるでしょう。

これはモーセがヨシュアに対して言った事と同じである。
前の指導者が偉大であれば偉大であるほど、それに続く指導者が恐れを抱くのは、正当なもので、むしろ恐れが無いとするなら、そのほうが問題である。

もし、何か悪いことをして、それがばれやしないか、という事について「恐れてはならない。おののいてはならない。」という言葉を持ち出すのは、不当な御言葉の用い方である。
主がヨシュアやソロモンに対して「恐れてはならない。おののいてはならない。」と言われたのは、主のための大仕事をこれから控えている事への「正当な恐れ」を和らげるためにである。

私達も、主から与えられる仕事を為そうとする時、恐れを感じる事がある。
なにしろ、主は、私達の経験や能力を超えた事を「しなさい」と言われる事が、よくあるから。
しかし、信仰をもって進み行くなら、私達は、主の偉大な愛の御手に守られつつ、主が進ませてくださる事を知るようになり、恐れる事がなくなってくる。
主は、神の国の建て上げのために、私達に必要なものを備え、知恵をそなえ、人材を備えて下さるからだ。
それでダビデは、つぎのように締めている。

28:21 見よ、神の宮のすべての務のためには祭司とレビびとの組がある。またもろもろの勤めのためにすべての仕事を喜んでする巧みな者が皆あなたと共にある。またつかさたちおよびすべての民もあなたの命じるところをことごとく行うでしょう」。

主が進めと言われる所、主が為しなさいと言われる事を恐れずに成し、神の国の建て上げのために大いに用いられるみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主が選び、主が建てて下さるゆえに建て上げられる主の家(1歴代誌28:1-8)
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28:1 ダビデはイスラエルのすべての長官、すなわち部族の長、王に仕えた組の長、千人の長、百人の長、王とその子たちのすべての財産および家畜のつかさ、宦官、有力者、勇士などをことごとくエルサレムに召し集めた。

今までの章では、ダビデの治世において定められた神殿奉仕者とその分担が、また、行政・政治・経済をつかさどる人々とその組織などの詳細が記されて来たが、その全ては、神殿へと集約して行くのが、第一歴代誌後半の流れである。

28:2 そしてダビデ王はその足で立ち上がって言った、「わが兄弟たち、わが民よ、わたしに聞きなさい。わたしは主の契約の箱のため、われわれの神の足台のために安住の家を建てようとの志をもち、すでにこれを建てる準備をした。

ダビデが生涯、何を志して来たかが、ここに表れている。
まずは、主の契約の箱のため。
ダビデはその直前の時代に起きた事件、すなわち、契約の箱が奪われた事件を聞いて、大切なのは契約の箱という「もの」ではなく、契約そのものだ、という事を良く知っていた。
いくら契約の箱を担ぎ出したところで、契約の内容そのものを守っていないなら、それは取り上げられてしまうのだ。
それは皮肉にも、イスラエルの後の歴史もまた証明してしまっている。

そしてそれは、現代を生きる私達にさえも適用される真理である。
聖書とは、旧契約と新契約から成る、神と私達との間の、契約の書である。
それを守り行うなら幸いを得るが、それを破るなら呪いが待っている。

ダビデは主の宮を建てたいという志が与えられたが、しかし次の理由から、彼は、建ててはならないと主から言われた。

28:3 しかし神はわたしに言われた、『おまえはわが名のために家を建ててはならない。おまえは軍人であって、多くの血を流したからである』と。

ダビデはいつも周囲から戦いを挑まれ、仕方なくであったが、神の宮は、平和の人が建てなくてはならず、主のミニストリーは、戦いや血を流す事によって建て上げられてはならないのだ。
もう一つ、理由は、主の家は、人間は誰一人、建てることが出来ないからだ。

使徒7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
7:49 『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。
7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

ダビデは、自分は快適な杉材の家に住んでいる、主にも、幕屋のような粗末な所ではなく、もっと豪勢な住まいを建てたい、と願ったが、主は、人が匠の技を駆使して巧妙にこしらえた家を喜んで、そこに住むのだろうか。逆である。
むしろ、それを建てた大工に匠の技を与えたのも、知恵を与えたのも、また、杉を山で育てたのも、そのために必要な太陽や雨を創造したのも、全部、主なのである。

28:4 それにもかかわらず、イスラエルの神、主はわたしの父の全家のうちからわたしを選んで長くイスラエルの王とせられた。すなわちユダを選んでかしらとし、ユダの家のうちで、わたしの父の家を選び、わたしの父の子らのうちで、わたしを喜び、全イスラエルの王とせられた。
28:5 そして主はわたしに多くの子を賜わり、そのすべての子らのうちからわが子ソロモンを選び、これを主の国の位にすわらせて、イスラエルを治めさせようとせられた。

ダビデは告白している。主が、わたしを選ばれたのだ、と。
そして、息子ソロモンが神殿を建てるようにと選んでくださったのも、主だ、と。

詩篇127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
 127:2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

28:6 主はまたわたしに言われた、『おまえの子ソロモンがわが家およびわが庭を造るであろう。わたしは彼を選んでわが子となしたからである。わたしは彼の父となる。
28:7 彼がもし今日のように、わが戒めとわがおきてを固く守って行うならば、わたしはその国をいつまでも堅くするであろう』と。

主はソロモンについて言われた。「彼がもし今日のように、わが戒めとわがおきてを固く守って行うならば、わたしはその国をいつまでも堅くする」と。
これは全ての人類に対して言える事であり、私達に対しても、そうである。
ソロモンと、その子孫たちは、残念ながらそうではなかった。その結果、王権は取り上げられてしまった。
これは法則である。サウルもそうだったし、旧約に記されている事は、現代の私達に対する戒めだからである。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

ダビデは招集した全イスラエルの会衆に向けて言った。

28:8 それゆえいま、主の会衆なる全イスラエルの目の前およびわれわれの神の聞かれる所であなたがたに勧める。あなたがたはその神、主のすべての戒めを守り、これを求めなさい。そうすればあなたがたはこの良き地を所有し、これをあなたがたの後の子孫に長く嗣業として伝えることができる。

これもまた、法則である。主はヨシュアに対しても同じことを言われた。
ヨシュア1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
 1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。

御言葉を守り行い、祝福のまっただ中を歩む皆様の人生でありますように!

それぞれ与えられた賜物と役割をもってキリストのからだを建て上げる(1歴代誌27:1-34)
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第一歴代誌の終わりが近づいてきたが、第一歴代誌は、ダビデ王が、ソロモンをはじめとするイスラエルの主だった人々全てに対し、神殿建設の最終的な指示をする場面で終わるが、その布石として、色々な分野の組織や長、その数が記されている。

 27:1 イスラエルの子孫のうちで氏族の長、千人の長、百人の長、およびつかさたちは年のすべての月の間、月ごとに交替して組のすべての事をなして王に仕えたが、その数にしたがえば各組二万四千人あった。

27章は、1−15節には軍事面での組織と長たちが記されており、続く16-22節は行政的な長たちが記されている。

 27:16 なおイスラエルの部族を治める者たちは次のとおりである。ルベンびとのつかさはヂクリの子エリエゼル。シメオンびとのつかさはマアカの子シパテヤ。
・・・
 27:23 しかしダビデは二十歳以下の者は数えなかった。主がかつてイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである。
 27:24 ゼルヤの子ヨアブは数え始めたが、これをなし終えなかった。その数えることによって怒りがイスラエルの上に臨んだ。またその数はダビデ王の歴代志に載せなかった。

この23-24節の挿話は、21章のダビデによる人口調査とは別物で、それよりも、もっと以前の出来事と思われる。
なぜなら、21章の人口調査はその数は記録されたがここでは「数は載せられなかった」とあり、また、7節に登場するヨアブの兄弟アサエルは、ダビデが全イスラエルの王になる前、サウルの将軍であったアブネルによって殺されているからである。

神のなさる事は、人は数え切れない。
もし数えてそれを人が管理しようとするなら、それは神のわざを人間が塞いでしまう行為であり、神よりも人のほうを上とする主従関係の逆転である。
だから教会の運営も、神が運営して下さるままに為して行くべきであり、決して、人が目標や計画を立ててそれを神に補佐していただくものではない。

25-31節には、王家の財産や経済的な長が記され、32節以降は、ダビデ王の側近で重要な役割を担った人達が記されている。
これらの人々が、ダビデ王の指揮のもと、こぞって神殿建設に携わっていく。

御国の民のの中心は、神殿、すなわち礼拝生活であり、神に捧げる事である。
当時、神殿を中心に、イスラエルに様々な役割を持った人々が使えたように、現在は教会において神は様々な役割を持つ人をお立てになった。

エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。

神は一人一人にそれぞれの得意分野を与え、ダビデ王の時代には、ある人には軍事、ある人には経済と、それぞれ神のために役割を果たしていったように、現在の私達も、おのおの計り与えられた賜物の応じて、それぞれが、それぞれ神に対する役割を果たして行くべきである。
次のように記されている通りである。

エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
4:16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

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