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メッセージ - マルコによる福音書カテゴリのエントリ

昨年7月以来、マルコ福音書を中心に解き明かしてきたが、本日でマルコ福音書は最後である。
明日以降は、使徒の働きに移りたい。

礼拝説教メッセージ音声:福音を伝えよ(マルコ16:15-20):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

マルコ福音書は、主イエス様による全被造物に対する福音宣教の命令で終わる。

 

全ての「人に」ではなく全ての「被造物に」と言う所がミソである。
全被造物は、切実な思いで御国の子達の表れを待ち望んでいる(ローマ8:18-23)とあるため、福音を信じて神の子とされた者が増える事、その事が、被造物にとって福音である。
そして人に対しては、言葉による宣教が定められている。

福音(エウアンゲリオン)とは元々、ギリシャ語で「良い(エウ)知らせ(アンゲリオン)」という意味で、戦いの勝利の伝令のような、喜ばしいことを伝えるたよりの事である。
戦勝地から伝令が自国に向かって行く先々で「我々が勝利したぞ!」と伝え、それを聞いた自国の者達は喜び湧き上がったが、我々にとっては何に対する勝利であろうか?

私達の軍の最高司令官・イエス様は、サタンに対して、死に対して、罪に対して勝利した。
それまで罪の断罪下にあり、死に対する恐怖につきまとわれ、サタンの圧政下に奴隷状態でいいように搾取され、こき使われてきたが、もはやその必要はないのである!
単に勝利したというだけでなく、勝利された私達の新しい王様は愛なるお方、すばらしいお方である事も、私達に良い知らせである。
私達はイエス様の愛の統治の内に入れられ、永遠の御国の支配下にいるのだ。

イエス様の事を聞いていながら、信じない者は、既に、裁かれている。(ヨハネ3:16-21)
なぜ「既に」なのか。
それはその人が光よりもむしろ暗闇を愛し、元々が暗闇であった事が明らかとされたからである。
神は光であって暗いところは全く無いが、私達は世にある限り、所々にぽつぽつと闇がある。
所々に闇がある事を望まない者は光を愛する者であり、さらに光に照らされて闇が無くなっていく事を望み、ますます主の元に行く。
しかし闇を愛する者は、自分の中にある闇が光に照らされる事を望まないため、光の元に来ない。

イエス様を信じる者には、数々の良い徴が現れる。

まずイエス様の名によって悪霊を追い出す権威が与えられる。
悪の頭・サタンに対して勝利しているため、権威的には私達が上だからである。

また、新しい異言(言葉)を語る。
この新しい言葉は、異国語であるかもしれないし自国語であるかもしれないが、それまでの自分とは「異なる」源、聖霊から来る言葉であり、福音を語る必要のある場面において、人間自身の知識や経験に基づくのではなく、神様からの知識による言葉を、語る事が出来るのである。

また、手で蛇をも掴みむ事が出来、毒を受けても害を受けない。
パウロは火の中から蛇が出てきて、それを何の害も受けず火の中へ払い落とす事が出来た。
パウロが手で蛇を払ったのと同じように、私達もサタンや悪霊を火の中に払い落とし、毒を受けても害される事は無い。
映画の中で、サタンや悪霊は絶望的な力で人間を屈服させる様子をたまに見るが、イエスにあって勝利者の側にいる我々は、権威的に奴らのはるか上におり、私達を主のゆるし無しに出来る事は何も無く、むしろ、私達が命じる事が出来るのである。

また、病んだ者達に手を置けば、彼らは元気になる。
正しい人の信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださる。(ヤコブ5:15)
事実、教会においても手を置いて癒されている事例がある。

信じる者には、これら数々の良きしるしが伴われるのである。

イエス様は天に上げられていった時、祝福しているその姿勢のまま離れていった。(ルカ24:51)
そこで彼らは喜びを持って、至る所で福音をのべ伝え、信じた者達の中には数々の良き徴が現れ、使徒の働きに多く記されている。
使徒達の働きは今の時代にも、我々主を信じる者達を通して成されており、イエス様は今も天において私達を祝福し続けておられる。

イエス様を信じる事によって、その名による数々の徴を成し、良き働きを行う皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ:復活の後の主の現れ(ルカ24:13-35、マルコ16:9-13):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

主イエス様は復活の後、マグダラのマリヤに現れ、女性達に現れ、エマオに向かっている途中の二人の弟子達にも現れた。
主ご自身がこの二人に現れ、彼らは長らく一緒に歩いていたのに、なんと、ずっと彼だとは気付かなかったのだ。

イエス様の復活以降、弟子達や主の挙動に、不思議に思える事が色々ある。
主は突然現れたり、消えたりされる。
また、イエス様がいるのにイエス様だと気付かない弟子達が実に多い。
また、ご自身を直接的な言葉で言い表す事はなさらず、そのご性質をそっと示し、気付くまで待たれるという、遠回りのような事をされる。

実は、復活以降のイエス様の現れの記述は、現代を生きる私達に対する主の現れ方と、全く同じである。
復活以降のイエス様は、遠くの場所へ一瞬で移動したり、鍵の閉まった部屋に突然現れたりしているが、二人でも三人でもイエスの名の元に集まる所へ、どんなに鍵がかかっ

ていても、どんなに遠くにいても、そこに主は来られる。
それは現代も同じであり、我々も体験している所である。

さて、エマオの途上の二人である。彼らはエルサレムから約11.5キロの道のりを歩いていた。
道すがら主ご自身が近づかれるのだが、彼らには目が塞がれていて、主だと分からなかった。

現代の我々も同じ経験をする。
主ご自身が近づいてきているのに、彼はもしかしたら、あまりに目を惹かない姿形であったり、もしかしたら小さかったり、くさい臭いを発している事さえあるかもしれない


私達が日々の心配事や、宗教的な話をしている所に近づいて来て、加わってくるかもしれない。
その時あれこれと自分の見解を申し述べたりするが、主は「ああ、頭の悪い心の鈍い者らよ」と言って諭し、聖書からご自身について解き明かしをなさるかもしれない。

かの二人は、仲間の女達が御使いと出会った次第や、御体が無かった次第を伝えると、主ご自身がお叱りになった。
弟子達はびっくりしただろう。なにしろ、今までは”我々が”教える立場だったのに、突然叱って、彼が教える立場になったのだから。
この二人に「私がイエスだ」と言えばカンタンに済むはずなのに、なぜ、そんなに遠回りな事をされたのだろうか。

私達が拠りすがるべきは、もはや目に見え手に触れる人間イエスではなく「聖書」である事を、示されていたのである。
ここで彼が語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」である。(27節)
主の復活の後、私達が寄りすがるべきは、目で見たり手で触れたりできる人間ではなく、イエス様ご自身たる御言葉である。

弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていた。
そこで彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。
エルサレムにおいて、あるいは目の前の現実においては騒動があっても、聖書を詳しく説かれる私達は、心が燃えるのだ。

食事の席に着いた時、主ご自身がパンを裂いた。
この場合、ホストである弟子達がパンを裂くはずだったが、パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さったのは、主である。
その時彼らはハッとしたに違いない。
この経験、かつてあった。
5千人以上の前で、4千人以上の前で、十字架の前の晩において、パンを取り、祝福して裂き、手渡してくださったのは、主であった。
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さるのは、主のご性質であった。。。
この時、彼こそ主イエス様だと分かったのである。

私達も、福音書を読み、御言葉を読んで、主のご性質は知っている。
主は腹の必要を満たすパンだけでなく、物質的・金銭的・精神的な必要を満たすパンを取り、祝福して裂き、私達に手渡してくださる。
そして渡された時、主が確かにそこにおられた、と気付くのである。
主は、御言葉を説き証し、沈黙の行動によって、静かにご性質を示されるのだ。

聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされていき、主ご自身が確かにこの旅路に共にいてくださったと知るのである。
この弟子達は主だと知って、夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、夜であっても、主の良きお方である事を伝えずにはおれないのだ。

日常の内に隠れているイエス様に気付き、彼によって御言葉を解き明かされ、豊かに養われ、パンを受け取り、確かに主が共におられたのだと分かり、彼を伝えずにはおれな

い皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

※本日は不備がありましたため、音声配信は無く、テキスト配信のみとなります。申し訳ございません。

メッセージ:女達への密かな顕現(マルコ16:1-8)

イエス様の復活の後、4人の福音書記者は、実にバラエティに富んだ違った表現でイエス様の表れを記している。
私達、復活の後の時代を生きる者も、バラエティに富んだ表現で自由に復活の主を伝える事ができる。

聖書は、一つの完全に整合性の取れた文章として与えられたものではなく、多くの人達に現れた神のご性質を、それぞれの人が書き記した集大成である。
神が福音を「宣教」という愚かさのうちに伝えられる方法をあえて取って下さったため、実に色々な人間によるバリエーションに富んだ印象と表現で、イエスというお方を見、知る事が出来ているのである。
もし神様が完全に整合性の取れた一連のことばを示されたのであれば、ここまで色々な面から見る事はできなかったであろうし、伝道方法も1か0かといった実に堅苦しいものとなった事だろう。
一人一人が主と出会った仕方も、主から頂いた印象も、導かれ方も、それぞれ違う。
しかし、主が”良きお方”である事は皆が一致している事である。
私達はその主を、それぞれ頂いた環境において、それぞれ頂いた賜物において、自由にイエスというお方の良きご性質を伝えていくべきである。

今日は主の復活の後、女性達へひそかにご自身を現した次第を、色々な角度から見ていきたい。

マタイ28:8-10
この女性達は復活の知らせを受けた後、弟子達の所に行った。
彼女達はイエス様と出会った時の主の第一声は「おはよう」(直訳:喜びあれ)である。
復活の第1声が日常の最も一般的な挨拶言葉である事は興味深い。
もし私達が死んで蘇った時、親しい人に初めて声をかけるとしたなら、どんな言葉をかけるであろうか。
しかし主にとって、復活とは日常の当然の事であったのだ。

ルカ24:9-12
ルカにおいては、彼女達は引き返して弟子達に話したものの、弟子達は信じず、ペテロが墓に走って行った所までは簡潔に書いている。

ヨハネ20:1-18
ヨハネにおいては、女性が墓に行って帰ってきた次第は簡潔に書いており、ペテロとヨハネが墓に行って帰ってきた次第を詳細に書いている。
ペテロよりヨハネのほうが早く走ったとか、ヨハネは躊躇して入れずペテロは堂々と入ったとか、理系のルカにとってはどうでも良いような場面も生き生きと表現している。
弟子達はイエスがいないのを確認し、そのまま帰ってしまうが、マグダラのマリヤは主と親しく出会う事が出来た。

主は女性達に密かに出会い、弟子達には現れなかった。
マグダラのマリヤとの対面においても、彼女は最初イエスだとは分からず、庭師だと思ったほどに、イエスの様子はごく普通の人であった。
復活とは劇的な場面ではあるが、その復活のイエス様はあまりに普通であったので、気付かなかったようである。

女性達は、主が十字架を背負ってゴルゴダの丘に行った時も十字架を負う手伝いもできず、イエスの仲間だと言われて捕らえられる事さえもされず、ただ一緒に泣いてついて行き、十字架と死の場面も何も出来ず、ただそこにいただけであった。
彼女達が内密に、ひそやかにイエス様と対面できたのは、いかなる場面においてもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まなかったからである。
この終わりの時代においても、イエス様と密やかに対面できるのは、ただ泣いてついていく事しかできなくても、いつでもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まない者である。

イエス様の名を最後まで否まず、いつも彼と一緒におり、彼と密やかに出会う事の出来るみなさんでありますように、イエスの名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:爆発的ないのちのパワー(マルコ16:1-8):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

安息日が明けて日曜日、すなわち主日の朝、女達が埋葬されたイエスの体に香油を塗るために墓へ行った。

香油は準備したものの、イエス様と自分達の間を邪魔している、大きな石と封印とローマ兵をどうすれば良いかと心配していた。
しかし、その全ての心配は実にちっぽけで、全く以って無用であった。
兵士達は御使いを見て恐ろしさのあまり死人のようになり、封印は破られ、石は転がされており、そもそも、イエス様は蘇られ、そこにはいなかったのだ。

ある考古学者の発見によると、その封印とは、石が動かないようにする鉄のくさびだったのだが、一瞬にして大きな衝撃が加わった不自然な折れ方をしていたという。

何トンものトラックが何十キロものスピードで衝突したかのような、当時としてはありえない折れ方である。

御使いが封印を打ち破って石を転がしたのは、女達の小さな心配の種を取り除くためではなく、イエスの大いなる復活を示すためである。

イエス様は生きたお方であり、死人というカテゴリの中から探し出す事は、間違いである。
死はイエス様を束縛できないのと同様、信じる我々も、束縛する事はできず死人というカテゴリの中にあるものではない。

イエス様は罪人の手に渡され、死んで3日目に起こされ、ガリラヤへ先んじて行く事は、確かに、予め弟子たちへ伝えられていた。
しかし、女達も弟子達も、彼らの中の一人でも「3日目だから蘇っただろうか」と思うものはなかった。

それだけイエス様は十字架上で、立派に、明確に死に尽したのである。

ヨハネやマリヤたちの目の前ではっきりと死に、槍で突かれ、葬られたのだ。
祭司長達や律法学者達は勝ち誇り、弟子達は敗北し、恐れ、隠れていたのである。

弟子達の誰の目にも絶望的な状況において、御使い達の知らせはありえない出来事だったが、御使いたちは確かに、イエス様が予め言われていた信じがたい事を語った。
十字架の復活を信じる私達も、大きな恐れと喜びと共に、ありえない復活にあずかり、逆転勝利者の側に立てるのである。
それは信じがたいかもしれないが、予め聖書に書かれてある通りである。

状況的には敗北であり死であるようなときも、イエス様が与えてくださった新しいいのちを経験し、永遠の勝利者の側に立つ事ができる。

一方、兵士達は起こった出来事を祭司長達や律法学者達に報告しに行ったが、協議の上、彼らに金を握らせて偽のうわさを流させた。(マタイ28:11-15)

この事から、彼らは「イエス様が蘇った」事を、その時信じた事がうかがえる。
もし信じていなかったら、弟子達が女の言う事をたわごととして追い返したように、兵士達の言う事をたわごととして取り上げなかったはずである。
弟子達は蘇りを信じなかったのに、祭司長達や律法学者達が信じた、というのは不思議だが、実は彼らもイエスがメシヤである事にうすうす勘付いていたのであり、その上で、彼らはイエスを十字架につけたのだ。

彼らは協議して金を掴ませ、偽りで塗りつぶそうとしたが、復活のいのちは押し留められるものでは無い。
イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春になったら生えてくる草や花を人が留められないように、復活の朝のいのちの広がりは、サタンも人ももみ消そうとしても消えるものではない。

その復活のパワーといのちを体験し、いのちに溢れたみなさんでありますように、イエスの名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:イエスの葬りに(マルコ15:42-47):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

イエス様を埋葬した本人は、アリマタヤのヨセフである。
彼はイエス様の葬りの時に初めて登場し、立派な議員で、神の国を待ち望んでいる人物だと書かれてあり、社会的に立派な人格者であった事が分かる。

本来、イエス様の埋葬は、付き従って来た弟子達がするのがあるべき姿だが、弟子達はみな散り散りになってしまい、結局イエス様を埋葬したのはこのヨセフとファリサイ派に属するユダヤ人の指導者ニコデモであった。(ヨハネ19:38-42)
ニコデモは以前、夜、ひそかにイエスを訪れた事がある。(ヨハネ3章)

安息日には死刑囚を木に掛けたままであるのは律法に適わないため、その日中に死刑囚を死なせ、木からとり下ろす必要があった。
イエス様は午後3時ごろ息を引き取ったが、日が没してしまうと、働く事の出来ない安息日が始まるため、イエス様をきちんと埋葬する時間はわずかしか無かった。
このままでは、イエス様は無名墓地などに投げ捨てられ晒されたままになってしまう。
アリマタヤのヨセフは意を決し、追放覚悟で、行動に出た。

ヨセフは他の議員達の仕業には賛成していなかった。(ルカ23:51)
しかし当時、イエス様をメシヤと認める者は追放すると定められていた(ヨハネ9:22)ため、ヨセフは表立ってイエスについて行く事が出来ていなかった。
だがイエス様をそのまま放っておく事が彼には到底容認できなかったため、意を決して動いたのだ。
日没まで間が無いため、彼らは素早く動いた。
ニコデモは33キロの埋葬薬を用意し、ヨセフはピラトに願い出て、イエスの体を受け取り、自分の用意していた墓にイエス様を埋葬した。

埋葬作業は相当な重労働で、嫌な作業でもある。
3日後にイエス様は蘇られ、永遠にこの記録は残る事を、我々は知っているが、彼らは知らないのに、また、その地位が奪われる危険があるのに、それらを自ら行ったのである。
それは彼らが「神の国を待ち望んでいた」(マルコ15:43)からであり、イエス様の遺体を晒しておく訳には行かないという衝動と、神様の目から見て正しい事を行わなくてはならないという熱意から、律法を忠実に守り通したのである。

言い伝えによるとヨセフはこの後、最高法院から追放され、イエスの復活と昇天の後、使徒達と共に各地を伝道したという。
彼と同名の、ヤコブの子ヨセフは、エジプトにて大臣にまで登りつめたが、その心はエジプトの地位と富には無く、神様から約束されたカナンの地にあった。(ヘブル11:22)

今日、様々な地位の高い者達の行動を見てきたが、私達は彼らのように、世の富や世の地位などではなく、神の国の富や、神の国の地位を求めるべきである。

信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。(ヘブル11:24-26)

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:十字架上の平和に溢れた一面(マルコ15:40-41):右クリックで保存
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イエス様の十字架の場面において、ヨハネ以外の弟子達は皆散り散りになってどこかへ隠れていたものの、多くの女達がその場に立ち会っていた。

当時、女性達は低い地位にあったため、イエスの知り合いだという事で捕らえられさえしなかったが、彼女達は最後の立会いができる幸いがあった。
キュレネ人シモンは実際に十字架を背負ったが、彼女達は”イエス様と共に来てただ泣いている”という、彼女達にしか負えない十字架を背負い、イエス様が本当に孤立する事からイエス様を守ったわけである。

十字架上において、イエス様は母マリヤにヨハネを示して「子である」と伝え、ヨハネに対してマリヤを「母である」と示し、イエスが天に昇られた後の母マリヤをよろしく、と、ヨハネに委ねた。(ヨハネ19:25-27)
神様が、12弟子の中で唯一ヨハネを十字架の場面に立ち会う事が出来るように配剤したのは、もちろん彼が十字架の様子を記すためでもあったが、この母マリヤを養うためでもあった。

ヨハネは続けて、イエス様の最後の様子を平和に満ちた文面で記している。
別の福音書は、苦しみ、叫びの後に息を引き取った様子が書かれてあるが、ヨハネはむしろ、思いやりと平安に満たされた全く別の視点で書いた。
イザヤ53章にてイエス様が苦しみの後をみて満足する事が預言されている。
十字架のイエスを描く絵画は多くあり、多くは苦しみにゆがんだ暗い表情をしているが、十字架の上で平安に満ちた表情を描いても良いのでは、と思う。
彼の祈り、願い、情熱、苦しみ、全てが焼き尽くす捧げ物の煙として御父の前に立ち上り、御父はそれによってなだめられ尽したため、最後に「成し遂げられた」と言って、満足と平安の内に逝ったのである。
ヨハネにおける最後の言葉は「成し遂げられた」であるが、「I paid all」(全て支払い尽くした)という英語の珍しい訳もある。

福音書は4つあるが、4人の視点から見る十字架の場面は非常にバラエティに富み、ヨハネが立ち会って福音書を書いてくれた事によって、この平和と思いやりに満ちた十字架の場面を、我々は知る事が出来たのは、実に、女性達やヨハネをその場に配置してくださったためである。
私達も取るに足りない存在かもしれないが、私達一人一人に与えられた場において、与えられた賜物を用い、それぞれにしか表現できない福音を伝える者でありたい。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:ハートブレイクの向こう側(マルコ15:33-39):右クリックで保存
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イエス様が息を引き取る前、12時から15時までの間全地は闇が覆った。
主は群集から捨てられ、神からも見放されたのである。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とはアラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であるが、群集はエリヤを呼んでいると勘違いし、酢で満たした海綿をイエス様に差し出して延命させ、エリヤが助けに来るかを見ようとした。
しかし主は「父よ、あなたの両手に私の霊を委ねます」と叫んで息を引き取り、最後まで御父に従順であった。

イエスの死因については、窒息死ではないかというのがよく言われる所である。
十字架刑者の多くの死因は窒息死で、十字架につけられると、そのまま力を抜いていると胸が圧迫され、息ができない。
そこで足で踏ん張って息を確保するが、疲労してくるとそれも出来なくなり、ついには窒息するのである。
しかし、最後に大声で叫んだ事から、まだ息ができら状態だった事、また、わき腹を刺すと血と水が別れて出た事から、心身の極度のストレスによる心臓破裂が原因ではないかと思われる。
全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられ、また十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろうか。
12時から太陽は顔を隠し、全地は暗くなり神から捨てられた。
神様に親しければ、親しい人ほど、神様から見捨てられる事がどれほどの苦痛で恐ろしいか分かるだろうか。
主は世の始まる以前から御父の懐で親しい愛の関係を結んでいた御子である。
そのストレスはどれほどだったろう。

私達が受けるべき御神との断絶を、イエス様が代わりに断絶されて下さり、私達が死ぬべき死を、イエス様が身代わりに死んで下さった。
彼が亡くなられた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、地震がおき、墓が開いて多くの聖徒達がよみがえった。
立ち会った百人隊長は、それらの諸々の天変地異や、またイエス様のご人格を見て、「この方こそまことに神の子であった」と告白した。
イエス様は十字架から降りる事が可能であったのに、敢えて御神との断絶を受け入れ、御父からの罰を受けつくしたのを、そこに居た人達は垣間見たのである。

イエス様が息を引き取った時に裂けた神殿の幕とは、聖所と至聖所を分けるものであり、年に一度、大祭司が小羊の血を携えて幕の奥の至聖所に入って、民の罪の贖いをする。
イエス様はただ一度、まことの小羊として、まことの罪の贖いを成し遂げたが故に、もはや聖所と至聖所を分ける幕は必要なくなったのである。
それ故、イエス様にある私達は、大胆に御前に出て、折に適った助けをいただく事ができるのである。
イエス様はメルキツェデクの系統の、永遠の真の大祭司として贖いをし、力ある叫びを持ってその従順により御父に受け入れられた。(ヘブル5:6-8)
十字架上での焼き尽くされたような叫びと祈りが、御父の前に全焼のいけにえの煙として立ち上り、父なる神は、完全になだめられたのである。

そのイエス様にあって私達は罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を受ける事ができたのである。
主が十字架上で受けた苦しみ、贖いの血を覚えて感謝する者でありたい。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:十字架から降りろ(マルコ15:29-32、ルカ23:39-43):右クリックで保存
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十字架の場面において、人は色々な方向に分かれる。
通りすがりの群集は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29,30節)と言った。
通りすがりなのに、イエス様の言った言葉をある程度知っていながら、冒涜して通り過ぎていく者はいる。

群集にとっての救いは十字架から降りる事だったが、救いは十字架を経なければ完成しない。
イエス様ご自身がかかられる十字架もあれば人間一人一人が負うべき十字架もある。
負うべき十字架を避けて救いに到達しようとする者は大勢いるが、十字架を避けては、救いは達成しない。

祭司や律法学者達は「他人は救ったのに、自分は救えない。」と言った。つまり、メシヤとしての証拠の奇跡で他の者は救った、と、彼ら自身認めている。
それなのに彼らはイエス様を十字架につけたのだ。

イエスがどなたであるか知った上で、イエスに苦しませ、辱めを与える者もいる。
しかし、通りすがりであろうと、宗教者であろうと、私達であろうと、本来十字架にかからねばならない罪人は、私達人間である。
十字架とは刑罰の道具である。私達がその罰を受けねばならないのに、その罰を免れ、痛みから逃れる事が救いだとカン違いしている者は多いが、神様が提供する救いは全く逆である。
まず自分こそ罪があると認め、悔い改め、永遠に生きておられるイエスというお方に立ち返る事こそが、神様の提供した救いである。

イエス様の両側にも二人の死刑囚が十字架につけられていた。(ルカ23:39-43)
イエス様と同様十字架を受けていた犯罪人の一人も、イエス様を冒涜した。
自らの行いの刈り取りをしている最中であるにもかかわらず、自分のそれまでしてきた事は無いかのように、自分と私をこの苦しみから救え、と、メシヤに要求する者もいるが、当然それはお門違いである。

もう一人の死刑囚は、自分が今受けている苦難は、それまで自らが行ってきた事の当然の罰だと告白し、そして、イエス様は何も悪いことをしていない、と告白した。
さらには、自分もイエス様もあと数時間で命を終えるはずなのに、イエス様に「御国においでになる時には」と、あたかもその後彼には栄光の人生があるかのような告白をしている。
つまり「イエス様は生と死を超えた王である」事を彼は告白したのだ。
彼が認めたその”永遠に生きておられる王”は
「アーメン(これから言う事は真実である)、私はあなたに言う、あなたは今日(すでに)私と共に楽園にいるだろう」(43節、岩波訳)と言われた。
私達も「今日すでに、イエス様と一緒にパラダイスにいる」ためには、どうすれば良いか。
自分こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白する事である。

人は、十字架から降りる者こそメシヤだ、自ら刈り取るべき刑罰から免れるのが救いだ、と2重の勘違いをしてるものだが、イエス様は
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
と言って、自分で何をしているのか、何を言っているのか分からないような私達人間を取り成して下さった。
この取り成しのゆえに、私達には赦される余地があり、いつでもイエス様に立ち返る事ができる。

今日と言われている日のうちに、私達もイエスを主と告白し、私達こそ十字架にかかるに相応しい罪人であると認め、イエス様は正しいお方である事を認め、そして生と死を超えた永遠に生きておられる王であると告白するべきである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:預言されていた苦しみ(マルコ15:22-28):右クリックで保存
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ローマ兵はイエス様の衣服をくじによって分けたが、これは詩篇22編にてメシヤの苦難について預言されていた事の成就である。
詩篇22編はダビデが彼を攻め立てる者について書いたが、同時に、彼の子孫から出るイエスキリストの苦難を預言するものだった。

2節「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とダビデは詠み、神から見捨てられたかのような「気がした」が、イエス様は文字通り、神から見捨てられ尽くした。
イエス様が十字架に磔にされる際、没薬の入った酒が与えられたが、主はそれを受けなかった。
没薬の入った酒は麻酔作用があり、痛みを和らげる温情措置だが、それを拒み、十字架の痛みを一身に受け、罰を受けつくし、御父の怒りを受けつくしたのだ。
イエス様が身代わりとなって既に罰せられ、既に見捨てられたので、彼を信じる私達はもはや決して見捨てられる事は無い。

9節「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
主は十字架上で同じ事を言われた。(マタイ27:43)
もし彼らの言う通り、御力をもって十字架から降りてしまったら救いは成就しないばかりか、もしそのような圧倒的力でもって従わせるような神であれば、自由な愛の心を持って人々は従うだろうか。
もしそのように力で従わせる主であったら、表向き従うような者は確かに増えるだろうが、恐怖政治の敷かれた国のように、自由も喜びも無くなってしまう。
神様は自由な心で、心からの愛による従順を求めておられるから、敢えて、主は力で自分を救い出す事はなさらず、力で世に示す事もなさらなかったのだ。
彼が十字架から降りず、十字架上で罰を受けてくださったからこそ、私達に救いがもたらされ、恐怖ではなく自由な心で主に仕える事ができるのだ。

16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり」
主は十字架上で「渇く」と言われた。(ヨハネ19:18)
主は焼き尽くす捧げものとして捧げられ、十字架上で祈ったその叫びは香となって御父の前に立ち上り、御父はなだめられ、主はその敬虔のゆえに大祭司となられた。(ヘブル5:7-10)

マルコ15:28(異本)『「不法な者と共に数えられた」という聖書の言葉が実現した』
ここはイザヤ53:12の成就であり、主はその従順のゆえに多くの人達を分捕り者として与えられた。
彼は罪人の一人として数えられ、身代わりとなられたからこそ、彼を信じる者は彼の分捕り物として、罪人の内に数えられなくなるのである。

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礼拝説教メッセージ音声:クレネ人シモンと女達(マルコ15:21):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

十字架刑の場所であるゴルゴダの丘までの間、イエス様は十字架を背負って最後まで歩く事ができなかった。
その前日、ピラトの前で鞭打たれ、大量の血を流していたからである。
当時の鞭には石や釘が仕込んであり、鞭打たれる度に血と肉が飛び散ったため、イエス様の背中は酷い状態であった。
そこで、たまたま通りかかったキュレネ人シモンが徴用されたわけである。
彼は「アレクサンドロスとルフォスとの父」とあり、またローマ16:13の記述から推測するに、キリスト者の集まりでは有名人物だった可能性が大きい。
つまり、十字架を背負った時点では、イエス様とは全く面識がなかったものの、共に十字架を負う内にイエス様のご人格に触れ、後にはキリスト者の集まりに加わったと思われる。

彼はたまたまその場に居合わせ、ずいぶん血に汚れた死刑囚が苦労しているな、ぐらいに野次馬のように見ていただけだったかもしれないが、そこを突然徴用されたわけである。
見ず知らずの犯罪人の十字架を背負わされるなんてとんだとばっちりだと思ったかもしれない。
ところがこの十字架を背負わされている死刑囚は、どうも邪悪ではなさそうだ。
それどころか、大勢の女達が泣きながら彼に従っている。

その女性達は、この事が起きるよりも前にイエス様と出会い、信じ、彼の良さを十分知っていたので、きっと「もし自分が力ある男性だったら自分から進んで十字架を背負う事を手伝いたい」と思っていた事だろう。
ところが、唯一彼の手伝いが出来たのは、外国出身の、初対面のこの男であった。
彼のように、ある日突然イエス様と出会い、半ば暴力的にイエス様の十字架を背負う役割を負わされたようなキリスト者もいるし、イエス様と共に働くうちに、イエス様というお方に触れていき、その魅力にどんどん取り付かれて行く事もある。

彼は、後ろにいる女性達にも感謝の声をかけられた事だろう。
「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。でも、力が無いので出来なかった。本当によく助けてくれた。」
そう言われただろう。
イエス様のお役に立ちたい、彼のためにこれこれの働きをしたいけれど、力が無いので出来ない。そんな彼女達の代わりに、イエス様の事を全く知らない人が、はじめは嫌々ながらその役割につく。
イエス様との出会いの仕方、働きの分与のされ方、主の配剤の仕方は、本当に不思議である。
女性達は力なく、「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられる事すらされない程、取るに足らない存在。
ただ泣いてついていくしか出来ない彼女達であったが、そうする事によって、一緒に十字架を背負ったわけである。
そしてクレネ人シモンは実際にイエス様の十字架を背負う助けをした。
ゴルゴダの刑場に至るまで、このような男性女性がイエス様の十字架と共に歩んだのである。

クレネ人シモンは、いずれ十字架を肩から下ろす時が来る。
背負うべき十字架の分はあるが、大勢の人の身代わりとなって十字架にかかるのは、イエス様しか出来ない分である。
しかし、私達に背負う事の出来る十字架は、確かにある。
イエス様と共に十字架を背負い、各々しか果たせない御国の働きをするみなさんでありますように。

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