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メッセージ - ヘブル人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:権利証書は有効に活用しよう(ヘブル4:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人は言葉では何とでも言えるし、外見も取り繕う事は出来るが、心の内は隠されている。
大人になるにつれ、外見と内面を切り離す事が出来るようになって行き、そうなればなるほど世渡り上手となるものだが、神の御前にはそれは通用せず、神の御前で隠されているものは何一つ無い。
病院でレントゲンを取るなら骨組みも内臓も見透かされてしまうが、神様のまなざしは、肉体だけでなく霊も魂も心も見透かすX線である。

12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」

生きているという事は、生命力が在って動くものであり、力を発揮する。
力とは原語はエネルゲイヤ、これは「物を動かす力」である。
神の言葉は、信仰を混ぜて初めて力を発揮するものであり、御言葉には力が無いじゃないかと言う者は、信仰を混ぜていないのである。
例えばマイクは声を大きくさせる道具であるが、全然動作しない、というのであれば、コードを指しているかいないかを疑うべきである。
御言葉というマイクは、信仰というコードを、天の御座というアンプに通さなければ、力は発揮されないのだ。

神の言葉には力がある。
この世の中は、神の言葉によって創られた。
光よあれと言われた時、光が創られ、言葉によって混沌とした状態から秩序が生まれた。
人の言葉に力が無いのは、信仰が込められていないからである。
聖書は紙切れかもしれないが、書かれてあるのは神の言葉であり、その言葉は世を創り、世がいずれ焼き尽くされた後もずっと残る程力強い。
この神の言葉を信仰を持って受け入れるなら、力となり、物を動かす力、エネルゲイヤとなる。

ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

ここの「確信」とは「権利証書」と訳す事も出来る。権利証書も紙切れかもしれないが、力がある。
「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書である。」
もしこの教会の建物のビルの全所有者は、パスターの林である、という不動産の権利証書があるとしたら、201号室だけでなく、全フロア教会にする事も出来る。
但し、その権利を確信して主張しなければ、何にもならない。

聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
これを主に対し、世に対し、サタンに対して信仰を持って宣言するなら、実際にその通りになるのである!

弟子達は悪霊が子供に取り憑いて泡を吹きながら引き付けさせている様を見、これは追い出せないだろう、と、信仰が弱ったしまった時、イエス様は「なんと信仰の無い者よ」と叱責された。
しかし同時に弱い私達を助けて下さり、イエスご自身が言葉を発したので、悪霊は出て行かざるを得なかった。
イエス様は、人が居る事の出来ない聖なる光の中に住んでおられるお方であるが、同時に人となられ、あらゆる誘惑も人間として受けられ、罪こそ犯されなかったが、私達同様試練に遭われた。
だからこそ、人のあらゆる弱ささえも見透かされ、その上で執り成して下さるのである。(ヘブル4:14-16)

神様の目と言うX線によって、人の罪や穢れ、あらゆる悪しき物は照らし出される。
医者がそれを診るならお手上げであり、死ぬしかないのであるが、しかし神は「はいそれでおしまい」と言うお方ではなく、イエスキリストのいのちというワクチンを用意され、それを摂取した者は生きるようにされた。
このワクチンは、一度人を死に至らしめ、そして、新しいいのちで生き返らせる。
いのちの御言葉を信仰を持って自分に適用させる時、新しいいのちが生き、古い自分は終わるのである。

主の御言葉は、罪や病、自分の嫌な部分をも見透かすけれども、同時に、人が罪によってどんなに苦しみ悲しんでいるか、という深い呻きまでも見透かす。
その上で御霊は深いうめきを持って、人を執り成すのである。
だから私達もダビデのように、傷ついた道のあるかないかをお調べください、永久の道へと引き戻して下さい、と祈ることが出来る。(詩篇139篇)

全ての傷ついた道を知って頂き、御霊の助けを頂いて、折に適った助けを頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:安息に入れない予備軍(ヘブル4:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(ヘブル4:1)
安息に預かる約束があるのに、取り残されてしまう者とは、与えられた約束を信仰によって結び付けない者である。
「聞く者、これに信仰をまじへざりしに因る」(文語訳2節)
この事から、約束を聞いただけで安息に入れるという訳ではなく、聞いた言葉を、信仰によってその人自身に混ぜ合わせなくてはならない。
御言葉を聞いても何も良い事が起きない、と言っている人は、コンセントを挿さずスイッチも入れないのと同様で、御言葉に力が無いのではなく、その人が聞いた御言葉に信仰を混ぜないから、力が発揮されないのである。

ヘブル4:4-7節には、安息に入れない予備軍が書かれてある。
メタボ予備軍にならないためにテレビや雑誌等でよく注意喚起されている。
一日何歩以上歩かない者や、エレベータばかり使っている者は危ない等と言われているが、「ああ、私は予備軍だ」と言うだけで何の改善もしない者は、事実メタボのままである。
御言葉を聞いて「それ聞いた事ある」「でもねー」と言って、何の改善も無い者は「安息に入れない予備軍」である。
予備軍の特徴として「不従順な者」(6節)、「神の声を聞いても心を頑なにする者」(7節後半)。
安息に入れない者とは、聞いても心と顔面を頑なにする者、自分の考えをあくまで固持する者である。
安息に入れない予備軍の行く先は暗闇と歯軋りであるため、メタボ予備軍よりもはるかに深刻。真剣に扱っていただく必要がある。

神のみわざは既に完成されており、安息日の休みは残されている。(9-11節)
ところが、さもみわざが完成していないかのように、安息とは程遠いかのように人々が振舞っているのはなぜだろうか。
それは、御言葉に信仰を混ぜていないからである。
アダムとエバは、善悪の木から以外は、全ての木から取って食べて良いと言われたのに、さも何か不足しているかのように感じてしまったり、
善悪の木から取って食べたら必ず死ぬ、と言われたのに、さも神のようになれると思ったりしたからこそ、大地は呪われ、額に汗しつつ、死に向かって生きていかなくてはならなくなってしまった。

10節「神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」
御言葉を信じるのであれば、神の安息がその人を覆い、そして自分の業を休む。
しかし信じないで疑う者は安息を得ず、右往左往した末に滅びる。

信じて安息を得、自分の業を終えて休む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:荒れ野に放置される者達(ヘブル3:7-19):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ヘブル3章にはモーセの時代、神の安息に入れた民と入れない民の違いについて、明確に書いてある。
かの時代、イスラエルの民は信仰によってエジプトを出、約束の地、安息の地を目指しているはずだったが、行く途中に多くの者達が不平不満を言い、他の民の心を挫いた。
やれエジプトの方が良かった、ここにはマナしか無いじゃないか、モーセはこの荒れ野で我々を殺すつもりだ、などなど。
ある時は、モーセを石で撃ち殺して別の指導者、別の神を立ててエジプトへ戻ろう、と言い出す始末だった。

なぜ「心を頑なにしてはならない」「試みてはならない」と書いてあるのか。
それはもちろん、死なないためであり、安息に入るためである。

夫婦生活について、結婚を前にした男女向けにこのような例えがある。
夫婦生活は、命綱をペアで繋いで山を登っていくようなものである。
二人で同じ目標を目指して力を合わせて登って行き、片方が滑っても片方が支えて行くなら、無事目的に到達できる。
相手だけに頑張らせて、自分は全く努力せずブラブラぶら下がるつもりでいるなら、結婚は考えないほうが良い。
もしあなたが頑張っているのに、相方は何も努力せず、いつも命綱にブラブラして「おなかすいた」「ねぇかまって」と言ってばかりいたら、どう思うだろうか。
この荒れ野で不平不満を呟いていた者達は、今にも崖から落ちそうなのに命綱でブランコ遊びしていたような者達である。

主は確かに恵み深く憐れみ深いが、期限がある。
40と言う数字は試みの数字であり、これに耐え抜いたヨシュアとカレブは幸いだった。
頑張っている人達の心を挫いた者達を主は荒れ野で滅ぼしたように、命綱でブランコ遊びしているような者達は、主ご自身が命綱を切って、落として行く。

そのようにならない為に、私達には12,13節の御言葉が与えられている。
「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――」
兄弟姉妹のうち誰かが罪に惑わされて頑なになるのであれば、兄弟姉妹みんなで真剣にその人を立ち直らせる努力をすべきである。
それは「今日」と言われている日のうちである。
「その日」が明けないうちに立ち直らせないと、罪や頑なさが、その人に定着してしまうからである。

荒野で滅ぼされた人達は、神様の提示された御言葉を退けて、あくまで自分の主張をし通した者達である。

17節「いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」

兄弟姉妹の心を挫いて命綱にぶらぶらぶら下っている者は、
死骸として荒れ野に晒されたまま、置いて行かれ、
他方、信仰によって一歩一歩前進して行く者達には、安息が近づいてくる。
「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」19節
皆さんは死骸として置いて行かれる者達だろうか? それとも安息の地に向かって一歩一歩全身し安息を勝ち取る者達だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。

信仰の歩みを日々為して、安息の地に入れる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:主との兄弟関係(ヘブル2:10-13):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

(以下概要は、2/9水曜礼拝メッセージ前半部)

主イエス様は、人を罪と死から救い出すために降りて来られた。
人となり数々の苦しみを受けられ、十字架の死にいたるまで、忠実に御父に従われた。
キリストが十字架に磔にされたのは実に、人を死から勝利へ導くため、罪を処罰し、栄光へと導くためであり(10節)、一人一人を聖なる者とされるためである。(12節)

私達がイエス様と兄弟の関係になるには、順番がある。
まず人は、イエス様と対面し、イエス様を知る所から始めなくてはならない。

ヨハネ13:12-17においては、イエス様と弟子達の関係は、先生と生徒、主人と僕の関係であった。

先生は生徒に模範を示し、人はそれに従わなくてはならない。(15節)
主が示された事はその時理解できないかもしれないが、その通りにしていれば、じき、主の御思いが分かるようになってくる。
その時「師と弟子」という関係ではあるが、なんと主は、弟子の足を洗ってくださる。
なぜなら主は、弟子達をこの上なく愛しておられる(13:1)からである。

先生と生徒という関係から一歩進むと「友」という関係になる。(ヨハネ15:11-17)

僕は主人の思いを知る事は出来ないが、友の関係は、お互いの心の内を知る事が出来る。
主と「友」の関係となるには、「わたしの命じる事を行うならば、あなたがたは友である」(14節)
イエス様が命じられる事とは「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」(12節)である。

主人と僕の関係だった頃は、わけもわからず、ただ命じられる事を守り行うだけであったが、守り行っている内に、御心が分かるようになってくる。
そして友の関係になれば、ただ命じられて行うというのではなく、友である主の望んでおられる事を汲み取り、心からその事をしたい、と思うようになるのである。
そしてそういう者は、豊かに実を結ぶ事が出来るようになり、父の名によって求めるものは、何でも与えられるようになる。

さらに優れた関係は「兄弟」の関係である。(ヨハネ20:17)
兄弟という関係は、同じ血、同じ肉、同じ源を持っている。

兄弟の関係になるには、ヨハネ15章と20章の間の出来事、すなわち十字架の経験が必要である。
私達は、アダムから産まれたそのままのいのちでは、御国を受け継ぐ事が出来ない。
死んだのに動いているゾンビのようなもので、ただ赴くまま、破壊活動したり兄弟姉妹を喰い合ったりするだけである。
ゾンビとしては一度死に、イエス様にあった新しい永遠のいのちに生まれ直す必要がある。
そうすれば、イエス様の兄弟となる事が出来るのである。

主にある新しいいのちは、主イエス様と同じ、聖なる栄光のいのちである。
万物は御子のために創られた。その御子と同じいのちとは、どれほど栄光に富んでいるだろうか。

この聖なる栄光のいのちを、さらに知って行く皆さんでありますように。
主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

 

礼拝説教メッセージ音声:何ゆえに人をこれほどまで(ヘブル2:5-9):右クリックで保存

韓国語通訳有 한국어예배

偉大な被造物を見るにつけ、人間は本当にちっぽけだと実感する。

万物は御子のために創られており、御子キリストは教会のかしらであり、教会(召しだされた者達)とは私達である。(コロサイ1:15-20)
という事は、万物は私達のために存在する。
そこまで特別扱いされる人間とは、一体何者なのだろうか。

人間は、万物の源なる御子イエス様の、結婚相手である。
人は元々、結婚相手の花嫁として創られ、万物はその結婚生活をするための王子の宮殿、愛の巣として創られたのである。

しかし万物はアダムとエバの過ちによって呪われ、人は霊において死に、ゾンビのように腐乱臭を撒き散らしながら、愛の巣であるはずの素晴らしい世界を好き放題に破壊活動するようになってしまった。

神はゾンビをそのまま滅ぼす事はなさらず、御子の花嫁として生き返らせるために、御子自身の身代わりの血によって買戻し、そうして私達人間はこの御子にあって、新しい永遠のいのちが与えられ、神と和解させられた。

万物はいまだに贖われる事を切に望んで、御国の子達の表れを待ち望み、海の苦しみをしている。(ローマ8:18)
また私達も、この肉体において、魂において、贖われる事を切に待ち望んでいる。

生まれながらの私達は、霊・肉・魂において希望を持つ事はできない。
まことのぶどうの木である御子イエスに繋がっていなければ、私達は何も出来ないが、御子イエスに繋がっていれば、主のわざを成す事が出来、豊かな実を結ぶ事が出来る。

被造物は御子のあらわれを切に待ち望んでおり、私達贖われた者達のあらわれを待ち望まれている。
それ故私達は、御子にあって、被造物を支配しなくてはならない。
その資格を得るには、一度死ぬ必要がある。
ゾンビとしてのいのちには死に、イエスにあって新しく生まれ直す必要がある。

イエス様が栄誉を受けたのは、十字架の死に至るまで従順だったからである。(ピリピ2:6-11)
私達もキリストにならって、自分の好き勝手に生きたいという、生まれながらのいのちは十字架の死に明け渡し、御子イエスのご支配にお委ねするべきである。
その時、私達は創られた目的に添って生きる事が出来、エデンの園におけるように全ての必要は満たされ、世を正しく支配する事ができるのである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:大きすぎて理解できない恵み(ヘブル2:1-4):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

太陽は地球に比べるとはるかに大きく、恒星は太陽に比べると遥かに大きい。
また、地球から恒星までの距離は、1秒で地球を7周半するほど速い光が行くにしても、何百年もかかる。
詩篇8編によると、月や星などの天は指のわざと書かれてあるが、星を見るに、私達人間がいかにちっぽけであり、宇宙がいかに壮大であるか想像すらできないほどである。
しかし、宇宙広しといえども、御子を使わされたのはちっぽけな地球の、ちっぽけな人間に対してであり、神の似姿として創られたのも、宇宙のどの種族でもなく、地球の人間のみである。
私達の身代わりとなって血を流された御子は、万物を創り、万物はその方のために存在し、万物はそのお方によって成り立っているほどのお方である。
考えれば考えるほど大きな救いであるが、私達は大きな事よりも小さい事にやっきになりがちである。

主は大いなるお方であるのに対し、我々人間は蟻よりも小さな存在に過ぎない。
にもかかわらず、主はへりくだり、高き所から降りてこられ、蟻のような人間となって共に生活し、人間のために命を投げ差された。
私達が主に仕えるこの勤めは、いかに尊厳に満ちたものであろう。
それ故、救いの福音は注意して聞くべきであり無頓着であってはならない。

しかしながら、人は実に小さくどうでも良い事に心捕らわれがちである。

ここ関内近辺の道路は一方通行が多く、道も狭いため、車を運転する者にとっては非常にやりづらい。
路面はどこも駐車禁止で、少しでも車を路駐するとすぐに見回りが来てしまうし、駐車料金も高いため、車を停めにも一苦労である。
道路の世界で運転する者は道路での規律を、会社で働く者は会社が望む事を、当たり前のように意識するものだ。
道路の罰金は細かく気にするが、この世と来るべき世に関する法や、その時払うべき罰金、この世もあの世も創られた方の望む事を意識する事は、実に稀である。

契約書に自分と相手の名前を書いて判子を押した紙は、効力と威厳がある。
御言葉は世を創られた主の息吹が込められており、福音の言葉には主の血による判子が押してある。
どんなに尊い契約書であろうか。
しかし、私達はこの大いなる救いに対して、無頓着なものである。
なぜか。
それは、罰則を受ける人や、罰金を払っている人は巷でよく見るが、永遠の罰を受けている者はこの世において見る事が無いからである。
それは、主が大いなる恵みによって、私達の罪を見逃しておられ、立ち返る事を待っておられるからである。
しかし、私達がこの世で好き放題できなくなり、この世を取り締まる者はいずれ来る。
福音をないがしろにしたまま空き放題やっていたとしても、生きている間にその故に罰せられる事は無いが、捕まってしまう日はいずれ来る。
その時の罰はいかなるものであろうか。

天地万物の源であり作られた方が、その血をもって買い取って下さった証文が、聖書であり福音である。
世の人はあたかも神様がいないかのように生活しているが、キリスト者は、人生のある場面で主と出会った。
キリストの証文の効力に与かった我々は、この世における保障だけでなく、来るべき世の保障も与えられている。
そして、罪の赦しという免罪と、永遠のいのちという特典をいただける福音を、委ねられている。

神様から特別扱いを受けた私達は、日々、その尊い福音をないがしろにしないようにするべきである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:既に語られている(ヘブライ1章):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

このヘブライ人への手紙は主イエスの大祭司としてのご性質や信仰について深い洞察が書かれてあるため、これから水曜礼拝で見ていきたいと思う。

旧約の時代、神様は多くの部分に分けて語られ、色々な不思議やしるしや、神様が直接関わられた記事を見る事が出来る。
今の時代、神様の御声をそのまま聞けて理解できるという人は、ある人によってはよくあるかもしれないが、多くの人にとっては無い事である。
しかし今の終わりの時代、神様は「御子によって既に語られている」(2節)。

パリサイ人がイエス様に「しるしを見せてみろ」と議論を仕掛けた事があった。
その時イエス様が答えられたのは「夕焼けなら晴れで朝焼けなら荒れる事を知っているのに、どうして時代のしるしを見分ける事が出来ないのか」という事で、しるしという”非日常”に対し、天気の見分けという”日常”で切り替えされた。
なぜ主は、昔ながらの万国共通の”日常”で切り替えされたのか。
我々に必要な事は、昔ながらの、万国共通の、日常に存在する「御言葉」で十分、という事である。

天気の見分けは「夕焼けなら、明日は晴れ」だが、それと同様、御言葉も「こうなれば、こうなる」という単純法則の宝庫である。
「初物の十分の一を捧げれば、穀物倉は満ち溢れ酒蔵は溢れる」
「主イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる」
このような日常にある御言葉から顔を背けて、しるしや不思議に走るのは、「悪い姦淫の時代」とみなされる。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

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