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メッセージ - ヘブル人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主の懲らしめと親の懲らしめ(ヘブル12:4-8):右クリックで保存
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祈祷会メッセージ

礼拝説教メッセージ音声:アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(ヘブル11:17-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

アブラハムは100歳にしてやっと息子イサクが与えられたのに、全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた。
その時アブラハムはどんな心境であったのかは記述が無いが、彼は命じられた翌日、すぐに準備してイサクを連れ、命じられた所へ言った。(創世記22章)
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(同5節)
わたしと息子は一緒に戻ってくる、と言った言葉に、アブラハムの信仰が見える。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブル11:19)
アブラハムはイサクを、主にあって失った。そうしたら、何倍にも祝福された形で得た。
これこそ死と復活の型であり、私達も主にあって失うなら、何倍にもなって得るのである。

イサクは従順だったため、井戸を奪われてもつぶやかずに主に信頼し、次から次へと井戸を見つけて行った。
「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」(ヘブル11:20)
実際の所、彼はエサウを祝福したと思っていたのだが、ヤコブが祝福を騙し取った。彼は息子にさえも騙されたのだ。
しかし、この箇所の趣旨は、家族内の騙し騙されるサスペンス劇ではなく、祝福しようとしたイサクの信仰に対する賞賛である。
皆さんにも、「この人を祝福したい」と思って祈ったり支援をしてきたのに、実は騙され、祝福は別の者に横取りされ、結局自分の望む形で祝福が与えられなかった、という経験はあるだろうか。
しかしそのように、たとい望む形でなかったとしても、神様は私達の「祝福したい」という信仰を良しとされるのである。

ヤコブが人生の中で最も賞賛されている場面は、子供達を祝福し、杖によりかかって礼拝する場面である。(同21節)
彼は神と格闘している間は、祝福は与えられなかった。
しかし、もものつがいを打たれ、力が無くなった時、彼は神の使いを掴んで離さず、ただ寄りかかるしかなくなった。
その時、彼に祝福と新しい名が与えられた。
私達も、神に打たれて自分の力が尽き、もはやイエス様に寄りかかるしか無くなった時、祝福と幸いが与えられるのである。
彼は自分の力や騙しテクニックによって世を渡り歩いて来たが、神様から賞賛されたのは、生涯を閉じようとする時に、わずかな力を振り絞って為した、子供達への祝福と礼拝であった。

ヨセフが人生の中で最も賞賛されている場面は、臨終の時、自分の骨について指示した場面である。(同22節)
彼はエジプトに来て既に100年近く経ち、エジプトで2番目の高い地位に就いていたが、臨終の間際に彼が指示した事というのは、子孫の代でエジプトを脱出するからその時に自分の骨を故郷まで届けて欲しい、というものだった。
人生で何に心の重点を一番置いてきたか、というのは、遺言に如実に現れる。
彼の100年近くの日々で、心に最も重きを置いてきたのは、エジプトの富や地位、名声などではなく、神様の約束された地、生まれ故郷だった。
だからその信仰を賞賛されたのだ。

この世の人生の旅路は仮の宿に過ぎず、私達には天にまことの故郷がある。
彼らが賞賛されたのは、地上での住まいよりも神様の備えて下さる天の住まいを望んでいたからである。
天のまことの故郷に至る歩みが、この地上の歩みである。

いつ死ぬか分からないような情勢の元で住んでいる今日、一日一日の歩みを、天のまことの故郷に向かう歩みとして尊く生きる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:信仰の偉人たち - アブラハムとサラ(ヘブル11:8-16):右クリックで保存
韓国語通訳有

人は70歳を超えると、住み慣れた場所で余生をゆったり過ごすものだが、アブラハムは75歳の時、主からの召しに応え、さらなる祝福の約束を信じ、見知った土地での家族との平和な暮らしを捨て、どこに行くかも分からずに、主の示されるままに出て行った。
彼の信仰は確かにすごいが、サラもすごい。
もし旦那がある日突然、神から示されたので新しい土地に出て行く、と言い出し、しかもその行き先は分からない、と言うなら、一体どうするだろう。
そこだけを見ると、この夫婦は素晴らしい信仰のように見えるが、最初からそうだったわけではない。
創世記をよく読むと、彼らも最初は信じられなかった事が分かる。(創世記17:15-17)

アブラハムは最初、約束を信ぜず、約束を聞いた時は笑いしか出てこなかった。
しかし最終的に、彼は信じた事の実体として、主から契約の印とした与えられた「割礼」をその日のうちに施す、という行動をした。
割礼は、男性の包皮を切り取るが、それは男性にとってはかなりの覚悟が要る行為である。
アブラハムはその日のうちに、彼自身だけでなく、彼の家にいる男子全てにそのようにさせ、彼の信仰に行いという実体を示した。

サラはどうだったか。
彼女も最初、約束を信ぜず、約束を聞いた時は笑いしか出てこなかった。
しかし彼女は後には主に信頼し、不信仰に恐れる夫の間違った指示にさえ従順を示し、全ての事から救い出して下さる主に全面的に委ねた。(創世記20章)
サラが主に明け渡したからこそ、主はアビメレクに直接介入され、サラは救い出されただけでなく、羊や奴隷、銀1000枚を得た。

そうして彼らは信仰においても整えられ、主は彼らを省みて、主が言われたその時期にサラは男の子を生んだ。

新約聖書に記述されている彼らに対する評価は、かなり良心的だ。
しかし旧約を読むと、彼らの実際はもっと汚くどろどろしている。
旧約は人のおどろおどろしい実態を、ありのままに暴いているが、新約では、人が犯したおどろおどろしい部分は記録から省かれ、信仰の賞賛だけが残っている。

永遠の書物に記載される内容は、人のどろどろや汚い罪の部分は、主イエスにあって無かった事にされ、ただ信仰によって歩んだ結果だけが残り、賞賛だけが残るのである。
しかしもし彼らが信じないで、御言葉を無視して相変わらず自分の力でやりくりしていたなら、そのような良心的な記載はされなかったどころか、永遠の書物からも抹消されていたであろう。

御言葉は、あまねく平等に注がれるが、それを信じ、信仰の実体である行いを示す者は、わずかだ。
御言葉が与えられ、その通り信じて行えば、豊かな祝福を得るけれど、もし恐れたり無気力になったりして、信仰の行いをしないのなら、ただいたずらに歳を取っていくだけである。

アブラハムやサラのように、信仰によって一歩進み、約束された祝福を得て、笑う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:見てもいない事柄の監査明細(ヘブル11:1-7):右クリックで保存
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ヘブル11:1によると、信仰には、望んでいる事柄を"確信"(フーポスタシス:実体、権利証書)する事と、見えない事実を"確認"(エレグコス:証拠、監査明細)する事の2つの要素がある。

望んでいる事柄を「フーポスタシス(確信)」するとは、例えば、100万円が必要になった時、100万円分を受け取るべき権利証書を持っていて、その証書を差し出すような事である。
信仰のもう一つの面、まだ見ていない事・思いも寄らなかった事柄の「エレグコス(確信)」であるが、この言葉は「監査明細」の意味で徹底的に調べつくされた結果の明細であり、現代ギリシア人は通信簿や車検証明書という意味で用いている。

普段から勉強好きであれば、当然、通信簿の結果は良くなり、嫌いなら悪くなる。
そうした事は、人の外見からは分からないが、通信簿があれば、知ることが出来る。
目に見えない事柄を現す通信簿の内容は、普段から意識していようが、いまいが、客観的な数字として表れ、普段から勉強して通信簿の結果が良ければ、報いとして、より良い地歩を得る資格が与えられる。
同様に、普段から神様が好きで共に歩むなら、私達が思いも寄らないような報いが、ある日与えられる。
1節から7節に登城する人物たちは、人目に見えない日々の歩みについての監査証明を受け、そして賞賛された者達である。

アベルとカインは、普段の生活において、何月何日に神様から試験を受けるから、その日に備えて準備しておこう、とは、恐らく思っていなかっただろう。
しかし彼らがいけにえを捧げた時、普段どういう信仰態度であったかが、如実に示された。
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(11:4)
私達の今時点の信仰は目に見える形では見えないかもしれないが、もし今、信仰の抜き打ちテストを受けたなら、天の通信簿にどう書かれるだろうか。
アベルは死んだが、信仰の賞賛はいつまでも残るものである。(1コリント13:13)

エノクは死を見ることが無く、ある日突然神によって移された。
彼についての記述はあまり無く、彼の生き様はまさしく私達の目に隠されているが、ただ分かる事は、彼は神と共に歩み(創世記5:24)、神に喜ばれていた事(ヘブル11:5)だ。
彼も、まさか自分が死を見ることが無いとは、普段の生活では思ってもいなかっただろう。
しかし、彼が死を見る事無く神に移されたという出来事によって、彼が普段いかに神と親しく共に歩んでいたかが私達の目に明らかにされたのだ。

7節にはノアが登場する。
ノアに告げられた内容や与えら得た命令は、とてつもなく非現実的だった。
大いに栄えている人間やネフィリム達が皆、大雨の洪水によって滅び、自分は多くの生き物を救うために、海の無いところに巨大な船を100年かかって造るのである。
ノアは箱舟を作ることによって世を罪に定め(7節)、もうすぐ洪水が起こると警告を発していたけれども、残念ながら救われたのはノアとその家族のみだった。
信仰者は、その信仰の行動によって、世に罪を示すのである。

神に喜ばれるには、信仰が必要である。
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない。(6節)
神は、私達に何か願い事がある時だけに登場する神ではない。
私達の日々の生活の中におられる神として、アベルやエノクのように日々神と共に歩み、御言葉が与えられたなら、その内容がいかであろうともノアのように従う歩みこそ、喜ばれる歩みである。
この人は祝福を受けるに相応しい、合格だ、と、天の通信簿に書かれる皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:耳がいかに大切か(ヘブル10:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

最も喜ばれるいけにえ(捧げ物)とは、何だろうか。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために”体を備えてくださいました。”」(ヘブル10:5)
神が望まれるのは、私達の側から捧げるものではなく、神様の側から備えられた”体”を私達が適用する事である。

この箇所の引用元では、神様が備えてくださったのは「体」ではなく「耳」(詩篇40:6-8)となっている。
いかに素晴らしい賛美も、高額の献金も、イエス様の足元で じっと”耳”を傾ける事には、かなわない。
主は、御声に聞き従うほどにいけにえを喜ばれず、聞き従わない事は偶像礼拝の罪なのだ(1サムエル15章)。

マルタはイエス様が話をしておられるのをそっちのけでしもべ達に指示し、マリヤはイエス様の足元にじっと座って聞き入っていた。(ルカ)
そのうちマルタは、イエス様に向かって指示を出してしまった。
聞き従わない者は、しもべ達を忙しくさせるばかりか、イエス様にさえ指示を出し、イエス様の足元で聞き入っている者さえ糾弾する。
それだから主は、聞かない者をとても嫌われる。
私達が居るべきはイエス様の足元であり、取るべき行動は、耳を傾ける事である。

詳細は音声メッセージで。。。

今日も皆さんにとって良き一日でありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:イエスの血(ヘブル9:15-28):右クリックで保存
韓国語通訳有

我々はイエスの血と良く言うが、イエスの血はどのような力があるのだろうか。

1、血はいのちそのもの、いのちを買い取る代金である(レビ記17:11)
いのちの代金の支払いは、人のがんばりや修行ではどうにもならず、血によって支払わなくてはならない。
大祭司は血を携えずして至聖所で贖いのつとめが出来ないのは、血がいのちの代金だからであり、それ無しで至聖所に入るのは、代金なしで店に入るようなもので、罰を免れない。
過越の子羊の血は、いのちの代金が支払い済みの領収書であり、もはや死も呪いも罰も寄り付いてはならない、という印である。

2、血は清めの役割を果たす(ヘブル9章14、22節)
旧約の祭儀規定は全て天の模型に過ぎず、自分の血ではない血を携えて年毎に捧げていたが、キリストは天そのものに入られ、ただ一度、ご自身を捧げる事によって完全ないけにえを捧げ、完全な勤めを果たされた。
「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(9:14)

3、血は叫ぶ(創世記4:10、ヘブル12:22-25)
不当に流された血は神に叫び、その者に呪いをもたらす。
イエス様の血は不当に流され、その血の叫びによってイエスの敵は告訴され、糾弾され、呪われているのである。
我々がイエスと共にいるのであれば、イエスの血は神に対して弁護の叫びをするのである。

すなわち、キリストの血を塗るという事は、神の御子キリストの命そのものを塗る、という事であり、
血塗られた者の罪を消毒し、良心を清め、死んだ行いを改めさせ、
滅ぼす者も、呪いも、死も、その血を見て過ぎて去り、
塗られた血は敵に対しては呪いを、神に対しては弁護を叫ぶのである。

このアベルの血よりも優れた事を語りかけるイエスの血(ヘブル12:22-25)を、我々はどうして軽んじることが出来るだろうか。
語っておられる方を拒まぬよう、よくよく注意しなくてはならない。

詳細は音声メッセージで。。。
http://voh.plala.jp/media/2011/kitoukai/110629k1_iesunoti.mp3

イエスの血にあって守られ、血の全ての効力をまんべんなく享受できる皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:カニのように(ヘブル12:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人生は戦いの連続だが、罪と戦って血を流すまで抵抗した事はあるだろうか。
危害を加えに来る敵と戦うのは分かりやすいが、気持ちよくさせる誘惑者と戦うのは、難しい。
韓日讃頌歌396番「主イエスのみ名高く」の賛美は、そうした戦い方の大きなヒントが得られる。(賛美は音声メッセージ参照)

誘惑が来た時は自分で戦うのではなく、主イエスの御名を褒め称えるほうが、誘惑は逃げて行く。
負けてしまうと罪の奴隷にされたり、悪しき束縛され、その下でこき使われ、したくない事をさせられ続ける事になるが、立ち返って主に求めるなら鎖は解き放たれる。
負け続ければ負け続けるほど、立ち返るのは困難になるので、最初の時点ですぐに勝利した方が良い。

海の岩場に、小さなカニが沢山いるのを見た事があるだろうか。
波が来るとカニは素早く隙間に入り込み、波が打ち付ける時にはカニは岩の隙間で守られている。
まことの岩はイエス様であり、私達はその岩陰で戯れる蟹のようなもので、どんな人生の荒波が押し寄せようとも、まことの岩なるイエス様の隙間にすぐに隠れれば安全は守られ、イエス様の内に隠れた私達を攻撃する者は、イエス様を攻撃する者となる。
イエス様は死と悪魔に打ち勝ち、悪魔は足の下に踏みにじられているため、私達もイエス様の内にあれば共に勝利しており、悪魔は足の下で踏みつけられ、陰府の力は届かない。

何事も勝利するコツとは、実は非常にシンプルで、誰にでもできる。
それはすなわち、イエス様を主とし、イエス様の内に入る事。

人生の荒波にみくちゃになっている原因は、100%と言い切っていい程、イエス様から離れているからだ。
敵はいつもこのイエス様という守りの岩からエサでおびき出そうとしており、おびき寄せられ岩の外に出ているなら、人生の荒波と苦難が尽きない。

私達は主イエス様にあってより良くなるために、訓練を受ける事や、むちを加えられることもある。(ヘブル12:1-7)
世の人が楽しそうにしているのに、自分がそっちに行こうとすると道がふさがれ鞭打たれる経験は、クリスチャンならあるのではないだろうか。
それは、神は私達を子として扱っているからだ。
親であれば子を特別扱いするもので、他の子が遊び呆けていても何とも思わないが、自分の子には、より良い将来を与えるために特別な訓練を与えたり勉強させる。

罪の楽しみはせいぜい100年も続かないが、主は、ちっぽけな100年よりも遥かに優れた永遠の祝福を楽しませたいがため、私達が世に向こうとすると、鞭を加えられるのだ。
短い人生、主から打ちたたかれるばかりでは、損である。
自分のはかりや天秤を握り締めて歩む人生は、打たれっぱなしの苦々しい思い出しか無いが、主に人生の重荷も全て委ねて歩む人生は、はるかにラクである。

自分のはかりや天秤はすぐにイエス様の元に投げ出し、イエス様にいつでも隠れ、運んで頂く。
そんな安全でラクな人生を過ごす皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:関係無いと思うなかれ(ヘブル6:19-7:10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。」(ヘブル7:1)
メルキゼデクとかアブラハムとか、私達とは関係ない昔の外国人と思うだろうか。
実は彼らは、現代を生きる私達と非常に関係が深い。

アブラハムはユダヤ民族の父親中の父親だが、信仰による者こそアブラハムの子孫であると書いてある故(ガラテヤ3:7-9)イエスを信じた私達こそアブラハムの子孫であり、アブラハムは私達にとって父である。
メルキゼデクはかの偉大なアブラハムを祝福した。
彼には系図も無ければ父母も無く、生涯の初めもなければ終わりも無く、創世記のある箇所で突然現れてアブラハムを祝福し、アブラハムは十分の一を捧げた。
「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこ(真の至聖所)へ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」(ヘブル6:20)

レビ族はユダヤ民族の中で祭司の役割だが、その族長レビでさえ、アブラハムの腰の中でメルキゼデクに祝福を頂いて十分の一を捧げた。(10節)
ここに一つの原理が見出せる。
すなわち、アブラハムが祝福を受けた時、レビはまだ生まれていなくても、神様の法則では、レビもその時祖先であるアブラハムの腰の中で祝福を受け、十分の一を捧げた、という原理である。

私達は全て、アダムから生まれているが故に、アダムが罪を犯したその時、彼の腰の中にいた私達も同じように罪を犯し、呪いを受けてしまった。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
現代においても罪と呪いは現実的にリアルに力を持ち、その支配下に呻いているが、神様はそんな私達を救うために、恵みを備えて下さった。

「恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。」(ローマ5:15,16)
私達も、イエス様を信じる信仰の原理により、2000年前にイエスと共に十字架につけられたとみなされ、罰され済みとみなされ、これ以上罰を負う事は無くなるのだ。
主イエスは贖い主であると同時に、大祭司でもある。
彼が天において私達のために執り成し、私達も先に義とされた王族の祭司として、世の罪の為に執り成すのである。

2011年世界を生きている私達も、イエスキリストやアブラハム、アダムと大いに関係があるのだ。
全てはイエスから始まり、イエスにあって成就し、イエスに帰するのである。
このお方に栄光が豊かにあり、このお方からの恵みと祝福が皆さんに豊かにありますように!

礼拝説教メッセージ音声:その方向で大丈夫?(ヘブル6:4-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に”堕落(パラピプトー)”した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」(ヘブル6:4-6新共同訳)

この箇所の「堕落」を狭義に捉え、救われた後にちょっとでも罪を犯してしまったら悔い改めの余地なく決して赦されない、と誤解する者もいるが、そういう意味では無く、むしろここは「歩む道の方向性」の問題を言っている。
日本語聖書の主要3訳はいずれも”パラピプトー”を「堕落する」と訳しているが、「パラピプトー」とは「脇にそれる」「脇に落ちる」「自ら教えを捨てる」というのが本来の意味である。
せっかく主の憐れみが示されて自分中心の道からイエス中心の道へと悔い改め(メタノイア:人生の方向転換)したのに、なお自分中心の道へと”脇にそれて”しまう者は、悔い改めを自らの意思で捨てているわけであるから、悔い改めの余地は無い、と、当然の事を言っているだけである。

人生の方向性を、再び自分中心にサタン中心へと敢えて向けてしまう者は、イエスを再び十字架にかけて辱める者である。
イエス様が十字架にかかり、血を流し、肉を引き裂かれたのは、私達が永遠の命を得るため、罪が赦されるためだ。
そこまで自らを捧げられたイエス様を、どうしてないがしろにする事が出来るだろう。

7節「地が自分の上にたびたび降って来る雨を吸い込み、自分を耕している人々のために有益な植物を産み出していれば、神からの祝福に与るが、茨やあざみをもたらし続けるなら、その地は無益なもので呪いに近づいており、その終りには焼かれてしまうことになる。」

ここで土地とは「自分」すなわち私達であり、土地を耕す者とは神である。
土地と実の主役は神であり、決して私達ではない。
土地の存在意義は、耕す者すなわち神に有益な実を実らせる事である。

主の恵みは良い者にも悪い者の上にも日々降り注いでいる。
もし私達が良い産物を実らせるのであれば、祝福をいただく事が出来るが、茨やアザミとのような、とげとげしい、苦々しいものばかり生み出すのであれば、呪いに向かって進んでおり、終わりには、永遠に焼かれてしまう。
耕される時は鍬が入れられ、痛いこともあるが、それによって良い実を豊かに実を結ばせるようになる。
私達は主のためにあらゆる良き実を結ばせる者でありたい。

9節「このように語ってはいても、愛する人々よ、私たちはあなたがたについて、もっとよいこと、救いに関わることがあると確信している。」

パウロはヘブル人にまず厳しい事を語った。それは「愛する人々」に滅んで欲しくないからであり、より良い者になって欲しいからである。
確かに神は、いつまでも愛を持って忍耐されている。しかし、敢えていのちの道から逸れてしまなら、その終わりは滅びである。

私達は主イエス様に向かって歩んでいるのであれば、ますます熱心に同じ道を歩んで行きたい。
もし世やサタンのほうに向きを変えつつあるのであれば、この恵みの時、猶予の時が与えられている今のうちに、イエス様に向きを変えなくてはならない。
ただイエスを見つめつつ歩んでいく皆さんでありますように。イエス様の名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:祭司の任命(ヘブル5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

祭司とは、神の前に立つことがらについて任命を受けた者である。(ヘブル5:1)
それは神の側から選び出された者であり、誰もが好き勝手になれるものではない。
4節「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」

ちなみに私は、この御言葉がパスターになるきっかけの御言葉だった。
社会人として働いていた時、バイブルカレッジの通信講座を受けていたものの、それは牧師になるためでなく、御言葉を掘れば掘るほど宝がざくざく出てきて、それが楽しくて仕方なかったからだ。
元々牧師になるような性格ではなく、牧師達のしていることを見ると、とんでもない、あんな事出来っこないと思い、働きながら主に仕えて行くものと信じて疑いもしなかったある日、ある預言の賜物を持った姉妹と出会った。
彼女と話しているうちに、なぜ牧師にならないの?と言われ、しかも、牧師にならなければ災いだとまで言われた。
私は理系人間なので、論理的根拠も無く断定される事にカチンと来て、暫くの間彼女とケンカになったものの、心の中には引っかかるものがあった。
そして天声教会で御言葉の奉仕をしていくうちに、心に引っかかっていたものは次第に燃え立たされて行き、
ある日、電車の中で「もし私がその務めに相応しいのであれば、はっきり分かる形で示して下さい。」と祈った。
その時、たまたま聖書を開いていたのだが、祈り終わった直後聖書に目を注いだその箇所が、ちょうどこのヘブル5:4だった。
私はとても驚いた。なにしろ、祈って一秒後に答えが示されたのだから。
その栄誉ある勤めは誰も自分で得るのではなく、神に召され、頂く物。
自分の何かではなく、神様が任命し召されるのだから、その勤めに与れるのだと知り、心がラクになった。
その言葉に促され、結構な覚悟はあったものの世の仕事を辞め、御言葉の勤めに与るようになった次第である。

神が任命されたまことの祭司イエス様を不服とする者達は、どうなるのだろうか。
モーセの時代も、コラと仲間達が、神様に任命された祭司に逆らった。(民数記16章1-5)
コラと仲間達の言い分は、イスラエル共同体全体が聖なるもので、主がその中におられるというのに、なぜお前達(モーセとアロン)は上に立とうとするのか、
あなたも私も聖なるもの、だったら俺達も祭司になって良いのでは、というものである。
モーセやアロンは好きで民の指導者や祭司になったのではなく、むしろ元々嫌々だった所を、主から召されたのである。

コラ達にとっては、エジプトのような所、すなわち色々な産物や世的な享楽に満ちている所が、彼らの「約束の土地」観であった。(民数記16:13)
つまり自分勝手に約束の土地のビジョンを思い描き、モーセとアロンは我々の思い描いたとおり動かない、だから反逆しよう、という考えであり、
自分の考え・自分のやりたい事を「神から示された事」として、祭司職を自己実現の道具として好き勝手したいのである。

結局彼らの立っていた地面の下が裂けて、家族もろとも大地に飲み込まれ、生きたまま黄泉に落とされる事となった。
自分勝手に聖なる職務に就きたいと願って、自分を指導者、神の立場に立ちたいとする者には、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うのである。

この時代、自称「祭司」が多く起こされ、キリストを通さなくても誰でも天国だとか、神は間から地獄なぞ無いとか、聖書の御言葉から人々を引き離し、人々に耳障りの良い事を神の言葉として惑わしている。
私達はそのようなニセ祭司、ニセ預言者達に対しては、コラとその仲間のように、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うよう、願うべきである。
それは決して行き過ぎではない。
主は「この小さなもののうち一人でも躓かせる者は、ろばの引く石臼に結わえられて海に投げ込まれるほうがましだ」と言われた。
人は自分勝手に、神の祭司、支配の座を分捕って指導者になるべきではない。
神の立てたまことの指導者、すなわちキリストに従うべきである。

神様の立てたこの指導者であるイエス様に、ますます繋がって付いて行く皆さんでありますように。
終わりの時代に出てきた、間違った指導者に付いて行く事が無いように。
イエス様の名前によって祝福します!

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